吉本です。今日は「文学の新しさ」という題でお話しするわけですが、文学の新しさというのをどういう意味で使っているのか。現代の作家も、また読者も、文学の新しさというのをどういうものとして考えているかということをお話ししたいと思います。文学は新しくなければいけないとか、新しいのはよくないとか、そういうことではなくて、新しさというのはどういう意味なのか、あるいはどういう意味で使われているかという問題をお話ししたいと思います。
どこからでも入れるわけですが、皆さんに馴染みが深いかもしれませんから、黒柳徹子の『窓ぎわのトットちゃん』という作品から入っていきたいと思います。『窓ぎわのトットちゃん』が新しい文学かどうかと問えば、またいろいろな問い方がありますし、いろいろな答えが出てくるでしょう。読者が四百万いるというのは本当かどうかわかりませんが、少なくとも読者のほうが、ある種の新しさというか、ある種の問題性を認めているということは確かで、これは批評家がどう言おうと、読者の側から自然に規定されてくる、ある現在性というか、現在の新しさというようなものを含んでいるに違いないと理解しまして、まずそこから入っていくことにいたします。
皆さんがお読みになっているかどうかわかりませんが、四百万ですから、だいたい入っちゃうんじゃないかと思います。(笑)僕も読みましたから、そう思いますが、読まない方もおられることを考慮しながら、あたっていきます。
この『窓ぎわのトットちゃん』がどういう作品か、根本的に言いますと、日本の文学の伝統の中に私小説というのがありますが、それと同じような意味合いで、これは非童話を書いていると思います。よくよく読みますと、そのように書かれています。つまり非童話というのは、トットちゃんという女主人公の振る舞いを描いている一つの童話作品として書かれていると思います。
ところで童話作品として書かれているのですけれども、その童話作品がときどき破綻をきたします。黒柳さんという人は素人ですから、破綻ではあるとか、ないとかということをご自身でお考えではないと思いますが、ちゃんと言いますと、ときどき破綻をきたしまして、作者=自分の幼年時代のトットちゃんになっちゃっているところがあるわけです。だからそういうところでは、作品は童話ではなくて、そこから地続きになって、現実の黒柳徹子という作家が幼年時代に体験したさまざまな問題というふうに、ときどき破綻をきたして、そこが混同されてしまっているところがあります。
どういうふうに混同されているかというところを、たくさんありますけれども、一カ所、読んでみますと、これは校長先生のところにあります。「このときトットちゃんは、まだ退学のことはもちろん、周りの大人が手こずっていることも気がついていなかったし、もともと性格も陽気で忘れっぽいたちだったから無邪気に見えた」。読んだところでおわかりのように、ここではトットちゃんという主人公のことを作者が描写しているという位置で、この文章が書かれています。つまり文体があります。
だんだんいきます。「でもトットちゃんの中のどこかに、なんとなく疎外感のような、ほかの子どもと違って、一人だけちょっと冷たい目で見られているようなものをおぼろげに感じていた」。ここまでも、まだやっぱりトットちゃんがそういうふうに感じたということを、作者の立場から書いていて、トットちゃん=作者の幼年時代とはなっていないということがわかります。
ところが、だんだんそうじゃなくなってきます。「それがこの校長先生といると安心で、温かくて気持ちがよかった。この人となら、ずっと一緒にいてもいい。これが校長先生、小林宗作氏に初めて会った日、トットちゃんが感じた感想だった」。おわかりのように、この人となら、ずっと一緒にいてもいいというのは、トットちゃんが巴学園という学園の校長さんに対して感じたことを作者が描写しているわけですが、そのあとに、これが校長先生、小林宗作氏に初めて会った日のトットちゃんが感じた感想であったというのは、もはやこれはトットちゃんのことを抜きにしちゃって、作者が直接的に実在の小林宗作という巴学園を独特な教育理念で経営しているその人の説明に入ってしまっているわけです。
しかし作者にとっては意識されていないというか、そんなことはどうでもいいというように書かれているわけで、本格的に言いますと、この種の混同といいますか、文体の中での自然な混同というのは、だいたい通俗的な作品の中に必ず出てくる問題です。つまりこれは通俗的な作品、通弊です。これは相当優秀な作家、たとえば遠藤周作さんのような作家が書いた場合でも、この種の混同が現れてきますが、それが遠藤さんの通俗性だと思います。
それから芥川龍之介のような作家でも、円熟期というか、あまり熱がなくなったときの歴史小説の中にも、たとえば『ある日の大石内蔵助』みたいな作品の中にも、この種の混同が現れてきます。そしてこの種の混同が現れてくるときには、たいていその作家は通俗化していることがわかります。
逆に言いますと、私たちがこの作品はなんとなく通俗的である。つまり書かれている内容は相当深刻だけれども、どうも通俗的だという作品に皆さんが出合ったときがありましたら、よくよく文体自体を注意してご覧になると、この種の混同が行われていることがあります。
作者がその作品の主人公を自分が設定して、その主人公が何かしているということを書いているのに、突如として、作者の顔がじかに導入されてきて、何かしゃべってしまうとか、この種の混同というものが通俗的な作品の通弊だということがわかります。つまりトットちゃんという作品は、ある意味で通俗性がある。たくさんの人に読まれていること=通俗性ではありませんが、通俗であることの一つの非常に大きな要素というのは、こういうところにあると思います。
お読みになった方は、すぐにおわかりだと思いますが、トットちゃんというのは非常に特異な育ち方をしている。つまり非常に無邪気で、エゴセントリックで、たぶん両親が非常に教養豊かで、経済的にも豊かであって、自由な考え方を持っていて、エゴセントリックで、自分本位で、無邪気で、無意識の無邪気さで振る舞ってしまっても、破綻をきたさないような環境の中で育てられた子どもであった。それが小学校に行ったときに、すぐに破綻をきたすわけです。
たとえば興味が湧くと、授業中でも窓のそばに寄っていく。それが窓ぎわということでしょうが、窓のそばへ寄って、外をチンドン屋が通ると、チンドン屋を大声で呼んで、「いらっしゃい、いらっしゃい」とクラスの生徒を呼んで、みんなで窓ぎわでチンドン屋さんを見るというようなことをやってしまうわけです。しかしそれをやってしまうということの中に、禁止とか、抑制とか、そのようなものが少しもないわけで、言い換えれば、トットちゃんというのは別に特異な性格の持ち主ではないのですが、これはしてはいけないとか、これはだめだとか言われることなく育って、しかも自由な話のわかる両親に育てられて、そういうふうに振る舞っても、だれかからバサッとぶった切られたとか、グサッと突き刺されてしまったというような体験をしなくても済むような豊かな環境に育った子どもだということがわかります。
それで結局、公立の小学校では、退学してくれ、こういう子どもが一人いると迷惑だと言われて、小林宗作という人が経営する、一つの理念を持った巴学園に再入学するわけです。しかしいま読みましたところに書かれているように、両親は、おまえさんが勝手に振る舞うから退学になったのだとは言わないわけです。これは理念の問題でさまざまでしょう。そういうときに言わないのはよくないんだという考え方もあるわけでしょうし、またそこに反感を持つということもあるわけです。僕なんかは、反感というか、そういう育ち方をした人に嫉妬します。
それはなぜかと言いますと、人間というのは、やられたほうがいいんだという考え方もあるからです。子どもだってやられたほういい、たくさん傷を負ったほうがいい。エゴセントリックということと、無邪気ということと、無意識の傲慢さということとは、なかなか区別がつかわないわけですから、この問題は早くからはっきりしたほうがいいんだという考え方もあり得るわけです。しかしこれはまことにいい育ち方をしているわけで、その育ち方を否定しない巴学園に入って、巴学園でさまざまな体験をするわけですが、その体験は、自由に振る舞っても、それが許されるというものです。
たとえば「リボン」という項があります。トットちゃんは、自分のおばあさんが昔つけたリボンみたいなものをもらいます。これはきれいだから欲しいと言ったら、くれるわけですが、それで得意になって、トットちゃんはそのリボンをつけて学校に行きます。学校に行って、無邪気に振る舞っていると、クラスの子どもの中で、あのリボンが欲しいという子が出てきて、トットちゃんみたいなリボンが自分も欲しいんだと学園の校長である小林宗作という人に訴えた。
そこで困ってしまって、小林宗作という校長さんは、トットちゃんがつけているリボンと同じようなリボンがないかと町中の洋品店を探して歩くわけです。ところがいくら探しても、そのようなリボンはない。おばあさんなので、きっと明治時代の人でしょうが、明治時代の若い娘さんがつけたリボンなど、あるわけがないのですが、それでほとほと困って帰ってきた校長さんがトットちゃんを呼びます。
「トットちゃん、そのリボンが欲しいという子がいて、町中を探して歩いたけれども、どうしてもないから、悪いけど、明日から、そのリボンをつけないで来てくれないかなあ」と言うわけです。トットちゃんは「いいわ」と無邪気に言って、次の日からリボンをつけていかなかった。「リボン」という項はそういう挿話です。
そのときにも校長さんは、おまえさんばかり、いい気持ちになって、そんなものをつけて得意になっているから、ほかにも欲しいという子がいて、しょうがない。やっぱり規律を乱すから、やめさない。あなたの家みたいに恵まれた人ばかりが来ている学校じゃないんだから、そういうことはやめなさいとは言わないわけです。言わないで、ずいぶん探したけれども、ないから、そのリボンは明日からつけないで来てくれないかなと相談するものだから、それじゃ、いいわと言って、明日からつけてこないという挿話ですが、それが『窓ぎわのトットちゃん』のテーマとモチーフを典型的に語っていると思います。
