【拍手】吉本です。今日僕に与えられたテーマっていうのは、「文学はかっこよくなったか」というテーマ、正規にはそうなんだそうです。大体そこ迄行きました上で、それじゃあ一体どういうふうにこれから文学はなっていくのかということまで、お喋りできれば良いと思うんですけれど、限られた時間だから途中で終わっちゃうかも知れないですから、その時は予め勘弁して頂きたいと言うふうに思います。で、どこから入って行こうかって思ったんですけれど、僕の割に熱心な読者の人から手紙が来まして、その手紙が(に)、岡田有希子の自殺について触れて、それに続いて同じ年代、若い年代の人たちの自殺が相次いでと言うことに対する自分なりの考え方とか、分析の仕方とか、感情の入れ込み方っていうものを、披瀝して――ごとうさん、ごとうすすむさんっていう人ですけれど――その人の手紙に影響を受けまして、先ず岡田有希子はなぜ死んだかと言う、そういうところから入って行きたいと思います。
岡田有希子はなぜ死んだかと言うことについて、週刊誌とかテレビとかが報道しているところを僕が総合してみますと、あんまりはっきり判らないんですけれども、要するに同じ芸能世界の男性――好きな男性があって、その好きな男性との仲が行き詰まったということが原因だっていうふうに、大体そういうふうに書いてありました。そして――書いたり喋ったりしてありました――それで4月8日の午前中に自分の住居のマンションの部屋でガス自殺を仕掛けたんですけども、それは未遂に終わって、病院に担ぎ込まれて手当を受けて、その日のうちに病院から退院して、岡田有希子の所属している芸能プロダクションがある事務所へ引き取られて、連れてこられて、芸能プロダクションの人がちょっと居なくなった留守に、上の階から飛び降りて本格的に死んでしまったということが、大体確からしいっていうふうに言える輪郭の様に僕は思いました。で、これでもってなぜ死んだかと言うことの現在的な意味って言うのを紡ぎ出さなきゃぁいけない訳ですけれども、これはたやすく想像出来ることですけれども、芸能の世界――特に予めそこで所定の条件を創られて、そしてその型に入れ込まれて、所謂アイドル歌手みたいにして育てられた1人の女性がいたとして、その女性は非常にきついだろうと思うんです――きついってことは何かって言うと、どういうことがきついかって考えますと、結局フィクションと言いましょうか、役割の世界というのに忙しければ忙しい程、絶えず役割の世界に置かれて、その役割の世界の自分というのは、要するにフィクションの自分――何て言いましょうか――本当の自分と言うよりも、自分が演じている自分っていうふうに成って行って、演じている自分というのと、それからある時演じている自分から本来的な自分へと立ち返って行くと言うことを、頻繁にスムーズにできない限りは大変きついんじゃないかって思われます。で、大体僕が思うには――何て言いますか――フィクションとしてって言いましょうか、俳優としてって言いましょうか、自分をフィクションにする、そういう世界と元の1人の女の子に戻る(という)頻繁な繰り返しを強いられていく訳で、それがいい――上手く出来る人は多分上手く出来てるんだと思いますけども、多分岡田有希子っていう人は、それがうまく出来なかったと言うことじゃないかと思います。それで出来なかった部分は――何て言いますか――どうしても鬱積していく訳です。それはどこで解いたらいいのか、やっぱり役割とか演者として俳優としての自分って言いますか、舞台の上の自分というものと、そうじゃない時の顔の自分という(も)のと、どちらかに――何て言いますか――ウェイトを置いて、そこで何か出来なければ、そこで以て解放されることがなければ、ちょっとこれはきつい訳で、多分僕が意味を見つけようとすれば、そこら辺じゃないかなというふうに思えるんです。勿論、つまり言ってみれば大変無自覚・無意識――何て言いますか――無意識に自分が役割を演じられる少女だった(な)らば、またそれは可能性――そういう世界に続けていかれる可能性がある訳ですし、また非常にそういうことについては、あまり気にしないし、また身体がタフだという人だったら、またそれは遣っていかれるんでしょうけど、多分この人は頭の良い人で――何て言いますか――切り替えって言いますか、役割としての自分と本来的な自分と言いましょうか、フィクションとしての自分と現実の自分というのとの切り替え方ということが、あまり頭がよすぎてそれが出来なかったんじゃないかって言うふうに思えます。つまり、もう少し確からしいことを、この人のおじいさんと言う人が喋っているんですけれど、それは何か芸能界に入ろう・入りたいという意思表示をしたら、家の者に反対されたと。それで辛うじて妥協点として――何て言いますか――学年で1番の学業成績を獲れると言うこと、それから中部地区と言いますか――名古屋の中心の地区でしょうけども――中部地区の模擬試験で5番以内に入れたらと言う条件と、それから希望する高校の第一志望の高校に入れるという、その3つのことができたら芸能界入りしていいっていうふうにおじいさんが語っていました。そういう条件を出した(ら)、それをその通り遣っちゃった、それで芸能界に入ったって言うふうにそういうふうに言っていますから、それも多分相当確かなことだと思うんです。だから、相当頭の良い子だって言うふうに思います。だからここで頭の良い芸能人が、少女が自殺したってことはたいしたことではないって言えばそれまでのことなんですけれども、それはその後、同じ様な形で非常に短期間の間に自殺する子が相次いだという現象を考えますと、これはやっぱりその振る舞い方の中に、何かひとつ確からしさと言うものがその中にあって、それは多分若い人たち、同年代の人たち――僕らには判らないですけども、推察するだけですけども――同年代の人たちには相当本格的に響くものがあって、それでそういう現象が続いているって言うふうに、まぁ理解できるだろうって言うふうに思います。そうすると――何て言いますか――何が若い人たちの死にたくなる願望を象徴しているかって言えば、今言いました様にフィクション――強いられたフィクション――と言うのと本来的な自分と言うのとのけじめって言いましょうか、それが非常につけにくくなったということ、それが非常に厳しい条件の中でそれを強いられたと言うことは、多分取り出せることなんです。もうひとつはやっぱり――何て言いますか――いずれにせよ狭いひとつの世界で、狭い視野の中でどうしても、他の世界に移り住むとか、他の世界に視線を遣るなんてゆとり(が)なくて、狭い世界で、視野を限られていて、それを逃れることが出来なかった。だから男性でも――その世界の男性しかつきあうことも、関係を持つことも出来ないと言うふうに成った、それはとてもきついことだったというふうに、象徴的のことのように思えるんです。つまりそのふたつは象徴的として取り出せる訳です。それは多分そうじゃない、後追いのように自殺した同年代の少年少女っていうような人たちも、やっぱりどこかで自分がうまくいってなくて、フィクション・役割としての自分、受験生なら受験生としての自分とか、受験なんて本当は嫌なんだけれども、嫌なんだけれど役割として勉強している、だけども本来的には嫌なんだっていうふうに、つまり本来的には自分の顔は違うんだっていうようなことを、やっぱり頻繁に往復しなきゃなんない、そういうふうな状態ってのは多分一般的に若い人たちの中に存在してるんだと思うんです。そしてそれがあまりうまい転換の仕方って言いますか、フィクションと、つまり役割と本来的な自分との間をうまく繋げるということがやっぱり出来ないということが沢山ありまして、それでやっぱりそれがひとつの流行現象みたいになって、後追いみたいなことが起こっているんだろうと(思います)。
