吉本です。今日、ぼくに与えられたのは〈若い現代詩〉というテーマです。このテーマをどういうふうに受け取ってほしいのかといいますと、文字通り現在若い世代に書かれている現代詩というほかに、現在書かれているさまざまな詩を〈現在〉ということに集約したらどういう問題が出るか、というふうに受け取っていただければたいへんありがたいと思います。現代詩がどういうものか、とも関係ないし、現代詩が過去どうだったか、また未来はどうなるかということとも関係のない「現代詩」がはたしてありうるのか、そんな「現代詩」が考えられるかを考えてみますと、ぼくはありうる可能性がどこかにでてきたんじゃないのかという考え方をもつようになりました。どうしてそう考えるようになったのかということから入っていきたいわけです。ただ、はじめにお断りしなければいけないんですが、ぼく自身はそういう「現代詩」がなりたちうるということに対してないも寄与してません。このことはたいへん大切な気がするんで、あらかじめ前提としておきたいと存じます。それでは現代詩という定義とも現代詩の歴史ともあまり関係がない、それでもそういう「現代詩」がありうるとして、じゃ誰がそれへの道をつけたのか、というところからすぐに話に入っていきます。
そいう道をつけた詩人はたしかにたくさんいるわけですが、ここでわかりやすいものとして一つ二つ、鉱脈をたどって具体的に申し上げてみます。一つには「中島みゆきから谷川俊太郎へ」という鉱脈を考えてみたいんです(笑)。この鉱脈はたぶん逆で、中島みゆきが谷川俊太郎の影響を受けたのだとぼくは理解しています。これは両詩人の詩をよくみれば、どこでどう影響を受けているかはなんとなくわかるような気がします。だからそれは本来的にいえば「谷川俊太郎から中島みゆきへ」という鉱脈だと思います。そういう一つの鉱脈を考えやすいので、考えてみたいと思います。具体的な例をあげるとわかりやすいので、中島みゆきの作品の中にいくつかのすぐれたものがありますが、その中で「エレーン」という作品があります。ちょっと読んでみます。
風にとけていった おまえが残していったものといえば
おそらく 誰も着そうにない
安い生地のドレスが かばんに一つと
みんなたぶん 一晩で忘れたいと思うような悪い噂
どこにもおまえを知っていたと
口に出せない奴らが流す 悪口
この「エレーン」という作品は、中島みゆきの作品の中から五つあげるとすれば、その中に入るくらいのいい作品です。この作品は谷川さんの作品にまっすぐにつながっていくことができると思います。ただ谷川さんはこういう情報をそれほど好きな詩人ではないように見受けられるので、情緒自体としてはすこしも鉱脈はないんですけれども、あの語彙の使い方、それから運び方というものは谷川さんの作品からよく影響を受けているとぼくは理解します。
みなさんが中島みゆきさんの歌は知っているけれども谷川さんの作品は知らないと仮定してお話しすれば、谷川さんの作品はさまざまありましてたいへん大きな詩人だと思いますが、どれが代表作かと考えますとこういう気がするんです。『定義』という詩集に「水遊びの観察」という作品があるんですが、それと前後して連なる「世の終りのための細部」、「擬似解剖学的な自画像」という作品をあわせた三つは谷川さんの作品のたぶん代表的なものなんじゃないかと思われます。それともう一つ、『コカコーラ・レッスン』という詩集の中に「(何処)」という総題をつけた詩があって、その中に「交合」という作品があります。「交合」、つまり性行為という意味ですが、これは谷川さんの作品の中でぼくならば一番いいというふうに理解します。これは、自分が植物の羊歯類と性行為をするという作品なんです。読むといいんですが長いものですから要約します。要約してうまくいくかどうかわからないんですが(笑)。ふつうわれわれが植物にさわるという行為があります。作品の中で谷川さんはそのことを詩にしているわけです。羊歯の葉にさわっていくと、羊歯の葉から自分の方に流れてくるものがある。自分の方からもまた流れていくものがある。流れてくるもの、流されていくものをよくよく内観してみると、自分の体をめぐってお尻の方から地面に入っていく、また羊歯の方が地面から流れを吸い上げて葉の先から自分へと伝えていく。そういう流れを考えられるようになり、じっとしているとだんだんそれが緊迫してきて、一つの性行為をして、その性行為でたかまっていく感じに自分がとらえられていく。自分は下半身の服を脱いで羊歯の上におおいかぶさっていく。そうすると羊歯の葉にも自分にも何か変化が起った、そういう作品なんです。