そうすると『窓ぎわのトットちゃん』という作品が収斂していくところというか、どこに向かって、この作品が要約されていくのだろうかと考えてみますと、戦前の非常にリベラルな環境の中で、中産階級のリベラルで豊かな教養ある両親の持って、そういう環境で育った子どもが抱く一種の無邪気さ、自由さというのがあるわけですが、無邪気さ、自由さを作者が回顧しながら、回想しながら、あるいは追憶しながら、戦前の自由な豊かな両親の下で育った子どもの振る舞いの中に自分が入っていくということが、この作品の非常に大きなモチーフです。この作品の中心がどこにあるかというと、どうしてもそういうところに収斂していきます。しかしそれだけだったら、四百万という数字はどうでもいいのですが、それほどたくさんの読者は獲得できなかっただろうという気がします。
ところがもう一つあって、一般的なイメージとして、この種の戦前のリベラルな中産階級の教養ある両親の下で、禁止とか、制止とか、そういうものが一切ないという環境の中には、えてして意識しない傲慢さというようなものが必ず含まれてしまうわけです。意識はしないのですが、無邪気さの中に傲慢さが含まれてしまう。戦前の中産階級の自由な雰囲気の中に必然的に、あるいは一般的に伴ってくる感性なのですが、この両親は大変優れていたらしくて、そうなのにもかかわらず、非常に熟慮深いことを子どもにちゃんと伝えているわけです。
もう一つの挿話で、それを典型的に表しています。巴学園というのは学校にそれぞれの木が植わっていて、あれはだれの木、あれはトットちゃんの木というふうに決めていいことになっています。そして休み時間には、だれだれの木に登って遊ぶとか、そういうことをしてもいい。そこで主人公のトットちゃんも、自分の木に登ったり、眺めたりして遊んでいたわけで、それぞれの生徒が自分の木を持っていて、その木を大切にして、登って遊んだりしているわけです。
トットちゃんには小児麻痺の同級生がいるわけですが、私の木に招待してあげると、その子に約束するわけです。翌日、二人でやってきて、踏み台を置いて、自分が最初に乗っかって、次のその子どもを上から引っ張ってあげようとしたんですが、それでも持ち上がらなかったので、今度は踏み台の下から、その子どものお尻を押して引き上げたけれども、だめだった。さんざん二人で試みて、とうとう最後に、なんとかかんとか木の枝分かれのところに二人とも乗っかることができたという挿話がこの作品の中にあるわけです。
その挿話が典型的に語っているように、このトットちゃんは自由なる思いやりみたいなものがひとりでにできているところがある。これはやっぱり日本のリベラルな豊かな環境に育った中産階級の子どもたちには決してないものです。一般的にはないものであって、たいていは無意識の傲慢さを含むのですが、そこはこの両親が非常に偉かったと思います。それからまたこの巴学園の校長さんの教育理念も、さまざまな言い方はあるでしょうが、なかなかいい教育理念であったということがわかります。
作者はどうしようとしているのか。つまり類例のない資質を持った豊かで自由な両親のイメージと、それとほとんど同じイメージで思い描かれる巴学園の校長と校長の教育理念みたいなものを回顧して、自分がトットちゃんという幼児に化けて、そこの中に自分が感情移入して、そのイメージに入っていく。そして入っていくということが、この作品の非常に大きなテーマです。
そうするとなぜこういうテーマが現在の文学の新しさといえるものと、どこでつながるのだろうかと考えてみると、新しさというもの、現在の新しさというものは、この作品の中には少しもないわけです。それにもかかわらず、現在性というようなものがどうしてあるのか。
おそらく現在というのは、リベラルで自由で野放図に無邪気に振る舞える子どもと、自由で豊かで、子どもに対する思いやりがある両親を存在せしめる基盤がもはや存在しないという中で、懐かしまれている。それが非常に大きな現在性の理由だと思います。つまりこの作品が現在性を持っている理由はそこにある。現在なくなってしまったものをイメージによってつくりあげようとしている。そこにこの作品の現在性があると思います。なぜそういう自由でリベラルで、安定して豊かで教養ある両親がいて、そこで何不自由なく、禁止を設けられたりしないで、自由に育ち、振る舞い、巣立つというような可能性が現在失われているかということは非常にはっきりしていることで、それは現在の市民社会というものに安定性がないからだと思います。
つまりだれでも中産階級意識を持つことができるわけですが、この中産階級意識というのは、皆さんが顧みられればわかるように、これは絶えず不安にさらされています。つまり絶えず流動する、不安にさらされている中産階級意識であって、トットちゃんのご両親的な環境には、確かに大多数の人が物質的、経済的に入ってきているというのが現状だと思いますが、しかしその内面性には決して安定性はないわけです。絶えず流動していて、いつどうなるかわからないという不安をだれもが抱いていて、安定した市民階級として存在し、市民階級としての古典的な教養を持ち、その下に子どもをしっかりと教育するというような両親、たぶん皆さんのご両親の大部分はそうだと思うのですが、現在、そんな両親は虚像としてしか存在しないわけです。それほど現在の市民社会というのは不安定です。
なぜ不安定かというと、高度成長といわれていますが、経済社会的な規模が格段に膨大になっているからです。この膨大さの中で、物質的な要因にイメージを継ぎ足す。違う言い方をしますと、イメージの価値を絶えずこれに付け加えていなければ、収まりがつかない社会になっているということです。
生産構造自体もそうです。たとえば化粧品を見ればわかりますが、化粧品の中身は、資生堂もカネボウも変わるわけはないと思いますが、包装が違うとか、蓋が違うとか、テレビで宣伝している人物が違うとか、あるいは宣伝の仕方が違うとか、そのイメージの価値を付加することによって、こちらのほうをよりよく売ろうとか、そういう試みというものが絶えず噴出しているわけです。この試みが噴出しているために、安定した市民社会の像というものが描けないし、物質的基礎だけで精神が安定するというわけにはいかないのです。
仮に両親が古典西洋音楽を子どもに聴かせたいと思ったとしても、子どものほうは、どこかで尻をまくってしまうわけで、そんなことはしていられない。スピードはそういうものではないんだというふうになってしまうものだから、安定した市民社会の像というものは、もはや過去の郷愁としてしか成り立たないというのが、現在の社会の大きな要因だと思います。
そこのところでトットちゃん自身もそうですが、これを読む人も、日本の市民社会がつかの間ですけれども、形成され、つかの間ですけれども、安定した像を見せていた時代のリベラルな教育理念と、リベラルで教養ある父母の下に育った子どもであった自分というもの、つまり自分のエゴセントリックな振る舞いが制止されることなく許された環境、そういう学園にたいする無限の郷愁みたいなものが、この作品を支えている大きなモチーフだと思います。それがこの作品の反現代性、現代に対する一つの消極的な否認・否定になるわけで、そういうものとしての、この作品のモチーフがそこにあると思います。つまりそこがこの作品の新しさだといえば、新しさだと思われます。
文学の新しさということを、少し違う面から考えてみます。具体的な作品を挙げたほうがいいので、挙げますと、たとえば糸井重里さんと村上春樹さんの共著で、『夢で会いましょう』という作品が出ています。この作品は五枚ないし六枚の小編といいますか、そのようなものをたくさん並べることによって成り立っている作品集です。アイウエオ順に項目が分けてありまして、「ア」の項なら、愛とか、アルバイトとか、そういう項目があって、各々の項目を二人で分担して、それが原稿用紙五枚ないし六枚の作品になっているわけです。そういう作品がアからアイウエオ順にたくさん並べられているわけです。
この作品のやり方をどこから類推していったらいいかというときに、一番類推しやすいのは、僕はテレビだと考えます。あるいはもしかするとテレビからヒントを得て、糸井さんと村上さんはこの作品をつくったのではないか。つまりこの作品の構成を考えだし、そしてこの作品をつくったのではないかというふうに僕は思います。テレビでやっていること、やること、あるいはテレビで体験することを文字で、言葉で体験するというような作品が可能であるかどうかということが、たとえば糸井さんや村上さんの大きなモチーフだったのではないかと考えます。
テレビで体験することというと、一番簡単なのは、スイッチを押しますと、すぐに「銭形平次」で平次が銭を投げているところが出てくるわけです。それでしばらく見ていると、この次はこうなるなというのがわかるので、チャンネルを回すと、今度は小田誠が出てきて、なんとかかんとかやっている。それもわかったと思って、またチャンネルを回すと、今度は現代的なドラマをやっている。これもわかった、わかったと思う。つまりスイッチを切り替えて、嫌になったら、バッとスイッチを切ると、消えてしまう。このやり方が文学作品でできないかというのが、糸井さんや村上さんの根本的なモチーフだと思います。
これはやはりある種の新しさで、糸井さんや村上さんの独創であるかどうかは、僕には外国文学の知識はないですから、あまり判定できないのですが、どこからヒントを得て、何をしようとしているかということはすぐわかります。たぶんテレビの上でわれわれが体験するのと同じことを体験する作品は可能であるかどうかということを非常によく考えたと思います。
