(司会)
自治労山口県職員労働組合下関支部の主催によります、文化講演会を開催していきたいと思います。わたくしは書記長を務めます安田といいます、よろしくお願いいたします。それでは開催にあたりまして、うちの部長であります、谷越部長の挨拶を受けたいと思いますので、若干お時間よろしくお願いしたいと思います。
(谷越部長)
本日は遠路、多数ご出席いただきまして、講演会を開くことができますことを厚くお礼申します。ただいま書記長が申し上げたように、山口県庁の下関支部の主催で、特に文化活動の面でございます。先生につきましては、申し上げることもございませんので、最近の情勢というものが、国の内外におきまして、いろいろな諸問題を起こしております。とくに労働者に対する弾圧という問題につきましては、我々はこれから非常に厳しい道を歩んでいかなければならないと考えております。どうかひとつ最後までご清聴賜ることをお願い申し上げまして、挨拶といたします。ありがとうございました。(会場拍手)
(司会)
たいへん寒い中、多数ご来場いただきましてありがとうございます。地元県職労の組合員の皆様に限らず、北九州あるいは福岡、熊本、遠くは東京のほうからも駆けつけて来られているというふうに聞いております。たいへん寒い中、遠路、ほんとうにご苦労様でありました。吉本さんにつきましては、すでに関心のある方については、ご紹介するまでもないというふうに思っております。ただ、県職労の組合員の若いみなさんにとっては、あるいは、吉本さんの名前を今回はじめてお聞きになるという方も若干いらっしゃるというふうにも聞いております。開催にあたりまして、私たちが案内用のチラシをそれぞれ配布しております。案内用のチラシのなかにもご紹介しとったわけですけど、本日、たいへんお忙しいなか、現代における最も優れた思想家であり、詩人である吉本隆明さんをお迎えしての文化講演会ということで、本日こうして開催することができましたことを、ほんとうにうれしく思っているところであります。多くの著作活動がございます。案内にもご紹介しておりますように、代表的な著作としましては、『共同幻想論』、あるいは『言語にとって美とはなにか』、そして、現在、吉本さん自身が主催をしております同人誌「試行」の誌上で、お仕事が継続中であります『心的現象論』、まさに吉本理論の骨格を形成してきたというふうに思います代表的な著作をはじめとして、ほんとうに多くのお仕事をなさっておられるというふうに思っております。本日のような講演会をはじめとして、対談あるいはインタビュー、著作活動というふうに、まさに吉本さんの発言といいますか、表現というものが、今日の思想界において注目をされ続けているというふうに思っております。まさに、あらゆる思想界における未踏の領域といいますか、そうして領域を○○な理論によって、意欲的に、精力的に、切り開いていらっしゃるといっても過言ではないかというふうに思っております。どうかひとつ関心のある方は、現在、勁草書房という雑誌社から、出版社からでております『吉本隆明全著作集』全15巻がすでに完結しておりますし、引き続きまして、巻外も刊行中でもあります。これまでの吉本さんのお仕事のほとんどが網羅されているということで、ひとつになればというふうにも思っております。かつては、十年くらい前になると思うんですけど、ある雑誌で吉本隆明をどう粉砕するかといった特集が組まれた記憶があるわけですけど、今日、吉本さんという大きな存在は粉砕されないし、また、されるどころか、吉本さんという大きな存在は、今日、思想界において、ますます大きく高く結実をしているというふうに確信をしております。現在、私たちは様々な複雑な状況のなかで、一個の労働者として、大衆として、どう活路を切り開くかということに模索をしている状況でないかというふうにも思っております。労働者として、疎外された労働といいますか、労働の中の疎外、そうしたものに加えて、今日、あまりにも肥大化しすぎた組合組織、あるいは様々な組織の中で、一個の労働者として疎外をされるというふうなかたちで、二重にも三重にも、多重に疎外されている存在ではないかというふうにも思えてならないのですけど、こうした状況のなかで、本日、たいへんお忙しい中、吉本さんに講義をお願いいたしました。ご案内のとおり、労働組合論、副題として「日本資本主義の構造」ということで、私たちがいちばん関心をもっているテーマではないかというふうにも思っております。今日のこういったものを中心としながら、現在、吉本さんが最も関心をもっておられると聞いております〈アジア的〉という概念といいますか、そうしたものを含めて、いわゆる経済機構の下部構造、『資本論』の領域の問題に直接触れられるんじゃないかということで、画期的な内容になるものと期待をし、またしております。今回こうして開催をするにあたりまして、何人かの方のご協力なり、励ましなりいただきました。厚くお礼を申し上げたいと思います。たいへん長くなりましたが、早速はじめていきたいと思います。これから約1時間半から2時間程度の講演をいただき、その後、2,30分程度の質疑応答の時間もお願いをして了解をいただいております。どうかひとつ、講演の内容を深めていただくという意味も含めて、2,30分程度の質疑応答にもよろしくご協力いただきたいというふうに思っております。それでは、吉本隆明さんをご紹介いたします。拍手でお迎えください。
ただいまご紹介にあずかりました吉本です。今日は「労働組合論」なんですけど、わたくし自身は、労働組合の現在当面している問題みたいなことに言及することは、あまりかけ離れてといいましょうか、自分の場所とかけ離れているという感じがするので、かえって良心的でないというふうに、あんまりいいことでないと思ったんだけど、ただ「労働組合論」といっても、現代の社会、あるいは日本の資本主義がどういうふうになっているかということを介して、間接的でしたらば、労働組合の、あるいは、組合の個々のメンバーが当面している問題、一般的な問題に到達、もしうまくやってできれば、それは意味があるのではないかと思いましたので、引き受けさせていただきました。
それで、わたくし自身は、みなさんが労働組合として、どういうことに具体的に当面して、どういう実感をもっているか、あるいは、労働組合員としてふるまうっていうことと、いわば現在の資本主義社会のなかにおける一般大衆としてふるまうことの間のギャップといいましょうか、落差といいましょうか、その実感というようなものは、どういうことなんだっていうような、そういう問題がきっと様々あると思うんですが、ぼくはそれ自身に、内面的にといいますか、内部的に立ち入ることはできないので、ぼくが実感している問題を基礎に据えますと、日本資本主義論といっても、日本資本主義論をしながら、そして、ぼく自身が直観している様々な問題にどうやって到達できるか、つまり、どうやってそれが基礎づけられるかっていうことができないならば、元来が、経済分析あるいは社会分析っていうものは、元来が、いずれにしろ、指導者ないし支配者の最も関心のもっていることであって、あんまりそういう意味合いでは実効性のない問題であります。だから、そのことを介して、自分たちが実感している問題に到達できるかどうかってことは、いちばん問題になることだというふうに思います。それができればよろしいと思ってやって参ったわけです。
実感している問題というのは、たとえば、生活実感のところからいいますと、いわゆる冷え込んだ不況っていうことを感じます。つまり、物価高であるとか、不況であるとか、それにもかかわらず、給料は思ったほど上がらない。あるいは、収益がもうひとつ上がらない。それはいったいどういうことになっているのかってことは、わりあいに、ひしひしと感ずる問題のひとつだと思います。
それから、精神的なといいますか、精神状態みたいなものまで含めて申し上げますと、日々、時間に追われ、焦燥感みたいなものとか、不安感とかいうものがどこかにあります。その不安感・焦燥感っていうものは、どこから来るのだろうかってことが、非常に切実に感じられます。
この焦燥感・不安感っていうのは、もちろん個人の、僕なら僕の精神状態に依存することも多いわけですけど、ここではそれが問題なのではなくて、多く一般に、現在、教育暴力とか、家庭暴力とかにあらわれる様々な問題も含めまして、様々なかたちで焦燥感、それから、不安感とか、脅迫感というようなものが、さまざまなかたちで爆発しているわけですけど、その爆発していることの個々の原因じゃなくて、根底にある原因っていうものは、社会的要因っていうのはどこにあるだろうかっていう問題に到達することができれば、非常に重要なことであって、それ以上のことは個々の問題で解いていかなければいけない問題だと思いますけど、どうかしてそういうような問題に少しでも接近できたらっていうことです。
案外、実感でもって我々が感じていることっていうのは、直感的には非常に正当なことが多いのです。じゃあどういうふうに正当なのか、どうあるがゆえにそういうふうに感じられるかっていう基礎づけができるか、あるいは、一般的な基礎づけができるかどうかっていうのが、たぶん、その種の社会構造論とか、経済構造論とか、あるいは、国家の構造論とかいうものの基本的な課題だと思います。そうでなければ、これは経済学者の一種の学問的な研究のひとつにしか過ぎない、あるいは、政府、支配者っていいましょうか、国家の行政担当者がこうしたらこうなるだろうみたいなことを、よく理解するために、日本資本主義の構造がどうなっているのかっていうのを知りたいとか、そういう意味あいしかないと思います。
また、逆な意味あいでいいますと、反体制的な指導者が、いま日本の国家支配権力の構造はこうなっていて、資本主義はこうなって、どうなっているのだろうかってことを究めていって、そして、多少なりとも、それに対する対抗の方法っていうものの基礎づけといいますか、いずれにしても、経済学とか、社会経済分析とかいうものは、指導者の学であるか、それじゃなければ支配者の学であるか、どちらかであるわけで、もともとそういうものをなる気がない人たちにとっては、あまり、別にどうってことはないわけです。
だけども、ただ、どうってことないわけですけど、放っておくと、それは生活に響きますし、また、心理的な現象にも響きますし、また、文化生活環境にも響きますし、様々なことに響いてくるわけです。その響いてくる要因だけは、日々、誰もが実感しているわけで、その実感にできるだけ近づくっていうことが、この種の問題の課題だというふうに思います。
それがうまくできるかどうかわかりませんけど、そういう問題意識をとって、すこしやってみたいと思います。書いてきましたのは、これはぼくのカンニングペーパーでありまして、みなさんに必要なところは大文字で書いてあるところだけであるわけです。これがないと、カンニングペーパーをとりあげられて試験しろっていうのと同じですから、ひとつ前に出てやります。
現在、日本の資本主義及び国家が当面している様々な経済的な、あるいは行政的な要因っていうものを、すぐに考えてみるよりも、いくつか戦後に日本資本主義が辿った起伏がございますから、それについてざっと概観してみますと、だいたい日本の戦後社会は高度成長したっていうふうに言われているわけです。もう厳密にいえば、日本の戦後資本主義は非常に高度に成長して、いまや西欧の資本主義と同じレベルにほぼ達しようとしている。ある部分では、むしろ先んじているっていうふうになっているというふうに言われています。
それは、だいたい戦後に高度に成長した時期が二度ありまして、一度は昭和30年だから1955年ですけど、55年から36年頃にわたって、戦後の第一次の高度成長の時期だっていうふうに言われています。
この第一次の高度成長っていうのは、どういうふうなかたちで、つまり、どういうふうな特色で成し遂げられたかといいますと、それはひとつは、民間の企業の固定資本ですけど、資本設備ですけど、設備投資が強烈になされたっていうこと、そのために、高度成長の機運が作成されたってことが非常に大きな問題のひとつ、それから、もうひとつは、やはり大雑把にいいますと、重化学工業が中心に成長したっていうのが、高度成長期の第一次の非常に大きな特徴なわけです。
ここにデータがあげてありますけど、民間の設備投資の増加っていうのは、昭和30年は総需要に対して8.5%です。ところが、成長期の終わりの昭和36年には、8.5%が16.7%、つまり、2倍の設備投資っていうものが、あるいは、資本投下といいましょうか、民間における資本投下っていうのがなされています。つまり、ほぼ2倍にわたって設備投下がなされていると、その投下が高度成長の非常に大きな要因になったわけです。
それから、もうひとつは重化学工業に対して、つまり、軽工業よりも重化学工業に対して、非常に重点的に投資が大きくなって、つまり、重化学工業が大きな規模で発達していったっていうのが、第一次成長期の非常に大きな特色です。
これもちょっと例をあげてみますと、昭和31年、成長期の初めに、全投資額に対して、重化学工業に投資されたのが37.8%です。ところが、成長期の終わり頃は、全投資額に対して59%、ほぼ半分以上の設備投資が、資本投下といってもいいわけですけど、重化学工業になされています。つまり、第一次成長期に重化学工業を中心として、そして、設備投資だけでいえば、つまり、設備投資型ということでいえば、第一次高度成長期は急激に2倍程度の成長を成し遂げたというふうにいうことができます。
この成し遂げ方がどういうふうになされたかっていうことなんですけど、ぼくら個人でもそうですけど、住宅資金で銀行からローンを借りっていうようなことっていうのはありますけど、それと同じで民間の設備投資っていうのも、だいたいにおいて銀行借り入れです。内部資金でまかなわれるのはだいたい6割ぐらいだそうです。そして、その他は銀行借り入れでもって高度成長の設備投資をしているっていうことです。だから、個人でいえば住宅ローンを銀行から借りて家を建てたとか、そういうことと同じことです。この銀行借り入れに依存する度合いが非常に大きい高度成長だったことも、高度成長の大きな特色のひとつです。
それから、もうひとつ挙げるとすれば、それは、外国技術の導入っていうことです。それは、技術革新ということですけど、技術革新ということが、この第一次高度経済成長期を支えた大きな理由です。外国からの技術導入っていうことが大きな要因になっています。
具体的に例をあれしていきますと、だいたい昭和25年だから、成長期の5年前から5年経った後ぐらいまでなんですけど、25年から35年の間の技術導入の件数っていうのは、戦前までの全技術導入の件数とほぼ匹敵する、あるいは、ほぼ匹敵するっていうのは間違いで6割くらい多いっていうことです。わずか10年間の間に、明治以降戦前からの全技術導入芻に比べて、6割くらい多い技術導入が外国からなされています。それによって技術革新っていうことがなされたっていうことです。
技術革新っていうのは、様々な根拠を産業に対して与えるわけですけど、まず、皆さんのほうでひとつだけ特色をつかもうとするならば、いずれにせよ、技術革新あるいは技術導入っていうことは、生産性っていうものを高める意味合いをもちます。それがいちばん大きな要因です。そのほかにたくさんの要因がありますけど、とにかく生産性を高めるっていうことのために、技術導入あるいは技術革新っていうものがされるっていうことが非常に大きな要因です。
それらの要因っていうものと、それから資金的にみますと、もうひとつぐらいあげられるのですが、アメリカの東南アジアに対する、経済学用語でいえば、お金の撒布、ドル撒布、つまり、撒き散らすってことですけど、それを日本が東南アジア貿易によって回収したっていう、その回収した資金っていうもの、それが、非常に第一次高度成長期の高度成長を支えた大きな要因であるわけです。
