1 司会

「農村の終焉」ということで講演会、はじめさせていただきます。今回の催しのご案内、各方面の方にお上げいたしました。関東方面あるいは秋田県、富山県、ずいぶん遠方の方からも申し込みをいただきまして、主催者一同厚く御礼申し上げます。吉本さんからはすでに良寛のことで三回、当地にお出でをいただいてご講演を受け承っておりますが、このたび農業問題ということでご講演をいただく訳です。
 なぜ現在、農業問題で吉本さんからお話しをいただくのか、これにつきましては主催者の方から若干の注釈といいますか、契機が必要ではないかと思います。講演に入ります前に主催者の方から、今回の講演を企画するに至りました経過とその契機、報告をさせていただきたいと思います。はじめに雑誌修羅のオオタの方から、挨拶を兼ねまして、契機をお願いいたします。じゃあ、お願いいたします。どうもみなさん、よくお出でくださいました。ちょっと座らせていただきます。
 吉本さんの講演はこれで、この地では四回目でございます。今日のお集まりの方々、見知った方もお出でですし、今回はじめてという方もお出でだと思うのですが、今まで、一番最初は53年でございます。もう10年になりますが、最初に吉本先生から来ていただきまして良寛についてお話しいただきました。第一回目でございます。そしてそれから3年後、56年、それから59年と、3年おきみたいなんですが、良寛論についてお話ししていただきまして、この良寛論は棚の方にも本が出ていますが、大和書房の方からですね、完結して古典論の中にひとつということで、良寛ということでまとめさせていただいている訳でございますが、ここにおいて私たちは、吉本さんからこの地域の飛びぬけた詩人である良寛の全貌というものを明らかにしていただいた、という感じを持っている訳でございます。そういう面では良寛は、この地域の自慢の知識人、いわゆる飛びぬけたインテリであった訳ですが、私たちはその詩人の全貌を知ることの中から、言うならばこの地域全体を推し量ってみたいということで、我々は勉強を始めていった訳でございます。それが非常に形に表れまして、本当に良かったなっていうふうに我々はまあ50年間の長きにわたっての先生のご努力というものに感謝している訳でございます。
 さて翻りまして、その知識人論という形の良寛というものをひとつ教えていただいた訳ですが、同時に地方論というか、この地域の、私たちが生活している人間の良寛論の中にも出てきた訳でございますが、そこに生きている、すでに良寛が見ているところの田園であるとか、そこで働いている農民、百姓でありますが、その姿というものが、どういうふうに映っていたのであろうかということで、そこに私たちの生活の過程の中で、私たち自身もその中の一人である訳ですが、そこに関心が移っていったということで、是非とも知識人論の次にはですね、そういった地方論、あるいは大衆論としてのこの地域の問題を是非とも取り扱っていただきたいということをずっと考えていた訳でございます。そういうことで、今回、吉本さんにお願いしまして、当然この地域の問題でございますので、地方論、地域論ということになれば、当然、農業問題ではないか、農村問題ではないか、ということでお願いした訳でございます。そんな話がようやくまとまったのが今年の春の状況であった訳です。
 それと同時にですね、先月でございましょうか。吉本さんが東京で、吉本、「今、吉本隆明25時」っていうことで都市論を展開されて、これは25時間の番組というんでしょうか、壮大な角界の方々をお呼びになってですね、吉本さん自身も都市論の1、2ということで働いた訳ですが、当然、現在、吉本さんの力量、その力ということからすれば、都市と同時に農村をも負うところの考え方を持ってられるはずだ。都市論だけじゃ具合悪いんじゃないかと、当然、農村の問題も話していただきたいというのが、まあそういう付け目も実はあった訳です。
 さらにもっと翻ってみますと、現在のこの地域の一番の主要の問題はどんな問題かと言いますと、農業問題であるっていうことは、特に新潟県の問題では明らかにされている訳です。新潟県も、あとでお話ししますが、これはまったくの農業県でございます。今日、関東からお出でになった方々、トンネルを超えますとパッと開けている田園風景っていうのをご覧になったと思います。冬になりますとみんな辺り一面真っ白くなって、その下に何があるか分からん訳ですが、今の状態では、稲を刈ったあとの田園風景っていうのが、ずーっと見られる訳ですが、そういう面では新潟県の主要な問題、一番生きているところの重要な問題っていうのは農村の問題である。これに対して、今、非常に危機的な状況がある。そとからは、アメリカの方が食料品の自由化を迫っている。国内においては、食管制度、財政改革の延長の中で、食管制度の見直しっていうような話がある。私の話の後で、現場の、農業やっているところのスズキさんからまた話がございますが、そういう深刻な事態っていう中での発言も是非とも欲しい。こういったような3点の面から、吉本さんからこのたび発言をいただきたいっていうふうに思っています。
 私たち雑誌修羅というのは、最近発行できませんで、まあ私たち自身、今その社会の中の現場の仕事に忙殺されているというような中で、いつの日かまた書くことをはじめていきたいと思っている訳でございますが、まあ実践のところでやっている訳なんで、そういう中で吉本さんのお話しをいただいて、そしてまたその次に行きたいという考え方を持っています。また同時に、私たちは常に吉本さんのお話しっていうのを聞いてですね、それを実践していけば、もっとも切実な問題をお願いしたいというのが、前からの我々の原則なんですが、そういう面で今回、農業問題をお願いしたということでございます。
 そういうことで若干、その経過をお話ししたんですが、ちょっと作ったレジメを見ていただきたいと思います。これはこの文章でございます。これはまあ、皆さんもお感じのこと、お考えのことを簡単に要約した程度なもんなんですが、若干、前座っていうようなことでお話しさせていただきたいと思っている訳です。主催者の定義として、農業問題の現在ということで経過がずっと書いてあります。まず状況としましては、今ほど私が申しましたように、外圧として米の輸入、自由化問題、これはまあ貿易摩擦ということですでに色々新聞に書かれている問題でございます。それから、第一次産業の海外依存ということ、これは同じことですが、色々な方面から取り上げられている問題ですが、この問題は本当に「どうするんだ」。新潟県出身のサトウさんって方が、今度農林大臣になられた、竹下内閣でなられた訳ですが、私の感想では一番大変な時に一番、なんですかね、新潟県の人をそこにおいたみないな感じで、なんかもう一種の弾除けみたいな感じがして「サトウさんは気の毒だな」なんて感じがしている訳ですが、この問題は現に進行している訳でございます。
 それから、内圧っていうか内政の問題では、今ほど申しました食管法の再検討の問題、米価の上昇の中で毎年上げていくっていう形の中で●があって、それはもう自主流通に任せるべきではないか、食管法はこれは戦時中の法律なんだからもう合わないんではないか、この都市の住民においてはもっと安い米が必要なんだ、あるいはもう米なんか食べないんだっていうようなことで、その農民の米価の問題を我々負担するのは嫌だ、税金は公平に分配すべきではないかっていうような意見がすでに出ている訳ですが、その問題が、直接、農業県である新潟県に関わってくる問題である訳です。
 さらに農地の問題では、東京、特に都市近郊においては、非常にその地価の暴騰ということがありまして、非常にたいへんな状況にある訳ですが、そういう中で守られているのが農地である訳です。こういった農地の問題に関して、農業を保護する必要がないんじゃないかっていう声が騒然と起こってですね、それがこの地域の農民を非常に苦しめているっていうか、苦しんでる状況に陥っているっていうのが現状ではないかっていうことです。
 さらに技術問題では、非常に技術が進んで毎年豊作で米が余る、余ったら今度は減らそうじゃないか、減反政策である。あるいはさらに減反、もっと転作っていう形で米を作らないようにしよう、機械化は非常に進んでいる、肥料も進んでる、農薬の問題は一部色々あるけれども進んでいる。そういう面で、技術は相当進んできているんだっていう話も、すでにご承知のとおりである。そん中に、後半、吉本さんの方からもお話しあると思いますが、技術的にはバイオテクノロジーの問題が相当出来て、もう実践間際っていう、そういう状況があります。また反面、そういった農薬や肥料を使わない、化学的な肥料を使わないで有機農法が良いんだ。むかしのとおり、堆肥を作って、そしてうまい米づくりをしていくことがこれからの農業の生きる道なんだっていう、まあそういう考え方の人たちもいる訳です。
 また一方、経営問題に入りますと、今みたいに昭和30年代の農地改革によって、小規模の自作農が出てきた訳でございますが、それではなかなか今の現状では合わない。兼業農家だけを作っていっている状態では、コストを安くすることは出来ないんだっていうことで、そういった小さな農地をひとつに集めて、大規模農地を作っていくべきではないかっていうような議論も起こっている訳です。さらに米だけではなくて、特に山間の地域では、一村一品っていう、シイタケを作るとか、あるいはそういったその地元の特産品ですね、そういったものを、カボスを作るであるとか、あるいはエノキタケを作るとか、そういったものに商品作物を考えていくべきではないかっていう行為も、こういった諸々の農業問題の状況の中で、農業の専門家たちがどのような方向を切り拓いてくれているかっていうと、先ほども控室で吉本さんとちょっとお話ししたんですが、そういう専門家たちの発言が、なかなかないっていう現状であるようです。
 もう、あまりにもひどい現状の中で、理論家たちはしゃべると唇が寒くなるっていうことで、口をつぐんだままになっているって言うんです。その中でもかなり勇気ある発言をするような人が、そこに私が読んだ非常に狭い範囲なんですが、まあ出てきている理論家たちです。まあ、第一番目に書いた、これはベストセラーになっているんでご存知だと思いますが、大前研一さんです。まあこの人は新・国富論ということで講談社から出された本が、どのくらいなんでしょうか、ベストセラーになっている訳ですが、この方の考え方は非常にラディカルで、第三次農地改革会合であれという考え方で、もう水田なんかもう駄目なんだ、全部宅地化にせよというような考え方です。
 長岡の中でも宅地化はもっと古いんだと、全部水田をゴルフ場にせいというような意見を持っている人もいるんですが、そういう非常にラディカルな考え方を持っておられて、米はまったく自由化にしたらいいんじゃないかというような考え方を持っておられる、これは、このあとも出てくると思うんですが、一方の雄である。また一方の雄として、この出版社が非常に面白いんですが、家の光協会というところから出ています、ホンダさんという方です。この方は長岡技術院大学の教授をされてて、通産省に行かれてた方で、私らもちょっと交流があった方なんですが、この方は逆にですね、清廉じゃない、非常にその古代からの歴史を見ると効率的な農なんで、アメリカ式の大規模農業とか、あるいは肥料のたくさんいるそうした農業というのは地球を駄目にするんだ。今、色々問題出ていますが、農地が変化しているっていうような話がある訳ですね。
 そういうようなことから見ると、アメリカ式農業は駄目なんだ、今、地球上に何億という人が飢えている現状を救うには、逆にその水田を確保して、水田を世界中に作ることが、アフリカの難民を救うことになるんだ、水田は地球を救う、キャッチフレーズにも書いてありますが、そのタイトルで書かれている方もいる。その中間ぐらいがだいたい私たちが新聞や週刊誌で見聞きしている内容な訳でございますが、フジオカさんとかマスダさんが書かれている日本実業出版社、これは非常に昔から定評のある出版社ですが、そこに書かれている「米改革」っていうのがございますが、これは条件付きな可能性で経営を考えるんですね。
 ともかく、大規模農業、大規模機械化農業によって、機械のコストを下げて、一家に一台ずつトラクターとかコンバインってのは、これは不経済なんだから、もっと集めて、農地を集めて、農家のことを専門化させてですね、低コストによる国際競争に打ち勝つような、そういう米革命をやればいいんではないかっていうような、ちょうど大前さんとホンダさんの中間ぐらいの意見が出て、この辺が私たちの一番「あーそうかな」なんてな感じを受ける内容なんですが、しかし、こういったような理論家たちがおいでなんですが、はっきり言ってこの三人は、実はまったく農業問題に対しての素人である訳です。それは先ほども言いましたように、専門家らがほとんど口をつぐんでいるというような状況の中から、勇気ある方としてこういう発言があったと。でも私たちが考えているその農業問題と捉え方というのが、ちょうど吉本さんが都市論で提起されたように、ちょっと手直しをすればいいのか、ちょっと変えればいいっていうような問題ではないってのは、実に明らかである訳で、そういった場合、私たちは、もっと射程距離の広いところから農業問題を捉えてみる必要があるんじゃないかということが考えられる訳です。
 まあそんなことで、日本史の●に歴史の節目なんてことで、ざっと日本の農業の始まりを見てみますと、紀元前の300年くらいに、九州の西の方から水稲栽培が始まったと。我々のこの地域というのは一番、農業の問題でいうと一番遅れていたということになるんでしょうか。縄文時代のメッカみたいな地域ですので、私の町では●なんてのが出た非常に縄文中期の、非常にその発達した地域ですので、この地域なんてのは新しい技術や文化に対して、一番抵抗したであろうし、一番適用が遅かった地域だと思うんですが、そういう中から水稲栽培が始まりましてですね、やがて大宝律令によって、国家単位の農業経営っていうのが行われた訳でしょう。
 さらに中世に入ってくると、頼朝以降の鎌倉幕府の中で、御成敗式目なんてのが作られて、言うならば、農民の中の自律的な農民っていうか、律令制からはみ出した農民たちが、関東を中心に自律的な農業をやったっていうようなことがひとつ出てくる訳です。そういうことの中で、やがて律令体制が壊れ、近世の封建制を迎えて、太閤検地を経て、江戸時代のかなり整備された封建体制が作られていく。しかしやがて、外部からの新しい文化、勢力っていうのが入ってきて、やがて明治維新、地租改正が行われた。その中で農業が大きく変貌し、さらにそれが決定的でないという中で、日本の戦争があって、大きな農地改革が、マッカーサー、農地改革っていうような形の中で現在に至っているという。
 歴史を私たちが本当マクロ的な目で見ると、非常にスケールの大きな中での農業の問題っていうことをやはり考えていかなきゃならんということは、こういった図表だけでも見えてくる訳です。こういったところから、農業の問題はやはり是非、語っていただきたいっていうのが、私たちが農業の問題を考えるときの一番のこの考え方ではないかっていうふうに見えた訳です。そんな中で、後ろの2ページ目でございますが、骨格的に私たちの考えているようなことを十分に答えてくれているんではないかなっていう文章を1から4までを上げてみた訳です。ドキッとするような、言うならば、かなり射程距離の広い農業の問題の提言っていうふうに読んでいただければいいんじゃないかっていうことです。第一番目はこれは、マルクスの中の文章のひとつですが、非常に的確な言葉が、アジテーションが入っているのでそうだと思うんですが、出ている訳です。「ブルジョア階級は、農村を都市の支配に屈服させた」っていうような、非常にそのひと目で納得するような、すごいスケールの大きな言い方をする訳です。「ちょっと否定できないなあ」なんていう、それぐらい大きなスケールの大きさで言われる訳です。特に、2行目の「こうして人孔の著しい農村生活の門外から救い出したんだ」なんて言われると、よっぽど農村は門外なんだなって、ショックなんですが、スケールの大きな言い方をしている訳です。その次は、柳田國男の文章。これは吉本さんの引用された中から間引きした訳でなんですが、これは農村のその農業の零細化を救うためにですね、それぞれ寄り集まって組合を作っていこうではないかっていう、当時の明治の頃の新進気鋭の官僚が、最も新しい政論の思想や政治思想を咀嚼して提言していった見事な例だっていう感じがします。
 私自身、柳田國男の文章っていうのは、非常に民俗学であるとか、そういった日本の古代の問題であるとか、そういう問題でだけで柳田っていう人を見ていた訳ですが、この文章をなんか読んで、もう一面を発見したというか、なんかその、柳田國男が新進気鋭の官僚として農村問題にぶつかっていって、なんかそのあとに、次に民俗学に入っていったっていうのが、なんかこう分かるような、分かるなんて大それたあれですが、そんな●な感じをしております。それから三番目が国家の役割として農村人口ってことですが、1961年に作られた「農業基本法」です。この基本法の中だけでの農業も行われているんですが、これは私は非常に、サッと前に読んだことがあるんですが、今回改めて読んでみますと、非常にすごい言い方をしているんだなというか、改めて見た文章であるということです。例えば2行目からの後半ですが「農業の自然的・経済的・社会的制約による不利を補正し、他産業との生産性の格差が是正されるように、農業の生産性が向上することより農業従事者が所得を増大して他産業従事者と均衡する生活を営むことを期することが出来ることを目的とする」っていうことですね。
 っていうようなことを、そこだけ読んでもお分かりのように、既に農業はこの時点で他産業から非常にその劣っているんだ、生産性が、格差がついているんだ、その格差がついている農業をどうするんだっていう形で、基本法は書かれていたっていうことです。これは非常に、本日の問題をすでに読み取っていたひとつの、国家が作った法律ですが、そこを読みとしていた。これを書いた官僚の卓見って言うんでしょうか、すごいその、日本の農業官僚っていうのはただもんではないなっていう、そういう感じがするひとつの文章です。
 それから四番目が、これから吉本さんの講演をいただく訳ですが、これはすでに、今回は本人も出ていますが、共同幻想と●っていう文章の中で、出ている文章の一節ですが、もう農村っていうのはなくなるんだっていうのもあるし、そこはまだ、ちょっと今日のお話しを聞いてみないと、本当かななんて感じを持っている訳ですが、これはこれからのお話しで、我々は勉強していけばいいと思うんですが、そんなことで是非、今までの長い歴史的な過程を全部総ぐるみにして、いま農業の問題を考えようっていう、非常に原理原則に則って語れる方、これは言うならば、今、日本広しと言えども、吉本さん以外にはないと思って、我々は今日のこの日を迎えている訳でございますが、そういうことで、総ざらいを是非やっていただきたいというふうに考えて期待しているところでございます。そういうことで今回の催しを行うにあたって、はがきを作りまして皆さんがたの方にも、相当行ったかと思うんですが、岩手県の方から吉本隆明を読む会っていうことでイワイさんって方からお手紙をいただきまして、その文章の一節が五番目に書いてある内容なんですが、読んでみますと「●での講演は、農村の終焉、高度資本主義の課題と聞いていますが、かって柳田國男問題を講演いただいた私たちとしては、柳田の農村についての思想を含め、関心のあるところです。また日本の農村の未来についても関心の尽きないところです。新潟もそうでしょうが、岩手も農業県であり、現在、海外の農産物の輸入問題等の国際問題がありますが、吉本氏の世界視線っていう思想からいって、日本の農の問題はどうあるべきなのか、あるいはバイオテクノロジーの果たす役割も歓迎しているということかと考えます。私の感想としては、近未来の問題として、高度●は必ず農産物の生産から加工農産物の生産、そして販売という一貫した食品衛生・生産流通体制を確立するものと考えます。このとき、現在の農を基幹とする生活経済を行っている農家をより●どうなっていくのかっていうことは問題となると考えます」。まあイワイさん、非常に私たちよりも素晴らしい目を持ってられて、非常にこうキチンと要約されているんで、私はちゃっかりいただいたんですが、このようにスパッとこう言えれば、長い話をしなくてもいい訳ですが、こういったような形でイワイさんも関心を持っているところであるっていうことであります。
 そういうことで、今日、吉本さんから長時間にわたってお話しいただきまして、そして私たちがこう抱えている問題の一端というものを明らかにさせてもらえれば、素晴らしいことではないかというふうに考えている訳です。私たちは良寛のときもそうなんですが、自分の地域、あるいは自分にとって一番切実な課題というものを語っていただくっていうことは、私たちの、主催者側にとっての一番の大事なことではないかというふうに考えている訳なんで、今日は是非最後まで、皆様方お聞きいただいて、そしてまた、質疑の時間がございましたら、そこでまた自分の疑問を出していただけたらと思います。そして次のところにまた行けばいいっていうふうに考えます。一応、私の問題提起はこれで終わらせていただきますが、次に本当に農業の現場で、それこそ活躍されているスズキキンジさんからお話しいただいて、そしてそのあとに吉本さんのお話しをいただきたいと思います。どうもありがとうございました。

