今日の最初の意図は、吉本さんに、ぼくらが話をききたいといういうことで組んだわけで。最後の時間は、まず超過するまで吉本さんに好きなだけ、時間に関係なく、ラストのオーダーをさせていただこうと。で、ぼくと中上は、それに対して、いくらかしゃべることがあれば、しゃべるということにしましょう。
(中上:そのまえに、ぼくらの今のレベルの総括みたいな…)
…そうだね。ぼくのほうから総括させてもらうと、やっぱり正直言いまして、さっきの「10年前のスタイルと変わってないじゃないか」というのは、非常にショックでした。これはやっぱり深刻に、自分では、考えたいと思います。また、ひと月くらい落ち込んで(ぼくもわりと元気ですから、ひと月くらいで、落ち込んでもまた元気になると思いますけど)、考えたいと思います。
結局、やっぱりどこかで、ひとつの「抽象的な概念」ということと、「具体的なこと」とをどういうふうに結び付けていくのかっていうこと。そのことのなかに持っていた、ぼくは、自分の育ち…っていうのが、左翼なんですけど。そこの中にある、さまざまな欠陥。あるいは、他者の意見を聞きながらですね、そういうところでのことを、あらためて、いろんな話を聞きながら、考えていました。で、自分はまた、久しぶりに、そういう自分の中の内省的な契機になったので、非常にうれしく感じています。以上です。
とりあえず24時間目に突入しようとしている、ここまでよくみんなやってこれたっていうことに驚いているし、意外に、そんな、きつくないんだなっていう感じがあるんですね。みなさんはちょっと違う感覚をもっているかもしれないけど。
それで、これでぼくは最初の自分の意図が果たせたかっていうと、そうじゃないんです。やっぱり、もっと、いろんなことを吉本さんにきいてみたい。だからこれが終わって、もういっぺん機会をあらためて、今度はどこか温泉地かなんかに行って温泉に浸りながら、あるいは飯喰いながら、ごろんと横になりながら、ちょっとこう…。
対談とか座談会だったらぼく何回もやってるんだけど(いつも書くのが嫌だから、対談でこう、ごまかしてるんだけど)、言葉のあやでね、ひっくり返したり、こう、いろいろあるんですよね。あれはこう、話芸みたいなもんですからね。講演も話芸みたいなもんなんですよ。なにもこっちは怒りたくないのに怒ってみたり、それから、反対のこと言いたくないのに反対のこと言ってみたり、そうして聴衆をひきつけたり、場内を焚きつけたりっていう、そういうもんだと思うんですよね。そんなんじゃなくて、吉本隆明っていう存在は、もっとこう、なんか、ひとつの事件なんじゃないか。あるいはプラトーを示している…今の日本の文化状況、文学状況の中で、ひとつのプラトーなんじゃないかっていうね。だからそのことを、もうちょっとつきつめて、吉本さんに伺ってみたいかなと。話芸なんかでごまかすようなもんじゃなくて、「そこ、もうちょっと説明してください」っていうかたちで、どこか、やっぱり三人で、行ってみようと思うんです。で、それは多分、こういう公開の席じゃないと思うんですね。そういうことを考えているし、もうひとつ、ぼくはこの「吉本隆明25時」で、壇上に何回か立ったんだけど、その感想を言いますと、正直言うと、なんていうかな、「ぼくはここにいない」っていうのかな。つまり、みなさんがたに、ぼくは「ぼく」を見せるわけじゃなくて、「吉本隆明を見続ける眼」を見せただけだっていう、そういうことだと思っていただきたいんです。もちろんぼく、ここで歌も歌ったし、結局、みんなに言われたんだけど「中上は人前で歌を歌いたいだけでやったんだろう」って、どうせ言われるに決まってるんですけどね。だけど、ぼくは、吉本隆明っていう事件を見続ける眼を、みんなに見てもらったっていう、そういうだけだったんです。
そういうことで、みんなぼくを怖いと思ってくれるか、甘い存在だと思ってくれるかどうかわかんないんだけど、ぼくの方はちょっとこう、「怖い目だよ」という…。よくあるんですよ、喫茶店で明け方にいると、眼つきがだんだん悪くなってきて、なんかヤクザじゃないかって。チンピラみたいなのが「すいません!ちょっと!」って挨拶に来たりするときがあるんですよね(笑)。そういうものですから。それが吉本隆明っていう…。いまの吉本隆明、第三期というか第四期というか、つまりいま、吉本隆明が新しく展開しなおしている吉本隆明を見続けている。その声を聴き続けたいっていう、そういう意思を示したつもりです。それがぼくの感想です。
それで、これから吉本さんにこの「吉本隆明25時」っていうあれを締めくくってもらうために…。吉本隆明さんの話が終わったときに、この会はおしまいです。そういうことで、はじめてもらいます。
