(※「□□□」は聞き取り不可能の箇所)
今日、僕に与えられたテーマは「坐と文学」というテーマな訳です。さて、どこから始めていいか判らないですけれども、与太話から入っていきますと、僕らはもの書きですから座ってものを書いている訳です。座ってものを書いている場合、持病と言うことに成りましょうか、職業病と言いましょうか、それは何かと言いますと、1つは腰痛な訳です。もう1つは結局肩凝りと言うことに成りましょうか。肩凝りというか首が凝ると言うか判りませんが、それが外見―内臓の問題ではなくて、職業的な姿勢から来る、座ってやるという姿勢から来る職業病な訳です。勿論胃が悪いとか心臓が悪いとか、心臓によくないとか、胃に悪いとか言う様なことばっかり考えていますから、そういう内臓の病気もある訳ですけれども、外側からの病気は大体腰痛と首とか肩とか、それが持病、職業病と言うことに成ります。で、それはどこから来るかというと、勿論座ってものを書くという、そういうところから来る訳なんです。それは極端な場合にどういうふうに成りますかと言うと、座って仕事すると言いましょうか、ものを書く姿勢、そういう座り方と――大体座りかというのは自分の癖がありますから何十年もやってると同じ座り方(を)していると思います――それと、大体首のところの角度が大体同じ角度でやってる訳です。そうすると酷くなるとそういう姿勢に入ると直ぐ痛くなっちゃう訳です。そうすると実際問題としてそれは精神的なものか、それともそういう姿勢を長年やってるから痛く成るのか。それは区別が付かない状態に成る訳です。つまり「俺はこれをやりたくねぇから、書きたくねぇから痛く成るんじゃないか」というふうに思えてくる訳です。それが職業病である所以であって、本来的には何十年も、つまらないことを何十年も書いているということからくる精神的な負担と言いましょうか、その姿勢に入ると痛く成る、そういう精神的なものではないかと思えてくると段々病は重くなるという形に成ります。そうするとお医者さんに行ったり鍼とか灸とか、そういうことでその姿勢に入ることを避けるということをある期間しないと治らない。治ってくるとまたそれを始める。それは少なくとも皆さんも同じことでしょうけれども、職業病たる所以で何年おきとか、十年例えばそうなるとか、十年おき位にやってくるとか、二三年でやってくるとかというふうな形でやってくるのが職業病である訳です。で、職業病というのは何かって言いますと、僕らの理解の仕方では長年同じ様な姿勢で同じことをしている場合の、姿勢というところからやってくるものと、快く書いて入る場合もありますけれども、「もぉ、いいかげんうんざりだ。何十年も同じことをして、うんざりだ」というふうな、一種「嫌だ。こんなことは嫌だ」という気持ちを克服しながら書いているということが精神的に非常に負担になって、それで以てその姿勢にはいると痛く成るということも、勿論幾分かの度合いであると思います。それは多分皆さんもそれぞれの職業で、同じ体験をしておられると思いますけども、少なくとも文学をやるということに伴う職業病の実態みたいなものだというふうに思います。それはある程度なだめながらとか、我慢しながらとか、そういうふうにしてやっていくより致し方が無い訳です。それが多分坐ると言うこと、文学と言うこと、文学を表現するということの一等最初に、一番つまらないところで関係がある、一番初めのところだと思います。
で、段々少し高級なところに入っていきたいと思います。例えば、俳句みたいなものは日本古来の「坐の文学」と言われている訳ですけれども、その意味は大勢の人の間で創られる文学という意味合いが多分にある訳です。「坐」ということを「坐る」ということに換言していった場合に、どういう作品といいましょうか、作家と言いましょうか。それ(どれ?)を取り上げたらいいかぁと頻りに考えたんですけれども、ここでは土地柄の馴染みもありますから、夏目漱石のこと、或いは夏目漱石の作品の中でも『門』という作品がありますが、『門』という作品を第一に素材に致しまして、「坐る」と言うことと文学と言うことについて、漱石がどういうふうに考えて、どういうふうな展開の仕方をしているか、というところから少し余計なところまで入っていきたいというふうに思います。
夏目漱石の『門』という作品は、皆さんお読みになった方は勿論沢山おられると思いますが、一通り内容を申し上げますと、宗助という主人公、それから御米という奥さんが崖の下にある借家に二人してひっそりと住んでいる訳です。時は明治42年頃のご時世です。ということは(が?)どうして判るかと言いますと、作品は明治43年に書かれていますけれども、その中に4、5日前に伊藤博文が暗殺された号外が出たということが作品の中に出てきますから、伊藤博文はハルビンで暗殺されたのは明治42年と思いますから、多分明治42年頃が舞台になって、明治42年頃の小石川とか駒込とか、そういうふうなところの崖下のところにひっそりと住んでいる宗助と御米という夫婦がいる訳です。一人お年寄りの女中さんを雇って――「おきよ」って言うんですけども――ひっそりと住んでいる訳です。宗助は役所に勤めているんです。文京区、或いは本郷区役所かも知れません。役所に勤めている訳です。なぜひっそりと住んでいるかということが非常に大きな、作品の意味に成る訳ですけれども。なぜひっそり住んでいるかというと、学生の時代宗助は京都の大学にいる訳です。京都の大学にいて仲の良い安井という同級生の学生がいる訳です。その同級生の安井という学生は、学生時代の終わり頃、女の人と同棲する様に成る訳です。同棲する様に成ってそこに宗助は訪ねていって、よく3人でどっかに遊びに出かけたり、京都の嵯峨野へ行ってお寺を廻ったりして3人で仲よく遊んでる訳ですけれども、その内に宗助は親友の安井の奥方であった御米さんという人と親しくなってしまう訳です。謂わば三角関係に成りまして、その為に安井という親友は学校・大学を途中で、傷ついて大学を途中で辞めて郷里へ帰って病気になって――当時で言うと満州、今で言うと中国東北地区ですけれども――満州へ出奔してしまうと言いましょうか、放浪してしまうというふうな運命を辿る訳です。
宗助と御米さんは、謂わば親友を二人して裏切ったと言いましょうか、そういうことで二人して大変罪の意識を受けて、二人でこの世に中に表だって出ていくということも、罪の意識に駆られてしない気分になって東京へやってきて、斡旋する人がいて役所の下っ端役人の職を得て、ひっそりと崖下の借家に暮らしているというのが『門』という漱石の作品の設定の仕方です。僕はこの作品がとても好きなんですけれども、漱石の作品の中で決して一番良い作品ということではないのですけれども、しかし僕はとても好きな作品です。
二人は世間から目を背ける様にしながらひっそりと暮らして、それなりに平穏に暮らしている。世間から後ろ指を指される部分だけ自分達二人が寄り添う様にして、二人は波乱も無く喧嘩することも無く、仲よく相互に寄りかかってひっそりと暮らす以外にない、それ以外に方法はないという様に、ひっそりと寄りかかりながら暮らしていることなんです。
ところが、そういうふうに平穏に暮らしている二人の生活の中に、一つ波乱が訪れる訳です。その波乱というのはどういう波乱かと申しますと、崖下の借家の大家さんが――崖の上に大家さんの家がある――ある時、大家さんの家に泥棒が入るんです。で、泥棒は入って盗った箱があるんですけど、その箱を崖下に放り投げて、自分も崖下に滑り降りて逃げていくという事件が起こる訳です。それで、翌朝宗助が起きてみると、自分の家の縁側と崖の上の間の所に、箱がおこっている(落ちている)訳です。で、その箱を見てみて、「上の大家さんの箱だ。何か泥棒でも入ったんじゃないか」ということで、その箱を大家さんの所へ届けに行く訳です。普段はそんなことしないで、大家さんの家の雇われている人が来て、家賃を取り立てていくとか、そういうふうにしてあんまり顔を合わせたことがないのですけど、それを機会に宗助は箱を持って大家さんのへ行って、「お宅のじゃないか。盗難に遭ったのじゃあないか」というふうに持って行って、それから大家さんの家と少し仲良しになる訳です。で、仲良しになってるところで、ある時大家さんが世間話のついでに自分の家のことを、それから自分の親類のことなんかを話している内に、「自分には一人、弟がいる」と、「その弟は今、満州に行っている」と言う訳です。「その弟は、満州の方へ行ってるんだけども、今度は一寸東京へ遣って来て家へ泊まっていく」というふうに、「そういう話があるんだ。弟が一緒に満州の友達を連れてくる」というふうに言って、「泊まっていくと言ってるから、弟がもし来た時には、あなたも遊びに来ないか。向こうの話も聞きましょう」みたいな話が出てくる訳です。で、その時に大家さん――坂井さんと言うんですけど――の弟の友達、一緒に来る友達というのは安井というだというふうに大家さん言う訳です。そこで、宗助は青ざめる訳です。つまり安井というのは自分の昔の親友で、今自分の奥さんに成って御米さんというのは、昔安井の奥さんだった。その安井に違いないというふうに思う訳です。で、もし大家さんの弟と一緒に安井が訪れて来て、何日も何日も東京に滞在してそこに居るというふうに成ったとした(な)らば、自分はどうしていいか判らないから、自分はそうなったらこの家を引っ越さなければいけない、というふうに考える訳です。