2 農村問題の歴史的経緯

 吉本です。ここへ来るのは本当に四回目なんですけれども、前三回ですが良寛の話をしにやってきた訳です。農業問題っていうことはもちろん、わたくしは農業経済の専門家でもなんでもないんで、言わば素人なんですけれども、修羅の同人の方ってのは、勉強家の方たちの集まりだから、前もやっぱり「俺たちも勉強したんだからしろ」っていうことだろうと僕らも考えまして、僕らなりに色々本を漁ったり、様々な人たちの論議を読んだりというふうに、自分なりにいくらかはしてきた訳なんですけれども、まず本屋さんに行ってみますと、農業経済って言うようなもの、つまり農業問題の専門書っていうのは甚だ少ないっていうことが分かります。ほとんどコーナーすら無いっていうようにして、つまり、ちょうどお医者さんで言えば、結核専門医になる人もいなくなっちゃったっていうことと同じように、農業経済専門のっていうような形態学の領域では、たぶんもう一種廃れた領域だっていうことになっているんだろうと思います。そして本来ならば、農業経済問題の専門家っていうのが、現代みたいになぜか農業問題が素人の間で盛んに口角泡を飛ばしたり、あるいは殺しかねない勢いで論議されているっていうときに、専門の方がまず専門的な基礎から「農業問題ってのはこうなってんだ」っていうことをはっきりと発言され、また、そういうことをちゃんと、そういうことについての意見を述べられているっていう、そういう専門家の論議の上で、専門家の論議の、なんて言いますか、実証と、その上で、現在の素人論議って言いましょうか、私も今日やるんですけれども、素人論議ってのがなされると良いと思うんですけれども、専門家の方々で、現在、かまびすしくって言いましょうか、やかましく論議されている農業問題とか、農業問題に円高ってのがどういう影響を与えるかとか、米の自由化の問題とかについて、専門家の方で発言されているってのは、ほとんど皆無だと思います。みんな専門家でないと思います。専門家でない人の特徴っていうのは何かって言いますと、客観的な、つまりなんて言いますか、日本は現在、高度消費社会なんですけれども、そういう中で農業、あるいは農村っていうようなものは、どういうふうになっていくのかっていう、一種の、そういうなんて言いますか、歴史的なって言いましょうかね、歴史的な推移の問題ってのがひとつあります。それからもう一つ、農業問題っていうのは、なんて言いますか、都市問題っていうのと絡まっている訳です。つまり、農業の問題っていうのは、農業に問題が生じたんじゃない。なぜかって言いますと、農業、つまり、一般に農家っていうものが、なんて言いますか、農業耕作と兼業で、まあなんて言いますか、織物を織って、織るとか、養蚕をするとか、織物を織るとか、あるいは嗜好用的に何か細工を作るとかっていうことをですね。そういう、農家がいわば兼業でやっていたそういうものがですね、規模と需要がだんだん多くなってきて、そこで分業が起こって、農業専門にやる人と、やることと、それから織物とかを専門に、紡績専門にひとつやるものとは、一家であれ農村だけでは賄え切れなくなって、要するに、そういう紡績をやるとか嗜好業をやるとかっていう、そういうふうに分化した、そういう人たちが、いわば別のところに、やるのに便利な立地条件のところに、ひと塊で、なんて言いますか、移りまして、そしてそれが、嗜好業からだんだん機械工業へと発達していって、それが都市になった訳で、つまり元々が、要するに都市問題、つまり嗜好業と農業とか、同一の人が同一の場面でやれた時には、農業問題ってのはなかった訳なんで、問題が起きたのは何だかって言いますと、要するに分業が起きて、農村と都市とがもう、いわば利害ある場合と利害相反するっていうのがあるし、もちろん、全然専門が分担されてしまって、農業やる人が機械工業に従事することは出来ないし、機械工業に従事している人は農業に今更従事することは出来ないくらい、専門が分化してしまったっていうこと。そのことは、やっぱり農村問題っていうのを歴史的に言いまして、発生させた元である訳です。つまり、農村と都市との対立、それから工業と農業との対立っていうようなものが、農業問題ってのが発生せしめたものですから、だいたいその農業問題は都市問題と切り離すことが出来ないってことがあります。だから、農業問題の論議には都市問題を切り離すってことが出来ないっていうことがあります。また、逆に言いますと、都市問題の論議をやるならば農業問題を切り離すことが出来ないっていうような歴史的な関係にあります。これも、いわばそういう専門家がよく、要するに専門上のあれをはっきりさせておいて、そして、現在の段階がどういうところにあるかっていうことを、全体の歴史的な段階がどういうところにあるかっていうことがちゃんとキチンと得られた上で論議がされると、つまり、切実な現場の問題とか、それからそれ時どきの、つまり、円高ドル安みたいなことが起こったから急にクローズアップされてきた問題とか、つまりその時どきの時に起こる問題。それから、具体的に現場で起こる問題っていうようなもの。そういうような問題っていうことが、そういう全体の歴史的な推移とか、文明の推移とか、そういう、あるいは人間の人類の歴史の推移とか、そういうものの大きな流れの中で、その現場に起こる切実な問題を論議され、解かれていって、そしてまた対立が起こるんなら起こるっていうような、こういうあり方があるととても論議がしやすいし、論議が通じやすいっていうことがある訳ですけれども、ただいま現在、日本でなされている論議っていうのは、僕が見て読んだ限りでは、専門家の発言ってのはほとんどゼロだと思います。特に専門の研究者の発言ってのはほとんどゼロに近いと思います。たいてい素人ですよ。素人ですと素人の人のってのはどういうことになるかっていうと、つまり、宙に浮いた論議になるか、そうでなければ、つまり専門的な基礎がないところでの論議になるか、そうじゃなければ,あまりに切実っていう問題を全体の問題に全部広げてしまって、しまう論議、そして両方がそういう論議をもって対立するっていう。そして対立の中にはいわば、冷静に文明の推移の問題だっていう問題も、それから学問的、歴史的推移の問題だって、歴史的に都市との対立の問題だっていうような、そういう問題もあるし、もう一個切実に、利害の問題だとか、つぶれるかつぶれないかの問題だとかっていう、切実な問題とか、全部一緒くたに論議されるのが素人の人の、僕もそうですけれども、素人の論議の特徴ですから、やってることがもう、なんて言いますか、ある面でも殺しかねないくらい、きわどい言葉で論議が飛び交わされんですけれども、本当は少しも両方ともなんかは全体のことは見ていないとか、具体的な現実のことは見ていないっていうようなことが、現状だというふうに僕は考えます。そこで、僕も素人ですけれども、いささか素人としてその反省があるもんですから、本当ならば専門家が論議しないことを素人が口を出すってのは良くないことなんで、本当ならしない方が良いんですけれども、ただ、要するに、素人であるにも関わらず、割りに切実であるもんですから、修羅の要人の方、非常に切実なそういうことに関心をもって、自分たちで勉強しておられる。まずはやれやれって、お前だって都市論みたいなことをやってんだから、まんざらその農村の問題、つまり、一緒に、本来ならば一緒に論ぜられるべき農村の問題についても「勉強不足で話にならないから、だからお前も勉強しろ」って。勉強したことは、少し勉強した成果ってのは「しゃべる」っていうことで、素人だけどしゃべることになった訳です。ただ、僕も素人ですけれども、つまり、僕はわりに、なんて言いますか、内省する素人ですから、そんなに、つまり多少内省的なところがあるところが、たぶんほかの素人の方の論議と違うだろうというふうに、僕自身は考えています。それ以上のことは、僕は専門化に及ぶはずがないんで、またそれから、個々の切実な、現場におられる方にもちろんこちらが学ばなければならないような素人ですから、切実さがそこに触れるっていうことは、あまり出来かねるかも知れないんですけれども、唯一の取柄は、割り合い、なんて言いますか、割り合いに広い視野っていうのは割り合いに持っているっていうようなことがあります。それからもう一つは、要するに反省的だっていいましょうか、そういうこともあるから、そこは取柄だから、もしかすると皆さんが如何に切実であり如何に現場におられようと、おられる方で●されようと、もしかすると専門家の方がおられるかも知れないんですけれども、何か少しぐらいは得るところがあるってなことが、もしかするとお話しできるかも知れないっていうふうに考えてやっていきましょう。もしかすると、出来ないかも知れませんけれども、それはまあご寛容願うっていうようなことをあらかじめお断りしておきます。それで、まず僕なりに、なんて言いますか、出来るだけ冷静に、なんて言いますか、現在なぜか起こっている農業問題っていうような、口角泡を飛ばしてでも論議がされ対立されているっていうような、そこにそのあらゆる、なんて言いますか、進歩的勢力が入るかと思うと、保守的な勢力がそこに流れ込み、それから雪崩れ込み、それからまたそうかと思うと、エコロジストみたいなのが雪崩れ込んで、そういうのがまた余計なことを言うもんですから、なんだか無茶苦茶、てんやわんやになって無茶苦茶になって「あん畜生、殺しちゃえ」っていようなくらいの論議になっているところもある訳です。それから先ほど僕の前にされた方のように、非常に現場におられて切実なところでやっておられても、極めて冷静に、なんて言いますか、非常に抑制的に演説してお話しされる方もおられる訳です。一方では、ここ読んでみてびっくりしたんですけれども、すげー、すげーもう殺しかねない発言をするっていような、そういうあれもあります。それで、それがみんな素人だとか、変な他から雪崩れ込んだ、つまり政治運動者くずれとか、市民運動くずれとか、みんなそういう全部が、エコロジストくずれだとか全部そこに入ってきて、本当の農家の人ってのはどこにいるんだ、本当の都市、サラリーマンってのはどこにいるんだっていうふうに、どちらとも、なんて言いますか、どうしようもないってな感じで、しかし、対立だけは鮮やかに浮かび上がってきて、その論議たるや、ちょっとアホじゃないかっていう論議しかないっていような、そういう現場に、現状になっていると思います。そこで僕なりに、現在、農村、あるいは農業の問題ってのはどうなっているのかっていうので、僕が勉強しました範囲で、ちょっとそういうところから入っていきたいっていうふうに、僕は思います。それで、本当は都市論から入っていってもいいんですけれども、それは遠回りになりますから、農業の問題の具体的な問題を出来るだけ冷静な基礎でっていうふうに、そこから入っていって、だんだん、なんて言いますか、もし時間が許すならば、最後にその現代、口角泡を飛ばしてやられている、おおざっぱに分けますと、二つの農村対都市、あるいは農村チャンピオン対都市チャンピオンっていうのの対立の仕方みたいなものに触れまして、それでその問題っていうのを僕なりの観点から批判してご覧にいれようというふうに思っています。

3 農家の経済

 まず、僕はよりましたデータがここに色々あるんですけれども、よりましたデータっていうのは、これはいわゆる農業白書の61年度版ってのがございますけれども、それから僕は適当にって言いましょうか、僕がこれは重要だと思うところだけ、僕なりにピックアップしまして、それでアレンジして、それで持ってきました。だから、こんなところ手品でもなんでもありませんし、僕は一生懸命現場をあたって調査をして出たデータでもなんでもありません。これは農業白書の中から僕がピックアップしたあれで、皆さんが書店に行かれれば農業白書なんてのはどこでも売ってますから、それをご覧になれば割り合いに冷静なデータってのが出ておりますから、その中でご自分の切実だと思うデータをよくよくご覧になって、睨んでご覧になれば、そうすれば割り合いによく問題の所在ってのが分かってしまうんじゃないかってのが僕のあれです。僕は専門家でないし、また別にそういうことを隠す必要、立場におらないので、何によったかってのは、はっきり申しますけれど、色んなものによりましたけれども、結局、農業白書のデータっていうのが、割り合いに高度であって、割り合いに妥当性があるっていうふうに僕には思われましたんで、そこから僕は適当にピックアップしてやってまいりました。そこから入っていこうと思います。でこれはもしかすると、そんなことは「オメー、オメーが言うまでもなく、全部、つまり農業問題、切実な問題なんかみんな知っているんだ」って言われるかも知れないので、それはもうそういう場合には、ちょっとここでもう一回復習してみてんだってな、そうじゃなければ「あいつは間違ったことを言っている」とか、そういう感じで聞いてくださればよろしいと思います。(これは移動できますか) それで現在の、まず入りに、どっから入ってもよろしいんですけれども、現在の農業の興業と農家の経済ってのはどういうことになってるかっていう問題からデータを申し上げてみましょう。これは、白書のデータはどういうふうに取ってあるかっていいますと、前の年の同期に比べて増大しているか減ってるかっていう率を、昭和58年度から昭和61年度までピックアップしてあるんですね。どういうことかって、どういうことをあたっているかって言いますと、まず「1」っていうのが「農業就業人口」です、人口です。人口とすると例えば、ここでマイナス4%です、58年の農業就業人口ってのは●までですからマイナス4%ぐらい。これは要するに、57年度に比べて就業人口は4%減ったよっていうことになります。それから、この次は「農家の戸数」です。農家の戸数はだいたい1%前の年よりは減ったよ、58年ですよ。それから「農地面積」はですね、ちょっとです、ちょっとまあ0.何%か前の年より減ったよっていうふうに言ってあります。それから「農業所得」ですね。これは総所得だと思います。総所得はだいたい前の年に比べて4%増えたよって言ってます、58年度。それから農家の人の、これは農業所得、それから農家の、これは農家の一戸当たりの、「農家一戸あたりの農業所得」は前の年より4%増えたよって言っています。それから「農家で農業以外のことで得られた収入」です。それは前の年に比べて3%ぐらい増えたよって言ってます。それから、一番増えたよって言っているのは、出稼ぎとか年金とか、年金扶助とかその他の雑収入と言いましょうか、そういうのは一戸当たり、前の年に比べて8%ぐらい増えてるよって言っています。それで「農家の総所得」ですね。これ全部ひっくるめた総所得ってのは、一戸当たりの総所得、これは要するにだいたい4%ちょっと増えて、前の年より増えていますよっていうふうに言っております。それでだいたい、昭和59年度っていうのは、例えば今の1が就業人口ですけど、就業人口は前の年、つまり58年度から2%減っているよって言っております。だから、合わせていくとドンドンドンドン減っているよって意味になります。これみんなマイナス点になってますから、ドンドン減ってますよって、年が現在に近づくほど減ってますよって言っています。それから、農家の総所得っていうのが7でしょ。7ってのはちょっと分かんないんで積んでみましたけれども、これは総所得もだんだん減りつつありますよ、増えているんですけれども、前の年に比べて増えているんですけれども、しかし、率としては減りつつありますよっていうのが、このグラフから分かることだと思います。つまり、農家の所得っていうのは、概して前の年に比べて年々増えていっています。しかし、よくよく考えてみると、現在に近づくほど、だからもっとこれをそのまま延長すれば、来年はもっと減るかも知れませんよ、再来年はもっと減るかも知れませんよっていうことを意味しているかも知れません。何か特別な事件が起これば別ですけれども、だから、それでもいわゆる、前の年に比べてマイナスではなっていない、なっていないと、増えていることは確実に出来る、ここはこういうふうに増えている、これだけ減ってる、ここはここよりもこれだけ増えてるってことですから、増え率は減っている、増え率は減りつつありますけれども、現在、依然として農家の収入は、総所得ってのは、増えつつあります。しかし、年々、つまり現在に近づくほど、つまり未来に近づくことかも知れませんけれども、それは減りつつあるんだ、なりますよっていう、こういうデータなんだってなってます。これは、とても、なんて言いますか、切実なんじゃないかなっていう気がします。つまり、一面では農家の所得は「増えてる増えてる」って人から言われて、つまり、今度は対立する都市のサラリーマンからは「農家の所得は増えてるじゃないか」ってこう言われている理由だと思うけれども、農家の人から見れば「増えてる増えてるって言うけれども、だんだん心細くなってんだぞ」って「見え方が少なくなってんだぞ」っていう問題だと思います。つまり、このことは相当、現代の論議、様々な論議の中で感情論を抜きにしてみれば、相当切実な問題なんじゃないかって思います。これは白書からこっちが勝手にやってる訳ですから、これは白書の中に書いてあることで、決して目新しいことではないんですけれども、ないことなんですけれども、よくよくグラフを読んでもらうと、相当切実なことが色々分かると思います。それで、感情論ではごちゃまぜにしていることが本当は分けて考えなきゃいけない、つまり農家っていうのは農業ってのは、人口も減りつつありますし、農業就労人口も減りつつありますし、それから、なんて言いますか、農家の戸数も減りつつあります。それでもこれは年々増えたって証拠はないもんですから、だからこれはもう、なんて言いますか、とても重要なんじゃないか、重要なことは暗示してて農家の戸数ってのは年々減るんじゃないかっていう、減っていくんじゃないかっていう寸法がありますから、これからもっと未来になったら、なおさら減っていくんじゃないかっていうことが、いわばこのグラフの、なんて言いますか、自然の推移から推察すれば、そういうことが言える訳です。これは感情論とか、こうしなければならないっていう論議から、農家の人口は増やさなければならないっていう論議もありましょうし、もっと減らさなきゃっならないっていう論議もありましょうけれども、しかし、そういう論議を離れて具体的なデータが暗示しているところで言えば、年々減りつつありますよって言って、減り率はそれぞれですけど、減りつつありますよっていうことがひとりでに言えることで、これは、論議での問題でもなしに、こうなるのが理想だっていう問題でもなくて、現状および、過去と現状と、それとこれからの問題にして、だいたい自然のグラフの推移をとれば、だいたい農家の戸数がだんだん減っていくだろうっていうこと、それから人口が減っていくだろうっていうこととが言えます。それから、収入は依然として増えつつありますけれども、その収入の増え率はどうも、どうも減りつつあるっていうようなのが、ことがあります。これは、なんて言いますか、具体的な推移の事実の問題ですから、ここには色々な感情論が入る余地は僕はないっていうふうに思います。このデータが正確である限り、感情論は入る余地がなく、そういう趨勢ってのは皆さんがちゃんと頭に入れておかないといけないんで、その趨勢を頭に入れておかれた上で、所得をもっと増やさなければいけないとか、あるいは農家の人口を増やさなければいけないとかっていう論議だとか、農家の所得ってのは多すぎるから減らせっていう論議とか、まあ、竹村さんなんかの論議には、そういう論議がありましたが、竹村健一さんの論議には、そういうところがありますけれども、そういう論議とか、様々な論議とか、あったらいいっていう、なんか、要するに、なんて言いますか、目標とか見解とかいうのが起こる訳で、そういうその起こり方は様々であっていいけれども、まずそういう一般的な推移の問題っていうのから、推察出来ることははっきりさせておいた方が良いんで、その上で論議がなされるといいと思います。その意味では、これは割りに重要なものだっていうふうに考えます。それから、その次に申し上げることは、取り上げたのは、労働、つまり労働者で比較したときの農家の家計費っていうのはどうなってんのかっていうことになります。これは、これは労働者、労働者つまり一般の農業以外の労働者ですね、工業の労働者とか、製造業の労働者とか、それらの家計費を100としますと、100として農家の家計費っていうのをこれに54年度から60年度まで書かれてあります。そうするとだいたい農家の家計費の方が45年度を除きまして、労働者、都市労働者の家計費より多いっていうことがここで分かります。それで、これもまた、なんて言いますか、自然なデータですからどうしようもないのであって、これは「俺欲しくない」って、個々の方々はそう言われる方もおるんでしょうし、「俺ってばもっと多い」っていう人もおられるでしょうけれども、しかしこれは総所得の平均ですから、平均では農家の総所得の、総家計費の方が多くなっているっていうことは現象です。それで、それでだけど今度はよくよくあれしてますけど、内訳を言ってみますと、専業農家の方の家計費っていうのは、本当は工業者とか製造業者の労働者よりは少ないんです。100とするとそれより少ないんです。90ぐらいです。それから、第一種兼業農家ってのがあって、第一種兼業農家ってのは皆さんの方が良く知っておられて、なんか言うのも恥ずかしいんですけれども、要するに、時々内職にどこか働きに行くとか、近所の工場に働きに行くとか、事務所に働きに行くとか、そういうやってるのが第一種っていうふうに言われています。第一種兼業農家の家計費ってのも工業者の家計費の平均よりも少なくなっているんだ。ところで、第一種兼業農家っていうのは、これは●だけでなく農家もやるんだけれども、どっかへ定期的に、定期的にって言いますか、ちゃんとした勤めで、全日制の●勤めにいっている、言ってみれば早わかりで言えばそういう農家です。兼業農家のうち、そういう農家の人の家計費っていうのが、労働者の都市労働者の家計費より多くなってます。これはやっぱり、ここは、ここのところは竹村さん、竹村健一さんの論議によると、ここのところは非常に癇に障っているところ、感情論になっているところだっていうような気がします。しかし、よくよく内訳を見てみれば、一般に本当に専業農家をやっている人は少ないんです、家計費、少なくなっているっていうのはデータとして出てきます。これも一応、論理っていうものの、なんて言いますか、技術的な基礎っていうのをはっきりさせる場合に非常に鮮やかなイメージを与えるもんだっていうふうに、僕にはそうに思われます。で、これ、面白いんですけれどもね、家計費が多いっていうことと別に、●生活が豊かだっていうことは別じゃないかっていう、今度は反竹村健一とか、反大前研一とか言ってる人たちは、の中で、そういう論議をするのもあります。しかし、そういう論議をするのもあったり、色々ですけれども、実はこうなっていますよって言えることを、が、非常に現代みたいな素人論議と感情論とそれから変な政治運動家くずれみたいなのが入ってきて、それで、なんかそのやたらに都市との対立を煽っているってのがありますけれども、そういうとてつもないやつの論議とか、そういうのはまず聞く前にですね、ちゃんと事実としてこういうことが言えますみたいなことはね、そういうことは、はっきり押さえた上で論議された方がよろしいんじゃないでしょうか。

