今日は、親鸞と現代というようなお話、現在でもよろしいわけなんですけど、親鸞から見た未来っていうようなふうにしてくれないかって、ぼくの方で申し上げて、そういうふうにさせていただきました。
どっからお話ししたらと思うんですけど、現在さまざまな社会現象とか、世界現象とか、そういうものが、われわれの目の前で、起こってるわけですし、また、身近なところにも、そういう問題が起こっているわけですけども、ぼくが、現在起こっている、そういう社会現象、あるいは、社会的な事件でもいいんですけど、あるいは、社会的な事象でもいいんですけど、そういうものに、なにかひとつ特徴があるとすれば、こういうことが云えるんじゃないかっていうふうに思うわけです。
それは、一見すると、緊急な課題、緊急な事件、あるいは、緊急な事柄のように見えるもののなかに、本当は緊急な問題と、それから、永遠の問題というと、言葉がおおげさになりますけど、永続的な問題とが、いっしょに、混じっていっしょに出てきてるっていうことが、とても大きな特徴じゃないかっていうふうに思われるわけです。
これは、もうひとつ特徴を申し上げてもいいわけですけど、それは一見すると、どういったらいいんでしょう、小さな問題のようにみえることのなかに、本当は、人間が最後に解決しなければならない問題、つまり、いまの言葉でいえば、永遠の問題とか、永続的な問題ですか、それが、一見つまらない問題のようなかたちで出てきているってことが、とても大きな特徴のように思います。
ですから、大きな事件として、あるいは、大きな問題として出てくる問題のなかに、大きな問題が真にあるかとか、真に緊急な問題と、永続的な問題とが、いっしょに混じってあるかっていうふうに考えますと、そういうふうに考えるよりも、現在では、小さな問題のなかに、そういう永遠の問題と、緊急な問題とが、いっしょに混じって入ってきてる、で、小さな問題と思われることを、小さな問題というふうに考えると、もしかすると、誤解を生ずるかもしれないっていうことが、もしかすると、言えそうな気がする。それが、現在の特徴なような気が、僕はしています。
この特徴に対して、どういうふうに対応して、どういうふうに考えていったらいいのかってことが、ぼくなんかには、とても切実な問題としてあるものですから、その切実な問題というところを、お話ししてみたいというふうに思うわけです。
この切実な問題っていうことを、親鸞の、ぼくらの言葉でいえば、思想なんですけど、親鸞の思想っていうものを介して、これを見た場合には、どういうふうに見えるんだろうかっていう、これもまた、ぼくにとっては、わりに切実な問題なんで、その切実な問題ともひっからめたところで、お話ができればっていうところで、思ってまいりました。
親鸞在世中に、生きていたときの親鸞が、見ていた未来っていうのは、非常にはっきりしているわけです。それは、浄土っていうことです。浄土っていうのが、親鸞が見ていた未来です。浄土っていうのは、いったい何なのか、浄土っていうのは、どういうふうにすれば、そこに到達できるとか、それが見られるのかっていう問題は、親鸞にとって、切実な問題だったっていうふうに思います。
その場合、親鸞の考え方をぼくなりの理解の仕方で、申し上げてみますと、これは『口伝鈔』か何かに、そういうエピソードがあったっていうふうに思いますけど、親鸞と善恵(ぜんえい)、あるいは、善恵(ぜんけい)と云うのかもしれませんですが、その2人の法然の弟子が、論争したって、どういうことを論争したかっていうと、浄土っていうのは、往生でもいいわけで、浄土にいくってことですけど、浄土にいくっていうことは、そういう言葉が書いてありますけど、体失して、つまり、体を失くしていくのか、それとも、体は失くさないでいくのかっていう、そういう論争をしたと、それで、決着がつかないで、法然にそれを尋ねたみたいな、そういうエピソードがあります。その場合に、体を失わないで、浄土にいけるんだって、あるいは、往生するんだっていうふうに云ったのが、そういう考え方を提起したのが、親鸞であるわけです。
これは、いってみれば、浄土真宗の思想的精髄に属するわけで、あるいは、親鸞の思想的精髄に属するわけで、つまり、他力ってことになるわけでしょうけれども、至心に信仰して、名号を称えたときに、間違えるかもしれませんから、どうぞよろしく、名号を称えたときに、小乗の位につくと、小乗の位っていうのは何かっていったら、そこからすぐに、即座に、浄土が見えるし、また、浄土へいけるところであるし、また、小乗の位ってことを、浄土へいったってことに考えてもいいんだっていうのが、たぶん、親鸞の浄土に対する考え方の、ひとつの特徴だっていうふうに思います。
もういくつか申し上げますと、こういう歎異抄のなかに、そういうエピソードがあると思うんですけど、現在、つまり、親鸞在世中の社会ですけど、あちこちで、戦乱があり、飢餓があり、それで、民衆が苦しんでいると、これに対して、親鸞に問うところがあって、親鸞が答えて言うには、慈悲っていうもの、つまり、慈悲っていうのは、同情って云ってもいいわけでしょうし、シンパシーと云ってもいいわけでしょうし、救済しようとする情念と云ってもいいわけでしょうけれど、慈悲っていうのには、衝動の慈悲と、浄土の、つまり、他力の慈悲と、両方ある。
衝動の慈悲っていうのは、目の前に気の毒な人、困っている人、それから、飢えかけている人、死にかけてる人、そういう人が目の前にいた時に、それを助けようとするんだけど、助けおおせることっていうのが、なかなか人間にはできないと、だから、いずれ慈悲を発揮しても、中途半端に、終わらざるを得ないんだ。
しかし、浄土の慈悲、あるいは、他力の慈悲っていうのは、そういうんじゃないんだ。ひとたび浄土へいった上で、また還ってきて、自由自在に大慈悲心っていうのを、発揮するっていうのが、それこそが、浄土の慈悲なんだから、念仏をして、真に信仰して、浄土へいくっていうことを、心がけるっていうことこそ、大慈悲心の第一の、つまり、最初の問題なんだっていうふうな答え方を、歎異抄のなかでの親鸞は答えてます。
この場合の、親鸞の答え方は、たいへん切実な問題であるわけです。現在でも、みなさんの前に、目の前に、同情すべき事柄、あるいは、救済すべき事柄、あるいは、解決すべき事柄っていうのは、目前にあるわけなんですけれど、その場合に、みなさんはどうするんだっていう、つまり、どうするんだって言った場合に、徹底的に、それを助けおうせるとか、救済しおうせるってことはできないと、しかし、そのときにどうするんだっていう問題は、たぶん、みなさんにとっても切実な問題だっていうふうに思われます。しかし、ぼくにとっても、やはり、その問題は切実な問題です。
