ただいまご紹介にあずかりました吉本です。今日は労組の人の主催だということで、義理を立てるわけではないんですが、労組にふさわしいイメージのところから入っていきたいと思います。そういうふうに入っても、結局は同じことになるんじゃないかと思いますが、やはり一応気を使ってと言いましょうか。(笑)それなりに主催者の都合もあるでしょうから、そこから入っていきたいと思います。
たとえば労働者という言葉を使いますと、皆さん方は大抵労働者であられるか、そうでなければこれから労働者になるという学生さんだと思います。中には経営者とか資本家という方もおられるかもしれませんが、それも別にどうということはありませんし、僕もそういう言い方をすれば一種の物書きだから、二十四時間フル回転して残業しながら食べている文筆労働者ということになるかと思います。
ところで、労働者というイメージをどうこしらえていくか、あるいは、どういうふうに労働者というイメージを持ったら一番ふさわしいのか、一番いいのかという問題から入っていきたいと思います。労働者であられる皆さんはもちろんでしょうけれども、労働者という言葉でイメージされるものを典型的に思い浮かべてみますと、一日八時間びっちり労働時間があって、一番ふさわしいのは汚れた作業服を着て、八時間作業をして、だんだん労働者の自覚を持つようにならなければいけなくて、それでは労働者としての自覚は何かというと階級の意識であるということになります。
階級意識を持つ労働者になると天国へ連れていってくれる労働者の政党がありまして、その政党の後をついて行けば、天国か楽園か知りませんが、そういうところに行けるというふうに考えて、一生懸命そういう自覚を持つというイメージが、大ざっぱに言えば労働者の古いかたちのイメージであるわけです。
労働者であるとか、労働者になるというイメージをどうつくっていったらいいんだろうかと考えてみますと、僕だったら歴史的に由緒ある労働者のイメージのつくり方はしないと思います。僕だったらそれと九十度だけ違うような、つまり横に広がってしまうようなイメージで、労働者というイメージをつくるだろうと思います。
具体的に言うと、皆さんが労働者であるとか労働者になるというのはどういうことかと考えた場合に、僕だったら勤務時間八時間仕事をして、それが終わったらすぐにうちへ帰って、くたびれたからビールの一杯も飲んで寝ちゃうか、そうでなければ洋服を着替えて盛り場へ遊びに行くか、あるいは娯楽街へ遊びに行くか、食べに行くでも飲みに行くでも何でもいいんですけど、仕事が終わったら、それまで八時間労働したのとはまるで違うかたちを取ります。
つまり飲みに行くとか、食べに行くとか、あるいは家族連れでどこかに遊びに行くというかたちを取って、働いている場所で八時間働いて、それから後に服を着替えるのか着替えないのか、同じ服でどこかに遊びに行ってしまうとか、あるいは改まった服に着替えてどこか娯楽街に行くとか、そういうことについての自分のイメージを明瞭に持てる。そういうことが、きっと「労働者である」あるいは「労働者になる」というイメージにとって一番大切なことではないかと思います。
そのとき八時間終わったら作業服から背広に着替えるのか、ほかの服に着替えるのか、あるいは着替えないでそのままどこかに行くのか、着替えないでうちへ帰って、くたびれたから寝てしまうのか。一体どの時間で自分の労働者というイメージをつくってもらうのが、自分にとって一番いいと思っているのか。
つまり八時間働いている職場の場所で自分のことを考えてもらうのがいいと思っているのか。そうじゃなくて、そこは食べるための手段の場所であって、それが終わった後で服を着替えて娯楽街へ出かけていくときの自分のイメージで労働者と呼んでもらいたいのか。そういうことについて非常にはっきりしたイメージを持てるかどうか、あるいは持つかどうかというのが、ものすごく重要なことではないかと思います。
つまり歴史的にある労働者のイメージ、歴史的に考えられてきた階級のイメージを持つように自覚を持つということよりも、自分が八時間労働して、働いているときにはどういう格好をして、どういう顔をしているのか、どう思っているのかということと、働き終わって服を着替えて遊びに行くときに、自分はどういう顔をして、どういう格好をして、どう思っているのかということについて、自分たち一人ひとりが明瞭なイメージを持っているということです。
あるいは一日のうちにイメージを変えるならば、その変えるイメージを自分ではっきり持つこと、あるいは持てるということが、たぶん労働者としてのイメージを自分でつくるとか、労働者になるとはどういうことかということの一番肝要な部分じゃないかと僕には思われます。
労働者をそういうふうに考えていきますと、労働者にまつわる事柄で、いくつかのイメージの分け方ができるわけです。それはどういう分け方かというと、仮に僕が名づけてみると、究極のイメージに近づいていると考えられる事柄と、究極のイメージに近づいているわけではないけれども究極のイメージはつくることができるという場面と、もう一つは究極のイメージがどうしてもつくれない場面の三つに分けて考えると、現在の状態というか、状況というか、そういうことが非常にわかりやすくなるんじゃないかと考えます。
まず究極のイメージにほとんど近づいているのではないかと思われることから申し上げますと、一つは世論調査みたいなもので言うと中流意識です。労働者のアンケートを全体的に募ると、そのうちの八十九点何パーセント、つまり九○%近くの人たちが「自分は中流意識を持っている」とアンケートに対して答えています。
それはどういうことかといいますと、イメージとして思い浮かべるとすれば、ちょうど市民社会の真ん中のところにイメージの線を点々と置いている人たちが九○%いるということを意味しています。つまり中流意識ですから真ん中のところになりますが、市民社会というイメージを漠然と思い浮かべて、その真ん中のところに一つのイメージの線を引いている人たちが、労働者の中で九○%近くいることがわかります。