そうすると第一に短くなければなりません。なぜならば、スイッチを押したら、すぐに画像が出てきて、五分も見ていれば展開をある程度はつかめる。そういうものでなければならないとすると、長編作品はだめです。それから非常に短い作品の中で起承転結がなければいけない。そしてもう一つは、ある種の瞬間性ですから、瞬間的な一種の衝撃性みたいなもの、パターンの新しさで衝撃を与えるようなものがなければならないと考えられます。これは化粧品の宣伝と同じで、新しいパターンがあって、ハッと目を惹くというようなことがなければならないということが非常に大きな要因になります。この二つの要因があると、テレビを見るのと同じように文学作品を見るという可能性が出てくるわけで、たぶんそのことをしたと思います。
どういう作品か、一つだけ挙げてみますと、アの項に「アレルギー」があります。これは糸井さんが担当した部分です。これも五枚半ぐらいの作品ですが、どういう作品かというと、私は半径二メートル以内に女の人が入ってくると、アレルギーが起きて、赤い発疹が出て、じんま疹が全身にできてしまう。何とかして、このアレルギーを治そうと思って、ほかのアレルギーと同じやり方で、だんだんそれに慣れていくより仕方がないだろうと考えた。そこでまず女性がいたら、女性の風下に立っていることにした。そうすると、はじめのうちは、風下に立っただけでアレルギーが出てきた。しかしだんだん慣れていくうちに、アレルギーが起こらなくなった。その次に、女性の匂いのする空気をビニール袋に入れて、シンナーを吸うのと同じように吸った。そうするとやはりはじめのうちは、アレルギーが起きて、全身に赤い発疹が出た。ところがそれもやっていくうちに慣れてきた。つまり抗体ができてきたわけです。
そこでその次に、今度は触れることに慣れようと思って、夏に日焼けした女の人の日焼けではがれた皮をもらって、自分の皮膚につけることから始めた。だんだんおかしくなるでしょう? はじめのうちは発疹ができた。ところがだんだんそれも慣れてきた。そこで今度は女の人に指で触れてみた。そうするとやはりはじめのうちは、アレルギーが全身に出た。しかしそれもやっているうちに、だんだん慣れてきた。その次に、女の人の手を握った。そうしたらやはりはじめのうちは、アレルギーでとてもひどい目に遭った。しかしだんだんそれも慣れるようになった。それで今度は洋服を着たまま抱き合ってみた。やはりアレルギーが出て、ひどい目に遭った。それもだんだん慣れてきたので、今度は裸になって抱き合うということをやった。それもはじめのうちはひどい目に遭ったけれども、だんだん慣れてきた。それでとうとう努力の結果、自分はアレルギーを克服したというのです。
ところがアレルギーを克服してみたら、今度は女性なしにはいられなくなってしまった。それで今度は自分のほうから女性に寄っていくようになって、女性のほうが自分に対してアレルギーを感じるようになり、私が寄っていくと、女性が逃げるようになってしまった。それで終わりです。
これは非常に典型的にこの作品を代表していて、五~六枚のうちに、これだけ書くのだから才能がありますが、この種の才能というのは、いわばパターンの才能で、新しいパターンを考え出すという才能です。つまり文学の本質的な問題ということよりも、文学の新しいパターンをつくるということです。エンターテイメントな作品はみんなそうなんですが、文学の新しいパターンをつくるという非常に才気あふれる作品です。
しかもこれはテレビのスイッチを入れて、チャンネルを回せば、すぐに物語の中にも、映像の流れの中にも入れるということ同じことをさせる。これを読んで感銘を受けて人生観を変えたという人はあり得るはずもないし、だいたいそんなことを求めているわけでもない。はじめから問題にしていないので、要するに新しいパターンを提供して、次の瞬間にはスイッチを切られてしまってもいい。そういうかたちでもって、この作品は成り立っています。それで優れたレベルを提供しているということです。これは現在の文学の持つ非常に大きな新しさの一つ、あるいは形態的な、形式的な、様式的な新しさの一つだといえます。
糸井さんが現在多くの人に読まれている理由は、やはりそういうところにあるということがわかります。つまりこの五~六枚の作品一つ取ってきて、それを検討しますと、糸井さんがなぜ現在の読者にある受け入れられ方をしているかという理由がつかめると思います。そしてたぶん間違いはないと思います。つまり糸井さんという作家をつかむのに、それでつかめばいいと思います。はっきりしていると思います。それはたとえば現代の文学の新しさというもののある形、様式、型の新しさを示す一つの大きな例だということがわかります。
それではだんだん複雑なところに入っていきますが、次に、スイッチを入れれば、テレビがパッと出てくる。スイッチを消せば、その物語が向こうから消えてくれる。たくさんのイメージの価値を付け加えられたものがわれわれの中に入ってくるという一つの価値概念であって、決してものの様式だけでもなければ、イメージの様式だけでもなく、ものの様式+イメージの様式というものが、われわれにある価値観を強いてくる、強制していく、あるいは覆い被さってくる。糸井さんの作品も、黒柳さんの作品も、それぞれ部分的にある意味合いを込めて背負っているということがわかります。
たとえば筒井康隆さんの代表作に『脱走と追跡のサンバ』という作品があります。この中で一つの寓話と言ってもいいぐらい、現在の様式性の問題を典型的に語っています。この作品は、俺という主人公と正子という女の子の二人がボートに乗って川を下っていくうちに、川岸にビルがあって、そのビルの部屋に飛び込んでいく。そこから下水道をくぐり抜けて、出ていくと、いままでいた世界とまったく同じで、まったく同じ人がいるんですが、俺という主人公は何となく違う世界に来た、いままでいた世界と違うところへ来たという違和感を感じる。違和感を感じる以外は、人間も同じだし、建物もありますし、町もありますし、全部同じですが、主人公にはまったく違う世界に来てしまったという感じがするわけです。
それで作品の中では、主人公は本質テレビというテレビ局を訪ねていって、テレビ局のスタジオに入っていくと、そこでサラリーマンの上役と下役が喧嘩をしている。責任のなすり合いをして、二人で喧嘩口論しているところに出会うわけです。そのときにそばにいたプロデューサーが見学者であろうと、何であろうと、このスタジオに入ってしまえば、あなたもテレビの出演者と同じ、何かに出演している人間なんだと言われた。どうも不可思議でしょうがない。喧嘩をしているサラリーマンの上役と下役と、そこにたまたま紛れ込んでしまった自分を映しているテレビカメラがどこかにあるに違いないと思って見回すと、部屋の一画にカメラがあった。
これはかなわないと思って、テレビカメラの中に飛び込むと、また違う世界に出たわけですが、振り返ってみると、自分が前にいたところで、上役と下役が喧嘩しているのが、見える。そうすると今度は、自分のそばには、喧嘩している二人とは全然違う方向を向いた男がいて、何かセリフを言っている。その男は、勤め先で喧嘩して失業しても、この証書があれば大丈夫。これはなんとか失業保険の証書だと言っているわけです。それで、これは失業保険のテレビコマーシャルなのではないかと主人公の俺は気がついて、びっくりして、どこかにまたテレビカメラがあるに違いないと見てみると、やはりあって、そこに向かって突進して突き破ってしまうわけです。
ところが、テレビカメラの向こうの世界は、よく見ると、上役と下役が喧嘩していたというのは事実ではなくて、テレビコマーシャルの一つであって、それに対して、ああいうふうに上役と喧嘩して、クビになって失業したときに、この証書が役に立ちますということで、それが全体として一つのテレビコマーシャルなんだということがわかるわけです。
そこからまたテレビカメラを突き抜けて、違う世界に行ってみると、そこは前に正子という女の子とボートに乗ってやって来たときに見えたビルの部屋だということがわかるわけです。それがその部屋のおやじさんと喧嘩になってしまって、火をひっくり返して火災になってしまうんですが、よく見ると、川の向こうに正子という女の子が待って……
【テープ反転】
……つまり虚構、フィクションであり、イメージなんですが、イメージの世界が何重にも重なっている世界で、俺というのが実在の人間なのか、あるいはこういう世界に入ってしまえば、一から十まで、自分は虚構の人間になってしまうのではないかという主人公の恐れ、不安というものは、この作品の中には非常に如実に出ているわけで、筒井さんの代表的な作品だと思います。
これと同じようなテーマを扱っている近作で、『虚人たち』がありますが、これに比べたら、不安とか恐れというようなものが、もはやなくなってしまっています。だけどこの作品には一から十まで虚構の中に自分が入り込んでしまっているのではないか。あるいは虚構の中が実在だと思っていると、それもまた虚構の中の一つだというふうな何重にも虚構に取り囲まれた世界の中に、現代の人間は入ってしまっているのではないかという不安と恐怖がこの作品の大きなモチーフであり、それがはっきりと描かれています。
いまでもたぶん芸能の世界とか、あるいはテレビコマーシャルの世界は典型的にそうですが、その世界にいる人たちは、一から十まで、自分はイメージの中の人間だというふうに、生活自体も全部イメージの世界の中に入ってしまっているという実感を持っているかもしれません。
われわれはそうではありません。われわれは、ある部分リアルな世界にいて、リアルな体験をして、稼いだり何かしたりして、夜帰ってきて、テレビのスイッチを押すと、そこに虚構の世界が展開される。そういう世界に何時間か入っていって、スイッチを切れば、また現実の世界に戻る。そしてまた明日、勤めに行くということを繰り返しているから、ある時間帯だけ、イメージの虚構の世界へ入っていくという体験をしているわけです。
