1 司会

2 『マス・イメージ論』への批判

 ただ今丁寧なご紹介をいただきました、吉本です。今日は、「マス・イメージをめぐって」ということで、できるだけ「マス・イメージ論」で展開した問題の、要点がどこにあったのかということを中心にしながら、お話をしてみたいと思います。
 僕の出す本はいつでもそうですけれど、「マス・イメージ論」も大変読者の人からは、相当良く読まれたのではないかと思うのですが、評判は大変悪くて、手厳しい批評がいっぱい出てきたということがあるわけです。その手厳しい批評というのは、どういうところから来ているかということから、お話に入って行きたいと思います。
 この「マス・イメージ論」というのは、僕の批評の中でも、まれに見る、多方面のことを主題として取り上げたものです。もちろん、文芸というのは元々僕の専門ですから、文芸現象と言いましょうか、文芸作品ももちろん取り上げましたし、詩も取り上げました。それは当然として、この中で劇画とかCMとか、一般にカルチャーに対してサブカルチャーと呼ばれている分野のことも取り上げて、現在の文化現象の問題として、まとめて論じてみたわけです。
 批判を見てみますと、だいたい、いくつもあるわけですが、一方の左翼的な、純文学の、知的な人といいましょうか、そういう人のほうからは、劇画とかCMなど、元々取り上げる必要のないようなことを、どうして取り上げたのかというのが、批判の根本にあったと思います。つまり刻々に出て、刻々に移り変わってしまうような、そういうものを取り上げても、致し方がないではないかということが、非常に大きな批判のモチーフであったと思います。
 そういうものを取り上げるということは、自分自身がその中に、刻々移り変わるものの中に、どんどん身を入れていってしまうことであるし、またそうして行ったらもう切りがないではないかということが、その中に根本的に含まれているのだと思います。なぜそういう現象を取り上げて、しかも重要なものであるかのごとく取り上げているかということは、だいたい教養主義的な人と左翼的な人との両方から来た批判の根本というのは、そこにあったと思います。
 もう一つ、全く対照的に、サブカルチャーの人自体からの批判というのもあるわけです。その批判というのは、全く今のと逆であって、つまりもともと大して知りもしないことの分野に、しゃしゃり出てきて論じているけれど、大して深くサブカルチャーの問題を取り上げているわけでもないし、大して正確に取り上げているわけでもない。だからそういう意味では、これはあまり大したことない。つまり言ってみれば、文芸批評家の余技といいましょうか、そういうものを出ないではないかということが、サブカルチャーの人からの批判の眼目だったと思います。
 これが、やはり根本的な問題で、僕自身もかなりその問題が重要だと思います。つまり両方から出てきた批判の問題が重要だと思って、この「マス・イメージ論」というのをやったわけなのです。だからその問題の要点がどこにあるかというのをお話ししたら、きっと僕らが今何に関心を持っている、つまり文化現象として関心を持って眺めているか、何を分析しようとしているか、あるいはそれを通じて、現在、今ということは、どういうことになっているのか、もっと言いますと、これからどういうことになるのだろうかというようなことに対して、できるだけはっきりしたイメージを持ちたいというモチーフがあります。そしてその問題をどういう取っ掛かりからやろうとしてきたかということをお話しできればいいのではないかと思います。

3 あいまいになってきたカルチャーとサブ・カルチャーの違い

 今のところから入っていきますと、僕が思いますのに、一般に文化、カルチャーと言われているもの、つまり知識、教養、文化と言われているものは、一般的にどう成り立っていくかと言いますと、それはいわば一方に無意識のうちにサブカルチャーと言いましょうか、つまり大衆現象としてある文化現象みたいなもの、一方において無意識のうちに前提として、それに対してカルチャーというものはそれとどれだけ違うのか、つまり一般大衆現象としてあるような文化現象、文化と、どれだけ違うのかという、そういう違いというものを絶えず測ることによって、一般に文化と言われているものは成り立ってきていると思うのです。
 ところで、皆さんはどこかで実感しておられると思うのですが、だんだんカルチャーというものが、サブカルチャーに対して、あるいは大衆現象としてある文化に対して、どれだけ文化自身が違っているのか、あるいはどれだけそれとは異なる問題を持っているのかということを際立たせているうちに、いつの間にか際立たせ方というのが、あいまいになってきたと言いましょうか、際立たせているうちに、だんだん、あまり際立たせ過ぎたために、際立った違いというのが消されていって、どうもカルチャーということと、サブカルチャーということとは、あまり現在区別をつけ難くなってきているということがあると思います。
 つまりこれは、皆さんのほうもどこかで実感しておられるはずだと思うのですが、僕らもその問題はかなり重要なのだと考えたわけです。一般にサブカルチャーつまり大衆現象としてあるような文化に対して、カルチャーというのはどれだけ、それと違いを持っているかということを、いわば存立の根拠にしてきた。そのカルチャーというものが、だんだんその違いというものの根拠を失っていって、どちらが失ったのか分かりませんが、あまり違いが区別が明瞭ではなくなったのではないか、つまり差異を付けようとすれば、付けようとするほど、差異が消されていくという現象が起こってきたということは、いったいどういうことなのかということが、根本的な疑問としてあります。
 僕らはやはり、そこのところで文芸批評という、いわばカルチャーの中に住まって成り立ってきたものですが、だいたいこのカルチャーの中で文芸批評をしているだけでは駄目なのではないかという問題意識を持ってきたわけです。
 僕はそういう言葉をよく使ったのですが、つまり「窓際のトットちゃん」という大変よく人々に読まれた、つまり大衆現象としては大変読まれた作品があります。つまり「窓際のトットちゃん」のような作品と、僕らはよく論じてきましたが、マルクスの「資本論」のようなものと、とにかく同じ言葉で、片方の場合には程度を下げるというのではなくて、同じ言葉で論ずるということは、とても重要なことなのではないか。
 それがいわばカルチャーとサブカルチャーの違いというものが、あまり明瞭でなくなった現在に対する批評というもののあり方として、それが極めて重要なことではないかというような問題意識がありまして、ほぼそういう観点で「マス・イメージ論」というのを、僕は書いたつもりでいるわけです。つまり「資本論」をことさら取って来なくてもいいのですが、それでは純文学の作品というものと、「窓際のトットちゃん」というような作品、あるいは僕が「マス・イメージ論」の中で取り上げた、例えば劇画やCM、一般に歌謡という、歌手が歌う歌とか、歌の歌詞とか、そういうものとの違いというものは、どこにあるのだろうかということが、第一に問題になります。
 それで、どこにあるのだろうかといった場合に、程度の差異、程度の違いというものは、今申し上げたとおり、ほとんどないと思います。つまり「ない」という現象が出てきているわけで、つまり「窓際のトットちゃん」と、ある純文学の作品を持ってきて、どちらがいいのだと言った場合に、質的に「こちらがいい」と言うことが、現在大変難しくなっているということが、ひとつあります。だからそのことが、非常に重要な問題だというのが、僕らの考え方の根本にあります。

4 文学芸術とCMの違いは何だったのか

 そうすると、質的な問題を取り上げにくくなってきた。それなら何が違いなのだろうかということを考えていった場合、「窓際のトットちゃん」のようなもの、あるいは劇画のようなもの、あるいはテレビのCMのようなものと、純文学の作品とは、基本のところでどういう違い、つまり作られ方の違いがあるかということを考えてみますと、純文学の作品というものは、一般的に僕の言葉で言えば、自己表現あるいは自己表出なのです。
 つまり皆さんはきっと覚えがあると思うのですが、青春時代にまず何かものを書いてみようとか、詩を書いてみようとか、何か心に浮かんだものを書き留めてみようと思った時に、何が初めにあったかというと、それは自己慰安です。あるいは自己表現です。つまり自分で書くことによって、自分を慰めるといいますか、そういう言葉を使えば、自己慰安ということは純文学というものの発生の一番初めにあるものなのです。
 あるいはもっと高級な言葉を使ってしまえば、自己表現あるいは自己表出なのです。自己表現というものは、まず自分自身が何であるかということを、あるいは自分の心の中にあるものは何であるかということを表現したいという欲求から純文学の作品の形成は始まって行くというのは、誰の場合でも言えることなのです。
 ですから根本的に言いますと、純文学あるいは文学芸術というものは何かといったら、それは自己表現あるいは自己慰安から始まるということは、非常に根本的なことなのです。それで自己慰安が必要でなければ、文学芸術は必要でないといっていいくらいに、自己慰安、自己表現は重要なことになってきます。
 ところが例えばテレビのCMとか劇画とか、あるいは「窓際のトットちゃん」でもそうかも知れませんけれども、どういうモチーフで書かれるか、つまりどういう動機から書かれるかといいますと、一般的に「何々のために」と書かれるということが、一番根本にある特徴です。
 つまり「何々のために」とか「こういうことのために」、例えば商品が売れることのためにCMを書くとか、大衆によく読まれようとして、あるいは大衆に何かを訴えるために劇画を書くとか、あるいはこれをはやらせて、ちょっとお金を儲けてやりたいという動機でもいいのですが、「何々のために」ということが、一般的にサブカルチャーつまりCMとか劇画とか大衆的に流布されている作品というものの動機にあるものです。表現の動機にあるものは、やはり、何のためにというのはそれぞれであり得ますけれども、「何々のために書く」ということが非常に確かな違いだと思います。
 よくよく根本的に考えてみますと、純文学の作品というものは自分のために書く、あるいは自己慰安のために書く、あるいは自己表現として書くのだという動機がどうしてもあるわけで、それに対してCMみたいなものに例を取りますと、「何々のために」、商品がよく売れるためにとか、自分が少しお金を儲けたいためにとか、何でもいいのですが、「何々のために」というふうに書かれるのが、創造の動機になると考えることができます。根本までさかのぼれば、どうしてもサブカルチャーとカルチャーとは、質的に同じになってしまったとか、レベルは一向に変わらなくなってしまったという言い方をしても、どうしても最後に違いは残ります。つまり根本的な違いは残ります。
 純文学あるいは純芸術の作品というものは、やはり自己表現として書かれて、書かれた作品がもちろん誰かのためになったり、お金が儲かったり、あるいは人々の役に立ってしまったり、いろいろなことがありますけれども、結果としてそういうことはありますけれども、創造のモチーフとか動機というのは、やはり自己慰安のため、あるいは自己表現のために、あるいは自分自身をよく知るためにというモチーフがどこかにあって、作品が書かれ、そして書かれた作品が、もちろん人々に広く読まれることもありますし、人々のためになったりすることもあります。また人々の害になったりすることがあります。それはいろいろありますけれども、「何々のために」というのはあくまでも、作品が結果として受け取る問題であると言うことができます。
 これに対してサブカルチャーの作品は、芸術的な域に迫った作品もあります。劇画であってもなかなか高度な劇画がありまして、それはやはり芸術品として見たほうがいいと考えられる劇画もあります。それからCMの作品も、皆さんがテレビでもご覧になれば分かるように、短いけれども一つの芸術作品だと言えるようなCMというのもあります。しかしこれは、あくまでも結果的に作られた作品が、芸術品としても結構通用するということであって、もともと動機は例えば商品をたくさん売りたいとか、たくさん売るためにこのCMを作ったのだという、動機はやはり「何々のために」であって、しかし結果として作られたCMが芸術品としても結構通用するではないかというほど、とても高度なCMというのもまた存在するわけです。