その中流意識というのも、分けてみると中流の上だと思っている人がその中に十何パーセント含まれます。中流の中だと思っている人がやはり一番多くて五十何パーセント含まれます。それから中流の下だと思っている人は二○~三○%近くというように分かれますが、いずれにせよ三つとも中流意識には変わりはありませんから、中流意識の線を、ちょうど市民社会の真ん中のところにイメージの線を思い浮かべている人が、だいたい九○%いるということを意味しています。
このイメージはほとんど究極のイメージに近いわけです。つまり市民社会のちょうど真ん中のところの線にいて、生活の水準も、自分が持っている文化の水準も、さまざまな生活条件もだいたい真ん中のところだと思っている人が一○○%生じた場合、それは市民社会としての究極のイメージになります。もちろん一○○%に近づけば近づくほどいいわけですが、自分は全市民社会の真ん中のところにいると思っている人が一○○%を占めているとしたならば、その人たちの動き方、考え方、生活の仕方が社会全体を動かすというのは非常に明瞭なことだと思います。
いま言いましたように、アンケートを取ってみると、現在労働者の八九%の人たちが「自分たちは市民社会の真ん中のところに位置している」と答えています。この答え方から見ると、これはほとんど究極のイメージに近いわけです。これが八十九点何パーセントではなくて一○○%になったときには、ほとんど究極の市民社会のイメージになります。これはとても重要なことだと思います。
どういうことかといいますと、皆さんを労働者と呼んでも、川崎徹さんのように一般大衆と呼んでも、市民と呼んでも同じだということを意味します。このことはとても重要で、社会のイメージとして見れば、あるいは民衆の生活のあり方とか社会の中における存在の仕方から考えていくと、ほとんど究極のイメージに近いところに突入しているということを意味していると僕は思います。
皆さんが自分は労働者であると思っておられようと、そうではなかろうと、これはとても重要なことだから考えの中に入れておいたほうがよろしいと思います。つまり、このことをよく考えの中に入れていないと、あらゆるものの見方がずいぶん狂ってしまうことがあります。だから、これは心に入れておいたほうがいいと思います。
いまの中流意識の問題で言えば、労働者のイメージはだいたい究極のイメージに近づいている。あるいは究極のイメージにほとんど近いところに行っているということを意味します。これは重要なことですから、十分に考えに入れたほうがいいと僕は思いますし、いろいろなことの判断の前提になると思います。
次に究極のイメージには程遠いけれども、究極のイメージを思い描くことができるといういくつかの事柄があります。しかも、それは労働者ということに関連したイメージです。究極のイメージを思い描くことができるいくつかの条件があります。その一つを挙げてみましょうか。たとえば失業ということです。
大ざっぱなデータを言いますと、現在、百五十~百六十万人の人たちが完全失業者としてこの社会に存在しています。これは労働者の中の二・六~二・七%に該当します。これらの人たちが存在する限り、失業ということについては究極のイメージがないわけです。
究極のイメージとは何かというと失業者がゼロになることです。これが究極の社会あるいは産業のイメージになります。明らかに二・三%近くの完全失業者がいて、人数として言えば大ざっぱな数字で百五十~六十万人の失業者がいますから、これがゼロに近づくにはどうしたらいいかということは、究極のイメージをつくる場合にとても重要なことだと思われます。
だから、これは究極のイメージをつくることができます。失業者がゼロになることが労働者にとっての究極のイメージです。現在は二点何パーセントかおりますから、失業に関する限り、まだ究極のイメージには近づいていない。でも思い描くことはできるということを意味します。
もういくつか挙げてみましょうか。たとえば倒産ということがあります。中小企業が倒れるとか、円高不況で企業が倒れるとか、全体で言うと月間で千五百~千六百件という倒産の事実があります。こういう倒産企業が存在するということは、やはり究極のイメージには程遠いわけです。
究極のイメージはどういうふうに描けるかというと、倒産する企業はゼロで、したがって働いている人が失業することはゼロだということですから、月間千五百~千六百件という倒産の件数がゼロになることが究極のイメージです。
現在はこの究極のイメージにはまだ程遠いと言えると思います。しかし究極のイメージを思い浮かべることはできます。この究極のイメージ、つまり倒産企業がゼロになり、失業する者がゼロになるには一体どうしたらいいか、どういうイメージを描いたらいいか、どういう経路を描いたらいいかということは、たぶん現在も決して解決されていない大きな課題の一つだと思われます。
もういくつか挙げてみましょうか。究極のイメージを思い浮かべられる要素が、あといくつかあります。一つは現在の高度情報化社会化、社会革命というか、そういうものが目に見えないところ、あるいは目に見えるところで進行していると考えますと、日本の社会は徐々にそういうものに変わっていく中に、あるいは急激な変わり方の渦中にあるわけです。
一番新しいデータで六十年度を取ってくると、この高度情報化社会の中で国民総生産というか、経済成長に対する科学技術と労働者の労働の寄与する度合いが数値的に出ています。これを比べてみると、技術は六○%ぐらい経済成長に寄与しています。これに対して労働が寄与しているのは五%ぐらいです。
年度によって違いますが、たとえば経済社会に対して技術が寄与している度合いを一とすると、労働が寄与する度合いはその十分の一から二十分の一の間になります。これが一番新しいデータで大ざっぱに言ったところの、労働と技術の寄与度の一つの目安になる数字です。
これも究極のイメージを思い浮かべることができます。どういうイメージかというと、オートメーションで全部技術がやってくれればいいわけですから、究極のイメージは労働の寄与度がゼロになることです。こんなことはあり得ませんが、極限を言えばそうです。つまり労働の寄与度がゼロになって、技術の寄与度が九○%とか一○○%になっていくという、技術革新というか高度情報化革新における究極のイメージを思い浮かべることはできます。
