続いて文学の話に成るのです。吉本隆明さんに話して頂くのですけれど、当然の様に小説家の僕から見れば、吉本隆明という人は思想家でも或いは政治家でも或いは詩人でもなくて、寧ろ大きな意味の文学者として僕は捉えている。要するに言葉の生産者、言葉の発語者として考えている訳ですけれど、その吉本さんに文学に限って話をして頂こうと思います。お願いします。
【拍手】あのー、単純計算をしまして、もし24時間誰も来ないとすると、僕は普通いま1つの講演、いつでも1つの講演ってのは大体1時間か、1時間半くらい遣ってて後は質疑応答みたいなのが1時間半か2時間ぐらいあって、仮にそういうのが普通ですから――何て言いますか――単純に24時間を2で割ると12項目だっていうふうに考えて、要するにまかり間違えば俺は12項目遣るんだぜと言うのが1つと、それからもう1つは全く逆な極端で、もしゲストの方々とか皆さんの方で侃々諤々か何か遣ってくれたら、僕はもう黙って聴いているか、寝てるかどちらかでいい筈だって言う、その2つの極端のことを考えまして、幾つか――何て言いますか――テーマと言うのを考えては来たんです。それであのー、文学のことも考えて来たんです。で、あのー文学というものが――何て言いましょうかね――その時の状況と言いましょうか、つまり状況というものに対応しながら刻々に変わっていくという、そういう面がある訳ですけれども、もう1つは今あのー、今大原さんのお話がそうだったと思うんですけれども、何か根本的に何か人間が生活とか現実とか人と人との関係とかと言うものに根本的に取り組んでいて、そこで取り組んで起こる問題というようなことが何か文学にもし何時でも付きまとう問題だとすれば、大原さんのような大家―その上に老を付ければ老大家でしょうけれども――大家の方にしてもらえれば、象徴的にその問題というのは出て来るんだっていうふうに思いまして、僕は文学っていうのは今どういうことに成っていんだみたいなことについて一寸お話ししてみたいというふうに思った訳です。それで、そんなことを言ってもあんまり大袈裟なことじゃあなくて、僕最近出た――ごく最近出た本で3冊作品を読んできました。その3冊を申し上げますと、1つは村上龍さんの『愛と幻想のファシズム』という小説がありまして、それが(は?)長いもんですけれども、それを読んできたんです。それであともう1つは山田詠美さんの『ラバーズ・オンリー』(『ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー』)、これは直木賞かなんかを貰った作品集をなんですけども、それを読んできたんです。もう1つは芥川賞を貰った村田喜代子さんの『鍋の中』って言うんですけど、村田さんという人は初めて作品を読む作家なんですけれど、そのまあ3つがごく最近文学で、文学作品でごく最近僕は読まして貰った作品(です?)。それで――何て言いますか――それぞれなかなか力作であり、それぞれ問題を提起されて、それはもうこの3作を先ず、今書かれている文学作品の1つの象徴として読むと言うことも勿論出来るし、そうじゃなくて作品自体として読むことも出来るというふうに・・・。
村上龍さんの作品からいってみます。もっと大雑把なところからいってみます。村上龍さんの作品は、エーとこれは『週刊現代』か何かに連載されたものを纏めたものじゃないかと思います。それから山田詠美さんのは『月刊 カドカワ』か何かに連載されたものを集めたものだと思います。それで、この両方――言ってみれば所謂、文芸雑誌って言いましょうか、以外の所で書かれている訳なんです。だけども僕の見たところ、読んだところでは、この2つの作品は大変良い作品であるし、それからもう1つ特徴を申し上げますと、要するに毒を生産している、毒を持っていると言ったらいいでしょうか、要するに毒を自己生産している所がありまして、これはとても特徴的な現象のように思いました。つまり純文芸系雑誌――芥川賞を貰った、獲ったよいうという村田喜代子さんという人の作品がこの中で言えば1番毒が無い作品だ、毒が無い作品でキチッと静かで――何て言いますか――じっくりしているって言いましょうか、そういう作品で、別な意味で言うと1番毒が無い作品、毒を生産していない作品で、他の山田さんの作品も、この村上さんの作品も相当毒を自己生産している作品で、何かそういう意味で言ったら遙かに衝撃力というのが強い作品です。衝撃力の中身ということの問題になってきますけれども、村上さんの作品は要するに1人の狩猟――狩りですね――の好きな男がいて、その男がどっか日本以外の所で1人の、狩猟の好きな男が主人公の――作品ではトウジとか「俺」という1人称で出て来る場合もあるんですけど――「俺」という男がいる訳ですけれども、その男が日本以外の所で出遭った1人の――何か判らないですけれど――自殺しそうな男と一緒に成って、それでその2人で――何て言いましょうか――奇妙な親和感を持つようになって、それで2人で何かしようじゃないかというふうに、何か2人でやらないかというふうに考えて、それで遣り出す。