こういう要因が、たとえば、みなさんがべつにそんなことは聞かなくたって、だいたい勘でもってっていいますか、実感でもってわかっていることと、あまり違わないことだと思います。つまり、これは重化学工業を中心に、そして、民間投資が非常に多大になされて、それでもって高度成長が遂げられたっていうことになります。それで、非常に大きな掴んでおくべき特色は、それは銀行借り入れ型だっていうこと、銀行借り入れ型だっていうことが非常に大きな要因だと思います。
みなさんに関係のあることでいえば、その成長期を働く者として、つまり、労働者として支えたっていうのは、西欧に比べて、日本は若い労働者がわりあいに低賃金で、成長に奉仕したっていうことだと思います。つまり、わりあいに年齢構成が西欧に比べてそうなっていまして、わりあいに若い労働者が低賃金で高度成長期に生産を支えたっていうことが、みなさんに非常に切実に関係が深い大きな要因だと思います。
この例をあれしてみますと、だいたい昭和35年度っていったら、第一次高度成長期の真っ只中ですけど、日本の労働者の賃金の平均はアメリカの7分の1、イギリスの3分の1、西ドイツの2分の1っていうような、たいへん格安っていいますか、低賃金であったことがわかります。
もうひとつ、賃金構成で、第一次成長期で大きな日本の賃金構成の特徴は、企業の規模によって賃金格差が非常に大きいっていうのが日本の特色です。労働市場の特色です。ですから、それもずいぶん高度成長期を支える大きな力だったっていうふうに思われます。それで、だいたいすこしあれしてきましたけど、従業員1,000人以上の平均賃金っていうのを100としますと、だいたい10人から100人、つまり中小企業でしょうか、小企業でしょうか、小企業ではだいたい56.1、つまり、1,000人以上の大企業の労働者の平均賃金に対して、中小企業の労働者の平均賃金っていうのは、だいたい半分ぐらいだったっていうことがいえます。これはやはり、高度成長期を所得賃金支出といいましょうか、そういう面から逆に大きく支えた要因になっていると思います。
第一次高度経済成長期っていうのは、だいたい1960年、あるいは61年頃に、だいたい終わりまして、それで、多少、成長が鈍ってきた時期があります。その鈍ってきた時期は36年から40年の間ぐらいに、だいたい該当します。この期間は成長が鈍ってきたっていうことです。
なぜ成長が鈍っちゃったかっていえば、ひとつは民間設備投資が停滞しちゃった、停頓しちゃった、つまり、鈍ってきちゃったっていうことが非常に大きな要因です。それから、もうひとつ、これは産業構造には関係ないです。国家にだけ関係あるんですけど、国際収支の赤字を背負ったために、国家が金融引き締めをやったっていうこと、それから、もうひとつ云えば、第一次高度成長期の生産力の市場ですけど、それはだいたい国内市場が基礎になっていたっていうことなんです。国内市場が主な市場だったっていうこと、つまり、一種の飽和現象といいましょうか、飽和現象に近い現象を呈したことが停滞の大きな要因だと思います。
もうひとつは、先ほど言いました、中小企業労働者の平均賃金が上がってきたわけです。見てみますと、昭和36年ですから、高度成長期の終わりですね、それはだいたい64.9%、つまり、大企業を100とした場合に64.9%、40年には77.6%、だんだん大企業の賃金並みに、だんだん中小企業の労働者の賃金が上がってきたっていうことなんです。上がってきたっていうことは、ただ上がってきたっていうことだけ云えば、どうってことないわけですけど、そのことは、西欧型のあるいは欧米型の賃金構成に近づいていったっていうことを意味しているわけです。
つまり、中小企業の低賃金が底辺にあって、大企業があって、それで資本主義を支えていくというような、そういう構造がだんだん西欧型のほうに近づきつつある過渡的な意味合いってもの、例えば、それだけじゃありませんけど、中小企業の労働者の賃金がだんだん大企業の労働者の賃金に近づいていったことの意味あいは、そういう意味あいを含むわけです。そういう意味あいで理解されるといいと思います。
だから、大雑把なことをいいますと、第一次の高度成長でだいたい日本は重工業中心型の、つまり、大工業中心型の高度成長を成し遂げたと、そしてそれがだんだんだんだん西欧的な資本主義の構造にだんだんだんだん近似していくにつれて、成長が停滞してきたってことというふうに理解すれば、大雑把な構図が頭に描けるんじゃないかというふうに思います。
だいたい昭和40年、つまり1965年はどん底の大不況だっていうふうに考えられています。戦後最大の不況だというふうに考えられていますが、その時期に、第一次成長期っていうものを基準にしていえば、成長は終わったっていうことなんです。それから、今度は第二次成長期を基準にした言い方ですれば、昭和40年頃を起点として、第二次成長期が始まったっていうふうな言い方をしてもいいわけです。同じです。
つまり、昭和40年の大不況があるわけですけど、その大不況に対して、どういうふうにして第二次の成長期へ移行してきたかっていいますと、ひとつは要するに危なっかしい株式市場のコントロール機関に対して、日本の中央銀行である日銀が緊急特別の融資を行ってテコ入れをしたっていうことです。
それから、もうひとつは、政府は赤字国債を発行して巨額の資本を国家及び地方団体の公共事業に投資したっていうことです。そのことによって、一種のテコ入れをしたっていうことです。つまり、資金面からのテコ入れをやることによって、不況っていうものを離脱させていったっていうことがあります。
それから、もうひとつ、それが直接のたぶん不況を脱して第二次成長期に上昇していく直接の原因はそういうことだと思いますけど、もうひとつ、影で重要だと思われることは、徐々に輸出比率っていうものが、徐々に増大して大きくなっていったっていうことなんです。ですから、政府及び民間企業の資金源っていうものが、輸出比率の状態でもって増えていきつつあったっていうことが、もうひとつ要因だと思います。
それは直接の要因ではないですけど、たとえば、昭和36年ですから、第一次成長期の終わり頃ですけど、その時には、輸出比率のパーセンテージをみますと7.8%、けれども、どん底の不況である昭和40年、それから、そこから第二次成長期にさしかかる時には10%ないし10.5%というふうに、輸出比率だけはだいたいにおいて緩やかですけど、増え続けていっていたってこと、そのことが第二次高度成長期、不況を脱して、第二次高度成長期へ脱出していくための、やはり影のっていいますか、後ろにある大きな要因だったっていうふうに考えることができます。
今度は、一般的に第二次高度成長期っていわれているものは、昭和40年、つまり、1965年から昭和45年、1970年頃、それをだいたい第二次高度経済成長期っていうふうに言っています。その時のGNPの成長率は12.2%、つまり、戦後最大なわけです。最大の成長率を示したわけです。この第二次高度成長期の特色っていうのはどこに求められるかっていいますと、やはり設備投資型の、それで重工業型の、重工業重点型の高度成長であるっていうことだけは、あまり変わりがないわけです。だから、そういう意味合いでは第一次成長期と形が同じなわけです。だけれども、いくつかの要因でもって、第一次高度成長期と違う要因が出てきました。
その違う要因っていうのは、いくつかあげてみますと、ひとつは日本の科学技術の進歩が非常に著しくなってきたってことです。そのために、もちろん、労働の生産性が増大したっていうことがひとつあります。
それから、もうひとつは日本の技術が技術導入だけではなくて、技術導入と導出っていいますか、日本からの技術導出といいましょうか、つまり、第一次の技術導入型とは違って、今度はやや技術導出型といいましょうか、つまり、技術導入もしますけど、導出もするという、そういうかたちがひとつ出てきたっていうことが第二次高度成長期のひとつ大きな特色だと思います。
ここにデータをちょっとあれしてきましたけど、技術導入のうち、新しい技術の割合は、減少した度合いは、第一次成長期の終わりには70%以上、ところが、昭和45年、第二次成長期の終わり頃ですけど、26%に、つまり、3分の1に減っています。つまり、導入した技術のうち、新しい技術と思われるものの割合の減少です。つまり、その割合だけ日本の国産技術が進歩してきて、国産技術が外国に導出される度合いと導入される度合いとの比率が変わってきたっていうことが、非常に大きな特色だと思います。
それから、先ほどもちょっと言いましたけど、技術の進歩による生産性の増大っていうことですけど、ちょっとデータをあげてみますと、たとえば、生産単位当たり労働時間の減少率、つまり、ある生産単位に対して短い時間で労働できるっていうことですから、つまり、生産性が増大したっていう意味ですけど、つまり、単位生産当たりの労働時間の減少率っていうのをとってみますと、昭和31年から36年に7.80%、ところが、41年、45年、つまり、第二次高度成長期には9.9%、つまり、一労働時間当たりをとってみますと、少ない労働時間で同一体の製品ができるという意味あいになります。だから、それもかなりな程度、生産性が高くなった、そのことが第二次高度成長期ってものの非常に大きな特色であると思います。
先ほどの第一次高度成長期も、第二次高度成長期と同じで、年間設備投資型で、かつ、重工業中心型だって申し上げましたけど、その例をあげてみますと、年間設備投資の増加のなかで、重化学工業が占める比率をとってみますと、昭和36年だから、第一次高度成長期ですけど59.2%、ところが、第二次高度成長期には64.1%というふうに、年間設備投資の増加の中に占める重化学工業の割合が、比率が増加しています。つまり、一般的に第一次高度成長期のそれが生き写しになったまま、それがより大規模に第二次高度経済成長期に持ち越されたっていうのが、第二次高度成長期の特色だと思います。
ところが、第一次高度成長期と違うことは、ようするに、労働の生産性っていうものは技術の進歩によって増大しているっていうこと、それから、導入技術に対して国産技術っていいましょうか、国産技術が発達したために、導出技術といいましょうか、輸出技術の割合もまた増大してきたと、そういうことが非常に大きな特徴になります。
それから、みなさんに非常に切実に関係のあるところでいいますと、第二次成長期に日本の労働者賃金は、だいたいにおいてヨーロッパ・アメリカに、だいたいにおいて追いついたっていうことがいえます。このへんも非常に重要なことです。
つまり、なぜ重要かっていいますと、ひとつは、だいたい第二次高度成長期っていうのが、日本資本主義が西欧型の、あるいは現在の世界における先進国型の資本主義にほぼ追いついたっていいましょうか、ほぼ同じ型のなかに入る、つまり、世界における最も先進的な資本主義国並みの状態に、ほぼ第二次高度成長期を通じて到達したっていうことがいえるからです。
ここに、まやかしのためっていったらおかしいですけど、多少は根拠があるようなことをいうためですが、日本の労働者の平均賃金を比較してとってみますと、昭和40年ですから、第二次高度成長期の始まりの日本の平均賃金は、時間当たり、1.15ドル、アメリカは高いです、3.36ドル、それから、西ドイツは1.63ドル、だから、西ドイツとほぼ匹敵します。フランスが時間当たり1.3ドル、だから、日本とほぼ同じです。イタリアが0.97ドル、イギリスが0.64ドル、そうすると、イタリア、イギリスよりは上位にあります。上位に到達したわけです。アメリカに比べて低いですけど、賃金は低いですけど、ほぼ西欧の賃金ベースに、日本の労働者の賃金は到達したっていうことがいえます。
平均賃金が到達したってことは、だいたい第二次高度成長期を経て、つまり、日本の資本主義が、ほぼ西欧のあるいはアメリカも含めていいわけですけど、アメリカの資本主義っていうものと、西欧の資本主義と、ほぼ匹敵する、肩を並べるといいますか、拮抗するといいますか、そういう状態に達したときが、第二次高度成長期だっていうふうにお考えくだされば、だいたいイメージが描けるというふうに思います。その間に第二次成長期にはベトナム特需みたいなものも、おおいに日本資本主義の成長を助けています。そういうことも大きな役割を担っています。しかし、なによりも大切なことは、重要だと思えることは、ほぼ第二次高度成長期において、日本の資本主義はだいたい西欧並みになったと、これは、だいたいにおいて、データで見ると、垣根なしに、そういうふうになったとお考えになることができるということが非常に重要なことだと思います。
だから、それ以降の日本の資本主義社会のことを考えることは、ようするに、だいたいにおいて、それがアメリカ及び西欧の先進的な資本主義社会において当面している問題を考えることと、だいたいにおいて同じ問題が出てきたというふうなことが言えるわけです。これが第二次高度成長期っていうものの問題の意味あいになります。
ところで、第二次高度成長期は昭和45年頃にピークに達しまして、それ以降はあまり芳しくない状態に入っていきます。芳しくない状態っていうのが、みなさんが現在、実感しておられる状態です。つまり、給料、賃金がそれほど上がっていかないと、しかし、物価は上昇をやめない、つまり、インフレは止まないと、しかし、それに伴って賃金が上がるかっていうと上がらないと、インフレにともなって失業者が少なくなるかっていうとそうでもないと、失業者はかえって増え気味であると、そういうのはみなさんが現在実感しておられる状態、つまり、もっと生活実感に近づけていえば、かなりいいものを食って、遊んだりなんかもしているんですけど、だけど、絶えずピーピーしている感じっていうものが伴うっていうのが、みなさんの実感だと思うんですけど、その実感の根拠になっているのは、第二次成長期の成長がストップしてしまって後、物価の上昇はかなりなだらかなんだけど止まないと、失業者は増えると、少しずつではありますけど増えていくと、それから、もうひとつは、それに比べて賃金はさっぱり上昇しないと、そういうみなさんが当面している状態は、第二次高度成長が停滞した以降の、いわば日本資本主義の当面している問題を、非常に大雑把な言い方をしますと、反映していると言っていいと思います。つまり、その反映していることが何であるかってことが非常に大きな問題になっているわけです。
これは世界的な現象でして、この時期を専門家は、ぼくは専門家じゃなくて素人ですけど、専門家はスタグフレーション、スタグフレーションっていうのは、インフレーションとスタグネーション、つまり、経済的停滞っていうことです。つまり、景気が停滞するとか、成長が停滞するっていう、経済的な停滞と、それからインフレーション、つまり、物価上昇とが同時に起こっているという意味で、それを二つ合わせた言葉で、スタグフレーションと呼んでおります。
だいたいスタグフレーションの時期に世界中の資本主義っていうものが、だいたいそれ以降入っていったっていうのが、現状の認識です。つまり、現在の問題。このスタグフレーションっていうのは何か、そして、それはどういう原因なのかっていうことが、経済学者が血道をあげて、それぞれ考えたり、じぶんの説を出したりしている問題です。その問題について、いくらか言及してみたいと思います。
ところで、それに言及するにはどうしても、高度になった世界の資本主義っていうものが、どういうふうな仕組みになっているかっていうことを、そういうことをどうしても予備知識といいますか、どうしてもその前提がいるんです。それで、まず、その前提をお話しておいて、そして現在、みなさんの生活実感に横溢している根拠になっているスタグフレーションというのはどういうことなのか、それはどうしたらそれが抜けられるのか、経済学者、それから支配者っていうのは、つまり、政府国家機関っていうのは、どう考えるかってことをお話ししてみます。
