(司会)
ただいまから、講演会を開催いたします。今日は雨のなか、午前中は曇り、どうかなと思われたんでございますが、午後からどうにか天気になりまして、大勢のみなさまが、御収集いただきまして、ほんとにありがとうございます。それではまず、はじめに、主催者といたしまして、教育委員会の教育室長からご挨拶をいたします。
(上田室長)
教育委員会の室長の上田でございます。年一回かならず○○に行きますと、○○のみなさんが○○○。
本日、吉本先生をむかえまして、この理解を進めたいと思います。わたくしどもの○○○におきましては、常日頃、皆様方、歴史をとおして、現実の手賀沼や利根川の姿を見ながら、未来の子どもたちに継承すべきものを○○○。
とくに、大量生産、大量消費の時代から、単純生産、資本にわたる、知識から知恵に移り変わらねばならない教育現場にありまして、みなさん方のように、歴史を模索しながら、そのなかに今日の日本人の中に生まれておる資質なり、伝統なりを、現代にアレンジさせていただきまして、将来に禍根のない、明るい地域社会をつくるために、日夜、努力いただいておられると思います。
本日、当地において、千葉にゆかりのあります、柳田先生に関して、柳田思想と日本についてということで、吉本先生から立派なご講演をいただける機会を得ましたことを感謝いたします。どうか、みなさん、最後まで、ご協力のほどお願いしたいと思います。本日はどうも、ありがとうございました。(会場拍手)
(司会)
どうも、ありがとうございました。続きまして、来賓あいさつと致しまして、我孫子市長でございます、大井市長からご挨拶をお願いいたします。(会場拍手)
(大井市長)
みなさん、こんにちは。○○に関しまして、大変ご協力をいただいております。心から御礼を申し上げます。そしてまた、とくに、皆さま方には、本県の変わり方や、本市の歴史、そしてまた、教育面につきまして、なにかとご配慮いただておりまして、重ねてお礼を申し上げたいと存じます。
そのような中で、今日は柳田先生の民俗学を、そしてまた、古い民俗学を打ち立てられました柳田先生の故郷、そして、現在のわたくしどもの関係につきまして、有名な吉本先生をお招きいただきましたことを、大勢の御出席をいただきまして、感激でございます。
先々月の5月の29、30日でございますが、たまたま、柳田先生にとくにゆかりの深い、全国から3市1町1村が参加いたしまして、岩手県の遠野市で、ゆかりサミットが開催されました。わたくしも参加して参りました。
柳田先生誕生の地の、兵庫県の福崎町、そしてまた、開催地の遠野市、そしてまた、柳田先生の○○の地でございます、長野県の飯田市、そしてまた、学問の関係でつながります、九州、宮崎の椎葉町(村)、以上の、3市1町1村の関係のサミットでございました。
1回目ということで、再度の開催にあたりまして、来年度もつづいて、開催地を選定してということで、来年のゆかりサミットの開催地は、長野県の飯田市に決まっておるわけでございます。
今日は、そのような関係もございまして、柳田先生の御直系の松岡先生の、現在の松岡○○先生をおむかえいたしまして、有意義に、そしてまた、これからの我孫子の文化に、おおいに寄与するものと確信しております。今日は、お忙しいなか大変ご苦労様でございました。(会場拍手)
(司会)
ありがとうございました。続きまして、講師の先生を、司会のほうから紹介するのが合点がいくかと思いますけど、本日は「わが歴史論-柳田思想と日本人」ということで、我孫子市にも柳田先生の血を引いていらっしゃる方がおいででございますので、われわれ市史編纂室の委員長でもございます、松岡先生から紹介をお願いしたいと思います。(会場拍手)
(松岡さん)
○○の松岡りょうたろうです。いつもお招きありがとうございます。紹介やってみて、そこだけひっぱりだされる、変わり映えはいたしませんけども。また、編纂室のほうから、今日、吉本先生をご紹介ということなんですけど。
実は、吉本先生にお目にかかりましたのは、つい先ほどでございまして、われわれご講義いただく方が、お目にかかる機会は存じませんといったところ、たまたまおられた。例の徳満寺の○○、あるいは、柳田国男が子供のとき、いろいろと見て、寒い思いをしたとか、利根川の不思議な川の流れ、あるいは、そこを通る帆掛け船におどろき、というようなことを感じた、その現場を、吉本さんにお目にかけながら、お話をうけたまわると、それだけのゆかりでございますので、吉本さんの紹介しろといわれましても、ちょっと紹介のしようがございません。
これは、みなさんのお手元にもいってると思いますので、お読みの方はお読みになって、先生は大正13年に東京でお生まれになって、東京工大をおでになって、たとえば、この本をとって申し上げますと、後年、その学問もさることながら、あるいは、言語の方に教えられた、○○の方を開口に読みますと、現在は、詩人でおられる、また、評論家でおられる、戦後文学、あるいは、思想家だと、そういうふうにおられる。これから、お話しするネタの中でも、○○○とかいうおつもりでお聞き取りいただきたいと思います。
いま、先生にお目にかかりまして、ふと思ったんでございますが、さきほど御答弁をうけたまわっておると申し上げましたのは、今から10年くらい前になります。柳田国男についての○○○、月報にもっとも心こもる方法という文章をお書きになったのを思い出しました。そのときには、なんとむずかしい、柳田の文章は○○○が苦手だというようなことを、先生書いておられまして、その文章を拝見して、素人にはわかりにくい、むずかしい説だなと感じたのが、さきほどふと思い出されたわけでございます。
しかし、その後に、いろいろと、文学のほう、あるいは、現実の方面で、非常に深く、ご研究になられて、ことに柳田国男の本を評論するということでは、長年にわたって、こつこつとお書きになった。たまたま、今年の6月に新しい本が出たということで、わたしも一度拝見しなければいけないと思っておりましたところ、今その○○○、吉本の頭に○○読んだっていうのが、うず高く積まれておりまして、なかなか売れ行きも上々の様でございまして、どうか、今日、先生のお話を伺ったら、多少みなさん、あれをお読みくださるようお願い申し上げます。
吉本先生が○○から、先生の顕著の宣伝をするのは、おかしな話かもしれませんけど、それも、ある意味では、先生とのご縁でございます。どうか、それも兼ねて、これからの先生のご講話を、じっくりと開聴されることを申し上げます。とりとめございませんけども、吉本先生のご紹介を終わります。(会場拍手)
(司会)
それでは、先生からご講演をいただくわけでございますけども、質問等につきましては、第二会場の方で用意してございますので、まことに恐縮ではございますが、この席でのご質問は控えさせていただきたいと思います。その節は、よろしくお願いいたします。
ただいま、ご紹介にあずかりました吉本です。そのうえ、著書の紹介をしていただきまして、感謝でいっぱいです。それから、松岡先生に午前中、利根川をご案内いただきまして、たいへん感謝しております。同じように、感心したことは、松岡先生なんかは、足元がたいへんしっかりした方だなぁって、よくよく感心しながらお供をいたしました。
今日は、「わが歴史論」っていうことで、柳田国男と日本人をめぐってっていう、現代をわたる能力が、いちおう「わが歴史論」ということで、わたしも歴史というものに対して、関心っていうものの歩いてきたお話いたしまして、正確に、柳田国男の業績の、近くのところで話をしながら、それで交わることが、柳田国男の考え方についてお話をしながら、今日の会を思い出していただきたいって思ってまいりました。
ぼくらは、ジャーナリズムの分け方で、戦中派っていうなかに入るわけですけど、戦中派っていうのは何なのかっていうと、申し上げますと、さまざまな人が、さまざまな考え方をもっているわけですけども、ぼくの言い方をいたしますと、戦争中までは、旧憲法といいましょうか、つまり、「天皇は神聖にして侵すべからず」っていう条項が旧憲法のもとで、青春時代を、少なくとも転機を送ります。そして、敗戦と一緒に、敗戦の後は、戦後の新憲法といいますか、「天皇は国民の統合、象徴である」っていう条項を含みます新憲法のもとで、いま、生活しているわけです。
