1 司会

2 交換可能なイメージと限界のイメージ

 今日は「ハイ・イメージを語る」というテーマです。そのテーマの中で与えられたのは、都市論みたいなこととファッションみたいなことが入る。それからパソコン現象みたいなことが入ることと、ビートたけし事件などを全部入れてくれということです。もっと何でも入れることはできると思いますが入れることは問題な気がして、そこはどうしたらいいか考えてきました。
 初めに少し抽象的なことを言わせてもらいますが、現在、僕が社会的に感じること、思い浮かべるイメージについて、考えていることが二つあります。一つは交換するイメージというか、イメージの交換が非常にたやすくなっていることです。何と何を交換するかは何でもいい。たとえば社会制度、政治制度の問題で言えば資本主義と社会主義でもいいですが、イメージを交換することが非常にたやすいと思います。
 もう一つは違う交換でもいい。現実と幻想も、たやすくイメージを交換できる。ちょっとした操作をすれば、すぐイメージを交換できるようになっている。交換がたやすくなっていることが、イメージについて一つ、大雑把に言えることではないか。
 もう一つは、限界ということです。境界、境目、「これ以上はどうしようもない」という意味の限界でもいいですが、限界というイメージが割合に可能になってきたのではないか。しかも、「ここからここ」とはっきり区別がつく限界ではない。そばへ近づこうとすると、限界はまた逃げてしまいます。いつでも逃げてしまうけれども近づくことはできて、しかも「ここは限界だ」というある限界性みたいなものがイメージとして見える。しかし、そこへ近づこうとすると限界のイメージはまた逃げていく。そういう二つの現象が、こちらで与えられた問題に共通に言えるイメージの問題ではないかと僕には思えます。
 たとえば制度のことで言えば、アメリカという世界の代表的な資本主義の国で、政府がアメリカの大きな企業を五十なら五十、百なら百選ぶ。それに対して政府が強烈な統制、管理を敷いて、この産業の流通、この企業の流通がぶつかり合ってどうにもならなくなってしまうみたいなことを管理、整理するとする。国家の強力な管理下で流通の通路をよくしていくといったことをしたとすると、出てくるいくつかの結果があります。
 一つのいい面の結果は、たとえば労働日は一週間に六日ではなくて三日で済んでしまう、一日八時間だったのが三時間で済んでしまうというようにうまくできるとします。公共的消費はみんな無料にするみたいなこともできるかもしれない。だけど一面、国鉄と同じで、資本家は設備に資本をあまり投入したがらなくなる。働くほうも、どうせ給与はくれる。つぶれないのだからのんびり、のんびり働くけれどもあまり働かなくなる。そうすると生産は減少していく、みたいなことがマイナス点で出てくるかもしれません。
 このイメージは、ロシアみたいな構造社会主義国のイメージにすぐ転換できると思います。そう考えていくと、構造社会主義国のイメージがそっくりそのまま出現してしまうみたいなことがすぐにできる気がします。それくらい、イメージの交換が可能になってきているように思います。
 限界ということで言ってもそうです。資本主義の産業はどこまでも生産手段が高度になって、どこまでも生産が拡大して、どこまでも膨張していくのかどうかということが一つあります。どこかに限界があるのではないかという感じがします。
 もし、その限界に近づいていこうとする。あるいは、近づいていったとすると、たぶん元あった限界はまた逃げてしまうのではないか。また「あそこが限界だ」ということでどんどん高度になり、どんどん膨張していくと、向こうの限界がまた逃げていってしまう。どこまで追いかけても、限界は見えるけれども限界はどんどん遠のいてしまうことがあるような気がします。

3 伝統的な都市の地勢と町筋

 限界のイメージは何となく設定できるけれども、その限界に近づいていけばいくほど限界は逃げて行ってしまう。そういうシーソーゲームがどこまでも続いていく気がする。さしあたって、そういう気がします。いつでも遠のいていくことができる限界のイメージは、ある意味でかなりよく見えてきているのではないかという感じがして仕方がありません。現在の状態を考えると、大雑把に感じているイメージの特徴だと思います。
 具体的なことに入っていきますが、この特徴を一番見やすいのは何かというと、都市であるような気がします。都市の問題に入ってしまいますが、現在の都市は、いま申し上げた限界のイメージと交換可能なイメージを一番よく具体的に象徴している気がします。
 日本の場合、具体的な例を取って言うと、京都みたいに低い山に囲まれた盆地に発達した都市と、背後に山、前に海を控えた平野に発達した都市と、大雑把に言うとその二つの都市が日本における都市の地勢です。そのどちらの都市を持ってきてもいいのですが、都市の中にいくつかの流れがあります。流れをどう見極めるかで都市の特徴と都市の発達の仕方が決まってしまいますし、都市の見極め方、イメージも決まってしまう気がします。
 東京でも京都でも同じですが、東京で言うと下町と山手があります。山手は一種、低い山の近所にできた町ですが、それから東京湾に向かって東京が発達し、下町は東京湾に近いところにできた町です。東京で言えば下町と山手に、非常に共通した町があります。
 何かというと、昔ながらの民家があって、昔ながらの特徴ある町の筋、道の筋、家も特徴のある民家が並んでいます。そこに商店街があって、ごく普通に人々が住んでいる町です、山手は山手なりに、下町は下町なりに、それぞれの特徴が割合に色濃く明治時代、もっと前の江戸時代から続いている。東京では、そういう町筋が山手と下町の両方に残っています。
 簡単に言うと地面に民家があって、商店街があって、人が住んでいる。隣近所に住んでいる人も、それほど変わらない。割合に由緒あるというか、特徴のある町があります。それはたぶん京都でも同じで、そういう場所があると思います。日本だけではなく、どこの都市を取ってもそういう場所は必ずあると思います。いま申し上げた、東京で言えば下町や山手の町筋は流れがそんなに速くもないし、ジグザグしてもいない。そういう流れが、そういう町筋を流れている流れ方だと思います。どこの都市へ行っても、こういう流れ方をしているものは必ずあると思います。

4 矛盾したものの共存するビル

 ところで、急激な都市の変化や膨張を司っている流れは、そういう町筋とは少し違います。東京で言うとそういう町筋から少し内側に入ったところ、たとえば渋谷地域、新宿地域、池袋、上野、青山、六本木とかいくつかの地域では急激な変化をしています。その急激な変化の仕方は、僕の理解の仕方では二つあると思います。
 一つはどういうふうに見極められるかというと、急激に変化した新しいものの間、あるいは中に古いものが包み込まれてしまっている。悪い言葉を使うと、新しく急激に変わっているものと伝統的な古いものが矛盾を来している場所、地域があります。
 僕は京都の町はよくわからないけれども、たとえば比叡山から下を見ると、比叡山の高いところまで新興住宅地みたいなものがはい上ってきている感じ、昔と違う感じがあります。そういうものはその一つで、それを愉快に思うか不快に思うかは、それぞれの人の好みと主観によります。いずれにせよ古い町筋、古い地勢と非常に新しい急激なものとが矛盾を来している場所や地域、建物がある場所があります。いま急激に膨張しているどのような都市を取ってきても、必ずあると思います。
 東京で言うと、一番そういうものを象徴するのは、一つのビルの三階や四階にプールができてしまっている。それから、ビルの何階かに日本料理店があって、日本料理店の奥には貸し茶室ができている。そういうビルがよくあります。京都にもあるのではないかと思いますが、よくわかりません。東京では、そういうものがいくつもあります。
 つまり、本来、地面にあってしかるべき割に自然に近いものが、ビルの何階かに入ってしまっている。一つのビルの中に、非常に矛盾を来したものが共存しているビルがあります。ビルとしてもそうですし、場所としてもそうだと思います。
 京都の郊外も山が切り崩されて宅地がどんどん浸透していくし、山に向かって新興住宅街がどんどん延びていくみたいなことがあるでしょう。そういう矛盾を来した場所、あるいは矛盾を来した建物があると思います。都市が急激に膨張していくときに必ず生じてくる一つの流れだと思います。その流れはある意味で停滞した流れですし、同時にじっと停滞しているのではなくて内部に激しい矛盾を持ちながら停滞している流れ、こもっている流れと考えると、そういう箇所は現在の大都市には必ず一つあります。

