1 なぜ古い日本語はむずかしいか

 ただいまご紹介にあずかりました吉本です。
 今日は「古い日本語のむずかしさ」という副題がついていたと思いますが、僕自身が非常にむずかしいな、わからないなと感じている古い言葉のあり方があって、その問題をお話ししてみたいと思います。与太話がずいぶん入るかと思いますが、気分的に言いますと、僕自身の中でたいへん引っかかっていることがあって、そのむずかしさというのを、ただむずかしいなと考えるのではなくて、もう少し具体的に、いくつかのタイプに分けたらどうなるかというところでお話ししてみたいと思います。
 古い日本語のむずかしさというのはどこから由来するかというと、いくつかすぐに原因を挙げることができます。ひとつは古い日本語というものが、これは当てずっぽうですが、たくさんの部族語の混合あるいは融和の過程でできてきた言葉だということに由来すると思います。それは北方の大陸から渡ってきた人とか、南方の大陸から渡ってきた人、東南アジアの島のほうから渡ってきた人、それから大陸と日本の列島が地続きであったころからすでに原住していた人、そういう人たちがしゃべっていた言葉が、とにかくある混合過程、あるいは融合過程を経てできあがった。つまり、考えられているほど単一ではなくて、たくさんのさまざまな小さな部族語の混合からできているだろうということが、古い日本語のむずかしさの原因のひとつになっていると思います。
 もうひとつそれと同じくらい大きな要素として誰にでも挙げられるのは、日本語が古い時代に、中国語の漢字を借りてきて、漢字を音として使ったということです。全部音として使っているかというとそうでもなくて、漢字を意味として使っていることもあります。しかし、大部分は漢字を音として使っています。
 そうするとどういうことになるかというと、すぐわかるように、たとえば「アマ」という言葉があるとします。それはどういう字で当てるかというと、「天」という中国語の言葉で当てる。そうすると、「アマ」というのは本当に天という意味であるかどうかは疑問であって、案外、海に関するものということであるかもしれません。しかし、「アマ」という音を「天」という字で当てて使っているうちに、われわれの中で独りでに「アマ」というと天のことだ、空の上のことだという観念ができてしまって、そのために日本語というのは古い時代に混乱を呈して、原形的に持っていた日本語の性格というのは相当変わっていったということがありうるわけです。
 だから文字がないということで、漢字を表音として使って、それでもって表現しようとした。たとえば『古事記』でも『万葉集』でも『日本書紀』でもそうですが、そういうふうに使っているうちに独りでに、何でもない「アマ」、つまり海のことを言っているかもしれないのに、それが天のことになってしまう、たいへん厳かなことになってしまうというかたちで、日本人は言葉を使い、字を見ているうちに、だんだん概念が変わってきて、その変化の仕方が日本語をずいぶん変形させていったと考えられます。
 まだたくさんのことが考えられますが、誰でも気がつく古い日本語のむずかしさの原因を挙げるとすれば、そのふたつのことが挙げられると思います。ですから日本語というのはどういう系統に属しているのか、どういう系統の言葉が根幹になっているのかについて、いまだ専門家の間で定説、ちゃんとしたはっきりした考えをつくることができないほど、たいへん面倒くさいことになっています。その面倒くさくなっていることの原因は、いま申し上げたふたつのことが非常に大きな要因ではないかと思います。
 そのふたつの大きな要因をもう少し分類するとどうなるかをお話ししてみたいと思います。日本の古典を読んでいて、これはちょっとわからない、得体が知れないという言葉がたくさんあります。どういうときに得体の知れない言葉と私たちが感ずるかというのは、根本的に言いますと、いま申し上げたふたつの原因のどちらかとか両方であるということが多いのですが、そのことをもう少し具体的に申し上げられるところで申し上げたい。もちろん当てずっぽうのところがたくさんありますから、あいつは半分は与太話をしていると考えて聞いていただいたほうがよろしいと思います。

