1 切実な恋愛体験からー直接接触を禁じた恋愛はいかに成り立つか

 吉本ですけれど、今日僕に与えられたテーマっていうのは、恋愛についてなわけなんですが、やー、ことは重大で困ってしまうわけなんですけども。だいたい恋愛はするもんで語るもんじゃないというのがぼくのモットーですから、どうしようか僕自身困ってしまいまして、窮鼠猫を噛むというか切実なる体験をしゃべる以外に方法がないとなってきました。
 僕が1年ほど体験しました、自分の恋愛についてできるだけ自分のほうに被害がないようにお話をしてみれば、多少はなにかしゃべれるんじゃないかという感じになりました。
 切実なる体験のところでお話してみたいと思います。相手のかたはもちろん、A嬢B嬢、エーさんビーさん閲歴その他全部フィクション、そいで内実のところはフィクションじゃないということで
 そういうお話をします。それに自分なりの意味付けと言いますか、自分なりの書き付けがあるとすれば、少し普遍的なことに、みなさんにとってなるかはわかりませんですけども、できるだけ体験告白を、できるでけ引き延ばして意味があるように・・あの、今日は僕はどのくらいしゃべるんですか?1時間くらい?あの、時間がきたら・・?(会場笑い)
 今日の話が恋愛と位置づけることができるとすれば、この恋愛は直接に接触することをはじめから禁じてしまったといいましょうか、ぼくのほうのことはそっちのけにしますが相手のかたが接触するのを禁止してきた、自分が接触することを禁止している恋愛という意味合いになります。A嬢B嬢が登場します。
 A嬢は大手の商社のキャリアウーマンというひとです。文学仲間の集会で友人に紹介され、僕は一度友人とお会いしたことがあります。
 Bさんは古典研究、とくに源氏物語の研究をやっておられるかたです。
 おふたりの恋愛は根本的にいいますとタイプが同じで両方とも直接接触を禁止されている、あるいは自分に禁じている恋愛、というふうにしか僕には受け取れないものですから、そういうふうなところでは共通だと思います。直接接触とか、対話っていうものを禁止した恋愛ってのはどうやって成り立つかといいますと、ふたつあると思います。
 ひとつは相手に直接に接触し直接に対面することを回避する、避けるという接触の仕方がひとつ可能なわけです。もうひとつ可能なのはことばによる接触、つまりことばによって間接化する接触っていうのがあるわけで、手紙であったりその他であったり、つまりことばを介しての接触ってのがなされる。結局ふたつの方法でしか今回お話する恋愛というのは成り立たないわけです。

2 ヌード事件

 一つの場面を紹介します。僕は密かにヌード事件と呼んでいます。夏など、お風呂に入りまして、裸のまま書斎に入ってバタバタあおいだりして涼んでいるのが習慣になっているんです。Aさんという女性が僕の家の庭に入ってその姿を見ておられたらしいんです。それで僕はそのことを知らなかったんですけれど、故人となりました親しい詩人に聞いたんですけれど、その詩人にAさんが告白したのを聞きました。「吉本さんはわたしに性的な関心がある、なぜならば、私の前で裸になってる」
 そのとき僕はびっくりしまして、そういう事実があったかどうかをいろいろ思い巡らしてみたんですけれど、唯一それに該当するのがぼくがお風呂から出て書斎で一人あおいで涼んでいるみたいな、そういう場面しか思い浮かばないわけです。どうもそれは、だからそのことをいっているに違いないという僕の理解の仕方でした。それでぼくが話してくれた詩人に、それはそうじゃないんだ、ぼくはお風呂からでてきて書斎に入って、で、ひとりばたばた涼んでいる、そういう習慣があって、きっとそれをさしているんじゃないかと僕は詩人に弁明したわけなんですけども、ところが詩人のほうは向こうが言うのが正しいのではないか、「ほんとうか?」っていうわけです。いくらでも疑うことができるわけだと思いいたりました。僕は愕然としました。つまりひとつのある事実があるとしますと、それは1つの場面あるいは視線によって如何様にも解釈可能なんだということに思い至りまして、僕は愕然としました。自分自身が仮にそうでないと思っていても、それは見方によっては如何様にも解釈できる、解釈可能性があるってこと、1つの事実とそれの解釈の間には私怨(?)が横たわっているといいますか、非常に越えがたい淵みたいのがある。その超えがたい淵を感情に入れればひとつの事実は如何様にも解釈できるものなんだと思いいたりまして、愕然としたわけです。
 ところでAさんの解釈の仕方は一面でいいますとこの人の解釈はおかしいと思うわけですけど、べつの一面からいいますと恋愛というのはどんな場合でも当人にそういった解釈をゆるすことがあります。つまり、自分の細胞のひとつひとつがかあっと燃えてしまって、そしてその場面では如何様な解釈も如何様な相手に対する理解の仕方も可能になってしまう、というような状態はひとつの恋愛のなかに必ず一度はあるもんだと。とするとだれでもその手の解釈は恋愛の中でやってる可能性があると僕には思われる。あながち、必ずしもAさんの解釈は不当であるというふうには、必ずしも僕自身思わなかったわけです。
 そこで僕はびっくりしたわけです。このAさんの解釈は不当であって事実はこうなんだ、ということをだれか第三者に納得しもらう手段はほんとうにひとつもどこにもないんだととてもよくわかって、ああそういうものかと愕然としましたし、しかし、そういうことは成り立ちうるんだ、ていう解釈も成り立ちうりますし、そういう恋愛も成り立ちうるんだと、僕自身は考えました。もうひとつ同じことなんですけど、Bさんは種類は違いますけど同じ共通点をもった種類の解釈をしてくれました。
 僕自身古典がすきで、ある学会の会合で出会って古典解釈の仕方についての話とか書簡を前からかわしてきたことがあります。あるときBさんが私は夢をみたと。「あなたが夢の中で裸の私の脇腹に顔を埋めて来た、そういう夢をみた。つまりあなたはわたしがすきである、つまり愛していると意味している」と書かれているわけ。「ですから、あなたはわたしに対して恋愛感情、つまり好きだと言う感情を現れにする根拠があるんだ」と書簡をくれたわけです。僕はまた愕然としまして、それは違うと。
 要するに関係があるとしましたら古典という関心、研究、勉強上のことで関係があると考えている。僕は異性であろうと同性であろうと、ごく通常の関係は中性だと思っている、ニュートラルだと思っている。もしすきときらいの間に中性の感情があるとすれば、たぶん大部分の人間の関係は男女であっても同性であっても、たぶん中性のところでで成り立っていると自分は思う。そういう分け方をしますと、ぼくはつまりあなたに中性の感情しか持っていないと思う。だからもう一度あなたの方も中性の感情にもどってもらいたいわけなんです。そうすればたぶん関係は永続すると僕自身は考える。
 そうでなければ僕はやはりめんどくさいものだ。その関係を好き、あるいは嫌い、愛、あるいは憎悪の関係を持つことを排除するといいますか、関係をもつことを億劫だからしないと思う。だからそうだったらば、せっかく勉強とかそういうものを介しての関係を壊さざるを得ないと僕自身が思うから、中性の感情にもどるべきじゃないか、もどってくれるべきじゃないかというふうに僕自身が手紙でもって説得したわけなんです。説得は聞かれなかった。「そんなことはないんだ、要するにあなたが私の夢のなかで私の脇腹に顔を埋めた限りは、あなたはあなたがどう言おうと私を愛していることには間違いないと判断していいんだ。あなたの言うことは成り立たない」ということを少しもためらわずに主張されて、そこらへんで懸垂状態になったということがありました。

