1 現在モデル

 ただいま紹介にあずかりました吉本です。金榮堂さんの催しで、お話しするのは3度目なんですけれど、アジア的ということをもってきまして、日本の現代の社会が西欧先進資本主義国並みに入ってきた、まあ人によって違うでしょうけど、10年ばかり、あるいは、15年ばかり経ってきてるわけですけども、その間にどういう変貌を遂げただろうか、それからもうひとつ、ここ1,2年の間に著しく変わった様子が、日本の社会にあるとすれば、それはどういうところで考えたらいいかっていう、そういう問題について今日はお話ししてみたいっていうふうに思います。
 ぼくは、これは、去年でしたか、おととしでしたか、シンポジウムがありまして、その時に、現代の日本の社会の様相っていうようなものを、どういうふうに捉えたらいいのかってことで、いくつかの簡単な図表をつくったわけですけども、その図表のなかで、現代の日本の社会のモデルっていうものをどういうふうにつくったらいいかっていうことで、あっさりした図表をこしらえたことがあります。
 それは、ここにありますように、ここに国家がありまして、ここに市民社会があるって、こういうふうに図表をつくっています。国家から市民社会に対して、法律とかその他の、さまざまな経緯を通じて干渉しているっていうのが、この矢印であるわけです。
そうしますと、現代の日本の社会の様相っていうのはどういうふうに特徴づけたらいいかっていいますと、ここに書きましたのは、いちばん大きな特徴は、だいたい資本主義社会の発展期の様相でいいますと、市民社会がありますと、市民社会から疎外されたところに、労働者の階級線が引かれていまして、で、市民社会から疎外された労働者のあり方っていうのが、ひとつの階級線を隔てて、別々になってるっていうのが、いちばん顕著なモデルなんですけども、それは、現代でいいますと、階級線っていうのが、市民社会の中に入ってきちゃってるってモデルが非常に特徴的なひとつの点です。
 それからもうひとつは、国家から市民社会に対して、法律その他を通じて干渉してる面があるわけですけど、その干渉してる面が、たいへん強くなっているってことがいえると思います。つまり、それは、日本の社会でいえば、30%か40%かの干渉率で、国家から市民社会に対して、有権系の干渉が行われているっていうふうに考えられます。それが、こういう簡単なモデルで特徴づければ大きな要点です。
 それからもうひとつは、労働者あるいはサラリーマンでもいいわけですけども、労働者の大部分が中流意識っていうのをもつようになっているってことが非常に大きな特徴だと思います。中流意識っていうのを、ここで点線であらわしますと、中流意識っていうことは、つまり、市民社会のちょうど真ん中に、意識の線が真ん中にある。つまり、市民社会の意識の全体性っていうのが考えられるとすれば、その半分のところまで、大部分の労働者の意識が、その半分のところまでいっているっていう、この点線であらわすとしますと、こういう簡単なモデルであらわすことができます。
 で、特徴づけることができます。こういうとこで、なにが問題になるかっていいますと、ひとつは労働者階級っていうものが、市民社会の内部に入り込んでいるために、市民社会自体の輪郭っていいましょうか、輪郭が、いわばそこのところで非常に、輪郭がはっきりしなくなっているってことがいえます。
 つまり、明瞭に市民社会があって、そこに中産階級がいて、その上の方に大金持ちがいて、そこで、強固な秩序ができあがっていて、そしてそこで、強固な文化意識、あるいは、共用の体系みたいなことが行われててっていうようなイメージが通用しなくなっていて、現在では労働者階級っていう者も、市民社会の中に、たえず繰り込んでいきますし、また、中流意識をもった者も、それから、少数の大金持ちっていいますか、そういう者もやっぱり、そんなに安定してもてないで、たえずそれは繰り返し、噴流を繰り返していて、そのためには市民社会自体が強固な輪郭線をもてないし、もちろん市民社会特有の共用体系、あるいは、その知識の体系とか、それから文化の体系っていうのをもち得なくなっている。もち得ないで、それは混合状態にあるっていうのが非常に大きな特徴だと思います。
 それからもうひとつは、国家の干渉線で、干渉が非常に大きくなっていくために、たえず国家と市民社会の間にもてる矛盾といいましょうか、そこでも確固とした輪郭線をもち得ないで、たえず噴流が繰り返されてる。そういうことが非常に大きな特徴だっていうふうに考えられます。
 ですから、現在の日本の市民社会、あるいは、資本主義の経済社会っていうものと、国家とのあり方を、簡単なまるとしかくで図表づけるとすれば、いま言ったふうに特徴をつけると、だいたいイメージはつくりやすいだろうっていうふうに思います。

2 中流意識

 で、それをもうすこし、モデルの細部を具体的に申し上げてみますと、第一に大部分の労働者っていうのは、中流意識をもち始めている、あるいは、もっているっていうようなことですけども。それはひとつのデータによりますと、だいたい民衆の89.6%が中流意識をもっていると、それは中流意識っていうのはどういうふうに考えるかっていいますと、自分は中の上に属しているっていう者と、中の中に属しているっていう者と、それから、中の下に属しているっていう者は、グラフをとってみますと、こういうふうにグラフを描くことができまして、これをいずれにしても、中の上も、中の下も、それから、中の中も、中流意識には違いありませんから、それらを合計いたしますと、いま言いましたように、89.6%が中流意識をもっているっていうデータが出ています。
 このデータを見てみると、たいへんこれだけでは非常にわかりはいいですけれど、しかし、話が一面的すぎるじゃないかっていうようなことがあるわけです。それじゃあもう少し、うら側をつついてみますと、いくつかのことがあります。それはもうひとつは、こういうふうに全般的に90%近くが中流意識をもっているっていうデータになっていますけれど、もっと詳細、うらをとってみますと、農家と、それから、農家でないものとの間には、資産のひらきっていうのが多くあるってことなんです。
 それはどういうことかっていうと、わかりやすいところでいいますと、土地代とか、地代とか、それから、住宅費とかっていうものは、農家の人は持ち家があったり、持っている土地があったりして、それが非常に現在高騰しているっていいますか、高騰しているために、農家の方が非農家よりも、いわゆる資産っていうのを多く持っているっていうことが、潜在的にはいうことができます。
だから、のっぺらぼうに全般の中流意識をもって、90%ぐらい中流意識をもっているっていうことのうらをとってみれば、いろんなことが言えます。そのひとつのいちばん大きなことは、農家っていうのと、非農家っていうのの格差は、よくよく計算してみると、住宅費とか、土地代とかそういうことも含めてあれしますと、だいたい相当なひらきがあるんだってことは言えます。
たとえば、昭和57年度のデータですと、農家っていうのは非農家に比べて、農家でない家族に比べて、だいたい2倍ぐらいの資産をもっている。資産って言うのがおかしければ、潜在的な資産、土地とか、家屋とかをもっているっていうデータが出ています。東京みたいな大都市では、もっとすごくて、農家と非農家の格差っていうのは、だいたい3倍ぐらいあるっていうふうに評価されています。
だからこの、のっぺらぼうのあとの中流意識、90%ある中流意識をもっているってモデルは、それはおおざっぱな線として、よろしいわけですけども、もっと細部を探っていくと、いわば非農家、いちばん顕著には、非農家と農家との資産格差っていうのは相当大きいものであるってことがいえると思います。そういう問題がひとつあります。

3 貯蓄平均

 それから、中流意識と現代の市民社会のあり方っていうのをはかる、もうひとつのデータをあれしてみますと、現在、国民の、日本民衆の、貯蓄額の平均は563万円っていうふうにデータが出ております。これは、みなさんがご自分の貯蓄をよくお考えになるとわかるんですけれども、もしかすると多すぎるんじゃないかっていうふうに思われるかもしれないんですけど(笑)、かなり正確なデータでそういうふうに出ております。だから、これより少ない人ももちろんいるわけですし、多い人もいるわけだと思います。
 それで、もうすこしいいますと、いちばん多くの人が持っている貯蓄額っていうのは163万円っていうふうに、これ昭和59年だと思いますけど、59年で163万円っていうふうに出ています。ですから、ここで考えればおかしくないので、みなさんもだいたいこれくらい持ってるんだ、このくらい貯金があるんだって考えられると、それでいいんだと思います。つまり、最もたくさんの人が持ってる額っていうのをあれしてみますと、それは163万円になる。
 それから、もうひとつわかりやすくするためにいいますと、ここに中位数っていうのがあります。中位数っていうのはつまり、貯蓄の多い人から少ない人へ、ずーっと順々に並べていった場合に、そのいちばん中間の数の和がどこにあるかっていうと、378万円っていうふうになっています。だから、だいたいみなさんの貯蓄額は378万円から163万円の間だってふうに考えると、若い人っていいますか、若い人の所帯だったら、だいたいそれで間違いないんじゃないかっていうふうに思われます。でも、総体を平均しますと、563万円っていうふうになります。
 これは、この貯蓄率っていうのは、市民社会における中流意識の根拠になっているだろうっていうふうに思われます。この額っていうのは、563万円っていう額は半年から1年、だいたい、なにもしないでも、もつだろうっていう、暮らせるだろうっていう額に相当すると思います。このことが、89.6%が中流意識をもっている大きな根拠になっているっていうふうに思います。
 この貯蓄率っていうのは、貯蓄っていうのは、いったいどういう意味をもつのかっていうのは、もちろんあるわけです。貯蓄が多いっていうことは、もしも大衆の全部が完全に就職しているっていうふうに考えると、貯蓄が多いっていうことは、たいへん経済を活性化する根拠にはなりうるわけですけれど、もし完全に全部は雇用されていないっていう場合を考えますと、貯蓄が多いっていうことは、かならずしも景気を好況にしていく、つまり、景気を活性化させていくっていうような、あるいは、社会を活性化していく原動力にはならなくて、むしろ逆の効果になるって考え方もありうるわけです。
 だから、かならずしも貯蓄額の平均が多いっていうことは、その社会が活性化、経済的な意味で活性化してるっていうふうに一概には言えない様相だと思います。いずれにせよ、かなりの高額の貯蓄平均っていうものが、現在の日本の民衆の中流意識を形成する上で、非常に大きな支えになっているだろうっていうふうに考えられます。

4 労働者所得

 それから、もうひとつ、それがわかっているとたいへんイメージがつくりやすいっていうあれがあります。それは労働者の平均の所得っていいますか、所得がどのくらいなのかっていうことです。これは59年のデータで、労働者っていいますか、所帯主の所得です。
 所帯主の所得収入の平均っていうのは、35万1413円っていうデータが出て、前年に比べて4.2%増っていうふうに出ております。これは、ぼくらにもよくわからないところがあるんですけど、これはかなり多すぎるんじゃないかって思うんですけど、しかし、データとしては所帯主の収入は35万っていうふうにデータが出ています。これ、59年です。
 そのうちで、所帯主の収入のうちで、可処分所得っていうのは、つまり、そのなかで、税とか、社会保険とかを控除して、除いて、自分で使える額っていうのは35万9352円っていうふうに、平均でなっています。こっちが多いのはおかしいじゃないかって思われるかもしれませんが、これは所帯主の収入ですから、所帯主じゃない、夫婦共稼ぎみたいな場合には、これが多いわけですから、また子どもが働いているとすれば、それも加わるわけですから、こっちが多くなるっていうのは、そういう意味合いになると思います。
 それじゃあ、消費のために支出している額っていうのはどのくらいのなのかっていうと、28万2716円っていうふうなデータが出ております。だから、これらを図表でいいまして、その図表の中で、いま申し上げました中流意識っていうのが、どのくらいの人がもっているのか、それから、平均貯蓄率がどのくらいあるのか、それから、労働者の所得っていうのは平均でどのくらいなのか、この3つくらいの数字っていいますか、データっていうのを考えられますと、日本の社会における、すくなくとも、金銭の動きとか、経済の動きとかってものからみられた日本の社会の現代のあり方っていいましょうか、そういうもののイメージがつくりやすいんじゃないかって思われます。
 ぼくがお話しして、どういうことを結局は申し上げたいかっていうと、これらの個々のデータはデータとしていいわけですけれど、こういうふうにしながら、日本の現代の資本主義社会っていうもののあり方のイメージっていうのをできるだけ、鮮明にといいましょうか、できるだけ細かく鮮明に、できるだけ正確に間違いなく、それぞれでこしらえていただきたいなっていうことが、今日のお話の主な眼目なわけなんです。
 つまり、なによりも現在どうなっているかってことを、どっからつかまえてもいいわけですけれど、ここでは、経済社会現象としてつかまえて、数値を申し上げているわけですけれど、そういうふうにしながら、それをひとつの目安として、あるいは、もっと文学的にいえば、ひとつのメタファーだってふうに考えて、それで日本の社会全体のイメージをできるだけみなさんがこしらえてほしいってことをぼくは考えるわけです。
 こしらえたイメージができるだけ正確であればいいし、また、正確であれば得るところがあるかもしれないですし、また、不正確であったらやっぱり、修正していかなくてはいけないってことがあると思います。
 ですから、できるだけ正確なイメージがつかまえられたらいいんだっていうのが、ぼくの申し上げたいことなんで、ぼくはべつに経済学者でもなんでもないですから、このデータをもとにしてどうっていうことを申し上げることは、ぼくにはないんですけど、ただ、社会全体の、日本の社会全体のイメージっていうものをできるだけ具体的に、できるだけ明瞭に、できるだけ自分らしいつかみ方で、こしらえていただけたらいいなっていうのが、主な眼目なわけなんです。
 ですから、それが申し上げましたところで、こういう図表を埋めていただければ、なんとなく、あっさり簡単な、つまり丸と四角と線でできている、あっさり簡単なモデルっていうのにも、なんか中身が加わっていくっていうような感じがいたします。

