……ようになったときにはすでに新佃島、佃二丁目と言いましょうか、そこに移っていました。そこからの記憶はあるんです。そこはちょうど前を川、掘割がありまして、家から見ると掘割の向こうに佃島小学校があって、屋上に人がいるとうちからは見えたことを覚えています。
さきほどもどこだどこだということでやっていたんですけど、この角に、ここに鉄材置き場があって、ここに新月橋があって、ここに掘割があって、こっちが隅田川の向こうの川です。ここが小学校、ここが三歳か四歳、あるいは二歳かもしれないけれど記憶があります。十四五歳くらいまでここにいまして、少し離れたここは二丁目二四番地というんですけれども、角から三軒目でお隣が荒物屋というところにいたと思います。このときには十三四になっていて、深川にある府立化学工業高校に通っていました。
いちばん大きい記憶がこの界隈についてあるのは、一丁目二六番地の前が小学校がすぐ見えたという記憶がある場所です。
「ぼくの見た東京」ということで、どういうふうに話したらうまくいくかを考えたんですけどこれはたいへん難しいとぼくは思ったんです。あまり回顧談というふうにはなりたくないということがひとつありまして、もうひとつは、いまの東京をどう考えるかということでしたらできるわけですけれども、それだったらここでおしゃべりする意味はあまりないと思うものですから、子どものときの体験、見聞みたいなものと関わりを持たせながら自分が見た東京を語れたらということを考えたんです。そうするとたいへん難しいと考えまして、うまくいくかどうか自分でも自信がないんです。もしかしてガキのとき知ってたやつがいるんじゃないかと思ったりすると、ものすごくやりにくいなあという感じもありますし、うまくできるかわかりません。ですから、両方がうまく絡み合わせながらできたら一番いいと考えてやってみたいと思います。
まず「ぼくの見た東京」なんですけれども、東京に住んでる人が東京を見る見方というのは一人一人違うわけだと思います。その人の住んでいる町ないし都会に対する見方を決定しているのはなんだろうかということをお話ししながら子どもの時も含めてやっていきたいと思います。
まずぼくが思うにはその人の住んでいる町ないし町を含んだ大都市、東京みたいなものを見る見方というのはどこで決まっていくだろうかと考えてみますとふたつあると思います。ひとつはその人が赤ん坊のときないし幼児、少年期のとき、住んで、学校へ通ったり遊んでいたりした界隈の記憶と言いましょうか、強い印象というものがその人の住んでいる都会を見る見方を決めて行くだろうと思います。
もうひとつ何が決め手かと考えてみますと、それは年齢で言えば一四五歳から二十歳くらいまでのあいだ、その人の青春期に入りかかる時から青春期を含めた時期にどこに住んでいたか、どうしたかということが、自分の住んでいる都会、町に対する見方を決めていくだろうとぼくには思われます。そのふたつのことが決定的に見方というものを決めていくと思います。
ぼくの場合でいえば、自分が子どものとき住んでいた、遊んでいた、勉強していた界隈というところがひとつと、それから十四五になって当時で言えば中学校あるいは工業学校に通いはじめて、自分はどういうふうにその時代に親のもとにいようとしたか、離れようとしたかというあげくに、ぼくは山形県の米沢市に行き、親のもとを離れました。親元を離れ、ちょうどその頃戦争にかかりました。そうすると学徒動員でぼくの経験では東京でもやりましたし、富山県の魚津市に工場動員で働いていたということがあります。それから農村動員がありまして、埼玉県の大里郡というところで農家にいまして、麦刈りとか田植えをやっていたことがあります。
そういうふうに青春期に入りかけてから青春期には、その人は親元を離れたいとか、行動半径を広げてみたいとか、自分一人で新しい土地へ行って何かを体験したいと考えるわけです。あるいは地方の人でしたら、東京で学校へ行ったり働いたりしようということで郷里を離れるということがあるわけです。つまりその青春期に入りかけてから青春時代というのは、自分の幼児期、少年期に住んでいた場所から離れていくつかの場所を点々と移っていくという経験をたいていの人が大なり小なりすると思います。
そういう経験ていうのは非常にその人が自分の住んでいる町、郷里を見る見方を大きく決定するように思います。郷里を離れたとか住んでいる町を離れて外から町を見渡した体験がありますと、それはやはりその人の都市をどう見るかという見方を大きく決定するような気がいたします。
で、あのそうしますと、幼児期あるいは少年期の町の体験というのと、それから青春期に入ってから、町を出て、自分の町を外から見た、他の町を体験したというふたつのことが、その人の都市を見る見方を大きく決めるんじゃないかと思われます。もしそのふたつのことが決めるとすれば、そのあとにたとえば、どこに住むかということは、子どものときと違って自分がどこに住むかということになったときに、自分の住みたい場所というのはどこなのかを考えてみますと、それはその人が都市を見る見方と非常に深い関連があるわけです。自分がどこに住みたいかというとき、住めるかどうかはいまの住宅事情では自ずから別なんですけれども、願望の場所というのはどこで決まってしまうかというと、幼児期の町の体験と、青春期の町を離れた体験、そのふたつの体験が、所帯主になったとき住みたい場所の願望を決めていくだろうと思われます。その願望の仕方と都市の見方、町の見方は大いに関連があるだろうと思われます。それがたぶん、その人の見た都市というものの大きなものを決めていくだろうと思われます。
ですからぼくならぼくの場合に東京をどう考えているかという場合、決定しているのはそのふたつの場所だとぼくには思われます。乳幼児期と少年時代、ぼくは新佃島というところにいました。二三日前に漱石の「硝子戸の中」という随筆を読んでいたらやはり幼児期のことが書いてあるわけです。そのなかでいちばん重苦しいと思ったのは、自分は牛込あたりの名主の息子さんなんですけれども、母親の年をとってからの子だったので、両親が恥ずかしがって自分をすぐ里子にやられた。里子にやられて自分には記憶がないけれども、姉たちや家族の話を聞くと、自分は四谷あたりの古道具屋に里子にやられたらしくて、里親たちが商売をしているその大通りの古道具屋の屋台みたいな出店の小さな籠のなかに入れられて、そこを通りかかった姉があまり可哀想だと思って姉がそのままそこから連れて帰った。そうして家に帰ってきたんだけどまたすぐ養子にやられてしまった。養家の父親と母親がいるわけですけれど、父親が他に女の人をこしらえて内輪喧嘩が絶えずうちに帰ってきた。
家へ帰ってきても自分は長いあいだ祖父母だと思っていた。おじいさん、おばあさんと呼ぶように言われていたので、そう呼んでいたけれども、あるとき寝ていたら女中さんがおじいさんおばあさんと言っている人は、ほんとうはお父さんお母さんなんだよ、これは誰にも言っちゃ駄目だよ、と耳打ちしてくれた。自分はその耳打ちがほんとうなのか嘘なのか、夢なのか記憶が曖昧なんだけれども、そう言われてはじめて祖父母だと思っていたのを両親だと知った。そのときに耳打ちしてくれた女中さんがどういう名前か覚えていないけれども、耳打ちしてくれたことは有難かった。どうして有難かったかというと、ほんとうのことを言ってくれたから有難いというよりも、晩年になってそういうことを書いています。