その問題に対する親鸞の考え方っていうのは、ぼくにとっては、たいへん示唆の大きい考え方です。つまり、どういうことかって、ぼくなりの解釈を申し上げますと、眼前に切実な問題、あるいは、切実な事件、あるいは、社会現象っていうのが、次々に起こってきます。その場合に、それを緊急な課題っていうふうに、つまり、いま、手をつけなければっていうような、緊急な課題っていうふうに、それを考えた場合には、あるいは、これは永遠の課題なんだっていうふうに考えても、どちらの考え方をとっても、たぶん、ぼくの理解の仕方では、だめなんじゃないかって思われるんです。
だめなんじゃないかっていうのは、別な言い方をしてもいいわけです。それは大した問題じゃないんだ、もっと投げやりな言葉を使いますと、それはどうでもいい、どっちでもいいです。大した問題じゃないですっていう、どっちでもいいことです。手をつける場面に、自分が当面していたら、手をつけたらいい、それから、手をつける場面に、自分が当面しなかったら、それでもよろしいじゃないですかっていうふうに、ぼくならそういうふうに考えると思います。だから、これは、二者択一の問題として、存在しないというふうに思います。
つまり、それは、さきほど初めに、ぼくが申し上げました。あらゆる社会的な事件、あるいは、身近に迫ってくる問題っていうことが、現象っていうことが、両方が、緊急の課題と、永遠の課題っていいますか、永続的な課題と、その両方が、混じって出てきていると思います。つまり、この混じってきている問題に対して、緊急の課題につけ、あるいは、緊急の救済につけとか、あるいは、これは永遠の問題だから、永遠の問題として考えろと、緊急な問題はどうでもいいと、問題として考えることは、どうでもいいっていうふうに考えて、これは永遠の問題なんだっていうふうに考えろっていうふうに、どちらかに選択しようとすれば、必ず、ぼくは、その事柄に対する理解を間違えるだろうっていうふうに、ぼくには思われるんです。
つまり、現在起こってくる問題のすべてがそうだっていうふうには、申し上げませんけども、ぼつぼつ出てくる問題のなかには、その2つが、つまり、緊急な課題と、永続的な課題が、いっしょに混じって出てきているっていうことが、ぼつぼつ、ぼくらの眼前に見えてきているっていうふうに、ぼくには思えるわけです。
これを、この世間がっていいましょうか、社会がどちらかの課題として解けっていうふうに、あるいは、どちらかの課題の方に、おまえはつけっていうふうに、しばしば云われるわけですけど、ぼくはその云われ方っていうのは、たぶん間違えるだろう、つまり、これは緊急の課題と、永続的な課題、あるいは、永遠の課題とが、いっしょに入ってきてるんだ。いっしょに混じってきていると、これはよく見なければいけない。つまり、何が永続的で、何が緊急の課題なのか、このひとつの課題として見えるものの中で、何が永続的であり、何が緊急なのかっていうことを、よく見れなければいけないっていうふうに思います。
つまり、この問題に対して、親鸞のいまの、衝動の慈悲っていうのと、他力、あるいは、浄土の慈悲っていうのは違うんだっていう云い方っていうのは、すこぶる、僕にはたいへん示唆が多くて、ある意味で、勇気を与えられる考え方です。つまり、勇気を与えられる考え方っていうのは、おかしな言い方ですけど、ぼくはそういうふうに思います。
その場合に、親鸞のまた、いまの、浄土っていうことが問題になるわけです。親鸞の場合に、ひとたび浄土へ参って、そして、還ってきて、自在に大慈悲心を発揮すべきなんだっていうふうに、それが正しい浄土の慈悲なんだっていう、言い方をしていますけど、この場合の浄土っていうのは、いったい何なんだっていうことが、たいへん問題だと思います。
これは、みなさんの方が専門家なんで、専門家であるっていうことと、それから、ぼくは信仰っていうのを持っていないって云った方がいいんです。だから、ぼくにはわからないところがあるんです。ですから、僕なりのぎりぎりいっぱいの理解になってしまうわけです。ですから、親鸞はもしかすると、本当に、浄土へいって、ふたたび還ってきて、仏になって還ってきて、そして、自在に大慈悲心を発揮すべきなんだって、それが、浄土の慈悲、あるいは、他力の慈悲なんだっていう場合の、親鸞が言っている浄土っていうのは、文字どおり死んだ後の世界っていうふうに、考えているのかもしれません。つまり、そうであるのかもしれません。
あるいは、僕なりの理解の仕方をいたしますと、至心に信仰をして、そして、念仏を称えるっていうようなことが、本当にできたときには、小乗の位につくっていうような、あるいは、不退の位につくっていう云い方をしているわけですけど、つまり、この不退の位とは何なのかっていう、そこがもしかすると、浄土の実態っていうふうに考えていたのかもしれないな、つまり、死んだ後に、向こうの方に世界があるっていうふうに考えていたのか、それとも、そうじゃなくて、小乗の位についた時に、つまり、それが浄土なんだ、あるいは、浄土がすぐに見えちゃっているところなんだっていうふうに考えていたのかっていうふうにいうところが、わからないところですけど、もし、浄土っていうのを死んだ後に来る世界っていうふうに、親鸞が、この場合に、言っていたとすれば、それには、ひとつ前提がいるわけです。
その前提は何かっていいますと、仏教に、そういう考え方、仏教にもあると思いますけど、仏教だけじゃなくてあるわけですけど、つまり、人間っていうのは輪廻しているのであって、前世っていうのがありますし、前世の前には、前々世があって、それから、前世のあとには、来世っていうのがあってっていうふうに、すべての人間もそうですけど、すべての生き物っていうのは、輪廻してるっていいましょうか、前の世から輪廻してると、前の世で何であったか、何をしたかってことが、現世で何をした時に、どういうことにぶつかるかっていうことと、関係があるっていうふうな考え方っていうのは、一般的に、仏教にもありますし、オセアニアから、インドから、東南アジアから、中国、日本に至るまで、ある原始的な、あるいは、古代的な社会においては、生命っていうのは、輪廻していくんだっていう考え方が、一般的にあるわけです。仏教にも、もちろんあるわけなんです。
ですから、仏教でいう、親鸞がそこで浄土って言っているものが、もし死んだ後の世界だっていうふうに考えていいとすれば、それには、前提がいるので、人間、あるいは、すべての生き物は、前世、あるいは、前々世から来世に至るまで、あるいは、来々世に至るまで、輪廻しているものだっていう考え方が根底になければ、ならないんじゃないかっていうふうに思われます。
