1 「自意識」という批評の起源

 小林秀雄について語るというのが、ぼくの与えられたテーマなのですけど、小林秀雄については、何回か書いたり、それから、しゃべったりしたこともあります。だいたいじぶんの中にある小林秀雄というのは型がちゃんとできちゃっていて、その型をなかなか壊せないですから、ただ、視点といいますか、考え方といいますか、しゃべりかたといいますか、入り方というのをすこし違う入り方をしてみようというふうに考えてきました。
 まずはじめに、小林秀雄の批評というものの起源といいますか、そういうところからお話してみたいと思います。起源というのはようするにどういうことかといいますと、小林秀雄という人がどういうことを批評の原則、あるいは原理として目指すというところから出発したかというふうに考えた場合に、目指す方向の最後のところに考えられているものというのは、起源にあると思います。
 小林秀雄の起源というのを考えてみると、まず「自意識」ということだというふうに考えます。この「自意識」というものは、小林が批評の原理にしたという場合に、そういう批評の原理というのを誰から学んだかというと、それはボードレールの文芸批評から学んだと思います。つまり、ボードレールの「エドガー・ポーの生涯と作品」という、ポーを論じた批評がありますけど、それがたぶん、小林秀雄がまず「様々なる意匠」というのを書く場合に、それ以前の初期の文芸批評の場合にも原典として、影響を受け、また模倣したのだというふうに思います。
 ボードレールの文芸批評というものを小林秀雄のいうところによって言わせると、たとえば、ボードレールがポーを論ずる場合に、対象であるポーの作品を論じているということが、同時にやっぱり自分自身を論じていることになっていると、あるいは、もっと別な言い方をしますと、対象である文学者、あるいは文学作品を論ずることが、じぶんの内面を独白するということと同じことになっている。そうすると、いわば他者を論ずるということと、対象を論ずるということと、じぶんを論ずるということ、あるいは、対象を意識化するということと、じぶんを意識化するということとはまったく同じことになるじゃないか、この自意識というものを目指さないような批評というのは、批評とはいえないということが、たぶん、小林秀雄の批評の出発点になった原則だと思います。自意識というものが批評の彼方に描かれた小林秀雄の出発点だったというふうにいうことができます。
 そうすると、問題は、違う言い方でも言われています。当時はいわば、社会的尺度による批評、つまり、マルクス主義文学における文芸批評みたいなものが非常に盛んなときでしたし、また、日本ではモダニズムの文芸批評みたいなものも一方ではあったという時代ですから、小林秀雄も十分それを意識しているわけで、意識しながら自分の原則を、あるいは、批評の原点といいますか、彼方に描いて、そのときに「自意識」という概念をまず導入してきたということがいえると思います。
 別の言い方もしなければならないです。たとえば、ゲーテというのは突然出てくるんですけど、ゲーテが世界的だ、あるいは普遍的だというのは、なぜかといったら、ゲーテが優れて国民的だから、ゲーテが国民的なのはなぜかというと、それは人間的だからだ、そうすると、ゲーテの文学作品が人間的だということはどういうことかというと、個性的だからだというふうな言い方をして、つまり、いま言いましたように、そういう収れんの仕方をするものの遥か彼方といいますか、原点として、個性的という概念をもう少し突っ込んでいきますと、そこに「自意識」という概念が出てくるというのが、だいたい小林秀雄の考え方になります。
 ですから、作品の社会的等価物といいましょうか、社会性というものも、それから、民族性というものもすべてそれは収れんしていけば、つまるところ個性にいきつき、それで個性を収れんしていけば、「自意識」ということにいきつくというのが、小林秀雄が出発点に描いた批評の原則といいますか、彼方にある原型といいますか、起源といいますか、そういうものとして描いた、非常に明瞭な把握だったというふうに言うことができると思います。
 小林秀雄はその「自意識」にまで収れんしていく、収れんの仕方というのは何なのかといったら、結局、それは、作家、あるいは批評家、つまり、一般的に文学的なものの背後にある宿命というものじゃないかと、どうしてもじぶんの体内をめぐっている血液が疑いようもないように、じぶんの宿命というものを、結局、「自意識」というところまでいってしまえば、宿命というものも疑いようがなくなっていくという、そうすると、個性というのはつまるところ、その人の特色とか、キャラクターとかということじゃなくて、それはその人の宿命というところまで突っ込んでいかなければ、つまり、不可避であるというところまで突っ込んでいかなければ、批評あるいは一般的に文学というものは成り立たないんだというところへいくわけです。
 そうすると、小林秀雄の言い方をしますと、ある文学作品を読んでいると、それは、個性的な表現であったり、言語的な様々な陰影をもって、豊富な世界を実現していると、それをいま言いましたように、個性というところから、「自意識」というところへ、どんどんどんどん収れんさせていくと、結局のところ、その作品を描いた作家なら作家、あるいは、批評家なら批評家の不可避の宿命というものが見えてくると、そこまで宿命というものが見えてきたときに、はじめて批評の言葉というのが可能であるという言い方をしています。
 はじめてそのときに、私は私の言葉でもって批評を語りはじめると、そうすると、その作品を批評し始めると、そうすると、その批評の言葉は同時に私の言葉にもなっていると、つまり、私の自意識を表現した言葉にもなっている、あるいは、じぶんを独白した言葉になっているというところへいくと、そこのところで、はじめて批評の文学という概念が成り立つということが、小林秀雄の最初の起源にあたる概念だと思います。

2 批評の戦略としての「からめ手から」

 ところで、小林秀雄の現在性というのをどこで見ていったらいいのか、あるいは、現在性というのと同時に小林秀雄の個性というのをどこで見ていったらいいのかということになっていくわけですけど、小林秀雄は2つのことを、いってみれば、じぶんの現在性といいますか、じぶんがいまその時代にそこで存在して批評文学をやっている、あるいは、批評を書いている、あるいは、文学をやっているということの必然といいましょうか、それを小林秀雄は2つ考えていたというふうにおもいます。
 ひとつは、「自意識」というものはどうしても過剰にならざるをえない、つまり、「自意識」の過剰分といいますか、余剰分といいますか、意識の余剰分というものはどこへやったらいいのか、あるいは、どこへ行方を定めたらいいのかという問題がひとつ大きな問題として、小林秀雄のなかにあったとおもいます。
 もうひとつは、小林秀雄が、いまでも同じことなんですけど、ボードレールのヨーロッパにおける近代批評の原型になっているような批評の仕方というものをこっちにもってくれば、非常に個性的に消化して、それを原理として批評文を描けば、それで同時代的な批評になりうるのかという問題がもちろんあるわけです。
 その場合に、そうはいかないだろうという問題があって、それは小林秀雄もその当時、十分に考えて、いっけん考えていないようでも、よく考えられていると思われます。それは小林秀雄が、いつでもそうなんですけど、じぶんにも批評というものの戦略といいますか、軍略という言葉を使っていますけど、戦略があるとしたら、それは「からめ手から」だと、それがじぶんの批評の戦略だというふうなことを度々言っています。
 「からめ手から」というのは、舞台よりも楽屋だ、舞台よりも楽屋のほうが重要なんだ、あるいは、建て前よりも本音のほうが重要なんだという言い方でもいいわけですけど、ようするに、「からめ手から」ということが、じぶんの批評の原理だということを度々初期に言っています。
 「からめ手から」という批評の方法というふうに小林秀雄が言ったときに、もちろんプロレタリア文学批評のいつでも作品の社会的等価物を捉まえるとか、政治的価値と文学的価値とかいっていることに対する大きなアンチテーゼでもあるわけですけど、それは同時にそうじゃなくて、じぶんが西洋の近代批評の原型をじぶんのところで消化してもってくれば、それで同時代的批評になりうるのかという問題に対する、じぶんなりの懐疑があって、疑いがあって、それが一種、「からめ手から」という原則になっていると思います。