5 イメージと現実が交換可能な多重空間

 もう一つ、違う流れの系列があります。その流れの系列は何か。都市は急激に膨張する面と収縮する面と両方ありますが、本来ならばビルとビルはしかるべき間隔を持って建てられて、町筋、ビル街はできています。東京でもそういうところがありますが、新興ビル街、あるいは古いビルに新しいビルのフロアを継ぎ足したところへ行ってみると、本来ならビルとビルの間にしかるべき空間があって、という場所のゆとりがなくなっている。ビルとビルの間にまた違うビルが建ってしまったり、ビルが構成している空間が身動きならないくらい重なり合っている。ある場合は、この重なり方は過剰ではないかと思えるほど過剰に密集している。
 つまり、言ってみれば、人間の一つの視野ではビル街ならビル街の一つの空間が見えるはずですがそうではない。本来ならば一つの視野の中で見えるべきものではないような、三つも四つも重なった空間が一度に入ってしまっている場所があります。あまりにもビル街が密集してしまって、本来なら一つの視野には見えないはずの空間が幾重にも重なっている場所があります。これも、現在の膨張していく大都市の大きな特徴なのではないかと思います。
 そういうところへ行くと、たとえば一方のビルの何階かにレストランがあって、そこから隣のビルを見ると隣のビルの中でジムをやって動いている人たちが見える。ジムをやっている人たちが見えて、その窓越しの向こうには違うビルの窓が見える。そこからまたJRの線路が見えて電車が走っていて、電車の中で人が座ったり立ったりしているのが見える。本来ならばそんなことがありえないような空間が幾重にも重なって見える場所、密集ビル街があります。これは、現在の大都市が持っている非常に大きな特徴ではないかと思われます。
 先ほど交換可能のイメージと申し上げましたが、ビル街の密集地で空間が幾重にも重なっているところは、本来ならば現実の一つの人間の視野に収まっているビルの建物があって、しかるべきところにたくさんのビルの重なり合いがあります。幾重にも空間が重なっている光景が出現していますから、よくよく見ると、空間が重なり合ったところで一種のイメージが出現する場所です。つまり、空間が重なったところでイメージが勝ってくる。空間が幾重にも重なっている箇所は、よくよく見ると現実よりもイメージのほうが勝ってくる場所ではないかと思います。
 そうなると、実際に自分は一つの視野で現実のビル街の光景を見ているわけですが、集中して見ていると、空間がたくさん重なったところでは現実のビル街を見ているのではなくて、イメージを見ているみたいに錯覚されるところがあります。それは、これから膨張していく都市の非常に大きな特徴のように思います。つまり、そこでは現実の町筋やビル街の光景がイメージとすぐに交換可能である、交換できてしまう場所だと思われます。それは、とても大きな特徴の気がします。極端なことを言うと、東京でも京都でもいいのですが、ビルがものすごく密集して折り重なった空間がどうしても一つの視野の中に見えてきてしまう。そういうことが出てくると、たとえば町筋が全部そうなったとすると、僕の理解の仕方では都市はイメージになってしまうだろうと思います。
 現実の町筋を歩いているけれども、あるいは現実の町筋を歩いている人を見ているけれども、現実の町筋のビルを見ているけれども、現実を見ているのではなくて都市のイメージ、その中を歩いている人のイメージを見ている。自分もイメージの中の人になってしまった。極端に言うと、まるで映画を見ているように都市が見えてしまう。現在の都市で多重空間がすべてを占めてしまったら、たぶんそのときにはイメージと現実を交換してしまっているだろうと思われます。
【テープ反転】
……が出てくるだろうと思われます。一種極端な言い方ですが、そういうふうに現在の都市が多重空間をつくりながら、あるいは凝縮空間をつくりながら、一種イメージに近づいていくことがあると思います。
 もっと言うと、先ほどの言い方をすると、イメージと現実がどこかで転倒してしまう箇所を設定できる気がします。極言でそう言えますが、現在の都市はだんだんそういうところに近づいていくだろうと考えることができると思います。

6 膨張する限界のイメージ

 もう一つは、現在の都市の膨張ということです。ビルの中に茶室があったり、プールがあったり、本来は地べたにあるべきものがビルの中にある。あるいは、ビルの屋上にまったくとてつもない教会が建っていたりするということも同じです。本来地べたにあるべきものがビルの中に入ってしまっている場所、それから京都みたいに比叡山に向かって新興住宅街が攻め上っている感じのところ。極端なことを言うと、いまに比叡山全部が住宅街になってしまうぜという感じがあるでしょう。一種、都市というものに限界を定めたいのですが、限界を定めることができない。あそこが限界だ、比叡山の麓が限界だと思って宅地開発していったらそうではない。「まだ上が大丈夫だ」、みたいになってきた。行ってみたら、「崩せばまだ大丈夫だ」で崩すみたいなかたちで、どんどん限界は先へ行ってしまう。極端なことを言うと、比叡山を全部飲み尽くして宅地が広がったということがありうるかもしれません。
 つまり、一つの限界のイメージがどんどん膨張していくけれども、確かに限界はそこに見える。あそこ以上は行くはずがない。あそこは山だ、丘だ、あそこが限界だと思っていて、密集していくと今度はまた限界が遠くへ行ってしまう。東京はどこかに限界があって、これでは東京ではなくなってしまうではないかと思われていると、住宅地とビル街がどんどん膨張してかって設定した限界は全然なくなってしまいます。極言を言うと、山梨県の富士山麓までどんどんつながってしまうというイメージをつくることができます。
 そういうふうに、ある限界が見えている。これ以上、行くわけがないと限界が見えているけれども、限界まで近づいてしまうと限界はまた遠のいていく。また、あそこが限界だ。そこを設定するとまた遠のいていくということがあって、それが現在の都市の一種の膨張のイメージと思われます。膨張のイメージと限界は、いつでもそこへ近づいていけば退いてしまう。そういうふうに考えていくと、どこに限界を定めていいかのイメージが明瞭に浮かんでいながら、いざそこへ近づいていくと限界は遠のいてしまう。そういう一つの都市のイメージをつくることができます。
 もう一つは、先ほど言ったように空間が重なったところで現実とイメージの世界がどこかで転倒してしまうのではないか。あまりに多重な空間が一つの視野に入ってくると、人間は現実とは思えなくなってしまうことがありうる。そうすると、イメージと現実がどこかで転倒してしまう。密集のし合いが、現在の都市のイメージとしてつくれるのではないかと思います。
 いま申し上げた二つの極端な流れが、現在の都市の急激な変貌の仕方を象徴している流れだと思われます。つまり、東京、京都、大阪だけではなく、ニューヨークへ行っても、ロンドンへ行ってもそうだと思います。いま申し上げた二つの流れが、現在の都市のイメージをつくっているだろうと思います。そのイメージの外側か、上手か下手かわかりませんが、昔ながらの町筋に昔ながらの商店街があって、昔ながらの人が住んでいて、というところがある。そこの流れはあまり移り変わらない。昔ながらのさまざまなものがそこに残っている。人も残っている。人の人情がそこに残っているところもあると思います。
 それから、いま申し上げた相対照する二つの急激な流れがあって、それらが寄せ集まって現在の都市、大都市のイメージをつくっていると思われます。たぶんこの二つの流れを押さえれば、そこで変化していく都市のイメージがつくれると思います。たとえばビルの中にお茶室があってというビルの流れは、よくよく見ると、非常に象徴的に町筋、都市、地域の伝統と伝統の壊れ方がどうなっているかを見ることができる流れだと思います。空間が密集して重なり合ってしまうところは、現在の都市がやがてどうなってしまうのか。現在の大都市がイメージと現実が転倒するような場面に展開していってしまうのかを、とてもよく見られる場所だと思います。つまり、空間が重なり合った、ビルが密集し合い、イメージと現実が転倒してしまう箇所をよくよく見ていくと、これから都市はどうなっていくかの流れを見ることができると思われます。

