1 古典があざやかに浮かび上がる

 ただいまご紹介にあずかりました吉本です。今日、皆さんのほうから与えられましたテーマは「小林秀雄の古典論」というテーマであります。小林秀雄は、ぼくらの学生時代、戦争中ですけど、非常にあざやかな古典論を展開した数少ない批評家の一人なのです。
 「小林秀雄の古典論」というのは、どういうところで、当時、戦争中の学生だったぼくらに鮮明なイメージを与えたかといいますと、結局、西欧近代文学に対する非常に強烈な理解力というもので、日本の伝統社会とか、伝統的な芸能とか、伝統的な物語とかいうものを、こちら側にあざやかに引き寄せる力といいましょうか、それはたいへん当時でいえば画期的なことで、ぼくらは古典といえば定番なむずかしい言葉の世界を、その平面を漂って、それでなんか言葉の解釈をして、総体の意味をつかんで、ああこういうものかというだけであって、なんか自分がそのときその時代に生きている自分というものと、何もあんまりかかわりのない世界のようにおもいないしきたのですけど。小林秀雄の古典論、もうひとついえば保田與重郎なんですけど、古典論というのはそうじゃなくて、古典の言葉の世界、それから、主題の世界、それから、物語の世界というのを、非常に間近まで引き寄せてくる力がありまして、その力は西欧の近代文学に対する造詣から得られたものだというふうに思うわけですけど、その力というのは、非常にあざやかな、眼の前に古典の作品が浮かび上がってくるような、そういう作品論を展開してくれたわけです。
 それは画期的なことであり、また、はじめてのことであったと、それで、その当時、読んだものの中に、「西行論」なんていうのがあるんですけど、それを例に取りますと、あざやかさというのの例証になるわけですけど、西行というのは、現世から、つまり、現実の世界から隠遁して出家してしまって、そして、諸国を流浪して歩いて、仏道の修行に励んだ人ですという、いかにも弱々しい隠遁者の姿で、なにかわからないけど出家して世の中を逃れてしまったとか、弱々しい感傷的な出家姿のイメージというのが、それまで、つまり、明治以降そのときまでつくられてきた西行の像であるわけです、イメージであるわけですけど。小林秀雄はそれを古典の中で見事に覆しまして、筋骨たくましくて、そして、自ら進んで戦乱の世を否定して、それを捨てて、じぶんの意志でもって選んだ生涯を貫いた、非常に意志的な骨格をもった、そういう西行像というのをはじめて改善してくれたことがあるわけです。
 それは一例に過ぎないわけですけど、小林秀雄がぼくらの目の前に分解してくれた古典論というのは、いずれにせよ、非常にあざやかに古典をこちら側に近づけてみせる強烈な力がありまして、そのなかにどんどん引き込まれていったというふうに覚えています。
 ぼくらが、小林秀雄を、近代批評の創始者であり、また完成者である人ですけど、小林秀雄に対して、かすかに違和感を感じたのは、戦後、つまり、敗戦の後でありまして、こちらは急に戦争から放り出されて、どうしていいかわからない、また、どういう思想をもって真だと認めたらいいのかということもわからないで、たいへん落ち込んでいた時期があるわけですけど、そのときに小林秀雄が何か言ってくれるといいましょうか、発言してくれたらいいなというふうに、何か言ってくれるんじゃないか、そうしたら、そこから何か得られるかもしれないという感じでずいぶん待っていたわけですけど、小林秀雄はぼくらの戦争から放り出された学生といいますか、青年といいますか、そういうものの心の中に潜り込んでくるような発言をどうしてもしてくれなかったというふうに思います。
 それで、もはや自分でもってそういうふうに、自分でもって自分の落ち込んだところはつかんでいく以外にないというふうに思い決めて、なにかそこいらへんの辺りから、小林秀雄に違和感を覚え、そして、やはり自分は違う道を行っているんだなというふうな感じ方をとったというのを覚えています。
 そういうふうになりましたときに、だいたいぼくらが小林秀雄についていったのは、戦後、敗戦後2,3年のあたりであって、ドストエフスキーについての作品論をいくつか綴っておりますけど、それはたいへん見事なものです。だいたいそのあたりは僕らが小林秀雄についていた最後の時点というふうに覚えています。
 そのあと小林秀雄は、だんだん絵画とか、音楽とか、それから、もう一度あらたに古典の世界ですけど、そういう世界に、だんだん入っていくようになりまして、ぼくらはだんだん、自分は戦争中に何がダメだったのかというふうに考えて、結局、世界というのをどういうふうにつかむかということの方法を何も知らなかった、それについての学問というものを、じぶんは全然知らないで済ましてきたということは、たいへん、自分らの反省点といいましょうか、考えたところでありまして、ぼくらはそういうことを追及していくうちに、だんだん逸れていったといいましょうか、外れていったという感じで、小林秀雄の考え方との距離というのは、だんだん広がっていくばかりであったというふうに覚えています。

2 『徒然草』への思い入れ

 しかし、戦争中にあざやかになされた古典論は、戦争の末期ないしは戦後すぐのときに、『無常といふ事』という単行本になりまして出版されました。その『無常といふ事』というのは、いずれにせよ、いま申し上げましたとおり、かつて誰もしたことがない、専門学者も国文学者もしたことがないし、また批評家というのもそれをやったことがない、そういう非常にはじめての見事な古典論でありまして、この古典論のなかに、かすかに聞き取れるものに対して違和感を覚えるかどうかということは別にして、これは非常に優れたものであることは確かなことで、これは戦後すぐの頃、あるいは、戦争の末期の頃に単行本になって出てきて、それを一生懸命あらためて読み返したということを覚えています。
 たぶん、今日の「小林秀雄の古典論」の与えられたテーマというのは、『無常といふ事』という一番最初の古典論ですけど、その古典論について、そこで出されている問題をたぐっていけば、だいたい今日の与えられたテーマというものを解くことができるんじゃないかというふうに考えます。
 これは、ぼくが、自分が批評を書くみたいになって、また、自分なりに古典という世界というのに、自分なりに入り込んでいきまして、そして、そこで得られたものから、あらためて小林秀雄の『無常といふ事』というふうに結集された古典論の要というのはどこにあるのかということを考えてみますと、ぼくの考え方では、これはまた推測にすぎないのですけど、小林秀雄の『無常といふ事』に結集された、あるいは、その後の古典論もそうなんですけど、結集された古典論の要というのは、時代としていえば室町時代、鎌倉末期から室町時代というところが、だいたい小林秀雄が古典を論ずる場合に支点を据えている中心点なように思われます。
 室町時代というのは、つまり、なかなかいわく言い難いのですけど、要約していってしまいますと、貴族文化というのは衰退期でありながら、しかし、まだたいへん文化のなかに影響を与えているというような、そういう時代であります。
 それからもうひとつ、新興の、つまり、武家階級といいましょうか、室町幕府、鎌倉幕府を中心として結集された武家勢力を中心にした文化、室町でいえば五山文化ということになるのでしょうけど、つまり、武家階級の文化意識というものが非常に自分の力を獲得していった時代だというふうに考えます。
 つまり、武家階級と武家の宗教的な支えになった禅ですけど、その禅文化と武家文化というのが集合体のかたちでの文化意識というのがまた、そこで興ってくると、それがかなり中心的な地位を占めると、そして、同時に今度は商人階級というのが、つまり、町衆といいましょうか、商業とか、手工業とか、そういうものを営む商人階級というものが独立な都市をつくりあげるというようなふうまで興隆してくると、それでいわゆる町衆といいましょうか、町民の文化といいましょうか、たとえば、お茶とか、能とか、そういうようなものがそうなんですけど、そういう芸能に接触した部分がそうなんですけど、町民文化もやや興隆してくる。
 そうすると、その3つの文化というものが、いちおう衰退のかたちであれ、興隆のかたちであれ、芽生えのかたちであれ、3つの文化というものがちょうど重なり合って、独特の文化的な層を形成しているというのがだいたい室町時代だと思いますけど、小林秀雄が古典論のなかで、どこに腰を据えてといいますか、目を据えているかといいますと、よく考えてみると、鎌倉末期から室町時代のところに目を据えているということが言えるように思います。
 そうすると、この地点に目を据えまして、いろんなことが言えるわけですけど、小林秀雄がどこを中心にして室町文学、あるいは、鎌倉末文学というものをつかんだかというと、やはり、批評文学ということを、自分が批評家ですから、批評文学ということを中心にして、つかんできたというふうに思えるわけです。そうすると、当然、室町時代において、批評文学といいますと、それは兼好法師の『徒然草』ということになると思います。
 そうすると、ぼくの理解の仕方では、小林秀雄の『無常といふ事』に結集された古典論というものの要をなしているのは、『徒然草』じゃないかなっていう、つまり、『徒然草』に対するひとつの入り込み方が最初にあって、そして、そこから発生しまして、発生した道を通ってみますと、ひとつは『一言芳談抄』という、鎌倉末期から室町にでてきた仮名文字で書かれた仏教の語録みたいなのがあるんですけど、『一言芳談抄』というのがあるんですけど、その『一言芳談抄』というのを一方に置きまして、一方に『平家物語』という、これは軍記物と言われているものですけど。『平家物語』を一方に置きまして、だいたいにおいて、この3つを貫くところのひとつの場所、視点、見方といいましょうか、それを中心に据えますと、だいたい「小林秀雄の古典論」のさまざまな広がりと、それから、謎っていいましょうか、そういうものは解けるんじゃないかというふうに、あらためて考えてみますと、そういうふうに見ることができます。