狩猟社という結社を作る訳です。狩猟社という結社を作って、そして結社を広げていって――なんと言いましょうか――段々と――まあそこが問題なんですけれど――段々と結社が広がっていって、何かとやり合いたいということで、何とやり合うのかということが村上さんの1つの――何と言いましょうか――現代に対する認識というものと係わりがあるでしょうけれども、何か巨大な、多国籍資本みたいなのがあって、多国籍資本みたいなものが、資本のシステムみたいなのがあって、結社みたいなのがあって、その結社が次々と何か自分達に多国籍資本の企業の結社というものに次々に入っていく、仲間に入れるものと仲間から外れる者と、ドンドン世界中で振り分けていくという、そういう遣り方をして、それでまぁ振り分けて結社に入れて貰えなかった企業とか資本とかは段々潰れて、寂れていくという、そこに入れられた、仲間に入れられた結社というのは非常に繁栄していって、世界に、個々の国家では抑えきれない様な巨大な力を持つようになった、1つのシステムが出来上がる。そしてその狩猟社というところの「俺」というのと、一緒に遣ろうと言った――作品ではゼロ――そのゼロとは、最終的にはそれと闘おうじゃないかって言って、考える訳ですけど、闘う遣り方を知りたいみたいなふうに考えて、遣っていく訳なんですけれども――何と言いましょうか――その手始めとして多国籍産業の組織の日本にある――何と言いますか――企業というものに、ストライキが起こる、そうすると労働組合と左翼の政党というものが、その企業と対立している。そういう時に狩猟社というものは、巨大なシステムである資本家組織って言いましょうか、それから依頼されて結局労働組合の闘争から企業の研究施設を守ってくれみたいなふうに、それを請け負う訳です。請け負って狩猟社というのは、自分の所にある創っといたクロマニヨンという、所謂一種の軍隊組織みたいなのを創る訳ですけれども、その勢いで――何と言いますか――一般的に言えば企業にストライキがあって、左翼の政党と労働組合が対立してデモを遣っているという、そうするとそれに反対の方から右翼が遣って来て、対立を仕掛けるという、労働組合に対立を仕掛けるという、そういう図式の中で狩猟社というのは、誠に――なんと言いますか――凄まじいって言いますか、冷酷なテロまがいの遣り方で以て右翼と労働組合の両方ともぶっ飛ばしてしまって、そうしてそれで何か非常に段々――何と言いますか――勢力をまた得ていく。それで今度は左翼の政党は狩猟社を目して、あれはファシズムだ、企業家を守るファシズムだと言う様なことになって、左翼政党とか労働組合とまた対立していく。そうしながら段々大きくなっていく。丁度村上さんのモチーフの中ではきっとナチスが――何と言いますか――台頭していく時のヒットラーとゲッベルスとの関係にみたいなものが念頭にあって作品の経緯が創られているんだと思います。この作品はどちらかというと、小説というより大説な訳です。つまり、この大説ってのは言ってみると、必ず作品としては失敗すると思うんです、文学作品として。だから凄い大変な試みって言いますか、意欲的なもんだね、意欲的な作品だねっていうふうに言えば言えるところがありますが、やっぱり全体としてみれば、失敗した作品だなっていうふうに、
それで、何が失敗しているかと言うことから、文学的な領域・文芸批評的な領域に入っていく訳ですけれど、村上さんがその結社というのが、「俺」と言う人物を一種のカリスマ的なあれに仕立てて、どんどん大きくなっていく過程を描く訳ですけれども、その大きくなっていくポイントって言うのは何かということ、何をポイントとしてその結社は大きく成っていく状態、逐一具体的にそれを緻密に描いていく訳ですけれど、何が大きくなっていく契機になっているか、契機として描かれているかというと、全体的に言えば一つはテロなんです。苛酷なテロをやる訳です。苛酷なテロで対立している、暗殺しちゃうみたいな、抹殺しちゃうみたいなことを、苛酷に平気でやってのけると言うことが一つ、組織が大きくなっていくテコに成っている。もう一つはクスリを使う訳です。何て言いますか、自白剤とか発狂してしまう様なクスリを使うということでドンドン対立する勢力とか人物とかを抹殺していっちゃう、そういうことを村上さんは狩猟社と言う結社が大きくなっていく――何と言いますか――を描く為の跳躍台と言いましょうか、それとして使っている訳で、僕はいささか残念だなというふうに思ったんですが、批評として思想的なことをいわすれば――なんと言いますか――暗殺するとかクスリを使って相手を抹殺するとか対立者を抹殺するみたいな、そういうやり方で組織を大きくしていくというふうなそういう描き方じゃあなくて、本当に例えば、「俺」という人物のカリスマ性とか、やり方の緻密さとか、何を対立物とするかという場合の直感的な――なんと言いますか――洞察力の凄さとか、そういうやり方だけを自分が持っている一種の人格的な魔力・魅力、そういうものと自分達の仲間との、本当に心底からの結束力みたいなもの、そういうものを次々具体的な場面で発揮しながら、そしてそれが大きくなっていくというような、そういう経緯を緻密に描けた(な)ら、僕はもの凄い作品になっただろうなと思いました。