5 全体像

 ところで、現在の日本の社会と国家の全体的なイメージなんですけど、全体的なイメージをもうすこし輪郭的に申し上げますと、現在、日本の国家、それからそのもとにおける社会っていうものは、全体として、現在、世界第2番目の国民総生産っていいましょうか、第2位の国民総生産をもっています。
 第1位はアメリカですけども、アメリカに次ぐ世界第2の国民総生産をもっています。それから、もうひとつは、世界でたぶん1番の海外においた純資産ってものをもっている国です。だから、かなり全体的な、つまり、われわれ個々の人間にあんまり及んでこないんですけども、影響はあまり及んでこないんですけども、しかし、全体にしてみると、日本国っていうやつは世界2番目の経済的に活発で富める国ってところに、現在、のし上がっているっていいますか、ここ近々10年、15年の間にそこまでのし上がっていって、大きくなってきてしまったっていいましょうか、膨張してきたっていうのが全体的なイメージです。
 もうひとつ、全体的なイメージでいえることがあるとしますと、だいたい一昨年くらいから、いわゆる石油ショック以来の一種のインフレ不況なんですけど、インフレ不況っていうものをなんとなく離脱してきて、一種の上昇気流にあるっていうなのが、だいたい全体像としての評価です。
 ところで、ぼくがやっている物書きの世界とか、出版の世界とか、そういうなのは、鉄鋼業界とおんなじくらい冷えているところで、いちばん不況にさらされて、非常にあっぷあっぷしてるのが現状なんですけれど、そういうんじゃなくて、全体像としてみますと、だいたい昭和58年前後から不況を脱して、年々上昇気流にあるっていうなのが、データからみられた全体っていうような評価です。

6 重点的な細部へ-概観できる数値表

 ここらへんのところで、いってみれば全体像についての重点的な問題っていうのをもうすこし細部に入っていきます、中に入って考えてみたいと思います。中に入ってっていいますと、いっても人それぞれですし、ぼくは専門家でないですから、ぼくなりの関心のあるところだけを拾いながら、だいたい全体像から一段細部の状態っていうのに、入ってみたいと思います。
 で、第一は、その概観表っていいましょうか、概観表っていうのをかかげてみますと、ここに国民総生産っていうのがあるわけですけれど、この5.3とか、5.1、5.3、4.6、昭和59年だと5.7とありますけども、60年っていうのはまだ、1月、3月ですから、あまり完全なあれじゃないんですけど、この数字は、前年度に比べて、それだけ増えてるっていう意味合いになります。だから、前年度に比べて、たとえば、58年度に比べて、59年度は5.7%、国民総生産っていうのは上がっているっていう、そういう数字になります。
それから、鉱工業生産っていうのがあります。これは、鉄をはじめとする、そういう鉱業の生産高をあらわしているわけで、生産高の、やはり、増減をあらわしているわけで、これの場合には、やっぱり前年度に比べて、3.2%多い、7.0%多いとか、ここいらへんですと2%ぐらいだとかっていう、そういう数字になります。あとですこし説明します。
それから、消費者物価っていうのはどうなっているかっていうのが、ここにかかげたデータで、たとえば、58年の1.9、59年の2.2、こういう数字は、ようするに前年度に比べて、消費者物価はそのくらいずつパーセント増大していってるっていう意味の数値です。
それから、個人消費支出はどうなってるかっていいますと、それもやはり、たとえば58年度は3.1%増、それから2.6%、59年度増っていうふうに、60年度は0.9%増っていうふうに、その個人消費支出が増加したパーセントをあらわしています。
それから、現金給与総額っていう、国民全体で現金給与の総額っていうのはどうなっているかって、これもやはり、8.1とか、3.2とか、4.3っていうのは、前年度に比べて、これだけ増大しているっていうことを意味しています。
それから、最後に完全失業率っていうのを挙げますと、だいたい2.1、2.2、2.0、2.1、2.2、で、わりあい近代に近くなって2.7%、2.7%、2.5%っていうふうに増えて、なんとなく安定して、2.7%くらいの完全失業率のところで、いわば横ばい状態っていいますか、安定状態にあるっていうなのが、現代の状態です。
経済白書なんかみると、日本の社会が安定成長に向かいつつある、向かっているっていうふうな評価をしていますけど、その根拠っていいますか、その主な根拠っていうのは、つまり、消費者物価の上昇率っていうのと、完全失業率っていうのの、そんなにとてつもないバラつきがなくて、だいたいここらへんの2.7%くらいのところで一定して横ばいしている。
それからまた、消費者物価の値上がりも2.2とか、2.0とかそういうようなところで、だいたい横ばいしているっていう、そういうその横ばいの仕方っていうののなかに、特別際立った離反した数値とか、そういうのはなくて、だいたいそこらへんが平衡しているっていうのが、日本の現代の社会が安定成長を遂げているっていう、たとえば経済白書の評価なんかの大きな根拠になっているっていうふうに思います。
で、この2.7%っていうのは高すぎるじゃないかって、完全失業率っていうのは高すぎるじゃないかって言い方をすれば、前に比べて、前の方っていうのは、だいたいこれは石油ショック以降なんですけれど、すくなくとも、前の方が完全失業率っていうのは少ないじゃないかっていうことを言うと、いろいろ文句がたくさん出てきます。出てくる数値です。
で、消費者物価も安定しているっていう評価になりますけども、それは前に比べると、今度は消費者物価の上昇率っていうのは、あんまり上がってないっていう、そういう場合やっぱり、現代の日本の社会っていうのが、安定成長を遂げつつあるっていう、とくに近年、1,2年はそういう傾向に入ってきたって評価になる大きな目安になっていると思います。
いま申し上げましたとこの、概観ですけども、概観をもうすこし細部に入っていきたいっていうふうに思います。そしたら、そういうことが出てくるかっていう問題に入っていきたいと思います。つまり、だんだん細部に入りながら、しかし、イメージとしては立体化していきたいわけです。うまくみなさんの方でそれを、立体化のイメージがつくれるかどうかわかりませんけども、だいたいぼくの願望は、そういうふうに、だんだん細部に、1段細部に入るごとに、現代の日本の社会っていうののイメージっていうものを立体化して、立体化したイメージに近づいていくことができればいいっていうなのが、ぼくの願望であるわけです。
また、細部に入ってまいりますけども、その細部っていう、なにを僕が関心をもっているかっていいますと、ひとつはやっぱり生産がどうなってるかっていう問題です。それから、もうひとつはやっぱり、労働者っていうのを、状態がどういうふうになっているかってものがひとつの問題です。それから、もうひとつはやっぱり、産業にかかわる消費っていうものがどういう状態になっているかっていうようなことが、大きな問題だと思います。
その3つの問題を柱にして、もうすこし細部まで日本の現代の、いわゆる高度な消費社会っていうふうにいわれているものの、立体的な支えってものに入っていきたいっていうふうに思います。

7 生産の話-鉱工業生産

 まず一等初めに、生産の話をしてみたいと思います。さきほど鉱工業生産っていうふうにありましたけれども、この鉱工業生産っていうので、いろいろ種類があるわけですけれど、第一にいちばん問題になるだろうっていうものは、電気機械の組み立て加工といいましょうか、電気機械生産の部門がどういうふうになっているかってことは、いわゆるよくいわれている情報化社会とか、情報化産業とか、そういうようなものと関連して、いちばん気になるところなもんですから、そこだけのところをとってきています。
こちらは、たとえば昭和57年、こっちが60年っていうふうに、とってきていますと、それで、斜線の部分が、全体の鉱工業生産のなかの電気機械部品の組み立て加工の分が斜線の部分に引いてあります。
このことからなにがわかるかっていいますと、ひとつは、斜線の部分っていうのは平均してみますと、だいたい鉱工業生産全体の53.7%を占めているってことなんです。そのことは電気機器部門ってものが、鉱工業生産の半分以上を占めているってことなんです。そのことはたぶん、べつにそれだけじゃないんですけど、たぶん、情報化産業の発展っていいますか、大きな部分を占めて、発展ってことと関連があるだろうっていうふうに思います。ですから、このなかで電気機械の生産部門が50%を超えているっていうことは、ひとつの大きな特徴だっていうふうにいうことができます。
それから、近年になりましてっていいますか、最近、60年に近いところでいいますと、かならずしも、電機全体に対して、電気機械の組み立て加工っていう部門が、かならずしもパーセンテージとして、たとえば、この部門とか、この部門とか、そういうものに対して、パーセンテージとしてけっして多くないです。むしろ、そういう意味合いでいったら、全体からのパーセンテージとしたら、電気機械部門っていうのは減っているっていうふうにいうことができます。
ただ、そうじゃなくて、その年度なら年度っていうことのなかで占める電気機械組み立て加工の部門のパーセンテージっていうふうに考え、つまり、そのなかでどれだけの重さをもっているかっていうのをみていけば、やはり、近年に近いところの方が、絶対量がけっして多くないんだけれど、全体に占める割合でいえば、こちらの方がはるかに多くなっているってことがいえます。
つまり、全体の生産の額の割合としては、けっして前に比べて増えていないけれども、その年度のなかで占めている重さっていうものが増えているってことは、非常に大きな特徴だと思います。たとえば、このなかで電気機械組み立てが、こんなに増えていってるってことの大きな原因はもちろん、輸出が増大したってことにあります。輸出が増大したってことは大きな要因を占めています。
それから、それは情報化産業に必要な電気機械みたいなものが輸出される額が増大してるってことが、非常に大きなこういうデータになっていく大きな理由だっていうふうに考えられます。