ところで、現在、みなさんは、どういうふうにお考えか知りませんけど、僕自身は、すべての生き物は、前世があり、来世があるっていうふうに、僕自身は考えておりません。ですから、僕自身の考え方からすると、死んだ後の世界が浄土なんだ、それで、つまり、そういうふうに、浄土っていうのを、実体化することには異論があるっていうか、そういう考え方をとれないと、ぼくは思います。ぼくはとれないと思います。
そうすると、何かっていったら、親鸞が小乗の位って言ってるものが、だいたいにおいて、浄土っていうものの、実態っていうふうに考えれば、たぶん、現在の、発達した文明社会でも、親鸞の考え方っていうのは、親鸞がそこで云いました浄土っていう考え方は、通用するっていいますか、考え得るんじゃないかっていうふうに、ぼくは漠然とそういうふうに考えています。そうすると、親鸞の浄土っていう考え方が、現在のさまざまな社会的利権っていうものを考える場合に、適応することができるんじゃないかっていうふうに思われるわけです。
ぼくが、さきほどから言いました、現在出てきてる、ぼつぼつと現れてる社会的事件、あるいは、社会的事象、あるいは、身近に迫ってくる事象っていうのは、事件っていうのは、緊急の課題と、永続的課題っていうのと、両方混じって出てきてるんだっていうふうに、理解した方がいいんだっていうふうに、ぼくが申し上げましたけれど、そういう考え方に、たいへん示唆を与えてくれたっていうのは、親鸞のふたたび還ってきて、それで、自在なる慈悲っていうのを発揮すべきだっていう、そういう考え方っていうのが、たいへんな示唆を与えてくれているわけです。
たぶん、緊急な課題っていうのは、こちらから、あちらへいく課題だっていうふうに、あるいは、課題を解決する方向にいく課題だっていうふうに思われるわけです。ところで、永続的な課題っていうのは何なのかっていったら、ある社会的な事件がありましたら、その事件を向こうからといいましょうか、時間的にいえば、未来からなんですけど、もっと親鸞的な云い方をすれば、浄土、あるいは、死でもいいわけですけど、死の方から、あるいは、浄土の方からっていうのでもいいわけ、あるいは、未来の方からでもいいんですけど、そちらからの光線っていいますか、視線っていいましょうか、そういう光線で、ある事件、ある事象っていうのは、照らしだしてみなければ、わからないんだっていう、そういう永続的な課題っていうのも、あらゆる社会現象のなかに、もし、見ようとすれば、見られるようになったっていうことが、とても重要なことなんじゃないかっていうふうに思われるわけです。
そこで、たぶん、親鸞の浄土とは、似ても似つかないものでありましょうけど、それは、ぼくは、生死に対する考え方、あるいは、命に対する考え方が、仏教の考え方、仏教が発生当時からもっている考え方っていうものと、それから、現在の文明社会における生死の考え方っていうのが、違ってきたっていうことの現れとして、どうしても僕には、そう考えるほかないっていうふうに、思えるんですけども、親鸞を考えるならば、そういうふうに考えるよりほかないわけですけども。それは、やはり、ひとたび浄土へいって、そして、もう一回かえってきて、自在に慈悲心っていうのは、発揮すべきなんだってことは、たぶん、ひとつのある課題の中に、必ず、緊急な問題と、それから、永続的な問題、つまり、永遠の問題とが、両方入っているんだ、それで、どんな一見つまらないようにみえても、それは、永遠の課題っていうものが、入ってきてるんだっていうふうなことが云えるっていうこと、そういうことが非常に重要なことなんじゃないかっていうふうに思われるわけです。
たとえば、なんでもいいわけで、小さいことでもいいです。たばこを吸うのは、体に悪いからやめようじゃないかっていう運動があります。嫌煙権の運動です。これは、アメリカの方から起こってきたものですけど、嫌煙権の運動っていうのがあります。それは、たばこを吸うのは、体に悪いことだ、悪いことだっていうこと証明するお医者さんさえ出てきてるわけです。つまり、吸った人と吸わない人で、肺がんで死んだ人をみると、吸った人の数の方が多いみたいなデータをあげて、だから、たばこはがんになるからやめた方がいいってお医者さんさえ出てきてるわけです。
それで、嫌煙権っていうのは、そういうんじゃなくて、たばこは所定の場所でしか吸っちゃいけない、こういう場所では吸わないことにしようじゃないか、吸っちゃいけないってことに決めようじゃないかっていう、そういう運動だと思います。そういう運動っていうのは、たばこを吸うか吸わないかっていう、一見すると、ごく小さな問題です。こういう小さな問題を、緊急な課題として解こうとすると、先ほど言いましたお医者さんのような考え方になっていったり、嫌煙権の人の考え方みたいになっていくわけです。
だけれど、ぼくはそう思わないんです。つまり、たばこを吸うか吸わないかっていうことのなかには、緊急な課題と、永続的な課題とが、2つ含まれているっていうふうに、僕は思います。緊急な課題は、たしかに、データをとると、体に悪いし、がんにかかる確率が多いっていうのが出てきたって言うんですから、まあそれは体に悪いに違いないから、これは吸わない方が体にいいでしょうっていうのが、緊急な課題としての、ひとつの解決法なんだっていうふうに思います。
しかし、ぼくはそれが正しいっていうふうに思わないわけです。なぜならば、このたばこを吸うか吸わないかってなかには、永遠の課題っていうのがあるからです。何が永遠の課題かっていいますと、たばこを吸うか吸わないか、これは、吸っている人、あるいは、吸ったことのある人はご存じだと思いますけど、こんなものは体に悪いっていうのは、だれだって知ってるわけです。知ってて吸ってるわけです。知ってて、なぜ吸うのかっていうのがあるわけです。
つまり、知ってても吸うってことが、人間にはあるんです。それは、歴史的にあるんです。未開社会のときから、麻薬とか、嗜好品とかっていうのを、人類っていうのはたしなんできたわけです。なぜ、この一時的な快楽であったり、一時的な安楽であったり、一時しのぎの苦悩からの解放であったりするような、麻薬とか、酒とか、そういう嗜好品っていいましょうか、つまり、体に絶対よくないであろう嗜好品っていうのを、人類はなぜたしなんできたんだろうか、人間性のなかには、これは、なにがあるか、こういうふうに、みすみす、生理的には悪いとわかっていることでも、たしなまざるをえない精神状態っていうのは、なぜあるんだろうかっていう課題は、永続的な課題です。