3 小林秀雄の恋愛体験

 その2つの問題をもう少しだけ申し上げてみますと、「自意識」の余剰分といいますか、過剰になった「自意識」はどうするんだと、過剰になった「自意識」は一般的にいいますと、じぶんを見ているじぶんということで、文学以前の問題としていえば、じぶんを見ているじぶんとして、いつでも意識されてしまうという問題だと思います。
 この問題はいちばん手っ取り早くわかりやすいのは、小林秀雄の恋愛関係というものを、『Xへの手紙』の中によくそのことが書いてありますけど、つまり、恋愛関係に対する考え方のなかにわかりやすくでているから、それを申し上げますと、小林秀雄は皆さんもゴシップ的にはよくご存じかもしれないですけど、中原中也と長谷川泰子と3人で協力し合って三角関係をつくっていたというふうに自分は言っていますけど、三角関係に対する小林秀雄の独特の考察の仕方があるわけです。結局、恋愛というものに対する独特の考え方というのが体験的にでてきている考え方というのは、『Xへの手紙』というのを読みますと、よくでてきています。
 恋愛関係、とくに三角関係というもののなかであらわれる男女の間というものは、どういうものかというと、とことんまで突き詰められちゃうものであって、とことんまで突き詰められたときに男女というのは憎み合っているのか、愛しあっているのか、そんなことは全然わからないと、どっちでもいいともいえるし、愛しているとか愛していないかということとまるで違うことだということがわかる、つまり、惚れるということはぜんぜん愛していることとは違うことだという、あるいは、憎んでいること自体とも違うことで、わけのわからないことだ、そのわけのわからないことをもう少しわけのわかるような言い方をしますと、どういうことになるかというと、それは世間からは二人きりという感じになって、世間の物事というのは何も聞こえなくなっちゃう、しかし、逆なことをいいますと、その時ぐらいに人間、あるいは、他者と言ってもいいのですけど、他者がありありと見える体験というのはないんだという言い方をしています。
 だから、世間から見ると、盲目の恋とか、盲目の三角関係ということになっているわけなんですけど、じぶんの中ではそうじゃなくて、相手のことがこれほどはっきりわかることはないというぐらい、言葉なんかいわなくても相手のいうことがわかっちゃうみたいな、そういう非常に鮮明にわかる体験だとして、いわば男女が鮮明にわかりあう関係であることが、同時に社会的にいったらば、反社会的な関係であって、つまり、世間的に見たら、まるでやっていることはキチガイ沙汰だとか、やっていることはわけのわからないことをやっているとかというふうにしか外からは見えない。しかし、ご当人同士でいえば、これほど人間というのがわかるというわかり方はないんだという、そういうひとつの体験だというふうに言っています。
 これはどういうことかといいますと、小林秀雄の三角関係というようなもので、究極的に突き詰められていったときに、何が露出しているのかといいますと、それは男と女との差異ということです。違いということです。つまり、男と女の違いということが、非常に恋愛、とくに三角関係を含んだ恋愛のなかでは明らかに露出してきちゃうんだというのが小林秀雄の三角関係についての洞察です。あるいは、体験的結論になっています。
 それはどうしてそういうことになってしまうかといいますと、ぼくの理解の仕方では、過剰なる「自意識」というものが男女の間の関係というものを、いつでも見ている第三者が、いつでもでてきちゃうということ、つまり、恋愛しているんだけど、恋愛しているじぶんが見えてしまっているとか、じぶんの心の動きが全部それを見ているじぶんがあるということ、つまり、過剰分の「自意識」というものが、結局のところ、突き詰めるところ、小林秀雄の三角関係というものを、結局は男女の三人の関係じゃなくて、男女それぞれの差異、違いというものを露出してくるという関係のなかに収れんしてしまう、その点はいま申し上げましたとおり、たぶん、小林秀雄のなかにある過剰分の「自意識」というものの行方といいましょうか、それのあり方というものが、そういう三角関係の結末、あるいは、仕方を決定しているというふうに思います。

4 漱石の三角関係の表現

 これは比較すればよくわかるので、三角関係というのは大変なテーマでして、たとえば、夏目漱石の三角関係というのは、『門』にも描かれているし、『行人』にも描かれています。これも、漱石は非常に関心をもった課題なんです。この課題の意味は様々あるのですけど、ただ、漱石における三角関係というのはどういうふうに収れんするかといいますと、それは、ホモジーニアスなセックス、あるいはエロスの世界というもののなかに、女性は異和物としてやってくるという考え方に収れんいたします。
 つまり、『行人』のなかの一郎と弟の次郎と、弟の次郎がじぶんの細君と関係があるんじゃないかと一郎が疑うという疑い方のなかでもそうなんですけど、漱石の三角関係の世界というのは、突き詰めていってしまいますと、ホモジーニアスなエロスの世界というものが、漱石の自意識、あるいは作品世界でもいいのですけど、その自意識の世界の全部を占めているというふうに収れんいたします。
 だから、漱石はホモジーニアスなセックスとか、エロスとか、いわゆる同性愛というふうにすぐにお考えかもしれないけど、そういう細義に、狭い意味に捉えられないほうがよろしいので、これは均質的な性の世界、あるいはエロスの世界、つまり、エロスの世界というのは、そこにどんな男、どんな女が入ってきても、ぜんぶ均質な世界になってしまう。均質な世界として描かれる。だから、漱石はいつでも女の人のなかに、じぶんの細君のなかにもそうですけど、女の人の関係であるにもかかわらず、女の人のなかに人間を見ようとしているわけです。女の人のなかに女を見ようとしていないのです。じぶんもそういうなかで男になろうとしないで、人間になろうとしているわけです。漱石の作品の中にでてくる男女の関係というのはいつでもそうです。ことに三角関係を描いている場合は、いつでもそうであって、漱石は本来的に、ぼくの言葉でいえば対幻想なんですけど、1対1の関係で男女はあるべきそういう世界でも、漱石は相手の人に、女の人に、あるいは細君でもいいですけど、女の人に人間を要求しています。それから、じぶんも人間を要求しています。ちっともセックスにならないのです。つまり、男にならないんです。相手の人に女というのを要求しないで、人間を要求するというかたちが漱石の中で突き詰められた性というもののあり方です。
 ですから、漱石が女の人を非常にいつでも憧れていて、いつでも理想として描いているんですけど、そこで描かれている漱石の理想の女性像というのは、女性として、あるいは性の対象として理想的であるというふうに考えるよりも、人間として立派な女性というような意味あいでいったほうがいい、そういう描かれ方をしていることがわかります。
 そうしますと、漱石の三角関係の世界がなにかといったら、そういう意味あいでホモジーニアスな世界というふうにいうわけです。つまり、必ずしも同性愛的という意味ではないのですけど、ようするに、人間的というふうに、いつでも性の世界を人間的というふうに還元しますと、男であるか女であるかというのは差異がなくなってしまいます。つまり、差異がない世界になってしまいます。ですから、漱石は本来、男女の差異があるべき世界において、それは、差異がない世界になってきてしまうわけです。
 そうすると、そこに入りきれない女性、女らしい女性といいましょうか、性として女性らしい女性というのが、漱石の世界に入ってくる場合には、異和物としてといいますか、不純物でもいいのですけど、異和物として入ってくるという入り方をします。
 ですから、たぶん、この入り方というのは女性にはわかりようがないと思うのです。つまり、知的な女性はわかるかもしれないのですけど、一般的にそうじゃない、漱石の奥さんみたいな女性にはそれはわかりようがないのです。つまり、人間なんか要求されたってしょうがないわけです。だから、漱石にとっては異和物として入ってくると、あるいは、異和物であるというふうにしか見えないというふうになるから、たぶん、非常にそこのところで漱石は苦労しただろう、つまり、苦しんだだろうというふうに、ぼくには思われます。それが、漱石の三角関係のなかにおける男女というものに対する結論なんですけど、それは、漱石のなかにホモジーニアスな世界というものが、一般的に自意識の代用品といいますか、代名詞といいますか、代動詞といいますか、そういうものとしてあったということを、ぼくは意味していると思います。