そうするとそこまで考えますと、岡田有希子と言う人の自殺って言うことは、つまりある――何か判りませんが――あるひとつの今の象徴っていうのを兎に角、越えようとしたということが言えそうな気がするのです。つまり越えようとしたということはどういうことかって言うと、未来の方に越えようとしたのかもしれませんし、過去の方に、つまり元の自分に帰りたいというふうに越えようとしたのかも知れません。つまりそのことはもっとデーターて言いましょうか、いろんなことが正確に判らないと何とも言うことが出来ないですけれど、いずれにせよ、今の自分の置かれているフィクションとしての自分というものと本来の自分とを往復することの困難さっていうこと、それは多分誰もが体験している困難さなんですけれども、その困難さを兎に角越えようとした、それを未来の方へ越えようとしたか、過去の方に――元に戻りたいと言うように越えようしたかというふうに、どちらかは判らないというふうに思います。だけれども兎に角越えようとした、ひとつの象徴だってふうに言えそうな気がするのです。だからこのままで考えていきますと、やっぱりそれはどこの分野でも、つまり例えば文学の分野でも同じなんで、つまり皆心ある人って言いますか、心ある人達って言うのは、やっぱり越えようとしている訳なんです。つまり今の状態を越えようとしている訳です。それで越えようとする場合にどちらに越えるんだ、過去の方に越えると言う人もいる訳です。それから勿論過去の方に越えるのは嫌だ、つまり過去に戻るのは嫌だ、だから判らないけれど未来の方に越えようと考えて、模索している人もいる訳です。それでだからそういう意味合いではやはり同じ問題に当面しているって言えば当面して(い)るってことが言える訳だと思います。それから閉じられた世界って言いましょうか、そういう意味合いで言いましても、やっぱり多分芸能界も閉じられているでしょうし、文学の世界も閉じられている訳です。それから勿論他の分野の世界も閉じられていると思います。つまり閉じられて本来的にいつでも役割だけは――そういう世界に入りますと役割だけは、担わされるんだけれども、本来的な自分っていうのは一体どこに在るんだとか、役割としての自分、つまり文学者としての自分とか、芸能家としての自分とか、音楽家としての自分っていうようなものは、誰もがひとつの強いられた場所として持たされざるを得ない、或いは勤め人としての自分ってのはちゃんとそういう所の役割を担わされるんですけれども、本来的な自分というものをもし考えるとすれば、どういう所に自分が戻ったら、或いは越えたら本来的な自分と言うことになるのかって言うことは大変難しいことで、これは模索するって言いますか、現在模索するに値することなんで、またこれがそんなうまくスムーズに出来ている人っていうのはそんなにいない訳で、大抵は音楽家としての自分とか、文学者としての自分っていう場所を兎に角動かないで、役割としての自分って言う場所を動かないで、この現在の世相とか社会相とか文化現象とか(を)裁断しているって言いましょうか、それが現状だと思います。そうじゃなくて役割としての自分がなんであろうと、本来の自分と言うのは一体どこへ行けば、本来の自分なのか、その場所を兎に角探すと言うことと探された場所で以て現在って言うのを解いていく、現在というのはどこへ行けば本来的な自分に帰れるのかって言う、そういうことを解いているって言う、解こうといている人はいるんですけれど、うまく解けてる人は僕はいないように思います。つまりそういうことが今一様に誰でもの課題になっている、つまり現在最も課題になっていることだと思います。それはそれぞれの分野の人たちがそれぞれの分野の所で、或いは勤め人なら勤め人の人たち、或いはもっと――そういう言い方をしないで労働者という言い方をしてもいいですけども――労働者の人たちは一体労働者という場所からこの社会を裁断するって言うようなことは、しばしば歴史的に遣られて来ている訳ですけど、そんなものはどうしようもないから、労働者の人が例えば労働者を離脱したところ、つまり本来的な――役割じゃなくて――本来的な自分というところに帰って現在を裁断したらどういうことになるんだということを、労働者の人たちもまた強いられている課題なんで、そんなことを出来ている労働者なんていない訳で、またそういう組織もない訳です。だからそれはどこの分野でも同じ(で)、そういうことができている音楽家もいない訳ですし、つまり音楽家としての自分の見識とか裁断力で以てあるいは直感力で以て、この世相を裁断するというようなことは、割合出来ている訳ですけれども、そうじゃなくてそういう役割の場所から裁断する、或いは現状を図ると言うことの時代は多分終わっていると僕は考えています。つまりそういう時代は終わっている(と思います)。役割としての自分から本来的な自分とは何なんだというところに帰った時に、どこに帰っていけばいいのか、或いは帰ったところで何か、この現在の社会というのを見たら、どういうふうに見えるんだということは、それぞれの分野、或いはそれぞれの役割、或いはそれぞれの生活というところの人たちがそれぞれ強いられている課題じゃないかっていうふうに思うんです。ですから生活している人たちもまた同じであって、生活人として文化現象とか、芸能現象、文学現象でもいいんですけど、そういうのを裁断するという人は沢山いる訳ですけども、生活人としての自分というのを離脱して、生活人という役割じゃなくて本来的な自分というそういうところに、自分は脱出して離脱して、そこで以てこの今の社会を眺めたらどうなんだということを上手く遣れている人っていう生活人は、やっぱり僕はいないと思うんです。生活人の場所からやっぱり文化現象とか芸能現象とか、あるいは社会現象とかを裁断しているということに僕は成っているだけなんだ、それは僕の考えでは多分その時代は行き詰まったよっていうふうに思えるです。ですから本来役割として自分が担っている・存在している場所というのを離脱して、つまり本来的な自分っていうのはどこに在るんだっていうことの中で、それを模索することの中で、これからの問題というのが僕は出て来る様な気がするんです。つまりその課題は本当は強いられているんだ、多分この強いられているこの問題を上手くどうやって解いていくのかということが、これからの大きな問題になるような■■■(不明)。