8 情報化社会革命の度合いを測るもの

 この鉱工業生産について、情報化産業っていうもののあり方を、今度は考えてみます。つまり、第一番目にあれしたいのは、日本のさきほど申し上げました経済成長、たとえば、年5.7%だっていうような、その経済成長に対して、技術の進歩が寄与してる度合いっていうようなのはどのくらいなんだ。つまり、日本の経済成長に対して、技術革新っていいましょうか、技術進歩っていうものが寄与してる度合いっていうのはいったいどういうふうになってるかっていうものをとってみますと、この表になります。
だいたい、この頂点を結んで得られる曲線っていうなのが、GNPつまり、国民総生産の成長率っていうのをあらわしてます。それで、そのなかで技術革新、あるいは、技術進歩っていうものの寄与する度合いっていうなのは、この柱の中で、白い部分が技術革新ってものが、全体の経済成長に寄与してる度合いです。
それで、ここに斜線の部分がありますけど、2つありますけど、こういう斜線の部分が、資本っていうものが経済成長に寄与してる度合いっていうのが、こういう斜線で描かれています。
それから、労働力っていうようなものが、全体の経済成長に対して寄与してる度合いっていうなのが、こういう斜線で描かれています。こういうふうにあるのが、労働の寄与度です。労働が、あるいは、労働力が寄与してる度合いをあらわしています。
そうしますと、技術進歩が寄与してる度合いっていうものが、いかに大きいかってことがいえると思います。それから、もうひとつ、50年前後っていうのを、石油ショックによる経済的な変動っていうのの境目っていうふうに考えますと、50年代では、技術進歩の寄与度っていうのは、かならずしも多くないです。つまり、ここらへんの寄与度に比べると、50年以降の寄与度っていうのは、かならずしも全部はこちらに比べて多いっていうことはありません。逆に、これに比べたら、59年の技術進歩の寄与度っていうのは少ないっていうふうになります。
けれども、さきほどとおんなじことで、その年の全体の経済成長に対する技術寄与度の重さっていうのを考えれば、非常に重くなっています。これは、絶対値は大きいんですけども、寄与度としてみれば、半分であるってなります。
それから、ここいらへんでいえば、たとえば、絶対値はこれに比べれば、はるかに少ないんですけれど、全体の寄与度からいえば、80%くらいは技術進歩、あるいは、技術革新の寄与が経済成長に大きく働いているっていうふうにいえます。
それから、もうすこし詳細を、今度は資本の寄与度っていうような数値が出ていますが、40年代、つまり、50年の石油ショック以前だったとしたらば、資本の寄与度っていうのは、4ないし5%だと、それから、50年代になったら、資本の寄与度は1%前後になったっていうことがいえます。それで、労働の寄与度っていうのは、労働力の寄与度っていうのは、全体に少ないっていうことが、数値の上からは、データの上からは出てまいります。
これらのことっていうのは、なにを、どういうことを意味してるんだろうかって考えますと、それは、やっぱり技術革新っていわれているものが、社会経済的な成長っていうような、あるいは、社会経済的な様相に対する技術革新、あるいは、技術進歩の寄与度っていうなのが、たいへん重くなっている。だから、その重くなっている度合いにしたがって、たぶん、産業構造の全体が、たぶん質的に変わりつつあるんだってことがいえると思います。つまり、一義的にはいえないんですけど、だいたいの目安として、概略でいえば、そういうことがいえるだろうって思います。
このことは、現在及びこれからの経済社会っていうのを、あるいは、それに伴う現象を考える場合に、非常に大きな意味として考えなきゃいけないし、ここらへんのところが、われわれが1960年代から、現在の85年代の間のどっかで、わけがわからないけど、どっかでたいへん質的に違っちゃってるものがある。それは、漠然と、データもわからないし、なにもわからないけど、ただ、ほんとに実感とか、感覚性、感受性とか、そういうもので、なにか違っちゃてるって考えているものの大きな要因のなかに、技術進歩、あるいは、技術革新っていうものが、経済成長、あるいは、生産のなかにおける寄与度とか、重さっていうのが、とても大きくなっているってこと、だから、それで資本の寄与度とか、労働の寄与度っていうのが、それに比して、非常に少なくなって、経済成長に対する寄与度が少なくなっているっていうような、そういうことが、大きなイメージの転換っていいましょうか、イメージの変わり方の要因になっていると思います。だから、それはかなり重要に考えてイメージをつくりあげるのがいいんじゃないかっていうふうに思います。
それから、もっとそういう問題に関連するわけですけれど、ひとつは情報化産業の生産に必要な機械の導入の仕方っていうこと、それから、情報化産業に必要な機械が導入されるってことは、そういう機械を製造する産業もまた、あらたに興ってくることを意味しているわけですから、両方のことをあれしてみますと、データをあげてみますと、ここに、いま言いました電気機械っていうものの、従業員1人当たり、つまり、労働者1人当たりに情報化産業に必要な機械類っていうものは、どれだけ導入されているだろうかっていうデータです。
そうすると、電気機械のところで、たとえば、13.58ってこれは、1人当たり10万円単位でとっているわけですけれど、13.58って数値が出てきて、これはいちばん多いことがわかります。それに次いで、いわゆる輸送用機械っていうのは、つまり、流通産業用に、それに次いで多く導入されているし、それから、精密機械において、またそれに次いでってなります。また、化学石油工業とか、鉄鋼とか、施設器具とか、いわゆる金属産業についての従業員1人当たりの情報化生産の機械っていうものの導入度っていうのは、それに比べるとはるかに低くなっております。だから、いちばん大きいのは電気機械において、寄与度が大きいってことがいえるわけです。
もしも、いわゆる鉄鋼業をはじめとする金属鉄鋼業みたいなものが、いわゆる重化学工業とか、重産業っていわれているものを、ここに化学産業、石油産業、石炭産業っていうのがあります、ここに鉄鋼産業っていうのがあります。それの1人当たりにおける、いわゆるコンピュータとか、つまり、情報化産業に必要な機器の導入の度合いっていうのを、だいたい4.何パーセントっていうようなところに線を引くことができます。
これに対して、たとえば、一般機械とか、それからさきほど言いました電気機械とか、輸送機とか、輸送機器とか、そういうようなものに導入されている度合いの線はここらへんに平均して引きますと、この落差っていうようなものがやはり、非常に大きく日本の資本主義的な社会の変貌の度合いを測っていると思います。
つまり、わたしたちの60年頃までの資本主義のイメージでいえば、だいたい鉄鋼業とか、重石油工業とか、そういうところが最も活発で、最も大規模な生産活動しててってイメージがあるわけですけれど、現在のところ、たとえば、情報化技術革新みたいなものの導入の仕方っていうのを、ひとつの産業の達成度の目安みたいなふうに考えてみますと、それよりもはるかに、いわゆる電気機器産業みたいなもののなかに、大きな導入のされ方がされている。それは、やっぱり産業のイメージと、それから、産業のあり方のウェイトっていいましょうか、重さっていうのがずいぶん変わってきているんだってことの大きな目安になるんだっていうふうに考えられます。
それで、今度はそういう機械を導入するためには、そういう機械をつくる産業っていうのが、もちろん新しくできたり、または古い産業をそれに転換したりして、存在してきてるわけですけれど、それを情報化関連産業っていうふうな言い方をしますと、情報化関連産業への設備投資っていうのをあれして考えてみますと、電器産業でいえば、昭和53年から59年の間に、約5倍だけ設備投資っていいますか、資本投入っていうのは増大しているっていうデータがあります。
それから、情報化のための機械の製造産業っていうのは、全体の全設備投資に対する割合をとっています。たとえば、58年度だったら、26.2%だったと、ところが60年度っていうのは、まあ現在ですけど、33.8%になっていると、つまり、事務系統における機械、情報化機械っていいましょうか、機器っていいましょうか、そういうものの投資額っていうものが、全産業の投資額の33.88%っていうのが現状であるわけ、つまり、これらの50%、つまり、極端なことをいって、50%過ぎてしまいますと、一概には言えないけども、おおよその目安としては、全産業が、ほとんど大部分が、いわゆる情報化産業への転換を示してしまっちゃうってことを意味しています。
だから、60年度において、58年度は26.3%で、33.8%っていうふうに増大していると、もし、この増大の割合を保っていくならば、たとえば、これはこのへんから、このへんに今度はだいたい50%を超えるだろうってことが、この割合でいって超えるだろうってふうになっています。そうすると、5年か6年後にはたぶん、情報化関係産業っていうようなものが、全産業に対して、いちばん大きなウェイトを占めるっていうふうに変わっていくだろうって思われます。
これもまた、設備投資が、つまり資本投下ってことの額がかならずしも、産業構造が変わっていくってことに、ストレートに地域的に対応するわけではありません。目安としては対応するって考えていいわけで、この割合で増えていけば、たとえば、情報化関連産業が全産業の中で占める割合が50%を超えるのは、5年か6年経てば、完全に超えてしまう。だから、完全に情報化産業が主体になって、産業構成がなされる、産業構造が変わっていくっていうふうに考えることができるわけです。
これはやはり、非常に僕なんかは多く考え、大きな意味として考えておかれた方が、考えてイメージをつくられた方がいいんじゃないかっていうふうに、僕自身は思います。
で、将来の予想をはじいたデータっていうのもあります。電子情報化産業の生産額っていうのは、84年ですから、昭和59年でしょうか、去年でしょうか、去年で約13兆円だ、で、これは1990年だから、今より6年後には30兆円になるだろうっていうふうな予想をはじいたデータがあります。もちろん、このなかにいろんな航空とか、宇宙とか、そういうようなものも含めていえば、37兆円になっていくだろうと、そうすると、これが倍以上6年間に増えていくっていうふうな、この予想はそういうふうになっています。
これのデータで58年度が26%で、60年度は33%っていうデータでいけば、だいたい6年ぐらいで、50%を超えるだろうってなりますけど、これだったらば、もっと早くそういうふうになるのかもしれないっていうふうになってしまいます。
それで、その時に、1990年で電子情報化産業の生産額っていうのは、だいたい国民総生産の約10%になるだろうっていう予想をはじいているデータがあります。だから、そこらへんは、現在いちばん、こういう資本主義っていうもののイメージをつくる場合に、最も大きな要因として考えておかなくちゃいけないってことじゃないかっていうふうに思われます。
で、こういうふうになっていった時に、どういう様相を呈するかっていうのは、ちょっと予想を超えるっていいますか、予想をつけることができないわけです。つまり、なにができないのかっていうと、こういうふうになっていった場合には、その産業の生産力っていうなのが増大しますから、たとえば、同じ一労働時間でできうる生産の額っていうのは、飛躍的に大きくなりますから、たとえば、それがうまく、働く方で、つまり労働者の方で、うまくコントロールすれば、いままで1日8時間働いていたのが、1日3時間で済むんだからっていうふうに、そういうふうにコントロールできますけど、そう機械的にいきませんから、1時間働いて、ほんとは従来の5時間ぐらい働いたことになっているんだけど、物足りなくて、やっぱり8時間働いちゃうっていうようなことはありうるわけなんで、その手の混乱っていうのは、さまざまなかたちで出てくるんじゃないかっていうふうに思われます。
でも、いずれにせよ急速なかたちで、情報化産業主体の方向に、全産業とも移りつつあるってことは、こういうデータからもうかがうことはできるんじゃないかっていうふうに思います。そのことは、たいへん重要な問題になってくるだろうっていう気がぼくはします。だから、そこのところは非常に大きく考えていった方がいいんじゃないかっていうふうに思います。

9 労働の話-倒産状況

 ひとさまざまですけど、ぼくの関心の問題でいいますと、その次は、労働の問題、あるいは、労働者の問題っていうのが、ぼくは問題にしたいわけです。それがどういう推移をとって、どういうふうになるんだってことを問題にしてみたいと思います。
 第一にひとつは、倒産っていうものの状況のデータなわけです。だいたいこれが、石油ショックがこのへんだと考えますと、石油ショック以前と以降っていうのがあるわけです。ここに倒産件数っていうのをとってみますと、だいたい倒産の件数っていうのは、こういうふうに石油ショックのところから増大しています。
 景気が上昇してきたときに倒産の数が多いっていうデータが出てきます。それに対する専門家の解釈っていうのは、どうして景気が悪い時に倒産は少ないのか、景気がいい、登り坂になった時に倒産が多いのかってことに対する専門家の解釈っていうのは、景気が悪い時に企業の体力が弱くなっていると、だから、景気が好況期に向かったときに、弱い体力がそれについていけないってことで、それで、倒産が、景気が回復とともに増加するっていう現象が起こるんだっていう考え方をしています。
 それから、もうひとつは、いままで言いましたように、情報化産業っていうようなものを含めまして、産業が構造変化しているってことに対して、企業が生産の面でも、分配の面でも、うまく産業構造が変化しているっていうことを、うまくつかまえられないために、景気回復っていうのについていけなくて倒産するっていうような、そういうことが考えられるっていうふうな解釈をとっています。
 それからもうひとつは、景気回復とともに、景気が衰えている分野と、それから、景気が好況に向かう分野とのバラつきが多くなるために、やはりバラつきが多くなって、その不均衡のために、景気回復の時に倒産の数が多くなるってことが起こってくるっていいますか、そういう理解の仕方をしています。
 だから、こういうのは、つまり、経済的な問題っていうのはいつでも、懐の問題ですから、自分の懐が粗末だと、どうしても全体の経済状況をそういうふうに評価しますし、自分の懐がいいと、全体の経済構造もまた、そうじゃないかっていうふうに評価するってことが、たとえば、だれにでも、素人であっても、それから、わりあいに専門の経済学者とか、専門の人でも、そういうことは起こりうるわけです。
つまり、わりあいに、こういうことは主観的で、客観的なデータで客観的なようにみえて、経済社会現象っていうのはわりあいに主観的に自分が置かれている場所とか、自分が当面している問題でもって、社会全体の状態の様を全部言ってしまうってことは、わりあいに素人でも、専門家でも、避けられないところがあります。それほど微妙な問題を含んできます。
 だから、かならずしも、こういうデータみたいなものを文字どおり信じて、これは事実の問題だっていうふうに考えることは、ぼくはあんまりすすめないんであって、これは、およその目安であるってことと、もうひとつは一種のメタファーなんだ。つまり、暗喩、比喩なんだ。比喩としてみるんだって見方っていうのをした方がいいんじゃないかっていうふうに思われるところがあります。
 だから、たとえば、ぼくらは、物書きっていうのは、不況にさらされてるものですから、全体が灰色じゃない、暗黒に見えてしょうがないんです(会場笑)。存外、電機産業みたいなものに従事している産業のところでは、たぶんもう予想を超えた好況で、予想を超えた収入っていうようなのを、収入とか、ボーナスっていうのはあるんじゃないかとかって思うんですけれど、すくなくとも僕らのたずさわっている分野っていうのは、非常にむちゃくちゃにだめな最低の段階だっていうのが現状なんで、全部がそういうふうに思われちゃうんですけども、あんまりそうでもないらしいのです。
 だから、そういう問題っていうのはいつでもあります。で、この倒産っていうことの特徴ですけども、昭和41年から始まって、だいたい42,3年っていうのはここの部分です。つまり、石油ショックの時に倒産の件数は、そこいらへんの前後のところで、最高に達します。最高の件数に達しまして、今だって、ここ数年ですけど、58年か9年、あるいは57年頃ですけども、それでも最高の時と匹敵するくらい倒産件数っていうのは、多いわけです。
だから、この倒産件数は多いっていうところからいけば、さきほどから申し上げるように、日本が世界第2の富める国であって、それで第1番の海外純資産を国家としてもっているっていうような、そういうバラ色のイメージっていうのはさっぱり違うんじゃないかっていうふうに、どうしてもなっちゃうわけなんですけども、しかし、経済白書なんかの言い方をすると、高い水準の倒産の件数だけれども、そこで安定しているって言い方をしています。つまり、高い水準ではあるけども、そこで倒産の件数が安定してるっていうふうな言い方をしています。
で、これは、もうすこしあげてみますと、昭和60年7月で、7月ですから2か月ぐらい前のデータですけども、倒産の件数はその月で1577件っていうふうになっています。1577件っていうのは、この昭和58年とか、そういうところに匹敵する倒産の数なんです。だから、現在、60年でも、これと同じぐらいの倒産の率があるわけですけども、これはかなり、最大の時に比べて、多少は少ないけども、かなり高率な倒産があるっていうことで、ちっともいいことないじゃないかっていうことになるんですけども、高いわりにようするに、安定してるっていうのが経済白書の言い方になっています。それは高いけど、前の年よりは少し低いとか、同じくらいだとかっていうようなかたちで安定している。だからそれは高水準の倒産率だけれど、それなりに安定しているんだっていう言い方をしています。

10 失業

 で、これは、さきほど申し上げました倒産状況ですけど、次に失業の状態なんですけど、それはさきほど説明した概算の表で説明したと同じことで繰り返して言えば、消費物価っていうものは、近々10年ぐらいとってくれば、平均2%ぐらいの消費物価の上昇があると、それに対して、失業率っていうのはだいたい2.7%ぐらいの割合で横ばいになっている。
だから、これはこれなりに安定してるんだっていうような言い方が、経済白書の言い方です。で、完全失業率っていうのを2.6%ぐらいで安定しているっていうふうな言い方をしています。しかし、前に比べて、多い数字になって、2.0%くらいですから、40年代っていうのは、石油ショック前はそれくらいですから、高率だってことはいえるんですけど、さしたる、つまり、劇的な変動とか、劇的な物価と失業率の、劇的な幅の変動はないから、それがなきゃ安定してるんだっていう評価になってると思います。

11 労働者所得

 で、今度は、労働者の所得を調べて、所得のデータっていうのをあげてみますと、ここは賃上げ率なんですけど、賃上げ率は55年度6.74%、60年度5.03%っていうふうになります。それで、労働者1人当たりの所得っていうのは、6.2%、6.3%、あるいは、4.1%、で、60年度はまだ予想の数字にしか過ぎませんですけれど、4.9%くらいの予想だっていうふうに、これは増です。つまり、前年に比べてこれだけ増えて、労働者の所得は増えているっていう率がこうなっていることの問題です。これは、全部についての所得の増え率は、この真ん中のデータで9%から5%の範囲で増大しているっていうなのが、現代の労働問題の大きな問題になっています。

