1 司会

 次の講演がですね、吉本さんの「都市論PART2」ということになります。先に都市論のPART1のところで、いろんな興味ある問題がありまして、今回のPART2の問題のなかでは、アジアの問題っていうこと以上に、日本人はどこから来たのかっていう、日本の起源のところが、付属で展開されるっていうふうになっています。
 この問題っていうのは、我々にとって、その問題を論究するってことの意味と、現在の都市の中で、ある意味では、逆に自分の出自が消えていくっていう、都市の問題が登場するっていう問題との連関がありまして、そこのところは、僕もぜひ聞きたいっていう問題であって、第2回目のPART2の中では、その問題を展開してくれると思います。それでは、PART2の方へ。

2 初源の都市と日本人の起源

 吉本です。まだちょっとぼやっとして、目が覚めないところがありますけど、はじめたいと思います。都市っていう概念ですけども、どこから、いつ、都市と言うかってことが、まず、ひとつ問題になるわけです。
どこから、いつ、都市になるかって場合に、様々な都市の治定の仕方っていうのがあるわけで、ひとつは、たとえば、農村が一手で引き受けていた農業と、農業以外の家の中でやる道具の生産とか、着物の衣服の生産とか、そういうものがだんだん分業化してきて、これは農村の中では治まりがつかないみたいになったときに、農耕の他にそれをやる人が出てきて、それが都市をつくって、だんだん集まって都市をつくってみたいな意味合いで、農村と対立した意味合いで、都市っていうことを考える考え方っていうのもあるわけです。
 ところで、ぼくが、ここでとりたい考え方は、そうじゃないんであって、都市っていうのは、起源のところまでさかのぼっていったら、なにをもって都市の起源とするかっていうことを、まず考えていきたいわけで、そのことが付録の「日本人はどこから来たか」っていうことと、その問題を関連させて考えていきたいっていうふうに、僕だったら、そういうふうに都市を規定したいわけなんです。
 ぼくは、「日本人はどこから来たか」っていうことは、まだ、いろんなことを考えたり、データを集めたりして、それから、人様の考え方も参照したりしてっていうふうに、いま、やっていまして、いつかもっと、それが蓄積されたときに、いちどやってみたいなっていうふうに、本格的にっていいますか、やってみたいなっていうふうに思っていることなんです。
 もちろん、これは、たとえば、柳田国男が「日本人はどこから来たか」っていうふうに考えた場合には、歩く民俗学者っていいましょうか、日本中の全部とは言わないまでも、ほとんど、3分の2ぐらい、半分か3分の2くらいは、とにかく自分の足で歩いたっていう、そういう柳田国男の、その挙げ句に考えた「日本人はどこから来たか」みたいなことと違って、4畳半っていうか、6畳っていうか、そういうところで、ごろごろしながら考えたっていう、そういう、つまり、歩いたことはあんまりないっていう、そういう人間の描く「日本人はどこから来たか」っていうのを、いちどやってみたいんだっていうふうに思ってきてるわけなんです。
 そんなことは、いったい何になるかってこともあるわけですけど、それは、日本人っていうのは、わかりにくいなぁっていう、自分もわかりにくいけど、他人もわかりにくい、その、他人もわかりにくいっていうことの中に、人種的問題とか、民俗的問題とか、そういうことも含めて、非常にわかりにくいなって、非常に多様だなといいましょうか、そういうことがあって、そういうことはどっかではっきりさせないと、何を考えても、どっから、どういう考え方をいれてきても、なんかみんなどっか違うっていう、それは違うんだっていう次元がどっかにあるわけなんです。
そこの次元まで入っていかなければ、それは一向かまわないで、受け止められるわけですけども、また、自分でもそういうところで、考え方と帰結っていうのを済ましておれるわけですけども、しかし、どうも最終的に、どうもいかん、全部違うっていう、何かが違うっていう、感じ方がどっかにあるので、それは、日本人はどこから来たかとか、日本人ってなんだっていうことと、関係がどうもありそうな気がしてしょうがないので、いつか、とことんやってみたいっていう欲求があるわけなんですが、それを、今日は、都市っていう概念をどこまでさかのぼれるかっていうところを考える場合に、そのことをすこしいっしょに、いまのところ、自分が集まったり、整理したり、そういうふうにしている概念の中から、非常にわかりやすいっていいましょうか、そういうところの問題を一緒に付録としてっていいましょうか、やってみてっていうふうに思ったわけです。