2「ヤクモタツイズモヤヘガキ……」

 まず第一に古い日本語で、語音から来るむずかしさというのがあります。例を挙げてみると、『古事記』の中に、スサノヲの命が出雲へ行って、出雲で土地の首長の娘と一緒になって、そこに住まいをつくるというときに、うたわれる歌があります。その出雲といういまの島根県のあたり、いわゆる日本海側ですが、そこの地域に対して、いつでも「ヤクモタツ」という言葉がつくわけです。そこでも、「ヤクモタツ イヅモヤヘガキ ツマゴミニ」という歌になりますが、「イヅモ」という言葉が歌の中で出てくると、必ずその上に「ヤクモタツ」という言葉がつきます。これを枕詞といっています。
 「ヤクモタツ」というのは『古事記』の中でどう書いてあるかというと、「八雲立」と書いてあります。これがだいたい間違いのもとで、みなさんが「八雲立」という言葉を見ていると、たくさんの雲がわき上がっているというイメージを思い浮かべてしまう。それはなぜかというと、中国語の形象文字を音でもって借りてきているからです。「八雲立」と書いてあるから、八つの雲が立っている、つまりたくさんの雲がもくもくとわいているという意味かとお考えになると、とんでもない間違いになるかもしれません。しかし、もしかするととんでもない間違いではなくて、合っているのかもしれない。そこが非常にむずかしいところです。
 「ヤクモタツ」という枕詞の言い方に、もう少し違う言い方があります。それはやはり『古事記』の中にありますが、「ヤツメサス」という言葉があって、それが「イヅモ」という言葉につきます。「八芽刺」という言葉をみなさんがご覧になれば、八つの芽を何かで刺してあるとお考えになるかもしれません。つまり、「ヤツメサス」というと、漢字のイメージで、八つの芽と思ってしまう。「ヤツメサス イヅモタケルガ ハケルタチ」という歌がありますが、その場合には「イヅモ」につく言葉として、「ヤクモタツ」ではなくて、「ヤツメサス」となります。
 もうひとつあります。これは『万葉集』の柿本人麻呂の歌ですが、そこでは「ヤクモサス」という枕詞が「イヅモ」にくっつけられています。
 「イヅモ」にくっつけられる枕詞はこの三種類に尽きるわけですが、みなさんが「ヤクモタツ」という言葉をご覧になって、もともとの意味はどういう意味なんだと考える場合、八つの雲が立つ。そういうことを現に述べている人もいます。山陰の島根県の宍道湖のあたりに行ってみると、夕方、宍道湖の上のところに雲がたくさんもくもくと立って、雲の間から夕日がさっと差してくる、そういう光景を見ると、「ヤクモタツ」という意味がよくわかるという説をなす人もいます。しかし、そんなことは当てにならないので、雲の間から日がたくさん差してくるところなんかいくらでもあります。だから特に「ヤクモタツ」と言う必要は何もないということになります。
 「ヤツメサス」といったら、これはいったい何のことだ。近世の枕詞についての学者というのは賀茂真淵をはじめたくさんいますが、みなそれぞれ勝手なことを言っていて、これは確かだという説はひとつとしてありません。結局は何を言っているのかわからないということになります。
 柿本人麻呂は、やや時代が下って、「ヤクモサス」という枕詞の使い方をしています。これもわからないことで、両方あったから折衷してやろうと考えたのかもしれませんし、何とも得体の知れない言葉になります。
 しかし、「イヅモ」という言葉の上に、「ヤクモサス」、あるいは「ヤクモタツ」という言葉が使われるということだけは現在残されて確かなことです。この元の意味はわからないわけです。本当に雲がもくもくとわき上がって、その間から日が差してきて、それが宍道湖の表面に当たって、その光景があまりにみごとで印象的なので、「ヤクモタツ」と言ったのかもしれません。僕らがそれを否定する根拠は何もないんですが、それと同じような意味で、肯定する根拠も何もないということになります。だからここではまるでわからない。しかし、とにかく「イヅモ」という地方あるいは土地柄に対しては非常に古い時代から、何か知らないけど「ヤクモタツ」とか「ヤツメサス」、「ヤクモサス」という言葉がかぶせられる、上につけられるということだけは確かなことです。
 ところで、これ以上の類推をしようとすれば、現在できる類推はただひとつのことです。それはどういうことかというと、みなさんが「ヤクモタツ」と曖昧におっしゃって、「ヤツメサス」と曖昧におっしゃって、「ヤクモサス」と曖昧におっしゃると、ご自分で言ってごらんになるとわかるけれども、これらは同じことじゃないのか。つまり、本来その時代にまでさかのぼってみると、方言的にやや発音の違いはあっても、音としては同じことを言っていたんじゃないのか。それを表記する、文字に書くと、八つの雲になってみたり、八つの芽になってみたりするわけですが、音で言ってみると、「ヤクモタツ」と「ヤツメサス」と「ヤクモサス」とは同じことじゃないかというところまでは何となく言えそうな気がします。
 そうすると、その三者の三様の、いま僕らの語感で発音している、何か知らないけど三つのちょうど平均値を取った音の言葉があるとすれば、その音のところで本当は「イヅモ」に何かがくっつけられていたんじゃないかというところまでは類推してもそれほど滑稽ではないということになるように思えます。僕らが推測できるところもややそれに類するので、そのあたりが本当のところじゃないのか。つまり、「ヤクモサス」でも「ヤツメサス」でもなく、「ヤクモサス」でもないということになります。
 それからが与太話になっていきますが、「ヤクモタツ」とか「ヤツメサス」という音と似ている音の言葉を取ってきますと、「ヤオモシル」というアイヌ語があります。これは本拠地とか本地という意味合いになってきます。そういう言葉はやや音として類似するところがあるということがあります。これは別に与太話だから、これが元だとちっとも言いませんから、誤解のないようにしてください。
 ただ、枕詞の3つの言い方のどこか音の均衡点を厳密にもしさまざまな条件からさかのぼることができたらば、「ヤクモタツ」、「ヤツメサス」という枕詞の本当の語音を見つけ出すことができると思います。本当の語音を見つけ出すことができたらば、本当の意味を見つけ出すことができると思います。
 しかし残念なことに、近世以降、国文学者たちは盛んに枕詞の研究をしていますが、誰一人として確かなことを言えている人はいませんし、いまのところの条件では確かなことを言い切ることができない状態にあると言うことができます。それらは古い日本語のわかりにくさ、いまでもわからないんだということのひとつの非常に大きな要因です。