5 サブカルチャーにおける自己表現の問題

 そうすると最後に根本的なことを言ってしまえば、カルチャーであることと、サブカルチャーであるということが、どうしても表現のモチーフの違いというものが最後には残ります。そうするとこの違いというのまで、もし現在この違いさえも、どうも怪しくなって来たということになっているとすれば、どうしてそういうことになってしまったのだろうかということが、現代の、あるいは現在というものの一般的な文化現象、あるいは一般的な知識現象としても、それは考えてみるに値するわけです。
 またその違いが本当になくなってしまったというのであれば、動機でさえも違いが怪しくなってしまったとすれば、それはやはり、なぜそうなってしまったのかということは現在の創造の問題として取り上げるに値するのではないかと思われるのです。だからここのところで動機の違いという、カルチャーとサブカルチャーとの、単に質的な出来ばえの違いも、それほど違わなくなってしまったというだけではなくて、動機の違いさえも分からなくなってしまったとすれば、どちらかに原因があってその違いがなくなったはずだと考えたほうが、結局はよろしいわけです。
 そうするとこれは、カルチャーというものと考えられてきた、例えば純文学とか純芸術というものが質的に低落した、つまり下落してしまったから、下落してサブカルチャーと同じ質に近くなったから、質的な差異も無くなってしまったということなのか、あるいはそうではなくて逆に、サブカルチャーと言われたものの中で、結構作家あるいは作者たちが、もっと具体的に言えばCMの作者たち、あるいは劇画を描く作者たちが、その中に自己表現というようなものも込めて、CMを作るようになったから、カルチャーとの違いが、あるいは純文学、純芸術との違いがあまり分からなくなってしまったのか、そちらかではないかと考えたほうがよろしいということに、結局なります。
 僕が「マス・イメージ論」で根本的に考えましたのは、後者の問題が一番大きな問題ではないか、つまりCMの作家、あるいは劇画の作家などサブカルチャーの作家が本来的に何々のために、つまり「商品が売れるために」という動機で始まった表現なのですが、その表現の中に自己を表現するというか、自己表現を込めるということが、必然的に問題になってきた、つまりそれらの人にとって重要な問題になってきたということが、いわばサブカルチャーを質的にカルチャーに近付けて行った、根本的な問題なのではないかというのが、言ってみれば「マス・イメージ論」の中で僕が考えた、根本的な動機である訳です。
 これに対して、もちろんカルチャー固有の領域からたくさんの反発、批判がありまして、やはり自分たちは高級であり、サブカルチャーつまりCM作家のCMなど、どんなに頑張ってもそれよりは自分たちのほうが質的に優れているのだというふうに、それを肯んじない人たちというのは、やはりそんなことはないという反発があったと思います。
 それからもう一つ違う、先ほど左翼と言いましたが、左翼のほうの反発というものは、そうではなくて、CMとか一般にサブカルチャーと言われているものは、動機が下劣でないか、つまり商品を資本のためにあるいは企業のために、企業の商品のためにこれを売れるようにという動機で、そもそもCMなどつくるのだから、だいたい動機が下劣だからこれは駄目なのだというのが、例えば左翼の批判であって、それを取り上げるお前も駄目だというのが、一般的に批判の根本にある、口で言わなくてもそういうことがあったと思います。つまり動機が下劣であるかということは、つまり芸術であるかどうかということ、芸術の質がいいかどうかと、あまり関係がないことだと、僕は思います。
 それからCMの作家がそうであるにもかかわらず、やはりその中に自己表現を込めて行ったという問題は、CMの質を高めてこれを芸術品として見られるではないかというところに持って行った大きな所以であって、もともとは商品の価値を高めるためにということで出発したCMなのですが、しかしその中にいわば必然的、不可視的に自己表現を込めていくという、CM作家が現れてきてしまったり、そういうことになってしまったりということは、非常に重要な現象なので、この現象に対して動機が不純である、あるいは動機がつまらないではないかということで、批判しても、それはせいぜい半分の批判にしかならないので、全部の批判にはそれではならないのです。
 もともと言いますと、芸術、文学、芸能も含めてそうですけれども、こういうものは、行き掛けというのは、その時々の支配的な秩序というようなものの援助を受けながら、だいたい優れた作品にまで結晶していくものなのだ。それでもし文学芸術の本当の左翼性というものを問いたいというならば、そういうところで問うてはいけないというのが、僕らの考え方です。つまり、今は資本主義が社会秩序の主なるメインのカレントだとすれば、資本主義は必ず芸術、文学を行き掛けだけは助けるというのが、僕らの考え方です。
 しかし、芸術、文学というのには、必ず帰り道というのがあって、帰り道ではたぶん、資本主義は芸術、文学を助けないだろうというのが、僕らの考え方です。ですから本当の左翼性というものが問われるのは、どこで問われるかといいますと、帰りがけというところで問われるのであって、行き掛けで問うてはいけないというのが、僕らの根本的な考え方で、僕らもやはり自分を左翼と思っていますけれども、自分の左翼と、いわゆる左翼というのとどこが違うかというと、そこが違うわけなのです。だからそこで、いわば根本的な分かれ道というものが、まず出てきてしまうということがあるわけです。