谷川さんがどういう詩人かと考えますと、日常生活の断面の中にさまざまな穴がありますが、普段はこれに気づかないでいる。この穴を意識的にふさぐことで、普通の人ではとても観察しきれないような精密な観察を事物に対して加えていく。このことが谷川さんの作品の特徴だと思うんです。この「交合」という作品は、そういう緻密に事物に対して内観していくこと、また流れていく感性をよく緻密に展開していると思います。この場合にはひとつの恐慌感さえ感じられてくるわけです。これは谷川さんの作品の中では珍しい作品で、普段の谷川さんの作品は、日常生活の中のどういう穴ぼこがあってもふさいでしまうわけで、ふさいでしまうことによって常人以上に見えてくるものが谷川さんの詩のいわばモチーフなんですけれども、この作品は穴をふさがないで、その中に自分が落ちていくわけです。しかも落ちていきながら緻密な観察や内省、それから事物へのほれこみ方や傾倒の仕方を展開していて珍しい、そして谷川さんのもっている一種の虚無感をよく表現した作品だと思います。
つまり「中島みゆきから谷川俊太郎へ」という通路を考えることができるということが、〈若い現代詩〉というか現在の現代詩の直面している大きな特徴のように思えるんです。
この種の通路をもう一つ拾ってきましたから、いってみます。これは偶然な通路なんですが、それにしても通路には違いないのであげてみます。「小長谷清実からさだまさしへ」という通路です。これは偶然なので、たまたま小長谷清実さんがさだまさしの影響を感じて書かれた作品があるということにすぎないのかもしれません。しかし、両者の詩の手法というものを考えていくと、これはそんなに違っていないということがわかります。相互影響がもし可能ならば、これがありうることは当然なのだ、と考えられるぐらいおなじ詩法のように思われます。あまり長くないので読んでみますと、
その他、ちょっと
髪の毛いじりかきわけて見たとき
しらがが五本七本ある女が好きだ
四本八本三十本一本だって
とっても素敵きみはわたしを知ってるか
多分ね多分そう思いたいそう思うわたしはきみを知っている
あのころその場所その他ちょっときみはとってもエロティック
小ジワ大ジワひっくるめてできることならあんまり遠くへ
行かないでいまわれわれは苦戦なのだサーブも駄目だが
レシーブもめろめろもしもわたしが笑いガスに包囲され
シャックリしながらひらたくなったらできることなら赤チンあるいはサントニン持って
きて欲しいけどそう思うけど集金お茶くみ帳簿の整理
愚にもつかない電話の応待アイソ笑いあれやこれやで多忙だったら
それはそれでいいと思うそう思うそのことできみのこと
戦線離脱などいわないいまわれわれは苦戦だが
きみのしらががわたしを勇気づける健康にそして美容に
気をつけて追伸頭のてっぺんが
まあるくはげた女はいまだって好きになれない
これはさだまさしの「関白宣言」という作品からたぶん影響を受けていると思います。ちょっと「関白宣言」の二番を読んでみますと、
お前の親と俺の親とどちらも
同じだ大切にしろ
姑小姑かしこくこなせたやすいはずだ
愛すればいい
人の陰口言うな聞くなそれからつまらぬ
シットはするな
俺は浮気はしないたぶんしないと思う
しないんじゃないかな
ま、ちょっと覚悟はしておけ
幸せは二人で育てるもので
どちらかが苦労して
つくろうものではないはず
お前は俺の処へ家を捨てて来るのだから
帰る場所は無いと思え
これから俺がお前の家
こういう作品です。「俺は浮気はしない たぶんしないと思う しないんじゃないかな ま、ちょっと覚悟はしておけ」というあたりは小長谷さんの作品に影響したところなんじゃないかと思うんです(笑、拍手)。しかし、このところは、「この人は並々ならない詩人だ」というように思います。つまりいい作品だと思います。ぼくらが見ていてこの作品のどこにこだわるかといったら、この部分にこだわると思うんです。こういうところはよくできていると思います。また影響を受けるとすればこういうところから影響を受けるということになると思います。小長谷さんはたまたまこの作品から影響を受けたんだろうとぼくは想像します。これも相互影響としての一つの通路だというふうにぼくには考えられます。
