いまご紹介にあずかりました吉本です。いまご紹介いただいたことと少しずれてお話ししたいと思いますが、でもお話ししたい一番肝心なところは変わりませんから、そういうことで始めたいと思います。僕は長い間、文芸批評をやってきたのですが、現在、僕が一番関心を持っていることで、しかも文芸批評というものがいま当面しているのはどういう問題かという視点から、いま書かれている作品にも触れながら少しお話ししてみたいということです。
先ほどもプライベートにそういう話をしていたのですが、たとえば時計を考えてみると、究極時計というものがもうできているといえるのではないかと思います。ただ時を知るということのためだけならば、きわめて正確なものが現在できてしまっていて、それ以上のことはいらない。それは安くて、本当に簡単にどこでも売っているという感じです。あとは装飾的にどうするかとか、かたちをどうするかとか、軽くするにはどうするかとか、いろいろなことがあるでしょうけれども、しかし何秒ぐらいしか違わないというぐらいきわめて正確に時を正しく知るという意味合いの時計ならば、もう究極のものができて普及してしまっていると考えたほうがよろしいわけです。
また、たとえばミノルタα1600はほとんど究極カメラに近いのではないかと思われます。カメラの分野でもそれは専門家が当惑するような意味合いで、究極カメラがたぶんできてしまっているといえるのではないかと思われます。
それと同じように、文学、芸術の分野でまず究極な表現ができてしまっているなと思えるのは、映像の分野です。つまり映像の分野ではほとんど究極の映像がつくられてしまっていると僕は思います。僕はそれをもう十日ぐらいで終わるつくば万博の富士通館で見ました。
普通のコンピューターグラフィックの刻々に動いていく映像を見るわけですが、色差式のめがねでそれを見ると、映像が全部浮き上がってくる。それが全然すき間のない空間をつくって、円形ドームが全部スクリーンになっているところで見ると、ほとんど自分もその中で浮かんでいるような視点から、一種四次元の映像がちゃんと動いて見られてしまうようにしつらえてあります。たぶんそれが映像の究極的なかたちだろうと思われます。
ある分野、分野をたどっていくと、そこでだいたいにおいて、これでもうドン詰まりだろうといいましょうか、あるいは何かの始まりだろうといっても同じことですが、そういうものができてしまっているところがあります。ただ、いま僕らが文芸批評のところで何を考えているかというと、つまり究極のイメージとしての文学、あるいは究極のイメージから見られた文学とはどういうことなのだという、本当はそういうことの理論を築いてみたいわけです。
僕はいまから二十年ぐらい前でしょうか、『言語にとって美とは何か』、つまり文学作品を言語の表現として見た場合にどういう問題があるかという文章を書いたことがあります。それは言ってみれば言語表現としての文学という観点で文学の作品を理論化していったということだと思います。
僕がいましたいことは、イメージの美としての文学とは何かということで、それが僕の課題であるわけですが、もし興味がおありになれば『海燕』という文芸雑誌に「ハイ・イメージ論」を連載していますから、それをご覧くださればきっと僕のやりたいことはわかってくださると思います。つまり言語表現としての文学というものを、究極イメージから見られた文学、芸術作品、つまり表現というものの中に包括させてしまいたいわけです。それは僕が文芸批評の課題としていま考えて、そしてできるかどうかわからないのですが、やろうとしていることで、本当はそういうところから今日のお話をやってみたいわけです。
文芸批評が当面している問題は、人さまざまですが、僕らの問題意識からいえば、たぶんそこが一番大きな課題ではないかと考えています。だから全体的なイメージとしての一種の普遍的な理論の中に文学作品についての評価の仕方も含めてしまいたい。それがいま当面している文芸批評の一つの課題であると思います。僕らがしようとしていることは、いってみればそこに帰着してしまうわけです。
そういう観点から、僕は作品をどういうふうにそれを扱えればそういうことができるのかについて、本当のちゃんとできあがった構想とかイメージがつくれていないのですが、しかしいろいろなことを考えていて、その考えつつあることの一端で、ある程度わかってきたなと思えるところもあるわけで、そのところで今日のお話をちょっとしてみたいと思います。必ずしも僕が究極的にわかってしまったということではないので、決してすっきりとはいかないのですが、しかし文芸批評の問題の所在から現在の作品を見た場合に、どういうことがいえるのか、そういう問題をお話しできればと僕は考えます。
どういう作品を取り上げてもいいわけですが、文学作品を皆さんがお読みになると、こういうことに気づかれることがあると思います。つまりある作品の数十行のところにその作品の全体を象徴するに足りるような、非常に濃縮されたイメージがそこでつくられているという作品に当面することがあると思います。
またその濃縮されたイメージがあるところに、また物語としてのある一つの頂点も同時にそこに含まれている。ある一つの作品の中の一種のクライマックスがあって、そのクライマックスを数十行に象徴させれば、数十行の中にクライマックスの作品のイメージと、物語の一種の結論部分、山場がちゃんと集約されている、そういう作品に出合われることがあると思います。
もう一つ、そううまくいかなくて、ある作品を読んで始めから終わりまで大変おもしろいのだけれど、あるいはところどころに何か自分が大変感銘を受けたり、引っかかったりする箇所があるのだけれど、そんなふうに数十行のところに作品の全体が全部濃縮されているとはいかない。そういう意味合いでいったら、何か作品のありどころが始めから終わりまでまんべんなく分散されている作品に出合われることもあると思います。
それからあえてもう一ついいますと、クライマックスとか、ここに濃縮されたイメージをつくっておいたとか、あるいはここに物語の頂点がつくられているとか、そういう作品では全然なくて、始めから終わりまで読んでみたけれど、そしてそれぞれの場所はおもしろいのだけれど、結局、何だかよくわからない、この作品は何を象徴しようとしているのかあまりよくわからないという作品に出合われることもあると思います。
こういう場合にいえることは、こういうさまざまな作品に出合われるわけですが、このことはどのやり方をしているからいい作品であるとか、どのやり方をしているとだめなのだとか、つまり作品のよしあしということとは一応関係のないことだということです。それは一種の作者にとってのやり方でありますし、また作者も無意識ですが、文学作品はそういうふうにいくつかの類型に分けられてしまうような作品の形成の仕方がされているということでもあるわけです。そういうことにぶつかることもあると思いますが、これは作品のよしあしとは一応別の問題だと思います。