そういうふうにして、安井が突然訪れた時にひっそりとして暮らしている自分達はどうしていいか判らない。宗助はそれを色青ざめて、大家さんの所から帰って来て、御米にそれを言おうか言うまいかっていうふうに考える訳です。言っちゃた方がいいだろうかと考えたり、また言った時の御米の動揺と言いましょうか、御米の気遣いというのを考えると、どうしてもそれを御米に打ち明けられないで、自分の気持ちだけの中でそれを隠している訳です。で、役所に行くんですけども、手が付かないのです。感じるのは自分のこころの不安だけであって、もし安井が訪れてきたら自分達の夫婦の間に、どういう波紋が来るのか判らない。奥方の気持ちがどういうふうに成るのか判らない。そういうことを考えると、安井が来る前に引っ越してしまおうかと考えたり、引っ越してしまうにしても、奥方に、御米さんに何て言ったらいいのか、本当のことを言った方がいいのか、また言わない方がいいのか、どうしたらいいのか判らないという様なことを考えると、役所に行っても仕事が手に付かない。帰って来てもボンヤリしているという様な具合に成る訳です。御米さんから「この頃少し変じゃないか」と、「何かあったのか」と言われるんですが、「いや、一寸神経衰弱かも知れない。気分がとても悪いんだ」みたいなことを言って、御米さんお手前、誤魔化している訳です。ですけどもこころの動揺というのは、なかなか治まりが付かない。
役所の同僚の中に一人――坐ると言うことに関係がある訳なんですけども――禅について詳しい同僚がいる訳です。普段から禅に関する本を沢山読んでいて、大変詳しい同僚がいる訳です。その同僚が「あなたどうしたんだ」と言うことを訊かれて、同僚に「何かどうも気持ちが落ち着かないんだ。どっかアレがないだろうか」というふうに尋ねると、同僚が「自分が知っている人の紹介状を持って行けば、鎌倉に禅のお寺がある」と、「その禅のお寺に行って、坐禅を組んでみたらどうか」というふうに言ってくれて、紹介状を書いてくれる訳です。宗助は家へ帰って御米さんに、「少し神経衰弱ぎみだから勤めを休んで、少し休養に行ってこようと思う」というように言う訳です。「それはいいことだ。どこに行くんだ」。「鎌倉へ行ってくる」。「別段アレなことをするんじゃなくて、鎌倉のお寺で安く泊めてくれる所があると言うから、そこで少し休んで来たいと思うんだ」と言うふうに御米さんに言って、勤めを休みまして鎌倉の禅寺に紹介状を持って訪ねていく訳です。
禅寺では紹介されたお坊さんが世話をしてくれたり、いろんなことを教えてくれる訳です。「坐禅はこういうふうに組めばいい」とか、「一日に一回だけお師匠さんに会える時間がある。その時にお師匠さんから禅についての課題を貰ってその課題を解く様に。そういうふうにされたらいいだろう」というふうに言われて、そこでお師匠さんの所に先ず挨拶に行く訳です。そうするとお師匠さんが坐禅のテーマがある訳ですけれども、坐禅のテーマを与えてくれる訳です。そのテーマというのは禅の方ではありふれたテーマの一つなんですけれど、それは父母未生以前の本来の面目というのは何なのか、という課題である訳です。それはどういうことかって言うと、自分の父親と母親が生まれてない以前の、お前はどういう人間だったんだ。或いはどういうものだったんだと言う、そういう課題な訳です。それを解いて来い、解けということなんです。
宗助は教わった通りに坐禅を組んで、気持ちを集中して父母が生まれない以前の自分の面目、本来の姿というのはどういう姿なのだろうかという課題をさかんに解こうとする訳です。だけども元々それは父母が未だ生まれていない以前に自分は、お前はどういう姿をしていたんだ、或いはどういう人間だったんだというふうに言われても、そんなものは言ってみれば仏教でいう前世と言いましょうか、或いは前世以前の前世と言いましょうか、そういう時にお前はどういう人間だったんだ、お前はどういう姿をしていたんだというふうに言われているのと同じであって、それに対して答を出そうとしても、理屈で答を出しても仕方がない訳だし、また感じで出そうとしたって何も判る訳がないということで、宗助はその課題を解こうとして一生懸命(に)成るのですけれども、どうしても一生懸命坐って、坐禅を組んで一生懸命(に)その課題を解こうとする訳です。で、それを解こうとする過程で、自分がもしも御米さんの前の夫であって(あった?)安井が遣ってきたらどうしようか、という様なことに対する不安をそこで以て解消してしまおう、と考えて坐禅を組んでその課題に取り組む訳ですけれども、どうしてもその課題を解くことができない訳です。で、紹介されたお坊さんもいろいろ助言してくれるんです。坐禅である一つの課題を与えられたら、一生懸命その課題というのに気持ちを集中しなくてはいけない。集中してもう頭のてっぺんから足の先まで全部その課題のことばっかりしか思い浮かばないといいましょうか、課題のことばっかりに成っちゃった、というふうな所まで自分が考え詰めていく、坐禅を組んで考え詰めて考えていくと、ある時「ふぁ」というふうな形で解けることがあるんだ、解けた気持ちと言いましょうか、気持ちが「パッ」と啓けることがあるんだ。だから一生懸命その課題を考えて、気持ちを集中してもう頭のてっぺんから足の先までそのことばっかり、その課題のことばっかりしか自分の中にはない、自分の身体が全部鉄の棒みたいに、そういう(ふう)に成っちゃったという位まで考えて詰めていけば、必ずそれは解けるからとお坊さんは助言してくれる訳です。しかしそういうふうに集中しようとして坐禅を組む訳ですけど、どうしても集中できない。集中しようとすると、安井が来たらどうしようかとか、早く引っ越しちゃおうかとか、御米さんにはどういうふうに言ったらいいだろかとか、そういうことばっかりが思い浮かんできたり、また理屈として父と母親が生まれていない前の自分の姿というのは、どういうふうに言ったらいいだろうかということを考えて、そうすると考えること全部が理屈に成ってしまって、ちゃんとした考え方というのが浮かんでこない訳です。
で、そういうふうにしていくんだけども、一日に一度お師匠さんの所に面会する時間がある訳です。そうすると、面会して課題について「何か解けたか」というふうに言われて、何か自分が考えたことを言ってみる訳です。言う訳です、お師匠さんに。そうするとお師匠さんに、「お前が言ってる様なことなんか、少し知識があれば誰でも言えることだ。もう少し『ギロッ』としたこと、何か中心を『ガッ』と捉まえた様なことをもう少し考えてこい。身につけてこい」と言われて、追い返されちゃう訳です。また坐禅を組んで考え込むんだけれども、どうしてもちゃんとした――悟りな訳でしょうけど――そういうのはどうしてもやって来ない。やってこない内に、役所の休暇を取った十日なり、二週間なりという時間が瞬く間に過ぎてしまう訳です。結局は何にも解くことは出来ないし、何にも解決することが出来ないし、また安井が来た時にどうしたらいいのであろうか、自分の気持ちをどういう様に落ち着けたらいいのか、という様なことについても何も解答を得られないままに、とうとう休みの終わりの日が来てしまう訳です。
で、これはこのままで仕方がないというふうに考えまして、宗助はただ、お師匠さんに挨拶だけはして帰ろうと考えて、お師匠さんの前に行って「お世話になりました」というふうに挨拶をする訳です。挨拶をして、お師匠さんの方は、「もう少し何か摑んで帰ったらよかったのになぁー」というふうにお師匠さんに言われただけに成っちゃうんです。紹介してくれたお坊さん――紹介して自分を世話してくれたお坊さんは、「いや、何も解決できなくても、二週間坐ったら二週間坐ったなりの効果、功徳が必ずあるものだ。必ずそれは今度は何かの時に必ず役に立つことがあるから、決して失望してはいけない」という様なことを一つ言ってくれる訳です。もう一つ言ってくれることは、「これを機会に何も出来なかったし、何もアレかも知れないけれども、これを機会に坐禅を組んで坐って、気持ちを統一する、落ち着けるということに対して関心を持って、これからまた何かの機会があった時に関心を以て押し進めていけば、いつかはきっといい境地といいましょうか、いい悟りの境地が得られるかも知れないから、決してこれで以て今度の時は駄目だったからこれで諦めたり、帰ったら無関心になっちゃうということでなくて、それだけの関心を以ていかれたらいいでしょう」というふうに言われて、宗助はお礼を述べて家へ帰って行く訳です。
そこのところの――『門』という標題、小説の表題になっている訳ですけども――そこのところを一寸読んでみましょうか。
「宗助は自分の境遇やら性質が、それほど盲目的に猛烈な働きをあえてするに適しない事を深く悲しんだ。いわんや自分のこの山で暮らすべき日はすでに限られていた。彼は直截に生活の葛藤を切り払うつもりで、かえって迂濶に山の中へ迷い込んだ愚物であった。(略) 宗助は謹んで、宜道――宜道というのは紹介されて、世話してくれたお坊さんです――のいう事に耳を貸した。けれども腹の中では大事がもうすでに半分去ったごとくに感じた。自分は門を開あけて貰いに来た。けれども門番は扉の向側にいて、敲いてもついに顔さえ出してくれなかった。ただ、「敲いても駄目だ。独りで開けて入れ」と云う声が聞えただけであった。(略)彼自身は長く門外に佇むべき運命をもって生れて来たものらしかった。(略) 彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。」(二十一)