7 資本主義の死後の世界

 この問題は先ほど言ったように、制度の問題、産業の問題など全部を象徴するに足る二つの流れだと思います。好き嫌いで言えば、自分はそういう流れは好きではない。昔ながらの町筋があって、昔ながらの商店街があって、昔ながらの人が住んで生活している場所が都市の中でも好きだという人もいるでしょう。いや、俺はものすごく空間が重なり合って、一瞬も止まらないで変化していく場所が好きだという人もいるでしょう。好き嫌いで言えば人さまざまです。それぞれの人の好き嫌いは別でしょうが、そういう流れを見ていくと、制度の問題でもそうですが産業の問題、たとえば都市と農業とのかかわり合いはどうなるという問題、そういうイメージもそこで象徴しているように思います。
 たとえば、本来地面にあるべき日本庭園がビルの中に入ってしまっているところが東京にあります。そういうところを見ていると、僕の理解の仕方では、そのイメージはやがて都市は農村を都市の中に入れてしまうイメージになっていくと思います。産業のイメージは、そうなっていくような気がします。ビルの中のそういう箇所は、そういうことを象徴しているように僕には思われます。
 ビルの空間が重なり合って、イメージと現実が転倒してしまう都市の空間は、これから技術や生産手段が展開していった場合にどうなっていくだろうか。つまり、産業、都市、農村という問題はどうなっていくだろうか、制度の問題はどうなっていくだろうかということの、ある象徴のように思われます。
 制度の象徴として言うと、イメージと現実が転倒してしまうところは、僕の理解の仕方では、制度の無意識と意識とが転倒してしまう箇所のような気がします。制度の無意識がどこへ行ってしまったのか。資本主義の未来には何があるだろうか。資本主義の未来には死があるのだろうか。そうではなくて死後の世界があるのだろうかと考えると、資本主義のある限界が見えて、ここが資本主義社会の死ではないかと思って近づくと、まだ向こうに限界が退いている。その限界の向こうには、死後の世界がちゃんとある。
 死後の世界はまったくイメージの世界で、死後の世界を思い浮かべようとするならば、あるいは死後の世界をつくろうとするならば、無意識、あるいはイメージをつくるより仕方がないとなっていくと思います。そういう問題が制度の問題としても、都市の未来の問題としても、産業の問題としてもあるでしょう。つまり、何となく無意識をつくっていくより仕方がないのではないか。そういう課題が、いま空間が折り重なって密集している場所のイメージを象徴している気がします。都市のイメージの流れは、たぶん全般的に制度の問題、産業の問題など全部の象徴と考えることができそうな気がしています。都市のイメージをつくる場合、こういうことが重要だと思います。
 好き嫌いの問題で言えば、僕も下町の育ちですから、下町の汚い民家が並んで、商店街がごちゃごちゃしていてというところが好きです。そういうところは比較的あとまで残っていくだろうし、残っていきながら、やはりだんだん滅んでいくだろうという感じがします。しかし、そういうところは、比較的に滅び方は急激ではなく、だんだん変わっていくだろうという気がします。
 そういう箇所と、いま申し上げた急激に変わっていく、急激に膨張していく二つの極端な流れ全体が、現在の都市の問題を象徴しています。あるいは、現在の都市のイメージをつくる場合に、一番重要な箇所ではないかと思われます。これは事柄が大きい問題、事柄が小さい問題、つまり一つのビルの内部の問題にも縮小できますし、制度の問題、社会全体の問題、あるいは自然を守るか、自然を都市の中に包括させてしまうかの問題だということもできる。大問題かどうかは別として大文字の問題、小文字の問題、どちらにも縮小、拡大できる問題と考えていいのではないかと思います。

8 森伸之『女子高制服図鑑』

 ここから小文字の問題に縮小してしまおうと思います。何かというと、ファッションの問題です。ファッションの問題で今日、僕がお話ししたいテーマが一つあります。つまり、ファッションとは何かということです。
 ファッションとは何かという場合に、ファッションはイメージか言葉か、どちらかだと考えたらいいのではないかと思います。イメージか言葉かどちらかだと考えていく問題が重要な気がするので、そこの問題を具体的に小文字の問題でお話ししたいと思います。
 例を持ってきました。本屋さんの宣伝ではないですが、これは去年か一昨年、弓立社という僕が知っている小さい本屋さんから出た『東京女子高制服図鑑』です。ベストセラーになった本です。皆さんも買われたかもしれないし、読まれたかもしれない。本屋さんで立ち読みされたかもしれないですが、東京の私立女子高の制服を網羅的に集めて描いてあります。
 何から申し上げましょう。これがなぜベストセラーになったかという要因から申し上げましょうか。僕に言わせると、いくつか指摘することがあります。なぜベストセラーになったか、一番重要なのは、これは相当いい本です。(笑)そこが問題で、僕はそれで論争したくらいです。
 なぜいい本か。どこをもって人々が「いい本だ」と思ったかということがあります。思わない人もいます。とんでもない本だと思った人もいるわけですが、僕はいい本だと思います。どこがいい本かというと、これは相当、執着している。つまり、女子高生の制服が好きで好きで、子どものころから好きでうんと執着している人が相当丹念に集めて描いて観察して、これをつくり上げたと思います。絵自体は決して悪い絵ではないですが、そんなにいい絵ではない。このくらいの絵なら描ける人はたくさんいると思いますから絵としてそれほどいい絵ではないけれども、決して悪い絵ではない。これはおかしな風に描いた。もう少しおかしくしてしまったらちょっと嫌だなとなってしまうし、乱暴も描いても嫌だ。これはていねいに、割合にふわっとした表情でふわっとした姿勢で描いてあります。
 ある意味でそういう要因もありますが、一番大きな要因は相当に執着した作者が長い年月をかけて、長い執着と長く愛好した問題をちゃんと表現したことが、めくっているだけでだれにでもわかります。理屈としてわからない人でも、「これいいな」と思った人でも、たぶんそれは感じています。
 僕は批評家で言葉にしようと思うから、言葉にして一番重要なのはそこだと思います。ベストセラーだからたくさん買ったのでしょうが、買った人はみんな、これはどこがいいのか、言葉で言えなくてもわかっているわけです。何がわかったかというと、執着がわかったと思います。この人がどれだけ執着して年月をかけたか。一見、つまらないように見えて、年月をかけて執着して、好みも入っている。万感無量、さまざまな思いが入って、しかもそれは殺しながら入れてある、つまり、図鑑、カタログにしながら入れることがちゃんとできている。言葉で言わない人もそのことをちゃんと評価したということを、僕は信じて疑いません。
 つまり、批評というものは言葉では言えないけれどもだれもが感じていることを緻密に言葉にできたら一番いい。それが批評の極限で、別に特別なことを言うのが批評の極限ではありません。もっと言えば言えるでしょうが、第一の要因はそれだと思います。これを買っていいと思った人は、ちゃんとそれがわかった人だと思います。
 しかし、これを悪いと思った人がいるわけです。悪いと思った人はどうして悪いと思ったか。こんなのくだらない、意味がないじゃないか、つまらないことじゃないか。別に女子高生の制服がどうだろうと、そんなことは大問題ではないじゃないか。それよりもっと大問題はあるだろうと思っている人はくだらないと思った。そう思った人はたくさんいます。
 僕らがよく知っている親しい人たちでも、二通りの評価があります。「くだらない。なぜこんなものがベストセラーだ。女子高生の制服がどうだっていいじゃないか」という人と、「わかった。これはいいよ」という人と両方いました。僕はこれがいいということがわかったほうがいいと思います。そういう段階に来たと思います。これを「くだらない」で済ませる段階は過ぎたと思います。左翼思想というのも、もっと緻密にしたほうがいいと思います。(笑)たとえば国家の利益と資本の利益のどちらがいいと言ったら、資本の利益のほうがいいのです。いい、とちゃんとはっきりしたほうがいい。そういう段階をちゃんとしたほうがいい。どちらもだめだという時代は過ぎた、それで済んだ時代は過ぎたと僕は思います。そこで論争したのですが、これがいいということをわかったほうがいいと思います。僕はいいと思います。わからない人より、わかったほうがいいと思います。僕はわからない人とけんかしたわけですから、(笑)そう言わざるをえない。両方わかる人が一番いいですが、わかったほうがいいと思います。そこがこれのいいところだと思います。
 「それは商業主義だ」という人がいるから、出たからいいわけではないけれども、言葉では言えない多くの人も、これがいいとわかった人が買ったに違いない。それが大勢いたということは、そんなに悪いことではありません。言葉で言えなくても、それは悪いことではないと僕は言いたいのです。これからがファッションの問題です。(笑)