3 死へのこだわり

 『徒然草』から申し上げますと、『徒然草』というのは、鋭敏な批評眼と、鋭敏な観察眼をもった兼好という人間が主としてこだわっていることが2つあります。ひとつは当時の一種の世界観といいますか、人生観でもありますし、宗教観でもある「無常」ということなんでしょうけど、つまり、いまの言葉でいえば「死」ということです。『徒然草』で兼好がこだわっていることは2つあって、ひとつは「死」ということだと思います。
 もうひとつは、奇譚というか、珍しい話ということになるわけですけど、非常に珍しい話ということに特別な視線をもっていることがわかります。だいたいにおいて『徒然草』で兼好が目を据えている重要なことはその2つのことに見つけられる気がします。
 そのほかに、この人は故実家ですから、有職故実というか、宮廷のしきたりとか、そういうことに詳しいものだから、非常にこだわってたくさん書いてあります。それから、女性観とか、男女観とかということもたくさんこだわって独特なことをいっています。だから、中心に据えているのはそういうことになるだろうと思います。
 兼好法師が『徒然草』でこだわっている「死」に対するこだわり方というのには、ひとつの特徴があります。その特徴は何かというと、これは誰でも死にこだわるとそういうこだわり方をするといえばそうなのですけど、人間というのはいつまでも生きるものだと思って、今日の次には明日があるものだとおもい、明日の次には明後日があるものだと、当然のようにそういうふうに想定しているものだからダラダラダラダラ生きていると、ダラダラダラダラ生きていると、いつの間にか死がやってきて、慌てふためいていったときには、もう遅くて、自分の想いというのは遂げられることは何もなく終わってしまうんだ。だから、常に今日しか生というものはないんだと考えて、そして、仏道に志し、無駄な時間の過ごし方をせずにやっていくべきだというような、そういう考え方を執拗にといいましょうか、繰り返し繰り返し、そういう考え方を、言葉を変え、表現を変えて展開しています。
 たとえば、こういうことも言っています。つまり、毎日のように京都の鳥辺山とか、いわゆる墓地が集まっているところですけど、そういうところには、死者焼く煙が毎日のように絶えたことがない、それで、京都の町中の棺桶屋さんというのは、毎日、一生懸命、棺桶を作ってるだけで、およびもつかないというような状態だと、そういうふうに考えると、自分たちは死ぬのは自分の番じゃないと思っているかもしれないけど、そんなことはなくて、毎日誰かが死の中のひとりに入って、それが人間の生の日常なんだと、だから、死が遠くにあるなんて考えたら大間違いだという、死は前のほうからもやってくるし、また、後ろのほうからもやってくると、いつでも時間が経って前のほうからやってくるだけかと思ったら、それは違うのであって、後ろのほうからも死が潜んでやってきている。だから、そういうことを考えたら、死というものに対して、いつでも怠りなく、自分の業に励んで、そして、怠りなく励んだ果てに、仏道に志して、執事を遂げるということは、非常に大切なことなんだというような、そういう言い方をしきりにやっています。
 この種のこだわり方というのは、当時でいえば、誰でもが考えている一種の無常観を、ただ別の言い方で具体的に言い直しただけだといえば、それまでのことなんですけど、しかし、この『徒然草』を読んでくださればおわかりになりますけど、この死のこだわり方というのは、ちょっと異常ではないか、つまり、あまりにこだわりすぎじゃないかというふうに思えるほど、執拗にそれにこだわっているということがあります。

4 珍しい話への特別な視線

 もうひとつの『徒然草』の特徴といえることは、先ほど言いました、非常に珍しい話ということに特別な視線を向けているのです。たとえば、『徒然草』のなかに最も短い段落のひとつにこういうことがあります。柳原という京都の郊外のところですけど、強盗の法胤というお坊さんがいたと、どうして強盗の法胤と言われているかというと、このお坊さんはしばしば強盗に出遭うことがあったからだという一章があります。
 これだけのことなんですけど、これは一体何のことか、どういうことかっていうことになるわけですけど、その坊さんはなぜか知らないけど、よく度々強盗に出遭うのだ、それだから強盗の法胤という名前で世間から呼ばれた。たったそれだけのことなんです。これはどういうことなんだってことなんですけど。
 もうひとつ、あれをあげますと、ある真乗院というところにお坊さんがいて、そのお坊さんは、「おやいも」って書いてあるんですけど、「おやいも」ということはどういうことかわかりません、おやいもが好きだというのです。仏教のお説教をするときでも、おやいもを食いながらお説教をする。それから、病気になるとおやいもばかり食って病気を治したとこう言っているわけです。自分の師匠といいましょうか、和尚といいましょうか、自分の師匠のお坊さんが死んだ時にも、お寺といくらかの財産を残してくれたわけです。そうしたら、それをぜんぶ売り払っちゃったと、それで全部おやいもを買ったんだと、おやいもを買って少しずつ、そのお金でおやいもを送ってくれるように、そういうふうにしておやいもを食ってばっかりいたと、このお坊さんというのは学問もあり、人格もあり、たいへん優れた人だったんだけど、たいへんわがままというか、勝手気ままにふるまっていて、世間がどう考えているとか、常識がどうだなんてことはぜんぜん考慮に入れないで、とにかく勝手に振るまって、寝たいときは寝るし、食いたいときは食うし、勝手に振るまっていたと、それで、世間の人は、この人の人徳かわかりませんけど、あまり、このお坊さんを悪くいう人はいなかったという、また、そういうエピソードがあります。
 これは一体どういうことなんだろうか、この視線の向け方というのはどういうことなんだろうかということになるわけです。この手のことは『徒然草』の思想といいましょうか、『徒然草』の作者の思想といいましょうか、思想をはっきりさせるためにはとても重要なことのように思われます。これは先ほど言いましたように、死についての兼好法師の考え方と同じように、こういうエピソードに含まれている意味は何なのかということを解明していくといいましょうか、解いていくということは、非常に重要な要素のように思われるわけです。
 ここのところで、小林秀雄の『徒然草』は、やはりこの手のエピソードというものをひとつあげています。この小林秀雄のあげているエピソードは、やはり性質は同じことなのです。一人の非常にきれいな娘さんがあるところにいたと、その娘さんは栗ばかり食って、ご飯というものをあまり食べなかったと、それだもんだから、親は親のほうで、とてもきれいな娘さんなんだけど、こういうおかしなものしか食べない娘は人様に嫁がせるべきではないというふうに考えて、嫁がせるようなことをしなかったという、そういうエピソードがありますけど、そのエピソードを小林秀雄はあげています。
 それでどういっているかといいますと、兼好法師というのは、どんなにたくさんのことを感じながら、どんなにたくさんのことを我慢したかというふうに言っています。つまり、小林秀雄の解釈をみますと、こういうエピソードを、ぼくがあげましたエピソードを、いまの栗ばっかり食っている娘さんの話もそうですけど、それは何を意味しているかというと、たくさんのことを作者というのは感じたんだけど、しかし、たくさんのことを我慢して言わなかったということの一例として理解するというふうにそれを解釈しています。理解しています。
 ところで、これが問題なのですけど、それでもそういうふうに言われてどこか釈然としないところがあるわけです。もう少し、小林秀雄の言いたいことを、ぼくが具現して言っていみますと、つまり、栗ばっかり食っていてご飯を食べなかったと、だから、親たちはこの娘は一緒にまみえさせるべきでないと思って、嫁さんにやらなかったと、兼好法師はこういう事実を、あるいは、こういう話を聞いたときに、兼好法師はたくさんのことを感じたんだと、何を感じたかはわからないけど、たくさんのことを感じたんだと、しかし、それを言わなかったんだ、言わないから、ただ事実だけを投げ出したというふうに、小林秀雄はそういうふうに、この手のエピソードが『徒然草』の中に存在することを、そういう意味あいがあるのだというふうに、それは兼好法師の思想であり、考え方なんだというふうに、そういう理解の仕方をとっています。
 ところで、ぼくはそういうふうに理解しないわけです。皆さんがどういうふうに理解されるかは各々であると思いますけど、ぼくはそうでないように思うのです。これはある事実があるとすると、つまり、栗ばかり食って、ご飯をちっとも食べない娘さんであるとか、おやいもばかり食って、お説教するときもおやいもを食うし、譲られればお寺なんかみんな売りとばして、おやいもを買う金にしてしまうし、そういうお坊さんがいたという、そういう事実というのがあるとすると、ぼくはその種の事実の背後には何があるかというと、宿命というものがあるのだというふうに、兼好法師は理解しているというふうに、ぼくは解釈します。
 兼好法師はそれだけの事実、あるいは、もっと短い強盗にばかりあっているお坊さんがいて、それで他人から強盗の法胤といわれたと、なぜそのお坊さんだけがどうして殊更、強盗にばかり出遭っているようにみえるのだろうかというような問題があるとすると、それは宿命といいましょうか、たとえば、強盗に頻繁に出遭うということがひとつの事実であると同時に、その人間に集まってくるとすれば、それはひとつの宿命なのであって、だから、ある事実というものがあるとすると、それは事実こういう面白い話があったということでもなければ、ある事実があって、これはその事実の背後にたくさんの様々な陰影があるのだけど、しかし、事実だけを差し伸べて、ここに記述しておくというような、そういう作者の意識があるためでもなくて、あるひとつの事実があると、その事実のなかには、ひとつの宿命というものが働いていて、その宿命がその事実を展開させているといいますか、事実を事実たらしめているという、そういう考え方が兼好法師の思想ではないかというふうに、ぼくはそういう理解の仕方をします。
 そうしますと、『徒然草』というのは、わかりやすいところがあるのです。先ほどの「死」ということもそうなんですけど、非常にわかりやすいところがあるのです。この小林秀雄がまさに目を付けた、非常に特異な事実だけを投げ出したようなエピソードなんですけど、そういうエピソードの意味というものがしきりに問いかけてくるものがあると、それを小林秀雄はそこに着眼したと思います。