3 都市の最初の住民は神さまだった

 ぼくは、都市っていうのは何かとか、都市はどこからはじまるかって言った場合に、そういう問題は、一貫してしまおうっていうふうに、貫徹してしまおうって、現在の都市っていう問題までくるまで、貫徹してしまおうっていうふうに考えますと、都市っていうのはだいたい、人間じゃなくて、住んでいたのは、都市の住民っていうのは、全部、神々である、神さまであるっていうような、そういうところまで、都市っていう概念をさかのぼってしまう、そうすると、そのさかのぼった都市の概念っていうのは、幻想の都市だっていうふうに考えますと、まず、幻想の都市っていうのは、われわれの起源に即して、いっしょにしたいわけで、即して申し上げますと、3つのタイプがあると思うんです。都市のタイプがあると思うんです。
 ひとつは、日本の場合には、地勢上、平野の外れのところに山があって、その山の頂上に、巨石があったり、目立つような樹木があったりしますと、そこを中心としまして、その周辺に、ひとつの幻想の都市があって、そこの住民は、すくなくとも神々である、人間じゃないんだ、神々が住んでいるんだ。人間っていうのは、そこではまだ、どっかにいるのかもしれないですけど、姿を現していないっていうような、そういう都市っていうのを想定しますと、それは、起源にある都市として考えることができるっていうふうに思います。その場合に、人間はまだ、都市のなかに住んでいないっていうことになります。
 もうひとつは、日本みたいな地勢ですと、海岸のふちに、洞穴があるところがあるわけですけども、洞穴っていうのが、いわば、都市のいちばん中心に位置するところで、そして、その周辺にやっぱり、なにか神々みたいなもの、神々でもなんでもいいんですけど、とにかく、人間でないものが、そこを中心にして住まっている。
で、その洞穴は、明るいところと、暗いところがあって、明るいところから暗いところへ行った場合には、もはや都市自体を考えることは意味がないっていう領域にはいってしまうんですけど、そのこちら側でいきますと、その周辺に、ひとつの、目に見えない集落みたいなものが形成されているっていう、だいたい、その、日本の都市っていうものを考える場合に、いちばん起源にある都市っていうのは、その3つのタイプっていうのを、たぶん出ないだろうっていうふうに、ぼくは思います。
その3つのタイプの都市っていうのから始まっていくわけなんで、今度は、その始まっている都市の住人っていうのは、住人が人間であるっていう、つまり、住人として、人間が出てきたっていうふうになってきますと、そうすると、都市っていうのは、どういうふうに変わってくるかっていいますと、その場合には、だいたい、人間は、一等起源に考えられた幻想の都市に対しまして、都市のなかに至る境界から、こちら側のところに、だいたい、村落をつくっていく、それで、村落から、起源の都市の中へは入っていけない。しかし、その外側の、すぐそばのところに、だいたい、村落をつくる。
それで、その場合に、幻想の都市っていうものと、それから、人間の住まう最初の都市と、その都市との境界のところには、ひとつ目印がある。目印はなんでもいいんですけど、鳥居でもなんでもいいんですけど、だいたい目印が境目にあって、そこから入っていけば、神々の幻想の都市になり、そこからこちら側では、一等初めの人間の都市になる。それで、その境界に、なにやら目印がついてる。だいたい、そういうのが、一番最初に考えられる、人間がつくった都市だっていうふうに考えられます。
そうすると、だいたい都市の中で、いちばんいい場所、つまり、わりあい、神々の幻想の都市の住人と近く接しられるっていいましょうか、わりあい、いい地勢の場所のところに、村落の長っていいますか、首長みたいなのが、そこに住まうっていう、そういうかたちになります。それで規則正しく並んでいるわけじゃないですけど、象徴的にいえば、村落の長が、幻想の都市に出入りしていく場合の管理といいましょうか、幻想の都市と人間の都市との間を媒介するっていいましょうか、管理仲介する役割っていうのをひとつ、果たしますし、もちろん、人間のつくった最初の都市である村落を、なんか統合するみたいな、そういう役割も、同時にするわけですけども、それだけじゃなくて、同時に、幻想の都市との関係を司る、そういう役割も同時に果たしてるっていうような人が、いわば、いちばん頂点といいますか、地勢としては一番いいところに、眺望もいいし、それから、神々の幻想の都市にも近いっていうような、そういう場所を占めるっていうのが、日本の一等最初の都市のあり方だっていうふうに考えられます。

4 初源の都市の先住民と後から来た人

 それを具体的に、日本の大阪周辺のあれですけど、具体的に申し上げますと、これを奈良盆地だっていたしますと、だいたい初源の都市っていうのは、どこらへんにつくられたかっていうと、だいたい、ここらへんに一番最初につくられているわけです。もちろん、現在でも不明なところでいえば、幻想の都市っていうのは、もしかすると、もうすこし南の方で、ここいらへんであるかもしれないわけです。これは、わからないんですけど、古典の記述と、それから、考古学的な遺跡と、それと、両方合わせたりしますと、だいたい、初源の都市っていうのは、奈良盆地の南側から、すこし上がったところっていいますか、そこいらへんに、だいたい、初源の都市っていうのをこしらえているってことがいえます。
 これを、一般の人として、そういうことが言えなければいけないわけですけども、一般の人としての代表としていえる、古典の最初の記述をみますと、神武天皇っていうのが、ようするに、神話の記述によりますと、九州の方からやってきまして、今でいうと広島県の辺りですか、そこらへんに滞在して、それから、今でいう岡山県の辺りに、すこしまた滞在して、そして、この大阪湾のところから、入って来ようとして、そこで、神話の記述によれば、長髄彦の土地の首長から追っ払われて、それで、仕方なしに、紀伊半島をまわってきまして、熊野の方向から来て、後ろ側から入って、吉野の方から出てって、奈良盆地のいちばん南側のところへ入っていくわけです。そういうふうな経路になっています。
 それで、入って来まして、最初に住まわった初源の都市なんですけど、そこに対して、どういう態度をとるかっていうと、図でいいますと、いちばん地勢のいいところにいる首長の娘が、奈良盆地のそこいらへんのところを歩いているんです。そこのところを何人かの娘たちと歩いていると、そこを見初めて、一番最初に歩いている女性がいいっていうふうに言いまして、そこのところに、婚姻を申し入れまして、それで、神武天皇っていうのは、そこの首長の娘である、長女なわけですけど、娘のところに通っていくわけなんです。通っていくっていう記述があります。
 住処は、そこに挟井川っていう川が流れていて、挟井川の上のところにあって、それは三輪山っていう山があって、そのふもとなんだ。そこの首長の娘なんだ。そこへ通っていくわけです。自分の住処っていうのを宮殿っていえば、宮殿は橿原の辺りに定めて、そして、そこへ通っていくっていうような、そういう記述になっております。
 そのときの初源の都市の、都市人っていうものを想定しますと、それは2つのことを象徴します。初源の都市人で、その土地に、もうすこし先に住んでいた人間と、それから、神武天皇もそうかもしれないですけど、出自はそうかもしれないけど、そのあとから、もしかすると、言葉も違うかもしれないですけど、言葉は同じでも、違う文化をもってそこへ入ってきた、後住の人っていうふうにいいますと、初源の都市には、いわば、先住の日本人がいて、そのあとから、後住の日本人っていうのが入ってきた、それを、神武天皇の、これは、架空の説話であるかもしれないし、架空の神話であるかもしれないし、でっち上げた神話であるかもわかりませんけども、神話の記述でいえば、後住の人間を象徴しているっていうのが、神武天皇の説話です。そして、その先住の人を象徴しているのが、初源の都市のいちばん地勢のいいところに住んでいた、そこの娘のところに、通い婚で通っていく、そういうかたちになって、そこのところはちょうどいってみれば、先住の人と後住の人との接点になるわけです。
 この場合の先住の人っていうのは、いろんなことと関連してきますが、一概に言えないので、もうひとつの可能性は、もっと先住の人がいたかもしれないってことで、そうすると、そこの初源の都市の、神話の中に出てくる初源の都市のいちばんいいところに住んでいるっていうのは、後住の人だけど、先にそこにいってたって人かもしれませんし、そこを一義的に確定することはできないんですけど、そこのところで、先住の人と後住の人が並列したり、対立したり、滅ぼされたり、服従したりっていうようなことが起こったっていうことの象徴がそこにあるわけなんです。