つまり、以前だったならば、現代詩というふうに歴史的にも現在的にもまたこれからいわれてきたものと、本当の「現代詩」というものの間には(それが何かわかりませんがそれが書かれていて、その書かれている「現代詩」との間には)一種の、心のいなおりといいましょうか、つまりすわりなおしをしないと通路ができなかったということがあると考えます。どうしても通路がとれなかったというふうに考えるんです。ぼくが現在の詩のあり方、とくに〈若い現代詩〉というようなものを見ていると、このいずまいを正すとか、すわりなおすということをあらためてしなくても通路というものができつつある、あるいはできてきたというように思えるのです。
この「できてきた」ということについては、たとえば谷川さんなりこの小長谷さんなりの努力があり、またぼくらのしらないところでの歌い手さんたちが詩をつくる場合の技術・感性自体が高度になってきていて、それで両方から間合いをつめていってすわり直しをしなくても通路ができるという形がここに出現してきたのだ、と思えるのです。それで「現代詩」という形を考える場合に、このようにいずまいを正したりくずしたりしないで通路がひとりでにできているというところまでいったということは、たぶん現在がはじめてなんじゃないかと思うんです。つまり様々な場合について個々の詩人がそういうことを実現しちゃったとか、自分の中でそういうことを実現しちゃったということは過去にもありえたわけでしょうけども、そういう意味あいではなくて、現代、詩が書かれているから現代詩なんだという意味あいのところで、「現代詩」をとらえた場合に、この「現代詩」がすわりなおしたり心がまえを変えたりというようなことを何らしないでも一つの通路というものがひとりでにでてきている、それでそれは別に個人が個人を知っているからではなくて、そういう通路がひとりでにできてきたということは、〈若い現代詩〉というものを考える場合に、とても大きな問題でもあり、特徴でもあるとかんがえられるわけです。この通路ができてしまったその世界を、またひとつの世界というふうに考えますと、その世界の特徴をいくつかの点でつかまえることができると思います。
一つは一般的な詩の語法でいえば暗喩なんでしょうが、暗喩、メタファーというもとを使わないでまったく自明のような表現を詩人たちがする、ということです。ところが、そのこと自体が実は何かわかりませんけれども、何かわからないものの全体的な暗喩となっている、というふうに二重に理解できるわけです。このように二重に理解できるということは大きな特徴なんじゃないか。この性格がなかったらたぶんいまいった通路というものはできるはずがないのです。つまり、一方がいずまいをくずすか、あるいはもう一方がすわりなおしていずまいを正すかという形でしかこの通路はできっこないんです。そうじゃなくてこのことがある意味で現在実現されているということは、むきだしのというか生のままの表現のように見える言葉の使い方・運び方自体が、現在を一つの世界とすればすでにそれが世界の全体的な何かの暗喩になっているということが実現しているのだということを意味するような気がします。
それからもう一つは、現在書かれている詩の言葉が何とかして日常の、街頭でも家でもいいですけれども、そこで飛びかかっている言葉に近づいていこうとすると、近づいていこうとする詩の努力が必ずしも生のままの詩表現にはならないで、かなり高度なメタファーの使い方の表現になっていくということがあります。このことも現在の詩の書かれ方の大きな特徴になっているように思われます。そのことはたとえば荒川洋治さんの作品がとてもよく体現しているように思います。言葉を日常の世界、あるいは街頭に飛びかっている世界というものにどんどんどんどん近づけていこうという試みをすればするほど、その語法は高度なものになっていかざるをえない、あるいは高度な語法といわざるをえない。そうなっていく成り方があります。これもまた現在通路ができてしまった「現代詩」の世界の大きな特徴なんじゃないかと思われるのかが、とても大きな問題みたいに思われます。つまりこれをうまくつかまえられるかどうかということは、ぼくにとっては現在うまくつかまえられるかどうかと等しいような気がするんです。
