今日は反対向きに、反対から信心と言うところではなくて、意識的に信心と言うことを回避しながら、そして親鸞に向かって長いトンネルを独力で掘って来られた、そういう方が吉本隆明と言う方だと思っております。『最後の親鸞』と言う私どもには身近な著作が10数年前に発刊されましたけれども、それ以後、本当はそれ以前ずっと吉本先生の最初の詩集からそういう課題はあった訳ですけれども、特に『最後の親鸞』以降、幻想と言う1つの―曇鸞が初めて使われて親鸞が非常に重要にされた還相と言う言葉を自分の思想的な根拠に置いて、いろんな評論活動・批評活動・思想的な営為をなさっていらしゃった吉本隆明先生で御座います。1924年に東京にお生まれになりまして、月島、佃島でお育ちました。東京工業大学を卒業なさいました。いろんなふうに肩書きを言われますが、詩人として出発なさった。文芸批評の仕事をなさって、思想家・文芸批評という肩書きはよくお耳にします。詩人・思想家というふうに考えたらいいのではないかと思います。主な著作に『言語にとって美とはなにか』『共同幻想論』、それに対応する著作としまして最近『ハイ・イメージ論』・『マス・イメージ論』、一連のイメージ論が出されております。我々には先程申し上げました様に身近には『最後の親鸞』、他にも親鸞関係の著作が御座います。そして団塊の世代としましては全共闘体験、また吉本体験・インド体験と言うのが非常に私は宗教的な体験だと思っています。非常に社会にインパクトを与えられた方だと認識しております。今この場には信心とか信仰を意識的に禁欲されて親鸞に向かって歩いて来た方と、信心を標榜して信心ということを掲げて、親鸞に向かって来た人がこの場に集まっている訳ですけれど、信心に関係なく思想・知の課題・思想の課題から親鸞に向かってきた長いトンネルの照準と、我々の様に信心を掲げながら親鸞にアプローチしながら掘って来たトンネルの照準が果たして合うのかどうかと言うのが、私今日の1番大事なところではないかと思います。もしかして、その照準が合うということになれば、お互いに信心と言ってきた問題、またお互いに思想と言って来た問題は寧ろ解体してしまうのではないかと。同じならば。そう言うことを思います。もしかしてその照準が違っているなら、どこが違っているのか、そこが明らかにされなければならないんじゃないのか―個人的な考えですが。打ち合わせの時に吉本先生が仰った言葉で、信仰ということと信仰でないと言うこととに微妙なズレがあって、本当は親鸞のことを考える場合自分には信仰がないから信仰のある親鸞のことをいくら言っても言い当てられないんじゃないか、それは言い方の拙さではなくて、究極的には言えないんじゃないかという疑いは持っている、しかしそのことはどん詰まりまで詰めてみたいことなんだと、なかなかどん詰まりまで行かずに、途中でひとりでに信仰と信仰でない微妙な違いに触れるのが億劫になって、ひとりでに引き返してしまう様なことがあると、しかしそこのところは何度でも遣ってみたいところだと言うことで今日、無理においで頂きました。いろんな対談集を読んでも吉本先生が親鸞という言葉を出した時に、対談する相手の方が余りそのことを受け止められずに、フォロー出来ずに話題が転換していってしまう様な対談集が沢山ありまして、そういうことを非常に―そういうことの不満、不満足を思ってこういう会が開かれる様になりました。今日一日、どうかお互いに何か本当に大事にしなくてはならないものをハッキリさせられたらと言うふうに考えています。どうか宜しくお願いします。先生も宜しくお願いします。
吉本です。今日話してみたいことが3つ位あります。1つは親鸞の還相、つまり還りの姿ですけれども。還相とはどういうことなんだというのが1つなんです。もう1つは親鸞の還相という考え方が今、現在どういう目の前に起こっている社会現象とか、自分の心の中に起こって来る現象をも含めまして、そういうものに対してどういう新しい見方を与えるんだろうかと言うことをお話してみたい訳です。もう1つは、目の前に起こっている社会現象と言うものと、それから心の中に起こって来る様々な現在の問題と言うこととはどういうふうに違うんだろうか、或いはどういうふうに分けた方がいいのか、同じでいいのかと言うことに触れられたら、と言うふうに思います。大雑把に言ってその3つのことについてお話ししてみたい訳です。で、うまく話せない部分とか、いろいろな今言われました食い違いのある部分とか、勿論僕はそういう言い方をすれば親鸞の信仰について、あるいは親鸞の考え方について本当は素人ですから間違っていると言うことが御座いましたら、後でいろいろ仰って下されば、補えるのではないかと思います。で、そういう問題というのはどう言ったらいいのでしょうか、切実な―僕自身に皆さんにとって切実かどうか、同じ様に切実であってくれたら有り難いんですけれども、それは別としまして―僕自身にとって切実な課題って言いましょうか、それを中心にして今申し上げました様に3つのことをお話し出来たらと思っています。
で、僕自身が切実な課題って言うふうに思っていることを、例えば親鸞が言いました言葉で象徴させてしまいますと、『歎異抄』の「四」の所に、つまり慈悲って言うことには聖道の慈悲とそれから浄土の慈悲とがあるんだ、それは違うんだと言うことを言っているところがあます。聖道の慈悲と言うのは人を憐れみ悲しみそしてこれを育むって言う、そういうのが聖道の慈悲であると言って、浄土の慈悲はそうじゃないと。急いで仏に成って、そして今日のテーマになる訳ですけれど還って来て自由自在に、つまり自在に大悲心を発揮するのが浄土の慈悲なんだと。もう少し言っています。重要なことを言っています。つまりなぜ聖道の慈悲と浄土の慈悲とが違うかって言えば、聖道の慈悲って言うのは人を憐れんだり、同情したり、育んだりしようって言う、そういう慈悲って言うのはどういうふうに遣ろうとしても、どういうふうにまた遣っても、それは遣りおおせる―慈悲を貫徹し終えることは有り得ないと言うことなんだ、だからこういう様な慈悲は要するに始終無しという様な言葉を遣っていると思いますが、つまり終わりが無いんだ、切りが無いんだ、今の言葉で言えば切りがないんだ、切りが無くてどこで解決して慈悲を遣り通せると言うことが無くて、謂わば今の言葉で言えば中途半端にいつでも終わっちゃうと言うことは始めから分かっていることなんだ、初めから分かっていることだって―言って無いんですけど、僕が言っている訳ですが―分かっていることなんだ、浄土の慈悲はそうじゃない、そいうことはいいんだと言うことだと思います。そういうことはいいんだと。兎に角、浄土へ―念仏して浄土へ往って、そして浄土から還ってきて自在にその慈悲心を発揮すると言うその時こそが本当の慈悲なんだから、何よりもまず至心に信仰して信じて念仏を唱えると言うことが第一義なんだと言い切っていると思います。これは多分親鸞の言葉、その通りじゃ無いかもしれません。つまり唯円の耳に残っている言葉であるかも知れないけれど、大凡そういうことについて言い切っていると言うことは確かなことだと思います。つまりこれは例えば、ほぼ同時代の日蓮なんかが浄土思想・浄土宗門・法然門下に対して凄い言葉で罵倒を加えた所以である、というふうに思います。しかしそれは親鸞が言い切っていることだと思います。
ここで問題が生まれてきます。つまりそれならば親鸞と言うのは例えば急いで浄土へ往って、それで還ってくるんだ、(還って)来て自在に慈悲心を発揮するんだと言っていますが、急いで浄土へ往くんだという場合、浄土というのは一体親鸞は何を指していたんだと言うことが直ぐに問題になると思います。で、皆さんの方は専門家だからそれなりの結論、それなりの解釈の仕方をお持ちであろうというふうに思いますけれども、僕は僕なりに勝手な、僕なりの場所からの判断を申し上げたい訳です。
親鸞が浄土と言う場合、或いは生死という場合に2つあると思います。2つの意味をしているところがあると思います。1つは全くあの世という意味に成ります。死んだ後に往ったあの世という意味で使っているところがあります。1番ハッキリしているのは書簡の中で「いずれ浄土でお会いしましょう」ってな言葉で結んでいるところがありますから、その場合は明らかに死の向側に死んだ後で逝く世界という意味あいで、浄土というのは実体として捉まえられて言われているところがあります。
しかし、もう1つの言われ方は何か(って言うと)、もう1つ親鸞が浄土と言うことで意味していることがあります。それは死んだ後でそういう世界が実際あって、実体としてあってそこへ往くんだという意味では全くない使い方をしていると思います。で、その場合の浄土と言うのは謂わば―どう言ったらいいでしょうか―存在しないもの、或いは存在するもの、どちらでもいいしまたどちらでも無いっていうふうに、無いものなんだとうふうに考えて、つまり根本的に言いまして親鸞と言うよりも大乗教・仏教というものが考えている、抱いている究極の人間観って言いましょうか、或いは人間の存在感と言うものに依存している、つまり親鸞の『教行信証』の言い方で言えば、最終的に『涅槃経』の立場において人間の生死と言うのを考える、或いは悟りって言うものを考える、如来性って言うものを考えるって言うことになりますけども、そこで非常に高度なことが―今の言葉で言えば哲学的なって言いましょうか―問題が展開されていて、親鸞もそういう意味で浄土って言う言葉を使っている場合があります。つまり2通り、大雑把に言いまして親鸞が浄土に急いで往くってことはどういうことなんだ、浄土というのは死んだ後にある世界って言う意味で使っている場所と、それからそうじゃない、仏教の専門家でなければ納得しないかも知れない人間観、人間の存在感というものに則って浄土、それは形の有るものも有るし、形の無いものでもあるし、またそれは存在するとも言えず存在しないとも言える、因果によって実際に肉体が死ぬとか、生きるとか生まれるとか病気になるとか、そういうことと関わりの無いところで言える浄土という観念、そう言う意味で使っているところと両方あると思います。つまりこのことが1つ重要なことではないのかなと思います。
この2つの使い方は全く違う訳です。しかし親鸞は確かに2つの使い方をしてると思います。『教行信証』の中でも、例えば川の流れの中は草や木が流れて行くものだ。前に流れて行くものは、後ろに何が流れているか分からない。また、後ろのものは前に何が流れているか分からない。そういうふうにしながら段々海へ行く様に、そういうふうに人間が生まれてそして育って老いて病気になって死ぬと言うことは免れ難いものであるし、そういうふうに成っているものだって言うふうな言い方をしているところもありますし、それから『涅槃教』が引用された箇所で以て非常に高度な生死観って言いましょうか、大乗教自体の生死観って言うのを述べているところもあります。つまり、その2通りの捉え方をしていると思います。この皆さんの専門的にどうしてこの2つの捉え方が矛盾しないんだということについて、それなりの理解がズーと成されている訳だと思います。つまりこの2つの考え方は全く違うんだと僕には思われます。しかし、もし方便として考えれば、ある場合には死んだ後に浄土があるんだよ、あると言うのは実体としての浄土があるんだよ、そこへ往くんだよという意味あいで話すことも、それからそうじゃない浄土があるとかないとか、実体としてあるかどうかとか言うこと自体が無意味っていうふうに高度なところで言う場合とは、まあ矛盾しないことで、その2つの極端な言い方の奥にあるものって言うのが本当に親鸞が意味していた、或いは浄土教が意味している浄土観なんだって言うふうに理解することも出来るかと思います。