5 「モンテーニュの『随想録』に匹敵する」

 それからもうひとつ、それは言っていませんけど、間接的に小林秀雄は、ぼくがいまあげました死ということについての兼好法師の考え方というものに、たいへん着眼したんじゃないか、つまり、そこを非常に特徴あるものとして見たんじゃないかと思われるのです。
 どうしてそう思うかといいますと、『徒然草』を論じた小林の文章の中に、兼好法師の『徒然草』というのは、『方丈記』とかそういうものは似ても似つかないんだ、これはものすごく鋭敏で鋭利な批評眼をもった人物が書いた、一種の批評文学なんだ。この批評文学の鋭さ、鋭敏さとか、きわどさとか、そういうようなものは、空前であり絶後であると言えるくらいなんだといっています。
 例として、モンテーニュの『随想録』に匹敵するものであり、そして、しかも、モンテーニュの『随想録』よりも50年も100年も前に書かれている、たいへんなものなんだというふうに小林は言っています。なぜ、モンテーニュの『随想録』というものが、『徒然草』で小林秀雄の口からでてきたかと考えますと、モンテーニュの『随想録』というのは、さまざまなところでいろんなことを言っているのですけど、兼好法師と同じで、たいへん好奇心旺盛であり、鋭利な解析心をもった人ですから、さまざまな話題を収録しちゃうわけですけど、モンテーニュは自分でそういうことを言っているのですけど、こんなことを書いているけど、これは他人にこういう大そうなことが書ける人間だということを示そうとして書いているのではない。自分がやがて死んでいくんだろうと、死んでいったときに、おれを知っている人間とか、近親とかというものは、あいつは生きているときにどういうことを考えていたんだということを近親の人に知ってもらうためにおれは書いているんだと、それ以外の意味は自分は持たせていないと、つまり、こんなものを書いて、じぶんはたいへん鋭い観察眼と、鋭い人生に対する考察というのをもっている人間だとか、そういうことを世間の人に示したいということじゃないんだ、全然そういう気はないと、死んでしまったときに、あいつは生きているときに何を考えていたんだということを、近親の人が知ってくれればいいというつもりで、これを書いているんだというふうに言っていますけど、そのように、当時からモンテーニュというのは、『随想録』というのを皆さんもご覧になればわかりますけど、何にこだわっているかというと、やっぱり死というものにこだわっているわけです。
 やっぱり、モンテーニュも何章か書いていますけど、やっぱり視線の向け方というものは兼好法師とよく似ているんです。どういうふうに似ているかというと、やっぱり同じようなことを言うんです。日が暮れ、そして夜が明け、そしてまた日が暮れ夜が明けというふうに、こういうふうにいつまでも続くものだというふうに人間がおもっているととんでもない話だ。急に親子・兄弟とか、近親とか、急に突然、死に見舞われたとなって、びっくり仰天して慌てふためいてしまうのが人間なんだという、例をあげてみますと、兼好法師はいつだって、船岡山とか、鳥辺山とかは、いつでも死者を焼く煙があるんだというのと同じ言い方なんです。つまり、そういうことを言っています。
 それから、人間の幸不幸というのは、ほんとうに最後の日になってみないとわからないものだぜということを言っています。そういうエピソードというのは、ある王様が戦をして負けて、捕まって捕虜になって、敵の王様から死刑にされるという、そのときになって、自分の尊敬している哲学者、ソロモンという哲学者の名前をしきりに呼ぶわけです。どうしてそんなことをするんだというと、いや、あいつはかつて自分に教えてくれたと、人間というのは死という最後のときまでこないと、幸福かそうでないかはわからないものだというふうに、あいつはいつか言っていたと、それで自分のあれを考えると、まったくそのとおりだなと、だから呼んでいるんだと、そういうエピソードです。その種のエピソードをたくさんモンテーニュはあげています。
 それで結局、モンテーニュは死というものに対して、ここは兼好法師と違うところですし、また、東洋の無常観という仏教の無常観というものと、西洋の思想の違うところでしょうけど、それじゃあ、死というのはどうしたらいいんだ、どういうふうに向かえたら、死というのはいいんだというふうなことに対して、モンテーニュはようするに死というものと親しくなればいいんだ、いまのうちに親しくなって慣れていたほうがいい、親しくして、そしてこれを無化してしまうといいましょうか、それ以外に、死というのに対峙する道は全然ないと、だから、とにかくこれに慣れきっちゃうといいましょうか、慣れて仲良しになってしまえばいいんだというような言い方をして、これは兼好法師でいえばそうじゃなくて、絶えず無常に委ねて、仏道の修行に入って来世を願うようにしたらいいというふうに、『徒然草』ではそうなるわけですけど、しかし、モンテーニュには、そういう来世観とか、無常観というものはありませんから、ようするに、これはまったく仲良くしちゃえば、親しみ殺しちゃえばいいんだと、そういう言い方をしています。
 しかし、考え方の中心になっていることは、たいへんよく『徒然草』を貫いている思想とたいへんよく似ているわけです。小林秀雄はモンテーニュの『随想録』というのと、同じ質のもので、たいへん高度な鋭利な一種の批評文学であり、エッセーであり、これは空前絶後の眼力といいましょうか、形式をもった、そういう批評家が出現したということなんだという言い方をしております。
 この2つの、事実というものは、宿命ということのひとつのあらわれとして、事実というものを見て、それにあらゆる事実というのは、ぜんぶ宿命のあらわれだというふうにみて、これに関心を抱くというのは、兼好法師の『徒然草』の視線の向け方というものと、死の向け方というものを考えてみますと、つまり、これを中心に考えてみますと、だいたい室町期における最も鋭敏な批評家的な目をもった、あるいは、いまでいえば、理念的といいますか、理論的といいましょうか、そういう鋭利な目をもった一人の知識人でもいいわけですけど、知識人がどういうところを中心として、室町時代、あるいは鎌倉末の文化の基礎というものを思い描いていたかということが、たいへんよくわかることになると思います。ところで、ここからは更に小林秀雄の古典への関心が、ぼくはのびていったと思うわけですけど、のびていったひとつの方向は、『一言芳談抄』のほうにのびていったというふうにおもいます。

6 『一言芳談抄』への関心

 『一言芳談抄』についても、『徒然草』の中でも第九十八段ぐらいに『一言芳談抄』について書かれているところがあります。兼好法師は、じぶんはかつて『一言芳談抄』というものを読んだと、それは、名高い坊さんたちの言い残した、言われた言葉を書きとめた、そういうものであったと、そういうものが『一言芳談抄』、そのなかでじぶんが覚えていることがあるということで、何カ条かあげています。
 何カ条というのはいかにも兼好法師らしいあげかたですけど。いくつかいってみますと、ある事柄について、それをやったほうがいいか、やらないほうがいいか、思い悩むようなことがあったら、たいていやらないほうがいいんだというようなことが、かつて『一言芳談抄』に書いてあったと、それはじぶんが記憶しているというようなことを言っています。
 それから、やっぱり来世を願う人間というのは、みそがめとかそういうもののひとつであって、あんまり執着心をもたないほうがいいと、それから、経文とか、仏像とか、御本尊とか、そういうのももたないほうがいいと、つまり、絶えず身軽にしていたほうがいいと、小林秀雄もまた『一言芳談抄』について、これは兼好法師の関心とは必然的に通ずる関心というか移行した関心だと思われるのですけど、小林秀雄が『一言芳談抄』の中から、ひとつだけエピソードをあげています。
 このエピソードはこういうエピソードです。ある比叡の社の前で、若い女の人が巫女さんの真似をしてお祈りをしていたと、つづみを叩きながらお祈りをしていたと、お祈りをしているおかみさんがなんて言っていたかというと、この世はともかくとして、来世はひとつよろしくお願いしますということをお祈りしながらつづみを叩いているという、若い女の人はなま女房という言葉ですけど、こういうエピソードが『一言芳談抄』のなかにあります。
 小林秀雄はこのエピソードをあげてきて、これを坂本かなんかで蕎麦を食っていたときに、比叡山にいったときかな、ふと青葉若葉を見ていたら、その『一言芳談抄』の中の言葉が浮かんだというふうに書いています。坂本の蕎麦をすすっている間、しきりにどうしてこの言葉がいまどき思い浮かんできたんだろうかと、しきりにそういうことを考えていたんだと、そうしたらば、現代のインテリというのは、昔のなま女房のような若いおかみさんほどにも、この世は無常だということがよくわかっていないというふうに、小林秀雄はそういうふうに書いています。
 ところで、『一言芳談抄』というのから、その手の『徒然草』の作者である兼好法師がそういうエピソードを拾ってきたとしたらば、それは一種のやはり事実譚ですから、事実をひとつの宿命のもとにみる、そういうひとつの思想からいえば、そういうのを『一言芳談抄』の中からとってくるということは、たいへんわかりやすいはずなのです。しかし、小林秀雄がなぜこういうエピソードを『一言芳談抄』から拾ってきたかってことは、なかなかわかりにくいことなのです。