ぼくも幼児期に育った新佃島の家のことでちょっと不幸ではなく幸福な思い出なんですけれども、印象深いことを少しひとつくらい申しますと、たぶん弟が生まれたときに、その頃のお産は家に産婆さんがやってきてお産をするんですけれども、子ども心にそれは異様だけれども悪くない雰囲気で、ふだんは真面目でむっつりした親父なんですけれども、なんとなくソワソワして夜店へ行こうと連れられて、西仲通りの商店街の真ん中に出ていた屋台へ連れて行かれて、親父には一種の興奮した感じがあるのが子どもにはわかって、屋台のたいやき屋さんでたいやきを買って、ふところに入れてぼくにもひとつ分けてよこしてそれを食べながら親父が手を引きながらふらふら歩いて、しばらくしてから家へ帰ってきたという記憶があります。
それから僕自身の記憶としては、いつでも兄や姉が小学校へ行って、留守のときに上がりかまちのところでいつも居眠りをしていたというのがとても印象深いです。ときどき目を覚まして、川のところに、お寺のあたりから鳩が飛びまわっているのをぼんやりと見ているというのと、夕方になって目をこらすと、聖路加病院の上のところにある十字架に電気で照明がしてあってそれが光って見えたというのが記憶にあります。その種の記憶はぼくにとっては生涯のなかでも黄金時代でとてもいい思い出です。不幸でない思い出としてぼくのなかには残っています。
親父はもう少しこっちのほうにある西川口通りで、ボートや釣り船をつくる場所で釣り船や何かをつくっていました。そこへよく遊びに行って、一日中ボンヤリして木をいたずらしていたということを記憶しています。
それから自分の遊び場所ということで言えば、子ども時代は四号地といったいまの晴海は、埋め立てたばかりのただの原っぱみたいなところで、一日中遊んでいたみたいなことが黄金時代の記憶としてあります。
こういう状態で自分の記憶のなかに残っているのは何だろうかと考えますと、自分の家、親の家というのを中心として、その界隈を濃厚な記憶みたいなもので塗り込めていて、記憶の核心になる思い出はいくつかあり、その印象で一種の雰囲気をつくっている。それをつくっているのが、その人間が町について考える場合の乳幼児期の体験の非常に大きな要因になるだろうと思われることです。
その要因は何かといったら、自分の親の住処を中心として、濃厚な記憶の雰囲気のなかで重点となる思い出がいくつかあって、その雰囲気をつくっている。
ときどきその雰囲気の外に出ることもあるわけです。ぼくらで言いますと、その雰囲気のひとつの境界点になるのは、三好橋の傍で貸しボート屋をしていたところへは、佃の渡し船に乗って一人できました。しかしここいらへんは乳幼児期、少年期の濃厚な場所の体験の雰囲気からはいちばん最後の境界点です。
それから、佃橋ではなく深川越中島とのあいだにある相生橋を超えると門前仲町がありますけれども、そこが乳幼児期あるいは少年期における雰囲気のいちばん外側、外郭だと思います。そこは、小学校高学年のときには通っていた塾の先生の家がありまして、そこでの友達は深川地区の友達が多くて、そこは自分なりに強い印象を持った場所、境界点で、そこから外へ行ってしまえば、乳幼児期少年期の自分の体験が深く心のなかに入っているという場所ではなくなってしまうんです。
そしてこっちのほうで言えばいまの晴海町――四号埋立地というのがぼくの雰囲気の境界点のはずれのところだと思います。その三つの境界点を点で結びますと、それがいちばん外側になっていて、中心にくるほど濃厚であるという雰囲気というものが、自分の乳幼児のときの住んでいた町の体験だと思います。
不幸な体験も言わないといけません。ひとつあります。いまはあまり不幸だったと思っていませんけれど、その頃おじいさんおばあさんがいまして、おじいさんは耄碌して朦朧となっているわけですけれども、家は西本願寺の宗派ですから、築地にお参りにいくわけです。すると帰りはわからなくなっちゃうわけです。すると交番に保護されて、交番から交番に連絡がきて、近所のおまわりさんが来ておまえのとこのおじいさんがどこそこにいる、だから引き取りに来いと言われるわけです。するとよくぼくが使いにやらされたというのを覚えています。
そういうことは、いまはあまりに不幸な記憶ではないんですけれど、その頃は子供心になんとなく不気味でおじいさんが変な人のような感じがしました。相生橋の真ん中に中の島公園というのがありますけれど、そこのところでよくおじいさんがベンチに坐ってボンヤリしている。やはりそこへ行って連れてきたことを覚えています。それはやはり不幸なる体験だと思います。
それから生まれたときの月島は、親父たちは郷里から夜逃げ同然で出てきまして最初に住み着いた場所だったと思います。ぼくがちょうどお腹にいるときに両親は郷里を逃れ、少し経ってからそこで生まれたんですが、そのときは両親は職もなくて、不幸な体験だと思います。これは後年考えてそのときの不幸は、ぼく自身を決定していてたいへん重要じゃないかとぼくは思っています。しかしどういう体験だったかはわからないんです。ぼく自身にはもちろん記憶はないですし、生きているとき両親に聞けばよかったんですけれど、そういうことを聞くことができなかったから、いまだに分からないんですけれど、たぶんそのときは両親が経済的にもきついことから派生して、夫婦仲もよくなくて、いろんなことが重なっていた乳児期です。そこのところが何だったかということを見つけるためには自分の潜在意識、深層の無意識をよく分析してみたいといけないと思います。じゃっかんその不幸を分析するとその不幸はこうだったんじゃないかと再現できるような気がしています。
そういう不幸なる体験も含めて、乳幼児から少年期にかけての住まい、場所、体験というものは、その人の都市、住んでいる町を見る見方を決定していると思います。どう決定しているかというと、意識的に決定しているとはかぎらないのです。無意識のうちにその人の見方を決定していると思います。
ですからぼく自身でいえば自分の東京を見る見方を第一義的に決定しているのは、そのときの体験であって、意識的に覚えていることもありますけれど、覚えていないことで言えば自分の無意識のなかに沈んで深いところに入って東京に対する見方を決定しているとぼくには思われます。それはとても大きな要因じゃないかと思います。これはぼく自身の東京に対する見方だけではなく、皆さんの東京に対する見方、郷里に対する見方は、たぶんそのときの体験がとても大きな要因だと思います。そのときの体験が不幸だったか幸福だったか、深刻だったか楽しかったかということは、自分の郷里、ぼくで言えば東京という都会を見る見方を大きく決定しているんじゃないかと思われます。
