1 司会・挨拶(太田修)

2 良寛の資質――「常不軽菩薩品」への関心

ただいま太田さんから、……
 良寛についてどこから入っていこうか考えてみたんですけれど、良寛の資質、人柄から入ってみるかと考えてきました。人柄とか資質は多方面にあるわけですけれども、そうではなく良寛の生涯を貫いた思想に関わりのあるところでの資質や人柄というものはどういうところにあるかという問題、どうあらわれているかという問題から入っていきたいと思います。
 良寛の資質、人柄は思想に関わってくる場所で見える表現がいくつかあるわけですけれども、いくつかここにあげてきました。まず最初にあげました、良寛の「法華讃」のなかに「常不軽菩薩品」という法華経の第二〇章について書かれた詩あるいはお経でいえば偈があります。

  朝に礼拝を行じ暮に礼拝し  
  但礼拝を行じて此身を送る  
  南無帰妙常不軽  
  天上天下唯一人

法華経のなかで常不軽菩薩はどういう人かというと、どんな場所へ行ってもどんな人に対してもただ礼拝ばかりしていたという菩薩なわけです。常に人を軽んじない菩薩なんですけれども、それはどんな人に対してもなぜ礼拝をするかというと、常不軽菩薩のいうところではすべての人間はすべて仏になりうる存在だから自分は礼拝するんだ、と言うわけです。すると礼拝されたほうでは馬鹿にする人や怒る人、さまざまな人がいるわけですけれども、そういうことに関わりなくどんな人に会っても必ず礼拝ばかりしているという菩薩が常不軽菩薩なわけです。
 他の詩にも出てきますし、良寛は、この常不軽菩薩にそうとう関心を持っていたということがわかります。いつでも誰に対しても礼拝ばかりしてそれ以外のことはしない。そういう菩薩に関心を持っていました。
 そういうことは良寛のある資質、そうなろうとした人柄と関係があると考えます。それ以上のことは言っても仕方ないことなので、常不軽イコール良寛だとは少しも言いたくないんです。そうではなく、非常に関心が深かったもので、何か良寛の心に引っかかっていたことと、常不軽の行いとは何か引っかかっていたものがあるんじゃないかという意味あいで受けとってくだされば十分だと思います。

3 仙桂和尚への関心

 そういうことで良寛には一貫した好みというか傾向があるわけです。二番目に書いた詩は、良寛がいまの岡山県、備中の円通寺というところで禅の修行をして印可を受けるわけです。そのとき良寛の直接の師匠である国仙という人のところで一〇年くらい坐禅をしていたとき、坐禅もしないしお経も読まないし宗文の一句も言わず、人のために掃除当番ばかりしている和尚さんがいました。仙桂というんですけれど、ほんとうに道を踏んでる人じゃないかと言っているわけです。
 これは良寛の詩の優れたところです。

  仙桂和尚は真の道者
  黙して言わず朴にして容づくらず
  三十年国仙の会に在りて、
  禅に参ぜず経を読まず
  宗文の一句すら道わず、
  園菜を作って大衆に供養す
  当時我れ之を見れども見えず、
  之に遇えども遇わず
  ああ今之に放わんとするも得べからず
  仙桂和尚は真の道者

 これはいまのぼくらの感じ方でいえば、その人としょっちゅう会ってるんだけれどもその人のことをちっとも意識していなかったということだと思います。十年間同じところにいたんだけれども、そのときは全然意識していなかった。ただいつでも百姓仕事ばかりしていて炊事当番をして食わしてくれた人がいるということは見ていても、ちっとも見ていなかった。ほんとうは毎日のようにお目にかかっているんだけれども、ちっとも会っていなかったと言っているわけです。
 そのことはすごいことなんだと後になって気がついたと言っていると思います。そのとき分からなかったけれども、郷里に帰ってからだと思いますけれど詩をつくった時点で考えてみるとあの人はすごくえらかったんだ、ほんとうの禅の道を究めている人はああいう人だ、と気がついてみたけれどもこれを習わんとしても自分にはもういまさらそんなことはできやしない。こう言っていると思います。
 この気づき方があるわけですけれども、何に気づくかということと、気づき方のなかに良寛の資質といいますか、関心のある思想的な傾向につながる資質というものが非常によくあらわれているんじゃないかと考えます。それがどうあらわれているかを割り切って言うと、ごくふつうの良寛像になってしまいます。そういう問題ではなく、何に気づき何に関心を持ったかという視線のなかに良寛の思想というものにつながる人柄があると理解すべきじゃないかと考えます。

4 〈愛語〉ということ

 良寛が人から何か書いてくれと揮毫を依頼されたりすると、好んで書いてあげたり自分でもそれを書き留めていたことに、道元の正法眼蔵のなかに菩提薩埵四摂法のなかにある愛語というところを非常に好んでいたということがわかっています。
 菩提薩四摂法というのはいまの言葉で優しく言えば、仏とか菩薩を志す修行のなかにどういうことがとりいれられるべきかということがあります。道元は四つ書いてあります。ひとつは布施ということです。二番目に愛語、第三に利行、第四に同事です。布施は人から心をとらないことです。つまり人の心をむさぼらないとか、人の感謝をとろうとしないという意味です。それはもっと敷衍すると、木の葉が散るのは風に任せればいいのであって、木の葉の散ることまで自分が散らしたのだと思う事はだめなので、風のことは風にまかせればいい、そういうことも布施の一種だというふうに道元は言っています。ふつうわれわれが使っている意味とはまるで違うことがわかります。ほんとうは人の心をとらないことだというわけです。
 愛語というのはふつうに言えば、乱暴な言葉とか憎しみの言葉を吐かないようにするということだと思います。ただ愛するとか慈悲の心を持つとか情けを持つという言葉だけを発するのであって、ひっかかる言葉を使わないことが愛語なんだ。愛語ということはなぜか良寛非常に惹かれたことなんです。
 利行というのは、どんな人に身分の上下を問わず、他者の利益のためにだけ行うことが利行だと書いています。
 同事というのは道元の説明によれば自分にも違反しないことと同時に他者にも違反しないこと、他者と自分とを同じように考えるという意味あいです。これは他者も自分も平等だということとはちょっと違う意味です。自分も自分に違反するようなことをしないこと、そのことが同時に他者にとっても違反しないことであるという心と行い、そういう意味あいに使われています。
 このなかで良寛がとくに好んだのは愛語ということです。愛語ということは、憎しみとか他者のかんに触る言葉を吐かないで、愛する言葉、慈悲の言葉だけを使うんだということなんです。ぼくのほうでこんなことを言うとちょっとおっかないわけです。道徳的にぼくが言っていることを受けとらないでほしいわけです。
 この場合、道元も良寛も、それをご紹介しているぼくも、決して道徳的な意味でいっさいのことを言っていません。これを道徳におきかえることは通俗的な受けとり方です。他者の利益のために行為するということを道徳的倫理的に受けとると、自己犠牲の精神だということになってしまうわけですけれども、そんなことはちっとも意味していません。他者の利益になることのみ行うということは、心の置き所の問題であり、置きどころと行為が一緒に考えられる場所で言っているのであって、決して実践行為としての他者の利益をはかるということをちっとも意味していないので、そこが良寛の思想の面倒くさいところだとおもいます。
 良寛を考える場合、少しだけつかまえる場所を変えてしまうとすぐ道徳とか教訓とか、まるで馬鹿みたいに子どもと遊んでいた無邪気な人みたいな像にすぐに変わってしまうわけです。ほんとうはそういう場所で言われている言葉ではないし、また良寛が引っかかった場所はかなり高度な場所であって、少なくとも道元の思想が高度であるのと同じ意味あいで、かなり高度な場所で良寛はその思想を受けとっています。決して道徳とか教訓で受けとっているのではないということが非常に肝心なことです。これを道徳とかそういうものに還元してしまうことは非常に通俗的なことであって、そんなことは良寛にとっても道元にとっても本質的なことじゃないということが非常に重要なことです。仮にそれが道徳とか倫理的な行為としてあらわれる場合にもそれは一部分としてのそれにしか過ぎないので、良寛が持っている思想はそんな単調なものでもないし、通俗的なものでないんですけれども、通俗的でないようにこれを受けとることはなかなか難しくて、どうもぼくはおっかなくてしょうがないんです。こんなことを言いながらぼく自身が非常に道徳的なことを言っているように受けとられる危惧が絶えずあるんですけれども、そうじゃないということをときどき断りながらやっていきます。

5 「良寛禅師戒語」

 そして愛語ということのこだわり方は、良寛は際立っていまして、良寛は「良寛禅師戒語」というのを自分でやっています。これは自分が他人とおしゃべりする場合に生ずるであろうあらゆる嫌なことをぜんぶと言っていいくらい拾い上げていて、たいへんなものです。
 ぼくは九〇ヶ条のうち全部ひっかかるかもしれないけれど、十三ヶ条ひっかかりました。良寛からすれば嫌だと思われていることをおれはやっていると考えました。「人の顔を見つめてものをいうのはよくない」とあります。そうかというと、「人の顔色を見ずしてものをいうのはよくない」と言っています。それから「物言いのきわどき」。それから「いさかい話」。「人の言い切らぬうちにものを言う」。「ことごとしくものを言う」。「ことわりの過ぎたる」。「人の隠すことを明かす」。「あやまり過ぎたる」。「押しはかりごとをまことになして言う」。「押しの強さ」。「息もつきあわせずものを言う」「品に似合わぬ話をする」「人の器量のあるなしを言う」ざっと数えて九〇のうちこれだけはかならずぼくは引っかかるわけです。
 ことほどかようにみなさんも必ず南条かは引っかかるだろうし、良寛自身もしょっちゅう引っかかっていたからこういうことに気がついて、九〇もあげているのは自分も引っかかっていなきゃあげないわけで、自分に対する戒めであり同時に他者に対するするどい批判だと思います。良寛がぼんやりして呑気そうに人とおしゃべりしてたというのはぜったい嘘です。ものすごく敏感に相手の人を批評したり、この人は感じ悪いことをいうとかいうことを考えていたに違いないということがよくわかります。そういうことに対して非常に過敏で、過剰に考えた人で、同時に自己嫌悪でもありますし、しょっちゅう自分を超えよう超えようと気を使っていた人だと理解されます。つまりそれほどこの「良寛禅師戒語」における話し言葉に対する関わり方の神経はそうとうすごいもので、これ自体がそうとうすごい洞察を含んでいるわけです。
 かようなことになるわけですけれども、良寛の言う愛語というのは、この九〇ヶ条を否定すれば愛語に到達できるというのが良寛の考え方だと思います。あるいは愛語ということに関心を深めていけば、言葉を発するときこの九〇ヶ条がどうしても引っかかってくるという意味あいになると思います。そういうふうに良寛は引っかかっていったと思います。