例を挙げてみますと、古井由吉さんの『明けの赤馬』という題名の小説集の中に含まれているのですが、『明けの赤馬』という短い作品があります。これはさしたる筋書きもないという作品です。虚無感を抱いたり、鬱屈があったり、自分がそういう年になって毎日のようにお酒を飲みに行った。明け方になって家に帰ろうとしたら、家のそばで目の前を赤い馬がスーッと幻のようにかすめていく。近所に学校の農技園みたいなものがあって、そこを馬が通ることはごく普通のことなんだけれど、そういうことにぶつかったというところから作品が始まっていくわけです。
何を言いたいかというと、古井さんという人はそうですが、自分の生命というものをじーっと凝視しているところで出てくるさまざまな問題を作品の中に出したいわけです。そこで別に物語の筋が展開するわけでもないのですが、一種の研ぎ澄まされた生命感を出したいということは古井さんの作品全般のモチーフです。幻の赤馬を見たというのも、そのモチーフに沿って書かれている。
作者とおぼしき私は、幻の馬が酔っ払った目をスーッと通り過ぎていったのを見て、これは自分もそろそろ気をつけないといけないと感じたというところから始まる。気をつけなければいけないというのは何かというと、つまり幻みたいなものを見るようになったら、酒もあるけれど、度を過ごしてしまっているというような意味合いでもありますし、また自分の生命がいつ不意打ちに終わるかもしれないという意味合いでもあります。一種の老いの兆しみたいなものとして、作者はそれを受け止めるわけです。
そこから何が始まるかというと、自分はこのごろ口の脇にしわが寄ってきた。なぜこんなしわが寄ってきたかと考えて、これはひそみということではないか。つまり自分でも気づかないのだけれど、ある表情をたくさんとっていると、ひとりでにそこにしわというか、筋ができてしまう。その一種ではないか。それは女の人だけにあるわけではないのですが、女の人が表面は非常に朗らかそうにしているのだけれど、額かどこかにしわが寄っている。そのしわは一種のひそみであって、本当は亭主の浮気に対する抗議であるとか、亭主とうまくいかないことの鬱屈とか、そういうものが自分の意識の中に起こって、それがしわの中に現れるのをひそみというわけです。
つまり自分のしわもそれではないかと考えて、どういう表情をとればこうなるのだろうかと、能面にあるような、昔からあるさまざまな表情の典型を自分で鏡の前でやってみる。しかし自分のしわの寄り方はどんな表情をとってみても、そういう表情にならない。これは一種、生命というか、運命というものが自分に何か無意識に働きかけていて、それがそういう筋をつくる。それがどうやってつくられているのか、自分がどういう表情をしてそれをつくったのか、自分にはわからない。そのところに、もしかしたら生命ということも含めて自分の運命がそこで刻まれているのではないかと私という人物は考えるわけです。
そして今度はそこからもう少し飛躍していって、寝相、寝ているときの表情を作者は考えます。もしかしたら寝相、つまり寝たときに自分がどういう表情をとっているか、自分ではわからないけれども、そのときにとっている表情が一番重要なのではないか。なぜかというと、それは自分が目覚めて活動しているときにつくる表情でもないし、もちろん何か苦しみがあって、その苦しみに耐えようとしてつくる表情でもなくて、本当に寝てしまって半分仮死状態みたいなときにできる表情なので、それは無意識でもあるし、またそういう言い方をすれば自分がこしらえようとしている運命でもないし、また自分が築こうとしている意思でもない。だけど寝姿の表情の中に本当の意味で人間の運命、宿命が含まれているのではないかと作者は考えるわけです。
そういう考え方が古井さんの小説の特徴で、そこで一種非常に鋭敏な生命の揺らぎをいつでも感じさせるところがいわば古井さんの小説のいわば勘所ですが、この作品もやはりそこが勘所です。これはヘーゲルという哲学者が『精神現象学』という大著の中で言っています。人相とか骨相とか手相などについて言及しているところがあって、人相見とか手相見は何を見るのか。それは要するに運命を見るのだ。どうやって運命を見るのか。その表情、あるいは表現である筋の直接性の中で、それを見ようとして、そこで運命を見てしまうわけです。その運命を見られるかどうかということはさまざまですが、少なくとも人相とか手相に運命を見ようとする人は、筋とかそういう表現の中にその人の運命が含まれていると一種の思い込みがあって、その思い込みでもって人相とか手相は成り立っているのだとヘーゲルは言っています。
われわれがこの人の運命がどうであるかとか、この時代の運命はどうなるのか、現代はどうなるのかということを言う場合には、必ずその人の一生涯が終わってしまったとか、その人の生涯の峠は終わってしまったということをあとから見て、その人の運命はこうだったなと思うわけです。それはいわば歴史的認識、あるいは文学史的認識はいつでもそうであって、すでに終わってしまったもの、あるいは大部分が終わってしまったものをちゃんと見て、それを分析して、ああ、この人の歴史的運命はこうだったなとか、この時代の歴史的運命はこうだったなと考えるのが歴史あるいは文学史の考え方です。人相見、手相見はそうではなくて、ただの筋に過ぎないとか、ただの表情に過ぎないというものからその人の運命が見えると思い込むということが、非常に特徴的であるとヘーゲルは言っています。
しかし人間の認識の仕方の中には、しばしばその種の思い込みが含まれてくることが非常に重要なことなのだと言っていますが、古井さんは、ヘーゲルが言っていることを小説でもって表現しているようなもので、その小説の中には熟年以降の男の運命の揺らぎに対する鋭敏な反応、鋭敏な凝視の仕方が含まれているわけです。
この作品をよく見ればわかるのですが、短い作品ですがここがこの作品の凝縮されたイメージと凝縮された筋書きの意味が含まれているところだと思えるのは、いま申し上げたところです。明け方に幻の赤馬を見たというところから自分の老いを考え、その老いというところから自分の口の端に寄ってきたしわ、筋でひそみを考え、そこから改めて寝相という自分にまったく責任のない顔立ちの中に自分の本当の運命があるのではないかと自分の認識の仕方を延ばしていくというところがこの作品の集約点です。
この作品をよく見ると、この考え方の集約点と作品の物語性の集約点が見事に一致していて、これはたぶん数ページの間に含まれています。そしてこの集約点をイメージとしてよく考えてみると、老いの兆しである酔眼のうちに幻の馬を見たというところから入っていき、そしてひそみの表情に突っ込んでいき、最後に寝相に思い至るというところで自分の老いを感じさせる年齢になった自分の生命感、生命の揺らぎを描き尽くしているといえる。
そうするとここにはイメージの集約点があるだけではなくて、もしそういう見方をするならば、イメージの入口とイメージの出口というのはおかしな言い方ですが、寝相というところに思い至るところがたぶんこの作品のイメージの出口です。つまりイメージの入口と出口がやはりその集約点の中に含まれているということができます。
この作品形成の仕方を見ていくと、たとえばこの作品はなぜいいのか、どこがいいのかと考えていった場合、たぶんどなたがこの作品を読まれても、僕がいま言ったそこのところが作品のクライマックスであり、作品のイメージの頂点であり、また物語としての筋の頂点であるということがわかるように描かれていると思います。その描かれ方にはすぐれた文学作品の作品形成の仕方の中の一つの大きな特徴であるわけです。