3「イナノメノ」と「シノノメノ」

 この手の問題は挙げれば切りがないほどたくさんあります。ここではもうひとつ例にということで、「イナノメノ」、これは明るいとか明け方とかにくっつく枕詞です。『万葉集』に、「あひみらく あきたらねども いなのめのあけさりにけり ふなでせむつま」という歌があります。この「あけさりにけり」の「アケ」、明るいとか明け方とかいうのに、「イナノメノ」という言葉がつきます。それからみなさんが現在でもときどき古い言葉として使われている、「シノノメノ」という言葉があります。
 「イナノメノ」と「シノノメノ」というのは、片一方は稲の藁束であり、片一方は小さな篠竹です。よく国語学者の解釈によると、古代の住居が藁葺きで、藁のすき間から明け方になると日が差してくる。だから「イナノメノ」という枕詞が「アケ」という言葉についたんだといわれています。そしてそのとき稲の藁束だけを使うのではなくて、篠竹の小さいのを束ねて、それも家をつくるのに使っている。その間から明け方になると日が差し込んでくる。そういう意味で、明け方とか明るくなるというところに「シノノメノ」という言葉がつくんだという解釈をする人があります。この解釈の仕方は、たとえば「ヤクモタツ」というのは八つの雲、つまりたくさんの雲がもくもく立ってというそれよりも、やや確かな解釈であるような気がします。しかし、それが確かであるかどうかも確かめることはできません。
 現在、僕らは、明け方という言葉として「シノノメ」という言葉を使っています。その「シノノメ」が枕詞に使われている例を探そうとするのですが、それは『万葉集』にはないんです。もう少し時代が下って『古今集』の中になると、「シノノメノ」という言葉が使われています。「しののめの ほがらほがらと 明けゆけば おのがきぬぎぬ なるぞかなしき」という歌があります。この「シノノメノ」は、「ほがらほがらと」ではなくて、「明けゆけば」についている半分枕詞として使われています。
 ところが、ここで興味深いといえば興味深いのは、同じ『古今集』に、「しののめの 別れを惜しみ 我ぞまづ」というもうひとつ使われている歌がありますが、この場合の「シノノメノ」は現在の使い方と同じになっています。これは「シノノメ」が明け方につく枕詞ではなくて、「シノノメ」自体が明け方という意味に使われています。つまり、『古今集』時代になると、「シノノメ」という言葉が半分枕詞としてもあるのですが、すでにそれ自体が「シノノメ」といえば明け方のことだと転化してしまっていることがわかります。
 残念なことに、それ以前には「シノノメ」、あるいは「シノノメノ」という枕詞は見つけることができなくて、「イナノメノ」という言葉だけが使われています。ですからもしかすると『万葉集』時代にはまだ稲の藁束でもって家の壁を葺くとか窓のところをつくっていたのに、だんだん時代が下がってきたら、稲の藁束は屋根ぐらいにしか使わなくなって、壁のところは細い篠竹を編んで使ったということなのかもしれませんし、そんなことは一向にわかりません。さまざまな空想を許すわけですが、そのように変遷してきています。
 つまり、明け方につく枕詞であったものが、それ自体一種の名詞として明け方のことを意味するというふうになりました。現在、たとえば東雲橋とか、古語で東雲というのを使いますが、それは本を正せば、決して明け方のことを意味していたのではなくて、明け方につく枕詞としてあったと言うことができます。
 このように時代を経るにつれて、同じ言葉が変遷して変わった意味に転化してしまう、あるいは枕詞、飾り言葉としてあったものが、しだいにそれ自体が本体を指すようになってしまうという変化の仕方もあります。
 それらは総評してどういうことになるかというと、地方による差であるというよりも、古い日本語を書き表すために、漢字あるいは漢語という、文字自体に形象があり、形象自体に意味があるという言葉を音としてだけ使ったために混乱が生まれて、そこからさまざまなむずかしさが表れてきた。それが現在に至って、日本語の系統を探ることすらあまりうまくいっていないという状態になっていると思われます。