で、1番そういうことをアッサリ、親鸞の例えでアッサリ言っているところがある訳ですけども、それは浄土って言うのが例えば帝王・王様と言うふうに理解すれば、念仏して・真に信仰して念仏を唱えて本願の力に摂取された時の状態を、「正定の位」・「正定聚の位」・「不退の位」って言えば、浄土を帝王・王様と考えたならそれは皇太子と言う時と同じなんだ。つまりもうすぐ浄土へ往けると言うことはハッキリしている。そういう場所なんだという言い方をしていると思います。「正定の位」に即くんだって言う言い方をしている。その比喩って言うのはとてもハッキリ―その例えは親鸞の例えは非常にハッキリ浄土って言うものと、信仰心にして念仏を唱えたという状態が実現した時に達する「正定聚」という位との位置関係と言うものを、とてもいい例えで例えているってふうに僕には思われます。ところでそういうふうに浄土って言うものを親鸞の言い方としては2つの言い方をしている、ということが1つ、大きな眼目になるだろうと思われます。
あと今度、還相って言いましょうか、つまり還りの姿とはどう言うことかって言うことを、どういうふうに親鸞が考えていたかと言うことに到達したい訳です。そこ迄行きたい訳ですけども。
『教行信証』で親鸞が還相と言う考え方を述べる為に、1番頼りにしている(のは)天親の『浄土論』と曇鸞の『浄土論註』の2つの考え方だと思います。そこでも分かり易い比喩が使われていると思います。還りの姿に到達する為に、先ず入り口、つまり入(はい)り口は恰も家とか屋敷とか、人間の住処に例えてみるならば、先ず門の所に達した時が「正定の位」に達したと言うことなんだ。後は屋敷の中に入ると言うことになる訳です。つまり、門の所に達したのが「正定の位」なんだ。先ずそこへ行くんだ。そしてその門と言うのが浄土の門である。第2番目には、屋敷の中に入って諸々の菩薩衆と一緒に成って境地と言うのを研く、そういう場所だ。第2番目の場所なんだ。第3番目は更に家屋・家の中に入るって言うことが3番目なんだ。で、家の中に入ってそこで可能に成ってくる・出てくる人間に対する観察とか自分の修練・修行とか、そういうことを修練した後で、修練し得られて機が熟していくと言うのが第4番目のところなんだ。そこ迄行けば後は還って来る、出て行くということになる。つまりこれは天親とか曇鸞とかの言葉で言えば、「出の第五門」と言うことになる訳でしょうけども、或いはえんりにゅうれい(?)(園林遊戯地門?)って言うふうに言いましょうか、第五門で家屋敷を出て行く、そして再び還ってくる。そこでは煩悩に苦しみ悩みという人達がいっぱい居るのだけれども、そこのところに還ってくる過程が第5番目にあるんだという言い方をしていると思います。親鸞はそれを『浄土論』とか『浄土論註』から引用して、第五門、「出の第五門」というのが還相、還りの姿ということに該当することを非常にハッキリと整理し述べていると言うふうに思います。
ところでこの曇鸞とか天親とかの「出の第五門」と言うことの考え方の中で、大切である・重要だなと思われることが2つあると思います。1つは例えば獅子が鹿を獲る様にと言う様な例えがしてと思いますけども、つまり自由自在に人の悩みと言うものを動かしたり、察したり見たり、そしてそれを解いて遣ったりと言うことが自由自在に出来るんだと言うことなんです。つまり還相の過程で自由自在に出来って言うことが言われていることの中でとても大切なことの様に思われます。
それからもう1つ大切なことが言われている様に思います。その時に人を助けているんだ、助けていないんだという様なことは別に意識しないんだ、意識している訳ではない、恰も遊んでいると同じように意識しないで振る舞っているんだけれども、悩んでいる人とか苦しんでいる人とかをひとりでに助けていることに成っているんだ。それはちっとも意識されないものなんだ。その理由は何かと言うと、人間って言うのは悩みと言うことも悩まないと言うことも全部実体ではないんだ。人間の存在自体が本当は実体ではない訳だから悩み自体も本当に究極な立場から言えば、実体でも何でもないんだ。ただそう言う姿であるって言うだけで、悩まないと言うそういう姿があるだけで、別に悩みと言う実体がそこにある訳ではない。人間はそういうふうに出来ていないという言い方がされていると思います。これが、この2つが浄土教で言われている「出の第五門」と言いますか、還相と言いましょうか、浄土教で言われている還相という考え方の中で大切だと思える2つである様に思われます。で、それに対して親鸞は別に注釈を加えていないと思われます。そういう箇所を引用していること自体が親鸞の考え方を表している、象徴していると解するのがいい様に思われます。
こういうことがどうしても「出の第五門」とか還相とか言う、浄土教的な考え方の中でとても重要なふうに思われる訳です。『教行信証』と言う、段々親鸞の聖道の慈悲と浄土の慈悲とは違うんだという言い方の、慈悲という考え方に近づきたい訳なんですけど、もう1つ慈悲と言うことについて親鸞がこれは曇鸞の考え方だと思いますけども、曇鸞の考え方を『論註』の中から引用しているところがあります。この曇鸞の慈悲について引用している場合には、慈悲には3つあるって言うふうに言っている箇所だと思います。つまり慈悲には3つあるんだと。1つ(は)小なる慈悲、小慈悲だ。小慈悲とは何かって言うとそれは、つまり『教行信証』の中で引用してある言葉で言えば「衆生縁」って言いましょうか、普通の大衆と言いましょうか、我々の様な煩悩凡夫って言いましょうか、そういう者を相手にした、そういう慈悲って言うのは小なる慈悲なんだ。だから『歎異抄』で言えば、聖道の慈悲に当たると思いますけども。聖道の慈悲、つまり人を憐れみ育み、そして悲しみって言うふうにしてあるってことは、これは小なる慈悲なんだと言ってると思います。
もう1つは『教行信証』で言えば、「法縁」という、つまり「のりのえん」でしょうけども、法縁と言う言葉が使ってあると思います。法縁って何なんだ。僕にも良く分かりませんけれども、つまりこれは人間の現実の姿も心の姿も全部含めたものを対象として考えられる慈悲と言うふうにでも言えば―当たっているかどうかは別にして―そんなに間違わないんじゃないかという気がするんですけども。それは中なる慈悲だって言うふうに言われています。つまりそれは大・中・小で言えば中なる慈悲なんだと言うふうに言われていると思います。
もう1つ、大なる慈悲と言うのがあると、大なる慈悲と言うのは『教行信証』に引用されている言葉で言えば「無縁」だ―「無」「無縁」と書いてあると思います。「無縁の慈悲」だと言うふうに言っていると思います。無縁の慈悲こそが大なる慈悲なんだと言っていると思います。無縁の慈悲を解釈すれば―何て言いますかね―人間を超越した・人間を越えた―少なくとも生まれて、育ち、悩み、病気になり老いて死ねと言う形で生成消滅する様な―そういう人間と言うものを越えたところを対象とした慈悲と言うのが大なる慈悲なんだと言うふうに言っていると思います。つまり因果とか、そういうことに煩わされないで永遠の存在であるもの―それは如来性と言う言葉でもいい訳でしょうけれども―そういうものを対象とした、そういうものに向かった時の慈悲って言うのは大なる慈悲なんだって言うふうに言っていると思います。
そこで僕は思いますけど、親鸞が例えば『歎異抄』で唯円の耳に残した言葉で言っている聖道の慈悲と浄土の慈悲は違うと、浄土の慈悲ってのは急いで―念仏を唱えて急いで浄土へ往き、そして戻って来た時の、そん時の自在に人を助ける、そういうふうに成った時の慈悲が大慈悲なんだと言うふうに親鸞が言っている訳ですけども、多分そうすると親鸞の言う大慈悲と言うのは、曇鸞の言う大慈悲と言うものと、浄土論で言う天親―仏教の浄土教・浄土門の始祖―が言っている考え方ですね、つまり出の第五門と言うことでしょうけど、考え方と(を)融合させたって言いましょうか、融和させた場所と言うことで、ところで親鸞は慈悲・大慈悲と言うのを考えているって言うふうに理解することが出来る様に思います。つまり曇鸞的でもなければ天親的でもない、或いは天親的でなければ曇鸞的でもない。それで、それを親鸞は自分の考え方と言いましょうか、感じ方の合わさったところでしょうけども、その2つの考え方と言うものを両者の考え方を融和させたところで慈悲、或いは大慈悲、或いは還相の慈悲と言うのを考えているって言うふうに思われる訳です。これが先程紹介者の方が言われた様に、信仰のない者が親鸞に近づこうとして、つまり頭で解こうとした人間が、頭で読んで出来るだけ親鸞の考え方に近づこうとした時に、言えることに成るんじゃないかと言うふうに思われます。だから親鸞が持っている理念と言うもの、還相という考え方に対する理念、それから慈悲と言う考え方に対する親鸞の理念ってのは、丁度天親と曇鸞の考え方を融和させたところに―独自と言えば独自だし―2人の大師匠・大祖師の考え方を融合したって言いましょうか、両方から自分の感情とか・考え方とか・信仰とかで以て融和させたところで親鸞が考えた考え方に成るんじゃないかと僕には思われます。つまりそこのところがとても親鸞の還相と言うことと、慈悲と言う考え方との要に成るんじゃないかと思われます。この要から『歎異抄』の聖道の慈悲と浄土の慈悲とは違う、つまり聖道の慈悲と言うのは人を哀れみ、育んで悲しんで助けようとするのだけれど、助けが成就すると言うことに就いては始終がない、切りが無いんだ、解決なんか永久につかないんだという考え方に対して、親鸞が浄土の慈悲と言うのはそうではないと。念仏を唱えて急ぎ浄土へ往くということこそが第一義の慈悲なんだと言うふうに親鸞が言葉で言っている、その1つの言い切り方・親鸞的な言い方がある訳ですけれど、この言い切り方に成って出て来ている問題を親鸞の浄土・教義に対する考え方として出てくれば、今申し上げました天親と曇鸞の考え方、『浄土論』と『論註』の考え方を融和させたところにあるんじゃないか。つまり親鸞の理念と言いましょうか、考え方が、知的な考え方があるんじゃないかと言うふうに思われる訳です。一応そういうふうに考えてみますと、『歎異抄』にある親鸞の言い方、喋り方を汲みまして、親鸞の慈悲と言うものと還相と言いましょうか、還りの姿と言うものとの融和した姿と言うものが、言葉に成って出て来る、それが理解がし易く成るんじゃないかと僕自身にはそういうふうに思われる訳です。