5 ウイルス考古学が示していること

 このときの、初源の都市人っていうのを、たとえば、今でいうB型肝炎のウイルスのキャリアってことでいえば、だいたい、先住の人は、adwっていうタイプのB型肝炎のウイルスのキャリアであって、adrっていうタイプのB型肝炎のウイルスをもっているのは後住の人だっていうふうに分布させることができるっていうふうに、現在のウイルス考古学みたいなものは、そういうふうに決めています。
 これは、日沼頼夫さんって人の『新ウイルス物語』っていう、中公叢書かなんかで出てますけど、それは、非常に詳しく、そのことを述べております。そうしますと、いまの先住の人と後住の人を、ウイルスとしての、この場合には、遺伝子としての日本人なんであって、べつに五体をもって、なにかあれする日本人じゃないっていうことよりも、ようするに、ウイルスとして、細胞としての日本人っていうのは何かっていう、そういうことの問題であるわけですけども。
 そうしますと、だいたい、先住の人のタイプのB型肝炎のウイルスをより多く、たくさん持っているのは、だいたい、東北と沖縄なわけです。東北と沖縄の人っていうのは、先住の人のB型肝炎のウイルスのキャリアであるっていう、キャリアの割合が極めて多いっていうふうに出ています。
 そうすると、それは、B型肝炎っていうのは、新聞ダネみたいなものによると、B型肝炎の患者に注射を打って、その注射針の先で傷をつけて、B型肝炎になっちゃって死んだ医者がいるとかいう、そういう何とも言えない記事がありましたんですけども、そういうことはめったにないので、ありえないので、だいたい、母親から子供へというふうにうつるっていうっていう、そういううつり方以外には、B型肝炎のウイルスっていうのは、うつり方がないわけです。ですから、それをたどっていけば、必ず母親へっていきますから、こういうことが云えてしまうわけです。
 それによりますと、先住の人の肝炎ウイルスのキャリアが多いのは、沖縄と、もちろん奄美も入るわけですけども、東北地方です。とくに秋田とか、そういうところの人がとても多いっていうことがわかります。それが少なくて、後住の人のタイプが多いのは、九州と、それから、中国と内側の四国と、それから、近畿地方、つまり、この奈良盆地の辺りみたいなところですけど、そういうところは、わりあいに、後住のタイプのB型肝炎のウイルスのキャリアが多いっていうふうになって、だから、無意識のうちに、このデータっていうのは、先住の人が日本列島を分布して住んでいたと、そこのところに、違うタイプのキャリアをもった人たちが、だいたい、九州が一番少ないってことは、朝鮮半島ですけども、朝鮮半島を経由して、あとから後住の人が入ってきた。それが、混血していって、混血の度合いが少ない東北と、奄美沖縄っていうのが、先住の人のキャリアの多い地域として残されたっていう、無意識のうちにそういうことを語ってしまっているわけです。
 そうしたらば、これを、「日本人はどこから来たか」ってことに当てはめますと、まず、先住の人がいたと、そこのところに、日本人として先住してたと、そうしたらば、後住の人が朝鮮半島を経由してやってきた、それが、無意識のうちに語られている、「日本人はどこから来たか」っていう問題へのひとつの答えであるわけです。
 それじゃあ、先住の人はどこから来たんだっていうことが問題になります。これがひとつあるわけです。