あのー、僕、この手の1人の象徴的な若い年代の人が自殺して、それが一種の流行現象みたいになって、そういう例というのはたまたま、さっき一寸時間が早く来ちゃったんで、そこのところで、「ウェルテル」という喫茶店があって、そこんところでお茶飲んでいたのですけれど、丁度今から200年近く前でしょうか、田沼意次時代にゲーテが『若きウェルテルの悩み』という小説を書いているんです。それはやっぱり、ゲーテがその小説を発表したとたんに、自分はウェルテルと――作品の中のウェルテルと同じ着物と言いましょうか、同じ服装をするということが若者の間で流行り出しちゃったということがあるんです。それから同時にやはり同じ現象でやっぱり自殺する若者が相次ぐと言うことが起こったわけです。日本でいえばちょんまげ時代ですけれども、それは丁度、所謂ドイツでは疾風怒濤の時代というのが始まる一種の兆候をなす作品であった訳です。主人公のウェルテルっていうのは悉く現在――自分が住んでいる今の社会っていいましょうか、その頃のまだ近代の曙な訳ですけれど、まだ古い時代の社会のいろんなしきたりとか習慣とか、或いは身分制が残っている時代なんですが、そういう時代の中でウェルテルというのが、我慢ならん――つまり日常のそういう生活の各場面で我慢ならん、どこ行っても自分の行く場所がないみたいな、そういうウェルテルっていうのが謂わば――何て言いますか――一種の近代、これからやって来る近代っていうのを象徴する、仕方をして行き詰まって死んでしまう訳です。行き詰まるきっかけに成ったのが、やはり恋愛事件なんです。つまり既に――何て言いますか――フィアンセって言いましょうか、許嫁の男性がいて、その男性は非常に立派な男性で、教養も有り学問も有り、それから人間的にもちゃんとしたという、そういう許婚者がいる訳です。ロッテって言う女性がいる訳ですけれども、ウェルテルはそのロッテを好きになっちゃってどうしても、好きになることをどうしても止められないんですね。結局ギリギリまで追い詰められていきまして、結局ロッテというのも困りますし、許婚者も困る。それで困ってドンドンその追い詰められていって、最後に許婚者――ロッテは結婚してしまうわけですれども、結婚してしまってもまだウェルテルはそれを、ロッテを諦めきれないし、自分自身が段々追い詰まっていく。それで公使館みたいなところに勤めて、気を紛らわせようとするのだけれども、それも駄目だ。そこでも衝突を起こしちゃって、つまりどこへ行っても衝突を起こしちゃうみたいな形で以て、ロッテという女性への想いを諦めきれないで、結局ロッテの方から最後には、私みたいな要するにつまんない女にどうしていつまでも執着するんだ、あんたは立派な学問もあるし、才もある人なんだからもっと沢山立派な女性がいる筈なんだ。いるからそれを探したら良いじゃないか、自分のようなつまんない女にそういうふうに熱を入れていると言うことは、要するに結婚するということが元々不可能だということがあるから、益々そういう様に成っているんだろう。それだから成っているだけであって、本当は自分みたいな平凡な女(というの)をごく普通の条件だったなら、こんなに貴方が好きになる筈がないんだということを言われてしまう訳です。それでロッテ(ウェルテル?)の方は、馬鹿なことを言って貰っちゃあ困る。つまりそれは貴方や貴方の結婚した旦那さんが家庭教師にでもそんなことを言って配って遣ったらいいんだ。私には、俺にはそんなことは通じない。つまり俺はそんな段階で、そういう気持ちでお前を好きに成ったんじゃないんだと言うことに成って、結局ウェルテル自身は死ぬほかないと考えて自殺を決心して、自殺してしまう訳です。で、なぜウェルテルが象徴的にその――何て言いますか――当時の若者にその服装からその自殺・後追い自殺まで喚起したかって言いますと、ウェルテルのそういう社会との衝突の仕方と言うのは、やはり近代というものの、ヨーロッパの近代というもの――曙っていいましょうか――それをひとつ象徴する、つまり一種の時代の、ウェルテルっていうのは不安定な精神の持ち主なんですけれども、しかしそれは別な意味から言えば、近代――やがてこれからやってくるだろう近代の先駆的なって言いますか、近代の先駆的な騎手であるって言いましょうか、そういうふうな理解の仕方が出来るわけです。勿論、モデル――ゲーテにはモデルがいまして、それは自分が法律実習に行っていた街で、許婚者のいる女性に恋愛事件を起こして、だけど許婚者の方が立派な人格だったので、諦めて辛うじて悲劇に至らないで済んだという、自分の体験もある訳ですけれども。もう一人、自分の学校時代からの親友がやはり同じ様のことで、同じ街で自殺したって言うことがありまして、その2つのことを重ねて『若きウェルテルの悩み』という小説が書かれた訳ですけれども、そこに時代の象徴性ってのが存在した為に、やはりそれが一種の流行――死もまた流行現象に成るという形で、なった訳です。それでこれは――何て言いますか――誰もがその時の、同年代の誰もが、特別なつまりゲーテみたいな――あれは一種の大天才ですからね――ゲーテみたいな大天才の他には誰もこれからどういう時代がやって来るんだ、で、どういうふうに振る舞わなくちゃ成らないんだ、どういうふうに古い制度・或いは古いしきたりという、或いはそういうものとどうやって対立して、どうやってそれを越えていかなくちゃあ成らないかっていうことは、誰にもよく判らない。しかし勿論若い同年代の――ウェルテルの同年代の若者にもそんなことは意識的には判らないんですけれども、しかし無意識には、直感的にはそれが判っていて、それでウェルテルを一種の――何て言いますか――殉教者みたいなふうに見立てて、それで後追い自殺みたいなことが■■■(不明)。
そうすると、岡田有希子という人はウェルテルの悩みの中の主人公のことも学問も才能も、開花している・持っている訳じゃないし、まだ未完成の女の子だったんだと思いますけども、その女の子がしかしどこかにやっぱり本格的なところが、どこかに僕はあるんだと思うんです。それでそれはやっぱりもしかするとそれは、未来へ飛び込んだのかも知れない様な気もするんです。つまりこれから、これから、こうなっていくと言うことに対して、もしそれに耐えられるんならば、先ず生きられるだろうっていうふうに言えて、それに耐えられないならば、やっぱり未来に対して飛び込んじゃうより仕方がないということが、どうしても必然的に起こってくる訳で、だからもしかするとそういうつまり未来に飛び込んだ、未来に飛び込むという形は誰にも生きてそこに飛び込むことは出来ない様な、何か未知数に満ちたもの、未知数であって、またいろんな難しい問題があってということであって、その象徴であるかも知れない様な気もします。この人は──岡田有希子という人は、多分他の分野に行っても、それ相当の秀才であって、それ相当なアレだったと思うんです。だから、多分よく勉強が出来て秀才で、勉強というのはこういうふうにやりゃあ出来るんだという様なこというのは、割によく知ってて、それと同じことをやっぱり芸能世界、歌を歌うことの中でやっぱり同じことを集大成に勉強の仕方を知ってて、それを遣ったんだと思うんです。遣ったけれども、遣ったら同じことしか無かった、同じことしか無かったんだ。つまり学校とか受験とか言うことは、きつくて自由じゃないけれども、お仕着せだけれども、自分が好きな歌の世界はそこはそうじゃないかも知れないというふうに思って、歌い手になろうとしたのかも知れませんけれど、やっぱりそこでも自分がやっぱり一種の秀才として勉強しちゃって、秀才として出来ちゃう、勉強の仕方をよく心得てて、遣っちゃうと言う様なことを遣ったんだと思うんです。で、結局は同じ世界、同じだったんだ、当面する問題は同じだった。受験生として、中学の受験・高校受験生として振る舞った、そうじゃなくて芸能界で、どうやったらアイドル歌手になるのか、人にもてはやされる歌手になるのかとうことを目標に、やった勉強の仕方をしてみたら同じだった、ある程度それは出来ると言うことも判ったんだと思うんです。しかしそれはやっぱり耐えられないことだな。やっぱりどうしても役割自体の中に埋没してしまって、本来の自分って何なのか分かんないというところ(が)生じて来ざるを得ない。これはどこ(に)行ったって同じなんで、それはどこ行ったって同じことなんで、そういう役割としての自分というのから本来的な自分というのに帰る──何て言いますか──往復するって言いましょうか、帰ってはまた行き、帰っては行きということを、多分誰もが強いられていると言うふうに僕には思います。だからそれは多分それは現代の状況を象徴しているのであって、それで誰も知らない訳です。