これは、嫌煙権の人には、絶対に解けないことです。あるいは、解くべきなんです。解いていうべきなんです。だけれども、これは解かなければいけないんです。これは永続的な課題です、かつ、非常に困難な課題です。たばこを吸うか吸わないかってもってくると、つまんない課題のように見えますけど、これを本当に解決するには、人類は歴史の最後までかかるかもしれません。と、ぼくは思います。
つまり、人類の歴史が、最後に解決する問題であるように、ぼくには思われます。問題のひとつであるように思われます。つまり、こんなものは簡単に解けると思ったら大間違いであって、そうだったら永遠の課題っていうのはいらないわけです。だから、そうじゃないです。つまり、人類はなぜ悪いとわかっている、体には悪いとわかっている、あるいは、一時しのぎに過ぎないとか、一時の苦悩からの解放に過ぎない、酒、たばこ、麻薬っていうのを、どうして、たしなむんだろうか、だれでもがある契機があれば、そういうふうに、たしなむようになりうるんだっていうこと、それはなぜだろうか、それは人間性にとって何なんだろうかっていう、そういう問題っていうのも、また、解かなければいけないわけです。つまり、こういう課題は、たぶん、人類が理想的な社会制度みたいなのをつくったそのあとで、なお残るような、ぼくは気がしています。残される課題のような気がします。そして、解決しなければならない問題のひとつのような気がします。
ですから、たばこを吸うか吸わないかってことを、レントゲン撮って、肺がんの人はレントゲン撮ったら、これはやっぱり、たばこ吸ってた人の方が多かったっていう、その程度のデータでもって、これでもってたばこをやめろって言っても、強制してもらったり、運動してもらったりすると、ちょっと困るわけです。つまり。困るんだっていう課題が、そのなかに含まれているわけです。
つまり、こういう問題に対して、親鸞だったら、ようするに、おまえ、慈悲っていうのは2つあるんだぜっていう、往相の慈悲と、還相の慈悲っていうのがあるんだぜって、つまり、往相の慈悲は、たばこは吸うより、吸わない方が、体にいいですよっていうのが、往相の慈悲だとすれば、あと、還相の慈悲っていうのもあって、それは向こうから還ってくる、永遠の方から還ってくる、つまり、最後の死、あるいは、浄土、あるいは、小乗でもなんでもいいわけですけど、この際いいわけですけど、向こうからくる視点でもって照らさなければ、解決できない問題っていうのはありますよって、そうじゃなければ、慈悲っていうのは間違えますよっていう、そういう示唆として受け取れば、親鸞の浄土についての考え方っていうのは、ぼくらに大きな示唆っていうのを与えているように思われます。
こういう問題は、いままでだってあったわけですけど、たばこを吸っていいか悪いかとか、体にいいか悪いかみたいなことは、前から言われてたのに、いまは殊更出てきてるわけじゃないんですけど、出方というものがわれわれに、そのなかに、緊急な課題と永続的な課題とが、両方含まれているよっていうことを、否応なしに感じさせるような仕方で、現在出てきているわけです。
この種の問題っていうのは、大小にかかわらず、たくさん出てきてることは、みなさんがご存じだと思います。ひとつひとつお考えになってくださればわかります。それに対して、一般的な、通俗的な考え方は、かならず二者択一を迫るわけです。つまり、たばこを吸ったらいいか悪いかって、たばこを吸うことに賛成か反対か、そういう問われ方でもって問われているのが、現在の一般的な、通俗的な考え方だと思います。
しかしそれは、間違いであろうっていうふうに思われます。それは間違いであって、このなかには、緊急な課題と、永続的な課題と、両方がいっしょに含まれてるよってことを、よくよく見極めていて、緊急な課題については、緊急な課題に応じればいいし、永続的な課題が、それでもって解決されるとは思わない方がよろしいと思います。そういうふうに、事態っていいましょうか、事件っていいますか、社会現象といいましょうか、そういうものは、そういう迫り方をしてると思います。
ですから、逆の方から云いますと、われわれはそれが見えるようになってきました。つまり、現在になってから、それが見えるようになってきた、それが見えるようなかたちで、あらゆる社会現象っていうのは起こってきたな、つまり、われわれの目の前に展開してきたなっていうふうに、ぼくにはそういうふうに思われます。
その場合に、何をどう考えたらいいのかっていうことの、ひとつの示唆っていうのは、親鸞がもっている未来からの目、つまり、浄土から還ってきた時の目っていいましょうか、あるいは、還ってきた時のシンパシーといいましょうか、慈悲といいましょうか、そういうようなものっていう考え方っていうものが、たいへん大きな意味合いを持つっていうふうに、僕には思われます。
その種の問題をいくつか、例としてあげて申し上げましょう。これは、無数にありますから、それは、みなさんがいちいち、ご自分が切実な問題に当面した時に、お考えになってくださればいいと思います。それから、緊急にその問題に、自分が当面しなかったら、緊急な問題っていうふうに、理解しなくてもよろしいと思います。ゆったりされたらいいと思います。この中には、緊急な課題と、それから、永続的な課題が、2つ含まれているんだっていうふうに、お考えになればよろしいと思います。
だけども、自分が緊急な課題に当面したら、それはそこで応じられたらいいと、ぼくにいわせれば、たかだかそういう問題だっていうふうに思われます。永続的な問題っていうものを解かない限り、この事象っていうのは、解けないだろうっていうふうに、ぼくには思われます。
つまり、これは、一般的に浄土教っていいましょうか、つまり、第五門ってことになりましょうか、還相といいましょうか、向こうから還ってくるっていう、向こうから還ってくる視線、あるいは向こうから還ってくる慈悲っていうような、そういう考え方です。この考え方っていうのは、とても重要な考え方のように思われるんです。いくつかの例を、現在起こってきていることの中に、申し上げてみます。
ひとつ、これはごく最近の、1週間かそこらの新聞に出てたことに過ぎないんですけど、総理府の世論調査で、日本人の生活意識っていいますか、生活意識についての統計を取ったのがあります。全国20歳以上の男女1万人を対象にして、統計をとった、自分の生活意識、あるいは、生活程度の意識っていいましょうか、そういうものについての統計です。それによりますと、自分たちの生活程度っていうのは、中の中だっていう人が52.8%、中の下だっていう人が29.2%、中の上だっていうふうに考えている人は6.9%、合計しますと88.9%、ほぼ90%の日本人の人が、自分が中だ、つまり、そういう言葉を使えば、中流の意識をもっているっていうふうに答えているってことが、ごく最近の新聞に出ておりました。これは、統計は、たぶん、宣伝部の統計だっていうふうに思います。宣伝部の統計でそうなっていると思います。つまり、約90%の人が、日本人は、ようするに、自分たちは中流だっていうふうに、主観的には思っているってことです。つまり、意識の内では思っているってことを、この統計があらわしていると思います。