これが『門』という作品の標題になった一番の鍵になる箇所で(す)。宗助は坐禅の門を敲いて自分の不安とか恐れとか、そういうものを解消しようと思って、悟ろうと思って門を敲いたんだ。しかし自分はどうしても門の中に入れなかった。また門の中で誰も自分の敲く音に応えてくれる人もいなかった。自分は門を黙って立ち去る、或いは門の前に佇むことはない、そういう人間にも成れなかった。つまり門の中にも入れないし、また門に対して無関心であることも出来ないで迷っているというのが自分の姿だったんだというふうに言ってる訳です。それが宗助が坐禅を組む為に休暇を取った、その休暇が終わった時に宗助が考えた感想な訳です。そういうふうな感想を持ちながら、宗助は家へ帰って来る訳です。
6 偶然という解決の仕方
家へ帰って来て御米さんからみると、「鎌倉へ行って少し休んでくる。神経を休めて来る」というふうに言ったのに、帰って来た宗助は髭はぼうぼうとなっているし、顔は少し行った時よりもっと青ざめてた顔をして帰って来た訳です。だから「ちっとも休養して帰って来たのじゃないですか」と御米さんに言われて、「一体何をしたんですか」なんて言われて、「どういう暮らしをしていましたかとか、どういうものを食べていたんですか」ということを訊かれて、宗助はボツリボツリと差し支えないところだけ応える訳です。だけども御米さんに行く動機になった悩みとか不安とか、つまり「安井が遣ってくるんだよ」という様な、そういうことを御米さんに言うことが出来ないのです。ただ、さり気なく御米さんに「上の大家さんから何か言ってくる話なんか無かったかい」と言うふうに御米さんに訊くんです。で、御米さんは「別段そういうことは無かった」と言うんです。宗助はそれでも不安なものですから、どうしても安井のことを確かめよう。確かめてもし安井が前から考えていた通り、大家さんの弟と一緒に暫くここに居て、東京に滞在しているということだったら御米さんに打ち明けるか、打ち明けなくてもここを引っ越してしまおうと考えて、宗助は帰ってきてから直ぐに崖の上の大家さんの家に訪ねていく訳です。
そして世間話をしたついでに、さり気なく、「弟さんが何か満州の方から来られるというのは、どうなりましたか」というふうにさり気なく大家さんに訊くのです。そうすると、大家さんは「もう帰って仕舞いましたよ」というふうに言う訳です。「東京の齷齪した生活なんかガラに合わないらしくて、帰ってしまいましたよ。東京なんかコリコリだというにして、予定より早く引き揚げて仕舞いましたよ」って言う訳です。「お友達はどうですか」。安井のことを暗に訊くと「お友達も一緒に帰りましたよ」というふうに言う訳です。大家さんはさり気なく言う訳です。それを聞いて宗助は大きく安堵する訳です。嵐というのはそういう形で立ち去ったというふうに思う訳です。しかし考えてみるに宗助は何も自分自身の内側から悩みを解決した訳でもないし、安井が訪ねてきた時にどういうふうに振る舞おうかとか、どうしようかということについて、自分の内側から気持ちの上から解決したということではなくて、偶然に安井も大家さんの弟も偶然に早くちょっと居ただけで、東京から引き揚げて、また満州へ引き揚げて仕舞ったという、偶然のことから問題は解けてしまうということに成ってしまう訳です。
宗助はしかしそれでも何となく安堵するというか、何となくホッとしてしまって今まで自分が思い悩んで、御米さんに黙って鎌倉の禅寺で坐禅なんか組んできた、そういうことが何か一種夢見たいなふうな感じになって、しかしいずれにしても外側から来た偶然であろうと何であろうと、自分を悩ました問題というのは、そこで解けてしまう訳です。で、解けてしまうと言うここが、夏目漱石がここが大変言いたかったことの一つであるのでしょうけれども、そういうふうにして作品の終わりに近くなるのですけれども、そのように成った時に、丁度冬が終わって空の気配とか街の気配とか風の気配というのが、何となく春めいてきた、そういう感じにふと崖の上を見上げると、そういう感じがする様になって、何となく春がやってきたなというふうに宗助は感ずる訳です。自然の季節が段々春に成ってきたというふうに感ずる訳です。それと一緒に、自分の弟で学資が無くて、自分の所に下宿させていた弟がいる訳ですけれども――未だ学校へ行っている弟がいる訳ですけれども――その弟が大家さん家で書生をしながら、学資については自分と元々約束のある叔母さんの家とが、家の息子とが半々ずつ世話してやって、弟を学校へ出してやるという話も段々纏まってくる。「何となく春めいてきましたね」というふうに御米さんがそういうことを宗助に言い掛けて、宗助と御米さんの間には無事平穏で、しかし世間からは隠れる様にして住んでいる、ひっそりとした平和と言いましょうか、ひっそりとした平穏、何も荒々しいことも起こらないし、またいいことも起こらないし、その代わり別段格別、悪いことも起こらないという様な形でひっそりとしている限りは、このままいつまでも無事平穏にいけるだろうという、春めいた予感みたいなものを感じさせるところで、この『門』という作品は終わる訳なんです。
で、ここで漱石の様な、明治以降の近代文学の作家の中で、小説家の中で坐ると言うこと・禅と言うこと・坐禅ということ、もっと広く言えば仏教ということですけれども、それに関心を持った人というのは極めて少ない訳です。まして作品にそれを結晶させたという文学者は極めて少なくて、その中で漱石は大変珍しい作家だということが出来ます。で、漱石の『門』という作品の宗助の悩みを解消する為に鎌倉の禅寺へ行ったという、作品の中の物語というものは元々は漱石の自分の体験の中から出ている訳で、漱石は嘗て鎌倉の円覚寺に坐禅を組みに行って、参禅をした経験があって、その時に作品の中の宗助が言われたと同じ様なことを、その時お師匠さんに言われた、そういう体験を漱石自身が実際に持ってて、その体験から宗助が禅寺へ坐禅に行くという、そういう描写を自分の体験からやっている訳です。また自分は門を敲いたんだけども門の方で少しも開けてくれなかった。門の方で自分に応えてくれなかったという、自分は結局は門の中に入って悟りを啓く人でもないし、また悟りということに無関心でいられる人間でもないと。つまりどっち付かずで以て、悩みながら中途半端に門の所に佇んでいるというのが、自分の姿なんだというふうに宗助に言わせていますけれども、それ自身がまた夏目漱石自身の自分に対する評価であり、また自分に対する反省でもあるというふうに受け取ることが出来ます。で、漱石の鎌倉の禅寺での体験が殆どその中に反映しているというふうに言うことが出来る訳です。で、それでは漱石自身の禅に対する考え方というものは、何処まで届いていただろうかということを、少しここからお話ししてみたいと思うんですけども。それは一般論としてもお話ししてもいいんですけれども、僕がある時追究したことがありまして、その追究したところを借りながら、漱石のどこまで関心を深く持って、どこまで突っ込んで行ったんだろうかということをお話ししてみたいと思います。
で、僕が関心を持ったのはどういうことかと言うと、現存する作家ですけど島尾敏雄という作家がいまして、島尾敏雄の作品の中に島尾敏雄という作家の、作品の主人公は一種の持病がありまして、意識がボンヤリしてくるような体験にぶつかると頭が痛くなって、眼の視野が狭くなって、頭が痛くなって、眼の中に光の渦みたいなのが渦巻いてくるという発作が起こるという体験がありまして、それは多分島尾敏雄という作家の自身の体験に基づくんでしょうけど、島尾敏雄の小説の主人公は意識が低く朦朧としてきた時に、ボンヤリしてきた時に、そういう体験をするという描写がある訳です。眼の中に光が渦巻く様に成る、そういう状態を島尾敏雄の主人公は「眼華」というふうに名付けたというふうに作品の中に書いてある訳です。「眼華」というのは目の華です。で、「眼華」というふうに自分は名付けたとある訳です。僕はこの「眼華」というのは一体、島尾敏雄という作家はどこから、この「眼華」という言葉をどこから採ってきたのだろうかと、僕はそういうことを考えたのですけれども、そうしたらある時夏目漱石の漢詩を読んでいましたら、漱石の漢詩の中に「眼花」という言葉が出てくる訳です。で、これはここに書いておきましたけれども、明治23年ですから、まだ漱石が若い時・比較的若い時の漢詩ですけど。漱石は眼を患いまして駿河台の所の井上眼科――今もありますけれども――井上眼科に通っていたことがあるんですよ。その頃のことをアレした作品だと思いますけども、漱石の漢詩の中に
此の宿痾を奈何せん
眼花 凝りて珂に似たり
豪傑 空しく挫折し
壮志 蹉跎せんと欲す
山老いて 雲の行くこと急に
雨新たしして 水の響くこと多し
半宵 眠り得ず
燈火 黙して蛾を看る
意味は難しいことはないと思うのですけど、「自分は眼の持病をどうしたら一体いいのだろうか」。「自分の持病の眼がちらつく」ということにとりましょうか、「眼の病気」というふうに漠然ととってもいいと思いますが。「眼の(が?)ちらつく」のは「珂に似たり」というのは、「ガラス玉か水晶玉か、そういうものを突っ込まれたような感じがする」という様な意味だと思います。「自分は勉強して、これからいろいろ世間に・世の中に出ようと思っているのだけれども、こう眼を患っちゃぁ、それも挫折したし、自分の志もまた蹉跌してしまっている。山は秋の気配に成って雲は早く動いている。それから雨が新しく降ってきて水の響きが覆い。夜中に眠れないで勉強机の灯の下で黙って蛾の止まっている姿を見ている。ボンヤリ見ている」という、一種の挫折感を、眼が悪くて挫折感を詠っている詩だと思いますけども。僕はある時、漱石の漢詩を読んでいて「眼花」という言葉があると言って、島尾敏雄という作家は多分漱石のこの漢詩から「眼華」という言葉を持ってきたんじゃないかと、いうふうに僕は考えついた訳です。考えついたことは書いたこともありますけども、そういうふうに考えついた訳です。