7 「疾く死なばや」-『一言芳談抄』の中心思想

 どうしてかというと、これは兼好法師のわかりにくさに具現してもいいわけなんですけど、『一言芳談抄』というのは、皆さんがお読みになれば、お読みになればっていうのは失敬で読まれていると思いますけど、『一言芳談抄』というのは、先ほど言いましたように、偉い坊さん、偉くない坊さん、その当時の有名無名、大思想家であるお坊さん、あるいは、小思想家であるお坊さんたちが、いろいろな言葉を残しているわけですけど。その言葉のはしはしというものを書き集めた、そういうものなのです。
 そうすると、その『一言芳談抄』の最も強烈で、最もラジカルな思想は何かといいますと、人間というのは生きているということを徹底的に否定しなきゃだめだということを言っているわけです。当時の言葉でいえば生を厭えということですけど、厭世ということですけど、つまり、人間は生を厭わなくちゃいけないという、一生、生を厭わなくちゃいけないというふうに、徹頭徹尾、生を厭わなくちゃいけないという、そういう言葉がありますけど、そういう言葉とか、あるいは、もっとすさまじい言葉になりますと、「疾く死なばや」という言葉がありますけど、つまり、早く死ななきゃいけないというような思想、生きているというのは絶対ダメなんだから、徹底的に死ななきゃいけないと、しかも早く死ななきゃいけないというのが、『一言芳談抄』のなかの最もラジカルな、また、最も中心的な思想であるわけなんです。
 これは兼好法師の死についての考え方ともほんとうは似ていないのです。つまり、兼好法師の死についての考え方というのは、これに比べれば遥かに穏便だといいますか、温和だといいましょうか、穏健な考え方です。しかも、穏健であり、なおかつ、死というものを、人間が生まれて大きくなって、そして、だんだん年を取ってきて、病に侵されて、それで死んでいくというような、死というのは終始、時間の向こう側にあるもので、だんだん人間がそこに近づいていくというような観点で死というのが、兼好法師の場合には描かれているわけです。
 ところが、『一言芳談抄』の中心的思想における死の観念というのは、とてもとてもそういうものではないわけです。そうじゃなくて、早く死んでしまえと言っているわけです。生きているのは全部ダメだと、前世というのは徹底的にダメなんだ。だから、死んでしまえと言っているわけです。それから、生きているうちに解脱するなら、生というのを厭わなくちゃ、つまり、嫌がらなくちゃいけないというふうに言っているわけです。疾く死なばやとか、急ぎ死なばやということ、急ぎ死ななくちゃというのが、だいたい『一言芳談抄』の中心的な、あるいは、根源的な思想であるわけです。
 この『一言芳談抄』の思想というのは、当時における無常観、仏教における無常観と、現実のわりなさといいましょうか、つまり、戦乱と疫病と生活苦ということで、とにかくやりきれないよということで、そういう一般的な風潮というものをひとつ結集したところに『一言芳談抄』の非常にラジカルな思想が成り立っているので、たいへんラジカルなもので、生きていることは無駄、徹底的にダメっていう思想なわけです。あるいは、疾く死なばやという思想なわけです。
 だから、大小の思想家、つまり、お坊さんですけど、思想家が『一言芳談抄』のなかには登場します。だいたい疾く死なばやとか、急ぎ死ぬべきだと言っている人は、当時でいえば小さな思想家です。小思想家であって、また小思想家には小思想家の特徴があって、非常にラジカルなわけです。常識外れであろうが、異常であろうが、そんなことは厭わずに、言いたいことを言っちゃうというのが小さな思想家の特徴でありまして、だから、疾く死なばやとか、一生、生を厭えと言っているようなのは、たいてい小さな思想家です。そのかわり言っていることはラジカルです。徹底的なことを言っているわけです。それは世間が顰蹙しようが何しようが、そんなことは知ったこっちゃないので、とにかく、疾く死なばやと言って、死なないやつは全部ダメだと言って、そういうことを徹底的に言っているわけです。
 それから、大思想家もいます。大思想家も『一言芳談抄』の中に登場します。たとえば、法然が登場します。法然はなんかはそういうアホらしいことは言わないわけです。法然は、極楽往生ということは、往生が決まったというふうにじぶんがおもえば、往生は決まるんだ。それから、往生は決まらないとおもえば、往生は決まらないよという、こういうような言い方をしています。そうすると、皆さんもそうでしょうけど、安心するでしょう、こういうふうに言われると、ああそうか、そう思えばそうじゃないかという、つまり、常識的な言葉で言い換えますと、物事というのはそう思えばそうであるし、そう思わなきゃそうじゃないんだ、こう言っているだけじゃないかというふうになるわけです。こんなことは常識じゃないか、当たり前じゃないかというふうになるわけです。もちろん、優れた思想というのは当たり前のことを非常に逆説的にいうことになるわけです。大思想というのはいつでもそういうことになります。
 同じように大思想である親鸞というのは、『一言芳談抄』の中でも登場しないのです。登場しないけど、親鸞は急いで浄土にいこうなんて考えないほうがいいと、寿命が尽きたときに、娑婆の縁が尽きたときに、ちゃんといけるようになっているんだから、急いで死にたがったり、急いで浄土へ往生して、浄土がそんなにいいところなら、どうして死にたくないんだろうかと弟子に聞かれて、そんなのは当たり前じゃないかと、ようするに、煩悩の故郷というのはなかなか離れがたいものなんだと、だから、寿命がきたときに、力尽きて終わる時に、浄土のいけばいいんですよと言っている。そんなこと言ったら、なんにも言うことないじゃないかということになるわけです。
 もちろん、それは逆説的な思想です、つまり、逆説的な言い方です。つまり、大思想というのは、一見すると、通俗的に解釈してしまうと、非常に常識だと思われることしか言えないし、言うはずはないのです。ところが、ラジカルな小思想家というのは、そんなことはどうでもいいわけです。他人のことなんかどうでもいいわけだから、じぶんが主観的にそう思ったら、それを言えばいいわけだから、徹底しているわけです。そうすると、じぶんが命を捨てられると主観的に思えていれば何でもいえるわけですから、だから、疾く死なばやという、早く死んだほうがいいんだという、だから、早く死ぬということを願わなくちゃいけないということを言うわけです。
 しかし、小思想家には小思想家の特徴というのがありまして、やっぱり見事な死の思想といいますか、日本における浄土系の思想というものは、一般民衆の中に常識のようにいき渡ったときに、そのときにラジカルな思想家はどういうことを言うかという意味あいで、たいへん見事に当時の一般的な世間の思想というもの、世間の考え方というものを非常に凝縮した言い方で言っているわけです。そこに『一言芳談抄』の中心的な思想があるというふうに、どなたがお読みになっても、そういうふうにお読みになることができます。
 そうしますと、『一言芳談抄』から、兼好法師はたくさんの影響を受けています。たとえば、いま言いました、法然上人が言ったようなことは、『徒然草』の中にもちゃんと載っています。だから、一生懸命、兼好が読んでいたことは確かなので、たくさんの影響を受けています。だから、それにもかかわらず、兼好法師は『一言芳談抄』のなかのラジカルな思想を、じぶんは影響を受けておりません。『一言芳談抄』の中心的な思想に比べれば、兼好法師の信じている考え方、あるいは、無常観というものは、はるかに穏健なものだというふうに言うことができます。穏健なものということは、たいへんむずかしいことなんだというふうに思います。兼好法師の穏健な死についての思想というものと、それから、生活の事実とか、事件の事実というものを一種の宿命のあらわれとしてみるという、兼好法師の見方とは、たいへん関係があるんだというふうに思われるのです。
 それじゃあ、小林秀雄はなぜ、『一言芳談抄』のなかでまったく取るに足らない、いちばん取るに足らないエピソードですけど、つまり、『一言芳談抄』自体、いちばん取るに足りないエピソードです。『一言芳談抄』の思想は全然そんなところはないという、最もつまらないエピソードです。つまらないけど具体的なエピソードです。それを小林秀雄は『一言芳談抄』の中から拾ってきているということ、取り出してきているということは、何を意味しているのでしょうかということがひとつあります。
 それは兼好法師の思想とは、小林秀雄自体の考え方というものの問題だと思います。思想という言葉を小林秀雄はたくさん使っていますけど、私たちがいう思想という言葉、つまり、一種の理念という言葉に置き換えてもいいようなものですけど、当時でいえば、仏教の思想、あるいは、仏教の理念であるわけですけど、理念というものに対して、小林秀雄はたいへん音痴だといいましょうか、無関心だといいましょうか、あんまり関心をもたない人だった、あんまりそれがよくわからない人じゃないのか、あるいは、あんまり関心をもたない人じゃないかということがわかります。それだから、『一言芳談抄』の中から、具体性はありますけど、いちばんつまらない、いちばん取るに足らないエピソードというものを拾ってきています。
 また、兼好法師は『一言芳談抄』の中から最も穏健な思想、穏健な死についての考え方というのを拾ってきています。ここらへんのところの小林秀雄の『徒然草』に対する共鳴の仕方、あるいは、つかまえ方といいましょうか、関心の持ち方というのが、たぶん、小林秀雄の古典論の根底をなしている非常に大きな特徴じゃないかというふうにつかまえることができると思います。