12 産業構造の変化が及ぼすもの

 このところで、倒産の割合っていうものが語ってるいちばん大きな理由なんですけども、大きな問題がそれを語っているわけですけども、それは産業構造の変化っていいましょうか、さきほどからいいます産業構造がいわゆる情報化産業型に移っていく、その産業構造の変化っていうものの移り変わりっていうのが、倒産率に大きく影響しているっていうことがいえます。
 だから、あるデータによれば、産業構造についていけない、たとえば、10年以上続いてる企業といいましょうか、つまり、わりあい老舗の企業といいましょうか、老舗の企業ってものが、産業構造についていけなくて、10年以上の老舗の企業が倒産する率がたいへん多くなっているっていうふうに、データが出してあります。
 だから、それは文字どおり、全体の日本の資本主義の経済的な構造変化っていうのは、あるいは、産業の生産状況の変化っていうものは、かなり劇的に進んでいるっていうことがあって、それに対して、企業が従来の型っていうものをなかなか達しきれないとか、なかなかそれについていけないとか、あるいは、そのはざまに入って、押しつぶされちゃったとか、そういうことで倒産する件数の割合が、非常に多くなっていることがデータとして出ています。
 この問題は、つまり産業構造の問題としても重要なわけでしょうけども、なかなかぼくらのやっている物書きの世界っていうのはあるわけですけれど、この物書きの世界でも、たいへん深刻な問題になっていまして、たぶん現在、出版関連業界っていうものは、最も不況にさらされている位置の、それを産業っていうなら産業だっていうふうに思いますけども、そのなかで何がいちばん問題になっているかって、やっぱり、構造変化っていうものをどういうふうに踏んでいくかってことがいちばん大きな問題になっていると思います。
 これは、つまらない問題であるとともに、非常に深刻に、解剖すれば深刻な問題として、それはあるっていうふうに、現にそういうふうになっています。だから、現在の、たとえば、純文学っていうようなものは、ぼくらの分野でいえばあるわけですけど、純文学の分野っていうものはもう、ほとんど全部が赤字の状態で、雑誌類なんか出版されていますし、また、それに執筆している作家、文学者っていうのも、ほとんど赤字の状態で、執筆していると思います。
 たとえば、大家が、50枚、60枚の小説をひとつ書いて、雑誌に載せたっていうふうになりまして、そうすると、その原稿料っていうのはよくわかりませんけども、仮にそれを1万円とすれば、50枚だと50万円から税を1%引かれた額が収入であるわけです。そうすると、大家っていうのはだいたい、お年寄りが多いですから、お年寄りですから、50枚、60枚の小説っていうのを、たとえば2か月に1度っていうふうに書くっていうことは、たぶん、体力的にできないだろうって思われます。そうすると、仮に2か月だとしても、つまり、隔月に50枚、60枚の小説を書いていたとしても、収入は50割る2っていいましょうか、だいたい25万円で月暮らせっていうことに、まあ大家はそういうふうに暮らせっていうことになるわけです。
 それはできるはずがないのです。25万円で、その文学者の大家が暮らせるわけがないはずなんです。それだから、これは完全な赤字状態だっていうふうになります。それで、どうやって食べているのかっていうと、それはそのほかに、それを単行本にしますと、印税っていうのが入るってことがあります。それから、それを文庫本にしますと、文庫の印税が入るっていうことがあります。それでもって、かろうじて食べてると思います。
 しかし、あらたに生産したものが、あらたな給与であるっていうふうに考えるならば、それは食べられる状態にないっていうことを意味しています。だから、そうすると単行本の印税で食ってるとか、文庫本のあがりで食ってるっていうようなのは、ようするに残業で食ってるっていう(会場笑)、時間外勤務で食っているっていうのとおんなじふうになります。
 で、その時間外勤務の問題も、以前だったら大家の書いた創作集が数万台売れたとすれば、現在はっていうと、一桁下がって数千台しか売れていないっていうのが現状だと思います。だから、相当これは経済社会現象とみられた文学現象からみれば、もうほとんど倒産しない文学者とか物書きなんていないっていうふうに考えた方がよろしい状況にあるっていうふうに思われます。
 それからもちろん、雑誌は赤字で、純文学雑誌は赤字で、発行されているわけです。それは、広告にはなるわけですから、出版社にとって、そういうあれはあるけど、しかし、赤字で発行されているってことは間違いないことで、そういう状態になってきて、そういう状態でも文学の芸術性っていうのは守らなくちゃいけないって考える人もいるわけですし、それから、いやそうじゃないんだ、これはなにかの間違いだよって、なにかそこいらへんのところで純文学っていうふうな作品を書いて、しかし、ちっともおもしろくはないし、読む気もせんっていうふうに、読者の方でなっている。こんなのは、どっかおかしいんだ、文学あるいは芸術っていうような概念は、どっかで変わらなきゃいけないんじゃないかっていうふうに考えている文学者もいると思います。
 それから、そういう分野とはあんまり関係のないところでやってる文学者もいると思います。だから、それはひとさまざまですけども、いわゆる産業の構造変化っていうものが及ぼす範囲っていうのは、非常に広い範囲にわたっていて、この問題はどういうふうに考えていくのかっていうことは、あるいは、どういうイメージをつくっていったら、正確なイメージになるのかっていうことは、非常に大きな問題であるっていうふうに、ぼくには思われます。
 だから、そこで経済白書がいうように、安定成長しているっていうふうに、これは生産問題からいっても、労働問題からいってもそうだって言い方も、もちろん成り立つわけでしょうけども、また、裏側から見れば、いつだって、どこをつっついても、あぶなっかしい要素はどこにでもあるんだっていうふうな言い方も、もちろんできるわけです。たぶん、その2つは一種裏腹になって存在しているだろうっていうふうに思われます。
ただ、いずれにせよ現代の日本の資本主義に、先進的な資本主義を全部象徴させているとすれば、それはたいへんな構造変化を体現しつつあるってことは、なんとなく確からしく思われます。だから、マルクスがたとえば、水車とか、風車とかっていうものが、封建時代を象徴するもんだって、それで、たとえば、蒸気機器っていいましょうか、そういうようなものが、資本主義時代を象徴するもんだっていうふうに考えるとすれば、今みたいに電子情報産業時代っていうのは、何を象徴するかっていったら、超資本主義を象徴するか、何を象徴しつつあるのかわかりませんけども、それは、なにかを象徴しつつあるってことが確実らしく思われます。
つまり、そういうところに先進的な、日本も含めて先進的な資本主義っていうものは、だんだん入りつつあるってことが、なんとなく言えそうな気がします。それの具体的なあり方が、いまの情報化産業、あるいは、技術革新っていうようなものを中心とした産業構造の変化の仕方っていうようなところに、経済現象としては帰着するだろうっていうふうに思われます。
しかし、経済現象として帰着させないとすれば、現在のいろんな文化現象の中で、その問題はさまざまなかたちであらわていて、みなさんが、たとえば、24時間のうちで、職場でか、家庭でか、あるいは、余暇の消費生活か、どっかできっとその問題には、ちゃんと当面していると思います。1日のうち何時間かはそういうところに、そういう事態に当面しているだろうと思います。
だから、それもみなさんの職業とか、その他で、それぞれ違うわけですけども、しかし、24時間のうちどっかで、こういう問題にどっかで当面して、そういう実感を得ておられるだろうっていうのは、たぶん、間違いないんじゃないかっていうふうに思われます。
で、今度は、もうすこし、そこのところをはっきりさせるために、消費問題っていうものを、あるいは、家族単位で消費問題ってところにしぼる、これはいちばんわかりやすいですから、そこで消費の問題ってところに関心を寄せて、そこで考えてみます。

13 消費の話-家計支出の傾向

 そうすると、第一に各家庭の家計支出の傾向性っていうようなものを、データをとってみますと、そうすると、昭和47年から昭和59年までとってみますと、こういうような曲線を、カーブを描くわけです。ところで、そのなかで、なにを目安として、なにを考えたいかっていいますと、家計支出の中で、財として、つまり、実質的なお金とか、実質的な物とか、そういうものとして消費する部分と、それから、サービスとして支出する部分っていうものの比がどうなっているか、割り合いはどうなっているだろうかっていうふうに考えてみてますと、財として支出、つまり、お金として支出するとか、物で支出するとか、物を買うために支出するとか、そういう支出の仕方っていうのは、ここでは、この点線で、こういうふうに描かれています。
それから、サービスです、サービスっていうのは、たとえば、ここでサービスっていってるのは、医療とか、保険とか、教養とか、娯楽とか、その他、あとで出てきますけども、そういうものに対する支出っていうのをサービス支出っていうふうに考えますと、全家計支出の中で、財の支出っていうようなものは、いま言った点線でこういうふうになるとすると、サービス支出っていうのは、実線のこういう線になってきます。
つまり、いってみればサービス支出と財の支出との高低っていうようなものが、大きくなっているってことがいえます。つまり、サービス支出の割合は、財支出の割合よりも多いっていうのはもちろんですけども、全支出の中での割合としても、大きくなっているってことがいえます。
 この傾向は、両方を平均すれば、いわゆる合計支出のカーブができあがるわけです。つまり、こういうふうに考えて、なにが申し上げたいかっていえば、家計支出の中で、サービスっていいますか、つまり、医療、保険、教養とか、娯楽とかそういうものに対する支出の割り合いは増大しているってことを申し上げたいわけです。
 それは、そういう傾向が、現在の経済の消費生活からみた現在の経済、あるいは、産業構造の影響っていうようなものの、大きな傾向になってきていることがわかります。つまり、サービス支出の増大っていうようなものが、割り合いの増大っていうようなものが、やはり、抜きがたい現在の傾向だっていうふうにお考えになったらいいと思います。
 それから、今度はそれをもうすこし細部にわたって、サービス支出のうちで、何の支出が増大しているんだろうかっていうふうに考えますと、これは、ぼくなんかにとってはたいへん意外なことであって、そういうことをちゃんと調べようとか、考えてみようって思わないときまでは、けっこう予想もしなかったんですけど、サービス支出のうちで、いちばん伸び率が大きいっていうのは、自動車関係です。車関係の支出です。つまり、車の整備費とか、車に関連するサービスとか、自動車の保険とか、そういうようなものの支出の伸びがいちばん大きいっていうふうなデータが出ています。
 これは、ぼくは車も持ってないから、実感がないものだから、意外や意外っていうふうに、ぼくのまわり持ってるやつがそんなにいないですから(会場笑)、意外や意外なんですけど、これはやっぱり主観的なあれなんであって、本当はやっぱり、そうなんだろうなと思います。つまり、データはそうなっていますから、そうなんだと思います。自動車関係の支出っていうのは、サービス支出のうちでいちばん大きな増大額を示しています。
それで、その次に何かっていうのが、これを見ればわかりますけど、その次に大きいのは、これ、なんだと思われます?これは補習教育っていうふうに出ております。つまり、これは、子どもを、塾に行ったとか、ピアノを習いに行ったとか、つまり、ぼくの理解の仕方では、そういう支出だと思います。それは、サービス支出のうち、その次に増大している額です。
これは、ちょっと意外でもないような気もしますし、ぼくは、件数は多いだろうけども、身のまわりの人を見ていると、件数は多いだろうけども、額としてそんなに伸びているかなっていうのが、ぼくにはちょっとわかんなかったですけども、明らかにこれは2番目を占めています。補習教育支出っていうのは、2番目を占めています。
それで、3番目くらいに何がくるかっていうと、これは、交通関係の支出っていうようなものが、電車でどっか行ったとか、そういうことだと思います。その関係の支出が、その次を占めています。
それからもちろん、通信関係の電話をどうしたとか、手紙をどうしたとか、そういうことだと思いますけど、通信関係はその次とか、家賃、地代っていうものはその次っていうようなかたちになっています。
それで、そのほかでいえば、教養、娯楽っていうようなものが、だいたい4番目か5番目くらいにやってきて、そのあとが、美容とか、美容院に通ったとか、洋服を、被服ですね、洋服をあれしたとか、そういうものが、その次に出てきます。
このことは、なにを語っているのでしょうか。経済白書的な言い方ですれば、ようするに個々の大衆の生活が豊かになったものだから、車を蓄えるっていいますか、車を買い、そして、自分の子どもたちに、いろいろものを習わせたり、それから、塾へやらせたりっていうようなことができるようになったんだっていうことに、経済白書の言い方をすればなると思います。
なると思いますし、意外や意外っていう観点からすると、車とか、補習教育みたいなものに対する支出っていうようなものが、サービス支出の中で伸びが大きいってことは、なにか裏の方から非常に冷淡に眺めると、なんとなく、みんな必死になって、なんか習ったり、走ったりして(会場笑)、せわしないなっていう感じでしょうか、そういうイメージが逆にいうと浮かんできます。つまり、せわしなく走り、せわしなく習いにっていう、月曜はピアノ、火曜は絵とか、水曜は塾とかってかたちで、なんかせわしなく何か習ってるイメージと、それから、せわしなく走っているイメージと、両方が思い浮かんで、甚だ殺伐なイメージになっていくわけです。
これは、ぼくの理解の仕方では、豊かな社会っていうふうにいわれているものと、そのこととは、一種、表裏一体なものだっていうふうに考えます。つまり、豊かな社会っていうイメージっていうものは、裏側ではやっぱり、人は速く走り、人は速く習いっていいますか、やたらに厳しいし、長いっていうふうになっていることを意味していると思います。だから、せわしないなぁっていうふうに思います。