これからあと1時間たらずで、24時間が経過してしまうわけです。ひとつ自分で感じたことは、意外に、体力ってのは、「もつもんだな」って感じが、ひとつあります。それから、もうひとつ、これは言っておかないといけないことなんですけども、なんて言いますか…。例えばゲストのひとたちが、いまみたいなあれでもって、24時間全部を占めちゃったっていう場合には、ぼくは、あの、寝てるって言いましょうか、その、聴いてるだけでいいと。それじゃ、なんていうか、入場料と、パフォーマンスのあれ(中上さんがつけた格好のいいあれ)に、反するじゃないかって、ぼくは思わなかったので。その場合は、もしそうなっちゃったら、申し訳ないんですけど、ぼくなんかの範囲ではとてもそこまで負いきれないっていう、すこし拡張された範囲で、ぼくが、自分がしゃべったっていうのと同じ意味になるんだっていうふうに、理解したわけです。逆に、はじめに申しました通り、どなたもゲストの方がおられないとすれば、それは24時間やるっていう。そういう逆のケースも、もちろん初めから考えて、両方考えてるから、いずれにしろ「いいんだろう?」って、「どういうことが起ころうといいんだろう?」ってのが、ぼくの理解のしかただったんです。それで、結局、そういう観点と、それからもうひとつ、それを自分ができるかどうかは別なんですけど、この種の行事と言いましょうか、催しというのを、ぼくらみたいのが(ぼくらみたいってのは、三上さんや中上さんを含めて言ってもいいと思うんですけども)やると、どうしても「結論を欲しい」という、そういう流れになっちゃうことと、ともすればやっぱり一種の「党派だ」というか、色合いとしてみられやすいっていうふうになるに決まっているっていうふうにぼくは考えたわけです。
だから、ぼくがひそかに抱いたイメージの中では、そうじゃなくて、言ってみれば、三者三様に外に向かって開けばいいんだ。結論は出なくていいんだ。もちろん、ゲストの方の話も、外に向かって開けばいいんだ。そして、それが全体としての流れとして、結論は何にもなくて24時間すぎちゃったんだけど、しかし、全体としてみれば「何かだ」っていう。そういう、つまり、「アンチ結論」といいましょうか、「アンチ結論」とか「アンチ討論」といいましょうか、そういう形っていうのが、もし、巧まずして出てきたら、それはまず「いいんだ」っていう感じ方が、ぼくの中にはありました。だから、格別の不満というのはなかったわけです。これで流れて行けばいいんだと。だから、文句が出て「そんなつまんない話やめろ」みたいなヤジが出て、それに対して「困っちゃったな」っていう、その「困っちゃったな」も、ちゃんとみなさんの中に入っているわけだから、それはやっぱりそれでいいんだっていう、そういう考え方を、ぼくはイメージとしては浮かべてきたわけです。
しかし、多分、そういう意味合いでは、ぼくは、うまく流れて行っちゃえばいいんだって言いましょうか、拡散するって言いましょうか、「開いていくイメージでいいんだ」っていう条件ていうのは、なんて言いますか、だんだん24時がたつにつれて、だんだんこう、テンションというか、つまり力が、遠心力がなくなっちゃって、だんだん、だんだん、「なんか面白くねえ」って言うやつ(まあ中上さんなんてのはその総本山ですけども(笑))がいるし、三上さんは、なんか「おめえのは昔の党派の衆から変わってねえ」と言われるし、ぼくも事務局の人から「おめえのやってるようなアレだったら本になんかならねえ」とかいう…、「もっと何とかしろ」と言われたんですよ。ぼくはエネルギーを蓄えていようと思って、「最低限届く声で」みたいなことを心がけていましたから、そういうことを含めて、「おめえらダメだ」と、こういうふうに言われたんです。
それぞれのイメージというのはあるわけですけど、ぼくはやっぱり、逆に、遠心力っていうか力がなくなっていくにつれ、だんだん…なんといいますかね、党派の集会に似てきたっていうのは、そういうふうな感じになってきたというのは、ぼくのイメージの中では大変「面白くねえな」っていう…。「そうじゃなかったはずだ」っていうのがあるんです。ぼくのイメージの中ではそうなんです。だからそういう意味合いでは、あと一時間たらずのところで、そういうふうに集約されてきたといえるでしょうけれども、あんまり、面白くなくもなかったんです。「面白くねえぞ、やめろ」ってヤジの意味合いってのは、さまざまあると思うんですけど。
ぼくは根底的に言うと「面白くなくたって構わねえんだ」っていうイメージがありまして。だから、そういう意味では、あんまり…。あの、ヤマザキさんとコサキさんと、女性の飛び入りの方とのアレも、面白くなくはなかったんです。ただ、聴きながら不満があるとすれば、どんどんどんどん、ご両人とも飛躍していっちゃうような気がしたんだけども。結局いつでも、上野さんなんかにもそういう不満がもちろんあるんだけれども。つまりね、これはおれの思想だからしょうがないんだけど、多数のやつが、現在、家族として持っている問題っていうのを繰り込めない論理っていうのは、ダメなんじゃないかっていう考え方があるんですよ。だけど、ご両人の前提は「家族なんか作りたくもねえんだけども、しかたなしにあるところで作ってる」という様相があるんだっていう観点で、「家族なんか壊れちゃったっていいんだ」という状況なんだということが前提となっての話なんで、ぼくはちょっとそれは、そこは不満でしたね。面白い、面白くないじゃなくて、観点として不満だったっていうのがあります。