つまり文学の世界へ行くとこういう役割を強いられていて、本来的な自分の顔はこうなんだということは誰にも判らない、外からは判らないけれど内側から──とてもそういうことは内側からはどうしてもせざるを得ないように成っている。勿論芸能界も多分そうなんであるし、他の世界もそうであるし、また生活水準(?)の世界って言いましょうか、ごく普通の生活人の世界もやっぱりそうで、生活人という役割とそれから本来的な自分という、或いは家庭人としての役割とそれから本来的な自分との間にスムースに往復が出来るかどうかって言う様なことは、多分どこの場面でも強いられているんじゃないかっていうふうに思われます。だから、多分えーと、後から考えるとつまり『若きウェルテルの悩み』の中のウェルテルも自殺って言う様な、やがてやって来る近代に対するひとつの暗示って言いましょうか、振る舞い方の暗示っていうものを後から考えれば占めていた(?)というふうに言える訳です。だから、同じように例えばもし後から考えれば岡田有希子というその人自体をとって来た、未完成の頭のいい子で、未完成の子だって言うふうにしか過ぎないのかも知れないですけれど、しかしそれはもしかすると、それはやがてやって来る未来への、何かひとつの暗示を与えているのかも知れませんし、また生きてって言いましょうか、生きてそこを潜ることの困難さを先ず示しているんだ──と言う様なことを──かも知れません。つまりそういう象徴であるかも知れないので、このことは割合まともな現象って言いましょうか、まともな事柄として考えるべき問題というものをどこかに僕は含んでいると言うふうに(思います?)。
で、今日の本題っていいましょうか、文学はかっこうよくなっているかと言うことの問題に入って行く訳ですけれども、今お話ししました例えば『若きウェルテルの悩み』って言うのは文学です。小説作品です。書簡体の小説作品です。それでウェルテルはその中の小説に登場する主人公です。勿論モデルはありましたけれど、小説に登場する主人公で、作者の非常に見事な造型力って言いましょうかそういうものと、見事な近代──やがて来る近代に対する見事な洞察と言うのが、非常に作品をリアルにしているし、作品の主人公を恰も──何て言いますか──実際の社会に、「あそこにいる。あそこにいる。」っていうふうに指摘できるような如実なって言いましょうか、リアルなイメージを沸き立たせるような造型力があったからということであるんでしょうけれども、岡田有希子の場合にはこれはそうじゃなくて、実際の生身人間が要するに自殺してしまって、それで後追いの自殺というのが連れて同じ世代に起こってしまったことなんで(す)。ですからこれは一寸実際の現実に起こった事柄であると言う意味では、文学ではない訳です。しかしこれを──岡田有希子の自殺という様なことを、文学だって言うふうに──文学だって言うふうに置き直すことは出来ます。どういうふうにすれば置き直せるかっていうと、作者が──要するに作者が現代なんだ。或いは作者が現在なんだ。つまり現在という作者が描いた──その、何て言いますか──これはひとつの小説なんだって言うふうに。そしてその岡田有希子というのはその主人公なんだって言うふうに考えれば、つまり作者を現代という何か目に見えない、しかし日々体験している実感している、そういう現代の社会、現代というものが作者だというふうに考えれば、これは立派にひとつの小説作品っていいますか、文学作品に準えることが出来ます。或いは置き直しことが出来る訳です。ですから岡田有希子の問題って、1個の芸能界に憧れた人の、少女の終末なんだっていうふうに、そういう理解の仕方も出来ましょうし、いろんな週刊誌に載っていた心理学者のアレに拠れば、近頃の若い者は模倣性が強くてとか、親はどうしたらいいか(とか)、子供の部屋には鍵を掛けたりしてはいけない、鍵をつけさせたりしてはいけないとか、いろいろ教訓を垂れていますけれど、僕はそんなことはあんまりどうでもいいことなんだ、そうじゃなくて、この現象を例えば文学現象と準える為には、やはり現在(現在?)という作者がこれは描いて見せたんだ、描いてみせた作品のひとつなんだ、その種の作品が、現在(現代?)という作者(が)方々で沢山描いている。それは目に見えないかも知れないし、或いはたまたまマスコミで表面に浮かび上がってくるかも知れないけれども、必ずしも芸能人にだけおとずれているんじゃなくて1個の生活人も、或いは1個の普通の学生さんも、普通の──何て言いますか──サラリーマンでも、そういう人達にもやっぱり同じことがおとずれて(い)て、それは僕らがひとつの文学作品として見るには全然輪郭が判らないのですけれども、そういうことは在って、それはやはり現在という作者がそういう作品を描いているって言うふうに見れば、見ることが出来ると思います。ですからひとつのたまたま目に見えている形で浮かび上がってきた、そういうひとつの現象って言いましょうか、事柄って言うのの背後には、或いは周りには、或いは分散した現在の中にはそういう作品が沢山描かれていると。少しずつバリエーションがありますけれどもそれは沢山描かれていて、僕らもそうですけれど、皆さんの方も描かれた現在が描いている作品の中の登場人物たることを免れることは出来ないということがあると思います。それでその作品が、つまり作者が勝手に成らずに、作中の人物が勝手に──何て言いますか──動いてしまうということも勿論出来る訳です。ただ勝手に動く為にはどうしても──何て言いますか──役割としての、つまり登場人物としての自分というのじゃなくて、本来的な自分というのは何なのかということを探すことが出来れば、或いは探すことの中で──何て言いますか──作者の意に背いてですね、作者である現在というものの意に背いて行動することが出来るっていうふうに考えられます。だからそこのところではやっぱり岡田有希子の事件というもの、やはりこれはひとつの文学作品に準えること──現在、或いは現代が描かれている──何て言いますか──文学作品のひとつだというふうに考えることが出来ます。で、この岡田有希子の事件と言いますか、現象って言うのはかっこうがいいかどうかと言うことの問題になる訳です。で、かっこうがいいかどうかというのは、どういうのがかっこうがいいということと同じようにとても難しいことなんです。つまりこの作品がいい作品かどうかというのならば、つまり価値観・価値判断でしたならば、これはそんなに難しくない訳です。読者としてこれを読んだって、或いは鑑賞者として読んだって、或いは批評家としてこの作品を──岡田有希子事件という作品を読んだって価値観として読むことはそんなに難しくない筈ですし、それぞれの皆さんは多分それぞれの形で、価値観を――この事件に価値観を与えていると思います。否定的な価値観を与えている人もいるでしょうし、マイナスだって言う人もいるでしょうし、また相当大きな価値があるっていうふうに価値観を与えている人もいるでしょう。様々でしょうけども、価値観の上下ということでしたら、それはそんなに不可能じゃないって思います。ただかっこうがいいかどうかということは、僕はとっても難しい様な気がします。つまりこれはかっこうがいいのかどうかということは、とっても難しい様な気がします。なぜならば、かっこうがいいということ自体はどういうことなんだということと一緒に、かっこうがいいか悪いかと言うことは(が)問われなければ、あんまり意味がないからです。だから本当は岡田有希子事件でも共感するとか反感を持つとか、価値付けることは出来ますけれども、これがかっこうがいいかどうかということは、かっこうがいいとは何かということと一緒に、かなり難しいことで、先程言いました様に、これは本来的な自分というものと役割としての自分ということを皆さんが上手く──遣ってる自分が上手く解けなければ、或いは自分自身の姿を浮かび上がらせることが出来なければ、多分かっこうがいいか悪いかという判断は出来ないんじゃないかと思います。そんなに簡単にこれをかっこうがいいとか悪いとか言っちゃいけない様な部分を含んでいる様な気がします。だからこの作品は、つまり岡田有希子現象・事件という作品はかっこうがいいかどうかと言うことについては大変難しいから、いろいろ──何て言いますか──結論を設けることをしないでやはり一寸考えてみる必要があるぜっていう様な問題、そして考えてみる必要があるぜっていうことは、つまり他のことと全部関連があるんだ。つまりこれは文学の問題とも、芸術てみた方が問題はまだ残っているよって言うようなことが・・・。