14 スピードを支配するもの

 それで、いったいぜんたい、そういうせわしなさの、時間的なせわしなさとか、速度のせわしなさっていうのを、だれが、なにが支配して、だれがそうさせているんだっていうふうになっていると思います。だれがそうさせているんだとか、なにがそうさせているんだっていうふうになっていきますと、なかなか、だれだっていうふうに、なんだっていうふうにつきとめられないんですけど、いちばんあっさり簡単な言い方をしますと、非常に大きな産業のなかで、大きな部分を占めている生産産業っていうようなものの、生産のスピード時間っていいましょうか、つまり、大きな産業、たとえば、日本で100社なら100社をピックアップして、その100社の生産の度合いを占めている時間っていいましょうか、たぶん、その時間が、私たちがせわしなく走る時間を本当は支配しているんだ、だいたいそれに倣わんとして、そこがいちばん根本の原因になって、だんだん枝葉末節に至るまで、みんなせわしなくなっているっていうふうに考えるのがいちばん簡単な考え方です。
 つまり、大きな主要な産業の速度と時間っていいますか、それが全体の時間を支配しているだろうって、だから、べつに急がなくていい人だって急いで駆け出しちゃうっていうことになりますし、そんなにたくさん、寿命はだいたい延びているわけですから、そんなにたくさん、知識教養っていうのは吸収しなくてもいいだろうって思うんですけど、なにか知らないけど、やっぱりせわしなく、知識教養を身につけってなことを、せわしなくやるっていうようなことになってしまっているんですけど、それはべつに、その家庭の父親、母親が悪いっていうわけではなくて、根本をいえば、非常に主要な産業の時間とスピードっていうようなものがだいたい発注して、そういう社会の大部分のスピードを決定しているっていうふうに考えるのがいちばん、常識的にいえば、いちばんいい考え方だ、いちばん妥当な考え方だっていうふうに、ぼくは思います。
 ただ、そんなこと言ったってしょうがないじゃないか、つまり、個々の父親、母親が、なぜ子供をせっつかせるのかっていったら、父親、母親は、父親の勤めている会社のスピードがだいたい速いんだっていうふうになって(会場笑)、そうすると、会社の社長っていうののスピードはだれが決定しているんだって、そのときの会社の生産が決定してると、しかし、その生産にまた影響を与えているその上の生産会社があって、その社長のスピードが決定して、従業員のスピードを決定して、その家庭のスピードを決定して、子供のスピードを決定する。だいたいこういう具合になってる。たどっていくと、そういう具合になりますから、だいたいそういうふうに考えるのが常識的な考え方だと思います。
 これが、サービス支出のうちで、なにが伸びているかっていうことの大きな要因だと思います。つまり、ここまであれしてきますと、実に確かに、データが示すとおり、日本は世界第2位の国民生産の額をもっている、そういう経済大国に成長して、それから海外純資産が世界第1だって、そういう国に急成長を遂げてしまっているイメージは、なるほどもっともであるっていうふうに、そのとおりだってことに、表向きはなっていくと思います。そのことはよくよく、細部のイメージまでも含めて、あるいは、客観的なイメージまでも含めて、よくよく再構成していかなきゃいけないっていうふうに思われます。
 それで、サービス支出っていうのは、どうして伸びていくか、それでどうして、情報化産業の技術が伸びていくことと、サービス支出が伸びていくことと関係があるかってことを考えてみますと、情報化技術が進歩したことで、サービス料っていいますか、サービス支出っていうものは、あるいは、支出のもとになるサービス料が個々の消費者の要求に応じやすくなったっていうようなことが考えられます。
 それから、もうひとつは人材とか、新しい製品が、ここのところにだんだん集まって、産業的にも集まってきますし、サービス自体のなかにも集まってくるっていうようなこともいえます。
 それから、もうひとつが、女性が、女の人が社会進出する人が多くなって、現在だいたい女性の50%以上は、なんらかのパートかなんかの職業についてるっていうようなデータが、つい最近出ていましたけど、そういうふうに女性の社会進出っていうのが多くなったために、男性に比して、サービスの必要の度合いっていうのが増加したっていうことがいえます。
 それから、もうひとつは、社会進出ってこととおんなじですけど、教養とか、娯楽っていうようなことの機会と、設備っていうのが増大していったってこともわかりますし、それからもうひとつ、逆なことをいえば、女性の社会進出が、現代でいえば、同じ能力の男性の6割の給料で、女性だったら雇うことができますから、雇われていますから、だから、安いお金でなかなか高度な質をもった女性の労働者っていいますか、労働力を獲得することができるようになったこともまた、サービス支出というものの増大に影響があるっていうふうに思います。
 これは、ぼくらからみると、わりあいに実感的にわかるところがあるんですけれど、若い、たとえば、今の10代、20代の若い人たちっていうのを見ていると、たとえば、昔ならば、アルバイトして学費の足しにするんだとか、食費の足しにするんだっていうような発想をして、アルバイトするってなことはあったことはありましたけれど、今の若い学生さんを見てると、そうじゃなくて、アルバイトした金でもって、衣服を買うとか、あるいは、髪を整えるとかっていうふうに、それを使っています。
 そんなのは、衣服なんか着なくたって、アルバイトなんかしなければいいじゃないかというふうに言いたいところですけど、どうもそうじゃなくて、ぼく、自分の子どもを見ててもそうですけど、やっぱアルバイトして、洋服買ったりとか、化粧したりとか、装身具をあれしたりとかっていうふうにしています。
これは、いわゆる若い世代っていうのはそういうことに対して、いい言い方をすれば、積極的になったっていうことになると思います。悪い言い方をすれば、くだらんことをしてるじゃないかってなるでしょうけど、いい言い方をすれば、そういうことに対して非常に積極的になったってなことがいえるんじゃないかと思います。

15 微細なイメージをつくる

 つまり、これらの申し上げてきました要因っていうのを全部、総合していきまして、それで、ひとつの日本の現代の資本主義社会っていうようなもののイメージを、できるだけ微細につくりあげていくってことは、さしあたって大きな課題なんじゃないかっていうふうに、ぼくは思います。
 それはなぜかといいますと、だいたいぼくらの年代、あるいは、それ以上の年代っていうのは顕著にそういう傾向が、まあ僕なんかも含めてあるわけですけども、だいたい主たる体験っていうなのがいくつかありまして、たとえば、戦争が終わったときの敗戦の体験だとかあって、それから、ぼくなんかですと、60年の体験があってとか、70年の体験があってとか、こういうふうにあれしていきまして、85年っていうものの現代のイメージをつくるのに、やっぱり60年代と80年代の、そのどっかの結節点で、たいへん劇的なかたちで、日本の資本主義社会っていうものが、劇的なかたちで構造変化を遂げつつあるし、現に、遂げつつある変化もまた、ここ2,3年のうちに、ちょっとそれとすこし質が違った意味で、やっぱり変化を遂げつつあるっていうようなイメージをたいへんつくりにくくて、すぐに自分が体験した大きな体験のところにストレートに帰っていっちゃうって傾向があります。
 それは、人間にとって、誰にとっても避けがたいことなんですけど、自己形成を遂げる場合に、自分が体験した大きな事件なり、大きな個人的な事件なり、全体的に社会的事件なりっていうようなものをもとにして、自分を形成していくっていうのは誰にでも避けがたいんですけども、その一方で、そのためにストレートに時間をスッととってしまうと、存外、中間の劇的な社会の変化っていうのを、読むことができないっていうことがあります。つまり、読めないってことはたくさんあります。そういうことには、たくさん当面します。
 たとえば、60年の時はなぁとかっていうふうに言ったり、敗戦の時はなぁっていうふうに言ったりするわけです。体験をもとにしたそれを言ったりするわけです。しかし、よく考えてみると、60年の時に生まれた人が、現在たとえば、24,5歳とか5,6歳とかっていうようになってて、すくなくとも、非常に活発に、頭の働いて活発に動くっていうような人たちの大部分を占めているっていうふうになっているのです。
 つまり、その人たちに対して、たとえば60年の時はなっていうふうにストレートに言ったって、そんなものは通用するはずがないっていうようなのが現在の状況です。なおさら、急激な変化っていうようなのが、60年から85年の間に急激な変化がありますし、それから、現在、数年の間に急激な変化がありますから、まして通用するはずがないのです。
 だから、そのことは一面ではよくわきまえているけど、一面からいえば、敗戦のときはな、戦争のときはなっていうふうにストレートに言っちゃって、それから、また60年のときはなってストレートに言っちゃうわけですけども、それはたぶん、ぼくの考えでは通用しないと思います。つまり、通用する年代っていうのは限られてしまいますし、そこの限られてしまう年代のなかにそれを流通しても、まったく違う世代、あるいは、違う年代のものには、宇宙人がなにを言ってるのっていうような感じにしか(会場笑)、受け取られないっていうのが、現在、ぼくらが実感している非常に大きな実感なんです。
 それで、前だったらちょっとそういうことに、ぼくは前だったら苛立ちますけど、ぼくは今だったらそんなに苛立たなくなってるわけです。だから、今はかまいませんけど、自分があれしてるこの問題、こういう言い方っていうのは、たぶん、この年代にしか通用しないなとか、この年代に通用するにはたぶん、こういう言い方しなきゃだめだなっていうようなことが、冷静にいえば、区別ができているつもりなんですけども、そういうふうにある年代に通用する真理っていうものは、若い年代にも通用するんだ、それで、そこには一種の歴史的な継承っていいましょうか、継承っていうものが、語り継ぎ、言い継ぎ、伝えられるものがあって、それでそれは若い人も通用するんだっていうような見方っていうのは、たぶんもう、今は存在しえないのであって、たぶん、そうじゃないと思います。
各世代、あるいは各年代において、主要な関心事はなんなのか、つまり、アルバイトして被服を買うことなんだとか、アルバイトして娯楽、教養につかうんだとか、あるいは、美容につかうんだっていうふうな、それが主要な関心であるっていうような年代も、ぼくはあると思います。
 それで、全然そんなことは無駄なことだとか、それは間違いだとか、それは甘いんだとかっていうふうな考え方を、ぼくはとりませんけど、とる人はたくさんいますけど、ぼくはとらないんです。それくらい、各年代によって、主要な関心事っていうのは何なんだって聞いたら、変わってきていると思います。
 で、それが通用する各世代を貫通して、通用することはないって思います。そういうものは、今もうなくなっちゃってるって考えるのが、非常に妥当な考え方のように、ぼくは思っています。
それはなぜかっていいますと、申し上げてきましたとおり、主として産業経済の問題から言いましたけども、こういう劇的な、社会の構造変化っていうのが行われる。これが、あまりに急激なために、各世代は共通な場所をもてないっていいますか、共通な関心場所をもてなくなっている。20代は20代の主要な関心があって、それから30代は30代があって、40代は40代、50代は50代っていうふうに、年代の関心の度合いのずれが非常に大きく露出してきたっていいましょうか、打ち出してきちゃったっていうのが、たぶん、現在のいちばん大きな状況だと思います。
 ですから、甚だ心許ないことになっているっていえば、たいへん心許ないことになっていて、世代間を貫徹する問題意識なんか何にもないよっていうことになってしまっているように思いますし、また、逆の観点からいいますと、急激な構造変化っていうものが、どういうところに行くかってことが、たいへん注目に値するし、また、それがどこに行くかってことに対して、できるだけそれぞれの人が、できるだけ微細なイメージ、微細な現在の現状のイメージっていうのをこしらえていって、そこで、自分の実感をそのなかに補ったり、あるいは自分が考えたことを補ったり、あるいは、こういう時どき出てくるデータっていうものを補ったりしながら、現在の社会っていうのは、イメージでいうと、こういうふうになっているなってイメージが、たえず、みなさんが自分でこしらえては壊し、こしらえては壊しして、そういうイメージを持っていくってことが、たぶん、迷路のような現在の大構造転換期みたいなものに対処する非常に大切なことであるように思います。
そこのところが、できるだけ微細なかたちで、できるだけ全体的なかたちで、そのイメージがつくれるっていうようなことのために、なんか今日お話ししたことが、なんかすこしでもヒントになれば、ぼくはそれでいいんじゃないかっていうふうに、そういうふうに思っています。
 なぜ、それでいいっていうふうに思っているかっていいますと、僕自身がやっぱり、そのことをもっとはっきりつかみたいっていいますか、もっとはっきりつかんで、それをわかりたいっていいましょうか、わかってみなきゃ、なにがなんだかさっぱりわからないっていうような迷路っていうのを、ごく至る所で感じてるので、だから、僕自身もそこのところを非常に微細なイメージっていうのをつくりたくて仕方がないものですから、こういうことにひとつの関心をもってるわけで、それ以上のことは、ぼくにも、いまは見事にできないところなんで、そこのところを微細にできるだけ、正確に、微細にっていうイメージをできるだけつくって、見通したいっていいましょうか、見通しをはっきりさせたいっていうような、そういう願望はあるものですから、そういうことの問題のなかで、今日のお話みたいなものが出てきたわけです。
だから、そこのところで、みなさんなりに、そういうイメージをこしらえて、思いがけないところが、ここが違ってたなとか、思いがけないところで、俺の直観とあっていたなとか、そういう様々なことを確かめながら、そういう明瞭なイメージをもっていくことに、すこしヒントを与えることができたら、ぼくはそれでよろしいっていうふうに考えてます。これで、簡単ですけども終わらせます。(会場拍手)

16 司会

(司会)
 5分ほど休憩しようと思いましたけど、吉本さんがサッとやっちゃおうってことで、いまから質疑応答に入りたいと思います。
 もし、トイレ行かれたい方ございましたら、静かに後ろの方からお願いします。
 それでは、ご質問のある方、挙手を。