もうひとつの決定的な体験というのは青春時代の青年期前期以降の体験です。ぼくの場合では、東京を離れた体験になります。いずれにせよそれは時代の要請と自分が両親の家を離れてみたい、反抗してみたい、外へ行ってみたいという動機が働いて、両親の家を中心にして形成されたひとつの雰囲気から脱出してみたいという自分の願望もありますし、青春期になりますとむしろ親の丈夫なあいだは定住者であるよりも遊牧民と同じように点々とどこかへ行ってみたいと誰でも思うわけです。そういうかたちで点々とした時期だと思います。
そのときは言ってみれば農民の家の定住者として町の雰囲気をつくっていたんだけれども、そこの場所を出てきて遊牧民のようにいろんな町を体験し、住んでみたい、少なくとも親の住処を中心にして形成された雰囲気の外へ出たいという願望があって、たいていの人はやはり外へ出て行くという体験をしていると思います。
たいていそのときに外から自分の町、ぼくの場合は東京を、見る見方を獲得したと思います。この獲得の仕方というのは、東京なら東京を離れたさまざまな町を体験するほどそうでありましょうし、また同年代の人だったらもっと大きな体験で、戦争のために兵士となって大陸へ行ったとか、南方の島へ行ったとか、東南アジアのビルマとかタイというところへ行ったという外国体験もしている人がいるわけです。そういう体験から自分の郷里を見るとか、日本という国を見るとか、そういう見方を必ず体験したと思います。ぼくらの年代の人は、北は大陸の北方から、南中国、東南アジア、インドネシアとかニューギニアの島まで、ものすごく広範囲の外から日本の国や町を考えたという体験をしているはずだと思います。そのことはその人が成人した後に自分の町をどう見るか、都市をどう見るかという見方を大きく決定していると思います。
それはいずれにせよ、外から内側を見るという見方の体験なんですけれども、もっと後になりますと違う見方に転化されます。それは、上から町を見るという見方に転化されるだろうと思われます。あるいは総体的に自分の町を見る、地図を見ますとイメージが浮かんでここにはこういうビルがあるとかできる人がいましたら、たぶんその人の見方を決定しているのは、青春前期に外から内を見た、少年時代に住んでいる町を考えてみることがあったとか、日本なら日本の国を見る見方を考えてみたという体験が、後々になってその人が上から町を見る見方をかたちづくっているだろうとぼくには思われます。
そのときに上から自分の町を見る見方を決めているのは青春時代に入りかけたときと、青春時代を過ごしたときで、家を飛び出して外から自分の町を見たという体験が、それを決めているだろうとぼくには考えられます。
そのふたつの体験を経まして、いよいよ自分が所帯主――住処を決める決定者というかたちでどこに住むかということを決める段階に入っていくわけです。それは少年期あるいは少年期以降老年期に至るまで自分はどこに住むか、住んでいる町をどう考えるか、東京をどう見るかという見方を確立するわけです。まずそれは誰にとってもそうだろうと考えますけれど、ふたつの体験によって所帯を持った後どこに住むか、どこが好きか、その人の住み方を決定するのはいま申し上げたふたつの場所の体験によるだろうとぼくには思われます。
ぼくの場合には、所帯を持って以降、経済的事情その他で住処を点々としているわけですけれど、それはどこらへんかと言いますと、自分の家の親たちは十三四の頃、葛飾へ転居していまして、葛飾からどこへ住むかという段階になったとき、ぼくが住みたいと思ったのはどこかというと、葛飾へ行くときに中継点になった日暮里を降りたところの町筋がとても気に入って、住むならここだと思ったんです。以後いまに至まで、日暮里、田端、御徒町、山手線の内側で言えば駒込林町――いまの千駄木、団子坂とか、いま住んでいるのは駒込吉祥寺の傍の本駒込というところで、以後ぼくの住処を決定したのは日暮里、御徒町、田端を中心としたごくかぎられたところに住処を決定しています。それはもちろん経済的に安いということもあるわけですけれど、高かったけれどかなり無理したなという意味あいも含めてそこいらへんに固執しているところがあります。
この固執の仕方というのは何かと言えば、選んだ時は無意識で意識的じゃないですけれども、後になってなぜおれはこんなところを選んでいるのかをよくよく考えてみたことがあります。それは、乳幼児期少年期に住んだ濃厚な町の雰囲気とよく似た場所を無意識のうちに選んでいるということがあります。日暮里田端の界隈というのはやはり下町の濃密さ、まだ共同体意識が残っていないことはない、というところを選んでいることがわかります。だからそれを選んでいることは確かです。
ところで長じて先ほどの例で言いますと山形へ行ったり富山へ行ったり埼玉へ行って住んでみたりという体験をしましたから、その時期も自分のなかに入っていまして、濃厚な雰囲気が苦しくなってしまうと困っちゃうということで、そこから逃げたいと思ったときにはすぐ逃げられるという場所を選んでいることがなんとなくわかります。これは意識して選んだんじゃないんですけれども、後から思うと濃厚な雰囲気があって商店で一度でも何か買うと、朝そこを通るたび必ず挨拶をしてくるからこっちも挨拶をするというようにすぐ親しくなるという場所を選んでいます。だけれどもそういう場所は不幸な感情のときには救いになるんですけれども、孤独感を癒されるというのは大きい要因なんですけれども、人間というのは贅沢だから、あまりに濃密に、おれはしょっちゅう見られてるんじゃないかとなるときがあって、飛び出してしまいたいということがあるわけです。
すると存外、ちょっといくとそうじゃない雰囲気というのがあるという場所を自分を選んでいるということがわかります。濃厚な雰囲気は煩わしいと思う思い方を決めているのは、東京、親父の元を離れて、山形県の学校へ行ったとか、動員先で富山県へ行ったとか、農村動員で埼玉へ行ったとか、外へ出た体験が、息苦しいときには飛び出してしまえという感じ方を決めているように思います。すると自分は、そのふたつの時期がうまく、感情のあり方次第で、両方が手っ取り早く体験できる場所をなんとなく自分は選んでいるような気がします。それは偶然に、なんとなく選んでいるんですけれども、あとから考えるとちゃんとそうなっていると思います。
それから遠くへ行けばもっと安いのに、かなり無理してそこを選んだという場所や時もあります。そうしますと自分が固執してきた場所というのはそういうことなんだということです。そうするとどちらも体験できるという感じで場所を選んでいるということが言えそうな気がします。
東京でもそういう場所を自分は特に選んで体験して住処としていると思います。自分の住処としている場所、いちばん長く住んだ場所というのは、勢い自分がいちばん好きな場所ということですから、おまえは東京でどこが好きかと言われれば、大雑把に言って下町が好きだし、もっとあれすれば、佃島とか月島、あるいは日暮里界隈の雰囲気が好きだから、そこにいちばん長く住んでいることになるわけです。