これはほかの作品でもいえます。それは大江さんの最近の創作集、『いかに木を殺すか』の中の作品でも同じことがいえます。たとえばその中の「揚げソーセージの食べ方」という短くて、その創作集の中で最もいい作品だと思いますが、その作品を見ても、やはり古井さんと同じような意味合いでイメージの集約点が非常にはっきりしていて、そのイメージの集約点が同時に物語の集約点であるということは非常に明瞭に見てとれます。そしてもしそういうとらまえ方をするならば、イメージの入口がどこにあって、イメージの出口がどこにあるかということも、よく考えれば見ることができます。
その作品は、大江さんとおぼしき私という主人公は、アメリカの大学に客員の先生として呼ばれて行って、そこの宿舎で自分で野菜を炒めたり、麺を食べたりしながら、やっぱりこれも古井さんと同じで一種の生命の揺らぎをパッと実感するというところから始まります。自分がひとりでにぼんやり、ゆっくりゆっくり味わいながら食べている。そういう自分にふと気がついて、自分でおやっ、俺はいったいどうしたんだと思うわけです。普段の自分の食べ方はガツガツとして、さっと食べ終わってしまうのだけれど、そのときは何かいちいちもやしとかを味わうように食べている自分にふと気がついて、おやっと思う。そのおやっと思うところがイメージの入口なのです。
自分にも落ち着いてものを味わうとか、あるいは自分の老いはどういうものなのか考えるようなことをときどきやっているのだなと気がついたことがおやっと思うことなのですが、そこがこの作品の入口です。そこから連想が湧いて、自分の母方に変わったおじさんが一人いて、お寺の跡継ぎであるのに仏教の本は全部独学でやってしまい、自分は勝手に親の反対を押し切って上京し、早稲田の理工科に入ってしまった。そのおじさんのことを思い浮かべた。
なぜそれを思い浮かべたかというと、自分はどこかに旅行に行くとか外国に行くときには必ず持っていく本がある。その本の中の一つに日本語でいうと『大般涅槃経』ですが、文庫本では岩波文庫に『ブッダ最後の旅』がありますが、それを持っていく。それを非常によく読んで、子どものときに自分によく話して聞かせてくれたのがそのおじさんだったというところから、そのおじさんの話に入っていくわけです。戦争中、周りがざわめいていても全然そんなことには感知しないように勝手に羊をいっぱい連れて山のそばに行って、羊たちに草を食わせて、自分はそこで一日中ノソノソしていて、夕方になるとまた家に帰ってくる。そういう生活をしている変わったおじさんだった。
そのおじさんには村の中で妙なうわさが立った。それは何かというと、一つは、あの人にはいつも目に見えない赤い糸がくっついていて、あの人は羊を連れて山のほうに行くけれども、それはいつでも赤い糸をたどって行っているのだといううわさです。もう一つは、あの人が羊を連れて山のほうに行って、夕方にならないと帰ってこないというのは、獣姦、羊と性行為をするためだといううわさです。そういう非常に特徴あるおじさんのことを思い浮かべるのです。
そのおじさんは戦争が終わったときに、村の中学の代用の英語の教師をしていた。ところがその教師も途中で辞めてしまって、羊を五頭ぐらい連れて四国の山奥から東京へ放浪の旅に出た。それは、羊を五頭連れて東京へ出家をしていった仏教哲学者という新聞記事にもなったことがある。東京に出てきて何をするかというと、初めは高田馬場の駅のところで、あとには新宿の駅のところで浮浪者生活をするわけです。作者とおぼしき私とその奥方はときどき新宿駅の地下道にいるおじさんのところに食べ物を持っていってあげたり、いろいろな話を聞いたり、郷里からみっともないから帰ってくるように言われていることを伝えたりということをずっとしながら交渉をしてきた。
おじさんがあるとき、地下道に落ちていた食べ物を食べて下痢をしてしまう。作者の奥方が行ったときに、ちょうど下痢の最中で苦しんでいた。そのおじさんが何て言ったかというと、近ごろの若い人は食べ物の捨て方を知らない、もしほかの人が食べたら体に悪いというものはちゃんと包んで、縛って捨てるべきものなのだという言い方をした。親類やはたのものから見れば、新宿の地下道に巣食っている浮浪者の一人に過ぎないわけですが、そのおじさんは自分をそういうふうに思っていないので、ブッダの修行と同じように自分もここで修行をしているのだと考えていた。
あるとき作者とおぼしき人がやはり新宿の地下道に入っていってみた。そうしたらおじさんがそこで箸に通した揚げソーセージを食べていた。それはちょうど仏様のような姿勢で、ゆっくりゆっくり食べていた。あまり近くまで寄れなくて、十メートルぐらい離れたところで見ていたのだけれど、何かその食べ方を見ているうちにハッと思って、いまならばこのおじさんは郷里に帰ってくださいと言えば帰るに違いないと直感する。郷里の甥がお寺の跡を継いでいるわけですが、甥におじさんにいま言えば帰ると思うから上京させて、おじさんを説得すると、おじさんは帰ることに同意した。郷里に帰って、甥の家の離れにしばらくゆったりと住んでいたけれど、その冬に死んでしまった。そういう作品です。
その作品のイメージの入口は、つまり自分がアメリカの大学の宿舎で自炊の麺類か野菜かをゆっくりゆっくり味わいながら食べているところで、そのおじさんのイメージに入り込んでいく。そこがこの作品の一種のクライマックス、つまり作品の集約点の入口だと考えられます。そして最後のところで、おじさんが揚げソーセージを食べているその姿を見て、ああ、この人は勧めればもう帰ると言うに違いないと作者とおぼしき私という主人公が直感するというところが、たぶんこの作品のイメージの出口であると思われます。
この出口と入口の中に、これは量でいうと一カ所ではありませんが、二カ所か三カ所になりますが、集約すればやはり数十行に過ぎない。つまり数十行の中に物語の集約点であり、同時にイメージの集約点があるというのがこの作品の中にあって、ここのところがたぶんこの作品の一種の頂点、全体を象徴するにたる地点だと考えられます。
この大江さんの作品も古井さんの作品も、いわゆる純文学作品といわれています。しかし私がここで言いたいことは、これを純文学作品と言いたいのではない。そういう言い方をしないで、作品の全体を象徴するにたるイメージが数十行の中に集約されている。またその中に物語としての作品の集約点もそこに集中されている。こういう集約のされ方をしている作品の一つの類型と言いたいわけです。
つまり純文学とか大衆文学とか、カルチャーとかサブカルチャーとか、そういう言い方をしたくない。それは作品の一つの類型として数十行のところに凝縮されたイメージと、凝縮された物語性が込められている。そういう作品の形成の類型として考えていかれると、さまざまなほかの分野の問題と共通の基盤で考えていくことが可能になっていきます。そういう見方をしたいわけです。