戦中派っていうのは、旧憲法と新憲法、少なくとも、青春を前期と後期に分けますと、両方にまたがって体験している年代だといえば、いちばんふさわしいんじゃないかなっていうふうに、ぼくには思います。
つまり、神聖にして侵すべからずっていうのは、天皇は国民統合の象徴であるっていうところで、大転換を遂げるわけですけども、その大転換を、正式に、全員発起でそれを改定したと、そしてもちろん、自分なりに戦争を考えていたわけですから、そう簡単に、8月15日に戦争終わったから、16日から新憲法的なっていうふうに、ぼくらは、そういうふうにいかなかった年代です。
ですから、「天皇は神聖にして侵すべからず」っていう、そういう考え方を、どういうふうにして脱却していったらいいのか、そして、国民の象徴っていうところと、ぶつかるっていいましょうか、交わるところをどこで見つけてったらいいのかってことに、戦争大戦後に、たいへん苦労したっていいますか、自分の気持ちの上では、苦労した年代としています。
ですから、真剣に旧憲法と新憲法を、ひとつの段落っていうふうに考えますと、大戦を境に段落っていうふうに考えますと、ぼくらは段落のところで、そう簡単にはいかないので、なだらかな線を描きながら、自分なりに納得をしながらっていうふうにして、それを脱却して、なお、なだらかな下降線を繰り返し、振りながら、今も、なおかつ踏んでいるっていうことだと思われます。
そうしますと、途中で、戦後民主主義の国民統合の象徴だっていうところと、どっかでおそらく、やっとこさ脱却して、下降している線を、どっかでまた交わったはずなんですけれど、交わって、国民統合の象徴のところで止まったかっていうと、今度はまた、そう簡単に止まれなくて、また今も脱線、もっと下に下がっているっていう感じがしております。つまり、そういう不思議な交わり方をしたっていうのが戦中派っていうものの、いちばんいい定義じゃないかっていうふうに思います。
それから、なんとかして「天皇は神聖にして侵すべからず」から「国民統合の象徴である」ってところまで、天皇あるいは天皇制といいましょうか、それをどういうふうにして、絶対的な天皇制から相対的な天皇制といいましょうか、そういうところに、どういうふうに考えて、どういうふうに探っていったら、そこへ到達できるのだろうかっていうことが、そもそも僕なんかの歴史っていうものに対する関心の、いちばんの動機だったっていうふうに思います。
そこへいきますと、天皇は絶対であるとか、神聖であるっていうことは、相対的なものだと、つまり、国民統合の象徴だっていうところから、いくことができるのか、心の中からいくことができるのかっていうことが、たいへん重たい課題だったっていうふうに思っております。
それで、その場合に、絶対的な天皇制っていうようなものから、相対的な天皇制っていうところに、どうやってもっていったらいいかってことを、歴史理念から申し上げますと、こういうことになると思います。
ぼくはそう考えたわけですけども、いくつか方法があります。そのひとつは何かっていいますと、天皇制の起源っていいましょうか、起こりっていいましょうか、その起源っていうものと、天皇制以前の歴史と、それぞれ節目のところはどういうふうになっているのか、つまり、天皇制がなかったときの、日本人の仕方とか、歴史っていうのはどうあったのか、それから、天皇制ができた時に、どういうつなぎ目が生じたのか、そういうことをひとつちゃんと解明したら、いいのではないかってことは、ひとつ、考え方です。
このことは、ぼくは、柳田国男の関心に、ただちに、つながる問題であったわけです。それは、なぜかといいますと、柳田国男が、さきほど話にも出てきました『遠野物語』っていうものの中で、日本人っていうのを、柳田国男は、稲作をもって、日本列島へ渡ってきた人たち、そして、日本列島に分布した人たちを、日本人と言っていますけど、それ以前にも、日本人はいたわけでして、それ以前にいた日本人のことを、柳田国男は、山の人、「山人」っていうふうに呼んでいます。
「山人」というなかには、いろんな仕事の人たちがいるわけですけども、まず、『遠野物語』でいったら、柳田国男が考えた「山人」っていうのは、何かっていいますと、それは、ひとつは製鉄、つまり、野の鍛冶屋さんといいましょうか、製鉄のやり方を、技術をもって、日本列島の間をあちこち、流浪して歩いている。そういう人たちのことを考えたことが、すぐにわかります。
そうすると、一種の流浪している宗教者、修験者ですね、つまり、普通の仏教的な制度からとおく外れた、そういう人たちで、諸国をまわっていた修験者、その修験者っていうのは、山の人っていうことの中に、柳田国男は考えていることがわかります。
柳田国男はこれを、異民族だっていうふうに考えたっていうことがわかります。つまり、農業とか、稲作をやってきた人を日本人だとすれば、それ以前に日本列島にいて、普通のときには狩猟と、それから、炭焼きとか、遠野のなかでは釜石の近くですから、昔から製鉄の盛んなところで、そういう製鉄をやっている人たち、それから修験の人たち、そういう人たちを、「山人」というふうに名付けて、それはたぶん、日本列島に稲の作り方をもってやってきた日本人よりも、以前にいた人たちを和の主人じゃないかっていうのがいってるわけです。
そこらへんのところで、ぼくは、すぐに思いました、関心が天皇制の起源っていうものと、それから、天皇制っていうものと、それ以前とは、どういうふうにつながったらいいのかっていう問題と、すぐに、そこに柳田国男の問題とは、接触しているってことがわかります。
もうひとつ、考えましたことは、戦争中そうだったわけですけども、天皇制っていう場合には、あるいは、天皇っていう場合には、すぐに、農民っていいましょうか、農業、つまり、農耕社会っていいましょうか、農民社会とか、農民の共同体っていうものを支えてきて、そのときに、天皇があって、ぼくらが戦争中に教えられた考え方によれば、農民を中心にして、平等な社会をつくって、天皇だけが真ん中にひとりいるわけですけども、あとはみんな、農村を中心にして、農業を中心にして、万人平等なんだって、そういう社会を実現するのが、理想の社会なんだっていうような考え方が、戦争中に行われているわけで、ぼくらも、たいへんな、大きな影響を受けたわけです。
で、やっぱり、そこのところで、天皇制っていう問題の相対化っていうのが、どういうふうにしたらいいかって考えたときに、もうひとつ思い浮かぶことは、農民っていいますか、農耕をやっている人たち以外の人たちはいったいどうなったんだろうっていう問題を掘り起こせばいいんじゃないか、そうしたらば、農民っていうものと、天皇っていうものとが、上下につながっているっていう、そういう考え方っていうのは破れるんじゃないか、つまり、相対化できるんじゃないか、絶対化から相対化いけるんじゃないかっていうふうに考えた。
だから、農民でない人たちのことは、大昔どうだったのかっていうことを掘り返せばいいんじゃないのかっていうことが、もうひとつ考えられることだと思います。これもまた、すぐに、柳田国男の民俗学の関心、つまり、柳田国男の民俗学っていうのは、山の人たち、つまり、農耕をやっている人たちでない人たちに対する関心から始まったものですし、また、ある意味では、それに終始したといえるものですから、だからやっぱり、そこにも柳田国男の関心と、すぐにつながってくる問題が出てくるっていうふうに考えましたわけです。
それからもうひとつ、絶対的な天皇っていうものから、相対的な天皇、それから、神聖にして侵すべからず天皇から、人間天皇といいましょうか、そういう戦後の人間天皇みたいな、そういうものへの転換というものを遂げるもうひとつのやり方っていうのはあるわけで、それはなにかっていうと、いわば自然に任せるっていうことだと思います。つまり、歴史の成り行きに任せるっていうことだと思います。
つまり、日本の社会の高度な先進社会っていうようなものに転換してとか、そこで、天皇制っていうものに対する親愛感とか、反発感の、特殊な日本的なありかたっていうものは、ひとりでに解消していってしまうんじゃないか、だから、この場合には、自然文明の成り行きといいましょうか、歴史の成り行きに任せれば、かならず、天皇の問題は相対化されるというふうに考えられるわけです。