17 質疑応答1(市民社会に対する国家の干渉を数字で知る方法)

(質問者)
 1点お伺いしたいんですけども、吉本さんが今日話されたことの前段になるので、恐縮なんですけれども、最初に、現在の市民社会と国家の関係について、モデルとして示された丸と四角のところなんですが、市民社会に対する国家からの干渉がありますね、これが非常に厳しくっていうか、きつくなってきていると、それは実感としてあるわけですけども、国家からの干渉の問題をですね、吉本さんの表現を借りれば、ごく微細に具体的にとらえるには、どういった手順で考えていったらいいのか、吉本さん、30%くらい支配されているんだっていうふうに言われたわけですけれど、そういった数字として出てくるっていうのは、どういう根拠があるのか、そのことをおたずねしたいと思います。
(吉本さん)
 数字としてどう出てくるかっていうのは、ようするに、見当として、ぼくはそうじゃないかって思っているわけです。で、なぜ、見当としてそうじゃないかっていうふうに思うかっていうと、だいたいアメリカなんかの出ている数字をみてると、だいたい46%とか、四十何パーセントぐらいの干渉率の度合いっていうふうに出ているわけです。だいたいそれを考えて、だいたい30%ぐらいじゃないかなっていうふうなあれで、30%っていう数字がべつに問題じゃなくて、だいたい3分の1ぐらいじゃないか、3分の1か、4分の3かわかりませんけども、とにかくだいたい3分の1じゃないかっていうふうな、そういうことで30%って言っただけなんです。
 それを、どうやって確かめるかってことは、どうやって言うかってことは、わりあいに楽なことで、たとえば、労働基準法っていうのがあるとすれば、労働基準法が市民社会における生産の現場に対して、労働基準法の条項がありますね。それは、生産の現場に対して、干渉しているわけでしょ。女性の場合には、たとえば、残業してはいけないとか、そういういろいろ規制があります。その種の、産業に対する規制とか、もちろん市民生活から家族に対して、家族の問題に対しての関係の法律がいろいろあるわけです。
 それから、たとえば、郵便とかなんとかに対しては、国家そのものが郵便事業の半分以上を占めて自分が事業をしている。それも、市民社会に対する干渉ですし、それから、消費の生活に対しても、そういう法規みたいなものを考えて、たとえば、労働者の数はこのくらいの人数であって、それに対して、労働関連法規は、こういうふうに、こういう規定になっていると、そうすると、その規定は何パーセントぐらいになるかと、ウェイトはどれくらいなのかってことは、いちいち個々にあたれば出てくると思います。
そのことはわりに、計算はむずかしくても、考えとしては簡単なことなんです。干渉の度合いっていうようなものを測るのは、教育関係なら教育関係の法規で、法律で、国家が教育機関に対して、この文書を通達っていうようなかたちで来たり、あるいは、確固とした法律として、学校関係諸法律でもって規定する場合とか、文部省通達で臨時的に規定する場合とか、いろいろあるけど、それが、たとえば、学童生徒、学生で何人あたりに対して、どういう規制があるかとかっていう計算しますと、いちいちやっていけば、わりに出てくると思います。
だから、全体的な感じ、国家の干渉度が増えてきたってことの、いちばんの、おおよその目安っていうのは、法律関係の法規の網の目が、だんだん細かくなってきたっていうふうに考えれば、目安の度合いっていうのが出てくるんじゃないでしょうか。
それは、学生さんの学生生活に対してとか、働いている人たちは職場に対して、関係して、労働法規とか、その他どのくらい干渉してきているかとか、学校関係に勤務していたら、文部省通達がこういうかたちで言ってるとか、学校法規ではこう決まっているとか、そういうことをあれしていけば、すぐに出てきますし、だから、どういうかたちで、いちばん干渉がわかりやすく出てくるかっていうと、法規の網の目が、各分野で細かくなっているってことから、いちばんわかりやすい目安が出てくるんじゃないでしょうか。

18 質疑応答2(忙しい社会の中で豊かな生活をするには)

(質問者)
 今日の話で、イメージとして、非常に世の中が忙しくなった、時間に追われるという、そういうイメージがあるんですね、そういうことが、豊かさの裏腹っていうふうに言われたと思いますが、ちょっと話が変わりますけども、良寛のことを新潟でお話になっているわけですけども、わたし、あの話の中で、自然性っていうことで、私自身もすごく、それに惹かれるわけですけれど、そういう社会全体が非常に忙しくなっていくなかで、それに巻き込まれないっていうか、逆らうこともできるわけですね。
 そのことは、自然なのか、それとも、社会の動きの中で、やはり順応しながら、順応するって言ったらおかしいけども、波風立てないでやっていくことが自然なのか、ちょっと私自身、自然と意思っていうか、意識っていうんですかね、そこらへんのことにすごく関心があって、吉本さん自身の生き方の価値の選択ですね、自分自身はそんなに忙しく、まあ、かなりあっちこっち講演されているから忙しいなかで、ぼくはしゃべり方がとってもスピーディだから、なんかやっぱ追われてるのかなっていう(会場笑)、それもあるし、実は十何年前に聞いた時も、けっこう早口ではあったんですけどね、そこらへんの状況に巻き込まれてるんじゃないかと、自然性ってことに関してちょっと、さっき言った良寛の生き方に至る自然性ですね、それとどう我々が選択していくのか、やっぱりそんなに忙しくて、はたして豊かな生活と言えるかっていうことなんです。そこらへんについてちょっと、お話ししてほしいと思います。

(吉本さん)
 僕自身、忙しく、まさに出版業界の時間の早さっていうと、暦性っていうのがあるわけです。それは、たとえば、雑誌が毎月発行されているとかっていうのがありますし、雑誌になにか書いたことの収入っていうのは、1か月も遅れてくるとか、2か月も遅れてくるとか、そういうふうに時間を支配されますし、だから、時間を支配しているのは何かっていうことは、また上にあるわけですけども、直接的には出版の時間に支配されているっていうわけでして、直接にはそうですし、非常に大きな意味でいうと、産業の構造変化についていけない出版業界の一員として、あっぷあっぷしながら、忙しくしているっていうような、そういう2つの面が忙しくしていると思います。
 じゃあ、お前は良寛のような生活をする気はないかっていうふうに聞かれると、さしあたってないんですけど(会場笑)、つまり、良寛って、ぼく、好きな人ですけれども、それは良寛の隠遁の仕方っていうものは、ある意味で、知識っていうもののあり方っていうものを非常に象徴しているわけです。
 良寛は隠遁したわけですけども、あの人は隠遁したけれど、けっして、その当時の村落との交渉の仕方っていいましょうか、干渉の仕方っていうものをやめてないんです。つまり、隠遁期には、山の奥にこもって、自然を友としてっていうようなこととは違うんです。良寛については、そういうイメージがいつでもつきまとっているんですけど、ほんとはそうじゃなくて、良寛はわりあい、いつでも毎日のように、村里に出てきて、村里の人と交渉しているわけです。そういう生き方をやめないんです。そういう生き方っていうのは、良寛の非常に大きな特徴で、また、それを普遍化すれば、当時の農村の構造っていいますか、農村の構造の中での知識っていうもののあり方っていうようなもので、良寛がわりあいに精一杯やってることがあるんです。
 だから、それは、現在でいえば、今日申し上げました産業社会っていうなのが、当時、良寛でいえば、せわしなくやっていながら、そのなかでやっている自分を巻き込んでいる社会っていうようなものは、本当は全体として見通してみたらどういうふうにできてんだって、自分がどの場所で、そういうふうに巻き込まれてんだとか、どの場所で、どういうふうに脱出しようとしてるかとか、どういう場所で、異議申し立てがくすぶっているかとか、自分の中でくすぶっているかとか、そういうことっていうのを、はっきりつかまえられたらっていうようなことは、ぼくのテーマなんで、それは、わりあいに良寛の場所っていうのと、そんなには違わない場所じゃないかっていうふうに思います。
 だけども、ぼくは出家っていうのをしてないんでしょうね、出家っていうのをしてないっていうことが、つまり、おまえのイメージをどんどんどんどん詰めていっちゃって、僕なら僕のイメージを、物書いてどうしたとか、しゃべったとか、そういうんじゃなくて、そういうイメージをどんどん追い詰めていっちゃったら、どういうところに追い詰められるかっていうと、ようするに僕はしばしば言うんですけど、いわゆる庶民とか、市民とかっていうところに、あるいは、生活者とかっていうところに、ぼくは自分のイメージを追い詰めていったら、そこへいっちゃうような気がします。
だから、余計なことをしているわけですけども、でも、どんどん余計なことを剥いでいっちゃったら、おまえの中心に、核にあるものは何なんだって、おまえは何なんだっていったら、やっぱり庶民とか、市民とかっていう生活者みたいなものに収れんしていってしまうってなる。だから、そうしてしまえば、せわしない社会にもまれて生きていて、どこにも行く場所がないっていうのが、どんづまりのイメージですから、ぼくはさして、そこから逃げようみたいな、あるいは、それと別なっていうふうには、そんなに思ってないところがあります。
そこでは、ぼくは出家してないわけです。良寛のように出家してないわけです。自分が、たとえば、この社会からびた一文もらいたくないとか、びた一文直接的には手を汚して、働いて手を汚して、稼いで、それで食べてっていうことは、びた一文したくないっていう、そういう職業革命家みたいなのはいるわけですけど、これは、良寛をなぞらえていえば、出家しているんだと思います。これは、出家だから、良寛と同じ、ある意味でまったく相似形の生き方の問題に当面するだろうと思います。
しかし、ぼくは出家していないですから、収れんしてきたら、そういうふうにならないので、やっぱり庶民とか、市民とかっていうものの生活者ってところに、自分のイメージを収れんしていると思いますから、そんなに、せわしないことは苦でありますけども、だから、これを逃れて、別の時間をつくろうっていうふうに、別の時間を創造しようとか、つくりあげて、そこで活動しようみたいなふうには、ぼくは思ってないですから、ぼくのイメージはだいたいそんなところに尽きるみたいに思います。

19 質疑応答3(吉本さんはストレスをどう解消しているか)

(質問者)
 わたし、すみません、先生の話を聞きにきて、時間がないものですから、詩人的な、詩のお話とは全然関係がないのですけど、先生は昔、スマートボールとか、パチンコとか、プロの位に達したっていうお話を聞いたことがあります。それがひとつ、最近先生はお忙しいと思いますが、パチンコをやる機会があるかどうかっていうのが1点です。
 それと、わたしは自営業というのを宮崎県でやっておりまして、今日、まあ7時に出て、汽車で来ましたんですが、またすぐ5時20分の汽車で帰る時間で失礼するわけですけれど、ストレスというのがたまると思うんです。わたしも社員を使ってですね、会社を小さいながら経営してますが、先生は文筆業というものを何十年とやってこられて、その中で、先生はテレビも好き、わたくしも好きです、そのなかでストレスというのがたまるんですね、先生の場合、わたしは好戦的とは言いませんけども、日本でも数少ない硬派のですね、思想家である、ある意味での独創家でもあるという、そういう自分の中で、そういうことを導き、話ながら、外部からのそういう圧力みたいなものを受けるわけですから、受けながら、ストレスは、人間も弱い生き物ですから、私の場合もたまります。先生の場合はストレスというのは、○○○にあられるっていうような話も、いくつか話のなかでも聞きましたけども、自転車をこいだりってなこともしたくない体力(会場笑)、ストレスっていうのはどういうふうに、私の場合はビール一杯飲んで、なんとなくやってるような気がするわけです。
 ですから、パチンコを最近やられているかどうかというのと、ストレスというものをどういうふうに解消しておられるかっていうこと、2点、すみません希求的な気のあれで恐縮です。

