吉本隆明さんの講演を・・・。私が学生になりたての頃、先輩書士の下宿に行きますと、吉本隆明全集というのが所狭しと並べられておりまして驚いたことがあります。また、先輩や友人諸君が吉本氏のことを語るときの熱い口ぶりや、それからまなざしを私は忘れることは出来ません。吉本さんはそういう意味で私たちにとって良き先達者であり心の支えでありました。そして、十数年を経た今日においても世界及び文化の現在について温かいメッセージをわたくしに投げかけています。
それでは吉本さん、お願いいたします。わたくしは、心的現象論という文章を今も書いている訳ですけれども、その中に「身体論」っていうのをやっているということがあります。結局、今日の主題に則して言おうとすれば、その中の僕がやってる「身体論」というのを掻い摘んでお話しして、そしてまたそれがどっから出て来たかっていうことをお話ししてみたいと思います。わたくしたちのその奇想的な風土の中には「身体」とは何かみたいなことを、改めて取り出して、改めて問題にするような思考あるいは思想の伝統っていうのはない訳で、つまり、我々はただ身体がそこにあればそれでいい訳で、それ以上のことは追及しないということになっている訳です。それで、身体論というのをやろうと致しますと、どうしても「誰がうまいこと言っているんだ」っていうことから始まる以外になかった訳です。しかし、体系的に言いますと、あるとき読者だっていう人から電話が掛かってきて、「自分は少し前に、つまり一か月くらい前に交通事故で手をここから落としてしまった。しかし、落としてしまったんだけれども、そのこと自体がよく分かんないんだ」っていう訳です。そしてそれを「分かんないんだけれども、それを教えてくれないか」っていうのを、未知の読者だっていう人から言われたことがあったんです。それで「いや俺も分かんない」って、それでだけど、その人の分かんないっていう意味は非常に深刻なように聞こえたんで、つまり、この手がない、落としちゃったっていう、交通事故で偶然ですけれども、落としちゃったっていうことを、以降ひと月くらい経っているんだけれども、そのこと自体がどうしても呑み込めない。自分で自分が呑み込めないっていうことがかなり深刻な意味で問われていたんですけれども、僕はまったくそれに対して答えることが出来ないっていうことがあったんです。それで、そういうことも含めまして、これは俺は少しやってみるんだ、この問題やってみようというふうな考えが、まあ一方ではありまして、そこで僕が心的現象論のある寡少で、その身体論っていうのをやったのを覚えています。僕の身体論っていうのは、古典的に言いますと古典ドイツの観念論といいますか、そういうところが元になっている訳です。古典ドイツの観念論っていうのを全局して要約して申し上げますと、一番最初に身体っていうことを非常によく考えた人はヘーゲルです。ヘーゲルはどういうことだけを言ったかって言いますと、はっきりさせたかった言いますと、要するに人間の身体が、なんていいますかその、有機的、有機的部分っていいますか、つまり、その今で言えばその自律的な神経によって動かされているものっていうことだと思いますけれども、その有機的な部分っていうものがあると、その有機的な部分の上に動物的な部分っていうのがあるっていうことをはっきり言っています。それから、もうひとつそのヘーゲルがはっきり言っていることはその、人間の、つまり外界に対する人間の身体が、外界に対する働きかけとして、ある器官と、それから身体の中にはそうじゃなくて内部器官っていうのと二つがあるんだ。たとえば、心臓とか肺臓とかっていうのは内部器官であると。それで、手とか足とか目とかっていうようなものは、これは外部器官だ、つまり、外部と交渉するために必要な器官だっていうことをヘーゲルが言っています。もう少しいいことを言っていることは、ヘーゲルが言っていることは、つまり外部器官っていうのはいつでも二重であるってことを言ってます。つまり、たとえば手っていうのは左と右手があるっていう具合に、いつもで外部器官っていうのは二重性を持っていると。たとえば、目なら目は左目と右目というように、いつでもひとつだっで見える訳ですけれども、要するに二重器官、二重になっているっていうことを言っています。それはその足でも同じで、足でも二重になっている。二つあると。そういうことを言っています。それで、それがそもそも僕なんかが最初に呼び込んだ身体論の一番最初の部分で、それで、そこのところからもちろん、それに対してヘーゲルから学んだ訳ですけれども、フォイエルバッハがもう少しそれを進めまして、もう少し詳細なことを身体について言っているように思いました。それで、第一はどういうかって、どういうことを言っているかって言いますと、人間の外部器官ですけれども、人間の感覚器官の中で、要するに触覚っていうのと味覚っていうのと、嗅覚、臭いですね、嗅覚っていうものは非常に唯物的だっていう言い方をしています。つまり、ちっとも精神的じゃないっていうことを言っています。つまり、唯物的である器官だって言っています。それから聴覚、耳ですね、聴覚とそれから視覚、目ですね、視覚っていうのはとても精神的なもんだっていう言い方をしています。つまり、人間の感覚器官、つまり外部に働きかけたり、外部の需要を受け入れたりする器官のうち、視覚と聴覚はちょっと様々な、なんて言いますか、形而上学的な意味を付けられる精神性を持っている器官だっていうことを言っています。それからいま言いましたように、味覚とか嗅覚っていうものは、そうじゃなくて、たいへん唯物的あるいは即物的な器官だっていうようなことをフォイエルバッハは言っています。フォイエルバッハは一番いいですね。