ところが現在の段階はそうではなくて、技術の寄与度が五○%か六○%であり、労働の寄与度は五%とか一○%です。皆さんは、この現状もよく考えておいたほうがいいと僕は思います。この寄与度が理想かどうかというのは、また違う条件が入るからなかなか言えませんが、究極のイメージだけははっきり言えます。
現在は究極のイメージにはまだ程遠いけれども、二十年前と比べたら、労働の寄与度が格段に減少していることがわかります。四十年前と比べたら、もっと格段に減少しています。だから労働の寄与度がゼロになる段階が必ずやってくるという究極のイメージを思い浮かべることはできるというのが一つです。
もう一つ重要で、究極のイメージが思い浮かべられることを申し上げてみましょうか。それは労働日ということです。現在のところは、隔週ごとに週休二日であるというのが割に一般的になりつつあるんじゃないかと思います。
ところでこの労働日が三日になって、一週間のうち三日間が休日であり四日間が労働日になったときが究極のイメージだということがわかります。現在のところは、隔週ごとに週休二日だとか、あるいはいいところは毎週週休二日になっていますが、これが週休三日制になったときには究極のイメージの入り口に立ったことになります。
週休三日制になったときに、皆さんが休暇というもの、あるいは余暇、休日と働く日を同等に考えなければならないことは非常にはっきりしています。休みと働く日と同じ重量で、同じ重要さで考えなければならなくなるというのは非常に明瞭なことです。つまり週休三日制になったときが労働日にとっての究極のイメージです。
現在は週休二日制とか、隔週二日制とか、まだ一日制のところもありますが、そういうところから週休三日制に行ったときが、労働日にとっての究極的なイメージを思い浮かべられる段階だと言うことができましょう。
そうすると、どうやったら労働日というものを減らして究極のイメージに近づくことができるのか。そういう経路とか、要請、要求を立てて、どうやったら可能だろうと考える問題が、現在、依然として残されていることがわかります。
週休一日時代と比べたら、現在ははるかに労働日が少なくなっていると言えますが、われわれがもし労働者という名前を自分につけたいならば、週休三日制のところまでこぎつけなければ究極の労働日のイメージを思い浮かべることはできないので、何とかそこまでこぎつけるにはどうしたらいいだろうかと考えなければならない。それが課題として残されているのがわかると思います。
まだたくさん思い浮かべられると思いますが、労働者というイメージから思い浮かべられる究極のイメージの主だったこと、大ざっぱないくつかの項目を挙げてみました。
ところが最後に、究極のイメージをどうしても思い浮かべることができない、つくることができないという問題もあります。何かというと、たとえば皆さんの給料です。ちゃんとした言葉遣いをすれば労働者所得ということになりますが、要するに月給のことで、データで取ってくると、現在のところ平均三十五~三十六万というのが平均の労働者所得です。
しかし、これがいくらになったらいいのかということについては限界はないわけです。多ければ多いほどいいと言えますが、これだけあったらいいという限界をつくることは、まずできません。ですから給料については少しも究極のイメージを思い浮かべることができないし、つくることができないということがわかります。つまり、この種の問題は別の意味でとても重要な気がします。
こういう問題はいくつか挙げることができます。たとえば同じようなことですが、貯蓄ということがあります。皆さんも貯蓄がおありだろうと思いますが、現在の平均は五百六十~五百七十万です。つまり六百万近くで、これが平均の貯蓄額です。皆さんは「えっ?」と言われるかもしれませんが、データがそうなっていますから、たぶんそうです。
「労働者はこの額が一番多いよ」という額は六十年度で百六十万ぐらいです。だから皆さんも大抵そのぐらいじゃないでしょうか。多い人は多いでしょうが、百六十万ぐらいの貯蓄額を持っている人が一番多いということがあります。でも平均はいま言ったように五百六十万か五百七十万で、皆さんがそれだけの貯蓄を持っています。
先ほどと同じで、これの究極のイメージを思い浮かべることはできないわけです。つまり貯蓄額は多ければ多いほどいいと言うことはできるでしょうけれども、いくらあったらいいとか、いくら以上になったら労働者じゃなくて資本家だという定義はだれもできません。ですから、これも究極のイメージを思い浮かべることができないで、ただ多ければ多いほどいいじゃないかということが言えるわけです。
もう一つぐらい挙げてみましょうか。それは何かといいますと、たとえば消費です。むなしく使う場合も有意義に使う場合もありますが、どれだけ使えるかという問題になります。これも、これだけ使えば俺はたくさんだという限界はたぶんないのであって、あればいくらでも使うことができるし、もうこれでたくさんだという消費の限界はないわけです。
皆さんは意外と思われるかもしれませんが、現在の所帯で何が一番消費されているかというと車です。保険とか、維持費とか、修理費とか、そういうものを含めて自動車に使う費用が一番多いというデータがあります。皆さんは自動車をお持ちの人も、お持ちでない人も、個人で持っていなくても親父が持っているという人もおられるでしょうが、いずれにせよそれはおびただしいものであって、現在の労働者の消費、支出の中で一番多いのは自動車に関する支出だということがわかります。
その次に教養・娯楽、それから子どもの教育が位します。意外に少ないのが医療費とか食費で、あるいは家庭用品みたいなものの使われ方も割合に少ないことがわかります。多い、少ないというのはありますし、どれが増えていくかという問題も変わっていくと思いますが、いずれにせよ消費についての究極的なイメージは思い浮かべることができません。どれだけ使えばきりがいいということはあり得ないので、使おうとすればいくらでも使えるわけです。
だから貯蓄はいくらでもあったほうがいいということになりますし、給料はいくらでも増えたほうがいいということになります。これらのことは究極のイメージを思い浮かべることができないものに属します。