4 食生活の変化

それから、そういう問題と付随している訳ですけれども、付随していく訳ですけれども、要するに、現在において食生活ってのはどういうふうに変わりつつあるかっていうことをちょっとここで申し上げてみたいと思います。申し上げてみたいって、これを僕が言わなくても、皆さんの実感でお分かりでありますし、白書にとても良く書いてあります。それで、まずあれで言いますと、現代の食生活ってのはどうなっているかっていうのを上げてみますと、まず要するに年齢によって大変食生活ってのは多様化しているっていうようなことが言えるっていうことなんです。だからもし、食生活の消費に対応するように農業ってのは成された方が経済的に有利だっていうふうに、もし、ことが言えるんだとしたならば、だいたい言えることは、だいたい年齢層によって、特に都市なんかはそうですけれども、年齢層によって、ずいぶん、なんて言いますか、食生活、つまりこれは主食とそれから、なんて言いますか、おかずですけれどもね、副食ですけれども、それは多様化している、年齢に多様化しているっていうことが言えます。ここらへんのところは、例えば僕、これ実感でとてもよくわかんだけども、自分ちでも僕やうちの奴とかってのと子供とは、だいたい、子供っていうのはどうも一食ぐらいはどうしてもパンじゃないと、なんかこう、駄目だみたいなふうな、パン、あるいは洋風の、なんて言いますか、洋風の主食って言うんでしょうかね。駄目だみたいなことになっているように思われます。これは、例えばぼくらはそうでもないんですけれども、その手の、例えば僕のうちだったら、自分のうちのことを例にしますと、実感ですから例にしますと、そこらへんは妥協出来る訳です。それからまた、子供の方も妥協して、こちらの年代用の、そのなんて言いますか、年齢用の主食とおかずっていうふうに、こうなんて言いますか、合わせるってことも出来るから、そこいらへんのところでは、まず争いってのは起こらないんですけれども、しかし、別々にするっていうことは、つまり、時間も別だけれども、食べるのも一食くらいは別だみたいな、そういうことって起こっています。現に起こっています。それから、それでもっと僕のところでも、そういうことは切実だよなって思うのは、例えば何が違うかって、そのね、何の好みが違うかっていうとね、要するに、ソースっていうんでしょうかね。ソースっていうのが好みがまるで違うんですけれども、僕らがソースっていうと、なんか黒い色して、ダボダボってお醤油みたいにして、あれしか思い浮かばないんだけれども、子供たちは作ったりあれしたり、売ったりしているソースってのは、非常に多様性で、多様であって、つまりなんて言いますか、あれは洋食から来るソースだと思うんですけれども、実に多様なソースを作るなら作ってやりますね。そうすると、僕らはなんかちょっと嫌だなっていうか、つまり「こいつはどうも口に合わんな」って、何となく「全部お酢が入ってるんだ、叶わないや」、そういうことと、何か「外観が気持ち悪くてしゃあないなあ」っていう、そういうあれ、どうも妥協出来ないっていう、って言えるところがあって、その時は違うのを掛けて食べたりします。年齢●によって食品の多様性と格差が違っているってなことが現在起こりつつあると思います。それから、それともみんな関連してくる訳ですけれども、ちょっとしか消費しないんだけれども、しないんですけれども、消費は少ないんですけれども、様々な食糧、加工品が出回っているっていう、そういうことが言えます。だからこれは農業の問題で言えば、農産物加工の問題だと思いますけれども、農産物加工の問題になってくるような気が、に対応するような気がします。それから、それとまた同じことなんですけれども、家計の中で加工食品を買っちゃって、それをおかずにしちゃうっていうような、あるいは、ちょっと●しちゃって、元から作ることは、なんか手間抜いちゃっているっていうのは、そういうことが少なくとも都市では多くなって、なりつつあります。このことを、これらの変化ってのは、たぶん、農業構造の、もしこの変化に対応、消費まですっかり対応させて、農業の構造ってのを考えていこう、って考えられるならば、こういう点が農業構造を変えていったら対応がつく、都市、サラリーマンって言いますか、あの都市の一般大衆の消費の形と対応が付くってなことが言えそうな気が致します。そんなことは言うまでもなくも、皆さんって言いますか、日本の農業がやりつつあることには違いないことなんですけども、こういうふうまで言われてしまえば非常に明瞭に、その農業のやり方とか構造とかってのがどういうふうに変わったら対応出来るかみたいなことの問題は出てきそうなような気がします。それから、消費者の要求の変化ってのは今のことと同じなんですけれども、これはやっぱり消費の仕方が多様化している。つまり、食べ方が色々になっているし、加工の仕方、あるいは加工製品の要求の仕方が色々になっているということ。それからもう一つは、なんて言いますか、これは先ほどしゃべった有機農法の件と関連するでしょうけれども、食品による健康保険に注意するようになってっていうこと。これは、都市の生活者でも言えると思います。これは、栄養のバランスみたいな面からもそうでしょうし、なんて言いますか、添加薬品みたいなものの問題についてもそうなんでしょうけれども、そういうものに注意するようになったっていうことがあります。それでこれは、これもまた、要するに、農業の問題と関連する訳で、つまり、要するに、なんて言いますか、そういう健康保険に気を付けた農産物、あるいは農産物加工品っていうのの製造っていうのは、一種の、なんて言いますか、モダンな問題だっていうこととして、つまり、これは古い、なんて言いますか、要するに、昔は、昔の農業ってのは良かったんだっていう観点からじゃなくてね、エコロジカルの観点からじゃなくて、非常にモダンな、あるいは現代的な要求として、健康保険に注意するっていうようになったっていうことに対応する、いわば、健康食品って言いましょうか、それは、いわば、一種のなんて言いますかね、現代的な問題でしてね。原始的な問題、原始農業の問題になって、現代的な問題としてそれはあるように思います。だから、一種の食品加工業と同じで健康食品あるいは健康農産物の生産とか製造とかっていうのは問題になると思います。これはだから、これの意味づけっていうのも、必ずしもエコロジストの言うように、なんて言いますか、エコロジストが言うのだけじゃなくて、要するに、非常にモダンな問題としてある、モダンな農業問題としてあるっていうことが言えるような気が致します。それからもうひとつあります。それはいわば、ふるさと精神とか、世界中に言えば、世界中のグルメ食品とか、そういうものに対する要求とか嗜好ってなのも増加しつつあるっていう。そうするとこれは、これも感情論で言うと、ふるさと食品っていうのは、つまりなんて言いますか、京都の産物であり、また京都のお米から何からすべて京都であれ、その昔ながらの産物だって、食品だとか、昔ながらの農産物だっていうことで、それは、それもまたエコロジストが強調するように、昔ながらってことに●とか重点があるだけじゃなくて、要するに非常に現代的な、モダンな問題として、ふるさと商品、食品とか、ふるさと農産物とかっていう問題が、消費の中で、都市の、一般大衆の消費の中で、それは要求が出来つつ、出来つつあるっていう問題があります。これも、やはり両面から考えることが必要だと思います。それから、世界●食品みたいなものを好んで輸入して食べるっていうようなこと、そして食品輸入っていうような、なんて言いますか、農業経済を、国内の農業経済を攪乱するっていうばかりなことじゃなくてね、なくて、要するに、世界のグルメ食品っていうものに対する、その嗜好が、都市の一般大衆の消費の中で起こりつつあるっていうことは、やっぱりひとつモダンな問題として、モダンなかつ、ある意味で切実な、ある意味で余裕でしょうけれども、ある意味では切実な問題として起こるつつあるってなことが言えると思います。これもあのそういう両方の基礎から考えられる余地があるというふうに思います。これらの、なんて言いますか、食生活の言動ってのは、都市におけるほど著しいでしょうし、都市としても大都市におけるほど、一部の一般大衆の場合において、最も著しいでしょうけれども、もしこれらの消費の●、もし農業行動を変えていくってなことが、もし農業の問題としてもし切実であるとするならば、こういう問題に対して、非常に十全に対応していくってなことの方向ってのは、やっぱりひとつ探る余地がありえるんじゃないかっていうふうに思われます。その場合に、ふるさと食品が対立の一方の、に属し、それから世界的食品は多様な日本の●ってのは、そういう対立の仕方ってのは、阿呆の対立の仕方だっていうふうに僕は思います。そうじゃないです。これは、これは両義性なんです、両義性があるんで、非常にモダンな問題であると同時に、非常に昔からある問題だって、あるいは非常に、食品輸入っていうことが、もちろん国内の経済に影響を与えているし、与えつつあるでしょうけれども、その問題は例えば、その食品は日本の国内の、また国内の農業が、農業および付随産業がそれを作れるようになったらば、同じようなもの、ないしはそれより良いものを作れるようになったらいいのであって、そういう意味合いで言ったらば、これはやっぱり切実な問題として、やっぱり考えられる余地は僕はあるというふうに理解致します。そういう意味で、僕が言う、僕が要するに、水を掛けるようなことばっかり言うことになりますけれど、だいたいそういうのを持ってきましたから、そういうふうになっていきます。

5 農業の生産構造の変化

 農業の生産構造の変化ってのは、どういうふうになっているかっていう問題は、今までにもこう変化するのが当然だろう、部分的に変化していくであろうということはお話ししてきた訳ですけれども、それを申し上げてみます。要するに、これは白書が指摘するところがそのままなんで、これはたぶん皆さんの実感にもあるんじゃないかっていうふうに思いますし、僕らもなんて言いますか、理論的な推定っていうのからよりも合うような気がするんですけれども、ひとつは、農業生産っていうのが、要するに、家畜みたいな、家畜飼育みたいな、いわゆる施設型のものですね。それから、稲作みたいな土地利用部門という、土地利用部門の農業と、そのふたつに対するふたつの分化って言いますか、言ってみれば分業なんですけれども、分化ってのが非常に著しくなったっていうことが、非常に大きな現在の趨向だっていうことが言えるようにも思います。そして、これは特にその日本が、なんて言いますか、西欧化による高度成長と西欧なりの社会に突入していったんだっていうふうに言われかけた頃から、要するに非常に切実に、なんて言いますか、施設型の農業っていうのと、それから稲作みたいな、土地利用しなければならないみたいな、そういう農業っていうのとの分化分業って言いましょうか、そういうのが著しくなったっていうことが、ひとつ言えるということ。これらもよくよく考えれば、別段誰が言おうとそうなるなっていう常識的なことで、ちっとも目新しい問題じゃないっていうことが言えそうに思います。それからもうひとつは、土地利用型、稲作みたいな土地利用型の中でも、●の中で大多数の、なんて言いますか、零細兼業農家とそれから、要するに、大規模農家との分化が非常に進んできたっていうことは、これは白書が指摘しています。それから、僕らの中で常識的に考える訳で、この問題は非常に切実、重要な問題なんでしょうけれども、これはある意味では、消費社会、社会でなんか農業が資本主義形態、あるいは資本主義経営の型ってのに、大なり小なり影響を受けていかざるを得なくなったとき、あるいは、先ほどからのあれで言いますと、製造業と労働生産性と、それから農業の労働生産性っていうのを拮抗、対抗させていこうっていう、拮抗させていこうっていう、少なくとも製造業の、なんて言いますか、労働生産性と拮抗するだけの農業の生産性、労働生産性を得ようとすると、どうしても誰でも常識的に考えるように、大規模化っていうのと、それから機械化っていうのを誰でもそういうふうに考えていく訳です。そうすると、大規模化、機械化っていうことでは、可能なもの、あるいは可能な領域、地域と、それから可能でないところ、可能でない地域ってのと、可能でない農家っていうものとの、分化が著しくなってくる訳で、これらはきっと、農業政策あるいは、つまりなんて言いますか、政府でしょうね、つまり政府とか国家の問題としてはこれはとても重要な問題であって、これに対する施策ってのは、しなければいけない問題なんだっていうふうに思います。ただ、僕らみたいな者から言わせれば、これはある意味で、資本主義経済をとってる限り「こういうふうにどうしてもなるよな」っていうような問題であるように思います。だから、これをどこまでそのなんて言いますか、どこまで合成化するかっていうような問題は、たぶん政治家とか、政府とか、つまり国家とかいうものの問題であるような気がします。そういうものが国家っていうものは、よくよくこういうこと考えなきゃいけないっていう問題に表面しているんだっていうふうに思われます。これを、いま申し上げましたようなことを地域差的に申し上げますと、国会をこういうブロックで分け方で良いのかどうか分かりませんけれども、国会では牧畜で、畜産と野菜の割り合いが多い、比較的土地があれですから、大規模な農家、農業ってのがだいたい地域差として、北海道ではそういう趨向になりつつあるってことが言える。それから、東北地区ではどういうことが言えるかっていうと、やはり米作つまり稲作を主軸にして、畜産と野菜と果物ですね。果物の割り合いを多い、そういう農業の趨向に向かいつつあるし、またそういうのに行ったのが有利であろうっていうことが言えそうなことなんです。それから北陸って、ここもこれに入るんじゃないかなって思いますけども、これは稲作が主体で、これの規模を拡大するっていう課題と、それから趨向とを北陸地区っていう、新潟とか石川県とか、そういうところっていうのは、そういう問題を含んでるし、そういう趨向に向かいつつあるんじゃないかっていう、特徴を持ちつつあるんじゃないかってことが言えそうなっていうことだと思います。それから、中国・四国地区では、稲作を少なくして、野菜とか果物の割り合いを多くするっていう、そういう課題を控えているってことが言えそうです。ここの中国地方、四国地方の農家ってのは、一戸当たりの耕地ってのは割り合い零細なところが多い訳で、この零細な農家が多いところで、ところで地域的な特徴を活かして、どういうふうにやっていくかっていう問題が、中国地方、四国地方ってところの問題であるっていうふうに、地域的に言えば言える訳です。そうすると、一概にはなかなか高度経済成長ってのはどうなったかってなことも、おおざっぱに特徴は掴めますけれども、それぞれの地域でもって抱え込んでいる課題は、それぞれ異なっているってなことが、まず言えそうな気がします。地域、ブロックで異なっているっていうことが言えそうな気がします。これは伝統的に、昔から、つまり弥生時代からの、ずっと伝統的な地域差、地域差には天候差もありますから、そういうふうにひとりでに出来てきてしまった規模とやり方ってのはある訳で、それでもって、こういう地域、ブロックでそれぞれの課題は違っているってなことが言えますし、もっとこれを微細に詳細に言うならば、それぞれもまた、中でまた、中に小地域でまた違うんだ、小地域で違うっていうことは、もっとさかのぼっていけば、もちろん個々の農家によって、抱えている課題はそれぞれ微妙に違ってんだってないうことも、ちゃんと言えそうな気がします。だからそういう問題も本当は全部入ってこなければ論議にならないのでしょうけども、残念ですけれども、俺らみたいな素人の、そういうつまりなんて言いますか、想像力でしかなんて言いますか、農家の本当にここらへんのところの書いている本音っていうのはどうなんだって、どうしたいと思っているかとかってなことを掴まえることが出来ないんで、それは全部想像力で掴まえるほかないので、そういうところに微細にわたることは出来ないんですけれども、これは先ほどからのあれで言えば、一種の外からの姿勢って言いましょうか、外からの姿勢っていうか上から目線っていうか世界姿勢っていうか、そういうものから見られる見方からすると、こういう地域差っていうのがありますし、それから地域の中でもまた差がありますし、抱えている課題には微差がありますし、また抱えている課題の微差っていうのは、また個々の農家でも違う微差があるっていうことが想像力の中ではちゃんと論議に入っていなければいけないような気が致します。だからそういう点が問題であるような気がします。そうしますと、農業の生産構造の変化っていうのから、特に、なんて言いますか、特に特別な点ってのは挙げられるかってなことを改めて言ってみますと、まず一点は農業の労働生産性っていうようなものですね。生産性っていうは多少ともこういうやり方っていうのをやってきていますから、製造業、つまり都市の労働者とか製造業の労働者の労働生産性とか先進国、つまり先進消費国ですけれども、そういうところの農業生産性とほぼ匹敵するようになっているっていうことが段々なってきつつあるっていうことが言えるようになってきています。おおよそですけれども、まだ及ばない訳ですけれども、おおよそだいたい匹敵するようだって、つまり国内の農業以外の労働者の労働生産性っていうのと、それから先進国の農業の労働生産性にだんだん追いつきつつある、だんだん同じようなノリになってきているってなことが言えるように思われる。そして、それから農業の、それで労働生産性っていうのはどうしてじゃあそういうふうに追いつくようになったかってことを言いますと、それは二つ理由があって、ひとつは要するに農業就業人口、農業人口が減ってきたっていうことがある訳です。それから、減ってきたっていうことがあり、一方で、なんか固定資本の浄化って言いますか、要するに機械とか農機具とか、そういうものですけれでも、そういうものの浄化と、それから質の上昇でもって、上昇でもって労働生産性が上がっている訳です。だから、就業人口が少なければ、割る率が少なくなるから労働生産性は上がっちゃう訳ですけれども、だから、労働生産性が上がっちゃった、だからいいぞいいぞって一概には言えない。それは、農業の就業人口が減っちゃったからそうなっちゃったんだっていう面があるっていうことです。そのことが割りに良く考えてないといけないような気がします。ただ、労働生産性が上がった上がったっていうことで喜んじゃったらいけないところがあって、それは、もしかすると農業人口がものすごく減っちゃったからそうなったんだっていうことが、半分は入っているかも知れないことを考慮に入れる必要があります。だから、今度は資本生産性っていうのは、資本生産性は、だから逆に言うと、低下してきている、低下してきている、低下している。そして、製造業の格差も大きくなっている。つまり、ある単位資本で出来る生産物の生産量ってのは低下しているってことが言えそうです。ただ、労働の生産性は高くなっている。それは、農業人口が少なくなっているってことがずいぶん加味されているからそう言えるんだけれども、それに喜んでいるって訳にいかないんで、単位資本●に対して生産性はそんなに上がっていない。それから、逆に言いますと、製造業、つまり他の農業以外の製造業の、とか工場とか、そういうものの労働、その格差ってのは、資本生産性でも、非常に大きくなりつつあるってことが言えるってことが特徴だと思います。ということが言えます。それから、円高っていう、いま盛んに言われている円高っていうのは、国家っていうものがひとつあります。それから、円高によって、例えば輸入する農機具とか、輸入する機械類ってなものがあると、それは安くなっている訳ですから、そこは生産性が低くなるってなことが言える訳です。それで、そうすると農産物の価格の引き下げっていうことが起こってくる訳です。そして、起こってくる訳です。そして、それはなんて言いますか、一面では非常に優位なことでありますけれども、一面から言えば、要するに農産物の価格引き下げってのは、農産物による収益の低下ってことと同時に意味しますから、そういう面から見たらあまり良くない。それで、ですから、ここはまた竹村さんが一所懸命問題にして、拡大して問題にしているところですけれども、内外の価格差っていうのは、生産者段階でだいたい5.6倍くらい。つまり外国特需、つまり国際流通価格と比較すると5.6倍くらい。消費者価格でいうと2.0倍くらい、日本の国際的な同じものの国際的な農産物の価格の違いはあるっていうことがデータとして書かれております。これらの点が農業の生産構造が社会の、なんて言いますか、社会の全体の高度化っていうのにつれて、どういうふうに変化したかっていうことの主な眼目になります。それで、特に日本の農業生産構造で、どういうところが問題かって言いましたら、農業就業人口ってのが、労働生産性を高めるのに、高めるっていうデータの中に入ってきてるもんですから、労働生産性はもう先進国並みになりましたし、それから製造業の労働者と同じくらいな労働生産性を持つようになってきていますけれども、資本生産性っていうのは低い。それから、また、現在起こっている経済的な円高効果っていうのは、生産性の向上には役立っている面もあるけれども、なって、生産性が低くなっているけれども、同時にそれは、なんて言うか、農産物、農家の、なんて言いますか、所得ってことで言えば、所得の額が減ることを意味しますから、だから、そういう問題が同時に起こっている。それで、同時に労働生産性ばかり高くなっているって、高くなっている労働者のみんなが言うことは、別な見方からすると、なんか要するに相当一所懸命働かされているんだけれども、その割にはあまり収益はないっていう、そういう実感になって跳ね返ってくるところもある訳です。だから、そういうことは非常に特徴として踏まえておくってことがとても重要だってことになりそうな気がします。