いまでもぼくらはそう考えて、ある意味では、ぼくらがそういうことで、やってきましたことよりも、なんか自然に任せたときに、つまり、歴史の無意識のなかにおいて、日本は、高度な先進社会の仲間入りしていくにつれて、天皇に対する特殊な考え方、特殊な親愛感とか、特殊な神聖視の仕方とか、あるいは、特殊な反発の仕方っていうものは解消していくだろうっていうことが言えそうであって、それは、もしかすると、ぼくらがやっていることは全部無駄であって、そういう自然に任せておくのが、いちばんいいやり方なんだっていうふうにも思えるわけです。それほど、すごいことだと思います。
そうしますと、その3つの方法が、少なくとも、絶対にして侵すべからず天皇から、相対的な天皇制、それから、人間天皇っていうふうに、あるいは、象徴天皇っていうふうになって、戦後への移り行きっていうような、その3つのことを解明していけば、成し遂げられるじゃないか、つまり、それを内側から解明していけば、自分なりに納得しながら、それがやれるんじゃないかっていうふうに、ぼくらはそういうふうに考えてきました。
で、今日、柳田国男のやりました業績っていうものと、深いところで、その問題の一部を申し上げてみたいって思うわけです。
で、ぼくらが考えましたのは、天皇制のはじまり、天皇家のはじまりっていうもの、それから、それ以前とは、どういうふうに社会がつながるのか、どういう問題があるのかっていう、天皇制自体にどういう問題があるのかっていうところから、お話ししていきたいっていうふうに思います。そのなかで、柳田国男の考え方が必要なときには、いつでもそれにふれながら、申し上げていきたいというふうに思います。
それは、いくつかのことからいえるわけですけども、まずひとつは、古事記とか、日本書紀とかっていうのを読みますと、天皇家の起源といいましょうか、あるいは、起こってきた書で残していた、古事記や日本書紀に書いてある限りでは、南九州であると、南九州の、昔でいえば、日向の国のいまの五ヶ瀬川って川が、阿蘇山のふもとのところから流れていって、宮崎県の延岡っていうところに流れていったわけですけども、五ヶ瀬川っていうのを遡っていきましたところに、高千穂ってところがありまして、椎葉っていうのも少し行ったところにあるんですけど、その高千穂っていうところが、天皇家の祖先の起こったところだ。
つまり、そこからおもむろに山を降りてきて、そして、東征にむかって、瀬戸内海を通って、大阪に来て、近畿地方に入ることができなくて、熊野の方を廻って、それで、近畿地方に入って、都を定めたっていうふうに、神話には記載されていますから、祖先は南九州だっていうふうになっています。このことは、だいたい今でも、よくわからないことのひとつだと思います。
つまり、なにがわからないかっていいますと、普通に考えますと、北九州が、大陸、つまり、朝鮮とか、中国とかに、わりあい近いものですから、文明の入り道として近いものですから、北九州の方から先に文明が発達してきて、稲作も入ってきて、それから、さまざまな生産を行えるようになりまして、南九州の方から、日本の文明化していって、そして、その影響が、近畿地方まで及んできたっていうふうに考えるのが、歴史家とか、考古学者の基本的な考え方になります。
それがあったから、一般的な証拠がたくさん、証拠と思えるものが見つかるわけです。ですから、北九州が起源だっていうふうに、自分たちの祖先だっていうふうに書かれていると、たいへん都合がいいんですけど、神話を、つまり、古事記とか、日本書紀とか見ますと、南九州が自分たちの祖先がいたところだって書かれています。ですから、これは不思議なところのひとつだと思うわけです。
ところで、ここで柳田国男の考え方をもってきまして、柳田国男の考え方とは矛盾しないかと、柳田国男は同じではないかと、つまり、柳田国男の考え方はそうじゃなくて、大陸から稲作をもった人たちが、ようするに、いまでいうと沖縄ですけど、沖縄諸島のある島へ渡ってきて、そしてそこから、稲の栽培方法をたずさえて、もっといい土地、あるいは、もっと肥沃な土地っていうものを、だんだん探し求めていって、だいたい南九州にとりつきまして、しばらくの間、そこで滞在しまして、しばらくの間っていうのは、何世代かそこで滞在しまして、そして、おもむろに、航海の、舟を動かす術が発達していきまして、瀬戸内海をよく航行することができるみたいなふうになっていったときに、だんだん近畿地方まで行ったっていうふうに考えているのが、柳田国男の考え方だと思います。
ですから、南九州が天皇家でも、祖先にいたとかっていうこととは、柳田国男の考え方は、うまくやれば矛盾しないっていうふうにいえます。しかし、歴史学が、あるいは、考古学が指しているところは、そうじゃなくて、南九州よりも北九州の方が先に発達したはずだから、北九州に王家の祖先があって、そこの人たちが関門海峡かなんかを通って、そして、瀬戸内海を通って、近畿地方にやってきたって考えたらば、普通、自然だけれど、南九州が祖先だっていうふうなのは、とてもよくわからない考え方になると思います。
しかし、柳田国男っていうのは、そうじゃなくて、稲作っていうことをもとに考えてきました。稲作をつくった人たちが、南九州で、ある程度、滞在して、そして、舟の航海っていうようなものを、あるいは、大きな船がつくれるようになって、急流を渡ることができるようになったみたいになったときに、近畿地方へやってきたっていうふうに考えてみましたら、わりあい、天皇家の祖先が南九州の山の中だって考え方と、そんなに矛盾しないところがあります。
で、そこが問題のひとつだと思います。つまり、どちらがいいかっていうことについては、だいたい、歴史学者や考古学者は、北九州がいいっていうふうに、北九州からっていうのが普通じゃないかって、北九州に王朝に近いものがあって、それが攻めてきて、近畿地方に入ったって考えるのが、いちばんいいんじゃないかっていう考え方だと思います。
しかし、2,3の、ぼくらみたいな素人のといいますか、専門の歴史学者というよりも、素人である歴史学者の人たちは、そう考えずに、南九州じゃないかっていうふうに考えていると思います。この問題がひとつ、大きな問題となって、この問題のところでは、南九州の神話の記載っていうようなものは、柳田国男の考え方とは矛盾しないっていうふうに思います。
ここで柳田国男の歴史観っていうものと、おおいに食い違うところがあってしまって、柳田国男は日本の国の、統治した人たちが、つまり、天皇家がどうやったかってことは、柳田国男は、ほんとはあんまり、関心がないわけです。関心があっても、2番目、3番目の関心であって、そうじゃなくて、柳田国男が関心をもっているのは、「常民」って柳田国男は呼んでいますけど、なんでもない人たちってことです。
いまの言葉でいえば、一般大衆ってことでしょうけど、なんでもない人たちが、稲の穂をたずさえて、南の島にとりついたって、それで、とりついた人たちが、日本に稲の栽培の方法をたずさえて、だんだんだんだん中央のところにやってきて、それを広めていったっていう、それはつまり、弥生時代のはじまりなんだって考え方で、その上に、政治的な制度がどうなったか、王様っていいますか、王家っていうものが、どうなったかっていうことは、ほんとは柳田国男の歴史観のなかでは、第2番目、第3番目の関心でしかないわけで、ごく普通の生活している人たちが、どんなふうにやってきて、どんなふうに生きていっただろうかっていうようなことが、柳田国男のいちばんの関心ですから、そういう意味合いでいけば、直接に柳田国男は、天皇家の出自はどこであったかってことにふれているわけではありません。
ただ、消極的にはふれていますし、どうふれているかっていいますと、これもまた、有力な歴史学の学説があって、大陸の騎馬民族の末裔っていうのが、天皇家であって、それが、日本の方へ渡ってきて、そして九州から渡ってきて、中央の近畿地方に入ったんだっていう、騎馬民族説っていう有力な考え方があります。