で、今日、今の文学っていうのはかっこうよくなっているかどうかっていうテーマを与えられましたので、兎に角いま書かれている文学作品を読まないとお話にならないということで、僕は読んで来たんですよ。多少読んだんですよ。で、批評って言う、文芸批評っていうのは、僕商売ですから、言われなくてもこういうテーマを与えられなくても読んでる作品もあった訳ですけれども、与えられたということで、少し意識的に読んだりしたんですよ。それで僕は──どう言ったらいいでしょうね──かっこうがいいか悪いかと言うことで、最後にこれは割に比較的かっこうがいいんじゃねえかっていうふうに残ったって言いますか、記憶に残った(のが)ふたつありまして、ひとつは村上春樹の『パン屋再襲撃』という短編・中編を集めた作品集がありますけど、これは残った。かっこうがいいんじゃねえかと言うふうに残ったんです。それからもうひとつ、村上龍の『ポスツ』(?)というこれも短い、短編とは言えない、小編と言ったらいいんでしょうか。掌の編といったらいいでしょうか。非常に短くて見事な作品を集めた作品集が今出てて、多分皆さんよく読んでおられる訳でしょうけれども、その2つと言うのはかっこういい、僕はかっこうがいいんじゃねえかと言うふうに【笑い】思ったんですよ。それで、じゃあかっこ悪いっていうのがあったかというと、かっこ悪いというのもありました【笑い】。僕、これも皆さん方に読まれて、沢山読まれている作品だと思うんですが、遠藤周作さんの『スキャンダル』という小説があるんですが【笑い】、これはかっこうが悪いと思ったんですよ【笑い】。で、なぜそれじゃこれ、このかっこうのよさと言うのは村上春樹の場合と村上龍の場合とは勿論違う訳です。で、勿論違う訳です。それから共通な点、違うって言う点はあんまりこの際問題に──つまりかっこうがいいとは何かということを究めていく、それに一歩でも近づいていく為には、違ってる部分は本当はあんまりどうでもいいんですけども、同じ様な部分が問題な訳ですけれども、違っている部分、1番違っていることは、村上春樹って言う人は文書・文体をみますと──何て言いますか──直喩とか暗喩とか、つまり喩って言いますか、メタファー・シミリーとかそういう、つまり直喩とか暗喩とか、つまり喩って言うものの使い方というのがとても上手いんです。見事な喩の使い方をします。だからイメージ、文体のイメージ喚起力って言いましょうか、それは大変見事なものです。これは大体、非常な特徴の1つです。それからこれと対応させて、村上龍と言う人の文体(は)、喩というもの、つまり比喩というものは、全然使ってありません。つまり棒きれのようにぶっきらぼうにと言いましょうか、のっけからぶっきらぼうな文章で喩・比喩の表現はひとつも使ってありません。その代わりこの文章──何て言いますか──僕らの言葉で言えば、つまり専門用語に成りますけれども、専門用語で言えば文体の選択力というのが強いということ、強いんですよ、強い選択力を持っている。だから文章がバサッ・バサッと飛んで、ドンドン棒飛びしてっちゃうんですけど、棒飛びして行きながら、しかし決してブッツリ切れて行かないです。つまり読む人をちゃんと流れとして誘いながら、しかし文章自体は棒きれの様に、頻りに強い選択力でドンドン動いて行っちゃう、そういう文体です。これは例えば同じかっこうがいいんじゃねえかという作品でありながら全く対照的な点です。つまり比喩を全く使わない文体と、比喩を実に巧みに遣ってイメージ喚起力が非常に強いという文体を使っているという。これは非常に大きな違いです。それからもっと違いを言ってみますと、村上春樹と言う人の作品では、何がこの人の作品の核心なのかって言うと、つまり心理的な──何て言いますか――心理的な微妙な違いというものが、結果として例えば大きな意味を持っちゃうということがあるとしますと、そういうことに対する非常に鋭敏な描写力と、何かそれを捉える力がある訳で。つまりこれは現実問題で言えば心理的に非常な微妙なこと(が)、些細な様に見えることが非常に重大な結果をもたらしちゃうっていう、1番典型的なのは恋愛とか、男女の関係とか、そういうものがあります。つまりこれはどうすることも出来ない様な、微妙なくい違いというのはどうすることも出来ない、破局になっちゃうということというのはあり得ます。それから──何て言いますか──どうでもいい様な小さなことが非常に親密感を増加していって、恋愛が成就しちゃうみたいなこと、男女の仲が成就しちゃうみたいなことがあります。これもどうしようもない力があります。例えば、僕、恋愛が成就した後で何かどういう所がよかったんだって言ったら、立ち小便しないと言うことがよかったっていうふうに僕、家のやつに言われたことがあります【笑い】。それはしかし、いいか悪いかは別なんで、立ち小便しないことはいいことか悪いことかということは別なことなんだけれど、ただそう言いました。それは非常に大きなきっかけになったというふうに言っていました【笑い】。だから、その手のことって言うのは恋愛というのにはしばしばあり得る訳でしょう。それから逆に一寸したくい違い、心理的なくい違いなんだけれど、それは重大な結果に成っちゃうということがある訳ですね。つまり男女の関係とか恋愛とかと言うことにある訳ですね。つまり村上春樹と言う人の作品の中には必ずしも恋愛の描写じゃ無いところで、例えば些細な心理的な違いというのをイメージとして取り出してくる力というのは大変強いんで、これが多分村上春樹と言う人の作品で1番大きな特徴と思うんで。例えば先程言いました作品集の中で『象の消滅』という短編があるんですけど、それは象が逃げちゃった、いなく成っちゃった、それは飼育係と一緒に消えちゃったというアレなんですけれど。そういう作品なんですけれど、なぜ消えたか判らないけれど消えちゃったという作品なんですけれども。それは裏の方から主人公である「僕」というのが飼育している象の檻の上の方に、裏の方に高い崖があって、そこからのぞける様になっていて、そこからのぞいていると、いつものぞいていると飼育係と象の大きさの違いと言うのが、非常に著しい大きさの違いがあったんだけれど、象が消滅しちゃう直前には──何て言いますか──裏の高いところからのぞき穴があって、そこからのぞいたら何かその時に限って象と飼育係との大きさの違いっていうのが、何となくそれ程違いがない様に見えたと言うふうな描写がありますけれども、つまりこの手のことは象の消滅ということの一種の象徴としてそういう描写がある訳ですけれども、それは僕は実に見事な──何て言いますか──見事な行き違と言うもの、やがて起こる行き違いということの見事な象徴になっているというふうに僕には思われます。つまりそれは象も飼育係も大きさが同じ様に段々成っていって、消えて言っちゃう。そういう象徴でもあるかも知れませんですし、そうじゃなくて何か大きさの空間的な違いという様なものが、何か心理の一寸した、くい違いというもののひとつの象徴に成っているということが、とても見事だって言うふうに僕には思いますけれども、この種の見事さって言うのは村上春樹の小説の特徴だと思います。つまり■■■(不明)。