すると東京で自分が好みとする町を探していくとどうしてもそこいらへんになりますし、なぜ好きかを強いて理屈づけますと、いま申し上げました通り、乳幼児期あるいは少年期に体験した町の雰囲気と、青春期に入りかけた時期以降に体験した外から内を見るというふたつの体験が、自分の好みを決定しているように思います。東京のなかで自分が好きなのはどこかと言えば、そういうところだと思います。
そうすると体験のところから現在の東京をぼくがどう見るかという見方の場所に出て行きたいわけですけれど、東京という町はご承知の通りぼくが子どもの時と比べ物にならないくらい大都市になっています。ところでその大都市になっている東京はどう見たらよく見えるかということがあると思います。それはすべての町、都市というものが日本ではどういう場所につくられるかと言いますと、いくつかの低い台地がありまして、その台地のふもとから町が出来、だんだん埋め立てられたり土砂が重なって出来た海に近い平らな沖積地、平地に町が発達してきて、もっと発達しますと、新佃島、月島、晴海のように埋立地が平地の外に出来てどんどん海を浸食するかたちで町が発達していくというのが、日本では主な町のつくられ方です。
そうしますとぼくが言いました、自分が好きな町だと言っている下町の雰囲気が濃厚なところと、そこから少し出ると下町的な雰囲気から逃れて都会らしいビル街にすぐ出られる境界を選んで住んできたと申し上げましたけれども、そういう場所は東京でも下町と山の手の両方にそういう場所がありうるわけです。そこは平地ではないのですけれども、濃厚な雰囲気を持った山の手――山の手というのは何かと言いますと平地に突き出た台地であるわけです。台地のすぐ下や、あいだのところに町はできるわけです。そこいらへんの町筋は古い町筋で山の手というわけですけれど、濃厚な雰囲気を持った町があってそこからちょっと出るとビル街があるということがわかると思います。そこは下町のように平地ないし埋立地に濃厚な雰囲気を持った町があって、そこからちょっと出るとビル街に出るという下町もあります。山の手にもそういう場所があることがわかります。
そうしますと都市、東京を見る見方は、一般化することができるわけです。台地あるいは海岸に近い平地、埋立地につくられた住宅街で、それぞれ濃厚な雰囲気を持っている町が都市のなかにあることがわかります。その境界点の向こうに出るとビル街になっているという町があります。
いまこれに番号をつけるとしまして、山の手の濃厚な雰囲気を持った住宅街、それから下町の平地ないし埋立地につくられた町を一としますと、一という系列の町が東京の大都会でも残っているということがわかります。だんだんそれも滅びていきますけれど、最後まで残るのはそういう町です。濃厚な雰囲気を持ってさいしょにはじまった町、山の手につくられた町、平地につくられた町というのは、いまでも残っているということがわかります。これは大きく言えば地方へ言ってもそういうところが残っていることがわかります。これをたとえば一という系列だとお考えくださると、都市を見る場合の一という系列を見て欲しいということがあります。それがどこにあるか、どういう雰囲気を持っているかということを見て欲しいということがあります。 東京で言えばそれは下町的雰囲気を持った町と、山の手的雰囲気を持った町があることがわかります。
それでその隣にはビル街があって、このビル街は商店の事務所であるとか、商家がビルになっているとか、少し高い中層ビルや事務所があるという場所があります。そういう場所を二の系列と名づけるとします。すると一の系列の住宅街に接してビル街があることがわかります。地方の町へ行ってもそういう場所がかならずあると思います。
そのふたつの町というのが、東京だけではなくどこの都市でも、都市という都市が共通に持っている場所だということがわかります。人様々で好みが違いましょうけれど、ぼくなんかは一の系列の町と二の系列の町が境目になっていて、系列としては一の系列の町だけれどもちょっと出ると二の系列の町へ出られるという町を好んで選んでいると思います。東京でも由緒ある下町的雰囲気を持った場所に住んでいて、すぐ傍は商事会社や商店がたくさんあるビル街になっているというところが好きな町でそこに住んでいるということが言えそうに思います。
ところでぼくは「鴎外漱石の見た東京」というお話をしたことがあるんですけれども、鴎外漱石が見た東京というものと、ぼくらがいま東京を見た場合に、どこが違うかというと、一の系列の由緒ある住宅街と、それに接した中層低層のビル街がある場所は鴎外漱石の時代の東京にももちろんあったわけです。ですからそのふたつの場所に関する限り、明治大正初年の東京でもあったわけです。そしてどんな小さな都市へ行ってもそのふたつの場所は必ずあるということができます。
それでは、鴎外漱石の時代にはなく、東京あるいはそれに類した現在の大都会にしかない場所はどういう場所なのかと考えてみますと、それはふたつ考えられると思います。
そこが、自分が住処としている場所でもなく、簡単に行ける場所でもなく、そのふたつの感じ方では手の届かない場所だけれども、あるときひょんな拍子に行くことがあるとか、休日を利用していくことがあるという場所だと思います。そのふたつの場所というのが、東京という大都会、あるいは世界の大都会を決定している場所だと思います。
そのふたつの場所についてご説明申し上げますと、東京というのをぼくはどう見ているかという見方が完成されるわけです。完成されたその見方は、ニューヨークを見る場合でもパリを見る場合でもロンドンを見る場合でも適応することができるとぼくは考えます。ただこれは、おまえはそこが好きかと言われると、好きだとはあまり言えないけれども、たいへん関心を持っている場所だということができます。けれども好きではないです。なぜならば、好きでない証拠に住んでいませんし、住もうと思ったことはありませんから、あまり好きでないですけれどもたいへん関心を持っている場所です。
ひとつは、こういう場所、あるいは地域、もっと言いますと点です。皆さんもそういうことは時々体験したことがあると思いますけれど、たとえば池袋とか渋谷とか新宿とか六本木とか青山のビルへ行きますと、みなさんはこういう場所をときどき見つけられると思うんです。それは、プールみたいなものがビルの三階くらいにあったり、あるいはビル自体が食堂街みたいになっていたりして、三階に行くと日本料理屋さんがあって日本式の庭園や茶室があったりという場所を見つけることができると思います。地方へ行っても、ビルの屋上に教会があるのが名古屋の傍の犬山市にあります。そこで結婚式ができるというビルがあったりします。
そういう場所をみなさんは東京でもよく見つけられると思います。それはどういう場所かと言いますと、ほんらい地上にあったらよい、地上にあるべきものが、ビルのなかに存在してしまっている。お茶室なんてのはもともと海岸ペりの漁師小屋を千利休がわびさびで見つけ出して茶室としつらえたわけですから地面にあるべきものですけれどもビルのなかにあったりすることがあります。