(「あと30分なんですけど」という声)
あのね、あとひとつ、まとまった話で、用意してきたことがあるんです。与太話には違いないったら違いないんですけど。こういう機会じゃないと、こういうこと「暇がないからなあ」っていうことがあるんです。
ひとつは、あ、ひとつじゃない。三つあるんですけど。三つって、おんなじなんですけどね。
以前に、反核問題ってのがあったんですよね。「文学者の反核問題」ってあった。そのときにぼくは『「反核」異論』ていう本に自分の言説をまとめて出したんですけども、その言説を巡って、一冊の本を書いた人が三人いるんですよ。ひとり、一番早いのは、宮内豊っていう文芸書をやってるひとがいるんですけど、この人が一冊、そのために書いたんですよ。それから二冊目はね、土井淑平っていう男が、やっぱり一冊書いたんですよ。もうひとり、ごく最近ですけど、田川建三っていうキリスト教神学の研究者ですけども、この人が書いているんですよ。ぼくはこの三者に対して、全面否定を展開しようっていうふうに思ってきて。どっかで時間があったらそれをしようっていうふうに思ってきたので。それを用意してきたんです。用意らしいってほどの用意ではないんですけど、まあ、用意してきたんです。
それで、なぜその三つを取り上げたいかっていうと、三者に共通しているところがあるんですよ。それはなにかっていうとね、ひとつは、要するに、これが一種の「怪文書」だっていうことなんですよ。つまりこの人たちはどういう思想をもっているかっていうと、それぞれ神学思想から、左翼思想から、エコロジストまではいっているわけだから、それぞれ思想は違うんだけど、共通していることは、このひとたちは大多数の一般大衆っていうか市民社会っていいましょうか、それがどうであれ、不満であれ、不満でなけれ、市民社会の大多数を占めている、その「一般大衆」っていうものの考えている事柄っていうのを繰り込むっていう考えかたが全くないっていうこと。だから、この本は一見すると、なんかラディカルなようにみえているけれども、これはようするに「怪文書」だと。一冊の本の体裁をもって、商業出版から出て、店頭で売られていますけれども、これは「怪文書」だっていうことだと思うんです。つまり、こんなものは通用しないっていうことが、ひとつ、あるんですよ。「怪文書」として共通している。「怪文書」がこういう本の体裁をして、単行本の体裁をして出てくるっていうのは、もう末期的症状だっていうふうに、ぼくにはまず、思われます。つまり、最期の末期的症状だと思っています。だから、こいつはひとつ、「やっとこうじゃないか」と。その「怪文書」たる所以も言っとこうじゃないかっていう。もっといろんなことが、付随したいろんなことがあるんですけれども、それはこの二、三冊の怪文書に象徴させることができる。
この人たちは、要するに、大衆の心ってのを本質では分かっていない。大衆が構成している社会がどうであれ、また大衆がどう思っていようと、現在の資本主義社会、高度資本システムをどう思っていようと、その大衆の心っていうのを自分の理論の中に繰り込むことができていない。「大衆はこうであるに違いない」という先験的、先天的な理念っていうものがあるんですけれども、しかし、そうではなくて、「現にどう思っているか」っていうことを繰り込めていないから、どんなに本を作っても「怪文書」だっていうふうになってしまっていると、ぼくはそう判断します。そうすると「怪文書」に振れているものに、いちいち応答したってしょうがないって、■■■、やり過ごしてきましたけど。こういう「24時間も時間があるんだからな」と思って、どっかでこれをやっても、時間のあれにはなるなって考えて、やろうと思ってきたんです。
もうひとつ、本の性格っていうのを言いますと、この三者とも、要するに、本の読み方ってものを知らないとぼくは思うな。この人たちは本の読み方からちゃんと教えないと、これはダメだっていう。それがひとつですね。つまり読めてないわけで、これが反駁しようにもしようがないわけで。つまり読めてないんだから。おれの本を、言っていることを読めてないじゃないか、読めてないやつに、別になにか言う必要はない。本っていうのは、簡単なようにみなさんも思うかもしれませんが、本の読み方っていうのにも、非常に、段階もありますし、等級もあるわけです。つまり、本当に本を読めていなかったら、本を読んで、それについて何か書くことの商売ってのはできないわけで。プロとプロじゃないのは、まるで違いますよ。これは、ぼくなんかがそんなこと言ってもしょうがないんだけど、江藤淳がよく言うことで、「プロっていうなら読めるようなものを書け」ってよく言ってますけど。ぼくはまあ、そういうことは言ってもしょうがないと思うんだけど。しかし、本の読み方なんてのは誰でもわかる、つまり、イロハを知ってテニヲハを知っていれば、日本語を知ってたら、誰でもわかるなんて思ったら「大間違いだ」というふうに、ぼくは思います。つまり、この人たちは「本が読めてない」っていうことがもう、ものすごく問題だというふうにぼくは思います。