つまりフォイエルバッハ、マルクスっていうふうに考えています身体論っていう鍵が、フォイエルバッハが一番良いと思いますね。それでもう少し、もう少し立ち入ったことを言っています。つまり、我々はそのたとえば物事を考えるっていうこと、つまり思考するっていうこと、あるいは指示するっていうことに作用があると。そういう身体のそういう作用をすることが出来ると、しかしその場合に身体が少しも、なんて言いますか、指示している自分の身体を意識してはいない、つまり、たとえばもっと厳密に言えば、指示作用の座っていうのは、脳にあるとすれば、我々が思考を働かしているときに、ちっとも脳を意識することはない、してはいないっていうふうに、いない。そうだとすればその脳の作用っていうものは、思考するっていう人間の作用っていうのは、あるいは人間の身体の作用っていうのは、脳と関係ないんじゃないか、っていうふうに言えそうな気がするんです。そういうことはあらゆる場合に言える。たとえば、脳について我々、考えることが出来ると。そして脳について考えるのが、もし脳だとすれば、脳が脳を考えているっていうことになる訳ですけれども、しかし、その場合に脳がそういう作用しているってことで、少しも意識しないで考えることが出来る。そうすると、考える作用とか感ずる作用っていうものと、身体のたとえば脳の作用っていうようなものとは関係ないんじゃないかっていうふうにも言えそうに思われる。しかし、それはそういうふうに言わない方が良いんだっていうことをフォイエルバッハは言っています。つまり、それはつまり我々の思考作用は主観的なものだ、つまり主観的なものだっていうふうに考えれば、それに対して、要するに脳がなんらかの意味でその作用を及ぼしているっていうことは、客観的な作用なんだ。つまり、客観的な作用なんだって、その繋がりが我々の思考作用の、つまり過程の中では別段意識することを必要としないっていうことに過ぎないので全然関係がないっていうふうに、言わない方が良いんだっていうふうにフォイエルバッハは言っています。つまり、考えています。すると、その考え方はとても良い考え方なんで、つまりあらゆる意味で、つまり身体っていう、心身っていいましょうか、心身相関っていいましょうか、心身相関の領域を考えていく場合も、その基礎的な、かつ古典的な場所っていうようなものは、フォイエルバッハのそういう言い方の中で初めてはっきりさせられたっていう、させられているっていうふうに言うことができる訳です。
ここからもう少し、今度は考えを進めまして、マルクスはどういうふうに身体っていうのを考えたかって言いますと、マルクスは身体を、つまり内部器官とか外部器官とかっていうふうにも考えませんでしたし、また心臓とか肺臓はここにあってというようなことについても別段、格別に言っている訳ではありません。ただ、その代わりマルクスは、人間、つまり人間の身体は、もし外界に対して、外部の自然に対して働きかけるときには、たとえばそれは労働するとかある行動をするとかっていうことですけれども、ある行動をして、その外界に対して何かを加えるときには、何か作用をするとき、あるいは行動を起こすときには、起こしたところでもって外在的な自然っていうのは、マルクス流の言い方をすれば非有機的身体としてしまうことなんだ、つまり、人間、行為をするとか労働をするとか、あるいは歩くとか、そういうことをやれば、やったということ自体がその場において、外部の自然を人間の身体、つまり非有機的な身体にしてしまうことなんだ。もっと極端に言えば、人間は外界を非有機的な身体にしてしまう以外に、行動をすること、あるいは行為することが出来ないんだっていうふうに言っています。つまり、その時にマルクスはつまり、人間の身体、輪郭あるこういう身体が内的にどういうふうに形成されているか、あるいは、そこでどういう器官が、感覚器官があって外部に働いているかっていうことはまったく考えていないんですけれども、ただ身体性全体っていうことの考えの中で、つまり、人間は行動するときに必ず外界を身体にしちゃっているんだ。つまり、極端に言いますと行動するときには外界を自分の身体を、なんて言いますか、こういわばハイにしちゃっている、またそういうことをなしに人間は、なんて言いますか、身体っていう、行動することは出来ないし労働することも出来ないっていうことをマルクスは言っている訳です。このマルクスの言い方はたいへん興味深い言い方なんで、つまり身体っていう概念を、なんて言いますか、人間のこういう輪郭からもっと極端に、つまり何か行為すれば必ず行為された、つまり外界っていうのは必ず身体になっちゃう、してしまうんだ、してしまっているんだっていう言い方で、身体外にも非常に、つまり広範に人間の、なんて言いますか考えられる範囲、あるいは行動できる範囲における外界っていうのを全部身体だっていうふうに考え方を展開している訳です。この考え方はたいへんおもしろい考え方ではある訳です。ところで、僕が考えたところでは、身体論っていうことで考えたところでは、この考え方をとりますとたとえば、先天的な、たとえば肢体不自由でもって全然行動できない、行動できない人間っていうのはあり得る訳です。つまり、それは肢体不自由っていうことなんですけれども、もし、全然行動できない、先天的にそうだっていう人間っていうのはあり得る訳です。現にいると思いますけれども、あるいはある日からそうなったっていう人もいると思いますけども、そういう人にとっては外界を、つまり非有機的身体とすることはできない訳です。つまり、マルクスの考え方っていうのはつまり、五体健全なる人間っていうのを基本にして考えている考え方であって、もし、五体健全でない人間がいたり、またそういうふうに人間がなってしまった時には、外界に働きかけることはできませんから、外界の自然を自分の身体としてしまうっていうことが出来ないっていうことになってしまいます。