6 なぜCMの役割を逸脱した表現が通用するのか

 今せっかくCMのことをあれしてきましたから、CMのことで今の問題をもう少し突き詰めて行ってみたいと思います。CMの作家というもの、CMというものの特徴は何かといったら、第一に必ず、刻々に変化する商品の条件とか社会条件というものの中で、刻々に表現を変化させざるを得ないし、また変化していくというものが、一般的にサブカルチャーの、そして今の例で言えばCMというものの、非常に大きな特徴だと思います。
 この特徴はいわばサブカルチャー全体に言えることで、サブカルチャーの特徴は何かといいますと、先ほど言いました、動機としては「何々のために」ですが、現象としてみますとこれは一刻も留まることを知らず、いつでも、より新しいもの、あるいは新しいものが生み出されるとまた次に、より新しいものを、刻々の表面上の社会現象の条件に従って、あるいは商品の現象の条件に従って、刻々に表現を変えていかざるを得ない、また変わって行かざるを得ない。例えば個々の作家についてもそうですし、またCMの流れ自体としてもそうなのですが、刻々に自分の表現を変えていかざるを得ない。あるCMが出てきたら、それよりももっと新しいCMを生み出さざるを得ない。また新しいCMが出てきたら、また次の新しいCMを生み出さざるを得ない。
 つまりCMの作家というものを考えますと、絶えずいわば「何々のために」という動機に促されながら、しかも絶えず新しいもの、新しいものを目指して、刻々に自分を変化させていかざるを得ないということが、特徴だと思います。そしてこれは一般にサブカルチャーというものの、非常に大きな特徴だと思います。つまり文学芸術は永遠の問題だなどということは、言っていられないのであって、刻々に自分を変えて行かなければいけないという、そういう表現の場所にあるというのが、一般的にサブカルチャーの問題の根本にある問題だと思います。つまりそこで、刻々に自分を変えていくわけです。
 そこのところでどういう現象が、例えば現在出てきているかと考えますと、そのように商品の変貌に従って、また社会現象の変貌に従って、自分の表現を刻々に変えていくという中で、先ほど言いました、それにもかかわらず、その中で自己表現というものの問題が出てきている。だから個々のCM作家の個性というものをとらえることが、ある程度できるようになった。これは誰が作ったのだなということが、よくよく注意してみますと名指しができるというところまで、CMというものが行っているということがあります。
 だからそれはどういうことかといいますと、自己表現の問題が、その中に必然的に含まれてしまっているということが、大きな問題だと思います。そうしますと、そこでどういうことが起こって来るかというと、そもそもCMというものは、企業家が作った商品のイメージを高めるためとか、より多く売れるために作られるはずなのですが、作られたCMというものが、必ずしも商品のイメージを高めるように作られているか、あるいは作られているものがよく受けているかどうかということは、非常に疑問が生じてくる。つまりそこには分裂が生じてきているということが、非常に大きな問題だと思います。
 CMですから商品が売れなければならないし、企業家にとっても売れてもらわなければCMをしてもらった価値がないわけです。ですからCMは必ず商品のイメージを高め、そして商品がより多く売れるものでなくてはならないはずなのですが、作られた商品は必ずしも商品のイメージを高めるために作られたものが受けるかというと、そうでもないということがあります。
 それからもっと極端なことを言ってしまいますと、CMを作ったからといって商品が売れるかどうかということとは、あまり関係がないと言っていいくらい、別の問題だという問題も現れてきているわけです。つまりそう言いますと、CMというのは「何々のため」と言い、商品のイメージを高めるためとか、よく売れるためと言いながら、実は「ために」という本質を失っているという、そういうCM自体も無きにしも非ずということがあるわけです。それならば、そういうCMはCMとして通用しないか、あるいは採用されないかというと、そうでもないのです。
 つまり企業家には二つの弱点というか欠点というか、プライドと言ってもいいのですが、があると思います。一つは、必ずしも自分のところの商品に露骨に奉仕してくれなくてもイメージが高められるということはあるわけで、つまりむしろ別に高めてくれないのだけれど、しかしそういうCMでさえ自分のところは採用しているのだよということで、いわば貫禄を見せることによって、あの企業はいい企業だとか、あの商品はいい商品なのだというふうに見せることもできるわけです。
 それからもう一つあります。これは誰もがわからないように、やはり企業家といえども、あるいは資本家といえども、やはりこれからどうなるのだろうかということに対しては、必ず未知数の部分、つまり自分でも分からないという部分を必ず持っているということです。殊に、現在日本もその仲間入りをしたわけですが、高度な資本主義社会では、やはり資本主義自体が、自分自身がどこへ行くのだろうかということに対して、必ずしも確固としたイメージを持っているわけでもないということが表れてきます。
 だから、そういう二つの問題があって、二つのプライドというか、弱点というか、泣き所といいましょうか、そういうものがあるということで、やはり必ずしも役に立たないと思われる、あるいは商品のイメージを高めていないと思われるCMでも、採用せざるを得ないとか、採用するのだって、それでいいのだということがあり得ると思います。
 つまり、この現在の問題をよくあれしていかないと、企業の、何と言いますか。僕は好きなCM作家で糸井さんという人がいますが、この人は左翼から、何かの手先だみたいなことをものすごく言われるわけです。けれども僕はそんなことはどうでもいいので、企業家の手先であろうと、スターリン主義の手先であろうと、それはどうでもいいのであって、要するにそういう問題ではないのである。手先であろうとなんであろうと、手先の役割をしていないというものが通用してしまうということが、非常に重要な現在の問題だと、僕自身は考えます。だからその手の批評というのは、あまり意味がないというのが、僕の考え方の根本にあります。

7 サンスターとペプシのCMの複雑さ

 例えば皆さん、こういうCMをご覧になりませんか。デミュートサンスターというもののCMで、ビートたけしが後ろのほうにいて、ラッシャー板前というのがいて、これが今までの歯磨きで、これがデミュートサンスターの歯磨きで、どちらを取りますかと言って、従来のほうを取ろうとすると、強制的にこちらを取らせてしまうというCMをご覧になったことがあると思います。これなどは、言ってみれば二つの意味が含まれています。一つはデミュートサンスターを馬鹿にしているのではないか、つまりその企業を馬鹿にしているCMではないかということが、一つあります。つまり強制的に手をこちらに持たしてしまうようなCMですから、それを見る方はおもしろくて仕様がないわけです。
 けれども本当は、このデミュートサンスターという歯磨きのイメージを高めているかどうかということは、大変疑問なわけで、もしかすると低めているのかも知れないのです。つまり従来のほうを取ろうとするという動作が一応あるわけですから。それを強制的にこちらを持たせてしまうわけですから、これでデミュートサンスターのCMになっていると考えると、これは非常におもしろい問題を含んでいることになります。なぜならば、いわばこちらを取ろうとするのに、強制的にこちらを取らせているというのだから、一通りの意味で受け取れば、あまり商品のイメージを高めていないわけです。
 しかしもうひとつ裏返すと、そういうことによって、それは何かといいますと、一種の、皆さんがこのCMを見られると、非常に短い、三十秒とか一分足らずですが、一分足らずのうちに成立している喜劇だというふうに理解することもできるわけです。そういう見方というのが必ずできると思います。だからそれを見ながらゲラゲラ笑うとか、つい笑ってしまうということがあるわけです。それはなぜかと言いますと、このCM作家の自己表現というものがあるからです。
 それからもしかすると、企業に対するイロニーといいますか、つまり企業に対する批判があるのかもしれません。これはよく分かりません。これは本人に聞いてみなければ分からないことですけれども、一通りの意味で言えば、そういう意味があると考えていいわけです。なぜならば、こちらのほうを取ろうとする人に、無理やりこちらを取らしてしまうように作っているわけですから、これは本当は、この歯磨きの企業に批判を持っている作家かも知れないわけです。ところが、もしかするとそうではなくて、批判を持っているように作りながら、やはりこの企業のサンスターという歯磨きについ注目させてしまうという意味の効果をちゃんと見計らってやっているのかも知れません。
 そこは大変複雑であって、それは見るほうの人がそれを読み取るとか、自分なりの考え方を膨らませる以外にないわけですけれども、しかしそれはやはり今のCMが必ずしも商品のイメージを高めるためのCMではないというふうに、現在なってきて、そういうCMがまず良いほうのCMに出てくるのは、大抵そういう要素をどこかに含んでいるということがあるということが、現在ということを考える場合に、非常に重要なことのように僕には思われます。
 この手のCMというのはいくつも挙げることができるわけです。例えばこれも皆さんが割りとよくご覧になっているのではないかと思いますが、ペプシコーラか何かのCMで、ここにペプシコーラがあって、学生どもが後ろにいっぱい座っていて、どういうのがいいのだといって取ったら、それはペプシコーラだったというようなCMで、みんなおかしくて後ろでゲラゲラ学生たちが笑うというCMがあると思います。
 その笑いというのが、その時の笑い方というのが、ものすごくいいわけです。それはちょっとやはりドラマだと思うのですが、それは「なんだ、ペプシだって言ってわざとらしいじゃないか」ということを意識した笑いを、後ろのほうでゲラゲラ大勢の学生どもが笑うわけです。そうすると、それも非常に微妙なわけでして、これでペプシコーラが商業的に、他のコカコーラなどに比べてこちらのほうがいいということを、露骨にやらせているではないのということを、後ろのほうでゲラゲラ笑わせるということ、それら全体を含めてCMになっているということは、かなり複雑な手続を取っていることを意味しています。
 つまりこの作家は、誰か分かりませんが、やはりそんなに単調ではないということ、つまり現在の体制に対しても企業に対しても、企業の商品に対しても、そんなに単調に手先になっているわけでもないし、またそんなに単調にアンチ企業だとか、反体制だと言っているわけでもないわけです。つまりかなり複雑に、企業の手先になっているように見せながら、そうでないというものを作っているように見せながら、またそうなっているとか、とにかくこれはかなり複雑な操作をそこにしているということが分かります。
 しかし皆さんが、たくさんあるCMの中で、やはり印象に残るCMというのを、よくよくご覧になって、自分で分析してご覧になれば分かるけれども、必ずと言っていいほどその手の、割に単調でないCMが、要するに良いほうのCMだというふうになっているということがわかります。つまりCMというものは本来、ある商品に対する、よく売れるようにするための宣伝ということですから、それに対してかなり複雑な創造意識と言いましょうか、創作意識と言いましょうか、そういうものを持ちながら、やはり現在のCM作家も非常に優秀なCM作家というのは、一様にそういうところでCMを作っているということが分かります。
 このペプシのCM、それからビートたけしのデミュートサンスターのCMも、よくよくご覧になれば一種の三十秒ぐらいでやる、作られた演劇あるいはドラマとして見たら、かなり良くできたドラマだと見ることができると思います。それはどなたがご覧になっても、そう見れると思います。つまりCMというもの、つまり一般的にサブカルチャーというものの質というか問題というものは、決して無視したり、それを低俗なものだと考えたりしてはいけない、そういう問題が現在出てきているということも、一つの現れでありますが、そういうことが一つ大きな問題として出てきていると思います。
 このことは一般的に考慮するに、皆さんが考えるに値することではないか、あるいは皆さんの職場あるいは二十四時間の日常生活の中のどこかでは、必ずこういう問題に当面しているし、また必ずこういう問題を違う質のところでぶつかっているということが、僕はあり得るのではないかと思います。