このことは、何を意味するかっていいますと、もうすこし言い換えますと、日本の社会の中で、自分は半分くらいの、あるいは、半分にまたがる帯のところに、自分の生活程度、それから、文化とか、経済生活とか、娯楽とか、教育とか全部、教養とか含めるわけですけど、それらが自分たちを、日本の市民社会の中くらいのところを占めているって人が、90%いるってことを意味していると思います。実際にそうかどうかは、ちゃんと確かめなければいけませんけれど、しかし、主観的には、自分たちはそう思っているって人が、90%いるってことを意味してます。つまり、生活程度も中くらいだと、それから、文化程度も中くらいだと、それから、知識教養も中くらいだと、その他全部中くらいだっていうふうに、自分で思っている人が、90%いるってことを意味していると思います。
このことはもっと違う言い方をしてみますと、ようするに、自分たちは中くらいということを占めてるってことですから、自分たちはこの社会の主人公だっていうふうに思っている人たちが、90%いるってことを意味していると思います。主人公だと思っているかどうかは問題なんですけど、ようするに、主人公だと思っていい資格を持っている人たちが、この社会の90%を占めるに至っているっていうふうに思います。このことはとても重大なことです。重要なことです。
どういうことかっていいますと、これを永続的な課題としていいますと、どういうことになるかっていいますと、つまり、90%の日本人っていうのは、自分たちがこの社会の主人公だっていうふうに振る舞うべきだという、永続的な課題をもっていることを意味します。つまり、自分たちは、保守的な政治家がこう云ったから、それに従うんだとか、進歩的な政治家が、こういうふうに云ったから、それに従うんだっていうんじゃなくて、自分たちが自分たちの判断で、ようするに、こうだと思い決めたら、この社会は、そのとおりになるんだっていうふうに、自分たちを思わなければいけないっていう、永続的な課題を、90%の人が背負わされていることを、意味していると思います。
この言い方は、ぼくは、納得していただけるって思います。そうならなければいけないんじゃないでしょうか、自分たちは少なくとも、中流の生活程度、それから、経済程度、それから、文化程度、それから、教育程度、そういうのを持っている人が占めてるって思ってる人が90%いるって、それならば、あなたがたは、ようするに、この社会の主人公なんだ。自分たちが、90%が、こういうふうに思ったならば、そのように社会が動くはずなんだっていうふうな、こういう自覚を持つべきじゃないでしょうか。この人たちは、もっとラジカルな、過激な言葉を言わしていただければ、保守的な政治家とか、進歩的な政治家とかっていうような人たちの、いいなりに動かされるんじゃなくて、自分たちが自主的に判断して、自分たちがこう動けば、そのとおり社会がなるんだよっていうふうな、自覚を持つべき、そういう課題を背負わされているんじゃないかっていうふうに、ぼくには思われます。それは、この90%中流を占めたっていう、占めていると自分では思っている人たちの、男女20歳以上の人たちの、ぼくは永続的な課題だっていうふうに思われます。
永続的な課題を、緊急な課題だけで解こうとすれば、あるいは、考えようとすれば、いや、おれはもう豊かになっちゃたんだ、豊かになっちゃって、まあまあ困らないっていう、だいたい中くらいのところに、この社会で中くらいのところに、おれはいるよとか、中の上のところにいるとか、中の下のところにいるとか考えて、それは大変いいことですから、愉快でいいことでしょうから、いいことも悪いこともあるでしょうけど、結構なことですから、つまり、明日食う米がない時代から比べれば、結構なことですから、それは大いに満足していただいて結構なんだけど、しかし、それはいわば、緊急の現在の課題に答えただけで生きてるってことを、それだけのことであって、しかし、永続的な課題に対しては、それじゃ答えられないでしょうっていうことがあると思います。
だから、やっぱりこれだって、永続的な課題っていうのがあるんであって、永続的な課題に対しては、この90%の人は、ちっとも何もしようともしていないし、思おうともしていないじゃないですかっていう、そういうことが云えると思います。つまり、そういうふうに中流意識を自分たちでもっている、生活程度をもっていると思っている人たちにとっても、やはり、緊急な課題と、永続的な課題っていうのがあるということです。
つまり、向こうからの視線で見た場合には、やっぱり、永続的に言って、あなたがたは、単に政治家がこう言ったからって、進歩政治家がこう言ったから、保守政治家がこう言ったから、それに従うんだとか、それが正しいんじゃないかと思っちゃったり、そんなあやふやなことじゃなくて、あなたがたが自分たちで考えて、こうだと思ってやれば、それはそのとおり、社会っていうのは、そういうふうになるんですよって、もし理想の社会っていうのをつくるか、つくらないか、なるか、ならないかっていうこと、それだって、あなたがたが90%占めているわけだから、中枢が90%占めているわけだから、自分たちが理想の社会がこうだと思ったら、そのようになるんですよっていう、思ってやったらなるんですよっていう課題を、その人たちは永続的な課題として、あるいは、永遠の課題としてもっていることを、ぼくは意味しているっていうふうに思います。
これが、いってみれば、こういうことは、新聞の統計であらわれている、ひとつの例にすぎないですけど、この問題のなかにも、ぼくは、緊急な課題、あるいは、現在の課題、あるいは、現在、満足していい課題、あるいは、現在、不満であっていい課題と、それから、しかし、永続的な課題だってあるんだっていう、そういう課題とが両方、僕は含まれているっていうふうに思います。
もうすこし挙げてみましょう、もうひとつは、高齢化っていうことです。高齢化っていうことでいいますと、これは日本大学の人口研究所がとった統計なんですけど、現在といいましても、87年度ですけど、女性の平均年齢は81.39歳で、それから男性は75.60歳が、だいたい平均の年齢で、一般的にいいまして、高年齢化しているってことです。どんどん高年齢化していってるってことがあります。高年齢化している問題っていうのは、どういうふうに具体的なことがあるかってことをちょっと申し上げてみます。