そうすると、この考え方っていうのは一見ある意味でよろしい良い考え方のように思いますけれども、しかし、身体論の場合でいうと、たいへんな欠陥を持つのではないかっていうふうに思われた訳です。ところでそうしますと、僕の考え方ではなんて言いますか、マルクスよりもフォイエルバッハの方が良いことを言っている訳です。つまり、フォイエルバッハは外界的な外部に働きかける器官って言いますか感覚器官って言いますか、そういうものと内在的な器官っていうのも区別もしていますし、それから、どちらが人間的なと言いましょうか、どれが精神的な器官であり、精神的な器官とは何であるかということも言っていますし、精神的と言えない器官っていうのは何であるかということも言っている訳で、つまり、この考え方でいきますと、外界への働きかけももちろんそうですけれども、身体の内在的な構造と言いましょうか、そういうものについてもいわばどんなふうにでも、なんて言いますか、考え方を微分化していったり展開していったりする考え方をしている訳で、フォイエルバッハの考え方の方が良いし、少なくとも身体論をする場合にはフォイエルバッハの考え方の方がたいへん良い考え方なんです。なぜそういうことになるかって言いますと、フォイエルバッハっていうのはつまり哲学的、恣意的な常識によりますとヘーゲルとマルクスの橋を渡す媒介をする過渡的なところにいる人物で、その考え方もまた過渡的な場所にいるもんですから、ヘーゲルの観念的な考え方、それからマルクスの唯物的考え方の両方をいわば二重に含んでいるところがありまして、そこのところでつまりフォイエルバッハの身体についての考え方が一番、つまり古典的な意味で言うならば、一番言うことは言っちゃっているっていう感じはする訳です、するんだろうと思います。
ところで、ここいらへんのところで自分の考え方を展開していけばよろしい訳ですけれども、僕らもある雑知識として様々な考え方つまり、現在、我々の目の前にいつでももし取り出そうと思えば取り付ける様々な考え方っていうのがある訳で、それは一応僕らも踏まえて見なければそれはちょっと自分の考え方を展開するっていうことも出来ないだろうっていうことはありまして、僕らが一般的に現象学っていうものがつまり、これが画期的にフッサールとハイデッガーによって展開されたとすれば、その現象学的な身体の考え方っていうのは、少し検討して、あたってみることが必要なんだっていうふうに考えていった訳です。これを言っていると長くなってしまう訳ですけれども、要約的に一番うまいこと言っている人の言い方で、たとえば言ってみますと、たとえばメルロポンティっていう人の言い方を借りまして、もし身体とは何かっていうふうに、あるいは本質直観に、直観に把握される身体っていうのは何なのかっていうふうに考えていった場合に、どう考えればいいかっていうと、我々はたとえば様々な自分の身体もありますし、誰かいつかどっかの風呂場で見た女の人の身体もありますし、様々ある訳ですけれども、様々な身体っていうものをとにかく全部思い浮かべてみればいい。そして思い浮かべてみて、その中で、あるいは想像してみればいい。それで想像してみた身体の中であらゆる個別的な特徴っていうようなものをつまり、個別的な特徴っていうものを全部廃虚してしまって、あるいは全部捨ててしまったときに、なおかつ残るその身体のイメージがあるならば、それはいわば本質直観に射影されたっていいますか反映されたっていいますか、それが身体なんだ、あるいは本質直観を所有しているものとしての身体なんだっていう、そういうもんなんだっていうふうに言い方をしています。それでよろしいのではないかと思います。つまり、現象学が様々な●●でつかんでいる身体の根本的なところは、いわゆる身体というイメージであり、あるいはイメージとしての身体っていうことになる訳ですけれども、そのイメージも本質直観に引っかかってくるイメージとしての身体っていうのをだいたい身体っていうふうに考えれば、現象学がつかんでいる身体っていうものの像はつかめるんじゃないかっていうふうに思います。これも様々な、これは乱暴な言い方をしてはいけないので、様々な人たちが様々な言い方をしている訳です。それでだけども、ひとつだけおもしろいなっていう言い方をしている人をあげる、つまりご紹介してみますと、ビンスワンガーっていう精神医学者です。精神医学者が言っている身体の中で面白いことが言われていることがあります。これは「夢」っていうことです。つまり、夢っていうものはフォイエルバッハ、あるいはヘーゲル流に言えば、これはなんて言いますか、動物としての身体の器官っていいますか、内部器官っていいますか、そういうものと有機物としての内部器官っていいますか、そういうものと動物的な器官のごく小部分が働いている時だけ、つまり寝ている時ってことですけれども、寝ている時の身体状態において、出てくる身体っていうことについてビンスワンガーっていうのが言及している訳です。そのときつまり、有機的な器官と、人体、身体の中の有機的な器官と、それから少数の動物的な器官っていうものとの混合物って言いますかがちょっと働いているとき、つまり夢の中に出てくる身体っていうのはどういう身体かっていうと、だいたいそれは浮遊している身体だっていうことを言っています。つまり、浮遊している身体っていうのは、つまり宙に浮いている身体です。