6 農業とエコロジー

 次に、次にあの機械化って言いましょうか、つまり、農業経営、農業の仕方のなんて言いますか、多少モダンなやり方ですけれども、やり方に労働時間の短縮ってのはどのくらい出来るようになっているかっていうようなことのデータを申し上げてみます。これも農業白書に免責にありますのをこっちが適当にピックアップしてきた訳です。まず、農地を耕すとか、それから整地するとかっていう時間ですけれども、これが10アールを単位でとってある訳ですけれども、だいたい昭和40年頃には16時間くらい、これで見ますと16時間くらい掛かっているのが、現在ではだいたい8時間か9時間くらいになっているっていうふうに、これは乗用トラクターの大型化によるんだ、だから、平均でいってそれだけ労働時間は短縮化している。それから田植えについては、田植え機の使用体系が整ってきたために、昭和40年においては10アール耕すのに25時間くらい掛かっています。それで現在はだいたい9時間くらいで田植えが出来るって言うふうに、だいたいその使用体系が整ったところではそうなっている。それから除草ですけれども、除草は除草剤の処理体系が出来て、それで昭和40年では30時間掛かっていたのが、現在では6時間くらいで出来るようになっている。ここはまたエコロジストが非常に大規模、拡大して問題にしているところで、つまり、そうすると言わばなんて言いますか、農作物の農薬公害、薬品公害ってのが起こる訳です。起こる可能性ってのがいつでもある訳です。だから、ここを拡大すれば、エコロジストの主張になります。これを労働時間のことだけで言えば、いま申し上げましたとおり、30時間のものがだいたい8時間、6時間か7時間くらいになっているっていうことがあります。除草剤処理体系っていうのはなかなか難しいことで、いつでも公害になり得る可能性があります。僕なんか失業中に、特許の事務所ってのに勤めたことがありますけれども、特許の事務所に除草剤の特許化ってのも扱ったことがあります。化学的に言いますと、除草剤っていうのは、あれなんですよ、つまり使用閾値って言いましょうか、この使用の限界値ってのがある訳なんですよ。だから、ある限界内で、内で使用していれば普通に除草に対してだけ、このデータのとおり、30時間のものが6時間ぐらいで出来ちゃう、除草出来ちゃうって、それでこの除草ってのが、こんなこと言うとあれだけれども、戦争中に農村通りってのがありまして、やったことがありますけれども、これものすごくくたびれるんですよね。倒れて、なんて言うか、なんか目に見えた成果がない訳でしょ。つまり、俺らこうやってこうやったから、これだけ何が出来たってことがない仕事で、ものすごく嫌なんですけれども、これが30時間が6時間に減るってのは大変に良いことなんだけど、除草剤っていうと、使い方が難しいと思います。準化学的に言いましても、限界値がありまして、限界値内だったら●ですけれども、限界値をあれしますと、逸れちゃうと、もういわゆる、システマティックっていうふうな言葉を使いますけれども、つまり、システマティックな、つまり組織内に薬品が、余った薬品が入っちゃうっていうことが、除草剤の種類によってはあり得る訳なんです。つまり、組織内まで除草剤が入っちゃって、なかなか出てこないっていうことがあるんですね。それでこの閾値ってのが、実験室、あるいは実験田んぼでやる閾値ってのは、そのまんま本当の田んぼとか畑とかに●しないんですよね。それとちょっと違っちゃうんですよ。だから、僕はなんでそんなことばっか知っているかっていうと、特許で扱った時に、要するに特許の範囲が、要するにあれだっていう訳だったんですね。特許の範囲が要するに問題だって、争いになったっていうのが扱ったことがあって、だから、片っ方の主張は、要するにここまでの範囲を俺たちの特許範囲だって、こういうふうに言うと、片っ方の方では「いや、それはお前のは、要するに実験室とか田んぼでやる、実験田んぼでやったからそうだったんで、実際にやってみろ、公害になっちゃうぞ」とか、あるいは逆に雨の、ザーッと降ってきて全部流れちゃって無効になっちゃうとかっていうことがあるから、お前が決めているこの範囲は無効であるってな、逆に争っている逆の方はそういう主張してみたいな、そういうことを扱ったことがあるので、そういうことを良く知っている訳で、除草剤とか、なんて言いますかね、もっとあれだと、植物、成長促進剤とかいうのがある訳ですよね。成長促進剤っていうのも同じなんで、ある閾値の中で使うと、確かに成長促進剤は役立つんですけれども、その閾値ってのを決めるというのは大変難しいし、また実験室で決めたのと、野っ原でやった、つまり、本当の田んぼでやった、あるいは実験田んぼでやったとではまるで違う、まるで違っちゃうので、野っ原でやると明日あるかもどうかも分かんないんで、そしたらば無効になっちゃったり、逆に多過ぎちゃって除草どころじゃ、除草とか、この場合、植物成長どころか植物を枯らしちゃうっていうようなことはあったり、もう余計な分がまた植物の中に入ってきちゃったりとかって、そういうあれがあって、範囲ってのは限界を決めるのは本当に難しい問題、特許の問題で非常に頻繁に起こっている、特許室で頻繁に起こっている問題ってのは、こういうものだっていうふうなことが良く分かります。だからこれもやっぱりエコロジストが言うのはもっともなんだって、この除草剤の範囲を決める、どれだけ使うかって範囲を決めるのはものすごく難しいと思います。それから、物によっては大変に面倒臭い問題がたくさん起こってくると思います。だから、こういうことがあるけれども、ただ労働時間短縮っていう観点から見たときには、このとおり30時間であったものが6、7時間で出来るっていうように労働時間が短縮されていく。それから、収穫の問題ですけれども、バインダーみたいなのを使って、そういうものの普及のために収穫、これで50時間くらい掛かっていたものが、現在では10時間くらいに出来るっていうふうに短縮されている。その他の作業でも、それ以外の作業でも、30何時間のものが20何時間に減っていると。計で、合計で言いますと、なんて言いますか、昭和40年では141時間くらい掛かっていたものは、現在では55時間で出来るっていうくらい、労働時間の使い方によって短縮されている、短縮されるっていうデータが掲げてあります。それで、労働時間の短縮っていうことは言い換えれば、労働の生産性の上昇っていうことを意味しますね。だから、そういうことになっています。だけども、いま申し上げましたとおり、除草剤なんか使った場合のそういう公害問題ってのがありますし、またこんなことは皆さんの方が良くご存じでしょうけれど、つまり柄に合わないトラクターとかコンバインなんてのを使ったら、なんか持て余しちゃうみたいなことってのもあり得るんだと思います。それから、皆さんの方が切実にご存じで、僕の方はあまり切実に知っていない訳で、適正閾値ってのは必ず個々の地域とか個々の農業のやり方であるはずだから、それは皆さんの具体的なイメージで考えられるべき問題のように思います。それは、僕らの力の及ばないところだと思います。それから、これもまた力の及ばないところですけれども、白書がこれを記載しておりますので、僕がそれをピックアップして申し上げてみる訳ですけれども、農業の新技術ってのは、どういうふうになされているかっていうと、僕はまるで、まるで全然分かりません、僕には。何を見せるかっていうと、外側からしか分かりません。第一には代かき、代かきっていうのはだいたい何だか分かりません。代かき後の水田の土中に直接種まきをする。水稲湛水土壌直播って言うんだそうですけれども、そういうのが行われている。これは地域によって行われている、どれだけ行われているかっていうデータもあります。これは僕はノートにもありますけど、データはもちろん出ております。こういうことがやられていて、これはたぶん有効だからやられているんでしょうから、知ろうと思います。それからもうひとつ、大地に田植え作業と同時に肥料を土中に残すっていう水稲側条施肥っていうのが、施肥ってのがあるそうです。これもやられている地域、地域によってどれくらいやられているかっていうデータもあります。全国的にあります。それもあります。だから、これも新農法なんだそうです。農業技術なんだそうです。これは新農法っていう場合には、だいたい農業の労働生産性を高めるっていう意味合いで用いるのが大部分だと思います。つまり、要するに、少ない時間で安く作物を、安くて良い作物を獲るってことの問題だと思います。それから第三に組織培養●によるウィルス●を増殖する技術だっていう、これも使ってる、どれくらいの地域でどの地域ではどのくらい使っていてっていうデータが出ております。皆さんの方でもし、それはどういうことなんだよって、今度は皆さんの方が説明される訳でしょうけれども、僕は外側からしか分かりませんから、先に降参しておきます、僕は。それから重要な牝牛から多数受精卵をほかの牝牛に移植するっていう受精卵移植技術の発達によって、これもいつ日の、つまり良い、良い牛がたくさん獲れるようになっている、これもやられているところはどこかってのは、どこでどれくらいやられているかってのも、データもちゃんとあります。それから、あとは要するに機械の、さっき言いました機械の問題で、高性能の汎用コンバインみたいなものが出てきて、高精度、高速の●が実用化してきたっていうことが白書の中で言われています。これらはいずれも僕らの一番駄目なところ、つまり、本当は外側から言っているだけで、こいつはこんなことしか言えないんだったらば、こんな外側からしか言えないんだったら、だいたいこの全体の農業問題ってのはやるべきじゃないんだって、言うべきじゃないんだって問題なんですけれども、だと思う。だけどもこれは少しまあ、今日は研究会だとか、読書会だとか、読書報告会だっていうぐらいの、俺は白書を読んで降伏しているようなもんだっていうふうにお考え下さって、そこは勘弁していただきたい訳なんですけれども、そういう問題がある。これは皆さんの方が良くご存じな問題だと思います。

7 農家の生活は豊かなのか

 それから、次に取り上げてみましたのは、農業の人口と戸数変化で、これは先ほどもちょっと申しましたけれども、これは、なんて言いますか、本当はこれは前の年からずっとデータは上げてあるんですけれども、ここでは、前にも先にも申しましたから、昭和61年1月現在の、を申し上げますと、全農家、全農家を単位1000個戸数で4331だとしまして、それは全農家ですから全構成比を100としますと、一種兼業が15.2%だと。二種兼業、つまり、働いている●農家もやってるっているし、サラリーマンでもあるみたいな農家が69.9%ある。それから、専業農家14.8%だっていうデータが出ています。そして、51年から61年の減少年率ですけれども、年にどれだけ減少していってるかっていうと、それはだいたい1%~1.6%くらいずつ減少していっています。それは、最初に申しましたからそれで、データでだいたいよろしいんじゃないかっていうふうに思います。それで、今度は逆に第二種兼業がだいたい半分以上も占めていて、専業農家が15,6、4,5%くらいしかないっていうのに、なんて言うか、助成金をあれしたりするのはけしからんじゃないかっていうのは、竹村さんの主張の非常に大きな柱になっているように思います。それはこういうところでその主張が起こってくる訳だっていうふうに思います。それで、だから、竹村さんは、例えばドイツならドイツだったらば、そういうふうな場合だったらば別に専業農家が大部分を占めるように農家の育成をやりながら、やりながらそのなんて言いますか、農業の新しい時代ってのに変えようっていう、そういうようなやり方をしているっていうように言っている。日本の、日本の農政っていうのは駄目だから、要するにだいたいこの兼業農家でしかも二種兼業農家の方が大部分を占めちゃていて、そういう状態になっているのにまだ助成金がどうだとか言って、農産物価格がどうだとか、食管法で●まだ通用しているっていうのをやっている。これはだいたい農政の失敗なんだっていうようなことが、竹村さんの論議の中の割りに大きな柱になっていると思います。これは、この種のデータをもとにしているっていうふうに思います。農家の就業人口ですけれども、これは、実数で57年度483万で、それで、ずっとこう減ってきています。これも先ほどのグラフで申し上げたと思うんですけれども、それからデータを上げているだけです。それで、61年度は割に細かくやって、●細かくやってますけれども、平均して計算しますと、136万くらいになって、これは60年度に比べで少し減ってきています。だから、年々これは減りつつあるっていうのが先ほど申しました通り、現状だっていうことが分かります。それからこれもまた竹村さんが非常に、誇大にって言いましょうか、この分だけを拡大して主張しているところなんですけれども、農家の経済で貯蓄額っていうのを労働者の、つまり都市の労働者の一般大衆の貯蓄額と比べて、農家の貯蓄額が例えば1557万、純貯蓄で1351万とすると、労働者の方が442万だ。つまり、労働者よりも要するに農家の方が経済的に富んでるっていうのが現状であって、そんなのに助成金とは何事だっていうのが竹村さんの主張の非常に大きな柱だっていうふうに思われます。それで、なぜ農家の貯蓄額がこれだけ多くなっているか、つまり、多くなっているかっていうことの内訳を白書もちゃんと別にしてますけれども、都市の一般労働者と違って、土地家屋を購入する負担費が少ないんだっていうことが分かります。つまり、農家だったりっていうのは、●アパートの家賃がいくらだとか、そういうことが代々の家があるとすれば農家があるとすれば、ことさら金を使わなくていいかっていうものがある。それから、経営資金として●に使われたっていうようなものが、その中の貯蓄額に入っているっていうのがある。だから多くなっているっていうことがある。それで、一人当たりの、それからもう一つの理由は、一人当たりの所得っていうのを言ってしまえば、決して都市のあれ、都市の労働者と比べて決して多くはない。それはだいたい8%、8割くらい、つまり0.8ぐらいだって。つまり、都市の労働者を1とすれば、一人当たりの所得っていうのは、農家の所得っていうのは0.8くらいしかないんだって言ってます。ところが、一所帯の、一戸ですね、一所帯の就業者っていうか、労働、つまり働いている人っていえば、農家の1.6倍だ、都市労働者に比べて一家族当たりの働いている、●として働いている人間っていうことで言えば、1.6倍になっている。だから、要するに、結局、総所得っていうのは多いっていうことになって、まあ勢い貯蓄額も多いっていうことになっているんだっていうのが、だいたいこの農家の経済が、なんて言いますか、一見すると豊かに見えるっていうことの大きな理由になっています。理由を分けてみますと、こういう理由があって、それで多くなっているっていうことがあって、実際に問題として、要するに、今度は「本当、そんなことを言うけど、ちっとも俺たちは豊かではない」っていうことを農家の人は言われると思うんです。こっちは数字だけ見てみると如何にも多いように見えて、ちっとも豊かになってないって言うと思います。それは、そうするとそういう食い違いがどっから起こるかっていうと、額面上は確かに多い、貯蓄額が多いっていうのは、まあ富んでいるっていうふうに言っていいと思いますから、その多くなっているんだけれども、2倍くらいになっているんですけれども、でも今申し上げましたような理由で、理由で多くなっているっていう状態をそこに加味して考えないといけませんから、そういうことを加味した場合は、果たして都市の労働者に比べて農家の人の生活が豊かで、より豊かであるかどうかっていうのは、竹村さんが言うほどそうであるかどうかは大変疑問であるっていうところだと思います。これはちゃんとした、あれを、データを踏まえた上で、やっぱり、竹村さん的に、勢い感情論っていったらおかしいですけれども、言ってはいけないところだと思います。ここら辺のところがやっぱり、冷静にあれして、しなきゃいけないっていうのがあります。

8 都市と農村の対立

 それから、だいたいにおいてこの日の論議に、現在行われている論議をあれしてみますと、だいたいにおいて都市と農村との、なんか対立、あの対立型って言いましょうか、対立しているっていう段階での、なんとしても対立しているんだ、またこれは相矛盾してるんだ、相容れないんだっていう、そういう勝手に立ってると思います。それは両方に立ってると思います。これは僕の理解の仕方では、この段階はたぶん、先進資本主義国ではだぶん、その段階は離脱しつつあるっていうふうに僕には思います。だから何とかして、かぎり、妥協するんじゃなくて、妥協するんじゃなくて第三の糧っていうようなものがどこにあるかっていうことを探求すべき段階に達しているっていうのが僕らの、いわば僕らが非常に極端なところで考えている考え方だとすれば、だいたいそういうふうになっているっていうふうに思っています。だけど、この種の論議は、あれです、竹村さんにすれば、都市、都市サラリーマンの方が数が多いんだし、それから所得はだいたい農家より豊かでなくなってくる。住宅が少なくなっている。住宅難では苦しんでいる。そういう状況なのでこれを是正しないとおかしいじゃないかっていう、でこれはどうしてなのかっていう理由は農家がとぼけて、変な助成金もたくさんもらってて、本当実態を見たらそうじゃないのにそういうのをもらってたりするから、つまり農家が悪いから、農業が悪いから、要するにこうなっているんだっていう。これを要するに打破してしまえばいいんだっていう、農政なんて打破してしまえばいいんだっていうっていうのが、竹村さんの論理だというふうに思いますけれども、そういう論議っていうのはいすれにせよ、都市・農村対立型の論議な訳です。この種の対立型の論議っていうのは、言ってみれば論議にならない論議なんです。つまり、どっから●そうです。エコロジストの方が、農村の方から「何を言ってんだ」って言われても、僕は同じだと思います。対立型の論議っていうのはどうして駄目かっていうと、歴史の必然がだんだんと、だんだん対立型っていうものの、なんて言いますか、限界っていうようなものを示しつつあるっていうこと、歴史の必然が示した、運命の必然が示したがるってのがある訳で、だから放っておけば、言ってみれば放っておけば僕の理解の仕方では、ただ放っておけば、僕は竹村さん型の論議は、論議はたぶん、放っておけば勝利すると思いますね。これは、自民党が政府だから勝利するんであって、共産党が政府になったら勝利しないっていうことはないと思います。文明史の必然によって、竹村さん型の論議の方がだんだん、放っておけばだんだんそうなっていくっていうふうに僕は思っています。それが言わば運命の必然、文明史の必然っていうようなものっていうもの、文明史の推移的必然っていうものがひとつ勘定にいれなければいけないっていう問題が入ってきます。つまり、現在の一見軽薄な素人論議の対立みたいなものの、あるいはへんてこりんな政治運動家みたいなものの●、そういう論議のへんてこりんさっていうものの根底の中には、根底のどっかには、いくらか分の中には、文明史の必然っていうようなものがちゃんと入っているっていうこと、そのことを加味していなければ論議にはならんのだっていうことを、だから都市の、都市はあれするためには農村をぶち壊せっていうし、農村を保持するためには都市の野郎の横暴をぶち壊せっていう、この種の論議ってのはたぶん終焉に向かいつつあるっていうふうに僕は思っています。それは現にそういうふうに起こりつつある、成りつつあるというふうには言えませんけれども、つまり、そういう兆候が見えているっていうふうに思いますし、また一番この、なんて言いますか、先端的なところで想像力を働かせれば、そういうふうになっていくっていう必然を誰も止めることが出来ないと思います。つまり、僕はマルクス●ですから、つまりマルクスは、つまり経済史っていうものは、経済、経済史ってのは自然史の延長なんだ。だから自然史の延長である限りの経済史ってのは、これは人為的に動かせるっていうことはないんだっていうことを言っています。そして、高々動かせるのは、これを遅くするか早くするかっていう、それだけのことが人為的に出来るだけで、つまり自然史の、いわば自然史の流れとしての経済史っていうものは、それは自然史の延長なんだから、これはなるようにしかならんって言うんじゃなくて、必然的にしか推移しないんだ。で、これを遅くするか早くするかっていう問題だけが人為的なものであり、つまり、政策の問題であったり、やり方の問題だったりってなそういうことだってのがマルクスの基本的な観点ですから、僕ら、それはかなり正しいっていうふうに思っております。概算しておおよそのところ、その考え方は正しいと思っていますから、都市・農村が、で都市・農村が対立ぎりぎりで都市は発生し、そして農村との対立がギリギリになっていて、都市が農村のなんか人口を吸収して、産業革命で「それっ」ていう訳で、産業を拡大していって、あらゆる弊害が現れたっていう時期がありまして、その時は、マルクスの理論的な基礎になった訳ですけれども、理論的には現状の基礎になった訳ですけれども、しかし、それにも関わらずマルクスは、経済史っていうものが自然史の延長だっていうこと、そしてそれは人為的に動かせるのは、それを遅くするかせいぜい早くするかっていう問題なんです。つまり、その問題が革命の問題なんだっていうふうにマルクスは言っています。そして、これは政治的な、マルクスはいわゆるなんて言いますか、構造改革論者ではないですから、マルクスは政治革命優先論者だったですから、つまり政治革命としては一挙に支配的な階級っていうのは、一挙に打倒して、それで労働者は権力を握って、それから様々な施策をやらなきゃ駄目なんだっていうふうに言っていますけれども、一挙に、一挙に変えられるのは政治とか、革命だったら政治を一挙に変えるってことでしょう。それから、徐々に変えるっていうこともあるでしょうけど、徐々に、あるいは一挙に変えられるのは政治とか制度とか、そういう僕の言葉で言えば、共同幻想なんですけれども、共同幻想に属するものだけは、もしやり方によっては、一挙に変えることも出来ますし、力関係によっては、一挙に変えることも出来ますけれども、しかし、自然史の延長としての経済史っていうのは、経済の進展とかそういう自然史の延長としての経済の進展っていうものは、これは一挙に変えることは出来ないんです。これは、自然に変わるだけ以外にないのですよ。それで、自然に変わる必然に対して、人間はもしもっといいことをもっと早くやらせようとするならば、それを促進したり、またそれを遅くしたりってなことは、もちろん人為的に可能なんですけれども、自然史全体の流れとしての経済史っていうものを動かすことってのは、まずそれは出来ないっていうことなんです。そのことは、やっぱり僕だったら、根底に踏まえた上で論議を進めると思います。だからこの貯蓄額だけみたいなものを拡大して取ってきて、それで農村より都市の方が富んでいるんだって、富んでるんだって、それにも関わらず都市の一般大衆、一般労働者っていうのはこういうふうに苦しんでいるんだっていうのは、住宅で苦しんでいるし、税金が取られるだけだっていう●、竹村さんが非常に丹念に上げておりますけれども、そういう論議っていうのは一見すると良いようだけれども、ぼくはやっぱりなんかそういう、どう言ったらいいんでしょうね、古いタイプのって言いますか、古いタイプの論議であるよな気がして、気がします。もし時間があったら後で、そういう問題もちょっと触れたいっていうふうに思います。それで、こういう問題が農家の経済問題の中で、割り合いに考えなきゃならないっていう問題だというふうに僕自身は思っています。