いま申し上げたように、すでに究極のイメージに近づいている項目と、究極のイメージを思い浮かべることはできるけれども、まだそこにはほど遠いというか、近づいていない問題と、どう考えても究極のイメージを思い浮かべることはできない問題と、分類すればその三つがあることがわかります。ですから、この三つをよく考えることが大切です。全体を見回す場合、これがとても重要なことのように僕には思われます。
たとえば具体的で、皆さんに割合身近で、これに近いことで、すぐに思い浮かべることができるものを挙げてみると時計があるでしょう。時計は時を計るとか、時を知るという機能あるいは目的のためにありますが、僕はもう究極時計というものができてしまっていると思います。
皆さんは千円か千五百円出せば、ひと月に何十秒の狂いしかないデジタルの時計をたやすく手に入れることができます。機能として見るならば、つまり時を計るという意味で言うならば、これ以上のものは要らないわけです。これ以上のことをしないならば、あとは装飾をどうするとか、宝石をちりばめるとか、結局そういうことしかなくて、時を計るという機能に対して言えば、ほぼ究極時計というものがつくられてしまっていると言うことができると思います。
これに類似しているのはカメラだと思います。たとえばミノルタα7000とか9000はほぼ究極カメラに近くて何も要らないわけです。極端なことを言うと撮る人に技術は要らないのであるし、あるいは撮る人が要らないと言ってもいいぐらいです。完全にそうではないですが究極カメラと言っていいぐらい、それに近いと思います。
皆さんがいろいろなところに目を向けてみると、この種のことをいくつか見つけることができます。そういう究極のイメージを描くことができる商品とかモノ、分野をいくつか探り出すことができるということです。
たとえば医学とか医療について申し上げると、天然にかかる体の病気に対して、これを医学的に治療したために、あるいは薬を飲んだために新たにつくられた人工的な病気があります。薬を飲んだから副作用で病気になったとか、医者にかかったから副作用で病気になったという、副作用でかかる人工的な病気が天然にかかる病気とほぼ同じパーセントになったときが医療の究極のイメージです。
このときには、仕方がないから医療のやり方をまるで変えなければいけないということになると思います。治療したために生ずる病気が天然にかかる病気と同じパーセントになってしまったとしたら、その医療は変える以外にないからです。だから、これが現在の医療から描ける究極のイメージです。
いくつかの兆候をよく考えてみると、これはほとんど究極に近いんじゃないかというような商品とか分野とか発達度というものがポツポツと存在することがわかります。これはとても重要なことだと僕には思われます。だから、もしそういうことを考える機会がありましたら、このことは究極まで行っているのかなとか、こうやったら究極になるんじゃないかということを、ぜひ考えてご覧になるとよろしいと思います。
つまり究極のイメージが実現しつつあるとか、しそうになっている分野やモノがボツボツと普通の人の目に見えるようになってきているということが、現在のとても大きな兆候です。このことはとても大切に思われますから、ときどきお考えになってくださると、何が究極であり、何が究極でないのかということがとてもよくわかるんじゃないかと思います。
ところでカメラや時計のモノとしての究極のイメージの問題が出てきましたので、今度はその問題を広げて、われわれが描きうる究極のイメージは現在のところどういうものだろうかという話に普遍化してみたいと思います。
たとえば究極のイメージを究極の映像と言い直してみます。そうすると究極のイメージの範囲を広く取ることができると思います。現在考えられる究極の映像のイメージはどういうものかと考えると、僕はすぐに二つ挙げられると思います。それは何かというと、一つはつくばの科学万博の富士通館で見た映像です。
行かれた方はご存じかと思いますが、天井から全天周がスクリーンになっていて、そこの中で観客というか、見るほうの側の椅子が割合にうまい高さであって、暗くして、しかも色差式の眼鏡をかけて出てくる映像を見ると、その映像が立体映像として身辺に縦横に飛び出してきます。しかも、どこを見回しても現実の空間がありませんから、空間の裂け目がなくて、あたかも自分が四次元的な場所にいて立体映像が自分の周りを取り巻いて飛び交っているような映像になります。
現在考えられる限り、これ以上高次な映像はつくることができないし、存在しないわけです。ですから極端なことを言いますと、つくばの富士通館で実現した映像は現在考えられる限りの究極映像だと言えると思います。
もう一つ究極映像が存在します。これは僕は体験したことがないんですが、体験したと言う人はたくさんいます。それはどういう人かというと、病気とか事故で意識不明になって、死にそうになって、治って生き返った人です。そういう人たちが言うことの中に必ず含まれている重要な場面があります。
とにかく意識がなくなったら、その途端に自分は天井のほうに持ち上がっていた。そして意識を失って寝ている自分が天井から見えた。その周りをお医者さんとか看護婦さんがうろうろして処置をしていた。そういうのが上のほうから見えて、後で意識が回復してから、それをそのときの看護婦さんに言ったら「そんなこと、どうしてわかるの? あなたは死にかけていたのに、どうしてそんなことがわかるの?」と言われたという、その種の体験は瀕死の人の体験の中にはしばしば現れます。
それからもう一つは、もちろん宗教家のイメージの中に現れます。特にそういう状態を修練によってつくりだすというのが東洋の宗教の非常に大きな眼目です。禅のお坊さんとか密教のお坊さんは、しばしば修練でそういうものをつくれるようになっていますから、そういう人たちはつくっていると思います。それから死にそこなった人たちも、そういう体験をしています。
これも究極映像だと思います。つまり寝ていて死にかかっている自分、ベッドに横たわっている自分が自分の目で見えたということですから、このときに何をしているかというと、上で見ている自分と死にかかった自分と二つが同時にあるわけです。少なくともその同時性がなければこのイメージはつくれないから、これは割合高度なイメージだということがわかります。