どうしても、日本の資本主義ももちろんそうですけど、世界の資本主義について、とくに現代の世界の資本主義を理解するには不可欠なんですけど、資本主義という概念は、ある時期から、それぞれの国家が管理する資本主義というものに移行しております。これは資本主義の勃興期には、無意識のうちにそれぞれの資本家が自分の利潤を得るために、あるいは、じぶんの企業の利潤を得るために、自由競争をしてどんどん落ちるものは落ちる、それから、自由競争をして膨れ上がるものは膨れ上がる、つまり、自由競争の原則のもとに経済が行われていたっていうのが、初期の勃興期の資本主義のイメージであるわけです。
その勃興期の資本主義のイメージの下では、競争は自由であり、それから、それに対してなんらの制約も起こらない。従って、無意識のうちに、つまり、自然現象のように、たとえば、十年なら十年おきに恐慌が起こるというように、つまり、無意識のうちに経済現象が恐慌と循環をやってきた。
それは、なぜかといいますと、自由競争に委ねられた経済現象から必然的に由来するわけです。ところで、ある時期以降から、具体的にいいますと、世界の資本主義国が全部、戦後に入ってから、具体的にはそうなんですけど、戦後に入ってからの資本主義というのが、自由競争を原則としている資本主義ではなくなってしまったわけです。
それは何かっていいますと、それぞれの国家がコントロールする資本主義というように変わってしまったわけです。資本主義のイメージは変わってしまったわけです。だから、資本主義っていうのは自由競争っていうことではありません。つまり、現在では、資本主義っていうのは、国家がコントロールするところの資本主義というように変わってしまいます。これが、現在の資本主義の問題です。
この現在の資本主義の問題、国家がコントロールしている資本主義の問題っていうふうに考える場合には、資本主義という意味あいは二重の意味をもちます。ひとつは文字どおり、資本家がいて賃労働者がいて、労働者が余計に働いた分は剰余価値として資本家の手元に入って、資本家はそれを設備投資したり、じぶんのポッケに入れたりっていうような、そういう意味の資本主義です。
それから、もうひとつはそうではなくて、剰余価値を生み出し、そして、国家がなんらかの意味でそれをコントロールし、社会主義の場合には、社会的分配も国家が司りますけど、そのような場合でも、剰余価値を生んで、そしてその剰余価値を国家がそれを分配するとか、コントロールするとか、国家固有の収入を得るとか、そういう意味あいで資本主義と言った場合には、これは現在の社会主義国ももちろん含まれるということです。つまり、そういう場合には、資本主義という言葉は、現在の世界の経済の現象を意味します。
だから、資本主義というのは、資本主義固有の資本主義、つまり、儲け主義という、資本家が儲け、そして、労働者をかっぱらってという意味あいの資本主義と、それから、そうじゃなくて、なんらかの意味で、労働者が働き、そして、その剰余価値を生みだしたものを国家がそれを管理し、そして、分配も国家が管理するかとか、分配も国家がやるかどうか、あるいは、そうじゃなくて、国家は自分なりのコントロール装置をもっていて、時に応じて、それを行使したり、取り止めたりするかどうか、それは資本主義国と社会主義国とは違いますけれど、しかし、普遍的な意味で資本主義という場合には、それは賃労働があり、剰余価値が生みだしっていう、生産が行われているという意味あいに使えば、それは普遍現象だっていうことがいえます。
ですから、みなさんは国家が管理した、コントロールする資本主義というふうに資本主義の段階が進んだ段階を問題にするときには、この資本主義の問題はいくらかイメージを変えると、社会主義国に適用できるというふうにお考えになることが大切だと思います。これは、経済学者がよく言わないことなんです。ご本人はそう思っているんですけど、よく言わないことです。ぼくは素人だから、それを認めますけど、そういうふうに国家が管理する資本主義、あるいは、国家によって剰余価値を召し上げて、それを社会主義に分配して、分配を国家がやると、こういうふうになった以降の資本主義という意味あいには、二重の意味が含まれている。普遍的な意味と、それから特殊な意味と、両方が含まれているということを頭のどこかに置いておかれるとよろしいんじゃないかと思います。そうじゃないとイメージが狂います。だから、そういうふうにお考えになるとよろしいと思います。
国家がどのように具体的に資本主義をコントロールしているかってことなんです。このことが理解できれば、みなさんはそれ以上のことはいいわけなんです。それ以上のことはあとは支配者に任せれば、任せるっていうか、やらせればいいわけで、それに責任を負うことはないといえばないのです。だけど、このことだけは、よく頭に入れておかないといけないと思います。よく知っておくということの意味あいはそういうことになります。つまり、それはよく入れておいたほうがいいと思います。
これは、どういうふうに国家が資本主義をコントロールするか。その場合、ぼくは文学者ですから、みなさんのほうがよく知っているんですよ、知ってるけど挙げさせてください。つまり、国家がどういうふうに資本主義をコントロールしているか、みなさんがよくご存じのようにいくつもあります。つまり、タコの足のようにいくつもあります。でも、主な足っていうのはいくつかに決まっています。
あげてみますと、第一は国有化です、国有化っていうのは、いまでも塩とか、タバコとか、郵便もそうでしょ、それから、鉄道の国有鉄道もあるでしょ、そういうのは初期において国有化されています。それから、現在では、日本はそれほどあれじゃないんですけど、軍事、重工業、エネルギー、あげてみましたけど、自動車、そういうようなものは国有化になっているところがあります。例えば、フランスなら大きな自動車会社っていうのは国有化になっています。西ヨーロッパでは全産業の25%ないし30%が国有化になっています。ですから、国有化ってことも国家が資本主義をコントロールする重要な要因のひとつです。
日本ではいまのところあまり重要ではないです。でも、ヨーロッパではたいへん重要です。なぜならば、30%ぐらい国有化されていますから、奇妙な人たちは、社会主義っていうのは国有化のことだと思っていたりするんだけど、そんなことは関係ないです。国有化っていうことがあります。
それから、だいたい公益企業をコントロールしています。たとえば、電気会社、バス会社、鉄道、航空機、放送、NHKみたいな、国家がしていないですけど、コントロールしています。公益企業をコントロールしています。
それから、法律的な国家としては、独占禁止法というのがあります。つまり、資本主義を自由競争に委ねてしまえば、だいたい強い資本が弱い資本を蹴落としていって独占企業になっていきます。そうすると、そのイメージは初期の資本主義のイメージであって、戦後には通用しないわけです。だから、独占禁止法というのを国家がもっています。それでもって、資本主義が独占的な系列化されることを禁止しています。それでもってコントロールしています。
社会保障は健康保険から始まって様々な年金制度みたいなものがございましょう、そういうようなものは国家が資本主義をコントロールしていることのひとつです。なぜならば、みなさんの給料の中からちゃんとさっぴかれているんだから、さっぴかれている費用は国家が収益して、それでもって社会保障につぎこんでいるわけですから、これはあきらかに国家が資本主義をコントロールしている通路のひとつです、あるいは、手のひとつです。
それから、もうひとつは公共投資、それから財政的な投資・融資です。これは大企業が困れば、たとえば第一次成長期が終わったときに、不況の時には、第二次成長期に入る時に、山一證券やなんかに日銀が緊急融資したなんていうのも、つまり、国家が財政融資をしたわけです。つまり、国家が財政融資をして株式市場をコントロールして救済をするわけです。あるいは個々の企業についてもそういうことはいえるでしょう。
それから、もうひとつは通貨の管理です。つまり、通貨の発行を絶えず一定量にすることによって、その時々、加減することによって、資本主義の投資資金を絶えずコントロールするみたいな通貨管理ってことも国家はやっています。
それから、累進所得課税っていうのがあります。これはみなさんも具体的によく知っているはずです。所得課税っていうものを徴収すること、これは所得課税ですから、つまり、資本主義が、景気がよくて、成長率が高くて、たくさん儲けているときには、所得がたくさんあります。所得がたくさんありますと、所得税をたくさん取ることができます。成長期で国民所得っていうのが増大したときには、たくさんの税金が得られるようにつくられています。それを蓄積して、もし景気が悪くなったときには、これを財政融投資とか、公共投資とかをして、それを補うっていうことなんです。そういうバランスをとるために累進所得課税っていうのがあります。
それから、もうひとつは農産物の価格に対する国家の介入があります。農業生産物価格っていうのをどういうふうに国際的・国内的に決めていくかっていう問題に対して、国家がある程度介入して、こう決めるとか、ああ決めるとか、いまの俗な風景でいえば、農協が陳情に行って、どうだこうだというような、よく季節ごとにあるでしょ、農産物価格に対して国家が介入するっていうことなんです。国家の介入を自分の都合のいいようにうまくやろうってことなわけでしょうけど、そういうことも国家がコントロールすることがある。
あと銀行預金・保険制度、それから、今度はみなさんに関係のあることでは、団体交渉制度っていうのがあります。あるいは、労働基準法っていう制度があります。それによって、労働者の生産性とか、それから、再生産性とか、そういうようなものをやはりコントロールしているわけです。
ざっと数えただけで、これだけの触手といいましょうか、足といいましょうか、手といいましょうか、手でもって国家は資本主義に対して介入していますし、それに対するコントロール機関も持っています。コントロール機関として、日本の資本主義を考える場合に重要なのは、この囲いの中にある通貨管理とか、累進所得課税とか、公共投資、財政融資とか、社会保障、独占禁止法、公益事業のコントロール、国有化もそうかもしれませんけど、そういうようなものが、だいたい主要国家が資本主義に介入していることの非常に大きな重要な意味をもった介入の仕方、つまり、コントロールの仕方っていうふうにいうことができます。
もちろん、世界の先進的な地域では、まったく同じように、こういうコントロール機関があって、国家が資本主義に介入しております。もちろん、介入の特殊な場面は、それぞれの国家にとって固有でありますけど、だいたい、このやり方は同じです。社会主義国だったら、もっと国家がめり込んで管理しています。多少の対応の違いがありますけど、だいたいこういう国家が資本主義に介入しているっていうのが、いわば高度になった、具体的には、戦後になった資本主義の、非常に高度になった資本主義の一般的な行動だっていうことが重要なことになるわけです。
そうしますと、国家がなぜ資本主義社会に対して介入していくかっていう、国家が介入する理念といいますか、どういう理念でもって国家は資本主義に対して介入していくかってことなんです。それは、初期資本主義、たとえば、(テープ飛び)その大恐慌の結果出た資本主義が得た教訓なので、つまり、自由競争に委ねていたら、資本主義は必ず、経済学でいえば、10年なら10年の周期で恐慌がやってくると、それがうまくない場合には、資本主義自体の崩壊になりかねない、そういうものは1923年の教訓に基づいて、資本主義といえど自由競争に委ねるのでは、資資本家たちの自由競争に委ねておいたら、絶対、成り立っていかない。これは、絶えず危ないんだっていうことがひとつあります。
それから、もうひとつの教訓は、資本主義といえど、いかに完全雇用っていうのをいかにして実現するか、あるいは、福祉とかいうものをいかにして実現するかってことも、やはり、資本主義の理想として掲げるならば、これを実現するためには、どうしても資本主義を自由競争に委ねといてはダメなんだっていうのがひとつあります。必ず国家が介入してそれをコントロールする。それが、国家が介入する理念のひとつです。
だから、不況期になりますと、景気が悪くなりますと、税収入が減少します。それで、税収入が減少しますけど、国家っていうものは、赤字財政でも構わないから、そのときには公共投資なんかを資金投資することによって、そして、景気を刺激することによって、景気を上昇させるっていうこと、そういうコントロールをします。
それから、景気が成長期で非常に著しくて、過熱した場合には、もちろん必然的に税金は増収入されることになります。所得税が増収されることになります。財政もそういうときには黒字にしておくわけです。黒字にして貯めておくわけです。国家が貯めておくわけです。それで、不況期になったら公共融資をするとか、あるいは、公共事業を起こすとか、そういうふうに国家が人為的に財政を投資して、そして、不況期を切り抜けるっていう、そういうコントロールをしなければ、資本主義っていうのはダメなんじゃないかっていうのが、国家が介入する理念のひとつです。
それから、もうひとつの理念のひとつは通貨です。国際通貨ですけど、通過を国家が管理するっていうことなんです。通過を国家が管理することによって、どういうことが得られるかっていいますと、通貨をどう発行するか、どうするかっていうことについて、外国からの影響っていうものをコントロールしたり、緩和したりすることができるっていうことなんです。
これはどういうことかっていいますと、これ以前の、つまり、通貨の管理制度以前には、金本位制っていうものを資本主義はしいてきたわけです。金本位制っていうのは何かっていえば、それぞれ各国が保有している金の額に応じてだけしか、通貨が発行できないっていうことなんです。いつでも保有している金に匹敵する量の通貨だけしか発行できないということなんです。そうすると、その通貨発行額というようなものを国内の需要に応じて発行できるのではなくて、もし、たとえば、アメリカならアメリカの資本主義のように金保有量がたくさんあるところで、だいたいにおいて、そこで通過をコントロールされちゃうっていうことなんです。
そういうコントロールを緩和するには、金本位制っていうのをやめて、金の保有量がいくらであるとかいうことは関係なく、国家が管理して通過を発行したり、発行を増大したり、減少したりすることができるようにさせるっていうことが、通貨を国家がコントロールする、管理する、ひとつの理念であるわけです。
この二つの大きな理念に支えられて、資本主義というのが、具体的にいえば戦後資本主義以降、第二次世界大戦以降になってから、国家が介入する、あるいは、国家がコントロールする資本主義というものにイメージが変わっているということです。ですから、そこでは、野放図な自由主義の原則が保持されているわけでもありませんし、自由競争の原則が保持されているのではなくて、絶えず国家がコントロールしている資本主義だっていうふうにいうことができます。
いま申しあげました、図でいいますと、介入の仕方の重要な手ですけど、この介入の仕方の重要な手が、いわば、国家と資本主義とを接続する一種の装置であるわけです。あるいは、みなさんの、人間の体でいえば呼吸器官であるわけです。ですから、不況の時には息を吐き出して、国家から資本主義へ国家資金を流出するっていうことです。そして、呼吸困難などを助けるっていう、それから、逆に呼吸過剰といいましょうか、呼吸過剰な場合には、国家が所得税金みたいなものとして、資本主義から累進所得税みたいなものとして、資金を吸収するっていうこと、そういうコントロールであり、同時に国家と資本主義とを接続する装置として、こういう装置がどこの資本主義でも現在は存在しています。