ところで、問題があります。問題がありますって言うことはなぜかと言うことなんですが、最初の、人間の浄土と言う考え方について、2通りの言い方を親鸞がしているって言うふうに申し上げましたけれども、この問題は親鸞の考え方、それから我々が今、今浄土と言うものを考えたり死と言うのを考えたりする場合に、或いは死んだ後はあるのかと言うことを考えた場合に、非常に重要な問題に成って来る様に思う訳です。親鸞が既に、親鸞の時代に、既に親鸞が2通りの言い方をしているって言うことがある訳ですけども、親鸞はなぜ2通りの言い方、つまり死んだ後に浄土があって皆そこに往くんだよという言い方と、いやそういう意味あいでは浄土って言うものは設定できない、それから人間の死と言うものも考えることは出来ないという仏教の究極の理念と言うものでいう浄土と言うものと2通りの考え方をその当時の親鸞がしたかと言うことについて、親鸞自身の言い方を言わしめれば、今は末法の時代なんだから、自力でもって修練して浄土に往くって言うことは自分たち煩悩の盛んな凡夫には出来る訳がないんだ、出来ないんだ、そこで以て何に頼る以外にないかって言うと、本願力・本願の力はどこへ行っても、どういう考え方をとってもそれに作用している、いつでもそれは含まれて作用しているってふうに考えて、その作用に助けられて行くより考えるより他はないんだって言うふうに、親鸞が念仏を至心に信仰して念仏を唱えるということで、一挙に浄土に往く、浄土に往く位に付けると言う遣り方以外に方法はないんだ、他の方法をとったならそこに往けないんだ、真の仏土、報土には往けないんだ、ちょっとでも自力で以て浄土に往けると考えて修行したり、善なる行いをしようとでちょっとでも考えたなら、それはヤッパリ本当の浄土・仏土には往けないんだと言う方を親鸞はしていると思います。もし同じ様な言い方を、もしすることが可能だとすれば、現代僕らはどこに居るんだということに成ると思います。現代僕らが居るのは―そういう言葉はない訳ですけれど―末法のまた末法に居ると言えると思います。つまり末法どころではないんだ、末法のまた末法なんだ。そういうところに現代と言うのはあるんだと言うふうに言うことが出来ると思います。だから勿論皆さんは違いますから―僕が、と言うふうに限定した方がいいと思いますが―僕が例えば死んだ後に実体として浄土と言うのがあって、そこに自分たちは往くんだと言うふうに僕は少しも信ずることが出来ない、つまり実体としての浄土と言うものを信じていない訳です。だから僕の信じていないと言うことがそんなに特殊な場合ではないんだというふうに考えてくれば、現代の僕らみたいな―皆さんの様な場所じゃなくて―僕らみたいな不信な一般大衆と言いましょうか、煩悩の盛んな凡夫と言う場所にいる現在の人間は、多分真に信仰して念仏を唱えれば浄土へ往ける、で、浄土と言うのはあの世であって死んだ後のそういう世界があるというふうに誰も多分信じていないだろうと思います。つまり僕が特殊な人間じゃないとすれば、皆殆ど信ずることが出来てないと思います。つまりそれ位末法のまた末法に成っていると言うふうに考えた方が、多分非常に精確で正しい・いい使い方と言うふうに僕には思われます。つまり皆さんの方は沢山の、こういうことを言いますと皆さんの方には沢山の言い分がありましょうし、また自分はそんなふうに全然考えていないと仰るかも知れませんから、これは僕の考えた方がそうですし、僕の考え方にある普遍性というものがもしあるとすれば、多分浄土なんてある訳ねえよ、死んだ後に綺麗な世界があってそこに魂が往くんだよと思っている、そんな訳ある訳ないよと思っている人が、多分一般だろうと僕には思われます。
じゃあ、末法のまた末法の時に、どうことに成っちゃうかと言うことを申し上げます。僕自身がどういうことに成ってるかと言うことを申し上げればいい訳です。それはあらゆることが親鸞の言う還相、浄土門の世界的な大思想家たち―世界的な大思想家である天親とか曇鸞とか親鸞とか―そういう大思想家が一生懸命考えてくれたり、信仰の上で以て分かり易く、末法の時代でも分かり易い様に解いてくれた、教えている教え方って言うのを僕らは―僕とかごく普通の不信心の人って考えて下さっていい訳ですが―そう言う人は本当にまるごと掴むと言うことが出来なく成っちゃっているということが言える訳です。出来なくなるとどういうことが起こっているかというと、比喩としてしか分からなく成っちゃっていると言うのが実状じゃないかと思っている。ぼくの実状はそうです。比喩としてしか分かんなく成っちゃった。だから還相・還りの姿とは何なんだ、浄土って言うのは何なんだ、あるいは人間の死っていうのは何なのかと言うのは、全部みんな僕らは比喩としてしか分かんなく成っちゃっている訳です。比喩って言うのはどういうことかと言うのを皆さんにご参考の為っていいますか、多分ご参考の為って言うことは、つまり沢山の一般の人たちが多分そう考えているんではないかと思われるので申し上げます。全部が比喩としてしか受け取れなく成っちゃっている。つまりそれ程思想というものがダメに成っちゃっている。ぼくらの思想はダメに成っちゃっている訳ですよ。嘗てならばひとたび信仰して念仏を唱えて、本願の力に包まれたという実感を持った人ならば、どんな凡夫だって、どんな人だって皆分かっちゃった、貴方たちの言うことが分かったと言うふうに言えたに違いない時代があった訳ですけれど、少なくとも法然・親鸞が在世中に、中世には確かにあったんだと思います。だけれど僕らはそれが無く成っちゃった、多分僕は尚更無く成っちゃっている訳でしょうけれども。無く成っちゃってる訳です。全部そういのは比喩としてしか受け取れなく成って、比喩としての浄土とか死とかをどういうふうに考えるかって言いますと、それは分かりませんけど、親鸞の言葉、或いは浄土教の言う「正定の位」、つまり浄土に直通できる場所だと親鸞だと言っているその「正定の位」と言うのを仮に、僕が仮に死と言うものの、或いは浄土への入(はい)り口の比喩だと言うふうに僕が受け取るとします。そうするとどういうことが僕にとってせめて親鸞から受け取れるかって言いますと、還相という考え方から、或いは還りの姿という考え方からどういうことが受け取れるかって言うと―なんと言いますか、どう言ったらいいでしょうか―死っていう場所が分からない、比喩としてしか分からない、僕には。比喩としてしか分からない死という場所から、逆に現在の自分の心の中とか自分が行っていることとか、それから眼前に社会的に起こっていることとか(が)死という場所から、死という比喩の場所から、向こうから見たら、向こうから照らし出して見たら一体どういうふうに見えるかと言うふうに、僕だったらそういうふうに受け取ってしまう訳です。だから言ってみれば僕らはどういうふうに生きているかって言いますと、今、僕は初老って言うんでしょうか、つまり老の領域に入っている人間だと思いますけれども、つまり老の領域に入って、病気になって後は死がある、実体としてそう成る訳です、肉体としてはそう成る訳でしょうけども、そういうふうにしながらこれから―そうすると今度残り時間がどれ位あってとか、その場所からこれから起こること明日起こること、今日ここ迄考えたけど明日はそこ迄考えられるかも知れないとか、今日こういう仕事をしているけれども明日はその次でこういうことが出来るかも知れない、そういう考え方をするのが僕らの生きているって言いますか、実体として生きている場合の生き方と考え方だと思います。ところがその様に此方から明日というふうに見えている見方では無くて、比喩としての死の方から自分が今遣っていることとか自分がやっている仕事とか、明日って言うのもそうです、今遣っていることもそうですし、過去のこともそうなんだけども、死の方から―比喩としての死の視点から―同時に照らし出したら一体どういうふうに見えるかと言うことに(が)、比喩的に成っちゃう訳なんです。つまり自分の心と言うものは自分の主観で生み出して主観で考えるってだけじゃなくて、それは何か分からないのですけれど、比喩としての死という方からの視線から照らし出したら、同時に照らし出したら自分の心に残っていることがどういうふうに見えるとか、自分が眼前に見ている社会現象ってのがどういうふうに見えるかって様なことに、そう言う比喩として受け取れるって言うことに成ってしまいます。
こんなことを抽象的にではなく具体的にアッサリ言えば直ぐにいい訳です。例えば先程控え室でタバコを吸う話題が出てきましたから、タバコを吸うと言うことがあります。誰でもがタバコを吸ったり吸わない人もいる訳です。で、吸う人もおり吸わない人もおるってのが、これが我々が生きている現在の実態だと思います。ところで近頃ではタバコの嫌煙権の運動みたいなのがありまして、タバコを吸わない人に迷惑を掛けるから、所定の場所以外でタバコを吸うのは止めようじゃないかと言うことを職場で決議されたり、あるいは社会的にそういう人達が嫌煙権の運動みたいなのをしたり、そういう形であります。そうするとこれは吸う人は吸う人、吸わない人は吸わない人と言うのが無くなって、吸う人は吸わない人に迷惑を掛けるなって言うふうに、これは自分が自ずからそう思うと言うことではなくて、法律で禁止した方がいい、極端に言えばそういうふうに成って来る、成ってる訳です。それを嫌煙権の運動と言うふうに名付けている。盛んな所もあればそうでない所もある。僕が知っている編集者の人の職場では何かそういう人が1人いまして、ところがある時お客さんが遣って来て、嫌煙権の人が「あなたここでタバコを吸わないで下さい」と言ったらお客さんの方が―何て言いましょうか―奇妙な顔をして白けちゃって、怒り出して帰っちゃった。こういうことが起こったんですが、さすがにここまで遣るのは極端じゃないかってことに成って、そこまではおかしいじゃないか、我々の仲間で吸っちゃいけないなら所定の所で吸おうって、これなら仲間の間で話がつく。しかし、お客さんはそんなことは知らない訳だから、吸う人はプカプカ吸って「あなたは止めて下さい、ここは吸うことになっていません」と言うことはちょっと違うんじゃないかと言うことで論議しても喧嘩に成っちゃって、同じ職場なんだけれどお互いそっぽ向いていると言う様なことに成っちゃったと言うふうな話をしていましたけれど、そういう現象は至る所にある訳です、あると思います。またこれから未来のことを考えると、益々盛んに成ると思います(笑い)。ところでそれから、お医者さんでタバコを吸うと肺がんになると、こういう人がいる訳です。ちゃんとデーターがあると言うことで、癌の人・肺癌で死んだ人を解剖したら皆タバコのヤニが貯まっている人が多かったと言う、そういうデーターを挙げまして、だから「科学的にハッキリしているんだから止めろ、止めるべきだ」とこう言うふうに言うお医者さんが居ります。こういう人もまた応援して出て来た。またいろいろな政治運動家みたいな、市民運動か知りませんけれどそういうのが出てきて「遣れ遣れ」と遣る様なのも出て来た。こういうふうに成っている訳です。で、いろいろ理屈を言えばいいんです。
この際、理屈は抜きにしまして―肝心な問題なんですけれども―こういう現象に対してですね、僕らが本当に親鸞の思想として、あるいは浄土門の思想としての現象という考え方も、慈悲って言う考え方も比喩としてしか分からなく成っちゃっている、僕らみたいな人間が末法の末世の末世と言いましょうか、末法の末法の現代で以てこの一つのタバコを吸うか吸わないかについて、良いか悪いかという問題についてどういうことを比喩として考えが得られるかって言いますと、タバコを吸うか吸わないかと言うことの中には、何て言いますか緊急の―そう言う言い方をしますとね―緊急の課題、乃至は先程言いました『歎異抄』の言葉で言えば「聖道の慈悲」の範囲に属する問題と、それからそうじゃない「浄土の慈悲」に属する問題の2つ、つまり往相の問題と還相の問題の2つ(が)含まれていると比喩的に理解することが出来ます。つまりどういうことかって言いますと、タバコを吸って側の人に迷惑を、吸わない人に煙で迷惑を掛ける、その人に健康に迷惑を掛けるかも知れないからタバコを吸うのを止めようじゃないかという問題が生ずるって言うことは、僕は「聖道の慈悲」の範囲に属する問題の捉え方だと思われます。しかし、このタバコを吸うか吸わないかという問題の中にもう一つの問題があります。それは永遠の問題です。つまり永遠の問題、あるいは還相の問題です。つまり還りの姿の問題があります。