6 子どもについての洞察

 それからここに子どものことがありますけれども、子どものことについていくつかあげてあります。「子どもをたらかす」、子どもを騙しちゃいけないと言っています。それから子どもに知恵をつけちゃいけないということだと思います。それは、本来的に知恵というのはさまざまな生活的な体験を経たのちにそのことを解すればそれは知恵になるかもしれない。しかし子どもはそれを受けとったらそれは嘘になっちゃう。嘘になっちゃうようなことを言っちゃ行けないということだと思います。さまざまな体験的経路、思考、生活を積み重ねたすえにそれを言えば、それはどういう意味あいを持ち、どういう意味あいでは違うのかということが判断できることでも、子どもにそれを言ったら嘘を教えることになっちゃうことを言っちゃ行けないということです。
 それから、「かりそめに童にものを言いつけてはいけない。」これも同じようなことであって、大人がやればいい、たとえば隣の家に行ってお金借りてきなというようなことを子どもに言いつけちゃいけないということだと思います。お米がないから食べられるか食べられないかということは大人の問題であって、借りたければ大人が行くべき問題であって、そういうことに子どもを使っちゃ行けないということだと思います。そのことを子どもにあれしたら子どもが誤解するに決まってることに子どもを使っちゃ行けないという意味だと思います。
 それから「子どもが泣いているときに誰がしたと言ってはいけない」。そのことはなぜいけないのかというと、さまざまな経験を経た大人だったら、こんなことをしたのは誰だといって、それが間違っていたら他の大人はそれは間違っていると判断できるんだけれども、子どもはそういう意味の判断をしても不正確である。だからそういう不正確な子どもの心に、そういうことを言っちゃいけない。なぜならば、そういうことがほんとうに肝心なことなのかどうかという重さが判断できないうちに全面的に子どもはそれを受けとっちゃって、自分が他者に悪いことをしたときもそれはものすごく重大なことで、誰がしたのかが追求されねばならないほど重大なことなんだという気持ちを子どものなかに置いてしまうからそういうことを言っちゃいけないと言っているんだと思います。
 みなさんもおわかりだと思いますけれども、子どもが泣いているときに「誰がしたの」なんてことを言っちゃいけないということに気がつくということはたいへんなことです。そういうことに気がつく、言葉に対する、他者に対する微妙な受けとり方は、たいへんよくものごとを洞察している人でなければ書き留められないことだということがわかります。こういうことは悪いことだということは言えないということだと思います。鋭敏でたいへんな洞察力がなければ書き留められないことです。ぼくでも、自分の子どもが泣いていたら、誰がやったんだと訪ねて、誰々がやったという返答を引き出そうとする経験はなきにしもあらずです。そういうふうに言ったとき、こういうことは子どもに聞いちゃいけないということに、誰でも気がつくだろうと思います。子どもが泣いていて誰がやったんだと言って、それがあまりに子どもに重大な受けとられ方をしてしまうことに気がつくことはぼくらでもあります。だけれども次の瞬間にはそういうことは忘れてしまうのが普通なわけです。
 これを戒語として書き留めている良寛というのはいかに鋭敏な人だったかということがわかります。いかに鋭敏な洞察力を人間に対して持っていたかということがわかります。書き留め、それを戒めとするということがたいへんなことだと思います。気がつくことまでは誰でもある瞬間には気がつくけれども次の瞬間には忘れてします。しかし良寛はそれを書き留めている。そのことが感心することの原因で、良寛はその意味で言葉の使い方、正法眼蔵で言えば愛語ということに対して良寛がいかに大きな関心を持っていたかということが理解できると思います。

7 良寛について気にかかること

 いま、良寛の思想に関わる資質について四つばかり例をあげたわけですけれども、申し上げたこと自体ではなく、そういう関心の受け方のなかに良寛の資質、思想に向かう人柄が象徴されているというふうに考えると、それは何であろうかということをつかんでいくということは、これからの問題であるしそれぞれの問題だと理解することが一番目に必要なことの気がするんです。これだから良寛は人に優しかったとかこういう行いをしなかったとか、行為とこういうことを結びつけてしまいますと、良寛の人間像とか、人柄、資質というものが非常に通俗的なイメージになってしまうんです。決してそうではないので、これらのなかに共通に受けとれる事柄があって、その事柄が良寛の思想と行き方に導いていったことに大きな関わりがあるんじゃないかと理解されるのがいちばん正しい理解の仕方じゃないかと思います。
 そうするとこれらに共通なところでぼくらが受けとれるイメージ、像があるわけです。そのイメージは何かというと、これはかなり通俗的な良寛の人間像と関わりのあることですけれども、もし良寛が関心を持ったことが、ひっかかることが重要だと考える人がいたとすると、その人柄が与える問題のうちいちばん大きな問題は何だろうかということを考えてみます。さまざまに大きな問題があると思いますけれど、良寛の思想に入っていくためにひとつだけ重要なことを抜き出してしまいますと、もしこのような良寛が関心を持ち、理想とした関心の持ち方に心が入っていったとすると、そのときに何が起こるのだろうかということがいちばん心配になることがあります。
 そのひとつとして、これを受けとる人間が良寛と同じような関心のなかに自分を引き入れていったとしたときに、何か重大な落丁、脱落があるんじゃないかということが気にかかって仕方がないんです。これは何かを許してしまうんじゃないか――許してしまって、そのことに対して触れないということと関係があるんじゃないかということがぼくは非常に気にかかることです。
 たとえばすべての人が、良寛が関心を持ったこういうことに関心を持ち、またそれを自分の理想像としたということを想定してみればすぐにわかりますように、誰かが全然関わりのないところで得をしちゃうんじゃないかということがたいへん気になることです。すべての人がこういうことを心がけ、理想像として心の持ち方を変えていったとしたらば、変えていかない人だけが得をしちゃうんじゃないか、変えていかない世界に対してはぜんぜん関わらないことになっちゃうんじゃないか。つまりもっとそれを説明的に言ってしまえば、どこかで誰かが非常に悪いことをしていても、そういうことに関心を持つ心の向け方とは関係がないんじゃないかということがいちばん心配といいますか、気にかかることなわけです。
 もし良寛が理想としたように、ここにあげました事柄が、人間の心の持ち方、位置づけとして大切だということになっていったとすれば、ぜんぜんそれと引っかからないところの世界に対して、まったく別のことが通用していてそれとは関わらないんじゃないか。それに対して目を向けるわけでもないし、それがどうなっても関わらないということになってしまうんじゃないかということが、非常に気になるところの問題のひとつです。

8 東洋の思想の特徴

 で、その気になるところの問題を少し、良寛の言葉で言えば「ことわりに過ぎたる」ということになるわけですけれども、少し理屈のところまでその問題を引っ張ってしまいますと、大胆において東洋における思想というものは、ほとんどすべてが――仏教も儒教も――いまのような問題をはらんでいます。
 遠くの方、あるいは頭のうえでどんなことがされていても、そのことは関わりのない世界というところに思想の関心の置き方が深くつっこんでいくということが東洋における思想の置き方の特徴だということがわかります。だから良寛が心がけている思想の、論理の流れのなかで言いますと、東洋の思想が一般的にやっている大きな傾向のひとつにあるということがわかります。
 もう少しそのことは現実の問題と関わりがあるわけで、東洋の社会ではどのような政治が行われ、どのような事柄が行われているかということと、自分の行き方、生活の思想というものとはあまり関係がないことだという考え方が、生活思想としてもごく一般的だということがわかります。日本でも、中国でも、インドでも、オリエントでもそうです。
 うえのほうで政治がどうなっているかとか、誰が政権をとったということがあっても、そういうことはあまり自分たちの生活とは関わりないことだ、ということは東洋の社会、オリエントの社会の特徴だということがわかります。その特徴ある東洋の思想が出てくる、その流れのなかで良寛が関心を持った流れのひとつとして存在するということがわかります。
 それからそういうことだけでなく、政治制度みたいなものもそうです。政治制度みたいなものも、政治を司っているものが
【テープ反転】
……なわけなんです。つまり政治制度なんてものは、政治を司っているものがどうであるということとは、あまり関心を持たないでふつうの人は日常生活をしている。だいたいうえのほうで政治がどういうふうに行われているかということが下のほうまで届くということが、なかなか珍しいことで、たとえばみなさんのところでしたら、長岡市なら市で減税をしようという決議が行われた。みなさんがどのくらい減税になっているのかということを気をつけて給料を見るということをしないということと同じことであって、それを大きな規模で起き直してみれば非常によくわかることです。うえのほうで何を決めていくら減税が決まって、給料をもらって家でいくら減税になってると見るということはめったになさらないだろう、そういう関心の向け方、関心の隔たりというのは東洋における政治制度の特徴だということがわかります。
 西洋の社会ではそうはいかないので、政府がいついつからいくら減税と決めたら、減税になってるかなっていないか徹底的に見るということは、制度は緊密につながっていまして、東洋ではそういうことはないのです。十円安くなったかどうか、給料から血眼になって調べるという人はあまりいなんです。
 そういうことは誰だってそうだと思われたら違います。ヨーロッパでは絶対に血眼になってあくまでも追求する。十円安くなっていなかったら長岡市の市役所に行って追求する、必ずそうなっています。けれども東洋ではよほど社会的関心、政治的関心があると思っている人でも、減税が決まって十円安くなるはずだということを確かめて違ってたら、区役所へ行って講義してくるということをやれる人はあまりいないはずです。それは東洋における政治制度の問題でもあるわけです。そういう問題は政治制度、社会機構、そこで生まれた思想というものの大きな特徴だということがわかります。
 だから、まずこれがいいか悪いかということを問う前に、これはひとつの特徴だということをつかまえることがどうしても必要だと思います。つまりこれは東洋における思想の大きな特徴だとつかまえることが非常に重要だと思います。これをヨーロッパの近代思想から考えますと、けしからん思想だ、人々をして眠らせる思想だということになるわけです。良寛のようにこういうことに関心を持つというのは、通俗的に解釈すると人とは調子よく話をしたほうがいいぞということになってしまうわけです。あまり憎まれ口は叩かないほうがいいとか、変なことはやらないほうがいい、当たらず触らずなことを言っていたほうがいいとか、きわどいことは言わないほうがいいとか、ぜんぶ変な倫理道徳になってしまいます。でも決してそうではないんです。とても高度な思想です。
 東洋の思想は高度な思想です。だけど、近代ヨーロッパの考え方を通俗的に受けとって、けしからん思想だというのはナンセンスですし、同時にこれを通俗的にうけとって、当たらず触らず人とは交わったほうがいいぞと受けとったらこれもまたナンセンスなんです。両方のナンセンスがあるということがたいへん重要なわけです。
 両方のナンセンスがあるという観点はどうして出てくるかというと、東洋の思想の特徴としてこれがあるんだということ、もしぼくらが思想形成をするならば、かならずどこかにそういう特徴をもたざるをえないということがある、そのことが重要なんです。まず東洋の思想の特徴だととらえて、しかる後にこれはどこがいけないんだろうか、どういうことになっているんだろうか、ということを考えることがたいへん重要なように思われます。
 つまり良寛が否定される場合も肯定される場合も、かなりな程度通俗的に否定されたり、通俗的に肯定されたりしているということが非常に重要なことであって、ところが良寛の思想はかなり高度なものです。高度な思想をもとまでさかのぼりますと、数千年前ですけど、東洋がもっとも栄えていた、東洋の思想が世界思想として産み出された思想であるわけです。それ自体が世界思想としての条件を兼ね備えているわけです。だからかなり高度な思想だということは間違いないことです。
 高度な思想ですから簡単に否定も肯定もされてもらっては困るということがあるわけで、それがなければ良寛はつまらない人だということになってしまいます。従来肯定されているような意味で肯定されたり、否定されたりするならばつまらないことになってしまいます。そうじゃないという流れのなかで良寛の思想は形成されていった。その流れのなかで愛語とか、いまあげましたような良寛の関心の持ち方というものが、人柄としても思想的傾向としても生まれてきたということ、そのことが良寛についても大きな問題の入り口だと思われます。

9 「月の兎」

 それで、次のところに入っていきます。
 良寛の思想に近づいていくという問題になっていきます。もうひとつ、月の兎というのがあります。今昔物語の巻五にある、寓話、挿話なんですけれども、猿と狐と兎がいて、そこに天帝がよぼよぼのおじいさんに化けてやって来て、何か食べさせてくれと言ったら、猿は木の実をとってきて、狐は魚を捕ってきて老人に与えた。けれども兎は何もとれなかった。兎は猿に柴を刈ってきてくれと言って、狐に火を焚かせて、兎は自分は何もやるもんがないからと言って自分がそのたき火のなかに飛び込んで自分の身体を焼いて老人に食べさせた。すると老人はたちまち天帝の姿に変わって、兎を天へ、浄土へ連れて行ったという寓話があります。良寛はこれに関心を持ち、長詩をつくったりしています。それはいまと同じ資質になると思います。

10 道元の思想を通して良寛を見る

 良寛の思想ということに入っていくわけですけれども、良寛の思想はどこから見ていくこともできるわけですけれども、ここでは良寛を道元の思想を入り口にしてみたいと思います。その根拠はどういうことかと言いますと、ご存知のように良寛は道元の系統のお寺で修行をしまして、印可を受けています。一人の一丁前の禅の師匠として許されたということを意味しています。それは一人前の禅の思想家だということを許されたということを意味しているわけです。
 良寛が修行した禅の系統は道元の曹洞系統です。良寛自身も道元について長い詩を書いていますし、また至るところに道元の正法眼蔵の影響と思われる言葉使いもいたるところでやっていますから、いろんな意味あいで良寛を道元の思想のフィルターを通してみていくということには根拠があるわけです。それから良寛の師匠は備中玉島の円通寺というお寺の国仙ですけれども、国仙が死んだ後、本山から別の師匠がやってくるわけです。玄透即中というお坊さんですけれども、良寛は一種の外様大名みたいな感じになるわけです。自分は国仙の後をついで円通寺の和尚になるというならそれでいいわけですけれども、印可をとっているわけですから資格もあったでしょうけれども、本山から別の和尚がやってくるわけです。やってきて……
【音飛び】
……と言いましょうか、やりづらい感じになったんだろうと思います。そして良寛はそこを出まして各地を歩いて修行をして、四年くらいかかって郷里へ帰り、隠棲するわけです。そのきっかけになったのは本山から違う系統の坊さんがやってきて円通寺をおさめるということになったときに、一種の外様的な感じになって寺を出たんだろうと思います。
 いずれにせよ良寛を一人の禅系統の完成された思想家として見ることもできるわけです。ですから道元の思想を通して良寛を見る見方というのもまた、ひとつの入り方だと思います。別にそれがぜんぶの入り方でもなんでもありませんけれど、ここでは道元の思想から入っていこうと思います。