これも、新聞に出てたのをピックアップしただけです。これは、国際的な老人の比較調査をした例が出ているんですけど、日本とタイ国とアメリカ、それから、デンマーク、イタリアで、60歳以上の老人を対象に、アンケート調査をしたっていう結果が出ています。60歳以上の人で、現に働いているかどうかっていう問いに対して、働いているっていうふうに答えた60歳以上の老人が、日本では38%、それから、例ですけど、アメリカでは21%、それから、デンマークでは13%っていうふうになっています。
圧倒的に60歳以上で、現に働いているって答えている日本人は、圧倒的に多いわけです。わりに先進的な国では、多いことがわかります。つまり、たいへんよく勤勉に働いている、もっと悪く言えば、高齢なのに無理してるってことにもなるかと思いますけど、こういうデータが出てきています。
緊急な課題は、あきらかに、この働いているって数が、パーセントが、減っていくってことが、減っていって、少なくても、西欧並みになっていくってことが、緊急な課題でしょう。それから、もっとあれすれば、もっと働いているって数が少なくなって、もちろん、生活がちゃんと成り立つこと前提ですけど、そういうふうになっていくってことが、まず当面、これだけの数字が出たらば、それは当面、緊急な課題として、あると思います。
それから、何歳まで働きたいかっていう統計ですけども、たとえば、アメリカだったら、65歳まで働きたいって人が30%、それから、デンマークとか、イタリアとか、タイとかっていうのは、60歳まで働きたいっていうのは41%、これに対して、日本では、65歳まで働きたいっていうのが28%、それから、70歳まで働きたいっていうのが20%、これはきっと、生活の問題とか、さまざまな問題があるんだと思いますけど、やはりここでも、日本人の老齢の人は、格好よく言えば、働きたいっていうのは勤勉っていうことなんだけど、悪く云えば、働かなきゃ生活が成り立っていかないみたいなことがあるんだと思います。
だから、これは高年齢です。ほかに比べて、日本人の場合には、高年齢まで働きたい、あるいは、働くんだっていうふうに言っているわけです。ここでも低年齢化していくってことが、たぶん緊急な課題としてあるし、それに対して、社会が門戸を開くとか、職業を開くとかっていうようなことが、緊急の課題だって思います。課題としてあるんだ、高齢化社会の問題というようなかたちであるんだと思います。
この場合の、高齢化ってことが提起する永遠な課題、あるいは、永続的な課題とは、何かっていうことがあります。ここになってくると、また、親鸞の思想っていうものに接触していくわけですけど、それは何かっていいますと、死をどうやって超えるかっていうことです。つまり、死をどうやって超えたらいいのかってことが、老齢化社会、あるいは、高齢者にとって、緊急じゃなくて、永続的な、永遠の課題だと思います。
この永遠の課題っていうことは、どういうことかっていうことを、すこし申し上げてみますと、具体的にいいますと、この死をどうやって超えるかっていう問題のなかには、さまざまなレイヤーっていうか、さまざまな層があります。これは内面の問題っていうことから、それから、非常に社会的な問題まで、さまざまな層があります。これも、けっして混同することができないし、混同したら間違えるというふうに、ぼくには思われます。
つまり、社会的な問題として、死を超えるっていうのがどういうことなんだっていう問題、それから、内面の問題として、死を超えるっていうのはどういう問題なんだっていうようなことに至るまで、いくつかの層が、たぶん、老齢者が、老齢になって死を超えるっていう問題のなかには、含まれているっていうふうに思います。
まず、一番外側の社会的な問題から、死を超えるっていうのはどういうことかってことを申し上げてみましょうか、これにも、ぼくが拾った中で、統計があります。いくつかの項目があるんです。これは、老齢者のうち、極めてアヴァンギャルドな人っていうか、極めて経済的にも、知識的にも、その他環境的にも、たいへん、極めて恵まれている少数者の例なんですけど、だけど、どうして挙げるかっていうと、これがある意味で、永続的な課題に対して、一歩進めてる人たちの統計が出てきてるからなんです。だから、例に挙げるわけです。
これは、新聞の記載のとおりにいえば、経済界、労働界の有識者って書いてある、有識者800人か、900人くらいの統計であるっていうふうに、新聞には書いてあります。いくつかの項目があります。みんな極めて重要と思われますから、あれしてみますと、第一に仕事のことなんですけど、自分がいまやってる仕事についてどう思うかっていうふうに云った場合に、いや、仕事はいまだって、これからだって、第一線でやるんだっていう、あるいは、やりたいんだって答えているのが68.9%、つまり、70%です。後進に道を譲った方がいいって考えているのが11%、それから、定年制っていうのがあるわけですけど、会社なんかにもありますし、学校にもあるのかもしれませんけど、それは、だいたいにおいて、いまのところ60歳です。特別なところは、65歳とか、55歳とかありますけど、だいたい60歳っていうのが多いんですけど、60歳定年制っていうのはどうなんだっていうアンケートに対して、ちょうどいいっていうのは50%ぐらい、それから早すぎるっていうのが38%ぐらい、つまり40%、で、妥当だっていうのは、だいたい、65歳が妥当だっていうことが80%だっていうふうな統計が出ています。
ただ、繰り返し申し上げますと、これはアヴァンギャルドな、前衛的な人で、妙に、いろんな意味で恵まれちゃって、経済的にも、知識的にも、生活的に恵まれている人を対象にしているから、こういうのが出てくるんで、一般的にそうでないですから、一番先っちょをいってるって、そういう人たち、先っちょにいくって意味で、恵まれているって、そういう人たちの統計ですから、で、65歳っていうのが妥当だっていうようなのが80%、つまり大部分だってことになります。
今度は家庭生活、ここからいよいよ、死を超えるとは何かっていう問題に入っていくわけですけど、家庭生活において、つまり、老齢の人ですから、老後の生活、あるいは、死までの生活を、どう考えるかっていうことなんです。