つまりそれはどういうことかって言いますと、これは人間って言うものが―タバコを吸っている人、或いは吸ったことのある人は充分ご承知な訳なんですけども、ご承知な筈なんですけれども―タバコを吸うのは身体に悪いってこと位は、そんなことは誰だって知っている訳です。しかし知ってて吸っている訳です、知ってても吸っている訳です。吸っちゃう訳です。なぜそうなのかと言うことは人類・人間は原始時代から、原始未開の時代からみすみす分かっている麻薬みたいなものを草の中から、植物の中からそれを持って来まして、それを吸って一時的な快楽に耽るとか、一時的にいい気持ちに成っちゃうという、つまり麻薬ですよね。人類は麻薬を発見し嗜んでいると言う歴史は人類が始まってからこの方全部そうだと言ってもいい位、つまりこれは原始未開の時代からそうだったと言ってもいい訳、つまりこんなことは一時しのぎだって言うこと位は、一時しのぎでいい気持ちになるとか、幻覚の世界に遊んだり出来る、そういう様なことって言うのは、一時しのぎ位だって言うこと位は原始未開の時代から人類は、人間は知っている訳です。しかし原始未開の時代から遣っている訳ですよ。今も遣っている訳でしょうけども。これは酒・タバコ・麻薬ですね、そういうもの全部そうです。つまり中毒症状を呈することとか、身体に悪いことは分かっていることって言うのは全部人間が未開・原始の時代から嗜んでいることなんです。つまりこれが一時しのぎだって言うことは皆知っている、そんなことは知っている上で嗜んでいる訳です。嗜んでる訳です。僕らはそれを遣ってる訳なんです。
そうするとタバコを吸うか吸わないかって言うこと自体を還相、つまり永遠の課題として捉えれば、これは本当はこの問題を解決するには、ヤッパリ人間はなぜ一時しのぎにすぎない様な快楽とか嗜好品とか麻薬とかを嗜んだりするんだろうかとか、みすみす身体に悪い位は分かっているんだけれど、それでもしかし何かの解放の為って言いましょうか、一時的であれ解放感を求めてタバコを嗜むとか酒を嗜むとか麻薬を嗜むとかを、人間はなぜ止められないのかと言うことは、多分人間性の―何て言いますか―人間性、仏生(?)と言うことにあれすれば人間生な訳なんですが、仏生と言うもの(に)比較すれば人間生な訳なんですけれど―人間生と言うものの本生と言いますか、それを解き得ない限りは本当言うとタバコを吸うか吸わないか、或いは吸っちゃあいけないとか、おまえ止めろとか言うことを法律で禁止するぞってなこと、或いは職場で禁止するぞって言う様なことですら、そのことを解決しない限りは解決できないならば、それを言ったなら間違う訳ですよ。間違ってしまう訳です、と僕は思います。つまりこれが浄土の慈悲って言うふうに親鸞が言っていることの問題だと思います。つまり聖道の慈悲から言えば、吸うより吸わない方が身体にいい、多少の善じゃないか、多少の善があるじゃ無いか、だから悪いことを勧めているのではないから少なくともいいことを勧めているんだからいいでしょうというのは、僕はこの場合聖道の慈悲だと思います。しかし親鸞はそういうことを教えていないんですよ。それは終始無しって言うふうに言っている訳。だから本当にタバコを吸っていいか、良くないかと言うことを還相の課題として、あるいは永遠の課題として解こうとするならば、人間はなぜ嗜好品と言うものがみすみす身体に悪いと言うことが分かっている、一時しのぎだと言うことが分かっている、気分だけの解放感だということも分かっているのになぜ嗜むんだろうかと言う人間性の本性に潜むそういう問題について、ちゃんとした解決が、解決って言うのを課題・永遠の課題ですよこれは。最後まで残る課題です。つまり永遠の課題がそこに含まれているって言うことを考えなければこの問題に対して誤ったアプローチ・適応の仕方をするだろうって言うことは間違いないことの様に僕には思われます。つまり眼前に起こっている、現在起こって来ている、少なくとも眼前に起こってきて我々の身辺に―我々って言うことは煩悩盛んな凡夫と言うことです。末法の末法の時代、末世の末世の時代に於ける煩悩盛んな凡夫と言うことです―そこんところの短いしま(?)で創る一種の聖道の慈悲を強制する輩たちの考え方に対して―皆さんだってそこはお分かりだと思いますけど―確かにこれは少しはいいことだと分かる、しかしそれを強制するっていうところにはどっか・何か違うところがあるんじゃないかとお考えに成ると思うんですけれども。しかしそのどっか・何か違う、これを人に強制したり、法律で決めたりしたらちょっとおかしいよって言うふうに感じる、そのちょっとおかしいって言うふうに感じるものは何なのかって言ったら、それこそが還相の課題だと思います。つまり永遠の課題があるからだと思います。
永遠の課題がたかが―たかがって言うのはおかしいですけれど―タバコを吸うか吸わないかって言う問題の中にもそれが含まれていることだと思います。つまりそういうふうに現在あらゆる起こっているジャンル、眼前に起こってくる問題に対して我々は日々これに対して判断し、適応し、そしてこれに対して何かもし出来るならば何かしなきゃあいけない、或いは何か自分個人の身にとって言えば、自分個人に迫って来る、起こって来るそういうことに対して身を避けたり、あるいは身を挺したり、ぶつかったりしなきゃいけないということを日々当面している訳ですけれども、その日々当面するそのジャンルに起こってくる問題自体にさえ、自体にさえもし親鸞的な考え方―つまり還相という考え方、還りの姿と言う考え方、或いは浄土の慈悲と言う言い方というものを比喩として受け取りますと、そういう問題として存在するんだと言うことを理解することが出来る様に思うのです。ですから皆比喩に成っちゃうんです。ですから決していい考え方ではないんですよ。だけれどいい考え方ではないけれども、既にもう親鸞の考え方も、法然の考え方も、曇鸞の考え方も、天親の考え方も分かんなく成っちゃって、頭で理解しても身体で分かんなく成っちゃっていると言うこともまた真実なんですよ。皆さんにとって真実かどうか分からないけれど、僕にとっては真実なんです。だから、そこのところで比喩としてしか受け取れなく成っていると言うことも、やむを得ない現状のように僕には思われます。つまり凡夫の現状だと言うふうに僕には思われます。居直っている訳じゃないけれど、しかしそれは現状じゃないのかなと言うふうにどうしても思える訳です。そうするとあらゆることが比喩として受け取れちゃうと言うことになる訳です。比喩として受け取れて、しかしこれは親鸞の考え方、曇鸞の考え方に対して距離が大きい訳ですけれども、どれ位の距離があるものなのかと言うことを絶えず自分が確かめ得ているとすれば、比喩としてしか受け取れなくなっている自分の考え方がそこへ到達できる可能性が持てるんじゃないかというふうに僕には思われるんです。
例えば比喩として―タバコを吸うか吸わないかを比喩として―用いた訳ですけれど、そこの所をもう少し知識的なことですと、知識の問題として聖道の慈悲と浄土の慈悲、或いは往相と還相という考え方を、また比喩として例えば知識の問題として、現代に於ける知識の問題とは何なんだという課題に比喩として適用すると―適応っておかしい言い方ですけれど―我々はどういうふうに遣っているかと言いますと、今日よりも明日の方が知的に進歩・向上している、今日勉強したら明日の方が自分は少しものが分かる様に成った、知識が増えた、情報量が増えた、明日また勉強すると明後日の方が知識が増えるかも知れない、どこまで行くか分からないけれどドンドン知識の課題を追求して行くんだと言うのが我々の一般的な―多少でも知識というものに携わった人間の一般的な考え方、現在に於ける考え方です。
ところで、聖道の知識と―まあ、そういう言葉を使えば―浄土の知識というものがあります。比喩として出ている。或いは往相の知識と還相の知識と言うのがあります。で、現在に於ける知識の課題と言うのが往相の知識との課題、つまり今日よりか明日向上している、知識的に自分は偉く成っているとか、よく成っているとか、それはダメなんじゃないか、知識というものの間違いじゃないかという課題があると思います。つまり知識の課題もヤッパリ還相の知識という課題を、持たなければダメなんじゃないか。つまり還相の知識の課題とは―また比喩に成りますけれど―比喩としての死、または「正定の位」でもいい訳ですけれど、それがどこにあるかと言うことは実体として言えないにしても、そこから逆に照らし出す視線で以て知識というものを照らし出してみないと知識の本当の課題って言うものは分からないじゃないかと言うことがあると思うんです。
つまりそれはどういうことか、どういうふうに出てくるかって言うと、ここまで来ると僕の考え方になっちゃうから、ここまでは皆さんがどう考えても宜しい訳ですが、僕の知識の課題って言うのは現在では絶えず、絶えず大衆の課題って言いますか―大衆の課題って言いますのは生のままの大衆の課題って言うことを少しも意味しない訳ですけれども―大衆の原形って言いましょうか、原像という言葉を使うんですけども、大衆の原像の課題というのを、自分の知識の課題、つまり今日より明日知識が増えるんだとか、自分は向上するんだとか言うそう言う問題の中に絶えず大衆―仏教的に言えば煩悩の旺盛な凡夫でしょうけども―凡夫の課題というものを絶えず繰り込んでいるって言うのが、知識における還相の課題じゃないのか、そこまで考えないと知識における現在の課題って言うのは不可能なんじゃないのかって言うふうに僕自身はそう考えています。つまりこれは僕の考え方であって、僕の思想って言いましょうか、考え方に成ってしまいますから、そこ迄皆さん、僕には言わない・言っても仕方が無いことなんですけれど、ただ知識の課題って言うのは決して今日より明日向上したらそれでいいんだで、終わる訳では無いんですよと言うことなんです。つまり明日より明後日向上すればそれは立派なもんだと言うところで終わる訳じゃないと思う。それで済んでいた時もありましたけれど、少なくとも末法の末世の現在ではそれは違うんじゃないか、と言うふうに成ってきましたよと言うことがあると思うんです。それが還相の課題、還りの知識の姿に対する還りの課題だって言うふうに僕には思われます。