8 ほんとうの批評という概念

 もし批評というものが作品の本質を言い当てたいということであったならば、それはやはり、どうしてもこういう問題について突っ掛かって行かざるを得ないと言いますか、こだわって行かざるを得ないという問題が、どうしてもあると僕は考えます。つまりこういうものを、純文学でもないし純芸術でもないということで、排除しておいたら、それで批評という概念が成り立つかどうかということは、すこぶる疑問なのであって、僕は疑問とするわけです。
 一般的に文芸批評として現在なされているものは、だいたい学校の先生の片手間というかアルバイトか、そうでなければ高度を装ったCM作家か、文芸純文学の批評家というのは、そのどちらかに分類することができます。つまりCMとかサブカルチャーを取り上げないけれども、それはいわば文壇のCM批評家だというより仕方のないものか、そうでなければ、かなり頭のいい学校の先生のアルバイト仕事といいましょうか、それが現在の文芸批評というものの一般的な潮流であります。
 僕らはあまり両方とも認めないのであって、本当の文芸批評あるいは本当の批評という概念は、そんなものではないのだと、いつでもありますから、僕は両方とも認めないのです。このことはちゃんとしておいたほうがいいような気がするので、皆さんは純文学作品を取り上げている批評家というのがいるでしょう。しかしそれは文学芸術の概念の中に入っていると考えたら大間違いであって、そういう人たちは本当はやはりCM作家なのです。純文学のCM作家つまりCM批評家なのです。だからそれはまるで違うことなのです。
 本当の批評という概念が、現在どこで成り立つかというのは、誰にも分からないことですが、しかしどこで成り立つかということに対して、模索することを怠ることはできないのです。つまりそれは批評家というものの運命であって、それはどちらの方も問題意識すらないというものが、現在の文芸批評の一般的な潮流です。つまりこのことは、皆さんのほうからはっきりそう見えないかもしれないけれども、それは距離感が違うから見えないので、僕らの距離から見ると非常によく分かってしまっている問題です。だからそのことはやはり、よくよく距離感を取り直してご覧になるということを、僕はお勧めしたいような気がします。だからそこの問題というのは、誰もよく解けているわけではないですが、そこに問題があるのだということ自体は、批評の大きな問題としてあると、僕自身は考えております。
 だからそこのところで、そういう問題が、例えば今CMを例に取ったわけですが、サブカルチャーの問題の中で、そういう問題が現在出てきて、これはどうしても批評というものが取り上げざるを得ないし、またそれを自分の問題の中に組み込んで来ざるを得ないということの問題を、現在受け取っているということがあるわけです。それはとても大きな問題だと思います。
 しかしながら、先ほど言いましたとおり、サブカルチャーのここら辺のところで、何かをあれしていますと、目まぐるしくとにかく自分自身を変えて行かなければいけないとか、目まぐるしくパターンを変えて行かなければならない。言ってみれば、パターンというものの新しさを求めて、次々と自分の表現を変えて行かなくてはならないので、個々に永遠の問題があるとか、ここに芸術の本質的な問題が、不朽の問題があるみたいなふうに考える芸術観が、もし存在し得るとすれば、そういう芸術観からは、どう考えてもこれをとらえることはできないだろうと思います。またそういう考え方から、これはどのように重要だ重要だと言っても、重要だと思えないでしょうし、それは致し方のないことです。
 でも芸術文学の永遠性というものは、必ずその時代性ということ、時代との渡り合いと言いますか、時代を受け入れるか拒否するか、あるいは半分拒否するか、拒否したふりをして受け入れるか、あるいは受け入れたふりをして拒否するかということは、それぞれかなり複雑な問題です。そういうことなしに、芸術が永遠性を獲得するということは、まだまだあり得ないと僕自身はそう考えていますから、僕はその観点から言っても永遠というものを目指したいならば、やはりこういう、目まぐるしく移り変わってしまうものの中に、不易な問題あるいは本質的な問題を見つけ出す、つかみ出すということは、大変刺激的でもありますし、また重要な問題であるような感じがします。

9 創作意識の解体現象

 そこから敷衍して行きますが、僕が「マス・イメージ論」ということの中で、どうしても、純文学もサブカルチャーも、あるいはカルチャーもサブカルチャーも、両方を貫徹している問題が、まだ幾つかあると考えたわけです。それを申し上げてみますと、もう一つ重要だなと思いましたのは、一種の解体現象といいましょうか、創作意識の一種の解体現象ということが、非常に重要だと考えたわけです。
 例えば僕は「マス・イメージ論」の中で大江健三郎さんの作品と椎名誠の作品とを、同じレベルで同じように論じたわけですけれど、そこで両者に解体性というものを論じたわけです。その解体性というのはどこで論じたかと言いますと、非常に分かりやすい所で論じました。つまり大江さんの作品を見ても、「『雨の木』を聴く女たち」でも「新しい人よ眼ざめよ」でもそうですけれども、その中で作者と思われる人が作品の中に登場してしまうということ。
 つまり作品というのは作者が作り上げる物語であって、その中に主人公となるものがいて、副主人公となるものがいて、やれ登場人物がいて、そこに物語が展開するというものを典型としますと、大江さんの作品でも椎名誠の作品でも同じですが、最近の作品の中ではその中にまた作者が登場してきて、またうかうかすると、作者と登場人物が直接渡り合ったりという感じの、作者が登場して来るという、いわば作品としてみれば、作品を物語性の完結というふうに見れば、物語性の解体だといいましょうか、作品の解体ではないか、あるいは創造意識というものの解体ではないかと言ってもいいほど、無茶苦茶なことになっているということを取り上げました。
 これは一種の解体現象の一つの象徴ではないか、これは椎名さんの作品の中でもそうですが、作者と思しき人が主人公を飛び越して、作中人物と渡り合ってしまったり、また作品の主人公とは別に作者が登場してしまったりというようなことが、しばしば行われて、これは作品としてみれば一種の創造意識の解体ということの現象の一番分かりやすい問題ではないかと、「マス・イメージ論」の中では論じたのです。
 これはサブカルチャーの問題の中でも同じです。例えば挙げてみますと、江口寿史という漫画家がいます。この人は「ストップ!ひばりくん!」という漫画があるのですが、これは非常に良い漫画なのです。皆さんもご覧になった人がいるかと思いますが、モチーフはある意味で簡単です。つまりひばりくんというのはやくざの長男の息子なのですが、ちょっと変態で、いつでも女装していて、本当の女の子よりもきれいだという高校生なのです。同時に腕力も非常に強くて、と設定されていて、その変態性というのと、きれいだというのと、やくざの親分の子供だという、そういうさまざまな矛盾というかおかしさがぶつかり合って、作品のおかしさを作っているということです。これは長い作品ですけれども、ご覧になればどこが面白いかということはすぐに分かるのですが、根本的には今言いました、ひばりくんという人物の設定条件がおもしろいために、その中でさまざまな食い違いとか、逆転とかが起こって、その面白さが、この作品の面白さなのです。
 この「ストップ!ひばりくん!」という作品の中で、この江口寿史という人がいかに優れているかということを証明する一つの証拠にもなるわけですが、この人が「ストップ!ひばりくん!」という長編で、ある章を始める場合に、初めのところで、全部がそうではなく、所々でそういうことを露骨にやるのですが、例えば「締め切りが近付いたのになかなか書けねえな」と作者が劇画の中に登場してこぼしている。すると弟子たちが二、三人いて、「先生、早くバンドを作ってやろうよ」と片方でジャカジャカジャカジャカやっているわけです。片方の漫画家の先生は、「締め切りが近付いたのにちっともまとまりがつかねぇ。ほとほと嫌になった」と言って、片方では「また先生の愚痴が始まった」とか言いながら、ジャカジャカ楽器をやっているというところから始まって、「ストップ!ひばりくん!」という本題に入って行くという描き方をしているわけです。
 言ってみれば、やはり劇画の中に作者自身が登場して来るし、作者の周りに弟子どもが登場して来て、ある意味で裏のほうにある本音のところが全部、自分で自己暴露して、「書かなくちゃしょうがねえな」と言いながら、だんだん作品自体の本題の中に入って行くという書き方を、何ヵ所かでしています。つまりそういう書き方というのは、言ってみれば先ほど言いました、創造意識の解体であるし、またある意味では創造意識のデカダンス、つまり退廃であるわけです。
 しかし問題は退廃であるかどうかということではなくて、退廃であってもいいのですが、しかし例えば大江さんであり、椎名さんであり、つまりカルチャーとサブカルチャーの文学を代表するような作家たちが、一様に自己解体を作品の中に持ち込んでしまうというふうな書き方で、作品を形成せざるを得ないというものが、自分の中にあるとすれば、その解体意識というものは、解体後の感受性というものはたぶん現在の時代に対する、あるいは現在の社会現象、社会状態、その他もろもろの文化状態そういうものに対する、非常に鋭敏な感受性というものが、そこに象徴されているということが言えると思います。つまりその解体意識の中に象徴されているということが言えると思います。
 これは江口寿史という人の漫画の中にも、表れて行きます。これはもちろん、対照的な表れ方をしている場合でも、優れた作品であるというものはあり得るわけです。例えば大友克洋という人の劇画というのは、かなり危機感というものを持ちながら、一種持ちこたえた物語性みたいなものを持っているということがあります。
【テープ交換】
素材をある一種の局限された空間の中にとることによって、物語性をまだ非常に濃厚に保とうという努力というものが、一つの優れた作品の形成をしているという場合もありますから、一概にそれを言えません。しかしこの作品形成ではなくて、作品解体だというようなことが、やはり現在非常に優れた感受性を持った作家の中に、そういう現れ方をしているということは、非常に現在の文化の問題、文学の問題、芸術の問題を、あるいはカルチャーの問題、サブカルチャーの問題というものを考えていく場合に、非常に大きな問題になるのではないか、つまり大きなつかみ所の一つになるのではないかということは、言えるように思います。
 つまりそこの問題も、僕自身は「マス・イメージ論」の中で、僕なりの仕方で展開していったと思います。その解体現象というような問題は、どこから出てきたかという問題があるわけです。この問題を突き詰めていくということは、非常に大きな課題ではないかと、僕は感じます。それでこの問題に対して、どこに取っ掛かりをつけるかというものを、どうしてもはっきりさせなければいけないということは、「マス・イメージ論」というものの、僕の論の非常に大きな幾つかの柱の中の一つの柱になったように、僕自身は考えています。