6 海洋的な神話とウイルスの分布

 もうひとつ、成人のT細胞白血病ウイルスっていうのがありまして、このキャリアっていうのが、やっぱり考えられるわけです。このキャリアも、だいたいB型肝炎ウイルスの分布の仕方と、だいたいよく重なるわけで、多少違うところがありますけど、重なります。
 たとえば、いちばんキャリアが多いのは、アイヌ人の人です。アイヌ人の人は45.2%っていう、この本をみますと、データが出ています。次に多いのは沖縄の人です。これは、33.9%のキャリアの率だっていうふうに書いてあります。
 それで、この場合には、成人T細胞白血病のウイルスの場合には、南九州っていうのが割合に多くて、7.8%っていうふうになっています。それから、その次の方では、東北と北海道っていうことになる。それから、関東っていうふうになって、それも一番分布が薄いのは、近畿地方っていうふうになっています。
 そうすると、そのデータからいきますと、やはりB型肝炎ウイルスと、ほとんどおんなじように重ねて考えていいわけで、先住の人はT細胞白血病ウイルスのキャリアである率がとても多いと、そこのところに、キャリアじゃない人たちが混血してきたっていうふうに、で、いちばん混血度が少ないっていいましょうか、それはアイヌの人だっていうデータになってきます。
 だいたい、そのB型肝炎ウイルスのデータっていうのとおんなじになってくるっていうことがわかります。次に先住の人って、まあ後住の人も含めまして、先住の人っていうのは、どっから来たのかっていう、推測みたいなものが、ひとつあるわけです。
その推測っていうのは、だいたい、人類っていうのが、人種の違いに分かれたのは、一等始まりは、西アジアだっていうふうに考えられています。西アジアで、人類っていうものが、人種っていうものに分かれて、日本人も含めまして、モンゴロイドみたいなものが、だんだん下っていきまして、中国の華北のところにいきまして、そこからまた、方々に分かれていった。
それで、だいたいにおいて、日本人の先住の人っていうのは、北海道とか、東北とか、そういうところを経由して、日本列島に入ってきて、そして、日本列島に、全般的に分布したっていうふうに考えられています。
その後になりまして、人種が発生して、モンゴロイドとして形成された人種の人が、やはり、華北のところを通って、朝鮮半島を経由して、その一部分が日本に入ってきたと、それで、先住の人が入っているところの後から、その時々、あとからの文化とか、文明とかをたずさえて、それで、日本列島へ来た。
そうすると、大雑把にいいまして、細胞とか、遺伝子とか、そういう次元でみられた日本人っていうのは、だいたい大別して2つの大きな類別ができて、それで、大きな時期にまた、それが類別できて、それが日本列島に分布して、もちろん、少数の違うところから来た違う人種も含めまして、それから、違う年代っていうのも含めまして、日本人っていうのが形成されたっていう、そういうイメージが生まれてくるわけです。
 そうすると、細胞ないし、遺伝子みたいなものとしてみられた日本人っていうののタイプっていうのは、先住の人と後住の人に、非常に大きな区切りで分かれてしまう、それで、先住の人の分布しているのは、沖縄、琉球っていうものを除いて考えますと、宮崎とか、鹿児島とか、長崎の離島とか、それから、四国の外側の地域だと思いますけど、四国の一部とか、隠岐とか、紀伊半島の先端とか、それから、東北でいいますと、飛島とか、男鹿半島とか、三陸地方とか、北海道の一部とか、そういうところにいってみれば、成人T細胞白血病ウイルスのキャリアのコロニーっていうのは、そういうところに残って、主なのは、沖縄とアイヌの人に非常に多いっていう、そういう分布が出てきます。
 そうすると、ここのところで、B型肝炎のウイルスのキャリアとしてみられた日本人と、それから、成人T細胞白血病のウイルスのキャリアとしてみられた日本人とは、いくらかずつずれてきます。いくらかずつ違うところがあります。それは、何かっていうと、成人T細胞白血病のウイルスのキャリアとしての日本人っていう観点っていうのは、日本の神話の記述と、B型肝炎で分けた記述よりも、日本の神話の記述に非常に近いっていうふうに、これは、ぼくはそう思ったわけですけども、神話的な記述は、T細胞白血病ウイルスのキャリアとしての日本人っていう分類の仕方の方が、神話の記述には合うように思います。より、合っているような、大体全部合っているわけですけども、そのなかでも、より、どっちが合ってるかっていうと、そっちの方が合っているように思います。
合っているっていうのは、どういう意味になるかっていいますと、わりあい、日本の神話の記述っていうのは、お読みになればすぐわかるように、ようするに、島的なんですよ、つまり、なんか、鉾をこういうふうに垂らしたら、何々の島ができたとか、四国の島ができたとか、こういうふうにやっているわけですけども、そういう地面っていいますか、陸といいましょうか、それに対する認識が島的なんです。どうしても、海っていうものに、とても関係が深いんだっていうふうに、どうしても考えざるを得ないわけです。神話の記述が、海に非常に関係の深いものによって保存された神話だっていうことを、どうしても信じざるを得ないところがあります。
 それに合うのは、B型肝炎ウイルスとしての日本人よりも、神話の記述としての日本人の方が、なんかより島的なんです。日本の分布の仕方っていいますか、T細胞白血病ウイルスのキャリアの分布の仕方というのは、宮崎とか、鹿児島とか、長崎とかっていう、その南九州っていうのと、沖縄の島があって、それから、東北の飛島とか、三陸とかっていうふうに、三陸っていうのは、日本海からこう回っていくわけですけど、そういう、とびとびに残っているキャリアのコロニーっていいますか、それの記述の仕方をみてると、どうしても、T細胞白血病ウイルス、つまり、わりに島しょ的、島的な、海洋的なっていいましょうか、そういう要素っていうのが、とてもより多く感じられるわけです。だから、こちらの方が、神話の記述と比較すると合うような気がします。