3 自転車事件

 僕はひそかに自転車事件とよんでいる。僕があるとき血相を変えて自転車に乗り、道路を走ってきた。「わたしのことを追いかけて来た」というふうに今は亡くなった詩人に話したそうなんです。「それは私に執着があるからあんなに真面目な顔してわたしを追いかけて来たんです」と知人に話をしたと。僕はちょっと考えても思い当たることはない。よくよく考えたんですけど僕はかなり、その、自転車の暴走族らしく(会場笑い)この間ももハンドルのところで鳩尾をついちゃったんですけど、相当すごい勢いで自転車で道路を走らせてスリルのある通行人の避け方をしているらしいんで、そういう経験があるわけです。だからたぶん僕の解釈ですとどこかでそれを見ておられて、ご自分の方に向かって僕が走っている、と考えられたんじゃないかなというのが僕の解釈の仕方なんです。しかしAさんの解釈は全然そうじゃなくて、自分に執着をもって愛しているからわたしに向かって走ってきたと解釈された。このことも知人から聞きまして、僕はやっぱり愕然としましたけれど、そうじゃないんだと、僕がいかように主張したとしてももし知人がそれを信じてなければ、それはほんとなじゃいかって言われたら、どうしようもないんじゃないかなと思いました。つまり第三者に僕の解釈が正しくて、相手のひとの解釈はそうじゃないんじゃないかと断定する根拠はどこにもない、と僕はびっくりしました。この手のことは、一つの事実と解釈の間にはいつでも暗い淵が横たわっているってことは、僕は度々いろんなことで経験しておりますから、これはやっぱり大変なことだね、って思いました

4 Aさんとの一種の破局

 Aさんとの関係でもっとすごいことがあるんですけど、これは一種の破局というのがやがてやってきたんです。その破局がどうやってやってきたかなんですけど、あるとき僕の家のとなりにはお寺のお墓があるんですが、墓地のところでAさんがじっと潜んでおられたらしいんです。それをうちの奥方に見とがめられた。Aさんはびっくりしてすうっと遠ざかっていった、と奥方が言っていました。そのことが衝撃だったらしくて、Aさんがアメリカ人の知人に手紙を託されて送られて来ました。「Aさんの名前で送ってくれとたのまれたので、なにかよくわからないけどお送りします。」という書簡がきました。この方に迷惑かけるわけにはいかないと説明しました。僕の理解の仕方ではそうじゃないんだと。「Aさんとは一度知人を介して紹介されてお話したことがあるけれど、それ以降一度もお話したことがない人なんで、たぶんそういう関係はないんだと僕自身は思っています。不徳のいたすところでこうなりましたけど、僕はそうじゃないと思っています。ご迷惑をかけしました」という手紙をやりました。そのときAさんにも初めて手紙をやりまして、「そういうことでエネルギーを使うってことは無駄なことなんじゃないかと僕には思えるから、貴重な年代のところでもっと大切なことがあると思うから、違うことにエネルギーを使うほうがいい。多分僕は、あなたとは友だちを紹介されて一度お会いしたことがあると思うけど、それ以降プライベートに話をしたことが一度もないと思っているから、すきとかきらいとかいう感情が成り立ちようがないと僕自身は考えるので、僕にはそんな気分がないのでやめるべきなんじゃないか」と手紙を出して、それで、だいたいそのところで問題が終わりになったわけです。電話では同じことを繰り返す場面がありましたが、だいたいそれを区切りとしてAさんが僕の身辺ですか、近辺から影がふっといなくなってしまったとわかりました。こんなお話をしますといかにもおれはもてるん、だという話をしているように受け取られるかもしれませんがそうじゃないことをお話しているつもりです。つまり不思議なことに僕の方でもAさんが身辺といいますか、近所といいますか、家の周辺から姿が消えてしまった、なくなってしまったときに僕もなんとなくなんか今までどっかになんかの影があると思っていた。その影はやっぱりぼくをどっかでいつも見てる影なんだ、と心理の中ではそういうものが僕の中にあったんですけども、そのことがふっと消えてしまったということが僕の中でもおこりました。だから、それはどういうったらいいんでしょう、うまく申し上げることばがないんですけども僕の方でも大変気にかかっていて、たしかにそれまでは姿は見たことないんですけどどっかで僕は見られてるんだ、という感じがいつでもつきまとっていましたが、Aさんの影がなくなってしまったとき、ふっと心理の中から消えてしまった、ということがありました。だから、これは恋愛じゃないんだと皆さんは思うかもしれませんが、僕はこれはとてつもないけれど、恋愛の一種だと理解せざるを得ない問題を含んでいると思いました。直接会うことを禁じている恋愛が成り立っていると理解した方がいいように思ったわけです。