4「ウマコノガサイク」と「吉本の大工」

 そのようなことでもうひとつ細かいことで分類できるむずかしさを考えてみますと、語序ということがあります。言葉の順序ですが、古い日本語には正語序と逆語序というのがあります。そして現在から考えて、逆語序であったもののほうが古く使われていた日本語だとだいたいにおいて言うことができるように思われます。その問題が古い日本語のむずかしさの非常に大きなひとつの根拠になっています。
 それもたくさん挙げることができるんですが、簡単なようにいくつか挙げてみますと、たとえばこれは琉球の『おもろ草紙』ですから、南のほうの地域の言葉ですが、この『おもろ草紙』に、「ウマコノガサイク」という言い方があります。「ウマコノガサイク」というのはどういう意味かというと、ウマコノという名前の大工さん、あるいは細工人という意味です。ウマコノという大工さんという場合に、「ウマコノガサイク」という言い方をしばしばやります。
 いまは逆で、たとえば大工さんである吉本、大工吉本という言い方をします。吉本の大工とは言われません。しかし、古い日本語の場合には、名前を先に言って、それにつく何かを後で言うという言い方がしばしば出てきます。これも拾い上げるとたくさん挙げることができます。みなさんは不思議に思われるでしょうが、これはよくご覧になると、かなりな程度数が多い。つまり、古い日本語の時代には逆の言い方をしていたことがあるのではないかということが何となく推測できるところがあります。
 これは柳田国男が挙げている逆語序の例ですが、たとえば「コヤス」という言葉があります。「コヤス」というのはどういう意味かというと、子どもをかわいがるという意味です。これは反対にすると、「ヤスコ」ですね。「ヤスコ」というのはどういうことかというと、かわいらしい子どもという意味になります。ところが、いまでも「コヤス」という言い方は残っているわけですが、本来の「コヤス」という意味は子どもをかわいがるということです。子どもをかわいがるというので現在考えられているのとは逆の、一種名詞的な言い方です。名詞的な言い方で「コヤス」というと、子どもをかわいがるという意味になる。つまり動詞的な意味になるのであって、これはいま僕らが持っている常識から「コヤス」という言葉を理解してはいけないということのひとつの大きな、柳田国男がわざわざ拾ってきた例です。
 この手の例もたくさんあります。たとえば本郷西片町というのがあります。西片町というのは何だろうかというと、みなさんは西のほう、西のほうが片っ方ないというのはおかしいけれども、そういうふうにお考えになるかもしれませんが、本当は本郷台に対して西の傍らにある町という意味になります。僕が住んでいるところは吉片町というんですが、それは吉祥寺の塀の際で、吉片町というのは吉祥寺のそばのところの町という意味です。その手の言い方は現在でも探してごらんになると、たくさん見つけることができます。しかし、その意味は、現在僕らの語感で考えている意味とはまるで違うことです。
 ですから「コヤス」というのは名詞ではありません。僕らはそれを名詞として受け取るわけですが、もし名詞として「コヤス」という言葉を受け取りたいならば、「ヤスコ」と受け取るべきです。「コヤス」という意味は本来的には、名詞化してありますが、名詞ではありません。それは子どもをかわいがるという意味です。