そういう意味のイメージ喚起力っていうのは、そんなにはないんです。その代わり──何て言いますか──棒の様に強い、棒でぶっ叩く様な強い力と、文章の力と比喩を全然使わない為に起こる──何て言いますか──一種の冷静さって言いますか、冷淡さて言いますか、冷淡さとか残酷さとが非常に見事に出てきちゃうと言うそういうことと、それから文体の選択力と言うことです。つまり場面選択ということが非常に強い力で行われている訳です。だからこれも非常に見事な小説の文体に成っている訳です。で、村上春樹の言う様な意味の微妙な心理的な催芽(?)ってことはあんまりどうでもいい■■■。
そうすると、今、両者に違いって言うのはそういう所ですけれど、次はかっこうがいいと言うことの象徴であり得ているんじゃないかと思われる、共通点ってのは何かって言うふうに考えてみます。共通点っていうのは、僕はある様な気がするんです。特に僕らの年代の人間からみると共通点がある様な気がするんです。それは──どう言ったらいいでしょう──性というもの、或いは男女の間柄に対する、その──何て言いますか──或いは一般的に性とかエロスとか言うものに対する非常に冷めた──何て言いますか──冷めた眼差しというものがあると言うことなんです。村上龍の場合にはそれは一種の冷めた残酷さに成っている訳で、多分女の人──特にウーマンリヴみたいなことを遣っている人が読んだら不愉快でしょうがない様な、つまり女性蔑視の典型的なものだって言うふうに言うかも知れない様な、非常に残酷な性描写って言うのがあります。で、これはやっぱりかっこうがいいということは何なのかと言うことは今ここで問わないとして、兎に角しかしかっこうがいいと言うことのひとつの大きな要因に成っているんじゃないかと思われます。これと同じことは村上春樹の場合にも言えます。この場合には大変、究極的に言うと残酷じゃないんですけれど、この人の小説に出て来る男も女も大変優しくて温かくて、一見ニヒルに見えますけれども、そうじゃなくて割合に、その──何て言いますか──平穏な──何て言いますか──日常生活がとても好きだと言う、そういう若い人を描いている訳ですけれども、唯そういうところがまたこの人が受けている理由の様に僕には思いますけれども。それはそうなんだけれど、そうじゃなくて僕が言うのは何か、男女の関係に対する思い入れって言いましょうか、そういうものがそんなには大きくはない。だから極めていずれにせよ男女の関係というものは、淡泊に成ってしまっている、成っているということ。また淡泊に多角的に成らざるを得なく成っているという、そういう日常生活性っていうのを登場するその人物が非常によく象徴的に演じているということがあって、これは多分かっこうがいいというふうに言うとすれば、その大きな理由になっているんじゃないかって言うふうに僕は思います。つまりこれは直ぐ比較してみればいい訳で、今より例えば50年なら50年、60年なら60年前に、明治の末年頃例えば夏目漱石という大作家が典型的に、例えば『こころ』という小説を見れば典型的にそうですけれども、つまり下宿屋さんの娘さんがいて、その下宿屋の未亡人とそれから娘さんが下宿屋を遣ってて、そこに自分と親友が学生としてそこに宿を取っている訳ですけれども、その娘さんを親友と自分が同時に同じ様に好きに成っちゃって、で好きになっちゃうんですけど、ある時自分の、主人公にとっては自分の親友が、俺はあの娘が好きだけどどうもそういうことを打ち明ける勇気はないと。お前ひとつアレしてくれないか、頼むっていうふうに言われて、それで自分がその時に俺も好きなんだって言っちゃえばそれで小説は成り立たないし、事件も起こらない訳ですけれども、その時に自分も好きなんだって言って公明正大に競争しようじゃないかって言うふうに言えば、それは小説には成らないし悲劇にも成らない訳ですけれど、主人公はそれを言い出せないで、逆に親友を出し抜いて自分が下宿屋の娘さんと一緒にさせて欲しいと申し出でて、何か一緒に成っちゃって、それでそれが『こころ』という小説の主人公にとっては生涯引っ掛かってって言いましょうか、生涯の傷に成っちゃう訳です。それで、結局丁度、明治の末年で時の明治天皇が死んじゃった時、乃木大将が後追い自殺する訳ですけれども、つまり今の岡田有希子現象の大規模なやつですけれども【笑い】、大規模っていうか、つまり偉い人の岡田有希子現象なんです。で、そういうふうに成った時に、『こころ』という小説の主人公は、やっぱり自分も自殺しちゃう訳なんです。それでそれは例えば、そういう訳ですよね。それは例えば漱石の晩年の弟子である芥川龍之介なんかにも同じテーマがある訳なんです。芥川龍之介にもやっぱり『開化の殺人』みたいな作品を幾つか書いていまして、そこでやっぱり三角関係で自殺しちゃう人、それから縺れて、どうしようもなくなって、行き詰まってアレしてしまう。そういう人達を描いている訳です。つまり──何て言いますか──いかにも例えば、村上春樹でも村上龍でもいいんですけども、その人達からみたら阿呆らしくて、そんなの一寸こんなの読んじゃいられないよって言う位、阿呆らしいことがテーマに成っている訳で、そんなことが例えば1人の女性を2人の男が好きに成って、親友同士が好きに成っちゃって、それで出し抜いて何か一緒に成っちゃって言うことが一生涯引っ掛かって、それで自殺しちゃうなんて言うことが例えば今の若い人、つまり少なくとも村上春樹や村上龍の小説に登場してくる人物達にとっては、馬鹿らしいことに違いないことなんです。つまりそんな阿呆なことはない訳です。ところが阿呆なことがないことはしかし──何て言いますか──実際問題としてそういう阿呆なことって言うのはありまして、阿呆な考え方が男女の問題について真っ当だった、正当だったと言うそういう時代というものも、或いは時代の社会風潮というものも明らかにあった訳です。で、ところでそれを今の例えばかっこうがいい小説の、何かそういう問題に対するその扱い方って言うのをみていきましたなら、比べてみたら判りますけど、そういうことはあんまりどうでもいいし、そんなにこだわるべき問題としては、大体描かれてはいない訳です。だから大変それは見事な形で──何て言いますか──潜り抜け方って言いましょうか、或いはぶつかり方って言いましょうか、それは非常に見事に処理されてきている、その見事な処理のされ方──され方の見事さということは、これは漱石の時代とはまるで違うじゃないかという意味もそうですけれども、やっぱり現在というもののあるひとつの象徴性って言うようなものをそこに──何て言いますか──描ききっている様なところがあるんじゃないかと言う様に思います。それはひとつのかっこうがいいということの、ひとつの──かっこうがいいとは何かということをなお尋ねて行かなくてはいけませんけれども──少なくともかっこうがいいということの候補者と言いますか、候補作品であるというふうな条件は、そこのところで備えているということは言えるんじゃないか。