5 言葉による恋愛

 いまのAさんのことですけれども、つまりことばによる接触というものがあります。ことばによる接触というのは、盛んにAさんは僕に手紙を頻繁にくれるわけです。自分はこういうふうにして、スリッパをふたつ買った。あなたがはくように待ってるから来てください、という言葉からだんだんそれが進歩しまして、進行しまして最後のころには封筒の中にパンティーを入れて送ってくれるわけで、「今わたしは病気で寝込んでいるのでこれを見て我慢してください」というふうに書かれている。そういうのを送ってくる、ということばでの恋愛が濃密になってくることが同時にありました。
 もうひとつさけて通ることが出来ないことがありまして。僕は物書きですから、評価、散文を発表することがあるわけですが、発表された散文のある部分が自分にあてた暗号のメッセージだ、とうけとられていました。こういうことは、とくとくとしてしゃべっていると思われると大変きついのですけども、そうじゃなくて僕は自分が無我夢中になった恋愛の経験がないことがないもんですから、そういうときの自分の精神状態というのはやっぱりおんなじようなものなんで、紙一重でどっか違うかもしれないですけども、やっぱりなにかおんなじようになるんだと考えますと、なんとなくそれを侮るということはできないないなと思いました。そういう事実がありました。つまり、手紙によることばと、僕の方の理解の仕方では意識しないで書いている散文とか詩のなかの表現がやはりAさんにあてたメッセージだと読める、それに対して返事の手紙をくれる、と進行していったわけです。例を申し上げますと、僕の間に新しい去年か一昨年でた詩集「記号の(森の)伝説歌」があるんですが、いくつかの節を読んでみましょうか。窓のうち側に町が開けていた濡れたこころに海岸線があると同じようにうしろの窓から入れるだろう
 たとえばそういう節があるとすると、それは、自分のところ、Aさんのところの窓からはいっていくから待っていろ、というメッセージだ、と受け取られるわけであります。この種の受け取られ方は恋愛というものが冷めてしまっている、あるいは一方的にさめてしまっていると大変滑稽なんですけども白熱しているときはだれでもがたぶんそういう状態になっていて、そういう状態になっていますと自他の区別があんまりつかない。相手のひとの心が全部即座にこちらにわかってしまうと思えますし、また自分の心の状態は全部相手にわかっちゃっている、という感情をともないますし、またそのときは極端な誇張をしますと自分の体の細胞ひとつひとつが全部明るく灯りがともってしまっていて、見ている風景とかが全部新鮮にみえてしまうという状態があり得るわけです。誰でも恋愛のさなかにはそういうのがある。つまりそのことがなかったらあまり恋愛とはいえないだろうと思いますから必ずそういう状態はありうるわけです。そうすると僕はなんといいますか、相手の方ではそういうメッセージとして書いているのではなくても、それをメッセージとして受け取れる心理状態、精神の状態、というのはまったく恋愛においてありうることだと思うものですから、ただ冷めているか冷めていないかで解釈の仕方はどれだけ冷静になるかならないかってのがあります。すべての恋愛というのはその精神状態というのはあり得ると思うんで、ぼくは恋愛のひとつの体験としては普遍的ではないかと思われたわけです。Bさんの場合でもこのことがありました。

6 破局のさせ方の心得がない

 僕の問題ではなくて、一般的に古典研究における、ある学者の発表された論文が自分(Bさん)が以前に書いた論文の教説である、といいますかいわば盗んだようだ。それで、それは影響があるという次元をもっと超えてしまって盗んでしまったものだというふうに、手紙でぼくに訴えてくる。「あなたがそのことに対して責任があるわけじゃないけれど、その人に対してそういうことはやめるべきだとあなたが忠告してくれるべきだと思う」という書簡を寄越されました。相当このようなことが起こった場合なかなか難しいわけであります。僕らが話していることでも、あるいはフロイトの教説であるわけであるかもしれないわけですし、またフロイトの重大な影響を受けていて、それをあたかも僕、自分自身のものであるかのように話しているのかもしれないですし、もっと一般的にいえば人は誰かの影響なしにオリジナリティはありえないんだ、という理解の仕方もありうるわけですから、その種のことが起こった場合にはどっからどこまでが教説で、どっからどこまでがこれは甚大な影響であり、どっからどこまでが全然それはちがう、類似しているように見えてもまったくちがうものなんだと判定することはたいへん難しいわけです。
 この日のようなことをやはり僕は度々経験していて判定はたいへん難しい。一番良いことはタッチしない、逃げてしまうのが一番いいことなんで、これにクビをつっこんでこれは影響だとかこれは教説だとか、これは全然似ているようでも全く違うことだ、というようなことについてある自分の考え方を出すというのはたいへん煩わしいことだもんですから、そのことも僕は経験ないこともないものですから、僕は困ってしまってそれは不問に付してしまうといいますか、返事もすることもしないで放ってしまったというふうなことになってしまいました。そして、Bさんとのこういうような係わり合いは今でも続いているといえば続いているし、なんていったらいいんでしょう、今でも破局がきたということはなく続いております。破局ということはこの場合どういうふうにしてやってくるのか僕の方ではわからないわけです。つまりどういうふうにすれば破局がこれるのか、僕にいい方法ってのがないわけなんです。
 少し、最後に僕は自分というものを分析してみたいような、ほんとには分析しませんけども、少しは分析しないとこれはなんとなく図々しいような気がするのでしますけども。
 この日の問題についての破局のさせ方っていうのを一般的に心得ているひとと、心得てないひと。あるいは心得ている真性(?)の持ち主と心得てない真性の持ち主、っていうのが僕にはあり得るような気がします。そして僕はたぶん一番へたくそな、心得てないほうの人に属するんじゃないかと思っています。だからほんとうはどうしたら破局をもたらすことができるのか、あるいはどうしたら自然に破局はくるのか、ということについてなんら決定的な僕自身の考え方とか判断ということをもち得てないわけです。だから、Bさんとの係わり合いは現在でも続いている、持続しているといえば持続しているわけです。
 僕のなかで非常に大きな気分の割合をしめている、とはいいませんがBさんとの係わり合いはどっかで、いつでも頭のなかどっかにひっかかっていて、わからないわけです。そんなのはお前の自分勝手だ。破局の宣言をこちらが一方的にすれば終わりじゃないかと思われるかもしれないですけども、僕もそんな気もしますけども、一抹の不安があって、そうするとますます深刻な問題になっていくんじゃかいかとそこが一番、どっかにいつも引っかかっている問題なわけです。
 Bさんとの問題は依然として解決していないというのが現状なわけです。このふたつが僕自身が最近もっとも新しい恋愛体験のおわり、進行中、継続中の恋愛です。