7 日本人の起源のわからなさと日本語のわからなさ

 そうするとまた、この日沼っていう先生が、それを詳しく述べているわけですけども、それじゃあ大陸のどこかに、T細胞白血病のウイルスをもった人たちのコロニーみたいなのが、どっかに、日本に近接した大陸のどこかに、中国大陸なんか、もちろん、朝鮮も含めてあるかっていったら、それは全然ないってことが記述されています。
 今までのところ、いろんなところの、中国の学者、朝鮮の学者と連絡しながら調べたけれども、そういう、日本でいえば、先住日本人的なキャリアを持った人たちのコロニーっていうのは、その周辺のどこにもないっていうことが出てきます。
 そうすると、そこのところだけは、大雑把なことを言っても、言えば言えるけども、こういう10万年ぐらい前に、人類っていうのは人種別になって、人種別の一種類、モンゴロイドみたいなのが、だんだん下ってきてっていうような、そういう大雑把なことはいえるけれども、全然、T細胞白血病のウイルスのキャリアっていうのは、周辺に見つからないわけです。
 そうすると、今のところ見つかっていないってことなんですけど、この白血病のウイルスのキャリアっていうのはどこに残っているかっていうと、日本とアフリカにしか残っていないわけです、そのキャリアは。そうすると、どっかに中継点となるところがなければ、中継点となるどこかに、このT細胞白血病のウイルスのキャリアのコロニーみたいなものが、どっかに見つけられない限りは、やはり日本人っていうのはどこから来たかっていうのは、先住の人たちも含めていえば、つまり、先住の人たちと、現在の日本人は混血ですから、先住の人のところから、縄文なら縄文のはじめの頃からっていいましょうか、その頃から日本列島にいる日本人っていうのの起源は、どうしても中間に、アフリカのネグロイドと、日本人の先住していた古アジア的な人種、古モンゴロイドっていうのを結ぶ、どこかにコロニーが見つからない限りは、日本人はどこから来たかっていうことは、本当はわからないってことになります。
 ぼくは、わからないっていうのは、リアルにわからないっていうのは、よく合うような気がしてしょうがないところがあります。つまり、なぜかっていうと、日本語っていうのも、ほんとはよくわからないわけです。わかるところもあるんですけど、わからないところが多いわけで、周辺のどこの言葉とも本当は似ていない。
 わずかに、たとえば、先住の人と、後住の人の割合が、先住の人の割合が多いアイヌの人とか、それから、沖縄の日本人とか、そういう人たちの琉球語とか、アイヌ語とかっていうのは、たとえば、アイヌ語っていうのは、梅原さんみたいな人が、盛んにこれは、日本語とよく似ているっていうことをおっしゃっていますけれど、それから、琉球語、沖縄語っていうのも、いわゆる日本語とたいへん対応がつくわけでして、これもとてもよく似ているっていうこと、つまり、これは同じ同窓の言葉であろうっていうようなことが、いろんな意味で言えそうなわけなんですけども、それ以外の言葉っていうのは、日本語と同窓だっていえる言葉っていうのは、どこにもないわけです、周辺に。
 そうすると、どっかに、そんなはずはないのであって、どっかにわからないT細胞白血病キャリアのコロニーっていうのが見つかりますと、日本語の正体も、日本人の先住の人の正体っていいましょうか、そういうことも、今よりもはるかにすっきりしてきちゃうっていう、すっきりわかってきちゃうってことが、言えそうな気がします。言葉の要素でもそれが、言えそうな気がしますけども。
 どうしても、今の段階だったら、わずかに似ているとか、おんなじじゃないかっていうふうに言えそうなのは、琉球語と、それから、アイヌ語と、それしか言えなそうなわけで、あとは全部違うって、どっか違うってことで、同祖だっていうふうに確定できないってことがありまして、それはたぶん、アフリカのネグロイドっていうものと、古アジア的な人種とのどっかに、その2つを、どっかで結ぶところがあって、そこが見つけられない限り、やっぱり、日本人はどこから来たかっていうのはわからないですし、日本人のなかの言葉のなかのわからなさっていうのもわからないし、もし、人種的なっていいますか、考え方のパターンみたいなものがあって、それもまた、わかりにくいなぁってところがあるとすれば、それもなかなかわからないっていうことになりそうに思います。
 そうすると、だいたい初源の都市人っていう、日本の都市人っていうものを、そういう細胞とか、遺伝子とか、そういうところから、見ていきますと、その程度のことは、非常にはっきりしてきているってことがいえます。それから、日沼さんって人は、この『新ウイルス物語』っていうのを読みますと、中間を結ぶ線っていうのは、中国の少数民族には決まっているわけですけども、東北地区とか、西域の少数民族とか、オロチョン族とか、ウイグル族とか、朝鮮族とか、満州族とか、そういうわりあい北の方なんですけど、そこいらへんのところに、そういうコロニーがどっかに、そういうコロニーが多いってところが、どこかにあるんじゃないかっていうような推測を述べておられます。
だけれども、それは、いまのところは、全然、見つかっていないんで、かなりな程度、中国の学者と連絡を取りながら、そういうふうにやってみても、そこのところは、まだはっきりしていないっていうことが述べておりますけども、そこいらへんのところが、だいたい、細胞とか、遺伝子とかとしてみられた日本人っていうようなものの、わかってる範囲のわかり方だっていうふうに思います。
神話の記述のなかでも、初期の記述です、つまり、山や川みたいなものに、すぐに名前を付けちゃうんです。それから、波が立つと、波に名前を付けちゃうっていうように、木の花が咲くと、その木の花を、人とおんなじ名前を付けて呼んじゃう、それから、土地に対しても、人の名前を同時にくっつけて呼んじゃうっていうふうに、自然の嘱目の事物とか、そういうものに、全部人の名前とか、擬人的な名前をくっつけてしまうって付け方、たぶんぼくは、先住的な人たちの文化的な遺産だっていう、それを神話の中に繰り入れているような気がします。それは、最初の神話の記述には、そういうところはたくさんあります。そういう考え方っていうのは、やっぱり、あんまり他にないので、日本の先住の人たちの、いわば、文化的認識っていうものを、とても語っているような気がします。
それから、これでいきますと、洞穴っていうときに、洞穴のむこうとこちら側って考えると、こちら側に幻想の都市っていうのを、幻想の最初の都市っていうのを考えるっていう、そういう考え方は、ぼくは先住の人たちの文化的な考え方、あるいは、人間の、死に対する考え方っていうものを語っているような気がします。その程度わかっていることが、ウイルスとか、遺伝子とか、そういうものからみられた日本人と、あるいは、日本人がどこから来たかってことの、大雑把な見取り図であるわけなんです。