8 小林秀雄の古典論の大きな要

 ですから、そこのところで今度は『徒然草』を題にしますと、『徒然草』の中には『平家物語』の作者について書いた段落があります。226段だと思いますけど。この段落に誘われて、小林秀雄は同じように『平家物語』というものに関心をもっていきます。たぶん、小林秀雄が日本の古典文学の文学作品のなかでいちばん高く評価しているのは、この『平家物語』なんです。この『平家物語』に対する関心の小林秀雄の持ち方というのは、小林秀雄の古典論の中心的な美学観といいますか、中心的な文学観といいますか、芸術観というものをあらわしていくものだというふうに考えられます。
 『徒然草』の中で『平家物語』に触れている段落では、どういうことが言ってあるかというと、だいたい『平家物語』の作者というのは、信濃の国のさきの国司だった行長という人が作者です。この行長という人は学芸にたいへん優れた人だったけど、あるとき、朝廷の天皇の前で、そういうことが書いてありますけど、ぼくはよくわからないのですけど、七徳舞の舞についての談義みたいな、天皇が見てるところで談義をやったというふうに、七徳舞といって、七つの徳の舞というんですけど、これは唐の太宗の武勲を称えるために、武芸というのは七つの徳があるんだ、その七つの徳になぞらえた舞があるというわけで、その舞のうち二つを、天皇の前で七徳舞についての談義をした時に、その二つを忘れちゃったんだという、五つの舞については説明したり、論じたりできたんですけど、二つを忘れちゃって、それをたいへん恥として隠遁しちゃったんです。五徳の隠者という言い方で、この人は世間から言われていたというふうに書いてありますけど、この人は『平家物語』の作者であって、そして、この作者は生仏というめくらのお坊さんに自分が書いた『平家物語』を語り聞かせて、つまり、暗記させて、それで語らせたのが『平家物語』のはじまりなんだというエピソードが書いてあります。
 生仏という人が東北の生まれの人だったから、東北武士のことについて、詳しかったので、合戦のことなんかについて、『平家物語』の中に詳しく書かれているのは、この人がよく調べたり、聞いたりして、知っていたからだというようなことが書いてあります。それから、義経についてはたいへんよく知っている人だったけど、範頼についてはあまり知らないから、あまり詳しく書いていないということを言ってあります。
 ただ、この作者は信濃の国の国司だったということが、もしなんか引っかかりがあるとすれば、ぼくらには、この人は『平家物語』の中で、木曽義仲という人に、たいへんぼくは同情的だというふうに受け取れるわけです。『平家物語』を読みますと、木曽義仲についてたいへん同情的であるし、木曽義仲の最後の描写なんか、たいへん優れたものだと思うのですけど、肩入れしてあると思うんですけど、それはもしかすると、作者が信濃の国の国司だったことがある人だったという、そういうことは関係があるのかもしれません。それはわかりませんけど、ただそういうことが書かれています。
 ところで、この『平家物語』というものは、いったいどういう作品なんだということが小林秀雄の平家物語論というのは、だいたい戦争中の『無常といふ事』のところで一回と、それから、戦後の、時期はよく覚えていないのですけど、もう一度、『平家物語』について論じているところがあります。二回に渡って『平家物語』について論じていて、たぶん、ぼくは小林秀雄がいちばん、『平家物語』というものを古典作品のなかでいいということも、好きだということも、両方含めまして、小林秀雄がたいへん中心的に好きだった日本の古典作品というのは『平家物語』だったというような気がするのです。『平家物語』を小林秀雄がどういうふうに理解しているかということが、小林秀雄の古典論のなかで、非常に大きな要になってくるわけです。
 小林秀雄の『平家物語』に対しての理解の仕方というようなものは、いくつかの点で要約することができると思います。ひとつの点はこの『平家物語』に登場してくる侍たちがしょっちゅう組み打ちや合戦だということばかりやって、死んだ生きたということばかりやっている人間なんだけど、これらの合戦のありさまというのは、どういうふうに描かれているかというと、生き死にについての非常に健康なはつらつとした動きというものが、非常に鮮明な自然の風景を背景に描かれて、ひとつの健康な、いってみれば、陰惨な死が描かれていたり、陰惨な討ち死にが描かれていたりしているんだけど、しかし、全体の色調というのは、きわめて健康な自然児たちの躍動するような筋肉の動きが見られるような、そういう世界というものが描かれているというのが、小林の中心的な『平家物語』に対する理解の仕方なのです。
 これをもっと綴ってしまえば、自然児たちの涙があったり、笑いがあったり、暗い平坦があったりするんだけど、それらの背景をなしているのは何かというと、一種の自然であって、それはやっぱり自然を背景にして侍たちが殺し合いをやって、勝った敗けたとか、首を獲ったとか、名乗りをあげたとか、そういうありさまが描かれているといって、考えてみれば、これは無常である人間と、それから、無常でない自然との間の一種のかかわり合いを描いた、非常に優れた作品なんだということを言っています。それは小林秀雄の『平家物語』に対する中心的な考え方になると思います。
 もうひとつは、先ほど、文化がこの時代に重層していたと申し上げましたけど、『平家物語』の文体というものも、たいへん重層的な文体で、このことは小林秀雄がたいへん正確に捉えて言っています。よく読んでみますと、ある箇所はめくらの坊さんが琵琶かなんかに合わせて、ふしをつけて語ったんじゃないかというような、七五調に近い調子で詠嘆調で展開されていくわけです。だから、こうなってくると、謡い言葉に近いんじゃないかというような、そういうものがこのなかに入っているんじゃないかと思われるところがあります。
 それから、講釈師が合戦の場面を語るというふうに、語り言葉で語られたのを、書き言葉に写したというものじゃないかと思われる文体の箇所もあります。それだけで考えたらちょっと間違えちゃうので、よくよく読んでみますと、これは相当、高度な書き言葉で書かれていることがわかります。これは書き言葉の物語作品として、かなり高度な作品だということがわかります。つまり、『平家物語』ほど高度ではありませんけど、しかし、かなり高度な書き言葉の作品ということがわかります。
 こういうふうに考えてみますと、この『平家物語』というのは、歌い口と、語り口と、それから、ほんとうに書き言葉と、その3つの言葉が重層的に混合されたり、また、分離されたり、そういうかたちで展開されている、小林はポリフォニーという言葉を使っていますけど、たいへんよく響きあう、謡い口調から、講談口調から、それから、書き言葉の高度な物語の口調までは、ぜんぶ響きあって何重にも重層されている、そういう響きあいの世界というものを展開します。だから、かなりな程度、高度な作品であるし、かなり多面的な解釈の仕方を許す作品だということができます。
 小林はこの作品を別の言葉で、鎧兜というものになぞらえています。鎧兜というものは、よく見ますと、たいへんきれいなわけです。色彩もきれいですし、形もきれいですし、刺繍の仕方というのもたいへんきれいですし、これでもって、戦というのの機能に堪えられるのかと思われるくらいきれいです、鎧というのはできています。また、機能的にいいますと、矢がなかなか通らないようにできているというようなふうになっています。
 小林は鎧がもっている美的なきれいさといいますか、美的な機能と、それから、ほんとに矢が通らないように強固にできているというような、そういう実用的な機能と、鎧兜というものの中には、そういうたくさんの機能があると、この機能は何かというと、たとえば、このときのこの時代の鎧兜を着た、少なくとも主だった武者の合戦の時の戦の仕方というのは、やあやあ馬に乗って、名乗り上げて、いざ一騎打ちをしようじゃないかというふうにして、近寄ってきて組み打ちをして、それで、もし『平家物語』の場面を信ずるならば、ほかの人が見ているまん真ん中で二人が一騎打ちをして、一方が一方を刺し殺して、首を獲ったあげくに、おれはどこの国の住人で誰それをやっつけた、こういうふうに名乗りをあげるみたいな、そうすると、だいたい他人に見られているわけだから、鎧兜というのもきれいなのを着ていく、自分が死ぬにしろ、相手を殺すにしろ、美的にきれいなものを着せるということは、非常に重要なことになってくるので、だから、鎧兜というのは、きれいだというのは、そういうところからきているんじゃないか、つまり、合戦の様式というものは、鎧兜の様式というのを決めているところがあると、このつまり方というのは、ちょうど『平家物語』の詠嘆調があり、謡い調があり、語り調があり、また、高度な書き言葉もありというような、そういう重層の仕方というものは、たいへん鎧兜というものに似ているんだというような、小林秀雄はそういう理解の仕方をやっています。つまり、小林秀雄は『平家物語』という作品に打ち込んでいますし、また、たいへん高く評価しているということはわかります。