それは、宙を泳いでいるとか上昇していくとか、あるいは浮いている身体がスーッと落下していく、そういう象徴であるとか、つまり、そういう時の、人間のそういう時、つまり人間の器官がごく小部分働いてる、特に動物的器官が小部分で、あとは全部有機的器官だけしか働いていない、そういう状態における身体のイメージっていうのは、要するに宙に浮いているか、それじゃなければ上昇しているか、そうじゃなければ落下しているかっていう、そういうふうに身体っていうのは、あるいは身体っていうイメージは存在しているっていうことを言っています。これは、たいへん、つまりおもしろい身体論なんだ、つまり、この身体論があるかないかっていうことでもって先ほど言いましたように、肢体の一部分がないかどうかっていうことにおける、起こるっていうところまで論及出来るって言いますか、拡張できる身体論のとても良い起草が築かれていると思います。それからもうひとつ、肢体が不自由じゃないけど、精神が不自由だっていう人もいる訳です。つまり、精神がおかしいっていう、おかしいとか、異常だとか、病気だとかっていう様々な言い方があるでしょうけれども、要するに肢体不自由、つまり肢体の一部分がなくて不自由であるっていう人と、それから頭の働きが不自由だっていう人、つまり不自由だっていう、そういうのも含めまして、肢体不自由、つまり人間の身体不自由っていうなものの概念にまで、なんて言いますか、身体論を拡張出来る基礎っていうのは、このビンスワンガーのこういう言い方っていうものの中に非常に大きな示唆が含まれているっていうことが言うことが出来ます。そしてもうひとつ、この系統とドイツの観念論のって言いますか、ドイツの古典哲学の系統と現象学の系統っていうのは全く、全くとは言えないけれども少し違う系統で、もうひとつどうしても、なんて言いますか、取り上げないでいてはいけない身体論の提出している人がいます。それはフロイトです。フロイトの身体論の特徴は何かって言いますと、もちろん様々な特徴あるんですけれども、ごく根本のところだけ申し上げますと、要するに人間の内部器官ですね。つまり内部器官っていうものは、必ずつまり性的意味って言いましょうか、性的なイメージと言いましょうか、どちらでもいいですけれども、性的な意味っていうものと必ず関係があるっていうことを言ったのは、フロイトの身体論がはじめてな訳です。つまり、身体の内部器官、つまり心臓だとか、なんて言いますか、腸だとか肛門だとか口だとか、そういうものは全部、要するに性的な意味がある、つまり性的な意味を対応させることが出来るんだっていうふうな、それが本当に身体っていうものの、その成り立ちなんだっていうことを言ったのはフロイトが初めてであり、それはこれもたいへん画期的なものな訳です。つまり、そのことによって、たとえば相手の人を、たとえば男性が好きな女性に出会った時に心臓がドキドキするっていうような言い方をして、それが本当に好きなんだっていうことを言い表すことが出来る言葉がある訳ですけれども、その手の言葉っていうのはどうして成り立つかって言いますと、これは無意識的には誰でも使っている訳ですけれども、比喩的に使っている訳ですけれども、本当は要するに人間の身体の内部器官っていうものに対しての機能っていうもの、つまり心臓は血液を送ったり集めたりいている、そういう器官なんだっていうことと同時に、心臓っていうのには、ある、要するにある性的な意味がある、つまりエロス的な意味が対応しているんだっていうことを意味していると思います。つまりそのことを意識立てて意味させると、たとえば胸がドキドキしているんだとか心臓がドキドキするんだっていうことで、好きだっていうことを、たとえば異性を好きだっていうようなことを言うことのある意味メタファになるっていうことが成り立つのは、たぶんそのフロイト的に意識づけてしまえば、人間の内在的器官が必ずエロス的な対応環境を必ず持っているんだっていうことに起因すると思います。つまり、このことを無意識にじゃなくて、本格的に、つまり真っ向から取り出してしまった、そういう身体論をやったのはフロイトである訳です。フロイトを初めてする訳です。そしてこれはたいへんな、ある意味でたいへんな真理を含んでいるので、今まで無意識に、つまり誰もがそういうことを漠然とは感じたり、あるいは言葉で言ったりしていたにも拘わらず、はっきりと取り出すことが出来なかったものをフロイトが初めて取り出したんだっていうふうに言うことが出来ます。このフロイトの考え方はまた、これを除外することが、身体論として除外することが出来ないっていうふうに思われます。
それでまあ、そこいら辺で、そこいら辺が、たとえば今申し上げました、要約しましたようなことが、たとえば僕らが心的現象論の中で身体論をやる場合に、目の前に置かれた材料であったといいましょうか、素材であった訳です。それで、さてそれじゃあ、そこから自分の身体論を作っていくっていうことになる訳、なった訳ですけれども、別に独創的に作った訳じゃあなくて、あっちのいいところ、こっちのいいところ、全部繋ぎ合わせればいいっていうことになります。つまり、良いことになるんじゃないか、その繋ぎ合わせ方っていうのが問題になりましょうけれども、まあとにかく繋ぎ合わせればいい。それでその繋ぎ合わせ方は、僕自身の、たとえば心的現象論の基本的な考え方に合致していなければ意味がない訳で、そのどんないいことを言ったって意味がないですから、この基本的な考え方に則して、則してそれを展開すればいいということになっていた訳です。それで僕はまず何を考えたかっていうと、要するにヘーゲルやフォイエルバッハが言う外在的な人間の器官というのをまず考えた訳です。それでその意味付けって言いましょうか、イメージ付けって言いますか、そういったことを考えました。