5 身近にもある古い日本語

 もうひとつ折口信夫が挙げている逆語序の例ですが、「カタオカ」という言葉があります。日本人の名字でも片岡さんという人がいますが、この「カタオカ」という言葉は、片っ方が丘であるという意味になるかというと、決してそうではないんです。「カタオカ」というのは本当ならば「オカカタ」です。つまり、丘があると、そのすぐそばにあるところという意味合いであって、決して片っ方にある丘という意味でもないし、一方が丘になっているところという意味でもありません。丘の傍らにあるところという意味です。それが「カタオカ」の意味になります。これは逆語序です。本来的には丘の傍らという意味で「オカカタ」と言ったほうがいいんですが、「カタオカ」という言い方がされるわけです。
 この手の言葉もよくよく探してごらんになるとたくさんあります。これも非常に重要なことです。たとえば『古事記』の中で、神話に出てくる人の名前の言い方がいちばんわかりにくいんですが、最初に出てくるイザナキの神とイザナミの神でどういう言い方をしているかというと、それらがつく場合もつかない場合もありますが、ヒコイザナキの神、それからヒメイザナミ、あるいはイモイザナミの神と出てきます。
 これも逆語序の一例です。つまり、『古事記』の神話の中でも古い時代の神様の呼び方ではしばしば逆語序が出てきます。その場合、現在の常識、あるいは神話時代も後のほうの呼び方では、イザナミヒメの命という言い方をすべきです。ところがそうではなくて、古い時代の言い方では、イモを先につけて、イモイザナミと言うと、それは後代の呼び方では、イザナミヒメの命と同じ意味になります。
 つまり、イモ、これはヒメと同じですが、そういう言葉を先に言ってしまう。そうしておいて、後にイザナミという、姓名というか、名前を言う言い方で、少なくとも神話の初期の人の呼び方は必ずそうなっています。イモイザナミ、ヒコナギサ何とか、ヒコウガヤフキアエズというふうに、ヒコとかイモ、あるいはタケルのタケとかタケハヤとか、それが何であるかはともかくとして、後からの言い方では当然、何々ヒメの命と言うべきところを、古い時代にさかのぼればさかのぼるほど、ヒメとかイモというのを先に言って名前を言うという言い方がされています。そういう言い方というのはもし見つけようとされれば非常に多く見つけることができると思います。
 そうすると、なぜ古い日本語の中で逆語序がありえているのだろうか、そして古くさかのぼればさかのぼるほど逆語の言い方が出てくるのはなぜだろうかということが問題になってくるわけです。これは常識的な意味ではすぐにふたつ考えられます。
 ひとつは中国語の形象文字を借りてきたと同じように、中国語の言い回し方も同じように借りてきたんだという考え方を取れば、逆語序というのも理解できないことはないことになります。たとえば中国語で、何々をなさんとすという場合には、「なす」という字が先に来て、何々が後に来るということがしばしばあります。何々をなさんとすとか、何々に達せんとすとか、「に」や「を」という助詞がつく言葉の場合には、動詞的な言葉が前について、名詞的な言葉が後につくというのは中国語、漢語あるいは漢文ではよくあります。つまり、中国語の文字を借りてきたと同時に、中国語の言い回し方も借りたから、たとえば「ウマコノガサイク」みたいに訳のわからない逆の言い方が出てきたんだという解釈の仕方を取ろうとすれば、それもひとつの解釈の仕方の根拠になります。
 もうひとつそういうことを考えようとすれば、古い日本語の全体か一地方にあった言葉かわかりませんが、そういう言葉の中に、いわばまだ本来的に助詞というものが分離できない時代というのを考えられるとして、助詞が分離してこない時代の言葉遣いでは、たとえば子どもの「コ」と安んずる意味の「ヤス」を重ねてくっつければ、子どもをかわいがるということを意味したんだという古い日本語の時代があったのかもしれない。その日本語はいまから考えると正体がなかなかつかめないんですが、うんと古い時代のある地域の日本語の中には、子どもをかわいがるという言い方をしないで、「コ」と「ヤス」をただ並べれば、それは子どもをかわいがるということになっていた古い時代というのを想定できるのかもしれません。
 そういう時代の古い日本語の名残が逆語序の中に含まれているという理解の仕方というのもできないことはないと思います。つまり、この逆語序というのが古い時代の言い回しの中に、あるいはそれの名残の中にしばしば表れてきます。よくよく気をつけてみると、現在の僕らの身辺でも、町の名前とか地域の名前みたいなところでしばしばぶつかると思いますが、それは非常に古い時代の日本語の言い回し方の名残であると考えることができるのではないか。それはいわば分類の中ではっきりと取り出すことのできることのひとつであるように思います。