そうすると今度また漱石のことに成って来る訳ですけど、漱石というのは一体「眼花」という言葉をどこから採ってきただろうか。「眼花」という言葉は何となく一種、纏まりのある言葉であって、言ってみれば熟語みたいなものですから、これはどこかに遣われた言葉があるに違いないので、漱石はどこから「眼花」という言葉を採ってきたのだろうかということを考えていったのです。ある時――ある時というのは僕は良寛についてものを書いたり、調べたりしたことがありまして、そしたら偶然にも良寛の漢詩の中に「眼華」という言葉があるということを見付けたのです。良寛の漢詩の中に、「眼華」という言葉は二カ所に使われて、二つ使われていまして、そこは「2」(?)というところに書いてありますけども、良寛の漢詩集である『草堂集』という中に、二百十一番の作品の中に「眼華」という言葉がある訳です。人間というのはもの凄く無常、明日知れぬアレなんだぞというという詩なんですけど。これは途中までですけど、
無常信に迅速
刹那刹那に移る
紅顔長に保ち難く
弦髪変じて糸と為る
弓を張る背梁の骨
波を畳む醜面の皮
耳蟬竟夜鳴り
眼華終日飛ぶ
まだもっと続くんです。暗い詩ですけどね。人間の無常(は)判らない。誠に迅速であると。刹那刹那に人間は年老いていってしまう。紅顔の美少年というものも長く紅顔を保つことが出来なくて、黒い髪の毛は変わって白い糸に成ってしまう、老いてしまう。背骨は弓を張ったように曲がってしまう。それから醜い顔はさざ波がいっぱい立った様に皺が寄ってしまって、そういうふうに成ってしまった。そればかりじゃない。耳――「耳蟬」というのは耳鳴り、「耳の蟬」ですけれど耳鳴りということだと思います――耳鳴りが一晩中するし、「眼華終日飛ぶ」というのは、「眼がちらつくことは一日中眼がちらついてしまう」。この良寛の詩はもっと惨憺たるものであって、終わりまでもっとアレすると凄い、やりきれない詩だということに成るんですけど。やりきれないことを読んだ詩なんですけど、その中に「眼華」という言葉がある訳です。この「眼華」も――この場合も眼がちらつく位でいいんだろうと思うんですけど――眼の中に光が「もやぁ。もやぁ」と飛ぶということだと思います。そういうことは一日中ちらつく。そういうふうに人間は老いてしまうんだ。そういう詩なんです。そこで「眼華」という言葉が使われている。
もう一つ、良寛に「法華讃」という、『法華経』の各章・各品について創った詩がある訳ですけども、その「受記品」について創った良寛の詩の中に、やはり「眼華影裏に、眼華を逐う」と言う、「眼がちらつく、そのまた裏の方で眼がちらつくものがある」。そういう言い方ですけれども。「眼華を逐う」、或いは「眼華に逐わる」でもいいと思いますけども。そういうところで「眼華」という言葉が使われている。
そうしますと、漱石というのは「眼花」という言葉をどこから採ってきたのだろうかと考えていって、一通りの意味で言ったなら、漱石は良寛の漢詩を読んでいて、その漢詩から「眼華」という言葉を採ってきて、自分が使った(の)だろうというふうに僕はそういうふうに推測した訳です。
ところで、漱石と良寛の関係――坐禅ということも含めまして漱石と良寛の関係について研究している細井昌文さんという人が、日本医大の図書館にいますけども。その人は漱石と良寛の関係についての研究家でして、ある時細井さんから漱石と良寛の関係について、「どう思いますか」と訊かれて、僕ハガキを遣って、「俺はそれ程の研究家じゃないから判らないけれども、ただ『眼花』という言葉を漱石が使っていて、それはどこから採ってきたかと考えて、良寛の詩の中に『眼華』という言葉があることを僕は見付けた。そうすると良寛と漱石の関係と言ったら、僕が知っているのはそういうことについて位しか判らない」と言うことを細井さんに応えたことがあるんですけども、細井さんは花を持たせてくれて、細井さんの論文の中に僕に質問を出したら、僕がそういうふうに応えてきてくれた。なかなかさすがに鋭い何とかだと書いてありましたけれども、それは花を持たせてくれた訳で、本当は細井さんはよく知っていた訳で、漱石が明治23年(に)この詩を創った時には、多分良寛の詩を多分読んでいないのですよ。で、細井さんの研究に拠れば、漱石が良寛の詩を読んだのは大正3年以降であろう、というのが細井さんの研究の結果でして、そしてしかもどういう良寛の詩集を読んだのだろうかというふうに考えて、細井さんはいろいろ追究している訳ですけれども、それに拠りますと『良寛詩集』というのは、小林一郎という人の編で明治22・3年頃出ている。それの第何版目かを漱石は手に入れてそれを読んだというふうに大体において結論できるというふうに言ってる訳です。23年に出たんだけど、第何版目かで明治40何年頃に(の)第何版かを(の)『良寛(詩)集』があって、それを読んだっだっていうふうに大体において言えると細井さんは公表している。調べて結論づけている訳です。そうすると、細井さんは漱石の「眼花」というのは良寛の詩集の「眼華」から採ったんじゃないということを、細井さんはその時に知ってる訳ですけれども、ただ僕に花を持たせるということで、多分そういうふうに書いてくれたんだと思う訳です。
で、そこのところで終わらないで、僕はある時良寛の詩のことを調べていて、中国の魏の時代に詩とか、唐の時代の詩とか、『唐詩選』とか、宋の時代の詩とか、いろいろめくって読んでいたんですけれども、その時に『唐詩選』の巻二の中に、杜甫の詩として「3」(?)の所に書いてありますけれども、
知章が馬に騎るは船に乘るに似たり
眼花 井に落ちて水底に眠る
という章句がありまして、「知章」というのはその当時の名高い文人の名前なんですけれども、それを杜甫がからかっているのか本当に描いているのか判りませんけれども、「知章が馬に乗ると船に乗っているようなもので」、「眼花 井に落ちて水底に眠る」というのは真面目な解釈も出来ますけれども、ユーモアの解釈で言えば、要するに「眼が回って井戸の底に落ちちゃうみたいに、とってもみっともない乗り方をする」というふうにユーモアに解すれば、そういうふうに解せられるのかも知れません。もっと真面目な詩かも知れません。それは解しように拠るでしょうけれども。そこに「眼花」というのが書いてある。出てくる訳です。この場合の「眼花」もほぼ同じ意味で、目がくらむとか、目がくらんでチラチラするとか、そういう意味合いに採っていい訳で。
そうすると漱石は良寛から採ってきたのではなくて、漱石は『唐詩選』から「眼花」という言葉を採ってきたのだろうというふうに思われる訳です。そうした(な)らば、吉川幸次郎という中国文学者が京都大学にいますけれども、その吉川幸次郎が漱石の詩について『漱石詩注』というのを岩波新書から出していますけれども、その中に漱石のこの詩を注釈して、「眼花」というの(は)『唐詩選』(の)巻二に杜甫の詩としてあると注釈してありました。だから吉川幸次郎は直ぐにこれは『唐詩選』にあるというふうに、専門家ですからそういうふうに直ぐに、漱石は『唐詩選』から採ったていうふうに直ぐに見当付けたんだって思います。
で、僕はそうでなくて良寛から採ったんじゃないかというふうにかんがえて、それはどうも怪しいと。細井さんの考証に拠ると怪しいということに成りまして、この詩を創った時には良寛の詩を漱石は読んでないと考えた方がいいので、それは怪しいと。そうすると『唐詩選』から採ってきたんだというふうに大体結論付けられそうに成ってきた訳です。
ところで、一寸漱石を離れますけども、余計なことを言うと、余計なとこ(ろ)まで申し上げますと、僕は今度、良寛というのは一体「眼華」というのをどこから採ってきたんだということに、少し関心を持った訳です。これは坐禅に関係ある訳ですけれども、道元の『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)という著書の中に第十四章に「空華」、空の華という章があるんですけども、そこに――「4」(?)のところに書いてありますけども――そこに「眼華」という言葉が出てくる訳です。その言葉の使い方は大体同じで、病んだ眼でちらついたり、光が「もや。もや」と飛び回るみたいな、そういうことを指している訳です。そういうことを指しておいて、その意味合いを少し転じて、少し変えて悟りを啓いた場合に空に、花が「ぱあぁ」と花が開くような、眼前に花が開くような感じに成るという意味合いも、その中に含めている訳ですけれども。『正法眼蔵』の中に、そこに書いてあります、
およそ一眼の在時在処、かならず空華あり、眼華あるなり。
眼華を空華とはいふ、眼華の道取、かならず開明なり。
【参考:「およそ一眼の在時在処、かならず空花あり、眼花あるなり。
眼花を空花とはいふ、眼花の道取、かならず開明なり。」
岩波書店 日本思想体系12 『道元』上 155頁】