だけど、残念ですけれど――何と言いますか――ある意味で安直さがあってここでどういうことが起こって、どういうふうに処理していくかなという問題が、つまり一種のプロセスがあるという、そういう場面でしばしば誠に見事な暗殺の仕方をしちゃうということで、そこの場面・具体的な場面をこう構成(?)してったり、解決してったりしちゃうところがあって、そこんところは安直すぎるんじゃねぇかと言う感じは僕はしました。これがそうじゃなかったら、もの凄く緻密、もの凄い小説だなって言うくらい、緻密によく描かれている作品だと思います。それからもう一つ、これも安直というば安直だなって思うのは、要するに「俺」と言う人物も仲間達も、何か一つの非常に単純な理念を持っている訳です。その理念は何かって言いますと、要するに、嘗て人類は狩猟時代には非常によかったんだ、ところが狩猟時代の後に農耕時代が来て、人間は農耕、耕作して植物を育てて、人工的育てて栽培して、それを食料にするみたいなこと、そして定着する、土地に定着すというやり方をするようになってから――何と言いますか――動物的な勘も失いますし、また動物と自然と自分とが一体なんだというそういう感じ方も失ってしまって、駄目なやつになってしまった。そうすると駄目なやつになって来たらそこに弱者と強者が生じてきて、大体狩猟時代だったならば強者だけが、強い獣が生き残ると同じ様に強い人間で、自然によく適用し、つまり自然の生態系によく適用し、そして非常に頑健であり、強くて動物を幾らでも倒しちゃうと言う、そういうことが出来るやつだけが生き残ったのに狩猟社会では弱者が生き残っちゃったから、こんな弱者なんか本来農耕社会以降そういう弱者が生き残って来ちゃったんだから、こういう弱者は狩猟社会を理想とすれば、どんどん死んじゃった方がいいんだ、みたいな観念を主人公の「俺」というのもその仲間達も持っていると言うことになっています。しかしこれはあまりに単純すぎる論理と倫理なんで、これがもう少し複雑怪奇に、複雑になっていたら、つまり複雑な問題として「俺」と言う人物とか狩猟社という結社の理念としてそれは持たれていると言うことの様に描かれていたら、これもまた相当凄い小説に成っただろうなって言うふうに思いました。僕の理解の仕方では、僕は直ぐにそれを想い浮かべたのですが、村上さんの小説の中で今申し上げました二つの弱点みたいなのが無かったとしたら、僕は丁度それはね――僕書いたことがあるんですけれども――何年か前、ポーランドの「連帯」と言うのが――何と言いますか ――全国的なゼネストを起こして、つまり一種の自分達に――何と言いますか ――実質的な権利を与えよって言うことをスローガンにして、ポーランドの――その当時のポーランド共産党が政権を執っていた訳で――ポーランド共産党政権のほとんど寸前まで、崩壊寸前まで追い詰めるみたいなことをやったことがあるんですけれど、つまりその時にポーランド連帯というのが考えた構想というのが幾つかある訳ですけれど、その構想が多分、僕は――何と言いますか ――なんでも無い人たちがある要求、モチーフをもって、なんかそれが組織的な体系をとって、そして組織を創ってそして具体的な場面で闘争してなんか自分達のモチーフを遂げようという場合に どういう構想が抱かれるか抱くことができるかというそういうことではヤッパリポーランド連帯が幾つか創った構想と言うのがいちばん――何と言いますか ――遠くまで行ったっていいましょうか、いちばん遠くまで行った構想のように僕は思っていますけれども、その構想、つまり村上さんの小説っていうのはまさにその――何と言いますか ――今申し上げました主人公達の理念の単純さと、それから何かというと殺しちゃえばいいじゃないかというふうに発想していく、その発想の仕方っていうの(が)一種の通俗性と言いましょうか、単純性と言いましょうか、それがなかったら、これは相当凄い小説だなーて言うふうに思います。残念ですけどもそこの所が、なんか一寸あまりに単純すぎやしませんかという感じを受けざるを得なかったんです。それから勿論村上さんは作家ですから、小説家ですから小説的な部分は非常によく描けていました。