それは基本的に僕の考え方によれば、要するにそれは人間の、なんて言いますか、あることは感覚器官みたいなものが外界を受け入れる、たとえば目が外界の物を見るっていうような作用は、言わば大別してしまえば、「受け入れ」っていうものと、それから「受け入れたものを理解する」っていう、その二つの作用がある訳ですけれども、この「受け入れ」っていうことは何かって、感覚器官が受け入れるっていうことは何かって言いますと、要するに「関係付け」だっていうのが僕の基本的な考え方です。これは空間性であり、同時に空間性とは何かって言ったら、それは「関係付け」なんだっていうのが基本的な考え方です。それから、「受け入れたものを理解する」っていうことは、あるいは「了解する」っていうことは何かって言うと、この「了解する」っていうことは「時間性」だ、「時間作用」だっていうふうに、というのが僕の基本的な考え方ですから、それに則して何を取り上げればいいかって、それは手と足を取り上げればいいじゃないかっていうふうに考えた、考えてきました。そしてそれで良いだろう、それで基本的な身体論の枠組みは作れるだろうっていうふうに考えました。それで、みなさんたとえば、これは一番いいのはいわゆる文学とか芸術とかっていうのが一番いい訳ですけれども、つまりたとえば文学とか芸術とかっていうのは何でやるんだ。それは手でやるんだ。手で書くとか手で文字を綴るとかっていうふうに、それは手でするんだって。そうするとその場合に、つまり観念の作用自体は必ずしも手を必要としていないように見えます。つまり、手なんか必要、動かさなくても観念作用であることを受け入れ、そしてそれを了解することが出来ます。しかし、たとえば芸術文学みたいなそういうものをとってきますと、その、つまり何かって言いますと、人間が言葉を操ったり、それから形象を描き出したりっていうことですけれども、そういうことの場合には必ず手っていうのを動かすことなしには出来ないっていうことがあります。そうすると、つまりそれから、どんなたとえばつまり、たとえば芸術文学が、なんて言いますか上達するっていいますか、たいへん良く出来るっていうのはどういうことかって言いますと、どういうふうに良く出来るようになるかって言うと、それは手でもってやる以外に、手でもって文字を書くとか、手でもって色を塗るとかっていうように、手以外のものを如何に高度にしても、決して芸術文学だけは良くならない訳なんですよ。つまり芸術文学の良くなる基本的な要因っていうのは、とにかくあくまでも手であって、手を動かすことであって、手を動かす以外のことをどんなに修練してもいい芸術家、あるいはいい文学者にはなれないっていうことは、当然なことな訳です。つまり、芸術文学みたいなもの、いわばそれは表現なんですけれども、それは必ず手を媒介してなされる。そうするとこの手がやることっていうのは、僕の考え方ではつまり、あるいは手と脳と直結している訳ですけれども、つまり手がやること、この場合、手がやることっていうのが何かって言いますと、これはたぶん僕の考えでは「了解性」っていうことなんじゃないか。つまり「時間性」っていうことを手が作ろうとするんじゃないかっていうのが僕の基本的な、そういうふうになっていった訳です。それで、これと対照的に足っていうのがあります。つまり、直立している二本の足っていうのが身体にありますけれども、この足っていうのは逆にこれは、足っていうものの、まあなんて言いますか、その蝕知する、あるいは動いていける範囲っていうものは要するに、人体、人間の身体が持っている「空間性」っていうものを、あるいは「関係性」っていいましょうか、「関係付け」って言いましょうか、そういうものっていうものを担当するのがその足ではないか、あるいはもっと言えば、足と脳との結合な訳ですけれども、その連結な訳ですけれども、とにかく足っていうものの作用っていうのは人間の、要するになんて言いますか、「空間性」あるいは「関係付け」っていうようなものの、ある範囲っていうものを決めるのではないかっていうふうに考えていった訳です。この考え方の中にはすでに一種の身体が、人間の身体が含む時間性っていうものと空間性っていうもののイメージが、その想定されていることになる訳ですけれども、そういうふうに考えていきました。そうしますと、これは動物ももちろん手を動かす訳です。それから動物ももちろん足で歩く訳です。そうすると、そこで動物性っていうものと、それから人間性っていいますか、人間の身体っていうもの、身体性っていうものと動物の身体性っていうもの、あるいはヘーゲルが言う動物的団体までの身体性っていうものとは何が違うんだっていうことになります。そこで要するに、たとえばその手の作用っていうものが、手の作用っていうのが、手の作用と足の作用っていうものが、要するに身体が機能的に考えられる限りの、そのなんて言いますか、その時間性と空間性、あるいは関係性と了解性の範囲をはるかに、それを超えてですね、超えて結びつくことが出来るようになった時に、その身体は「人間」と呼ばれるようになったんだっていうふうに考えていった訳です。つまり、もしもその身体性っていうものが持つ機能的なその空間性と機能的なその時間性、あるいは機能的な了解性と機能的なその行動性、あるいは関係付けって言いましょうか、そういうものの範囲内に留まるならば、それは動物性と一向変わらないっていう、動物もまたそうしているだろうっていうふうに思われる訳で、それが動物性と一向変わらない。そうすると、動物性と人間との身体性の相違っていうのは、たぶん人間の場合だけが手の働き、足の働き、あるいはその了解の働き、関係付けの働き、あるいは時間性っていうものと、それから空間性っていうものにおいて、はるかに、いわば機能的限界っていうものを超えて実現することが出来る、超えて結びつくことが出来るっていうことがあり得るとすれば、それが要するにそういう身体が、要するに人間になったんだっていうふうに、そういうふうに考えていった訳です。