という様なところがありまして、そこに「眼華」という言葉が出て来ます。これは、本当は難しいんでしょうけれども、言葉の意味だけを言うのならそんなに難しくなくて、「およそ一つの眼がある時には、その眼がある時、眼が在る処には必ず空の華があるんだ」。空の華と言いますか、そういう一つの眼が悟り――この場合そうでしょうけれども――悟りについて、仏教の悟りについて考えてアレしている時には、「その時その処に必ず空に華が咲くんだ。眼前に空に華がいっぱい咲いている様な、そういう境地に成るんだ」というふうに言っていると思います。「それは眼の花であり同時に空の花なんだ。目の花のことを空華、空の華とも言うんだと。眼の花というのは必ず意味するところは非常に明らかであって、眼の華について空に――悟りの境地を表している訳ですが――花が『ぱあぁ』と咲いた様な、そういう境地に達していく、そういうことが非常に明晰に判ることなんだ」というふうな意味に取れると思います。そうしますと道元の『正法眼蔵』の中にあるこの「空華」、ないしは「眼華」というものが良寛が詩の中に持って行った「眼華」という言葉を採ってきた本来的な場所であろうと思われる訳です。そこ迄が僕が追究していった「眼華」という言葉を中心に追究していったところで、これもまた少し返さなければなりません。漱石の方に返してみなくてはなりません。
良寛は歌を創り、漢詩を創り、そして子供たちと手鞠をついて遊びというふうなことをしながら一生を過ごしてお坊さんですけでも、青年時代に良寛は道元が開基した曹洞宗という禅宗ですけど――ここで言えば吉祥寺みたいなところですけど――曹洞宗の、岡山の方に円通寺というのがありますけども、そこで以て良寛は若い時に出家しまして、そこで以て禅の修行をしている訳です。良寛は禅の印可、禅のお師匠さんとしての認可、つまり一流の境地に達した人間だということの印可を、印を良寛は受けている訳です。禅宗の坊さんとしても非常に一家を成した禅宗の坊さんであった訳です。勿論曹洞宗の開祖である道元に私淑していまして、尊敬していまして、勿論道元の『正法眼蔵』を良寛は読んでいる訳で。だから多分良寛の漢詩の中に出てくる「眼華」というのが、良寛は『正法眼蔵』から得てきたということは、まず間違いにないだだろうと思われる訳です。良寛が曹洞宗の僧侶の印可を受けた時に、本山から非常に優れた坊さんである玄透即中という坊さんが本山から、良寛がいたお寺へ座主として遣ってくるんです。それと共に良寛は故郷へ帰って行く訳です。故郷へ帰って生まれた村里から少し離れた国上山に庵を結んで、一生そこで以て隠遁して村に出て行って托鉢をして食を貰い、子供たちが遊んでいるとその仲間に交わって遊んで、一日暮らして帰っていくという、そういう隠遁生活をした人なんで、禅宗の坊さんとしては逸れた生き方をした人なんですけれども、良寛は、しかし終始坐禅とか禅というものについては終始関心を持っていまして、終始それについては考え方を持っていまして、良寛は自分の資質がお寺を預かって、お寺の一門を治めて、お寺の政治的なことも司ってやっていくということが、良寛という人は苦手な人で、そういうふうに生きたくなかったし、また生きられなかったのでお寺を出てしまったんでしょうけども、良寛に修行の仕方というのは、禅の修行の仕方というのは、少なくとも非常に本格的なものであって、師匠から印可を受けると同時に「大愚」という名前を貰っている訳ですね。「大愚良寛」というふうな名前を貰っている一人前の、一家を成した禅宗のお坊さんでもあった訳です。良寛の修行の仕方というのはどんなだったかというのを語る逸話と言うのがある訳ですけども、ある時江戸の文学者が土佐の国に遊びに行った。ある所で日が暮れて雨が降り出したんで、道から一寸外れたところに小屋があるので、その小屋に泊めて貰おうと思ってその小屋を訪れた。そしたら一人の坊さんが囲炉裏の側に座っていた。その坊さんは痩せこけた坊さんで、眼ばっかりぎょろっとしている坊さんで、囲炉裏の側に座っていた。入って行って「雨に降り込まれたので今晩ここに泊めてくれないか」と言ったら、「いいです。どうぞ」と言ったきりで、後は一言も口を利かなかった。そのお坊さんを見たら異様に鋭く、痩せこけた坊さんで、一言も口を利こうとしなかった。ただ、お腹がすいた頃になるそばがきを作って黙って自分の前に出してくれた。それを食べたのだけれども、そのお坊さんは何も言わない。寝る時には囲炉裏の側でごろっとそのまま横になって眠った。それで、自分も横になってその晩泊めて貰った。ところが翌朝になってもまだ雨が降っていた。そこで「もう一晩泊めてくれないか」と言ったら、「いいです」と言っただけで、後は一言も口を利かなかった。で、チョイと机の上を見たら本が置いてあった。本の所の側に筆で書いた文字があった。それで本は『莊子』という本で、筆で書いてあるところに署名がしてあって、越後の僧良寛という署名がしてあった。ただ、それだけで、「字が上手い人だなぁ。上手い坊さんだなぁ」と思っただけで挨拶をして、自分は別れてしまった。で、後年よく考えてみると、あれは良寛その人だったんだと思ったというふうに書かれていますけれども、修業時代の良寛というのは大変厳しい人で、また厳しいアレを持っている人で、到底後代に伝わってバカみたいな人で、村の子供と手鞠をついて托鉢するのも忘れて一日中遊び呆けていたという、一寸バカバカしい様な形の良寛の逸話が沢山伝わっている訳ですけれども、それは本当は大変怪しい逸話であって――そうしたかも知れないですけれども――それには良寛の一流の考え方があって、そうしている様に思います。で、良寛という人は決して愚かしい人でもないし、愚かしさを誇示する様な人でもない人で、大変優れた坊さんだと思います。坊さんであると同時に優れた詩人でもあった訳で、徳川時代というのは大体詩人というのは少ないんですけれども、徳川時代に(の?)詩人とか歌人とかの数を挙げよとすれば、良寛は2本か3本の指に入る位の人ですけれども、それと同時に良寛は禅宗の坊さんでもあったということが、言える訳です。
さて、戻る訳ですけれども、漱石は大正3年頃、初めは多分詩というよりも書に惹かれたのだと思います。漱石も書が上手い人ですけれども、段々良寛に傾倒して行って、そして漱石は大体良寛が心の中にいつでも引っ掛かっているお坊さんであり、良寛が僧侶であった僧洞宗――禅ですけれども――禅についての漱石の関心というのが段々良寛と、良寛を段々調べていったり良寛の書に親しんだり、良寛の詩に親しんだりしていく間に、段々漱石の禅についての、或いは坐禅についての漱石の気持ちというのは段々深まっていったんだと考えられます。で、漱石が先程言いました『門』という小説に、宗助が鎌倉の禅寺を訪ねていくという、丁度そのことと対応する様な詩を明治43年9月に創っています。ですから創った年月として言いますと、『門』という作品は明治43年ですけれども、大体9月以前に書かれていますから、『門』はその時既に書かれているんですけれども――書かれて少し経っている訳ですけれども――漱石が(は?)は元々胃が悪かった人ですけれども、喀血して死にそうになったことがあるんですけれども、8月24日というのが漱石が非常に大きな吐血をして死にそうになって、意識が半分朦朧となって不明となってしまうんです。で、自分では生き返ったのか死んじゃったのか判らない様な朦朧とした病床を続ける訳ですけれども、それが少し良くなって直ぐに書かれたのが、そこに「2」(?)というところに書いて(あ?)る「無題」という詩だと思います。その時どういうことを詩に書いているかというと、
円覚 曾つて参ず 棒喝の禅
瞎児 何処か 機縁に触れん
青山拒まず 庸人の骨
首を九原より回らせば
月天に在り
という詩を病床で創っています。それは丁度今言いました様に、漱石が吐血して意識不明になって、それで意識が醒めてやっと助かったというふうに成ってから、しばらく経って書いている作品だと思います。これが丁度、『門』で宗助が鎌倉の禅寺へ行ったという実際の体験のことを詠んだ、そういう作品なんです。生死の境を彷徨ってやっと生き返った時に、丁度禅のアレを思い浮かべている、自分が参禅した時のことを想い浮かべて、詩に書いている訳です。
円覚寺に嘗て自分は坐禅に行ったんだけども、自分は馬鹿な人間で少しも禅の機縁、悟りのきっかけを得ること無しに、その時終わってしまった。丁度『門』の宗助と同じなんですけれども、終わってしまった。「青山拒まず 庸人の骨」と言うのは、けれども人間が死んだ後の墓地――「青山」と言うのは墓ですけれども――墓地というものは「庸人の骨」、自分みたいな平凡の人間の骨だって決して拒まないで入れてくれる。
自分は吐血して意識不明になって、どうもひとたび墓へ入って骨に成った様な、そういうところまで自分は生死の境を越えてしまった様な体験をしてしまったというふうに言ってるのだと思います。
「首を九原より回らせば 月天に在り」。「九原」と言うのはやっぱり、別の言葉で墓のことだと思います。自分は墓の中から首を挙げてみると、月が空に掛かっていた、というふうに詠っているのだと思います。
自分が生死の境を彷徨って意識不明になった、そういう時の自分の境地・その時の自分の気持ちを詩で以て表しているのだと思います。嘗て円覚寺に行って参禅した時には、ちっとも自分は悟りのきっかけを得ることは出来なかったけれども、自分は病気をして生死の境を彷徨った。その時には何だか墓の中にひとたび、死というものに恐れ気無く触れて、そこから空に掛かった月を眺めたという、そういう気持ちに自分は成った様な気がする。病気をして生死の境を彷徨って初めて自分は一種、若い時に悟れなかった、悟りというのに似た様な気分を味わった様な気がするというふうに言ってる、詠っているんだと思います。これは『門』の中で宗助が坐禅というものに対してこだわって、鎌倉へやって来て、悟りも不安も解消しないで帰って来て、と言うそういう体験を丁度作者自身として詠んで、その時悟れなかった悟りは、病気をして死病に遭ってみたら悟った様な境地になれた様な気がするというふうに言っていると思います。