この高度なイメージは、科学的に言えば富士通館でつくったみたいにすればつくれます。これは同じ次元に属すると思います。もし悪口を言うと一方はやや神秘的ですし、一方は科学的ですが、この二つのイメージのつくり方、あるいはつくられたイメージは、現在考えられる限りは究極の映像だということがわかります。
ところでこの究極の映像を、瀕死の状態だとか宗教家の体験、修練、あるいは富士通館の高度な科学技術でつくりだした映像ではなくて、一般に僕らがつくれる映像に分解してみたらどうなるかと考えると、すぐにこういうことがわかります。
この種の究極映像をよくよく分解してみると、二つに分解できます。一つは自分の目の高さで、地面に対して水平に送っている視線が見ている映像です。もう一つは地面に対して垂直に、天空から鳥の目のようにして見ている映像です。その二つを同時に行使したときの映像が、いま言った究極映像だと言うことができます。
ですから地面に水平な視線と地面に対して垂直な視線、しかも理想的に言えば無限の遠い上空から見ている視線が同時に行使されたことを、想像力を働かせて自分の中で想像できれば、この種の究極映像をつくれるか、こういう体験なんだなと追体験することができるはずです。
究極映像と言えるものは、われわれが普通の視線でつくっている視覚像と、天空から垂直に下りてくる視線を同時に行使していると考えたときの映像だということがわかります。「これはとても重要だ」というのは僕が言っているだけで、皆さんはそう思われないかもしれないし、多くの人はそう思わないかもしれないけど、僕はとても重要だと考えています。
この究極映像というもののあり方から、現在の究極映像はどうなるかという問題にアプローチして接近していく方法を獲得するためには、地面に平行な視線と、天空から垂直に下りてくる視線と、その二つを同時に行使した視線が必要で、それが究極映像をつくる視線あるいは考え方だと言えると思います。
そうすると、どこに究極性があるのかと言えば、垂直に下りてくる視線のところに究極性の問題が存在します。普通われわれはヒューマニズムと言っていますが、人間は人間を大切にしなければいけないとか、人間と人間は仲良くしなければいけないとか、人間は人間を助けなければいけないという思想あるいは理念があるでしょう。
これは何かというと、地面に水平な人間の座高視線、あるいは立っているときの視線、寝ているときの視線の高さで自分以外の人間をとらえたときに生まれる思想がヒューマニズムの思想です。
だけど垂直に下りてくる視線のイメージをもっと遠くした、遠い天空からの視線を同時に行使すると、ヒューマニズムというのは消えてしまうことがわかります。要するに非常に遠い天空から見ると、人間は海岸べりの平地のところになぜか密集して住んでいたり、あるいは山に囲まれた盆地の平らなところに密集して住んでいる不可思議なる動物としか見えないことがわかります。
垂直に下りてくる高い天空を考えると、ヒューマニズムの思想は成り立たないことがわかります。そういうことを意識させる視線として、この垂直視線は非常に重要です。だから「現在のところ垂直視線と、目の高さで地面に水平な視線を同時に行使する視線が高次映像、究極映像のつくり方だ」ということの中には非常に重要な問題が含まれています。
たとえばしばしば皆さんが体験するように、人は人を愛さなければいけないとか、人は人を助けなければいけないという思想は、それがうそとして表れることがあるでしょう。つまり欺瞞じゃないかとか、修身とか道徳の教科書と同じで、言ってみるだけでちっともやっていないじゃないかとか、言っている奴が一番悪いことをしているということがしばしばあり得ます。
なぜかというと、われわれは目の高さ以上のところから下に下りてくる垂直視線を考えることができるからです。言い換えれば究極視線を考えることができます。それができると十八世紀あるいは十九世紀に生まれたヒューマニズムが絶対だという考え方を相対化することができます。
つまりヒューマニズムを全体として客観的に投げ出して、それを人間が眺めてみると、どこに何があるのか、どこにどういう欠陥があるのか、どこにいいところがあって、どこに悪いところがあるのかをあらためて見ることができます。
ところが地面に水平で目の高さの視線だけで人間が人間のイメージをつくっていると、そんなゆとりはなくて、その視線で悪として見えたものは悪であって、善として見えたら善で、あるいは悪を言ったら悪で、善を言ったら善だとなってしまうわけです。
そうではないことは、皆さんも日常体験の中でよくご存じです。善みたいなことを言っている奴が全然だめだったとか、大虐殺をしていたとか、いろいろなことがたくさんあります。その当てにならないという考え方がどこで得られるかといったら、それは天空から垂直に下りてくる視線を自分が同時に思い浮かべることができるという成り立ちのところです。それが、たとえばヒューマニズムの思想はなぜしばしば間違いを犯すのか、こういう場合はいいけれどこういう場合は悪いのか、ヒューマニストがなぜアンチヒューマニストになるのかという問題に対して一つの視線を与えます。
このことはとても重要です。たとえば究極カメラとか究極時計という商品についての究極イメージでも同じことです。時を計ることが必要である人間が、もう一つ違う客観的な視線で時を計る必要性を見ることができる。それを獲得したから究極時計ができたと言えます。
これはカメラの場合も同じです。究極カメラは人が要らないと言いますが、いまの言い方をすると、カメラを撮っている人を、もう一人同じ人がそばから見ている。あるいは垂直の上空から見ていると考えて、それが可能になっているということが究極カメラのイメージとしての条件です。
このことは一般的に広げて言うことができます。つまり、われわれは人間の視線の高さで見る人間とか他人、あるいは社会というものに対して、もう一つ垂直から下りてくる視線から見たらこれは一体どういうことになっているんだという見方を同時に行使するということが、社会についても、政治形態についても、具体的な商品についても、あるいは個々の分野についても、いわば究極のイメージというものをつくる場合の視線としてとても重要だということがわかります。また、その重要さを普遍的に考えることができるということもわかります。