これは、経済学者がビルト・イン・スタビライザーと呼んでいるものです。つまり、自動補正的安定装置っていうふうに呼んでいるものです。つまり、その自動補正的安定装置を介して、国家が資本主義といつでも呼吸を通わせているといいましょうか、下半身が病んでいるときには、酸素を送り込むと、それから、下半身が健康だけど、頭のほうが健康じゃないという時には、頭のほうに血を分けてやるとか、血を補給するとか、そういう意味あいでいえば、いちばんわかりやすいんですけど、そういう装置でもって、国家は資本主義と接続をもっています。接続装置を持っていて、そこで連携していくというのが、現代の世界の資本主義の大きな特徴になっているわけです。もちろん、社会主義国では、この接続装置はもっときわめて密接かつ直接的だっていうふうにいうことができます。でも、この呼吸装置っていうものは、だいたいにおいて、世界の最も先進的な地域で行われている資本主義と国家との構造的な接続装置に依存して、このビルト・イン・スタビライザーに依存して存在しているわけです。
なぜ国家と資本主義のあいだに自動安全装置みたいな、こういう自動補正的安定装置っていうものが、どうして成り立っているのかっていうふうにいいますと、先ほど申し上げましたとおり、ひとつは租税依存度が、国家予算の中に占める租税の依存度が、租税が依存する度合いが非常に大きいということが自動補正装置の役割をなしている大きな柱です。
つまり、どうしてかっていいますと、国家予算は租税依存度が強ければ強いほど、つまり、産業が資本主義が不況時代で総所得が少ないときには、あるいは、総生産が少ないときには、税収入が少ないですから、国家が自動的に租税依存度が強ければ強い予算が組まれているほど、いわば自動的に、国家が敏感に資本主義の不況か活況かっていうことを敏感に反応することができるから、そうしたら、それに対する対策をすぐに資金融資みたいな形で国家が資金投下する。あるいは、赤字公債を発行して資金投下するみたいな形で、すぐに赤字信号を解消することができるからです。つまり、租税依存度が高い、大規模な予算を持っていること、それ自体が安全装置であるということがいえます。その構造自体が安全装置にとって重要だっていうことがわかります。
もうひとつは、みなさんに関係のあることでいえば、源泉徴収制度っていうのがあるんです。つまり、給料明細書から、ぼくは引かれてるんですけど、この源泉徴収税っていうのは、初めから給料をもらってると自動的に引かれるっていうのがあるでしょ。つまり、それも給料が高い人が高く自動的に引かれるわけですし、低い人は低く引かれるわけですし、また、給料が上がるとわかったら引かれるわけで、それはみなさんがもらうときにはすでに引かれているという形で、年末調整っていうのはあるかもしれないけど、そういうふうに引かれちゃっているっていう、その自動補正装置にとっては、非常に重要なことのひとつになります。
それから、社会保障や農産物価格費など、つまり、移動性が強い支出ですね、つまり、変動が強い支出が相当な比重を占めているってことは、必然的に自動補正装置の役割を果たします。なぜかっていいますと、これは考えればすぐにわかることで、たとえば、経済状態が貧困になって失業者が増えた。そうすると、失業者が増えれば、社会保障のひとつである失業保険の支出がすぐに増えていくことがわかります。ですから、それもまたひとつの国家がこれはいかんとか、これはいいとかいうことの信号の役割を大きくするためには、つまり、明示にするために、社会保障制度っていうのは非常に大きな役割を果たしています。
たとえば、失業が増えれば、失業保険を取る人が多くなりますから、国家はすぐに社会保障費を流出しますから、そうすると、失業はこのくらいだって、このくらい以上増えたら危険じゃないかっていうような信号がすぐにやってきますから、必然的に安定装置といいましょうか、安全装置といいましょうか、安全装置の役割を果たしているわけです。
ですから、これらの国家財政、あるいは国家予算財政の構造っていうものが、いずれにせよ、資本主義の生産性と非常に依存度が大きい、そういう国家予算の組まれ方が、あるいは、構造が採用されていますから、それによって、国家がいつでも、資本主義がどうなっているか、不景気になっているか、失業者がどう増えたから社会保障費がこれだけ増えたとか、あるいは、景気がいいから、所得に従って税収入がこれだけ増えた、これは相当な成長率があるとか、そういうことを絶えずいつでも国家はそれを判断できるような信号機をもっていることになります。それがいわば、資本主義と国家とをつないでいる一種の安全装置であり、またパイプであり、またコントロール機関であるわけです。そのことによって、国家は資本主義に対して介入しているっていうことができます。
ところで、いまのような国家と資本主義の接続装置に一種欠陥を生じてきた、つまり、一種それが欠陥なんじゃないか、つまり、そこに病気ができたんじゃないか、そこが病気ができたんじゃないかっていう現象が第二次高度成長期以降にあらわれたわけです。これは、これは日本だけじゃなく、世界の資本主義のうち、一様に高度の資本主義、つまり、先進諸国に一様にあらわれた現象なんです。
その現象は何かっていいますと、いま言いました、国家と資本主義をつなぐ安全装置に故障が起きたんじゃないか、あるいは、病気になったんじゃないか、これは専門家では様々なことを言う人がいて、じぶんの希望的な観測でいう人は、これは癌じゃないかっていう人もいるわけです。それから、これは風邪にしかすぎないよっていう人から、これはちょっと十二指腸潰瘍じゃないかっていうような人とか、たとえてみれば、さまざまな説が乱れ飛んでいるわけですけど、その乱れ飛んでいる現象と、みなさんの現在、少なくとも、生活実感のなかで経済的な意味あいが占めている部分で、みなさんが実感している部分をつなげる一番根本にあるのは、いま申し上げました、国家と資本主義を接続する安全装置、あるいは、自動補正装置にどういう故障があるか、あるいは、いずれにせよ、故障があるっていうことは確からしいということと、みなさんの生活の経済感とが、非常に大きな関係があるということをつかんでいただければ、今日のお話は7割終わったと同じだということになります。
その現象は具体的にいいますと、世界資本主義は具体的にいいますと、昭和46年、つまり、1971年のニクソンショックっていうのと、それから昭和48年、1973年の石油ショックっていうのと、その両方を契機にして、いまの病気がここにあるんじゃないのか、のど元にあるんじゃないのかっていうことの問題が顕在化してきたわけです。それ以前からもちろんあるわけですけど、しかし、顕在化するきっかけになったのは、71年のニクソンショックと73年の石油ショックなわけです。
71年のニクソンショックっていうのは何かっていいますと、これは先ほど言いました、国家がなぜ資本主義に介入するかっていう問題のひとつの大きな柱であり、具体的な通貨の基金協定制度があるわけですけど、その制度が実質上崩壊したっていうことなんです。実質上崩壊したっていうのは、どういう崩壊の仕方をしたかっていいますと、国際的に各国がそれぞれ自分の国家の管理によって通貨を自由に発行したり、減少させたりすることができる装置をつくりますと、各国の資本主義はぜんぶ国家主義的になってきて、国家利益が優先して、国際的にどう不協調ができようと、不協和ができようと、そんなことは構わないということになるというのが困るということで、国際的な通貨基金制度というものをつくったわけです。
国際的な通貨基金制度の基礎になったのがアメリカのドルなわけです。アメリカのドルを基本としてそれにそれぞれの割合でもって出資をして、それから金を出資して、それから通貨も出資して、そして基金制度をつくろうと、出資している国は全部そこから借り出しもでき、国内が困ったときには借り出しもできるようにしようというふうになっていったわけです。
ところが、その基になるのはアメリカのドルにしようということに決めていったわけです。ところが、アメリカ自体からいいますと、国際的に政府としてのドルと、それから、国内のアメリカ国家を管理している国内通貨としてのドルと、二重性をアメリカだけがもっていることになります。だから、アメリカ自身の国内の不景気っていうもの、景気後退、成長の停止っていうものが起こって、アメリカ国家が赤字になった場合に、もし、ほかの黒字の国家が、おれのところからお前のところに、おれのところの通貨っていうものを金に変えろって、ドルを金に変えてくれって言った場合に、アメリカに国家予算の赤字がこんでしまって、支払い要求されるドルをアメリカが自分の保有金でもってそれを支払うことができなくなったっていうことがあるわけなんです。
そこでもってニクソンが「おれはやめた」って言ったんです。つまり、おれは国際通貨ってものを金と交換してやるなんてことをやめたと、こういうふうに言ってしまったわけです。ほかの国から、お前のところから輸入超過いくらある、これをお前のところの金に変えてくれって言った場合に、いつでも金に変えることができなければいけないわけですけど、変えてやらないっていうふうに、アメリカ自身が不況になったために、変えてやらないっていうふうにニクソンが宣言したわけです。
だから、実質上、そこで通貨基金制度が崩壊してしまったわけです。国際通貨基金制度は、いわばある意味で、先ほど言いましたように、それぞれの国家と資本主義とをつなぐ安全装置のひとつの大きな支柱ですから、通貨制度っていうのは、ですから、それの一方の柱はすぐには響かないんですけど、しかし、その制度が崩壊したっていうことは、それぞれ勝手だろっていうことになっていったっていうことを意味します。つまり、おれの国のことはおれの国でやるんだから、勝手にやるぞっていうことになったと同じことを意味します。つまり、ここに国際通貨基金制度があって、ここを介してしか、お金を引き出したり、また、入れたりすることができないとなって、それをやめてしまったらば、それぞれの国家は勝手に自分の通貨を発行するのに、自分の国家だけでやるぞと、国際的にどうなろうと知らないと、そんなことは知らないぞっていうふうになったと同じことを意味します。だから、ひとつの大きな問題になったわけです。
それから、もうひとつは、みなさんがよくご存じの、ようするに石油ショックっていうやつです。OPECが協定して、従来の石油価格の、経済学者がいうところの4倍以上の価格を決めてきたわけです。そして、その決めてきたことが各国の資本主義の産業に対して大きな影響を与えたわけです。たとえば、ここに例をあげますと、昭和50年、48年、石油ショックから50年にかけて、先進国全体の鉱工業生産がだいたい11%落ち込んだっていうふうに、そういうデータがあります。そういうデータがあるほど非常に大きなショックを与えたのです。
そのふたつのショックを、46年と48年のショックを契機にして、いわば、国家と資本主義との間をつないでいる安全装置に、どこかに病気なところがあるんじゃないかっていうような問題が出てきたわけです。その出てきた現象を、経済学者たちは、スタグフレーションというふうに呼んでいます。それは停滞的なインフレという意味あいになります。
スタグフレーションというものを説明するには、いくつか方法があると思います。ひとつの説明は、従来の資本主義においては、インフレになってくると、だいたい失業者数っていうものは減ってくるっていうこと、それでインフレになって物価が上昇してくると、そうすると、失業者の率は減ってくると、逆に失業者の率が減ってきたときにはインフレになって物価が上昇するっていう、そういう関係があるというふうにされていたわけです。
この関係は双曲線を描くというふうに言われています。双曲線を描いて関係があると、だから、失業者の率を横の軸にとりまして、物価上昇率を縦の軸にとります。つまり、インフレ率を縦の軸にとりますと、だいたい双曲線を描いて関係があると、そうすると、失業者が少ないことは0点から近いわけですから、こういうふうにグラフをとりますと、こういうふうになります。つまり、物価上昇率が高いと、失業者が増えますと、この辺ですから、縦軸が低くなります。つまり、物価上昇率は減ってきます。だから、失業者の数と物価上昇率とは関係があるっていう曲線を描くっていうふうにされていたわけです。
ところが、物価が上昇するのに失業者率が増えてしまうっていう現象が生じたわけです。つまり、これがスタグフレーションというものを測る、ひとつの大きな尺度になります。だから、現在でも失業者率は少しずつ増えています。そして、物価の上昇も少しずつ増えています。つまり、インフレ的な傾向も増えていると、それなのに失業者数も増えていると、そういう現象が生じてきたわけです。その現象っていうものは何なのかは後で申し上げまして、つまり、そのことがスタグフレーションっていうことの大きな指標になります。
これはどこかに国家と資本主義とをつなぐ安全装置のどこかに故障ができたんじゃないか、この安全装置が正しく働いている間は、だいたいにおいて、物価上昇と失業者数っていうもののコントロールができるはずじゃないか、しかし、それができなくて、失業者率も多くなる、物価上昇も多くなると、つまり、みなさんの生活の経済実感でいえば、なんとも言えない奇妙な実感になるわけです。なんともおもしろくない実感です。
不況だっていってドタッて押し込んで、どういうことがあったって賃金上昇を勝ち取ろうじゃないかってならないし、さればといって、生活はちっとも賃金があまり上がらなくて楽にならないというのが、みなさんの労働組合が一様に当面している問題でしょう。つまり、少しもスッキリしないでしょう。ほんとうに物価上昇がものすごくて、賃金が停滞して、こうだったらどんなになってもやろうっていうふうになりますし、また、非常にインフレだ、インフレだ、お金がザクザク入ってくるっていうような、それですこし遊ぼうじゃないかって、これは物価が高いけど気晴らしができると、こういうふうになるわけですけど、みなさんが経済実感として生活を日々、実感しておられる実感はそうじゃなくて、煮え切らないわけでしょう。訳がわからんっていう、つまり、煮え切らないから、賃上げ闘争やろうって言ったって、みんな付いて来はしない、ほんとうは知りませんよ(笑)、理論的にいえばです、理論的にいえば付いてこない。みんな右傾化するみたいになってるでしょ、あれは何かっていったら、右傾化っていうけど、じゃなくてスッキリしないわけです。つまり、景気がよくて、おれはもう労働者は嫌だって、労働者じゃねえ中産階級市民だって、こういうふうに金はザクザクあるんだっていうふうに、賃金がザクザクあるんだっていったら、それで闘争をやらないのは本当の右傾化ですよね。だけども、そうじゃないんです、いまの右傾化っていうのはそうじゃない、つまり、スッキリしないんです。また、みなさんの中で、非常にラジカルな組合の闘士がいて、盛んにやるんだけど、サッパリ付いてこないっていうのはどうしてか、ほんとうに付いてこないかどうかは知りませんけど、つまり、そういうスッキリして、俺はやろうといえば俺はやると、やらないんじゃとにかくこれじゃどうしようもないよって、だから何が何でもやると、こういうふうに少しもならないと、こういういずれにもならない、こういう状態は、生活実感の状態は、基本的には何に起因するかっていうと、このスタグフレーションに起因するというふうに考えられたら、わりあいに考えやすいんです。