9 自由化はやってみなければわからない

 次にこれは、現に起こりつつあるって、これ1,2年特に顕著に起こりつつあるって、現に起こりつつある円高の問題が農業へどういう影響を及ぼしているだろうかっていうのをピックアップして列挙してみたということなんです。それで、こんなことは誰でも考えられる常識的なことでって言えばもうそういうことなんで、特に別に大変なことでもなんでもないんです。誰でも考えることなんです。例えば、輸入円高の場合が輸入に対して影響を与えるってな、例えば輸入原材料っていう価格が低くして良い訳ですから、円高ですから、良い訳ですから、そういうことで原資材料の価格が低くなれば、食品産業のコストの面とかやり方の面とかいうことで改善が出来るっていうのは、それは農家が輸入の食品に慣例するところの範囲内で有利な点だっていうことが挙げられます。それからもうひとつ、輸入価格の低下によって、これは国産品との激化が起こるっていうことが挙げられます。これはまた逆に大変、農業、国内農業法的な立場の人の論議の中では大変重要な、こんなことで輸入の、たとえばお米の自由化ってのをしてみたら、競争で太刀打ちできなくなって農家はたちまちつぶれてしまうっていう、一種の危機感の●だし、それがまた激烈な反応になって出てきていると思います。僕はそういう問題に立ち入らないようにしたいと思います。立ち入らないようにしたいって言いますのは、別に逃げる訳ではなくて、要するに、その種の問題で口角泡を飛ばすっていうのは僕に言わせれば、あんまり、あんまり意味がないような気がします。つまり、そんなことはやってみなければ何にも分かりゃしないですからね。色々言っているだけで、ただ、要するに一般論として言えば輸入価格が低下して、国産品との競争ってのが激化するだろうと、激化するだろうということが言えます。どこで価格が止まるだろうだとか、どこで思いがけないところで価格が上がるだろうかっていうことは、そういうことはもちろん経済学者は分析するのが商売ですから、されたら良いかと思います。僕らはそんなにやってもまあ、価格の推定ってのは色んなデータを、なんて言うんですか、あらゆるデータってのを集めて緻密にすればするほどいいんでしょうけれども、いい論議が出来るのでしょうけれども、その種の論議ってのは、その種の論議で専門家の論議として大変いいようだけれども、それの専門学科以外の論議ってのはあまり意味はないだろうっていうふうに僕自身は思います。今度は円高による輸出の影響。これも同じこと。輸出農業の生産者とか輸出の食品●は歴然と減収されてしまいます。それから輸入品目の競争はまた激化するだろうっていうことも、またこれは当然として言える訳です。それから輸入価格の低下に伴って小売価格は低下する。それはまあ非常に理路当然として言える訳です。そうすると小売業の人たちにとっては非常に、なんて言いますか、所得の権利がある訳だし、それから、ある意味ではもちろん、小売価格の低下でもって食品の消費の活発化っていうのが起こることになる訳で、理屈上なる訳ですけれども、この農業白書なんかが指摘しているんですけれども、職業消費の消費っていうのは、だいたい飽和に近い、栄養状態にしても、それから、量質としても、だいたい終わりに近い状態になっているっていうことを●います。だから、いくら消費価格が減って、小売価格が低くなったって、そういう一般大衆のうちはたくさん食品を買うかっていうと、それはもう、そうとは限らないんだ、だいたい食いたいもんは食っていますから、食いたい栄養価が取れてるとか、そういうことがあるから、いくら小売価格が低くなったからといって、たくさん食品の消費が起こるってことはない。お米についてもそうであって、だいたい食べられるだけ、だいたい食べているから、食料、農産物が安くなったからといって、たくさん2倍になるものは2倍、お米こうっていう人はあまりいない訳だっていうことを、その種のつまり飽和状態っていうものを想定しなきゃならないから、あんまり輸入価格の低下が小売価格の低下をもたらしたとしても、それが一般消費大衆にとって利益であるかっていうふうには必ずしもならないっていうことをこの白書はそれを指摘しています。それで、これは農産物の実際の輸入状況ですけれども、これは色んな年数の白書を開いてみますけれども、61年度だけここに取ってきまして、だいたいその数量から言いまして55年度を100としますと、総合で125、輸入が増えているっていうことですね。100に対して125です。米が98くらい。それから多いのは要するに55年度から多くなっているのはトウモロコシ。それから、大豆、それから果樹ですね。これは、とか肉類っていうのは160、倍近く増えているっていうように言えます。それから、減っているのもないことはないんで、輸入が減っているのは、大豆が減っているって言えます。三角がついているのが減っている印で、1.9%減っている。それからこの粗糖っていうのは、砂糖の組成段階の砂糖のことでしょうけれども、これも5.4%減っている、55年度を100とすれば減っているっていうふうに言っています。しかしおおよそにおいてだいたい輸入は減りつつあるっていうことが言えます。それから逆に輸出もちょっと61年度をあれしてきましたけれども、輸出は概して全体として減ってると、1%減っていると。それで内訳で言いますと、即席ラーメンが47.4%減っている、これは前年度に比べてです、減っている。それから温州みかんっていうのが29%、30%くらい減っている、輸出が。それから、梨が11.7%くらい、12%くらい減っているって言ってます。それから、お菓子類が14%くらい減ってるって言ってます。それから果汁飲料が53%くらい減っているって言ってます。概して言いますと、この表から分かるように、概して言いますと、農産物の輸出は60年度に比べて減っている、大量に減っている品目もあるっていうことがこの推移から分かります。それから、また今度はもうひとつ輸入、輸入のまあ、どういったら良いんでしょう、利点って言いましょうか良い点っていう、円高より輸入の利点っていうのは、畜産物のその肥料、肥料穀物ってのは国際価格が低下して、畜産農家の生産っていうコストが安くなっている、生産が増えたっていうことが言える。それから、原油が安くなり、光熱費とか●の価格が低下して資材、輸入資材の価格が低下しているために、それが経営に対して、畜産経営に対して有利に働いている部分があるっていうことも指摘しています。それから輸出の問題ですけれども、輸出の品目が所得の低下をもたらすっていうことがひとつ言えるんだ。先進国は所得の輸出しているところの産業の食品品目はみんな所得が低下しているっていうことが一般的に言える。それで、そういう例も白書は上げています。例えば、茨城県の花木球根の輸出が全面中止になったっていう例がある。それから、梨の輸出量は増加していったけれども、円高でそれが相殺されちゃって、あまりいいことない、何もないっていうふうに鳥取県はそういうことになっているところがあるっていうのがあるっていうことを言っています。それからもうひとつ、チューリップ球根の輸出が減少しているがまあ問題になっている、富山県で問題になっているっていう例があるっていうことを言っています。白書は指摘しています。それからもう一つの問題が、輸出、所得輸出品目の食糧に関係している、あるいは、耕作に関係する、農産物に関係しているところの所得が低下して苦しくなっている、あるいは辞めるっていうようなことが起こっていて、そういう、そうした場合に転職とか失業とか、それから再農業っていうのが多くなるっていうことがある訳です。転職の例もありますし、それから失業の例っていうのは例えば、ほかの円高で、ほかの産業はやっぱり圧迫してきますと、出稼ぎの求人なんてのは少なくなりますから、結局失業が多くなるっていうのがあります。それから、もう一つは、先ほど前におっしゃられた方が、言われた方が言っておられましたけれども、定年退職になったり、それから都市のなんて言いますか、工場とか製造業が倒産したために、郷里に帰ったりとか、その他の耕作地を求めて自分が農業をやるとか、また再機能するっていいましょうか、そういう●、そういう面で言うと、地域のほかのつまり、工場とかそういう製造業の不況状態の受け皿として農村がなっているっていう面も拡大している地域もあるっていうことを白書が指摘しています。これは円高輸出が関連した非常に不利な点って言いますか、起こっている不利な点っていうことが言えます。それから全体として農業においた農産物っていうのは内外の格差が拡大してきている。それから農業と製造業の、農業と製造業の労働生産性の格差もだんだんだんだん●接近した話になって、接近したところからのデータですけれども、こういう方の円高のデータからいくと、だんだんその格差は拡大する要因が出てきているっていうことが言えるので、これはここに表があるんですけれども、たとえば、これ生産者価格の推移っての、これ下の方へ、あまり上がっていかない、これが日本の政府の買入価格。こっちがアメリカの目標価格。そうしますとこれが、1986年だから61年度くらいの例でこれだけの格差になってまして、格差は次第に大きくなっているっていうことの目安的な例になっています。

10 対立は外からの素人論議

 今まで申し上げましたようなことが、だいたい現在の日本の農村、あるいは農業の全体的に当面している、全体的に大掴みにみて当面している問題のまず主要件だっていうふうにお考えくださってもよろしいかっていうふうに思います。つまり、この主要件っていうのは、なんて言いますか、この主要件の中から何を、何が本当に切実で、何が主要な問題なのかっていうことは、やはり、本当はこういう、なんて言いますか、一般データって言いましょうか、一般の、つまり、なんて言いますか、こう鳥が上の方から地上を眺めて、そして「あ、これがこうなっているな」っていうような目じゃなくて、目から眺めることもとても重要で、そういう重要さっていうのは例えば、僕みたいに素人が今日みたいにデータを上げて説明する根拠になっている訳です。それから、それがまた現在、農業問題、円高を含めて農業問題についての論議が白熱化して、なんて言いますか、一方は、一方を●呼ばわりするし、一方は一方、馬鹿呼ばわりするし、そのそういう段階になっていて、でもう感情論になれば殺しかねないっていうような、そういうような感じで相容れないっていようなところの論議にまでなっていることの基礎になっている訳です。しかし、僕らの考え方からすれば、まずだいたいこういう外からのデータっていうものは、どうしたらいいかって、やっぱり、内側からのデータっていいましょうか、内側からの見方、データっていうのを考え合わせるっていうこと、それから、地域からのデータっていうものを考え合わせるっていうこと、それからもっと切実に言えば、その●じゃなくて、要するに本当に農業をやっている、現にやっている人の、要するに自分が当面する一戸一戸の農家が自分のところであったらどういうふうに響いているんだっていう見方でそれをもう一度見て膨らましてみて、そこから出てくる問題っていうのを自分なりに対処しながらやっていくっていうようなことが、なんて言いますか、重要なことなんだっていうふうに僕には思われます。現代に残っている対立はいずれにせよ起こらされている対立っていうのは、だいたい素人論議ですし、それからもうひとつは、なんて言いますか、外からのデータの論議、内側のような顔をしている人たちでも、本当は外からの論議です。論議でやっている訳です。本当に農業を切実にやっているっていう人の論議ではないっていうふうに僕自身は考えています。だから、その種の対立はどういったらいいでしょう。僕は、本屋さんで先ほど言いましたように、農業経済の専門の本なんてのはね、もう微々たるものになっているんですよ。ところで農業専門家の農業経済専門家の発言ってのはほとんどないんですよ。それだけれども、だけれども、いわゆるその米を売る自由化、是か非かみたいな感じでのその論議ってのは両方の論議ってのは、こては割り合いひとつのコーナーが設けられていることがたくさんある訳です。つまりこういう現象っていうのが非常に今の現象だと思いますけれども、この種の現象っていうのは、やっぱりどういった、ここはやっぱり一番ね、その種の論議って言うのを、まあ勉強のためですから、読んで、買ってきて読みましたけれども、その種の論議ってのは一番感じた、何を感じたかっていうとね、いわゆる邪馬台国論争っていうのがあるでしょう。邪馬台国がどこにあったかっていう。それは北九州にあったんだっていう人とか、それはそうじゃないと、南九州にあったんだっていう人とか、いやそうじゃない、島原半島にあったんだっていう人とか、そうじゃないそれはやっぱり近畿地方の、つまり奈良地方にあったんだっていう論議とかね、あるでしょう。つまり、それで、邪馬台国論争っていうのは、あれをやっている人っていうのは専門家も素人も無我夢中になっているっていうか、ならせる要素があって、白熱してきて、白熱しても論議になっているんですね。それで、それでも面白いんですよ。それでも面白いんですよ。読んでも面白いけれども、やっても面白いんですよ。だから、それからもうひとつは、どうせ、なんて言いますか、どうせあたっても八卦、あたらなくても八卦ですから、つまり、これは割り合い資料は単純なんです。資料は単純で、要するに、魏志倭人伝とか、岩波文庫で言えば2冊買えば、だいたい素人が2冊、専門家でも2冊、これだったら素人だってやれる訳ですよ。時間さえあればやれるっていう、そういうこともあって、邪馬台国論争っていうのは、割り合いとね、論議が非常に良く似ているんです。この種の論議と。竹村さんの論議のね面白いって、大前さんの面白いなっていうふうに思います。それからエコロジストたちの反対●、まあ面白いってのはありますけれどもね。あのー、それもありますけれども、全部ね、やっぱり邪馬台国論争に似ていますね。いくら、僕も素人だから、また一枚加わっているっていうのになる訳で、いくら僕が馬鹿でもどちらかに加わろうっていう気は全くないですね。これははっきり明言出来ることで、っていうことでね、僕は皆さんに今日お話ししたことで、僕は今日お勧めできる唯一のことは、両方の論議に加わることなかれってことで、これ絶対に加わらない方が良いですよっていうことだけは。つまり、あらゆる、どちらかのあれは良いというふうにお考えなのは、もう自由なんだ。つまり参考にする●は自由なんだけれども、だけれども、どちらかの論議に加わることなかれっていう、加わっちゃだめだよっていうことだけはね、僕は前提のような気がしますね。そうじゃないぞっていう。そうじゃないぞっていうことはね、前提なような気がします。これだけは僕はね、言えそうな気がします。で、僕も加わりません。もちろんどちらの論議にも加わわりっこない、加われっこないですよ。加わわれっこないような論議です。だから、これ、加わらない訳です。だから、その加わらない方が良いっていうことだけは僕は確実に言えると思います。つまり、それは退けた方が良いですね。撤退して、どちらかの論議の中にね、どちらかの論議の中に農業、農村の未来があるなんて絶対あり得ないですね。あの、自然的未来だったらばあり得るんです。自然的未来だったらどうあり得るかって言ったら、僕は、大前、竹村さんがやられている論議の方が革命的だと思います。つまり、資本主義的な見地からする革命的な論議だと思います。それで、これは革命ですから、一挙にやろうと、一挙にやろうと、徐々になされると、あるいは何もしなかろうと、竹村さん、大前さんのようなふうに農村が推移していくだろう。それで、皆さんが誇張してきてくださった題で言えば、農村の終焉っていうことが言いましたけれども、その農村の終焉ってのは、つまり天然自然農村っていうことに言えることになりますけれども、天然自然農村の終焉っていうことを究極に無限大に●して収斂していくだろうっていうことは、現代の農業人口、農業構造、それからなんて言いますか、そういうものの減少していっているものと、それからこれは竹村さんの指摘に利点を認める面がある訳ですけれども、つまり、都市一般大衆と農村との、つまり土地問題についての考え方の違いとか、土地所有問題の違いとか、それに基づく収入の違いとか不合理とか、そういう問題もそれなりに含まれて、しかしごちゃごちゃしている訳ですけれども、自然に放っておけばどうなるかっていうと、僕は農村人口は減り、農業は減少していく、農産物は●、これは土地移動型の農業っていうことを意味しますけど、逆に言えば、なんて言いますか、昔ながらの種をまき収穫をしっていう農業を指しますが、そういうのは段々減っていくだろうってっていうこと、それは僕は黙っていても言えそうな気がします。だから、黙っていてもそういう方に行くだろうっていうことは僕は言えそうな気がします。そういう意味では、大前、竹村さんの論議の方が革命的だと思います。つまり進歩的だと思います。それで、もし興味深いことは、一見進歩的だって言われているとか、サイコだって言われている人たちは、どっちの方に、本当は知りませんよ、本音は知りませんけど、加担して見ているとね、そういう人たちがこっちの農業を守れっていいますか、農業、農村を守れとか、エコロジカルな農業をやれとかね、そういうところに傾いていくっていうことが非常に興味深いことです。つまり、そこではシンボルが反動と都市とがだいたい逆に●しているっていうのがとても興味深い。なぜそうなるかっていう問題がある訳。なぜこの二つを対立して捉えちゃいけないかっていう問題がそこにはあるんですけれども、このようするに、なぜかって言うと農村を守れっていう論議の中に、非常に切実な問題がまた時に含まれている訳です。つまり、一種のつまり、運命の必然、文化の必然、科学の必然っていうようなもの、あるいはそういうものを、必然は如何様にも止めようがないんだけれども、それにも関わらず、理不尽な絶滅の仕方をしたくないだとか、理不尽な後退の仕方はしたくないんだ、そこにどういう活路を求めたらいいのかっていような問題っていうのは、ものすごく切実な問題だと思う。もちろん当事者だったらなおさらそうなんです。だから、その問題は完全に問題としてあるんで、それは大いに●なんだけれども、僕の考え方では対立の論議っていうのは全然駄目だっていうふうに思います。つまり都市だろうが、あんなこと言うのは無茶苦茶じゃないかって、とんでもねえ野郎だって、農村知らないんだとか、そういうような言い方での対立の仕方、論議の仕方っていうのはあんまり意味がないと思います。どうしてかっていいますと、それをまあ少し時間をあれしますけれども、それじゃあ、具体的に少し細かく入って…。

11 竹村健一・大前研一の農政改革論

 それじゃあ、大前、竹村さんの農政改革論っていうか農業改革論ってのはどういうふうになっているかって申し上げてみましょうか。あの、個々をみますと、だいたい竹村さんのあれを主体にしてみますと、東京、大阪、名古屋3大都市の周辺の農地は、農地として認めないっていう、整地革命をやれって言っている訳、農政をやれって言っている訳です。つまりこれは一種の農政っていえば農政だし、そういうことは●農業革命だし革命になります。つまり、都市周辺の農地は、農地として認めない。周辺っていうのは都市内っていうのも含まれていますけれども、認めないと。そして、その認めないっていうそういうなんて言いますか、農政改革をやれって言ってます。農政改革って言っても農業革命って言っても同じことです。つまり、言っていることは同じことです。つまり、農業革命のひとつの方法としてやれって言っている訳です。理由は、竹村さん●。それは、いわゆる都市周辺の、3大都市周辺の農地っていのは有閑地になっていて、有閑地になってて、それは大兼業農家っていう、つまり本来の専業農家でない人が大部分を持っていて、その土地は有閑地になっていて、そこに例えば柿一本植えておけば、税金は宅地なりの税金じゃなくて農地なりの税金を払えばいいっていうことになっているから、損なもんだから柿一本か二本植えておいて、柿一本か二本植えておいて都市の中にそういう農地がたくさんあって、そういうのはだいたいけしからん、しかもそれは専業農家がやむを得ず食うためにあれをしているならともかく、そうじゃない人、第二種農家がだいたいがやっているんだっていう、こんな馬鹿なことはないってな、こういう論議ってのがあります。それからもうひとつ竹村さんの論議に付随していく訳ですけれども、農業の大集約化っていうこととそれから、助成金制度としての農業、助成金制度なしの農業を育成しろって言っている訳です。竹村さんの●助成金制度は駄目だって言っているのは、要するに助成金、助成金って言うけれども専業農家のつまり14.何パーセント専業農家にいくぶんより、この二種農家のようにサラリーマンと兼業してとか、そういう他に収入のあるそういう農業に、やっぱり特有の育成助成金制度っていうのは、今でも通用している。だから、そんな馬鹿なことはないっていうことを、だからこんなのを是正しちゃえ言っている訳。だからそういうのをなくするし、なくて成り立つような農業を育成しろっていうことと、大規模集約農業、集約をやれっていう大規模集約化っていうのは農村の内部から、内部から地域的に自然に合意を得て寄り集まって出来たものでない限りは、この集約は一種のなんて言いますか、資本主義革命になります。つまり資本主義、つまり農業に資本主義を導入しろっていうことと同じことです。つまり、言っていることは同じことです。だから、これはやっぱり一種の資本主義による政治革命を意味します。こんなことは傾向なしに、あるいはなんて言いますか、反動なしにこれが出来るっていう考えるのは間違いなんだ、甘いんだって、竹村さんはすぐ出来るようなことをいうけれども、こんなことはそんなに簡単には出来ないことなんだ、つまり革命なんですよ。本当は革命なんです。だから、反動も起こるし大変だ、俺はこんなことするのは大変なんだ、だけどもまあ、そういう主張があります。それから、農業への企業進出を認めろっていうは大規模集約と同じ、いわゆる資本主義的な革命っていうのは導入しちゃえって、それで農業の生産性を高めてしまえ、それで言わば対外的に競争力っていうものを付けるようにしようっていうことは、ことを竹村さん、ほぼ同じ考え方ですけれども、そういうふうに言っています。大前さんの考え方を、竹村さんの言い方とはちょっと違うんですけれども、言っていることは同じことです。それで大前さんの考え方のニュアンスが違うのは、要するにやっぱり都市周辺の農地っていうのは、なんて言いますか、税金として農地の税金を認めないっていうだけじゃなくて、要するにそういうじゃなくて、●宅地に売ってしまえ、そして一般大衆の住宅難が若干程度、なんか解消するし、だから若干程度解消するし、そうしたらばそれがまた円高に対する内需拡大の刺激にもなる訳ですし、一挙両得の面もあるから、都市周辺の農地、有閑地っていうのは全部宅地化して、つまり宅地として売っちゃえっていうふうに、そういう、ふうに大前さんは、そういう論議をしています。それで、それだけでも根本は同じなんで、どうも僕には出処が同じような気がしていてしょうがないんですけれどね。なお、小さいことも言っています。小さいことっていうのは、農地から農家からすれば重要な問題なんですけれども、円高格差、これは現代の●、円高格差を還元するために、米と麦と肉の輸入規制だけは取ってしまえ、っていうふうに言っています。取ってしまうと、日本の米は国際価格並みに、米などは国際価格並みに落ちてくるから、落ちてくるから、そうすると、なんて言いますか、都市一般大衆の職制っていうのは、所得の中で占める食品の量っていうのは減ってきて助かるっていうことですから、助成金を配布すれば、税金分は、だいたい税金分は減ってくるんで、だいたい助成金と税金分両方を国家予算10兆円くらい、1兆円の借りっていうのは要するに東京に住んでいる、東京って言いますか、大都市に住んでいるサラリーマンの税金を全部払わなくていいっていうのと同じくらいの額がそこにあるっていうこと。それから減税を実施しろ、減税を実施しなきゃ駄目だっていうふうに言っています。それから、もうひとつ、農協は解体しろっていうふうに言っています。農協はあるから農産物は高くなるんだっていうふうに、つまり何かって言うと、農家が栽培した、収穫した作った製品を食品を売るっていう場合、どうしても農協を間抜きしているからだいたい高くなっちゃうんだ。だから農協なんて役に立たないんで、こんなの解体してしまえって、こういうふうに言っています。それからもうひとつ言っていることは、つまり、しばしば、じゃあ戦争でも起こった時に、戦争でも起こった時にたちまち、日本はそういうことやったら食糧難が重要じゃないかっていう論議がある。それに対しては本当はそんなことはねえって、要するに金さえあれば、そんな食糧なんていくらでも買ってもらえるんだから、そんなことは本当はないんだっていうふうに、竹村さんはそういう論議をしていますけれども、その他に竹村さんが言っていることは、海外に、要するに食糧拠点っていうのを作るようにせいって、それで、ことがあれば、そういうところに、なんて言いますか、そういうところから供給出来るっていうふうに、そういうことをやれば良いっていうふうに、施設っていいますか、それを作ればいいんだっていうようなことを言っています。ここらへんのところが竹村さんの論議の調べてみたいっていう項目であります。