先ほどご紹介にありました僕のハイ・イメージ論は、そういう基本的な考え方の下でさまざまな分野の問題を取り上げてやっていますが、その中で一つだけ、人工都市ということについて申し上げてみたいと思います。
皆さんも歴史を学べばおわかりになるように、都市、都会がどうしてできたかと考えると単純なことです。都市がなくて農村だけが存在していたとか、狩猟や遊牧だけがあったという時代、つまり古い時代を想定すると、たとえばその時代に農業をやっている人は自分が着る着物は自分ではたを織ってつくってしまうし、農業で使う道具も自分でつくって使っていたわけです。
しかし道具というものがだんだん発達して工業になってくると、今度は道具をつくる専門の人と、農業をやる専門の人が分かれて別々の人でなければならなくなってきます。これは遊牧民でも同じで、家畜を追うのを商売にしている人と、家畜を追うための靴とか衣服をつくる人がだんだん別の人になって分業ができてきます。
そうすると道具をつくる人は、それをするのに便利なところで一カ所に集まって、有無相通じてやったら便利にやれるからということでまちをつくる。それが発達して都市ができて、うんと発達すると都市と農村が対立的な関係になってしまう。農村は都市に対して貧窮化してきて、都市の中では農村から都市に労働者として働きに来た人たちが、十九世紀で言えば公害病として結核にかかって病気になってしまうとか、八時間労働が建前のくせに十二時間も働かされてしまったということが起こって、階級の対立が起こって、都市がますます肥えていく。いま言ったように、初めは分業が基になって都市ができて、都市と農村が別になってきたというのが歴史的に見た都市の成り立ち方です。
ところでいま言いましたように、都市についても、農村についても、あるいは産業についても、ある分野は究極のイメージをつくることができるようになったということがあるわけです。そうするとどういうことが言えるかというと、農村から分離してきた人たちによってつくられてきた都市は、いわば人間の歴史が必然的にというか、自然的につくったものですが、都市や人間の社会についての究極イメージを、ある分野ごとに少しずつ思い浮かべることができるようになると、都市というのはこういうふうにつくればいいんじゃないかという、人工の都市をつくるという着想が可能になってきます。
人工的につくられた都市、あるいはつくられるべき都市は、歴史的につくられた都市とは成り立ちが違います。いわば究極イメージのほうから、逆に人工的な都市はこうつくったほうがいいとか、こうやったら理想的じゃないかという設計をして、それをある場所で実現していくということです。少なくとも着想として、それができるようになったということが「人工」の意味になります。
歴史的につくられた都市は分業の必然というか、自然の発展の度合いでできてしまったものですが、そうではなくて究極にしつらえられたイメージを基にして人工的な都市をつくったら、究極の都市のイメージがつくれるんじゃないか。そうすると、それに基づいて理想のイメージにかなう都市がつくれるんじゃないかという発想ができると思います。少なくとも発想としては、あるいは設計、計画としてはできるようになったと言えると思います。
日本でも、いくつか実現されている人工都市があると思います。たとえば関西のほうで言えばつかしんみたいな都市がそうでしょうし、江坂もある程度は自然的ですが、ある程度は人工的にできてしまった都市だと思います。あれは人工的な問題を加味しながら発展しつつある都市だと思いますが、そういういくつかの都市があります。
しかし、これは究極イメージにはまだ程遠いと思います。なぜかというと、皆さんを労働者というイメージに塗りこめることにしますが、たとえば総評なら総評という労働者の団体が理想の人工都市をつくろうと計画して設計したとします。これを実現しようとして金はどうかというと、僕はもう遠のいて何十年も経つからわかりませんが、「労働金庫には金が有り余っているんだ。それじゃ、やろうじゃないか」という場合、もし総評が労働者優先だ、あるいは総評加盟何とか優先だというふうにこの都市をつくったら、これは反体制ですから、すぐにぶっ潰されてしまいます。つまり政治的あるいは法律的な面から潰されます。
もし総評がそれをやるとしたら、結構なことだから金があるならやればいいけれども、その場合には労働者優先だとか総評は反体制だとかそんなことは言わないで、普遍的な場所で、労働運動とか組合ということを離脱して、つまり縦に抜けて資本家のほうに行くという意味ではなくて横に抜けて脱労働ということをやって、「だれでもここへ住んでいいよ。だれにでも提供しますよ」というかたちでそれをやるだけの見識があるならば、僕はやればいいと思います。
もし西武さんのように一企業がやるんだったら、西武が「自分の金でやるけれども、だれがどうされても結構ですよ。西武という企業体の利益になるかならないかとは別の問題で、だれがどう利用してもいいですよ」というふうにそれをつくったとしたら、それは割合に究極のイメージに近い人工都市がつくれると思います。
つまりだれがやってもいいし、地方自治体がやってもいいんだけど、地方の自治体とか市町村がそれをつくるというんだったら、「これは俺たちがやったものだから俺たちの住民が優先だ」とか「市役所に勤めている奴が優先だ」なんて絶対言わないで地方自治体が地方自治体から離脱するといいましょうか。そういう形式があるならば、僕は人工的な都市はつくれるというイメージ的な前提はすでにできている、できつつあると思っています。
つまり先ほどから申し上げている究極のイメージがつくれる分野が、いろいろな分野にできつつあるということが問題で、それがあるために計画のイメージ都市ならばつくれるということです。
何が足りないかというと離脱で、それだけの見識が足りないということです。皆さんが自分を労働者と考えようと、市民と考えようと、一般大衆と考えようと何でも結構ですし、どう考えようと、どう呼ばれようと結構ですけれども、「市民と呼ぼうと労働者と呼ぼうと一般大衆と呼ぼうと全部同じだよ」というところに変わりつつあると僕は思っています。
そういう究極イメージに近いところに変わりつつあると思っていますから、反体制だとか党派だとか言わないで、自分たちは現代の社会の半分を占めている主人公だという見識のところで何か考えられるならば、それは大変いいことだと思います。