7 正常な恋愛ー対幻想の関係

 こんなばかなこと、とみなさんが思われるかもしれませんので、僕は多少の理屈をつけてきました。理屈をつけないとないとだめなんじゃないかと。その理屈は、恋愛というのは、ぼくは三つの段階があると思うんです。
 恋愛というのはなにかっていうのはむずかしいもんで。恋愛とはなんだ、と定義するほどの見識がないんですけれど、ただ恋愛には、ぼくの見識でもいえることがあるので、それはなにかと申しますと、恋愛には僕は三つの段階と三つの種類があると思います。それを順をもって申し上げますと、ひとつは「正常な恋愛」です。べつに両方とも健康なひと、ということではなく要するに一対一でひとりの男性と一人の女性が出会って、そして両者の間に恋愛感情が起こっていく、恋愛感情とともに様々なべつの感情が起こってくる、というのが「正常な恋愛」といいますと、それが一番根本的であり、一番原始的な、一番根底的な恋愛といえるんじゃないかと思います。これを段階でいいますと、一番最初にくる段階だと思います。最初にくる恋愛。この段階はぼくのことばでいうと、通訳のかたがぼくのことばを通訳すると対幻想の関係といえます。これは正常な関係で、対幻想の関係とはなにかというと、「正常の恋愛」とは男のものでもなければ女性のものでもない、つまり、男性のものでも女性のものでもなく、少なくとも両者のあいだに対幻想というひとつの精神の領域を設定したとしますと、その対幻想の領域を流れて行くのが正常な恋愛の一番根底にあるのではと僕は考えるのであります。その場合には両者ともその領域に入っていきますと、両者とも男性であり女性であって、そこで結合という結びつきがおこる、というのがなくなっていく。それで、なにかわかりませんけれども、男性のほうがひとつの、つまりケミカルサイエンスなことばでいうと非常にわかりやすいんですけど、男性と女性が結びつく、一方は男性で一方は女性、はじめの結びつき方のところではケミカルな用語で言いますとアイオニックボンドつまりイオン結合、プラスとマイナスをだして、結合が起こる。ぼくはそれは初期に起こることであって、だんだん一方、対幻想のほんとうの流れはそうじゃなくて、男性の一方はひとつのなにかを出している、女性の方もひとつのなにかを出している。そのお互いに出し合ったボンドといいますか、結合子といいますか、それがレノマンス、共鳴をおこしているっていう状態というのが対幻想の本質だというふうに思われます。対幻想の領域っていうのは、その話では余計なものになってしまう、つまり対幻想というのは僕が言う共同幻想の領域とも、それから僕がいう個人幻想の領域ともまったくちがう位相にあるものだと僕自身は考えます。正常な恋愛というのはたぶん対幻想の領域に、両者の結合のレノマンス、共鳴が対幻想、流域、流れのなかに入っていくのが「正常な恋愛」だと思われます。