主人公の「俺」って言うのはややそうでもないんですけれ(ど)、これはそんなに魅力ある人物かねーって言う様に思うところがある程、あんまりそんなに描けてないと思うんですけれども、相手になって「ゼロ」というあだ名の、ひとたび自殺しそうになって、一緒に何か、自殺の――何と言いますか――誘惑を脱出して、そして何かやらないかということでそういう結社を創ってやりだして、結社を創ってやりだす内に、今申し上げました、悉く何か、何かっていうと、あいつを殺しちゃえって言うにやって、実際暗殺しちゃうみたいなことをやる、そういうやり方で段々大きくなっていく、そういう自分のあれに嫌になっちゃう訳ですけれども、つまり嫌気がさしちゃう訳ですけれども、嫌気がさして本当に生きる気分もなくなっちゃって、意欲を喪失した状態(に)ゼロと言う人物はなる訳ですけれど、「俺」という人物に殺されそうになったり、お前なんか仲間にも、あいつは脱落者なんだから殺しちゃえみたいなことを言われそうになるんですけれども、「俺」と二人で旅に出まして、その旅でなんか・いつお前は俺を殺してもいいぞみたいなふうの状態になって行きながら、段々そこんところでまたそこを脱出していって、要するに俺はあれだけれども、お前は宣伝の関係を担当して、またやろうじゃないかとまた再びやろうじゃないかと、やり直そうじゃないかと、みたいなことを言われて意欲をまた回復してやっていくみたいな、そして組織を大きくしていくみたいな、そういう何かゼロという人物の――何て言いますか――精神の動き方って言いましょうか、それはもの凄くよく描けてて、これは村上さんの実力って言いますか、力が非常によく出ている作品だ、そういう個々の場面とか、人間の描き方とか言うことでは大変良く描かれている作品で、いずれにせよ全体の印象はなかなかの衝撃力ある作品になっていて、きっとそういう批評みたいなのがこれから様々な意味で出て来る作品じゃないかなっていうふうに思いました。
村上さんの例えば割に近い時の作品で『走れ、タカハシ! 』っていう作品集があるんですけど、『走れ、タカハシ! 』っていう作品集の中の二つぐらいの作品短編なんですけれども、それなんかもの凄くいい作品と思っていますけれども、村上さんの持っている一種の――何て言いますか――モチーフの毒って言うのと、それから文体の毒って言うのがあるんですけれど、文体の毒って何かと言いますと、僕の理解の仕方では読む人にやっぱり、考えさせないと言うことだと思います。つまり――どう言ったらいいでしょう――つまり非常に行動的な言葉って言いましょうか、行動的な言葉って何か、読む人に考えさせない、読む人が読みながら考える以前にもう先へ行っちゃうみたいな、そういう一種の行動的な文体の速度って言うのは、村上龍さんにある訳ですけれども、それは僕はある意味で村上さんの小説を良くしている、優れたものにしていると同時に一種持っている文体の毒だって言うふうに思います。それは非常に良く発揮されている作品だと思います。それからもう一つ村上さんの毒、現実的(な)一種の毒がある訳ですが、その毒って言うのは先程から出ている様な言葉で言えば、一種のアンチヒューマニズムなんです。つまり何かアンチヒューマニズムって言ったら良いでしょうか、アンチ・反倫理って言ったら良いでしょうか、殊更に反倫理・アンチヒューマニズムを殊更に――何て言いますか――強力な形で押し出してみるって言う、そういう一種の毒って言うのが村上さんの小説の中にある訳なんですけれど、その毒が遺憾なく発揮されているという、とても面白いって言うか興味深い作品だって言うふうに思いました。しかし、そしてこういう作品って言うのがやっぱり重要だ、大切なことだと思うのは、一種の周辺域って言ったら良いんでしょうか、文学の世界の周辺領域と言いましょうか、また別な意味で言いますと文学の世界が何か別の、他の領域の世界と一種接する境界領域みたいな、外郭領域みたいなのがある訳なんですけれど、そこいら辺のところでこの作品が生み出されている。生み出されることによって文学の世界の一種の――何て言いましょうか――空虚性って言いますか、空洞性って言いましょうか、そういうものがよく浮かび上がってくるっていうふうに僕はそういう理解の仕方をしました。そしてもの凄く興味深かったんです。これは当然文芸雑誌の中で出てきて良いような、非常に高度な作品だからいい筈なのに、そうじゃなくて周辺域から出て来る、周辺域で書かれているってな、とても興味深い感じがしました。