もう一つ、こういう例を挙げてみると、たとえば島尾敏雄さんの最近の短編集ですが、『夢屑』、つまり夢の断片という創作集があります。その中で、作品全体が十行ぐらいの作品があります。それをまたイメージの問題として見てみると、奥さんがキリギリスになっているという作品があります。
キリギリスになった奥さんのそばに風呂敷が被せてある鳥かごがあった。自分が非常に気に食わないことを言ったら奥さんのキリギリスは黙ってピョンと飛んでその鳥かごの中に入ってしまった。びっくりして、これはまずいことを言ったと思って鳥かごの風呂敷を開けてみたら、だれもいなくて、キリギリスの影もかたちもなかった。青くなってよく見たら、その中に三羽ぐらい鳥がいたのだけれど、その下のほうにカエルがいた。鳥かカエルかどっちかがキリギリスを食べてしまったのだ、いったいどうしようか、どうしたらいいんだと思った。自分が気に障ることを言ったから、奇妙な表情と怒った声で何か叫んだ奥方の声が耳についてしょうがないのだけれど、しかしもうどうすることもできないという作品です。
これはたった十行ぐらいの作品ですが、しかしなかなか見事な作品です。こういう凝縮された作品の場合には、全体がイメージの集約点みたいなものだけからできている。しかしどこに入口があるのだろうかと考えることは、文芸批評の大きな課題です。つまりこれは人さまざまで、さまざまに考えることができます。
しかし僕はいまの自分の考え方からしたら、この作品のイメージの入口は、たぶん奥さんがキリギリスだったというところではないかと思います。つまり奥さんがキリギリスだったというのは非常に奇妙なことです。たとえば皆さんの恋人、男友だち、女友だちがキリギリスだったと想像してごらんになればすぐに実感的にわかると思いますが、これはかなり壮絶な、激しいことです。
自分から絶対に離れて、自分とは意思が通じないとか、情感が通じないとか、愛情も通じなくなっているとか、よほどそういうふうに思っていないと、たとえば奥さんがキリギリスだったといきなりやれないわけです。あるいは自分の恋人がキリギリスだったとか、豚だったと実感されてごらんになればすぐわかりますが、それはかなりすさまじい。本当はただそれだけ書いてあるだけなのに、そこから作品が始まるだけなのですが、その始まるところはすでに相当大きな含みがあって、それは相当すごいことなのではないかと思われます。
すぐに想像が広がるのは、たとえばカフカの『変身』という作品があります。『変身』では、のっけの一行から、朝目が覚めると虫になっていたというところから始まります。だから虫になっていたというところが、この作品の入口であるわけです。虫になっていたということが何を意味するかという問い方をしてみると、とてもよくわかります。どういうふうなわかり方をすればいいかというと、たとえば気がついたら交通事故で身障者になっていたとか、足が一本なくなって病院にいたとか、それよりももっとすごいことだと思います。
つまり自分が何かにぶつかるところまでは覚えていたけれど、あとはわからなくて気がついたら病院にいて、自分の片足がなくなっていたというところから作品が始まるというのと、ある朝、目が覚めたら虫になっていたというところから始まるのとは、格段の違いがある。
身障者になっていたという言い方ならば、これからあと、もしかしたら深刻な物語が展開されるかもしれないぞという予感をさせるかもしれないけれど、その深刻さには一種の限界がすぐに想定できます。少なくとも身障者になっていたというところから始まる物語は、一種の人間性の物語であって、人間性の悲惨であったり、人間性の悲しみであったり、人間性のつらさであったり、苦労であったり、そういう物語として展開するに違いないという意味合いでいえば、一つの限界が初めから見えるといえば見えるわけです。この物語がどんなふうに展開されようと、たぶんこれは身障者と、そうでないものの物語とか、身障者の悩みの物語とか、そういう物語だろうとすでに限界があると見てもいいわけですが、ところがある朝、目が覚めたら自分が虫になっていたというのは、もっと深刻です。
しかしカフカの『変身』は読みようによってはもっと深刻な物語です。自分は虫になってしまった。そのあとに変化が起こるわけですが、妹だけがそれに気がついて、両親に内緒で虫である自分に食べ物をあてがってくれる。その次には女中が、掃除をするためにドアを開けてみたら虫がいて、息子がいなくなってしまっているのでびっくりして、もう辞めさせてくれと、暇をとって辞めていくということがあります。虫になった息子が働き手であったために、親父さんはすぐに銀行の用務員にまた勤めるようになり、母親は下着の縫い子みたいなものになって内職をする。妹はどこかの店員さんになるというように、すぐに環境の変化が起こってしまいます。
ところがもっと深刻なことが起こります。家計を助けるために部屋を空けて、そこに間借り人を三人入れます。あるとき妹がバイオリンを弾いていたら、間借り人がいい音だ、もっと聴かせてくれといって妹が一生懸命弾く。だけど間借り人はだんだん飽きてきてしまって、自分の部屋に引き上げてしまう。虫になった主人公、グレゴールはそれを見て妹がかわいそうになって、妹に自分の部屋でバイオリンを弾けば俺が聴いてやると言おうとして、部屋からノソノソ出てくると、間借り人は、何でこんな虫を飼っているのだとびっくりしてしまう。
妹はそのときに非常にいい気持ちでバイオリンを弾いて聴かせているわけですが、せっかく自分がいい気持ちで弾いているのに、虫である兄貴がノソノソ出てきてしまって、そのためにその場の雰囲気をぶち壊してしまったということで、妹はいままで我慢していたものが一気にほとばしり出て、こんなのは私の兄さんではないのだ、ただの虫なんだ、だからこんなのはうっちゃったほうがいいんだと父親と母親にヒステリックに言いだします。
この虫が本当に自分の兄さんだったら、こんなときにノソノソ出てきたりしないはずだ、つまり隠れるように潜んでいて、自分がせっかくいい気持ちで間借り人に聴かせているバイオリンの雰囲気をぶち壊すようなことは、兄さんだったらしないはずだと、いままで我慢して、親切に食糧をあてがっていたのですが、そこでヒステリーが爆発してそう言いだしてしまう。それを聞いて、私である虫は、これはもう自分ももちろんそんなに迷惑をかけようとは思っていなかった、だからここが潮時だと思って、自分の部屋に行って、もう三日も何も食べないで、そのまま干からびて死んでしまう。
翌日、家政婦がやってきてドアを開けると、いままでノソノソいた虫が干からびてひっくり返っている。それをパッと掃き捨ててしまって、虫がとうとういなくなったというわけです。そのあとで気を取り直して、間借り人も出て行ってくれと追い払ってしまって、そのあと父親、母親、妹の三人が郊外にピクニックに出かける。これからの生活設計はこうしようとか、また妹は妹でこういうことをやっていきたいとか、夢と希望を語るということで作品が終わります。