11 生と死についての考え方

 道元の思想、特に正法眼蔵というのはどういう思想かということを一口話みたいに言うのはたいへん難しいのですが、ここでは良寛の思想に関係のありそうなことにしぼって、道元の正法眼蔵に展開された思想を申し上げて、そこから入っていきたいと思います。
 まずひとつは仏教全般がそのことの関心のためにはじまったようなものですけれども、生と死をどう展開しているかということから申し上げます。正法眼蔵の生死に対する考え方の特徴は、いまの言葉で言えば生と死はぜんぜん関係ないという考え方です。人間は生きているあいだは生きてしかいない、死んでいないということです。死んだらどうなったかとかいうことはわかるわけがない。生きているうちは生きてるんで、死んだら死んでるんであって、生と死は、生が終わって死に移るとか死が終わったら輪廻して生に移るとか、そういうことはないという考え方が特徴的です。生は生として生きられ、死は死として死なれ、生とは関係がない。生きているあいだは生しか体験できないし、死んだら死しか体験できない。そこで生から死へ移り変わるというような考え方はありえないんだという根本的な考え方です。
 仏教的な根本に不生不滅という考え方がありますが、人間は生きもしなければ滅びもしない、生きてもいなければ死んでもいない、生きることもできなければ死ぬこともできない、さまざまないい方ができますけれども、そう言う考え方があります。その思想に対する解釈の仕方も、生きているあいだは生きているのであって、死んでいるときには死ぬことによって死んでいる。人間は本来的に言えば生きることできないし死ぬこともできないと同じことなんだ、それが不生不滅という意味で、生と死は切断されていて移り変わるという考え方はなりたたない、生は生で満たされ、死は死で満たされている。両者のあいだに移り変わり、生まれ変わりがあるのは違うんだというのが、根本的な考え方になってきます。
 いまの考え方のなかにひとつの特徴があります。それ自体ということです。正法眼蔵のなかにいろんな例がありますけれども、鳥なら鳥が空を意識して空がどうだなんてことを言っていたら、鳥は飛ぶことさえできやしない。魚が水はどうなっているかなんてことを考えていたら泳ぐこともできやしない。だから魚が泳ぐとか、鳥が飛ぶとか言っている状態は、そのなかにすでに空というものが含まれているということです。空は鳥の外にあるのではなく、鳥が空を飛んでいるときはその状態のなかに空は含まれているという考え方です。魚が泳いでいるときは、魚が泳いでる場合に水はそこに含まれているということです。それは正しい考え方じゃないかというのが正法眼蔵のなかの非常に根本的な考え方です。万事について、そういう考え方の方が正法眼蔵の根本的なところにある考え方です。
 これは山川、星もそうなんだ。そういうものはどういうものかと考えたら、天地とか山川はほんとうにはわからない。もしそうではなくて、山川とか天地がどうあるんだと考える心、感ずる心は、山川とか大地ということに含まれているんだという考え方です。そういう意味で心と大地とか月、日と別だと考えては駄目で、考えたときには心はそのなかにあって、天地と言った場合にそのなかに心はあるので、それは別にあると考えてはいけないという考え方です。

12 〈行仏〉という思想

 この考え方の型を、もう少し押し進めますと、道元の禅の思想における浄土とか死後の世界に対する考え方がでてきます。道元流の禅の考え方からすると、浄土というものは人間が死んだ後に、天国みたいのがあってそこへ行くために修行するとかそういうことではぜんぜんないといういい方をしています。自分がすでに修行をすること自体が浄土だといういい方をしています。それをもっと徹底化しますと、仏教はどういうものかと言ったら、人間が悟りを目的とするのが仏教ではないと言っています。ただ自分が修行をしている姿とか、山や川や谷の水音を聞いていること自体が、仏ということなだと言っています。仏や何かは外にあるのではなく、悟るため、仏になるために修行をするというのは嘘で、修行をするということ自体、姿勢自体が仏、浄土であって、それが迷いであるならば、その迷いが浄土である。ただ修行をすること、坐禅をするということ自体が仏の行いだということです。悟りを開くために仏道を修行するという考え方は駄目だと言っています。……それ以外に仏とか悟りはないんだという考え方です。その考え方は非常に特徴的な考え方だと思います。
 だからこれはたとえば、道元と同時代の浄土系統の思想家で、親鸞という思想家がいますけれども、やはり仏教徒ですから仏教のいう不生不滅ということに対して、浄土ということに対して独特の解釈をしています。親鸞の解釈の仕方は――仏教の根本に対する親鸞の考え方――は、人間というのは具体的に生きているとか死んでいるというところには、その人がその人であるという本質はないという考え方を最終的に肯定しています。いまの言い方をすれば、人間は現にあるところのものではないという考え方です。わたくしがわたくしということは、現にここにいることがわたくしの本質ではなくて、現に存在するもの、現にしか存在できないものはぜんぶ仮の姿、本質的なものではないのであって、それらに貫徹している何かであって、少なくともある瞬間にあらわれているところの人間というものは人間の本質じゃないんだという考え方を親鸞はとっています。
 浄土ということについても、死んだ後に浄土へ行くという考え方をとっていません。ただ、生きているところで生きている状態を見通せる目というものを獲得できるとすれば、それが一種の浄土からの視線というものであって、生きていながら生きて何かをしている自分をどこかで見ている視点というのが、浄土からの視点であって、そういうふうに生きることが見られている状態が獲得できればそれが浄土の入り口なんだという考え方を親鸞はとっています。
 それに比べれば道元に具現された禅の考え方は非常に特徴的だと思います。生は生、死は死という考え方、生は生だけで満たされていて死が入り込むとか生から死へ移り変わるということはありえない。死は死のなかにいっぱい詰まっていて、それは何か生のきざしが入り込んで生まれ変わるなんていうことはぜったいないという考え方を道元はとっています。天地山川とか、魚にとって水、鳥にとって空は外にあるのではなく、鳥が空を飛んでいる状態があるとすれば、そのなかに空が必然的に含まれちゃっている、そういう考え方です。
 そういう考え方をとった状態をつくりあげること、実現することが仏ということだ。それを道元は行仏と言っています。そういう姿になったことを具現することが、仏なんだと言っているわけです。それ以外に仏があるという考え方もぜんぜん嘘だし、それ以外に悟りがあるとかいうことは違うんだということを言っています。
 それが道元に具現された禅宗の考え方です。

13 はじまりにおける仏教思想

 この特徴というものは、もうひとつ別の照射の眼が必要だと思います。なぜこういうことが必要かというと、さきほどと同じで、もしこれだけで道元の思想から良寛の思想に入っていったら、うかうかとすれば必ず通俗的な悟りとか、ある境地に達するという通俗的な良寛の像が得られてしまいます。だからそうじゃないためには、道元に具現された禅宗あるいは生死の考え方、浄土の考え方、行仏という考え方が何を意味するのかということをもう少し、理屈に過ぎたるところからもういちどやっておく必要があるように思います。
 それをどうしたらいいかということを考えてみますと、禅の思想も浄土教の思想もそうですけれども、それらは大乗仏教と言われています。大乗仏教の特徴は何かということですけれども、これは仏教が生まれた時の思想はどういう考え方をとっていたかということを見ればいいわけです。さまざまな言い方があるでしょうけれど、人間は死んだ後でどうなるかという問題が根本にあるわけです。これはヨーガの思想にも原始仏教の思想にもあるわけですけれども、死んだ後では浄土の世界へ行く。ところが生きているうちにたちの悪いことをした人は、途中で地獄の世界へ行っちゃう。こういうことから仏教ははじまるわけです。
 そのはじまりにおける仏教の思想は、仏教の思想の特徴ではなく、いまで言いますとオーストラリアからポリネシア、ミクロネシアとかアラスカとかに分布していた思想です。人間は死んだらどうなるかというと、霊魂になって祖先の集まる村はずれの山や海、島に集まって霊魂としての生活をしていて、こんどは誰か村落の女の人が海岸で水浴をしていると霊が女の人にくっついて、女の人は気持ちが悪くなって赤ん坊を産む。それはだれそれの霊の生まれ変わりなんだというのが、オセアニアからインドネシアを経てアラスカのほうまで分布している考え方です。その考え方のひとつのあり方として、原始仏教やヨーガの思想ははじまったわけです。
 死ぬと霊魂は死後の世界をさまよう。現世でいいことをしていた人は死後の世界でいいめにあう。美しく光輝く御殿があったり、なんとも言えない声でなく鳥が飛んでいたり、なんとも言えない香りがしたり、なんとも言えないおいしいものが食べられる世界がある。現世で悪いことをした人は途中で地獄みたいなところをたくさん体験して、生まれ変われないでいつまでもそこにいるやつもいるし、もう少しいいめにあっているやつに生まれ変わることもある。それから悪いことをしたやつは犬になって生まれ変わるんだという考え方もあるわけです。
 その根本にあるのは、いまの言い方でいう心理体験です。死にそうになって瀕死の状態になったけれども生き返っちゃったという体験をしている人はいまでもいますけれども、なんだか知らないけれどえらい光があるところを通っていくような気がして、そうしたら向こうに橋があって橋の向こうで女の人が手招きをしている。だから渡ろうと思ったんだけどなんとなく呼び返される気がして帰ってきたら、気がついたという体験があるでしょう。一種の瀕死の体験ですけれども、その体験を大昔の人は死後の世界と考えたわけです。死んだ後にそういう世界に行くと考えた。
 仏教、原始仏教はそのことを精密に組織したわけです。瀕死の状態で体験する意識の体験を大きく組織したわけです。極楽の第一段階があってとか、地獄にもいくつか種類があってとかいうことを組織したわけです。もうひとつは修練によって自分の意識状態を減衰状態に持っていく修練を作り出したわけです。その修練を積んだ人は、坐禅なんかをしてある状態に自分を持っていくとそういう体験が自分でできるわけです。それが密教なら密教における曼荼羅の世界が、そういうものを高度に組織したんです。組織と同時にそういうことが意識的にできる修行をつくりだしたわけです。それが原始仏教のはじまりなわけです。