あとの、言ってみればここまで考えましたときに、だいたいもう基本的なイメージはたいへん明瞭な訳で、僕の身体のイメージは非常に簡単にその、身体とはつまり、様々な時間性の度合いと様々な空間性の度合い、あるいは様々なその関係付けの度合い、様々なその了解の度合いっていうものが、要するに交錯した、交錯した存在っていうものが、イメージとしての身体なんだっていうのが、僕らの考えた結論的なことになります。それで、このイメージは、このイメージの中で何が、次に何が問題になってきたかって言いますと、要するにフォイエルバッハが言った、つまり味覚とか臭覚とか触覚とかっていう、なんて言いますか、そういう唯物的な、あるいはなんて言いますか、精神性が入っていないそういう感覚と、それから聴覚、視覚のような、そのいわば、フォイエルバッハに言わせれば精神的な感覚器官なんですけれども、そういうものとを、いちいちその空間性と時間性の度合いとして、度合いとしてある度合いの在り方としてそれを理解するっていうのが唯一残ることである訳で、それが、その度合いがどこにあるかっていうことは言えないまでも、しかしどういう空間性とどういう時間性が結びついたものが聴覚であり視覚であり、それからどういう空間性とどういう時間性の度合いが結びついたものが、たとえば嗅覚であり味覚であるっていうようなことを言うことは、そういう順序を言うことは割に簡単に言える訳で、それはそういうふうにした時に、だいたいその僕らの言っている身体、イメージとしての身体は、基本的な要因っていうのは全部、そこで出来上がってしまった訳です。
ところで身体論、あるいは身体論っていうのは何が問題なのかっていうことがあります。つまりそれは何が問題なのかっていうことがあります。それはクリモトさんが先ほど言われたような、様々な意味付けと、様々な段階付けが出来る訳ですけど、これも僕なりの言葉で言ってしまえば、身体論っていうのは何が問題なのかっていうと、ひとつは「言語」っていうことが問題なんだ。つまり、身体論における言語っていうのはどういうことなんだ。それから、もうひとつあるんです。もうひとつは「行為」っていうこと、「行動」っていうこと、行動っていうこと、つまり行為っていうことは身体論でどういう、つまりお前のイメージとしての身体っていうのとどういう関係付けをしたらいいんだっていうことが残る訳です。つまり、身体論の、つまり究極的なところはやっぱり、それは言葉っていうものとどう結びつくのかっていう問題と、それから行動行為っていうようなものとどういうふうに結びつくかっていう問題とが、たぶん身体論をなぜするのか、なぜそれが重要なのかっていうことの根本問題になると思います。そうするとその二つを、二つの問題を、言語っていう問題と、行動っていうような問題とを、なんて言いますか、自分なりの身体、イメージとしての身体から、要するに、なんて言いますか、意味づければ、意味づけられればそれはもうおしまいっていうことになる訳です。それでそれは、長く言ってるとたいへんですけれども、要約するのは簡単です。つまり、まず第一に考えた、考えなければいけないし、考えたことは要するに、言語っていう、身体が言語として表出されたときに、あるいはイメージとして、身体が言語っていうふうに表現されたときと、それから行動として表現されたとき、行為として表現されたときには、まるで質が違うんだっていうこと。ですから、言ってみますと、そのまるで違った質の了解性と、違った質の関係性って言いましょうか、●●性って言いましょうか、そういうものと考えなくちゃいけないっていうことだと思います。つまり、これは混同することもいけないし、またなんて言いますか、簡単に繋げてしまうこともいけないことだっていうことが言えます。つまり、言語っていうのは独特のその、なんて言いますか、時間性の度合いと、それから独特の時間性の質とを持ちますし、また独特の関係付け、あるいは空間性も質と度合いを持っているっていうことです。それから、それは全く行動っていうこと、行為っていうことと、あるいはマルクス流に言えば、労働ですけれども、つまり大衆に対する働き、あるいは姿勢に対する働きかけですけれども、それに受ける時間性の質と、その空間性の質、あるいは度合いっていうものとは、まるで違うんだっていう、違うっていう次元、あるいは違う位相にあるんだっていうことが、非常に基本的な問題になっていきます。それからあとは、その問題を論理づけていけばいいっていうことになる訳です。もちろんマルクスが身体論として問題にしたのは、行動としても、つまり行為っていうものと行動っていうものと身体っていうものとの関係っていうことだけが、マルクスの問題にしたところである訳です。それが先ほど申し上げましたとおりである訳ですけれども、先ほど申しましたとおり、ここでなかなかこのマルクスの言い方では、言い方だけでは、要するに、なんて言いますか、たとえば簡単なことを言って、肢体不自由とか、脳髄が、脳の働きが不自由っていう、そういう身体の行動性、あるいは非行動性っていうものについて何も言うことが出来ない訳になります。そこで僕らがどうしてもそれを解きたいと思ってあれしたのが、要するにつまり肢体不自由っていうのを例にとりまして、これはもちろん、脳髄不自由っていうことについても僕は展開しておりますから、お読みくださればいいと思いますけれども、肢体不自由っていうことで申し上げますと、つまり、肢体不自由っていうか、一か月前に手を、交通事故なら交通事故で落としてしまったって言いますと、ここに幻肢っていう幻の四肢って言いますか、幻肢って言いまして、まだなかなかこのなんて言いますか、落とした後でもここにその手の従前の形じゃないですけれど、色んな形が、度合いがあり得る訳ですけれども、幻肢っていうのがあります。