それは、違和感を催す場所です。そういう場所は、慣れればなんでもないんですけれど、一見するとなんでこんなところに茶室があるんだろうとか、違和感を催すわけです。なぜ違和感を催すかというと、ほんらい地上にあるべき、もっと極端に言えば自然にあるべきものがビルのなかにしつらえられちゃっているから非常に違和感を催すわけです。しかしこういう場所は皆さんが大都会に行かれれば必ずそういうに遭遇するわけです。レストランに入ったって池があって泳いでいる魚を料理してすぐ食わせるという場所がビルのなかにあります。それは現在の大都会へ行きますとかならず体験する場所だと思います。
この手の場所は非常に意味深い場所です。なぜかと言いますと、ほんらいあるべき場所にあるべきものがビルのなかに入っちゃっている。これはたいへん矛盾していると言えば矛盾しているし、違和感をもたらすと言えば気持ち悪くていてられないということも体験する場所が必ずあると思います。
この場所はたいへん重要な場所だと思いますし、いまから三十年くらい前には東京でもなかった場所だと思います。近々二三十年、十四五年のうちに出来た場所です。これは東京だけではなく大阪へ行っても名古屋へ行ってもニューヨークへ行ってもパリへ行っても体験されると思います。ぼくは名古屋と大阪のほかは行ったことないんですけれど(笑)、必ずあるに違いないと思います。この場所はみなさんがもしニューヨークとかパリに行かれたら、そういう場所を体験することがパリならパリ、ニューヨークならニューヨークという都会をつかみ取る場合、とても大きな要因になり、ひとつの系列をなすと思います。パリに行ったら茶室ではなく何があるかわからないんですけれど、そこが文化の違いになります。しかしいま申しましたほんらい地上にあるべきものがビルのなかにあるということは確実だと思います。
その矛盾した場所というのは言ってみれば、日本なら日本、アメリカならアメリカ、フランスならフランスという文化の質、量というものを決めている場所だと思います。ほんらいフランスの田舎はこうであったというものが、ビルのなかにあるというかたちになりますし、アメリカの田園地帯がこうあるはずだったものが、ビルのなかにこう入っているよとなるわけで、それを見ますとその国の文化のあり方――田園から発達して都市ができ大都市になったというものを発見できる場所です。そういう場所へ行ってしまえばいっぺんでわかってしまいます。見ず知らずの都市でもわかります。
それはもっと理屈づけると、そういう場所は嫌らしい場所だし矛盾だな、と思われる方もいると思いますけれど、好き嫌いは別として言いますと、東京なら東京の未来を暗示している場所だと思います。そのことはとても重要だと思います。
東京という都市も裾野を広げて浸食して、東京都下を浸食してこんどは埼玉県だ、神奈川県だと侵蝕して、もっと中部地方まで、富士山麓まで到達するかもしれませんけれど、東京は外へ広がっているでしょう。どんどん広がるためには近隣にある田んぼとか畑の地帯をどんどん侵蝕していくわけです。すると田んぼや畑がなくなっていく場合に、それはどうなるかという運命を暗示しているようにぼくには思われます。
こんなに広がったら困る、というくらいで止められるとは思えないし、自民党政府を社会党に変えたら止まるとはぼくには思えません。それは文明史の一種の必然のように思われます。そのときの農村、農業の運命はどうなるかということは、たぶんいま言った系列を三の系列と申し上げますと、三の系列というのは田園と都会、農村と都会、自然と人工、自然と都市というものの関係を暗示しているように思います。ですからもし自然というものを設けたい、田畑をつくりたいと言うんだったら、都市のなかにそれを人工的につくる以外にないとぼく自身は考えています。それは都市自体の計画、展開の一部分として内包されるべき田園を考えるというかたちで考える以外にないだろうとぼくは思っています。ぼくは思う思わない、好き嫌いに関わらず、そうなっていく以外にないと考えています。
その系列の場所はいまもうしました通り、大都会を象徴する場所であると同時に、都市と田園、人工と自然というものの関係がどうつくられるべきかということを暗示している場所のようにぼくには考えられます。だからその場所は注目すべき系列だということがわかります。これはみなさんが観光でも何でもニューヨークとかパリとかロンドンでも行かれた場合には、土地の人にそういう場所はないかと聞けば、土地の心ある人が必ず知っていますから、そういう場所へ行かれたらいいです。そうすればロンドンでもニューヨークでもいっぺんでわかっちゃいます。大都市というのはいっぺんでわかっちゃいます。一の系列でも二の系列では誰でもわかることを前提としてですけれどもそのうえで大都市のひとつの問題です。そこへ行けば、ロンドンならロンドンという都市がこういう都市かということがいっぺんでわかると思います。それをやたらに町筋を一生懸命歩いたりしてもいいですけれど、観光くらいでわかっちゃいたいと思うなら、そういう場所へ行かれるということが非常に重要なように思われます。
それからもうひとつ系列があります。それが単純なことで、東京で言えば都心、近年発達した新興の都心です。東京には昔からいくつかブロックがあるわけですけれど、渋谷とか新宿とか青山とか池袋というふうににぎやかな場所があります。そういうブロックで、近年寂れたというのではなく近年やたらに発達しちゃって、昔の東京はよかったという人に言わせるとあんないやらしい町はないと言われる町ですけれど、ぼくはそれほど嫌じゃないんです。
そういう新興の町には、新築の高層ビルが密集している場所があります。そういうレストランでもたまたま入られたときに、すぐ傍にある隣のビルの窓のなかで人が動いているの見えて、間近のところで隣のビルの室内が見える密集した場所があります。もっと格好いい言葉を使えば、空間が折り重なった場所です。ほんらいビルの空間が占めるべき、限定すべき空間があまり過密であるために空間と空間が密集して重なって折れ曲がっちゃっている場所です。
隣のビルの向こうからは国電の線路が見えて、そこに電車が走っているのが見える。もっと極端なことを言いますと、窓の向こうに国電の電車が見えて、よく見ると電車のなかに人のいるのが見える。本来ならば見えるはずがないよというのがひとつに見えてしまう。ひとつのビル街の視野でももって、こんなたくさんの異なったものが見えるはずがないよというものが見える場所があります。これは外からは簡単なことで、新興のビルが密集した場所です。その場所は過密なためにそうなっているんです。一種の過密性を持ったビル街では、ほんらい人間の視野で一望できる場所では絶対同時には見えない風景――ふたつ、三つの空間が重なっていなきゃとてもこんな空間は同時には見えないはずだというものが見える場所があります。それはとても重要な系列を持った場所をなします。