14 禅宗の思想的意味あい

 だから仏教の思想はそういう意味あいで考えたらペテンがたくさんあるわけです。ペテンや迷信がいっぱい含まれているわけです。
 ところで、それは当時においてはペテンでも迷信でもなくほんとうにそう信じられていたし、修行を積んだ人はある修練をするとそういう世界を自由に行き来できる人が修行を積んだ人となったわけです。
 いまからはじまりの思想を考えれば、迷信がたくさん含まれているしインチキなわけです。そんなものは意識状態が減衰状態になれば、その体験が死後の世界だと何千年前の人は考えたわけです。その考えたものをさまざまに組織したわけです。その組織がその時代における思想であり世界観であったわけです。そのなかにはどう生きたらいいか、死んだ後にどうなるのか、死んでから生まれ変わるとどうなるのかということが含まれていたわけです。そういう組織の仕方によって、さまざまな宗教の違いが生まれてきたわけです。
 ところで、そのまんまでとどまっていたら仏教だって迷信に過ぎないじゃないかということになっていくわけですけれども、仏教の思想が大きな思想であるゆえんは、そのなかでだんだん迷信の部分や主観的な部分を、どんどん削り落として確実だと思えるものだけを残していくということが仏教の歴史の過程であるわけです。だから、原始仏教における迷信の世界、空想の世界あるいは妄想の世界、幻覚によってつくりだされる世界とか、いまで言えばさまざまな心理的な要素、病理的な要素をどんどん削り落としていって、これだけは世界観として確実であろうという問題だけをそれぞれのかたちで残していったものが禅の思想であり、道元の思想であるわけです。
 だからこのなかには原始仏教が持っていたところのさまざまな迷信的な要素、心理的な要素、つくりだされた幻覚とか、そういうインチキでもってつくれることをできるだけ削り落としていって、これは確実に残るものであり、時代がどう進もうと誰もが考えざるをえないし残らざるをえないというものを残していったのが、道元の思想のなかにあらわれているひとつの生死観として結果しているわけです。それが要するに、禅なら禅の思想の、思想的な意味あいになるわけです。
 ぼくは信仰者ではないから信仰者でないものから見たら、ただ坐ったってどうってことないじゃないかといえばそれまでの問題ですけれど、そういうふうに片付けたらぜんぶそういう問題になってしまうわけです。それからほんとうに修行している坊さんが、傍からそんなことを言ったって知識に過ぎないので、こんなものは十年自分で坐ってみなきゃわからないよと言われたって仕方がなく、その通りでしょうけれども、それが正しい言われ方かというと決してそうではないのです。十年修行しなきゃわからないよ、なんて言うのは、下駄屋のおじさんが十年修行しないと一人前の下駄がつくれるかと言っているのと同じことです。それは真理で正しいけど、だからどうなんだっていうことです。そんなことならば、お前がさんざん言うように、おれだって十年なんかしてきたさ、ということは誰にでもあるわけです。赤ん坊を育てて十年という人もいますし、土を掘って十年という人もいるわけです。それらの人が十年土掘ってみなきゃわかりゃせんよということは、誰でもが言える問題です。だからほんとうは言ってもしょうがないことなんです。誰だってそんなことはやっている、そんなことは誰だって同じさということです。十年子どもを育てなきゃ子どもなんてわからないよと言ったら、それはその通りでしょうということになるんです。そういう言われ方による真理というものは、片道交通の真理なんです。
 片道交通の真理は、誰でもが持っているものなんです。だから言ってもいいですけれども、言ってもしょうがないと言える問題です。
 だから禅宗の坊さんが十年坐ってみなきゃ禅なんてことつべこべ言うな、というのは真理ではありますけれども、そんなことは言ったってしょうがないことなんですよ。十年坐ったということから、なにが通ずることがとりだせるかということがほんとうの思想の問題であるわけです。だから道元の思想の問題も、道元の思想自体からとらえて、そこから良寛の思想へといっても、それはある意味では真理ではありますけれども、仕方がないと言えば仕方のないことであって、道元が持っている思想のもう少し違う意味あいは何か、あるいは禅の思想が仏教の歴史のなかで築き上げてきたものは何なのかということについての、外へ引き出すための準備……
【テープ反転】
……共通の場へ引き出すための準備の見方ということだけはどうしてもしておかないといけないと思います。
 いま言いましたようなことがそれに当たるわけですけれども、そう考えますと、原始仏教からの展開の仕方あるいは人類の歴史から言いますと、原始時代におけるさまざまな人間の考え方、世界観がどのように展開していって仏教の思想になり禅の思想にまでなり、道元にまで伝えられてきているかと考えますと、大ざっぱな、根本的なところは、そのなかから心理的な要素、あるいは幻覚、病的につくり出せる要素、あるいは主観だけで体験できる要素をどんどん排除していって生と死の問題は、人間が存在しているかぎり誰でもそのことは考えざるをえないでしょうという問題についてはちゃんと保存していくということが、禅宗、あるいは道元の思想のとりかたなわけです。

15 〈行仏〉から〈阿羅漢〉へ

 その取り方のなかから良寛の思想というものを考えていきますと、良寛の思想というのはそういうフィルターを通していきますと、道元禅のいう行仏という思想、坐禅によって仏の状態を自分でつくり出していくということが、仏道なんだという考え方を、円通寺を出たときに捨ててしまったことを意味します。行仏という思想を捨ててどうしたかと考えてみますと、正法眼蔵のなかに三六章ですけれども阿羅漢という章があります。その章で良寛の思想的な生き方と同じような考え方というものが述べられています。
 それは行仏という禅の根本的な思想、自分が坐禅を組み修行をするそのこと自体によって自分が仏を具現している状態を貫くことをしないといった場合にどうなるのか。その場合は、自分が現世的な利益や名利を求めたり、人に対して自分の姿自体によって人のために役立とうとかいうことはまるで考えずに、何かを得ようということをぜんぶ捨ててしまい、人に認められようとか模範となろうという考え方を捨てて、自然の風物を眺め、自然の風物を自分の心と同じ物だという見方で見て、そういう生活をするというのもひとつの仏道の生き方であり、そういう生き方を阿羅漢というんだという章があります。
 良寛の生き方、考え方は、道元の思想のフィルターを通すと阿羅漢という考え方、生き方に該当することがわかります。良寛はそこで自分を保とうとしている、そういう良寛の考え方の要素があります。そこのところが、自分は道元の思想の鉱脈を伝えることはできず愚鈍な人間になってしまったという言い方をよくしていますけれども、その言い方のなかに含まれているのは、行仏ということから阿羅漢というところへ良寛が自分を保っていったということを考えると非常に考えやすいところがあります。そこのところで考えて、良寛の思想構造を考えていくことをやってみればいいと考えられます。そこのところで良寛の思想構造を考えていくということになります。

16 僧侶とは何か――村落共同体と僧侶

 それでは阿羅漢というところで良寛の思想をとらえていけば何が問題になるかというと、僧侶、出家ということが問題になります。出家、僧侶ということは何かを普遍的にとらえるにはどうしたらいいかということになります。
 僧侶というのは頭を丸めて何したということが僧侶と考えるということではなくて、その前にことわりに過ぎたるというところから考えてみる必要があります。僧侶とは何かを考えていく場合に、いちばん考えやすい根本的な点があります。どこで考えたらいいかと言いますと、仏教の思想も含めて、東洋における思想というものが産み出されたいちばん当初の社会の状態に返したところで僧侶という概念を考えるといちばん考えやすいということがわかります。またそれがいちばん根本的な考え方だということがわかります。
 それを一般的に論理の言葉で言いますと、アジア的な社会ということになります。それはたぶん数千年前に産み出された社会です。その社会では何が根本的かと言いますと、農業が根本です。農業の共同体というものが根本的です。農業、村落共同体というものがあり、それが東洋、 インド、中国、日本において特徴的だったのは、その共同体を営んでいるのが血縁、親族集団であるか、もう少し高度になって氏族集団であるか、血縁をもとにした集団がどういうふうに農業の共同体を、村落共同体をつくっていたかということです。
 農業以外に携わっていく人間もやはりある意味で血族的、氏族的、あるいは共同体的であるということです。集団で鍛冶屋さんをしているとか、集団で農機具をつくっているとか、集団でお坊さんをしているということです。集団、血縁でもって農業以外のことも営まれるということが東洋におけるアジア的社会の非常に大きな特徴です。
 そういう時代に仏教というものも産み出されたものですから、僧侶というものがどういうものかということをいちばん根本のところで測る方法は、農業に対してどういうふうに自分を位置づけているかということが、僧侶にとって非常に重要なことです。坊さんも農業以外のことに携わっているのは間違いないことですから、坊さんというもののあり方の本質をどこから探ったらいいのかという場合には、農業に対して、あるいは村落共同体に対して、あるいは農業の共同体に対して、僧侶がどういうふうに自分を位置づけているか、そういうことを考えることが非常に根本的なことです。
 そうするとそこから良寛の思想を考えていく場合に、そこから考えていくことがいちばん根本的なことです。そこで良寛がどういうふうに僧侶として振る舞っているかということ、あるいは良寛の思想、言い換えれば禅宗の思想、もっと言い換えれば仏教自体の思想が僧侶とうものをどう位置づけているか。特に農業に対して、あるいは村落共同体に対して僧侶というものを位置づけているかということが良寛の思想にとって根本的な問題だということがわかります。

17 僧侶の同時代的なあり方への批判

 良寛の表現したもの、振る舞いをそういうところから考えてみますとどういうことになるか。それはいかようにも考えることができます。ここでいくつか考えてみました。良寛が同時代の僧侶のあり方をどう考え、批判しているかということを探ってみましょう。
 たとえば「僧伽」という詩の一説があります。

  我れ 彼の朝野を摘くに
  士女おのおの作あり
  織らずんば何を以て衣
  耕さずんば何を以て哺くまん
  いま釈氏の子と称するは
  行もなく 亦 悟りもなし
  徒に檀越の施を費して
  三業 相顧みず
  頭を聚めて大語を打き
  因循 旦暮を度る
  外面は殊勝を逞しゅうして
  他の田野の嫗を迷わす

農民たちは田畑を耕し、農家の婦女は家で織物を織って生計をたてている。僧は何をしているのだ。修行をつむわけでもなく、悟りをひらくのでもない。損人から施しを集めてそれを田部、農家の人たちを集めてときどきお説教を垂れて大口をたたき、農家のばあさんたちをだましている。そういう批判をしています。
 「雑詩」のなかにもあります。

  我れ行脚の僧を見るに……

 良寛自身が阿羅漢というふうに自分を位置づけていたとしても、自分に対する批判を含めて僧侶の同時代的なあり方にたいして批判をしているわけです。どこまで自己批判で、どこまで他の僧侶のあり方に対する批判だったかは別として、僧侶というものに対する良寛自身のいらだちといいましょうか憤りを良寛が持っていた。その苛立ちのなかには自分に対する苛立ちも含まれていたかもしれないけれど、僧侶というもののあり方に対する懐疑、疑いを絶えず持っていたと思われます。

18 「勧受食文」にあらわれた思想

 それから、もうひとつあれしましたから、僧侶とは何かといえば、農業との、農村共同体の関係においていちばん端的にあらわれています。その端的にあらわれるのは何かと言ったら、それは托鉢であるとか、乞食とか、食を乞うということに対してどういう対応をとっているかということが僧侶とは何かということに対する根本的なあり方だということがわかります。それに対してたとえば、良寛には「勧受食文」という文章があります。食べ物をもらうときにはこう考えたらいいんじゃないかということを勧める文章です。
 ひとつは、托鉢をしてものをもらう場合には、金持ちのところからだけもらうとか、貧しい人のところからだけもらうとか、そういうことをしちゃいけないということがあります。どうしてかと言うと、仏教の道というものは、食において平等なんだ。だから平等に托鉢行脚をしなきゃいけないということがあります。これは仏教に共通な考え方で、特に禅宗だけの考え方でも良寛だけの考え方でもないと思います。
 もうひとは仏教の一般が僧侶は何だと考えていることが根本的にあらわれることですけれども、それは食というのは薬と考えるべきなんだということです。それは薬だから必要最小限度もらって、薬と思って食えと言っているわけです。それ以外のことで食っちゃったら、農業としてお米をつくることをしない、働かない癖に食っているということになっちゃう。だから薬と同じ意味で食を考えれば、働いてもないのに食っちゃうことにならないだろうということからきているんです。これは仏教における根本的な考え方です。これは農業に対して僧侶はいかに考えるべきかということの根本的な仏教の感が方だと思います。
 ところで良寛の特徴的な考え方になります。そこがまた良寛の思想の根本的な支柱になります。それは良寛がふたつのあり方というものを批判しているんです。これは良寛だけでなく、道元、禅宗はそう考えているんだろうとも考えられ、良寛も同じように考えています。
 それは、村落共同体の周辺ないしなかに住んでいて、自分は爪は長く、ボロを着て、修行者然として五穀を食べず草の根とか木の根だけを食べて、強烈な炎天のなかで坐り通すとか、強烈な修行をしているようなやつは外道だと言っています。そういうやつは駄目なんだと言っています。すると農家の人たちは、あのお坊さんはすごい、えらい坊さんだ、なんて言わせて農村の人たちを騙しているのは駄目なんだ、と言っています。つまりなぜ駄目なのかということのなかには禅宗の思想があるわけですけれども、それよりも良寛の思想に即して言えば、たぶん気にくわないのは、いまの言葉で言えば、村落共同体のなかでチラチラするなということだと思います。村落共同体のまわりをウロウロして、すごいことをしているような顔をするのは僧侶のあり方じゃない、ということだと思います。
 自分が五穀を絶って強烈な修練……
【音飛び】
……それが要するに村落共同体の……
【音飛び】
……自分はそういうやり方はしないよ、ということだと思います。
 それから、もうひとつあります。木喰上人であるわけですけれどもね、五穀を絶って修行をする、木の根だけを食べて修行をやっている人がいるけれど、そんなのは仏教でもなければ外道でもないと言っています。そんなのはわけがわからないと言っています。そういうあり方は僧侶のあり方ではないと言っています。
 根本的なのは村落共同体に対して僧侶はどうあるべきかということに対する根本的な考え方が、ひとつあるわけです。
 もうひとつは、行仏とか仏教の修行というものは、夏は涼しくし、冬は暖かくし、最小限薬のように食べ、爪は切り、歯は磨き、さっぱりしてというのがほんとうなんだ、僧侶の根本的なあり方なんだ、と言っているわけです。
 これは禅の思想であるとともに、ある程度大乗仏教全体の思想であるわけです。なぜかと言うと先ほどの言い方から言いますと、原始仏教が持っていたさまざまな主観的なすごさ、異様さ、幻覚、異常、そういうのをぜんぶ排除していくという思想だと思います。主観的に言って自分がすごい修行をしているとか、命知らずだとか、そんなことはぜんぜん意味がない、それは主観に過ぎないから駄目なんだと否定することのなかに仏教の歴史があるし、大乗仏教としての禅の思想の歴史があるわけだから、禅の思想に立つ限りは、異様さとかいうものはぜんぶ否定されるわけです。
 それからもうひとつは村落共同体で食べるということ。食べなければ死んでしまう、死なないで生きてはいるけれども自分は耕してはいない。ではどういう生き方が可能なのか。禅宗の場合は、農民のために橋をつくるとか河をつくるということは曹洞宗の場合は否定しますから、ただ坐って修行をするとか、山川の音を聞いていることのなかに、仏を具現しているという考え方ですから、そのこと自体が仏であって、それ以外に何もないんだから、人のために河を掘るとか橋をつくるとかいうことは問題にならないと言っています。ましてや、なぜ食べ、なぜ生きているのかということには根本的であるわけです。
 「勧受食文」のなかにあらわれている考え方、思想のなかに根本的にあらわれていると考えればよろしいんじゃないかと思います。