5 小林秀雄から近代批評がはじまった

 それじゃあ、男女の差異にまで突き詰められてしまうという小林秀雄の三角関係のあり方というのは、それは別な意味で病的なわけです。漱石とは違う意味で病的なわけです。なぜならば、男女の世界というのは対幻想の世界です。つまり、男の世界でもなければ、女の世界でもないけれど、男と女が存在しなければできあがらない世界というのが、男女の世界というものの本質に属するわけです。ですから、男は男、女は女というふうに、男女の差異というものが突き詰められてしまう小林秀雄の三角関係、あるいはギリギリの男女の関係というもののあり方というのも漱石とは違う意味で非常に異常だといえば異常だというふうに言えるとおもいます。
 つまり、そこが原動力といいましょうか、原因になっているのが、小林秀雄のなかにある自意識の過剰分というものだというふうに思います。この自意識の過剰分というものが、小林秀雄の中でどういうふうに行方を定めていくのか、あるいは、どういうふうに消えてしまうのかという問題が、たぶん、小林秀雄が初期の批評の起源という問題意識を離脱したときにいちばん出てきた問題じゃないかというふうに思われるわけです。
 もうひとつの「からめ手から」ということを少し説明してみますと、それはやさしい言葉でいえば簡単なことで、小林秀雄も簡単な例をひいています。たとえば、友達が4,5人集まって、誰かの悪口を言っていると、席にいない人の悪口を言っていると、みんないきいきとしていると、そうすると、だんだんそれを突き詰めていきますと、席にいるやつも、もしおれが便所かなんかどこかにいったら、必ず、おれが今度は材料になるんじゃないかというような、みんな面白がってやるんじゃないかと思われるから、便所に立つこともできないというような雰囲気になっていくみたいな、そういう言い方で、人間がもっている毒っていいましょうか、毒念といいましょうか、毒念とか、怨恨とか、あいつは金があるくせに貧乏人の味方みたいな顔をしているとかよくあるでしょ、そういう怨恨とか、毒念とかいうものの社会的なあり方というのがあるでしょ。つまり、これは、たとえば、それはどこの世界でもあるわけでしょうけど、日本の社会とヨーロッパの社会では毒念のあり方が違うわけでしょう、また、怨恨のあり方というのも違うわけでしょう、つまり、どこかであいつの向うずねをかっぱらってやろうというふうに思っているとか、闇討ちしてやろうと思っている思い方の毒念というものは、それぞれの社会、それぞれの時代に非常に固有なものがあるわけです。
 小林秀雄がじぶんの批評の戦略というものは「からめ手から」だという場合に、その「からめ手から」という意味あいのなかには、いわば、きわめて日本的なといいましょうか、日本社会的な意味あいが込められているというふうに理解されるといいようにおもいます。
 もちろん、ヨーロッパだってそれはあるわけなので、たとえば、小林秀雄が批評の手本にしたボードレールだって相当毒々しいことを言っています。たとえば、新人に対して与える言葉みたいののなかで毒々しいことを言っています。女の人で女優さんとか、つまり公の顔をしている女の人というのは女じゃないんだと、女というのは2つしかない、ようするに、手鍋さげても連れ添うという、そういうタイプか、あるいは、もうひとつは娼婦だというふうに言っています。それ以外には女なんかいないというふうにボードレールが言っています。こういうふうにおれがいう意味がわかるだろうみたいなことを書いてます。つまり、相当毒々しいことを平気でボードレールなんていうのは言っています。だから、毒々しさというのは、必ずしも日本の専売特許ではないのですけど、毒々しさのあり方というようなものは、それぞれの時代、それぞれの社会において違うわけです。
 たぶん、小林秀雄がじぶんの批評の原理は「からめ手から」なんだと、なにも社会的等価物をもっともらしい顔をしていって、革命がどうだとかそんなことを言っている、そういうアホらしいことはないので、あの野郎、革命的だといましゃべったとおもったら、次の瞬間には売春婦のところに行っているじゃないかとか、そういう毒々しいからめ手という、舞台裏といいましょうか、楽屋といいましょうか、そういうところから批評というのを考えていくのが、じぶんの批評の戦略だというふうに言っています。
 その考え方のなかに、たぶん、小林秀雄が、同時代、あるいは、数十年以前のヨーロッパの最新の批評の原理をひっぱってくれば、それで批評になるみたいな、そういうアホらしいことはないので、アホらしい顔をしてやっていても、ほんとうは後ろめたいところといいますか、空隙があって、その空隙を何で埋めようかという場合に、小林秀雄の「からめ手から」という批評の言い方というのはでてきているというふうに考えます。
 だから、逆に考えると、小林秀雄の批評もいいけれど、つまり、アカデミックに考えると、小林秀雄の批評もいいけれど、こんな噂話みたいなものから批評を始めるみたいな、これはなっていないというふうにいわれる言い方もあるでしょうけど、それは逆であって、からめ手からじゃない舞台面をした批評というのは、それは真似すればできるわけで、だから、それは簡単なんだけど、そういうふうに批評してすましていると、なんか悪いことをしているみたいな、どこかに空隙があると、その空隙というのをどこで埋めていくのかといった場合に、「からめ手から」というものが初めて小林秀雄の批評の原理として入ってきているというふうに考えられたほうがいいので、もっとこれを噂話みたいのから入って、あるいは、ゴシップみたいのから始めなきゃこの人の批評も大批評なんだけどなと考えるのは、それはまったく逆だというふうに考えたほうがよろしいというふうに思います。それが小林秀雄の批評の戦略といいますか、軍略としてあったひとつの特徴だと思います。
 たぶん、いま申し上げました事柄を考えに入れますと、小林秀雄の批評の起源というものは、大雑把なところでいえば掴めるというふうに、ぼくは考えます。つまり、ぼくの掴み方はそういう掴み方です。小林秀雄という人は、日本の近代批評の原型みたいな、元祖みたいな人です。この人が、批評の中に「自意識」という、いわば、起源のマトリクスといいましょうか、起源のまた起源といいましょうか、そういうものを定めたときに、はじめて日本の近代批評というものが始まったわけです。
 それ以前の批評はまったく、他者を批評することはじぶんを批評することと同じだという意味あいの批評はどこにも存在しなかったと言っていいくらいなんです。だから、ここではじめて日本の近代批評がはじまったというふうにいえるわけです。だから、このなかには様々な問題が含まれていて、様々な問題というものは、いまも色んな形で、形を変えながら、いまも引きずっているんだというふうに考えたほうがよろしいんじゃないかというふうに思われます。

6 「自意識」から「生活」へ

 小林秀雄の批評が、起源の問題、あるいは起源の起源の問題といいましょうか、原型の問題といいましょうか、そういうものをテーマとして離脱していくといった場合に、その離脱していくということは、初期という概念を離脱していくことなんですけど、離脱していってどこへいっただろうか、どういうふうにいっただろうかということを見定めるのに、いちばん都合がいいのは、たぶん、『ドストエフスキイの生活』という批評を見てみるのが、いちばん小林秀雄がどうして初期という概念を離脱したか、あるいは初期という概念を離脱したときにどういう問題がでてきたかということを見定めるのに、いちばん典型的な、また、ある意味で小林秀雄の最も代表的な批評作品といいましょうか、『ドストエフスキイの生活』という批評を取り上げると、いちばんよろしいんじゃないかというふうに思います。
 そのことを少し申し上げてみますと、『ドストエフスキイの生活』という、だいたい「生活」ということは、なぜドストエフスキーの生活なんだろうかということがひとつあるわけです。つまり、初期の小林秀雄の批評概念からいえば、あらゆる事柄は、国民的であるとか、民俗的であるとか、世界的であるとか、個性的であるとか、人間的であるとか、全部それが「自意識」というところに収れんしていくというふうに、初期の批評の起源の問題はあったわけですけど、ここには「自意識」という概念の中には「生活」という概念は含まれようにも含みようがないというふうに存在しているわけです。ですから、ドストエフスキーの作品も論じていますけど、まず「生活」というふうに設定した、それはどういう意味をもつのだろうかというふうなことを考えてみると、いちばんよろしいんじゃないかというふうに思います。
 ドストエフスキーも、じぶんでも色んな言い方をして、その問題の自分なりの解説をやっています。つまり、ドストエフスキーほど作品と実生活がちぐはぐになって合わないといいましょうか、つまり、こういう実生活をしている人がこんな作品を生むなんてとてつもないことだと考えられるような、そういう作家はいないと、だから、この人の実生活を追及していくことは、あらゆる文学の発生点といいましょうか、そういうものを追及していくのと同じ意味をもつから、これを取り上げるんだみたいな言い方をしていますけど。

7 『ドストエフスキイの生活』の意味

 それはまあ、ご自分の自己解説だから、違うところから、「生活」という概念が批評の起源を離脱したときにでてきたかということを、ぼくなりに申し上げて、ですから、『ドストエフスキイの生活』という批評文の作品がどういうふうにできているかという問題を申し上げてみますと、こういう言い方があります。
 つまり、作家がいて、そして、日常生活を生活していて、その作家が様々な日常生活の体験をもとにして形成された内面を文学作品の中に投影していく、あるいは、作品を投影しながら、ひとつの文学作品ができあがっていくんだ。だから、作家がおり、現実に生活しており、そして、それが作品を書いて、作品の中に作家の内面的な体験というものが、いかにこの中に込められているかということを考えていくのが批評だという、批評というのはそういうものを解明していくことが批評なんだ。あるいは、文学作品を読むということは、そういうことをはっきりさせていくことが読むことだという考え方があります。これは近代批評の概念としてあります。
 それから、もうひとつは、作家がどうしたこうしたということは作品とはあまり関係がないと、そんなこととは関係ないと、作品というのは作家が言葉でもってつくりあげるものなんだと、だから、言葉でつくりあげた作品の中にすべてがあるので、作家の内面がどうだとか、そんなことをいうのはまったくおかしいことだという考え方もあります。
 それは、もっと押し進めていきますと、だいたい作家の内面があって、それをなんらかの意味で射影しながら、投影しながら、作品ができあがるなんていうのは、そんなことはナンセンスだと、だいたい内面なんてないんだと、むしろ作品が、あるいは、書かれた作品の言葉が逆に作家の内面をつくるとか、作家をつくるという、そういうふうに考えたほうがいいんだという考え方も、もちろん存在します。
 そうすると、もし、後のほうの考え方だとすれば、『ドストエフスキイの生活』の「生活」ということ自体を問題にすることはまったく意味がないことになります。それから、古典的な批評概念でいえば、「生活」があり、そこから受ける体験的な内面性があり、それが作品の中になんらかの意味で投影されていくんだ、あるいは、なんらかの意味で外化されていくんだ、押し出されていくんだという考え方からすれば、「生活」を取り上げることは、作家の内面性を取り上げることの一部であり、また、作家の作品を解明する場合の基礎作業にあたるということですから、『ドストエフスキイの生活』の「生活」ということを取り上げることには、意味があることになります。
 それじゃあ、この問題はどういう問題なんだろうかということなわけです。少なくとも、初期の小林秀雄の批評の起源の概念にはこれはないわけです。「生活」という概念はありようがないわけです。「自意識」しかないですから、ありようがないのですけど。どうしてこれがでてきたのか、あるいは、どうしてこれが問題なのかということがあるわけです。
 これは、ぼくの理解の仕方ではこうだとおもいます。生活、あるいは、日常生活というものを万人に共通なもの、あるいは、万人に等しいものというところから、生活、あるいは日常生活、あるいは社会生活でもいいのですけど、を考えて、そういう把握の仕方です。つまり、万人にとって、すべての人にとって、日常生活、あるいは社会生活というものは同一であると、そういう視点で考えたときには、それぞれの人は、作家も作家でない人も、職人さんも全部そうですけど、それぞれの日常生活をしている、それぞれの個人というものは、自分に対して背反するもの、あるいは、自分に対して違反するもの、あるいは、自分に対して差をつけるもの、あるいは、自分に対して矛盾するものとして存在するということがいえると思います。
 つまり、「生活」という概念を万人に同一であるというふうな、そういう距離でもって「生活」というものを考えた場合には、生活している個々の人間というものは、そういうふうに考えられたなかには、どんな人間でも、必ず自分自身と違反している、そういう生活の存在です。つまり、必ず、じぶんが自分でおもしろくないと思ったり、じぶんが自分らしくないと思ったりしている、それが個々の人間のあり方です。その場合には、べつに作家であるということも、職人さんであるということも、サラリーマンであるということも、いっこう変わりがございません。誰でも個々の人間はその中ではじぶんに違反するものとして存在すると考えられるわけです。
 それから、生活というものは、あるいは日常生活、あるいは社会生活というものはすべて異なっているものだ。つまり、すべて異なっているものだというふうに、日常生活という概念を把握されるところでは、そのなかでも、それぞれの個人というものは、じぶん自身に同致するものです。じぶん自身に違和感がない存在です。存在として考えられるということです。
 つまり、人間の社会的な、あるいは生活的なあり方というものは、作家であるか、作家でないか、あるいは、文学作品を生んだか、生まないかということとかかわりなく、生活というものを全体的同一性という概念で生活というものを把握されることでは、いま申しましたとおり、個々のそのなかの人間というのは、必ず自分に対して異和を唱えるもの、あるいは、自分に対して差異をつけるもの、自己差異をつけるもの、あるいは、自分に対して矛盾するものとして必ず存在するのです。これは、作家であろうと、作家でなかろうと同じことです。
 それから、「生活」という概念で把握したときに、それぞれの人間がすべて違ってるんだと把握される生活概念というところのなかでは、それぞれの人間はじぶん自身に対して異和をもたない存在です。あるいは、じぶんがじぶんに同等なる存在です。こういうものが「生活」ということの一般的な概念になります。だから、滑稽なことを言ってはいけないので、ぼくがいま言っている考え方というものが、きわめて弁証法的な考え方です。一般的に弁証法的であろうがなかろうが構わないのですけど、「生活」という事柄の本質という概念をもってきた場合には、必ずそういう概念になっていきます。