それからもう一ついいますと、このひとたちは持っているのは、一種の党派的思想なんですよね。党派的思想っていうのは、当初にも出てきましたが、そういうことはもうダメだって思っているわけですよね。「過ぎたよ」、って。つまり、本当に党派的思想ってのが成り立つのは、世界党派に対してだけだっていうふうに思っているわけです。つまり、現在、世界権力っていうのは、ふたつ、大別してありますけども、その世界権力に対してだけ、党派性ってのは成り立つんで、それ以外の党派性的な思想っていうのは成り立たんっていうふうに、ぼくは思っています。
その成り立たない根拠は何かっていったら、たとえば今年の経済白書(つまんないんです。一番つまんないなあと思って。去年なんかものすごい見事な経済白書だった)、そこで、一般大衆っていうのが、自分たちを市民社会のミドルクラスだって思っているパーセンテージっていうのが70パーセントくらいあるんですよ。つまり、何を意味するかっていうと、大衆が、自分たちを市民社会の中産階級、っていうのは中級っていうことですから、真ん中ってことです。つまり真ん中っていうのはなにかっていうと、真ん中の生活状態と生活意識と文化的意識とを、自分で自分が持っていると。それは具体的に成り立っているかどうかはまた別なんだけど、しかし自分が主観的に思っているっていう一般大衆が大体70パーセントくらいいる、っていうそういうデータが出てますけれども。そういうふうに思っていることは、主観的であれなんであれ、自分たちが、言い換えれば、市民社会の主人公だって思っているやつが、要するに70パーセントいるんだっていうことを意味すると思います。こうだったら、党派的思想っていうのは、唯一、「一般大衆につく」っていう党派性が、すでに現在の段階の一番、ハイレベルな段階である。すでに「一般大衆につくこと自体が党派性である」、それが唯一の党派性だっていう、そういう段階に突入しているんだなっていうことを、ぼくは意味していると思います。
「一般大衆の党派性」というのはなにかというと、世界権力に対する党派性です。それ以外にない。それが最終の党派性です。これが現在の先端的な段階になってきたんだと。こういうふうに言いますと、中上さんからまた文句が出ると思うんですけど。しかし、そうじゃない。いちばんハイレベルのところ、レベルがハイかどうかっていうと誤解を生じるとあれですけれども、いちばん高度化された社会の中で生み出された考え方をウォッチしますと、そういうふうになっているということ。この世界には、まだアジア的段階をそれほど脱していないとか、原始的、古代的段階を脱していないっていう地域もたくさんあるわけです。それから第三世界みたいに、前アジア的段階っていう、つまりヘーゲルのいうアフリカ的段階にある地域もたくさんあるわけです。だから、そんなことを言っていたら、たくさんあるので、重層的にそれが全部「現在」っていう平面に世界的に並んでいるっていうのが現状だと思うんです。
だけど、それをどこでとらえるかっていう場合に、そのもっとも先のところでとらえれば、だいたい大衆の70パーセントはすでに自分たちが「社会の主人公だ」と主観的に思っている。客観的にどうかは別なんです。根拠があるかどうかはまた別になるわけですけれども。しかし主観的に思っているっていうことは歴然と出てきているわけです。このときに課題はなにかっていうと、一般大衆につく。一般大衆につくっていうことは、党派性はもう、すでに使用されている段階にあるんだってことを意味していると思います。この意味でこの段階っていうのは、ぼくは…。
だいたい、左翼思想だって自分を思っているやつらは、全部ダメなのよ。つまり、国家と資本が対立したときは、「資本につく」っていうのがいいんですよ。わかりますか?だから国鉄が民営化、分割されるっていうんだったら、原則としては、その方が正しいんですよ。その方が大衆的なんです。わかりますか?そうしておいて、もちろん個々の場面ではいろいろな場面があるから、個々の場面での闘いっていうのは、なされねばならないけれども、しかし、原則は、はっきりしているわけです。つまり、分割民営化のほうが、国有よりもいいに決まっているわけです。つまり左翼的観点からはいいに決まっているわけです。
こんどは、資本と労働者、組織労働者みたいな総称でいいですけれども、労働者とが対立しているときには、労働者につかなければいけないわけです。もうひとつあります。組織労働者と一般大衆の間に利害の激しい対立が生じたときには、「一般大衆につく」っていうのが、左翼思想の究極の姿なんですよ。