10 なぜ自己解体という課題があらわれたのか

 それではこの芸術文学というもの、あるいはカルチャーおよびサブカルチャーというものは、どうして一種自己解体あるいは解体の課題というものを抱え込まざるを得なくなってきたのかという問題を、もう少し先まで考えて行ってみたいと思います。それもある意味では「マス・イメージ論」の中で、僕自身はやっているつもりなのですが、改めてここで、違う言葉で同じようなことを言ってみます。
 例えばこういうことがあって、それは僕が「マス・イメージ論」の中で現代詩の作品を取り上げ、現代詩の作品と歌謡みたいなもの、歌い手さんが作っている歌みたいなもの、歌詞みたいなものを挙げながら、そういうことを言ったつもりですけれども、そういう問題を論じたつもりなのですけれども、現在ではこういうことが、皆さんがもし気をつけてご覧になれば、なんとなく区分けすることができるのではないかと、僕自身は思うのです。
 それはどういうことかと言いますと、かつて、例えば大江さんであり、中上健次であり、誰でもいいのですが椎名誠であり、江口寿史であり、というのでいいのですが、かつて同時代に対して鋭敏な作家というものは、同じ時代の問題を非常に熱心に考え、そしてそれを感受性を持って鋭敏につかみ取り、そしてそれを作品の中に、どこかにそれを散布しているという、そういう形でいわば時代というもの、あるいは同時代というものを反映していると言いますか、感受しているということが、いつの時代でもあり得たわけです。
 それは感受性の鋭敏な人、あるいは大げさな人、あるいは鋭敏なのだけれど大げさではない人、ひそかに感受しているという形でとか、さまざまな形態は感じ方はあり得るわけですが、しかし一様にその時代というものを鋭敏に感じながら、作品を形成するということがあったわけです。もしその形成された作品の中に、やはりAという作家とBという作家は個性は違うけれども、しかしやはり両方とも、共通の何かが作品の中にある。その共通性というのはどこから来るのであろうかというと、やはりそれはこの時代性から、あるいはこの現実性から来るのではないかということが、非常によく分かるということが、いつの時代の文学芸術作品でも、あり得て来たわけです。
 もちろん、それは個性ある作家がいわば時代を個性に基づいて、精一杯感受しながら、作品を生み出して行って、その作品の中に結果としてやはりAという作家とBという作家は個性は違うけれども、やはり同じ時代にいて、同じ時代の空気を感受しているのだなという理解の仕方というのができるということが、言ってみればそういう場合の一般論であります。これは悪口というものに芸術論があったとすれば、それは言ってみれば大雑把に下部構造が上部構造を規定しているのだとか、そういうさまざまな言われ方でしてきた問題です。その問題はやはり、個性ある作家のいわば表現された作品の中に感受されている共通性があって、それが一種の時代を感受している、あるいは現実を感受している共通性だと理解できる、そういう問題としていつの時代でもあったわけです。
 現代でももちろん、その通りにあると思います。ただ僕が「マス・イメージ論」で考えたことは、その先のことを考えたわけです。ところで現在の問題をよくよく先まで考えてみると、ちょっとだけ違うのではないかということが、現れて来ていると僕には理解できるところがあります。

11 代わり映えのなさは時代の無意識のシステムを反映している

 それは言ってみれば、あるAという作家の作品とBという作家の作品とCという作家の作品とがありますと、それぞれの個性に基づいて、非常に個性ある作品が生み出されているという、もちろんそれもありますが、それよりももっと表れやすいことは、むしろ逆に捕まえたほうがいいという表れ方がしているということがあるのではないか。つまりAという作家とBという作家とCという作家あるいは詩人は、全く個性が違うはずであり、また方法が違うはずであるにもかかわらず、作られた作品を見ると、Aという作家の作品もBという作家の作品もCという作家の作品も、あんまり変わり映えがしないではないかというふうに、むしろ逆に見えるという現象が、皆さんがよくよく注意してご覧になると見られるのではないかと思われます。
 僕がその上捕まえようとしたことは、そういう問題です。つまりAという作家とBという作家とCという作家は生まれつき、そして自己形成の仕方も、それから作品の手法も、それぞれ違っていると当然考えていいにもかかわらず、それが出てきた作品、結果としての作品が、あまり変わり映えがしないではないかというような表れ方は、特に年少の世代の作家の中に多いと思います。
 特にそういう作家の中には、どうもそういうのが現れてきているではないか。これは一体なんだろうかという問題が、その上にあるのではないか。つまり問題とするに足る形であるのではないかというのが、僕の考え方です。つまり一般的にこれは、そうではない考え方からすれば、若い奴はもう駄目になってしまっているから、作品の個性さえなくなってしまっているのではないかと、例えば若くない作家はそう言えばそれで安心するかもしれないし、若くない読者はそう考えて、近頃の若い作家は質から言っても、個性から言っても、みんな同じではないか。質から言ってもサブカルチャーとちっとも変わらないし、個性から言っても変わらないではないかと言うと、それでもう終わってしまう。それでもう、それ以上は若い作家の作品をいわば微細な手触りで触ってみようとしないで、目を背けてしまうということがあると思います。
 これは専門の文芸批評家だと言われている人の中にもありますし、もちろん専門の純文学の作家とか、芸術家とか言われている人たちの中にもありますし、そういう読者の中にもあると思います。だからそういう触り方でして、終わってしまったらそれはつまり、自分より若い年代というものはいつでもそういうふうにしか見えないという、一般論の中にそれは解消されてしまうわけです。それで終わりなのです。
 そういう人たちや、そういう作家たちは、そういう作家たちで、だんだん年を取ってきて、古くなって老いさらばいて行くでしょう。また新しい若い作家は、自分たちは新しいのだと思いながら、自分たちも結局年を取れば同じではないかというふうになって行って、次々新しいのが出てきて「俺は新しい」と言ってみて、そうしたら「お前は古い」と言ってみて、つまり年齢改定制と言いましょうか。原始時代とか未開社会ではよく年齢改定制というのがあるわけで、長老が支配してきたと思ったら、長老が死んだら、また次に長老が出てきてとかで、若い奴は面白くないのだけど、掟だからそれに従っている。年齢改定制というのは、いわば未開社会みたいなものなのです。
 だからあまりそれは面白くないわけです。だから僕はそう考えなかったわけです。ここで非個性的に、つまり本来ならば個性ある作家の内的形成であるのだから、それぞれ個性ある作家として、作品として出てくるはずなのに、どうして急にこんなに一様に同じようになってしまうのだという現われとして、特に若い作家、詩人の作品がそういうふうに現れてきたとしたら、僕は「マス・イメージ論」の中でやってみせたことは、その共通性の部分をくくって見せるということです。
 つまりそれを、いわば作品の同一性と考えて、それをくくってしまったらどうなのだと考えて、僕はそれをくくって見たら相当くくれるのではないかと、そういうことをしてみたわけです。そしてそのくくられた部分は、単に個性を喪失した、個々の作家の共通部分というのではなくて、現代という時代の無意識の、僕はシステムという言葉を使ったのですが、無意識のシステムというものを感受した、つまり感覚したものの現れが、いわばこの同一性として現れている部分として言えるのではないかと、僕はそういう理解の仕方をしたわけです。
 だから、全く個性的ではないではないかと思える、共通の同一性としてくくれる作品の部分というものの中にも、非常に重要な問題がある、つまり個々の作家にとっても、またこれを鑑賞する読者のほうにとっても、また現在というものを見極める場合でも、非常に重要な問題がある。
 それはたぶん、現在が具体的に、具象的に指摘することができない、ある一つの分からない無意識のシステムがあったとすると、そのシステムに対するある感受性というものが、個々の作家の中にあって、それがいわば非常に大きな同一性と、非個性的な同一性として出てきてしまっている。つまりこれは、システムではなかったとしたならば、個性ある感受性がそれぞれ共通の同時代性の共通部分を持っているに過ぎないのです。
 現在が持っている目に見えないシステムというものの感受性であるがゆえに、個性ある作品形成が共通の時代性を持っていたというのではなくて、個性のない共通性というものが、個々の作家の同一部分として現れてきているという問題ではないかというのが、僕らの考えた問題なのです。
 つまりこの問題は、やはり文学芸術は現実の問題を反映するとか、文学芸術の作家には現実と戦っている人もいるし、戦っていない人もいるとかいう、馬鹿なことを言っている人が今でもいますけれども、そういう考え方ではなくて、要するに文学芸術というものは、現在必然的に、現在の時代の目に見えないシステムというものが持っているものを、無意識のうちに反映しているために、非常に大きな同一性の部分が出てきて、その同一性の部分は必ずしも濃度が濃いわけでもないし、必ずしも感銘深いわけでもないし、むしろ逆にそれはしらけてしまっている部分であるかもしれないし、訳のわからない感性、感覚なのだというものであるかもしれないのです。
 そういう現代の持っているシステムを反映しているがために、非個性的であるというふうになっている、あるいは個性的な反映の時代共通性というのではなくて、いわば非個性的な同一性の部分というものになっているということがあるのではないかと考えていったわけです。つまりその考え方が、僕らの「マス・イメージ論」というものを支えている、非常に大きな考え方の部分です。