8 つくるものとつくられるもの

 ですから、生活があって、いま申しましたとおり、「生活」を同時性と考えれば、自己自身に対して矛盾をきたしている一人の人物がいて、そいつがあるとき、言葉で作品を書いているとか、あるいは、書かないで職人さんとして何かをつくっているかという、それだけのことです。
 それから、今度は、職人さんが物をつくるとか、文学者が言葉でこもって何かをつくるという場合には、何が問題になるかといいますと、そのときには、言葉を労している人間と、つまり、言葉を表現している人間と、それから、表現されている作品と、その関係だけが問題になります。あるいは、物をつくっている物と、つくりつつある者としての職人さんと、その関係だけが問題になります。それが一般的にいいまして、つくるものとつくられるものとの関係になります。
 だから、つくるものとつくられるものとの関係というものを取り上げるときには、ようするに、「生活」という概念は、いわば括弧に入れられて、いっこうに差し支えないところでつくられていることがわかります。それが一般的に作品生成というものと、それから、作家の存在、あるいは、生活人としての存在というものとの一般的な関係、あるいは本質的な関係だというふうにいうことができます。
 そうすると、言葉を表現しつつある、つまり、作品を形成しつつある(過程で作家というのは)何なのかといったら、言葉を表現する機械にしかすぎないと言ってもいいのです。ただ、この機械というものが、いわゆるメカニカルな機械というものとどこが違うか、言葉をポンポンポンポン出すメカニカルな機械とどこが違うかというと、たった一つしか、本質的には違わないのです。
 本質的に違うのは何かといいますと、作家というやつが言葉をポンポンポンポン出しているときの機械は、必ず、ひとつの言葉が次の言葉に対して否定の言葉である、つまり、いいますと、自己否定の言葉なんです。つまり、自己否定なしには次の言葉を生まないというのが、一般的に作家という機械と、それから、そうじゃなくて、コンピューター的な機械との相違です。
 コンピューター的な機械は否定の作用はありません。次の言葉を紡ぎ出した場合にもそれは肯定です。つまり、自己自身の肯定として言葉がポンポンポンポン出てくる、あるいは印刷される、あるいは画像に出てくるというのが、いわば、ふつうの機能的な機械です。ですけど、作品を生みつつあるところの人間機械というものは何が違うかというと、次に紡ぎ出す言葉というのは、必ず、自己の否定になっているということです。あるいは、自己の言葉の否定と言ってもいいのですけど、それ以前に作られた自分の言葉の否定、あるいは、その一瞬前に作られた言葉の否定として、次の言葉が出てくるというような、そういうのが、本質的に見られた人間、つまり、機械としての人間と、機械としての作家と、それから、いわゆる、コンピューター的な機械との違いであるわけです。つまり、それ以外には何も違わないということになります。これが、生活から始まって、作品形成までの過程に起こる様々な問題の非常に本質的な部分というものは、いま申し上げたところに尽きるわけです。

9 同一性という枠組みをつくる

 小林秀雄は『ドストエフスキイの生活』という場合の「生活」という概念をどうして導入してきたのか、あるいは、導入してきたことは何なのかということなのですけど。何なのかといいますと、それはたぶん、作品を形成するにしろしないにしろ、あるいは、いま申しましたとおり、形成する人にもしない人にも一般的に通用することですけど、「生活」という概念は通用するわけですけど、つまり、一般的に大きなひとつの同一性の枠組みですね、それをとにかく設定したいということが、非常に大きな批評の動機になっているというふうに理解します。
 まず、「自意識」というものに収れんしたというやり方と違って、とにかく、大きな同一性という、「生活」という概念は万人に同一であるという、そういう概念のところへ、同一性の枠をつくりたいということが、まず、『ドストエフスキイの生活』ということを批評文としてつくりあげようとした、大きな動機だというふうに思われます。
 そうすると、大きな同一性、「生活」という枠のなかで、ドストエフスキーというものは、もちろん枠の中で振るまっているわけですけど、つまり、枠を超えたときには、「生活」でなくなってしまいます。その人は自滅するか、死んでしまうかということになってしまうような、そういう大きな「生活」という同一性の枠をつくるとすれば、ドストエフスキーの生活といえども、その枠の中に入ってくるわけです。もちろん、誰の生活もその枠に入ってくるわけです。
 その枠を大きく設定しまして、そして、そのなかで、ドストエフスキーはどんな、同一性からはみ出していく、はみ出し方をしたかということを、小林秀雄はそれを描きたかったんだろうというふうに思います。つまり、これがたぶん、『ドストエフスキイの生活』という批評文に、初期の起源の概念を離脱したときに、そこへ入っていった大きな理由じゃないかというふうに思われます。
 『ドストエフスキイの生活』には何が描かれているか、もちろん、一般的にどんな人の生活も同じ枠組みなんだという、そういう意味合いでの生活が縷々述べられているわけですけど、そのなかでポイントといいますか、大きいのはドストエフスキーが同一性という生活概念の枠をはみ出す問題を、いくつか生涯の中でそれに当面しているわけですけど、それは大雑把に大きく言っちゃうと2つあるとおもいます。人によって要約の仕方が違うでしょうけど、ぼくは都合がいいからそういう要約をしているだけで、あまり普遍性があるとおもっていただかなくていいのですけど。

10 ペトラシェーフスキー事件

 ひとつはペトラシェーフスキー事件というのがあるわけです。ペトラシェーフスキーという急進的なインテリゲンツィアの思想家がいて、その人がやっている会で、ドストエフスキーはベリーンスキーの手紙というのをその会合で読んだということを理由に、一斉に検挙されまして、銃殺刑の宣告を受けるわけです。銃殺刑の宣告を受けて、銃殺寸前のときに赦免されるわけです。
 それはドストエフスキーにとって、いわば、それをはみ出したら生活概念が成り立たない、同一性として考えられる生活概念が成り立たないという、はみ出しのひとつの極限にある体験です。ドストエフスキーの体験は様々な作品の中に違う形で投影されていますけど、それは具体的にいえば、ようするに、ふん捕まって、処刑台につながれて、それで、処刑される寸前に赦免のあれがきて助けられる。そういう体験なんです。
 その体験は、たとえば『白痴』という作品の中に、その場面を類推させるようなことが出てきますけど、そういう場合に、処刑される寸前になって、処刑台のところに立っていると、ちっとも狼狽したりとか、逆上したりということは起こらないんだ、そういうときには、冷静に、見物人がどんな顔をしているとか、処刑人の着ている洋服のボタンが錆びているとか、そういうことが実に鮮やかに見られるような、そういうふうな状態になるんだというような体験を述べています。
 処刑の寸前に助けられるというような、もともとロシアのデスポット、専制君主ですけど、ニコライ1世のひとつの芝居でして、もともと助けるつもりなんだけど、とにかく処刑寸前までもっていって赦免するということでありがたがらせようという、そういう策略にしかすぎないわけですけど、そんなことはもちろんご当人たちは知らないわけで、やられるとおもって処刑台にのぼっているわけですけど、寸前になって助けられるわけです。それで発狂したりする人もいるわけですけど、ドストエフスキーは、そのとき傍からみていた人によると、青ざめてグラグラしているんだけど、きわめて冷静に見えたというふうに言われている、それはまたドストエフスキーが体験の中の作品として描写しているところでは、とにかく鮮やかにぜんぶ見えちゃうんだという、そういう変な体験なんだということを言っていますけど、それはいま言いましたすべての生活は誰にとっても同一だという大きな枠組みのなかで、枠組みを寸前で、はみ出してしまうという、ひとつの極限の体験であると思います。
 それはドストエフスキーがそれに対して露骨な感想の述べ方をしていないのですけど、様々な作品の中に投影されているというふうに考えることができます。それは『罪と罰』の殺人の描写のなかでも、それから、様々な描写のなかでも、そのときの鮮やかな体験といいましょうか、その体験は様々なかたちで投影されていると思います。
 しかし、決して倫理的には投影されていないとおもいます。あんまりそれを倫理的に、だからけしからんかったとかいうような意味あいを遥かに超えたところで、ドストエフスキーの作品は体験の中に色んな形で出てきているように思います。いっけんわからない形で出てきていると思います。ドストエフスキーの作品の中で、ある作品世界の大きな枠組みというものを設定した場合に、大きな枠組みをえてして作中の人物とか、作中に起こる事件とかから、その枠組みをはみ出してしまいそうな感じというのをいつでも伴うのですけど、その感じ自体のなかに、すでにそのときのドストエフスキーの体験が、直接的ではなくて、いろんな陰影を込めて、あるいは、いろんな中間の過程を距てて、それは投影されているというふうにみてもいいわけです。
 そういうふうに考えると、その体験はドストエフスキーの作品の枠組みと、枠組みの中をとび出そうとする登場人物たち、あるいは登場する事件たちといいましょうか、そういうもののあり方というものを決定しているといってもいいくらいなものだと思います。そういう体験というものは、小林秀雄はわりあいに忠実に『ドストエフスキイの生活』の中で描いています。