もう一つ坐禅に関連して、もっと切実に良寛に関連して大正5年に創った詩があります。大正5年と言いますのも漱石の晩年の詩です。もう殆ど漱石の(が?)最後に辿り着いた場所みたいなものを表している様に思います。
大愚到り難く 志成り難し、
五十の春秋 瞬息の程。
道を観るに 言葉無くして只靜に入り、
詩を拈りて句有れば 独り清を求む。
迢迢たり天外 去雲の影、
籟籟たる風中 落葉の声。
忽ち見る閑窓 虚白の上、
東山月出でて 半江明かなり
意味を申し上げてみますと、自分は良寛の様に、「大愚」と言われ、大きな愚かさには到底辿り着けない、良寛の様に辿り着けなかったし、また自分の志、自分が成ろうと思ったものにもなり得なかった。「五十」歳の「春秋」が瞬く、息をする間もなく過ぎてしまった。道をみてみると――自分が辿った道、これからの道をみてもると――言葉も何もなく、ただ静かになるだけだ。詩を拈って句が浮かんでくると、一種の清々しさというのを自分は求めているんだ。「迢迢たる」とは遙かにある天の果ての方に雲が行く影が見える。それが遙かに見える。風が「籟籟」となって、落ち葉の音がしている。「声」がしていると。自分の部屋の窓を見てみると、その外には東の山の方に月が出て、川の半分が月に照らされて明るくなっているという、一種の自分の境地と自分はとうとう大した悟りも得られないし、良寛の様なところまで到底行けないで来てしまったなぁ、それだけでも静かになろうと思って詩を創ったり、自分の道を顧みてみると、そこには雲の影も浮かんでいるし、また風も落ち葉の所に恋をしている。窓の外を見ると月も東の山に掛かっているし、川には月の光が半分照らしているという、言ってみれば自分なりに――満足したということは無いのですが――自分なりにある静かな境地だと、言えば言える。しかし良寛の様に悟りを啓くこともできなかった。そういう人間で段々自分は五十歳を過ぎてしまった。人生五十年を大体自分は過ぎてしまったなと言うことを詠んでいるんだと思います。
これは漱石が晩年に近い頃です。晩年に近い頃の漱石のこの詩の境地は――伝記的に言いますと――漱石は修善寺で胃病に罹り、その後吐血して生死の境を彷徨った以降、漱石は――伝記の上では――則天去私と言いまして、「天の赴くままに任せて小さな自分というものを捨て去ってしまうというのが自分の境地だ」というふうに漱石は言ってる訳ですけれども、そういう境地になったというふうに言われています。漱石のそういう境地、則天去私という境地は「2」(?)と「3」(?)に書きました、詩に表現している境地が漱石の境地であると言うことが出来ると思います。この境地は謂わば禅宗のお坊さんが言う意味合いでの悟りの境地ではありませんけれども、しかし禅宗のお坊さんがいっている意味の悟りの境地が本当の意味の悟りの境地であるかどうかは、いろいろ問題・疑問があることなんだ。漱石の様にそういうことに関心がありながら、自分はしかし「門」の中に入れなかった。「門」の中には入れないならば、「門」を(?から)立ち去ってしまえばいいんだけれども、立ち去ることも出来なかった。そういう漱石の在り方というのは、本当の意味の悟りというのに近かったのかも知れないと思います。そこが漱石が辿り着いた、一つの<坐>の境地というものを表している様に思います。
漱石の<坐>の境地というのを、漱石の小説の作品でみようとすると、ただ一つ該当するのが『明暗』という小説があるんですけれども、『明暗』という小説がただ一つ、漱石の一種の悟りの境地に近い境地である、胃病で生死の境を彷徨った以降の漱石の気持ちの持ち方、或いは禅で言えば悟りの境地ですけれども――悟りの境地に近いものですけれども――それに対応する、それを表しているのが『明暗』という作品がただ一つ、それを表している様に思います。『明暗』という作品は、残念ですけども、ただ一つそれを表している様にみえながら、未完の小説なんです。『明暗』というのを終わらない内に漱石は亡くなってしまう訳です。ですから、今残されている『明暗』という作品はどこまで一体全体の作品から、或いは漱石の構想から考えて、どこまで進んでいったものだろうかということを考えてみますと、それもよく判らないところがあるんです。もう半分位は進んでいったのかなと、思えるところもありますけども、存外これは入り口の所までしか過ぎないんじゃないかな、というふうに思えるところもあるんです。どうしてかって言いますと、『明暗』という作品は元々これは物語のいろいろ筋があったり、起伏があったりという様な作品ではない訳です。それ程たいした物語が起こらない訳なんです。起こってない訳です。ですから、たいした物語も起こらない内に、この作品は終わっちゃうんだというふうに考えますと、相当程度まで書き進んだことに成ってんじゃないかというふうにも思えますし、また逆に言いまして、「これじゃ、あまり筋の進展がないじゃないか」と考えますと、これは案外序盤・序の口の所で病気になって死んでしまった為に、この作品は未完に終わったんじゃないかというふうにも考えられる訳です。だから『明暗』という作品は漱石の至り着いた、<坐>の境地というものを表している様に思える訳ですけれども、<坐>の境地は作品の中にどういうふうに表れているのか、それは先程申しました『門』という作品と比べて、どういうふうに違うのだろうか、どこがちがうのだろうか、というのを比べてみようというふうに考えた場合には、なかなか決定的に比べられないところがあるんです。ただ一つ言えることは、少なくとも『明暗』という作品の中には、『門』の宗助が感じる様な、親友の奥さんと一緒に成っちゃったということの罪の意識と負い目を負って静かに暮らしている主人公達、そしてそこに、奥さんを奪ってしまった(奪われた?)旧友が偶然にして上の大家さんの家に遣ってくるかも知れないと言うことで起こる波紋と言いましょうか、動揺と言いましょうか、不安と言いましょうか。その不安を描くみたいな、そしてその不安をどこかで断ち切ろうとして主人公が禅寺へ行って坐禅を組んでみる、という様な動揺の過程、或いはそれを鎮めようとして主人公が苦心(?)する過程、そしてそれが偶然のことから解決してしまうというという様な、少なくとも作品の中にある不安をかきたてる要素というものは、『明暗』という作品の中には、もう無くなっていることは確かなことです。そういう意味合いで、主人公が不安を感ずるとか、不安をかきたてられるとか、作品自体が不安をかきたてられるという様な、読む人に不安を与えるとか、そういう様なところは『明暗』の中には表れていませんし、またこれから『明暗』を終わりまで書き継がれたとしても、そんなふうには多分表れないだろうというふうなことは、言えると思います。ですから、そういう意味合いでは『明暗』の作品は、『門』に比べたら遙かに晩年の漱石の<坐>の境地といいましょうか、そういうものを物語っているというふうに、言えば言えるというふうに考えられます。
それからもう一つ言えることは、『明暗』という作品は『門』という作品、或いは『門』の前に書かれた『それから』という作品があります。またその前には『三四郎』という作品がありますけども、『三四郎』とか『それから』とか『門』とか、『門』の後に『こころ』みたいな作品がありますけれども、或いは『彼岸過迄』の様な作品がありますけれども、それは(それらは?)漱石の作品の中に潜んでいる一種の不安感・人間の不安感というもの、そういうものは『明暗』の中にはまず無いだろう、そういう意味は(?)表れてないだろうということは言える訳です。
ただ『明暗』という作品の、もう一つの特徴というのは漱石の作品というものは、いってみれば大変、今の言葉で言えば、深刻な作品ですし、また今の言葉で言えば、非常に根暗な作品です。人間の心の中にある不安とか恐怖とか、或いは背徳とか罪の意識とか、そういうものをギリギリ追い詰めていくというのが、漱石の作品の非常に大きな特徴なんですけれども、それは終始変わらないと言っていいんですけれども、『明暗』になっていきますと、そういう意味合いでの人間の不安とか罪の意識とか、そういうものをどんどん、どんどん追究していくみたいな、そういう形というのは『明暗』の中には無くなってしまいます。全ての人間というのはどんな人間も、もしかすると、ある一つの距離からみると全部同じなんじゃないか。つまり全部の人間が、全部同じ様な距離に、同じ様に見える、そういう場所というのはどこかにあるのではないかということを、『明暗』には感じさせるところがあります。