しかしその世界にいる人たちは、一〇〇%そういう世界に入っているかもしれません。そういう実感を持っているかもしれません。つまり、もはや現実の自分というのがわからない。いるのは全部偽の人間、虚構の人間、フィクションの人間だという実感を持っているかもしれない。その実感を持つ恐れということを筒井さんはよく表現していると思います。
これはたとえば何でもいいのですが、沢田研二なら沢田研二というという歌手をとってくればいいでしょう。つまり沢田研二という人は歌はうまいかもしれませんが、現実の生活の中では、ごく平凡な、ごく普通の青年だと思います。しかしたとえばテレビとか部隊に出てきた場合に、化粧をして、背中に豆電球か何かを背負い、それでレーザー光線みたいなものに取り囲まれている。そういうふうに自分をフィクション化する。それがフィクションの価値です。つまり沢田研二は少なくともその時間帯は、そして歌を歌っている限りは、自分は全部虚構として振る舞っているわけです。虚構として振る舞っている沢田研二と、化粧を落として、家に帰って、塩鮭でご飯を食べている沢田研二、そういう現実の世界と、イメージの世界との非常に大きな落差を一日のうちに踏んでいることがわかります。
そのときに付加されるのは、現代におけるイメージの価値、あるいは虚構の価値であり、この虚構の価値の規模は大きくなり、深さも深くなるばかりだということはいえますが、沢田研二という人はそのことを知っているはずだと思います。つまりイメージとして振る舞う、足の先から頭の先までイメージとして振る舞う自分と、そうではなくて普通の平凡な青年として生活をしている自分との落差、イメージとして変身して、どういうふうにすれば戻るかということをよく心得ていると思います。
しかし読者あるいは視聴者のほうは必ずしもそうではありません。イメージとしての沢田研二を沢田研二の本質として見る、あるいは沢田研二として見るというふうになっていると思います。大部分の人と言うと語弊があるので、大部分のファンの人はそういうふうになっていると思います。そうすると、ファンの人に沢田研二はどういう人かといった場合に、即座にイメージとしての沢田研二、つまり一から十までイメージである沢田研二を指さすに違いないのです。
ところが沢田研二のファンでもなく、奇妙な化粧をして、電球を後ろに背負って、何かわけのわからないことを言っている。そういうのはおもしろくないと思っている人は、沢田研二などは知らないと言うでしょうし、沢田研二はそこらにいる普通の人と変わらないですよと見るかもしれません。つまりその見方は全部イメージとして見るか、全部、現実の生活人として見るか、あるいはある時間帯は生活人であり、ある時間帯はイメージである。そういうきわどい変身を成し遂げている沢田研二の全体を思い描くか、それは人によってさまざまでしょうけれども、それくらい大きな差異が出てくることがわかります。
これは非常に極端な例を引いたから、そうなるのですが、現在の文学とか、芸術とか、それから芸能もそうですが、そういうものが置かれている場所というのは、実際の現実的な価値とか、物質的な価値に対して、そういうイメージの価値が付加される。大なり小なり付け加えられる。その全体を指して、ある価値様式を考えているというのが、われわれが自然に置かれている環境だということがわかります。
これがいい悪いという判断は別にして、現代の文学の新しさというものの根底にある問題は、だいたいこの問題に違いないということは言えると思います。この問題に対して、個々の文学者がどういう態度をとるのか、それがその作家の文学というものを決定していく、つまりその文学を決定していくわけです。
だから自分はもうそんな世界にはそっぽを向いて、自分の身辺のことだけを作品に書くんだ。年輩の私小説の作家というのはそうだと思います。生活体験を記述するだけだという人もいますし、そうではなくて、先ほど言いました筒井さんもそうですが、糸井さんのような、つまりこういうイメージの世界、あるいは虚構化の世界のまっただ中にいて、そこでもって、あるパターンの新しさというものを生み出そうとしている作家もいます。
またそういうイメージの世界は、いわば既成の前提なのだから、その前提の中に自分はいながら、どこかで自分が風穴を開けるというか、どこかで突き抜けていこうというような考え方を持って、作品を生み出そうとしている作家もいるかもしれません。
つまりその各々のあり方というものが、その作家の作品の質を決定しますし、またその作品の様式を決定しますし、またその作品の主題を決定すると言うことができると思います。しかし根底にある問題は、その問題のように思います。
そこで、この問題はどういうことなのかということになってきます。つまりこの問題はどういうことなのかというと、沢田研二でもいいのですが、われわれが大なり小なり、ある時間帯、イメージの世界、虚構の世界に入っていく。あるいは必然的に入っていかなければ、二十四時間の生活が成り立たないという場合に、入っていくイメージの世界というようなものは、入っていく主体が決定しているものではないわけです。だれがそれを決定しているかは別として、少なくともその人が決定するものではない。だれにとってもそうだと思います。現在の社会で形成されているイメージの価値の世界というのは、だれにとっても、その世界は自分が決めたもの、自分が一人でつくりあげたイメージではないわけで、その世界の中に、大なり小なりある時間帯、入って出ていくという体験をだれもが強いられているわけです。
そうすると、このイメージの世界の虚構化というか、イメージ化というか、少なくともその時間帯だけは、現代の人間は全部だれかに管理されているのではないか。なぜかというと、自分がつくりあげたイメージの世界へ自分が入っていって、そこから出てくるということではなく、スイッチを入れれば、そこに存在するイメージの中に、ある時間帯入っていって、そして出てくるわけです。
皆さんが大きなレストランに入れば、それはうちのウサギ小屋とは違うわけで、そこのイメージの世界で食事をすると、同じものを食っても、うまく見えるかもしれないということはあるわけで、高い金を取られて、うまく見えるかもしれないということはあり得るわけです。そうするとそこで付加されるものはイメージです。そういう世界に、だれでもがある時間帯だけは必ず入って、そして出ていく。そのイメージの世界に入るときだけは、自分がつくったイメージではありませんから、あるいは自分の手に負える世界ではありませんから、その世界に入ったときだけ、その瞬間、その時間帯だけは管理されていると考えることができると思います。この管理の度合いが大きい生活環境にいる人もいますし、また少ない生活環境にいる人も、個々さまざまであるわけですが、現在の社会というのは、このイメージの世界が大規模になり、分厚くなる、深さが深くなるというふうに考えると、大なり小なり、管理されている時間帯はだれにとっても増えていくだろう、増加していくだろうということが、現在の新しさの根底にある問題だと思います。
その問題をどういうふうに考えるかということが、現在の文学作品の新しさの本質を決定するだろう。つまりこの問題が現在の文学が当面しているものの根底にある問題だと思います。
この問題はたとえばいつから始まったのだろうかということもあるわけですが、いつから始まったのだろうかとは言わないで、だれを考えれば、一番考えやすいかというと、第一次大戦と第二次大戦の狭間に位置すると思いますが、チェコにカフカという作家がいました。
このカフカという作家の本質的なテーマになっているのは、一種の変身です。『変身』という作品自体もありますが、変身はカフカの文学の非常に大きなモチーフになっています。全部とは言いませんが、非常に大きな部分を占めています。少なくとも長編小説を除いたカフカの作品は、だいたいこの変身という問題から成り立っているのではないかと言えるほど、大きなモチーフになっています。このカフカの『変身』のあたりから、現代文学の不安とか、恐怖みたいなもの、あるいは一種の解体みたいなものが始まっていると考えてもいいわけです。
カフカの『変身』を考えてみると、この作品は、ある日、主人公が目を覚ますと、自分は巨大な毒虫に変わっていたところから始まるわけです。この主人公は勤めに出て、親父さんと、妹さんと、お袋さんの三人の生活を支えているわけですが、連続して悪い夢を見て、ある日、起きたら、自分が虫になっていた。今日も勤めに出なければ、どうしようもない。しかも上役はとても厳しくて、ちょっとでも無断で休んだりすると、すぐにクビだと言われてしまうから、何とかして勤めに行こうと考えるのですが、いかんせん虫になってしまったので、どうすることもできない。
そうすると、そこに会社の支配人が来て、お前のところの息子が今日は出勤してこない。こういうことが度重なれば、やはりクビにせざるを得ないんだと言った。家族が部屋を開けようとしても、鍵がしまっていて開かない。いくら呼んでも、もぐもぐ言うだけで答えられない。それで一家の生活は困っていくわけです。家族は、その虫はグレーゴルという主人公が変身したものではないかと漠然と考えるわけですが、グレーテという妹は、毎日、部屋を開けて食べ物をそっと置いていく。それを食べて、変身したグレーゴルは生きているわけです。妹さんだけが、虫になったのは兄だろうと考えて、世話をやいている。グレーゴルは、妹には音楽を習わせてやろうと考えていたのですが、虫になった自分はそういうこともできない、どうすることもできないわけです。
一家は困って、親父さんは下宿人を三人置きます。その下宿料で生活をしようと考える。その三人の下宿人が、かつてグレーゴルが家の中で占めていたような位置を占めるようになって、あるとき、妹さんがバイオリンを三人の下宿客に弾いて聴かせていると、グレーゴルは、かつて自分が妹に音楽を習わせてやろうと考えていたことを思い浮かべて、懐かしくなって、ドアの隙間から這い出していって、妹の体をよじ登っていって、妹の首筋に接吻しようとした。それを下宿人たちが、「なんだ、この虫は」と毛嫌いしたことを契機にして、妹は自分を可愛がってくれた兄、虫であるグレーゴルに対して非常に冷たくなるわけです。冷たくなって、あれは兄ではなくて、虫だから、あんなものはほったらかしておけばいい。もう食べ物をやったりしないほうがいいわというふうに変わってしまうわけです。