11 賭博体験

 それから、もうひとつ、『ドストエフスキイの生活』の中で、実生活のなかでも、それから、小林秀雄の『ドストエフスキイの生活』という作品の中でもそうですけど、もうひとつ、ぼくらが特徴をあげるとすれば、ひとつは賭博、博打ということです。
 つまり、ドストエフスキーが賭博に凝るわけですけど、その凝り方というものは尋常一様でないわけで、たとえば、お金をぜんぶスッちゃったと、また、他人から借りてくる、細君からも借りる、借りるときには足元にひざまづいて、泣かんばかりにして貸してくれと、もう一回やらしてくれと、今度は大丈夫だと、貸してくれないと俺は自殺するというような言い方をして借りるわけです。借りたらすぐにスッちゃって、呆然として、またそれが繰り返される、そういう賭博に凝る凝り方というものの徹底度というものがどういうふうに考えても日常性の枠組みはこれ以上、賭博行為に耽ったらじぶんが自滅するか、あるいは生活自体が、日常生活の「生活」という枠組み自体が壊れてしまうというような、そういう極限までドストエフスキーは賭博に耽るわけです。
 なぜ、一般論でいえば負けるとわかっている賭けというものに耽るのか、あるいは、いちばんよくて半々、つまり、損もしなければ得もしないという、そういう事柄に、ドストエフスキーほど人間の心についても、それから、社会についても、それから、現実のあり方についても洞察力のある人が、どうして、そんな凝り方をしちゃうんだろうかということは、たいへん興味深いことなわけです。
 これらは、もちろんドストエフスキーもそうですけど誰でもそうなわけです。つまり、ぼくらだったらパチンコぐらいしかしないのですけど、しかし、それだってただ規模が違うというだけであって、気分は同じところがあるわけです。パチンコ体験ぐらいで賭博のことをいうのはよくないので、ぼくの友だちでもほんとに店スッちゃったとかいう人もいるから、そういう人じゃないとほんとはいけないのですけど、そういう人は説明してくれないのです。
 結局、これはいってみれば、わりに恋愛体験ということによく似ているんじゃないかなと思います。これはたとえば、小林秀雄でも、ドストエフスキーでも同じなわけです。惚れるということは憎んでいるんだか、愛しているんだか全然わからない。そんなことと関係ないような気がするのだけど、それはやめられない。そういう体験と同じようなもので、それは深く人間の本性に根差しているので、人間の本性というものを、ぼくなりの言葉でいってしまうと、それはたぶん、人間の観念性といいますか、人間の観念、あるいは精神性というものと、それから、人間の身体性というものが最後に戦う、そのギリギリの戦いの場所みたいなふうに賭博というものはなってしまうことのように思われます。つまり、そこの問題がたいへん興味深いことなのです。それがやめられない理由だというふうにおもいます。
 だから、これをやめるには、人間の意識が発生する以前まで遡る、つまり、動物時代まで遡る以外にないので、それ以降の人間というものを承認するならば、大なり小なり、この気分といいますか、この賭博性というものを止めることはできないのじゃないかという気がします。
 これは、しかし、抑止力がどこかにあって、抑止力の作用がどういうふうに働くかということで、それぞれの人が違うわけで、ドストエフスキーの場合には、ここは非常に小林秀雄が追及して止まないところなのですけど、小林秀雄が追及するところでは、ドストエフスキーにそんな抑止力がないはずがないんだと、これほど人間性について洞察をもち、人間の運命についても洞察をもち、現実のあり方についても洞察をもっている人が、どこで賭博をやめれば抑止になるか、抑止を超えてしまったらどこで自滅するかということを知らないはずがないんだというふうに小林秀雄は言っています。
 しかし、それにもかかわらず、抑止力を超えて、そこに入ってしまうという場合に、それは何かといったら、ドストエフスキーのなかに人間に対する洞察力というものと、人間に対する無意識、言い換えれば、ぼくの言葉でいえばそれは身体性ですけど、身体性が加担した場合に、ドストエフスキーの洞察力を超えてしまうという、身体が超えてしまう、そうすると、身体が超えようとすると、洞察力がそれに対してストップをかけるのだと、しかし、またそれを身体が超えてしまう、その度合いが、ドストエフスキーの場合には、普通の人よりも遥かに規模が大きく、また、深刻だったというふうに言えるので、賭博に対する深刻性ということは、ドストエフスキーの現実洞察の深刻性ということと、いわばアナロジカルなものだというのが、小林秀雄の『ドストエフスキイの生活』のなかの非常に大きな眼目のように思います。
 賭博というのは、そういう意味あいで、もし破滅するまで身体性を酷使しないならば、それは別のひとつの生き方とか、恋愛とかと同じことなので、そういう勝ち負けがはっきりしているとか、破滅するかそうじゃないかも、失敗するか成功するかもはっきりしているとか、打ち込まれ方というのも、だいたい恋愛とか、人間の生涯に対する、生活に対する打ち込まれ方と大変よく似ているとか、そういうものが賭博という体験の中に全部含まれているということがありうるわけで、もし、身体性が抑止するだけの作用があるならば、これほどおもしろいことはないという、興味深い体験はないということになるのでしょうけど、その限度を超えるか超えないかということは、ドストエフスキーのように、人間に対する洞察力というものが極端に大きな場合でも、それから、洞察力がない場合でも、同じだと思います。なぜならば、結局のところ、人間の身体性というものの、あるいは、身体の無意識性というものが、賭博に対する耽り方というものの最後を決定しているからだと思われるわけです。
 だから、そこのところで考えますと、ドストエフスキーのような並外れた人間洞察力を、社会洞察力をもっている人の賭博も、賭博の止められなさも、それから、そうじゃない人が競馬をやめられないとか、競輪をやめられないという、どんなに金がなくなって借金が重なってもやめられないというのも、たぶん、それは本質的にいえば同じことに属するんだというふうに思われるわけです。
 だから、そういうところで、たぶん、ドストエフスキーの賭博という問題は、いわば、ペトラシェーフスキー事件が外在的な社会的事件としてドストエフスキーが当面した大きな極限の日常生活、あるいは「生活」という概念の枠組みを外れちゃう、超えちゃうという極限の体験で、社会的体験だったというのと同じように、賭博というのは、たぶん、ドストエフスキーにとって日常性、あるいは生活性という概念の枠を超えてしまうかどうかという極限までいった一種の内在的な体験といいますか、内在的な体験の大きな要因だったんじゃないかと考えられます。