それは、すぐに直結するとは、すこしも言いません、つまり、個々それぞれ事情がありますし、状態もありますし、生活環境があります。それぞれみんな固有の根拠もありますし、固有の理由も控えていますから、そんなに一概に言えるのではないのですけど、みなさんの生活実感を潜在的なところで、沈んだところで、どこかで物を云っているシステムの問題があるとすれば、そのシステムの問題はスタグフレーションにあり、スタグフレーションの問題は、国家と資本主義との接続点のコントロール装置の病気にあるというふうに理解されると、わりあいに、慰めになるじゃないですけど、そうかこういうことかってことで、こういうことならやりようがあるっていうふうに考えられる人もいますし、こういうことだったら諦めようかって人もいるわけでしょうし、それにしても様々でしょうけど、そういうことは知らないより知っておいたほうがよろしいんじゃないでしょうか。それがスタグフレーションのひとつの説明の仕方です。
それはいまの国家的規模での繰り返しの説明の仕方になるわけですけど、つまり、生活実感とか、生活規模とか、そういう問題じゃなくて、国家的な規模でいまの問題をいいますと、国家のコントロール装置をどう働かせても、景気も上昇しない代わりに、インフレも収まらない。それでインフレを収めようとすれば、ものすごい深刻な不況にさらされ、それから、失業者は増える、それで労働状態は沈滞すると、どっちをどうすることもできないというような状態になるっていうのがスタグフレーションだっていうふうに、国家規模でいえばそういうことです。
つまり、国家と資本主義との接続装置のどこかの構造に、いわば欠陥を生じた、あるいは病気を生じたという問題になっていきます。日本の場合、全体的なスタグフレーションに、いくつかの特徴を挙げることができますけど、その特徴をいくつかあれしますと、だいたい重化学工業が低迷して、停滞して、つまり、成長をやめているっていうことが非常に大きな特徴です。これは、たぶん日本だけじゃなくて、どこの資本主義でも特徴だと思います。
それから、それにもかかわらず、成長期のピークを上回っている部門があります。それは電気機械、電気機器、精密機械、それから、自動車産業です。これは、みなさんがよく新聞なんかでご覧になる、それでよくおわかりだと思いますけど、その部分だけが、だいたい以前のピークを上回った生産を、生産量も、生産規模も維持していることがあります。これは、たぶん、輸出向けっていうことが非常に多いんじゃないかと思います。それから、国内的にいいましても、技術革新で、生産工程を機械化するとか、工業化するとか、そういう問題にまで需要があるんだと思いますけど、この電気機器とか、精密機械、自動車産業だけは、だいたいスタグフレーションの時期なんですけど、以前よりも大きく上昇気運に依然としてあるというのが特徴だと思います。
だいたいそれで失業者数っていうのをみていきますと、求人倍数に対して半分だっていうふうに、求人倍率が半分だっていうふうになってっていうのは平均の倍率です。これも新聞などをよくご覧になれば、よく出ておりますけど、倒産件数が非常に大きくなっていると、それから、倒産会社の規模が大きくなっているということ、つまり、中小企業の下請けで占められていたところだけが倒産したっていうのではなくて、倒産の件数も多くなったけど、倒産する産業、あるいは、株式会社の規模が大きくなっていることも特徴だと思います。
それから、もちろんスタグフレーションですから、物価が根強く上昇っていうものをやめないっていうことが、日本のスタグフレーションの大きな特徴だと思います。つまり、これらの特徴が、だいたいにおいて、日本資本主義が陥っている、あるいは、日本の国家コントロール制資本主義が陥っている大きな病気といいましょうか、大きな失調状態の特徴だっていうふうにいうことができます。
今度はスタグフレーションっていうのはどうして起こるのかってことの原因と規定なんですけど、これは様々な経済学者及び国家が、つまり、いまの国家だから自民党の経済担当部門とか、経済企画庁とか、そういうところにいる人達でしょうけど、つまり、国家も自民党もそれぞれの経済学者の、それぞれ自分たちの説をなしているわけです。
その説のいくつか主要と思えるものを申し上げますと、いちばん景気がいいっていうか、なんていうか知りませんけど、もはや国家による資本主義のコントロールという装置自体がまったく機能を失調しちゃったんです。これは癌だっていうことです。これは癌だから資本主義だったらダメだ、資本主義じゃ救済されないからダメだ、その言い方をもっと親切、懇切丁寧に説明してさしあげますと、国家が資本主義をコントロールしたってダメだと、つまり、国家がコントロールする資本主義では、いまの癌は治らないと、だから、もはや国家資本主義といいましょうか、国家管理資本主義だって、国家資本主義に変える以外にないんじゃないかっていう説もあります。つまり、もはや資本主義の一種の終焉期であると、国家資本主義の終焉期であると、だから、これはもはや国家が産業を全部管理して、社会的分配も国家がやるみたいにしちゃわなきゃ、つまり、いまの社会主義国みたいにしちゃわなきゃダメじゃないかっていう、そういう説もあります。
それから、それとまったく反対に国家の資本主義の介入、ようするに、問題は何かってことになるんですけど、問題はすでに国家が資本主義に介入しているってこと自体がスタグフレーションの現象なんだ。つまり、スタグフレーションの原因は、国家が資本主義に介入するという装置自体があるということが、だいたいにおいて、スタグフレーションの根本原因なんだと、いまの説とまったく反対の説、だから、国家の介入の度合いを縮小すべきだっていう考え方です。国家の介入の度合いを縮小しなければ、これは救いようがないんだっていう考え方です。
国家の介入の度合いを縮小するという考え方っていうのは、一見しますと、一種の国家による資本主義のコントロール装置の失調だ、あるいは癌であるという考え方と反対でありますけど、ただ、原因が国家というものにあると、国家の管理っていうこと自体にあるという意味あいでは、同じ考え方だっていうふうに考えることができます。
ところで、それともうひとつ類型づけるとすれば、類型づけて考えて、それと違う考え方をとってくると、あまり国家っていう概念をもってこないで、だいたい違う考え方をしている考えもあります。それは何かっていいますと、つまり、大生産規模をもった大企業というものは、物価ですね、製品の価格に対する支配力を獲得しちゃった。つまり、国家がどう管理しようがしまいが、それとは無関係に、大企業に寡占的な、つまり、少数の大企業が物の価格を支配する力を、つまり、自分で支配する力を、勝手に自分で価格をつけちゃう力を獲得してきちゃったってことが、それがだいたいスタグフレーションの原因なんだと、それは国家が管理しようがしまいが、それとは独立にっていいましょうか、あるいは、相対的独立にといいましょうか、少数の大企業自体が自分たちで勝手に価格を決める、そういう支配力を獲得してしまったっていうこと自体が、ようするに、スタグフレーションの大きな原因なんだと、そういうふうにして、価格支配力を大企業が獲得してしまったために、たとえば、みなさんのほうで賃上げをやると、そうすると、大企業のほうでは、賃上げに見合った分を商品の価格にすぐに転化しようとするってことを勝手にしちゃうってことです。つまり、ほんとうは賃上げの賃金っていうものと物価とは、あんまり直接的な関係はないのですけど、つまり、究極的にいえばどこかに関係があるわけですけど、つまり、あまり直接的には関係はないわけですけど、しかし、大企業が、自分が支配力を獲得してしまえば、いわば、賃金を上げたと、それで給料をよくしちゃったものは、製品の物価は上げて、つまり、消費者物価になるわけですけど、上げてとにかく売り飛ばす。それで、その幅はすぐに利潤に反映させちゃうってことを、たとえば、大企業が勝手にやるってことができるようになったってことが原因なんだ。だから、それに対して国家がコントロールするもへちまもない、とにかく、大きな企業自体が、自分たちが勝手に労働者の賃金が上がろうが、製品の価格をすぐに上げていっちゃうっていうような、取引きしちゃうっていうこと、すぐにそういうふうにしちゃうから、そういうことをするから、物価と賃金とが悪循環して、スタグフレーション現象が起きたんだっていう考えがもうひとつ有力な考え方です。
これは一見すると皆さんのほうでは人聞きが悪いって、馬鹿にするなって、そんなに賃金も上げないくせに物価は上がっているじゃないかとおっしゃる、そういう意味では甚だ不都合な考え方のように思われるでしょうけど、そういう意味合いに受け取らないほうがいいと思います。そういう意味合いではなくて、ようするに、国家のコントロール装置がどうであろうとなかろうと、少数の企業、アメリカでいえば200くらいの企業ですけど、日本では何十か何百か、100くらいだと思いますけど、100足らずの大企業っていうものが、価格支配力をもつようになっていると、だから、価格支配力をもっているから、賃金が上げた、あるいは、諸経費が重なれば、すぐに物価に還元して、それで、それを多大な価格をつけて売り飛ばしちゃうっていうような、取引きしちゃうことをすぐにやるから、国家がコントロールしようとかしないとかする暇もないじゃないかということです。つまり、そういう悪循環自体がスタグフレーション現象を提起しているんだってことが、ひとつの大きな考え方です。
この考え方によれば、国家によるコントロール装置っていうものの病気があるにしても、第一原因ではないと、もっと下半身のほうにあるんだといいましょうか、つまり、下半身のほうに問題があるんだという考え方だと思います。つまり、社会経済現象の高度のところの問題で出てくる問題なので、主としてそこから出てくる問題だという考え方だと思います。
もうひとつ、それに付随していえば、技術革新による生産性の上昇が止まってしまったっていうこと、つまり、労働の生産性の上昇が止まってしまったっていうことが、スタグフレーションというものに大きな影響を与えているんじゃないかっていう考え方です。
だいたい、どうしてそういう考え方が出てくるかっていうと、技術革新によって、技術を導入することによって、労働の生産性を非常に高めたっていうことが、だいたい初期の資本主義といいましょうか、古いかたちの資本主義が、不況が十年ごとにやってくるっていうような、そういう不況性をまぬがれるようになったのは、技術革新の生産技術が進歩して、生産性が向上したっていうことが大きな理由じゃないかって言われているくらい重要な問題だとされていますから、だから技術革新の停滞、もはや一通りの技術革新が終わってしまった、つまり、これ以上の技術革新っていうのは、もう一段なにか技術が進歩しなきゃ、とてもできないんじゃないか、つまり、技術革新の停滞性自体が、資本主義あるいは世界全体を覆っているんじゃないか、そういう考え方があります。
それから、もうひとつ、これは皆さんにとっては、たいへん不都合な考え方になるわけですけど、社会保障が膨大化したっていうことがスタグフレーションの大きな原因なんじゃないかっていう考え方もあります。
つまり、社会保障が膨大化していきますと、たとえば、失業者、老齢年金その他に対して、多大の国家支出をしなきゃならないと、それに対して国家に還元されてくる税収入は失業者が増えれば増えるほど、あるいは、高齢者が増えて、それで、退職する人が増えれば増えるほど、国家の税収入は減ってくると、しかし、失業保険、労災保険、老齢年金、その他の年金っていうものは非常に膨大になるだけだと、つまり、不況になればなるほど膨大になる、そのことがスタグフレーションの大きな原因じゃないかっていう考え方もあります。
つまり、これらの考え方のなかで、だいたいにおいてすべての考え方は、だいたい尽されていると思います。つまり、経済学者あるいは日本国家が考えている経済学者及び日本国家の中の経済専門家が考えている考え方は、だいたい以上のことの中で尽きると思います。
それならば、おまえはどうだっていうことになるわけですけど、ぼくはこう思います、専門家じゃないからあんまり大きなことを言ったらいけないですから、そういうことは言わないことにして、もしも、このスタグフレーションという現象が世界の資本主義にとって、永続的な、これからずっと続く問題だと仮定すれば、その原因は2つ求められるとぼくは考えます。
それは何かっていうと、ひとつはこの考え方に近いんです。つまり、国家の介入の度合いっていうもの、国家の介入の度合いが膨大になっていきつつある、あるいは、いっているということ、それ自体の問題を考えることなしには、スタグフレーションがもしも資本主義にとって永続的な問題だとすれば、永続的な病根だとすれば、そのことのなかにひとつの要因があるだろうとぼくは考えます。
それから、もうひとつの要因は、もしもスタグフレーションという現象が、もしも世界の資本主義が当面している永続的な問題で、一時的な現象じゃなくて、永続的な問題があると仮定すれば、そのもうひとつの原因は技術革新の問題だと思います。つまり、技術の進歩性の問題だと思います。
技術の進歩性による進歩した技術を生産工程に導入することによって得られる生産性の上昇といいましょうか、増大化、あるいは大規模化といいましょうか、大規模化がみなさんのような、つまり、個々の労働者の関与度といいましょうか、寄与度といいましょうか、生産に対する寄与度、関与する度合いです。
生産に対して関与する度合いとどういう関係にあるか、つまり、どういう関係をもったときにこれを赤信号というかっていう問題があるように思います。労働者の生産過程に対する関与の度合いが、技術導入による生産性の増大に対して、どういう関与度を占めるか、どういう寄与度を占めるか、大した寄与度を占めなくなっちゃったっていう問題なのか、あるいは、占めなくなっちゃうという問題なのか、それともそうじゃなくて、占め方の仕方が悪いという問題なのか、それをどういうふうに決定するかはできませんけど、ぼくはその問題が永続的な問題として、スタグフレーションのなかで数えられる問題だと思います。
ですから、だいたいにおいてこれでいいますと、技術革新の停滞による不況免疫性が減少したということ、つまり、この問題と関係ある事です。つまり、技術革新の投入性というものが、労働者の生産に対する寄与率っていいましょうか、寄与性というものをどういうふうに質的に変えるものなのか、どういうそれが割合になるのか、どういうふうな意味あいになるのかってことの考究、追究、そこの問題のなかに、ぼくは、スタグフレーションがもし永続的な現象だとすれば、そこの問題があるように思います。その2つがたぶん取り上げるに値する問題のようにぼくには思われます。
これは素人の考えですから一応聞いておくっていうだけのことにしておいてください。それじゃあ自民党政府は、つまり、現在の政府はどうしようとしているかというふうに考えましょう。そうすると、ぼくはあまり関心がないのです。経済学者が関心をもっても、ぼくは関心がないので、将来に支配者になるつもりもありませんし、あんまり関心がないし、一生懸命調べたことはないのですけど、新聞をせいぜい見ている程度ですけど、だいたい自民党がやろうとしていることはこれじゃないでしょうか、国家の介入の度合いを縮小しようっていうことじゃないでしょうか、やろうとしていることは、それで縮小することによって、つまり、ギュッとひとまず締めることによって、ひとまず呼吸を収縮することによって、収縮しておいて収縮による影響があらわれてきまして、影響が直った頃、収縮をゆるめるという意味あいになりましょうか、つまり、国家の介入の度合いを縮小しようとしているのじゃないでしょうか、というふうに、新聞を見ている限りでは見受けられます。
そうすると、自民党はあまりみなさんと無理やり関与しないですから、そうすると、そのなかには当然、社会保障の縮小ってことも含むわけです。それからもうひとつ、もっとみなさんにとって重大なことは、国家の介入の度合いを縮小しますと、予算からなにからぜんぶ縮小していきますと、みなさんにとって何が起こるかというと、どこに影響がくるかっていうと、かならず、景気の停滞とか、失業者の増大とか、賃金の上昇の停止とか、それから、失業者の増大とか、それから、社会保障の縮小とか、それから、景気の停滞とか、総じて、みなさんのところが、そこの労働者のところが一番、国家が介入の縮小を決めて、介入の度合いを縮小していくと、ひとまず、いちばん最大の影響を受けるのは、そこいらへんに影響を受けると思います。ですから、それに対しては、やっぱりそれはたぶんぼくはやると思います。そういうふうにすると思います。