これはあの、大変、先程から言いました様にこれをかっこうがいいというふうにいい条件を持っているというふうに評価するか、こんなのは大変──何て言いますか──ちゃちな、また酷い堕落だ、小説作品の堕落だと言う評価をする人も勿論いる訳です。でも評価の仕方がどうだと言うことは価値観の問題なんで、価値観の問題と言うのは割合に文学の世界では、割合に分離することはないんです。つまりゆくゆく突き詰めてみたり、ゆくゆく話し合ってみたりとか、ゆくゆく論じてみたらそんなに違わないというふうなところ、そんなには価値観の上下について違うということは、そんなにはないんだという(こと)所までは文学の鑑賞とか、文学の批評と言うものは現在到達している訳で、これは他の世界とは違う、少し違うところだと思います。つまり映画の世界とか音楽の世界と言うと、どれがいいんだ。この作品とこの作品とこの演奏とこの演奏と、どっちがいいと思うかと言ったらこっちがいいということがちゃんと指示できると言う様な、そこまでは指標というものが確立されていないと思います。だけども文学の世界はそうでないです。大体誰がアレしても、最初くい違っても大体追い詰めていけば大体価値観ならば上下がないという様な所、違いがないという所までは追い詰めることが出来ると言う所まで行っています。だからそういう意味合いではこれが否定的であるか、この作品を否定的に評価するか肯定的に評価するかと言うことは、たいした問題ではあり得ないです。少なくとも文学の世界ではそうです。つまり大した問題ではあり得ないです。唯、かっこうがいいか、かっこう悪いかって言うか、またもっと僕はよくそういうことを割に言われる、この頃よく言われるんですけれど、こんなのかっこうがいいというのは、何かサブカルチャーにお前媚びているんだって言うふうによくそういう人もいる訳だけども、そういうのはどうでもいい様な気がするんです。大した問題じゃないんです。唯、要するに誰がどう言おうとこの作品がかっこうがいいか(?)、どうしてかっこうがいいと言うのか、かっこうがいいとは一体現在どういうことなのかと言うことは価値観じゃなくて、価値観でもないし作品の内容が含んでいる意味でも無いし、それから──何て言いますか──作品が振りまく感覚でもないし、しかしかっこうがいいかどうかって言うことは少し、つまり新たな──何て言いますか──文学作品の評価の──何て言いますか──ひとつの軸として、これは追究するに価すると思います。つまりこの作品はかっこうがいいかどうかって言うこと、オッかっこうがいい、かっこう悪いと言う様にすぐに言える様に訓練することと、それから、じゃ、かっこうがいいってどういうことだって言ったら、こういうことなんだというふうに直ぐに言えることは、そういうことはやはり、追究するに価する新しい課題な様な気が僕はします。だから一見するとあんまりさして根拠がない様な言葉ですけれども、かっこうがいいって言うことは文学指標の基準、或いは文学鑑賞の基準として言えばとても新しい基準であって、それはやはり突き詰めて行くに価するじゃないか。なぜそういうことが突き詰めて行くに価するかと言うことが問題なんですけれども、それは要するに文学作品を意味内容として読むと言う読み方とか、価値内容として読むという読み方は、これは近代文学、或いは近代小説が始まった時からある程度遣られて来まして、いろんな蓄積もありまして、それで勿論違った見解(も)幾らでもある訳ですし、違った理論もあるんですけれど、しかし大凡の所はこの小説にはどんな意味があるかということ、或いはこの小説にはどんな価値──この小説の価値はどんな価値なんだ、或いはこれとこれとを比較したならどっちが価値ある作品なのかと言う様なことについては文学の歴史──何て言いますか──19世紀以来、つまり2世紀近い──何て言いますか──蓄積がある訳なんですよ。しかし嘗て、嘗てつまりこの作品、かっこうがいいかどうか、或いはこの作品とこの作品とを比べてどっちがかっこうがいいかって言う様な評価の基準と言うのは、つまり新たに生じている問題だっていうふうに僕には思います。つまりこれはそんなに歴史は長くない訳で、せいぜい例えば10年かそこら足らずだと思います。つまりかっこうがいいと言う言葉は──何て言いますか──ある普遍性を持ち、それから文学作品を読んだ上でかっこうがいいとか、かっこうが悪いとか、文学作品だけじゃなくて今日先程遣られた演奏もそうですし、パフォーマンスもそうですし、トーキングもそうですけれども、それはかっこうがいいか悪いかと言うことを問うみたいな、そういうことが──そんなに歴史がある訳じゃなくて、たかだか多分10年位の所だろうって言うふうに・・・。
つまりなぜ、それじゃ10年位な所で、かっこうがいいか悪いかと言う評価の基準というのが謂わば自然発生的な形で出てきたのかと言うふうに考えていきますと、それは皆さんの方は──何て言いますか──それはもうかっこうがいいも理屈もへちまもない、かっこうがいいんだって言うふうに言うかも知れませんし、そんなのは理屈は判らないけれど、兎に角直ぐに判っちゃうっていうふうな一種の感──感と言いますか感覚というのを持っておられるかも知れませんですけども、しかし意識的にかっこうがいいとはどういうことなんだ、なぜこれをかっこうがいいと言うかと言う様なことを問う段に成った(な)らば、やはり皆さんにとっても未知数であろうと思いますし、僕らにとっても未知数でありますし、またそれは多分現在になって、現在というものに成って初めて出てきた評価の基準なんじゃないかなって言うふうに思います。じゃ、なぜこういうかっこうがいいか悪いかと言う評価の基準が出てきかということの問題になる訳ですけども、これは皆さんの方では、そんなことはお前が理屈づけることはないので、或いはおまえが理屈を言ったってそんなのはしょうがないのであって、そんなことはひとりでに誰でも判っちゃうんで、ひとりで判っちゃてんだって仰るかも知れませんけれども、多分それはそうじゃないのであって、それちゃんと探究しないといけない様な気がします。つまり多分僕はかっこうがいいか悪いかという評価の基準がなぜ発生したかということは、僕の考えでは──何て言いますか──先程一寸言いましたけれども離脱と言うこと、脱と言うこと、離脱と言うことが大きな問題に成ってきた。つまり大きな現在の問題であるし、これからの問題でもあるって言う様なことに成って来たからだっていうふうに思います。つまりそれまではいずれにせよ生活している人は、主婦は例えば主婦の場所から様々な現象を──文化現象とか芸能現象──様々裁断すればよかった訳だし、また政治家は政治家の場所から社会現象を評価したり、裁断したりすればよかったし、芸能人は芸能人の場所から他の現象を評価したり、また裁断したりすれば、それはそれなりに済んでいたと言うふうに成っていた訳ですけれども、多分それはそういうふうに、そういう問題では済まされなくなって来たということが、かっこういいか悪いかという基準が出てきた根拠だと思います。なぜそれじゃそれは済まさせれなく成って来たかと言いますと、先程言いました様にひとつはそれぞれの──何て言いますか──演じている場所、役割の場所というのが多分それなりに、それなりに閉じられちゃっていて他の世界からは何か、どうしようもないみたいな、目に見えない城壁みたいな持っていて、そこの世界はそこの世界なりに閉じられていて、閉じられていると言うことを中にいる人は気付かなくても済んじゃっている。今迄なら気付かなくたってそこ場所から他の事柄を裁断して(い)れば、つまり批評していれば話は済んだんだけれど、多分そうじゃなくて脱・離脱──脱という課題が生じて来てからは大体自分がいる場所、つまり主婦は主婦のいる場所、それから生活人は生活人のいる場所、芸能人は芸能人のいる場所、詩人は詩人のいる場所、文学者は文学者のいる場所って言うその場所自体というのに絶対的な価値と言いましょうか、ドッカリと座っていればいいさ、座ってそれ相当の経験と見識を持ったんだから、俺は他のことを裁断したって全部裁断できるし、それでちゃんと精確に解いちゃうんだと思って済まされていたんですけれど、多分それぞれが演じている役割の場所って言うのが、大体目に見えない壁で以て大体くるまれて、くるまれた場所が方々に何かコロニーを造っているという形になっていて、本人達は気付いて、内部にいる人は決して気付いていないんだけれども、外部からは本当は閉じられているんだ。