山田詠美さんのこの作品もそうです。僕だったら、この作品――僕だったらとうことは、おかしな言いぐさですけれど――これは僕だったら、やっぱりこっちの方に芥川賞って言いましょうかね、こっちの方に直木賞っていうふうに、僕だったら逆にしたい位、良い作品ですね。僕、この中で感心した作品、一種の連作みたいなものなんですけれども、1番僕が感心したのは『MAMA USED TO SAY』って言う――どう訳すんだろうな。分かんないですけでね――この作品っていうのは、もの凄く、もの凄く良い作品です。勿論文体も凄いですし、もの凄く良い作品ですね。て言うのは、今迄の山田さんの作品の中で一番良い作品じゃないかって言う位、良い作品だと思いました。で、こっちも方が僕割合に純文学って言うか、所謂そういう分け方をすれば、どうせ賞をくれるならばこっちの方に芥川賞ってのは良いんじゃないかって言う位に思いましたですけれども。この作品はとても良い作品だ。この作品の――何て言いますか――モチーフの中で一番興味深いことは、要するに親父、父親の――何て言いますか――父親の後添えの奥さんと主人公が関係しちゃう小説なんです。関係しちゃう小説って、そう言っちゃえばそれまでのことなんですけれども、その――何て言いますか――何を契機にして関係しちゃうのかと言うことなんですけれども、結局――何て言いますか――自分にとっては義理の母親に、義理の母親が若くて、綺麗で――何て言いますか――男性から見れば非常に魅力的な女性として描かれている訳ですけれど、その父親――何て言いますか――娼婦の店を経営している訳です。若い娼婦たちがいっぱい、娼婦たちがいっぱいその家にいて、父親はその後添えの若い母親をもらう訳です。二人で娼婦の家を経営している訳です。ところで主人公は――ブルースって言うんですけれども――主人公は――何て言いますか――若い時から自分の家に雇われている娼婦達からいろいろ性的のことを若い時から教えられているし、そういうことによく馴れて・馴致されている、そういうことが割に平気になっているって言いますか、そういう子供なんですけれども。そういう子供が自分の好きな若い娼婦がいる訳ですけれども、ある時偶然にその――何て言いますか――娼婦(に)後で自分の部屋に来ないかというふうに誘う訳ですけれども、馴染んでいる若い娼婦は(が)来ると言うふうに思っていたら何か偶然に母親がやってきちゃう訳です。それでそれを契機にして母親との関係に入ってしまう訳です。勿論、こんなことは一度きりだと言うふうに言う訳ですけれども――母親は言う訳ですけれども、しかし一度きりという訳にはいかなくて何度も関係している、で主人公は作品の描写によれば、父親の目を盗んで父親の若い後添えの母親と関係・浮気をしているって言いますか、不倫をしているって言いましょうか、小宅の近親相姦をしているって言いましょうか、そういうふうにやっている内は良かったんですけども、主人公の男の子が要するに段々そういう描写の仕方――父親の目を盗んで義理の母親と不倫をしているっていう、そういう点々不倫をしていると言うのじゃなくて、それをまあ言ってみれば母親に自分は惹かれて言ってしまう、その場合に惹かれて言ってしまう、段々点々として不倫をしていると言うのじゃなくて、段々線に成ってある惹かれ方をして行って、そこに入ってしまうっていうふうに成った時に、主人公は悩む、悩んで父親に――何て言いますか――東部の大学に入りたいから、だから行かしてくれって言って家から抜けてしまう、抜けてしまう訳です。それで抜けてしまう時に、若い母親が抜けて、東部の大学に行く時に、行ってしまう時に若い母親が私みたいな女に出逢ったら気をつけなきゃあ駄目だよって言う訳です。それで東部の大学に行くことで――何て言いますか――線に繋げようという自分の意欲みたいなものを――何て言いますか――回避する訳です。それでまた作品を初めに戻りまして、大学を4年間終えて帰って来る訳です。そこがまた最後になる訳です。帰ってきてあんたの言う通りのことを自分は守ってよって言うと、若い――4年前に関係した若い母親は、涙を黙って流すみたいなところで作品は終わる訳なんです。そうするとこの作品の良さ、非常に良い作品ですけれども、何が良いのかって言えば、こう――何て言いますか――性とかエロスとか、もっと言えば不倫な関係とか、そういうことも含めて、謂わば常識が拒否するようなそういう性的な関係ってなものの中から、様々な――何て言いますか――様々な偶然の要素を排除していった場合に残ってくる何か、性の――何て言いましょうかね――性の意識って言いましょうか、性欲の意識って言いましょうか、性行為の欲望の意識の連続性って言いましょうか、そういうものが様々な偶然の要素を排除した後に残る性欲の連続性みたいなものが、非常に作品な中に緻密に描かれて、緻密にある意味で静かに――山田さんの作品では珍しい程静かに、それが流れて行くって言う様なことが、非常によく尽くされている作品。これは誠に見事な作品っだっていうふうに僕は思いました。つまり山田さんの小説では一種の達成点なんだろうなって言うふうに僕には思いました。