8 三角関係ー矛盾としての恋愛

 (註:2つめ)で、その次に来るのは我々のことばでいえば、「三角関係の恋愛」です。三角関係の恋愛って言わなくてもわかっているわけで、一時的なといいますか、気まぐれの恋愛であろうと強烈な恋愛であろうといずれにせよ恋愛とは対現象であって、一対矛盾としての恋愛、一人の男性と一人の女性、あるいは一人の男性と一人の男性、一人の女性と一人の女性の間にしか、つまり一対一の間にしかおこりないのですけど、三角関係とは三者のあいだにおこる、ということでこれはひとつの矛盾であるわけで、つまり恋愛における矛盾、あるいは矛盾としての恋愛なわけです。で、この三人とは共同性の一番原型にある関係なんであって、これは対幻想、恋愛感情とか男女の恋愛とはちがう。本来であれば違う。三角関係での恋愛は大なり小なりごまかしであるか、あるいは二重操作であるか、あるいは一方の対幻想の場面においては一方のの対幻想には内緒にしておくといいましょうか、隠しておくというか、いずれにせよそういう形でしか成り立たないのですけど、しかしこの種の恋愛はしばしば起こりうるわけです。つまり、なぜかといいますと人間つまり我々の、なんといいますか、現実の領域、精神の領域、個人の精神の領域ふたりのあいだになりたつ精神の領域、つまりふたりの間の対幻想、社会的場面で成り立つ共同幻想の領域とかわれわれの精神の領域とは全部にわたりますから、三角関係での恋愛とはしばしばおこりうるわけなんです。しかし、この段階は、矛盾としての恋愛であり、また段階としていえば最初にあげました対幻想としての正常な男女、一対の男女の間の恋愛、比べれば1段階複雑であり、1段階進んだ恋愛だと理解することができます。この日も三角関係の特徴というのはどいうところにに洗われるかと申しますと、皆さんのなかで経験されたかたはよくおわかりだと思いますけど、どういうところに現れるかといいますと自分の中における不実な感情といいますか、つまり誠意のない感情というものがすぐに違う場面で反映するということなんです。つまり、正常な男女の間、一対でもある範囲の中では起こりうることなわけです。つまり、自分が熱愛している異性、相手が自分に対してどのくらい誠実でとのくらい不実な部分があって、不実な部分では第三の男性に気持ちを寄せているってことはもちろん一対の男女の間でもおこりうるわけですけども。それはいずれにせよある範囲内でとどまっているわけですけど、三角関係においてはそれが同時的に同じ場面に露出してくるわけです。そうするとなんといいますか、自分がこの当事者は絶えず自分の不実さを反省させられる、露呈するといいますか、ひとりでに暴露されることになっています。で、これはたとえば自分の女性の一般的な女性の感じ方、誠意のなさがあるとする、三角関係においては相手は複数なんですけど、お互いに三角関係においては必ず相手の不実さも少なくとも自分と同じ程度、あるいはそれ以上にあるのではないかと疑問といいますか、疑念といいますか必ず露呈される、という恋愛感情が非常に大きな特徴だとぼくは思います。つまり、必ずしも文脈にしろ、自分の不実さの程度に応じた不実さを相手の中にの同程度の不実さがあるのではないか見いださざるを得ないと考える特質だ。相手はふたりなわけですけど、相手のふたりの中にもある、と考えられる恋愛関係の特徴。つまり、そういうふうな問題を、どういうふうに結末がついていくのか、というのがたぶん三角関係における一番難しいところであるし、ある意味で男女が身体極まってしまうといいますか、そういう場面に当面せざるおえなくなる。そういう状態であると思われます。恋愛の段階として一対一の正常な恋愛感情と比べて申す恋段階が進んだところで起こりうると想定することができる。

9 直接接触を禁じた恋愛

 これに対してさらに(註:3つめ)段階が進んだ恋愛を想定するなら、僕の理解の仕方をあえていいますと、僕が今日お話していますAさんBさんの恋愛感情のもち方、つまり直接の接触、直接の関係の仕方というのはいつでも回避されてる恋愛、恋愛感情というものが高次な、段階としてはもう少し進んだ恋愛として存在するんじゃないか、というのが今日お話してみたい解釈の仕方になってくるわけで、そうするとぼくは二番めの三角関係における恋愛の仕方、恋愛感情のありかたというのともうすこし高次の、今日お話しました「直接の接触が禁じられた恋愛」、自分に禁じた恋愛というのは、しかし恋愛感情以外のなにものでもない。そういう感情が実際に起こってくる、AさんBさんのような恋愛っていうのはもう少し高次な段階の恋愛で、しかし、この二番目の段階での三角関係の恋愛とこの三番目の少し高次な直接の接触を禁じた恋愛の仕方というものの間にはなにかひとつの境界線をひかなければならない、または境界となる面があるんじゃないか、というのが僕の理解の仕方です。で、この境界となる面が一体、なんなんだろうか、ということが問題となってくるように思うわけです。僕は先ほどの三角関係においてだれでもが当面してしまう自分の不実さ、つまり異性に対する恋愛感情における不実さと同じものを相手の二人にたいして投影せざるをえない、投射せざるを得ないというのが三角関係における恋愛感情で一番リアルで一番こわいことだな、といいましょうか大変なこと、大変な恋愛なんだな、と思わせる箇所だというふうにをすれば、同じような言い方で今日のAさんBさんのような直接の接触を自分に禁じている、あるいは禁じられた接触の仕方、というものの恋愛感情の場面でなにが問題になるのかというと、僕はそういう言い方をしますと、ぼくはふたつあるように思われます、ふたつといいますか複合してふたつあるような気がする。ひとつはあきらかに三角関係の恋愛感情の場合と同じで自分の不実さ、といいますか恋愛感情における不実さ、性的関係における不実さ、といいますか、不実な関係の真といいましょうか、そういうものがやっぱり同じように露呈してくるのがひとつなんですけども。それともうひとつの複合があるように思われるわけなんです。これは一種の知識的な推論になってしまうわけですけれども、僕はもうひとつの要素が加わっているような気がする。それは僕はAさんBさんの中にある同性愛感情じゃないかと思われる。つまりAさんBさんの中に同性愛的要素があってそれが三角関係における不実さの感情に対してひとつ複合して加わっているというのが今申しあげました第三の恋愛といいましょうか、直接接触することは禁じている恋愛ということになるんじゃないかというふうに僕には思われるんです。直接恋愛を、接触することを禁じているんじゃないかと僕が申し上げますと、そんなことはないだろうと。要するに僕が奥方を積極的に愛しているからそれは禁じていることにはならないだろう、とおっしゃるかもしれないですけれどそうでないような気がするんです。例えばAさんの場合点的(?)に現れるわけなんですけれど、たとえばこういうこともあるわけです。僕の家の前がお寺のお墓なんですけど、そこのむこうにお寺に小さな大仏さまがおいてある。大仏様からぼくの家は見通しなんですけれど、そこで大仏さんの塀の向こうで僕の出て行くところを見ている、という場面に当面したりするわけなんですけれど、僕は急いで接触をとって直接説得しようとして努めるんですけど、そういう場合は必ず、どういったらいいんでしょう、逃げてしまうといいますか、とにかく接触をさけられてしまうんです。そいで、そういう場面ってしばしばまた当面したことがあるんですけど、必ずそういうふうに逃げられてしまうといいますか、接触を禁じられてしまうわけなんです。だからそういうことはできない。つまり直接接触はいかようにやってもできない、というのがとても大きな特徴なように思うわけです。そして例えば、今度は僕のほうの問題を言わなければならないのですけど、僕のほうもそれがある気がする。つまり無意識のうちにそれがあって、なんといいますか。そのことは奥方には全部わかっていることなんですけども、奥方を避けてうまくやってやろうというふうに僕がなるかというと、僕の方でもならないわけです。表面的にいえば、表面だけで言えば僕が恋愛感情にはならないんだ、つまりいささかもならないんだ、そういうことにむしろ一種の嫌悪とか憎悪というものに近い心理状態、になっている。どうしてもならないんだというのがあります。けれど僕の方も深層を解釈しないと、僕の方にも病理とはいわないまでもなんか傾向性がある気がする。禁じられている恋愛といっていい。