ぼくは国家というのは非常に永続的な理論からいきますと、国家っていうのは介入の度合いをなくしていくっていうのが理想であるわけなんです。だから、介入の度合いをなくしていくっていうのは重要な方法なんですけど、しかし、その意味合いは、あまり自民党は国家の介入の度合いを縮小しようとして、とりあえず、現在の日本のスタグフレーション現象を現状維持のまま切り抜けようとしていることと意味合いはちょっと違います。違いますけど、取ろうとしているのはそのように見受けられます。つまり、この方法を取ろうとしていると思います。
この方法は、アメリカのここらへんの不況の時に、日本がうまく成功した40年の不況の時に、そのやり方をして成功しているわけです。第二次成長期にもっていっているわけです。これはフリードマンっていう人の考え方はこの考え方です。だから、この考え方はひとつ有力な考え方で、介入の度合いを減少していって、そこでひとまず不況が起こります。みなさんの問題に切実に響いてくると思います。そこの問題がみなさんには大きな課題として控えてくるだろうというふうに、ぼくには思われます。しかし、それをやっておいて、再び、肺切除となりましょうか、結核の病巣を切除する、肺機能を縮小して静養しておいて、それで再び放出機能をするっていう、呼吸機能をやるということによって、ビルト・イン・スタビライザーとか、自動補正安定装置っていうものの機能を回復しようという考え方だと思います。たぶん、新聞を見ている限り、そういうやり方を取ろうというふうにしていると思われます。
スタグフレーションは、世界の先進的な資本主義国のすべての問題ですから、だから、解決の方法っていうものは、一応それぞれとられています。ここに多少書いていますけど、ひとつの解決法はこれと同じで、いずれにせよ国家が介入するっていうこと、どう介入するかっていうと、所得を生産性の向上の比率の範囲内に留めるっていう、つまり、抑えるっていうことです。みなさんがいくら賃上げを要求しようと、とにかく生産性の、国民総生産の、生産性の向上率っていうものを上回る所得は絶対に与えないっていう、そういう考え方によってスタグフレーションを解決しようという考え方だと思います。それは、アメリカとか、イギリスとかが、その方法を取っているそうです。
第二は国家が大企業の価格支配ですね、寡占企業の価格支配に介入していこうという考え方です。いくら働いている労働者の賃金が上がったって、勝手にすぐに価格上昇に転化することはならんというふうに、それを抑えるという権限を国家が獲得して、そういうふうに介入していこうという、そういう考え方です。フランスとか、福祉国家といわれているスウェーデンとか、そういうところがやっているやり方だそうです。
第三のやり方っていうのは、あまり大金を儲けることは許さんっていう考え方です。つまり、これ以上の財産をもったって意味がないんだからやめろっていう権限を国家に与えるということです。つまり、べらぼうな大金持ちとか、べらぼうな資本を持っている大企業、そんなのは意味がないんだからやめろっていう、そういうことを強制すると社会主義国になっちゃいますから、強制しないで、そうじゃないかって、あんまり持ったってつまらないじゃないかっていうふうなことをあれする権限を国家に与えようという考え方です。
そうすることによって、産業規模あるいは資本規模を小さく抑える権限を与えることによって、国家が総需要をつくりだす、つまり、このくらいの産業規模にしようじゃないか、全体の規模はこうあろうじゃないかっていうような、あるいは、これだけの雇用を満たすためには、これだけの総需要を作りださないといけない。そのためには公共投資をこれぐらいやらなきゃいけない。国家がこういうふうに人工的につくりだす需要を小さくしようじゃないか、そういう考え方が解決策として取られる。それは、西ドイツとか、イタリアとかがとっているのはその方法あるというふうに経済学者はそう言っています。
それから、先ほど言いました、国家の介入度を縮小しようという考え方です。言ってみれば、不介入法です。この解決策は、結局、インフレによる物価上昇、それから、景気が停滞しているっていうこと、両方とも、国家の介入が増しているからそうなんだ、つまり、根本原因は国家が大きな度合いで資本主義自体に、あるいは、経済制度自体に介入しているっていうことが、だいたいインフレと景気停滞が一緒にやってくることの原因なんだっていう考え方です。これはフリードマンっていう人の考え方です。典型的にこの考え方です。だから、諸悪の元は国家が資本主義社会に介入してくることが、だいたいにおいて諸悪の元はそこにあるんだっていう考え方です。
ところが、そこが問題のところなんですけど、それでなぜかっていうことなんですけど、フリードマンは4つあげています。なぜ国家が介入するといけないかっていうと、国家が民間企業へ介入する度合いが、増せば増すほど増税を招くんじゃないかってことです。増税はなぜ招くかというと、民間企業の規模が増大することによって税金が増すっていうことだけじゃなくて、介入が増大すれば、介入するための国家予算の資金がいるわけですから、この資金はだいたい企業にたいして投下されるわけです。その資金はどこから出てくるかっていうと、国民の税金から出てくるよりほかに、どこからも出てきようがないわけですから、それは、増税を招くだけじゃないかと、つまり、国家が民間企業に介入する度合いが増していけば増していくほど、増税を招くだけじゃないかと。
それから、もうひとつは国家が通貨を増発すればするほど、増税しているのと同じじゃないかと、つまり、お札を造るなら印刷すればできますから、それは金がかからないでできるのですけど、だいたいそういうふうに通貨を増発させれば、その増発させた分の実質の価値はどこから得られるか、税金から取ってくるよりほかにないわけですから、これだって、法律のいらない税金と同じじゃないかと、通貨を増発するっていうことは、法律のいらない税金を取っているのと同じだと、つまり、潜在的な税金を取りたてているのと同じじゃないか、それから、もし民間への公共投資を増大させるために国債を発行したとすれば、これだってやっぱり、隠れキリシタンじゃないけど、隠れ増税と同じだと、つまり、国債の発行といっても、もともとのあれはどこからくるのか、税金から以外、所得税、事業税、その他税金からしかとにかく出どころはないわけですから、国際を発行すればするほど、これは隠れ増税だと、やっぱり税金だと。
今度は、もうひとつあげているのは、産業を国有化すること、国有化するとどうしても赤字になると、だいたいにおいて、世界の経済現象を見ていくと、産業を国有化したら、みんな産業を赤字にしたいなら国有化すればいいと言われているぐらいです。国有化すると必ず赤字になると、ようするに、生産する気もないし、儲ける気もない、儲けるために努力する気もなくなっちゃって赤字になるに決まってる、だから、事業を赤字にしたいなら、国有化すればいいと言われているほど、世界的な現象だと、だから、介入の度合いをとにかく縮めるっていうこと、どうやって縮小するかってことが、非常に大きな問題なんだってことが、解決策として経済学者あるいは専門家が提出している問題です。
先ほど言いました、国家の介入の度合いは、西欧先進諸国で30%ぐらい国有化がなされて介入されています。もちろん、社会主義国では100%介入されています。100%介入されて、これはいかんと、少し赤字になってきたから多少は緩めようかっていうのが、だいたい社会主義国のいまの現状じゃないかと思いますけど。つまり、大なり小なり、国家が資本主義、あるいは資本主義的な生産制度、あるいは、資本主義的という意味あいも、非常に普遍的に受け取って、労働者の労働力を行使して、そこから剰余価値として、労働者の労働の実質よりも多くの価値をそこから貯めてきて、そして、それをまた労働者に、社会的に分配するにしろ、多少、国家が蓄えておいて、それを時に応じて投入するにしろ、そのやり方は、資本主義国、社会主義国、それぞれ異なりますけど、だいたいにおいて、そういうやり方のなかでの国家の介入の度合いは、ようするに、かなりな程度増大しているっていうことが言えます。
たとえば、西欧先進国の、ヨーロッパあるいはアメリカのような先進資本主義国の数十パーセント、30%ぐらいから社会主義国のような100%まで、介入の度合いは多くなっています。多くなっていっているというのが、世界の資本主義及び資本主義的な経済制度を採用している現在の世界の現状での大きな傾向だっていうことができます。
その傾向は非常に注目に値するので、この傾向は一種の必然であるかどうかってことが、注目に値することなのです。必然であるかどうかってことが非常に考えなくちゃいけない問題であるし、また、注目に値することで、元来、人類の理想によれば、国家なんていうのは消滅すべき方向にいくべきものであって、消滅すべき方向にいくべきものであるにもかかわらず、現在、資本主義的な経済制度を世界はとってきて、あるいは、人類はとってきて、とってきた挙げ句の果てが、それぞれやってきたことなんでしょうけど、挙げ句の果てが、国家の介入の度合いを30%から100%までに増大しているっていうのが、いまの現状なわけなんです。
これを100%増大する方向にいくっていうのが理想なのかっていうと、そんなことはありません。国家っていうのは消滅する方向にいくのが人類の理想であるわけなんですけど、しかし、これは必然であるか、あるいは、必然までいかないで、政治指導者あるいは国家権力の担当者の愚昧さかどちらかわかりませんけど、あるいは、両方の場合が絡み合っているかわかりませんけど、いずれにせよ、資本主義的な制度が現在までやってきた現状までの度合いで、国家の介入度がますます増えていきつつあるっていうのが現状だと思います。
資本主義っていうものを、特殊な意味じゃなくて、資本主義的制度、つまり、賃労働があり、そして、剰余価値をそこから抜き出して、なんらかの意味で生みだして、それを社会的に分配するとか、これを保険にするとか、そういう制度をとっている限り、それが100%国家介入の方向にいくのが正当なのか、30%を100%にしたほうがいいのか、あるいは、国家介入の度合いっていうのは少なくしていったほうがいいのかってことについての考察が最も重要な考察になっていきます。この考察がいわば基本的な問題になってくると思います。
とりあえずの問題は滑稽であり、またかつ必然であり、また興味深いことに、スタグフレーションで、国家の資本主義に対するコントロール機能が失調している、あるいは癌になっていると、そうしたらば、国家の介入を、日本はいま10%から20%ぐらいだと思うんですけど、介入の度合いをもっと押し進めていったほうがいいと、むしろ100%にしていったほうがいいという考え方は、わりに進歩的な経済学者から出されています。たとえば、大内力さんっていう人なんかはそうです。そういう考え方を出しています。
フリードマンのように、国家の介入を減少させろっていう意味合いはたいへん違うのですけど、減少させるべきだというふうな提案していると、この人のほうが保守的な人です。リベラルな経済学者です。
いずれにせよ、様々な形で、スタグフレーションをどう解決していくのかっていう提案は様々な形でなされているわけです。しかし、なされているけど、この問題はたぶんみなさんには関係のないことです。つまり、関係のないことっていうのは、そのこと自体が、解決法自体はみなさんにとってはあまりかかわりのないことだと思います。ただ、かかわりのないことでも、どういう解決法みたいなものが、専門家及び国家が考えているか、あるいは、日本国家っていうのは、いまどういう解決策のほうに向かおうとしているか、その影響はみなさんのほうに、どういうふうにあらわれるかっていうような問題は、よく掴んでおられた方がよろしいのではないでしょうか。そのことを掴んでおいたほうがよろしいのじゃないでしょうか。
多くの経済学者とか、あるいはリベラルな人であれ、保守的な人であれ、進歩的な経済学者であれ、そういう人とぼくが、考え方が違うところは、ようするに、人類の理想っていうものは国家っていうものの消滅の方向にいくのが理想であるっていうことなんです。これは理想の原型なので、もし、我々のコンミューン主義っていうものを固執する限りは、国家っていうものの介入の度合いは減少していくってことが、それが理想の方法なわけです。
もちろん、国家が存続する限り、必ず階級は存続します。だから、国家を存続したままで、階級が消滅するなんてことはありえないことなのです。国家が消滅するっていうことは、非常に重要な理想的な課題に、少なくとも、コンミューン主義は、その柱を抜かしたら成り立ちません。つまり、社会主義っていうものは、仮に過渡的であれ、社会主義っていうものは、国家なんかを固執したら全然ダメです。それは社会主義ではありません。これは国家資本主義です、つまり、国家100%介入資本主義だというふうに言ったほうがイメージがつくりやすいんです、いまの社会主義国っていうのは。全然100%そうだとは言えないのですけど、ただ、100%介入資本主義だと考えられたほうが、像がつくりやすいことなんです。だけど、とにかく、国家っていうものは消滅しなければ、どうしようもないんです。階級なんか消滅しっこないわけなんです。
だから、そういう国家の問題っていうものは、どういうふうに消滅していくかっていう問題の方向に理想の方向があるんだっていうけど、そのことはどんな時代がきても見失ってはならないっていいましょうか、少なくともみなさんの立場だったら、労働者の立場だったら、見失ってはならないことです。ならないことだってことが、非常に重要じゃないでしょうか。つまり、現在の社会主義国っていうのは、国家じゃなくて、資本主義だけが独占国家であるっていうことはいえないのです。ぜんぶ国家なのです。あるいは、大なり小なり国家主義的になっているのです。それは大なり小なり必然でもあるし、大なり小なり社会主義、あるいはコンミューン主義の理想がどこかで失われてしまった、その必然的なあらわれがそういうふうになっているのであって、あくまでも理想っていうのはそこにあるんだっていうことを、それはやっぱり見失ってならないことじゃないのでしょうか。
それから、もうひとつは、先ほど言いましたように、技術革新っていうもの、技術の進歩性っていうもの、あるいは、技術の進歩性が生産に関与している度合いっていうものと、みなさんの生産に関与している度合いっていうもの、あるいは、質というものは、どういうふうに変化するかっていうようなことは、うんとよく掴まれることが必要なんじゃないかと思われます。
それから、今度は最後にみなさんの生活実感だけじゃなくて、文化実感、その他のことの問題に入っていくわけですけど、その場合に基礎的にどうしても考えとかなければならないものが、ぼくはいくつかあると思います。第一は、再三、説明しましたように寡占的な大企業っていうものが生産を大規模にして存在します。これが現在の高度な資本主義の影響ですけど、そこでだいたい寡占的な企業の成長率っていうのは、その他の企業の成長率に比べて、何倍かくらいのスピードをもって成長するわけなんです。つまり、大規模な生産力を誇る寡占的な企業の成長率っていうのは、ほかの企業の成長率に比べると数倍くらいあるっていうことが言われるわけです。たとえば、アメリカならアメリカをとってきますと、寡占的な企業っていうのは200くらいあります。200くらいの企業はだいたい先ほど言いました価格支配力をもっていますし、それから、だいたい他の企業に対して2倍とか、3倍とかのスピードの成長率をもっているっていうことがいえます。