もちろん変わると同時に、もう一つのテーマがあって、親父さんは、いままでグレーゴルに生活を任せていたのですが、虫であるグレーゴルに「あれは何だ」とつれなくしたことを契機に親父さんが奮起して、思い直して、三人の下宿人に「出ていってくれ」と宣告して、その三人の下宿人を出してしまう。そして勤めに出ようと考える。そういう親父さんの転換と、娘さんの気持ちの転換というものがあって、そこがクライマックスですが、そこでもって、虫になったグレーゴルは、「あんなのはただの虫だから、もうほったらかしてしまおう」と妹に言われるまでもなく、自分もそろそろ死に時だと考えるようになって、食べ物も食べずに、ひからびていって、ある日、息絶えて死んでしまうわけです。それをお手伝いさんが発見して、掃き捨てられてしまうというところで終わります。
この『変身』のテーマは、カフカという作家の理念、思想に即して、さまざまな理解の仕方ができるのですが、今日はそういうことではなくて、この変身の意味をどういうふうに理解したらいいかということ、つまりこれが現代文学のとば口の一つとして、このカフカの文学作品があるとすれば、どういうふうにそれを理解したらいいかということだけを申し上げますと、この作品はこうだと思うんです。
つまりこの作品は、『窓ぎわのトットちゃん』と同じように、一つの童話作品だと考えるとします。童話作品だと考えるとすると、主人公がかわいがっていた虫がいた。ところが主人公が死んでしまい、虫だけが残されたので、主人公の妹が代わりにかわいがってやろうということで、食べ物をあてがった。そういう作品ならば、皆さんにもたくさん思い当たることがあるはずです。つまりパターンとして思い当たることがある。
これはさまざまなバリエーションを考えることができます。主人公の少年がかわいがっていた犬がいた。ところが主人公のお父さんが北海道に転勤になって、一人で赴任したので、少年が夏休みに行ったら、犬も少年の後を追って北海道に行った。主人公の少年はそこで死んでしまった。そこで親父さんと妹さんがその犬を主人公の代わりにかわいがった。たとえばこういうパターンでもいいんです。
つまり主人公が死んだとか、いなくなった。それで主人公が愛していたもの、一心同体であったもの、それは動物でいいわけですが、動物が残された。それを家族の者がかわいがった。こういうテーマならば、ごくありふれたテーマとして、皆さんはいつでも当面することができると思います。これはさまざまなバリエーションで存在することができます。また童話作品として、こういう作品はさまざま存在することができますし、また人を泣かせる少年と犬の物語みたいなものは、だいたいこういうパターンを持っているということはよくおわかりになると思います。
そこでカフカの『変身』という作品を、一種の解体・組立作業みたいなものをしてみるとします。主人公は悪い夢をたくさん見て、目覚めたら、自分が毒虫に変身していたというところから始まるわけですが、これを解体・再編成して、もっとやさしい通俗的な作品に置き換えてしまうと、主人公がかわいがっていたカブトムシがいた。しかし主人公が何かの病気で急に死んでしまった。あるいは何かの事故で死んでしまった。あるいは出張で遠くへ行ってしまった。それで主人公がかわいがっていた虫を家族の人たちが、あるいは妹さんが、主人公の代わりのようにかわいがっていたけれども、何かを契機にして嫌になってしまって、かわいがらなくなった。そうしたら虫が死んでしまった。こういう物語にしてもいいわけです。
つまり通俗的に解体作業をすると、この手のごくありふれた作品として、皆さんのお目にかかり、お涙を頂戴したりするであろう、そういう作品に組み立てることができるのですが、こういう解体作業の成り立つ通俗的な骨格に対して、カフカがしていることは何かということです。
主人公と虫がいて、そして主人公が不在になって、虫だけが残される。その残された虫を家族の者がどうかわいがったとか、かわいがらなかったとか、そういう作品ではなくて、ある日、目が覚めたら、主人公が虫になっていた。体は虫でありながら、心とか、判断とかは人間のようにする。そういうかたちになるわけです。しかし人間のように判断できるから、人間のように振る舞えるかというと、そうでなくて、虫の体としてしか振る舞えないわけです。しかし精神の働かせ方はあくまでも人間です。この変身の仕方の中に、カフカの文学作品の一種の秘密というようなものが隠されていることがわかります。
この秘密は何かというと、通俗的に解体してしまえば、スイッチを押せばテレビが出てくるという世界に置き直してしまえば、よくお目にかかる少年ドラマみたいなもの、主人公が犬をかわいがっていて、主人公がどこか遠くへ行ってしまった。それを犬が追いかけていくとか、あるいは主人公が死んでしまって、犬が残されて、それを家族の者がかわいがったとか、その手の話はスイッチを押せば、皆さんは一週間のうちに一つや二つ、必ずお目にかかるドラマの中に存在します。そのように存在するものが、いわば虚構化ということの一般的なレベルである。あるいは虚構化の大部分のレベルだとすれば、そうではなくて、主人公自体が虫に変わってしまったというところで、虫である体と人間の判断力の中でもがく主人公を設定したということの中に、管理のされ方、つまり人間の虚構化のされ方に対するカフカ自身の思想、理念、そういうものが含まれていることがわかります。
カフカの文学というのは、マイナーな文学です。つまり大文学ではなくて、マイナーな文学ですが、これなしには現代文学のあり方はとらえようがないというほど重要な文学だということがわかります。そしてこの重要性がどこにあるのかということを非常に考えやすくすれば、いま申し上げましたように、主人公とかわいがっている動物という設定で、皆さんが一般的なイメージの世界、虚構の世界でお目にかかれる作品と、カフカの『変身』という作品の中の主人公の変身のあり方、つまりこれは管理のされ方に対する一種のカフカの感受性ですが、その感受性のあり方との差異、違いというものが、カフカの文学の本質だということがわかります。またこれがカフカの文学が持っている現在性であり、また重要さだと思います。
ところでカフカの変身、あるいは人間は虚構化された部分は管理されざるを得ないという現代の社会的なあり方、あるいは現代世界のあり方に対するカフカの変身のあり方というのは、言い換えれば、カフカ自身にいつでも還元できるような変身の仕方です。つまり管理されているとしても、管理の度合いというのはカフカ自身が量れるような度合いです。
現在における文学が当面している管理のされ方というのは、先ほどから縷々説明してきたことからおわかりのように、自分に還元できないような変身のされ方、つまり虚構化のされ方が個人に還元できないような虚構化のされ方だということです。個人は強制的にその世界へ入らされて、またそこから出される。それだけのことであって、個人が虚構化の世界を統御するということはなかなかできにくい。管理のされ方が個人になかなか還元されない。言い換えれば、自分が管理されていることすら意識することができない。そういう管理のあり方です。
ぎゅうぎゅう押し詰められて身にこたえたというならば、非常にわかりやすいので、反発の仕方もわかりやすい。しかしそうではなくて、その管理が個人の内面になかなか返ってこないような管理のされ方で、いつでもマスにしか還元できない管理のされ方ですから、個々の人間には管理されているということすら意識されない。また管理されていること自体、楽しくないことはない。つまりイメージの世界に入ることは楽しいことでもある。そのような管理のされ方の一種の特異さという特徴があるわけです。
この特徴は、たとえばカフカが『変身』などの作品によって象徴した管理のされ方と大きく違っているところだと思います。これは時代の相違であるかもしれません。つまり現代の管理のされ方は、個々の人間になかなか還元されない。個々の感受性になかなか還元することができない。そういう管理のされ方を、ある時間内においてはどうしてもされざるを得ない。それがますます強固に大規模になりつつあるという問題が、現在の文学の新しさ、文学が当面している大きな問題だと考えることができます。
そうすると、この手の作品、つまりカフカのように意義深い作品は、現在存在しないのだろうかということになりますが、たぶんそれは存在しない、そんなにうまくは存在できない。大変難しいわけです。存在し得ないものを存在せしめているから、カフカは優れた作家、偉大な作家ということになるのでしょうが、こういう作品を生み出す作家を見つけだすこと、生み出すことはなかなか難しくて、めったにお目にかかることはできません。しかし現在の、たとえば日本の文学なら文学の雰囲気の中であれば、精いっぱいやっているという作品にお目にかかれないことはありません。
たとえば一つの例を挙げてみます。これは高橋源一郎というまったく未知の作家ですが、『さようなら、ギャングたち』という、これは昨年十一月号か、十二月号か、『群像』に載った作品です。『群像』の新人賞に応募した作品で、新人賞はもらえなくて、優秀作というかたちで掲載されていた作品です。
この『さようなら、ギャングたち』は非常に優れた作品で、かつ現在の文学の新しさに応分に応えている作品だと思います。これは先ほど言った糸井さんの作品と同じように、スイッチを入れれば、ある映像が流れてくる。それはわかったと、チャンネルを回せば、また次の物語の中に入ることができる。別のチャンネルに回せば、また別の物語の中に入ることができる。そういう様式、現在、映像がたどっている様式、虚構化が一番多くたどっている様式を作品の各節、各章に適用している作品で、糸井さんたちの作品のような意味の新しさというものもあります。