12 つまらなく見える問題のなかの永遠の問題

 これは皆さんにとって、どういう意味合いを持つか、僕はこのようにお話しして、皆さんの中にどういう受け取られ方をするか、それは全然分からないことですが、少なくとも僕という批評家は、そういうふうに考えていったのだということを知ってくだされば、何らかの時にそれを考えてくだされば、よろしいと思います。
 そこのところまで分け入って行かないと、若い世代の作家の作品、あるいは若い世代の詩人の作品というものは、単なる軽薄短小に見えたり、単に非個性的に見えたり、単に何か伝承的な、軽いつまらないものに見えたりして、それで終わりということになってしまうのです。しかしこんなに情けないことはないのであって、僕の考え方ではこれが変わることなどあり得ません。
 つまり、文学芸術作品というのは重たいほうがいいとか、深刻無類のほうがいいとか、あるいは永遠性の問題があったほうがいい等と言っている人の注文どおりになるはずがないのです。この問題の中には必然的な、つまり文学芸術というものが必然的にそうなっているという問題が、全部が全部ではありませんが、つまり流行の部分もたくさんあるでしょうけれど、しかしその中に不易の問題つまり永遠の問題が、そういう問題の中に含まれているのです。
 したがって、もう少し丁寧に非個性的な作品、あるいは現在の口では言わないですが、あるいは口では軽々としていますが、しかし非常に鋭敏に現実の感覚しているという作家、詩人たちが作っている作品に対しても、どうか丁寧に触れてみてくれということが、僕らの言いたいことの非常に大きな部分です。だからこの問題は「マス・イメージ論」の中、僕にとっては非常に大きな柱の一つになっています。
 そうしますと若い人たちの作品というものは、同一性の部分としてはシステムの無意識というものを、この作品の中に感受するということは、非常に重要な問題のように思われます。それから、もちろん個性的な作家たちが、個々に作っているのですから、同一性でない、それぞれ違った作品の部分があります。これはたぶん個性に帰せられたり、個々の人の修練に帰せられたり、個々の人の生い立ち、自己形成の仕方の相違に帰せられたりする部分があるでしょうから、それは異なれる部分として、作品の部分としてお考えになればよろしいわけです。
 つまりこの二つの部分というものを、よくよく手触りよく触ってみるということによって、たぶんそうなって下さればよろしいと思うのですが、作品の読み方というものが、少しでも変わっていくということがあり得たら、つまり丁寧になって行くということがあり得たら、僕は非常によろしいと思います。
 なぜならば、現在という、つまり非常に僕らはもう全然分からない部分がたくさんあって、どういうことになるのだということが、分からない部分がたくさんあるわけですが、その部分がたくさん出てきているわけです。それで「いやそんなことあったって、俺はもう分かっているのだ」というのも信念があってよろしいでしょうけれど、僕はそう思わないです。もっと丁寧に現在というものに触れてくださいということを、非常に言いたいわけなのです。
 それから反体制、体制という、あるいは企業の手先と言いますけれども、手先のなり方というのにもいろいろあってとか、その反体制というのにもいろいろあって、単調に反体制にあれしますと、ろくなことはないということも、一方にはまたあるわけです。だからつまり非常に丁寧にそこは、体制であっても反体制であってもよろしいですが、体制であってもそれを否定するものがあったり、否定するものがあったらまた肯定するものがあったり、かなり複雑な操作があると同じように、反体制ということの操作も、もっと丁寧に触れてください。そうでなければ間違えますよということを、僕は言いたいわけです。
 つまり非常に丁寧にしてくださいということ、丁寧に今というものに触れてください、あるいは丁寧に現在の作品に触れてください、触れ方をしてくださいということが、僕はモチーフとしてあるわけです。それは自分の批評のモチーフとしてありますけれども、それだけではなくて、それの持つ一種の、もし批評に普遍性というものがあり得るとすれば、その普遍性の部分で、僕自身はそう考えているということがあって、「マス・イメージ論」の中の非常に大きな柱の一つとして、それは僕の中にありました。

13 文化創造の基盤の変化

 この問題からもう少し普遍して結論に近づけて行きたいと思うのですが、そうすると現在というもの、つまり今までの問題で言えばカルチャーと考えられているもの、あるいは非常に高級だと考えられていたものが、いわば生命を失って誰が見てもつまらないというか、面白くないな、緊張していないな、つまり純文学だというつもりで書いているのでしょうけれど、つまらないな、緊張していないなという作品に、そういうものはなってしまいます。
 またサブカルチャーの作品というのは、パターン形成といわばごった煮で、その中にいいものがあったかと思うと、またそれを否定するものがあって、ごちゃごちゃになってしまっている。そういう問題を考えていきますと、カルチャーもサブカルチャーも、のっぺらぼうではないか。それでは体制も反体制ものっぺらぼうではないか。もっと深刻なことの生活問題で言えば、企業も労働者ものっぺらぼうは同じではないか、それでもうよろしいのかという問題に、大げさにそれを広げていってしまうと、そういう問題にも関わって行ってしまうわけです。
 たぶん僕は従来の意味での区分けの仕方で満たされるかというと、たぶんそうではないように思います。本当のところを捕まえていったら、たぶんそんなに単調なものではなくなっているということは、たぶん個々の人たちが、あるいは個々の労働者でも、ここの企業家でも、ちゃんとそれを感受しているだろうと思われます。
 これをカルチャーとサブカルチャーののっぺらぼうな共通性ということで済ませてしまわれないという問題を、少しだけ申し上げて見ます。これは資本家あるいは企業家の面から言っても、労働者の面から言っても、つまり自分たちはどこに行くのだろうかとか、例えば資本主義はどこへ行くのだろうかとか、そういう問題あるいは労働者はどこへ行ってどうなるのだろうかという問題について、たぶん僕は違う言葉で語るでしょうが、つまり資本家と労働者とは違う言葉、あるいは企業家とそうでない人とは違う言葉で語るでしょうけれども、たぶん共通にあることが分からなくなっている部分が、僕はあると考えます。
 この分からなくなってしまった部分というものは、どういうふうに現れて来るだろうか、文化現象というか、文化の問題の中で、あるいは文学芸術の問題の中で、どういうふうに現れてくるのだろうかと考えてみますと、僕は非常に特徴あることが、二つ挙げられるような気がします。
 一つは、僕はこの「マス・イメージ論」でないところで、そういうことを語ったことはありますが、アングラということが失われたということだと思います。失われていない部分もあるかもしれませんし、「失われていないよ」とやっておられる方もあるかと思いますけれども、全般的な問題として、一般論として申し上げますと、アングラという考え方つまり体制があり、脱体制があり、体制とは関わりのない反体制があり、それはアングラというものを形成していて、そこで何か創造の泉がこんこんと湧き出ている。そこで何か文化活動、創造活動をやるという、そういう形というのは、たぶん僕の感受性では一般論とすれば、それは失われている、あるいは失われつつあるだろうなと考えます。
 つまりアングラの基盤というのはすでに、非常に希薄になっている、あるいは失われつつあると、僕は理解しています。そこの中で、かつてアングラであったものが、僕らの雑誌もそうなのですが、いかに延命するかとか、いかにこの問題に対処するかというような問題を、非常に抱え込んでいるということがあります。
 これは非常に率直に言わなければならないのですが、たぶん基盤として言うならば、アングラというものの基盤はなくなっていく一方である。つまりこれは失われていく一方であろうと、僕には考えられます。それは都市から失われていくか、農村から初めに失われていくかわかりませんけれども、あるいは同時かもしれませんけれども、たぶんこのアングラということが創造の泉であったという時代はたぶん終わっただろうなと、一般論としては思われます。だからそこの問題が、一つ非常に顕著な問題としてあると思います。