9 言葉としてのファッション

 ファッションの問題は何なのか。先ほど、言葉かイメージかどちらかだと言いました。イメージだという場合にはこれでもいいですし、まして図鑑だからこれでもいいのですが、「ファッションは言葉だ」という観点があります。
 たとえば日本のファッション雑誌があるでしょう。僕がモデルになったというデマを飛ばされて、何か言われて論争になったのですが。(笑)「アンアン」みたいな雑誌を見る。「アンアン」でなくてもいい、「マリ・クレール」でもいいです。(笑)どちらでもいいですが、日本のファッション雑誌は言葉ではない。どちらかZというとイメージです。映像や写真でファッションを見せています。買う人も、たぶんそれを見て「これいい」と思う。脇に何がいくら、だれのデザインとか書いてありますから、それで注文する。まずファッションをイメージとして見て買います。
 ところで本家本元のファッション雑誌は、そうでもないものもあります。つまり、「ファッションは言葉だ」ということがある。この問題を申し上げたいわけですが、たとえばその観点からいくと、この図鑑はあまりよくありません。日本の水準としてはいいけれども、究極のファッションの問題から言うとそんなによくない。
 どこがよくないか申し上げましょうか。たとえば制服の側に、「髪の毛は長い子が多い」と言葉が書いてあります。大東学園には「概して表情が明るい」と書いてある。ここに、「普通は八個のボタン、規律委員のバッジをつけた女の子は一個もなかった。困ったものだ」と書いてある。これが一つの例です。
 もう一つの例を挙げると、「リボンをつけてくる子が多い」、「ネクタイは紺」、「セーラーカラーは紺地に白の三本線」と解説が書いてある。要するに、これがこの図鑑の言葉です。いま二通り申し上げましたが、この二通りが図鑑にあるファッションの言葉です。
 いま申し上げた「スカートが紺」とかは解説の言葉でしょう。あるいは、ただ言っているだけでしょう。「かわいい子が多い」は主観的な感想でしょう。つまり、日本のファッション雑誌の水準はみんなそうですが、ファッションの写真があって言葉がついていますが、たいていは解説の言葉か、そうでなければ主観的な感想の言葉です。
 ところが、本当はそうではありません。「ファッションは言葉だ」という場合には、ファッション自体がこのファッションを説明しながら、しかもその言葉自体が一種のポエジーになっていなければだめです。つまり、言葉としてのファッションにはならない。ここが非常に重要なことだと思います。「髪の毛はこういう子が多い、ネクタイは紺だ」というのは、指示しているただの解説の言葉でしょう。「かわいい子が多い」は主観的な、作者の感想の言葉でしょう。少しもポエジー、詩ではありません。これはファッションを描いた絵ですが、もし「ファッションは言葉だ」という段階を想定するとすれば、描いた絵に対して言葉が詩でなければ、詩でこれを言えていなければファッションの表現としてはだめです。片手落ちで、まだ半分のレベルで、そこが問題です。

10 究極のファッション論へ

 僕は知らないけれども、たとえばフランスならフランスのいいファッション雑誌だったら言葉だと思います。写真はどうだということはもちろんありますが、言葉だと思います。言葉で必ず買わせてしまう。言葉を見ただけで読んだ人はイメージがわいてきて、それで買う気にさせる言葉になっていると思います。つまり、それが究極のファッション論で、究極のファッションはそういうものです。
 日本のファッションの段階はそうではありません。たいてい写真があって、モデルさんが着て撮影してあって、「これはいくらでどこだ」と書いてあります。言葉があるときには、必ず主観の言葉か解説の言葉が書いてあります。しかし、ファッションの極限のことを言うと、本当はそれはあまりよくない。言葉自体がファッションになっていなければだめです。それが日本のファッションの段階だし、たとえばファッション論はそういう段階です。
 本当は、言葉でできなければ嘘です。言葉を読んで買う気になってしまったというくらいの言葉でなければ、「ここが紺」と書いてあっても別に買う気にならないでしょう。「スカートが紺」と書いてあったら買うぞということはない。スカートが紺というスカート自体のイメージを詩の言葉で言えなかったら、スカートのイメージを彷彿させるだけのことがなかったら、言葉でファッションを買うことはないでしょう。高度なファッションの指標は、そういうふうになっています。
 皆さん、ファッションの雑誌を読まれたことがあるかどうか知らない。雑誌を読めばすぐにわかりますが、ファッションについて書いている人は全部解説か主観的な願望、感想です。そんなものは本当はファッションの批評でも何でもない。批評家が本気になって考えたら、そういうことをするわけはない。そこの段階が問題で、批評家がそうであるしファッション雑誌がそうである。写真もそうだと言いたいのですが、これはこの次に言います。そういう段階で、それがファッションの現状です。
 この現状は、「ファッションを論じたら堕落だ」という人がいることとちょうど見合っています。「冗談じゃない」って冗談じゃない。(笑)小文字のこと中に重要さを発見できなかったら、もともと芸術や文学は成り立ちません。本当はそうではない。
 これはいい図鑑ですが、そういう意味合いで、極端なというかファッションに究極の注文をしてしまったら、この図鑑はそこがだめだと言えばだめです。しかし、日本のファッションの水準は全部そのへんで止まっています。雑誌をご覧になればわかります。

11 ファッションのイメージ

 今度は映像でやりましょう。本当はもっといい例があったのですが、売り飛ばしてしまったから。(笑)ファッションのイメージについてやりましょう。これは「アンアン」です。去年かおととしか忘れましたが、普通の子が着ているものを募集して、その中でグランプリになったものです。雑誌「アンアン」に載っていたもので、こちらの人は準グランプリ、こちらの人はグランプリになりました。
 これを見ると、これはごく普通の人でモデルさんではありません。一番、原型です。ファッション雑誌の映像、イメージとして原型です。ごく普通の娘さんが町で着ていて、審査員が審査したら一番よかったものを着ている写真ですから、あらゆる意味で原型です。
 専門的になると何が変わっていくかというと、モデルさんが普通の娘さんではなくて玄人さん、専門のモデルさんになります。着ているものは、この人が個性によって、自分の予算の範囲内で精一杯おしゃれしたものとは違って、ファッションデザイナーがデザインした服をモデルさんが着て写真を撮った。これを原型とすれば、そこから少し専門化したのがそういう写真です。あらゆる意味で、これが原型の写真です。
 「これでよろしいではないですか」と言いたいのですが、そうではない。もしファッションとはそうではないというとすれば、一つはここに書いてある言葉はただの解説ではないか。それはだめだ、ということが一つです。
 だめだ、だめだというのはよくないですが、ファッションの究極のイメージで言いたいから申し上げると、これは芸のない写真です。やはり素人さんというか、普通の娘さんです。それでいいけれども、文学も小説も、専門家と素人がたまに書いてみた小説と、両方ともいい小説だけれども比べたら違うだろうということと同じ意味合いで申し上げています。
 これが悪いと言っているわけではない。これでいいし、本当はこのほうがいいのかもしれない。また違う基準が入ってきますから別ですが、これを原型とするともっと高度なファッションのイメージをつくれないかということになります。やってみましょうか。
 もっといいものがあったのに残念ですが、これでやります。これは専門のモデルさんが着て、カメラマン、ファッションデザイナー、演出する人の注文に応じて、ある一つの動くポーズをとったファッション写真だと思います。このほうが高度なものだと思います。
 なぜ高度か。口で言わなくても、緊迫感が違う。どちらがいい、どちらが上かは人それぞれだから何とも言えない。好き嫌いがありますが、いま緊迫感と言いましたが、こちらのほうが映像の空間に無駄がないでしょう。これは緊迫感が何もない。(笑)ないほうがいいのです。あったら逆に困ってしまう。こちらは何もない。ポーズにもない。ごく普通の人を普通に撮っています。
 これは専門のモデルさんに専門のポーズを取らせて専門の写真家が撮った。こちらも専門の写真家が撮っていますが、こちらのほうが空間に緊迫感があるでしょう。こちらのほうがいいと思います。ファッションの映像としては、こちらのほうが究極に近い映像と考えるのが妥当だと思います。
 これは外人の写真家が撮っているけれども、そんなに悪くはないですね。これも割合にいいのではないか。でも、それほどよくはない。(笑)こういうものもそうですが、どう言ったらいいのでしょう。「俺はこういう服を買いたい」という意味だったら、ここらへんにいくらと書いてあるから買うでしょうが、映像自体を見て買おうという買い方とは少し違います。こういうかたちのこういう色の服で、俺は似合うから着よう、買おうという買い方はこれでたくさんですし、これで?するでしょうが、この緊迫感を感じて買おうというふうには買わないだろうと僕には思われます。
 これはそんなに悪い写真ではありません。いいほうの写真ですが、写真で買おうということはないと思います。これもそうだし、これもそうです。こういう服を自分も着たいから買おうということはあるかもしれないけれども、これを見てこの緊迫感ががっと入ってきたから自分はこれを買おうという買い方の人はまずそんなにいないと思われます。
 なぜかというと、イメージとしてのファッションにおいては、それほどできていないからだと思います。しかし、ファッション雑誌の大部分の写真はみんなこれだということを、よくよくご覧になって見られたらいいと思います。みんなそういうふうにできています。