それから皆さんもお馴染みの劇画とか、マンガの手法がふんだんに使われているところがあります。たとえばこの作品の冒頭では、アメリカの大統領は代々、ギャングたちにクビを吹っ飛ばされて死んでしまうというところから作品が始まるわけですが、そこのところの描写を四~五行、読んでみます。
「大統領が風船ガムを一口かんだとたん、もう大統領の肩の上には何も載っていませんでした」。つまり爆弾で吹っ飛ばされたということでしょう。「私が大声で『大統領閣下!』と叫び、頭を吹き飛ばされた大統領にしがみついたとき、大統領はもう一つの風船ガムの包装を破ろうとして、一生懸命になっておられました」という描写があります。この描写は劇画の場面からヒントを得ているということがすぐにおわかりだと思います。つまりこういう描写というのは、文学の常道の描写の中にはないのであって、首が吹っ飛んだ劇画の場面が先にあって、その場面を言葉がなぞっていると言っていいぐらい、画面のイメージが劇画的だということがおかわりになると思います。
この作品は、ほとんどがそういう劇画的な描写と、それからテレビのチャンネルを回せば、また次の物語が出てくるという、そのようないくつかの脈絡のない物語が寄せ集まってできあがっています。主人公が詩に固執しているということ、それからギャングに大変固執しているということ、その二つは一種の統一性があるけれども、脈絡はそんなにありません。つまりチャンネルを回せば、次の物語が出てくるというのとまったく同じで、回したくなったら回す、嫌になったら、次のに回す。そっくりそれと同じように、作品が構成されています。
だから話が始まって、山があって、谷があって、そして終わりになったという作品の考え方からいけば、そういうものは全然なくて、破片を集めているだけです。しかしスイッチを押して、チャンネルを回したら、ある物語があって、それを若干見ていると、物語の流れはわかる。それでいい加減わかって、それに飽きたら、次のチャンネルに回したら、次の物語が流れていた。それにスッと入っていって、またその物語を追っていくけれども、ある程度追ったら、また次のチャンネルに回した。そういうふうに作品がつくられていることがわかります。かなりの長編ですが、そのような体験を読者に強いるような文学作品だということがわかります。
作品の質というのも、テレビチャンネルを回せば出てくるような要素が含まれています。たとえば先ほど言いました糸井さんや村上さんの世界というのもあります。ちょっとそれを読んでみましょう。これは第一部の4というナンバーのところですが、主人公とその恋人の女性の会話です。「『君に名前をつけてもらいたい』と私は彼女に言った。『いいわ』と彼女は言った。そして『私にも名前を頂戴』と付け加えた。ミルクとウォッカのカクテルを飲んだヘンリー四世は、バスケットの中ですやすやと眠っていた」。これは猫だと思います。「私たちは初めて愛し合ったあとで、心地よく抱き合っていた。私は自分の机へ行って、原稿用紙に彼女の名前を書いた。ベッドの上で、彼女は向こう側を向いて、小さな手帳に私の名前を書いていた。私は彼女の裸の背中を眺めていた。私は女の背中がそんなにきれいなものだとは知らなかった」。
これだけではちょっとわかりにくくて、前後を見るとわかりますが、このときに男が女にどういう名前をつけるかというと、「中島みゆき・ソングブック(SB)」という名前をつけ、女のほうは、「さようなら、ギャングたち」という名前を男につけるわけですが、その前後を読むと、そのころはそういうふうに名前をつけるようになっているわけです。つまりそういうふうにして、男と女が名前をつけあう。そういう展開の一説です。
この展開の仕方と、モチーフの取り方というのは、極端に言えば、冗談を真面目にやっているようなところがあって、これは糸井さんや村上さんの世界です。つまりこれは支離滅裂、何も意味がない、ナンセンスじゃないかと言われたら、もちろんナンセンスです。ナンセンスなことがしたい、むちゃくちゃなことがしたいわけです。むちゃくちゃで、ナンセンスで無意味なことを真面目にやりたい。それが真面目の倫理的な問題だということが、たぶん大きなモチーフの一つだと思います。そういうことをしたいわけです。
それからもう一つ、SFのアニメーションと同じ手法じゃないかと思えるところを読んでみます。これは第一部のナンバー11から14のあたりに展開されています。いま言った男と女の間に女の子が生まれます。女の子にはキャラウェイという名前をつけたということにこの作品の中ではなっています。このキャラウェイは、なぜか知らないけれども、死ぬ日が決まっていて、死ぬ日になると、その社会の習慣で赤いリボンをつけることになっている。それで自分はキャラウェイに赤いリボンをつけてやる。そこを読みます。13のキャプチャーのところです。
「キャラウェイは静かに死んでいった。キャラウェイは私の腕を枕にして、すぐにすやすやと眠り始め、少しずつ少しずつ呼吸が弱くなっていった。そして呼吸がやんだ。いつキャラウェイが死んだのか、一緒に寝ている私にもよくわからなかった。私はじっとしていた。『キャラウェイはおいたなんかしない』、ふいにキャラウェイが言った。私はじっとしていた。キャラウェイは朝まで、もう何も言わなかった」。それで死んでいるわけです。
ところでこの国のこの社会では、死んでしまった人がいると、役所から死体を引き取りにくるという法律になっていて、キャラウェイが死んだので、指定のとおり、死体を迎えに来るというのを主人公は断って、「娘は私が連れていきます」と言うと、「それでは警察署指定のコースを歩いてきてください」と電話で言われた。主人公は死んだ人間を引き取りにくることになっているというのを退けて、自分がちゃんと運んでいくと言うわけです。そうすると役所のほうでは、それでは警察が指定するコースを歩いてきてくれと言うわけです。それで主人公は死んだ子どもを抱いて、指定のコースを歩いていく。そういう作品の中の一つのチャンネルです。
この作品は一種のSF的なアニメーションの持つ一種の空想的な幻想性と、それからここがいいところなのですが、一種の悲しさみたいなものがそこの中に描かれています。これはまったく荒唐無稽な物語で、荒唐無稽なキャプチャーなんですが、この種のキャプチャーをたくさん積み重ねていて、ちょうどチャンネルをひねれば、そうなる。チャンネルをひねれば、また違うものが出てくる。そういう作品を展開しているわけです。
この作品はかなり高度な作品で、糸井さんや村上さんのように、はじめからチャンネルを押したら出てきて、飽きたら消してくれればいい。消して捨ててくれればいいというふうに書かれた作品ではなくて、これはふざけた作品ですが、非常に大まともに書かれています。つまり非常に荒唐無稽な、あるいは空疎な話の断片を非常にまともに描くという中に、一種の倫理性というものが存在し得る。あるいは現在における文学の倫理性というようなものは、そういうところにしか本当は成り立たない。つまり大真面目で空虚で荒唐無稽な事柄を非常に真剣に描く。そして真剣に描くために、それは空想になったり、ばかげた話になったり、あるいはSF的な架空の幻想性の話になったりしてしまうわけですが、そういうことをかまわずに、真面目に真剣にそれを描く。そういうことの中にしか、文学の倫理は存在しないという、代弁すれば、そういうモチーフがこの作品に含まれている。かなり高度な作品です。
昨年度書かれたものの中で、指折りのいい作品で、めったに出てくる作品ではないと思います。お読みになって損はしないと思います。カフカと比べてどうかと言われると、ちょっとそれは困りますが、現在のほかの文学と比べてみたら、もちろん大変にいい作品です。抜群にいい作品の一つだということがわかります。
この人がどういう作家か知りませんし、そこに閲歴が書いてあるわけでも何でもなくて、本当に新人で、応募して出てきて、あまりにすさまじい作品なので、選者の人が入選作にしてくれなかったのだろうと思いますが、読むに値する作品ですから、機会がありましたら、お読みになってくださればいいと思います。
『さようなら、ギャングたち』は最後の第三部ですが、その中に四人のギャングが出てきます。これもなぜ四人のギャングなのかとか、そういう由来などはどうでもよくて、スイッチを押したら、四人のギャングが出てきたとお考えになればいいのですが、四人のギャングが主人公が経営している詩の学校へやってくるわけです。そして詩を教えてくださいと言うわけですが、そこのところを読んでいます。それはたぶんクライマックスで、緊迫した一番いいところです。緊迫というのは、荒唐無稽ででたらめなんですが、でたらめの中にものすごい悲哀と倫理というものが、よく読むと、含まれているということです。
ギャングが私の経営している詩の学校へやってきて、詩を教えてくださいと言うわけです。おし、つまりしゃべれないギャングなんですが、「私はおしのギャングに話しかけた。『立ってください。お願いします』。おしのギャングはのろのろと立ち上がると、片手を腰のケースに……
【テープ交換】
……『コーヒーとサンドイッチ』、おしのギャングの唇から音が漏れた。『そうです。それでいいんです。続けて』、『真っ白』、『真っ白』、『真っ白』、『コーヒーとサンドイッチ』、おしのギャングはもう一度気合いをこめてつぶやいた」。それでその節は終わります。
つまりこの中にある一種の緊迫性というか、ギャングが私を殺す準備をしながら、立ち上がる。主人公は何でもいいから、言えることをしゃべってみなさい。何か頭にあることをしゃべってみなさい。それが詩なんだと言うわけですが、もちろん何もないわけです。それで真っ白、真っ白と、おしのギャングは重い言葉でつぶやく。それをつぶやき終わったあと、コーヒーみたいなことしか浮かばないから、そう言うわけですが、それでいいんだ、それが詩なんだ、続けてと言うと、また真っ白、真っ白と、おしのギャングが言う。それも悲哀をこめて言う。そういう節ですが、いまの一節はこの『さようなら、ギャングたち』の全体を覆うに足りるモチーフが込められていることがわかります。つまりそういうことが伝えたいわけです。