10 不実さと同性愛感情の複合

 だからその人のなか、AさんBさんだけでいえば、たぶん同性愛的な契機、三角関係における恋愛感情の不実さというものが露出してくる度合いと同性愛的感情とが複合したものが、今三番目に申し上げました直接接触を禁じられた恋愛というものの一番本質的な部分にあるもんじゃないか、というのが僕の理解の仕方なんです。つまり、そこのところが一種の境界線になっていると思われるわけです。僕は接触を直接禁じられているわけですから、AさんBさんに同性愛的な傾向があるかないかとたずねたこともなければ分析する場面をもったこともないんですけど、僕らが憶測を交えて一種の理屈付けをやりますと、どうしてもそういうものが、もともとAさんBさんの中にあるんじゃないかと僕には考えられるわけです。その場合にたぶんAさんBさんにとって僕が母親であると言いますか姉妹というか姉とか妹といいますか、そういうものの、フロイト的にいいますと、一種の代理象徴として僕がみられているんじゃないかと思われるわけです。もし、AさんBさんの感情の中に、あるいは考えの中に僕の奥方というものの存在も入っているとすればこれは見かけ上は三角関係になるわけです。で、見かけ上は三角関係になるわけですけれど、それが一種の直接接触を禁じられた二人の関係というのは、形をどうしてとるのか、とらざるをえないのかといいますとそこに同性愛的な契機というのが相手のAさんBさんの中に存在するからじゃないか、というふうに僕にはそう思われます。で、この問題は見かけ上はどこでどういうふうに終末を迎えるか、どういうふうになっていくかは人様々でありうるわけですけれども、根本的なところでその問題があるんじゃないかと思われます。そうするとこの同性愛的契機というのをいつでも僕にはAさんBさんの一種の恋愛感情というものは、僕の中における、もし同性愛的感情の部分があるとすれば、その部分を絶えず露出させるっていいましょうか、絶えず反省させられるといいましょうか、絶えずそれが投射されてくる、という契機がどうもどこかに含まれているような気が僕はしてしょうがない。つまり僕は一応AさんBさんとかなり近年切実であったし、なんらかの意味で頭の中に残っている、継続中である、恋愛のなかにおける僕のほうの気持ちの一番中心になってあらわしてくる、露出させてくるというのはどうも根底のところでそこの問題じゃないかと思われるわけです。で、この問題に対してそれだったらお前はどうするのか、つまり恋愛の感情ですから、いずれにせよもし相手が傷つく度合いがあればそれと同じ度合いだけこちらも傷つく、相手がたくさん傷つく度合いがあるとすればこちらもたくさん傷つく、相手が傷つかないですむ度合いがあるとすればこちらも傷つかないですむ度合いがある。つまり、いってみれば相対関係として等価である、同等である、というふうに解かれることが一番望ましいわけでしょうけど、どういうふうにしたらばそういう形、同等な形で解かれるか、大きな問題として僕のなかに恋愛感情として残されていると僕自身が考えているわけです。この問題は僕にとっては未だによく解けない部分であって、解けない部分をどういったらいいでしょうか、単に恋愛という問題だけではなくて、僕自身はどういった自分の、考え方、自分の感じ方、自分のもって生まれた資質、それっていうのを全部そこんところで問われているような気がしていまして、その問われている問題を自分で全面的に自分に突きつけて、真っ正面睨み合ってから自分で目をむけてみる、という風にしないで、どっかで避けている部分があるとおもいます。そいで避けている分があるだけ、今でもそれが尾を引いて続いているような続いてないような感じになっています。これはどっかに僕の中、なにかわかりませんけれど、僕の思想であるのか理論であるのか感情であるのかあるいは性であるのか、どこかに欠陥がありまして、そいで、その欠陥というのの問題を絶えずさらされている、そしてまた欠陥にたいして自分はまたほんとはどっかで正面からむかっていかなければ解けないんだよとつきつけられているというような感じをもっているという実感を持っています。なんとなく、今日話しましたことは、僕の方はなにも傷つかないで、もしかすると相手、AさんBさんは傷つくかもしれないという気がするので、多少の後ろめたさが伴うものなんですけど、恋愛というテーマを与えられまして、僕自身どういうふうに、何をどういう風に語ればいいのか、考えましたけれど、究極において結局こういうやり方以外に自分にはできそうにいないなと考えまして、今日のような話になったわけです。心残りでしょうがないことは、もっと自己解剖というのがもう少しよくできてそれもお話できたら大変よかったと思うんですけどもそこのところはあまりできないし、またできていなくて、もちろんどっかで自分のことは棚にあげといてといいましょうか、こちら側においていて分析しているきらいがありましてそこのところだけは心残りなきがするんです。ただぼくが今、切実さについては嘘はないんですけれど、切実に当面している恋愛の問題というのは、だいたいそういった問題につきるわけで、そのことをお話できて、古典に関連して与えられたテーマ、といいましょうかそれを大切に自分の責任を一応果たさせていただいたといことにいたしたいと思います。