19 農への視線のあり方

 そういう考え方を良寛の詩の作品に……農に対してどう考えていたかということを詩の作品に探っていくことができます。
 ひとつは、良寛の詩のなかに、凶作に対する関心を披瀝しているものがたくさんあります。そのなかの「寛政甲子夏」というものです。

  凡そ民小大となく■■■■

【音飛び】

……もうひとつ、「伊勢道中苦雨」という作品です。

  且去年の秋の如き■■■■

 一見すると良寛のイメージにあわないので、こんなことを言ったってしょうがないじゃないかということとか、こんなことは詩のうえだけで言ってんじゃないかのかということになるかもしれませんけれども、けれども単にレトリックの問題だけではなく、僧侶というものの農に対するあり方への良寛の根本的な態度があり、そのなかでこういう詩の言葉が出てきていると思います。
 農に対する関心、視線のあり方のなかで、こういう言葉が出てきていると思います。この言葉があるから、良寛には実践的な、民を救おうという気持ちがあったんだとストレートに理解されるのもたぶん違うと思います。それから同時に、こんなことは良寛が口先だけでつくってるだけだ、あまり問題にならないと理解されるというのも少し違うと思います。そうじゃない関心のなかで、この視線が出てきたと解釈したほうがいいんじゃないかと思います。

20 米の値段への関心

 このなかで米の値が高くなったという言い方をしているでしょう。米の値が高くなったか安くなったかということに関心を持つ良寛を想定してみる必要があると思います。そんなことあるのかな、鞠をついてるほうがよかった、と思われるかもしれませんけれども、そうじゃなくて農に対する僧侶としての存在というところから、そういう視線が良寛にあるということは真実らしく思います。だから明日からどうしようということではなく、そういう視線があったということは確からしく思います。
 そういうふうに米の値段に関心を持つというのも、ほんとうだと思ったほうがいいと思います。それは名主の息子だったからということではなく、たぶん僧侶というものの根本的なあり方から出てきていると理解するのがいいのではないかと思います。
 で、仮に農業以外の関心と分けましたけれど、そうとも言えないのですけれど、「解良叔問子より芋及び李を恵まる、賦して以て答う」という長い詩の一節です。

  却後六日は成道会■■■■

 成道会というのは年の暮れですから、物価が十倍くらいになって、という表現をしているわけです。物価が十倍くらいになるという視線の向け方というのは、良寛の一般的な、通俗的な像からはふさわしくない像なのですけれども、特殊だと考えないで、良寛のなかに僧侶として、つまり農業的な共同体から外れ出て生きなければならない僧侶としての当然の関心の向け方というものがこういう言葉になって出てきているのだと思います。これはたんに言葉のうえだけの問題でもないし、こういう言葉が書いてあるから、良寛の思想には社会的な関心があるんだとすぐに考えないほうがよろしいんじゃないかと思いますけれど、必然的に自分の存在の仕方のなかから出てくる関心としてどうしてもこういう関心が出てきた。それはたぶん、良寛の生き方を規定しているひとつの柱になっているだろうと考えるのがよろしいだろうと思います。

21 僧侶自体への関心

 さてそういう、農業に対する考え方を軸に例をあげてきたわけですけれども、僧侶自体に対する関心、あり方はどうなっているのでしょうか。それはたぶん、先ほど言いました道元禅の考え方から良寛の生き方をどう位置づけたらいいかということと関係してくることだと思います。たとえば「贈鈴木隆造」のひとつです。

  無能の生涯作す所なく■■■■

山田の僧都というのはどういうことかというと『発心集』のなかに玄敏という坊さんの挿話をもとにしています。玄敏という坊さんは、奈良の山階寺の学僧で、あるときふと考えるところがあってお寺を出ちゃって、行方不明になります。ある河のほとりで渡し船をしています。そこのところにかつて山階寺で自分の弟子だった坊さんが通りかかる。よく見ると自分のお師匠さんで、驚いて、この場で何かしちゃ悪いと思って帰ってから改めて訪ねて行くと玄敏というお坊さんはいなくなっちゃう。そういう坊さんで、ほんとうの意味で出家遁世という志を持っていた坊さんだったという挿話です。その玄敏という坊さんに歌があって、山田の案山子があって、それは秋になったら訪ねてくる人がいなくて寂しいだろうなという意味の歌があるわけです。その歌から来たんですけれども、自分は玄敏の仲間なんだと言っているようにも受けとれますし、玄敏が歌に歌った山田の案山子みたいなもので、秋になったら訪ねてくる人もいないわびしい身の上と同じ仲間と言ってくれ、と言っているのかもしれません。これは、 後の場合のような気がします。

 下にあるのも、これだけの詩です。

  千峰凍雪合し■■■■
 
村落共同体から離れたところで天地自然の声を聞いている、仏というのはそれ以外にないんだということを言おうとしているんだと思います。

22 僧侶的な生活のなかの詩

それからもうひとつあげてみます。

 国上の下乙子の森、だからこれは割合に山を下りて、割合に里の神社のところに小屋を建てたときのことだから、割合にお年寄りになってからなんですけれど、

  国上の下乙子の森
  中に草庵あり残年を寄す
  朱門黄閣久住むに懶く
  清風明月縁あるに似たり
  偶児童に逢うて毬子を打ち
  更に逸興に乗じて頻に篇を成す
  他日秀才相問取せん
  安にか在る旧時の痴兀蝉と

  襤褸 これ生涯
  食は わずかに路辺に取り
  家は じつに蒿莱に委ぬ
  月を看 て 終夜嘯き
  花に迷うて ここに帰らず
  ひとたび 保社を出でてより
  あやまって この駑胎となる

 ここいらへんに表現されているのが、良寛の生活の仕方自体でもありますし、またその生活のなかで食べるということがどういう意味を持っているかという意味でもありますし、また宗派を抜け、印可を受けていても曹洞宗の僧侶の世界から逸れてしまった自分の生き方はどうなっているのかということを、ひとりでに語っていると思います。それが良寛の僧侶的な生活……の詩のなかのあらわれです。こんな少数じゃないんですけれども、これは例をあげてみたわけです。
 それじゃそういう生活の思想のなかでいい詩があります。ぼくが優れた詩だと思うものをあげてみます。

   青陽二月の初
物色稍新鮮なり
此時鉢盂を持し
得々として市廛に遊ぶ
児童忽ち我を見
欣然として相将いて来る
我を要す寺門の前
我を携えて歩遅々たり
盂を白石の上に放ち
嚢を緑樹の枝に掛く
此に百草を闘わせ
此に毬児を打つ
我打てばかれ且歌い
我歌えばかれ之を打つ
打ち去り又打ち来たって
時節の移るを知らず
行人我を顧みて笑い
何に因ってか其れ斯くのごときと
低頭して伊に応えず
道い得るとも也何か似せん
箇中の意を知らんと要せば
元来只這れ是れ
(雑詩)

 この詩は非常に細かい表現をよく出来ているでしょう。情景が誰にでも彷彿とするようで、僧侶の生活をしている自分を表現したいい詩だと思います。だからここいらへんのところが、良寛がしていた生活の状態であるし、どういう気持ちでそういう生活をしていたか、どういう思想でそういう生活をしていたかということがいちばんよくあらわれてくる状態だと思います。

23 良寛の存在をどこで見るか

 ところで良寛の詩はたくさんありますけれども、良寛の詩のだいぶぶんの詩はどういうものかということがあります。大部分の詩は、たとえばここに幾行かをあげます。

  我は是れ物外無事の僧
  君も亦昇平の一間人
  終日相見て他事なく
  酒を把って山に対して笑うてギンギンたり

大部分の良寛の詩は、こういう詩です。これは何かと言ったら、自分の僧侶的な生活の境涯に対して緊張感をなくしたときの詩です。隠遁生活をそれ自体として肯定している詩です。この詩にはあるひとつの色合い、風合い、境地というのはあるのですけれども、村落共同体に対する僧侶としての緊張感、存在感というものはあまりないんです。まったくその生活自体を肯定し、それ自体を満たされ、それ自体を悠々感として味わっているというのが、良寛の関心のなかでも大部分がそういう詩です。
 人によってそれがいい境地をいっているといいうるでしょうけれども、良寛の思想を現代でも検討するに耐える、引き出してくることにとっては、都合が悪い詩です。それはそれ自体として優れた詩でもあるし優れた境地でもある。また悠々とした生活の仕方であり、東洋における隠者の典型的なイメージがそこに描かれています。決して悪くはなく、ケチをつけるつもりは少しもないんですけれども、僧侶ということの思想として、現在でも検討に耐える、問題を取り出すには都合が悪い詩が大部分だということが言えると思います。
 しかし良寛の詩をぜんぶそうだと考えることはまったく違うと思います。肯定するにせよ否定するにせよあまりにそれは引き寄せ過ぎているのであって、良寛の思想のなかに、禅の思想、道元の思想あるいは仏教の思想自体も含めて、なおたくさんのことが良寛のなかからどんな人にとっても引き出してくるに値する問題をはらんでいることが言えると思います。
 良寛の存在をどこで見るかということは人さまざまですけれども、ぼくは良寛研究の専門家でもありませんし、三年間良寛のことばかりやってきたわけでもなんでもありません。ほかのことをたくさんやってきました。けれども、ぼくが三年間のあいだで考えてきた問題を投げ込んでそこで良寛を考えてみた場合に、そこのところを無視してはいけないんじゃないかということで出てくる観点があります。その見方からして、良寛の思想はどういうとらえられるか、とらえられないかということは、一通りの意味でお話してみたわけです。
 これはぼく自身にとってもこれからまたしなければならない問題でしょうし、皆さんのほうでもまた少し違う観点というものも差し加えたうえで、良寛のことを考えていっていただければよろしいんじゃないかと思うわけです。
 いちおうこれで終わらせていただきます。