つまり、そういうふうにして人工の都市というのは可能ですし、究極のイメージをつくることも可能です。少なくとも計画のイメージだけは、そういうイメージが可能な状態になりつつあると僕は思っています。
ただ足りないのは依然として離脱です。つまりこういうことです。労働者を離脱して資本家になる、資本家を体験する場面、資本家の場所に移るという人はいるでしょう。逆に資本家の地位で、「おれは良心的な資本家だ」と称して反体制運動にお金を出してくれる資本家もいるでしょう。しかしそんなものはだめであって、要するに労働を横に離脱しながらなお労働者であるとか、あるいは資本を横に離脱しながらなお資本家であるというほうが重要なことです。
つまり、そのことが重要です。資本家のわずかの良心で労働者のために寄付をしたとか、選挙に金を出してくれたとか、そういうのはあまり要らないんです。そういう人が昔からたくさんいて、そういうものが要るものだと思って図に乗っちゃう奴もいるけど(笑)、そうじゃなくて脱資本という理念を持ちながら資本家でありうる人、脱労働という理念を持ちながらなお労働者でありうるということの重要さが、そろそろその兆候が見えつつあると僕自身は考えています。
こういう場面だけ変容を考える。つまり一番てっぺんだけ考えているみたいで、本当はそこまで行っていないことがたくさんあるじゃないかとか、まだそうじゃないことがたくさんあるんだぜとか、中小企業なんてひどいところがたくさんあるよとか、そんなことは俺だって知っているよと。(笑)
要するに現代の究極イメージというものを描ける場面、場所に立つならば、そろそろそういう問題の究極のイメージが見えつつありますし、兆候が見えつつあるところに僕たちの社会がだんだん入ってきているということが起こっていると思います。
僕はそのことは、とても重要なことのように思います。たとえばどんな陰惨な職場におられようと、陰惨な場所にいようと、どこかおなかの底のほうにそういうことをちゃんと置いているのと置いていないのとでは、まるで違うと僕は思うわけです。
そういう兆候がそろそろ見えつつありますし、そういうことが少なくとも計画のイメージでは、どんな立場でも、どんな場所からも可能になりつつある。それをできるか、できないか、あるいはそれに近づこうとするか、しないか、どうやったら近づけるのかという問題は模索に値することです。
そういうことはまだたくさん控えていますが、「やや究極のイメージを描ける場所に、さまざまな分野が出てきている」ということが現在ありますから、そこからはそういうイメージが見られるということが言えると思います。
今日は労働組合の主催だというから、ことさら嫌なことを言ってやれという気も少しありまして(笑)、そういうことを言っているわけですが、僕が言っていることはそんなに誇張ではありません。ある幅はありますが、「その一番上の場面まで顔を出してみると、相当よくいろいろなことが見えてきているということがあるんですよ」ということを申し上げます。
それが何らかの意味で皆さんのお役に立てば、僕の話はそれでよろしいんじゃないかと思っております。あまり冴えないお話でしたけれども、一応これで終わらせていただきます。(拍手)
(質問者)
先生は究極のことを求めていたんですけど。私にとっては究極というのは、時計をとれば最高のもの、カメラをとれば最高のものを求めることだって言ったんですけど。究極のものというのは、最高のものというか、頂点に立ってしまったというか、そういうものを求めないといけないというふうになってしまうと、私的には画一化というか、ひとつのものに決められてしまうので、究極を求めるのがいいことなのか、悪いことなのか、私にはよくわからないですけど。
(吉本さん)
とてもよくわかりやすいご質問で、こう言いますともっとわかりやすいです。もしも究極の世になったら、どのようになるか、みんな同じ時計の情報をつかむだろうし、同じ高さでものを考え、そして、究極の世界は味気ない。画一化されて、人間性がつかみにくいというふうに言われて、書かれたりなんかして、究極の社会のイメージというのはこれとまったく逆なイメージだと思います。つまり、一人一人が違った好みと違ったものを持ち、違ったことをしても、誰もがそれを冒さないといいますか、文句を言わないというのが究極のイメージだというふうに僕には思います。ぼくが言っているのはそういうイメージになります。
なぜかといいますと、いまは比較的究極でないですから、機能としては同じであっても、たとえば、A社の製品は2000株、B社の製品は5000株というふうに、それをみんな、腕時計なら腕時計にするとすれば、5000人なら5000人は少なくとも同じ製品をかぶっていくってなるのが、いまの状態ですけど。
究極の社会のイメージというのはそうではないので、自分が自分にあっているとか、好みであるというような時計をそれぞれがぜんぶ違うように、じぶんがとって選んで、誰からも、企業からも文句を言われないし、他の人からも文句を言われない。それで、高度な時計なんかやらせて、じぶんは狂っても何でもいいから古いのがいいという人は、古いものをつけていても誰も文句をいうひとはいないというのが究極なイメージになりますから、おっしゃることとは反対になるんじゃないでしょうかというのが僕の考え方です。それでよろしいでしょうか。
(質問者)
究極の世というのは訪れますか。近いうちに訪れるのか、私たちが死んでからなのか。
(吉本さん)
ぼくもあなたも死んでからでしょうかね。つまり、おっしゃることは、究極、究極ってあんまり言い過ぎたのかなと。究極のむこうに何があるのかというふうなことがおっしゃりたいんじゃないかという気がするのだけど、そんなことはないのです。
究極というのと、究極を見ているいま現在の自分というものの視線とは関係があるわけで、つまり、現在の社会の状態の中での視線が見ている究極というのは、現在の社会の発達の度合いとか、そういうものと関係があるわけです。