で、この種の作品、この作品のぼけ(?)に成っているかどうか分からないんですけれども、僕は直ぐにバタイユって言う作家であり思想家である、バタイユの一種のポルノ小説――優れたポルノ小説がある訳なんですけれどもその中で『わが母』って言うポルノ小説なんですけれども、『わが母』って言う小説を直ぐに想い浮かべました。それで、またそれもまたある意味で面白かったんですけれども、つまり山田さんの欲望の意識、男女の欲望の意識みたいなものの流れっていうのを緻密に描いていく、そういう作品のモチーフとすればバタイユの作品の中にはもう一つ、もう一齣何かが入っている訳です。その「何か」って何かというと、それは神という問題なんですよね。それはバタイユの『わが母』の主人公っていうのはやはり母親と近親相姦に及ぶ訳なんですけれど、主人公の少年時代には非常に潔癖で清浄主義で清潔主義で潔癖で自分は――何て言いますか――坊さんに成ろう、僧侶に成ろうっていうふうに思っている訳です。それでなぜ僧侶に成ろうって思っているかって言いますと、母親は――何て言いますか――一種の放蕩性を持っているし、また父親も放蕩性を持っている、家にいつもなかなか帰って来ない。それでどこかの女の家に泊まり歩いて、時々申し訳みたいに帰ってくる。そういう生活で、酒と女に身を持ち崩している様な、そういう父親なんです。その父親に対する嫌悪感から、を含めて自分は坊さんに成ろう、僧侶に成ろうというふうに若い時に考えているんですね。ところが母親がまた輪を掛けたように――何て言いますか――男を家に引っ張り込んで、っていうようなだらしない関係を結ぶみたいなことをやっているのを、それを目撃してて、父親がああいう体たらくだから、母親がこういう成ったんだ。母親は非常に尊敬していて綺麗な人で、子供の頃から尊敬していたんですけれども、段々母親の方が段々母親の方がそれを隠しきれなくなって、父親が死んだ後で真相を言ってくれて、要するにあの父親がああいうふうに駄目になったのは、駄目になっちゃったのは自分の所為なんだ、自分の方が要するに本当は逆に放蕩な女、放蕩無頼の女であって、その為に父親が逆にああいうふうに家を開けて女のところを泊まり歩いて、そういう駄目な人間に成っちゃったけども向こうが原因じゃなくて――本当はお前が考えている向こうが原因じゃなくて、自分の方が原因だったんだっていうことを言って段々その母親は、お前は段々自分というものを分かんなくちぁいけないとか言って、段々その母親が子供を――何て言いますか――若い自分の同性愛の女の子を連れて来たり関係させたりして、段々男の子を言ってみれば放蕩させて性的な、つまり放蕩者に段々していっちゃう訳なんです。それで家で、自分の家で母親が引っ張り込んだ男、女、それから息子である主人公、そういうのを含めて段々放蕩無頼な行為(?)みたいなのを段々家の中でやりだして、その内に段々自分が何が神、何が神でないのかとか、何が孤独で――人間の孤独で何が孤独でないのかってなことが段々段々分からなく、分からなくなっていきながら段々自分が、つまり放蕩の中に段々息子は染まっていく訳です。最後のところでお前を堕落させるのは自分の生き甲斐でもあるし、生き方でもあるって、これは自分のそういう事柄の完成なんだっていうふうに母親が言って、息子を引っ張り込んで性行為の及ぶみたいな、そういう作品なんです。このところでは一齣だけ、例えば山田さんの作品で一齣だけ違うっていうのは、要するに神っていうのか信仰って言うのか、そういう問題が非常に根強く、こう何か絡み込んでくるって言うようなことがありまして、それがこの作品も『わが母』という作品も優れた作品にしてもいるんですけれども、また一枚・一齣だけ多い要素をその中に入れてきている訳です。山田さんの作品はそれから比べれば、謂わば欲望の何か非常に肯定的なって言いますか、欲望の肯定的な線がスーっと静かに流れて行くって言いましょうか、見事に繋がりながら流れて行くって言うそういう世界を描いているんで、そこのところが異質だって言えば異質な訳だと思います。
つまりこれは僕、一寸日本の近親相姦みたいな、事例みたいなことを一寸集めたことがあるんですけれども、そこで非常に特徴的なことは、それは多分日本というより東洋的な特徴なんだと思うんですけども、近親相姦、つまり兄弟相姦・兄弟姉妹相姦というのも、母子相姦、母と息子の相姦とか、父親と娘の相姦とか、そういうのがそういう事例、日本の場合を見ると兎に角、20例見れば20例の内1つの例外もなくそこの中に――何て言いますか――罪悪、つまり罪の――何て言いましょうかね――罪のメタフジックっていいましょうかね、罪の形而上学みたいなもの、メタフィジカルな罪の意識みたいなもの、つまり中で悶悶として、これは神の掟に違反するんじゃないかとか、いやそうじゃないとか、まるで我々の世界からいうと、なんでこんなことを悩むことがあるんでって言う様な事柄について悩むっていうことがまるで日本の場合には20例集めれば20例とも無いです。罪の意識を感ずる時は、感ずる場面はどの場面にもみんなあるんですけど、本当に快楽だって、1から10まで快楽だっていう様な近親相姦(は)、日本の場合には20例に内、1例位しか無いんで、後は大なり小なり罪の意識をみなどこかで感ずるんですけれども、その場合の罪の意識っていうのは行き詰まった意識なんです。