そうすると、私たちの時間概念といいましょうか、時間意識といいましょうか、あるいは時間感覚でもいいんです。時間感覚っていうものは何に支配されるかっていうと、大企業の寡占的な、つまり、ふつうの2倍、3倍あるスピードで成長する企業の成長する度合いに、その時間に、私たちの時間感覚、あるいは時間意識っていうものは、日常をコントロールされていると考えるのが、非常に考えやすい考え方なんです。
だから、みなさんはなにか知らないけど、ぼくはそうですけど、なにか知らないけど、せかせかせかせかして、自分のあれをとってくれば、昔は金なんかなくてあれでしたけど、それでもけっこう一家3人食って、その間に貸本屋いって、貸本借りてきて、近所の貸本を片っ端から読んで、ぜんぶ読んだってこういう感じで、それでもって仕事もしているわけですけど、それでもなんとなくゆとりがあったような気がするんです。だけど、いまは何か知らないけど、全然ゆとりがないです。
たぶん、これはぼくだけの問題じゃなくて、みなさんもどこかせかせかしているとか、不安であるとか、なにか知らないけど焦燥感があるとかってことが、たぶん、もっとひどい人は病気で、被害妄想、追跡妄想があるとか、幻聴があるとかいう、みなさんの周辺にもいるでしょ、わりに目立ってくるってあるでしょう。
それはどうしてかっていうと、みなさんが一倍の時間のところに住んでいるのに、つまり、わりあいに中小企業とか小さい企業の、のんびりしたところの時間に支配されているのに、同じ8時間勤務でも、家に帰ってみたら、あるいは、その企業の時間も基本的にはそうですけど、全部2倍、3倍のスピードで動いている、その時間感覚に支配されているっていうことが、それに混同されている部分が、非常に多いっていうことが、たとえば、みなさんがなんとなく苛立ってしょうがないとか、私はイライラしているとか、賑やかなところいくと、なんかイライラしちゃうとか、あるいは、面倒くさいから自分から進んで騒いじゃうんだとかっていうふうに、みなさんがなるっていうのはどうしてかっていうと、たぶん、そのことの大きな原因のなかに、時間っていうものを基本的に支配しているのは、少数の寡占的な大規模な生産規模をもった大企業の、そこでの成長率といいますか、生産率といいましょうか、そういうものが基本的には、私たちの時間意識っていうものを支配していると思います。つまり、それに支配されて、小さな企業の時間もせかせかせかせか残業してやらなきゃいけない、つくらなきゃいけないとか、そういうふうになっているっていうことです。
その時間を支配しているのは、つまり、2倍、3倍のスピードだっていうこと、そのために、それを内面的に、あるいは意識の中で受け入れてしまいますと、受け入れざるを得なくなった場合にいきますと、だいたい不安感に駆られるとか、焦燥感に駆られるとか、ちっとも豊かにも何にもならないので、とにかく忙しくて、忙しなくてしょうがないとかいうことをみなさんが日々体験されることでしょうし、たとえば、よく盛り場なんかで、立ち食いのラーメン屋さんとか、ハンバーガー屋さんの、せかせかサラリーマンの人が食って、それで働きにいってっていうのがいるでしょ、あんなアホらしい話はないと思うんだけど、しかし、残念なことに、その時間はべつに奥さんが怠けて、朝おかずを作ってくれなかったからでもないし、ようするに、なんでもないんです。基本的には時間感覚が違う、非常に違うところの時間感覚に支配されているんです。だからそうなっちゃうんです。だから、奥さんだって、テレビも見なきゃならないし、洗濯もしなきゃならないし、講習会にもいかなきゃならない。そこで亭主のおかずなんかつくっちゃいられないわって、ハンバーガー屋さんで食べてきなさいとこう言われて、それは奥さんが悪いのか、確かに悪いのかもしれないけど、しかし、その奥さんを支配しているのは、テレビの時間であり、あのテレビも見なくちゃならない、近所に買い物にも行かなきゃならないとか、どこかデパートに行かなきゃならんとか、とにかく、そうなっているから、そうなっちゃうのであって、そういうことの根本的な原因にはやっぱりその時間感覚が支配しているのは、ようするに、少数の寡占的な企業がだいたい支配するだろうということがいえると思います。
それは、みなさん、あるいは僕なんかももっている一種の焦燥感っていうもの、これは都会にいけばそうだと思いますけど、焦燥感に支配されている。それから、焦燥感に支配されている部分と、地方とか農村とかにおける悠久のアジア的悠久さでのんびりしている、そういうあれとの時間的なずれ、ギャップといいましょうか、ギャップの甚だしさっていうものは、そこから生まれるだろうということ、それは資本主義の問題を、みなさんの実感のところまで近づけるための非常に大きな問題だっていうふうに思われます。
それからもうひとつ考えられます。それは、寡占企業が固定してしまうと、そこでの価格競争っていうものはたかが知れてくるわけです。そうすると、価格っていうものは、そんなにどうもできないからっていうことで、それに対して、専門家は非価格競争って言っていますけど、イメージの競争っていうものが起こるわけなんです。
これは実質ではありません。みなさんがテレビをご覧になれば一番よくわかります。テレビの主要な番組のスポンサーっていうのは、薬屋さんとか、それから、化粧品屋さんとか、化粧品なんか典型的にそうですけど、中身はそれほど違っているわけがないのです。たかが知れているんです。違いだってそんなに大した違いはないのです。だから、容器を変えてイメージに訴えるとか、あるいは、コマーシャルの場合に、有効なコマーシャルで、美人のモデルさんをあれして、有効なコマーシャルとか、あるいは、有力な人をコマーシャルに使って、有力な宣伝をすることによって、そのイメージを付加してそれを売るということなんです。
イメージというのは空虚なんですけど、やっぱり、価値実体ですから、価値実体をいわゆる物質そのものじゃなくて、物質としての商品そのものじゃなくて、観念の価値をそこに加えることによって、商品を売ろうとすると、そういうようなことが、現在の膨大になったマスコミっていうものを発達させた要因になるわけなんです。
ですから、みなさんがテレビなんかご覧になれば、すぐにそのことはわかります。たとえば、テレビに登場する歌手の人がいます。これは個人としてみれば、ごく普通の平凡な、たとえば、沢田研二なら沢田研二でごく平凡な青年だと思います。歌の才能はあるでしょうけど、ごく普通の青年だと思います。だけれども、もしこの人が、いったんテレビの画面の上とか、舞台の上とかに出てきた場合には、まるでそこに違うイメージとして出てくるわけです。付加するわけです。懐中電灯やなんかを背負ってみたり、落下傘を背負ってみたり、化粧をバーッとしてみたり、ようするに、現実離れするあれをしてくるでしょ、そして、そういうイメージをつくって出てくるでしょ、そうすると、みなさんはやっぱり拍手するでしょ、拍手したり、キャーキャー言うでしょ、そうじゃなければ反感をもつでしょ、しかし、ぼくは反感も、キャーキャーも、どちらも肯定的なんですけど、つまり、どちらでもいいのですけど、ほんとうはそのことはどちらでもいい、つまり、たいしてどちらにも重要さはないのです。反感をもつにしろ、共鳴するにしろ、ほんとうに重要なのはそうじゃなくて、どれだけの度合いでイメージが実体化して、イメージが付加されているか、その付加されている度合いっていうものが、マスコミュニケーションが固有的にもっている価値の度合いだっていうことです。つまり、沢田研二が化粧もなにもしないで、フォークソングの歌い手みたいに、わざと汚いなりをして、あれも歌手なんですけど、あるいは、価値をゼロならゼロ、マイナスにもっていったと、沢田研二はそうじゃなくて普通のなりなんだけど、わざとボロを着ているわけじゃなくて、普通のなりで歌っていたと、それが段々段々過熱してきて、今度は変な懐中電灯を背負ったり、落下傘背負ったりして、妙な化粧して、妙な目玉に変よくわからないものをつけて出てきたと、そうすると、その実態とイメージを付加された格差っていいましょうか、その格差が、ようするに、マスコミュニケーションがもっている価値の度合いなんです。つまり、マスコミュニケーションが付加しうる価値の度合いなんです。
その付加される価値は決して実質価値ではないです。もともと商品は変わらないですから、実質価値っていうのは、つまり、沢田研二の歌のうまさは決まっているわけです。だから、それは決まっているわけです。だから、実質価値ではないですけど、付加されるイメージとしての価値なんです。
このイメージとしての価値というものは、イメージとしての国家とか、イメージとしての資本主義っていうもの、資本主義のもっているイメージというものに起因するという意味では、たいへん関連があるわけなんです。だから、その価値の度合いっていうものは、そういうことによって測ることができます。
それがどこまでエスカレートしていくのか、あるいは、どこでもってスタグフレーションの影響を受けて、沢田研二もあまり懐中電灯を背負ったり、落下傘を背負ったりしても、だいたいキャーキャーいう人がいなくなっちゃったっていうことはありうるわけなんです。
なぜ、いなくなっちゃうのかっていうと、生活実感のところで、みなさんのところで、シラケてしまったらば、そうしたらば、いくら沢田研二がとび抜けたイメージ価値を付加しようとしたってついていかないわけです。だから、ひとりでにそれは沈静していくわけです。みなさんが生活実感としてついていけないと、あんまり不況で、生活が苦しくて、ついていけないってなったら、みなさんも子どもに対して怒るでしょ、あんなもの沢田研二なんかキャーキャー言うなって、子どもにイライラして怒るでしょ。すると、子どもさんだって少しは委縮するでしょ。だから、キャーキャーいう人は少なくなってくるんです。
そういうかたちでマスコミュニケーションが付加しているイメージっていうものは、寡占的な大企業が付加している、価格競争でない競争のイメージ、それで、それにコントロールされたマスコミュニケーション自体のあり方を示す大きな要因で、そのあり方のところを基本的に奥底のほうで、無意識の奥底のところで規定しているのは、やはり現在の資本主義のメカニズムが規定しているってこと、直接規定しているなんていうと、悪い言い方なので、あまりそういう言い方をしちゃいけないと思います。ぼくはそういう言い方で言っているのではないってことをよくあれしてください。ぼくは、非常に社会的に無意識まで沈んだそういうところで規定していると言っているのであって、これがすぐに規定しているなんて、ぼくはちっとも言っていないですから、そういう人と一緒にされるとぼくは困っちゃうわけで言いますけど、そういう言い方をしているのでは決してないのです。だけれども、そのことが基本的に規定しているってことは非常に重要なことだと思います。
それから、もうひとつは、これもみやすい道理なんですけど、古典的な、つまり、初期の資本主義の勃興期には、いわば近代的な民族国家があり、その下部構造として市民社会があり、それで市民社会から落ちこぼれる人もいるし、上昇する人もいると、しかし、基本的には市民社会っていうものが近代的な資本主義を支え、そして、近代的な民族国家を支えているという、これが古典的な資本主義国家のイメージなわけなんですけど、現在の大衆社会といわれているもの、あるいはマス社会といわれているものは、どうしてマス社会ってものになっていったかっていうことをいいますと、それは国家が資本主義をコントロールする、それが資本主義の一般的なあり方っていうふうになってきてから、マス社会っていうもの、あるいは大衆社会っていうものが出現してきたわけです。そしてますますエスカレートしつつあるっていうのが現状だっていうことができます。
どうしてかっていいますと、いま言いましたように、基本的にいいますと、資本主義の寡占的な企業が経済の支配力をもっていますけど、それに対して、絶えず国家が介入して、資本主義社会の産業メカニズムが不況なときには、国家が自分自らが赤字になってもなんでもいいから、赤字公債を発行してもなんでもいいから、民間企業に対して資金を投入しまして、そして、企業の景気を刺激するっていうことをします。それから、景気が過剰なときには、税収入その他によって吸収して、それをコントロールするっていうことをやります。
そうすると、みなさんもそうでしょうけど、一般的に私は教養ある市民であるとか、教養ある安定した中産階級だとかっていうふうなことで、安定した古典的な市民っていう概念は、日本ではそんなに長くはなかったです。すぐに危なくなってきたのですけど、つまり、安定した中産階級の教養ある、そういう安定した市民階級といいましょうか、階層といいましょうか、そういうもののイメージが作れないです。誰にも作れないわけです。
旧来的な市民、それ相当の中産的な所得を持っていた、財産を持っていた、そういう人でさえも、国家がいつ不況になり、国家がテコ入れするために多大な資金を自分が赤字になっても投入してくれるっていう、また景気を人為的につくりだしっていうような、国家的需要を人工的につくりだしていって、また持ち上げるとか、そういう流動っていいますか、噴出と吸収が絶え間なく起こっているわけです。この起こっている状況のなかでは、よほどしっかりした経済的基礎をもっている人じゃなければ、安定した市民として安定した教養をもちっていうことは、そういうことが成り立たなくなってきちゃったんです。
つまり、大部分が流動的な大衆に、大部分がなっていっちゃったわけです。なっていきながら、しかも高度な資本主義ですから、みんなが自分は中産階級意識をもっている、いまは多少崩れてきましたけど、不況になって、スタグフレーションになって、崩れてきましたけど、自分だけは中産階級、労働者といえども中産階級意識をもっていると、それでいながら、ちっとも安定感がないと、いつでも流動していると、みなさんが現に体験している状態でしょ、そっくりそのままなんですけど、そのままの状態が出現してきたことのなかには、資本主義が国家コントロール資本主義になって、高度になったってことが大きな要因になっています。ここでは安定した市民であるということは望むべくもないということになっています。
だから、データでいいますと、現在、先進的な資本主義国では、だいたい90%から60%は労働者階級だっていうふうに言われています。つまり、労働者階級の数は増大しています。労働者階級は90ないし60%あります。先進国ではあります。そこでもって、しかも90%ないし60%の労働者階級の人は、自らの意識においては、中産階級だと思っています。だいたいにおいて、自分は中産階級だと思っています。しかも、中産階級に安定しているか、安定した感じを自分でもちえているかっていうと、そうじゃなくて、絶えず預金を吐き出されたりなんかして、つまり、非常に不安定なくせに、自分は中産階級の意識をもち、しかも、賃労働者としては、すでに全体の90%ないし60%を占めるようになっています。
つまり、この状態っていうものは、現在のマス社会の非常に不安定な、流動的な、そしてオーソドックスな、みなさんはそうじゃないかもしれませんけど、みなさんの子どもさんの世代の人はたいていオーソドックスな教養なんかもっていないです。音楽が好きだっていったって、べつにベートーベンが好きだなんて人は一人もいないので、沢田研二が好きだから始まって、松田聖子が好きだっていうのから始まって、フォークソングが好きだとか、ロックが好きだとか、ジャズが好きだって人がいますけど、ベートーベンが好きだとか、ショパンが好きだとか、シューマンが好きだとかって、そんな人は、音楽が好きな子どもさんっていないでしょ、つまり、ベートーベンなんて聞いちゃいられないわけです。いつどうなるかわからないわけですから、やっぱりロックでガーって、その時はその時だって、明日どうなろうとその時はその時だ、明日はわからない、誰にもわからない。