これはやはり東京にもございますし、ニューヨークに行かれようとロンドンに行かれようとパリへ行かれようと必ず存在いたします。ですからそういう場所は、一種の危機感を感じるような、あまりいい場所じゃないです。しかしそういう場所が必ずあるはずです。それは現在の大都市が裾野を侵蝕していくと同時に、生物で言えば一種の伸縮作用で、内側に濃度を濃くしていくという作用を限度まで持たざるをえなくなっているということがあります。そういうことがはっきりあらわれている場所が、空間が折り重なった場所です。その場所は現在の大都市にある場所で、ぼくに言わせれば必ず見るべき都会の場所だと思います。東京でも新宿にあったり池袋にあったりと必ずあります。有楽町と銀座のあいだのビル街にもあります。もちろん現在のモダンなことが好きな建築家が設計したビルのなかに入りますと、えてしてビルの内部にそういう場所を発見することがあります。それが及ばないときには、節約してそういう空間が折り重なった効果を出す場所をつくりたいという場合には、たいていいまの建築家は鏡を使っています。あるいはピンと張ったなめらかなガラスを使ってそういう効果を出しています。
これは新しいビルのなかにみなさんが入られたときに、ひとつの視野では見られない空間をビルのなかでも、ビルから外を眺めた場合でも、大都会のビルの密集地にはかならず現在存在していると考えます。
これは見るべきひとつの系列だと思います。皆さんが観光でパリとかニューヨークとかロンドンに行かれたときには、やはり無理してもそこへ行ってご覧になるといいと思います。その場所から見られる折り重なった空間はどんな重なり方をしているか、どんな気分が感じられるかということ、見えるもの、それはその都市の展開度と、文明の危機感、焦燥感をあらわしていると思います。
ですからいまもうしました二つの系列の場所を、世界都市と言われているような大都市を観光される場合には必ずそのふたつの系列を選んでごらんになるとよろしいかと思います。その他の点はどこの都市でも同じです。建物の様式が違うとか、田園の風景が違うとか、そういうことはありますけれども、それは第一第二の系列で、いま申し上げました第三第四の系列の場所は、必ず都市を育んだ文化によって必ず違っていることがわかります。
そうすると、いま申し上げたふたつの系列をご覧になりますと、おまえはニューヨークへ行ったことがあるかと聞かれた場合、こんな町だったと言えば、一度しか行ったことがなくても、そうとうたくさん行った人と同じくらいのことが言えるだろうと思えます。そういうところは必ずご覧になったらよろしいように思います。
いま申し上げた第三、四の系列、それから第一第二の都市のつかみ方というのは、いっぽうが自分が住処として住み、その体験を拡大していくことによって得られる都市の見方と、申し上げました青春期の入り口から青春期にかけての見方に該当するのは、第三、第四の系列の場所のように思われます。そういう場所は、都市を外側から見る見方、上から見る見方を加味してご覧になれば、第三、第四の系列というものの見方というものが出てくるんじゃないかと思われます。
これはニューヨーク、マンハッタンを上から見た写真です。この写真に近い場所が、東京でいちばんこの場所に近いから、比較してみましょう。
……これがかちどき橋です。ここいらへんとよく該当する場所です。するとほとんど代わり映えしないわけですけれども、何が違うかというと、高層さ――どこまで空に伸びちゃっているかが違うように思います。それから隅田川の川岸は、住宅地と小さな商店の事務所が兼用の場所とか、商事会社のビルがある場所ですけれども、そういう場所にじゃっかん住居の感じがする場所は、ニューヨークには面影もありませんけれど、そこが違うように思います。
そうすると、もし都市というものがどうつくられるかというと、たとえば東京の場合には、東京都が東京都の予算でビルをつくったりということをしたり、いま見たいに不動産会社が土地を買い占めてそこをビルにしちゃうとか、大きな資本を持っている経営者が土地を買い占めてそこに自分たちのデパートをつくっちゃうとか、我々には金銭的に縁のない人たちが大都市をつくっているわけです。そこに住むか住まないか、通うか通わないかは別としてそういう人たちがつくっているわけです。
するとそれはどうつくられるかということは、そういう人たちの予算、考え方、建築家の設計との合作によって都市はつくられていくと考えられるわけです。するとそれに対してわれわれがそれに対してどういう見方をするかということが、都市が発展することに対してそれを左右することができなわけです。左右することが出来るのは建築設計家と、土地を持つことができたビル業者、不動産業者、デパートをつくるような資本家が主役として都市文化の主役として都市をつくっていくということになるわけです。
われわれはそれがどうつくられるかということには関与していないわけです。建築設計家でもなければ金を出すわけにもいかないわけですから、都市がどうつくられるかにあれを持っていないわけです。それに対してどう考えたらいいのかを考えますと、ニューヨークと東京のこの場所はこう違う、そうしたら東京はどういう町になるかと言ったら、誰でも考えやすい考え方は、高層ビルが乱立していくようになっていくだろうと考えると思います。なっていくだろうということに対して、設計家でもなく、金持ちでもないから、関与しているわけでもないものに対して、予測を加えることはできて、高層化していくという予想は簡単にできるし九〇パーセントまで当たるだろうと思われるんです。
ビル業者でも大金持ちでも設計家でもないけれども土地がこうなっていくことについて、われわれが予測することができて、そこだけは必ず当たるはずだと言えるのはなぜだろうかということがあります。そこは大切なような気がします。関与する力もないんだけど予測だけは誰でもができるということは何を意味するかというと、都市が実際に発展していく方向があると、それに対して自分たちはこういうイメージで東京を思い浮かべること、東京はこういう町になって欲しいという願望、イメージは、建築業者でも設計家でも関わりなく描くことができるということはとても大切だと思います。
ぼくが見た東京と、皆さんが個々に見た東京はぜんぜん違い、好みも願望も違うわけですけれども、皆さん一人一人が思い浮かべることはとてもいいことです。間接的ではありますけれども、必ず皆さんの願いやイメージを抜きにしたビルは、いくら膨張して過密になっても、いくらお金があっても優れた設計家がいれば、皆さんの願望とかけ離れた都市はつくれないということがわかります。必ず皆さんの願望をいく割かは汲み取らないと、ビルとして成り立たないことは間違いないことですから、お金がないからビルが建てられないとか、おれが設計するんじゃないからこんなビル建てられたって知らないよということであまり悲観されないで、そんなこととは関わりなく、いまの四つの系列を見たら大都会東京はどうなるかおれはわかっちゃうよ、と言えるものと、自分ならこういうイメージで描くという願望を持って、百人百様でイメージが氾濫しているのを予想しましたら、ビル街はみなさんのイメージを汲み取ることなしに発展することはありえないということは言えそうな気がします。
ぼくは必ずしも、自分が願望している東京はこうで、ということは言ったってしょうがないから心のなかにしまっておくということはありますけれども、そのことに楽観もしていませんけれども悲観もしていないので、そういうイメージを育てていくことが大切ですし、都市がどうなっていくことについて、個々の建築業者やお金持ちの意向の如何に関わらず、こういうふうにいくことは確実だということは誰にでもできますから、そこらへんのところをよくつかまえて自分なりの町のイメージを持っていることが、むなしいようで有効なような気がします。