つまりこれはにっちもさっちも行かんとか、こういうふうに遣ってたら自分は本当の結婚はできないじゃ無いかとか、もう駄目に成っちゃうんじゃ無いかとかという意味合いって一種の罪悪感ってのは起こってくるんですけれども、それは現実関係の行き詰まりっていいますか、にっちもさっちもならない行き詰まりっていうことに対する一種の罪の意識とか、一種の――何て言いますか――世間的倫理っていいましょうか、そういうものに対して感ずる行き詰まり感の罪の意識みたいなものは、全部あるんですけれども、自分自身の中でもって、これは何かに違反するんじゃないかとか、こういうふうにしていたら自分は途轍もないところに落ちてしまうんじゃないかとか、内面で行われる罪の意識ってのは、まずまず20例の内1例も無いって言って良い位なんです。それでそれは丁度、見事な一種の――僕は東洋的な特色の様な気がするんですけれども――そういうものがあるんですけれども、これば例えばバタイユの『わが母』と『MAMA USED TO SAY』という山田さんの作品と比べてみると、そこのところがまことに見事に異質な世界っていう様なものとして描かれています。これはどちらが良い作品か悪い作品かということとは全く関係ないことなんで、ギリギリのところで出て来る――何て言うか――一種の世界というものが――何て言いますか――非常に見事な異質さと同じ様な主題を描きながら異質(?)下がって来て出てくるっていう、大変興味深い作品でした。これもやっぱり相当良い作品じゃないかと思います。つまり現在文学ってのはどうなってんだっていうふうにみた場合に、ある部分を象徴するに足る良い作品じゃないかっていうふうに思いました。
それで、あの村田喜代子さんの『鍋の中』という作品もそれなりに良い作品なんですけれども、おとなしい作品です。おとなしい作品って一寸どう言ったらいいんでしょうね。まあー、あの要するに4人の子供が、子供と言っても大学生から中学生まで――高校生中学生――4人の、主人公である姉とそれからその弟と、それからいとこと、いとこが2人と、4人で夏休みみたいな時におばあさんの家に行く、遊びに行く訳です。4人で遊びに行くとおばあさんがもう80を過ぎていて、半分ぼけているんですけでも、親切にご飯やなんか作ったりおかずを作ったりしてくれるんですけれども、可愛がってくれるんだけれども、おかずが全く塩辛かったり全く食べられなかったりということで、主人公である姉さんが、姉の子供が何か代わりに炊事当番をやって休み中を過ごすということなんですけれども、そこのところにおばあさんの弟という人から手紙が何十年ぶりかで来る訳です。それで、私はあなたの弟だっていうふうに書いてあって、それを子供たちがおばあさんに読んで上げるんだけれど、おばあさんにあんまり反応が無い、どうしてこの兄弟の中でこのアメリカへ行った弟ってのは、おばあさんはきっと嫌いだったんだっていうふうに思う訳ですけど、段々訊いてみると要するに、そんな弟がいたなんてお覚えてねぇっていうふうに、覚えてないから反応の仕様が無くてってな、それがまあ真相だてなことが段々分かってくる。ところがおばあさんがそういうふうにやって、昔のことをそれを契機に考えたりしていく内に、4人の子供たちの甥っ子の、いとこの子供の父親の話をおばさんが、昔話をしだす訳です。その父親は職人として親方のところに住んでいた、住み込んでいたんだけど親方の奥さんと仲良く成っちゃって、それで2人でもって親方の家を飛び出して、どこかへ出奔しちゃったんだって。その甥っ子の親父さんという人は、それで自分も職人としてあれしてる(内に)、内弟子をとったらその内弟子が盗みを働いたんでそれを咎めた、咎めた時にその弟子から逆に金槌で殴られて殺されちゃった。それでだからいとこの親父さんは、そういう言ってみれば凄い運命の父親だったんだということを、おばあさんが昔を思い出して語ってくれる訳です。それでいとこの子はそれを聞いた日から元気がなくなっていく。ところが今度は主人公の姉の方なんですけども、姉の方も段々聞いていく内に段々弟と自分が思っていたのは本当の弟じゃなくて、異母弟だということが分かってくる訳です。それはやっぱりおばあさんがそういうことを思い出して、あなたの母親は――作品ではいねこ(?)って出て来る訳ですけれど――かわいそうな子でねえっとかっていうふうに言い出す訳です。お前を産むと直ぐに死んじゃっていうふうにおばあさんが語り出す訳です。そしたら次に母親が死んだら間もなく直ぐにお前の父親の方も直ぐに病気になって死んじゃって、お前はみなしごになって今の母親が育ててくれたんだよっていうふうに、おばあさんが言い出す訳です。