この作品のイメージの入口は、のっけの虫に変身してしまった私、つまり主人公ですが、これはたとえば交通事故で片足を失ってしまったというようなことよりも、はるかにすさまじく、また決定的なことであるということをカフカは言いたいわけです。そのために起こってくる問題も、身障者になってみんなで面倒を見なければならなくなったということよりも、はるかに深刻で、残酷で、そういうことが作品として展開されて、それは虫である私もそれにいちいち感応していって、たぶん妹のヒステリーを経験して、虫である自分もそろそろ死にどきであると考えて、部屋の中で死んでしまう。そのあたりがたぶんイメージの集約点の終わりです。
もしも別の入口と出口をつけようとするならば、それもまたこの作品は見つけることができます。それは何かというと、まだ人間であるときに、グレゴールという兄貴の部屋の中にその当時はやりの美人の肖像画の入った額縁があって、それが気に入って置いてあるわけですが、妹は兄が部屋の虫になってしまったから、その調度を全部部屋から出してしまおうと、その額縁も取ってしまおうと考えた。そのときに虫になったグレゴールは、額縁にしがみついて、妹にこれだけはこの部屋から持っていかさない。額縁に固執するというところが、この作品のもう一つのイメージの入口です。
そして最後にグレゴールも虫として死んでしまって、間借り人も追い払ってしまって、あとに残った三人が久しぶりに郊外にピクニックに行って、妹は自分の将来の希望を語るようになるし、親父さんたちはもう少し違うところに引っ越して気分を新たにしてやっていこうみたいなことを言う。そういうことと額縁にしがみついて取り払わせまいとした虫であるグレゴールの努力、抵抗とはもう一つの入口と出口になっているわけです。
つまり入口、出口とか、イメージの集約点は人それぞれであって、どこを入口とし、どこを出口とするか、あるいはどこをイメージの集約点とするかというのは、その作品に対する理解のあり方によって違います。また理解の浅さ、深さによってもそれは違います。
またこの作品は複雑であるのに、単純なイメージの集約点に集約しても、どうしても何かちょっと物足りないのではないかとか、どうしてもうまく全体をいえていないのではないかということがもしあったら、また違うイメージの集約点と出口がまだあるかもしれない。あるかもしれないということは、作品の中に言葉として描かれているかどうかは別であって、しかしそれは見つければ必ずそれはあると考えることができます。
もしも作品の理解、あるいは作品の批評においていくらうまく批評したと思っても、それは一面的に過ぎないのではないかとか、自分でもこれではこの作品をさらいこんだとはどうしても思えないということがありましたら、たぶんまだ違うところにイメージの入口とイメージの出口があるかもしれないということがありうるわけです。またそれをどこに見つけるかということは、作品評価、あるいは作品批評の大きな課題になってきます。
島尾さんの『夢屑』でも、細君がキリギリスであると初めから言ってしまっているのは、たぶんカフカの『変身』と同じように、かなり深刻な意味を持っていると思います。もしかすると島尾さんはこの『変身』を意識の中に入れておいて書いたかもしれないし、また島尾さんが『夢屑』といっているように、本当に無作為に見た夢を書き留めたのかもしれません。それはわかりません。
しかし奥さんがキリギリスだったというところから始まるのは、相当な深刻なことを意味していると思います。また何か気に障ることを言ったら、ピョンピョンと鳥かごの中に入っていってしまった。そして開けてみたら影もかたちも見えなかったというのは、やはりこの短い作品を占うに足りる深刻なイメージだと僕は思います。
そのあとカエルに食べられたのか鳥に食べられたのかわからないけれど、こんなことになるのだったら、あんなことは言わなければよかったと主人公は考える。そのあたりはかなり緩和されたユーモア、あるいは緩和された悲劇になっているわけですが、鳥かごの風呂敷をパッと開けたら、影もかたちも見えなかったというのと、最初にキリギリスである奥さんに出会うというところから始まるところは、たぶんこの作品のイメージの入口と出口に当たると思います。
いわゆる一般的な意味での入口と出口は筋書きどおりに、いわばキリギリスである奥さんが気に障ることを言われたら、ピョンと飛んで鳥かごの中に入ってしまって、かごを開けたら影もかたちも何もなくて、自分はこんなことを言わなければよかったと後悔した。つまり物語そのものがイメージの入口であり、出口であるということはもちろん確かなことで、このことはだれでも読めばすぐにわかることです。
だけどこの作品からもっと違うイメージを受け取りたい、あるいはこの作品は単にそれだけのことを書いたことなのか、つまりそういう夢を見たということを記述的に書いた作品なのかなといったん考えて、そうではなくて、この作品はこういう夢を見たのだというかたちにしてありますけれども、それは作者がかなり意図してあるモチーフを持って書いたのではないかとこの作品の評価をいったん疑いますと、いま言いましたようにキリギリスである奥さんというところから始まることと、それから風呂敷を開けたら何もいなかったというときの非常に残酷なイメージ、あるいは口ではいえない不安とか、悲しみとかいうものは、たぶんもう一つのイメージであって、これが別の意味でもう一つ重ねられたイメージの入口と出口だと理解することができると思います。
さしあたって、この二つのイメージの重ね方がこの作品の集約点なのだと理解できたらば、たぶん一通りの意味でいえばこの作品をちゃんと読んで評価した、あるいは批評をしたということになるのではないかと思います。
これで相当な部分はいいのですが、もう少し違う類型を挙げてみます。たとえば林真理子の『星影のステラ』という作品があります。これは非常に優秀な作品です。この作品は、ダサくて仕方がないデザイナー志願の地方出の女の子がいます。その女の子は、デザイン関係の職場で、お前はセンスがないとか、お前はダサいとかしょっちゅう言われつけているわけですが、それを一種のコンプレックスとして持っている。
そこにあるとき女の子が紹介されてやってきます。その女の子は服装のセンスといい、言っていることの気の利いていることといい、言葉の端々のひらめきという非常に見事なセンスを持っていて、たちまち感心してしまうわけです。いま自分は失業中で、職を探しているのだという話をすると、じゃあ、私のところに来なさいよとすぐに言ってしまいます。
言ってしまって、同居生活が始まるわけですが、その女の子はだらしなく寝泊りして、だらしなく食べ物を食べて、何もせずにぼんやりしているだけですが、ただおしゃべりをするとセンスがあるし、着ているものもセンスがある。ときどきだれそれのデザインといわれているのは、本当は自分がやったのだとかうそ話もするのだけれど、それも含めてまた感心するわけです。ますますこの子といれば、自分のセンスも大変改良されるに違いないと思って一緒にいる。しかしだんだんとどうもこの人は怪しいのではないかと思い始めるのですが、それでも言うことも、やることもことごとく自分のセンスを上回るので、何もいえないで尊重して、自分が稼いできた金で食べさせて、暮らしている。