12 農業革命の問題

 で、皆さんはどういうふうに考えられるか分かりませんけれども、僕の●の仕方によれば、要するにこの中の何項目かは一見すると竹村さんは簡単に言っているけれども、僕は農業革命の問題だと思います。つまり、本当は革命だからもう、革命だから要するに断固として強権を発動しようが弾圧しようが、なんでもやっちゃうぐらいの、そういうあれがなければ出来ない項目が●含まれていると僕は理解します。だから、竹村さんや大前さんが言うほど、こんなことは簡単でないというふうに僕は思います。つまり、そこが僕は駄目だ、この人たちの駄目だなところだと思う。それから、この人たちはこういうことは自民党の政府は少し考え方をしっかりやれば、こんなことは出来るんだっていうふうに思っている、思ってこういうことを言っている訳です。しかし、僕はそうは思いませんね。これ、自民党がやろうが共産党がやろうが社民党がやろうがここの中の何項目かを一回実際にやろうとしたなら、やろうとしたならば、これはやっぱり革命ですから、ものすごい抵抗を受けるっていうことが間違いない。つまり、それを押し切るだけの必然性とあれがあるならば、やったっていいけれども、しかし僕はそうは思いませんね。僕はそう思いませんね。これは、だから非常に甘い論理だっていうふうに思います。つまり甘いもんだと思います。だからどうしてかっていうと、だから政策というよりは、いわゆる資本主義革命ってことを提案していたっていうことを意味していたと思います。で、資本主義革命というのと社会主義革命というのと同じだ、革命だったらばその項目はいくつか含まれていますから、これをあの●含んだ上でなければならないってこと。これは、反対論議の人がしばしば同じようにしてきますけれども、僕もそうだと思いますけれども、黙ってこんなことしたら都市周辺の農地を宅地化して売り飛ばしちゃえって言ったら、黙っていたらもちろん資本主義的に買われ、資本主義的に売られるに決まっているんです。だから、その宅地化された農地はたちまち高い値段になってきて、やっぱり一般サラリーマンはあまり、あまり●に預からなかったっていうふうになるような気がします。それからもうひとつ、それじゃあそれを避けて例えば政府が例えばその宅地を全部予算を取って買い上げて、政府が買い上げて、そこで政府が国家でもって宅地、住宅を公団住宅じゃねえ、何とか住宅ってのを、国家住宅を作ってそこに配置したっていうふうに、これは社会主義国家がやっていることとそっくり同じだ。で、そうやってそれじゃあ、一般サラリーマン、都市労働者ってのがそこに入れたというふうに、入れるっていうふうに、まあ仮に考えたとしても、それは強烈な抵抗を配備しなければ出来ないと思いますし、それから、それをやるって、やるっていうことで、労働者あるいは一般大衆は、良くなったかって、生活が良くなったかって、それはロシアを見れば、ソ連を見れば良く分かります。それで、格差がなくなったか、そんなことはないけれども、やっぱり労働者はやっぱり貧しいですよ、ソ連てロシアって貧しいですし、富んでる奴は富んでますよね。国家官僚は富んでますよ。だから、ちゃんとそういうふうにやったからと言ってさ、別に革命に値するほど革命かっていうことはなってくると、そんな大したことはないですよってことになる。それから良いですけれどね。大したことになるでも何でも良いけど、やるならやるで良いけど、ただその場合に要するに、黙っておけば反対の人たちは反対の人が言う通りで、たちまち資本家が先に買っちゃって、高い金で宅地を売るに決まっている訳ですよ。宅地って。そしたら一般サラリーマンはやっぱり住めなかったって、やっぱり金のあるサラリーマンの方から住んで、そうじゃないサラリーマンは住めなくなったってなりますし、それをやめて国家が宅地を買い上げて、それでそこに家を作ってそこに居れるようにしたらば、そしたら箱の中にたくさん労働者を詰め込んだような鉱山住宅みたいな国家住宅が出来る、国営住宅が出来て、それを●、それで労働者の、良くなったっていうんならそれで良いでしょうけれども、僕はそういうのは良いんだ、良くなったっていうのは思わないですね。だから、良くなったとしても大した問題じゃねえって、流血の革命をやるまで、やってまでやるべき問題かって、そんなもんでもねえなっていう気がしますから、そういうふうに思います。その程度のことだと思います。でも、やっぱり革命を含んでいるっていうのがやっぱり大切なことだと思います。それは、その人たちを、この人たちはそういうことを分かってないんですよ。つまり、簡単に考えているんですよ、こんなこと。つまり、要するに、農村だって都市だって同じだけどね、私有しているものっていうものね。お前これ取っちゃえっていうふうに、お前から取っちゃうっていうこととかね、お前これ売っちゃえ、売りたくもないのに売っちゃえっていうことを強制するっていうことがやっぱり革命なんですよ。で、大前さんの論理はやっぱり、そうなっていますけれども、つまり、日本の革命、農地の農業革命っていうのは、2回過去に行われている。1回は要するに明治初年、6年頃の地租改正っていのがあるんですけれども、地租改正によってつまり、農業市場、だいたい地租改正の眼目ってのは、ひとつは要するに農産物、物納性ですけれども、つまり太古からあった貢納性って訳ですね、つまり、アジア的に貢納性って訳ですけれども、物納性ってのをやめて、要するにお金で納めることが出来るようにってこと。それからもうひとつは要するに、農業市場を開いて農産物を売るっていう売る市場を開くことが出来るようにするっていうのが明治6年からの地租改正の眼目な訳ですけれども、その眼目がやっぱり農業のいわゆる近代化っていうのの、近代化ないしは●化っていうのの道を開いたって。もちろん、地租改正はものすごい悪制でもありまして、つまり、たちまち慣れない人は自分の土地を取られただけで借金を背負っているふうに零落しているっていうので、不農村のほか、だんだん農家がどんどん中層の農家も下層の農家にだんだん没落してって農業がたくさん起こる訳ですよ。だけど主旨だけはそんなんじゃなくて、主旨だけは非常に良いので、農業の近代化の要因を含んでいたっていうのが地租改正なんですけれども、それが1回目で大前さんと●。それから2回目は戦後、マッカーサーによる農地カイコウ。これは、地主の農地をあれして小作農をやめにし、地主の農地はある程度に制限してそしてそれは小作農に分けるようにして、それで小作農をなくすっていう、大地主をなくすっていう、それがマッカーサーのやった第二農業革命。この第二農業革命っていうもの、これはマッカーサーがやったから、やってそれを受け入れただけだから、のほほんといていますけれども、これは日本の、つまり政府は、例えば、これを自民党政府がやろうと、共産党、社会党政府がやろうと、これを日本の第二次のつまりマッカーサーの第二次改革でも、これを日本の政府が、つまり時の支配者っていうのが国家がやろうとしたら、やっぱり僕はやっぱり流血のあれまでいくっていうくらいな、やっぱり大変な革命だと思います。それは占領下に占領軍が一種のなんか強制力っていうか、圧力をまだ象徴的な圧力を持っていたから出来たっていう面があって、やっぱりこれも相当大変な革命だったっていうふうに思います。それで、大前さんの言うには、第三次農業革命ってのがあるとすればそれは現代なんだって。それは、その主たるものは何かっていうと、この一項目にあげた、つまり、大都市周辺の農地っていうのは、農地として認めないようにしようって、つまり、宅地並みの租税を払えっていうように、払うようにするっていうような、そういうようにしようじゃないかっていう、そういうことが大前さん、竹村さんもそうだけど、大前さんのそれなりの論議の眼目です。これは、一見すると何でもない事を言っているように見えますけれども、これはやっぱり相当な、僕は相当な革命だっていう、部分的にはあれですけれども、相当な革命だと思います。この革命はやっぱり様々な大前さんも竹村さんも様々な根拠ある、根拠を持ったデータってのを自分なりに上げていますけれども、それでも関わらずこれほど多くの反対がある訳です。つまり口が良いだけで、殺しかねない、大前、竹村を殺せっていうふうに言いかねないくらい、すげー反対論議ってのが僕が読んだ中にある訳です。たったそれだけのことを言っても、それだけの反応があるくらいに、やっぱり僕は大変な論議なんです。だから、これはやっぱり、大前さん、竹村さんが言っているようなものにはならない。でもし、こういうことをやるとするならば、唯一言えることは要するに、都市に一般大衆と、それから農民との間から選ばれた委員会みたいなのをつくって、この委員会の、例えば権限なしには宅地を売るとか売らないとかは成り立たない、絶対承認しないみたいな、そういう委員会は純粋に政府でもないし、それから他のあれでもない、とにかく農民と要するにサラリーマンの代表が、一般農民と一般サラリーマンの代表から構成された委員会と、もしあれだったら農業経済専門家ってのを●して、そういうのから出来た委員会が、ものすごい権限をもって、革命的権限をもって革命●権限をもって、これは、要するに、これのあれを承認を得なければ、売るのも認めねえっていう、宅地作るのも認めねえっていうくらいなことをやらない限りは、やっぱり僕は、大前さん、竹村さんのこの改革論っていうのは、僕は成り立たないと思う。だから、僕は思うには、自民党内閣がこれをやるっていうふうに僕は絶対思ってないですね。そうならない、やれないと思いますね、これを。やれないと僕は思っています。

13 自然史の必然性

 だけれども、大前さん、竹村さんの論議の中に、汲むべきところが、良いところがあるとすれば、僕は、僕に言わせれば、放っておけば何十年だとか何百年だとかは知りませんけれども、放っておけばだいたいのこういう段階に行くと思いますし、放っておけば都市周辺の農家、特に兼業農家はそのうちに自分の農地を売るだろうっていうふうに思います。つまり、ボツボツと売っていくだろうっていうふうにいって、それで農業人口が減っていくだろうっていうふうに、黙っていればたぶんそうなるだろうって思いますから、そういう意味合いの一種のなんか自然必然性みたいなのを竹村さん大前さんの論議の中には含まれていますから、だから、そこが良いところだと思います。そこがやっぱり資本主義、言って名付けていれば、資本主義保守革命の一種の政策効力って言いましょうか、そういう意味をこの論議が含んでいる所以だと思います。皆さんが検討された時には、大前、竹村ってのはけしからん奴だって、一番ひどいことを言っている奴だ、こういう連中、ひどいこと言っている奴はね、要するに、俺ははっきりそう書くけどね、大前、竹村は売国奴だっていう言葉を言ってるんですね。この論議は最低ですね。こういうことを言わしたらいけないのですよ、皆さんね。こんな事言われたらね、戦後四十年は全部パーになっちゃうんですよ。こんなこと言う奴は許しちゃいけないんですよね。そういう論議を許して、売国奴だったって、そうかって、僕はそうは思いませんね。この人たちは、この人たちは僕は一種の国際感覚を持っているっていうふうに言い返しますね。この国際感覚を日本人が受け入れることがどんなに重要なことかって、つまり、昔、戦争中みたいにね、戦争中の●ってのはそうだったんですけれども、農村に●、そしてあらゆるものは全部蓋をしていく訳なんですよね。それで、国家主義者なんですよ、つまり、国家っていうのは永遠無窮に、特に日本国ってのは永遠無窮に続くみたいに思って、それをその論理、理念の中に入れていった訳です。それで、大前、竹村さんの論議にどんな反対をしてもいいけれども、これをその売国奴っていうふうな言い方をしては絶対にならないんですよ。つまり、それこそは戦後40年の我々の成果はそれしかないくらい大切なことであって、論争じゃないですよ、国際的なんで、国際的なのは良いってことなんで、それから国家ってのは、いいですか、国家っていうのは要するに、ある歴史のある時に国家ってのは発生したのであって、作ったんで、人間が作ったんで、必要として作ったんで、これはある時に人類の歴史と共にあったんじゃないんですよ。歴史の非常に後の段階に必要により出来たんであって、必要ある時に必要として出来たのものは、ある時に必要上消滅するに決まっている訳ですよ。だから、歴史を変えれば国家なんてやがて消滅するんですよ。そんなことは論議の中に入っていなければいけません。つまり、つまり歴史の途中で必要上出来たようなものは、歴史の途中にまた必要に要らなくなってこれはなくなりますって、全部国家なんてなくて、要するに民衆がね、対等に交流できるっていう、そういう社会ってのはそれは理想の社会前提のことであるし、人間が平等に階級なしに生活できるために平等になるための前提においている。要するになにが問題なのかっていうとね、こんなことばかばかしくて言うのもおかしいんですけれども、要するにね、国家と、国家と資本とはね、もし切実に対立する場面があったらね、場面が社会のどっかにあったら、その時は資本が、資本の側に加担するってのが左翼なんですよ。分かりますか。それからね、資本と労働者とはギリギリに対立する場面があったら、労働者に加担するのがね、労働者の利益っていうのに加担するってのがね、それが左翼なんですよね。それからまだあるんですよ。そこが重要、現在重要なんで、もし、労働者と、労働者とそれから一般大衆との、一般大衆との利益が、利害がギリギリに対立する場面があったら、一般大衆に付くってのが左翼なんですよ。ここはよくよく、ものすごく考えてほしいって、皆さんが、左翼がいたらものすごく考えてほしいことなんです。これは、現在のあらゆることでそれが出来ていないですね。つまり、常に先進消費国であって、一般大衆と労働者って、特に組織労働者とは対立する場面ってなものが時々問題として現れてくる訳なんです。そうしたらば、一般大衆に、労働者はね、一般大衆の利益に付くのが労働者なんですよ。特に自覚ある労働者はその時に自分の利害を捨てても一般大衆の利害に付くってのがね、それが労働者なんですよ。それが左翼なんですよ。左翼の考え方なんですよね。それをつまり、段階がそこまで来て、先進消費国が来ているってことは、そのことは皆さんに時々は考えてほしい訳です。ですからそれを考えるそれ以前の考えをしている人は大抵些末なことを言いますね。例えば、国家と国鉄民営化分割問題ってのは、たとえば起こるとするでしょう。そしたらば、大きな、大きな理念として、左翼ってどう加担しなければいけないかって、それは分割民営化に加担しなければいけないんですよ。つまり国家の利益より、利益と資本の利益ってののどっちを守ったら良いのか、またどっちが良いとしなければいけないかって言ったら、資本の利益の方が良いとしなければならないんですよ。それが左翼なんですよ。だから、分割民営化が、国鉄民営化が反対みたいなことを、分割民営化が反対みたいなことを、労働運動の総連合がそんなことを資本主義ってのはとんでもない奴だっていう論議なんです。つまり、それは動かすべからざる、左翼的原則なんだって、その上に立って、その上に立って兼業する人と失業する人は新たな職場っていうのに向かう訳ですよ。それを確保するためにね、それを確保したり、それを要求したりするためにね、それこそ、とことんまで統率すればいいんですよ。統率すれば良いってのは現在の段階の問題なんだ、その代わり国鉄民営化ってのは反対だ、分割民営化は賛成だっていうふうな方針を出して、その上で個々の労働者がどんな場面どう具体的に苦しむのか、それは、どういう方針で、どういうふうに兼業が出来るようになっているのかってな問題についての要求はね、要求に関する限りはもうとことんやっちゃえ、それこそ組織を賭けても良いからとことん戦うみたいなことを、そういう方針を出さなければね、こんなものは闘争にならないですよね。それは分かり切っていることで、つまり、分割民営化の方が良いっていうことは、労働者だって分かっている訳ですよ。つまり、労働者だって自分が組織を離れて、いったん家に帰って家族と一緒に、国鉄乗るときと、それから民間の鉄道に乗るときとはどちらが気持ちが良いんだとかさ、どっちが横柄じゃねえんだとかさ、それでどっちが赤字だけなんだとかさ、赤字ってのは税金ですからね。それも、つまり、●が無くなんのか、そんなことは自分で知っている訳ですよ。労働者だって。だからおかしんですよ、そんなことは。だからそうじゃないんですよ。だから全然違う。そういうふうに、だから、分割民営化反対と言いながら、言って、反対する奴の方が一番ロジカルだっていうふうに思われて、一番左翼だって思われて、それでそれにそうじゃないんじゃないかっていう奴は、あいつは●だっていうふうに言われる、言われてしまう、っていうことになって、それじゃとことんまでやるのか、ってお前、死ぬまでやるかって、それまでやるかってそんなことはないんですよ。いつのまにかバーンってなっちゃって、あーもう期限が来た、分割民営化で、なってみたらそんなに悪くなかったって、こういうふうになっちゃう。これでもう忘れちゃっている訳です。それが日本の闘争のやり方で、●闘争のやり方です。これ見てご覧なさい。これだって同じだよ。同じですよ。だから、ものすごい存在ですよね、そこは。だからこれを竹村さんたちの考え方もウカウカしているのはそういうことで、これはもう相当厳密なね、相当革命的なって言いますか、厳密な委員会みたいなのを作ってね、それでやらなければたぶん駄目だと思いますね。大前さんたちの考え方、竹村さんたちの考えでも成り立たないと思います。それから、これを自民党がやるとは思いませんね。出来るとは思いませんね。これ相当な度胸ですよ。これ本当にやる気があるんなら、相当な度胸でね、相当な強権も発動しなければね出来ませんから、僕はやらないっていうふうに高をくくっています。ただ自然に放っておけば、都市、大都市周辺のあの兼業農家は、あの自分の土地を高くなったらだんだん売っていくだろうってことは、それは俺は間違いないと思うから、それはひとりでにそうやって売られて、それでしかもそれは宅地屋さんに儲けさせるんならば、こういうふうにやれって言ってんだと思います。これはだからそういう方向性としてはこれは僕は良いんだと思います。方向性としては良い方向性を指していると思います。こっちが進歩的だと思っています。僕は思っているんです。こんなことは、この人は自民党指示だから進歩的じゃなく反応的で、こっちの奴らは元左翼だったから進歩的だ、そんなことはないんですけれども、今のほとんどの左翼っちゃあほとんど反動的なことばっかりしか言わないんですよ。だから、そうじゃないんですよ。要するに現在、確かに大部分の場面ではね、やっぱりこっちは保守的でこっちは進歩的、こっちは資本主義的でこっちは訳の分からねえ社会主義的っていうふうになってて、なっている場面ってのはありますけれどもね、だけれどももっと違う場面ではね、先進消費国では、違う場面ではってことは、最も先端的な場面ではね、要するに真理により近いことを言った方がね左翼的だったってね、真理に近くないことを言ったら、左翼的でないっていうふうな、そういう分け方が可能が段階ってのがある、出てきたっていうことを、皆さん、良く頭ん中に入れておられた方が良いと思います。それだから、どちらが真理に近い遠いとか、それは自民党に属しようが誰に指示しようがそんなことは関係ないですよ。真理に近いと言った方が左翼なんだって、真理の遠いことを言った方が右翼もしくは反動体制。そういう段階が先進消費国では論理的にですけれども生まれつつあるっていう、そのことは、もし、もちろん都市になおさらそうですけれども、そのことは皆さんよくよく心得ておられるっていうことが、そういうこともあるんだなってことを心得ておられた方が良いと思います。判断が狂わないと思います。あるいは、判断、心の中の判断と口で言う判断とが狂っているっていう、食い違うことがなくて済みますから、そういうことも心得ておられた方が良いと思います。だからそういう段階っていうものはね、先ほどの方の言ってみれば、一般大衆と労働者、組織労働者って言ってもいいんですけれども、その利害が相反する場面ってのは●な場面ってのが出てきつつあるってのは言えると思います。つまりそういう場面では、一般大衆を利益に付くっていう方がそういう方が左翼的なんだよ、って進歩的なんだよってことが言えるっていう場面ってのが少しずつ出てきつつあるっていう現状だっていうことをお考えに入れられていた方が良いんじゃないかっていうふうに思います。