6「わがみ」と「わがめ」の違い

 もうひとつ分類できることは文字どおり地域差です。地域の差によって、あるいは地域の方言のなまりによって、意味がまるで違ってしまったり、意味が取りにくくなったりして、そのためにむずかしさが出てくるという例を挙げてみます。たとえば『古事記』の中に、「タタミコモ ヘグリノヤマノ」という言い方があります。山がたくさん重畳している、そういう景物を指す場合、「タタミコモ」という枕詞を使うということがありますが、『古事記』の「ヘグリノヤマ」というのは大和盆地の山ですから、これは当時で言えば中央の制度に近い地域の言い方です。
 『万葉集』に、同じ「タタミコモ」ですが、「タタミケメ」と言っているものがあります。「たたみけめ むらじがいその はなりその」という歌ですが、「むらじがいその」というのは現在の伊豆地方とか静岡県の海岸とか、当時でいう東国です。どちらが方言なのかわかりませんが、その当時、中央は向こうにあったんだから、「タタミケメ」と言っているほうが方言だと思います。「タタミコモ」という言葉が「タタミケメ」と発音されているということで、同じことなんですが、たいへんわかりにくいということがあります。
 もっと極端にわかりにくい例をもうひとつ挙げてみましょうか。これも『万葉集』ですが、「わろたびは たびとおめほど いひにして こめちやすらむわがみかなしも」という歌があります。「わろたびは」というのは「われの」のなまりだと思います。「おめほど」は「おもへど」のなまりだと思います。「いひ」というのは「家」だと思います。「いえ」と言えなくて、「いひ」になってしまう。
 それから本当は「こもちやすらむ」で、子どもを持ってやせ細っているだろうという意味でしょうが、「こめち」という発音になってしまう。「わがみ」は「わがめ」だと思います。「わがめかなしも」が、なまりでもって「わがみかなしも」になる。「わがみかなしも」というと、自分の身が悲しいと取れるわけです。これではまるで意味が取れなくなってしまいます。そうではなくて、これは「わがめかなしも」、つまり妻とか自分の好きな女性が悲しがっているだろうという意味だと思います。
 だからこういう表記の仕方でなくて、万葉仮名で「和呂多比波 多比等於米保等 已比尓志弖 古米知夜須良牟 和加美可奈志母」と書かれていたとしたらば、これの正しい読み方と解釈の仕方を見つけ出すには大変だったろうなと思います。昔からいろんな学者の人が苦心してやっと、こういうことだろうなということになったんだと思います。
 それはいわば方言的、地域的な違いの差になると思います。日本というのは幅は狭いけれども細長い列島ですから、その細長さだけ取ってくると、かなり大きな地域にわたる、やせた大国です。だから南のほうの方言と北のほうの方言との差というのは、いってみれば琉球語とアイヌ語の差ぐらい、まるで違うということがあるわけです。そういう意味合いで言語・方言的に言うと、地域差がたいへん著しくて、南のほうの人が北の最果ての人の言葉を理解するというのはほとんど不可能であるというくらいむずかしいことになっています。そのことが古い日本語をたいへんむずかしくしていることの非常に大きな要因のひとつではないかと思われます。
 さらに柳田国男が地域差の問題でひとつ、「イヤ」という言葉、『古事記』で言うと「礼」という言葉で、敬うという意味ですが、その地域的なバリエーションを挙げています。たとえば熊野あるいは紀州の一部では、権力ある人のことを「オヤ」といっている。それはもともとは「イヤ」と同じ言葉だ。九州のほうでは、尊敬される年長者を「イヤ」と呼んでいる。それからもちろん「イヤ」というのは敬うとか礼儀正しくするという意味合いで使われている。また挨拶の言葉で、「いやあ、こんにちは」と言う場合、「いやあ」というのは呼びかけではなくて、「イヤ」、お前を敬うよという言葉から来ているという解釈を柳田国男はしています。あるいは「恭しい」も本を正せば「イヤ」という言葉から来ていると書いています。
 このような引き延ばし方をすると、もっとたくさんあります。これは別にこっちが勝手にくっつけたんですが、たとえば縁起がいいこと、尊いことに自分ものっかるという意味で、「あやかる」という言葉をいま使っていますが、「あやかる」の「アヤ」も「イヤ」から来ているんだと言うことができるでしょう。
 もう少しバリエーションを怪しくすると、「あやしい」という言葉がありますが、「あやしい」の「アヤ」はもともとは「イヤ」、敬うということから来ている。それもバリエーションで、あやしいことと敬うこととは一見反対の意味になっていますが、よくよく考えると、あやしいと思うのは、恐ろしいものがそこにいてということが元にあるわけで、敬うこととそれほどの違い……
【テープ反転】
……言えば言えるので、それもやっぱりそうかもしれません。これらの例は連関をつくるとたくさん挙げることができますから、これは地域差によって言葉が非常にむずかしくなっていく、あるいはかなりな程度意味も変わってしまうし、使い方も変わっていくということのひとつの例として挙げることができると思います。