あるとき、どこかの知っているデザイナーのところに就職したいというので、自分がかつて勤めていた会社の洋酒か何かの宣伝で賞をもらったことのある広告会社のデザイナーを紹介する。そこへ行くと、デザイナーとその女の子はたちまち仲良くなってしまう。自分はかつてその男とは二、三回関係したことがある。だけど私は何となく捨てられたかたちになっていたわけです。仲良くやっていることが癪に触って、だんだん違和感を抱くようになる。
あるとき冷蔵庫の中にあった卵などを勝手に持ち出して、勝手に料理して、勝手に食ってしまった。帰ってきて冷蔵庫を開けたら何も入っていないというのを契機にして爆発して、あんたみたいな人は、もう出て行ってくれ、一個の卵だって稼ぐのは大変なんだ、あんたはプラプラしてそれを食べて、平気でいるのはけしからん、出て行ってくれと言うわけです。女の子のほうは、あんたがそんなつまらないことで私に出て行ってくれなんて言うとは思わなかった、もっと高級に付き合っているのだと自分は考えていたと捨て台詞を残して出て行ってしまう。だけどそのときに主人公は……
【テープ反転】
……という作品です。
この作品はなかなかいい作品です。この作品の場合、たぶん入口があります。ずるずるしているうちに何となくつけ込まれたかたちになって、付き合わざるをえなくなって、相当なところまで付き合ってしまう。でもとことんまで付き合うところまで行かないで、とうとう我慢ができなくなってやめたとなっていっぺんにぶち壊してしまうみたいなことは、だれの体験の中にもあるわけです。それがたぶんこの作品の入口です。
そこで女の子を自分のところにいなさいというと、半分は本当で、半分はそれを利用するかたちで入り込んで共同生活をしていくうちに、だんだんあらが見えてきて別れてしまう。それだけのことなので、これは入口と出口が一つはっきりしているということになるわけです。
この場合には集約されたある十行の中にこの作品の入口と出口を持ったイメージ、あるいは物語の筋書きの頂点が隠されているというふうには存在しません。そういう意味合いでいったらば、イメージは始めから終わりまで分散されてあって、全体を見るとだいたいそういうことになっているというようなことがいえますけれど、大江さんや古井由吉の作品のように、ある数十行の中に盛り上がったかたちで作品の物語性とイメージの集約点が込められているというかたちではこの作品は形成されていません。一行目からが入口だと思えば入口だし、二行目からが入口だと思えば入口、十行目からだと思えばそうだし、二章目からがそうだと思えばそうだというかたちで、入口と出口、あるいはイメージが分散されたかたちでこの作品の中に存在している。
この作品をいい作品にしているもう一つの要素は何かというと、主人公の私が持っている、自分は田舎者で、センスがちっともないんだけれど、自分はデザイナーになりたい、女の子としてそういう職業に就いて、そういう勤め先にいるということを絶えず思わせられたり、思ったりしている、そこのところにかたちづくられている一種の欠損感というか、コンプレックスというか、それが多分この作品の目に見えない入口であるわけです。
そのコンプレックスを過不足なくちょうど埋めるような、あだなをステラという女の子をそこに登場させるというのは、たぶんそれがイメージの出口です。つまりこのステラは作者、あるいは作者である私が抱いている欠如感、あるいはコンプレックスとちょうどネガとポジみたいに一致するというかたちで描かれているということがこの作品を非常によくしている一つだと思います。
たぶんこの作品にはもう一つの入口と出口があるわけで、その入口は作者とおぼしき主人公のコンプレックスの世界で、それとちょうど見合っているポジのかたちでステラという女の子が描かれている。それがたぶんこの作品のイメージの出口だと思います。
だから一通りの意味でいえば、この作品には集約されたイメージの箇所はどこにもないのですが、しかし全体には分散されたイメージの入口と出口はありますし、もし考えるならば、目に見えない作者のイメージの入口と出口もこの作品の中に重ねられているということがあります。だからこの作品をよくしている要素は、その二つの重ねあわせでたぶんできていると考えられます。
なぜこの作品においてはイメージが数十行、あるいは数行の中に込められているというふうに作品形成がされていないのかということですが、それは言ってみれば作品形成の別の一つのタイプというか、別の型だと考えたほうがいいと思います。つまりこれは大衆文学のいい作品だから、大衆文学の描き方だからそうなんだといえば、非常にあっさりするわけですが、そのようにあっさりするとどうしても普遍的な文学理論の問題にはつながっていかないので、そういうふうには見ないで、一つのイメージ形成の仕方が作品の全体に分散されるように描かれている描き方がこの作品の特徴なのだと考えられたほうがいいと思います。
なぜかというと、もし純文学、大衆文学というと、どうしても既成の一種の手垢のついた概念があって、純文学作品はみんな高級でよくて、大衆文学作品はよくないというイメージがだれにでもあるのですが、それはうそで、特に現代では全然うそになっていますから、そういうふうに見ないほうがいい。作品形成の一つのタイプとして、作品の主要なイメージを作品全体の中にばらまき、分散させるというやり方なのだと考えたほうがいいと思います。だからこの『星影のステラ』は林真理子の作品の中でもいい作品だと思いますが、そういうことが一つの大きな特徴になっています。
もう一つそういう例を挙げてみますと、いま大衆文学の作家の中で大変優秀な人の一人だと思いますが、ビートたけしの『あのひと』という作品集があります。その作品集を見ると、やはり入口はあるのですが、出口がすこぶる不明瞭だといいましょうか、出口は何だというのが大変難しいというか、わからない。ほめすぎだといわれるかもしれませんが、つまりそういうことについて無意識だ、文学作品のつくり方に慣れていないから腕力でやってしまっているというか、そういうことだと言ってもいいわけです。これは出口をどう見つけるかということが、この作品の評価の問題になってくると思われます。
この作品は、主人公自身と思われる一人の芸能の師匠がいます。その師匠を弟子の目から描いている。大変わがままで、徹底的な、独裁的な師匠です。弟子がいるのですが、奴隷のごとく献身的な弟子で、たとえば、朝、何時にたたき起こしたら、全部脱がせてやって、全部着せてやって、靴下も履かせてやって、何から何まで全部やって、さて今日は何時からどこそこで何がありますということをやってやる。またどこかの女の子に手をつけてしまって、女の子が妊娠してしまったということがあると、五十万円ぐらい入っている茶封筒をいきなり弟子に渡して、「お前、あそこの女を知っているだろう。これでもって始末してこい」と言う。そうすると言われただけで、その弟子は「はい」と言って女の子のところに飛んでいって、これで子どもをおろさせる、そういうふうに処理してしまう。