だから、これに対して柳田国男は、いつでも批判を訴えています。つまり、そんなことはないっていいますか、ありえないんだ、それはおかしいんだっていうことで、批判を加えています。そういう意味合いでは、心の中では、柳田国男なりの天皇家の出自に対する考え方っていうのはあったと思いますけど、けっしてそれを、あんまり表面には出さなかった人です。
つまり、表面には、そういうことは問題じゃない、天皇家とか、支配者が、どう変わっていったかってことが歴史なのではないんだ、それよりも、なんでもない人たちが、どういうふうなことをして生活し、どういうふうに生きてきたか、どういう物語をつくり、どういうふうに楽しんできたか、どういう苦労をしてきたかってことが、ほんとは歴史なんだってことが、柳田国男の根本的な考え方だと思います。だから、消極的にしか、そういうことにふれていません。
ただ、ぼくなんかが、なぜ、そういうことに殊更ふれるかっていいますと、それでいちばん、苦労したような年代のような気がするからです。つまり、戦争中の天皇制っていうものと、それから、戦後の天皇制の問題との大転換ってことに関して、いちばん苦労した年代のような気がするので、どうしても関心がそこにいくっていうことが、そこからはじまるみたいなことが、ありますので、ぼくらはそういう関心をもってきました。そっから入っていくわけです。
もうひとつ、神話の中で、とても大切なことがあるんですけど、それは、神話は、天皇家の祖先がどういうふうにあれして、九州にどういうふうに暮らして、そこから、神武天皇の年代になって、どうやって近畿地方へ入ってきたかってことを、神話として記載しているわけですけども、そんなかでもうひとつ大切なことがあります。大切な特徴があります。
それは何かっていいますと、日本の国土の成り立ちっていうものを、島だっていうふうに考えているわけです。日本の国土を島だって認識をもっているわけです。たとえば、国生みっていうのがあって、鉾をかざして、雫をたらしたら、島ができたっていうふうに、その島ができて、日本国ができあがったっていうようなことをいってるわけですけども、国生みっていう場合に、いつでも島っていうことの認識しか、神話には記載されていないっていうことなわけです。これは、とても重要なことのように思われます。
つまり、島っていう認識しかないっていうことは、どう考えても天皇家の祖先と、あるいは、祖先と非常に関係の深い人たちが、ようするに、海の人だっていいましょうか、海に関係する職業であったかどうかはわかりませんけど、とにかく、海に関係のある人たち、海民だっていいましょうか、海人だっていいましょうか、海民っていうものだって考えられる。つまり、海に関係の深い人たちだっていうふうに考えていることを意味しています。
国生みっていうのはつまり、自分たちの祖先がやった業績として、神話が書かれているわけですから、だから、自分たちの祖先が、国を、島を管理して、一等初めに島としては、淡路島っていうのがくるわけですけれど、淡路島の次には、四国っていうのが、四国の次には、九州っていうのがきて、それから、その中間に隠岐の島っていう島がありますけど、日本海の隠岐の島っていうのが、中間にあったりします。
だから、全部、島からできあがっているっていうふうな、考え方をもっていることがわかります。日本の神話っていうのはわかります。それはとても、重要なことのように思われます。つまり、海に関係が深いんだっていうことで、とても重要なような気がいたします。
それで、もうひとつ重要なことを申し上げますと、神話の中では、イザナギの命とイザナミの命、つまり、天皇家の大祖先にあたるっていうふうに、神話の中でなっている、イザナギの命とイザナミの命が国生みをした時に、島が生まれたんだ。たとえば、島の生まれた場合に、たとえば、四国でいいますと、四国を4つに分けているわけです。
それは、どう分けているかっていうと、伊予の国、讃岐の国、阿波の国、土佐の国っていうふうに分けていますけど、そういう分け方と同時に、日本の神話は、当時のそういう島は、別に人の名前をもっていたっていうふうにされています。
たとえば、土佐の国っていうのは、タケヨリワケノミコトっていうわけですけども、そういう人の名前を当時もっていた。それで、阿波の国はオホゲツヒメっていう名前をもっていた。讃岐の国はイヒヨリヒコっていう名前をもっています。それで、伊予の国はエヒメって、これはいまも県の名前としてありますけど、エヒメっていう女の人の名前をもっていた。つまり、ことごとく、土地っていうものは、同時に人の名前が関連付けられているっていう、そういう特徴が神話の中にあります。
このことは、なにを意味するかっていいますと、こういう考え方をいまのところ日本列島の中で残しているのは、アイヌの人たちがいちばん顕著だと思います。つまり、土地の名前、自然の山川とか、地形の名前を、すぐに人の名前になぞらえてしまうか、擬人法で人の名前になぞらえてしまうとか、地名っていうものをつけないで、地形の呼び方を、すぐに地名の呼び方と同じにしてしまうっていうような、そういうやりかたっていうのは、今残っているのは、アイヌの人たちだけです。
それで、この考え方は、やはり日本の神話の中では、神武天皇以前のことを記載する場合に、そういう特徴が非常に、著しい特徴なんですけども、この特徴は、ぼくの考え方では、一般的に言って、縄文時代的なんじゃないかっていうふうに思います。
つまり、今残っている人たちでいえば、アイヌの人たちだけが、そういう考え方をし、そういう地名の付け方をし、そういう近縁の付け方をし、また自然をそういう呼び方でしているっていうふうなことがあります。だから、これはアイヌの人たちも含めていえば、縄文的なんじゃないかっていうふうに思います。
この考え方っていうのも、大きな特徴のように思われます。どうしてかっていいますと、こういう呼び方でされている神話を、少なくとも、天皇家っていうのは、自分たちの祖先だっていうふうに踏んでるってことを意味してるわけです。
ここがいちばん問題のところで、神話っていうものと、歴史、考古学っていうものとが、現在までのところ、よく合致しないところであるわけです。つまり、もっとはっきり言ってしまいますと、神話の記載のとおりだとすれば、天皇家の祖先っていうのは、南九州の山の中です。つまり、車で行っても4,5時間かかりますけども、4,5時間、山の中に入ったところに、縄文時代の集落の大きな集落が、栄えたところがありますけども、そこらへん一帯そうですけども、そこが自分たちの祖先のいたとこだって、自分たちのそこが故郷であって、そこから山を降りてきて、海を渡って、近畿地方に入ってきたんだっていうふうに、考えていることを意味しています。
つまり、神話の記載自体も、ぼくは縄文的な認識の記載があり、それに囲まれて、祖先のところにきちんと、考古学っていうものの、指さすところは、もし北九州あるいは九州が天皇家の祖先の出身地だとしたならば、南九州であるっていういわれはなくて、北九州であるいわれのまま、多すぎるほど多いんだっていうふうに、考え方がどうしてもなると思います。
しかし、2,3の歴史学者は、南九州でいいんじゃないか、つまり、なぜかといえば、いろいろ言い方があるわけですけど、北九州におおいに王家、王朝として栄えていた、そういう人だったら、殊更、海を渡って近畿地方へ行こうなんていう、そういうふうに考えないから、まず、そういう北九州にうんと栄えたところの人たち、王家だったら、そんなこと考えないから、それよりも、もっと辺鄙なところにある、南九州出身だってことの方が妥当なのかもしれないっていう、そういう考え方をしている人たちもいないことはないです。
しかし、常識的な歴史家たちっていうのは、どうしても北九州っていうふうになってくと思います。しかし、少なくとも、神話の記載は、イザナギ、イザナミまで遡れば遡るほど、縄文的な認識の仕方っていう意味の、土地の名前の付け方、土地に自分の名前を付けたりしたっていうようなこと、それから、港の神っていうのがいるわけですけども、港の神っていうのは、船の港、海の港ですけど、港の神っていうのがいて、それは、ハヤアキツヒメとか、ハヤアキツヒコとかっていう名前が、やっぱり人の名前が、神様の名前が付いているわけですけども、その2人が交わって、そして産んだ子どもが、アワナミノミコトであるとか、アワナギノミコトだっていうような言い方をしています。それもまた、普通の海の波ですね、普通の波のことを、人の名前に、神様の名前になぞらえたんですけども、このやりかたっていうのも、やっぱりぼくは、縄文的なやりかただっていうふうに思います。