14 〈アングラ〉に代わる〈空隙〉

 それではアングラの基盤が失われてしまったら、全部のっぺらぼうではないか。体制芸術も反体制芸術ものっぺらぼうではないか、非体制芸術ものっぺらぼうではないかと思われるかもしれません。僕はある意味ではそうだと思っています。しかし、僕の考え方ではどんな社会、どんな時代、どんな強烈に高度な資本主義の社会になっても、僕は社会の管理体制、それから社会の秩序が、一枚板のシートみたいになって、またシステムというものも一枚板になって、もう息苦しくて息をするところもないというふうになるかどうかと考えてみますと、僕は相当な部分はたぶん近い将来に、それに近いものになって行くような気がします。
 しかしその場合でも、僕の理解の仕方では、それは一種のクラックなのだ、亀裂なのだ、空隙なのだという言い方をしています。空隙というものは、必ずそれ無しには高度の資本主義というのは成り立って行かないだろうと思っています。高度の資本制というものは、たぶん非常によく延命するでしょうけれども、非常によく延命していくだろうという予測については、僕はいわゆる左翼の人とちょっと違う考え方を持っていますが、たぶん相当よく延命するだろう。それで相当よく民衆の問題というものを、高度の資本主義が解決していくだろうと思っていますけれども、これは占いと同じで、当たるも八卦ですからあまり信用しないでください。
 思ってはいますけれども、しかしそれにもかかわらず、資本主義社会というものがいつまでも安定均衡を保ちながら、一枚シートの管理体制で、すっと未来永遠の問題に突入できるかと思っていたら、僕は大間違いだと思っています。つまりあらゆる高度な体制というのは、確かに管理体制という網の目を強化して行けるでしょうし、一枚シートに近付いて行って、一枚シートの上に乗る限り、極めて自由であるし、方法であるということを実現するでしょう。しかし僕の考え方では、どうしてもそこのどこかに空隙といいますか、社会のどこか、あるいは皆さんの住んでおられる町のどこかに一つの空隙といいましょうか、あるいは経済現象のどこかにまた空隙というもの、そういう一種の空隙というものを必ず必至の条件として存在せしめるだろうというのが、僕らの漠然と考えている、ひとつの予測占いです。つまり星占いと同じ程度のものですけれども、占いの予測なのです。
 それから現在もたぶん、アングラというものの基盤はなくなっているけれども、空隙というものはどこかにあるのだ。それは都市にもあるだろうし、農村にもあるだろうし、どこかに必ずあるので、そこでいわば、ある意味では非体制的なと言いましょうか、非体制的でもあるし、体制的でもあるし、反体制的でもある、そういうことは割りに自在にできる、そういう空隙というものは必ずあるだろうというのが、現在の僕らの考え方です。
 ただし、これは本質的な意味ではアングラでもありませんし、反体制でもありません。つまりそれ以外ではたぶんそういう余地はないだろうと思うのです。ただその中で、いわば変幻して、体制的であるがごとくして反体制的である、反体制的であるがごとくして体制的であるとか、そういう非常に変幻自在な形での、文化創造の根拠がある。それは先ほど僕が言いました芸術文学の帰り道、もう資本主義が助けてくれなくなってしまったという、そういう帰り道の芸術文学というものが、そこでまだ何かやれるという余地があってみたり、あるいはあまり資本主義には助けてもらう気も今のところないのだというところで、やれる場所と言いましょうか、いわば反体制的でもアングラ的でもないところの空隙というものは、あり得るのではないかという、あるいは文化の理念としてもあり得るのではないかというものが、僕らが考えている一つの占いのポイントです。

15 小劇団の象徴的な風景

 例えば、僕は時々見に行ったりするのですが、東京などで言えば、小劇団と言いましょうか、運動というものは大抵そういうところでなされているように思います。それが一番はっきりするのですが、例えば町の真ん中の質屋さんの蔵を借りて、その蔵の下だけをくりぬいて、それを観客席と舞台にして公演をやっているとか、アパートとかマンションの一番下だけを借りてくりぬいて、そこを舞台と観客席にしてやっているとかいうのが、東京などでは小劇団の演劇のあり方なのですが、その中には行きの劇団も帰りの劇団もたくさんあります。
 そういう人たちは別に反体制芸術だとか、反体制演劇だとか、そんなことはことさら何も言っていないです。そういう意味では体制的であっても、非体制的であっても、どちらでもいいのだという観点を持っていると思います。そういう人たちは、やはり一様にそういうところを根拠地として、もちろん商業劇場でもお呼びがかかればやりますし、別に気張っているわけでもなんでもないですからやります。自在にやりますけれども、でもそういうところを根拠地でやっています。
 象徴的に言えば、昔僕らが見た頃の状況劇場の唐さんのところなどは、いろいろな所に場所を転々として、テントを張ってそこでやっていました。そういうアングラ的芝居のやり方と非常に対照的で、質屋さんの蔵をくりぬいて、そこを場所にして町のまんまん中でというふうにやって、質屋さんのお蔵を借りているわけですから、質屋さんがどいてくれと言えば、はいと言ってどいて行くのだろうと思います。どいてまたそういうところを探すのだということになるわけでしょうから、気張っていてもしょうがない。ここにバリケードを築いて「俺は拒否するのだ」という、そういう大げさな問題でもなく、またそういう問対としても成り立たないわけです。だから「質流れの品を入れておくから、蔵をあけてくれ」と言われれば、ああそうですかと、また違うところを探すという問題にしか過ぎないのですが、しかし小劇団というのはみんなそういうふうにやっています。
 僕はこの頃あまり熱心な演劇を見ないから、そう言ってしまうと後で訂正を余儀なくされるかもしれないのですが、その中には、この劇団の水準というのは日本の演劇の中で、大劇団を含めても、最も高いのではないかなという、そういう劇団もあります。いくつかあります。そういう人たちは一応そういうところでやっていたりします。それは一種の象徴的な問題なので、たぶんそういう問題というものは、これから未来にわたって高度な社会にますます突入していくわけですが、その中でやはりそういう目に見えない空間と言ったらいいでしょうか、そういう問題はたぶん失われないで残っていくし、また体制自体がそれを不可欠の要因として、その空隙を持つだろうと僕自身は思っています。
 だからそこの空隙というようなものの質と言いましょうか、空隙およびその周辺というものの問題を、質としてこれはどういう意味があるかという問題を、その都度突き詰めていくことによって、たぶんさまざまな課題がそこから湧き出していくかも知れません。もしかすると高度資本主義というものが、均衡安定性のまま、未来永劫行けるかどうかということに対する危惧の始まりというものが、そういう空隙の問題の質を突き詰めたところから、出てくるのかもしれません。そういうことについては、一切占い的なものに過ぎないのですが、僕はその種のアングラ的という意味合いに変わって、いわばそういう空隙的と言いましょうか、そういう問題がたぶん現在でもこれから先でも、あり得るし不可欠なのではないかと思っております。
 もし皆さんの中でまたそういう問題を突き詰めてみたいとか、突き詰めざるを得ないという場面に立ち至りましたら、やはりそういう問題についてもよく考えてくださると、単に体制、反体制適と言っていれば済んでいた、そういう理念の問題自体に対しても、いろいろ解ける問題というものが、そこの中から空隙あるいはクラックの問題は何なのかということを突き詰めるところから、出てくるかもしれませんし、文学芸術というものが行き道だけではなくて、行き道の体制と反体制というのではなくて、帰り道という、真の芸術文学の最後の問題というものの問題を考えた場合には、必ずそういう問題が、大きな問題ということで出てきそうな感じがします。
 そこの問題は、やはり非常に大きいのではないか。この問題は、「マス・イメージ論」の中でストレートな言葉で語ってはいないのですが、その「マス・イメージ論」というものの中で、僕が考えて行った考え方を言ってみれば、敷衍してみればひとりでに出てくる問題ですので、個々でその問題についてもお話ししてみたわけです。
 たぶん僕自身は、「マス・イメージ論」の後、またそろそろ、その続きに類するものを書き始めたわけですが、そこでどれだけのことができるか分からないのですけれども、たぶん今皆さんに申し上げました問題が、僕は今考え、そしてこれから考えたりやったりしていく問題の根底にある問題意識だということは、非常に確かなように思われます。
 「マス・イメージ論」というのは、さまざまな批判というものがあって、またさまざまな読み方というのがなされてきたわけですけれども、あれはそんなにやさしい本ではないのです。やさしくないという意味合いは、本当にやさしくないのだからしょうがないよと言える部分も多少あるような気がするけれども、大部分はこちらのほうの書き方というか、言葉の展開の仕方とか、「が、だめなのだ」とか「まだだめなのだ」とか、頭の中のイメージが非常にはっきりしていないから、こんなあいまいな言い方しかできないのだとか、そういう問題がたくさんあるので、そんなにやさしくないというわけなのです。
 たぶんその時から今まで、「マス・イメージ論」を書いてそれにかかずらってから、今まで一年半くらい経っていると思うのですが、その間にある意味では、自分の中でイメージがかなりはっきりしてきた部分もありまして、また新しく分からなくなった部分というのも、もちろんあるわけなのです。そういうことがありますから、たぶん今日皆さんにお話しした要点というのは、「マス・イメージ論」という、僕の本を読むよりは分かりやすいお話ができたのではないかと思っています。
 でもそれでもまだ分かりにくいことはあると思うのですが、そこは僕のイメージというか考え方がまだ及んでいないところなので、まだそう易々とあれしませんから、まだもう少しこれから、今よりもイメージをもっとはっきりさせていくことが、自分なりにできると思っていますから、その点はこれから詰めてがんばって行きたいと思うわけです。今日お話ししたところは、少なくとも「マス・イメージ論」と、「マス・イメージ論」以降、僕が自分自身ではっきりさせたところも加味した上で、お話しすることが大体できたと思います。あまり話はうまくないから、このくらいが精一杯のところではないかと思います。これで一応終わらせていただきます。

16 司会

17 質疑応答

(質問者)
<音声聞き取れず>

(吉本さん)
 後のほうからお答えしてみますと、僕はそういうふうに考えてよろしいんじゃないかと思う。ただようするに、先ほど言いました無意識のシステムというものとして、あなたがいうメタレベルでの共同幻想というのが発生して、メタレベルで共同幻想といえるんだというふうに言える形で出てきているというふうに、僕はそう思ったほうがいいというふうに思うんです。
 それから、最初に言われたことというのはよくわからないんですけど、あなたの挙げられた中畑さんでもいいし、川崎さんでもいいのですけど、それは大衆と同じだというのですか。