それで、幻肢っていうのはこれはなかなか消えない訳です。だから消えないで存続します。この幻肢っていう問題の中にたぶんマルクスが考えなかった、なんて言いますか身体の、つまりイメージとしての身体の問題がここに掛かってくるだろうっていうことが、まずひとつ言える訳です。そして、ところで僕が言いました肢体不自由についての論考とか、肢体不自由者が自身で書きました手記みたいなのをあれしてみますと、出来る限り読んでみますと、読んでみましたんですけれども、それはたいていは、たいていは機能的なことを言っています。つまり、機能的な不自由さと機能的な不自由さに基づく差別っていうようなことに言及しています。その差別っていうのがどこで一番現れるかっていうと、就職、職業です。つまり、それによってその生活費を、今の社会が生活費を得て、そして生きていくっていう、そういう就職の場合の、要するに絶対的なって言っていいくらいの差別っていうことと、それからもうひとつは、結婚っていうような場合の絶対的に近いような意味での差別っていうことに言及しています。この言及の仕方は、これはもう最も千万でありますけれども、しかしそれは僕の考えでは機能的な言及のいき方だっていうふうに考えます。ですからたいてい、それじゃお医者さんと社会、なんて言いますか、社会保障問題、福祉問題の専門家が出てきまして、要するにお医者さんが義手を作って、非常に義手の機能を実際にあると、実際の手があると同じくらいに機能を●していくっていうことが課題じゃないかっていう言い方でそれをしますし、また結婚の場合には、これをどうすることも出来ないですけども、どうすることも出来ないのですけれども、このどうすることも出来なさの中には、たとえば要するに、どういったらいいんでしょう、人相の良い、人相の良い男と人相の悪い男がいて、それで一人の人に求婚したとしたら、人相の良い方を取るんじゃないかとか、ほかの条件も同じなんですけれども、ほかの条件、能力は同じで、人相の良いのを取るんじゃないかみたいなことっていうのは、つまり一般的にあり得る訳ですから、つまりその差別と、身障者が結婚できないっていう差別との、なんて言いますか、違いっていうのをよくよく追及しなければいけないので、つまり、そんなことは誰にでもあるんじゃないかって言えば、誰にでもある訳です。誰にもないじゃないかって、誰にもない訳です。だから、そのことの区別の問題っていうのは一所懸命追及しなければならないっていう問題っていうのは起こる訳です。しばしばここでなされている、いや現在なされている差別摘発者と本人と、それからその周辺の人たちのその問題についての適応の仕方っていうのはたいへん機能的であり、機能的な意味だけを言えば決して不当ではないっていうふうになります。それじゃなければ、肢体不自由者自身の手記を読んでみますと、たいていは自分は手が片方なかったと、右手がなかったと。しかし、自分は超人的な努力をして、それでその結果みんなと肢体自由な人と、なんか仕事をしてもぜんぜん劣らないまでに自分はなったって、あるいはそれ以上に普通の人以上に俺はなったっていう自分は●自身の中でいっぱいおりますし、またその宗教性を評価するそういう人たちもたくさんいます。
しかし、これにも僕の考え方では、この考え方も僕はどっか避けてるっていう感じがしてしょうがないんで、つまり、それで偉大な人には違いないって思いますけれども、つまり、ヘレンケラーでも誰でもいいですけれども、偉大な人に違いないし、偉大な努力をしたっていうことはたいへんな人だなっていうふうに思うけれども、それにはちっとも普遍性っていうのはない訳です。じゃあお前もそうしろっていうふうに言う以外に普遍性っていうのはない訳です。誰もがそう出来るかどうかっていうのはまったく分からないことですから、これにも普遍性がない訳です。一般的にいうとこの種の問題、めぐる問題に対してはちっとも普遍性がないって、ちっともないとは言いませんけれども、たいへん部分的な解釈と部分的な解決の仕方だっていうようなことがすぐにわかります。この問題については、なんて言いますか、いわばひとつ宿題みたいなふうにして残る訳です。つまり、これは僕の考え方では、これはたぶん人類が最後まで残すだろうっていうのが僕の考え方です。ですから簡単に解ける訳はないよっていうふうに思いますし、簡単に解けると称している人たちは違うんじゃないかっていふうに、部分的にしか解いていないんじゃないかっていうのが僕の考え方です。つまり、僕の考え方では理想社会が、つまり無階級の理想社会が出来てきたり、高級●の理想●社会が出来てきたりした後にまで、僕は残るだろうっていうふうに考えています。つまり、この問題、最後に残るだろうっていうのは僕の理解の仕方です。つまり、それほど難しい問題だと思います。だから、僕がそれをうまく解いていないのは当然だっていうふうに言いたいところですけど、まあ、そういうふうに言わなくても、たぶん誰でもが一所懸命考えている訳ですけれども、誰もがちゃんとはうまくは解いていない、ってやはりこの問題は最後まで残るだろうっていうふうに思われる訳です。それで、つまり今の、現在の段階でもってそれを解こうとすれば、たったひとつしかないんですよ。つまり、たったひとつの考え方しかないんです。