12 「生活」という文学作品

 この2つのドストエフスキーの体験を、「生活」という概念の中から代表させることができれば、だいたいドストエフスキーがどういう文学作品を生むかという場合のいわば型を決めることができる。型を決めることができるという意味あいは、たとえば、それはヘーゲルの意味あいでいえば、ヘーゲル的な言い方をすれば、意味あいでいえば、同一性ということのなかで、いかにして区別、区分けというものが人間の中に生ずるか、区分けというものの中で、いかにして、差異というものと、違いというものと、それから、対立・矛盾というものが、いかにして分化していくかという場合の差異性、つまり、同一性というものの世界の枠組みの中で、いかにして人間の差異性というものが突き詰められていくか、どこで枠組みを外れていくかということに対する大きな問題を、たとえば、小林秀雄が生活という概念で追及していきたかった概念の大雑把な大枠にあたる問題のように思います。
 だから、賭博体験とか、ペトラシェーフスキ―事件の体験というようなものは、決して自己対立でも自己矛盾でもない体験なのです。いってみれば自己肯定の体験です。ですから、これは同一性という生活世界の枠組みの中で、何が本質的に区別するものであるかという場合の、ヘーゲルでいえば「区別」という概念にあたるものが、これらの事件が象徴しているものだと考えられます。
 そのなかでのドストエフスキーの耽り方といいますか、のめり込み方、つまり、破滅寸前までののめり込み方というものは、これは自己差異です。つまり、対立・矛盾概念ではありません。じぶんがじぶんに矛盾するそういう体験ではないのです。これはじぶんがじぶんに差をつける概念です。あるいは、じぶんのあり方とじぶんの本質というものの間に差をつける概念です。差をつける体験概念です。
 だから、これがそういう事件とか、賭博とかいうものに象徴されるドストエフスキーの生活のなかの一コマのなかに、とにかく行われた体験の意味づけになります。これが『ドストエフスキイの生活』という批評文の中で小林秀雄がやりたかったことのように思われます。
 だから、ここでは自意識の行方がどうなるか、あるいは、自意識の過剰分がどうなるかということは、それほどは問題になっておりません。すこしは問題になっているとおもいます。自意識の過剰分が社会的にどうなるか、内面的にどうなるかじゃなくて、社会的にどうなるかという問題は、それ自体がドストエフスキーの作品のひとつの特徴をなしているわけですから、明らかにそのなかに自意識の過剰の問題は含まれてくるわけなんですけど、小林秀雄はそれほど熱心にそれは取り上げていないとおもいます。
 小林秀雄は、ほんとはそれを熱心に取り上げれば、ぼくの考えでは、初期の批評概念の展開ということになりえたとおもうのですけど、小林秀雄が重点として『ドストエフスキイの生活』で取り上げたのはそういうことではありません。つまり、自意識の過剰の行方は、社会的にどういくかというのが、ロシア文学の、19世紀文学の問題ですけども、しかし、小林秀雄が模倣した西欧文学の問題では、自意識の過剰分はあくまでも自意識の中に還っていくわけです。つまり、じぶんの自意識を見つめるもうひとつの自意識というようなものの問題として、文学の表現の中に出てくる問題です。つまり、これはポーであり、ボードレールであり、マラルメでありというふうに、小林秀雄が影響を受けたサンボリストたちの問題でもあるわけですし、つまり、西欧の近代文学の問題になるわけです。
 ところで、ロシア文学は自意識の過剰分をじぶんの自意識を見つめる自意識というところで安定させることができなかったわけです。それはロシアの後進性、ぼくらの言葉でいえば、アジア的後進性というものによります。つまり、アジア的後進性の暗闇のところで、本来ならば自意識を見つめている自意識というところで済んだはずの自意識の過剰分がいわば社会的な行方を問われるということになっていくわけです。
 それがドストエフスキーの作品の大きな眼目になっているのですけど、小林秀雄がもっぱらドストエフスキーの作品の中心に見たものはそういうものじゃありません。そういうふうにみれば、ぼくはよかったのになと思うのですけど、そうじゃないのです。つまり、小林秀雄がそこで見たものは何かというと、賭博の体験、それから、ペトラシェーフスキーに象徴される、そういう極限の体験、流刑生活、それから、流刑生活の後5年ぐらいあって、その後、兵役に服務されるわけですけど、その兵役体験、そういうようなものを通じて、小林秀雄がドストエフスキーに見たものは、こういう体験を通じて、ドストエフスキーというのは、人々が一般的に、当時でいえば、ロシアの進歩的なひとりのインテリゲンツィア、あるいは、革命的なインテリゲンツィアが描いたロシアの現実というようなものよりも、遥かに深い意味での、眼の前に鮮やかに見ちゃう、つまり、死刑囚になって、死刑台に上がりながら、なんか処刑人のボタンが錆びてるなぁみたいなのが見えちゃうみたいな、それと同じような意味あいで、ロシアの進歩的なインテリゲンツィアが考えている、ロシアの現実と考えているその現実よりも遥かにかいくぐった、生々しく、そして鮮明な現実というものの把握の仕方というものをドストエフスキーがそれを体験したんだというふうに小林秀雄が結論づけています。
 だから、小林秀雄が今度は、その後、作品論をやるわけですけど、作品論が収れんするところも同じであって、いかにドストエフスキーの文学作品の中のリアリズムというものが一般的に、西欧のリアリズム文学、あるいは、西欧の自然主義文学が考えているリアリズムという概念、ゾラやフローベールなんかが考えている現実概念、リアリズムの概念よりも、はるかに底をついたといいますか、底をかいくぐったリアリズムという概念をいかにドストエフスキーの作品が実現しているかというところに重点が置かれています。
 また、思想的にいえば、いかに当時の進歩的なインテリゲンツィア、あるいは革命的なインテリゲンツィアがロシアの現実の浅瀬を渡っているのにすぎないのに、ドストエフスキーが、遥かに彼等が考えている現実がまだ概念の欺瞞にしかすぎないので、もっとほんとうにリアルな現実は何か、リアルな民衆とは何かということを、ほんとうに掴んでいるのはドストエフスキーだというところで、ドストエフスキーの生活及びドストエフスキーの作品というものを収れんさせるというのが、小林秀雄の『ドストエフスキイの生活』という批評論文の眼目でありますし、ドストエフスキーの作品論もやっていますけど、作品論の眼目になっているわけです。
 しかし、それはひと通りの意味でいえば、それはそれでよろしいわけなのだと思うのです。よろしいわけでしょうけど、いわば、初期の批評の起源の概念、小林秀雄の批評の起源の概念からいいますと、それはそうじゃなくて、やはり、自意識の過剰というもの、過剰分の自意識というものの行方はどこにいくんだという問題を、もしも、ドストエフスキーの作品の中に追及することができたら、あるいは、ドストエフスキーの生活の中に追及することができたら、それはもっと内在的なといいましょうか、内在的な作品論になり、内在的なドストエフスキーの生活論になったんではないかとおもいます。
 べつに批評という概念は一貫性がなくても構わないのですけど、しかし、いったい自意識の過剰ということを、過剰分をどこがどうなのかという問題は、つまり、中期の小林秀雄から、はたと消えてしまったというのは少し大げさなんですけど、消えてしまったという、その理由というものがなんかあるわけなんです。
 その理由というものは、たぶん、小林秀雄のなかに、一般的に当時の同時代の文学でいえば、社会的尺度といいましょうか、あるいはリアリズムというふうに考えられている文学概念が当時あったわけですけど、それに対する一種の妥結といいましょうか、妥協点といいますか、妥協の問題として、ぼくは自意識の過剰分がどうなっていくかという問題が、ドストエフスキーの追及のなかで消えてしまった大きな原因のような気がして仕方がありません。
 だから、それはそうじゃないので、じぶんの批評概念をどこまでも突き詰めていって、ドストエフスキーのなかに、あるいは、登場人物のなかに自意識の過剰分がいかに社会的な一種の陰りとなってあらわれ、社会的な一種の過剰分なってあらわれというような問題として出てくる問題を、もう少し延長線で突っ込んでいくことができたら、『ドストエフスキイの生活』という批評文自体が違うものになったでしょうし、また、作品論も違うものになっただろうと思われるのです。
 ですから、もっぱらそれは、当時の日本の進歩的な同時代の批評概念、文学概念に対するひとつのアンチテーゼということと、それから、ドストエフスキーの作品が具現しているリアリズムというものが人間の生の根底を崩壊させるぐらいまで突き詰められたリアリズムであって、決してリアリズムという概念でもなければ、自然主義という概念でもないのだという、そういうところにもっぱら重点を置いて、ドストエフスキーの生活と、それから、作品が論じられたというふうに考えられます。
 そこが、いってみれば、こんなことはどうせ一人の批評家の生涯ですから、生涯は生涯なのであって、こんなものは、いくらないものねだりしたってしょうもないことなのですけど、いわば、それを読む側からの欲目といいますか、欲分で言わせてもらえば、そういうところにすでに中期の小林秀雄には、すこし誤差があらわれたんじゃないかというふうに考えられます。