ただ、わかっていることは、90%が労働者階級、意識としてはたいへん高度な社会にいますから中産階級の意識でもって、貯蓄はどうかっていったら、かなりありますけど、みなさんの貯蓄はありますけど、しかし、絶えず吐き出されられていると、いまでは相当欠乏してきているでしょう。そういうのが現状でしょう。つまり、そんなことはわかりきっていることです。
つまり、そういうことの減少の背後には、国家がコントロールする資本主義の非常に大きな固有な問題が底のほうに沈んで、その問題があるということがみなさんの生活実感の問題を経済社会機構の分析みたいなものから、みなさんの生活実感のところに近づく大きな要因とすることがあげられるんじゃないかっていうふうに思われます。
それからもうひとつ、もっと考えられることは、資本主義といえど資本主義的な理想っていうのをもっているわけで、その理想によれば、完全に失業者なんて一人もいなくするっていうことが理想なんです。福祉をたくさん実現するっていうことも、資本主義なりの理想です。その理想を維持するために、失業者数を減らして完全雇用に近づけようみたいなことを考えるとすると、国家が大衆の欲望っていうものを人工的に絶えず引き上げていくことが必要なんです。つまり、絶えず欲望を引き上げていくことが必要になります。
つまり、それはマスコミュニケーションがやるでしょうけど、つまり、絶えず引き上げておかないと、失業者をテコ入れするために産業を興そうとしても、需要がなければいけないわけですから、需要を絶えず獲得していくためには、どうしても欲望を絶えず引き上げて、この次はこれが欲しいとか、この次はこうしたいっていうことを絶えず眼の前に置いておかなければいけないです。そういうことを必然的に置くことになります。
そうしてテコ入れをして、企業に失業者を吸収するみたいなことを絶えずるために、どうしても国家が自ら管理することによって、コントロールすることによって、いつでも人工的に企業に失業者を吸収し、あるいは公共事業に失業者を吸収し、そして、人工的に欲望をあるレベルにいつでも刺激しておくっていうことが必要になってきます。
それで、そのことがマスコミュニケーション、あるいは、家はウサギ小屋かもしれないけど、劇場に行けば豪華な劇場の気分に浸ることができるとか、豪華なレストランがあるとかって、その合間をみなさんが往復するってことになります。そうすると、イメージが付加された自分と、それから、イメージが付加されない自分の間を絶えず相当な歩幅で、一日24時間、あるいは休みの時には、いつでもその間をみなさんは往復していることになります。いつでもそういう豪華なところからお粗末なところ、お粗末な職場から豪華なレストランへとか、絶えず皆さんは非常に幅のある生活のあれを絶えず往復していることになります。
そうしたらば、みなさんはどうもシケたところの自分よりも、豪華なところの自分っていうようなほうがいいじゃないかっていうか、そっちのほうに少なくとも欲望といいましょうか、欲求が惹かれることは確実であるというふうに思います。つまり、これをまぬがれることは誰にもできないので、そういうふうになります。
そうすると、みなさんも、官公労労組合員としての私なんていうよりも、そういうシケたのはあまり面白くないから、そうじゃない、ロックバンドをやっている私っていう、そのほうがかっこいいじゃないかっていうことになると思います。
それは、ぼくの推測にしかすぎませんけど、みなさんの労働組合も、ある意味では当面している問題でありましょう。それから、みなさんでも若い労働組合の人たちは、あまり組合活動とか、そういうことはあまり熱心じゃないけど、ロック活動は熱心だとか、それから、劇場に行ってどこかでなんかワーッとやっちゃうとか、そういうことには熱心だとかっていうふうな状態っていうのは、これからますます盛んになっていくだろう、つまり、ますますそのギャップは大きくなるだろうと思います。
なぜ、そのギャップが生ずるかは非常に明瞭であって、実質生活からイメージ生活までの歩幅が非常に膨大になったってことを意味しています。つまり、その膨大な歩幅を、どんな人でも、一日のうちに必ず歩かなければいけないわけです。一日のうちに、必ず膨大な歩幅のイメージから実質までをアレンジして24時間を送り、それは、明日もまたそれを繰り返すことをやるわけです。
そうだったら、その問題を拡大する一方ですから、イメージだけは拡大する一方ですから、その問題を、たぶん労働組合とか、反対瀬運動とか、大衆運動とか、そういうものにとっては重要な問題なんです。だから、ロックバンドがけしからんとか、おれは嫌いだっていいわけですし、それから、好きだって人もそれでいいんですけど、好き嫌いの問題と、重要な本質的な問題とはまた別なのであって、そのことを考えることは必然的であって、そのことをまぬがれることはありえないです。だから、まだ拡大していく一方だって思います。
だから、そのことは、イメージが付加された生活と、それから、実質だけの生活との落差の膨大さっていうものをすべての生活過程で誰でもが必ず通らなければならない、その問題は何なのか、その問題に対してどういうふうに考えたらいいのか、とくにみなさんのような労働組合の人はどう考えたらいいのかっていうこと、あるいは、反体制運動っていうのはどう考えたらいいのかっていうような問題はようするに非常に考えるに値することです。
これは、社会主義国は社会主義国なりにたくさん問題を抱えています。これはポーランドならポーランドの現状に非常によくあらわれています。しかし、資本主義国は資本主義国としての、そこでの労働者としての膨大な問題を抱えています。だから、その問題を解き得ないで、あるいは、その問題を好き嫌いの問題だけで処理することで済まされるような、そういう大衆運動っていうのはありえないと思います。
だから、その問題はどうするにしろ非常に考えるに値する問題であり、現在でてきている問題だと思います。一見すると逆の問題もあらわれてきます。企業に対する国家の投資っていうものは、民間企業に集中されるとすると、そうすると、みなさんのような官公労の人達のところにはあまり予算が回ってこないとか、時によっては人員を減らせとか、そういうことになってきたりすることになります。そうすると、そこの部分と、民間の大資本、特に寡占企業における労働者の問題とのギャップが非常に大きくなるってことが、これからだって考えられます。それらの問題は、ざっと数えて、国家がコントロールする資本主義、つまり、現在の資本主義が当面している、世界の資本主義が当面している段階での資本主義のもっている非常に大きな問題になってきます。
そこでの労働組合の問題っていうものは、どうあるべきかってことがあります。しかし、これは自分が生活し、そして自分がこの社会のある場面に存在しているわけですけども、そこの場面だから、あまり言っても意味がないし、言うのは僭越にすぎますし、だからそのことは言いませんけど、様々な例を挙げます。
たとえば、ヨーロッパの先進的な資本主義社会では、西ドイツは企業の経営に参加して、労働者重役っていうのも生まれてきているってこともあります。それから、イギリスみたいな社会計画方式みたいなのも部分的にとりつつあるみたいなところもあります。それから、イタリアっていうのは全体的にそう思うんですけど、国家自体に労働者運動をコントロールする力がないと、しかし、労働者が、自分が国家管理に乗り出していってなんかするっていう力量もないと、つまり、中途半端な状態で社会的な不安が絶えず行われているっていうような、そういう先進的な資本主義国もあります。
このヨーロッパ的な現象のなかに、日本とか、アメリカとか、西ドイツとかっていうのは、国家コントロール資本主義のなかでは、わりあいにうまくやってきたほうだから、まだそうじゃないですけど、しかし、可能性としていえば、ヨーロッパの進んだ資本主義諸国でのありようのなかに、日本も近づいていく、入り込んでいく可能性がたくさんあります。非常に多いです。
そして、非常に多い場合には、みなさんが労働者として、労働組合として、どういうふうなやり方をしていったらいいのかっていうことは、だいたい問われていくことがあると思います。必ずしも当面しないとは言えないと思います。
たとえば、いまの自民党ですか、保守党の国家が非常にうまくスタグフレーションを切り抜ければ、そういう場面はないかもしれませんけど、あまりうまくやれなかったら、みなさんが大なり小なり、存在自体を問われるっていいましょうか、みなさんの見識自体も問われるし、存在自体も問われる、どうするんだあなたたちはっていうことも問われるという事態がヨーロッパではきていますから、みなさんのところもくるというふうに考えられてもあれだと思います。
だいたい、しかし、日本の資本主義国家権力はたいへん賢明でして、今までのところ、西ドイツ、アメリカとともにかなりうまくやってきているから、ヨーロッパよりもうまくやってきています。だから、うまくやるかもしれません。そしたら、みなさんも要求だけしていればいいということになると思いますけど。
しかし、それはわかりませんから、資本主義は必然的に提起する問題がありますから、みなさんのほうも様々な役割とか、順番が回ってくるかもしれませんし、重役になれって、おれは嫌だって言ったって仕方がないからなるということもあるかもしれませんし、そんなことは様々ありうるわけです。先進的なモデルもあります。だから、みなさんがちょっとでもそういうモデルを勉強されればすぐに俺だったらどうしたらいいのかってことを考えられるかもしれません。
ただ、どんな本を探してもないことがあります。それは何かっていいますと、先ほどもちょっと言いましたように、みなさんが労働組合ないし労働者階級として重要なことは、ようするに、自民党国家に対してもそうですけど、あるいは社会党、その他革新的な政党に対してもそうですけど、ようするに、国家というものは消滅していく方向が正しいのである、それが理想なのであるっていうことです。
国家っていうのは開いていなければいけないよって、絶えず開くんだよって、国家は閉じちゃいけないのであって、つまり、国家は開かなくちゃいけない、絶えず、労働者、大衆っていうものによっていつでもリコールできる、つまり、いつでも労働者、大衆の選挙なら選挙っていうもの、あるいは、直接投票なら直接投票によって、リコールすることがいつでもできるんだよっていうこと、できるように開かれているのが、ほんとうの国家が消滅していくための条件なんだよっていうこと、だから、国家は絶えず開けっていうこと、そのことは絶えず要求し続けなければいけないっていうことだと思います。
それはやっぱり未来の問題です。それは、未来のヴィジョンの問題です。だから、どんなことがあっても、国家っていうのは、現在、国家が存立していない世界はどこにもありませんから、国家は大なり小なり100%存在しているか、30%支配して存在しているか、様々な度合いで国家は存在している、だけども、存在している国家は開かなければならない、いつでも開いていなければならない、それはそこで閉じられては、官僚的に閉じられてはいけないんだと、開かれていて、絶えず大衆がいつでもリコールしようと思うならば、いつでもリコールできるように開かれていなければならないんだと、開かれていないとしても、開くような方向への要求っていうものは、絶えず突きつけていなければならないってこと、それはたぶん、みなさんにとっては普遍的な問題であって、これはどんな立場の人にとっても言えることだと思います。だから、これはどんな素人にとっても言えることであって、そのことがひとつ大切な問題なんじゃないかっていうふうに思われます。
それで、もうひとつ、ぼくが言いたいことは、国家がコントロールする資本主義とかっていう言い方で引きましたけど、この資本主義という言い方のなかには、ある補正を施せば、いまの社会主義国にも通用する問題だというふうに理解していただきたいと思います。当面する問題でもあり、通用する問題でもあるというふうに理解していただきたいことです。つまり、その問題を絶えず考えてほしいわけです。
ところが、えてして進歩的な人っていうのは、国家が100%介入していく方式を社会主義、つまり、民を国有化するみたいなことを社会主義だと思っている、だいたいそういうことを思っている人が多いんです。そんなのは嘘ですから、国家っていうのは消滅するっていうこと、消滅の方向にもっていかなければ社会主義じゃないのです。ましてや、国家を閉じようとしている社会主義なんていうのはありえないんです。ファッショです、それは。あるいは、国家資本主義です。つまり、国家管理資本主義です。そうじゃないです、国家は開かれていなければならないんです。誰が権力を取ろうと、どの政党が権力を取ろうと、国家は開かれていなければならない、直接、大衆の投票によって、絶えずリコールができるんだっていうふうになっていなければ、それは少なくとも社会主義に対して開いている国家じゃないのです。
だから、自民党の国家はもちろん元々ないでしょうけど、しかし、国家は自民党の国家であろうと、それに対していつでも、国家はできるだけ開いていなければならないというふうに、法律、その他に対して、いつだって、みなさんのほうで目はちゃんと光っていたほうがいいと思います。いいことするなら光らせないでもいいけど、つまり、国家が開かれる方向な法令とかなんかが出されるとか、そういうことならいいけど、国家が自分自身を縮小させ、しかもみなさんに影響を与えるなら、それは結構だから大歓迎だってことでいいんだけど、国家が肥大化するとか、開かれないで閉じるみたいな、そういう形のもの、たとえば、法令とか、そういうものが出される風潮とかが出されたときには、それは絶えず開くべきものなんだっていうことは、やっぱり、いつでも要求としてもっていることが重要ではないでしょうか、それがいわば、ぼくの言えることです。つまり、こんなことは専門家がやれば、もっとうまく解説してくれるかもしれませんが、ぼくがやったことの意味づけをするとすれば、そこのところは、ぼくは言いたいような気がするんです。
それから、これはもちろん、みなさんにとっては関係ないので、見てればいい、わかっていればいいっていう問題なんだけど、つまり、現在の自民党の国家っていうのが、どういう方向に、現在、停滞しているインフレっていうものをどういう方向にもっていっているかといいますと、先ほど言いましたように、国家を縮小させることによって、そして一定期間、我慢といいますか、だいたいそういうことをしますと、2年とか3年後に影響が出てくるんです。だから、それまで我慢させちゃって、我慢させられるのはみなさんのほうですから、それはあまり我慢する必要はないので、賃金が減らされたり、クビになりそうになったら、ちゃんと闘争したらいいので、ただ引っかかってくるのは、そういうふうに国家を縮小させようという政策をとると、いちばんくるのは、どこにも影響はくるんですけど、だけど、いちばんくるのは、きて底が浅いのはみなさんだから、みなさんのほうはそれに対してはちゃんとされたほうがいいと僕は思います。その問題は、絶えず、みなさんの日常の問題として存在することは存在する。しかし、理念としてみなさんはもっておられるべきだと、誰がどう言おうともっておられるべきだと、と吉本が言ったというふうに、ぼくが言いたいのは、国家っていうのは開いていなければいけないっていうこと、そのことはほんとうに考えていなければいけない問題じゃないかっていうふうに、ぼくには思われます。だいたいみなさんに知ってほしいなっていう、このくらい知っていたら知らないことよりずいぶん気が楽になるみたいなことがあるんですけど、そのことは、だいたいおおよその骨組みは言い得たと思いますので、これで終わらせていただきます。(会場拍手)
テキスト化協力:ぱんつさま