たとえばいま言いました空間が折れ重なった過密の町は、そういうイメージをたくさん喚起せざるをえない町になっていきますから、みなさんのイメージがそのなかに願望として入り込んでいく余地はいくらでもあります。大都市は具体的現実的な都市機能よりイメージとしての機能のほうが大きく、重さを増していくように思われますから、イメージを描かれるということは悪いことじゃない、無効なことでもないし、もしかするといつかどこかで誰かが実現するかもしれんぞということはありうるとぼくには考えられます。
あの、だいたいぼくがいろいろ考えまして、回顧的にもならず、そういうのを含ませてもいなくもないというかたちでおしゃべりをしたらどうなるかと考えてきましたことは以上のようなことでだいたい言い尽くせたと思います。なんらかの意味でご参考に供せられたら有難いと思います。お粗末ですがこれで終わらせていただきます。
(拍手)
(質問者)
<音声聞き取れず>
(吉本さん)
講演を筆記したのが「東京人」という雑誌の創刊号か2号か知りませんけど、そこらへんに載っているんです。お読みになってくだされば詳しく出ているんですけど。鷗外と漱石とどこが違うかというと、いま言いました、好み、関心をもっている街が違うのと関心をもっている対象が違うんです。
大雑把にいいますと、鷗外という人がいちばん好きだったのは紅灯の巷です。つまり、柳橋というか、料理屋街といいましょうか、そういうのがあるところが好きだったんです。
それから、好みとしていえば、わりとそういう玄人筋の女性が好きだし、それから鷗外の理想の住処みたいなものをあれしますと、仕舞屋風の家があって、そのなかで玄人筋の女の人が三味線かなんか弾いているみたいな、そういうのが鷗外の描いたいちばん理想のイメージのように思います。
だから、鷗外というのは意外かと思われるんですけど、紅灯の巷的な場所と、それから、そういう玄人筋の女の人がもっているエロスといいましょうか、性的な魅力といいましょうか、そういうものに対する関心がたいへん鷗外の文学には強いんです。そこが特徴だと思います。
漱石は何が特徴かというと、漱石の見た東京というのは2つあって、ひとつはわりに自分はそれこそ千駄木の界隈に住んだり、早稲田の界隈に住んでいるわけですけど。そういう界隈を中心とした、つまり、じぶんの住居を中心としたある範囲内に入る名所・旧跡といいましょうか、そういうものは漱石の好んだ東京の中の場所です。それは漱石の特徴です。
それじゃあ、漱石は何を対象にして、名所・旧跡を考えたか、好きだというふうに感じているかというと、それは花だったと思います。つまり、上野に行くと上野の夜桜が見られるとか、それから、御堀端へ行くと、御堀端のつつじが見えるんだとか、江戸川へ行くと江戸川堤の桜が見えたとか、つまり、漱石の関心はじぶんの住処を中心としたある狭い領域での名所・旧跡みたいなものに漱石は大変関心と好みをもっていたということがわかります。
たとえば、早稲田のときの関心というのは崖があってその下に住居が開けている。つまり、先ほど言いました、山の手的雰囲気をもった住処、濃密な住居があるといいますか、雰囲気をもった住居というのが、もうひとつ、漱石の好みとしてあります。それは住処です。自分の住んだ印象です。それは『それから』とか、特に『門』というのの主人公の夫婦が住んでいるのは早稲田の辺りの住処の界隈の雰囲気だと思います。
それと、あとの『三四郎』みたいなものに出てくるのは、上野の夜桜というような、つまり、千駄木の辺りの住居の界隈を中心にした名所・旧跡みたいな、それはたいへん漱石の関心のあるところだと思います。
その2つとも、単に小説の舞台になっているという意味でもとれるわけですし、もっと突き詰めていっちゃうと、かなり両者の文学の質というのを決めているように思います。質の問題まで入っていくことができるように思います。だから、それは、そうとう大きな意味をもっているように僕には思われます、両者の文学に対して。
それから、やっぱり文明に対しては後ろ向きの、鷗外は後ろ向きであまり関心をもっていないです。だから、今日のお話でいえば、3の系列、4の系列に対しては、鷗外はまったく関心をもっていないです、そういう東京にたいしては。
ところが、漱石は関心をややもっているけど、好みでいえば嫌悪をもった関心といいますか、あるいは、危機感をもった感心だと思います。つまり、こんな貧弱なくせに、文明開化みたいな、工場の煙突を黒々と吐いているみたいな貧弱な、そういうあれというのは、こんなのが発達しちゃったら東京はどうなっちゃうんだとか、日本の文明はどうなっちゃうんだろうかというふうに、ものすごい危機感を抱きながら、しかし、漱石は関心をもっています。それは、作品の中にも出てきますけど。
鷗外はまったく、今日、ぼくが3,4と言いました系列の東京に対しては、あるいは、大都会に対しては関心をもっていないと思います。そこが違いのように思います。
そこが、ぼくらが鷗外・漱石なんていう文豪に比べて、どうってことは問題にならない、なんでもないわけですけど、ただ、時代が30年とか、50年とか、60年とか、70年とか、後から生まれただけ、いま3,4の系列と申しました、そこへの関心ということを申し上げられるということです。
また、好みは僕の好みだけなんですけど、3,4の系列を申し上げられるというのは、結局はただ時代が後に生まれたからだよ、ずいぶん変わっちゃった東京を見ているからだよということになると思います。
(質問者)
<聞き取れず>
(吉本さん)
ひとつはそうだと思います。つまり、政治家といえども、たとえば、ここにはおられないかもしれないけど、自分たちと同じように生活はしているわけだから、必ず、共通の感性がないはずがない。それだったら共通のイメージの部分のがないはずがないということが、あなたの言われたように、ひとつはそうです。
ひとつはそうだし、ひとつはそうじゃないと思います。それはなんと名付けていいかわからないですけど。そこに働きにいく人とか、一日のうち8時間なら8時間はそこにいるんだとか、あるいは、一週間のうち土日だけは休んで、休みのうちのあるときの何時間かは、そこのビルにいる、誰でもいくんだとか、行く可能性があるんだというような、そういうビルを建てるのに、そういう人たちが描いているイメージを全然無視してビルが建てられるはずがないのであって、働く人のイメージにかなう部分があるビルを建てるか、あるいは、遊びに行く場合に、一週間に2日ぐらいのうちの何時間は行くことがあるんだという、そういう人たちのイメージをひとつも汲み取らないでビルを建てることは、室内的にも室外的にも不可能であるというふうに僕には思えますから、そういう意味でも決して関わりがないわけじゃないというふうに僕はそう思いますけど。その2つの面から言えるんじゃないでしょうか。
(質問者)
<音声聞き取れず>