それに対して、経済的にも、精神的にも、子供から独立すべきだっていうふうに、考えている人が94.3%です。これは、一般的な老人はそんなはずがないんです。そんなはずがないんで、もっとそう思っていたって、口に出せないっていうご老人が、たぶん半分以上、いまでもおると思います。だから、これは本当に恵まれて、なんか自分なりに、社会的に第一線にいまだに活動していると思っておられるご老人の回答ですから、ひとつの重要な未来っていいますか、永続的な課題に対する重要なひとつの回答なんです。つまり、経済的にも、精神的にも、子どもから独立すべきだっていうふうに云うことが、ひとつあります。これは家庭生活についてのアンケートです。
それから、子どもへの干渉は一切しないようにすべきだっていう人が56%、だいたい60%ぐらいおられます。それから、生活は、夫婦単位の、老人夫婦単位の生活がいいって人が59%、だから半分以上がそういうふうに考えております。それから、20%が子どもや孫と一緒がいいっていうふうに答えております。この答え方っていうのは、先ほど言いました老齢化っていうこと、あるいは、老人の問題、あるいは、老人がいかに死を超えるかっていう問題における、社会的な問題については、これらの人たちは、大部分解いているっていうことを意味します。
つまり、ご老人たちが、精神的にも、経済的にも、もし実現していたら、精神的にも、経済的にも、子どもから独立すべきだっていう、あるいは、子どもには頼らないっていう構えができて、そして、自分の様式、つまり、自分たちの家でしょう、家庭でしょう、自分たちの家族の、そのとおりの様式を保ちながら、子どもたちに、精神的にも、経済的にも頼らないで成り立っていって、そこで、もしかしたら偶然かなにか、死がきたら、それで死だっていう、そういう構えっていうものを、すべてのご老人が、あるいは、すべてでは、極端であれですから、半数以上のご老人が、そういう体勢を自ら獲得した時には、すくなくとも、社会的には、社会的なレイヤー、層においては、死を超えたことを意味すると、ぼくは思います。つまり、死を解決したことを意味すると思います。これは、社会的な層として、解決したことを意味すると、ぼくは考えます。
この場合には、ごく少数の、経済的にも、生活的にも、文化的、教養的にも、知識的にも、ごく恵まれたご老人たちのアンケートですから、たぶん、九十何パーセントがそうすべきだって言って、実際にそうなってるのかもしれないっていう予想をつけることができます。しかし、すべてのご老人が、あるいは、半数以上、50%以上のご老人が、こういう考え方をもつようになり、かつ、それを自分の体勢として、生活の体勢として確立したっていう自験が実現したと考えれば、それは、たぶん、社会的なレイヤーでいえば、層でいえば、問題としていえば、それは死を超えたっていいましょうか、死を解決したってことを意味するっていうふうに思います。これは、社会的な面から見た死っていうことです。
しかし、死には社会的な面もあれば、家族的な面もあります。つまり、子どもには世話にならないでやっていくっていうふうに、ご老人が考えた、しかし、子どもたちの家族っていうのが、今度は困っていたっていう時には、ご老人たちはそれに、支出していかなければならないわけです。そこで、精神的な意味で、子どもたちの家族と、まったく合わないっていいましょうか、つまり、まったくいざこざが絶えないっていうようなこともありうるわけで、そのときには、かならずしも死を超えたことにはなりませんから、死を超えるっていうことのなかには、社会的な課題もありますし、家族的な課題もありますから、社会的な課題が解決したって、家族的な課題は解決しないだろうってことで、それで残るってこともありえますから、それは、なかなか理想どおりいかないのですけど、すくなくとも、社会的な課題としては、解決したことを意味すると思います。
ところで、家族的な課題っていうのもありましょうけども、今度は精神的なっていいますか。精神的な課題として死を超えるっていうことは、どういうことなんだっていうことがあると思います。これは親鸞の云われ方っていうのがあるわけです。
親鸞の云われ方は、たとえば、それは、歎異抄のなかにありますけど、それは、唯円から、浄土はそんなに大変いいところで、心躍りがするところだっていうふうに云われているけども、しかし、わたしはちっとも、念仏唱えても、喜ばしい心も、何も湧いてこないし、浄土へいきたいって気持ちも、起こってこないけれど、これはどうしてでしょうっていうふうに、唯円が正直ですから、親鸞に聞くっていうエピソードがあります。
それに対して、親鸞は、浄土にいくってことがそんなにうれしかったら、だれでもうれしかったら、煩悩がないってことを意味するんで、仏もなにもいらないってことになるじゃないか、だから、煩悩があるからこそ、煩悩の故郷っていうのは、なかなか故郷である現世っていうのは、なかなか離れがたいものなんだよ、だから、その方がかえって、仏は、それが人間だなっていうふうに思われるだろうっていうふうに言うわけです。ですから、娑婆の縁が尽きて、力がなくなった時、ひとりでに浄土へいけば、それでよろしいんですっていうふうに、親鸞はそういうふうに答えているわけです。
その答え方は、たいへん立派な答え方だっていうふうに思います。そのなかには、緊急な課題と、永続的な課題を、2つ解決した考え方っていうのが、そのなかに、僕は、よく考えると、含まれていると思います。つまり、当時でも、緊急な課題に、早急にはしる仏教者っていうのもいたわけです。そういう人たちは、疾く死なばやっていうふうに、つまり、なにはともあれ、はやく死んじゃって、浄土へいくのがいちばんいいんだっていう考え方をとるわけです。疾く死なばやってことで、はやく死んじゃったほうがいいと、浄土の方がいいところなんだから、はやく死んじゃって、浄土へいくべきなんだ、それで、文字どおり、実践する僧侶もいたわけです。文字どおり、自ら何も食べないで、しゃにむに死へ突入してしまうって、そういう僧侶もいたわけです。
つまり、それは何かっていったら、緊急な課題としてのみ、浄土っていうことを解決しようっていうふうに、浄土の理念があるところで浄土を解決しようとしたから、そういうことになるわけです。これは、永続的な課題っていうのが、やはり、死の中にあるんだよっていう問題を解くことができなかったってことだと思います。
親鸞の云い方っていうのは、まことに見事に、永続的な課題と、緊急な課題と、両方を解いているわけだと思います。ですから、現象的にっていいますか、いまでもたぶん、それでよろしいのであって、つまり、娑婆の縁が尽きた時に、ひとりでに死ぬってだけ、それだけのことだよって、それでよろしいんだと思います。ただ、それでよろしくないっていう、精神の問題が、死を超えるってことは、それでよろしくないわけです。