そういう原則的なことすら、全然わかってないわけですよ。困っちゃうわけです。こんなの相手にしてられないでしょう。そういうのが現在の現状認識の段階だっていうことが、あるわけですよ。この現状認識の段階に照らして、この「怪文書」を出した三者っていうのは(もっと他の「怪文書」もあるんですけれども)問題にならないですよ、だいたい。問題にならないっていうのは、つまり読めてないっていうことであるとか、「怪文書」であるっていうこととか、それだけに限らず、全然、この党派性っていうのは問題にならないんです。このひとたちは、「自民党につくか、社会党、共産党につくか」とか知らない、そういうのが党派性だと思っているわけでしょ。ぼくはそう思っていないですね。唯一の現在の党派性は、世界権力に対して、つまり、ふたつに大別される世界権力にたいして、どういうふうに対立っていうのがしかけられるかっていうこと。そのことと、一般大衆の利害の問題がすでに前面にきたな、一般大衆の問題が前面にでてきたな、先進社会では出てきたなっていう認識とは同じこと。表裏一体のことを意味するわけです。それが現在のぼくの現状認識です。だからこれは、全然問題にならないわけです。
この問題にならなさっていうのは、このひとたちが抱いている理想社会の像っていうもの、イメージっていうのを見るとわかります。三者三様、違うように思いますけれども、ニュアンスが違いますけれども、共通していることは退行することです。すでに大都市が出現して、大都市が膨張・収縮を繰り返しているっていう段階において、このひとたちが理想としているエコロジー社会とか、理念社会っていうのは、争いのない社会っていうのは…。
宮内豊は、ようするに「東洋的な自然認識」っていうのをここに入れたら、なんか、非常に和やかな社会が出現する、高度資本主義のガサガサ、ムスムスしている、そういうあれを脱却できるんじゃないかっていうのが、宮内豊の反核の理念であり、究極理念であり、ぼくのために(ありがたくも、ばかばかしくも)一冊の本を書いてくれた、そういう根底のモチーフっていうのは、それなんです。
それから、土井淑平ってひとの理想社会っていうのも、見てみればわかりますけれども、これは一種の…。やっぱりおんなじですよ。それがもう、いっぺんに正体がわかっちゃうんですよ。どんなに偉そうなことを言ってもいっぺんにわかっちゃう。こんなことを実現することは、できるはずがないですよ。
この人も一種の、「小都市で」「農村と自然と調和がとれて」「調和がとれる生産と」「差別がない社会を」「調和がとれる都市と科学と生態系と」、そういうので、そういう社会が理想だって、そうふうに書いてあります、あの本のなかに。それを見れば、いっぺんにこの人の構想が分かるわけです。しかし、よく考えてごらんなさい。たとえば日本の現状で(ぼくは都市論を今日、展開しましたけれども)、それでもってわかるように、土井淑平が言っているわけですよ、そういうバカを(違うひとが言っているのを引用しているわけですけどね)。そういうエコロジー社会っていうものを実現するっていうことは、「必然的に政治革命っていうのを生起する」っていうふうに、外国の、その手のひとが書いているのを引用して言っているわけですよ。
しかし、冗談でないわけです。たとえば、東京の、この現在の大都市、これを土井淑平が理想社会とするような都市と農村のすがたにするためには…。全部のことを言う必要はないです、だいたいビルディングだけでいいわけです。土井淑平のいうようにするためには、ビル街っていうのを破壊しなければならないですよ、誰が破壊するわけですか。破壊しなければならないですよ。破壊するわけがないでしょうが、この大都市になってしまったものを。破壊するわけがないし、破壊するのは、「反日アジアなんとか武力戦線」とか知らんけど、それだけだよ、破壊しようっていうのは。
その破壊しようっていう場合に何が問題かっていうと、破壊したけりゃすればいいけれどさ、関係ねえんだから。住処に関係ないからいいけれども、破壊したときに一般大衆っていうのがなくなるわけですよ。急激に破壊すれば、なくなっちゃうわけですよ。そうすると、この考え方ってのは、要するに、ポル・ポトとおんなじよ。つまり「民衆の解放のための理念」っていうのを強力に実現しようとしていくと、民衆を殺していかなきゃなんないんですよ、一般大衆ってものを。これはもう、ぼくに言わせると「理念の倒錯」も同じ、最大のもんですよ。これはしかし、土井淑平の言う通りな理想社会って、どう考えたって、この大都市になってしまったものを、全部壊さなきゃなんないでしょ。ビルかなんか壊していかなきゃなんないでしょ。それ、誰がするわけですか、誰が権力を握って、誰がそういうバカなことをするわけですか。そんなことは成り立ちようがないですよ。ぼくはそれを言っている。ぜんぶね、退行社会ですよ。退行社会ができるみたいなことを言っているわけですよ。そんなバカなことはないわけでね。これはもう、一事が万事、すぐわかりますよ。