14 エコロジストの主張は農村反動革命

 それからもうひとつ、今度はこういう論議に対して反対している人たちがいます。それで僕は農協が出しているようなパンフレットというのは読むことが出来なかったんですけど、これは農協よりももう少しラジカルな文化団体だと思うんですけども、農村文化協会っていうところが現在の農業っていうのがお米の逆襲とかいう特集してまして、たまたま本屋さんに行ったらあったんで買ってきたんですけれども、そしてその中を見ましたらヨシモチさんっていう、横浜国大の経営学の先生ですから、もしかすると農業経済の専門家かもしれないんですけれども、経済部の先生ですけれども、この人の言っている論議が一番まともでっていうか一番、中では一番良かったと、良い論議をしておられたっていうふうに思います。この論議の仕方をいわば、反対の論議の、なんて言いますか、一種の象徴として挙げてみますと、どういうことを言ってるかっていいますと、いくつかの項目があるんですけれども、労働者の平均、都市労働者の平均●ってのは、賃金上昇●とすると、そういうふうに似てるっていうふうにデータが出てくるとすると、その高賃金っていうのはまぼろしなんだっていうふうに言ってる訳です。これはこのヨシモチさんの論議の面白いところがあるんですけれども、どうしてかっていうと労働者の賃金、安い賃金の労働者が●ている、始めに労働者の賃金が安かったと、それだから安い賃金を使って、例えば日本のその製造業者とか、製造業者、たくさん安い賃金で作られた製品の自動車でもカメラでも良いんですけれども、そういうものを作って、それをアメリカのあれとか東南アジアとかに売って、それでもって、貿易黒字を●している。その貿易黒字は日本貿易黒字を、日本の国の持っている総所得として財産として考えれば、考えてそれを労働者の員数なみに割ると、そうすると確かに高賃金が出てきちゃう。それだけど、おかしいじゃないかって、はじめの低賃金の労働者、低賃金でもって貿易黒字を生んだのに、貿易黒字が生んだ、黒字を加味して、黒字財産を加味して賃金計算をすると高い賃金になっちゃったっていうのはおかしいじゃないかっていう論議は、これはとても面白い論議だと思いますね。面白い論議で、もうこれは面白い面白いって思って読んだら、僕はあるところは当たっているんじゃないかと思いますね。その通りじゃないかと思いますね。その通りで、だからつまり、問題なのは要するに、国家が黒字、国家が●国家として財産を国外に持っていたとしたって、その財産が国内の民衆、労働者とか大衆に、農民に還元されないんだったら、そんなのいくら財産を持ったってしょうがいないんじゃないかっていうようなことがある訳ですから、いくら財産を持ったって、富んだりしたって、そういう富んでるって言われたってしょうがないじゃないかって、ちっとも富んでるような実感がないじゃないかっていうふうなことになるので、その論議はあるところでは当たっていると思います。当たっているように思います。面白いもんだと思います。だけれども、その論議の仕方っていうのは、やっぱり大前さんや竹村さんと同じでね、なんか要するに邪馬台国論争みたいな感じがするんですよ。こんなことでね、こんなことでね、両方で上げ足を、データを、違うデータを持ってきては上げ足を取りっこをしている訳でなんですけれども、取りっこしている訳なんだけれども、こうやってるとね、要するになんか、邪馬台国が九州かなんか近畿地方かっていうことで盛んにやってるのと同じように、なんて言うかね、一種の熱中感っていうかね、熱中感に襲われる訳ですよ。そういう意味ではね、あんまり面白くねー訳ですよ。つまんねーなってなんですよ。それで、思いました。それからもうひとつ僕が思うにはやっぱり、このヨシモチさんって人はね、中流意識の幻想とかって本を講談社から出している人なんですけれども、それは僕は読んだことはないんですけれども、現代、日本の一般大衆ってのは、中流意識を半分以上の人が、自分が中流だっていうふうに思っているっていうふうな、そういう中流意識を持っています。それで、そうすると僕は、中流意識と言うんだから、中流意識と実際に中流であるかとはまた別問題ですから、全然別です。ですけれども中流意識を持っているっていうのは、明瞭なデータですから、持っている訳です。半分以上の人、70%とか80%の人が中流意識を持っています。そうするとそれは幻、幻想です。ちっともだから生活が豊かになっているかどうかってこととは別なんだって。それから、賃金が多くなっているかということとは別なんだっていう、中流意識を持っていることは確かです。意識としては中流を持っている。ところが、キシモトさんの論議を見ると、苦しい苦しいっていう論議なんですよ。つまり、俺たち苦しい苦しいっていう、労働者は苦しい苦しいっていう、農業も苦しい苦しいっていう論議なんで、僕ね、苦しいという意識とね、絶対苦しいかっていうのは別だとまた思います。それから、またその、苦しい苦しい、本当に苦しいっていうことと、それから、苦しいっていう人が楽な意識って楽しい意識っていうのを持つっていうのもあり得る訳ですし、本当は苦しいんだけど、その人が中流意識を持っちゃったりすることもあり得る訳です。中流意識を持っている人は少なくとも気分の上では良い気分だったり、だってことを僕は意味していると思います。だから、キシモトさんのなんて言うのかその、論調の何て言ったらいいか、苦しい苦しいばっかり、そういう論調で塗り込める訳なだけれども、これ、一般大衆のあれをとってみたら中流意識を半分以上の人が持っているってことは半分以上の人はあまり苦しいと思っていない、苦しいんだけれども、本当は苦しいと思っていないことを意味していると思います。つまり、楽しいと思っているかどうかは別として、まあまあ楽でやってるよって思っているっていうことを意味していると思います。だから、それは実際に苦しいかどうかとは確かに別なんだけれども、苦しい苦しいっていうのもなかなか実情もその通りかっていうとそうでもない訳で、だから、キシモトさんの論議は、言ってみればそこのところは僕はね、あんまり納得し難いなって、その論調は納得し難いと思ったところで、でもこれは面白いように当たっている論議なような気がします。それから、あと、なんて言いますか、生産者価格みたいなものについても、言っている訳です。一番言ってることの肝心なことは●ですけれども、87年度の生産者米価の引き下げってのは、キシモトさんが5.95%だって言っている。それから、87年度の減反面積は77万ha、これは全国水田面積の27%に当たる。これだけ耕地面積が減った。それから生産者価格が引き下げられた。これは僕は色々データを上げてきたものとあんまり違わないと思います。その傾向が段々そうなっていくだろうと僕は言いましたことと、あんまり変わりないと思います。だけど、そこが問題なんですけれども、要するにこの二つ、つまり87年度の減反面積が水田耕作面積の27%であり、それから生産者価格の5.95%引き下げられたって、引き下げられた。この二つの、なんて言いますか、不利な条件の重なりですね、言ってみれば。農業は●ならないっていう人にとっては、不利な条件に該当します。これは要するにやっぱり、なんて言いますか、キシモトさんがこれは限界値じゃないかっていう、そういう危機感を自分が持つっていうふうに言っています。つまり、ここはもう限界値じゃないか、これ以上の農業の、例えば水田面積がこれ以上減っていき、また来年度はまた減り、生産者米価はもっと減っちゃった、それから、竹村氏や大前氏が言うように、農業を自由化したために米価が例えばもっと減っちゃった、引き下げられちゃった。こうなったら、もう駄目なんじゃないかっていう危機感が、あのそれだからこの60、あ87年のこのなんて言いますかデータっていうのは、いわば限界値じゃないか、限界値としての危機感みたいなものをキシモトさんが感じるっていうふうに、この中で言っています。それでこれは、なんて言いますか、これはやっぱりどうしても、なんて言いますか、農村革命って言いますか、農村中心、農村中心的な革命みたいなものを考える人にとっては、やっぱり非常に、なんて言いますか、危機感の旺盛なところだと思います。だから、まあ農村、農本主義的な革命っていうのは反動革命っていうのは、名前を付ける呼び方をするとすれば、反動革命にとっては、農本革命にとっては、これは重要な問題だっていうふうにキシモトさんは認識している訳で、僕はキシモトさんとは全然未知の人ですし、別に個人的な●は何も持っていないですし、この論文はとても真面目な論文でしたね。真面目で真剣に考えて、真剣に自分の思い、思いの丈を言っている論文で、深いちゃんとしたデータもきちっと言っているし、冷静にとにかく出来るだけ冷静に論じていて良い論文です。だから、良い、好感を持てるんですけれども、あのしかし、ここいら辺が限界、ここいら辺が限界だっていうことを、限界の縮小点だって、つまり、農村と農業の縮小点で、これ以上やられたら、もう駄目なんじゃないかって危機感がキシモトさんにあると思います。それは、とても良く分かります。これはだから、これをもし固執するならば、この限界、キシモトさんがこれが限界だって、これ以上の農村の縮小と生産者米価の引き下げを許さんぞ、っていうふうにもしキシモトさんの主張はそこまで言うんならば、それは革命ですね。革命だから、ここで踏みとどまらなければなりませんね。農業者はここで立ち上がれっていうふうに言う以外にないと思います。●が言わなければ、先ほど言いましたように、自然に、自然必然にもっと僕は減っていくだろうと思っています。こういうのが真理だと思っています。つまり、これは誰が止めようもなく減っていくだろうっていうふうに思います。僕はそれをそう思います。だから、ここで止めようっていうんならば農業革命を、農業●反革命ですけれども、こっちを進歩革命だとすればこっちは反動革命ですけれども、逆に言ってもいいんです。同じですよ。こっちを革命とすればこれは反革命、どっちでもいいですから、言ってください。それは良いんですけれども、だけども要するに、ここを限界で踏みとどまれって言うんであれば、もう今からでも農業者は立ち上がる以外にないですね。もしキシモトさんがこれを身を挺して主張するならば、ここで前衛として立ち上がる以外ないですね。僕はないと思います。それほどの、キシモトさんの論議の中にはそれほどのことが含まれていると思います。キシモトさんは一種の学者研究者として、それから自分の考え方としてこれが限界点だってもう限界点を感じるって言っているんですけれども、本当はこの言っていること自体は相当重要なことなんだっていうことがことだと思います。だから、それをやっぱりキシモトさんは良く知ってないと思います。つまり、これが本当に重要だと思うならば、やっぱりこの人は、やっぱり農民を立ち上がらなくちゃいけないって、なんでもいいから立ち上がって、これ以上のあれは許さんって立ち上がれって、農民革命をやれっていうふうに、あるいは農民暴動をやれとか、農民デモをやれとか、そういうふうにやる以外に僕は止めらんないと思います。これは言っているだけならいいけど、しかし、こういうんだったら、これが限界値だって言うんならば、キシモトさんはそういうことを本当は考えなくちゃいけないです。考えてやらなきゃいけないですね。それぐらいこれは重要なことをご自分は言っているんだっていうことを、こっちと同じように、ちっとも自分では分かっていないんですよ。自分で自覚していないってことは、僕は問題だと思います。それから、あらゆるエコロジストたちの主張とか、農村●この人たちの主張ってのもそうですね。そこまで言うんならば、そうなんです。それから、もうひとつキシモトさんが僕が面白いと思って、ある意味面白いと思って、もっとももっともだと思って言った、あれしたのは、竹村さん大前さん、大都市周辺の農地を宅地化するれば宅地地価が下がるって言っているけれども、それは、それは常識的に考えたら嘘じゃないかっていうことを言ってるんです。つまり、そうしたらたちまちその土地屋さんが買いに来たり、それから、お金のある不動産屋さんが買いに来たりして、たちまち宅地地下は上がってきてサラリーマンが入る頃には、もうすげー値段になって、上の方のサラリーマンしか入れねーっていうふうになるのが必然じゃないか。つまり、それで大都市周辺の土地を宅地化したら、都市の一般サラリーマンが住宅問題が解決するんだって簡単に言うけれども、そんなことにはならないぞって、価格がかえって上昇してしまいますよ、っていうことを言っているんです。言っています。キシモトさん指摘です。これ、キシモトさんの指摘は非常に面白い指摘で正当かと思います。だから、だから大前、竹村さんの重要なことを言っている、重大なことを言っていると、僕はさっきから言う訳で、これを、この宅地の値段をですね、一般サラリーマン、あるいは下の方のサラリーマンは、一般大衆でも入れるとか、もっとあれして、労働者も入れるようにするためには、僕は非常に強力な委員会、つまり、一般サラリーマンと農民から委員が出て、委員会を作ってそれが相当宅地問題についての、なんかあれをしない、権限をやるみたいなことをしない限りは、僕はこれは、キシモトさんの言われた通りになるというふうに僕は思います。だから、これは非常に妥当な論議だっていうふうに思います。それで、逆に言えば、こうしたいならこうしなければ駄目だよっていうふうに思いますし、逆に●、87年の減反面積と生産者米価の値下げは限度だっていうふうに、農民、農村が絶滅の限度なんだってキシモトさんが言うんだらば、もう立ち上がる以外にないから、やれよ、やれ、っていう以外にないです。

15 対立にどう対処するか

 僕はその問題は一回違うように考えます。つまり必然として、必然として確かに僕は生産者米価それから農村、なんか田んぼの面積、畑の面積ってのは減少していく方向に歴史は行くだろうっていうふうに思います。これはあのもちろん、あの自民党の政治と社会党の政治とは多少遅い早いのニュアンスが違うでしょうけれども、そうじゃなくて運命の必然がそうだっていうふうに絶対的にそう思います。僕はそれは確信が動いたことがないですね。僕はマルクス●動いたことがない、そんなことじゃあり得ないですよ。だけど遅い早いのことはあります。つまり紆余曲折はその都度ありますけれども、しかし、段々歴史が流れていく方向はそういうふうだろうということは間違いないから、これはもうここは限度で限度で危機の充満点だっていうふうにキシモトさんが言うほど僕は思ってないですね。僕は思ってないです。つまり、一方で言えば大前、竹村氏が言うようにしなくたって、都市周辺の兼業農家はだいたい自分の土地をだいたい売っていくだろうっていうふうに思います。宅地はさらに売っていくだろうっていうふうに、黙っててもごくバラバラに売っていくだろうっていうふうに、都市は膨張し、農村はやっぱり減っていくだろうっていうふうになるだろうっていうふうに僕には思われます。だから両方の対立ってのは、つまり邪馬台国論争に九州か近畿地方かっていう論議と同じで、熱中して殺しかねない●僕はそう思っていません。しかし、これは分かりません。つまり、僕はもう農業をやっている人じゃないですから分かりません。ただ要するに理論的に推理する限り、あるいは文明史的に推理する限り、あるいは日本資本主義の現状っていうのから推理する限り、僕はそういうふうに行っていくだろう、なっていくだろうっていうことは、どうしても政府が違ったって政治が違ったって遅い早いの違いにしか過ぎないっていうふうに僕はそういう理解の仕方をとっています。だから、両方の論議に反対です、僕は反対。また両方の論議のどっちかに入っていくことは僕は反対。だから、僕は入っていくことはありません。両方の論議を批判する機会があれば批判しますけれども、両方の論議に入っていくっていうことはありません。両方の論議からどちらの論議からも聞くべきものはあります。だから決してなんか切り捨てるってことはなくて、皆さんももしあれだったら両方の論議をよくよく検討されて、これ自分の論議にしていいのか、そうじゃないのかっていうことを、どうか、なんて言いますか、きちっと検討されるっていうことをしていただきたいものという気がします。それ僕なんかが言える唯一のことで、このキシモトさんもひとつ言っています。日本のそういう言葉を使っているから面白いから●、日本の工業側、都市側は農業を切り捨てて●を考えている。つまり農業側、都市側ってのは面白いことだと思うんです。これはキシモトさんの言葉なんで、つまり典型的に農村とも漁村とも利害が対立して、工業と都市とはまた同一で、こっちは農村を撲滅して痛めつけて、それで自分たちだけは繁栄しようとしているみたいな論議なんで、実感、感覚を持たせる言葉遣い何ですけれども、僕は典型的にそんなような気がします、論議はそんなような気がします。そして今度は、全体の問題になる訳なんですけれども、もし、これ、農村文化協会のエコロジストたちとか、ここに加担して●くずれみたいなやつ、そういうやつに対して全部言えることなんですが、エコロジストに対して言うことなんですけれども、このキシモトさんがさらに農村、文化とは何か、農とは何かということを言っている訳です。これ、エコロジストが言っていることなんですけれども、農の営みっていうのは環境保全っていう意味があるんだっていうようなことを言っている。それから、水っていうのは、例えば水と森がお米を作る、お米が逆に水と森を作るっていう相互関係があるんだよって、つまり、生態系、自然生態系を守らなければならないよって言っているんです。それから、農業における文化こそが本当の文化で、カエルの声とか、カエルの声を聞いたり、●を聞いて、そこに情感を通じさせるっていうのが、そういう感覚をなくして何の文化ぞっていうことが言えるんだっていうふうに言ってて、これはやっぱり、泣かせるっていうか、泣かせるっていいますか、とても良い論議です。良い論議ですし、僕は同感を持ちましたね。なんて言いますか、エコロジストの変な奴がいてね、何とかしてっていうのがいるんですけれどもね、この人、情感を持ちましたね。いい人だなと思いましたね。だけども、言ってる論議は僕は如何とも、どうしてかって言いますとね、もしもキシモトさんがそういうことで文化としてもそうだし、農村の、なんて言いますか、農業人口とか田んぼの面積とかについても、減少は駄目なんだ、限界なんだっていうふうに考える。そういう考え方で都市と農村っていうのは対立しているんだっていう考え方の下で、そういう考え方を元に、文化の基礎は農村にあるんだっていう、農村にしても、●っていうのは、そういうふうに基礎があるんだって、この論議を例えばキシモトさんが、要するに農文恊の人たちでもいいけれども、これが、これを全体の問題、つまり日本の現代、日本の消費の全体の問題に還元しようとした場合、どういうことがあるかっていうと、そんなことはちっともキシモトさんは言っていないですね。これは大都市を、逆にこれはね大都市を壊しちゃえっていうことを言っていると思います。つまり、大都市を壊さなければ、つまり大都市のビルディングとかそういうのを壊しちゃわない限りは、この人の言うような文化も出来ませんし、この人の言うような経済効用も出来ませんし、農村と都市との好関係みたいなものっていうのも出来ないと思います。だから、やっぱりこれは相当な革命だと思います。つまり、相当な革命で、これをやるならテロリストと結託して、やっぱり都市のビルを壊しちゃうんだよってしかないと思いますね。爆弾で壊しちゃえと言うより仕方がないと思います。つまり、この人たちの主張っていうのは全体革命の問題、全体の問題に●するとね、どうなるかっていうと、どうしてもそうなるんですよ。つまり、あのね、工業、製造業はね、農村と自然破壊に至らない自然と調和出来る範囲内の農業と工業だけをやって、それでそういう都市だけを作って、それでやっていくっていうふうになるんですよ。そうだったら、文明を、現在の出来ちゃっている、既に出来ちゃってる文明を壊さなければならない。そうじゃなければ、この人たちは一地域に依存的な社会を、この人たちの理想的とする農村、相集まって建設するっていうことですね。つまり、人工農村を作るってこと、あるいは人工都市って言ってもいいんですけれども、人工都市をどっかの地域に建設して、自分たちで理想都市を作ってやっていくって、つまり、部分的にやっていく、部分社会としてやっていくって言うんならば、これは可能だと思います。僕はうまくやれば可能だと思います。だけれども、全体の問題として言うんならば、大都市を全部壊さなければ、破壊しなければなりません。それはやっぱり相当な革命です。相当な革命じゃなければ大都市のビルディングを理由もなく破壊するっていうことはだれも同意しないですし、これはものすごい反対を受けますね。まず反対を受けるよりそれより本当に成り立たないんですよ。だから僕はこれはやっぱり初めっから部分的な論争にそう社会を作るという意味だったら、やりようによっては成り立つけど、全体革命の問題としてはまったく成り立たない。だから、一種のなんて言いますか、この大前、竹村的なこういう論議に対する反動●しかないっていうふうに僕は思います。だからこんなの加担しようがないですよ。つまりない訳ですよ。皆さん、少なくともあるかも知れないけれども、僕はないね。僕は絶対加担しないね。こんな。駄目ですね、この人たちは。駄目だと思います。これも僕は駄目だと思います。こんなことは出来ないんですよ。だけど、トリはやっぱりこれですよね。唯一、たぶん放っておけばそうなるだろうっていう方向はこの人たちは指しているんです。でもこの人たちはやっぱり、ひとつのユートピアを持っている、ユートピアを指しているっていうことだけが、僕は取り柄だと、良いと思いますね。ユートピアっていうのは良いことですから、それからすれば、部分社会的になら実現できます。つまり、過疎地帯とか砂漠を開拓してとか、今、日本の山村の過疎地を開拓して、そして、理想的な、こういうエコロジカルな理想的な農村あるいは都市を作るっていうこと、この人たちはやることが出来ます。本気になればやることが出来ます。そうなっていくだろうって方向性は指しているけど、これは、つまりこれは自民党政治がそれをさせろっていうふうに、そのように自民党を改革しなければいけっていうふうに言っている訳で書いている訳ですから、どっかそれはナンセンスだと思いますね。これは自民党の政府では出来ないと思いますね。社会党の政府でも出来ないと思います。僕はこういう委員会が出来るみたいなことが、それぐらい強力なあれがあったら別ですけれども、そうじゃなければ僕は出来ないと思いますね。かって戦後だって日本社会党ってのは政権を取ったことがあるんですよ。やったことは何だったと思います。つまり、全然成ってないことをしているんです。