11 質疑応答1

(質問者)
 いまの恋愛の考え方の第2段階の三角関係のことで、平行恋愛という言い方を田中康夫さんがおっしゃったんですが、それはどういうものかというと、たとえば、一人の男の人がいて、女の人が二人いるとすると、一人は美人、一人は話して楽しい、両方を一人に求められないから、それぞれの面を二人に求める。そういうふうな考え方があるんです。
 それでもって気に入っているところというのは、ひとつは、いろんな面をもっていて自分が満たされる。それからもうひとつは一人が重くならない。そのほうが恋愛がうまくいくんじゃないか、そういう考え方をしていらして、そういうふうな考え方でいかれますと、いま言いました罪悪感みたいな問題はかなり重ねられてくると思うんですけど、そういうところをいまのお話を考えていただければと。

(吉本さん)
 あなたのおっしゃるような場面というのは、田中さんの書かれたものの中にもちろん見出されるわけですけど。現在の非常に若い作家の、たとえば、小説革新みたいなもののなかでは、しばしばそういうあなたのおっしゃったような恋愛の仕方が描かれている作品があるわけです。
その問題を問題にして取り上げていく場合には、もうひとつだけ要素を入れればいいし、また、入れなければいけないと思いますけど。それは僕の今日お話しました問題に対して、ひとつ、時代といいましょうか、情況といいましょうか、現在の社会といいましょうか、そういうひとつ、時代とか状況とか、現状とか、社会の現状とか、男女の関係の変貌の仕方における現状といいましょうか、そういう要素を複合させていけば、あなたのおっしゃるような問題というのが、わりあいに容易く解けるんじゃないかというふうに思われるわけです。
 だから、ぼくは少しも、ぼくが申し上げましたこととあなたの申し出を、おっしゃるような恋愛のあり方というものとが、二者択一的にといいますか、大別するというふうな理解の仕方をもっていないわけです。
 ぼくは人類のかなり早い時期にできあがった男女の結合と、同棲と、それから、子どもを育てるみたいな、そういうのはかなり、人類の早い時期に始まったとおもうのですけど、そういう時期から現在を本質的につらぬいている問題が、本質的な関係みたいなものとして、対幻想という領域を設定しまして、それに対して僕が当面しました恋愛の問題をそこから解釈しようといいますか、理解したいと思ったのでそうしているのですけど。
 もし、あなたのおっしゃることまで含めて、今日、Aさん、Bさんの問題を、恋愛感情の問題、第三段階の問題を解こうとするならば、やっぱり、この第三段階の恋愛の問題のなかに現在の問題が含まれているかいないかということをお話すれば、たぶん、そういう問題と近づいて、種類が違う問題だよというだけの問題に還元できると思うんです。
 だから、それほど大別的にも考えていないわけで、そういう恋愛も成り立つでしょうなというふうに思いますけれど、それを突き詰めていきますと、必ずどこかで一人だけ欠落して、一人だけが主要なものになってというふうに、終末はそういうふうにいくか、ぜんぶ壊れるか、どちらかにいくわけで、ただ、平衡状態として、均衡状態として、どれだけそういうことが持続できるかとか、成り立つかという問題に、相互な了解で成り立っていることじゃないかと思いますから、それは時代の変化という要素をひとつ入れないといけないんじゃないかと思います。
 ぼくが三段階に分けたと言いましたけど、それはかなり本質的な分け方だというふうに自分では思っています。だから、かなり本質的なんだ。ただ、あなたのおっしゃるように時代性というのを入れますと、もうすこし、それじゃあその第三段階の恋愛にはどういう時代性的な普遍性があるのか、あるいは、時代から脱落していく恋愛の一種なんだ。つまり、時代から消えていく恋愛の一種なのかということについて論じていかないといけないということがあると思います。

12 質疑応答2

(質問者)
 2つほど私の中でこんがらがって、三角関係と、それから、高次の同性愛的な契機を含む恋愛感情、その同性愛的な契機を含む恋愛感情のほうを高次だとおっしゃられる、そのへんのことをもう少し、高次だというのがわからないということと、それからもうひとつ、吉本さん自身のご体験のなかで、三角関係のひとつには、今まで書かれたものなんかを拝見しての考えですけど、非常に吉本さんご自身も白熱されたということがありまして、だけど、いわゆる同性愛的な契機を含む恋愛のほうが高次なんだとおっしゃる時には、自分は三角関係的な関係の仕方はもうないだろうと、だけども、その同性愛的な契機を含むそういうところで、人間が、心がなくなるというか、そういうことに関してはどうしてもわからないというか、その問題には足元をすくわれるかもしれないよというのが、そういうお気持ちがあられるのかなと、そのへんのところをちょっと。