これはね、田川建三でもおんなじですよ。おんなじです、退行。ぼくに言わせれば「退行社会が理想のイメージとしてある」っていう、そういうことなんです。紙で書いているうちはいいけどさ、本当に壊さなきゃならないですよ、こういうビルを全部壊してあるかなきゃ。爆破してあるかなきゃ、そういうふうにならないんだから。それを誰がするんですか?誰がそれをするわけですか?で、したときに、民衆はどうするわけですか、一般大衆はどうするわけ?そういうことに対してプログラムが無いわけでしょう。それでいて、そういうことを言う。
「それこそが現在の世界の最大のこれからの課題なんだ」ていうのが、土井淑平の論理なんです。こんなバカな論理っていうのに、まともに付き合えるわけが…。
だいたい、おれが書いたものを正確に読んでいるんならともかく。ぼくは例えば、一例をあげれば、『歴史の無意識としては資本社会というのは最高の作品だ』と言っている。ところが、今度は『歴史の無意識としては』っていうのが抜けちゃって、「吉本は『資本主義は最高の作品だ』と言った」っていうふうに書いてありますよ。冗談じゃないわけですよ。こういう粗雑なひと、本の読み方から教えなきゃなんないような、こういうひととなんか「やってらんねえよ」っていう、そういうことなんです。こんなの「やろうじゃないの」、なんでもいいよ、武力でもなんでもいいから、体力でもいいから、「やろうじゃないの」ってそれだけしかもう、言いようがないでしょう。そういうもんだと思います。
だから、ぼくはその問題をちょっとやってみたいと思ったんです。つまり、自然観ていうものとね、自然観ていうのはどうあるべきか。
一様に言えること、三者に言えることは「自然」というのを、いわば「天然自然」というふうに考えているわけなんです。「天然自然」というのは「最上のものだ」っていうふうに考えています。ぼくはそう思いませんね。「天然自然よりいい自然というのは作れる」ていう観点を持ちますね。「作れる」という観点を持たなきゃどうしようもないんじゃないかというふうに、ぼくは考えています。
例えば簡単なことの例でいえば、テレビでやってたけどさ、ウミガメみたいのが、高知かどこかの海岸にウミガメが卵を産みに来ると。産みにきて、それがまた卵が孵化して海に返っていく。それを自然のまま放置すれば、たとえば20パーセントの卵が生き残る。あとは死んだり、また、鳥につつかれて亡くなったり、そういうふうになっている。それを例えば、近くの小学校が理科の実習課業として、産んでいった卵を学校へ持ってきまして、同じ砂の条件で埋めて、自分たちが育てる。そして返してやるっていうと、それは80パーセントだと。そういうのをテレビでやってましたんですけど、それはまあ、ひとつの例ですけれども。つまり「天然自然っていうのは、最高のものだ」っていうふうに考えるのはうそじゃないかって思う。たとえば人間だって自然の一部分だっていうことは、宮沢賢治も言いますし、マルクスも言うわけですよ。自然の一部分だって、人間だって「生物だし、動物だ」っていう。それはもうその通り。しかし「人間ってのは何なんだ?」っていうふうに問いを発したときに、「自然的な人間に対して抵抗することで人間である」っていうような部分がたくさんあるわけです。
言い換えれば、自然っていうのは、何が本質的かはわからないけれど、「人間は本質的な自然をめざしていくべきなんだ」っていう。そんなにびっくりして「自然を守れ」なんていう、そういうんじゃなくてね。ぼくはもっとね、人間の可塑性っていうことを信じていますね。つまり、マルクスの言葉で言えば、よく「人間は解決できる問題しか提起しない」っていうふうにマルクスは言いますけれども、ぼくはそれを信じていますね。本質的には信じています。具体的には、もちろん、そうじゃない例はたくさん出てくるでしょうし、それに対しては、いちいち異議を申し立てていかないといけないと思いますけれども、だけれども、本質的にいえば、人間はたぶん、いろんな問題を解決していくだろうなっていうふうに思います。
たとえば原子力発電ていうのは…。土井淑平は嫌いだから、嫌いなら嫌いでいいけれども。そうだったらば、たとえば資本家が非常に先を競って開発している超電導みたいな。常温における超電導物質をつくるっていう、開発競争みたいのをしているわけでしょう。超電導物質っていうのができると、電気抵抗みたいなものが全然いらないで電気を流せるわけだから。そういうのができちゃっても、原発と匹敵するようなエネルギーってのが出せるかも、商業のあれで出せるかもしれない。つまり、そういうことっていうのは、「技術的に解決可能だ」っていう方向に行くだろうっていうことについては、ぼくは楽天的です。究極においては、よくそれに適合して、不都合なことに対してかならず適合していくだろうなって。その間に、たとえば、利己的な、さまざまな、あるいは■■■■てさまざまな問題を喚起するでしょうけれども、ぼくはそういうふうに究極的に思っている。これはやっぱり、自然観の問題であったりするわけです。