12 写真家とモデルの関わりあいの次元

 ここに貼ったものは、それぞれ悪くありません。これはいいと思います。これや一番初めのこれは、こういうファッションのイメージはなぜつくりにくいか、なぜそんなにできにくいかを申し上げます。写真の専門の人がいれば僕よりよく説明するだろうと思いますが、写真家が「こうだ」というとモデルもすぐわかってしまう。そこの呼吸が緊迫した意味でものすごくよくできていなければ、こういう写真は撮れません。
 日本の写真家と日本のモデルさんがファッション雑誌の写真を撮れば、「もっと笑って、もっとあれして、いいよ、いいよ」で、要するにそういうものしかできない。モデルさんと写真家の関係は、日本の場合、つくりにくいのです。要するに、馴れ合ってしまえば非常に低次元で馴れ合う。「帰りにどこか飲みに行きませんか」「ホテル行きませんか」みたいな馴れ合い方、気心が知れて仲良くなるという気心の知れ方の次元が低いのです。
 これでいってしまうのはよくない、しかし、これでも言っておきましょうか。これをもっていいとする。つまり、こういう写真は撮れないのです。モデルさんと写真家がもっと高次元なところで感応できるというか、「俺のイメージはこうだ」と写真家が言った場合に、「わかりました、やってみます」とすぐ呼応してできる。かなり高度で緊迫した意味でそれができる関係がモデルさんと写真家の間になかったら、こういう写真は撮れません。
 「日本人が」というと悪いので、そういう言い方として聞いておいてください。日本の写真家が撮ると、こういう写真になってしまうわけです。何をにこにこしてんの。(笑)笑っていることにあまり意味がない。愛想を振りまいているという意味はもちろんあります。写真家が、「読者へのサービスだから笑って」という言い方をする。冗談じゃない。笑うには笑う必然があるわけで、必然的に笑っている笑い方ではないわけです。
 しかし、この人が悪いのではない。要するに、写真家がこれでいいと思うから撮るわけだし、写真家のチームがそういう注文の仕方をするからこういう写真になる。だけど、笑っていることの意味などない。愛想を振りまいているだけでしょう。だから、あまり緊迫感がない、写真としてできがよくないでしょう。そうなってしまうのです。
 これは言ってみれば構造的な問題で、単に一写真家のレベル、写真の技術が高いか低いか、日本の写真家は向こうの人に比べるとレベルが低いということではない。もっと構造的な問題です。モデルさんと写真家とのかかわりあいの次元が違う。親しくなり方の次元が違う、モデルさん自体の知識、教養が違う。教養は知りませんが、人間の何かがまるで違う。
 それから、写真家がどこでモデルと妥協するか。いい加減なところで妥協するか、そうではないかという問題が一つあります。専門家がおられたらよくおわかりでしょうが、写真は根気でしょう。くたびれたからもうこれでいいやとなってしまうようなものです。まだ我慢だ、我慢だということはなかなかできないし、相手は怒り出す。モデルはぐずぐず言い出すし、不機嫌になってくるし、相互の関係が耐え難くなってきますから、なかなかそこまでやれないということがあるでしょう。

13 ファッションの内在的問題

 さまざまな構造的要因を含めて、ファッション雑誌の写真はこういう次元にしかありません。ファッション雑誌はミーちゃん、ハーちゃんが読むものだし、そういう程度のものであってという意味合いではない。「アンアン」はそうではない。いい雑誌だと言うし、論争のときもそういう主張をしました。なおかつ、今度はそういう人が論争相手ではなくて、これ自体の内在的な問題として言うならば、「アンアン」はやはりだめですよね。(笑)こんなもので満足していたらだめだし、こんな写真を撮っていたら全然だめです。いい加減なところで妥協しているのです。もしかしたら自分自身の中にそういうものがあって、「どうせミーちゃん、ハーちゃんが読むものだからこのくらいの写真を撮っておけばいい」という心がどこかにあるのかもしれません。
 僕と論争したような人たちが「これはミーちゃん、ハーちゃん雑誌だ」と心の中でばかにしているのと同じです。「俺は高級な小説を書いている」と思っているのと同じで、写真家もばかにしているかもしれないけれども、本当はそんなものではありません。ファッションはそういうものではない。やればとことんやれるものです。
 もちろんデザインもそうだと思います。とことんやるものです。冗談じゃない、ファッション誌は低級でも何でもない。いまの日本の雑誌、ファッション、イメージ、言葉の段階はそういう次元にある。ファッションデザイナーの本当に少数の人たちは、だいたい行っていると思います。世界的な人だな、と思える人がいると思います。
 それはすごいと思います。何よりも感銘を受けます。日本に国際的映画監督はいっぱいいますが、世界的な作家はなかなか、首を傾げてしまうと思います。だけど、ファッションは世界的だという人が少数でもいると思います。よく見ればそういうことがわかりますし、僕はそこまで細かく見てほしい。細かく見る以外に、現在を通り過ぎる道はないだろうと僕自身は思います。大雑把なところで右と左に分けるなら、そんなことは簡単なことだ。そんなことは通用するわけはないと思います。もっと細かく見る段階に入ってきてしまった。そこのところをとても言いたくて仕方がないわけです。
 つまり、そこしか主張点はありません。そこの問題を微細にできたらたいしたものだ、非常に重要なことだと僕自身思っている。ファッションについてもそう思います。そこがいまのファッションの問題だし、段階だと言いたい。僕が言ったことがヒントになって、皆さん、これまではファッション雑誌など見向きもしなかったけれどもおもしろいからめくってみるか、と思う。
 ファッションだからだめなのではありません。ファッションなどに気が行っているからだめだ、ファッションなどつくっているやつはだめだ、読んでいるやつがだめだということではありません。そんなことはないのです。それはいいのです。いいけれども、ファッション雑誌自体、内在的にいいか悪いか、どこがだめかを皆さんが落ち着いてよくよく見えるようになられたら、いいことのように思えて仕方がないと思います。そこまでやらないと、いまの激しい転換期についていくことはなかなかできないだろうと思われて仕方がありません。
 ファッションの問題の主題は、そこらへんにあると申し上げます。これは言葉の規則であり、同時にイメージの問題です。その二つの問題を抱えているのが、いまのファッションの段階ではないかと僕自身は考えています。

14 ビートたけしのフライデー事件

 最後にファミコンのことでもいいのですが、ビートたけしの「フライデー」襲撃事件がありました。それについて、お話ししたいと思います。僕の感想を申し上げます。
 ビートたけしが弟子どもと「フライデー」に押しかけて暴力行為を働いた事件ですが、新聞やテレビのニュースで初めて知ったとき、僕が即座に「あっ」と思って感じたことは何かということを申し上げます。その感じは、たぶん僕は正確だと思っているけれども、だれもあまり言わない。僕が瞬間的に感じたのは、「これは三島由紀夫事件だ」ということです。現在のかたちでの三島由紀夫事件だということが、ビートたけし事件についての僕の一番根本的な感想です。
 ここが先ほどと関連しますが、三島さんの場合はちゃんと日本刀を手挟んで市ヶ谷の自衛隊の兵舎へ現実に行きました。中へ入って行って司令官か何かを取り巻いて、椅子に縛りつけておいてバルコニーに出てアジ演説をやった。集まってきた自衛隊の隊員たちは「なんだ、三島。やめろ」「なんだ、お前はいい気になるな」とか野次を飛ばした。三島さんは一生懸命に演説して、これはいかんという感じになって、途中でやめて入って行ってお腹を斬って死んでしまった。これが、三島さんが現実にその場所へ行き、三島さんが行った行為です。
 僕はそのときテレビで見ていました。映像を介して見ていたのですが、三島さんを見ながら三島さんが一番困難だと思った……
【テープ反転】
……行為だけれどもイメージのように思われてならないことになっていった。しかし、初めから予定の行動として行っているわけです。自衛隊の隊員がしらけ果てた野次を飛ばすだけで、さて、お腹を斬るということは現実問題、痛い。死ぬわけですから、そこはものすごく辛いことだったろう。ずかずかとやってしまったまるで夢みたいな行為の中で、そこだけがリアルな死の行為だと思われました。僕はビートたけしの「フライデー」襲撃事件で、即座に三島事件、しかも現代の三島事件だと思いました。
 何が違うかというと、こちらは一種、映像と現実がもはや交換可能なところで行われている三島事件であり、ビートたけし自体にとっては無意識の自殺行為だと思いました。三島さんと同じだというのはそこも関係しますが、これはビートたけしの自殺だというのが僕の第一印象でした。
 たぶん、僕の考え方は間違っていないと思います。これは自殺なんだ。もちろん三島さんの場合は意識した自殺行為で、初めから自殺を覚悟のうえで行って、覚悟のとおりに自殺しています。ビートたけしの場合には、たぶん意識的な自殺と思わなかったと思います。しゃくにさわってしょうがない、我慢ならないということで行ったのかもしれませんが、無意識の中では、ビートたけしは自殺しに行ったと僕は思っています。
 意識して自殺しに行ったのではないことはその後、自身の言うことからも明らかですが、無意識のうちでは自殺行為だとそのとき直感的に思いました。三島さんの事件と一番よく似ているというのは僕の感想で、その他の感想はいろいろ派生しますが、根本的なところはそこです。
 そこの経緯をもう少し申し上げます。僕はビートたけしの芸が好きで、割合によく見てきたからわかるのですが、あれをやる直前までやっていたテレビ番組がいくつかあります。それはどういう番組か。それで結局はテレビの流れを変えてしまいましたが、どう変えたか。
 ビートたけしたちがやっている「ビートたけしのスポーツ大将」といまも続いている「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」、両方の番組がそうですが、スタジオから街頭に出てしまって、街頭のある場面を即興的にスタジオにしてしまう、演技空間にしてしまうやり方をしていたと思います。これは「スポーツ大将」の番組でも同じです。
 つまり、スタジオ内、あるいはスタジオが拡張されたところでテレビの演技をしている段階で、演技している空間と視聴者の空間をいわば同じ次元でつなげてしまう。一種の解体する芸、芸の解体がビートたけしの芸の特徴ですが、解体芸をもって視聴者のいる空間とテレビのスタジオの映像空間を同じ次元に接続してしまうのが、あの人の芸のやり方です。結局、それがどう……。(終了)