〈言葉の世界〉
ぼく自身先ほどいいましたように、こういう「現代詩」が実現するにいたった現在の詩的な営為に何も寄与していない、ただの傍観者にすぎないのですが、傍観者にしてなぜこれをとりあげるモチーフがありうるかといえば、この実現のなかにはどうかんがえても現在というもののわからない部分が、メタファーとして含まれているんじゃないかと思われるからです。ぼく自身は現在の詩を、とくに〈若い現代詩〉をひとつの説話といいましょうか、神話というか伝承物語というかそういうものを読むのと同じ眼つきで読みたいというモチーフをもっています。つまりそういうふうに読むことによって現在というものから照射されている言葉に属するものがどれであり、それから現在というものに照射されているように見えて実は一時的なファッションじゃないかと思われるものがどれであるかということがうまくつかまえられたら、という願望をいだきます。そういうことは実はつかまえようがないのですが、もしかするとつかまえられるかもしれない幻想はいだきうるわけです。今まで「世界」という言葉をたびたび使ってきました。「世界ができた」とか「世界の通路ができた」とか「世界」といういい方をしたとき、この「世界」という言葉にはあるイメージがあります。そのイメージはそれぞれの人によって違うと思います。「世界」を本当につかまえるには、世界のすみずみまで実際に見て歩いて、観察し体験してみなければつかめるはずがないという考え方があります。ところでそうじゃなくて、言葉で「世界」といっただけで世界がイメージとしてなんとなくつかめるんだというひとつの思いこみもまた成立できていることも確かだと思われます。実際には、ほんとにすみずみまで歩いて体験してみなければ世界をつかめるはずがないのかもしれないのです。しかしぼくらが「世界」という言葉を使っただけで、ひとつのイメージを思い浮かべ、世界をつかまえているという感じをもちうるのはなぜかといいますと、言葉の伝達とか伝播が全世界的に瞬間的になっているからだと思われます。だから言葉にしろ音声にしろ映像にしろそういうものの伝播の仕方は現在、瞬間的になされているのだと思います。そういう状況が実現されている中では、言葉の表現というものを一つの世界として見るということがあって、その世界は実際に行って体験してみなければわからないそういう世界といわば同じ重さないし意味あいで成立しうるようになっていると考えられるのです。つまり言葉あるいは映像が瞬間に伝播しうるようになったということが、たぶんわれわれが「世界」という言葉を思い浮かべただけで世界のイメージはそれなりにつかめるというふうになりえた大きな理由だと思います。
これは現在の世界の大きな根拠だと思いますが、こういう根拠をもとにして、言葉というものは架空に人間が発するもののであって実際に体験される世界とは違うんだ、あるいは実際に体験し歩いていく事実の世界とは違うんだということではなくて、事実の世界と同等に、同じ重さで言葉の世界をかんがえうるということが、現在たぶん成り立っているんじゃないかと思われるんです。そういうことの中で言葉の世界自体を本当の世界と同等の重さ、同等の総体性としてつかまえうるという根拠のもとに、やはり一群の〈若い現代詩〉というものが書かれているように思われます。つまり、その世界では、意味の運びどおりに言葉を使うということは何もしないことと同じだという意味あいになります。言葉の世界を現実の世界と同じ重さ、同じ大きさの世界としてみる、そういう見方の中で何かを自分が行うとか歩いていくということが、どういう意味になるかというと、ありふれた言葉の意味や順序に対して何らかの意味で抵抗するというか、抵抗物をつくってそれにまた抵抗するというようなことに対応します。それが世界を歩いていくことに該当することになります。つまり言葉の世界を事実の世界と同じ重みである世界では、意味をことさらつくりかえてみるとか、ことさら抵抗物をつくってみて、その抵抗物に対してまた、言葉で抵抗してみる、そういうこと自体が、世界を歩くこと、あるいは世界で行うことを意味すると思います。