そこまで考えて往相の課題と還相の課題ということを相対的に捉えられない限り、知識の課題すら自分たちは解決できないんだ、現在の知識の課題に適合出来ないですよって言うことがあると思うんです。この問題は通俗的に考えたら聖道の慈悲に成っちゃう訳です。往相の課題に成っちゃう訳です。皆さんの中に、皆さんの宗派の中にあると思いますけど、緊急の課題として「こういうことに対して身を挺して実践して行かなくてはいけない」って言う様なことがある訳でしょう。それを実行・実行していく内に仲間も出てくる、仲間同志の取り決めも出てくる、取り決めが出て来ると外部に居る人達に(対して)従う者は中に入り、従わない者は外に出すと言う形で進行している問題は沢山ある訳でしょう。その自分たちはいいことをしているんだと思っている。しかしいいことをするかどうか、今日より増していいことをしているかどうかは、問題の解決、全面的な解決には成らないと言うこと、言ってみればその課題の中に―これを遣ればいいことなんだと言ういいことの課題の中に―永遠の課題というものがあるんだよ、永遠の課題が一緒に絶えず自分の問題(として)出来ていない限り大抵は間違えますよ、現代では間違えますよって言う問題がある訳なんです。この問題は皆さんが頻りに当面している訳でしょうし、僕も頻りに自分らの周辺と言うものを考え―これは物書きなら何でもいいのですけれど、或いは知的な仲間でもいいんですけれど、そういう中で頻繁に当面する問題です。つまりこの問題に対して本当の解き方はどこにあるのかと言うことに対して、少なくとも比喩として受け止めれば親鸞の考え方、つまり往相と言うこと、還相と言うことの親鸞の考え方、或いは往相の慈悲と還相の慈悲と言う考え方、或いは聖道の慈悲と浄土の慈悲と言う考え方(を)比喩として受け取って、多大の―僕にとっては―大きな問題の解決の糸口を与えるものになっている訳です。しかし僕は絶えず、本当は拙いんだよな、本当はこの問題を比喩として受け取って、比喩としての理解と言うことで終わらせたら、親鸞の考えを掴んでいるんじゃないんだよなと言うことは充分分かる訳です。僅かに僕の考え方の中に一種の救いと言うものがあるとすれば、やはり比喩として自分はこういうふうに受け取って、アッサリ言っちゃっているけれども、本当じゃないんだよな、本当の親鸞の往相と還相という考え方、或いは浄土って言う考え方、或いは死という考え方、そういう問題には頭でしか捉まえられないって成っちゃって、自分は実感として行けないだよな、しかし距離というのはだいぶ意識に中にあって、絶えず自分の中で距離を考えに入れて、もっとその距離は詰められるかも知れないと言う課題を絶えず自分が持っている限りは多少の救いはあるんだよなぁと言うふうに僕自身はそういうふうに考えている訳です。だから比喩として受け止めているところが、僕の最終の今の考え方だと言うふうに受け止られても困ってしまう訳です。ちっとも最終だとも思っていないんですよって言うことに成ってしまうでしょうけれども、しかし比喩として受け取っても、沢山のそういう問題に対するどう掴むか、どう捉まえてどう対処するのかという問題に対する糸口は掴める様(?)に、僕は思っています。これは情けないことですけれど、比喩的に受け取った時に、生じてくる問題の様に思うんです。
で、皆さんの方にも関係のある例をもう1つ挙げてみようと思います。日本の現在の社会、つまり言ってみれば末法のまた末法だと言う現在の社会ですけれど、その現在の社会で例えば生死と言うことに関係があることで申し上げてみますと、それは高齢化社会と言うことがよく言われております。現在の例えば男性の平均年齢は75~6歳、76歳位です。女性は81歳位です。82歳位に成っております。人口研究所の統計をよく見ますと紀元2000年、今世紀の終わりと言いますか来世紀の初めと言いますか、その時に60歳以上の割合が今よりももっと増えて16%位に成って、今度は20年経って2020年にはどう考えられるかと言うと24~5%が65歳以上の男女の数に成ってくる。これは考えて老齢化社会と言う問題が出て来たんだとう言うふうに社会学者とか、そういう人達が盛んに問題にしていると言う訳です。で、これは皆さんの御承知の通りだと思います。そうするとこれに対して、この老齢化社会・高齢化社会に対して今比喩で申し上げまして、今の課題・往相の課題で結構ですけれど、今の課題、或いは緊急の課題は何かと言いますと、直ぐに分かります様に現在老人病と言われている死病って言いましょうか、老人が死に至る病気ですけれど、老人病と言われるものをどうやって今よりもよく治療することが出来るか、出来る様に医学が発達できるかと言う問題が、みたいなのが1つありましょう。それからもう1つ言えば、老人用の施設と言うものをどうやって今より増やしたらいいかとか、そういう予算っていう、お金って言うものがどこから出てきたらいいのかという様な問題がありましょう。それから会社って言うのは60歳が定年ですけれど、定年をもっと増やして65歳にして老人の人達の職業を与える様にすれば、高齢化社会の問題も全部とは言えないまでもある程度、解決するんじゃないかと言う課題も現在緊急の課題として多分捉えられると言うふうに思う訳です。
ところでこの高齢化社会、或いは老齢化社会の問題に於いて永続的な課題と言いましょうか、還相の課題と言いましょうか、或いは浄土的な課題と言いましょうか、それは何かって言ったらそれは直ぐに分かる様に死って言うものをどうやって越えたらいいかという様なことの様に思われます。つまり死をどうやって越えたらいいか、と言う様なことが高齢化社会・老人問題に対する永続的な課題・永遠の課題、それは還相の課題です。つまり親鸞で言う浄土の慈悲・大慈悲の課題って言うのが死をどうやって越えたらいいのかと言う問題が永続的な課題、この永続的な課題に迫り、そしてこれを同時に、今の緊急の課題と一緒に同時に解けない限り、或いは同時に解くと言う考え方を取らない限りこの老齢化社会の問題、或いは老人問題、或いは人間の死の問題ってのは解決しないということは、実に明瞭なことだって言うふうに僕には思われます。つまりそこが現在提起される問題な訳です。
もう少し自分が考えましたところで、もう少し詳細なところ迄考えられるところ迄、僕自身が考えられるところ迄申し上げましょう。で、もう少し数字を弄ぶ様ですけどもう少し統計を、これは国際的な老人の比較調査をした統計がありますが、ちょっとそれを申し上げてみましょう。これは日本・イタリア・デンマーク・タイ国について、国際的に60歳以上の老人について回答を求めた、そういうのが統計でありますが、現在60歳以上の老人に「あなたは現在働いていますか」と言う質問に対して、日本では38%の御老人が「働いている」と答えています。60歳以上です。それからアメリカでは21%の人が働いていると答えています。デンマークは13%の御老人、60歳以上の御老人が働いていると答えています。日本の38%は圧倒的に多いことが分かります。多いと言うことは最も先進的な国であろうアメリカに対しても多い訳です。つまりアメリカでは―多分それだけには還元できないでしょうけれども、仮に言ってみればアメリカでは―老人が21%の人が働けば生活が済んでいた状態なのに日本ではまだ38%の御老人が働かなきゃどうしても遣っていけないみたいなことがあるんだ、そういうもんで当面しているんだと言うことで言えるかも知れません。それだけ遅れているんだと言うことかも知れません。それからもう1つ、デンマークみたいな社会保障が発達しているところでは13%で済んでいる、そうすると今緊急な課題が否応なく数字となって出てくると思います。
それからそれと似た様なことですけれど、「あんたは何歳まで働きたいか」と60歳以上の老人に質問したところ、答なんですけれどもタイ国やデンマーク・イタリアでは40%の人が60歳まで働きたい、こう言っている。アメリカでは30%の人が65歳まで働きたいと言っている。それから日本ではどうかって言うと、65歳まで働きたいと言っている人が28%、それから70歳まで働きたいと言っている人が20%、これは勿論いろんな理解が出来る(と思います)。日本人は勤勉なんだなぁ、お年寄りでも働きたいと言うんだから勤勉なんだなぁと言うふうにも受け取れる訳ですし、そういう人がいるって言うことも確かな様にも思えます。しかしもう1つは「結局は65歳・70歳まで働かなきゃあやっぱり生活が成り立っていかないからそうふうに言うんだよ」と言う様にも受け取れます。そうするとここでは勤勉だっていう考えは立派なもんだと言うことになるのかも知れない訳ですけれど、これヤッパリ65歳70歳まで働かなきゃ遣っていけないと言うことを意味していると言うふうに理解すれば、これも緊急な課題に入るって僕には思われます。緊急な課題・問題に入ると思われます。
で、段々永続的な課題という問題に入って行く訳ですけれど、例えばここにもう1つ統計があります。数字があります。書いてあったんですけれど経済界・労働界の有識者―有識者って言うんですから指導的な人、経済界で指導的な人と言えば会社の工場主だとか会社の社長さんだとか、重役さんだとか、そういうことを意味するんだと思います。それから労働界の有識者と言うのは要するに総評とか、何かいろいろある訳でしょうけど、そういうところの労働幹部って言いましょうかね、労働組合の幹部みたいな人を言ってるんだと思います。そういう人達に対して質問した質問があります。まだ幾つかありますけどね。仕事をお年寄りが第1線で遣るべきだろうか、或いは後進に道を譲るべきだろうかと言う様な質問に対して、68.9%、凡そ70%の人が仕事を第1線で遣るべきだと言うふうに答えています。これはきっと立場上そうなんでしょうし、また多分何かが解決しているんだと思います。一般の御老人よりも何か1つぐらいは解決しているところがあるんだと言う様に(思います)。経済界の有識者の御老人の場合には多分経済生活だと思いますけど、経済生活で何か解決しているって言うことはあるんだと思いますし、それから労働界の人は経済(界)の幹部みたいな経済生活がそれ程のことはないんでしょうけども、何かでやっぱり解決していること、或いは責任が回避できないと言うことがあるのかも知れませんし、だから大体70%の人が第1線でまだ仕事をすべきだとふうに言っていますし、後進に道を譲るべきだと言うふうに言っているのは11%位に過ぎないことになります。それから先程、今ありました定年制と言うことについて、60歳定年制が丁度いいと言っている人は50%位、これは早すぎると言っている人は40%位、で、1番いいのはどの位かと言うのに対して65歳位が1番いいでしょうと答えている人が80%に成っている。それから段々死と言うことの問題に近づいて行く訳です。
家庭生活って言うのをどういうふうにしたらいいのか。つまり家庭生活は子供から独立すべきだって言うふうに言っている人が94%います。それから子供の生活への干渉は差し控えた方がいいんだ、つまり干渉しない方がいいんだというふうに言っている人が60%位(56.5%)います。だから夫婦単位の生活がいいと言っている人が60%、子供や孫と一緒がいいと言い切っている人が20%位、ところが経済的も精神的も子供から独立すべきだと言う人が94%いるって言うことがあります。