だけど、この三者に一様に言えることは、東洋的自然観とか、ようするに天然自然といいますか、それがやっぱり非常に問題、非常に根底的にある自然観であるっていうことがわかります。ぼくは全然、明らかにぼくはそうじゃないですね。
どうでもいいんですけど、そういうところで、「左翼である」とか「右翼である」とか「変節した」とか、そういうことを言ってもらっては困るわけですよ。そうじゃないんですよ。要するに、現代の課題の、最終的課題っていうものが、どこからどこへ移行しようとしているか、そういうことは、やっぱり、はっきり掴んでほしいわけです。掴んでもらいたいですよ。冗談じゃないですよ。冗談じゃないっていうのは、つまり、そんなチャチじゃないですよ、ぼくは。あのひとたちの願望するように、昔だったら「左翼からこんどは右翼になった」とか「世界資本主義倫理に移行した」とか、スターリン主義からの認識では(つまり日本でいえば戦前ですけど)、そういうことっていうのはあるわけですけども。そうせざるを得ない、そういうふうに必然的にいくっていう、そういう経路があるわけで(ぼくは、「転向論」ですけど、扱ったことがあります)。しかし、いまはそんなことないですよ。べつに、あのひとたちと縁を切ったと言ってもべつに右翼であるわけでもないし、ぼくのほうは逆に「左翼とはなにか」っていうことを、逆に提起したいわけです。
「左翼とはなにか」っていうことは、いまぼくが申し上げましたことを、最低限、わかっている、踏まえているやつが「左翼なんだ」っていう。つまり、先端的な部分でとれば「党派的な段階っていうのは終わったな」、「一般大衆の課題が前面に出てくる段階にはいったな」っていうのがぼくの基本認識で、「それがわかんなかったら左翼じゃねえ」っていうふうに思っています。それから、いろんなことがあるんです、いろんな付随することがあるわけなんですね。「一般大衆よりも自分のほうが政治思想的に進んでいる」っていうふうに思っているひとは「左翼じゃねえ」ってことは条件に入ってきます。なぜ入ってくるかっていうと、やっぱり、一般大衆の課題っていうのが前面に出てきたっていうことが、先端なところでは言えるからだと思います。だからもう、前衛がいて、ナントカがいて、■■を引っ張ってきて…、それはもう終わったし。
それから党派もあります。ぼくは「党派にならない」って思っています。そういうふうに思ってもらっては困るので。これは、ぼくらがいる場所で(それぞれ場所が違うわけですけども)、最小限、場所として一緒に主催者になりうるみたいなそういうところで、「その場所で何ができるか」っていうことはあるのかもしれないし、「何ができるか話してみようじゃないか」みたいなこともあるかもしれないけれども、そうしておいて、これを「ひとつの見解にまとめて…」みたいな、そういう段階的な、それは「ありえない」っていうのが、ぼくの当初からの認識であるわけです。
だから、ぼくに中上さんが言われたように「ぼくらはお前の言うことは不満だ」っていうことは多々あるでしょうから、それだったら、また「それじゃ、とことんひとつ、やってみようじゃないか」っていう。中上さんは中上さんの申し分があるわけだし、考え方の根底もあります。それは小説作品をみれば、とてもよくわかるんで。
三上さんは三上さんで「おまえは造反者だったからあっさり簡単にそう言うけど」なんて、「まだ、ひとには言えないたくさんのことを引きずっているし、またそういうひとの批判も気にせんならん」とか、「いろんなことがあるんだ」っていうふうに思っておられるかも。「おまえみたいにあっさりしたことを言うな」って、「おれは言おうとしても言えねえから」、「言えないんだ」ってことがあるんだと思うんです。ぼくは、それもわかるような気がするんですね。それはちょっと、とことんまで、いつかまたあらためて…。ぼくも、中上さんと同じに、「やってみたい」というふうに、ぼくは思いますね。それをやっていくことで、ふだんならおなかの底までいかないんだけど、おなかの底から活力みたいなもんが出てきたら、ものすごくいいなあ、と、ぼくは思いますからね。だから、それは「やってみたい」っていうのが、ぼくなんかの考え方ですね。
(「まだ5分くらい…」の声と拍手)
吉本:
そういうことでだいたい…、えーと…すこし黙って、それじゃ、アレしますか…。いま、52分なわけですけども、だいたいそれを過ぎますと、24時間が過ぎてしまうわけです。なんていいますか、ぼく自身も「体力と知力の限界に挑まん」みたいな気持ちもないことはなくて、言うとみっともねえから言わないで。そういうこともありましたけれども、なんとなく、「やってどうなるかわかんない」と思ってやってみたら、なんだこりゃ、おれは「もつぞ」っていう…、なんとなく「もつな、こりゃ」っていう…自信というものを。知力のほうはあんまり自信が無かったんですけど、体力のほうはすくなくとも、「こりゃ、もつな」っていう、すこし自信をもちました。