8 歴史学や考古学が研究してきたこと

 ほかに歴史学者とか、考古学者っていうのが、考えてる説があります。それは、先住の人ではなくて、後住の人がどこから来たかっていう考え方の、その考え方っていうのは、ニュアンスを含めていえば、たくさんあります。
そのなかで、主な考え方っていうのを挙げてみますと、ひとつは日本人の、後住の日本人っていうのは、稲みたいなものを持ってきた人たちってことになるわけですけど、それは、ひとつはいつ、つまり、中国の呉越の時代っていうのがあるわけですけど、紀元前何世紀かに、3世紀とか、4世紀とか、そういうところにあるわけですけども。
 越の国っていうものが、日本にやってきた、あるいは、非常に日本とよく似た出自っていうのは、考えられやすいってことを、森浩一っていう考古学者は、そういう考え方を述べています。それは、例に挙げているのは3つありまして、ひとつは、日本人の昔の人の、魏志倭人伝なんかに出てくる刺青とか、体に刻んだ文様とか、そういう文様が、越の人ととてもよく似ているんだっていうようなこと、越の国でつくられた遺物ですけど、三角縁神獣鏡っていう鏡なんですけど、その鏡っていうのが、4世紀ごろの、つまり、古墳時代なんですけど、4世紀ごろの日本に大流行したっていう、そういうことは、越っていうところとの連携がとても深い、関連が深いんだっていうことが言えそうだっていうこと、もうひとつは、三島神社の代々神官で、三島の水軍の系統の、河野氏とか、越智氏とか、越智水軍とか、河野水軍っていうのがあるわけです。
 そういう水軍、つまり、海の人ですけど、海洋の人ですけど、そういう人たちが自分たちの祖先伝承として持ってる文書の中に、自分たちの祖先は越人と婚姻関係を結んでいるみたいな記述があるっていうような、そういうことがありまして、日本人の後住の人ですけど、後住の人の起源は、越人っていうものにあるんじゃないかっていうのが、越の国の人になるんじゃないかってことを述べております。
 それから、もうひとつ有力な説は、やっぱり、似てるんですけど、同じようなんですけど、中国に河姆渡遺跡っていうのがありまして、ちょうど呉越の国があったところの地域とおんなじなんですけど、そこで7千年前にジャポニカ種のうるち米が、たくさん遺物で出てきたってことがあったりして、それから、そこでは水稲耕作っていうのと、高床式の住居っていうのが、その地域にあったんだ。
ところが、これは鳥越さんって人ですけど、鳥越さんは、越じゃなくて、それよりもすこし後の、呉の人っていうのがそうじゃないかって言ってるわけです。呉の人が越に滅ぼされた時、それがだんだん南下してきているところに、南から追い立てられて、下の方へ逃げていったと、そうすると九州か、中部以南の朝鮮半島に来るよりほかに、どこにも行きようがなかった。だから、だいたい日本人の後住の人の祖先っていうもので、稲を持ってきた人たちっていうのは、越の人っていうよりも、呉の人じゃないかっていうような言い方をしています。
 九州に入ってきた人のうち、文様が鮮やかな文様の土器を造ったり、使用したりする、そういうことに長けていた人が、だいたい畿内に入ってきたんじゃないかっていう、そういう憶説を立てています。そういう憶説は、いわば、後住の日本人はどこから来たかっていう問題の、ひとつの仮説として、だいたいそういう考え方を述べているわけです。
 この考え方のなかには、先住の人っていう考え方は、少しも入ってきていません。ないわけです。そもそも、先住の人っていう問題が、非常に大きな問題になってきたのは、たぶん、戦後だと思います。戦後のうちでも、わりあいに、今に近いところで、はじめて、先住の日本人っていうものが、どういう言葉を持ち、どういう人種であって、どこからやってきたのかって問題が、はじめて、だんだん論議され、明らかにされようとして、いろんな人が、いろんな突っ込み方をしてきたっていうのは、わりあい、最近なような気がします。
それまでは、ぼくなんかがやりました柳田国男って人は、典型的にそうなんですけど、柳田国男が日本人っていう場合には、だいたい稲の人であって、つまり、後住の人を指して、日本人っていうふうに言っております。先住の人は、もちろん、気にしているわけですけども、いろんな言い方、たとえば、山人であるとかっていうような言い方で、非常に気にしているわけですけども、日本人っていう呼び方を、あんまりしないで、日本人って、柳田国男が言う場合には、後住の人、つまり、稲を持ってやってきた人っていうふうに、そういうふうに考えています。
それほど、左様に、先住の人も含めて、日本人っていうふうに考え、そして、日本人はどこから来たかっていうような考え方みたいなものが、考え方として出てきたのは、ここ10年か、20年を出ないんだっていうふうに思われます。

9 初源の都市はいつどこにつくられたのか

 こういうところで、だいたい、日本人がどこから来たかっていう問題が、最初に提起される初源の都市っていうものと、都市のかたちっていうようなものが、だいたい想定される限り、一種図表化することができると思うんですけど、そういうふうにできるわけだけれど、いったいそれじゃあ、この初源の都市が、神話の記述のようにできた時期は、一体いつなんだっていうことが、もうひとつあるわけです。
 それは、2つあるわけで、ひとつは、ようするに、先住、後住っていうことが区別できる、先住の人たちがいて、後住の人たちが入ってきたっていう、そういう時期です。それは、いってみれば、日本の分け方では、縄文時代の末期から、弥生時代の初めっていうことになりますけど、つまり、そういうところが、初源の都市の形成された最初の時期であるっていう考え方っていうのが、ひとつあります。
 それから、もうひとつの考え方は、もっと時代がこっち側にきているわけで、それは、ようするに、大和朝廷、いわば、最初の国家を形成した、どういう時期かっていうと、古墳時代になるわけですけど、古墳時代になった時が、初源の都市ができた時と、だいたい合致すると、あるいは、古墳時代に入るすこし前のところが、だいたい初源の都市ができた、そういう時期に位置すると、そうすると、そういう考え方と大別すれば、2つに分かたれてしまいます。2つの間には重要な違いがあります。つまり、はじめの考え方でいえば、先住の人、後住の人、あるいは、縄文の人、弥生の人っていうような分け方に該当するわけですけども。
 古墳時代からすこし前の時代っていうふうに云えば、そうじゃなくて、そういう問題はすでに通り過ぎた後になって、ようするに、国家が奈良盆地を中心にして。国家がいつ形成されたかっていう、そういう国家が形成された時期っていうふうな考え方になっていきます。そうすると、それはかなり時代が新しい、今は千九百何年ですか、1900年なら1900年っていうふうに、新しい時代がそれであって、その初源の都市ができたっていう、2つの考え方に分かたれてしまいます。それで、2つの考え方のどれがいいのだろうかっていうことが、最後に問題として出てくるわけです。
その問題を突き詰めるひとつのよすがっていうのは何かっていいますと、理屈からいきまして、ようするに、縄文時代の遺跡もあると、それから、その同じところに弥生時代の遺跡もあると、いろんなものが発掘されると、そのまた同じところに、古墳時代以降の遺跡も発掘されるっていう、その3つの遺跡が、同じ場所、あるいは、同じ地域で発掘されるっていうところが、もし、ありうるとすれば、それがいずれにせよ、最初の初源の都市じゃないかってことが、いずれにせよいえるわけです。
 それは、つまり、先住の人が非常に古くから住んでおり、そのところにまた、後住の人が同じところに住み始めて、そして、またそれが、古墳時代っていうのは、国王ができたっていうことを意味するわけですから、国家ができたっていうことを意味するわけですから、古墳時代の遺跡もあるっていう、そういう場所がもしあったらば、それが初源の都市の地域に該当するってことがいえるわけです。
 で、それは、だいたいにおいて、奈良盆地のこの辺りっていうのが、3つの遺跡が重なり合ってる地域だってことがいえます。ただ、そういうふうに云えたからといって、なかなか初源の都市がすぐに、ここらへんで形成されたっていうふうに、すぐには、一概に言えないわけですけども、おおよその見当としては、そういうところで、初源の都市ができあがり、そして、その都市が、だんだん集落を発達させ、それから、集落を連合させて、ひとつの小さな最初の国家っていうのが形成されたっていうふうに考えることが、理屈上はできるわけです。
 だいたいそういう考え方のところまで、都市問題と、その時の都市のあり方と、それから、都市にどういう人たちが住まわってたかっていう、住まい方と住まった人の種類っていいましょうか、そういうものの問題っていうのは、いままでのところ、そういうところまでは、だいたい、いま申し上げましたようなところまでは追い詰めることが現在できていると思います。まだ、たくさん追い詰めなくちゃ、本当のことは言えないわけですけども、現在のところ、そういうところまでは、だいたい追い詰められることができているんじゃないかってことがあります。