つまり、こういう考え方をもっているっていうことは、一般的にいいまして、天皇家の祖先が、神話の指すことは、南九州の縄文村落の出身であって、そして、それがある契機をもとにして、日向の国の海岸線を下りてきて、そこから舟に乗って、広島県の方に行ったり、岡山県の方に行って、それから、近畿地方に入っていったってことを指さしています。
そして、島を認識する場合、だいたい瀬戸内海の中国地方より、四国地方寄りの方が、詳しく記載されていますから、そこらへんの方が、海の人としていってれば、重要な意味をもっていたっていうふうに思われますけども、そういう記載になっている。だから、ここのところはひとつ、大きな問題になるように思います。
柳田国男はどういうふうに、そこを考えていったかっていうことが問題になるわけですけども、柳田国男は、南の島から稲作のやりかたをもって、いい土地、いい土地を求めて、南九州の方にとりついた人たちが、南九州で稲作の仕方を広げていって、そして、それからまた、そこを渡って、そして瀬戸内を通って、近畿地方へ入ったっていうふうに、考えられていると思います。
しかしそれは、さきほども言いましたように、王家が入ってきた、つまり、天皇家が入ってきたってふうには、少しも言っていないので、弥生時代に稲作をもった人たちが入ってきたっていう言い方をしていると思います。
そこのところは、柳田国男がいちばん、本当はあからさまに言いたい、主張したいことでありながら、あからさまには主張しない、しかし、よくよく考えてみると、そういうふうに、柳田国男は考えていたに違いないっていうふうに思えるところ、つまり、ただ柳田国男は稲を持ってきた人を日本人っていうふうに言っています。
しかし、稲を持ってきた人たちより、ずっと以前に、日本列島には人が住んでいたわけです。それは、縄文人っていうふうに名付けるとすれば、縄文人は、たぶん、北は北海道の方から、南は沖縄諸島の外れのところまで全部、分布していたっていうふうに思われます。
それが、単一の種族であるとか、そうでないってことは、また、いろんな問題があって、わからないところですけども、そういうふうに分布していたと思います。そこへ、稲の人たちがやってきたっていうのが、実情だって思われます。
で、柳田国男っていう人は、稲を持ってきた人たちへの関心っていうのもありますけど、一等初めに、柳田国男が民俗学を開いたときには、そうじゃなくて、稲を持ってきた人たち以前に、日本列島にいた人たち、粛々と山の中で修業をしてたり、きこり関係のことをしてたり、また、製鉄にたずさわっていたりっていうような、そういう人たち、農業民以外の人たちに対する関心から、柳田国男の民俗学は始まっております。
柳田国男の民俗学っていうのを、突き詰めていきますと、一見、孤立した民族にみえるアイヌの人たちっていうものが、縄文の人たちとして、一緒に含まれてくるわけです。柳田国男は、あからさまには決して、アイヌの人たちは、日本の縄文時代の人たちの直系に近いのこりなんだっていうふうなことは、あからさまには言っておりませんけども、柳田国男はそう考えていたっていうことは、とてもよく理解することができます。ぼくらがちょっと、柳田国男のいうところを推測して、普遍していきますと、どうしても、そういうところに突き当たるような気がいたします。
それから、もうひとつ、神話と、初期天皇家の起こりですけど、もうひとつ重要なことがあります。いまのところ処理できないものですけども、日本の政治にたずさわってきた人たちが、日本を支配した王家っていうようなもののありかたっていうのをみていきますと、非常に珍しいっていいますか、顕著なことがあります。
それは、どういうふうにあるかと申しますと、日本の神話が記載するところでは、遡れば遡るほど、政治的な制度っていうのは、兄弟と姉妹がいますと、王家の兄弟と姉妹がおりますと、たとえば、王家の姉妹っていうのは、女の人ですけども、女の姉妹の、姉とか、叔母っていうものが、一種の巫女さんといいましょうか、神様の御託宣といいましょうか、神様の教えを受けてっていう巫女さんがいて、で、その巫女さんの教えに従って、男兄弟が、政治を司るっていいましょうか、制度を司るっていう、そういうかたちが、遡れば遡るほど、神話はその記載をしています。
だから、神話の記載のなかで、アマテラスオオミカミっていう女性がいて、神様の託宣をとりつぐ、たいへん大きな力をもっている神様で、その弟がスサノウノミコトっていって、弟と2人で、国生みをするみたいな、そういうかたちがみえますけども、そのかたちは、一般的な制度から村落の下の方まで下がったときにも、そういうことがいえまして、遡れば遡るほど、兄弟姉妹が、王家でいえば、姉妹の方が神様のご託宣をとりついで、それに従って、兄弟の方が、政治的な制度をつくり、政治的なまつりごとをやる、そういうかたちがみえるわけです。
ところで、遡らないで、初期の人間の神武、綏靖、安寧、懿徳って、こう続く近代ぐらいまで、8代か、9代くらいまでの、天皇についての記載の仕方を、『古事記』とか『日本書紀』とかみますと、顕著なのは、そういう兄弟姉妹が、政治と神様の神事を司って、それで、国を治めみたいな、そういうかたちじゃなくて、つまり、兄が神事を司って宗教者になって、弟は天皇になって国を司るっていう、そういうかたちが、少なくとも、初期の天皇についての一般的な形として記載されています。
つまり、それは兄弟姉妹じゃなくて、兄が、神様の御託宣をとりつぐ神人、現人神っていいましょうか、つまり、現人神になって、それで、そのいいつけに従って、弟が天皇になって政治を司るっていうのが、少なくとも、初期の神武天皇から、8代か9代くらいまでが、そういうかたちがとられています。
たとえば、みなさんがよくご存じだろうから、神武天皇のことでいきますと、神武天皇は大和の国の、北九州の方から、あるいは、南九州の方から、瀬戸内海を通って、いまの岡山県ですけど、吉備の国にとまって、そこから、大阪へ入ろうとするわけです。そうすると、大阪に、土地の豪族で長髄彦っていうのがいて、入るのを阻止されてしまうわけです。
で、阻止されてしまったときに、戦に敗けて、神武天皇の長兄っていうのが、イツセノミコトっていうのが長兄なわけですけども、イツセノミコトがそこで、長髄彦の矢に当たって負傷してしまう、それで、熊野の方へ渡って、そこから上陸するっていうふうにして、近畿地方を横断して、奈良県に入ってくるっていうふうに、そう記載されています。
イツセノミコトっていうのは、そのときに当たった矢の傷がもとで、途中で死んでしまうわけです。死んでしまうというふうに神話は記載しています。その場合の、イツセノミコトっていうのは、何かっていいますと、それはいわば、神人であると、つまり、現人神である、神様の御託宣をとりつくる神人であったっていうことを意味しています。で、その神人の生命の犠牲のもとで、大和地方の平定が成り立ったっていうのは、神話の記載の真意だと思います。
このように、神武天皇の場合には、イツセノミコト、これは、唯一天皇家の、地名を暗示するあれなんですけど、ワカミケヌノミコトっていうのは、神武天皇の九州時代の名前なんであって、イツセノミコトって長兄だけが、いまの五ヶ瀬川っていう川の上流のところに土着していた人だっていうことを意味する名前になっているわけですけども、この長兄が神人であると、それで、次兄と三兄っていうのがいるわけですけども、次兄は神話の記載によると、海の波を渡って、常世の国に行っちゃったっていう、それから一人は、海の中に入ってしまったっていうふうに記載されています。それが、具体的になにを暗示するかわかりませんけども、そういう記載になっている。