例えば『明暗』の中で、主人公と、津田という主人公なんですけれども、――これは平凡なサラリーマンの主人公です――その主人公が胃の手術をする。胃が悪いと言われて胃の手術をしようかと言うことに成ってて、その胃の手術の金を誰から借りようかみたいになって、親類にあたったり親父にあたるのだけれども、そんな金は無いなんて言われちゃう。そういうことと――そういうことから始まる訳ですけれども――津田には奥さんがいる訳ですけれども、津田の奥さんというのは芝居の約束をしていて、芝居の約束の日が丁度、須田が手術をするに日に当たってしまう訳です。津田の方は、どうせたいした胃の手術じゃないんだから、前からの約束だからお前芝居に行ってもいいよと津田の方は言う訳です。奥さんの方は、旦那の手術の日に芝居に行っちゃうということが出来なくて、病院に付いていく訳ですけれども、付いていく場合に、着物を着替えて晴れ着を着て付いていく訳です。手術が始まりそうになる訳ですけれども、ソワソワしていかにも芝居に行きたそうにしている訳です。津田が行ってもいいよと言うと、奥さんは手術が終わって出て来て安心だから、それじゃあ行ってくるわというふうにして行っちゃうというふうに成る訳です。
その夫婦は平凡でごくどこにでもいる夫婦であって、特別仲がいい訳では無いんだけども、寧ろ仲がよくない夫婦に描かれている訳ですけれども、仲が悪いからといって別に、例えば旦那が手術をやって、終わって寝てるって言うのに芝居に行っちゃうという、そういう奥さんを別に非難している訳でも何でもない。また津田という主人公を決して美化している訳でも無い。つまり津田という主人公も普通の主人公・普通の男、それから奥方も旦那の手術の日に、手術が終わったら直ぐに芝居に行っちゃう細君も、別に悪い細君でも無いし特に良い細君でも無い。そうすると津田と奥方・細君を両方とも同じ様な距離で眺めている一つの作者の、眼に見えない眼というものを、一つ考えると、眼に見えない眼からみると津田も奥方も皆同じ様にみえる。同じ様に見えてると。どちらが良いとかどちらが悪いとか、どちらが良い人間だとかどちらが悪い人間だとか、そういうふうには少しも描かれてなくて、どれも同じ様に両方とも同じ様にみえると。一つの、同じ様に見える場所に一つの目が在って、その目から眺めていると。こんど津田の妹というのが出て来る訳ですけれども、妹は兄貴がお金を貸してくれと言うと、そんなに簡単には貸して上げられないよと言うんだけれども、しかし兄貴が頭を下げるのならば貸して上げてもいいというふうに言う訳です。そうすると頭を下げる位なら、お前なんかからは金借りないよというふうに津田の方は言って、そこで兄弟の争いが起こるみたいなところが直ぐ出て来る訳です。そこでも津田と津田の妹の、どちらが悪いとかどちらが良い人間だとか、そういうふうにはちっとも描かれていないんです。両方ともごく平凡で、両方ともごくいつどこでもいる普通に人というふうに描かれて、その普通の人である両方を同じ所からみている一つの目が在って、そこから描かれているというふうに。
それからまたそこには津田の友人で、社会主義者の男が出て来る訳です。社会主義者その男は津田をよく脅かして――脅かすというのはおかしい言い方ですけれども――「お前なんか親の世話で学校へ行って、のうのうと結婚して、のうのうと勤めて、足りない分は親から今でも金を送って貰って、のうのうと暮らしている。世の中、そういう奴ばっかりいないぞ」という様なことを言っては、津田から金をせびっていく小林という津田の学校時代の友達がいる訳です。
漱石はその場合でも『明暗』の中では金をせびっていく社会主義者の小林という男を、美化して描いている訳でもなし、また特にこれはつまらない男だというふうに描いている訳でもない。津田の方を小林に比べて特にいい男だと描いてる訳でもないし、特に贅沢なだらしない暮らしをしている男だっていうふうに描いてる訳でもなくて、小林という登場人物と津田という人物を比べると、そこでも二人を同じ距離から、良い悪いじゃ無い同じ距離から、ごく普通に人として描いている一つの眼がある訳です。
そうすると各々の眼はそれぞれ違う場所なんですけれども、もししかし登場人物には、『明暗』の登場人物には必ず対象になる二人の人物が必ずと言っていい程出て来る訳です。二人ずつと言いましょうか、一対ずつと言いましょうか、一対ずつの登場人物に対して、いつでも登場人物を同じ一つの距離から見ている、一つの眼に見えない眼が一つ在る、というふうに描かれている訳です。そうすると、それぞれの一対の登場人物を同じ距離から眺めている一つの眼に見えない眼というのは、幾つもある訳ですけども、その幾つもある眼というのを、また眼だけの等距離というものを設定して、そこにまたもう一つ大きな目というのを在るというふうに考えるとすると、そこの眼から見ると全部が、全部の登場人物が全部同じ様に見えるという、そういう一つの場所というのが、在る様に思われてきます。実際問題としてはそうで無いのであって、一対の登場人物に対して、等距離で在る眼・同じ距離なる眼というのはありますけれども、各登場人物は各々全然違う人ですから、全部違った眼なんですけれども、しかしもし違った眼を一つに集める、たった一つの大きな眼というのを考えると、その眼はどこかに探すと在って、探して在る眼を考えるとその眼から作品の全体の登場人物が全部見られているというふうに、等し並みに見られているというふうに考えることが出来ます。そういうふうに考ますと漱石は多分、『明暗』という作品でたった一つの、最後に残る大きな一つの眼というのを考えて、漠然と想定して、その眼というものを漱石は自分なりの辿り着いた一つの境地――それは禅宗がいう、禅の境地がいう悟りとは少し違うのですけれども、しかし全部の人間を特別なふうに扱わないし、特別な人間とも思わないし、どんな人間でもごく普通の人間として見られるという、そういう一つの大きな眼という様なものを漱石は考えて、自分が辿り着いた、晩年に辿り着いた境地――悟りという言葉はおかしいですから、悟りと言わなくてもいい訳ですけれども――そういうものだというふうに漱石が考えたというふうにみることが出来ると思います。それは多分漱石の非常に大きな、最後に辿り着いた、漱石は則天去私という、「天に則って私を去る」という言葉で言いましたものが大体、大きな眼・一つの眼、それはどこに在るか判らないけれども、その眼を探せるとすればそれが最後の眼なんだという、それが漱石が辿り着いた最後の境地だと言うことが出来ると思います。で、それは多分、坐禅というもの、漱石が関心を持った坐禅というもの、或いは良寛が持っている「大愚」と言いましょうか、そういう境地には(とは?)だいぶ違っているのですけれども、漱石なりの一つの境地であって、それは漱石がやっと最後の頃、思い悩んで辿り着いた道であり、辿り着いた場所である様に思われます。
漱石というのはさきほど言いましたように文学作品のなかで三角関係に非常に固執した人です。三角関係というのはいろんな象徴的な意味があります。人間の男女関係のなかでいちばんむずかしい関係という意味あいでも非常に大きな関係です。どうしても究極的には男女は一対一で解決する以外にないので、そのなかで必ず「誰がどうである」ということに関わらずひとりがそのなかで排除されていしまう。あとのふたりは幾ばくかの罪の意識を感じざるをえない。漱石や漱石作品の主人公みたいな鋭敏な人だと、非常に大きな罪の意識を感じて生涯それから逃れることができない。
たとえば『門』なんかではそれほどでもなく無事平穏な生活が続くわけですけれども、『こころ』のような作品では主人公である先生は明治天皇が死んだときに乃木大将が自殺するのと一緒に自殺してしまう。つまり一生、三角関係の罪の意識というのを逃れることができなくて死んじゃう。そういうことは漱石の作品の大きな主題になっているわけです。
そういうふうに漱石は人間の心のなかにあるさまざまな矛盾あるいは男女のあいだにある矛盾というものをとことんまで突き詰めていって深刻極まりないところまで持っていくというのが漱石の作品の特徴です。しかし、そういうところをくぐり抜けて最後の『明暗』という未完の作品で、どうやら漱石なりに座禅、座の意味の悟りとは言えないんですけれども、漱石なりに人間をどういうふうに見ていくか、自分をどういうふうに相対化して、冷静に見て平凡人としての自分というものをちゃんと見ていけるかという眼を自分でも身につけて作品の終わりまで到達したように思われます。
それがたぶん、『明暗』という作品自体が明治以降の日本の文学作品のなかで最高峰に位する作品のひとつですし、漱石という作家自体が、明治以降の作家のなかで、百年単位でたったひとり出てくると思われるくらい偉大な作家で偉大な作品をつくっているわけです。その偉大な漱石という人が、どういうところで思い悩んだか、どういうところで自分の悩みというのを解決しようとしたかということを考えると、存外に東洋における文学、宗教というものに対して終身一貫大きな関心を持っていまして、そこのところで存外漱石が自分の悩み、不安というものを最後に解こうとして突き進んでいったというふうに考えることができます。それほど漱石のなかでは東洋の文学、東洋の宗教というものの意味は非常に大きく存在したということができます。
それから文学についてもそうで、漱石は非常にモダンな大秀才で、明治晩年、日本の黎明期にイギリスに留学した優秀な人です。留学から帰ると大学の先生をするというように華々しい人なんですけれども、漱石の文学観のなかで終始一貫悩み続けた問題があって、それはヨーロッパの近代文学というのはいずれにせよ人間と人間との関係とか、葛藤とか、そういうものがいずれにせよ近代文学作品の主題であって、それがヨーロッパの文学というものをかたちづくっているわけです。漱石はイギリスに行って一生懸命それを勉強するわけです。