つまりそういう一群の詩が生粋な形でも、また広がりのある形でも生み出されつつあるのだとぼくは思います。そういう作品を生粋な形であげてみたいと思います。これは稲川方人さんの作品です。ちょっと読んでみます。読んでみても意味は通じないと思いますけれども(笑)。
(瞬く間の修辞への慕い
おまえを寄せるまで
眼の不安はこうしてしたたり
こうして病んでゆく)
わたしたちはみじかい雨の後
借りもの法衣に、かぐわしい綿と
紙切れのような遺骨を包んでことこと鳴る
木の橋をまるでサーカスみたいだ、と
笑い泣きしながら渡っていったのだ。
木の橋のむこうは
人家のにおう五月の丘陵
そのむこうにいちめんの
馬の墓地
わたしがふりかえると
その日のうちには渡れなかった
ひとりの子供が手を振り
わたしたちの帰郷をさえぎって
その手はあきらかに
土に滲んでいった。
あれはわたしの子
わたしのこがねの王
(「瞬く間の修辞への慕い」全篇)
口でしゃべっても目で読んでみても同じですけど意味が通じないだろうと思います。こういう作品をどう読んだらいいかということなんです。今いいましたように意味の流れをことさらに抵抗物としてそれに言葉でぶつかっていくこと自体がそういう世界を歩いていくことだというふうにかんがえる。それがまず前提にあるべきだと思います。その上でこういう作品をどういうふうに読んだらいいかということになります。こういう作品を、意味が通るような言葉に置きかえてみたらこのような解釈になるはずだという読み方で読んでしまってはだめなんじゃないかという気がします。そういうふうに読めなくもないんだが、その部分はたぶん稲川さんの詩の試みの中では不完全な部分だと思われます。つまりそうはしたくなかったんだけれどもやむをえず言葉を置き換えると普通の意味になってしまう。このことは稲川さんにとっては不本意なことで本当はこんなことは全然したくないということだと思います。
そうするとこの種の作品はどういうふうに読めばいいのかとかんがえると、波長として読めばいいと思います。波長ないしはメロディ、あるいはどういったらいいんでしょう、強・弱とかとにかく一種の波長なんで、その波長に自分が感応できるかどうかということが読んだことになってくるとぼくは思うんです。たとえば「(瞬く間の修辞への慕い)」という最初の行をまともな語法に置きかえることはできます。「つかの間、あるレトリックに対して執着を持った」というふうにとれなくはないですが、そう読んでしまうとたぶん間違いになるんじゃないか、と思います。しかしそういうふうに置きかえをして読むことは読みやすいですからぼくらはもう「これはこういうことを意味しているな」とえてして読みたいわけですけれども、たぶん稲川さんにとってはそう読まれては不本意なのであって、自分が不完全にしかやっていないところを読まれているという意味になると思います。
ですからそうじゃなくて、これは一つの言葉の波長といいますか、そういう意味で受け取って波長がうまく伝わったならばこの詩を読んだことになるんじゃないかとぼくには思われます。そういうふうに読まれることがたぶん本意なんじゃないか。なぜかといいますと、言葉を世界として完全に独立させて、現実世界と同じような世界とかんがえ、そうかんがえた上で成り立っている詩の世界ですから。これが何らかの意味で言葉の世界があり、現実の世界の上にあるという意味によって言葉の世界の意味を置きかえられて読まれたらたいへん不本意なんじゃないかと思われます。だから言葉の世界は完璧な世界でそれ以外の世界は何もないんだというところでこの詩が読まれたらどう読まれるべきかといいますと、やはり一種の波長として、あるいはメロディとして読まれるべきだと思われます。
この作品には象形的な表意である漢字が入っています。したがって音読ではどうしてもうまく全体を伝えることができないと思います。だから眼で見る以外にないんですけれども、眼で見ることも含めていいますとこの場合には漢字が、つまり象形的な文字がメロディの役割をはたしていると思います。そしてこの波長の長短が波長の長短として読む人に伝わるかどうかということが大切なことだと思います。それがこういう詩の読み方だと思います。