つまりこの問題は何を意味しているかと申しますと、僕の理解の仕方では家族化・家族生活、少なくとも家族生活については、家族生活の意識については御老人達、つまり有識者と言われる御老人達は死の問題を解決していることを意味していると思います。これは家族生活についてはと言う限定があります。家庭生活については自分達が経済的も精神的にも子供から独立すべきだと答えている人が90%、90何%いると言うことは要するに家庭生活についての考え方、意識については少なくとも死という問題を解決していることを意味しています。実際にこれらの人達が家庭生活について子供から独立に、自分達が独立に経済的にも精神的にも生活を営める、つまり死がどこに来るのか分かりませんけれども、それに蓄えもあるしそれに対する準備もある、自分達だけでそれは子供に依存しないで遣っていけるふうに、実際に出来るか、人はどの位かはまた別でしょうけれども、しかし少なくともそうした方がいいと思っている人が90何%いるって言うことは、少なくとも家族生活の意識についてだけ言えば―家庭生活の考え方だけについて言えば―死の問題を解決していることを意味しています。で、家族生活には経済的な面での子供への依存心から独立していると言うことも1つでしょうし、それから全く経済的な問題というのももう1つあります。まだあります。それから病気の問題みたいなのもある訳です。つまり家庭生活自体を取って来てもまだ沢山の問題がありますけれども、それらを1つ1つ解くことが出来れば、或いはそういうことが実際に出来た、出来てると言う人・御老人が例えば50%を越えた時にはヤッパリ家族生活に就いてだけに言えば、要するに死の問題というのを解決していることを意味していると僕は思います。それでまだあります。家族生活には。子供との例えば折り合いの問題みたいなもあります。それから老いて夫婦自体が両方が足腰が立たなく成った時に、一体どうするんだと言うことに就いても、ちゃんと自分達なりの構想を持てる様に成っているということも、解決すべき問題のことに含まれていますし、それから御老人夫婦同士の葛藤の問題、心の問題もある訳でしょうし、まだ沢山のことがありましょうけれども、少なくとも要するに家族生活の問題に就いて、考え方とか意識に就いては死を越えるって言うことに到達している御老人が幾分かずつ増えつつあるし、またそういう課題に当面しているんだって―御老人自身が当面しているんだ―と言うことが言えると思います。これが末法の末法である現在のとても大きな課題である訳です。で、これは親鸞の時代にはそういうことはまだ考えなくてもよかったのかも知れませんし、もっと考えるべきだったのかも知れません。或いは聖道の師匠達が、祖師達が一生懸命考えたり、実行したりしたのかも知れません。つまりそれはそういうものだったかも知れません。ですけれど高齢化社会に成ったと言うことはいいことなんですけれど、別の面から言えば末法の末法だから成ったということと同じことです。だからそこんとこでそういう問題が出て来たと言うことが言えると思います。
ところで死の問題には家族生活の問題だけではない訳です。社会生活って言う問題もあります。社会生活の問題もあります。それは沢山の問題―今先程言いました緊急の課題、緊急の老人問題の課題って言うのと沢山の問題が一致します。社会生活の問題って言うのと一致します。しかし社会生活の問題といえども、社会福祉・老人施設の数がいっぱい増えて、それから国家がそれを福祉国家として自覚して沢山そういう設備を造ったり、予算を沢山割いてくれたり、そういうふうにしてくれれば、究極の解決かと言ったら決してそうではありません。そうではないんです。つまり老人の問題、社会問題といえども、究極的にはそれは個々の老人の問題のところに到達した時に初めて還相の側から、つまり往相ではなく還相の側からそこに到達した時に、初めて社会的に問題に就いても老人問題が解決したということに成ると思います。つまりもっと具体的に言えば御老人達が自分達の遣りたい様な施設・老人施設ではなくて、自分達の遣りたい様な1番好ましい生活様式で以て経済的にも精神的も生活することが成り立っていって、自主的に成り立っていく体制がとれるって言うところが出来たら、それは多分老人の社会生活の問題としての老人問題は初めて死の問題を越えた、越えるという糸口に入ったと言うことを僕は意味していると思います。決して社会が、社会施設がそういうふうに増えてきて、そこに安心して任せられたなら老人問題は終わりか、国家予算をうんとふんだくったり、そういう施設をいっぱい造ったらそれでいいのかって言ったら、それは究極の解決ではありません。つまり究極の解決は心身共にその老人個人個人、或いは夫婦個人個人が今まで当面してきた問題、つまり生死の問題―生とか老とか病とか死とか、そう言う問題に於ける人間というものがそれぞれが当面し経験して来た問題―を含めて心身共に、それから経済生活も共に全部自分達の様式、自分達の遣り方を執りながら、生活の遣り方を執りながらそういうことを解決した時に、老人問題の社会的問題が解決したと言うふうに言えることに成ると思います。
それから最後にヤッパリ老人問題には個々の人の内面の問題、つまり心の中の問題と、実際の問題―生老病死って言いましょうか―そういう生身の人間としての老人問題の死の問題ですね。老人の死の問題、それと死と言うことの生死の問題の2つが解けなければ少なくとも、曇鸞の『論註』で言えば中の慈悲と大の慈悲に成りますけれど、親鸞で言えば浄土の大慈悲ということに成りますけれど、その問題は究極的には問題は解決されないと言うことに成ります。で、この問題は多分皆さんの方が専門家であるし、皆さんがもしかすると1番よくそれは遣られている訳ですし、また遣られるべき問題である様な、他の人にはあんまり出来ないんだけれど、皆さん達の方が遣られる資格もあるし、出来るんだという問題であるかも知れません。だからそれは僕らが容喙すべき事柄では無いし、また口を出すべき問題でも様な気も致します。しかし僕なりの比喩の立場から、比喩でしか近づけないそういう人間の立場から心の問題として、肉体の問題として死を越えるとはどういう問題、どういうこと何だということに就いて僕なりに考え来た、来ているそういう問題、そういうことをお話ししてこれまたご参考に供したいと思う訳です。
で、つまり生老病死という生身の人間の死の問題に就いて先ず申し上げて、僕がどういうふうな考え方をとっているかと言うことを申し上げてみたいと思いますけど。こういう生身の人間の死の問題と言うのを考えて、これを死の方から「正定の位」のところからと言いましょうか、死の「ある場所」からこれを向こうから照らし出される視線って言いましょうか、それを僕なりに比喩的に付け加えた上で考えますと、どういうことに成って来るかと申し上げますと、これは1つは―なんて言いますか、なんて言いますか、うまい言葉はないんですけれど―1つは人間の死・肉体的な死ですけれど、肉体的な死って言うのは、つまり本当に・厳密に言いますと―なんて言いますか―此処から此処が肉体の死で此処から此処が肉体の生なんだという境界って言うのが存在しないと言うことが1つあると思います。つまりこの問題は例えば緊急な問題みたいなのとくっつけてしまうと、今盛んに脳死と言うことの問題が論議される訳でしょう。脳死って何かって言いますと、例えば極端なことを言いますと交通事故に当面して脳の方が先に死を迎えちゃったんだけれども、心臓とかその他がまだ生きている状態があるって言う、そういう場合に脳死って言うふうに言われている訳です。そういう場合には内臓移植、心臓移植みたいな(ことが)医学的には可能に成っているから、そういう時に医学的な心臓移植みたいのをするのは是か非かと言うような問題が現在、盛んに論議されたり決議されたり、様々な考え方を喚起している訳です。ところがこの問題は内蔵の死に成って、脳の死、診療の死っていうふうに成っていくのが自然死の場合の死の一種の順序に成る訳です。で、脳死の場合にはそれが急激に死が来るものですから、脳の方が先に死んじゃって心臓の方や内臓の方が生きていると言う状態がある時間、出現すると言うことなんですけれど。つまりこれでみても分かります様に人間の肉体の死といえども本当言うと、どういう所に死という境界を、此処から此処がこの人の死だって言うふうに言っていいかと言う問題は、と言うと境界は厳密な意味では引けない訳です。引けないと言うことは死は境界を引けるんだという考え方に対して僕は大切な様な気がします。つまり死って言うのは肉体の死といえども、非常に丁寧に考えた方が宜しい様に思えます。丁寧の考えないより(丁寧に)考えた方が宜しい様に思えます。つまり丁寧に考えることが何も死の本質に迫ることでは無いですけれども、死の本質・死と言うものの肉体の死というものが何かということに迫る為に、其処に到達する為の前提ではあります。大雑把に今「あの人死んじゃった」「死んだ」とか「死ななかった」とか言うふうに簡単に言うよりも、本当言うと死去しない・死なないと言うこととは本当言うとあんまり境界は付けられないんだよと言うふうな理解の仕方の方が丁寧な理解である様に思います。丁寧な理解だと言う意味合いで死の本質と言うものに近づく為の距離を縮めることに成るだろうと思いますから、先ず丁寧な理解の仕方をした方がいいのでしょうか、と言うのが言えると思います。
それからもう1つ、そういう問題について肉体の死っていうことに就いて言えることは、人間は死って言うのを体験出来ないと言うことだと思います。つまりこれも丁寧に、丁寧にしていかなきゃいけない訳ですけれども、丁寧に言いますと人間って言うのは自分の死と言うのは体験できない訳です。そして人の死・他者の死・近親者の死・父親の死・おじいさんの死、場合によっては子供の死と言うこともある訳ですけれど、そういう他人の死と言うのだけは見ることが出来ますし、それを生かそうと思って沢山手助けをしたりすることも出来る訳ですけれども、肉体的な死は他人の死しか見られない、体験出来ないと言うことなんです。で、死を体験として考えるならば、これは自分の体験が出来なくて他人に対する、他人の体験を見る、見るって言うことを介して体験できるものなんだ。そしてこれを、つまり他人の死しか体験出来ない、自分の死は体験出来ない、厳密に言えば、少し厳密にするとそう成ると思います。別の言い方をすると、死というものに就いては―肉体の死って言うものに就いては―絶えず体験できるのは形式だけなんだと言うことなんです。形式しか人間な体験出来ないだと言うことです。つまり人(自分?)の死と言うのは体験できない。皆さんご承知の様に死に瀕した人が苦しそうにしていて、それはこちらから見ている視線で以て体験しているって言いましょうか、そういうふうに体験していると、視線で体験していると苦しそうに見えるけれども、その時ご当人が苦しいかどうか、或いは意識があるか無いかと言うことは全く分からないんです。それは別問題です。つまりその様に死というものは自分では体験できない―自分が体験したら死んじゃってますから体験できないですから―自分は体験出来ないし、他者の死しか体験出来ないですけれど、他者の死って言うのは形式的にしか体験出来ないと言うふうに、人間の肉体的本性と言うのはそういうふうに出来ています。