で、残ったのが、ようするに、末弟である神武天皇、ワカミケヌノミコトっていうのと、それからイツセノミコトっていうのと、あるいは、五ケ瀬の命っていうのと、その2人しか残んないで、その2人が相談して、東征っていいますか、近畿地方へ行こうじゃないかっていうことで、東征するわけです。
兄の方が神事を司る、つまり、神の事を司る人であって、天皇は弟であるわけです。本当は次兄が天皇の位を継ぐわけなんですけど、それは死んでしまったってことで、あるいは、常世の国に行ってしまったっていうふうに、神話ではなっています。
それから、2代目の綏靖天皇っていうのも、やはり、おんなじでして、2番目の兄弟っていうのが綏靖天皇っていうふうになっています。もちろん、その場合にも、兄貴っていうのは、神人であり、忌人って書いてあります。それは、神人であることを意味しているわけです。
兄と弟が、しかも長兄が神事を司り、次兄がまつりごとを司るっていう、そういう天皇家のかたちっていうものの意味づけをするために、神武天皇の妃が、神武天皇が九州にいた時代に産んだ子どもがいるわけですけども、タギシミミっていう、産んだ子どもが、自分の義母ですけども、義理の母親と一緒になって、神武天皇が死んでから、一緒になるわけですけども、一緒になったときに、大和の地で生まれた子どもたちを殺そうとするんですけども、それはかわいそうだっていうので、イスケヨリヒメっていう、タギシミミを子にしてきた、実の母親ですけど、それが暗号を詠んで教えるんですね、おまえたちを殺そうとしているよって、それで、大和で生まれた兄弟は、結束して、タギシミミっていう、九州に生まれた神武天皇の子どもを殺してしまうわけですけども、その場合に長兄が、自分は実際に現世を統治するだけの力がなくて、おまえがやったんだから、おまえが位につけよ、自分は神をまつる人間になって、おまえに仕えようみたいな、そういう神話の記載になっていますけども、それは暗喩な神事の仕方を言ってるっていう、弟がまつりごとを司るっていう、天皇家の、初期天皇家ですけども、初期天皇家の制度、政治制度のやりかたを強調するための神話だと思います。
だから、これをみますと、兄が神事を司って、弟がまつりごとを司る、兄が生涯、現人神ということで、生涯、神事だけを司って、結婚することも、なにもしないわけです。つまり、精進潔斎して、もっぱら神事だけを司るっていう、そういうやりかたですけど、ですから、兄の子孫っていうのは残らないで、天皇家の子孫っていうのは残るけど、現人神である兄の子孫っていうのは残らないようになっている。そういう制度であったわけです。
その手の制度は、ぼくらが知っている限りでは、暗喩的に知っている限りでは、長野県地方の、諏訪の地方に、諏訪の、諏訪神社を中心とする神人共同体みたいのがあるわけです。そこのやりかたがやっぱり、男が神事を司るものと、それから、まつりごとを司るものと、男と男でやってるっていう、そういう世界、それから、瀬戸内海でいいますと、大三島っていうところに、河野水軍っていうのがあるわけです。戦国時代に河野水軍っていうのがあるわけですけども、河野水軍の祖先っていうのが、あの辺りの大三島っていうのを中心とする神人共同体だったこと、そこでもやっぱり、兄貴が現人神で、神事を司り、弟がその辺りを統括するっていいますか、政治を司るっていう、そういうかたちをとっているというふうに、伝承されているかと思います。
柳田国男の民俗学的な領域に入りますと、地方の神社を中心として、当番の社家っていいましょうか、当番でもって神社の面倒をみて、そういう社家があるところから、その手の兄弟でもって、あるいは、男と男でもって、政治と神事を司るっていう、そういうかたちが残っているところは、たくさんあると思います。
しかし、一般的に制度として残ったっていうふうに思われるのは、ぼくらの知っている限りでは、その3つしかないんですけども、それは、かなり確実に、ひとつの時代で、政治的な制度を治めるやりかたとしてあったというふうに思われるわけです。
たとえば、兄弟兄弟制っていいましょうか、あるいは、男男制っていうふうに、そういうふうな言い方をしますと、男男制っていうのと、もうひとつ、女兄弟が神様の事を司り、男兄弟が政治を司る、つまり、制度を司るっていう、そういうかたちは、ヒメヒコ制っていうふうに言いまして、これは沖縄の方では、かなり後まで残っていましたし、それから、沖縄の村落では、いまでも、兄弟姉妹の絆は非常に強い、いろんな場合に、そういうかたちで残っております。
だから、そういうかたちの両方があるわけですけども、その両方のうち、どちらが先であり、どちらが後であるのか、あるいは、どちらが旺盛であり、どちらがそうでないのか、それから、もしこれに、先住民、後住民、あるいは、日本列島を西と東で分けまして、西と東で制度のありかたが違ったっていう時代があったんだっていうふうに考えますと、どちらがどちらの制度であったかっていうことを決めるっていうことは、ひとつまた、大きな課題として残るだろうっていうふうに思われます。
それは、残念ですけども、推論することはできますけども、これを確定的にこうじゃないかって断定することはできません。初期の天皇、つまり、神武天皇から8代か、9代くらいの天皇までは、あきらかに、兄弟兄弟制です。つまり、兄弟制っていうわけで、兄が神事を司り、弟がまつりごとを司るっていうやりかたをしていたことは、神話の記載が、みごとにそれを裏付けているっていうふうに思われます。
このことが、とても重要だと思います。このことと、いわばヒメヒコ制っていいましょうか、姉と弟っていうようなかたちで、政治と神事が振り分けられていた、そういう制度とは、いったいどういう関係があり、それから、どういうふうに、どちらが組員であるとか、どちらが本筋であるかってことを、確定するっていうことが、ひとつ大きな問題だっていうふうに思われます。
そのことがひとつの神話と、天皇の神話的な記述っていうものをみていきますと、もうひとつ、大きな、どうしても考えなくちゃならない問題として、また、結論できない問題として、残されているというふうに思います。
神話の記載のなかで、そういう天皇家とか、大きな、国を治める的な起源がないところに、たくさんそういう記載があります。たとえば、イツセノミコト、神武天皇とが、近畿地方へ行く前に、九州地方を統一しようとするわけです。南九州から北九州まで統一しようとして、変遷するわけですけど、そのときに、たとえば、いまの大分県でしょうか、宇佐神宮っていうのがありますけど、宇佐神宮の宇佐の地方へいくと、そこに宇佐神宮を中心とした豪族で、ウサツヒコっていうのと、ウサツヒメっていうのがいたっていうふうに言われています。
ウサツヒコとウサツヒメがいて、神武天皇たちを歓迎してたってことが、神話の記載のなかでありますけども、その場合、ウサツヒメとウサツヒコっていう2つの豪族の名前が記載されているっていうときには、一方は神事を司り、一方は政治を司るっていう制度が存在したっていうことを意味しています。
そのときに、ウサツヒコとウサツヒメっていうのがいて、兄弟であって、ウサツヒメっていうのはたぶん、神事を司り、ウサツヒコっていうのは政治を司って、その辺りを統括してた、政治をしいてたっていうふうに考えることができます。
こういうふうに、神話の記載は、国家的な起源じゃなくて出てくる場合の、2つ、豪族の名前が並べてありまして、それは2種類あります。つまり、兄弟兄弟が並べてある、たとえば、これは教科書の中にも出てくるから、みなさんもご存じだと思うんですけど、エウカシ、オトウカシっていうような兄弟がいて、エウカシの方は、神武天皇の軍隊に対して、矢を射かけて、抵抗したけれども、弟の方は、恭順の意を示して、兄を殺して、恭順の道にきたっていうような、神話の記載があると思います。その場合に、エウカシっていうのは兄です。オトウカシっていうのは弟です。
この場合、こういうふうに2つ名前が並べてあった場合には、エウカシの方が神事を司るっていう人って考えたらいいわけです。それで、オトウカシっていうのが、政治を司るっていう考え、そうすると、神話のなかに2つ並列して、豪族の名前が記載されていて、どちらかが神事を司って、どちらかが制度等を司るっていうか、それで、その場合、兄弟姉妹が並列に記載されている場合と、兄弟兄弟、男兄弟が記載されている場合と、2種類あります。