(吉本さん)
 かまわないです。パチンコ、今もやってるかっていうと、時々やるわけですけども、今やるのはパチンコか、それじゃなければゲームセンター行ってやったりとか、どちらもそうなんですけども、いったんやると一種の習慣性、そこでフッと落ちが来て、で、また、しばらくやらない。で、今度はゲームセンター行ってっていうふうに、こういうふうにやるみたいな、そういうかたちで、今もよくやっています。しかし、前よりも、真剣にやってないんです(会場笑)。
前はあなたの言ったの、ちょっと誇張があるのだけれど、ただ景品で、景品を金に換えてっていうふうに、食う足しにしてたっていう時期がありまして、その時は真剣そのものでやってましたけど、今はそんなに真剣になってないんですね。ようするに、遊びです。遊びにつきるわけです。パチンコの方はすくなくとも、あれすれば景品が得られるわけですけど、コンピュータゲームに関しては得られないでしょ。あれはものすごく面白いと思います。つまり、得られないけれども、コンピュータゲームはいいっていうか、こんなおもしろいと思う時もあるんです。だけど、そうかと思うとある時には、こんなのただ、あれしてるだけだって、少しはもうかった方がいいって感じになる時もあるけど、どちらかをやってるんです。
 それで、もうひとつ、前と変わったことは、つまり、30代の頃だったと思うんですけど、30代半ば頃だったと思うんですけど、多少そういう意味で真剣にやって、金に換えてみたいなそういった、今と違うもうひとつのことは、遊びになっちゃったってこともあるんですけど、遊びに今度は、年齢っていうのをもう一個あれすると、おりっていうのが加わっているような気がするんです。
ですから、コンピュータゲームの場合でもそう、パチンコの場合でも、なんかその日の体力とか、その日の調子っていうのが、ものすごく気になっちゃうっていう、だから逆に○○○じゃなくて、その日の体力を占うみたいな、いやらしいことになっちゃう時があるんです。それはやっぱり、年を取ったっていう証拠だと思います。
なんかそれでもって、たとえば、何点しかとれなかったっていう、それは調子が悪いからだっていう、体の調子が悪いからだっていう、なんかそれが体の測定器になっちゃうことがある。それはいやらしいことですね。
それは、ぼくはジョギングしないけど、きっと、お年寄りの人でジョギングしている人はやっぱりそうだと思います。ジョギングして開放しているっていうより、ジョギングして、その日の体力を自分で試しているっていいますか、測っているところがあって、だから、今日もできたなとか、今日このくらいくたびれたなとか、なんかそれでもってものすごく鋭敏に身体の状況を測っているところがあって、それは老いの特徴ですね。だから、そういう嫌な面も出てきています。多少出てきていると、よくやっています。
それから、ストレスをどうやって解消するかっていうことなんですけど、さまざまなかたちで解消してると思います。それは、あなたの解消の仕方と全然違ってない解消の仕方をしてると思います。あなたとおんなじように、飲んだりとか、映画観たりとか、さまざまあって、それで解消しているので、それに特別な解消の仕方があるってことはないので、ただ、こういうところの席だから、多少かっこいいことを言わなきゃいけない(会場笑)。
ひとつ、かっこいいこと言いますと、知識っていうのがあるでしょ、つまり、本を読むとか、なにかを調べたとか、それを全般的に知識ということに言ってしまいますと、知識を獲得するっていうために何をするかって、それぞれ本を読むとか、いろいろあるでしょうけど、その知識を獲得するっていうことは、もちろん富でもありますけども、ストレス解消でもあるような気がします。
つまり、目先が開けるみたいな感じ、読んだときは、少なくとも、そういう感じがするんですね。目先が開けたってことそれ自体は、一種のストレス解消なんです。だけど、そんなのは長く続きませんけど、長く続かないから、また次の本を読むとか、いろいろあるでしょうけど、そういうふうに、知識を獲得するっていうことは、ストレス解消なんでしょうね。それは、瞬間的な解消に過ぎないけども、解消だってことがありますね。だから、それはずいぶんストレス解消を助けてるような気がしますね。それは、かっこよくいえば、そういうことはないことはないんだけども、ほかのことは全部おんなじですよ、あなたと同じことしかしてないんですよ。してないと思いますね。

20 質疑応答4(忙しい社会から降りた生活もあると思うが)

(質問者)
 さっきこちらの方が、豊かな社会と裏腹に、せわしない社会、わたしはこのせわしない社会から、わしは降りたと、わたしはやめたと、そういう生き方をしたいと思うんですが、その生き方の方法として、どういうことが考えられるんですかね。わたしも、わたしなりに考えたんですけど、わしはやめた、わしは降りた、そういう生き方。

(吉本さん)
 たとえば、農村なら農村っていうのでとりましょう、そうすると、農業人口っていうのは、少なくなる一方ですし、たとえば、よく、農村の若者たちはみんな、都会に出ていっちゃって、稼ぎたいみたいなものがあるっていうふうに言われていることがあります。
 そうすると、それを一例としてとりまして、なぜ、過疎地帯ができるかっていいますと、ようするに、若者、あるいは農村の人たちが、忙しい時間の方へ行っちゃうから、そこが過疎地帯になるっていうことを意味すると思います。
 で、農村っていうのは、さまざま、また違う時間が流れていると思います。その時間っていうのも、極端まで追い詰めてしまいますと、極端化していってしまいますと、農村の時間っていうのは、つまり、これは、アジア的な時間っていうふうに言うことができるわけですけど、アジア的時間っていうのは、特徴は、なにかっていうと、千年経っても、あんまり時間が流れないっていうことが、農村の時間の特徴だと思うんです。極端化していけばですよ。現在、発達してますけども。
 それを極端化してしまえば、農村っていうものの定義は、つまり、アジア的時間が流れているんだ。アジア的時間とはなにかって言ったら、千年経ったって、さほどスキクワってことでも、耕し方が改良されるわけでもないし、種をまく技術が、食い違うわけでもないし、毎年おんなじ時期にざっくりと、そういう種をまきっていうのをやって、それで、生活もさした変わりばえがないかたちで、時間がずれようが、無時間っていうふうに言えば、時間がたいへんゆっくり、数千年もかけてゆっくり流れているっていう、数千年経って、わずかにちょっとだけ、ヤンマーディーゼルが耕耘機をいれたとか、そういうわずかに変化したとか、それでも千年経っているってことになります。
 だからそれは、非常にゆっくりした時間の流れってことになりますから、ぼくは生き方としていうならば、つまり、降りたとするならば、どこへ降りるんだって言ったらば、やっぱり、そういうところに行って降りるっていうのが、いちばん考えやすい降り方だっていうふうに思います。
そうすると、そこでどうやって食べていくんだっていう問題が、非常に大きな工夫の問題に、ぼくはなると思います。それは、前なら工夫する必要がないのであって、そこへ行って耕せばいいんだってなるけども、ぼくの考えでは、現在ではたぶん、そういうかたちで農村の過疎地帯に、土地を借りて、あるいは買って、そこに小屋を建てて、そこで農耕をやって、自分の食い分だけ食って、社会から降りたっていうふうに、そういうやり方をしても、たぶん、食うのは、たいへんきついんじゃないかって思います。
それは、なぜかって言いますと、高度な産業社会の影響っていうのを、農村は間接的に受けていますから、そこの変化のギャップでもって、あんまり本当には降りられないっていうのが、現状じゃないかと思います。過疎地帯でも、本当の降り方はできなくて、本当の降り方をするには、ちょっとだけ工夫しなきゃいけない。
つまり、工夫っていうのは何かっていうと、どういう工夫かって、いずれにせよ根本は簡単なことであって、産業社会からすこしは余計にせしめてくる方法でもって農業をやるっていうような、そういうことをどっかですれば、完全に降りられるっていうふうに、あるいは、それは完全に降りられないことじゃないかっていう言い方もできるけど、ぼくはそこのすみまでつけてけば、完全に降りられる。そこをよく理解していれば降りられる。
それで、そうじゃなくて、ただ、農耕すればいいんだっていう意味合いで考えていったら降りられないっていう、こういうふうになると、ぼくは思いますけど、それがいちばん考えやすい考え方じゃないですか。
それから、もうひとつの考え方は、幻想として降りるということだと思います。つまり、観念として、精神として降りることは、ぼくの考えでは、やろうと思えばできないことはないと思います。つまり、精神だけは降りたよっていう降り方で、実際はたとえば、せわしなく産業の時間に支配されて、日常生活を送って、勤めてきて、帰ってきてってことをやっているけども、自分の精神っていうのは、自分の精神が考えることの主要なことは、全部それとは関係ないことを考えたり、感じたりするように、自分は降りるっていう降り方は、やっぱりできないことはないと思います。
それはしかし、さきほどと同じ、農業の場合と同じで、多少その通路をつけておかないと、通路を自覚的につけておかないと、完全には降りられない。影響を受けちゃってつぶされちゃうっていうのがあるだろうと、やっぱり、通路は自覚的につけておいて、ここだけはちゃんと通路がついて、つけとくよ、だけどこっちの方は全然関係ないよっていうような、精神の、自分の世界の持ち方を精神的にするっていうことで、やっぱり観念の上で降りるっていうことは、ぼくはできると思うんですね。

(質問者)
 わたしもそう考えるからです。

(吉本さん)
 あ、はい。(会場笑)

21 質疑応答5(サービス産業の役割について)

(質問者)
 さきほど、サービスということについて、消費という側面から触れられたわけですけど、サービスということがあがった時に、たとえば、医療、それから教育、それから福祉というサービスということについて、提供する側というか、産業ということでは、それこそ産業といわれたものなので、それが現在、いったいどういう役割を担わされているのか、いま現在、どういうことをお考えになっているかをお聞かせいただきたいなと思います。

(吉本さん)
 サービスっていうふうに言われていることはですね、古典経済学の概念で言いますと、たとえば、マルクスの考え方みたいな、言い方みたいなものをとってきますと、広義の、広い意味での、物質の生産じゃない生産ですね。そういうことを、ここではサービスっていうふうに、サービス産業っていうふうに言ってると思います。
あるいは、サービスの生産っていってるものは、物質の生産ではない。逆にいうと、サービス消費っていってるもの、物質の消費じゃないっていいましょうか、つまり、物質のための消費じゃない。
 たとえば、いちばん典型的なのは、イリッチなんて人は、非常によくつかまえていると思います。それから、医療であり、学校教育であり、交通ですあとね、つまり、場所の移動です。場所の移動っていうのも一種の生産って概念で考えれば、生産なんですし、それから、消費っていう概念で考えれば消費です。つまり、こっちからこっちへ場所を移動するっていうのに、ある時間が掛かり、あるお金が掛かりとかってあるでしょ。これはしかし、すこしこっちからこっちに移動したからといって、べつになにかここが増えたとかっていう意味合いのかたちはないのです。
でもそれは、生産ではあります。マルクスは広義の、広い意味での交通っていう概念でいってるものは、やっぱり相対的に言って、サービス生産、あるいは、サービス消費っていう概念に該当するんだと思います。それの主要なものはどこでつかまえるかっていったらば、医療と学校教育と、それから交通機関と、その3つでつかまえると、いちばんいいつかまえかたになると思います。それが産業の、現在、あるいはこれからの産業社会の迎え方の中でもって、だんだん大きな重要を占めてくる、非常に主要な象徴になっていると思います。
 だから、そういうふうに考えれば、過程からいえば、サービス支出、あるいは消費というものは、業者からいえば、サービス生産ですから、それは商売をしていることですから、だからそれは、どちらからでもとらえられるわけですけども、つまり、消費する側からも、それをつくっている側からも、つまり、医者の側からも、患者の側からも、とらえられるわけですけども、いずれにしても、それは象徴的にいえば、学校関係、医療関係、そして交通関係っていうようなものに、あるいは流通関係っていう、交通関係っていうもので象徴させれば、いちばんわかりやすいんじゃないでしょうか。つまり、古典概念とわりあいに対応できるんじゃないでしょうか、それでよろしいですか。

(質問者)
 もうすこし、たとえば、交通みたいなもの、わたしは交通というところはわざと外したわけですけど、それは交通にしろ、その他、いわゆるサービス産業といわれるサービスっていうものと、すこし性格が違うと、つまり、いま言われたように、医者と患者、あるいは、教師と子ども、あるいは、障碍者と福祉施設の職員、対象は常に弱者、社会的弱者であるというところがひとつあります。
それと、送り手は常に、さきほど法律の網目と言われていましたけども、学校にしろ、施設にしろ、それは福祉のですね、病院にしろ、いやになるくらい網の目がきっちり被せられている。
 学校法人は私立ですけども、これはきっちり、自由裁量部分だけが私立で、絶対逸脱できない部分があるわけです。ですから、そこのところで、国家意思みたいなものがきっちり介入しながら、受け手と、もうひとつ、それをはさみつけておくっていう人たち、きり結んでる。そういう現場なんだなっていうふうな気がするわけです。
 そこのところで、さきほど、どういう役割を担わされているとお思いですかっていうようなことを言ったんですけど、それが、ますますサービスみたいなものだと、発展したなかで、たとえば、いま金庫産業みたいなものが、事業とはべつですね、信仰じゃないかって感じであるわけですけど、そういうものと融合しあいながら、ほんとに高度に発達していく資本主義下のなかで、全然気づかない役割を担わされていくんじゃないかっていう気がするんです。
 そこのところを、吉本さんなりの問題意識として、リアルに気付かれていることがあれば、お伺いしたいなと思います。