9 ほんとうの『平家物語』の世界

 ところで、『平家物語』というのは、ほんとうにそういう世界でしょうかということが問題になります。つまり、ほんとうにそういう世界でしょうかということがひとつ問題になると思います。小林秀雄のように健康な自然児たちが命のやりとりをする場合に、卑怯な真似はしないで名乗り合って組み打ちをしてこういうふうにやると、まったくそういう意味あいで健康な、笑いも涙もみんな雄々しくて、健康な世界だというふうに言っていますけど、ほんとうにそういう読み方に尽きるのだろうかということは、問題だと思います。ほんとうの意味で、また問題になると思います。
 そうしますと、小林秀雄は宇治川の合戦の先陣争いを例にあげて、健康な自然児たちの哄笑とか、筋肉の動きが目に見えるようだというふうに言っていますけど、宇治川の先陣の物語というのは、みなさんのほうがよくご存じだと思うのですけど、梶原源太景季という頼朝の郎党と佐佐木四郎高綱という郎党の二人が、頼朝のもっている二匹の名馬をせしめようとするわけです。はじめに梶原源太がいって、おれは今日の合戦で宇治川を渡って、先陣をつとめて死ぬつもりだから馬をくれって言うわけです。そうすると頼朝は二番目にいい磨墨という馬を梶原源太景季に与えるわけです。彼はいちばんいい馬をもらったって喜んで出掛けていくわけです。その後から、佐佐木四郎高綱というのがやってきて、おれに一番いい馬をくれって言うわけです。おれも今日は討ち死にするつもりだからくれって言って、もらっちゃうわけです。もらっちゃって出掛けていくわけですけど、梶原源太景季が、佐佐木四郎高綱がいい馬に乗っているのを見るわけです。そうすると、あの野郎、おれよりいい馬もらったじゃないかというふうに思って、大将は、つまり、頼朝はおれをいちばん尊重しているからおまえに一番いい馬を与えるというふうに、おれには言ったけど、ほんとうはそうじゃないじゃないか、あの野郎におれよりもいい馬をやっちゃったじゃないか、そうすると、大将はおれをいちばん尊重していると言っているけど、ほんとうはそうじゃないんだ、そうだったら、おれのほうに考えがあるから、おれは佐佐木四郎高綱を問い詰めて、あいつを刺し殺して、刺し違えて死んじゃって、頼朝に強い武士を二人、無駄死にさせて損をとらせてやろうと梶原源太景季は思いつくわけです。それで、佐佐木四郎高綱のところへいって、おまえこれもらったのかというわけです。そうすると、もらったというと、こいつは殺しかねないと思うから、おれはもらったんじゃないと言うわけです。おれは盗んできちゃったんだというわけです。どうせおれは死ぬと思ったから、これを盗んできちゃったんだ、ほんとうはよくないことなんだけど、しょうがないから、どうせ死ぬつもりなんだから盗んできちゃったと、こういうふうに言うわけです。そうすると、梶原源太景季は腹立ちを沈めて、なんだそうかおれも盗めばよかったなと言って哄笑したというわけです。それで佐佐木四郎高綱が先陣をつとめて、宇治川を渡って敵陣に入っていったという話なんですけど、ここのところで自然児たちの笑いとか涙とか哄笑とかが眼に見えるようだというような例として、小林秀雄はそこをあげているわけなのです。
 しかし、よく読んでみると、これは相当奇怪な男たちの世界だということがわかります。つまり、大将はおれをいちばん尊重しているに違いないと思っていて、だから、この馬をくれた。だから、おれは死ぬまで働いてやろうと思うと、そうすると、もう一人のやつがきて、おれのよりもいい馬に乗っていた。あの野郎、自分よりもいい馬をあいつにやったっていうのは、おれの大将はおかしいじゃないかと思って、おれはあいつと刺し違えて死んじゃおうというふうに決心するというのは、かなりぼくは異常な世界だというふうに思われるのです。それは一例にすぎないのですけど、自然児たちの健康な笑いというふうに小林秀雄がいっているところは、もしも、瞬間に分析的に働くことができる眼をもって見たとしたらば、かなり異常な主従関係のモラルとか、それから、集団関係のモラルとか、独特な習慣法みたいなものに規制された、かなり特異な世界だということはすぐにわかると思います。ぼくはそういうふうに思います。ですから、決して健康じゃないです。
 たとえば、兄弟でもいいのですけど、親父から兄貴のほうが1万円もらった。それで、弟のほうに1万5千円やった。うまいこといって1万5千円、弟のほうがもらっちゃった。兄貴のほうは、あの野郎、おれは1万円しかもらえなくて、あいつは1万5千円もらったと、うちの親父はおかしなやつだ、親父の子どもなんか二人とも死んじゃうという不自由をかけさせてやろうと思って、兄貴は決心して弟を刺し殺そうとしたと、弟のほうはうまいこといってなだめたんだけど、なだめなかったらほんとに刺し殺されちゃったという、それはかなりいまの家庭内暴力と似ている、これは異常な世界だとみるのが、きわめて当然である、つまり、たいへん異常だというふうに、いまからいって言うことはできないけど、独特な習慣法に支配された、そういう制度のもとにある世界だということがわかります。
 もちろん、人間の戦、内戦ですから、殺し合いをするっていうこと、それ自体がたいへんな異常な事態ですけど、異常な世界であるかないかではなく、武家の世界というものがもっている一種の異常な習慣法の世界というものがここにあるということが、ぼくはもし分析的な眼をもって働かせることができるならば、そういうふうに見るのが非常にほんとうの見方じゃないのかというふうに、ぼくには思われます。
 小林秀雄の見方というのも、たかが軍記物語じゃないかというふうなことを、はじめに前提とすれば、それはどうでもいいことなのです。本の読み方はそれぞれ違うということで、それはかまわないのですけど、ただ、『平家物語』の思想の精髄というのはどこにあるのかということをまともに問おうとするならば、やっぱりそうはいかないのであって、これを健康な自然児たちの涙と哄笑と詠嘆とがうずまいている世界といえばいいのかといったら、それはぼくはちょっとそうではなかろうと思います。そういうふうに見える眼というのは、ちょっと違うんじゃないかと思う、ぼくなんかはすぐにそういうふうに見えてしまう、これはかなり異常な世界だぜというふうに見えてしまいます。