(吉本さん)
 こうじゃないかと、自分の考えの中で、個人的な問題から入っていうのが一番わかりやすいと思うのですけど。自分には再びそういう関係というのは起こりえないだろうというふうにちっとも考えていないです。ただ、そういうことの関係の中で起こることについてだったら、たぶん、自分なりにとことんまで突き詰めたといいましょうか、とことんまで突き詰めた感じをもっているから、たぶんそれを超える関係みたいなものが起こってこない限りは起こらないかもしれないけど、それは起こってこないという保証はちっともないわけですから、起こらないというふうに自分は思ってないです。
 それから、もうひとつは今日のAさん、Bさんとの関係みたいな第三段階の恋愛感情みたいなものが高次だというふうに申し上げましたけれども、高次だということのなかには価値観はちっとも含まれていないとお考えくださったほうがいいと思います。
 つまり、高次だとこっちのほうが高級なんだという、ちっともそういう意味合いは含まれていなくて、一種の性を伴う関係といいましょうか、恋愛感情というもののなかの単一性というものと、それから、複合性というものを考えた場合には、この第三段階が複合性としては多様な場面をもっているという、そういうくらいの意味あいにお考え下さったらいいんじゃないかと思います。つまり、ちっとも価値観としての上下というのは含まれていないというふうにお考えくださったらいいと思います。
 それから、これも断定することはできないのですけど、この第三段階と僕が言いました関係というのは、ぼくはフロイト流にいえばエディプスの複号なんですけど、つまり、母親とそれから胎内にいる胎児の時期、それから、乳児の時、あるいは、幼児の時期という時期がありますけど、フロイト流にいえばあるわけですけど。
 そういう時の母親との関係、あるいは、もっとあれしていえば父親も入っていますけど、そういう関係からくる無意識のあり方というのが、もしこれから後の社会で均一化されていったらば、つまり、誰の乳幼児期もさして変わり映えはしなくなっちゃったり、つまり、生活環境としても、また経済環境としても、文化環境としても、それから、母親としての女性像というものとしても、そんなにAさんとBさんは変わり映えがなくなっちゃったよというような、そういうふうにもし、これから後の社会というものが均質化していくとすれば、あるいは、社会の中における家族というものが均質化していったり、壊れていったりするとすれば、たぶん、僕がいま言いました第三段階のといいましょうか、そういう直接、接触を禁じられた、あるいは、禁じた恋愛というのの占める割合といいますか、質といいますか、そういう部分は大きくなるんじゃないかなという漠然とした予測といいますか、それはもっているような気がします。
 それを断定するだけのあれはないですけど。たぶん、その要素は大きくなるんじゃないかなというふうに、ぼくは漠然とは考えております。つまり、どこの家庭も、誰の家庭もあまり変わり映えがなくなってしまったよといいましょうかね、経済的にそうだし、文化的にもそうだし、だいたい女性というのが、女性における母性性というのが占める割合がだいたいみんな同じようになっちゃって、だいたいなくなっていっちゃったといいましょうか、だんだんなくなっていくというふうになっていった場合には、たぶん、いま申しました第三段階の恋愛というのが増えていくような気が僕はします。形態はそれでもさまざまあるのでしょうけど、本質的にいえば第三段階の恋愛は増えていくんじゃないかと漠然と考えています。

13 質疑応答3

(質問者)
 日本では同性愛というのはしてもクビにはならないですね。ところが、ヨーロッパで同性愛というとクビになったって、ヨーロッパでは日本より同性愛に対して罪悪だと思っているのでしょうか。

(吉本さん)
 それは、僕はまるで知らないから。それはちょっと違うんじゃないでしょうか。たとえば、お勤めに行っていて、同性愛関係というのが職場で目についているということがもしありましたら、日本の職場はかなり厳しいんじゃないでしょうか。それは異性愛も相当厳しいし、いまは、多少はよくなっているかもしれませんけど、ぼくはちゃんとした会社に勤めた経験がありますけど、やっぱり相当厳しいです。女房がやめなきゃならないです。日本も厳しいです。異性愛も。どなたか解説していただけないでしょうか。日本が厳しくないということは言えないような気がいたしますけど、どうでしょうか。かなり厳しいんじゃないでしょうか。
 ぼくのいた職場でもありましたけど、やっぱりどちらかが指摘されてどうだってことはないのですけど、なんとなくそこの空気といいますか、雰囲気がそうなって、やっぱりどちらかがやめて結婚するか、いちどやめるという形をとってまた両方とも少し違う仕事といいましょうか、違う職場で、配置が違って、そういうかたちというのはとられるような気がしますけどね。同性愛というのはなおさらそれがあるんじゃないでしょうか。

(質問者)
 高級ということじゃなくて、対立性、あるいは、複合性があるという意味で高いということですよね、同性愛は。

(吉本さん)
 そうですね、こっちのほうがいいとか悪いとか、こっちのほうが高級だとかという意味は含まれていなくて、複合性が多様にあってといいましょうか、より多様になって。たぶん、ある一定の条件というのはわかりきっている条件なんですけど。つまり、○○ということを考えなくていいようなふうに社会がもし進んでいくとすれば、たぶん、第三の段階で申し上げましたそういう恋愛感情というのは増えてきているんじゃないかなという方向性というのは感じますけど。

(質問者)
 男と男というのがどうしてもわからないんです。ふつうの友情だったら知ってるけど、わからないです。

(吉本さん)
 それはあなたが健全なあれなんじゃないでしょうか。ぼくは10代の後半から20代の前半に家を離れて地方の学校で寮にいましたけど、全然そういうふうに思っていなかったけど、いわゆる友情といいましょうか、友情というものの純粋性といいますか、友情というものと葛藤というものを非常に純粋に見つめていった関係というのが親友との間に起こるわけで、それはじぶんも残っているわけですけど。現在からそれを照射したら、ぼくはちょっとこれは同性愛というのが入っていたのじゃないかというふうに思われるところがあります。つまり、青春というのは友情の純粋葛藤という面があって、これは異性の間にも起こりますけど、同性の間にも起こって、そのときのとことんまで葛藤を経た友人というのは後々までも親友ということで残っているみたいな、そういうことというのはありえますから、だから、ぼく自身も対幻想と申し上げましたけど。

(質問者)
 日本ですか、外国の。

(吉本さん)
 日本です。ぼくの体験の。ようするに、ぼくは対幻想というふうに申し上げましたけど、ぼくの対幻想ということの定義は、一人の人間が一人の他者と出会う仕方、出会う出会い方というのが対幻想だというのが僕の対幻想の一種の定義なんです。べつに男女じゃないんです。一個の人間が自分以外の他の一個の人間と出会う仕方、あるいは、関係する仕方というのが対幻想だというのが、ぼくの対幻想の定義なんです。だから、男女どちらでもそういうことはありうるんじゃないでしょうか。



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