(吉本さん)
 こうだと思うんです。たとえば、医療なら医療っていうのを例にとってきますと、どこが問題になるかっていいますと、イリッチなんかも明瞭にしているわけですけども、どこで問題になるかっていうと、医療っていうものが、患者さんがどっかに病気をもってて、それで病院なら病院に行くと、お医者さんがそれを治療してくれると、お医者さんは、自分が病院から給料をもらっているか、また、自営だったりするわけです。そういうことで、患者さんを治すっていうことで、自分の生活を繰り返している。
 患者さんの方はなにかっていうと、それ自体は支出なんだけれど、それは何のために必要なのかっていったらば、生産の現場、職場へ、また明日、健全に出ていくために必要なのであって、治しに行って、治療費を払って治してもらうと、それで、治してもらった体で、また、明日生活、生産し、再生産するために、職場へきてやった。
それでまた、疲れてきて、どっかに病気があれば、それはまたお医者さんに行き、こういうことの繰り返しをするわけですから、いつでも生産の片っぽ、折りたたむ方からいえば、治療の場が、自分の生活の再生産の場になりますし、それから、患者の側からいえば、そこではお医者さんに治療してもらうってことが問題なのだけれど、それを治すっていうことのなかに、次の、自分の生活の再生産の職場っていうのが、頂点っていいますか、境界点だって、そういうところが、治される方の患者さん側からいえば、そこが境界線、それで、治す方のお医者さん側から、治す場所、機関自体が、自分の生活の生産、再生産の頂点っていいましょうか、境界線、そういうふうになって、そういうことで、そういうふうに考えていったときに、あなたのおっしゃる、誰が生産のメカニズムを、誰が支配しているのかとか、あるいは、常用価値をとられているのかっていう問題は、そういうところでつながります。 それで、あなたのおっしゃることとつながりが、そういうことで出てくると思います。
それで、もうひとつ問題が出てくるところがあります。それはなにかっていうと、そういうふうに、たとえば、お医者さんが、近代的なっていいますか、現代的な、たとえば、最先端の技術を駆使して、患者さんを治療したり、治したりした。ところが、こういうことがありうるわけです。それは、たぶん、ある程度あると思うんですけど、お医者さんが治療したがために、あるいは、治療のために薬をやったがために、できる病気っていうのもあると思うんです。
 薬をやったがために、たとえば、その薬の副作用のために、どっかにできものができたとか、腫瘍ができたとか、頭痛くなったとか、つまり、薬を投薬したがために、あらたに生み出される病気っていうのもあると思うんです。で、これもまた、わかりやすくするために機械的にいいますと、ようするに、新しくお医者さんに治療して治してもらう目的でもって、お医者さんに治療してもらった挙げ句に、治療したがために、新しく生み出された病気っていうもののパーセンテージが、自然の病気っていいましょうか、くたびれたから病気になったとか、働きすぎて病気になったとか、残業やらせられたために病気になったとか、そういうことの病気のパーセンテージを治療したがために生み出される新しい病気の方が上回ったとしたならば、根本的な問題が出てきて、治療体系っていうもの自体をまったく変えてしまわないと、だれがどう変えるかは別として、変えてしまわないと、その治療体系はだめだっていうことになると思います。
 その問題は、もうひとつあると思います。これは、教育についてもおんなじなんであって、極端に笑い話的にいえば、たとえば、いまは大学っていうのはあります。まだ、ありますけども、大学から、その上、大学院っていうのもありますけども、全部の人が大学院まで勉強したと、学校行ったと、それでも、その社会の先端でやっている様々な技術、事務、様々なメカニズムにおけるあれを処理するためには、大学院まで行っても、まだまだ全然役に立たないというふうになっていって、それじゃあ大学院出て、たとえば、25歳なら25歳と仮定しますと、これは、とにかく極端なことを言いますけど、40歳まで学校行ってたんだけど、まだ、学校出て、社会で行われている様々なメカニズムの分野で働いても、働くだけの知識が足りないんだっていうふうになったらどうなるんだ。そうすると、それを極端に言いますと、一生学校に行ってても、まだ、役に立つようにならなかったってなったらば、それは、どうすればいいかっていったら、その学校の教育制度自体を変える以外にないと僕は思うんです。
 つまり、その問題は明らかに、極端なこと言いますと、どっかで○○○をあるなっていうふうに思います。それは、よく考えてみますとわかりますけど、昔は小学校出て働く人がたくさんいたっていう、今は中学出て働く人はたくさんいたって、今、だんだんだんだんそういうふうになってきているわけで、ほとんどの人が大学まで行くようになったとかっていうふうにだんだんなりつつあるでしょう。
それを考えれば、極めて自然に、もっと延長して、もっと大学以上まで行ったんだけど、まだ、足りないんだっていうことになる場合っていうのは考えられるわけで、そうすると、一生の半分以上、生涯100年として、50年以上学校行ってないと役に立たんのだっていう、そういうふうに社会がなったとしたらば、どうするかっていったら、それはもう、教育っていうこと自体を、学校っていうこと自体を根底的に変えてしまう以外ないと思う。つまり、その問題は明らかにどっかでは、かならずあるはずだと思います。ふうに考えるのが、非常に常識的に考えやすい考え方のように思います。
 その手のことは、たとえば、よくお考えになればいろんなところでありえます。つまり、これ以上、鉄鋼生産やったって、何もつくらないんだっていう、戦争でもして、軍艦でも造りたい奴は造ればいいけども、そうじゃなくて、そんなものにつかわないで、鉄鋼なんかいらないんだ、それで、こんな小さな電子機器みたいなものをつくればいいんだ、それで結構やっちゃうんだってなったら、鉄鋼業っていうのはいくら生産してもしょうがないからっていうことで、ある限界点があるっていうふうに考えることもできると思います。
その手の限界点っていうのは、いろんな分野であると思いますけども、ひとつはあなたのおっしゃることの問題のほかにもうひとつ、どこに限界点があるかっていうことについては、考えてみるに値するっていうようなことは、もうひとつあると思います。もうひとつはあなたのおっしゃるとおりで、生活の生産をするために、どこの職場でっていうことは、どこが医者にとって職場の最前線なのか、あるいは、患者にとってどこが体を治した上で、働く職場の最前線なのか、その最前線のとこでも、せめぎ合いっていうのは、いつでもあるっていう問題です。
それから、かならず、医療でも、教育でも、交通でも、そうだと思います。つまり、新幹線っていうのは、200キロだけれども、これを時速1000キロの交通機関にすることに意味があるかどうかっていうことになると、たとえば、北海道から九州の果てまでは何キロあるか知りませんけど、2000キロなら2000キロって考えて、少なくとも日本国の端からは端まで行くのに、1秒で行くっていうふうに、交通機関が発達したとします。そうすると、1秒で行くことに意味があるかどうかっていうことは問われなければならない。どっかに、ぼくは限界点があるような気がします。
 それから、みんなが1秒で行ったら、どっかぶつかっちゃうんじゃないかとか、いろいろあるわけで、つまり、その手のもうひとつ考える、そういう産業とか、目に見えない交通とか、医療みたいなものでもそうですし、こういうもののサービス支出ですけども、そういうもののどっかにかならず、限界点があるんじゃないかっていう問題はもうひとつ抱え込んでいかないといけないような気がぼくはしますけどね。その2つの問題じゃないかなとぼくは思いますけどね。

22 質疑応答6

(質問者)
 ぼくは、野球をやっとんのです。野球をみんなと一緒にやったりして、勝った敗けたってことを、みんなで一体で、集団でっていうか、2人が持てるわけですね。そういうようなのが最近全然ないんですよね、それ以外は。会社も、本はむかしずいぶん読んでも、最近、本を、野球をするんでも、全然、これ読まないと、夜はナイター見ると、夏はテレビで甲子園やって、昼間は、で、夜はナイター、わたしが好んで読んだのは、そのなかには、橋川文三さんのナショナリズムっていう本があったんです。それは何回も読みましたけど、その中に、郷土愛とかなんかあって、そういうことがなんか実際に自分に持てたらいいなって気がして、最近だれかが故郷のことかなんかで、国家と故郷を一緒に合わせたようで、どっかの政治家が言ってましたけど、そういうことじゃなくて、橋川文三さんが言ってたことは、ぼくがいつも疑問に思っている一体感っていうか、本当に一緒にやったっていう、汗を流してやったっていうことが持てる社会とか、そういうものが、具体的に吉本さんの中にあるかどうかが一点と、あと一点は、世代とか年代はバラバラなんだっていわれますけど、ぼくはそうは思わないです。ひとつ、つながるものが、絶対的基準とかなんかが、どっかにあるんじゃないかって気がするんです。それは、ぼくは政治とか経済の世界じゃなくて、宮沢賢治が言ったように、芸術っていいますか、芸術がもっている言葉が、だれかに伝わるってことがあるんじゃないかってこと、状況とか、なにか違っていても、なんかそういう気がする、その2点だけ。

(吉本さん)
 最初の、協同してなにかやって、ひとつ同じ共通目的でなにかやり遂げたっていう、そういう達成感みたいなものを持てるような、あなたのおっしゃるのは、スポーツなんか、野球なんかやって汗流したときくらいのもので、そういうのはあるべきなんじゃないかっていうふうに言われているわけで、ひとつの第一の問題はそうだと思うんですけど、やっぱりこれは、一種、世代体験のあれがありまして、あんまり普遍的におれの考えはいいっていうふうに言えないし、言いたくないし、また、言うつもりもないんですけど、ぼくは逆なんです。
 あんまり一緒に声をそろえて協同でやることで、しかも、なにか意義がありそうなことっていうのは、できるだけない方がいいなって感じがあるんです(会場笑)。これは、戦争の時に、散々それで、自分もしましたし、散々上から下までそれで、ことごとくそれが敗戦っていうところで、でんぐり返ってしまったっていうことがあって、それがもう大変な、僕にとって生涯の転回点でしたから、だから、なんとなく協同でもっていいことをしているっていうような、なんか役に立つ、ためになることをしてっていう感じになってくると、なんとなく胡散臭いよっていう警戒心も逆にあって、それは、できるだけひとりで楽しむ方がいいんじゃないかって、それでまあ、大勢で楽しむスポーツみたいに、意味はもちろん、スポーツに意味はあるわけですけども、スポーツの意味は、肉体的なとか、筋肉的に開放感があるとか、筋肉的な解放感にともなう、精神的な解放感だとか、みんなと一緒におもしろくやったっていう、そういうあれだっていうのは、そういうことで、協同でやることがたくさんあってもいいと思うけど、それ以上意味あることでは、あんまり協同で意味あることをやったっていう達成感みたいなのは、あんまりぼくは、むしろない方がいいんじゃないかっていう考え方でやってきたと思うんです。
 そうはいうものの、労働組合のあれをやったり、デモに加わったりとか、いろいろありますけども、そういうときにも、これは悪いことしてるんだ、悪いことしてるんだっていうのが(会場笑)、いつもどっかにあって、そういう一種、自己相対化っていうんですかね、自分のやっていることをもう一度みてみようみたいな、そういう意味合いっていうのは、なんかいつでもあったように思うんです。
 それほどやっぱりきついと思います。つまり、ぼくはいわゆる、日本の社会の成長面だけをあれしましたけど、アジア的な意識っていうのは、アジア的な共同体っていうのは、今でもありますから、なんか協同でいいことをして、それで、いいことを外れると、共同性から罰せられてしまうみたいな、非寛容だ、寛容でないっていうような、そういうの、ぼくは一種、警戒心を働かせます。だから、多少あなたのおっしゃられるあれと違うんじゃないかなってところもあります。
でも、ぼく、協同でスポーツやるとか、そういうのはいいことだし、そこでもって得られる協同感っていいますか、やったねっていう感じっていうのは、やっぱりそれはそれなりにいい感じだなって、ぼくは思いますけど、なんかそれ以上の意味づけをしちゃう場合には、相当いろんな問題が、ぼくはあるような気がするんです。
 とくにそれは、アメリカ社会っていうのから伝わってくるあれがあるんでしょうけど、つまり、嫌煙権とか、なんかそういうのをやってくでしょ。なんかそうなってくると、なんかちょっと胡散臭いっていう感じが、どうしてもしてくるんです。たばこ吸う人も強要されるし、吸わない人も強要されるっていう、つまり、吸わない人が吸う人の悪口を排除するってことも、吸う人が吸わない人を排除するってこともないっていうのは、正当なんじゃないかっていうふうになるとぼくは思うんです。
 それで、吸うことは害があるんだから、害を人に及ぼすんだっていうふうに言う論理っていうのはあるでしょうけども、しかし、それ以上の害を、その人は強要しているかもしれないのに、どうしてたばこの害だけ言うのか(会場笑)、そういう言い方もできることは、いくらでもあるので、そんなことは、害があるっていうのは誰でもわかっているわけで、しかし、それでも吸うっていうのは、人間っていうのはそういうのであって、人間っていうのは動物と違って、否定性をもっているっていうことが、人間の特徴だと思うんで、だから、動物だったら、ある環境があって、あるあれがあったら、そのまんまっていうことになるわけです。そのまんまの行動っていうことになるわけですし、性が要求すれば、性の要求に従って行動するっていうのが動物的社会です。
 人間っていうのはそうじゃなくて、性が要求しなくてもやっちゃうっていうのはありますし、害だ害だって信号を発してるんだけど、あえて飲んじゃうっていう、そのことがありうるわけなんです。それは、人間のもっている否定性ってこと、否定性っていう本質に関わるわけです。だから、人間観っていうのは、そんなに動物とは違いますよとか、お医者さんがいうほど、生理的人間だけが人間じゃないですよとかっていう言い方がぼくはできそうな気がします。
 その手のことが、なんかこう迫ってくると、神経に迫ってくると、ものすごくきついなって思っちゃうところが、そのときに日本の社会の共同性っていうのは、許容しないところがあるんです。おまえそれは好きにやってろ、おれはそれいやだからやらないというふうに、なかなかならないで、おれはやらないけど、おまえもやるな、こういうふうにかならず、なってくるところがあるんです。
 それはちょっと、そこの問題は、共同性の問題だから、そうなってくると、いいことであればあるほど、警戒した方がいいっていう気がしてしょうがないんです。
 それから、もうひとつは何でした(会場笑)。2番目のは。

(質問者)
 あっ、もういいです(会場笑)。本当に野球が好きでうんぬんじゃなくて、ぼくも絶対的に本気でやってるわけじゃないです。ひとりで生きるのもどうかと思いますし。

(吉本さん)
 あれ、郷土愛っていうのは、それは違うか。

(司会)
 さきほど吉本さんの世代間に通じないんだっていうのに、世代間に通じるものがあるんじゃないかっていう。

(吉本さん)
 世代間の認識が通じなくなっちゃってるっていうのは、一種の大状況っていいますか、大動乱に思想とかなんとかっていう、そういう理念を振りかざした場所で、言ってるだけで、もちろん、世代間に通じていることは、いくらでも身辺でもありますし、そういう意味合いでいったら、もちろん、たくさんあるんだと思います。
とくに、日常生活の反復っていうこと、それにまつわることの範囲に限定するならば、世代間に共通な考え方とか、共通なあり方とか、共通な同感性とか、そういうのは、ぼくはある気分と思います。ただ、いったんそれこそ、余計なことかもしれませんけども、非常に大状況とか、大社会の構造はどうだとかっていうようなことを言ってみた場合には、もうたいへん認識が違っちゃってるところがあって、そこでは、たいへん通じにくい要素が、決定的に何年かで出てきちゃったなってことでは言いたいことあるんですけど、それでよろしいですか。

(司会)
 まだ、聞きたいことたくさんあると思いますし、私たちもいろいろお話をお伺いしたいんですけども、会場の時間がございませんものですから、これで、仕切らせていただきます。まことに申し訳ございません。ご了承ください。
 本当に今日は長い時間、休憩もなしに、吉本さんにおしゃべりいただきました。また、みなさまにご清聴いただきましたこと、本当に感謝いたします。ありがとうございました。(会場拍手)

 

 

 

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