で、この問題は僕の理解の仕方ではそこまで位なら肉体の死について親鸞の時代よりも―親鸞の時代よりもと言うことは末世の末世よりも末世の末世の方が―そこいら辺ぐらい迄は分かる様に成っていると言うことなんです。分かると言うことはちっとも救いを意味しないんですけれども、しかし分かる様に成っている訳です。で、親鸞の時にはそこ迄分かっていないんです。これは法然の死についての考え方と親鸞の死についての考え方と言うのを較べて、それ以前の仏教の死についての考え方を較べれば直ぐに分かります。それは例えば源信なら源信の死の考え方と較べれば直ぐ分かります。源信にとっては臨終の念仏は大切な訳です。なぜかって言ったら、臨終の時に―どういう形でもいいのですけれど―念仏を頻りに唱えて、念仏を唱えながら肉体の死の方へ行ったら浄土へ往ける、往き易い、往ける。だから臨終の念仏は大切なんだという考え方がある訳ですけれども、法然は全くそういう考え方を否定する訳です。どういうふうに否定したかって言うと、肉体の死って言うのは個々の場合によって違う。それで苦しくて苦しくてしょうがなくて死ぬ場合も人間はありうると。楽に死ねる時もあるかも知れないけれども、苦しくて死ぬ場合もあると。そんなことは、分かりはしないんだ。しかし苦しくて死んだ時には臨終の念仏なんか唱えようと思ったって出来る訳ないじゃないかって言うふうに、法然はそう言っています。だから臨終の念仏ってのは、そんなに特に重要視する必要はないって法然はそう言っています。
しかし親鸞は今度どうなのか。結局は同じことなんですけれど、もう少し認識って言いますか、肉体的な死に就いての親鸞の認識はもう少し進んでいます。で、どう進んでいるかって言うと、そこは親鸞は精神の病、つまり狂い死にするみたいなのはちょっと除くけれども、肉体の死はどう言う死であるかということは関係ないって言っています。つまり浄土に逝けるかどうかって言うこと、如来性を得られるかどうかと言うことは関係ないことだって言っています。つまりそれは法然と同じなんだけれど、同じですけれど法然の場合には源信の考え方、臨終の念仏を―そうは言わないんですけれども―臨終の念仏を唱えることは決して悪くはないでしょうけれども、しかし苦しくて死ぬ時も人間と言うのはあり得るんですよ、だから必ずしも臨終の念仏が無くともいいんですよという言い方だとすれば、親鸞のニュアンスはいや臨終の念仏に重きを置く様な考え方はダメですよ、ダメだと自分は思いますよと言うこと、自分が真の仏土だと言うふうに考えたり、或いは真の浄土だって言うふうに考えたりするところに逝けるって言うこと、つまり「正定の位」に往けるって言うふうに考えている問題って言うのは、そういうこととは全く関係ないことですって。もっと言えば、つまり一念の中に全部がある訳で、それ以上、以外のことは報恩の問題として唱えられる念仏だって言うふうに言った方がいい位なんだって親鸞はそういう言い方をしていますけれど、つまり親鸞の考え方は臨終の念仏みたいなものに重きを置くって言う考え方は本当の他力の他力って言うのとは違います、と言うニュアンスで言われていると思います。つまりそれが親鸞の時代の最も進んだ仏教者の死に就いての考え方―何が違うかって、仰る様に生理的な死と言うことについてかなりよく分かっていることだと思います。親鸞とか法然とかはよく判っている。勿論それ以前の仏教者って言うのもよく分かっていたのかも知れません。つまりこれは訊いてみなければ分かりません。言ってないんだから仕方が無いこと。分かっていたかも知れないけれど、要するに建前上そういうことは言えなかったかも知れません。これは分からないことです。つまり建前上言えなかったことで、法然とか親鸞が言っちゃったことが沢山あります。その中の1つだと思います。つまりそれは妻帯と言うことも同じで、内緒であるその時代の仏教者だって偉い仏教者だって他宗の仏教者だってちゃんと妻帯と同じことをしている訳ですよ。ちゃんと、どっかに女の人は居る訳ですよ。それで、比叡山を下りて通ったりしている訳ですよ。今も居るでしょうけれど。その頃も居る訳ですよ。それだけどもそれは建前上全然内緒な訳です。それは関係ないと思っている訳です。で、仏教と関係ないよって思っている訳だけど、親鸞とか法然は初めて―親鸞は特にそうですけど―冗談じゃ無いよ、冗談じゃ無いよって、こんなのを幾ら遣ったか遣らないかは信仰と言うこととも、それから浄土へ逝くと言うことも、生死を越えると言うことも関係ない、それでいいんですよっていうふうに言っている訳です。それが煩悩盛んな凡夫じゃないか、俺もそうするよって言っている訳です。で、そういうふうに建前上か、本当の認識かは分かりません(が)、それが格段に進んでいる訳です。優れている訳です。それが現在肉体の死に就いてだったならば、僕はそこいら辺くらいまで、今申し上げましたところまでは親鸞の時代からハッキリ言えてる、医学が専門的に言えてることだし、言えることの様に思われます。もっと先まで言えるのかも知れませんけど僕らが持っている考え方・知識・考え方(を)総合してみまして、肉体の死って言うものは体験出来ないですよ、体験出来るのは形式だけですよ、他者の死だけですよということ。つまりこの2つを厳密に詰めた方が見詰めた方が宜しい様に思います。さて、そこ迄詰めると言うことが1つあります。そこ迄詰めると言う課題が1つあります。
だけど、最後にお前は死が恐くないのか。つまり宗教は繰り返し繰り返し、仏教はそれを解決せんが為に始まったと言っていい位最後の問いがあります。最後の問いって言うのは、要するに死って言うのは何なんだ。死って言うのは心の問題、肉体の問題も勿論含まれる訳ですが、何なんだ。死を越えるって言うこと、死を越えるって言うこと、或いは浄土に往くって言うこと、或いはそこから還るって言うこと、それは何なんだと言う課題が最後に残る訳です。これは皆さんが専門とされる課題だから皆さんの方がよく解いておられるだろうと言うふうに僕には思われます。僕はどういうふうに、どういうところまで考えて、尚それは詰めていかなきゃいけないんだって言うふうに自分に言い聞かせているかということを申し上げれば足りる訳で、皆さんに申し上げるのは釈迦に説法にみたいなもんだと言うことを予めお断りしておかなきゃいけないことだと言うふうに思います。
で、結局僕が詰められるのは、先程の往相と還相と言うことの比喩と関係して来ることなんですけれど、私達が・僕らが死って言うのを考える場合には、例えば僕だって時々考えますけど、普段忘れたり、故意に考えなかったり、そういうことは考えない様にしていたりするんだけれども、時々考えるといずれ自分の実体的なって言いましょうか、肉体的な、つまり生まれて育って、そして老人に成って病気になって死ぬと言う意味あいでの死って言うのはそんなに先迄では無いだろう(とか)、たいして別に年数が残っている訳では無いし、つまり明日死が来てもいっこうにおかしくない老人の領域に入っていると自分は思いますから、明日でもおかしくないと考えれば(と)思いますけれど、心はどうなっているんだ、心は普段は問い紛れているか忘れているかと言うことで済んでいる訳ですけれども、問い紛れないでちょっとその問題を追い詰めてみたらどういうことに成るんだと言うことなんですけれど、たいして追い詰められない訳です。ただ要するに死の―また比喩に成りますけれど―死の方から、つまり還相の視線・死の方からの視線で自分がこれから老から病から死と言うものに当面することがあり得る訳ですけれども―いつでもあってもおかしくないと言うところにある訳ですけれど―その問題、そういう心の問題をこっちから死の方に向かって、つまり老人の方から、老い始めた自分の方から自分の死の方に向かって、「まだこれこれのことが出来ていないから俺はまだ死ねない」とか、「これこれの考えがうまく出来ていないから俺は死ねない」とか、いろいろな理由付けが出来る訳ですけれども、つまり此方の方から向こうの自分の死の方に向かって心の課題って言うのを、まだこういうこと出来るならば、こういうこと(の)問題を、こういうことを解いて死にたいなぁと言うことがあって、いろいろ考えるってことがある訳ですけれど、そう考えるってことは要するによく言ってみれば此方から向こうを見てって言いますか、老いに入った領域から自分の予想される死みたいなもの、肉体の死みたいなのを向いて何かを考えるってことをしている訳です。ひとりでに人間はそうしています。
しかしもう1つあるんだ。それは向こうから、死が何処にあるかってのは難しいことですけれど、しかし死の方から今の自分と言うものを向こうから照らし出すって言ったらどういうことに成るんだ。今自分が考えている様な問題と言うのが、考えていることがどういう問題として出てくるんだという、そういうことがあります。それからまた自分が此方から向こうに向かって、やがて俺も死ぬんだみたいに考えているその考え方とか、もう少し自分はいろんなことを遣り遂げて死にたいとか考えている、そういうことはそれは此方から向こうに向かっているからそう考えているんだけれども、向こうから此方に向かう視線というものを、仮に考えること、想定することが出来るとすれば、その視線を同時に行使したらその問題はどういうふうに見えるだろうかと言う問題があります。或いはどういうふうに死の問題は見えるだろうかと言うことがあると思います。
それからもう1つまた、そういう様に見通してまた自分は心の問題として死の問題をまた此方から向こうに向かって考える、しかしまた今度は向こうから―向こうと言うのはよく分からないところですけれど親鸞ならば「正定の位」だって言ったかも知れない、そういう言う場所なんですけれどそういう場所から浄土が見える場所って言いましょうか、浄土が見える場所から―此方を見たならば此方の自分の考え方を見たならばどういうふうに見えるのだろうかと言う課題をまた追究(し)、また考える。つまりそういうふうに言ってみれば、比喩で言えば此方から向こうへ死に向かって物事を考えていくという考え方、それから向こうから此方に向かって物事を考えて行く、或いは心の問題を考えて行くと言う考え方と謂わばいつでも何か自在にって言いましょうか―分かりませんけど、自在とはどういうことかも分かりませんけれども―それを往復することが出来るって言いましょうか、そういう問題にして謂わば心の問題としての死って言うものを生と死みたいに境界を付けて我々は独りでに考えちゃっている訳です。境界というのは本当は無いんだよと言うところ迄、心の問題としての死と言うものを往復することに拠って、向こうからの視線と此方からの視線を往復させて謂わば死の心の問題にもやはり境界なんて無いんだよ、ここから死でここから生であるなんて本当に厳密に言えば無いんだよって言うところ迄追い詰めることが出来たら、追い詰める出来たら僕なんかはそこまで行けたらいいな、追い詰められたならいいなって言うふうに僕自身はそういうふうに思っています。思っています。で、決して追い詰め尽くしている訳でも何でも無いんですけれども、死とは何か、つまり自分の心の問題を含めて、或いは心が恐くてしょうが無いとか、嫌だなぁってあんまり死にたくも無いなぁとか思ったり、辛いことがあると面倒くさいなって思ったり、まあ年々揺れている訳ですけれども、刻々揺れている訳ですけれども、そういう問題を向こうから照らし出したり、そういう自分を向こうから照らし出したり、此方からまた悩んだりということが往復して死の問題がやはり境界の問題では無いよ、つまり生老病そして死って境界を付けられる問題では無いんだよと言うところの死という問題のところ迄到達出来たなら、追究することが出来たならいいなって言うふうに僕自身は考えています。それ以上のことはちっとも考えられていないから、ちっとも解決している訳でも何でもありませんから。それだけご参考に供することしか出来ない訳ですけれども、そういう問題をそういうふうに考えております。つまり死は何重にもいろんな問題が重なって廻っているんですけれども、それらは全部解かれていかなくてはいけないんですけれど、それは行く行く追い詰めていきまして、ハッキリここ迄は追い詰められる、ここ迄は分からないと詰めていくとどういうことに成っているか、自分の中でどういうことに成っているかということはお話し出来た様な気がする。