だから、これもわからないんです。地域によってそうなのかっていうふうにみていくと、かならずしも、そうとは限らないことがわかります。地域によって、兄弟姉妹の場合と、それから、兄弟兄弟の場合と、地域によって違うのかっていうと、かならずしもそうではないっていうことがあります。
それじゃあ、どちらかが古い制度なのか、古いあれを守ってるものなのかっていうと、もしかすると、そうかもしれないような気がします。その場合には、兄弟姉妹っていう方が、古い制度なんじゃないかっていうふうに、考えたらいいのかっていうふうに思います。でも、断定することができません。
それから、もうひとつは、兄弟姉妹っていう、つまり、女兄弟と男兄弟が、神事と政治を振り分けていたっていう、そういう制度は西区っていいましょうか、つまり、近畿地方より南の方、西の方っていいましょうか、そういうところの制度で、北の方は、それより以北の方はそうじゃないんだっていう、あるいは、以東の方はそうじゃないんだっていうふうに、地域で振り分けられるような気もするんですけど、それもまた、あんまり断定的にいうことができないと思います。いずれにしても、この2つのことは、初期の天皇を考える場合に、とても重要なことのように思われます。
柳田国男がこの問題について触れているのは、もっぱら女兄弟と男兄弟とが、神事と政治を司るっていう、そういう制度については、柳田国男は触れております。そういう村落のしきたりについても触れています。それから、「妹の力」みたいな文章によって、いかに男兄弟にとって、姉っていうものが、いかに大きな力を持つか、あるいは、一般的に村落の家での生活にとって、女の人の力が、どんなに大きいものであったかっていうことを、柳田国男はしきりに説いておりますけども、そのもとになっているのは、姉妹と、つまり女兄弟と男兄弟が、神事を司っているものと、それから、政治を司っているものとに、分担されていったって、そういう制度について、柳田国男は、歴史的な事情の以前から、歴史時代にかけて、そういうことを一生懸命考えていたっていうことを意味すると思います。
それから、男兄弟が、兄が神事を司り、弟が政治を司るっていう制度については、柳田国男はまず、大体において触れていないっていうことが、あからさまに触れていないっていうふうに、ぼくは思います。
その場合には、あからさまじゃないんですけども、東北地方とか、安曇野とか、もっと絞ってしまいますと、北海道とか、そういうところで、家々にまつられている「オシラサマ」っていうのがあるわけですけども、「オシラサマ」を司っているのは、その家の女の主人であって、女の主人の力業に、「オシラサマ」っていうのはたいへん力になって、家々を治める力になっているっていうような言い方で、間接的な言い方をしているところがありますけども、あからさまな制度としても、男と男っていう制度については、柳田国男は、まるで触れていないっていうふうに思います。
なぜ、触れていないかっていうと、その制度の問題っていうのが、あんまりきちんとは、はっきりと言いうる、つまり、取り出しうる段階になったのは、たぶん、ごく最近といいますか、古くはないんだっていうふうに思います。
だから、ごく最近になって、もしかすると、こういう制度について、はっきりと取り上げて、これはどういう問題なんだって、取り上げていいんじゃないかってなったのは、ごく最近の、4,5年だと思いますけど、そのくらいからじゃないかなっていうふうに思います。
だから、柳田国男は、その時代は、制度としては触れていません。家々にまつられる神様っていうのを、だれがそれを世話して、あれするのかっていった場合に、その家のいちばん力のある主人なんだっていう問題については、柳田国男は一生懸命になって、それを取り出そうとしたと思います。
そして、取り出した問題を、柳田国男は、単に東北とか、北海道とか、そういうだけじゃなくて、たぶん、日本列島全部にわたって、そういうのはあったんじゃないかっていうことを、潜在的には言おうとしているっていうふうに思います。だから、そこの問題は、はっきりは触れられていませんけども、柳田国男のたいへん関心をもっていたところだっていうふうに思います。
そこの問題は、もうひとつ、兄弟姉妹制っていうことと、兄弟兄弟制っていうものは、ある時代に、ある時代っていうのは、初期の天皇の時代っていうことがあるんですけど、初期の天皇の時代に存在したんじゃないかっていう、そういうことを、どういうふうに解明したらいいのかっていう問題が、とても大きな問題としてあるように思います。
もうひとつ、いま申し上げました兄弟姉妹制ってことと、兄弟兄弟制っていいましょうか、男男制っていうのと、男女制っていう、そういう制度のあり方ですけども、その制度のあり方を、初期の天皇のあり方に当てはめてみますと、どういうことがいえるかっていいますと、ぼくの理解はそうなんですけども、たとえば、神武天皇っていうのが、大和の国に入ってくるわけです。大和の国に入って、橿原っていうところに、神話の記載によれば、宮殿を定めるわけです。そこで、まつりごとをしくっていうふうに、書かれているわけですけども。
ところで、大和の国に入って橿原に来て、そこで定住して、そこで宮殿を定めて、その辺りの政治を司るっていうふうになってからも、神武天皇のお妃になったイスケヨリヒメっていう、やっぱり一種の巫女さんになると思いますけど、イスケヨリヒメっていうのがお妃になるわけですけども、その場合に、神武天皇が、神武天皇っていうのはイワレヒコっていうですけど、どういうふうなやりかたをしているかっていうと、まず、これは神話の記載がそうなっているので、これは、そういう制度を表してると思いますけど、つまり、母系制を表していると思いますけど、まず、神武天皇がそばに仕えてるオオクメノミコトっていうのを連れて、そこらをぶらぶら歩いていたら、むこうで7人の女の人が、娘さんが通ってきた。で、オオクメノミコトが、7人のうち、誰がいちばんいいと思うか、いい人のところにわたりをつけてあげるっていうふうに言うわけです。そして、神武天皇が一番最初に行ってるのがいいって言うわけです。
その一番最初に歩いていたのは、イスケヨリヒメっていう、それを、神話の記載どおりに申し上げますと、イスケヨリヒメが、挟井川、挟井川っていうのは、いまの三輪神社っていうのがありますけど、その傍を流れているのが挟井川っていう川です。それで、挟井川の上のところに、いまの三輪神社あるいは挟井神社っていうのがありますけど、そこの辺りに住んでいたっていうふうに記載されていると思います。それで、神武天皇はそこへ通っていったっていうふうに書かれています。
つまり、これは何を意味しているかっていうと、先ほど申し上げましたとおり、政治制度としては、神武天皇は、兄が神事を司って、その御託宣によって、自分は政治を司るっていう、政治制度としてはそういう制度をもっていた、対応していたっていうことを意味します。
しかし、個人としてはといいましょうか、家の制度といいましょうか、家個人としては、そうじゃなくて、その村落の母系制的なやりかたに従って、通い婚ですね、自分が見初めた娘のところに通っていったっていう、そういうやりかたをしているっていうことがわかります。
つまり、制度としては、男男制っていうものをとりながら、自分たちの家っていうものの次元では、娘を道連れてきて、それで住まわせたっていうんじゃなくて、自分の方が、イスケヨリヒメの家が、挟井川の上のところにあって、そこのところに通っていったって書かれています。
このことは、婚姻制度ですから、村落に行われている制度は母系制社会であって、そのしきたりに従って、自分の女の人のところに通っていったっていうことを意味しています。ですから、家の制度としては、母系制をとり、それから、宮殿の制度としては、つまり、宮殿の制度っていうのは政治制度ですけど、政治制度としては、男男制をとってきたっていうのが、初期の天皇っていうのの、本当のあり方だと思います。これは、違うように言う人もいるわけですけども、違う言い方をする人もいるわけですけども、ぼくはそういうふうに思います。