15 質疑応答1

(吉本さん)
 (途中から)…7,8時間付き合ってということのほうが多かったんです。それから、学生さんの場合は、そういう場合には特殊なあれですから、しょっちゅう邪魔するやつと、ヤジを飛ばして邪魔するやつと両方いまして、そういう活発なものだったと思います。いまでもそんなに別にシュンとしていることはないとおもいます。ぼく自身はいいので、こちらに今日は雇われているわけですから、延びれば延びるだけ応ずるだけなので、いつでもそうしてきました。とことん付き合うというふうにしてきましたけど。今日はわかりませんけど、べつにそんなにシュンということはないと思います。

(質問者)
 たとえば、最近、スキャンダルかなんかで大統領が辞めるとかいってますけど、ああいうふうなスキャンダルというのは日本ではありうるでしょうか。女の問題でどうのこうのという。

(吉本さん)
 ああ、女の問題ですか。

(質問者)
 ああいうことです。日本はどうでしょう。日本の場合、ビートたけしはいろいろありましたけど、襲撃しなかったらああいうふうにならない。

(吉本さん)
 そうですね。

(質問者)
 襲撃したから、刑事問題になったからであって、女がいるとかいないとかでテレビをおろされることはなかった。

(吉本さん)
 そうですね。

(質問者)
 そのへんはどうなんでしょうか。

(吉本さん)
 それはアメリカだってないんじゃないでしょうか。女がいたからって。

(質問者)
大統領がだから?

(吉本さん)
 どうでしょうか、大統領だっていたっていいわけでしょうけど、そのいかたというのが問題になるわけじゃないでしょうか。相手の女の人がどういう女の人だということも含めまして、関係がどうだったということが、問題にするならなってくるわけでしょうけど。ほんとうはその手のことは問題になるのがおかしいように思うんです。それはプライベートの問題ですから。
 だけども、ぼくはそういうことを体験しましたけど、小規模でもありますけど、そういうのがいったん何かに載ってきますと、それはあるところで止めるということはできなくなってしまうことはあるんだと思います。それが正しかろうが正しくなかろうが、止めることはできなくなる。ある段階まではできないことはあるから、それは集団現象ですからいろいろあるでしょうけど。本来ならば問題にすべきことじゃないんじゃないでしょうか。
 ただ、そういうことを少しだけ変形して材料にするということは、いわゆる政治的な敵対者というのはいつでもやるでしょうから、そういうことで大きくなっちゃうということはあるし、そういうことはいつでもありうるというふうに考えられるんじゃないでしょうか。
 それから、もうひとつはやっぱり女の人のあり方が違うんじゃないでしょうか。日本の場合には政治家の女の人というのはあるとしても玄人さんじゃないでしょうか。まち合いの人とか、芸者さんとかというふうに、玄人さんじゃないでしょうか。
 そうすると、玄人さんというのは、そういうふうに江戸時代から習慣づけられているというか、訓練されているから、いちおうはそういうことについて口が堅いといいましょうか、あまり人に言ったりしないというあれをよく知っていると思います。それから、お金ということがそれを解いてしまう、女の人と問題が生じてもお金で解けちゃうということになっていると思います。
 それは、日本の政治家というのはそうじゃないでしょうか。日本の政治家で素人さんといいますか、そういうプロの女の人じゃない人とそういう恋愛関係があって騒がれたというのは、僕が知っているのはただ一例です。死にましたけど、園田直という人と松谷天光光という人は、あれは両方とも衆議院議員かなんかで、それで党派が違っていて、公然たる恋愛事件で一緒になりまして、奥さんは離婚して一緒になりました。あれしか僕は記憶にないですけど。戦後四五十年の間で、だから、あれは非常に公然たる唯一の例じゃないでしょうか。相手の人がほんとに好き嫌いとか、ほんとに理解しあってというような感じだったという唯一の例です。
 あとはそういうのじゃなくて、それよりも玄人筋の人というのが多いから、わりあいに問題にしようにもしようがないといいましょうか、それは郷ひろみが多少問題になったことはありましたけど。何々さんと仲がよかったといったって、あまり問題にはなりにくいような気がするんですけど。そこもやっぱりアメリカと違うんじゃないでしょうか。

(質問者)
「試行」はずっと長年やっておられますけど、経済的には成り立っているんでしょうか。

(吉本さん)
 だんだん危なくなってきているわけですけど、下り坂なわけですけど、予約購読者というのを、たとえば、読者が5000人いるとすれば、予約購読者は3000人いる。あとの2000だけは小売店さんに出すというような、そういうふうにして、いつでも予約購読者の数を上回らないようにしているわけです。だから、いつでも予約購読金の先を食べていると思います。だから、帳簿面はいつでも黒字になっています。
 しかし、たとえば、ぼくが「試行」をやめますと言って、清算して皆さんに残金をお払いしていったら、たぶんマイナスになっているんじゃないかなと思います。赤字だと思います。だけど、ネズミ講じゃないですけど、やっている限りは帳面は黒字になっています。だから、今後、2,3号で潰れるということはないですけど。だけど、ジリ貧ですから、いつどうなるかというのは、我ながらもこれはいかんと。

16 質疑応答2

(質問者)
 いちおう「試行」の定期読者なんで、まず、次の「試行」はいつ出るか。

(吉本さん)
 いま、第1回目の原稿を印刷屋さんに入れていて、うまくいって5月の末、まずくいくと6月上旬になっちゃう。

(質問者)
 いまの女の人の話を聞きたいのですけど。このあいだ、井上ひさしさんとお話されてましたよね、それでどこかの講演会の講演録を読んでいましたら、吉本さんがこの話をしたいけどできなかったというのを読んで。このあいだ、週刊誌の井上ひさしさんの談話だったと思うんですけど、見てましたら、どうして離婚したかということについて、奥さんが自分の買う本のお金よりも洋服代のほうが大きくなってしまったと、そのことが自分には我慢できなかったということが書いてあったんです。
 先ほど、吉本さんのお話にも出ましたけど、こういう井上さんの考え方というのはどことなく馴染めない感じがありまして、たとえば、だいぶ前だと思うんですけど、60年安保から70年安保のそのへんのこと、よくわからないんですが、丸山正男という人がやられましたよね、学生さんに。そのときに自分の本かなんかで、こういうことは許せないんだということを言ったことに対して、吉本さんは、それは丸山さんの考え方がおかしいんだというふうに言ったとおもうんですけど。そういうことと井上ひさしさんの考え方というのはひっかかってくるというか、重なってくるような気が僕はするんですけど、そのへんのことでちょっとお話しいただければ。