それで主人公の姉はびっくりして自分はやっぱりそういう父親とそういう母親のいわば子供、赤ん坊の時からの孤児であって、今迄自分が母親だと思っていた人が自分の母親じゃぁ無くて、育ててくれた人であって、弟というのはその人の子供であって、自分とは母親が違うんだっていうことが初めておばあさんの昔語りから――ぼんやりした昔語りから、それを知る訳です。そこで初めて何か――何て言いますか――それを聞いた日からいろんなことがいっぺんに分かってきた感じがして、翌日から主人公の姉さんの方の子供もまた沈んで行っちゃうていうそういう、いってみればそういう話を非常に丁寧におばあさん家での出来事として、そういうことを丁寧に描いている訳です。で、作品のモチーフって何なのかって言えば、事実というのは人間の中で、人間の生きてる中で起こりうる事実って言うのは、どんなに――何て言いましょうか――事実らしくないっていうふうに思えても、やっぱり事実は事実なんだなって言うふうに、ことに目覚めること、訳なんだ。つまりいってみればこの作品がもし、何か一種のモチーフがあるとするならば――何て言いますか――おばあさんが田舎暮らしで、一人で――大きな家に一人で住んでいる、夏休みに子供たちと、その親戚の同じ年代の子供たちが、あのおばあさんのとこに遊びに行こうって、遊びに行ったっていう、たった外側みるとそれはいってみれば誰のどんな人の生活の中にも、どんな子供の夏休みの間にもそういうことは非常にごくあり得ることだし、またありふれたことである訳なんですけれど、ありふれたそういうことの中でも、本当は凄い――何て言いますか――故事来歴といいましょうかね、一人一人の子供でも凄い故事来歴っていうのがその中に、表面上おばあさんのところに夏休みに子供たちが遊びに行って、朗らかに面白く遊んでいるって、時々子供たちのある子供は時々むっつりと黙り込んじゃって沈んじゃうみたいなことがある。たったそれだけの、外から見ればたったそれだけの事実なんだけれども、その中には凄いことが隠されているっていうことは幾らでもあるんだって言うのがこの作品のモチーフだっていうふうに思います。
この作品は良い作品だと思います。けれども――何て言いますか――もし現在の文学っていうものが――何て言いましょうか――何となくさびれている感じがしたり、何となく活性というものがほかの世界、隣接する他の世界に活性がみんな吸収されていってしまうみたいな、そういうこと・観念を文学の世界に感ずることがあるとすれば、何がそれを感じさせるかって言えば、やっぱり毒性の無さみたいなものっていうのが、1つ大きな要素(に)なるんじゃないかというふうに思う訳です。つまり毒性というのは2つ意味があって、1つは――何て言いますか――非常に醒(覚?)めているということが毒性の1つの出所だっていうふうに思うんです。もう1つはやっぱり一種の否定性ということだと思います。つまり否定性、どこかにある否定性っていうことなんだと思いますけど。その毒性と言うことでいったら、この村上さんの作品も山田詠美の作品も非常に良い、良いっていいますか、刺激的な毒性っていうのを持っていて、これは何か一種の言ってみれば、現在の中から一種の覚醒剤みたいなものを現在の空気の中か、或いは物質の中か、或いは人間関係の中か、何かどこか分からないで、社会関係の中か分からないですけど、そこから何か一種の覚醒剤みたいなのを受け取って、その覚醒剤みたいなのを吞んだ人と呑まない人がいて、呑んだ人は何か毒性としてそれを出さざるを得なくなっている、なっちゃっているみたいな、そういうことがもし現在あるとすればまことに見事に
村上さんの作品も山田詠美さん作品もその毒性を見事に出しているっていうふうに僕には感ぜられました。で、この図式に何らの――何て言いますか――結論を設けることは出来ないのですけれども、何か僕は当分しばらくの間は周辺と言いますか、周辺に毒性が――何て言いますか――周辺から毒性の刺激がどんどん現れてきて、その真ん中に――何て言いますか――一種の無刺激の世界があって、無刺激の沈んだ世界が――活性化の沈んだ世界が――あるとすると、何かその世界に対して外側から毒性のある作品が出てきて、それが点々と――何て言いますか、何て言いますか――文学の世界の触手みたいなのを拡げていくっていう、そういうイメージの図式って言うのは僕は当分続きそうな気がするんです。それでこの3つの作品は、そういうその続き具合って言いますか、当分続くであろうイメージの一種の図式・図像というものをとても良く象徴している作品だっていうふうに思いました。つまりこれに多分尾びれ・背びれを付けたり、何か作品をどんどん毒性点と非毒性点に集約していって、何か周辺地区と真ん中との差異というものを浮かび上がらせていくと、何か要するに1個の文芸評論が1つだけ出来上がるような気が僕は致します。それでこの場面では3つの作品だけを挙げて一種毒性と非毒性ということ、それから真ん中と周辺みたいなそういうことの図式というのを申し上げてみました。一応これで終わらせて戴きます。(拍手)
テキスト化協力:石川光男さま