車の免許証の書換えの検査に行かなければいけないのだけれど、師匠は忙しいし、行きたくないし、弟子に、「お前、行って話をつけてこい」と言うと、「はい」と命じられたとおりに行って、警察の交通局か何かに行ってうちの師匠はこういうふうに忙しくて来られない、だから適当な時間に師匠のためだけの検査の時間をつくってくれないかと交渉して、向こうの承諾を取り付ける。その日が来ると、今日は免許証書換えに行く日ですというと、わがままな師匠は、「今日は行きたくねえから、また話をつけてこい」と言うと、また「はい」と言って、また行って、これこれで今日は来られないからこれこれの日に変えてくれないかと何とか交渉して成立させて帰ってくる。
そういうすごい横暴で、ファッショ的な師匠と、それに対して一言も逆らわない弟子たち、もう少し極端にいうと、わざと弟子をいじめているのではないかというくらい意地の悪いこき使い方をする師匠を描いている。最後に、弟子の一人のところに週刊誌の記者がやってきて、お前さんの師匠はいわば大衆芸能の分野の一人だけれど、大衆芸能は大衆に奉仕したりする気持ちが筋にあるわけだけれど、お前の師匠はただ一人毒舌をかましたり、弟子をただいじめているみたいなことをやってみたりするけれど、それはちょっと変わってはいないかと言うと、その弟子は、こいつは何をばかなことを言っているんだと思うというところで作品が終わるわけです。
この作品の集約点、この場合は分散的ですが、その分散点の入口は明瞭です。つまりこれは自画像を一種、誇張したかたちで描きたいわけですが、その自画像を弟子の目から見るという描き方をしています。この自画像はいかに芸人世界的な師匠であるか、あるいは芸人世界の師匠はこういうものなのだということを描きたいわけです。ところでこの作品の出口はいったい何なのだろうか、つまりこの作品のイメージは分散されているのですが、いったいこの出口はどこに描かれているのかというと、僕が読んだ限りでは出口はすこぶる不明瞭です。出口はないのではないかと思えます。
だから作品としてみれば、何かわけのわからない横暴な師匠のことを弟子の目から描いている。その横暴な師匠というのは、たぶんに自画像である。この作品はただ横暴にいばっているということを描いているだけじゃないのかと見えるくらい、入口はあっても出口はないわけです。たぶんこの出口のなさは、作者が作品形成の仕方において素人であるというところから来ていると思います。あまりそういうことを意識できないでつくられているからだと思われるわけです。
ただもしもこの入口があって出口がないということは実際にはありえないのだ、ある作品を象徴するにたるイメージを考えるとすればそのイメージの中に入口があって出口がないということは絶対的にありえないのだ、それは数学と同じように明瞭なことだと考えるならば、それを批評の原則として考えるならば、こういう作品の場合には出口を架空につくる以外にない。読み手、あるいは批評をする側が出口をつくる以外に釣り合いが取れないわけです。
この作品の場合に出口を仮につくってみると、どういう出口がつくれるかというと、僕の理解の仕方では、ビートたけしの自画像である主人公ですが、この人は誇張した一種のフィクションとしての芸人の世界をこしらえていると考えられる。こしらえているということは、この人を僕は好きですから、この人のテレビなどをよく見ていますが、この人が現実的にも故意に誇張してこしらえていると思います。
たとえば日曜日の午後一時ごろから始まる、よく弟子をいじめる番組をやっていますが、これはどういう目的でやっているのか、前はよくわからなかった。つまり弟子をことさらいじめるような番組をどうしてつくるのか、前はよく理解できなかったのですが、この小説を読むと僕は理解できるような気がしました。
つまり弟子に対して残酷で、ファッショ的で、言うことは片言でも反抗したりしたらすぐにクビだと言い伝えられている芸人の古い、伝統的なしきたりの世界を、この人はわざわざ架空に誇張してこしらえて、自分が実行しているのだと思います。こしらえて、実行することによって、自分の芸の緊張感を保とうとしているのだと僕は思います。あるいは逆のことをいうと、自分の芸の緊張感を保とうとするには、こういう世界を架空に自分と弟子の周りだけにこしらえてしまって、それをやってしまう。それによって自分の芸の緊張感をかき立て、持続させる以外にないというのが、この人のモチーフではないかと僕には思われます。それがたぶんこの作品の出口ではないか、誇張された芸人の世界がこの作品のイメージの出口ではないか思います。
なぜ誇張されたというかというと、僕はそんな世界を知りませんが、僕にはそんな芸人の世界があるなんてとても信じられない。文明開化の世の中に、そういう世界がまだあるなんて僕は絶対信じられないし、古いかたちの落語家であろうと講談師であろうと浪曲師だろうと、たぶんいまでは古いタイプの芸人世界は崩壊しているだろうと思います。一言口答えした弟子に対して、お前はクビだとすぐにやれるような落語の師匠など、いまはまずいなくなっているだろうと思います。それは学生と先生の世界でも、あるいは家庭における親父やお袋と子どもの世界でも、さして変わりばえはないと考えたほうがいいと思う。僕の理解の仕方では、芸人の世界でもいまは同じではないかと思います。
ですからビートたけしがこの小説の中で書いている、わがままでファッショ的な師匠と、それにかしずいている弟子の姿は、事実ですが、それは故意につくっている、意図してつくっている世界ではないかと僕には思われます。そうすることによってこの人は芸の緊張感を持続しようとしていて、それ以外にはありえないのだと現在なっているのだと思われます。それがこの作品の目に見えない出口に該当するのではないかと思われます。
なぜこの作品が興味深いかというと、これは言ってみれば林真理子の小説と同じで、作品の集約されたイメージが数十行の中に込められているというふうには存在しません。つまり作品全般にこの作品のモチーフを象徴するにたる箇所が分散されています。そして入口だけあって出口は不明瞭だとしか描かれていません。だからあまりいい作品とはいえないのですが、ただ考えればおもしろいということになりますし、ほかの世界とも絡み合わせて読めば、非常におもしろい作品だといえると思います。
この作品が象徴している世界は、芸人世界だけではなくて、文学の世界でも同じことなのです。つまり純文学といわれている作品も、そうでない作品も、いくら緊張感を保とうとしてもそれをすぐに片っ端から即座に壊してしまう、つまり凝縮しようとすればすぐに解体してしまうというような雰囲気が、現在の雰囲気の中に一般的に満ち満ちているわけで、それにいかに抗うか。そのことはいわば単に芸の世界とかサブカルチャーの世界ということだけではなくて、もちろん純文学の世界でも同じで、そういうことが一番大きな現代の問題なのだ。それに対して各人各様の対処の仕方があるわけですが、その対処の仕方において自分を芸術に対して、あるいは文学に対してどういうふうに緊迫した状態に保てるかということが、文芸批評の問題であるし、作家の問題として存在すると思います。
そのことが非常に大きな問題で、それは各人各様の工夫があるところです。そしてその工夫によって一種の自己崩壊を支えていくということはやられていると思います。これはある一瞬でもというのは誇張かもしれませんが、一種の自己満足とかにちょっとでも入ってしまったら、たぶんすぐに全部が見えなくなってしまうと思います。見えなくなってしまうということの問題には、絶えずだれもがさらされているわけで、そのさらされている問題をこの作品はよく象徴しているということができます。