ところで東洋の文学というものは─漢詩なんかには象徴的にあらわれていますけれど、東洋の文学は何かと言ったら、ひと口の言い方をしますと、人間と自然との関係、あるいは人間がどういうふうに自然と対立しようとしたけれども自然のなかに同化していくかということが、東洋の文学というものの主題であると言っていいわけです。もちろん東洋の宗教と西洋の宗教というのを比べても同じことで、西洋の宗教というのはキリスト教をとってくればわかりますけれども、人間が如何に救済されるか─現世の悩みから救済されるか、来世において如何に天国に行けるか、というような問題がキリスト教にとって非常に大きな宗教的な眼目であり、主題です。
キリスト教の考え方をひと口に申し上げますと、現世において悩みが多ければ多いほど、あるいは現世において貧しければ貧しいほど、苦しめば苦しむほど、心が貧しければ貧しいほど、その人は天国にいけるよというのがキリスト教の教義のいちばん根柢にある考え方です。
ところで東洋の宗教というのは仏教が、とりわけ禅というのが象徴します。これは如何にして人間の意識を自然と同化させるか、もっと極端なことを言いますと座禅の境地によって自分の内心と言いますか意識、内面というものを如何にして草や木といった自然物と人間の意識を同化させることができるか。もっと極端に言いますと人間の意識を如何にして無生物に近いところまで沈めていくことができるかということが、東洋の宗教とりわけ仏教というものの根柢にある考え方です。座禅というのは特に、道元という曹洞宗の教祖を見れば非常によくわかります。道元が終始言っていることは、ただひたすら座ればいいんだ、ということです。なぜかというと、座禅の姿というのが仏の姿なんだ。つまり釈迦が悟りを開いたのは座禅のかたちをとって悟りを開いた。そして人間から仏というものになった。だからこの姿勢になるということが仏になるいちばんの近道なんだ。だから座禅以外のことは極端に言えば何もしなくてもいい。ご飯も食べなくていい、休む必要もない。家のなかにいることも、眠ることも要らない。とにかくひたすら座禅をする。その姿そのものが仏であって、それ以外のものは何も要らないんだというのが、道元が主張していることです。だからひたすら座禅しろ、座れ、というのです。
では座るということは何なのか。僕はやったことがないから知らないし外側からの解釈ですけれども、言ってみればそういうふうに座りかたを工夫して自分の意識を生物から無生物に近いところまで自分の意識を持っていってしまうということだと思います。それができるという、そのときの自分の気持ちの状態というものを体現する、身体でやっちゃうということが座禅だと思います。それに如何なる効能があるかということは僕のあずかり知らない、まったく知らないことですけれども、しかし外側からの言葉でいうと、如何に人間を自然に近いところに同化させてしまうかということに尽きると思います。それが東洋の宗教です。坐ということです。坐るということの問題だと思います。それが西洋の宗教と甚だしく違うところです。あくまでも西洋の人間臭い宗教と比べて、人間を如何に離脱するかというところに東洋の宗教の問題があるわけです。これは文学についても基本的に同じことが言えるわけです。
漱石というのはいま申し上げました通り、西洋文学の日本における草分けでありますし、日本の近代文学の巨人で西洋文学に堪能な人ですけれども、同時に東洋の宗教と文学にたいへん造詣も関心もあって、ヨーロッパに行ったときにそのことで非常に悩むわけです。西洋でいう文学というものと、東洋でいう文学というのはまるで違うじゃないか、これはいったいどういうことなんだ、というところで悩んで神経衰弱になって帰ってくるわけです。勉強家でクソ真面目な人ですから、怠けること、怠け方を知らないんです。だからイギリスに行っても、はじめのうちは学校行って講義を聴いたりするんですけど講義というのはどこへいってもつまらないですから─僕もそうかもしれませんけど(笑)─だんだんやめて、本をたくさん買い込んできて図書館と下宿のあいだを往復して文学というのは何なんだろうか、東洋の文学と西洋の文学とはどうしてこんなに違うんだろう、そんなことばかり考えてノートをごっそりとる勉強に次ぐ勉強で神経衰弱になる。いくら勉強しても果てしがなく、やればやるほどわからなくなる。それで帰ってくる。
しかし帰ってきますと、その頃の留学生というのは日本で何人、どこそこの誰と名前が知れているくらいで、大秀才ですから、東京大学の先生になるわけです。ラフガディオ・ハーンの後の講座を受け持って先生になって、世間的にいうと通るんだけど、漱石の心のなかの悩みはちとも解消しないんです。いくら勉強しても何もわからず解決してこなかった。それから東洋と西洋の文学の違いというのもとうとうわからなかった。自分はどうしていいかわからない。悩みをたくさん抱えてきたんだけど、しかたがないから学校で講義もするし、学生さんから比べれば抜群の知識と教養を持った頭のいい人だから、学生からみるとおもしろくためになる講義をしてくれる人なんだけれど、漱石のほうからするとおもしろくない。こんなことをしていていいのか、チヤホヤしてもらっていていいのか、おれは何もわかってこなかったと思ってそればかり悩んでいるわけです。
漱石はその悩みということのかけがえのなさ、終わりのなさというんでしょうか、死ぬまで悩みということから逃れようとしなかったし逃れられなかった、そのことによって漱石は偉大であったし偉大な作品を生んだわけなんです。その悩みと言うこと自体は後世の人からすれば役に立った悩みなんですけれども、ご当人にしてみればそんなことは言っていられないくらいたいへんな悩みで、勉強すればするほどわからなくなる。そういうことを留学のはじめから終わりまで言って神経衰弱になった人です。いまは日本医大の会館になって碑だけ残っていますけれど、郁文館の傍に住んでいて、前に郁文館の学生が下宿しているわけです。するとあの人はいまでいう迫害妄想、パラノイアにかかっていて、下宿の二階の窓に郁文館の学生がいるのが漱石の家の庭から見える。するとガラっと戸を開けて怒鳴るわけです。「この野郎、おれはちゃんとわかってるぞ」とわけのわからないことを怒鳴るわけです。それはなぜかというと、下宿の学生さんが喋っているのが窓の外から見えると、それは自分の噂や悪口を言っていると漱石は受けとるわけです。そんなことは全然関係ないけれども、ノイローゼでわけのわからないことをどなったりするんです。外から見れば頭がおかしいとなるわけです。奥さんがそういうことを書いていて、外からはわからないように見えたかもしれないけれども、それくらい悩みに悩むわけです。
何に悩んだのかといったら悩む資質を持っていたから悩んだということも言えるかもしれないですけれど、別なことを言えば、東洋と西洋はどう違うんだ、西洋の文学と東洋の文学とどうしてこう違うんだ、西洋の宗教と東洋の宗教はどうしてこう違うんだとか、おれは日本国の政府から留学して勉強することを嘱望されてしたけれどもおれは全然それに応えられない。やればやるほどわからなくなるばかりで、悩みばかり大きくなって帰ってくるわけです。つまりそういうやり切れなさと、外からみるとみんな東京大学の先生だと偉い奴だと思われて尊敬されるわけです。先生を辞めて朝日新聞に入って、小説を書くと偉い小説家だと言ってくれるけれども、心のなかはそんなもんじゃなくていつでもそんな悩みでいっぱいなわけです。それをなんとかしようということで今日申し上げましたさまざまな不安とか葛藤とかを作品のなかで表現して自分自身もそれでもって考えるところを押し進めていって終始一貫東洋的な悟りの境地にはどうしても到達できず、いくら坐っても駄目だったということに終始するわけです。
しかし漱石なりのそういう境地に到達して、結果としてみれば日本の明治以降の文学者のなかで最も偉大な文学者であり、偉大な作品を残したということになったわけですけれども、その偉大さというのはいま申した通り決して悟ったから偉大なのではなくて、いい歳しながらいつでも悩みを抱えて突き詰めていかざるをえなかった、そういうきわどい、不幸と言えば不幸な、偉大と言えば偉大な、そういう生き方自体が漱石を偉大ならしめている点だということができます。
みなさんは漱石の作品を読む機会があったらどうかお読みになるとよろしいと思います。それは初期の、『吾輩は猫である』とか『坊っちゃん』くらいは、ユーモアを知っている人ですからたいへん楽しい気風のいい作品ですけど、だんだんだんだんそうでない作品に入ってきまして、それを最後の中絶した『明暗』という作品まで追っていったということができると思います。でもこれは何か機会がありましたらお読みになってご覧になると、ひとたび引き込まれたらそこから出られないくらい魅力的な作品でもありますし、みなさんも生活的、日常的な意味ではさまざまな悩みに当面してお考えでしょうけれども、そういうこととは少し違った、悩まんでもいい悩みと言えば悩まんでもいい悩みですけれども、そういう悩まんでもいい悩みというなかに入っていかれるのも頭の洗濯になるということがありますから、そういうことも機会があったらされたらどうかなというふうに思います。それほどお勧めできる作家であり作品でありますから、それはもうぜひいつか機会がありましたら、お読みになったくださるとよろしいと思います。
とりとめのない話でそうとうオーバーしたんじゃないかという気がしますけれども、これで終わりたいと思います。
テキスト化協力:石川光男さま(1~16)