16 国家を開くということ

 こういう論議、つまりね、この種のどちらも、キシモトさんの革命もそうだけれども、大前、竹村さんのことでもね、これだけのことでもいいから、身をもってやろうとするならね、やっぱり国家の廃滅って言いましょうかね。国家を廃滅っていうと大袈裟で極端になりますから、国家を開くっていうことは使っていますけれども、国家っていうのはいつでもそれは不都合だったり、一般大衆にとって不都合だったらば、一般大衆の無記名投票でね、無記名投票で直接無記名投票で国家っていうのはリコール出来るっていうこと。つまり、変えられるっていうことです。そういうようなことは何かにね、このやり方もこのやり方も僕は出来ないって思っていますね。成り立たないし、それからね、日本の社会党でも共産党でも誤解しているんだけれどもね、つまり、あのね、国家はそーっとしといてね社会主義革命ってのは出来ないんですよ。成り立たないし、やればロシアと同じで、ソ連と同じで、要するにやっぱり、労働者はマッチ箱の中に入っているし、それから、多少保険とか障害、労働補償みたいな多少●より良くなって良いんでしょうけれども、マッチ箱に入って低い生活をしています、それから●や労働者よりずっと低い生活をしています。そうしておいて、やっぱり富める奴はいる訳です。富んだ生活をしている奴はいる訳ですよ、いっぱい。官庁に勤めている奴や国家に勤めている奴、いる訳ですよ。だから、全然何にも良くなっていないですよ。全然良くなっていないですよ。それで、一般大衆のレベルよりずっと低いですよ。一般先進消費国より低いですよ。民度も低いですし、自由度もないですよ。それは竹村さんの言う通りなんで、それはどうしてかって言ったら、根本的な、国家を開かないで、つまり不都合なことをしたら、それから民衆にとって不都合だったら、無記名投票でね変えられる。無記名投票で5割を超えた投票率が「やめろ」って言ったら、ゴルバチョフだかなんでもいいんですけれども、そんなの全部やめるんだっていうね、そういう制度がなかったら、つまり国家をいつでも開いていてっていう制度がなかったら、こんなちゃちな革命とか、そんなら強引の上で出来そうですよね、如何にも。如何にも出来そうなんですよ。出来そうだけど本当は出来ないですね。それから、こっちだってそうなんだ。全体の国家革命みたいなね、国家革命ないしは社会革命の問題に●しようとすれば、これは大都市の大部分はみんな壊して歩くしかしかたがないです。そんなこと誰が合意すると思いますか。それ以外に同意するには相当な強権を発動しなければ同意しないですよ。それだけ重大なことをこの連中は言っているんでね、だけど、自分たちは重大なことを言ってるっていう自覚なんか何もないですよ。つまりなぜかって言ったら、要するに、国家的な●あるいは、文明の流れっていうもの、あるいは文化の流れっていうもの、それから全体の経済史のの流れっていうもの、自然史の延長である経済史の流れっていうもの、そういうものっていうのを分かっていないから、全然考えようとしないから、そういうようになっちゃうんです。これに対立するためにとか、自民党に対立するためにとか、そういうんだから、つまり僕に言わせればね、別にそういう、そういうこともあるから良いんですけれどもね、良いけれども、僕は違う部分も出てきたって言いたいんですよ。つまり、こっちでも自民党でも社会党でも共産党でも代わり映え無いよって、ソ連、ロシアにもね、ロシアにも、要するに、日本でもね、労働者大衆ってのはどういう生活しているか見てきてご覧なさいって、●がないよって、むしろ、こっちの方が良いくらいだよっていうふうに、ちゃんとなっている。代わり映え無いんだよって、要するに、どこが代わり映え無いかっていうと、連中の言っていることとやっていることはね、そうなんだけれども、要するに国家を、国家を開いているっていう、レーニンにはそういう理想はまだあったんだけれどもね、国家を開いたりね、開く、つまりね、一般大衆が無記名投票で、以降できる国家の●をリコール出来る、変えられるっていう、そういう制度っていうのが無しにね、社会主義革命なんかやろうとしたって、ただの100%管理資本主義にしかなりゃしないんですよ。そういうのは分かり切っていることじゃないですか。つまり歴史が実験して分かり切っていることですし、それから、日本国でやろうとしたって、それは出来ないんですよ。そんなのに、そんなこと言う奴いるのね。多いのね。全然違いますよ。だからそうなる、だから僕が言う推し進めることはない、僕の見解に同じてくれなんてことは言わないんだけれども、言わないけれども、今日まだして最小限で言えることはね、要するに、どちらの論議にも加担しないでください。加担しないで冷静に客観的に考えて、何が利益なのかって、何が論議を、農業を日本の農村の利益なのかっていうことをよくよく考えて、あるいは自分なりに利益になることを考えてやってくださいって、絶対に両方の方にどちらかの論議に入らないでくださいって、それが皆さんにお勧め出来る、今日お勧めできる、僕が唯一の、素人として唯一のことなんです。それから、ほかのことで言えばあんまり素人だって言いたくないところがあって、やっぱり国家を開くとかね、国家っていうのは決して国家主義的に永遠至上のものではないんですよって、こっちの連中は最後の言葉が出てきているんですね。こっちの連中なんか。最後には売国奴っていう言葉、売国奴じゃないですよ、要するに、視野の問題だって理解しないとね、視野と保守政治に、保守的な政党を支持している人たちだっていうふうなことを、あるいは資本主義を良いと思っている、そのまんま良いと思っている人だったらっていうことは言ってもいいけれども、本当だった言ってもいいけども、しかし売国奴ではありませんよ。そういう意味でしたら売国奴呼ばわりしている連中よりも、こっちの方がはるかに開明的ですよ。要するにはるかに開けている、視野が開けている人たちですね。そういうことを言っちゃあならんですよ、またそういう論議に加担しちゃあならないって、こんなのに加担したら戦後40年の全部を●されてしまうんですよ。だから、そういう論議に加担してはいけないっていう、いけないって言って、だけれどもこの人たちは言っているんですね。さすがにまだこの人たちは、こちらを売国奴とは言いませんでしたね。あの反核運動の時の売国奴とは言いませんでしたね。反対したけれども売国奴とは言いませんでしたね。それは、やっぱり●が効いているんだと思いますね。だから、少し●を使ってほしいんですね、竹村さんに。そんなことを言ったら駄目ですよ、言ったらおしまいです。おしまいだっていうことを本当に心得てくださいね。それでおしまいのことが既に言われている、だからこういう論議のどちらかに加担するようなことは、まあ僕はお勧めしないですね。僕の論議は素人の論議ですから、いくらでも批判してもいいし、いくらでもあれすればいいんだけれども、ただ参考としてくださればいいし、特別、僕の論議を聞かなくても本当に農業白書を読んでください、丁寧に読んでくだされば全部書いてあることをしかしませんから、書いてあることを僕なりにアレンジして、僕なりの考え方で組み立ててお話ししたりしかありませんから、いくらでも皆さんが勉強されれば、直接勉強することが出来ます。ただ、僕がこういう勉強会みたいでお話しする、意見があるとすれば、今みたいなことを僕が言えることだっていうふうに思います。決して、賛成なんかしてもらいたく、もらう必要もないんだけれども、全然ないですけれども、ないですけれども、まあ最小限主張をさせてもらうと、まあこういう論議には入らないでください、自主独立して、ご自分たちの農家の●、あるいは利益っていうものをどうやったら出来るかとか、どうやったら●の時代に対応して、また生き延びられるかっていう、そういうことを考えて行かれ、また考えが●人たちがいたら、そういう人たちとよくよく論議されて、それこそ大きな農村の構造を構想されても言い訳で、イメージを構想されても良いですし、もっと大きく文明、世界の文明の全体をこうあった方が理想じゃないかっていうふうに、そういうことを論議されて机上の空論で良いですから、そういうものを作ってご覧になるっていうことは、作ったり壊したりされるっていうことは、とてもいいことだと思いますね。それは19世紀末の資本主義導入期の初期の社会主義者っていうのは、そういうことをやった訳です。現状を見ながら、それから空想しながら、そういうことを構想した訳です。あの人たちの論議はだいたいにおいて中都市を作って、中都市を作ってしかも農村、人によってそのなんて言いますか、農業に従事して自分がそうしたいならば農業に従事することも出来るし、またなんて言いますか、都市労働に従事することも出来る、そういう、そういう社会、都市づくりをし、農村つくりをしようっていう、それはユートピアだっていうふうに一生懸命社会主義の人たちは、やっぱりユートピアは描いた訳です。あえてそれに近づけようっていうふうに考えた訳です。この竹村さん的論議っていうのは、19世紀末くらいに、これを、いま語られている論議みたいなことを19世紀末くらいにやれば、相当、革命的論議のひとつになってね、自由なる生産者の合同性みたいなものでやっていくみたいなね。農村もそうやって都市もそうやってみたいな、そういう論議に、ある意味でくっつけることができる訳で、そういうものでしょうけれども、僕は現在の先進消費の段階では、このまんまじゃ成り立たんよと、これを強行したら相当のもんだよ、相当なことになるよっていうふうに思いますし、ましてアンチテーゼってのは、ましてこれは全体の論議にはなりませんね。ユートピア都市を建設するっていう、自分たちの仲間内での論議になりますけれども、全体文明の論議にしたいためにはもう、●、かつて誰も運命の破壊の上に革命をやろうとしたり、次の社会をやろうとした、喪失した革命ってのはない訳で、マルクスの革命もそうだし、レーニンの革命もそうなんだけれども、そういう意味では、高度になればなるほど、革命はやりやすいっていう言い方をしています。つまり、今まで●、それはちゃんと使った上で、延長戦で駄目なところっていうふうに、やっぱりこうなんだっていうふうにやっていこうじゃないかみたいな、かって現に存在してしまった工業を壊して、つまり例えば大都市を壊して、それでこういうね、直納直行的なそういうユートピアを作ろうって、そういう革命って反動革命以外あり得ないです。存在してないです。だから、この人たちは、やろうとするならば、やっぱり僕は部分革命、部分社会を作る、部分ユートピア地域を作るっていうことだと思いますね。そういうのじゃなかったらこれは、急に出来ませんね。急にしたらたちまち●に変化しますね。あるいはたちまち●。これは、たぶん間違いないことだと思います。僕はそういうことを考えて、そういう種の対立には入っていかない、いかれない、いずれも加担させられないで、第三の道って言いますか、第三なんてのはないんですけれどもね、一種の本格的な道っていうのと、切実な道っていうのを、両方をこう自分たちで作っていくっていうやり方をされた方が、僕は良いんじゃないかっていう気がするんです。それで、これは、なんて言いますか、外来者って言いましょうか、都市生活者で農業をやったことがないし、農村を内側から何も知らないんだ、農耕っていうのは一年ぐらい●ですけれども、あんまりあれな、あてにならないですから、そういう奴が、外側からデータだけ持ってきて、なんだかんだって想像力を働かして、●、そういう程度のもんだっていうふうにお考えになってくだされば、参考になるところだけ取ってくださればよろしんじゃないかっていうふうに思います。ただ消極的に言えるのは、先ほど言いましたように、これには入らない方が良いですよっていうような、辛うじて消極的に僕なんかが言えることですっていうふうに思っています。まあ、これで一応終わらせていただきます。

司会
えーどうもありがとうございました。本来休憩をとって質疑応答っていうことに入りたいと思ったんですけれども、時間がだいぶ経過致しました。えー実はここの会場、5時までしかないんで、あまりないんですが、若干でしたらいいんじゃないかと思うんですが、質疑に入りたいと思います。何かご質問等。

18 質疑応答1

 限りなく農地が減っていった結果はどうなるかご存知か。どうなるかって、それはもうしょうがないから言わないし、しょうがないんだと思うんですけれども、ただ僕はね、それは都市論から僕は類推って言いますか、政策としてって言いますか、類推して言えることは、なんて言いますか、日本みたいに狭いんですよ。狭いって山間部が多い訳でしょ。山間部を開けば良いっていう、平地にしちゃえば良いっていう論議にまた成り立つんでしょうけれども、僕はね、なんて言いますかね、都市っていうものの考え方をまた変えなければいけないですけれども、都市の内部に農村を作るっていうような発想をする以外にないんじゃないかなっていう気がするんです。
 それで、その農村っていうのは自然農耕の農村っていうよりも、施設、設備方の農村っていうのを都市内部に作る以外にないんじゃないかなっていう気がするんですね。自然農耕型の農村ってのは、例えば山間部ってのを開いていって、それでそこで、それを●するとか、そういうやり方をする以外、結局は究極のイメージとして言えば、それ以外にないんじゃないかなって。だから対立概念じゃなくて一種の往昔概念っていうか、そういうやり方っていうよりないんじゃないかなっていう感じ、イメージとしての実感を持っている訳です。これは都市論の問題から、都市論の問題から僕は一所懸命考えたんですね。東京みたいな大都市っていうのはどういうふうになっているかっていうのを考えるために、ひとつはこの今日の話に関連するんですけど、東京みたいな大都市ってドンドン外側の外殻の農地って言いますか、それを宅地にしていったり、低い山、低い丘みたいなのを全部平地にならして、宅地会社が開発して個人にあれしてドンドン●していきますね。
 それで一方であれです。それはもう誰にも分かることなんですけれども、もうひとつあるんですよ。もうひとつものすごい収縮なんですよ。ものすごい収縮をやってるんです。これは大都市のね、一種の中心部みたいなところに行ってみると、その収縮ってのはものすごく分かる訳なんですね。この収縮ってのは僕は、なんか例えばひとつのビルから、ビルの窓から覗いてね、視野の見える範囲ってのはすぐに決まる訳ですけれども、ところが視野の中に、なんて言いますかね、いくつも視野でなければ到底入って来ないような風景がね、全部入ってくる訳なんです、一視野にね。つまり、視野がね、もう重なっちゃってるみたいなね、もう過密なところがね、ものすごく出来ちゃってるんですよ。これは都市の、都心部って言いますか、そういうところになると一番激しいんですけれど、そこんとこだけは何か、ものすごい、何かビルとビルが接して、ビルの向こう側にまた人が見えて、人の向こう側にまた次のビルが見えてって、次のビルの向こう側にまた鉄道の線路、汽車が走っているとかね、そういうところって至る所にある訳ですよ。
 そうすると、この密集っていうことは何を意味するんだっていうことっていうのは、やっぱり相当考えたんですね。考えて、結局、その中を見てみるとね、やっぱりね、なんて言いますか、ビルの屋上で何かトマト作ってみたりとかね、何かビルの、何か十階目くらいにそういうの作ってみたりだとか、お茶室を作ってみたりとかね、日本庭園作ってみたりっていうのはあるんですよ、また。すると、これを見るとね、ものすごく奇妙な感じを受けんだけどね、よくよく考えてこれも仕方なしに、過密が極まったところでね、こういうものが発明されちゃってっていうか、で作られたっていうね、これは一種の過密っていうことに対する一種の、何か対応策っていうものがこんなになっているんだっていうことが、とても良く分かるところなんで、そういうことを普遍していきますと、やっぱり、何かどっかで、どっかで何か都市が農村っていうのを、農業を内包してしまう、特に施設型の農業を内包してしまうっていうやり方をする以外ないんじゃないかなっていう感じ方っていうのは、究極のイメージとしてはありますね、僕なんかには。ただこれは本当にイメージですけど、都市論をやってたところから普遍したイメージなんですけどもね、僕はそういうイメージを持っていますね。
 だから、対立っていうことは過ぎた、だから、人工的な都市とか、人工的が農業のやり方って、労働の●みたいなもの、そういうところへ行く、行くことにやがては追いつめられるだろうなっていうふうに漠然とではありますけれども、想像しておりますけれどね。

19 質疑応答2

 時間があまりありませんけれども、ひとつだけに絞りたいと思いますが。歴史の進歩って言うんですかね、その中で必ず究極的にはある程度のね、そこに吸収されていくんでしょうけれども、産業革命でもなんでも、労働者は最初抵抗していたと思うんで、現在行われている様々な合理化に対しても、労働者はね、抵抗しているのは私は正しいと思うんですよね。それはなぜかと言うと、多大な犠牲をね、自分に強いているものだと思うし。僕もね正しいと思う。だから、先ほど言いましたように、資本と、資本と労働者とはね、対立するっていう場面では労働者に加担するのが左翼である、こう言っている訳です。だから、僕もそうですよ。
 それでね、先ほど●、●と思うのは、やはりあれは国家のね●じゃなくて、私はね、極めて利害関係が一致している、季節労働者なりね、我々の税金で●した●がドンドン●。そういう意味で私は最終的には全部、分割に対してね、対してが筋だと思うし、。僕はそう思いませんね。僕はそう思いませんね。あんな闘争の仕方してさ、最後にあんたたちに分割反対だっつって、分割されちゃったじゃないですか、されちゃったことに対してあなたはどういうふうにされる訳ですか。元に戻せっていう訳ですか。それは●敗れることもあるともあると思いますしね。いやいやそんなことないですよ。そんないつでも敗れている訳ですよ。いつでも敗れている訳ですよ。それだけでもさ、敗れ方の型ってのはいつでも決まっている訳ですよ。で、そうじゃない、俺が言うのはそうじゃない、あなたが言うのは違いますよ。
 それは、国鉄からね、今の国鉄民割分営化、民割って言うけど、民割の人が官庁から停職してきた人だったりね、それから規制のどっかのコウザン的な資本家だったりとかってことはあるでしょうけれども、僕はそれは過渡的な形態であって、やっぱり●のね私鉄を作って、そのまあ、なんて言いますか、私鉄を作っていくっていうような、そういうあれとは形が経過が違ってるっていうだけで、過渡的な形態として変わりがないんですよ。つまり、国家が経営するか資本が経営するかっていう問題には変わりないことですね。だから、それは僕はもう歴然とそれは分割民営化賛成だっていうことが、大きな目標として、つまり目標として掲げるならそれは賛成なんだっていう、僕だったらそうしますね。僕だったらそういう戦いの仕方をしますね。
 そうしておいて、しかしその代わりに、要するに労働者、個々の労働者が例えば首を切られたりとか、廃止撤廃されてそれが不利な職場になるかどうかっていう問題。有利な職場を確保できるか、あるいは配置転換されたとこは確保されるかとか、それじゃなければ他産業への転職が保証されるかどうかっていう問題については、もう徹底的な闘争をしますね。徹底的な闘争をする。それはもうくたばるまでやるっていう、そういうやり方をするっていう、僕だったらそういう闘争●をしますね。それはあなたとは俺は違うね。●がね、私たちと分離されて両者不利な面については戦うっていうんじゃなくてね、分割民営化っていうのはそもそも●を潰すためにもね重要な●。いや俺は違う。それは違う。国労なんか潰れたっていいんだよ。国労なんか潰れたっていいんだよ。つまり、国労が潰れてはいけないって言っているのはね、国労に拠点を持っているね、そういう政党だけですよ。政党的な人物だけですよ。
 労働者はそうじゃないですね。労働者にとって、労働者は真偽で、例えば真偽で資本と抵抗したい、資本に対して異議を申し立てたい、そしてそれはある場合、政治的なところまで行きたいんだっていうならば、労働者は自主的にね、労働組織を作るべきなんですよ。そんな、今じゃそうじゃないんですよ。いわゆる国鉄官庁ってのは要するに、つまんない官僚型の、つまりね、官僚型の古い型の要するに左翼ですよね。つまりロシア革命のときの古い型の要するに前衛意識にあふれた、そういう左翼政党の一番大きな拠点だからね、そういうふうに言われているだけですよね。あんなもの、潰れたって何でもないし、また作ればいいんだから、労働者、労働組合を作ればいいんだから、あんな政党なんか一切入れないで、あるいは政党員と言えども、政党員としてのすべからずっていうね、規定を作ったそういうね労働組合を作ればいいんだから。民営、そのね、現在の民営化、JRですか、JR労働組合でさ、そういう労働組合を作ればいいんだから。
 もしあなたが要するにそういう一員だったら、あなたが作れよ、そういうの。作れよ、そういう政治政党なんかどこも入れない、全部入れないっていう、全部入れて入りたければ、要するに、政党員でないっていうことになって入ってこいっていう、そういう労働運動を作れよ、あなたが。そうすればいいんだよ。そうなんだよ。だから、君の言うことはね、全部規制政党が言っている、あるいは政治組織が言っていることの口真似なんだよ。全然そうじゃない。俺は絶対反対だね、そんなの。そんなの要らないんですよ、そんなの。国鉄労働組合なんて要らないんですよ。何をしたんですか、要らないですよ。そうじゃないですよ。そんなんじゃないですよ。そんなんじゃなくてね、要するに、そんな、それはそう国鉄労働組合とか、官庁の労働組合ってのに拠点を作りやすく、やすかった要するに官僚型のね、政治運動がやったね、そういう名残りが、それが潰れたくないからそう言ってんですよ。そんなのは潰れちゃったっていいんですよ。そうじゃない。既にそういう段階にないんだよ。本当いえば、労働者、例えば政党はそんなのは排除しちゃえ、それで労働者の自主的な、例えば労働組合を作ろうと、そして、もちろん政党員だって入ってきたっていいんだよ。
 しかし、それは政党員である資格は無しにして入ってこいっていう、そういう労働組合を作ったっていい時期でしょう、労働者は。そういう自覚を持ったっていい時期でしょう。一般大衆は既に意識だけはね、市民社会、つまり中流意識を6割以上、7割以上の人が持っているっていうことは、要するに市民社会が半分以上のところを一般大衆が自分たちが占めているっていうふうに、そういうふうに意識だけは持っているっていうことを意味しているんですよ。既にそういう段階なんですよ。それを労働者だけがね、官庁労働者とか国鉄労働者、労働組合だけが拠点だみたいなね、そういう政党にね、政党の方針に依拠しなければね、自分で何か出来ないようなね、そんなね段階ってのは、ある分にはとうに脱していい訳なんですよ。
 つまり、国鉄とかさ、要するに電電公社とか、昔のね。そういうところの労働組合なんてのは、既にもうね、そういう意識を脱してね、自分たちの自主的労働運動と労働組織を作って、政党のあれを聞かないって、言うことは聞かないって、それで、自分たちの政党員でも、自分たちの入ってくるときは抜けて入ってこいっていう、そういうね、あれを作っていい時期なんですよ。そういう自分たちが市民工だっていうね自覚を持っていい時期なんですよね。それはそうでしょうが、俺の言うこと違うかな。それは分かりますよね。分かったら言ってくださいよ。●労働者の関係なんかはね、今の状態で良いとは実は思いませんけれどもね、だからと言ってね、今、資本ないからね攻撃されているものをね、護衛しないで良いって言ってる●。いやそんなこと僕は言ってないですよ、ひとつも言ってないですよ。資本から攻撃されたら、労働者は抵抗しなければならないんですよ、それが左翼だって言ってるでしょうが。繰り返し。だけれども、労働者と一般大衆、あるいは生産としての労働者と消費している労働者とは自己矛盾したり、相対立したりする場面ってのはボツボツ、この先進消費国じゃね出てきつつあるって言ってるんだよ。そういう場合には労働者は一般大衆の利益に付かなければいけない、それが自虐的な労働者のね考え方だっていうふうに言ってるんですよ。
 あの、俺は自分の言ってることは正しいと思ってるね。つまり、正しいって、つまり誰も言ったことのないことを言っていると思ってるね。それでやっぱり俺は本当の左翼だっていうふうに思ってるね、思ってますね。だから、そんなの駄目ですよ。それはそんなに馬鹿な、馬鹿なこと言ったみたいにね、馬鹿のレッテルを貼ってもらっては困る訳ですよ。そんなんじゃないんですよ。本当の、本当の左翼ってのは何なのかとかね、本当の大衆の利益ってのは何なのかっていうことをやっぱり自主的に追及していく段階でしょうが。既に市民社会の一般大衆は自分たちが主人公だって言ってるじゃないですか。統計を取れば言ってるじゃないですか。中流意識だ、中流の生活だから言ってないんですよね。だけど、中流意識が持っている訳ですよ。7割、8割の人は持っている。そういうことは、市民社会の半分レベル以上のところに自分たちはいるという意識を持ってる、そういうことを意味するでしょう。
 それが数が6割以上いる訳だから、つまり、自分たちが市民社会の主人公だっていうふうに本当は思っていることを意味している訳ですよ。意味している、文化的な意味でもそうだし、娯楽的な意味だってそうだし、稼ぐこと、所得の面だってそうだし、自分たちが現在の市民社会の主人公だよと思っている人たちが一般大衆の6割、7割を占めているんだ。主人公だって思っていることを意味しているんですよ。労働者はどうして思わないんだよ、それを。思わないの。俺たちは主人公なのに、資本が横暴なことを言うじゃないのとか、政党が理不尽なことを言うじゃないの、進歩の名を借りて馬鹿なことを言うじゃないのって、どうして言えないのよ労働者は。組織を作ってそれを言えばいいじゃないか。そういう段階に既にある部分で到達しつつあるんですよ。そのことを知ってほしいっていうことなんですよ。
 だからこの種の対立には本当はあまり意味がないんだっていうことを言いたい訳なんですよ。もし対立するなら、実際、内部から、内部の必然から対立するならいいですけどね。そうじゃないんなら、そうして欲しくないんですよ。ましてやその、レッテルを貼って欲しくないんですよ。こういう保守的な人が得てして進歩的なことを言ったとするということをね、よくよくそういうことはあり得るっていうこと、つまり、真偽に対してどちらが近いかっていうことを言った方が進歩的なんだっていう、そういうふうに言える段階に来つつあるっていうこと、そういうこともよくよく知ってほしいんですよ。それがもう、今日のお話しの眼目なんですよ。俺はあんたの言うことは納得しないなあ、全然納得しない。それはもちろん、何回、何十回かやってもね、何十時間やっても同じなんですよ。しかし、ここを変えることは出来ないですね。あの、僕、自信がありますね。つまり、あの、自分の、なんて言いますかね、思想者としての自分っていうのに自信がありますね。
 だから、変えることは出来ないですね。何十時間やっても出来ないですね。出来ないです。で、僕の方が良い考え方●。だけれども、でも言いましたように、限界とか、あれは僕はちっとも、素人ですし、外側から言っているんですから、あんまり切実なことにあんまり走っていないから、そこはとてもきついところだし、想像力であれする以外にないんです、想像力と過去の経験で言う以外にないんですけれどね。ないんだけど、だけど、僕はあなたっていうような論議だったら、あんまり賛成しないですね。それでもいいですよって言ってもいいんだけどね、この頃、僕、苛立ってきたからね、苛立ってきたから、言うことにしてんだよ、もう。僕は違うって言うことにしてるんだよ。とんでもないんですよ。とんでもないことでね、あれしちゃうんですよね。とんでもないことで片づけちゃう人がいるから、そんなことはないんですよね。だから、それは僕は、あなたみたいな人、居たっていいんだけどね、またある局部ではそういうことはあり得るんだから、居たってもいいし、あったってもいいんだけどもさ、だけど、そんなこと言ってるとね、こりゃキリねぇやっていうふうに思うから、そうじゃない局面も出てきたんですよ、みたいなことが言った方が良いんじゃねえかって、僕は思っている訳ですけどね、だから、あえて声を大にしたんだけれども、本当はそれほど別に良いんですけれどね。あなたみたいな考え方があっても、まあ決していいんですよ。良いんですけどね。えーと、残念ですが会場の時間の関係もありますので、以上で今日の会議を、会を終了したいと思います。吉本さんへの拍手で今日の会議を終わりたいと思います。ありがとうございました。



テキスト化協力:齋藤寿輝さま