何が伝えたいのかはわかりません。意味のあることを伝えたいのではないのです。そういう感じです。詩とか、文学というものがあるとすれば、それなんだと、生真面目な先生が教えるとか、生真面目な詩人がいて、生真面目な生徒に教えるとか、そういうことではなくて、何か知らないけれども、わけのわからないギャングが詩を教えてくれと来る。ギャングだから怖くてしょうがない。ギャングとして振る舞われたら、もうどうしようもないから、その前に、何でもいいから言ってみなさいと主人公はギャングを詩の中に入れ込んでいくわけです。その精神を入れ込んでいく。ギャングが詩人に変身するわけです。
だけど資質もなければ何もない。頭の中にはコーヒーとサンドイッチしかない。ほかは考えたこともない。何もないから、仕方がないから、「真っ白だ」と言うわけです。それを、「それでいいんだ、それなんだ」と言う。それがたぶんこの作品が伝えたいことです。つまり何か意味があることを伝えたいのではなくて、その息の仕方、呼吸の仕方、そのことを伝えたいんだと思います。それがこの作品のモチーフだと思います。
呼吸の仕方を伝えるというような使い方以外に、意味ある倫理というふうに伝えたら、現在というものをつかめるかもしれないものがあるかもしれないということです。だからこの主人公が伝えたいのは、意味ある何かではないのであって、意味あることを意味ありげに伝えたいということではなくて、それでいいんだという、それを伝えたい。そのことがこの作品のモチーフです。
このモチーフは、かなり悪ふざけをしているところもありますから、そういうことも含めてでしょうけれども、うまく理解されなかったと思います。だけど僕はこれはかなり注目すべきだと作品だと思います。カフカの作品のように注目すべき作品ではありませんが、現在の日本の文学が置かれている中では、非常に高度な優れた作品で、しかもそこに新しさというものをちゃんと完備している。そういうものを踏まえたうえで、大変優れた珍しい作品だと僕自身は思います。だから読んでもらう価値がありますよと僕は言えるような気がします。
いまお話ししたことに戻っていきますと、やはり現在の文学の新しさというものがどうしても意味せざるを得ないものが何かということについては、おおよそのキーのようなものは、何となく触れたような気がします。だけどたくさんの傾向の違う作品がありますから、本当はもっと丁寧にたどらなければいけないのですが、丁寧にたどることよりも、新しさということが、現在どういうふうに理解されているか、あるいは否定されているかということの基本をお話しできたらということで、お話ししてみました。時間が来たようですから、これで終わらせていただきます。(拍手)
≪冒頭無し≫
(吉本さん)
つまり、人間が何かにぶつかるぶつかり方と同じパターンを持っているものが物語だと理解するわけです。つまり、誰でもいいわけですけど、ぼくらがある大きな事件にぶつかるでしょ。そうすると、その事件が大きければ大きいほど思い悩んだり、もがいたりするでしょ。もがいたりして、やがて、どこかに抜け道を探して、そこから抜けていくというふうになるか、あるいは、どこにも抜け道が見つからなくて、そこでまいってしまう、死んでしまうとか、見限ってしまうとか、そういうことというのは誰でも同じです。
あるいは、事件を克服して、また次の事件にぶつかるというような、そういうのがぼくらが日常を繰り返していると、ある事柄にぶつかるパターンなんですけど。そのパターンを主人公がどこかに行って遍歴して、ある事件にぶつかる。ある事件にぶつかってそれを解決しようとして、あるいは、脱ぎ捨てようとして、盛んに思い悩んだりして、やがてそれを超えて、主人公はその事件を解決してまた次の世界へ行くというような、そういう始めがあり、終わりがあり、そして、クライマックスの事件があり、そして、事件を切り抜ける切り抜け方というのがある、そして、終末がある。終末はハッピーエンドでも、あるいは死でもどっちでもいいのですけど。そういう起承転結というのが、我々が現実に生きている時に、ある事柄にぶつかる時の誰にとっても変わらないパターンなわけです。
そのパターンはいわば言葉として、そのパターンが存在しているもの、それが物語だと思うんです。その物語というのは、現在ではつくれないんじゃないか。つまり、そういう物語の本来的なパターンというのは作れなくなっちゃっているんじゃないか。つまり、起承転結というのを作れなくなっちゃっているんじゃないかという、本格的に考えれば考えるほどなっちゃうんじゃないかなというふうに思うんです。
そうじゃなければ、現在のカフカというのは、やはりぼくらと同じことだと思うのですけど。そういうふうに考えて、いわば物語になっていないもので作品を作っているか、それじゃなければ、もうひとつはエンターテイメントの作品を作っている人がいちばん得意でもありますし、また、それが一番大きな流れでもあるんですけど。物語を無理やりに作っちゃうことだと思うんです。無理やりに物語を作っちゃうというのはエンターテイナーがやっていることだと思います。
だけれども、文学というのは本来的にいえば、たぶん現在は物語を作れるようなかたちで、ぼくらがある事件というものにぶち当たれなくなっていることだと思います。だから、本気になって文学作品を作ったら物語なんか作れないんじゃないかというふうに思えるんですけど。
しかし、エンターテイナーというのは物語を作っちゃっているわけです。日々作っちゃっているわけです。たとえば、糸井さんなんかも、たった5,6枚の中で作っちゃっています。それは無理に作っちゃっていると思います。つまり、無理に作っているから、やっぱり無理やりになってしまう、そうすると、無理やり物語を作っちゃうという考え方を押し進めていきますと、文学というのはパターンじゃないかということになっちゃうわけです。
つまり、文学とは何かといったら、新しいパターンを作るのが文学じゃないかという考え方になってしまうわけです。そうすると、これは大なり小なり、優れたエンターテイナー、つまり、筒井さんもそうだけど、杉本薫さんもそうだけど。そういう人たちは、大なり小なりそういう考え方をとってきていると思います。そういう考え方になってきていると思います。つまり、文学というのは新しいパターンを作ることなんだ。新しいパターンを考えちゃうことなんだ。
だから、よくお読みになっているとわかりますけど、エンターテイナーの世界というのは現在、非常に優秀ですし優れていますけど。たとえば、筒井さんがある新しいパターンを持った作品を作りだして発表するでしょ、そうすると、もう何か月か後には誰かがそのパターンを基にして、そのパターンからまた考え出した違う新しいパターンの作品をまた作りだすというような、いわばそういう意味合いでは非常にきわどい競り合いというものをエンターテイナーたちはやっていることがわかります。
これはちょっと凄まじい競り合いの仕方で、ちょうどいまカネボウの化粧水と資生堂の化粧水が競り合いをやっている。競り合いをやるためには中身より新しいパターンでいくより仕方がないというので、宣伝する人を選ぶことや、それから包装のデザインから何から、台紙からぜんぶ新しいパターンでやって、こっちを売るんだって、凄まじい競争をしているでしょ。
それとやや似ているところがあります。そういうふうなものになっていくあれがあります。それはなにかといったら、無理に物語を作れないのに作るからです。作れないのに作るならパターンを新しくする以外にないので、あとはコンピュータで作品を作ってみせると言っている人も、つまり、誰にでも作るわけです、新しいパターンですから、主要な部分は作れるわけです。
それが文学だというふうにエンターテイナーたちは大なり小なり思い込んでいるところがあります。しかし、たぶんそうじゃないので、それをやっているかぎり、現在というものがどうしても文学が接触することはたぶんできないと思います。現在の競争というものに接触することはできます。
つまり、ここに現在の虚構化の世界、イメージで作りだされた世界、膨大なイメージの世界というものを描くことができますけど、しかし、それが現在の本質かといったら、それは本質じゃないですから、それは一種の仮想ですから、虚構ですから、本質は何かというものは、到底、それではすくえないと思います。無理にパターンを作った人はたぶんそうだと思います。そこが現在の文学の当面している大きな問題に僕自身は思っているわけです。
だから、物語というのは僕の考えている理解では、なかなか難しいんじゃないかと思うんです。作りあげるのが難しいと思うんです。そういうふうに単純化しちゃうといけないけど、中野さんはそういうことはよく知っていると思うんです。あの人はエンターテイナーじゃないですから、優れた純文学の作家ですから、よくよく知っていると思うんです。つまり、物語というのを作れない、作りにくいんだと、やったらダメになっちゃうと知っていると思うんです。
そこで、あの人は、僕の考えでは、それじゃあどうやったら物語が可能か、どうしたら可能かということをよく考えたと思うんです。そして、あの人は、たとえば郷土である熊野なら熊野というのがあるとするでしょ、郷土というものを一種の土着の根拠地みたいに、あるいは、土着のユートピアみたいなものに、虚構させているわけです。そこに別種の怨念とか、現実の怨念とか、それを全部、虚構化された熊野なら熊野という土地に、それをぜんぶ付与してあたえてしまうわけです。
そういうふうに与えることによって、初めて物語をぜんぶ大なり小なり作っちゃうという、その作ったものはパターンの新しさを作ることじゃなくて、本格的な物語というものをかろうじて成立させるために、そういうふうに自分の郷土なら郷土というものを虚構化し、ひとつの神話としていって、そこに設定を込め、神話を込め、そして、現在を込めということをして、そして初めて、そういう土台といいますか、土台を上にして初めて物語を作るということをしていると思います。