これは、今度はみなさんの方が専門家で、ぼくはそうじゃないですから、ぼくが言うとおかしいので、ぼくなりの、精神的に死を超えるとは何なのかっていうことを申し上げてみますけど、それは、死っていうのは、親鸞の慈悲の言い方でも、おんなじなんですけど、死っていうのは何なのかっていうことですけど、もしも、ぼくらが死について、やがておれたちがひとつだと、やがてもう、体が病気になったり、動かなくなったら、死ぬんであって、それは、死ぬと決まっているんだっていうふうに、そういう現在から、これから死の方向に向かっている、矢印といいましょうか、方向といいましょうか、そういう方向で、死を精神的に考えて、やっぱり死っていうのは、いやだなって思ったり、そういうふうになるのはきついなぁって思ったり、さまざまな悩みをもったりっていうふうにするわけでしょうけど、その考え方はいってみれば、こちらの方から、これからご老人が、死の年齢に向かって、そういう向かい方で、いってみれば、生きの道でっていいましょうか、生きの道で死を考えているって考えると、結局そういうことになるというふうに思います。つまり、死が怖かったり、死の後に、ほんとの浄土があるっていうふうに考えたり、ほんとの天国があるんだっていうふうに考えたりすることで慰めるとか、さまざまな悩み方っていうのを、人間はしてきたわけですけど、その悩み方は、なぜ起こるかっていえば、ようするに、こちらの時間から、老齢の人でいいますと、老齢の方から、死に近づく年齢の方へ、だんだん行ってるんだっていう、その方向で、死っていうのを考えるからだっていうふうに僕には思われます。
もうひとつ、考え方があります。それは何かっていうと、つまり、死のほうから、死のほうからっていうのは、なんでもいいんです。浄土のほうからでもいいわけですし、小乗のところからって言ってもいいわけですけど、死のほうから、現在っていうものを見ることができれば、あるいは、死のほうから現在を見るって見方でもって、つまり、時間が逆なんですけど、むこうの方からこちらへくるという、そういう矢印の方向で、現在、ご老人が、現在っていうのを、同時に見ることができれば、ご老人がこれから死のほうにむかっている自分っていうだけじゃなくて、自分っていう考えだけじゃなくて、むこうのほうからこちらへ向かっている矢印といいましょうか、視線といいましょうか、そういうものでもって、現在、ご老人が、自分の現在と、これからのことっていうのを、照らし出すことができれば、そういう考え方を獲得することができて、そして、もしも、贅沢を言うんでしたら、自在に、むこうからの視線で、ご老人が現在の自分っていうのを見られたり、それから、こちらからの視線で死のほうを見たりっていうことが、精神的に、自在に可能になるっていう、そういう方向に、もし、精神の矢印っていいましょうか、矢印を交代することができれば、そういうことが死についての考え方のなかで、それが可能になれば、そういうことが可能になった時には、たぶん、死についての精神的な問題っていうのは、解けるんじゃないかなっていうふうに、ぼくは漠然と、そういうふうに考えています。
これは、みなさんの方も、専門家の方々は、また、違うことを言うかもしれませんし、違う解決の仕方って、精神的な死の解決の仕方をしておられるし、示唆する、教えられることができるかと思いますけど、ぼくは自分の見方からいえば、精神的に死を解決するってことはそれだけだ。それができれば、たぶん、死を超えられるってことになるだろう、それで、たとえば、ご老人の50%以上が、そういうことが自在に可能になったらば、精神的に可能になったらば、たぶん、精神的な意味でも、死を超えられるだろうっていうふうに、超えられるってことになるんじゃないかっていうふうに思われるんです。
それが、まず、永続的な、死についての、永続的死をいかに超えるかってことの、永続的な課題のように、ぼくには思われます。この課題は、ぼくなりの考え方ですから、みなさんの方は、ただ参考に供せられてくだされば、それで十分だと思います。
そうすると、あと、死について何が残るかっていいましたら、文字どおり、偶然が残るってことのように思われます。つまり、その社会的な課題、それから、精神的な課題、それから、もっと中間にはあるにはあるわけです。いろいろあるわけですけど、そういう課題が解かれた場合に、あと何が残るか、身体の偶然だけが残るわけだと思います。
この偶然についていえば、なぜ偶然かと申しますと、この点に限ってだけいえば、生理的な死とか、肉体的な死とか、そういうことにだけ限られた場合には、それだけが、未解決として残った場合には、人間っていうのは、死っていうのは、形式だけしかつかまえることができないわけです。つまり、肉体的な死っていうのは、形式だけしか、人間にはつかまえられないんです。あるいは、人間は形式をつかまえているだけなわけです。
つまり、自分で、自分の肉体が自分の死を体験できませんから、たいていは他者の死、近親の死っていうのを、肉体でもって形式的につかまえているわけです。そのときに、その人の精神の死とか、その他の死っていうものは、つかまえることが他者にはできないわけです。また、もちろん、自分でも自分の肉体の死っていうのはつかまえることができないのです。ですから、あとに残るのは、そういう偶然の問題、形式の問題だけが、死について残るわけで、これはたぶん、解決しないのです。つまり、延命することはできるけれど、たぶん、解決しないのです。
これは、自然っていうものを、完全に解かなければ、解決しない問題のように思われます。ですから、これは、まずまず、永続的な課題の中からも、漏れてしまうかもしれませんし、また、みなさんが勇猛果敢であったら、理念において、思想において、あるいは、宗教において、勇猛果敢だったら、自然というものの、本質っていいましょうか、そういうところに、最後に考えを推し進めていくってことが、課題になると思います。いわば、緊急な課題と、同時に含まれている永遠の課題、永続的な課題は、たぶん、死を超えるってことについて、そこらへんまでで、よろしいわけで、限度なわけだっていうふうに、ぼくには思われます。
余韻が、たくさん残りますけども、時計をみますと、7分超過してしまいました。ぼくのいいたいことの要旨は、だいたい言えたように思いますので、足りない分は、みなさんの眼前に起こってくる例について、あるいは、事件について、みなさんがいちいちお考えになってるところで、行動してくだされば、それで、よろしいんじゃないかっていうふうに思われます。これで、終わらせます。(会場拍手)
テキスト化協力:ぱんつさま