10 縄文時代には湖だった奈良盆地

 もうひとつ、都市問題で追い詰めてみたいことがあるわけです。それは何かっていいますと、だいたい初源の都市自体を、たとえば、4千年前なら4千年前って考え、それから、その次に3千年前って考え、その次に2千年前って考えて、そうすると、4千年前と3千年前と2千年前の、わりあい初源の都市が、遺跡上、あったそうなっていうふうに思える場所ですけども、そういう場所の4千年前と3千年前と、たとえば2千年前、また千年前も含めていいですけど、そのときの、この場所を取り巻く、地勢がほしいわけです。その土地がどういうふうになってたんだってことが、ほしいわけなんです。それは、都市問題としても、とてもほしいわけです。もちろん、今から、これは近年つくられたものだと思いますけど、近年つくられたこれに対して、10年後に、ここは大阪ですけど、どういう未来都市を形成するだろうかっていう問題はもちろんあるわけです。
 もちろんあるわけですけど、いま「都市論PARTⅡ」でいう初源の都市っていうものは、いったいどういう地勢下に存在したんだっていうことを知りたいってことがあるわけなんです。都市問題としてありうるわけです。
 そのありうる都市問題っていうのは、現在では、ぼくはすぐに可能だって思うわけで、やればすぐにできるって思うわけですけども、ようするにそれは、大阪地域なら大阪地域の地質学的なデータっていうのを、これはランドサット衛星からの地図ですけども、その地図に対して、ここの地質学的なデータっていうのを、できる限り詳細に突っ込んで入れますと、簡単に、4千年前に、この地域の地図がどうだったんだって、そうすると、初源の都市っていうのは、いったいどうなっていたんだっていうようなことが、すぐに出てくると思います。それは、わりあいに都市問題として、重要な問題のひとつとしてあると思います。
 それから、もちろん大阪地区っていうのが、それじゃあ4千年前どうだったんだっていう、そういうこともすぐに、地質学的なデータを入れれば、ランドサットをとれば、すぐに出てくると思います。そうすると、また、地理的な意味で、地勢的な意味で、初源の都市の地勢がどうなっていたかっていうのが、すぐに出てくるだろうっていうふうに、ぼくには思われます。
 それは、わりあいに地質学のデータを入れて、コンピュータ処理すればいいわけですから、それはすぐにできると思います。やればやれると思いますけど、そういうふうにやってきた場合に、だいたい、ここいらへんの地域の地勢っていうのが、非常にわかりやすくあらわれるっていうふうに思います。
ここいらへんは全部、海の中に入っていてみたいなことも出てくるわけでしょうし、だいたい、考古学者が言っているように云えば、奈良盆地でも、海抜45メートル線の中っていうのは、だいたい弥生時代に水が入っていたっていうふうに云っています。それで、だいたい海抜70メートル線、このふもとのところまでは、縄文時代には水が入っていたっていうふうに、そういうことを云っています。
 そうすると、この初源の都市っていうのは、この辺りだって考えれば、この辺りが、いわば、前の方に、湖の水を控えてて、後ろの方には山を控えてて、そういうところの、つまり、山が後ろに迫ってて、前にすこしいくと水がある、そういうところに初源の都市が決められたってことが云えるわけです。それは、ランドサットみたいなものに、地質学的なデータを入れた場合には、まったく非常に、一目瞭然なかたちで、そういうことが出てくるっていうふうに思います。それは、これから都市が、大阪って都市はたとえば、どういうふうに展開していくだろうかっていうのを、もちろん処理できるわけで、10年後にはどうなるだろうか、あるいは、20年後にはどうなるだろうかっていうのを処理はできます。
さきほど真昼間に、都市論のPARTⅠで言いましたように、都市の一般理論として云えることは、収縮っていうことと、それから、膨張っていうこと、その2つの大きな作用に対して、それから、もうひとつ、東京の場合で申し上げましたけれど、一種の横圧力となる条件っていうのが、一種特殊にありますけど、そういうものと、収縮と、拡張っていうのが、だいたい都市の動き方っていいますか、展開の仕方のパターンですから、それは、現在のこういうあれがわかっていれば、地図がわかっていれば、もちろん、10年後とか、20年後にどうなるか、どうなっているか、予測地図を描くことはもちろんできるわけです。
 もし特殊な横圧力になる条件っていうのがあるなら、その条件を入れればいいわけですから、そうすれば20年後にこうなっててなことが、ちゃんと出てくると思います。それと同じように、過去にさかのぼって、千年前には、ここはどうなってたんだとか、2千年前にはどうなってたか、3千年前にはどうなってたか、4千年前にはどうなってたか、そういうことはすぐにわかると思います。そうしたら、先住の人と、後住の人が入ってきた時にはどうなって、先住の人だけがいた時にはどうなってるってことも、かなり明瞭なイメージっていうようなものを描けるってことが云えそうな気がします。