現在のさらさらの素手で譚聚する現在性というものを作品化しようとするならば、たぶん物語はなかなか作れないんじゃないかな、作れば必ず風俗化するとか、通俗化するとか、パターン化することが、大なり小なり避けられないという、そういうのがたぶん現在の文学が当面している矛盾であって、それに対して、中野さんはある土地を、郷土なら郷土を、神話化していったり、歴史化していったり、それからそこに現在を込めていったりということをして、それを舞台にして、初めて物語を作るということをしていると思います。中野さんのやっている意味あいはそういう意味あいを僕は持つんじゃないかなと、ぼくなりに大雑把につかむときはそういうふうに考えています。
(質問者)
吉本さんのおかれてきた環境が、お母さんがかなり関係する、関係からじぶんはこうなった。ひとつの考え方であるということは考えられない。
(吉本さん)
そういうこともあるかもしれない。自分の暦とか、立場とか、そういうことと、それから、自然的な意味あいとは、理論化できるといいますか、論理化できる、あなたのおっしゃることは入っているかもしれないけど、ぼくは今日お話したことはわりに普遍的なことをお話したと僕は理解しますけど。
(質問者)
政治運動は大したことじゃなくて、文学は政治とか、経済とかをぜんぶ覆ってしまう、今日のお話で、そういう文学が絶対にあらわれないとおっしゃられたのですが、もし、あらわれるとすれば、どういうふうな条件を持つ文学で、作家はどういうふうな手続きを踏んでいるのか、そういうところをお伺いしたい。
(吉本さん)
文学作品というのは、つまり、誰かがいきなり出てきますとやっちゃうわけです。いつでもそうです。また、こういういい考えを持っているからいい作品を生むかというと、決してそうではないので、いい考えを持っている人がまあまあな作品をたくさん生んだりします。そういうこととは、創造ということとは違うことです。
つまり、考えるということ、効力ということとは、芸術の創造ということは違う次元のことですから、どういうふうに理念から、あるいは理論からいけても、それは創造することの次元とは精一杯いって肌を接するぐらいのもので、何かできるということは、そういうのとまるで出所が違いますから、極端に言ってしまえば、いい作品というのはいつでも誰かがやっちゃうわけです。文句なんか言わないでバーッとやっちゃう、後からアッというふうに、いつでもそういうふうに実現しちゃうと思うんです。
ただ、あなたのおっしゃることで、一般的にいえることは、こういうところになってくると思う。作家というのはどう考えやすいかというと、これは大昔にも言っていた、五、六十年前にもそう考えたことがあるんですけど。こう考えるわけです、考えやすい考え方は、純文学にしろ、こういうふうに考えるんです。つまり、背景統一的な、エンターテイメント的な、面白おかしくするために波乱万丈かつ純文学のより高度なモチーフ、問題というのが入っている、そういうものをやればいいじゃないか。こういうふうに考えやすいんです。
だけど、ほんとはそんなことをおもってやると、必ず純文学の作家は通俗的な作品を作っちゃうんです。あるいは、風俗的な作品に作っちゃうのがオチなわけです。そういうことはもう歴史に照らしてわかりきっていることなんです。
それはなぜかといいますと、それは論理的にいえるので、とにかく文学の本質からいえば、物語を作ることは不可能だと思えるんですけど。それが現在じゃないかという、そのことの問題をよく考えないといけない、問題にしないといけないんじゃないかというところにあるのに、それを持っていてなおかつ物語も持っているというのは欲張り過ぎであって、あるいは、人工的なつなぎ合わせであって、つまり、優等生というのはどういうふうにやるかというと、勉強もできるし、遊ぶのもできる、そういうのがいいんだ。こういうのと同じで、そんなことは不可能なわけです。
ある程度は、勉強もできる、運動もできる、こういうのはありうるけど。だいたい、勉強もできるし、運動もできるなんて、そんなことは不可能だと思います。だけど、優等生というイメージを作るならば、それ以外に作りようがないわけです。優等生をもってきたって先生にはならないです。だから、純文学でそんなことを考えやすいのです。だけど、そんなものは全然不可能だということだけは言えるわけです。
それから、もうひとつ言えることは、作家というのは理屈じゃないですから、理屈は概して下手くそですから、問題の所在ということがわかればわかるほどいい作品がその人にできるのかというと、必ずしもそうとは言えないように思います。
だけれども、文学の普遍性というものでいえば、問題の所在がどこにあるかということ、現在の文学の問題の所在がどこにあるかということを知らないよりも知っていたほうがいいことは確かだと思います。だけれども、このことが作家にとって自分の創造に役立つかどうかということは、まったく別問題なような気がします。
それから、この作者が立派な考えを持っていると、立派な作品が生みだせるかというと、これはまったく関係ないです。つまり、立派な考えを持っている人がつまらない作品を生みますし、それから、つまらない考えを持っている人が立派な作品を生むことがありますから、それも一概には言えないです。
だから、問題の所在ということと、折衷案というのはダメだということだけは言えるような気がするんですけど。あとは誰かがやっちゃうと思います。誰かがやっちゃうんです、必ずそういう人がいるんです。
(質問者)
吉本さんは埴谷雄高さんと対談されているんですけど、≪聞き取れず≫、それでも吉本さんご自身としては≪聞き取れず≫、そういう感じを持ってらっしゃると思います。それから、三島さんにしても、吉本さんは非常に≪聞き取れず≫、それでも、やはり自分は満たされていないというふうに≪聞き取れず≫、優秀であっても≪聞き取れず≫、吉本さんの国家を覆ってしまう、いまはそれ以下のものとして文学が、そういうものとして存在してしまう、吉本さんにとっては文学というのはそうじゃなくて、≪聞き取れず≫
(吉本さん)
こうだと思うんです。戦時みたいなものを、たとえば僕なら僕が語るというのは、ぼくの場所からは空想とか、原則とか、原理とか、そういうことしか語れないところがあるんです。文学というと、自分がなんとなく現場みたいなあれがあるから、理想のイメージというのはなんとなくないことはないのですけど。あんまり自分の場所からいうことが、意味がないような気がするんです。
だから、具体的にあれすると、あなたの言われたことで、ぼくは、埴谷さんは優れた作家であると思うのですけど。さっきの中野さんの言い方流にいいますと、埴谷さんは文学の本質というものを手放さない作品を書くために、そのかわり現実とはまったく関係のない、理念だけでできあがる世界というようなものを作っていると思います。埴谷さんの優れている作品はそういうやむをえないことをやっているような気がするんです。
つまり、文学の本質ということをあの人は放すまいとしていると思います。これは日本の作家ではとび抜けたあれを持っていて、文学の本質を絶対に放さないという、そういうあれを貫いていると思います。そのために素材ないし主題というものを非常に理念的なところに置いていると思います。それはやむを得ず不可避的に置いているといいましょうか、どうしても必然的に置いているような気がします。
だから、現実との生々しい接触点を求めることはできますけど、本質的な接触点というのは求めることができます。現代の文学としても、本質的な作品を持っているというふうに評価することはできるけど、生々しいといいますか、ちょっと転機がくればすぐに変わっちゃうんだという、明日どうなるかわからないんだというような、そういう意味合いの生々しさというのを『死霊』という作品から求めることはできません。
それはなぜかというと、素材ないし手法というものを理念の所に置いているからのように思います。それから、主題もそういうところに置いている、観念の架空の世界に故意に追い込んでいるからだと思います。だから、変わっちゃうとか、誰もが明日どうなるかわからないというような、そういう意味合いの生々しさというものを作品に求めることができないと思います。
それは初めから求めることができない、必然的に求めることができないと言ってもいいのですけど、それが埴谷さんの作家としての解決法であるわけですから、それは必然なんです。まったく必然なのであって、どうってことはないんですけど、それは不満ではないけれど、エロティックじゃないなといいますか、エロくはないなといえばエロくないんじゃないでしょうか、だけども、それは不可避的にそうなっている。作家的な必然ですから、傍から言ってどうなるものでもないですから。こういうことが言えるんじゃないでしょうか。
三島さんは僕はある時まで追いかけていったんですけど、『金閣寺』の後、そこまでは追いかけていったんですけど、最後の作品の評伝は読みましたけど、ぼくが考えているような意味合いではいい作品じゃないと僕は思います。三島さん自体はいい作品だと思っているけど。それはあるとき、美に関する観念が違っちゃったような気がするんです。そこがぼくらの転機だなと思えるところなんですけど。
でも三島さんはそう思っていないので、最も伝統につながる近代小説の系譜につながる作品を自分は最後に生み落としていくんだというふうに、三島さんはそう思っているとおもいますけど。僕はいいというふうに言えないような気がしています。それはやっぱり作家的必然ということがありますし、また、僕なら僕の考え方のなかに、批評家的必然みたいなものがありますから、そこはどうしようもないという気がするんです。
テキスト化協力:ぱんつさま(チャプター14~16)