ですから、究極の向こうにまた究極があります。それから、理想のむこうにはまた理想がありますし、だから、そういう意味合いでは、究極のむこうに行ったら、崖みたいに落っこっちゃったという、そういうイメージはつくらなくてもいいし、成り立たないと僕は思いますけど。だから、ぼくも決して究極というのはそこにいったら落っこっちゃったという、ブラックホールというふうに、そういうイメージで究極というのではなくて、いまぼくらが社会の現代の状態のなかで立っていて、そこで見たり考えたりして考えられる究極というイメージを言っているわけでして、それからまた、社会が発達したり、社会が変わったりしたら、また究極線というのは変わっていると思います。変わっていくわけです。だから、いつでも究極というのはいまの自分がどうしたりとか、いまの自分の視線とか、イメージの状態というものと、関連していえる究極だというふうに、ぼくはそう思いますけど。
(司会)
それでは次の方に移らさせていただきます。質問要旨を私のほうで読んでから再度お話していただくようにしたいと思います。次はアダチさん学生さんです。話の筋とは違うかもしれないけれど、ぼくは幸福とは個人のしっかりした自立から始まると思う。究極のイメージに向かうことで、いままでの閉鎖的な精神から抜け出るということは、人間の自立と関連するとも、日本の文化はこの閉鎖性を持っていたら、日本の社会的自立と日本の社会は自立と解放に向かうことができるのでしょうか。ということです。アダチさん加えて説明いただければ。
(吉本さん)
すごくむずかしいです。非常にむずかしいことで、ちょっと僕なんかが答えられる限度を超えているような気はしますけど。どういうものかということについて、あなたの質問にとても答えられないのですけど。どういうのが幸福なんだということについて、ぼくが現在いちばん気になっていることは何かというと、幸福とは何かって、あるいは、幸福ってことでもいいですけど、それはいつでもなんとなく科学技術といいますか、つまり、幸福は何だということを全然問わないもの、問わない分野のもの、つまり、科学技術みたいなものの発達というものをいつでも少し後から幸福とは何かとか、どういうものが幸福なんだとかっていう問いというのは、いつでも後にくっついていくということがものすごく気になっていることなんです。
幸福とは何かということに対して、たとえば、宗教家のように心の状態をこういうふうに保てば、幸福になれるということを一時的に言い切れる人もおられるわけですし、また、革命家のようにかくしてこうやって理想の社会をつくれば、みんな幸福になる。こういうふうに、言い切れる人もいるわけです。
しかし、ぼくは全然言い切れないし、そういう意味合いではぜんぜん応える能力を持たないので、もし能力があったら僕もやっぱり宗教家になったりとか、革命家になったりとか、いろいろなりようがあるわけですけど。答えられないからこうやって(会場笑)。だけども、幸福というのはということについて気にかかっていることはあるわけです。
それから、そういう問い自体はいつでもある、科学技術といいましょうか、つまり、幸福とは何かということを考えないで済むような分野の発達というものの後からくっついてまわるということがとても気になりますから、じゃあ幸福になるためにはどうしたらいいんだとか、その落差といいましょうか、問いが後からくっついていく、つまり、幸福という問いが、人間の幸福とはなんぞやという問いが、科学技術の後からくっついて、その後というのはどのくらい後なんだとか、間にはどれくらいのギャップがあるんだとか、そのギャップの性質というのはどうなんだとかということを僕は考えることが、考えて解けることが幸福になることの大前提なような気が僕はしていますけど。
だから、おっしゃるようなご質問は、ちょっと僕には答えられないし、ご質問された質問の中にすでに質問された人の解決がちゃんと含まれているような気がするんです。自分はしておられるという気が問いの中にそういうことがあるような気がします。だから、ぼくは答えられないし、そういうのがなくても大丈夫じゃないか、この人は大丈夫じゃないかということをおもうわけです。
ただ、じぶんはどういうことが気になるかといったら、いま言ったようなことが気になるから、ぼくが幸福とは何かということを追及するなら、まず、いつでも科学技術みたいな、幸福なんて考えもしない、それ自体が発達していったみたいなものと、問いがどのくらいの空隙、どのくらいの遅れでもって、どういう性質の遅れでもってやってくるのか、提起されるのかということ、それをよく究めないと、幸福ということには近づけないだろうと、僕自身は近づけないだろうと僕は思っていますけど。
答えにならないんですけど、しかしこれは、聞かれた人は自分の身の始末だけを、幸福の始末だけはちゃんとできているという感じがします。
(質問者)
先生の話を聞いていたとき、人間的な自立とかそういうことは一言も触れていなかったと思うんですけど、結局、究極のイメージというのを追いかけることによって、人間の精神というのが解放にむかうという勝手な解釈をぼくはしちゃったんだけど。結局、究極のイメージを覆っているものに従っていくと、結局のところ主義だとかそういう狭い範囲ではなくて、まず個人として自分がいるんだ、おれは人間なんだという、そこにいくと思ったんですね。
だから、結局のところ精神が解放されるんじゃないかというのが僕の勝手な解釈だったので、いま僕が考えている幸せというか、そういうものは絶対に前提として自立ということがなくてはならないと思うんです。ぼくが考えている幸せというのは、いろんな場面にぶちあたったときに、眼を開いて真っ正面から見つめて、いいこととか、悪いこととか、変な判断をいれないで、まずこういう事実があるんだということをしっかり眼に収める、そういうことが幸せの始まりだとおもうので、そのためには絶対に自立ということは必要じゃないかと考えるわけです。
いままでの日本の精神風土とかは、ちょっと生意気のようなんだけど、アメリカが風邪をひけば日本がくしゃみをするといわれるように、どこかに依存性があって、日本の精神風土自体が自立的ではなかったんじゃないかと思うんです。先生が言っていた社会全体が究極のイメージを追及することによって向かう世界というのは、先生は一言も触れなかったけど、結局、人間の精神を解放してくれる方向に精神面からみると、向かうんじゃないかという気がしたんです。実際にそうなればいいとぼくは…(テープ切れ)。
テキスト化協力:ぱんつさま(チャプター13~14)