24 司会

25 質疑応答1

(質問者)
<音声聞き取れず>

(吉本さん)
 ひとつは良寛の現代的な意義ですかね。良寛の現代的な意義というのは、ぼくなんかの関心に引き寄せてしまいますと、アジア的な思想というものが現代どういう意味を持つのかということのなかのひとつの大きな漠然とした関心といいますか、そういうようなのがありまして、そういうなかで含まれて出てくる問題なんです。
 これは、日本でいうとそういうものを一番よく体現している思想というのは、仏教における隠者思想なんですけど。仏教も色々あって、鎮護国家みたいなことを第一義とする思想みたいなものもあるわけですけど、そうじゃなくてわりあいに秩序の外に出る形で展開された思想というものの中に非常によくその特色が見つかるのですが。いままでしてきたことでいえば、最澄とか、親鸞とか、そういうものと同じような意味あいで非常に関心があるということがひとつなんです。
 それから、もうひとつは、取り立てて箇条書きにするようなあれではないんですが、しいてそういうふうに言ってしまいますけど、もうひとつは現代の思想の中で何が一番欠けているか、何がないのか、一種の反省があるんです。
 反省の仕方というのは人様々なんですけど、ぼくはその反省の中でそれをひとつに集約しますと、古代論というのはダメだったんじゃないか、一般に僕なんかが影響を受けてきた、ヘーゲルとかマルクスとかの思想の系統を、わりに僕は影響を受けてきたわけですけど。
 その影響を受けてきた思想の系統の中で、いちばん欠けていたものというのは、古典論とか古代論なんです。つまり、古代というのが、あるいはアジア的なあれでいえば、アジア的古代、アジア的段階というようなものはどういうものなのかとか、そこで生みだされた思想とか、文学もあるわけですけど、そういうようなものは、どういうふうにそれを理解したらとか、どういうふうにそれを位置づけたら、あるいは、解釈したら、それは現代的なのか、そういうことがいちばん欠けていたということがミスだったなと、つまり、思想的反省にようやく点が入りまして、そのなかで良寛というのを、道元もそうですけど、そういうもののなかで、ぼくなんかたいへん関心を引くところなんです。
 つまり、たいてい西欧の思想というのを受け入れていく場合、ぼくらがしてきたのは、たいていモダンに受け入れてきたものだから、つまり、一種のモダニズムとして受け入れてきたものだから、古典論を書いている人、あるいは、古代論を書いている人、古代というのはモダニズムの観点からは、歴史の進歩の過程に何千年か前、あるいは千年前にあって、いまは過ぎ去ってしまったものということで、無用の長物というふうにモダニズムの観点からはそうなるわけですけど。
 我々はモダニズムの観点に知らず知らずのうちに支配されてきたなという考え方があって、だから、古代というものに対して、これを進歩して現代に至るまでのある未開の段階、ようするに過ぎ去った段階というふうじゃなくて、古代に対してシャンとした観点というのを作りあげるみたいなことが、ぼくなんかの普遍的な関心のなかにあって、そういうこともひとつの問題としてあるわけですけど。
 もうひとつは思想というのをモダニズムとして受け取ったがために、受け取り方がすこぶるアジア的な受け取り方であるものを普遍的なように受け取ってきたという、もうひとつのモダニズムの面があって、そういうことに対するひとつの対流があって、それもやっぱり、古代論を欠いていた要約点があるわけです。
 たとえば、ぼくらがマルクス主義という場合に、レーニンの思想を初めのものとして受け取るわけですけど。レーニン自体がマルクスの思想をモダニズムとして受け取っている。モダニズムとして受け取ったらレーニンの思想の中にはアジア的な迷妄が無意識のうちに含まれていることがあるわけです。
 その手の反省点というのがひとつ僕の中にあります。それはひとつの古代論、古典論、あるいは、アジア的古代というものをどういうふうに位置づけるかとか、どういうふうにその問題を軸に据えるかということがひとつありまして、それがひとつのそういうもののなかのひとつとしてあるわけです。
 もうひとつ、これは僕の個人の固有な現代に対する考え方があるんですけど、現代の世界をたとえば、近代西欧の思想が一種のひとつの世界思想だったという、そういう時代と、いまの現代とどこが違うかと考えてみると、現代というのはひとつ違う点があるように思えるんです。
 それはどういうことかといいますと、かつて西欧の思想を世界思想として考えて、その世界思想で、世界で起こるあらゆる現象を解釈していけば理解できるみたいに考えられた時代に比べると、現代というのは西欧もそうですけど、アジア地区もそうだし、オリエントもそうだし、それから、第三世界みたいなものもそうだし、もっと極端にいいますと、文化人類学とか、民俗学みたいなものが対象としている近代以前の社会みたいなものが地球のどこかの地域にまだあるわけですけど。そこの問題もいわば同じ水平線といいますか、地平線といいますか、同じ平面上にぜんぶ並んじゃったというのが、たぶん現代の非常に大きな特徴なような気がするんです。
 かつては西欧だけを主体にして考えて、あるいは、西欧の先進的な地域をモデルにして考えてあれすると、世界はそれぞれ裁断できるみたいな時代がありましたけど、それに対して、現在では未開まで含めてぜんぶ同じ、同一の世界的視野みたいに並んできちゃったことが非常に大きな特徴なので、この並んできちゃった特徴というのをどこで捉まえたらいいのかというのは、ぼくらの非常によく考えていることの、考えてよくわからないですけど、課題になっていて、そのなかで少なくとも独自の考え方をアジア的という考え方と、西欧先端的なその考え方と2つの軸というのを同時的に使わないと、同時的に使えないとどうもわからないんじゃないか、現在というものはわからないんじゃないかなという考え方が僕の中にはいまして、大雑把にいいますと、その種の関心のなかで出てくる問題なんです。良寛の問題もそうなんですけど。
 だから、アジア的といったらアジア地区と考えてくださったら困っちゃうわけで、アジア的ということはそれ自体が世界史的という意味ですけど、それと同時にアジア的ということが現在、ぼくらの関心のなかに出てきたという意味はどういう意味かというと、ようするに西欧も一地方だ、アジアも一地方だ、第三世界も一地方に過ぎない、それからもちろん未開社会、文化人類学の対象となっているような、そういう地域ももちろん一地域に過ぎない、かつては西欧が世界だった、アジアは地域であった、それで、第三世界はどこか未開であったというふうになっていたけれども、現在というのはそうじゃなくて、西欧も地方である、アジアも地方である、つまり、どれを持ってきたって普遍化できないよということになってきたのが、今現在じゃないかなというのが僕なんかの大雑把な見方であって、そのなかでアジア的というのがひとつの軸といいましょうか、考え方の軸として問題になるよなというふうに思っているなかでのアジア的ということですから、これもまた起源まで遡りますと、ある歴史の段階でいいますと、原始時代から古代社会に世界が移行するときに、その中間の時期がアジア的という時期ですけど、そのアジア的という時期はもちろん世界史的な時期であって、ヨーロッパもその時期的にはアジア的な時期であったわけですし、もちろんアジアもアジア的であったわけです。ただ、ヨーロッパは素早くその時期を通過していった、アジアは比較的その時期を通過しないで千年なりそこら保存してきたことたくさんがある。それから、第三世界はアジア的段階に移りつつあると考えて、非常に大雑把には考えやすい。つまり、第三世界特有の特殊性と、それから、第三世界であるにもかかわらず、現在、世界にあるには違いないという、そういう問題とありますけど、しかし、これを大雑把につかむ軸というのは、アジア的段階に至りつつある段階だと考えると、わりに第三世界が掴みやすいところがあるんです。
だから、そういう意味あいでアジア的ということが、ぼくの中にはあるわけなんですけど。そういう問題意識の中で、良寛ということも出てくるわけです。だけど、こういうふうに言っちゃうと大げさでわざと意味づけていくみたいなふうになっちゃうから、そんなこと言わなくても、長岡の人がたいへん強度に鍛えられて、思想家なり詩人なりに関心があると、ぼくも西行なんかやってきましたから関心があると、関心をもとにして引き込まれてやってきたと、こういうところでいいんじゃないでしょうか。

26 質疑応答2

(質問者)
 良寛及び禅というのが復権したという意味でよろしいのでしょうか。もう一点が、親鸞は良寛と近づきまして、その思想形成点というのはだいたいどういうところで、どこかでつながると思うんですけど。

(吉本さん)
 ひとつは禅というものに対する関心が、ぼくの中で復権したかということなんですけど。復権したというのじゃなくて、すこしそのときよりも勉強したような気がするんです。たとえば、現代語訳の『正法眼蔵』を探してもらったりとか、自分でも探したりとか、そういう手助けをしていただいたんですけど。でも、そのときよりいちおう知っていたんです、『正法眼蔵』を読んでいましたし、やっぱり今日言ったみたいな問題意識というのはその時もあって、京都のほうでその手のおしゃべりをして、禅のお坊さんが聞いていてものすごく怒られたことがあるんです。
わかるわけがないとか言われまして、世界思想としての禅だというけど、しかし、我々の支部はアメリカにもあるし、ヨーロッパにもあるんだと言われて、我々のところから講師を派遣して、そういうふうに普及しているので、おまえなんかに世界思想だと言われなくたってやっているんだからというから、冗談じゃないと、そんなのはちっとも世界思想とか、世界思想になったということじゃないと、そんなのはつまらないことだと僕は言いまして、俺が言っているのは全然違うと、それでさきほど、ようするに同じということは下駄屋さんが十年やっても一人前の下駄を作れないんだぞと言っているのと同じだと言って、そういうことがあるんです。
そのときも知っていることは知っていたんです。問題意識もそうだったんです。すこし、そのときに比べたら、良寛の必要もあったし、やっぱり、親鸞なんかやってきましたから、それとの比較もあったりして、それから、もっと大きく言いますと、仏教の言葉というのはみんな漢字でしょ。だから、日本の仏教というのは、漢訳でしょ、漢字に訳された語彙を通して、語感を通して思想を受け取っているでしょ。それが本来的な思想かどうかわからないんです。そういうものがわからないんだと、それがどういうところが本来的な思想で、どういうところが漢字で誤魔化されて、漢字が厳かなものだから厳かだと思っているとか、そういうことがたくさんあると思うんです。
そのことが現在ものすごく問題だと思うんです。東洋の思想というのはみんな問題にすべきだと思います。新しく問題にすべきだと思います。そういう一種のどこが問題なのかというのがはっきりされつつある過程にあるような気がするんです。そういうなかで僕も関心があるものだから、多少はそのときよりも道元なんかも多少は忠実に読んでみましたし、臨済なんかも多少はあれしてきたんです。
あまり復権ということはないんです。それはさっき、アジア的といったらアジア主義が復権するという、そういうことはとんでもないことだと思うんです。ようするに、あらためてアジアというのは地方に過ぎないというのを確認することが、どう正確に確認できるかということで、西欧というのは、近代以降は世界思想と考えてきたので、西欧思想によることが、考え方に頼ることが世界思想によることと同じだったし、同じ意味として通用できて、それは間違いなかったと思うんです。
だけど、現在に至って、ここ何十年かに至って、怪しくなっている気がしてしょうがないのです。だから西欧もまた一地方に過ぎないんだということになりつつあるような気がして仕方がないです。だから、西欧思想を獲得したから世界思想を獲得したというふうに、そうモダンには言えなくなってきたよという問題があるような気がして仕方がないのです。
そういう問題を一種の兆しみたいなものとして、ぼくらにも関心があるので、こんなもの禅宗の坊さんの、西欧人、アメリカ人が禅の勉強に来たとか、留学に来たとか、禅が流行って、一種のメディテーションとか、<テープ切れ>
現在の世界思想に含まれているかどうかで決まるので、そんなことは誰にもわからないです。誰にも検討しなければわからないです。検討すること自体が現在の思想の問題である。そういうものとしてあると思うので、決して復権なんか、人が思っているようなことは、僕はしないと思います。そんな意味ではダメなところがたくさんあると思う。そういう意味ではちっともそういう気はないですけど。
ただ、どこが生きられるか、東洋の思想というのはどこが生きられるのか、あるいは、どこが迷妄に過ぎないのか、あるいは、どこだけ取れば生きられるとか、そういうことはちょっとはっきりさせなきゃいけないんじゃないかという問題はあるような気がしているんです。