ぼくのこういう言い方が誇張ではないという根拠に、もう一つの詩をあげてみます。平出隆さんの詩です。平出隆さんの詩の中ではわかりやすい詩なんですけれども他のことをいいたいためにわかりやすい方の詩を読んでみます。
打撃するものが不足していく。打撃せよ。垂直に樹木を抱え、ゆっくりと天に突きあげ、静かに胸もとまで降ろしてきたら、力を抜いて身構えろ。一条の気配の稲妻が木質をつたって降りてくる。野のむこうからは拳ほどの人魂が、ゆるゆるカーヴを描いて炎えてくる。打撃せよ。打撃するものが不足していく。打撃せよ。
(平出隆・「胡桃の戦意のために」)
こういう詩なんですが、かなり長い詩の一章です。これはどうすればわかりやすくなるかといいますと、野球の打者がバットをかまえた時のかまえ方をイメージに浮かべれば、この詩はそういうイメージがもとになってできあがっているのでわかりやすくなります。言葉をたどっていくとわかりにくいように見えてもたいへんわかりやすい詩だと思います。つまりイメージは簡単なんで、掛布かんかがバットをかまえるときに、握り変えたりして下におろしてくるでしょう。そういうかまえの仕方というのがこの場合でいえば「垂直に樹木を抱え、ゆっくりと天に突きあげ、静かに胸もとまで降ろしてきたら、力を抜いて身構えていろ」というようなイメージになります(笑)。たぶん平出さんは野球をよく知っているか、やられているかどちらかだと思いますが、そういうイメージです。だからみなさんがもし通俗的にこの詩を理解すれば、何もバットをかまえてふるというそれだけのことなのにそんな大袈裟な表現をする必要はないじゃないか(笑)という理解になります。しかしこれはそういうふうに理解すべきじゃないのであって、どこかに未知なる世界があって、未知なる世界から見ると掛布がバットをだんだん降ろしてきて身構えるという動作も未知な意味をおびえてくる、そういうことをこの詩人は言いたいんだと思います。たとえば原始時代に人間が棒きれをもってふりまわしたとします。その時の動作は、世界をひっかきまわそうと思ったとか世界に自分の思いを届かせようとして行われたかもしれないわけです。つまり原始時代から、お猿さんの時代からといってもいいんですが、棒をもってふりまわす、身構えるという人間の動作自体の中に蓄積されている時間というものがあるので、その蓄積された時間というものを全部含んだ未知の世界を想定すると、単なるバットを個人のおまじないをしながらかまえるまでの動作自体が、通常私たちが感じているものと全く違った新しい意味をおびてくる。言葉の世界自体としてそういうことをやりたいというのが、平出さんがこの詩でしたいことのひとつだと思います。
いいたいことは簡単なのです。「打撃せよ」ということだけです。つまり「撃て」ということだけなんです。「何を撃つか」「誰を撃つか」ということでなしにとにかく「撃て」といっているだけなんです。しかしここで表現されている野球の打者のイメージ、打者が身構えるまでのイメージで表現されているものは、現在に集約される世界なんですけれども、同時にそれはかつて人間の歴史が棒をふりまわしたり身構えたりすることで何をしようとしたか、あるいは世界をどうしようとしたのかということまでも含んだ意味において、そのような世界をあらわしてみたかったのだと考えるのが善意なこの作品に対する理解の仕方だとぼくには思われます。
それでこういう世界というものは、先ほどとは全く違った意味で、現在詩の世界が到達したものをよく象徴していると思われます。言葉の語順がスムーズに意味をつくってしまうということに対してことさらに抵抗物をつくり、そして言葉の表現で、またそれに抵抗していくという、何といいますか無限に休まることのない一つの世界みたいなものです。これはどこまでいっても達成感が存在しないわけです。いわば不毛な格闘に似ているわけですが、しかしなぜ不毛な格闘が可能であるかということに対する現在における意味はたいへん重要だとぼくは思います。このことを抜きにしますと詩がわかるということ、詩が難解であるとか面白いとかという問題が全部量の問題になってしまうんですね。この世界というのは量の問題だけでできているわけではないと思うんです。それから目に見えるものだけでできている、つかまえられるということじゃないと思います。