たとえば、宮殿っていうのが、次の天皇の時には、そんなに離れていないですけど、遠いところに宮殿を変えてしまうわけです。それは、どうしてかっていいますと、ぼくの理解の仕方では、そういうふうに女の人のところへ通っていって、はじめて女の人を宮殿に連れてきて、それで住まうっていうようなやりかたをしているっていうふうに思うわけです。ですから、村落のしきたりによっては、母系制でしきたりも残って、そして、ある人は、その母系制のとおりにやって、そして宮殿に女の人を迎えるやりかたをしたと思います。
そしたら、今度は違う天皇の時は、場所の違う女の人のところに通った場合には、今度は違うところに通うわけです。たぶん、イスケヨリヒメっていうのもそうなんですけど、その当時の岩山の周辺にあった村落共同体の中の、長の家の娘だったっていうふうに思います。そうすると、そこの娘を娶るっていうことは、そこの主になるっていいますか、母系制社会ですから、村落共同体の支配圏っていいましょうか、それを自分のところに得たっていうことを意味するわけです。
今度、違う人間が、違う女の人のところに通っていって、たぶん、天皇ですから、その地方の一番の地位っていいますか、一番豪族の家に通ったに違いないので、そこの家の娘に通って、それで、しばらく何回も通って、宮殿を造るとすれば、そこの村落支配圏にいちばん都合のいい場所に、宮殿を移すっていうことになります。
だから、違う宮殿になってしまいます。そういうふうにして、一代ごとに、宮殿っていうのは、みんな違ってしまいます。それは、なぜかって言ったら、たぶん、そういうせいだって思います。
ですから、いま申し上げましたように、家の制度としては、母系制社会による通い婚の制度を保ち、そして、国家の政治制度としては、ようするに、男男制っていうのを保っていたっていうのが、天皇家の起源におけるあり方じゃないかっていうふうに、ぼくには思われます。
これも、自分がそう思っているだけで、確定的にそうだったっていうふうに、なかなか決めることができないわけで、ここの問題については、柳田国男は、ほとんど何も言及していないと思います。なぜかと言いますと、先ほど言いましたとおり、天皇家のこと、あるいは、国の支配者の家がどうなっているかってことは、あんまり関心がなかったんじゃないか、それでも、ごく普通の人は、歴史の中でどういうふうに生きて、どういうふうなものを生み出していって、どういう生活とか、どういう物語とかを見出していったかっていうこと、あるいは、どういう信仰を信じていたかっていうことが、柳田国男の第一義の関心でありますから、たぶん、政治制度の頂点にいる人たちが、どういうふうなやりかたかっていうことについては、もちろん、たいへんな碩学ですから、よく知っていたに違いないんですけど、知ってて、自分の考え方っていうのをちゃんともっていたと思えるんですけど、あまりはっきりは、そういうことについては言及していません。
もうひとつ、重要なことがあります。それは、初期の天皇に該当する天皇には、南九州から東征してきて、近畿地方に入ったっていうふうに言われているけども、それはどの時代だったのかっていうことは、とても大きな問題だっていうふうに思われます。どの時代だったんだっていうことについて、これもまた、確たる定説がないっていうのが現状だと思います。
これは、いかに歴史学者も、考古学者も、それから、神話学者も、はっきりとそれを言うことができていないし、はっきりと確定することができていないのだと思います。まず、ひとつの考え方を申し上げますと、神武天皇が南九州から、瀬戸内海を通って、近畿地方に入ってきた。そこで、都を定めたんだっていう、そういう神話の物語、伝説っていうものは、ほんとは先ほど申し上げましたとおり、稲作をもってきた弥生時代人が、だんだんと九州の方から、だんだんと稲作を広めていって、近畿地方までずっと広めていった。そういうことを、神武天皇の東征っていうのは象徴しているんだ。
つまり、弥生時代人がどういうふうに近畿地方に入ってきたかっていうことを象徴しているんだ。神武天皇っていう個人がいたかどうか、あるいは、神武天皇から8代か、9代までの天皇は、本当に実在したかどうかっていうのは、わからないとしても、そういう弥生時代人が稲作をもって、九州から近畿地方にやってきたっていう、そういう人を象徴するひとりの人物として、存在するんだっていう、そういう考え方の学者もいますし、そういう説もあります。その説っていうのは、さまざまな根拠があるわけですけども、そのひとつの根拠っていうのは、地名であるわけです。
神武天皇は、大阪の方から入ろうとして、長髄彦の軍隊から阻止されます。そして、熊野の地方から上陸して、吉野の山の方を通って、三輪山の方まで来るわけですけど、その間に出てくる様々な豪族が抵抗するんですけど、抵抗した豪族たちが住んでいる場所の地名が出てくるわけですけど、その地名は、ことごとく、現代でいえば、縄文時代の村落の跡であって、縄文時代の遺跡が出てくる場所があって、その場所が、たとえば、十あるとすれば、十が十、全部、そこから縄文時代の遺跡が出てくる場所なんだ。
それで、もしそれがなんらかの史実の反映でないとするならば、一か所ぐらいは、縄文時代だったらば、海の底じゃないかっていわれる地名が出てきてもいいはずじゃないか、しかし、その当時、大和盆地っていうのは、縄文時代には海抜70メートルくらいまでが陸地であって、あとは水が入ってた。で、だいたい出てくる地名は、全部海抜70メートル以上のところで、だから、それほどはっきりしているのは、これはなんらかの意味で、史実を反映している。その史実は何かっていったら、縄文末期に、稲作をもった人たちが入ってきて、そこに村落を定め、村落が集まって、連合共同体をつくって、それから国を造りはじめたっていう、そういうことの象徴なんじゃないか、そういうふうに考えられるんじゃないかっていう考え方が、ひとつあります。
それから、もうひとつ重要だっていうふうになる考え方がなにかっていいますと、それは大和盆地でもそうなんですけども、わりあい高いところに、地形が高いところに、村落といえないんですけど、小さな集落ができていって、その集落にはかならず、砦みたいな、戦争用に使ったんじゃないかっていう砦みたいなものが、ちゃんとしっかりと、そういう集落が縄文時代から以降の高地性集落っていいますけど、集落として残っていると、その集落を点々として、四国を通り、それから、北九州まで、そういう点々としてあるんだ。
そうすると、そういう集落が消えてしまったり、さびれてしまったり、そのあとになって、ようするに、古墳時代っていうようになり、大きな古墳が築かれるようになっていると、そうすると、古墳時代っていうのはすでに、国家ができた、国王ができたっていうことを意味しているわけですから、つまり、国王が統一的にできるまでに、高地性集落でもって、九州から、東の方は中部地方にわたるまで、全部を含めたような、大きな戦、勢力争いっていうのが行われていて、その勢力争いが済んだころ、古墳時代に入って、古墳時代に入ったところを、天皇っていうのを象徴しているんじゃないかっていう、そういう見方っていうのもあります。
それから、そういうことはありえないのであって、弥生時代中期くらいに、遺跡をみてみると、顕著なのは、近畿地方から東と、九州地方とは、最遠と歩くほうから分かれるような、集落ができていて、そこのところで、北九州を中心とする九州地方の勢力と、それから近畿地方を中心とする勢力が相争っていた時代があったんじゃないか、それは、どういうふうに結末がついたのか、それはわからないとしても、あるいは、近畿地方の勢力が勝って、それで、九州地方の勢力が衰えてきたのかもしれないし、わからないけれども、それ以降に、古墳時代に入って、国家がはじまったんじゃないかっていう考え方の人もいるわけです。
もっとも新しい考え方を考えている人にとっては、神武天皇から、8代9代までの天皇は、伝説の天皇になって、けっして実在していたんじゃないんだっていう考え方をすることが、今日日、有力なわけです。しかし、そうじゃなくて、弥生時代中期には、あるいは、弥生時代初期には、近畿地方にたくさんの人たちが稲作を耕してきてたんだ‥‥(フェードアウト)
テキスト化協力:ぱんつさま