27 質疑応答3

(司会)
 いまの質問の2点目の親鸞との接点というのを。

(吉本さん)
 良寛もこうだと思うのです。つまり、良寛のつっぱりがとれちゃったということかどうか、今日の話でいえば村落共同体の、ぼくの言葉でいえば共同幻想なんですけど、それとあるひとつの融和を遂げたということなのか、そこはよくわからないのですけど。
 この地方はどうか知りませんけど、村落共同体というのは、浄土真宗というのはわりあいに多いんです。信仰として多くを占めているんです。たとえば、農家の思想としても、宗教思想としても、信仰としても多いんです。
良寛もわりに自由自在にそういう歌を作ってみたり、そういう文章を書いてみたり、今日のあれでも「勧受食文」というのはあれですけど、その上にある「タイショクゲ」というのは同じような内容なんですけど、これを良寛は書いたりしてあれしていますけど、これは浄土真宗の学僧が中世以降、室町か江戸時代初期だと思いますけど、そのお坊さんが作ったものです。
その人の考え方と似ているんですけど、やっぱり、士農工商というのがあると、それに対して僧侶というのは何もしていないと、士農工商は何かを作ったり、耕したりしていると、しかし、僧侶というのは何もしていないと、何をもって食する資格があるのか、それは「ふくでんい」という言葉を使って、ようするに衣の中に生き方があるから、それでもって食を取る資格があるんだと、食べ物を手に入れる資格があるんだと、そう言っているんです。
これは何かといったら、この人の場合には僧侶というのはおうもんのかんじょうだと、つまり、仏像を守るお城みたいな存在で、また、現代の社会の、娑婆苦に満ちた、苦悩に満ちた社会のなかのイカダみたいなものなんだ。だから、そういうことで初めて食を請う資格がある、請うということが許されるのだと、それがなかったらダメなんだという、それを作った人が浄土真宗の坊さんなんです。良寛もそれを書き写したりしているんです。
良寛の中にもわりあいに村落の信仰といいましょうか、たぶん、この辺の村落でも浄土真宗とか、浄土系の思想が、宗教思想でいちばん多かったと思うんです、当時。それに対して関心を示したというのか、融和を示したところがありまして、良寛の中にもあるんです。良寛の思想のなかにもしいて言えば、そういうものを選り分けて得られるところがあると思います。
あると思いますけど、接点というほどの接点はなくて、むしろそういう意味あいでいうならば、良寛の村落の人たちの持っている信仰、浄土真宗の信仰に対して、自分の信仰とどういうふうに区別するのかとか、どういうふうに融和したらいいのかという問題の中で、親鸞の思想なんかに良寛の中に浮かび上がっている部分があったんじゃないでしょうか。そこがたぶん接点じゃないんでしょうか。いくらか作品の中にあるんです。歌の中にあるんです。これは浄土宗の信仰じゃないかというのがあるんですけど、それをどう理解したらいいのかというと、やっぱり農村の信仰との関係じゃないでしょうか。

(質問者)
≪音声聞き取れず≫

(吉本さん)
 そこになってくると言葉を曖昧にといいますか、厳密じゃなく使わないとわからないところがあるような気がするんです。良寛の中にも自分の辞世はなんだって、良寛の歌かどうかほんとうは厳密に肯定しなきゃいけないのでしょうけど、自分の辞世というのは何かと言われたら南無阿弥陀仏だというふうに答える歌が良寛のなかにもあるでしょ。その手の歌というのはありますよね。それを良寛が本気かというふうに理解した場合に、あまり本気じゃなくて、いわゆる普段言葉としていえばそれでいいんだということになっちゃうような気がするんです。
 親鸞でも同じであって、親鸞もほんとに厳密な親鸞の思想というのは、死んだ後に浄土があるなんて親鸞はちっとも信じていないし、そんなことをちっとも言っていないんです。親鸞が本気になって自分の思想を浄土思想家としてふるまって言っている場合に、そんなことはちっとも言っていないし、死んだ後に浄土があるなんて言っていない、そんなことは全然否定しています。
だけども親鸞はしばしば手紙の中で死んだら浄土でお会いしましょうみたいな、親鸞は俗な言葉というか、普通言葉でそう言っているので、それは親鸞の思想かと言われたらそんなことはないのです。そんなことは、親鸞は信じちゃいないんです。死んだ後に浄土にいくなんて全然信じていないし、否定しています、そういう意味合いの浄土というのは否定していますけど。
それは本格的に本気になったときの思想の述べ方であって、ごく普通に語るとしばしば一種の比喩として、死んだら浄土でお会いしましょうとか、遅れ先立つことは浄土でお会いしましょうとか、しばしば、弟子に手紙をやったりしています。
だから、それは嘘を言っているのかというとそうでもなくて、厳密にいったらあんまり接点はないんじゃないでしょうか、良寛のあれのなかに、浄土真宗、あるいは、親鸞の思想との接点はあまりないんじゃないでしょうか、厳密にいったら。だから、ようするに、村落の人たちの持っている信仰というものの自分が接触する、そういうところでは色んな意味合いで一緒になってくるところがあるような気がするんですけど。
これをまた、まともに受け取っていいかどうかは別なので、つまり、親鸞は、晩年は浄土真宗に帰した、思想が近くなったっていうふうに理解していいのかというのは、また僕は素直には肯定できないような気がするんです。たくさん検討してみないと言えないような気がします。

28 質疑応答4

(質問者)
 お話の中で僧侶という問題がかなりクローズアップされていたわけですが、僧侶論ということになると思いますが、私たちなんかがそれをかなり引き寄せてみた場合、僧侶というとなんとか宗の坊さんという感じしかないわけですが、吉本さんの場合は僧侶というものを手掛かりとして、アジア的な思想、あるいは、村落共同体の思想というものを再検討というかたちの場所として僧侶ということをお考えなのかどうか。
 たとえば、私自身も僧侶ということを、何々宗の現代のお坊さんとか、さらに研究も相当積まれているわけなんですが、いままであまり注目していなかったわけです。親鸞とか、あるいは西行とか、良寛というかたちでは見ていたのですが、僧侶そのものとしては見たことが一度もなかったわけですが、その辺のところを手掛かりとなるものかどうか聞いてみたい。

(吉本さん)
 ぼくのなかにも同じようなあれがありまして、結局、僧の思想、つまり、仏教ですけど、仏教とか、儒教もそうなんですけど、東洋の思想というものが、つまり、オリエントでいえば回教の思想みたいなものですけど。そういうようなものも、どこで思想の問題をはっきりさせたらいいのかというふうに考えていきますと、どうしても、その思想が発生したといいましょうか、その思想が生みだされた起源のところで考えると、ある意味で思想の骨組みがつかみやすいということがあると思うんです。
 そうすると、そこまで遡っていきますと、仏教の思想も結局、アジア的な思想のひとつとして、やっぱりアジア的な村落共同体ができたときのその段階で生みだされた思想であり、世界観であると、どうしてもそこまで遡ってきてそういう思想を体現した存在というのを考えてみると、それはやっぱりアジア的な農業共同体から疎外された、そこから外れた様々な集団とか、血族とか、氏族というものの生き方といいますか、社会生活のあり方のひとつとして僧侶というのは考えられると、どうしてもそうなってきます。
 そうすると、そこでは僧侶の問題は、僧侶の生き方の問題、あるいは、存在の仕方の問題、特に農業共同体とのかかわりでいいますと、それはその時代において、鍛冶職の人はどういうふうに村落共同体とかかわっていたかとか、たとえば、鍛冶職の人は集団で、あるいは血族で、血縁で、ある村落へやってきて、そこで農業に必要な農機具を作って、それを食べ物と交換して、またそれは集団で次の村落へいって、次の村落でやっぱり農業に役立つものとか、料理の包丁とか、そういうものをまた作ってやって、それでまた、そこで、米なら米と交換してとか、そういうふうにしながら、また次の村落にいく、そういう生き方をしている鍛冶屋なら鍛冶屋の集団もありますし、それから、そのある村落共同体の地域の外れのところに一集落をつくって、そこで鍛冶屋さんをやって、それでそこに定住しちゃう場合もあったり、一定時期だけ定住して行ってしまう、それは血族とか、氏族で、集団でなされるというような、そういう形がある。
 坊さんの場合でもいろいろありまして、道元とか、良寛なんかは否定している、村落にやってきてお祈りをしたり、仏儀を営んだりして、お布施をもらってまた次の村落へ旅をして歩いていく、また次の村落でそれをやってというふうに、ずーっと遊行しているといいましょうか、歩いているお坊さんたちのあり方というのももちろんあるわけなんです。
 農業以外の人たちのそういう様々な定住の仕方とか、歩きながら巡回しながら、自分たちで職業を立てていく、そういう農業共同体に対する最初の交渉の仕方というのが、どこで始まったかとか、どこで考えればその構造はわかりやすいかというふうにいいますと、どうしても人類の歴史はアジア的な段階とか、そういうところでそれを考えれば一番わかりやすいと思います。
 だから、そういうものとして仏教という思想の問題も、また仏教の思想を体現した僧侶のあり方の問題というものを、そういうところで根本的に考えてみたら考えやすい。その問題は帰するところ、強度な農業共同体、あるいは血縁、あるいは特定の氏族によって、あるいは部族によって占められて強固で内閉的になった共同体に対して、農業以外の職業に携わっている人は、どういうふうに交信し、どういうふうにかかわっていったか、どういうふうに定住し、どういうふうに定住しなかったかという、その問題の中に、アジア的というものを解明していく非常に大きな手掛かりがあるというふうに僕自身は考えるわけです。
 だから、結局これは、そこまでいっちゃったら良寛の問題と離れるかもしれないなということがひとつあります。また、良寛に即してどこまでその問題が接近できるか、あるいは、そういうふうに接近した場合に、良寛自身の理解としてどういう違う問題が出てくる可能性があるのかということは、ぼくはやっぱりありうるような気がするんです。
 しかし、それでもまだ、内在的とはいえないから、もっと内在的なことを言いましょうか、良寛を良寛自体としてどう理解するかという問題はまずはその上にあるかもしれないので、そこは様々なあれがあると思いますけど、ぼくが自分のあれに引き寄せたところでは、結局、そこのところのひとつの問題になるように思ってるんですけど。
 それで農業というのは種をまいて育てて刈り取って収穫してと、それで定住しているわけですし、東洋だったら特に共同体が非常に強固にできあがっていますから、そういうところで生涯を送り、また、次の子供が生まれ、子供が育ちとなるわけですから、農業にかかわる思想というものは、進歩というよりも、安定した定着感とか、親和感とか、つまり、親しみやすさとか、あるいはもっといいますと、相互扶助の考え方とか、あるいは、いったん相互扶助に外れると、共同体からはじき出してしまう、そういうのが農業にかかる思想の非常に根本的な思想で、だからこれは東洋では何千年来あまり変わっていないということがあるわけです。
 だから、これは社会を進歩させるかしないかということでは、あまり進歩には寄与しないわけです、農業に関わる思想というのは。せいぜい、千年前と今と農業の仕方がどこが違うのか、それはヤンマーディーゼルが機械を入れたとか、そのくらいしか違っていないんです。やり方はそんなに変わっていないんです。千年くらい変わっていないんです。東洋ではとくにそうです。変わっていないです。だから、そこで進歩ということで農業を考えるならば、文明を進歩させる要素というのは農業からはあまり生まれないんだとはいえると思います。
 だけれども、それでは農業の人は迷妄かというと、そうはいえないのです。今度は共同意識といいましょうか、つまり、親和感といいましょうか、あいつが困ったらこっちを助けちゃうとか、村の誰かがあれしたらこっちを助けちゃうとか、誰かがこういう災厄に遭った場合には皆でそれをカバーしちゃうとか、そういう親和感とか、相互扶助というのは、それをひとつの思想というふうに考えれば、相互扶助の思想というのが、それがまた人間の歴史にとったら、人間にとって大切なものだと考えるならば、これは農業の農村の思想、あるいは、農業に関わる思想以外にはそれを生みだすことはできないと思います。
 だから、そういう意味で農業の思想というのは進歩ではないけど、文明を進歩させる思想じゃないけど、文明の根底にある思想であるとか、人間でもし親和感が必要であったら、あいつが困った時に助けるのが悪いことじゃないということが永久の真理だとすれば、やっぱり、その永久の真理というのは、農業を基にした思想からしか生まれないんです。
 だからそういう意味で重要なんです。これはたんに迷妄じゃないんです。迷妄というのはたくさんありますから、つまり、進歩という概念でいえば、農業にまるわる思想にはたくさんの迷妄がありますけど。しかし、迷妄だけで終わりかというと、そうじゃないので、親和とか、相互扶助とか、共同性というものが、ある意味で人類に大切だとすれば、あるいは、人間にとって大切だとすれば、これはいつまで経ったって大切だという、そうだとすれば、やっぱりこの大切な思想は農業からしか生まれないという、そういう2つの面を農業の思想は持っているわけです。
 それから、アジア的段階で農業からあるいは村落共同体からはじき出されたために生みだされた様々な職業があるんです。鍛冶屋さんもそうです。僧侶もそうです。あるいは、知識人もそうですし、それから、もっと悪くいえば支配者というのもそうです。つまり、農業共同体を外れたところの奴というのは、進歩に寄与するのはいずれにせよこっちのほうだと思います。
 つまり、いずれにせよ、定着するあれもないし、定住するあれもないし、毎年、同じことを、種まきして刈り取ることをするわけじゃないですから、こっちは変化のあることしか生みだすわけがないわけです、農業以外の人は。だから、人類の進歩、文明に寄与した職業というのは、たぶん、農業以外の思想のほうが寄与しているんです。
 たとえば、資本主義もそうですし、諸産業もそうです。これはアジア的古代でいえば、農業共同体からつまはじきされた人たちの群れなんです。いまの資本主義を司っている様々な思想とか、そういうようなもの、それから、産業とか、そういうようなものは古代だったらこっちのほうがダメなんです。それから、侍なんていうのもそうなので、これはダメな奴なんです。
 農業が最も基幹であり、農業こそが世界思想だというふうにあったそういう段階がアジア的な段階、つまり、何千年か前にあったわけです。その段階では農業以外の思想はダメな思想で、農業以外の人はダメな人、こういうふうになっていましたから、そこではダメだったんだけど、しかし、いかんせんそういう人は定住していないので、いずれにせよ進歩には寄与したんです。
 それから、農業に携わって実質上のあれをしていないから、頭を使うことだけはたくさんしたというので、こういう坊さんもそうですけど、そういう僧知識みたいのが発展してきたんです。そういう人たちが知識人になっちゃったんです。
 だから、進歩にはそういう人は寄与しているわけですけど、しかし、根本的な親和感とか、共同性とか、人間は人間を愛さなくちゃいけないのかということが永遠不変の真理だとすれば、たぶんそれは農業以外のところから生まれようがないのであって、それはそういうものだと思います。つまり、そういう思想だと思います。
 もし、仏教が人を愛せよとか、慈悲を持てとかいうことを、仏教が言っているのは、根本的にいえば、それは農業から受け取っているに違いないと、農業村落共同体とのかかわり合いのなかで生みだした思想であることは間違いないことだと思います。つまり、そういうふうに村落共同体というものを、そういう両面あるというふうに考えて、それをすっきりさせるにはやっぱり後ろに元へ戻ったほうがすっきりするんだということがあるわけで、その問題はあくまでも良寛なら良寛の思想みたいなものを考える場合のひとつの大きな見方になりうると僕はおもいますけど。