13 晩期の小林秀雄=古典論

 あと小林秀雄について何かいう場合には、晩期のことについて言えばいいことになります。晩期のことを言う場合にいちばんいいのは、小林秀雄の古典論がいいのです。小林秀雄の古典論がいちばん取り上げやすいのです。小林秀雄の古典論というのは戦争中から書かれて、つまり、『無常といふ事』という日本の古典を論ずる古典論として書かれていて、それは戦争中に書かれて戦後すぐぐらいに本になって出たのですけど、戦争が終わるか終わらない頃に出たとぼくらは記憶しているのですけど、それが古典論をなされていて、その古典論はもちろん死ぬまで、最後の本居宣長論までそれは見え隠れして持続していくわけです。
 この古典論に持続されている小林秀雄の批評の枠組みといいますか、概念というのを大雑把な意味でいってみますと、それは再びこうなります。歴史概念と言っていいか、伝統概念と言っていいか、つまり、先に『ドストエフスキイの生活』でいえば、生活概念、あるいは日常生活、あるいは社会生活概念というものが、世界の大きな同一性の枠組みだったというふうに申し上げたのですけど、それと同じような言い方をしますと、日本の歴史とか、伝統とか、伝承とか、民族とか、そういうようなものが、いわば「生活」という概念の代わりに大きな世界の同一性の枠組みというふうに変わっていきます。
 その枠組みの中でどういうことが特徴としてあげられるかといいますと、まず第一に、それは、そういう大きな伝統とか、歴史とかいう概念を生活概念の代わりとする大きな同一性の枠組みとして、その中で、ようするに『ドストエフスキイの生活』の場合には、一種、区別というところ、あるいは区分されたところでの生き方とか、あり方、生活の仕方とか、感じ方というのがひとつ、じぶんがじぶんと矛盾する矛盾が極限まで突き詰められたところなんですけど、それと同じ概念でいえば、伝統とか歴史とかいうものをいわば大きな同一性の枠組みとして、そのなかで差異というものをぜんぶ解消しちゃうといいましょうか、つまり、じぶんがじぶんと違うとか、じぶんがじぶんに矛盾するとか、じぶんがじぶんを差異づけるといいますか、そういう差異づける概念というもの、あるいは、じぶんがじぶんに矛盾するということを、ぜんぶ解体して無くしてしまうということが第一に小林秀雄の古典論の大きな特徴だというふうにおもいます。
 たとえば、小林秀雄の『無常といふ事』の中で、「當麻」という能舞台を見に行ったことが書いてあるんですけど、ちょっと3,4行読んでみましょうか、書き出しのところですけど、「梅若の能楽堂で、萬三郎の當麻を見た。僕は、星が輝き、雪が消え残った夜道を歩いてゐた。何故、あの夢を破る様な笛の音や大鼓の音が(太鼓ですね)、いつでも耳に残るのであらうか。夢はまさしく破られたのではあるまいか。白い袖が飜り、金色の冠がきらめき、中将姫は、未だ眼の前を舞ってゐる様子であった」というところから、それが書き出しなんです。
 ようするに、これを見てみますとすぐわかるように、梅若の能楽、萬三郎の「當麻」を見たというのは、見に行ったという事実を描写しているところです。ところが、「僕は、星が輝き、雪が消え残った夜道を歩いてゐた。」というのは、歩いていた自分の状態を描写しているわけです。そうすると、その次に「何故、あの夢を破る様な笛の音や大鼓の音が、いつでも耳に残るのであらうか。」という場合には、「星が輝き、雪が消え残った夜道を歩いてゐた。」ということを、もうひとりの僕が作者として描写しているわけですけど、ところが、この「何故、あの夢を破る様な」というのは、歩いている人の内面の浮かび上がった感想、つぶやきなわけでしょう。それから、そのあとの「白い袖が飜り、金色の冠がきらめき、中将姫は、未だ眼の前を舞ってゐる様子であった」といった場合に、この文章はすこぶる曖昧な文章であります。つまり、そういうふうなことを思い浮かべながら、つぶやきながら、歩いている僕というやつを作者である僕は描写しているのか、あるいは、歩いているやつ自体が、そういうふうに考えて、そういうふうに言っているのかっていうのは曖昧な文章です。
 そうすると、ここで言っていることは、嘘だということになります。つまり、後から考えて嘘であって、だいたいこんなに鮮やかに人がそんなことは考えられないでしょ、つまり、能楽に行って舞台を見て、帰りにこんな鮮やかな、うまいこと思い出したり、つぶやいたりすることは考えられないわけです。
 この手のことは相当やるんですけど、誰でも(会場笑)。これはまだあるので、『無常といふ事』という、一言芳談抄のなかの小さな一節を冒頭に置いて、これも坂本かどこかで蕎麦を食っていたら突然、その文章が思い浮かんだんだというのですけど、この文章、引用しただけでも4,5行あって、これを暗記するというのは大変なことで、こんなの思い浮かべられるはずがないと僕には思えるのです。だから、思い浮かべられるのは天才だろうと思うわけですけど、ぼくは嘘だろうとおもうのです。そういうことは誰でもやりやすいので、ぼくらでも、おれ3歳ぐらいのときに、母親に抱かれていた体温の記憶があるよとかいって、たいてい嘘じゃないかと思うのですけど、嘘だけど、その後の体験がそこのなかに投入されるわけです。だから、ほんとうになっちゃうんだと、ぼくがアラビアンナイトを読んだのは4歳半の時だったとかいって、嘘つけと思うのだけど、そういうことをしばしば書くんですよ、文士というのは。
 小林秀雄はここで、ぼくはいわゆる嘘だと思うのですけど、いわゆる嘘であるかどうかということは、べつに大して問題でないのです。つまり、全部が作品だと思えばいいわけですから、それじゃあ、そうならば、嘘ということ、つまり、フィクションということはフィクションとして明晰になっていなければならないわけです。
 ところが、小林秀雄の文章をみますと、フィクションでないように書きながらフィクションが入っているということになるわけです。つまり、なぜそうなるかといったらば、自己矛盾、つまり、自己が自己に差異づけるとか、自己が自分に矛盾するという内面性というものをぜんぶ喪失してしまえば、こういうふうになります。つまり、嘘であるかほんとうであるか、フィクションであるか、ほんとうを書いているのか、そんなことの区別はどうでもいいということになります。つまり、言葉の概念でいえばどうでもいいことになります。全部ひっちゃかめになっても、そんなことはいっこう差し支えなくて、全体でひとつの文章になっている、あるいは、批評文としての作品になっていればいいということになります。ですから、これは嘘ですけど、ぼくは嘘だということを言ってもしょうがないと思うのです。
 だから、そうじゃなくて、小林秀雄の少なくとも古典論というものは、半分はフィクションとして読んだほうがいいと、つまり、これは小説作品と同じように読んだほうがいいと思われるのです。つまり、批評文として読むのは半分ぐらいはいいのですけど、そうじゃなくて、これは小説作品として読んだほうがいいというふうに、だからむしろ批評文めかしている小説作品というふうに読む読み方というのをしていかないと、この人の古典論というのは、しばしば読み違えるだろうというふうに思われるのです。
 ですから、それはどこから来るかといえば、いわば内面性に還元しますと、じぶんがじぶんと矛盾するという概念、それから、じぶんがじぶんに差異づけるという概念、それをぜんぶ失ってしまっている、つまり、ぜんぶ失くしたところで書かれている、大枠は伝統であり、歴史という概念であって、それが世界の大枠です。そして、そのなかで自分自身が自分自身と矛盾するという概念をぜんぶ失って、すっちゃらけにしてしまえば、だいたいこういうふうな古典論ができあがるだろうというふうに思われるわけです。
 これはべつに、だから悪いとか、いいとかいうことではありません。嘘であるか、真であるかということでもありません。そんなことは、べつに言っても仕方がないですから、ただ、これは批評文めかしたフィクションだというふうに思われたほうが、むしろ正確に読みうるんじゃないかということが、ぼくらの考えている概念なんです。
 ですから、この概念は、これは戦争中に書かれたものです。戦後すぐに本になって出てきたものです。戦争から戦後にわたって書かれたものです。戦後も10年か15年ぐらい経ったときに、同じことを書いた文章があります。それは「踊り」という文章です。これのちょっとそこのところだけ読んでみましょうか、「踊り」という文章の全体じゃなくて、能について、ついでに感想を述べているわけですけど、そこを読んでみましょうか、「私の踊りに関する知識は浅薄で、とくに好んで見にいくといふ事もないのだが、折にふれて見てきたところからいへば、日本の古い舞踊はすべて文学的なもの、あるいは戯曲的なものの重荷を負ひすぎてゐると感じてゐる。このどうしようもない重荷の解釈のために、洗練された処理のために、名人の肉体の動きは追はれて、もはや踊ることがかなはぬ。六郎(梅若六郎です)の両袖が鳥のやうに翻き、突然、踊りの魂が現れて消える。これに出会うために私たちはどれほど長い間文学の舞踊的翻訳に付き合はねばならないか。これは致し方ないものだらうか。たぶんさうであらう。能好きならそれが能の面白さだと言ふだらう。私は近頃はがまんが辛くなったので能もあまり見てゐない」というふうに書いています。
 どういうことを言っているのはあるのですけど、それよりもここで言われていることは、これは嘘ではありません。つまり、これは嘘の文体ではありません。同じ踊りということ、あるいは能ということにふれて、嘘の文体ではない。むしろ、嘘でなさすぎる文体です。つまり、嘘でないことをヒャーッとだらしなく出しちゃったという文体です。
 そうすると、違いがおわかりでしょう、つまり、先ほど読みました「當麻」の冒頭のところと、これとは違いがおわかりでしょう、考え方が違うことを書いているのですけど、そうじゃなくて、もはやここでは、じぶんのじぶんに対する矛盾というものを非常に正直にパッパッと言っちゃっていることがおわかりでしょう。つまり、これは伝統とか、民族とか、そういうものを大きな枠組みとしていることには変わりないのですけど、この「踊り」という文章もそうなんですけど、そのなかで踊りに対する理解をみてみると、そうすると、じぶんのじぶんに対する矛盾というもの、あるいは、じぶんのじぶんに対する差異というもの、それはこのなかでは正直すぎるほどハッキリと打ち出されたことがわかります。

14 歴史の伝統の枠組みをつくる

 たぶんこれが小林秀雄の古典論を取り上げる場合に、次に取り上げるべき問題なわけです。ここのところで、小林秀雄は伝統とか、歴史とかいうものを大きな同一性の世界の枠組みとして、そのなかでじぶんを差異づける、あるいは、じぶんの自己矛盾というものをどういうふうにあらわすかということを会得していったのです。これが戦後の晩年のなかの中期ですけど、晩年のなかの中期の小林秀雄の大きな問題です。ここのところで、小林秀雄の古典論というものは、たぶん、一応の完成を見せたんだというふうに思われるわけです。
 ですから、ここのところで意味づければ、晩年の『本居宣長』に至る小林秀雄の古典論というものの大雑把な骨組みというものは、いわば伝統、あるいは歴史というものを同一性の枠組みとして、そのなかでどのようにじぶんとじぶんの矛盾というものを描くか、あるいは、じぶんとじぶんの矛盾というものを対象の矛盾として描くかというふうに考えていけば、たぶん、小林秀雄の古典論の大雑把な性格を捉まえることができるのじゃないかというふうにおもわれます。