それから、24時間つきあってくれるっていうひとは、たとえば、ぼくら三人の著書をキチガイみたいに読んでいるひとか、それじゃなければ逆に、キチガイみたいな好奇心をもっているひとか、どちらかにちがいないっていうふうに思っていたんですけど、それはちょっと違いましたね。やっぱりみなさんを見ていて、そうじゃないと。おれがひそかなイメージを描いていた、そういうひともいるな、入っているな、っていう…、「キチガイみたいなひと」もうれしいわけですけども。そうじゃないひともいるなって思いましたね。
これはぼくが考えていたより「やれるぞ」っていう、なんとなく「やれるな」っていう感じになりました。あんまり図にのると、「もう一回やろう」なんて…。それは、アレなひとがやることで。なんか、そういうんじゃなくて、なんにしても、またなにかやるとしたら、もっと奇想天外というか、「もうだいたいわかったぞ」っていうんで、もっと…。
そういうことで、いつか、時間と言いますか、年月を経たあとで「やってみてえな」みたいないことは、ないことはないですけれども。おんなじことをまた図に乗って繰り返すみたいなことは、まあ、まあ…(「そうでしょう」の声)。だから、こういうあれなときは、プライベートで呑んで、「とことんやろうじゃないか」ってかたちで。きょう未解決の問題とか、みなさんから提起された否定とかヤジとか、そういうのを全部含めまして、やっぱりそれは、ぼくらが身体に受けて、肥やしにしたいっていうふうに、ぼく自身はそう考えますね。
ほんとに、ありがとうございました、これはもう、何とも言えないですけども、べつに、そんなに悲壮じゃないから、涙を流すわけにはいかないですから…。そういうんじゃないですけどね、でも、ありがとうございます。
(拍手)
あとね、5分たらずあるんですよ。
最後にひとつだけ。臨時に、このために、事務局ができたんですよ。その方たちっていうのはもう、有能なひとたちなんだけど、ぼくらが素人なもんだからね、変なところで通路を変なふうにふさいじゃったりみたいなことをして、非常にやりにくかったと思うんです。それにかかわらず、大変、ぼくらの予想以上の、見事な運営のされかたをされたので…。
ちょっとみなさん、出て…、全部出てきていただければ、一番いいんですけれども…。できる限り出ていただきたいと思います。
(拍手)
三上:
今回の事務局っていうのを臨時で構成しまして、本来なら三人のなかでぼくが事務局の役割をはたさなきゃいけなかったんですけど、ぼくはどうもそのへんではダメみたいなんで…。ほとんど事実上、事務局長役をクロイさんにやっていただきました。
あと、クロイさんに…、事務局の副メンバーをご紹介してください。
(以下、クロイ氏によるメンバーの所属と名前の紹介。拍手が続く)
吉本:
プライベートにも、目に見えないところで、うんと協力していただいた方もあるんです。
それは、あまりうまく言うことができないんですけども、そういう方々にも感謝したいと思います。
三上:
こういうかたちの集会が、前から希望していて、現在、実現した。このことの中には、現在これがどういう意味を持っているかっていうことは、現在の時点では評価できないことがあるかもしれません。ぼくは心的にとても満足しています。だけど、このことの持っている問題を、また違った距離で、時間をおいたかたちで、このことの意味っていうのが、ひとつの事件として評価され、またぼくらに違ったふうに見えていくだろうと思います。このことを、自分の中では、この問題をしばらく考えたいと思います。
中上:
いや、ぼく、ちょっとかっこいいこと考えてたんですけどね、あと30秒ですよ。フジテレビだったら、蛍の光がこう…、ペンライトかなんかをこうやってね、しなくちゃいかんのですけど。ひとりのひとが、マルチプルにものを考えていくっていうのは、やっぱり、すごいことだと思うし、驚異だと思うのです。で、もちろん、最初にぼくが言ったように…。
…あ、ちょうど24時間たちました。ぼくら二人から、吉本さんに花束を。
(拍手)
おめでとうございます。
(拍手)
えー、24時間27秒ですから、これで、吉本さんに、最後の最後の、言葉をいただきます。
吉本:
どうもありがとうございました。
いや、感激したいとこなんだけど。なんか、なんとなく余力があまっているみたいな感じ…。あんまり、「疲労のはてに感激した」なんてことにならないもんですから、申し訳ないんですけど。
ほんとはでも、非常に感謝に耐えないっていうふうに、思っています。これで「やっぱり人生とか社会てのは、いいとこだな」なんて思っちゃうと、ぼくは転向したことになっちゃうと…、そうは思わないことにしますけれども。
いや、ほんとうにありがとうございました。
(大きな拍手)
テキスト化協力:小島恵さま