29 質疑応答5

(質問者)
 いまお話しいただいたんですけど、知識人論ということでいいますと、さっき吉本さんが言われたのは、良寛は道徳的にあらずと、倫理的にあらず、通俗的なものにあらずというふうに言われましたけど。非常に思想が困難である。そういうふうにすぐに行為に結び付けていくと、短絡に良寛理解はなってしまうというふうに言われましたけど。
 ぼくが感じましたのは思想の高度さというものは通俗的であり、誰にでもわかるものであり、普段の日常生活の中で普通の人にもわかりうる、そういう裏付け、思想の深さがありながらの日常行動というものがさらに高度なんじゃないかと思うんですけど。吉本さんが言われた思想の高度さというのはどういった観点で言われたのか。

(吉本さん)
 ぼくもあなたのおっしゃることはよくわかるので、たとえば、親鸞なんかというのはそういう考え方だと思うのです。つまり、思想というのは高度になればなるほど非知識的なもの、あるいは、普通の人の考え方でも包括できなければ、その思想は思想とはいえないという考え方が親鸞の中にもあると思います。
 親鸞の言葉でいえば、「往相」ということと、「還相」、往く姿と還る姿ということで、還る姿というのがない思想というのはダメなんだという考え方があって、還る姿というのは思想を高度にすればするほど、その思想はより根源的なといいますか、より底辺的なといいますか、非知識的な、そういう人の生活についての考え方を包括できるというふうにならなければ思想とは言えないという考え方があるので、親鸞なんかにはあります。
 結局、ぼくなんかの考え方の根源にあるのは、ようするに、知識的でない大衆というものを無限に包括できるという過程というのだけを、それが価値の根源にならなきゃいけないという考え方が、ぼくらの考え方にもありますけど。
 この禅の思想というのは残念というか、まったく質が違っています。まったくそういうのは認めないです。そんなことはどうでもいいことだと、つまり、道元の言葉でいえば、ひたすら座れということなんです。24時間座禅しろ、それから、飯なんか食わなくてもいい。眠らなくてもいい。とにかく、ひたすら座禅しろという。
 なぜそうかというと、それは仏教の元祖といいますか、始祖である釈迦が仏道を行じた時に、それが姿勢なんだから、それが仏教思想の根源なんだから、その姿勢になっていることが仏道なんだと、だから、ほかの何もしなくていいという考え方です。
 だから、あなたのおっしゃるように、わかるとかわからないとかいう次元は、問題外で、ようするに、そんなことはどうでもいいんだよと、ようするに、仏道とは、仏教思想とは何か、ただひたすら座れという、飯なんか食うのも余計、寝るのも余計、そのほかに何かがあるということはない。そのほかに思想がある、そのほかに生き方がある、そのほかに他人にわからせなきゃならない要素がまた別にあるかというと、そんなものは全然ない。まったくそうです。だから、それはまるで考え方が違うんです。道元系統の考え方とまるで違うんです。
 だから、高度という意味あいがまるで違うんです。良寛の場合もそうなんです。そういうことをしたって他人を助けるわけでもないし、ようするに、良寛の生き方というのは、子供と毬でもついていると言う以外にないわけです。歌を詠んだり、月を見たり、それ以外にすることもないわけです。
 もちろん、そんなのは何の意味もないという観点というのは、永久不変にあるわけなんだけど。しかし、ぼくは必ずしもそれに組みしないわけです。そんなのは意味がないということには組みしないわけです。もともと、いかに生きるかということの意味の根源はどこから人間が取ってきたかというと、だいたいにおいて、そういういかに生きるかという問題はひとつの思想として形成されたので、ようするに、東洋でいえばアジア的段階です。
 アジア的段階で初めて人間はいかに生くべきかみたいなことが、一種の人々の思想として出てきた、そういう段階ですから、だから、そこまでいっちゃったときに出てきた思想ですから、そのなかにはいかに生くべきかという問題もありますし、そんなのはどうだっていいんだ、ひたすら座っていて心を統一すればいいんだという思想もあるし、その段階では思想は未分化の一種の宇宙観や世界観です。だから、そのなかにたくさん色んなものが含まれているわけです。
 それから、来世というのはどういうことか、そういうことも含まれているし、人間はどこから生まれてきたのか、そういうことも含まれているし、ぜんぶ融合して含まれている思想というのは、初めてその段階で生みだしたわけです、人類というのは。
 だから、そのなかにはあなたのおっしゃる他人に優しくなければいけないという考え方は、未分化の芽としてはそのなかに含まれていたし、それと同時に道元流、禅流の、森の中に入って静かにしていて、食べることもしないで飢えも待てばいいんだとか、そういうふうにして自然に飢えると、いわゆる即身成仏として来世に非常な幸福が得られるんだというやつもいるし、また、そういう考え方もそのなかに含まれています。
 ようするに元をただせば、我々が思想と思ったもとをただせば、未分化の芽としてあったものですから、それが分化して、あなたの言う、他人にわからないことをやったり、役に立たないとか、そんなのは思想じゃないという人も出てくる、もちろん、そんなことはどうだっていいことで、ひたすら俺は飢えを追及しているんだという人もいるし、そういうのは千差万別になっているんだけど、もう少し僕は、そこは根源というものをあれしていかないといけないような気がするんです。
 それがさっき言った、俺たちには古代論が欠けていたんだ。あなたの先生でいえば、竹内好さんが、古代論が欠けていたんだということは、つまり、古代中国論が欠けていたんだ。それから、古代中国論でいえば、吉川弘文は儒者というのを自称しているわけでしょ。あれはまたそういうそうなんです。
 だけども、古代中国思想、儒教思想というものの根源というものに対する観点というものをはっきりさせるということが竹内さんに欠けていた。それをはっきりさせないことは古代論を欠いているという、儒教の思想というものは実践思想なんです。それはわりに中国におけるアジア的段階の末期の時に出てきてるんです、儒教の思想というのは、つまり、老子なんかの思想もそうなんです、『論語』の思想もそうなんです。だから、このなかにそれが含まれているんです。いかに生きるのかが含まれているんです。
 もうひとつ含まれているのは、共同思想が含まれているんです、『論語』の中には。「朋あり遠方より来る、また楽しからずや」、野郎が友達と酒を一緒に持ってきて飲んで楽しかったという、もちろん、そういう意味合いも含まれているんですけど。もうひとつは分裂した共同体、氏族社会とか、氏族国家とか、たくさんあったでしょ。つまり、そういうなかで遠方の部族国家がおれのところに友好を求めてやってきたということは楽しいことだという意味が含まれているんです。『論語』の「朋あり遠方より来る、また楽しからずや」という言葉の中にはその2つの二重の意味が含まれているんです。そういう問題を欠いているということは、たとえば、竹内さんのアジア的思想の欠点なんです。それははっきりさせなきゃいけないんです。
 だから、ぼくは必ずしも、役立たない思想はダメだというのもあるし、それから、隠者思想がダメだというのがある、そのなかにある思想の根源が含まれた、それが古代論を欠いちゃダメだという、それは根源まで遡れば絶対にアジア的村落共同体の思想には絶対に遡れない。そこではぜんぶ世界観、宇宙観なんです。だから、人間がどこから生まれてどこへいくんだなんていうのは全部含まれて、もちろん、いかに生きるべきか、他人にはどうすべきか、もちろんそれも含まれているんです。それから、自分は来世どうしたらいいのか、黙ってじっとしてそればかり考えていればいいんだという考えの人もそのなかに含まれているんです。そういう高度な分化をして、様々な実践思想になったり、非実践思想になったりして、そこまで遡れば、そういう次元では、それでいいような気がするんです。つまり、そういう次元だったら何の問題もないような気がするんです。
 だから、おまえは反動思想だと、能本位主義だから反動思想だと言ってきましたけど。しかし、それはモダニズムに過ぎないのです。もちろん、反動思想ですよ、能本位主義は。だけども、同時に共同体の思想とか、相互扶助の思想というのは、能本位思想以外からは生まれてこないのです。だから、そこではそれは完全にこれから未来にとれるかもしれない思想のほうがあるんです。その2つの意味あいでとってこなければならない。
 そんなのは反動でもないし、進歩でもないし、進歩進歩って言ってるけど、進歩の意味あいというのは封建時代より資本主義時代のほうが進歩だとか、資本主義より社会主義のほうが進歩か、その程度のことを進歩進歩と言っているので、進歩の中にどういう挑発、わざとしてみせたり、そういう思想がいかに進歩思想の中に含まれているか、見ればわかるでしょ。つまり、そんなのは否定すべきところなんです。それが一種の前衛主義なので、それは極端に究めるとスターリン主義になるし、つまり、そういう思想も含まれているんです、進歩思想の中には。そういう面もあるんです。
 だから、もっと根源まで正確に思想というものの性格を遡ってみるとわかりやすいところがあるんです。ぼくはそこの問題じゃないかと思うんです。ぼくが竹内さんに文句を言ったってしょうがなくて、そういうことはあったけど、あの人は良い人でしょ、なんというかものすごい魅力的な人で、人間的にぼくは好きでしたから、あんまり言いたくないけど、でも僕はそれは竹内さんの利点、日本の儒学思想の中から取り出してきたんだから、ものすごい優れた思想家ですけど、同時にもし弱点があるとすれば、古代思想に対して、古代に対する観点が明瞭に持てなかった、持たなかったというか、ないがしろにしたという、そこに対して明瞭なものを掴んでおくべきだったと、そこが弱点のように思ってきましたけど、その問題じゃないでしょうか。だから、その次元ではあまり反対意見でもないし、また、賛成意見でもないという感じなんですけどね。



テキスト化協力:ぱんつさま(チャプター25~29)