つまり、たとえばある人が昭和60年10月18日に片腕がなくなっちゃったとしたらば、その人は、その人の身体には、もし価値概念、つまり労働価値の概念、マルクス流につまり、行動と身体っていうことで、つまりマルクスの労働価値っていうのがある訳ですから、つまり行動と身体っていうことだけで価値を考えてもいいんですけれども、そこで考えたとしてたとえば、昭和60年10月18日に片腕を取ってしまった、そういう人はどういうふうに●さるべきかっていうふうに考えた場合に、考え方としてひとつしかないので、要するに、その日から死ぬまで、その人が死ぬまで、既に従前に、従前手が、不自由じゃない手があったとして、その働いただけのその価値ですね。価値を想定します。それから、要するに手がないだけの働いたものを、働いただけはすでに、いわばなんて言いますか、既得権としてその人が持っているっていうふうに考える以外に、今のところ僕は十全な解決の仕方はないだろう、十全な論理っていうのはないだろうっていうふうに考えます。つまり、それ以外の解決の仕方を現在の段階でしようとすれば、肢体不自由者の方は、なんて言いますか、俺はどうしてくれんだ、社会保障してくれっていうふうな言い方もなんか、こんなことを許容してくれないと、成果をぶったおしちゃえって、しちゃった方がいいんだってな言い方をします、する、っていうような言い方しかないだろうなって思います、たぶん。そうじゃなければもっと細かく言って、俺に結婚させろって言いますか、あるいは俺に良い職業を与えろって、こういうふうに言うか、そういう言い方か、そうじゃなきゃ先ほど言いました超人的な努力をして、なくたってある人よりもっとやれるようにやれっていうふうに言うか、どちらかになってしまうと思います。そうすると、肢体自由者の方は、何を言ってやがるんだ、つまり、ヒューマニズムとしてはつまりその通りだって、つまりシンパシーとか同情とかヒューマニズム、人道的には倫理的にはそうだ、それでいいってつまり、お前の言うことはもっともだっていうふうに言うでしょうけれども、もしそれが、つまりきわどい、つまり極端な対立の場面にいったならば、やっぱり釈然としない、今度は肢体自由者の方が釈然としないっていうのが残って、そこで対立が起こるだろうっていうふうに僕は考えます。つまり、それ以外の解決に向けた現在の段階ではないので、つまりこの段階で僕は肢体不自由、つまり肢体不自由っていう人の差別の問題、非差別の問題、これだけの問題で何かいいことを言っているようなつもりで言える人はたくさんいますけど、やっぱり駄目だと思いますね。つまり本当の解決じゃないって思います。それで、現在ですら本当の解決ではなくて、対立の解決にしか過ぎないだろうっていうふうに思います。対立を呼び込む解決ってだけであって、全部釈然としないぞっていう、片っぽ居直ったらもうおしまいって言いますか、それで徹底的な対立になるっていう、それだけの問題だけが起きる。それだったら今の段階でも言えることは、つまり先ほど言いましたように、肢体が取れたその日からその人が死ぬまでの間に、既に肢体が取れただけでも労働価値が、生産がその少なくなった分っていうのはすでに既得権があるんだっていうふうに、そういうふうに理解するっていうのが唯一の解決の仕方ですけれども、さてそれを万人が納得するかどうか、あるいは奇想天外な考え方だっていうふうに言われるかどうかは全く分かりません。でも、僕はやはり、奇想天外な解決だって言われるだろうと思われますけれども、もし対立なしに、もし受容、受け入れるってことで言えるならば、今の段階ではそんなことしか言えないように思っています。つまり、この問題が依然として未解決でありますし、身体論としても未解決でありますし、たぶんこれは人類が最後まで持ち越すだろうっていうのが、これを簡単に解決できるなんて思わない方が良いでしょうっていうのが、僕の基本的な考え方です。ですから、そういう意味で、そういうところでは、つまりいわばマルクス流につまり身体と行動っていうのはそこに価値付けの根源を置くならば、そこでの問題は依然として現在のその解かれていない未解決であるっていうふうに僕には思われます。ただ、身体と言語って、言語表現とか言語的行動っていう行為って言いましょうか、しゃべるっていう行為っていうような問題については、諸秀才が、クリモトさんもそうですけれども、諸秀才が様々な考え方を現在提出していて、それは百花繚乱っていう有り様だというふうに思います。そしてその考え方は、いずれもみんなそれぞれ良いじゃないですか、っていう気が僕はします。ただ、本当に良いじゃないですかっていうのは、要するにある言語観、言語理論、あるいは言語観の考え方を受け入れる人が、如何に多くかつそこに秀才が集まっているかっていうことで決まっているように見えていますけれども、本当いいますと、言語論って言うのも、身体論っていうのも、本当は共通のことば、あるいは共通の概念っていうのは本当は存在しないんです。つまり、いまだにこの問題は、いまだにローカルな問題だということが言えると思います。つまり、いまだにローカルな問題なので、つまり僕らみたいなのも、これは僕が考えたんだ、みたいなことも言っている訳ですし、言うことが出来ている訳です。つまり、どんな幼稚であっても、いっぱしのことは言えるっていう段階にあるんで、これ普遍的な概念と普遍的な誰にでも通用する言語理論とか言語論ていうのは、まず今のところでもないんだっていうふうにお考えになった方が良いと思います。しかし、百花繚乱でもう本当にどんなに●でも、考えられる限りのことは考えられているって言っていいくらい、たくさんあると思います。その中であまり秀才が集まってこないですし、しょうがないんですけれども、僕らがどういうふうに考えていったかっていう経路をご参考に寄与しようと思って、今日、しゃべりに来ました。これで終わらせていただきます。
テキスト化協力:齋藤寿輝さま