(吉本さん)
 ぼくはそういうことがいちばん興味深くて、また、あなたと同じように、ちょっとこのセンスは僕にはわからないなと思ったところと、両方なんです、いまおっしゃったことと同じなので、ひとつは先ほどのプライバシーはあるかないかということと、プライバシーの問題というのと同じか交換可能だという良い例なような気がするけど。
 奥さんも僕は関心をもっていましたから、おしゃべりしたいくらい関心もっていましたから、ちゃんといろんな雑誌の切り抜きとか、週刊誌をいまでも持っているし、集めたりしているんですけど。それだけのことなんですけど。集めているだけなんですけど。
 ようするに、テレビを見ていたら、奥さんのほうはやや自分は女性解放のひとつの先駆けをしているんだみたいな言い方をしているところがあったんです。これは、僕はプライバシーと交換可能な、転倒しちゃっているような気がするんです。冗談じゃないというふうに、てめえが離婚するのはてめえの夫婦の問題であって、なにをべつに女性解放と関係ねえよというふうに僕はすぐに思ったんですけど。そういうことをちょっと言ったんです。
 おやおやと思うと、この感性というのはどこから来るのかというふうに思ったんです。旦那のほうはなんていうか、テレビでもって、この問題はいろいろあるけど、自分は小説家だから小説でもって書かなきゃうまく言えないというふうに言っているんです。
 小説で書かなきゃうまく言えないというのはよくわかるところがあるんですけど。文学でなくちゃとても真実は指せないよという、そういうことはあると思いますけど。だけども、新聞社がいるとか、そういう場面ではちょっと言うべきことじゃないぞと、それは違うぞというふうに僕はおもって、ここでも僕はなんとなく作家である自分というものと生活人である自分というものとはもはや交換可能になっちゃっているというか、混同されてしまっているし、もちろん、交換可能になっちゃって、どちらがどちらともつかなくなっちゃっているという、そういうことを感じたんです。
 だから、これはひとつの非常に優れた文学者が見せている優れた実例だから、これはちょっと論ずるに値する問題が出てくるに違いないとおもって、それを追いかけて、たまたましゃべる機会があって、それでどうだといったら、それは困るというふうに、もっと高級なというか、ましなことを言えという話になってきて、そうなったわけですけど。
 僕はそこで、あなたと同じところだとおもうんだけど、おやおやっと、これは違うぞと公私が混同されたというよりも、公私混同じゃないことはみんな、十分、井上さんも知っていると思うけど、そんなことじゃなくて、必然的に公私のイメージが交換可能になっちゃっている、ものすごい良い例なんだなというふうに僕には思えたんです。
 そこがポイントで僕はおしゃべりしたいというふうに思ったわけなんです。おしゃべりするときはそこがポイントだとおもって考えて、いまでも小説でそれを書きたいと、一作ぐらいそれはありましたけど、まだ、書くに違いないとおもって、まだ僕は関心をもっているから読もうとおもっているわけですけど。だいたい僕の感じ方はそこのところだったんですけど。
 そんなことはキリがないといいますか、井上さん的な夫婦の潰れ方というのはあるわけです。現在の情況の中での家族、あるいは、夫婦でもいいんですけど、家族の潰れ方といいますか、家族の解体に瀕しているといいますか、解体に瀕している仕方というのはあるわけです。それは井上さん的なあれもあるわけです。
 ぼくらもあるんですけど、たとえば、井上さんが劇団をやっていたとき、ぼくは「試行」をやって、劇団とは比べものにならないくらい小さい雑誌ですけど、それをやっていて、それで僕はあまりどんぶり勘定なものだから、あきれかえって、ある時期から事務をやってくれている人に現代における歪がどういうふうにきたかというと、うちのやつが結核を再発しまして、しばらく入院しまして自宅療養なっちゃって、これはいろんなことを考えてみると、「試行」の事務を押しつけたからそうなったと、そうするといけないですけど、そういうことも含めまして、夫婦家族というものの現在における歪の仕方、それは様々な仕方があると思うんです。
 だから、井上さんの例というのは、そのままひとつのある典型的な例でプライバシーというものとそうじゃないものとは一種、境界を接してあれしたときにどういう危ないことが起こるかとか、どこに歪がいくかとか、そこにまた生活の荷重がかかってきたときにどうなるかとかっていう問題がいずれにせよ井上さんの場合には、それなりに、規模は違いますけど、ぼくらと同じようにあったんだというふうに思います。それがそういうふうにあらわれたんだと思います。
 歪み方というのはいろいろあって、そういう場合にはしょうがないから潔く、やっぱり自分が悪い、基本わたしが悪いんですよというふうに言っておけば、いちばん恰好はいいです。てめえの収入より女房の洋服代のほうが多くなっちゃったんだというようなことというのは、その手のことは数え上げればいろいろあるんでしょうけど、それはお互いにきっとあるんでしょうけど、それよりもいずれにせよ、俺がダメだったんだと言っておけば一番恰好がいいので、ぼくはそういうふうに言うつもりでおりますけど(笑)。そういうことなんですけど。

17 質疑応答3

(質問者)
 たけしさんの話ですけど、中上さんの対談集でああいう行動にするのは時間の問題だよというのはあったと思うんです。

(吉本さん)
 やっぱり、お弟子さんもスポーツやっているから、体も鍛えちゃっているし、三島さんと同じ、訓練しちゃったりするとつづまりがなかなかつかないということがありますよね。それであまり、暴力をあんだけ自慢するのは最低だと僕はそう書きましたけど。あれを読みまして、そういうのは最低なんだと書きましたけど。そうじゃなくて、暴力ふるいたいくらい鬱積していたら、ますます芸をやれ芸をやれというふうに、ぼくはそうおもいます。
 あれだけ才のある人ってあまりいないでしょ。だけど、あれから後というのは、やっぱりやるべきだと思うんです、芸を。なぜならば、もっといるんですから、つまり、世界中探せばあれよりいい芸をする人はいるわけです、芸人で。だから、もっとやるべきだとおもいます。
 ところが、日本だとああいうふうになっていって、ああいうふうに待遇されてしまうと、そうするとそれ以上、芸をやる気というのはなくなっちゃう、むずかしいんです。それ以上やるという感じはとてもむずかしいんです。ひとつは、そうすると参議院議員になりたくなったり、じゃなければ慣らしてみますか、芸を慣らすというやり方になってくるんです。
 だけども、ぼくはあれからまたやるべきだと思います。芸をやるべきだとおもいます。ぼくはそれがある限りは芸でもってやっていく、あの段階・水準を突破するという芸というのはあまりまだ出てきていないから。変わった芸というのはあるんです。芸の流れというのはありますから、変わった芸は出てきていますけど。
 たとえば、とんねるずみたいなのは変わった、違う芸だとおもいます、ビートたけしと。ビートたけしというのは、ここからそっちのほうを向いてやっている芸なんだけど、とんねるずというのはそうじゃなくて、そっちに観衆がいて、同じほうを向いて、むこうに向かってやっているという芸なんです。それはそれだけ違うんです。あれは、ビートたけしにはできないんです。あるいは、知識・教養がどこかにあるべく邪魔をしてそれができないんだけど、とんねるずというのはそれができているんです。こっちを向いてやっているわけです。だから、同じ次元でやっているわけです。芸の変わりようというのはあるんだけど、だけど、その段階以上の水準というのは、なかなかやった人というのはいないから、もっとやるべきだと僕にはおもいます。

(質問者)
 お話を聞いていて思ったのが坂本龍一なんですけど、イメージだけの話なんですけど、吉本さんは『戦場のメリークリスマス』を評価されていて、エスペラントというお弟子さんがいるんです。<聞き取れず>

(吉本さん)
 感心して聞いていました。ぼくはあの人は、なかなか停滞しない、変貌をやめないでしょ。ああいうことはやっぱりいいんだなと思っているんです。ただ、あの人はインテリだから、インテリだからというのはおかしな言い方ですけど、一種の一流好みなんだよね。そういうところが気に食わないなって思っていますけど。

(質問者)
<音声聞き取れず>

(吉本さん)
 あなたの結論もわかります、聞いていて。ぼくはそういう感じです。ただ、非常に停滞しないというか、あまり安心しないでといいますか、停滞しないです。絶えずやっています。

18 質疑応答4

(質問者)
 いま連載されています「ハイ・イメージ論」、それからその前の、その間にいくつかありますけど、「マス・イメージ論」ということで、対象とされているテーマ、あるいは、それぞれのモチーフといいますか、たいへん共感したり、また自分でもわからないところがあって、右往左往しながら読んでいるんですけど。今日のお話の中で、ファッションをひとつとっつかれまして、素人さんが来てグランプリを取ったときの写真といいますか、それから、そうじゃなくて、プロのモデルさんを、吉本さんの表現であれば○○、そういうものが醸し出したときに世界的にも通用するような、そういうものになりうるんじゃないかというような感じで捉えたんですけど。
 いまの例が、完璧に「マス・イメージ論」、「ハイ・イメージ論」ということで比べていった場合に、おそらく、狙われているモチーフだとか、あるいは、発想の深化だとかいうふうなことがあると思うんですけど。いまのファッション論であげられた例が、たとえば、前者の例が「マス・イメージ論」で捉えられたものの対象になるのか、あるいは、それがもし正しいとすれば、いまの「ハイ・イメージ論」の命名の仕方といいますか、そういうものから読み取れるようなモチーフの違いというのがあるのではないかというふうに感じるんですけど。そこらへんについて。