15 共同意識の問題に到達

 ところで、小林秀雄は正規のといいますか、ちゃんとした批評文としては、小林秀雄はそれを少しも展開してはいないのですけど、小林秀雄は最晩年にすこし違ったなと考えさせるところがあります。それは、いちばんそれがわかりやすいのは、「信ずることと知ること」という一種の講演の記録なんですけど、講演を起こした文章なんですけど、これを読みますと、その違い方というのがわかります。違ったなということがはっきりさせる文章なんですけど。
 それはどういうことかといいますと、小林秀雄は「感想」という文章や、「信ずることと知ること」という文章の中でエピソードというのをあげているわけです。ひとつはじぶんのエピソードなんです。それは、何かというと、じぶんは母親が死んでから後、仏壇にロウソクが切れちゃったんで、それを買いに行こうと思って、外へ出たというのです。門のところへ出たら夏であって、蛍が飛んでいたので、蛍を見たときに、わりに大きな光をあれしている蛍で、それを見たときに、これはお袋さんだというふうにじぶんはハッとおもったというのです。それで、蛍が飛んでいく後をたどって、ロウソクを買いに行ったという、そうしたら、道の途中でもって、普段はおれにわりになついている犬がじぶんのところに吠えかかったというんです。吠えかかって、おっかなくてしょうがなくて、後ろを見たら噛みつかれるとおもって、知らんぷりして前を見てあれしたら、踵のところを噛まれて犬の口の中に入れられたんだけど、それでも我慢して知らんぷりして歩いていったというんです。しばらく行ったら、子どもたちが大声をあげて後ろのほうから駆け出してきたと、それで「人魂を見た、人魂を見た」というふうに言いながら、後ろのほうから駆け出していってじぶんの傍を通り過ぎていったというのです。そのとき、じぶんはアッと思ったというふうに言っているわけです。
 この種の体験というのは、体験的事実としてはあるので、これがほんとかどうかってことを言ったってしょうがないということを言っているわけです。つまり、どういうことかというと、その蛍の光だとおもったのは、じぶんの母親の人魂だったということを言いたいわけでしょ。犬に吠えられたとか、子どもが喚きながらいったという、そういうことで言いたいことは、おれが蛍の光だと思って後をついていったそれは、ようするに母親の人魂だったんだ。そうすると、じぶんが、門のところで蛍が飛んでいて、それを、「あっ母親だ」とおもったということは疑いようがないのだということを言いたいわけだと思います。
 そこから逸脱が始まるわけですけど、言っていることはよくわかるでしょ、皆さんだってわかるでしょ、つまり、じぶんがそういうふうに思って、そういうふうに体験したということの体験的な価値といいましょうか、そのことは客観的にそれがどんなに嘘であろうと、妄想と思われようが、それは疑いようがないのだから、それは、その人にとって貴重な価値なんだということが言いたいんだとおもいます。それはよくおわかりでしょう、ぼくもよくわかります。しかし、小林秀雄はすこしだけですけど、だから、死んだ肉体を離れて霊魂が意識を得て、どこかへ存在し続けたということだって、あながち嘘とは言えないだろうというふうに言っています。それに対して理論づけているわけです。
 もうひとつ、エピソードをあげています。それは柳田国男のエピソードで、柳田国男の「故郷七十年」というのをあげているわけですけど、そのなかのエピソードで、柳田国男が子どもの時に長兄の家に預けられていたと、長兄の家の隣に小川という家があったと、その家の土蔵の倉にいくと、たくさん本があるんだと、だから、じぶんは病弱で本ばかり好きな少年だったから、土蔵を借りて、その中の本を片っ端から読むというのが、じぶんの楽しみであったと、ところが、その土蔵の前に庭があったと、庭に小さな祠があって、小川の家の人は、あそこはお婆さんを祀ってあるのだと、そういうふうに、庭の隅の祠を指して、あれは何だと言うと、あれはお婆さんを祀ってあるんだというふうに言ったと、じぶんは子供心にあの中に何が入っているのかということが、たいへんな好奇心で、あるとき内緒で、土蔵へ行ったついでに、内緒で祠の扉をフッと開けたと、そうしたら、その中にロウ石が入っていたと言っています。なんだろうとおもったけれど、とにかくロウ石が入っていたと、そのロウ石を見たときに、じぶんは奇妙な気持ちになったというふうに柳田国男は書いていると、なんとも妙な感じにそのときなってしまったと、空を見たら青空であって真昼間なんだけど、そこに星がたくさん見えたと、じぶんは天文学を好きで読んでいたから、そんな馬鹿なことは、昼間に星がこんなにたくさん見えるはずがないとおもって、妙な気持ちに駆られたけれど、その状態のなかで、急にヒヨドリの声がして、ピーピーっと鳴いたんです。その途端にじぶんの意識状態がハッと目覚めたと、もし、ヒヨドリがそのとき鳴かなかったら、じぶんはそのまま頭がおかしくなっていたのかもしれないということを柳田国男が書いている。
 それも同じことなんですけど、小林秀雄が言いたいことは同じことで、その種の体験というのは柳田国男の民俗学の非常に根底にあるものなんだと、つまり、それは妄想・幻覚・入眠状態といいましょうか、ぼく流の言葉でいえば入眠状態なので、入眠状態の怪しげな状態での感じ方なんだけど、体験的事実としていえば、この体験というのは疑うことができないのだと、だから、蛍が母親だとおもえた体験と同じようなもので、この体験の核というものを柳田国男はどういうふうにあれしたかということ考えずに、柳田国男の民俗学というものを考えることができないというふうに言っているわけです。
 それはぼくもそのとおりだとおもいます。柳田国男の民俗学の中心に、核心にある、そういう問題というようなものは非常に重要なことで、これは柳田国男の文体と、それから、方法を決定しているところがあります。この方法をよく捉まえられなかったら、柳田国男のいう民俗学という概念はよくわからないだろうと思われるのです。
 だから、たいへんそのとおりなんですけど、しかし、小林秀雄が体験を通じて何が言いたかったかというと、一種の特異な状態において、いわば先ほどからいいますと、歴史と伝統というものを先ほど言いましたように、大きな世界の同一性の枠組みと申し上げましたけど、同一性の枠組みからそういう言い方で、霊魂の世界といいますか、霊の独立の世界でまさり去ろうという極限の概念です。つまり、これ一歩をひき外したら、初めに設定した同一性の世界の枠組み、つまり、伝統とか、歴史という概念の外に出てしまう、それは宗教であるか、迷信であるか、妄想であるか、わかりませんけど、とにかく、伝統とか、歴史という概念の外に出てしまうことは確実なわけで、小林秀雄が言いたいことは、伝統とか歴史とかの枠組みをじぶんはついに出ちゃったことをじぶんは信じたいんだよという、そういうことを言いたいのだと思います。そこが小林秀雄の古典論、つまり、晩年の小林秀雄の古典論の最終の到達点です。
 いまでも、若い人でもいるんです、たくさん。皆さんの中でもいるかもしれないけど、つまり、わりあいに、霊の世界とかいうのは流行りでして、これは霊の世界というものは、宗教の世界とか、あるいは迷信の世界とか、そういうものでありますけど、少なくとも、伝統とか、歴史とか、人間的思想の蓄積概念の中に入る問題ではありません。だから、この問題というので、小林秀雄の古典論も、それから、小林秀雄の思想というのも、いくところにいったと考えたほうがよろしいとおもいます。
 つまり、いくところにいったというのを要約していいますと、いわば自意識の問題を起源として、終末点は共同意識の問題だと、共同意識の問題ですけど、ただ共同意識の問題だったら、ぼくだってそうなので、『共同幻想論』というのはそうなんですけど、共同意識の問題なんですけど、共同意識の問題が最後の小林秀雄の到達点ではなくて、共同意識の問題を歴史性、あるいは伝統性、あるいは、人間的思想の蓄積という世界の同一性の枠組みの外に置こうとした。つまり、共同性の枠組みの外に置こうとした。それが小林秀雄の到達点だった、あるいは、終焉点だとお考えになればいいと思います。
 この終焉点の問題が小林秀雄の批評の最後にやってくる問題なので、つまり、この終焉点の問題を皆さんがどういうふうにお考えになるかということは、これは皆さんの個々の問題に属するので、一般的にそれはどうしてこういうことになっちゃったんだと、ぼくは思いますけど、その大きな理由は逆さまだったらよかったと思うわけです。つまり、柳田国男の民俗学と小林秀雄の到達点と、つまり、小林秀雄は最終的に柳田国男とたいへん近い考え方にいっているわけです。しかし、どこが違うかといいますと、柳田国男にとっては、民俗学にとっては、先ほど祠を開けたら、お婆さんがいつでも持っていたロウ石が祀ってあったというような、そのときの体験というのは、柳田民俗学の、あるいは日本民俗学の出発点になっているわけです。ところが、小林秀雄は到達点あるいは終末点にそれをしているわけです。ですから、反対だったらよかった、反対だったらよくはないのですけど、つまり、同じように母親の魂、人魂を見たという、共同意識の問題を出発点として、それで自意識の問題までいけば、最後の到達点は現在の問題に到達したというふうに思えるわけです、機械的にいえば。
 ところが、残念なことに小林秀雄はいわばそれは逆であって、自意識の問題、あるいは、自意識の過剰の問題というものを批評の起源、あるいは、出発点として到達したのが、いわば共同意識の問題だった。その共同意識の問題を世界の枠組み、人間的思想の蓄積の枠組み、伝統の枠組みの外に置いちゃうと、つまり、あの世に置いていっちゃおうというところに終末点を置いたというところが、たぶん、小林秀雄のもっている問題のいちばん大きな問題のように思われます。
 いずれにせよ、巨大な、大きな存在で、この人を無視して日本の近代批評というのは語れないわけですから、ぼくらも繰り返し繰り返し、そこに立ち戻っていかなきゃいけない問題なのですし、皆さんも文学批評というものに関心をもたれたならば、この人を読めば、あとはいらないのです。ぼくなんかもいらないですし、いらないですよというくらい、いいと思いますから、それは、皆さんも度々、立ち戻っていくと思いますけど、しかし、小林秀雄の批評がもっている大きな問題点というものは、皆さんの個々の中で解決していかなければならないというふうなことは、必ず提起されるような気がいたします。大雑把な自分流の視点と、自分流の要約の仕方で、粗雑といえば粗雑なんですけど、またいつか、小林秀雄について論ずることもあるかもしれませんから、そのときはもうすこし緻密にやってみたいと思います。今日はこれで終わらせていただきます。(会場拍手)



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