(質問者)
<音声聞き取れず>

(吉本さん)
 あなたの言っていることはこういうことに帰せられるのかな。つまり、大江さんと椎名誠とはまた違うのでしょうけど。大江さんの作品というのはいくらいい作品で現在の問題を鋭敏に反映しているとしても、少なくとも、一般大衆が、読者が読むとしてもせいぜい数万ないし、いまでいうと数万だと思うんですけど、大江さんの作品を読む人というのは。だから、大衆といっても数万の大衆だと。
 これを数万以外の大衆というのが大江さんの作品を見てわかるかどうかということになる。大江さんの作品が始めからわかるように書かれているかどうかというようなことがひとつあると思うんです。
 それから、実際問題として数万以上の一般の人が大江さんの作品を読んだらわかるかどうかということがもうひとつあると思う。その2つがあると思うんだけど。たぶん、一般のふつうの人が大江さんの作品を読んでも、ぼくはわかるんじゃないかと思っているわけです。
 たとえば、川崎さん、中畑さんのCMを見る人は、テレビで見る人は、目に映っちゃう人は数百万いるのかもしれません。それから、意識的に見て、ああ面白いというふうに見る人はどの程度かよくわからないですけど、百万単位かあるいは数十万単位かわかりませんけど。それと百万単位の読者が大江さんの作品を読んだらわかるだろうかということになると思うのですけど。ぼくはわかると思っていますけど。ただ、読もうとしないと思うんです。読もうとしない言葉で書かれていることは確かで、つまり、大江さんが、さきほど言いました芸術というのはそうですけど、あくまでも作者の自己表現というのが主体ですから、どうしても何々のために書いているということは、どうしても純文学・純芸術の場合は従になります、二次的なものになります。だから、大江さんは最初から百万単位の人はこういう言葉であればわかるはずだから、俺も小説をそういう人のためにそう書こうというふうに初めから考えていないと思う。
 ですから、たぶんそうじゃなくて、百万単位の人が大江さんの作品をもしとっついたら、僕の考えではわかると思っています。そのわかるという意味は何かといいますと、本質的にはわかると思っています。なにかわからないことが書いてあったけど、しかし、この作品から受けるあるひとつの感じというのがあって、その感じだけは伝わるという意味あいで、僕はわかると思っています。そういう意味あいではとっつくチャンスがないということはひとつあると思います。
 それからしかし、もうひとつは大江さん自体が何々のために書いているという意味あいでいえば、やっぱり自己のために書いているということが芸術の主体ですから、言葉は最初から、百万人が使っている言語レベルがこうだからそこでの言葉はこういう表現の仕方をすればいいみたいなことをいちいち考えながら作品を書いていないと思います。だから、必然的に数万というふうになっちゃうと思います。
 大江さんはたぶん最も多く読まれている作家の一人で、それは優れているということが必ずしも多く読まれるということと矛盾しないという例のひとつとして大江さんはあげられる珍しい人だと思うんです。
 それはなぜかといえば、大江さんは現代に対する感受性というのも非常に鋭敏な人ですし、それを作品の中に反映できているといいますか、それがひとりでに入っているという意味あいでも鋭敏な人ですし、優れた作家でもありますから、そういう意味あいでとても多く読まれて、しかも純文学としては限度まで読まれていて、しかも非常に優れた作家だというふうにいえる作家の一人だと思います。
 でも、初めから言ったように、言葉自体が、言語自体が数万という言語ですから、精一杯あれしてもそうですから、一般大衆にそれが読まれる可能性は非常に少ないし、読まれたら言葉の個々の意味はわからなくても、ある作品の感受性というのは伝わると思います。芸術というのはいってみればそれが伝わればいいんだということになってしまうところがありますから、そういう意味合いではわかるんじゃないでしょうか。それはやっぱり、川崎さん、中畑さんのレベルとそういう意味合いではちっとも違わないと思うんです。

(質問者)
<音声聞き取れず>

(吉本さん)
 僕はそう思ってますけど。つまり、知の過程というのは、いってみれば、資本主義のいちばん根幹にある、たとえば、生産手段なら生産手段というものを絶えず更新していかなければ進展していかない。成り立っていかないという問題があるのと同じように、知の問題というのを絶えず、ほっといたら上昇するに決まっているというふうに僕は思います。だから、知識というものは必ず上昇過程をたどるということは、いわばこれは自然必然的なものであると考えます。
 ですけれども、知の課題というのは自然必然的なもので終わるかといったらそうでないのであって、必ず帰り道がある。帰り道というものは、必ず大衆というもののイメージといいましょうか、そのイメージがどこにあるかということは、それぞれの時代になかなかつかまえにくいので、つかまえること自体が課題でもあるくらい難しいことだと思いますけど。でも、帰り道というものは、必ず大衆的な課題というものを自分のなかに組み込んでいかないとならないという課題をどうしても負うと思うんです。
 それはたぶん、帰り道の課題なので、ぼくはその課題というものの中に自分自身を位置づけているところがあるから、たぶん、ぼくはコウモリみたいなもので、いわゆる左翼みたいな知の上昇過程で反体制みたいなことを言っている、そういうのはおれは全然仲間じゃないって思っているわけです。本音をいうと、ぜんぜん違うんだと、行きがかり上、友達になったりするけど、おめえらとは違うんだと思っているわけです。
 それから、もうひとつ違うんだと思っていることがあるわけです。それはたとえば、知の上昇過程というものは、いわば文化の根幹にあるというような考え方からいくと、いちばん知の全体のイメージを動かすのは、いわば頭脳流出組だということになるんです。つまり、いるでしょ、頭の良い人でノーベル賞候補みたいな人が、アメリカとかヨーロッパとか行って帰ってこない奴がいるでしょ。時々、帰ってきて挨拶したりして、また向こうに行っちゃって、向こうであれしている人がいるでしょ。我々のあれでいえば頭脳流出組というのがいるでしょ、その次には知の往復組というのがいるでしょ。つまり、行ったり来たりしている奴がいるでしょ。向こうの構造主義のなんとかがこうだぞとかいって、帰ってきて言って、また向こうへ行ってという、絶えずそうやっている、頭脳流出組の次には頭脳往復組がいて、その次には国内組がいて、国内外国組がいたりして、それからあとは国文学者みたいにあまり娯楽もできないしというのがいるわけです。そしてもって知というのを動かしているのは、アメリカであり、ヨーロッパの最先端の知的な課題が全世界の知的な課題を動かしていると思っている人がいるわけでしょう。
 おれもそうだと思われているところもあるんです。だけど、ぼくは絶えず時間があるときには、おれは違うよ違うよっていうふうに、僕はいつでもいっているわけですけど、おめえらとは違うぞとやっぱり言っているんです。つまり、ぼくはよくそういう比喩を言うんだけど、ぼくは日本バンタム級7位だと、おれは世界ランキングじゃないというんです。おれは日本バンタム級7位くらいだと、それだけれど、いつでも世界チャンピオンと試合はできますよというふうにはちゃんとしておきますし、しておきますというふうには、やれば負けるんですけど、必ず負けるんですけど、つまり、それはなぜ負けるかはよくわかっているんです。努力が足りないところもあるんですけど、努力だけじゃないというところもあって、だけどもいつでも試合はできますよというのと、それと、知の課題として、世界ランキング1位じゃないけど、世界ランキング36位くらいだって思っている人はいっぱいいるわけです。日本では1位だけれど世界ランキングでは35位くらいだって、日本でたぶん1位だと思っていると、だけど、日本ランキングなんか問題にならないから、おれは通らないんだと、しかし、世界ランキング35位だって思っているやつはいるんです。それから、もしかするとうぬぼれていて、世界ランキング10位以内だと思っているやつもいるんです。いるでしょうがよく(会場笑)。
 ぼくもそれと同じだと思われているんです。しかし、それは非常に粗雑ななで方であって、ほんとうをいうともっと微細に見ていただきたいんですけど、ぼくはいつでもそういった意味で日本バンタム級7位だって言っているんです。ただ、おれは世界ランカーなんかと闘わないよと、つまり、世界35位なんか問題にならないよと、ただ、世界チャンピオンとならいつでもやりますよと、ただ敗けますよと言っているだけです。それは乱暴にいうと同じに思われるかもしれないけど、ほんとうはまるで違うことなんです。
 それは、言ってみれば知というものにも行きと帰りがあるんだという、だから、ぼくは単なる一インテリであって、そういうことしかやっていないんだけど、だけども、僕自身の課題とすることと、あるいは、僕自身がやっているということ自体と、それから、文化というものの現在のあり方の中心のところがどこにあるかということとはかい離しているわけで、かい離してその距離は絶えず測っているわけで、それを簡単にくっつけたりしていないということはあるんです。それが行きか帰りかという課題と大きく関係するわけです。
 これはちょっと世界ランキング35位だというやつは、自分のもっている課題が日本の文化の課題だと思っているところがあるんです。それは僕に言わせれば大間違いだということがあるんです。それを僕が言っても通用しないんです。それから、ぼくを左翼だと思っているんですけど、おまえと違うよと言っても通じないんですよ。それから、逆におまえは左翼じゃねえという奴もいまして、自分たちみたいのが左翼で、おまえは左翼じゃねえって奴もいるので、しかし、そんなことは問題にならないんです。
 つまり、そんなことは全部わかっていることなのであって、ただ、ようするに、知というものの課題は無限上昇の課題です。資本主義の技術革命というものの無限上昇の課題と同じことなんです。しかし、どこかにそれは帰りの課題というのがあるんだというのが僕らの観点で、その帰りの課題というものはうかうかと押さえられないんだけど、しかし、それはたえず押さえていないといけないぞと、努力というのはおかしな言い方ですけど、押さえるイメージをもたないとダメだというふうに思っていることは思っているんです。そこらへんの問題じゃないかと思うんですけど。



テキスト化協力:ぱんつさま(チャプター17)