(吉本さん)
 自分の中でわりに簡単にあれしてまして、類推的な言い方をしますと、「マス・イメージ論」というのは、自分にとって前に展開したあれでいえば、「共同幻想論」というのと同じことなんだ、つまり、同じことを現在のテーマにしてやっているのと同じことだ。
 そして、「ハイ・イメージ論」というのは、もう少し原理的といいますか、論理的といいますか、理論的といいますか、前のあれで類推すれば、『言語にとって美とはなにか』という言語美論があるわけですけど。それと同じことをイメージ論でやっているのが「ハイ・イメージ論」だというふうに、自分ではそう簡単に区別しているわけなんですけど。
 しかし、それは別の言い方をすれば、あなたのおっしゃったように、「マス・イメージ論」のなかでは、これはごく普通の女性が、自分がいいと思ったファッションで精一杯着て、審査でグランプリになったんだと、これはイメージとしての緊迫度とかいう問題ではなくて、これ自体はどうなんだといった場合に、これ自体はこれでいいんだといいますか、こういうものなんだとか、あるいは、これで還ってくるものなんだと、つまり、ファッションの究極の理想というのも、専門家の緊迫したイメージから絶えずまた、そうじゃない普通の人が自分の好みでもって、千差万別に着こなして、そういうところに還ってくるのが理想なんだという意味が、ぼくでいえば肯定すべきなんだというふうに僕自身は思っているわけですから、それは「ハイ・イメージ論」も「マス・イメージ論」も同じ関係にあって、決して関連がないと自分では思っていないんですけど。ただ、区別としては、非常に原理的なことと、それから、共同的なことといいましょうか、社会現象的なことといいましょうか、そういうことの区別が「ハイ・イメージ論」と「マス・イメージ論」だというふうに、ぼくはそう思ったわけです。あなたの言われたようなことはたぶん、「マス・イメージ論」の中では、重要だというふうに考えたことのような気が自分ではしていますけど、ぼく自身がしている区別はそういう簡単な区別で、いまはわりに原則的なこと、あるいは、原理的なことをやっているというふうに思っております。

(質問者)
 ありがとうございます。それともうひとつだけ、「ハイ・イメージ論」というのはあとどれくらい作業としては残っているのでしょうか。

(吉本さん)
 ぼくはわからないんですけど、どこでどうなるかわからないんですけど、つまり、もうやめてくれと言われればそこでやめるわけですし、なければ長いわけですし、それから、じぶんのほうでこれはダメだという日が来たら、そこでやめるわけですけど。いまのところはまだやめる気がないです。続くと思います。1回、2回で終わることじゃないと思っています。続くというふうに考えてますけど。

19 質疑応答5

(質問者)
 夏目漱石について書いておられると思うんですけど。そのなかで作品が同一化された視点というのと、差異化された視点というのがあって、2つの作品に分かれるというふうに言っておられるんですけど。人間というのに踏み込むのを抗議するようなかたちで言っておられた、それがよくわからないのですけど、裏表というかたちで言っておられたところからどういう意味あいなのかというのと、それから、同一視化された視点ということで言っておられる、すべての人が同じように見える視点というふうに言っておられるんですけど、そのへんのところがいまひとつわかりにくいというのと。 それから、中性化された場所があるというかたちで言っておられるんですけど、それとの関係というのがわからないので。

(吉本さん)
 たぶん、あなたのおっしゃっていることは、僕はどこであれしたかというと、たとえば、『それから』なら『それから』という作品と、たとえば、『こころ』なら『こころ』という漱石の作品を比較した場合に、これは同質性だと考えることができるんだと考えた裏側に同質性の差異をまた考えてもいいわけですけど。
 つまり、片っぽのほうは、自分も好きな女性がいたんだけど、じぶんの友だちが好きだと言ったので、じぶんの好きだという感情は引っ込めてしまって、友達のために仲介をしてその女性と結び付けるという役目を自分がした。それで、それが後になって、逆にそうしたことが壊れてしまって、結び付けた友達の夫婦も危なくなってしまって、それでまた再び一緒になるという、当初の好きだった自然の感情に従うんだというふうになっていった物語だといえば、『こころ』のほうは反対であって、友達が同じ人を好きだというのをわかっていたんだけど、じぶんが出し抜いて一緒になっちゃって、友達が自殺しちゃって、それで自分が生涯そのことが常々意識にあって、ちょうど明治天皇が死んだ時に乃木将軍が自殺する。それを聞いてその先生も自殺しちゃうという、つまり、感情の自然さといいますか、情緒・情念の自然さというものに従った物語と従わないために自然から復讐されて一緒になった物語とかたっぽは自殺してしまった物語というふうに考えていくと、それは同一のテーマの二つのあらわれ方だ、つまり、同一性の二つのあらわれ方だと見ることができるというようなことを言った覚えがあるんです。
 それから、あなたの言われたことで僕が思い出したのは、もうひとつは『明暗』という作品があって、『明暗』という作品はどこが他の漱石の作品と違うかという場合に、画期的といいましょうか、書かれている、つまり、書き手のほうから見た場合には『明暗』の登場人物というのは誰が主人公だとか、誰に重点を置いているかということは、全然なくて、全部が同じ距離に、等距離にといいますか、同じ距離に見える相対的な人間だというふうにちゃんとつくられていると、しかも、それは、本当は二人の対象的な人物が相対的なのであって、それを登場人物ぜんぶについて積み重ねていって、最後に全部から等距離にある場所を作者は無意識のうちに設定して、そこでもって登場人物ぜんぶを相対化しているという、それが『明暗』という作品の特徴じゃないかみたいなことは言ったことがあるような気がします。それは内容について言ったつもりでいるわけですけど。
 だから、漱石という人はわかりにくい人ですけど、つまり、むずかしい人だし、作品も非常にむずかしい作品が多いのですけど、しかしもし、同質性という観点と差異性という観点をうまく使い分けるならば、漱石の作品はいくつかに分類することができて、その分類をはみ出す作品というは、わずかに、『明暗』という最後の時の作品だけじゃないかなというふうに僕自身はそう思っているんですけど。考えているんですけど。
 だから、『明暗』というのは途中で終わっているわけだから、どう展開されるかというのはわからないですけど、あそこで漱石は、つまり、あらゆる登場人物の場所から、自分自身を同一であって、しかも相対化できる距離というものを初めて倫理としてつかみ取ることができたんじゃないのかなというふうに、僕自身の解釈はそうなんですけどね。
 だから、初期の頃の倫理というのは一種、そこで解体されてしまうわけで、だけれども全部を相対化しながら全部を同一化するというあるひとつの場所というのを設定できて、そこが漱石の最後の倫理の場所だというふうに移っていったんじゃないかと僕自身は考えて、それはいわゆる則天去私という、つまり、天に則して私は去るんだという、そういうふうに漱石が言っていることの内容じゃないかと、それは僕の解釈です。そこらへんの問題じゃないでしょうか。

(質問者)
 同一性ということは、すべての人を相対化できるような場所というもの、それが結局、同一性ということの場所であって、中性というそういう場所であるという理解でよろしいでしょうか。

(吉本さん)
 そうか、中性的ということを言ったのはそういう意味じゃなくて、文学作品とか、芸術作品というのは、それ自体が非常に読み方によっても、それから、作品自体によっても、教訓的であったり、倫理的であったり、あるいは、人道的であったり、つまり、読む人に様々な効果というのを与えうるわけですし、また、読む人の主観によっても様々でありうるんだけども、たとえそういう作用を読む人に与えるものを文学作品が持っているとしても、文学というのは、ひとたびは一種の中性点といいましょうか、これは役に立つとか、これはいい作品だとか、悪い作品だとか、これはためになる作品だとか、そうじゃないない作品だとかいう、つまり、一種の倫理的な判断というものの以前にあるひとつの倫理的には中性であるという、ある構築がどこかに中心的になされていて、なされたものが結果的に倫理的であったり、人道的であったり、あるいは、これをどういうふうに読むかということは人さまざまな実感と効果を与えるというふうになるのであって、それが文学作品の運命みたいなものであって、もし、ストレートにある倫理を主張したいならば、ストレートな言い方で倫理を主張したり、実践したり、強要したりすればいいわけなので、文学・芸術作品というのは、ひとたびは有効性・効果ということについては中性点というのを必ず作品の中に構築しておいて、それでその結果がどうであるか、結果が倫理的であるとか、道徳的であるとか、人道的であるとかいうふうに言えるというような、そういうもので、その時に中性の構築点というのは必ず文学・芸術作品にはあるんだってことをたぶん言ったんじゃないでしょうか。

(質問者)
 中性というのは、吉本さんがいま言われたように、効果性というものから中立であるという意味あいかなと。

(吉本さん)
 これはもちろん、作者のほうに内在的にそれがなかったら表現されたものに中性的なものはないですから、書くほうに…(テープ切れ)

テキスト化協力:ぱんつさま(チャプター15~19)