7 地域的な差に時間的な差が重なる

 もうひとつ質の違う地域的な差というのを挙げることができます。それは何かというと、地域的な差には違いないんですが、時間的な差に還元できる地域的な差ということです。この例もたくさん挙げることができますが、ここでひとつ挙げますと、『古事記』の中に歌があります。神話の中で、ヤマトタケルの命が死んでしまって、奥方たちが嘆き悲しみ、白鳥に化身したヤマトタケルの霊を追いかけていくというときの歌です。「ナヅキノタノ イナガラニ イナガラニ ハヒモトホロフ トコロヅラ」という歌ですが、これはお墓のそばにある田んぼに植わっている稲の茎の間をツタが這いまつわっていると同じように、自分はよろめきながら必死になってヤマトタケルの霊を追いかけていくんだという意味になります。
 この場合、「イナガラ」に「稲幹」と当ててありますが、これは稲の茎のことです。茎、あるいは幹のことを「カラ」というんですが、この「カラ」という言い方は現在、僕が知っている範囲では、琉球語の中にしか見つけることができません。幹とか茎を「カラ」と呼ぶのはかなり古い言葉で、しかも南のほうの方言だと思います。それがこういうところに残っています。この「イナガラ」という言い方の中には、もちろん地域的な南のほうの地域なんだということも含まれていますが、同時に、もう少し時間的な意味、あるいは時代的な違いの意味が含まれていると考えたほうがよろしいんじゃないかと思います。
 それから関東以北の言葉を挙げてみますと、これは僕がどこかで書いたことがありますが、『古事記』の神話の中に、ヤマトタケルの命が東国にやって来て、相模の国、三浦半島のあたりで、船で対岸の千葉へ渡ろうとする。いまの千葉県と三浦半島の間ですが、そこの波が非常に荒れていて、船が沈みそうになる。そのとき、お妃だったオトタチバナヒメが海の中に飛び込むと、海の水が静まったというところがあります。その飛び込む前にオトタチバナヒメがうたった歌ということで、これが出てきます。「サネサシ サガムノヲノニ モユルヒノ ホナカニタチテ トヒシキミハモ」という名残惜しい歌をうたって飛び込んだ。そしたら海の水が静かになったという神話です。
 その場合の「サネサシ」というのは「サガム」にくっつく枕詞です。この「サネサシ」という枕詞は何だろうかというと、アイヌ語の「タネサシ」というところから来ていると思います。これは岬、あるいは長く突き出た出先、そういう意味のアイヌ語になります。ここで推定できることは、「タネサシ」というのは岬が突き出た地形のところで、東北や北海道にいまでもたくさん残っていますが、そういう地域の地名として「タネサシ」と呼ばれていて、三浦半島のあたりもそういうふうに呼ばれていて、それが枕詞でくっついているんだと言うことができます。
 枕詞の中に出てくるアイヌ語というのもつかまえようとすれば割合によくつかまえることができます。もちろんアイヌ語だと断定するとなかなかむずかしいことになるんですが、僕はほとんど確かだと思います。「サネサシ」という枕詞は、近世から盛んに国文学者、国学者がさまざまな解釈をしていますが、いずれもほとんど取るに足りないというか、滑稽な解釈、こじつけしかしていません。しかし本来的に言えば、これは「タネサシ」ということから来ているので、アイヌ語の地名がそこに残っていて、アイヌ人がだんだん北のほうへ追いつめられて、東国人あるいは倭人が勢力を拡張して相模にやって来たとき、残っていた地名が枕詞としてついたんだと考えるのがいちばん妥当ないい考え方だと僕は思っています。
 この手の言い回し方というのもたくさんとは言えませんが、かなりな程度見つけることができます。この場合にも、これは地域的な方言の違いですが、その根底にあるのはもっと時代的な差なんだと言うことができます。僕らが考えられる限り、相当前のほうの言葉が地域的な違いの中に含まれていると考えたほうがいいので、この場合には同じ方言でも、そういう言い方はないんですが、一種の時間的な方言というものとして考えたほうがいいんじゃないかと思われます。
 いま「サネサシ」という言葉が出てきて、それは「タネサシ」から来ているんだと申し上げましたが、これも先ほどの語音から来るむずかしさということと関連するのですが、みなさんのところでもそういう名字とか地名があると思うんです。たとえば「カネサシ」という姓や地域があると思います。これはどこにでもありますが、この「カネサシ」というのも語音の問題であって、元は同じだと思います。
 それから『魏志倭人伝』に出てくる三十何カ国の中に、クヌスヌ、あるいはタヌソヌという国があります。タヌソヌとかクヌスヌといっているのも、「カネサシ」とか「タネサシ」と元は同じ言葉だと思います。神話の中にも、クヌスヌヒメ、あるいはクヌスヌ神というのが出てきます。それは『魏志倭人伝』の中の30何カ国の中のひとつの名前ですが、それと同じことだと思います。わかりませんが、海に面した、あるいは海のほうに出張った地域を持っている一種の場所や、そういうところにあった国につけられた名前だと考えるといちばんいいのではないかと思われます。
 この手の言葉は方言ですが、地域的な方言として考えるよりも、時間的な方言というか、時代の違いが一種の方言となっていわば重なっている。それが古い日本語をむずかしくしているひとつの要因になっていると考えたほうがよろしいんじゃないかと思います。