いま挙げた例は、もっと微細に分ければもっと別の分け方ができますが、大ざっぱにいって二つの類型に分けられる作品を申し上げたわけです。一つのタイプは、一つの文学作品を象徴するにたるイメージが、本当にある数十行のところにちゃんと集約されて、そこで凝縮されたイメージをつくっていくというものです。もう一つのタイプは、いまいったように、さしてそういうイメージの集約点はないものです。
作品全体に分散されていながら、しかしどこでそのイメージの始まりをつくり、どこでイメージの終わりをつくるかという課題は必ずあるのだと考えていけば必ずそれを見つけ出すことができます。その見つけ出し方も人さまざまですが、作者が意図したところ、あるいは無意識につくってしまったところ、それを全部とらまえ尽くすことはもちろん批評にとってはできないのですが、しかしそのイメージのつかまえ方をどんどん深めていくこともできるわけです。
このように考えていくと、たとえば皆さんが、これはサブカルチャーの作品なのだといっている作品の中にも大変優れた作品もありますし、これは純文学だといっている作品の中にも、大変だめな作品もあります。これは従来、手垢に汚れていると考えられている純文学とか、大衆小説とかの区分、区別とか、作品の通俗性と高尚性というものを区分けすることもできないし、それでもって作品のよしあしを言うこともできなくなって、いわばさまざまなありうるわけです。ですから違う類型の立て方をしなければいけないということがあります。
もう一つは、これは皆さんにとってはどうでもいいといいますか、僕らが持っている批評家としての問題意識からみれば、究極的な価値、究極点まで問題を出してしまったという映像的メージを、いわば一種の理論、文学批評の原理というものを母型にして、そして文学作品も音楽の作品も、もちろんそのほかの作品も全部その母型でもって一種統一的に、普遍的につかまえるという考え方、言語の表現が可能であるかどうかというのは、僕らの観点からいってもこの問題は非常に大きな問題としてあるのだというふうに僕自身は考えています。
だからたぶん皆さんは読み手でしょうけれど、読み手としてどこまでどういうふうに読んでいったらいいかという問題は、いつでもつきまといます。つまりさまざまな読み方ができますが、しかし批評家、あるいは批評というものは、いってみれば読み方の一種なのであって、読み方の一種以外のものではない。ですから批評の問題として存在する問題は、読み方の問題としてきた文学鑑賞の問題としても存在すると僕は考えます。
その意味で皆さんに今日お話ししたことは、少しでも参考に供することができたら、それでいいのではないかと思います。あとは自分自身が薦めているものをもし読んでくださる時間がありましたら、それを読んでくだされば、僕は少しずつでもそれを展開していきつつありますから、そこで何かまた違う意味で得るところがあるかもしれないと僕は考えています。非常に簡単ですが、これで終わらせていただきます。(拍手)
(質問者)
<音声聞き取れず>
(吉本さん)
その作品は、ようするにあれでしょ、何年型かのピンボールにじぶんが思い出もあるし、固執してそれをあれしていくというやつで、それは覚えているんですけど、あなたのおっしゃったそういう差異というのは僕にはあまり覚えてないので何とも言えないから、村上春樹全般についてあります。
この人はイメージの人だと思うんです。イメージで作る作家だ。それから、もうひとつは、いまもそうですけど、ぼくらの世代には少ないのですけど、生きるモチーフ、いかに生きるか、何を目標に生きるか、そういうモチーフというものを生存といいますか、生きることにあまり設定しなくても、その時々にやわらかく自分の生活のあり方というのにやわらかくふれながら、広がりのあるイメージの世界を出現している、そういう作家だと思うんです。
その作品のどこがおもしろかったかというと、固執の仕方、何年型のピンボール、その固執の仕方というのが、それは普通いう意味で言えばつまらないことじゃないか、そんなことを固執してもそれに執着して、いってみれば、生活にとっても、それから、自分の生涯にとっても馬鹿馬鹿しいようなことなんだけど、そのことに固執して追及したり、捜したりしていくというのは、そういうところがたいへん興味深かった。
つまり、なにかといいますと、ぼくらは得てして価値、つまり、生きる価値とか、生活する価値の大小みたいなものが一種の頭の中につけちゃっていて、大きい価値のものに向かって生きるのがよくて、小さい価値に向かって生きるのはよくない。どこかに否定できないところがあるわけです。
村上さんの小説ではそういうことは全然、価値の領域みたいなものは全然考えられていなくて、それで、どんな無価値に見えるものでもスイスイスイスイ入っていって、またスイスイスイスイそこに執着していってということができるというような、そういうイメージの広がり方というのが、ぼくは村上さんの作品のいまに至るまでの特徴だと思うし、そこがいいところだと思うんです。そんなところしかほんとはないんですけど、感想なんですけど。
ぼくね、『ニューヨーク・ニューヨーク』というコンピュータゲームがいまから3,4年前にあったんです。いまはもう消えちゃったんです。村上さんのこれとは違うんですけど、ふつうのコンピュータゲームのインベーダーゲームとあまり違わないんですけど、ニューヨークの画像が出てくるんです。スクリーンに画像があるんです。そこに次々と空飛ぶ円盤がやってくるんです。それをこっちで操作して落とすわけです。ぜんぶ落とすと次のが現れて、またそれを落とすわけです。
それは、ぼくは固執した。なぜ固執したかというと、それはよかったんです。何がよかったかというと、摩天楼かなにかの画像があって、円盤がスーッと出てくるわけです。そうすると、メロディが、音楽がなるんです。ものすごく軽くてニヒルな、つまり、村上さんの本でニヒルというのはまずいかな、生き方としては受け身でニヒルなイメージでしょ。ものすごくそれに相応しいメロディが、円盤が出てきて撃ち落として、また円盤が出てくると、そのメロディが流れるんです。それがものすごくいいんです。だから、よかったんです。
ぼくはそれにずいぶん固執したんですけど。たちまち、いまの子供というか、若い人には単調過ぎてあきられちゃったんじゃないでしょうか。たちまちなくなっちゃったんです。ぼくはいまでも時々、新宿とか、渋谷とか、上野とか、盛り場へ出てきて、そういうのがないかなとみると、どこにもないんです。だけど、それはコンピュータゲームの中でもいいゲームなんです。
村上さんの作品というのは、そのときも思いましたけど。村上春樹の作品のもっている感性というのはこういうのだなという感じに、そのときも思いましたけど。そこがいいところじゃないでしょうか、村上さんの作品の。ぼくはそういうふうに思うんです。ただ、あなたのおっしゃることは、ぼくは覚えてないんですけど、作品全体のモチーフはよく覚えています。
テキスト化協力:ぱんつさま(チャプター15~16)