11 鳥瞰する視線の歴史と未来

 この問題は、歴史っていうものを、つまり、様々な初源の都市から、だんだん発達していきまして、農耕の都市ができ、そして、いわゆる非農耕的な産業の集まった都市ができ、で、近代都市ができっていうような都市の考え方っていうのもできる、そういう都市の考え方をたどることもできるわけですけども、そのたどり方の経路っていうものは、だいたい都市の上からの鳥瞰図っていいましょうか、その問題から考えますと、都市の問題っていうのは鳥瞰図の時間軸っていいましょうか、時間の軸をどこにとるかっていうような、たとえば、これが900キロなら900キロの距離の鳥瞰図っていうふうに意味するとすれば、初源の都市自体の鳥瞰図っていうのは、せいぜい、ここの山にもあんまり入れないんですけど、これに類したほかの周辺の山に登った時に、そこから下を眺められる視線の高さっていうものが、その時代の鳥瞰図の時間軸であるわけです。
そうすると、その鳥瞰図の時間軸っていうのは、文明が発達していくとともに、時間軸の長さが長くなっていって、たとえば、現在だったらば、ごく日常的にいって、航空機の飛べる高さっていうのが、最大鳥瞰図であったのが、現在でいえば、宇宙衛星の高さっていうのが、鳥瞰図の時間軸の高さっていいますか、長さってことになるわけです。
この住処の鳥瞰する時間軸の長さっていうのは、ある意味で、初源の都市からはじまって、都市の発達の経路っていうのを、いわば、時間軸によって象徴しているっていうのが、いってみれば鳥瞰する高さの時間軸っていうことになっていくわけです。
このなりかたのところで、現在、900万キロなら900万キロの高さのところっていうのが、文明と文化と、そういうものに付随して出てくる道具っていうもののいちばん象徴的な高さになるわけで、その高さっていうのが、たとえば、現在、2つの世界権力があるわけですけども、2つの世界権力がせめぎ合っているのは、だいたい900キロの高さからの鳥瞰する視線といいましょうか、鳥瞰する目線といいましょうか、その高さを、どちらが奪取するかっていうのが、現在の世界権力の争いの、せめぎ合いの焦点になっているわけで、そのせめぎ合いの象徴になっているわけで、それを、どちらかが独占したいとか、どちらも独占できない状況が、現在の状況であるっていうふうに象徴させることができると思います。
 そしたらば、われわれの占めるべきっていいましょうか、ごく一般の民衆っていうものが、占めなければならない視線っていうのは、おのずから明らかであって、900万キロじゃなくて、ようするに一種の、無限遠点からの鳥瞰視線っていうのを、まず民衆っていいますか、一般大衆っていうものが、つまり、世界権力にわずらわされない一般民衆っていうものが、つまり、権力にあんまり関係ないとされている一般民衆っていうものが、無限遠点からの鳥瞰視線っていうものを、獲得できた時には、いってみれば、潜在的に政治革命っていう問題は終わってるってことになりそうに思います。
 だから、900万キロで争われている、現実の世界権力の争っているせめぎ合いのところっていうのを、どうやって超えるかっていう問題になってきます。視線として超えるってことは、無限遠点からの視線っていうのを、もし獲得できるならば、それは、現在の世界権力のせめぎ合いを超えたっていうことを意味します。民衆が、その無限遠点からの鳥瞰視線っていうのを、自分の思考の中に、あるいは、自分の考えの中に、繰り入れることができた時には、たぶん、世界権力の問題っていうのは、終わってるってことが云えるわけです。
これが、都市論からみられた一種の権力問題なんです。権力あるいは反権力問題なんです。都市論からみられた反権力問題っていうのは、いわば、民衆が、ごく普通の人たちが、無限遠点からの鳥瞰の視線っていうものを、自分の考えの中に繰り入れることができるかどうかってことにかかっているってことが云えると思います。
それが、いってみれば、初源の都市論を、現在の都市論っていうふうに考えて、未来の都市論っていうのは空想に過ぎないんですけど、それに、なによりも必要な視点っていうのは、無限遠点からの視線っていうものが、一般民衆の中では、いわば常識になっている。つまり、権力のなかでは、まだ、900万キロの高さの視線が争いの的だと、しかし、民衆はすでに、無限遠点からの鳥瞰視線っていうのを、考えの中に繰り入れることができちゃったっていうふうに、そういうふうになった時は、いってみれば、都市論の終末っていうことになります。都市論の終焉っていうことになります。
つまり、都市論っていうものが、都市論自体を克服したっていう時点は、どの時点かっていったらば、そういう時点を、ごく普通に獲得しちゃったってなるってことになります。そのことは、べつに不可能でもなんでもないのであって、それは非常に可能性の多い、民衆が権力を無化する、あるいは、自分自身が、自分の権力であるっていうふうになりうる、つまり、都市論からみられた、いちばんの重要な問題ってことになってくると思います。
それが、都市論PARTⅠとPARTⅡっていうのに、しいて結論っていいますか、結末をつけようとすれば、そういうところが、都市論からみられた権力論、あるいは、反権力論、あるいは、都市論が終焉するところの、都市論っていうものの課題になるだろうっていうふうに思われるわけです。それが、地上において、どういう形態になるかっていうのは、また、様々なことを考えて、要因を考えていかなきゃいけないですけども、この鳥瞰視線っていうことからみられた都市問題の終焉というものは、おのずから明らかに指さすことができるっていうのが、しいてつければ、最後の結論になると思います。いちおうこれで、終わらせていただきます。(拍手)

 

 

 

テキスト化協力:ぱんつさま