(吉本さん)
ぼくはいま「ハイ・イメージ論」というのを雑誌に連載しているんです。それは「海燕」という文芸雑誌なんですけど。それに連載しているわけですけど。そこでは、そういうことについて、わりあいに詳しく触れていますからお読みくださればと思います。
(質問者)
<音声聞き取れず>
(吉本さん)
ぼくは都市の中の公園というのは2種類あるとおもいます。ひとつはこういうところに空き地があった場合に、そこの空き地を公園としてつくろうということは、ビルの中に、田園と言わないまでも、原っぱでもいいですけど、あるいは、都市の東京、あるいは江戸の都市の延長線からいいますと、そういう広場というのは、一種の火止め地といいましょうか、火災を止める場所として設定されてきているわけです、江戸時代から。
つまり、それの延長と考えてもいいわけですけど。いわゆる地面、原っぱ、そこに何かをつくれば田園なんですけど、田畑なんですけど、そういうものに類したものを都市の中の火止め地を使ってそこに作ろうというのがひとつの意味だと思います。だから、一種、田園を都市の中にもっていこうとか、原っぱを都市の中にもっていこうということの意味のひとつになると思います。
ところが、都市の中の公園というのは、もうひとつ、まったく別な意味があると思います。それはどういう意味かといいますと、具体的な例でいいますと、たとえば、武蔵野、つまり、関東平野のまん真ん中に、筑波なら筑波がそうですけど、筑波の学園都市というのはそうですけど、関東平野の原っぱのまん真ん中に都市をバッと人工的につくっちゃった。学校もつくっちゃった。そういうふうにしますと、筑波の公園があるわけです。その講演は人工的にバッと都市をつくっちゃった、学園都市をつくっちゃった傍にある公園というのを、ぼくは見ましたけど、それはここらへんのモチーフで、地面とか原っぱをここにもってこようじゃないかといいますか、そこを遊び場にしようじゃないかというふうに、そういうふうなモチーフと同じモチーフの公園が筑波の学園都市にはあるんです。
ぼくの理解の仕方では、もし、筑波みたいに関東平野のまん真ん中に、つまり、原っぱです。広い原っぱの中に超近代的な学園都市をバッとつくっちゃったというのだったらば、そこの近辺の公園というのは原っぱの延長線をここにもってくるんじゃなくて、ぼくはビルの延長線をもってくるべきだ、それを公園とすべきだと思うわけです。つまり、原っぱよりももっと人工的な遊び場所といいますか、遊園地風のそういう公園をつくりまして、そこでは人工的なものをつくることが公園だというふうに僕には思われます。
だから、筑波の学園都市みたいに、いってみれば昔ながらの都市がなかった時代の原っぱ・田園という、そういう広いところに超近代的な都市をバッて人工的につくったとしますと、この都市の人は室内にあるときは超近代的な気分になれるんだけど、いちど室外に出たら、関東平野の原っぱの中にぽつんと置かれたと同じことになっちゃうんです。
そうするともうやりきれないわけです。もちろん、だから自殺する人が多いわけです。それは当たり前なことであって、いっぺんに第一の系列、あるいは、もっと第ゼロの系列から第四、第三の系列にいっちゃうとか、いっぺんに第三、第四の系列からいっぺんにゼロ系列までいっちゃうということと同じなんです。
それがひとつのビルの部屋の中から壁ひとつ向こうへ出たってだけで、超近代から原始時代と同じ原っぱというような、そういうところへサッといっちゃうわけだから、それに耐えられるはずがないんです、人間というのは日常生活では。だから、非常に自殺する人が多いわけです。
そこでも公園はつくられているけど、ただ機械的に原っぱを囲いをしてというくらいの公園をつくっているわけです。それは違うんです。そのときには公園というのは何かといったら、そのときには超近代的なところから原始時代の原っぱにすぐ壁ひとつでいっちゃうんだという、それを緩和するための場所というのを公園とすべきなんです。
だから、それは非常に人工的な公園をつくるべきなんです。人工的な構築物が公園なんです。そうすべきなんだけど、そうじゃないです。だから、ぼくは、それは都市イメージというのがダメなんだと思います。それじゃなければ予算がないかなんかなんです。
だから、あれはほんとにひどい街です。ひどいというか、ものすごい街です。こんなところで、いまはあまり盛り上がってないですけど、中でいろんな催しをしてワーッとやって、ワーッとモダンなことをやっていて、それで外に出たら途端に全部パーになっちゃうんです。中でやったことが全部パーになっちゃう、ワーッと思っちゃうんです。そんなところに人間が日常生活をできるはずがないので、学生さんに聞いてみると、お前こんなところで何をしているんだって、昔からある土浦とか、牛久とか、飲みに行く時はそういうところに行っちゃうんです。それが田舎のちょっと都市化した街です。小さな街です。でもそこのほうがいわば地面から発達してきたそういう街だからあるんです。ところが、筑波の学園都市にはないんです。人工的なところからいっぺんに原始時代にこうなっちゃうから、これはちょっと耐えられないです。もっとアレな時は東京に行っちゃうんだと言ってましたけど。
それは誰でもそうなので、だから、研究している助手さんとか、教授とか助教授というのはそれぞれ地位をもったりしているからあれですけど、そうじゃない人で研究している人なんていうのはわりあいに多いんですよね、自殺する人が。あれは僕に言わせれば当然で、これでおかしくならなかったら変だよって僕は思います。
そういう場合には公園というのは人工でなければならないんです。一種の緩和すべきものがどうしたら緩和されるのか、つまり、原始時代、あるいは、田園と都会、人工的なものとのどこで緩和するかというのが、たぶん公園の役割だと思いますけど、そうすると、そういう筑波みたいなところでは人工的なものをつくるのが公園だと思います。
ここらへんではそんなことしたら、なんだまたかとそんなものやめてくれって言いたくなっちゃうから、それはわりに田園的なものをひっぱってくるというようなかたちになります。
だから、公園というのも結局、その2種類があるんじゃないですか、それはとても重要です。みんな同じだと思っていたらとても間違っちゃってしょうがないです。東京でいえば高島平みたいなところがそうだと、あれは考え違いしやすいんです。あそこもそういうところがあるんです。全部がそうとは言いませんけど、ある箇所に行きますとやっぱりそうなんです。建売住宅とかがずーっと並んでとてもいい家なんだけど、パッと出たらこれはかなわんよというくらい閑散というか、ただの閑散じゃない閑散なんです。それはちょっとやっぱり僕は納得しますね。あそこが多いというのは、ちょっと納得するなぁという感じが僕はします。
だから、公園の役割というのはそこの問題で、一通りで考えたらいけなくて、2つに極端に考えたらうんと人工的なものとうんと自然的なものとをどうやってある狭いところに見事に接収するかみたいに、そういう2つの意味があるんじゃないでしょうか。
テキスト化協力:ぱんつさま(チャプター14~17)