8 わかったこととわからないこと

 このように考えていきますと、日本のいちばん古い文字原点というのは『古事記』であったり、『日本書紀』であったり、『万葉集』であったりするわけですが、その中でみなさんがどう考えられようと何を言っているか全然わからないということの中で、国文学者が近世から現代までさまざま合理的な解釈の仕方をやってきて、定説になったもの、また定説にはならないけれどもひとつの説として存在するものはそれとして受け入れるとして、それでもなおわからない、まったく不明であるとか、とても信ずることができない解釈だという日本語に、ことに古い古典の中でしばしばぶつかります。
 そのぶつかったところで出てくる言葉というのは、いま申し上げたとおり、漢字を借用したことから来るとか、地方の方言から来ているとか、時間的な差がその中に圧縮されている。それから元来日本語というのは正体がわからないほど、さまざまな部族語が寄り集まって、それらがある長い年月の間に混和、混入してできてしまった。まるで周辺地域と語源的に系統を立てることができないほどだというふうになってしまっていることの中に、たくさんの部族語の入り交じってできたものなんだという要因があると思います。
 だいたいこの手の古い日本語についての理解というのはどこから攻めていっていいかよくわからないんですが、近世以降の国文学者はどうやってきたかというと、経験的にたくさんの古典を読み、たくさんの方言を聞き、当てずっぽうでそれらを取りさばいてきた。現在でもほとんど変わらないんですが、本を正せば全部当てずっぽうだというところから来ているとも言えます。そういうふうにしながら、わかったもの、わからないものというところに到達していて、まだとうていわからない言葉、わからない問題がたくさん出てきます。
 そしてそのわからなさと日本語の系統のわからなさ、日本語というのはどこから来たのか、どういうふうにできたのかがいまだにわからないということとは関係があることであって、それがどういうふうにできて、どういう言葉なんだというところへ手探りでも何でもどんどんさかのぼっていかなくてはいけないみたいなことがあります。
 そういう場合、指南力というか、いわば盲目の手探り、経験的な手探りみたいなものが非常に多いんですが、正しい方向づけだということを何が保証するのかというのは少しも決まったかたちが存在しません。ただたくさんの経験的な読み分けと聞き分けと調査を積み重ねて、そこに迫っていって、日本語とはいったいどういう言葉なんだということを突き詰めていくより致し方がないというのが現状だと思われます。
 だから非常に興味深いことでもありますが、つかまえようがなくて、どこからどう入っていっていいのかわからないということになりますし、僕らみたいな素人がこういうことに首を突っ込むとしばしば独断、ドグマを展開するということにもなります。ドグマを展開しては、また反省してみたりということの繰り返しで、こういうことは非常に興味深いことなんですが、興味深いだけにドグマに陥りやすいという問題をたくさん含んでいるわけです。
 しかし、古い日本語はこういう系統からこういうふうにしてできたんだということがまず歴然と論理づけられるところまではどうしたって行くより致し方がないので、そういうところにすぐに行けそうには到底思えませんが、いずれにせよ徐々に徐々に、少しずつ少しずつ、間違えたり引き返したりしながら攻め上って、日本語の正体、本性というものにだんだん近づいていくということになるのではないかと思われます。こういうことはいくらでもおもしろいことはあるのですが、確かなところは少ないので、今日の僕がお話をしたことも話半分に、こういうこともあるんだねというくらいに聞いてくださったほうがよろしいんじゃないかと思います。一応これで終わらせていただきます。(拍手)