この世界というのは目に見えない世界もあるかもしれないし、その目に見えない世界も言葉でもってつかまえていく以外にない。しかも言葉を普通のとおり使ったらどうしても事実の世界だけしかつかまらない。だけれども普通でない使い方をすればその世界がつかまえられるかもしれない、あるいは見えてくるかもしれない。そういう問題が現在あると思うんです。つまりそういう世界があるということを確証する、証言するためには、こういう詩人たちのどこまでいっても達成感のない試みを勘定にいれなければいけないのだとぼくは思います。この達成感のないという意味はあくまでも本当に不毛のようにぼくには思われるんですけれども、しかしたとえば個々の詩人がこの不毛さを不毛と理解する地点に到達することはぼくはいいことだと思います。つまりそういうことについて何も言おうとする意図はないのですけれども、ただこういう試みというものがなくなると、言葉の世界というもの、あるいは言葉以外の世界、目に見えない世界で言葉によってならつかまえられるかもしれない世界を見落としてしまうというようなことが殊に現在のこの世界ではありうるんだという気がします。
稲川さんの詩や平出さんの詩、あるいは大なり小なり現在書かれている詩が当面しているこういう問題にひとつの解釈を与えることができます。ぼくが通俗的な解釈をマラルメの詩論にしてしまいますと、言葉というものはどこからくるのかわからない、世界からくるかのかもしれない、その世界というのは何をしようとしているのかというとひとつの大きな書物と書こうとしているそういう大きな書物を書こうとしている、あるいは詩をつくろうとしているのかもしれない。そうすると個々の詩人の表現の中に訪れてくる言葉というものは、世界が書こうとしているそういう大きな書物、あるいは大きな詩のいわば断片にすぎないといいましょうか、断片を個々の詩人がつかまえてやっているということになるのかもしれません。つまり言葉というものがどこから出ているのかという問題です。言葉が個人から発せられて紙の上におかれるという理解の仕方と同時に、言葉は世界からやってきて、世界はひとつの大きな書物をつくろうとしている、その書物をつくろうとしている中からやってくる言葉を誰がとらえるかとらえないか、どうやったらとらえられるかが大きな問題なのだということにその問題の中で、たとえば平出さんや稲川さんがやっている詩の試みというものが、現在の〈若い現代詩〉のあり方としてひとつの大きな極を提供しているんだとぼくは理解したいと思います。
またそういう理解の仕方ができるというところまで言葉の世界は、たぶん事実の世界に対して、いわば完璧な伝達度といいましょうか完璧な世界といいましょうか、そういうものがつくれるところまで、人間の言葉の行使の仕方がやってきつつある、あるいはやってきたんじゃないかと思われるのです。現在さまざまな詩の問題がありうるし、もっと大きく言えば個々の詩人の数だけ多数の問題もありうるのかもしれません。それをぼくなりの読み方で要約してご紹介すれば今言いました、二筋の詩の世界の成りたち方の通路を考えることができます。そこで〈若い現代詩〉が、つまり詩の現在が当面している問題の大きな要約がつかまえられるんじゃないかと思われます。最初に申し上げましたとおり、ぼくは何らその世界に対して寄与していないのです。けれど、ぼくなりの関心をもちます。また詩を書くものとしてはこういう世界から自分なりに得るものを咀嚼するということ以外にできないのですが、しかしぼく自身の現在というものに対する理解の仕方のなかで詩人たちが試みているラディカルな試みが、大きな要素となって迫ってきているということを感じます。これは個々の詩人がそれに対して意識的であるか無意識的であるかということとはあまり関係なく、ぼくには見えるということがいえるのです。時間もまいりましたようですし、いいたいこともだいたい言えたように思われますので、これで終わらせていただきます。