で、誰もその場所はいいと思っているけれども──自分のいる場所はいいと思っているけれど──そんなのちっともよくないんで、本来的にいい場所って言うのは、どこかに探し求めなければ無いんだと言うことの課題というのが、つまり離脱と言うこと、脱と言うことの課題というのが少なくとも10数年来と言うことになって、初めて出てきたと言うことがあるんじゃないかって言うふうに思います。つまりその場合に本来的にこの場所がいいんだ、この場所に自分が行くならば、自分の身柄を捨てるならば、或いは自分の身柄を移さなくても自分の──何て言いますか──思考とか裁断力の、裁断をする場合の自分の場所というのを、そういう場所に移せるならば多分この社会現象・文化現象・芸能現象というのにかなり正確な判断と、正確なアプローチが出来るという場所がどこかに必ずあるんだけれども、その場所に行かない限りは自分のいる場所って言うのは非常に不安な所・ことに成って来ちゃったと言う。つまり文学者は文学者なりに芸能人は芸能人なりに、自分のいる場所は大変不安な相対的な場所に成って来て、閉じていないつもりでも閉じられたコロニーに成っちゃって、目に見えないカプセルの中に全部入っちゃって(い)る、それは他の所から透明なんだけれど全然それは判らないんだ。透明なかおく・かわべ(?)に囲まれているから中から自分は外に開いているつもりだけれども、それは判らない。本当は開いてなくて、閉じられたカプセルの中に入っているんだと言う様な、そういうコロニーが沢山出来て来てしまった。で、どうしても透明なコロニーというのはどうしてもそれぞれのそういう置かれている役割の場所から、何かコロニーの壁を、透明な壁を切り払って、それでどこか本来的にここの場所ならいいんだと言う、いい筈なんだというその場所にどうしても移らなければ、何か社会現象も文化現象も、その他の現象も政治現象も全部裁断できなく成っちゃった。或いは裁断しても、したら必ず不正確だ、必ず間違うって言いましょうか、裁断しているやつは必ず間違うという、そういう形にどうしても成って来ちゃったんだと言うことが、つまりここ10数年来多分日本の──何て言いますか──社会って言うものが置かれて来た場所、つまり置かれてそういう形に成って行っちゃった場所の、謂わば根本的なところじゃないかっていうふうに思えるんです。だからその場所、ここに行けばこの場所に精神を移動させれば、或いは思考力を移動させれば、自分はここに──具体的には役割の場所にいるんだけれど、本来的な場所というものは別の所にあって、そこに謂わば精神を移行させることが出来るならば、そこから本来的な裁断と言うものはかなり正確に出来るんだ、その場所を探していくという課題をどうしてもそれぞれの人が必要としているというところに現在追い込まれているんじゃないか。
それだからかっこうがいいということと結び付けて申し上げますと、かっこうがいいか悪いか、或いはこの作品はかっこうがいいと言うふうな言葉で言っている、かっこうのよさとは、一体何なのかと言うと、少なくともふたつ条件があると思います。つまりひとつは消極的な条件で、消極的な条件としては自分が役割としている場所、つまり生活人は生活として、サラリーマンはサラリーマンとして、芸能人は芸能人として、文学者は文学者として役割でいる場所と言うは、かなり危ないぜと言うこと(を)兎に角先ず判る、自覚するって言いましょうか、誰もが自覚すると言うことだと、それが(?)消極的なひとつの条件だと思います。つまり俺のいる場所は間違いないと思っている人は、多分大抵間違っていると思います。そういう人の裁断っていうのは現在皆さんがアレされれば直ぐ判りますけど、大抵間違っていると思います。だから多分自分のいる場所は、どうも怪しくなってきたぜと言うふうに考えることが、先ず消極的なかっこうのよさと言うことに移行する、消極的な条件の様な気がします。もうひとつ積極的な条件というのは要するに何かって言いますと、要するに本来的な場所はここなんだということを、直感的にか、或いは論理的にか判りませんけれども、或いは感覚的にか判りませんけれども、そこの場所を兎に角自分なりに掴むって言う課題が──課題を自分が果たし得ていたら、多分それはかっこうがいいと言うことの問題になるんじゃないかと思います。だからかっこうがいいと言うことの判断基準、或いは基準というのは、多分積極的なそういう条件と消極的な今言いました条件と、そのふたつの問題を──何て言いますか──ある作品なりある行動なりある人物なりが、そのふたつの条件を兼ね備えていたら、多分その人はかっこうがいいんだというふうに言えると思うんです。そうすると、多分僕、村上さんの今言いました『パン屋再襲撃』とか、村上龍の『ポスツ』なんて言う作品は、その僕はふたつ──その積極的な条件と消極的な条件のふたつ共、備えていると言うふうには僕は思いませんけれども、唯、その内のひとつは、僕は備えている様な気がします。つまり少なくとも消極的な条件というのは備えている気がします。だからそこのところが多分僕が読んでかっこうがいいってふうに言えるんじゃないかって言うふうに、思えた根拠なんじゃないかいうふうに、思われます。しかし積極的な条件まで備えているかどうかって成って来ると、かなりそうじゃない様な気がします。つまりそこではこの人達もかなり自信があって、自信過剰の様な気がします。多分自信過剰のところを元にして、もしかするとそれが命取りに成るかも知れない様な気がします。そこは判らないところです。つまり鋭敏な人達ですから、自分で修正していかれるかも知れないし、そこは判りませんけれど、少なくともかっこうがいいと言うことの条件をふたつ備えているとは、僕は思いません。つまりだけども、その内のひとつは備えているんだと思います。で、多分それを備えて(い)ない作品というのは、かっこうがよくないんだろうなと言うふうに、ないと言えちゃうんだろうなというふうに僕には思われます。で、これは──何て言いますか──批評家としての職分で、と言いますか役割でこういうふうに申し上げましたけれども、僕は自分のいる場所をちっとも──何て言いますか──本来的な、かっこうがいい場所だとは思っていませんし、安定した場所だともちっとも思っていないんです。どっかに、どっかにあるんだ、どっかにこの場所、この場所へ自分が少なくとも身柄を移すか、或いは精神を移すことが出来れば、多分この今の社会現象・政治現象・文化現象、それから芸術現象と言う様なことが、上手く掴める所が必ずあるんだ、そこをやっぱりどうしても探さないと、それからもうひとつ自分がいる場所って言うのをあんまり絶対化すると言うことはどうしても駄目なんだと言う、そういう意味合いの課題って言うのは僕自身がもう負っている訳で、だから僕自身が負っている課題を唯、皆さんに申し上げた訳で、俺は出来てるってふうにちっとも思っていませんから、その点は誤解の無い様に願いたく思います。あのー、簡単なんですけど、かなり問題の所在と言いますか、疑問の所在と言いますか、それは多分、多分最小限伝えられたんじゃないかっていうふうに僕は思いますから、一応これで終わらせて戴きます【拍手なりやまず】。
テキスト化協力:石川光男さま