10 木曽義仲へのシンパシー

 もっとこの問題を先ほど言いましたところでいいますと、突き詰めたエピソードがあります。たとえば、この作者は木曽義仲に対して、たいへんシンパシーをもっている人じゃないかと思われると申し上げましたけど、たとえば、木曽義仲の最後の場面が『平家物語』の中にあります。この場面は、いろんな人の最後の場面があるなかで、敦盛の最後の場面とか、忠度の最後の場面とか、唱歌の「青葉の笛」になっている、そういうふうに様々な武将の最後の場面があるわけですけど、しかし、そのどの最後の場面よりも、木曽義仲の最後の場面というのは、たいへん見事に、たいへん優れた文体で描かれています。
 このなかで、木曽義仲がだんだん義経と範頼の軍勢に追い詰められて、だんだんみんな死んでいってしまう、最後に今井四朗という、いちばんの郎党とたった二人だけ残ってしまう、それで、もうおまえらも二人になっちゃった、だいたい、お前とは子供の時から一緒にやってきて、いままできた、どうせ死ぬなら一緒に戦って死のうと思ったから、もっと死ぬ場面はいくらでもあったけど、ここまでやってきたと、もはやここで最後だから、二人で敵陣に突っ込んで、二人で死のうじゃないか、こういうふうに義仲がいうわけです。
 そうすると、今井四朗が馬から降りて、義仲は涙を流して、私が一騎で駆け行って、少しの時間、敵を防いでいようと、その間にあなたは松林の中に入って自害されたらいいと、どうしてかというと、あなたのような大将軍が敵陣に入って名もない雑兵に刺殺されて死んで、名乗りをあげられたとなったら、それは恥となってしまうと、だから、おれが一騎で行って防いでいるから、あなたはその間に松林に入って自害してくださいと言うわけです。それで、義仲が承知して、今井四朗が一騎で駆けていって、義仲は松林のほうに駆けていくんですけど、やっぱり、敵勢と出会って殺されてしまう、そういう場面があるわけです。
 このところで、『平家物語』の文章をみますと、侍というか、人間というのは、最後のときには、モンテーニュと同じようなことで、最後のときがいちばん大事なので、最後のとり方で、人間というのは決まっちゃうところがある、だから、あなたはおれが防いでいる間に自害してくださいというふうに言うんですけど、その思想というのは、たいへんモンテーニュとよく似ているのです。兼好法師とはあまり似ていないので、最後の場面というのをたいへん重んずるみたいな、そういう一種の無常観といいますか、生死観というのが『平家物語』の登場人物たちを支配している習慣法の世界ではあるわけです。
 だから、そのことのもうひとつのエピソードは、木曽義仲の最後のところになるわけです。たった二騎まで追い詰められる、それよりもすこし前なんですけど、最後に義仲はじぶんの初恋の女房が宇治橋を渡ったあたりにいるわけですけど、最後の場面になって女房のところに越後中太という郎党を連れて会いに行くわけです。会いに行って名残り惜しくてなかなか出てこないのです。そうすると、越後中太というのが義仲に言うわけですけど、大将軍が女性と別れを惜しんでいるところに、敵に急に攻められたら、たいへん恥になると、だから早く出てきてくださいというふうに、だけど早く出てこないわけです。そうすると、越後中太というのは腹を切っちゃうわけです。それならば、じぶんは大将軍に先駆けて、死出の道案内をするため、先に死んで行ってましょうと、そこで腹を切っちゃうわけです。腹切ったのを見て義仲が出てきて、ああこれはおれの死んだ後の死後の世界の道案内をするつもりで死んだんだなというふうになって、女のもとから去っていくというような、そういうエピソードというのがあるわけです。
 これもかなり異常じゃないでしょうか、たとえば、友達でも、家来でもいいですが、女のところに会いにいって、なかなか出てこないから腹切っちゃうっていう、やっぱり異常じゃないでしょうか、異常だという見方が現代的な解釈になるでしょうけど、これは非常に特異な世界です。いつでも生死を腹に入れて、それから、いつでもざっくりと自分の腹を切っちゃう、いつでも死んじゃうとか、先ほどの『一言芳談抄』の中でいえば「疾く死なばや」というわけです。いつでも死というのは残酷ともなんとも思っていないと、すぐ死んじゃうみたいな、こう思ったらもう死んじゃう、そういう人たちのかなり特異な世界だということはいえると思います。
 これは現代的な解釈だからどうっていうことでなくて、これはやはり、その当時の習慣的な掟とか、そういうものからみても、かなり特異な集団、特異な生き死にの感じ方とか、それから、身の処し方の世界じゃないのでしょうか、『平家物語』というものを、そういうふうに読むことと、それから、これはほんとうに単純な健康児たちの笑いと涙と詠嘆とが入り混じった、たいへん見事な合戦の世界なんだというふうに『平家物語』をみるのと、どちらがいいのかということじゃないし、また、どちらが好みかということでもなくて、そういうふうにみる見方によって、見えてくる世界が違ってしまうということがたいへん大切なような気がします。もっと違う見方というのもあるかと思います。そういうふうに見え方が違ってしまうということがあると思います。
 なぜ、それじゃあそういうふうに違ってきちゃうかというと、最初の眼が違ってきちゃうんだと思います。つまり、ここに古典の世界があって、作品の世界があって、これは言葉で書かれていますから、言葉と言葉の描き出す陰影というものと、それから、『平家物語』にはリズムというものがありますから、リズムが訴えるものがあります。これが入り混ざって、ひとつの世界として訴えかけてきます。この訴えかけてきたものをどういうふうに感受するか、これを凝縮するように感受するか、一種の沈黙ということに集めて感受するか、あるいは、そういう世界を一種の分析的な眼といいますか、自然に分析的に見えてしまう、そういう眼でこれをまじめに受け止めるかどうかということの理解の仕方というものが、極端に分かれていってしまいます。極端に分かれていってしまう世界の見方というものが、その人ひとの好みとか、批評の仕方とか、あるいは、作品の読み方とか、そういう問題をぜんぶ捨象した後にある古典の世界というものを、どういうふうに受け止めるかということで、見方がすーっと変わって違うように展開されてしまうというような、そういうことというのはありうることだと思います。

11 伝統と自然-『平家物語』と『源氏物語』

 ぼくは、小林秀雄という批評家はそれこそ空前絶後の批評家だというふうに思いますけど、しかし、ぼくらが小林秀雄の批評的な方法というものと、じぶんの批評的な方法というものが、最初に分かれていった地点というものは、いまの古典論ということで申し上げますと、いまのような地点で分かれていったように思います。
 分かれていってどうだということはないので、小林さんは亡くなったということも含めて、じぶんの世界というものを開花させて、そして、それをじぶんでもって刈り取って、十分な円熟を遂げて死なれたわけですから、それはそれとして、ひとつの古典的な意味あいをもって、存在するわけですけど、私どもがこれからどれだけじぶんが展開できるかわかりませんけど、じぶんの思想の方法を展開していく場合に、最初の分岐点というものは、そのようなところであったように思います。そうすると、なかなか安心立命がいかない世界でこちらのほうは、いまだに彷徨っているわけですけど、しかし、そこがいずれにせよ、最初の分岐点となって、さまざまな古典の見方というものが分かれていってしまう地点が決まっていくということはあると思うのです。
 小林さんは『平家物語』と『源氏物語』というものをちょっと比べているところがあります。『平家物語』と『源氏物語』を比べるというのは、一見するとおかしいんですけど、三題ばなしかなんかでなきゃおかしいのですけど、しかし、小林さんはそれをおかしいという意味あいでなく、どういう比べ方をしているかというと、平家というものは、いまの言ったような世界で、いずれにせよ自然児たちの命の笑いも、涙も、全部、無常な人間と常住な自然との間のかかわりあいのところで描かれている、こういう世界だと、これに比べると、『源氏物語』というようなものは、一種の人間と人間の関係の間の心理の世界だと、つまり、心理関係のねちねちっとした、とくに女性の世界ですから、ねちねちっとした心理関係の微妙な世界であって、小林秀雄はじぶんには『源氏物語』の世界というのは息苦しく感じられる、こういうふうに言っています。これに比べると、はるかに『平家物語』というのは、物語の枠組みも取れているし、また、自然と人間との枠組みも取っ払われて、一種の解放感と健康感といいましょうか、そういうものを『平家物語』は感ずるというふうに、そういうふうに述べております。
 ところで、これは小林さんが室町期、あるいは、鎌倉末期のところに、古典文学という場合の視点の中心の据え方ということとかかわってくるわけですし、また、小林さんの批評的な好みというものとかかわってくるわけですけど、小林さんの好み方のなかには、小林さん好みというものも否応なく含まれていますし、好みを除いても、小林さんの批評感というもの、小林さんのなかの古典という概念と、それから、歴史という概念と、それから、思想という概念と、それが全部、伝統というところに集約されて、ぜんぶが同じような意味あいで使われているところがあります。つまり、古典といっているのも、歴史といっているのも、思想といっているのも皆、約まるところといいますか、糸がひくところ、伝統という意味あいに収れんしていく、そういう小林さんの考え方がありますけど、この考え方というものは、『平家物語』に対する見方のなかに、よく出ていると思います。
 ところで、『源氏物語』の世界のなかで自然というものはないのでしょうかということになるわけです。ぼくはそういうふうに思わないです。『源氏物語』のなかに自然というのがどういうふうにあらわれているかといいますと、それは、無意識としてあらわれていると思います。登場人物たちの描く、ほんとに緻密な高度な心理小説ですから、そういう心理のあやのなかで登場人物たちはもがくわけですけど、そのときに登場人物たちのもがいている無意識というものを決めているのは、ぼくは自然だと理解します。
 だから、登場人物たちは、ある年齢がきて、ある時期にぶつかり、ある認識に達すると、ひとりでに無常といいますか、死の影というものを、ひとりでにじぶんが感受するようになってしまうわけです。そのときに、じぶんは老齢がきたから無常をおもうようになったとか、そういうふうに意識しているわけじゃないのだけど、『源氏物語』を読んでみますと、ひとりでに無意識のうちに登場人物たちの織りなす心理のあや、心理の葛藤というものは全部それがずーっとゆっくりと流れて、自然の流れというのを時間の中に、ぜんぶ無意識に規定されているということが非常によくわかります。
 『源氏物語』とは、小林さんのいうような意味で人間と自然とが対峙しているのではなくて、人間の無意識を決定するものとして、自然という概念が決定しているところがあります。そのようなかたちで、『源氏物語』のなかでは、自然というものはやはり、いきいきとして生きていることがわかります。
 そうすると、小林さんの言い方は必ずしも正確ではないだろうと思いますけど、しかし、そういうことじゃなくて、小林さんが、おれは『源氏物語』はどうも苦手だと、しかし、『平家物語』はほんとにピカイチだといいましょうか、最も優れた古典作品だと思うと言っているわけです。小林さんが好みというものと、小林さんがなぜそれを好むかということで考えて、古典に対する小林さん自身の考え方というものは、非常に明瞭にそこにでているように思います。
 先ほど言いましたように、小林さんのなかでは、いずれにせよ、歴史という概念も、古典という概念も、それから、思想という概念も、ぜんぶ同じように、伝統というところに、あるいは伝統社会、あるいは伝統社会の文学といいましょうか、伝統文学といいましょうか、そういうものとして収れんしていきます。この収れんしていく、いき方というようなものは、ある意味ではどうしても必然であるということはいえるのですけど、しかし、ぼくらが古典作品を見ていく場合に、どうしても小林さんのようには収れんしきれないものがあります。
 そういうふうに収れんすることが決してわからなくはないのですけど、盲目ではないのですけど、しかし、ぼくらが古典作品をみますと、すぐにもやを通して見えてきた世界であって、その世界をどうしても一種の分析的な眼といいましょうか、はじめからある分析的な眼というもので、世界が見えてしまうことがあります。
 そこのところあたりが、ぼくらが小林さんの古典論に対して感ずるいちばんの特徴的なところであるとともに、いちばん不満といえば不満だと、じぶんはどうしてもそういうふうにはついていけなかったなと、あるいは、そこから分かれてしまったなというふうに考える原因のところなのです。
 小林さんが『徒然草』というものを研究して、つまり、室町、あるいは、鎌倉末期の批評文学の作品の中心にして、そこから延長する形で小林さんも古典論を展開していった筋道というのを、ぼくなりに想像してつけていってみたわけですけど、ぼくらが小林さんの古典論からたくさんのことを学び、ある意味で、小林さんの古典論を追従するようにして、古典の作品を読んだり、論じたりしてきた、そういうところで考えられた小林さんの古典論と、それからまた、どこでどのように自分が分かれていってしまったかということについてのひとつの感慨みたいなものがぼくにありまして、その感慨を含めて申し上げますと、いま言ったようなところに要約されるのではないかと思われます。
 たぶん、小林さんの古典論もそうですけど、その他の批評文も優れた文章が多いですから、皆さんも教えられる教科書とか、教材とかに最もたくさんよくあらわれてくるものじゃないかなと思いますし、また、それは当然なことなんだと思われますけど、もし、機会がありましたら、小林さんの古典論をもとにして、原点にもあてられた眼で、ごじぶんなりの古典論についての考え方というものを手に入れるというかたちで、手に入れてくださったら、たいへんいいことなんじゃないかと思われます。ぼく自身はそのようにして、じぶんの古典論の世界に関心をもち、そして、古典を論じたりしていままでやってきたように。お粗末なんですけど、いちおうこれで終わらせていただきます。(会場拍手)

12 司会

 吉本先生の「小林秀雄と古典論」、長い時間お話しいただいたわけですけど、先生のご了解を得まして、これから、設問の時間ということですので、ご質問がございましたら、学校、名前とおっしゃってお願いいたします。せっかくの機械でございますので、どなたでも。

13 質疑応答

(質問者)
 平塚工業の伊藤といいます。4月に教員になっていちばんわからないところなんですけど、たとえば、うちの学校は工業で、小林秀雄なんかとは一生無縁な存在のような気がするんですけど、そういった子どもに小林秀雄という教材を与えることに意味があるのか、あるとすればどういう意味があるのか。
 どうしてこういうふうに思うかというと、たとえば、『最後の親鸞』のなかで、大衆が無知から無知に横すべりする、インテリゲンツィアは岸に向かって着地するというような、あの部分がどうしてもダブっているもので、もしかしたら、ぼくの頭の中でじぶんの知らないことを混乱しているのかと思うのですけど、そのへんがはっきりつかめないと、どうも教科書をやっていてつまらないなという気がするのです。そのへんのことを伺いたいです。

(吉本さん)
 小林秀雄が書いたものを教えることに意味があるかどうかということなんでしょうか、それとも、いわゆる文科系のことといいますか、文学に類することを教えるのが無意味なのだと、どちらですか。

(質問者)
 文学一般ということです。

(吉本さん)
 ああそうですか。ぼく、工業学校に行っていたんです。いまでいう高等工業ですか、出たんです。昔、工業学校行って、それから、昔でいうと高等工業学校といったんですけど、それから、工業大学に行ったんです。ぼくも国語の教科書でいろんな近代文学の名文みたいなものを切れっ端で教えてもらったという、そういう科目があったんですけど、ぼくは国語が好きでしたけど、しかし、必要かどうかというのはよくわからないです。
 つまり、ぼくが3年生で友達が、ようするに同級生がおまえ赤シャツだ、赤シャツだというんです。赤シャツってなんだって全然わからないんですよ、いかにもよくわかっているという前提のもとに、同級生は漱石の『坊っちゃん』を読んでいたんだと思うんです。ぼくは全然読んでいないものだから、つまり、あなたのおっしゃるとおり、文学みたいな文科系のことにあれがなかったから、全然なんのことかわからなかったんです。なんかのときにそう囃されたんですけど、意味の通じないというのは、面白くなかったです。
 それから、ぼくはそれじゃあ漱石のなんかを読もうと思って、神田へ行って、赤シャツというのが出てくる『坊っちゃん』というのを探したんだけど、なくて、いっぱい探せばあったんでしょうけど、はじめてだからなくて、たまたま『硝子戸の中』という漱石のエッセーが岩波文庫であって、それを買ってきて読んだんです。それがたぶん事始めなんですけど、文学の。『硝子戸の中』というのは、ご承知のとおり、たいへん漱石の晩期に近いエッセーですし、相当重いエッセーで、簡単なことを書いているんですけど、暗いかつ重いエッセーなんです。それは全然そんなことはわからないんだけど、ただ、印象はものすごく重くて、辛いという印象なんだけど、しかし、これは暗いんだけどいいと、どうしていいと思ったのかわからないけど、この暗さはいいんだという、それがあったんです。それが文学みたいなものに関心をもつはじめだったような気がするんです。
 こういうのは縁だから、仏教でいえば縁だから、契機の問題だから、契機がないところで国語のそういうあれを教えるというのは、なんとなく面白くない印象をもつと思います。だけど、もしかすると、そこのところで、一人でも二人でも、それが契機になって文学の世界に入っていって、それが好きになるみたいなことがある人がいるんじゃないでしょうか、自分がそうだったので。
 そんなものがなくたって、ぼくは商売が成り立っていって、技術者になるには苦渋しないと思っていたし、不自由しないわけですけど、それから、ある意味では技術に対して妨げになるんです、文科系のことは。面倒くさくなっちゃうんです。手を動かしていろんなことをやったりというのは、面倒くさくなっちゃうのがあったり、全部アホらしいというあれになって、たいへん妨げになることも多いのですけど。
 でも、ぼくは技術者というのを、最終的に工業大学にあれしましたけど、工業大学の専門家である先生に対して、同級生に対して、不満でしょうがなかったんです。この人達はいい人なんだけど、なんだか違うという、それはどうしても合点がいかないわけです。ひとくちに言っちゃうと通俗的なんです。技術関係の学者というのは、工業系の学者というのは通俗的なんです。じぶんの学問以外のことには、ものすごく通俗的になるんです。それはちょっと我慢ならないなというふうに思えて仕方がなかったんです。だから、ぼくは究極的にいいんじゃないかと思うんですけど、工科系の生徒さんや学生さんが文科系のことをあれするのはいいんじゃないかと思えるんですね。
 それから、もっと違うところからいうと、一般的に知識というのはやっぱり富だと思うのです。つまり、貧困という場合に2つあって、3つあるのかもしれないですね、経済的貧困というのがあるのかもしれない。経済的貧困というのは、明日食うお米がないんだという、そういう貧困があるわけですけど、その貧困はいまのままで相対的には、だんだん解消していっちゃうんだろうと思うんですけど、そういうことはひとつあると思いますけど。
 もう2つあって、もうひとつは、関係性の貧困だと思うんです。関係性が貧弱だということなんです。貧困の危機感のなかでも非常に大きな部分だと思うんですけど。
 それから、もうひとつは、知識だと思うのです。知識というのは逆にいうと富だと思うのです。相当きつい目にあっても、知識ということがあると、もっているということだけで、役に立つんじゃないけど、もっていることが救済になることがあると思います。それだから、知識は役に立つから富ってことじゃなくて、もっているということ自体が、相当ピンチに人間が追い込まれたときに役に立つということが、ぼくはあるような気がするんです。だから、ぼくは、それは富だから、ないよりはあったほうがいいという意味あいでも、ぼくはいいんじゃないかなと思うのですけど。
 だけど、工科系の人というのは大部分が、一人二人の人はわりあいにそういうことに関心をもっていたりして、それは異端者だったりするというのが通常なんですけど、学校行っても、大学行っても同じです。そういう目というのは、ぼくはずいぶんあってきまして、差引勘定がプラスかマイナスかといえば、結局はプラスというほうにつけるという感じ方にどうしてもなるのですけど、だから、虚しいけれどやったほうがいいのではないでしょうか、ぼくはそう思いますけど。



テキスト化協力:ぱんつさま