で、僕、自分の―何て言いますかね―ダメさ加減を棚に上げて言えば―何て言いますか―親鸞の思想、或いは信仰と言うのに対してそれを皆比喩としてしか理解出来ない様なふうに末法の末法の時代に成っているって言うふうに僕は思います。ですから比喩の―今日お話ししたこともそうなんですが、「お前の言っていることは皆比喩だよ。比喩。つまんない。通俗的な比喩だよ」って言われるともう一言も無い訳で、決して弁解しようとか(は)思っていないですけれど、その通りなんですけれど、唯何かを言わして貰えば、要するに比喩の意味の方が重大になって来ちゃっている。つまり人間の生死に就いても、それから刻々に起こっている社会的な出来事に就いても比喩って言うことの比重がとても大きな割合で目の前に迫って来ているって言うか見えて来ちゃっている、そういう時代に成っているんじゃないのかなと思われます。この時代に信仰はどうあるべきかとか、生死についてどう考えたらいいのかと言うことを問われているんだなぁと言うふうに僕には思われる訳です。ですから話の勢い、比喩の話に成ってしまったのですけれども、敢えてそのことに多少の自分なりの理解の仕方って言いますか、納得の仕方って言うの(か)、或いは弁解って言いましょうか、言わずもがなの弁解みたいなものを言わして頂ければ、大体末法の末法って言うのは大体比喩の比重の方が親鸞の信義って言うものよりも、信仰とか信義とか、じっし(?)とかそういうものの本質の問題よりも比喩の問題の方が、何か見かけ上大きく見えちゃう様な時代に成っちゃんたんだなぁと言う様なことがある様な気がします。こういう認識の上で何か自分の考え方って言うのを僕らはすすめていこうみたいなふうに考えて来てる訳です。ここで様々ないざこざがありますし、様々な対立とかある訳ですけれど、大体自分の考え方って言うのはそこのところの問題であって1番最後に申し上げました問題はそれこそ、そのことが専門である皆さんの方が遙かに先の方に行っておられると思いますけども、ことが序でと申しましょうか、ことが成り行きに成りましたもので一応最後に申し上げてみました。で、これらの問題が親鸞の還相と言いましょうか、還りの姿って言うことをどういうふうに見えるかとか、どう理解するかと言うことから出てくる様々の、僕なんかが見えている課題の様に思っております。で、一応これで終わらせて頂きます。(拍手)
司会者
どうも有り難うございました。
注:「■■■(不明)」は聞き取り不可能の箇所
(司会者)
ここで10分、15分程休憩をとりたいと思います。後ろの方にお茶の用意がしてありますので、各自呑みたい方はお茶を召し上がって頂ければと思います。それでは休憩とさせて頂きます。
司会の方、ながのさんにお願い致します。先生、一応お座り■■■(不明)お願いします。それでは先生に2時間お話しを頂きましたので、お聴きに成られた皆さん方から質問・ご意見がご座いましたらご自由にどうぞ出して下さい。
(質問者)
何でも無いことだと思うんですけれど、先生のご紹介の案内の文が来てますけれども、ながのさんが先生のお宅に行かれてケーキとお茶ですよね2時間以上かかった後、最後の一言と言いますか、ながのさんが耳の底に残った言葉があるとさっき書いてある、それを読んでみますと(笑い)、僕らは思想家と言うふうに言っちゃうんですけれども、親鸞は1番遠くまで行った人なんじゃないかなと言う気がしていますけれどね、と言う言葉に静かに澄んだ言葉が耳の底に残ると言うふうに出てるんですね。僕らは思想家と言うふうに言っちゃうんですけれども、親鸞は1番遠くまで行った人なんじゃないかなと言う気がしてます(と)、1番遠くまで行った人とは、何が1番遠くまで行った人なのか、思想家として親鸞―それは時代が時代ですから仏教者・宗教者ってふうに親鸞は捉えられますけども、時代が違えば、表現方法が違えば思想家と言うふうに言ってもいい訳ですよね。現在では。それは先生自身が言われてと思うんですが、思想家として1番遠くまで行った人だと言うのは、これは例えば人間の問題をトコトンまで突き詰めて行かれた人と言うことだと思うんですけれど、それ以外の先生ご自身の中で自分が課題にしていこうとしておるものと繋がる様なものを親鸞の思想に感じられたと思うんですが、(その辺)どうなんですか。
(吉本さん)
いやぁー。あの。どう言うふうなところからあれしたらいいんでしょうか。見かけ上からあれして幾つかあると思うんですね。1つは、仏教の浄土門の思想と言うのの流れ―インドから中国に行って中国から日本に来てみたいな―そういう流れを考えますとその流れの集大成者と言いましょうか、集大成者と言うことが1つある様に思うんです。つまり少なくとも浄土門の流れについて、インド・中国・日本という流れを考えれば、その流れを1番見事に、適切にって言いましょうか集大成してしまったと言いましょうかね―どう言ったらいいんでしょうか―本当を言いますとちょっと曲がったら、ちょっと逸れたら途轍もなく逸れてしまうみたいな、そういう経路をチャンと辿れる様に集大成してしまったって言う様に思う訳です。思っています。だから大変難しい考え方、難しいなって―つまり難しいなって言われていることの考え方の経路が大変難しい様な気がします。だから親鸞(が)在世中から―自分の息子だってそうなんだけれど―在世中からもの凄く違う解釈の仕方とかいろんな問題が在世中から起こっていますね。それ位、もの凄く難しいなって。経路って言うのを少し外れるとちょっとなかなか元に修復出来ないみたいな、そういう経路を創った人の様に思いますけど。その難しさって言うのがあって、本当はよく分かんないから―僕はよく分からないから―こういうふうに遣っちゃうと間違っちゃうな、間違っちゃうから手前のところで止めとけって言いましょうか、そういうふうに何時でもして来ている様な気がするんですよね。だから、こんなんじゃないよって言われれば一言もない訳だけども、そんなにもう少し違いそうに成って来るとその前で止めちゃうみたいな、そういう感じが何時でもしていますけれど、それは経路が難しい様に集大成しちゃって―経路が難しいっておかしいんですけれど―それ以外の辿り方をしたら間違えだよって言う、そこの何て言いますか、すれすれと言いましょうかね、その辺をピタッと行った経路を捉まえていると言うことがあって、そのことが1つの様な気がします。つまり思想って言うのは様々な解釈は勿論許す訳ですけれども、思想って言うのはその中に真理と言うものが含まれているとすると、真理って言うのは共有することが難しいですね。つまり共有できるのは真理の形式だけだって言っていい位で、真理自体はその人が、1個(1人?)の思想家が優れていれば優れている程―何て言いますか―それ以外の道を通ったなら、道をちょっと外れたならもうちょっとそれは理解出来ないよと言う、そういう道を付けちゃうもんだと思うんですよ。偉大な思想程ね。そういう気がぼくはしますね。だから解釈すりゃ様々に解釈して、勝手な解釈してそれが党派を創ったり派閥を創ったりしてまた対立して、今でもいろんな意味で宗教でもありますけれど、それはその思想がもの凄く難しいだと思う。難しいと言うのは言われていることが難しいことよりも、経路が難しいんだと思うんです。ちょっと何処かで外れたら途轍もなく違っちゃうよって言う、そういう岐路って言うのは至る所に含まれていてそれはヤッパリある意味では偉大な思想程そんな気がするんですけれども、親鸞は実にそこが見事に―つまり何処で思想と言うのか自由と言うのか、天真(天親?)って言うのか知りませんけれど―そこからの浄土という考え方の(は)非常に適切にそれ以外は取り様がない、取ったら違っちゃうよと言うそういう道をつけちゃったって言う気が僕はしてますけどね。1つ(は)。
もう1つ言いますとね、これは自分が出来ないからどうしようも無い、尚更よく分かんないですけれどもね。つまり同時代の、特に道心【同心?】って言いますか、同じ信仰の同朋の人達から、(同朋の人達)に対しても自分もそうだったと思うんですけども、要するに念仏の他は要らないですよってふうに人にも言い、自分もそうしてたと思うんですよね、と言う親鸞は要するに、どっかそれが体験であるのか情念であるのか感覚であるのかまた、何か生活の積み重なりであるのか、(それから)出てくる考えであるのか分かりませんけれど、そういうものが在りさえすれば分かっちゃうって言いますか、理屈は辿れないけれども分かっちゃうって言う様な、自分もそうしていたし多分その同朋と言う人達にもそういう感じを与えたと思うんですよ。一方でそうなんですけれど、そうするとそれは知ではなくて、知でないもの、非知って言うのか、非知って言ったらいいでしょうか、知でないもの・知識でないものが近づく遣り方って言う(の)だけを、少なくとも身辺の人達には与えていたと思うんですよね。そうしておいて一方では知識的なところからそこへ近づくことが出来る体系と言うのか、集大成と言うのか、一方で―別に故意に隠した訳じゃ無いじゃないんですけれど― 一方で創ちゃっている訳ですね。それは当時で言えば―世界って言うのは西欧・ヨーロッパと言うのはあんまり入って来ない訳ですから―当時で言えばインド・中国と言えば世界だから、そういう世界思想のレベルで一方では遣っちゃった、多分そう言うことをしていると言うことは、端の人には何にも分かんなかったんじゃないのかなと言う気がするんですけれどね。そういうのはヤッパリ凄いことだって言うふうに思いますね。それは真似しようにも仕様が無い、出来ないよって言うんでしょうかね、気が僕はしますね。そこの2つをヤッパリ考えますね。考えると僕はヤッパリこの人は1番遠くまで行った人じゃないかなって、僕の感じ方の根本に成ります。そういうことなんですけどね。要約してしまえば。そういう2つのことなんですけども。その両方とも難しいんじゃないですか。ましてそれを1人の人が遣っちゃっててと言うことは大変なことの様に僕は思いますけどね。それは法然も出来なかったことでしょうし、大変なことの様に僕は思ってますけどね。だから弟子と言ったらいいでしょうか、同朋と言ったらいいでしょうか、訊かれると非常に適切に答えている訳だし、もっと訊かれると要するに法然門下でも、自分の先輩に当たる人に自分が注釈を付けるみたいな形でしか言わないみたいなね、そういうことがありまして、また一方では浄土思想って言いましょうか、浄土門の集大成みたいなものを相当世界的なレベルで遣っちゃっている。それも1人の人が遣っちゃっているということは大変なことなんだって言うのは、僕の理解なんですけどね。そこを中心とする・・・。
(質問者)
親鸞の学びの姿勢みたいなことなんですけど、例えば先生のお書きに成られた中で印象に残っているのは、比叡山、天台ですよね。比叡山で下りてきてある程度天台学を学んでみえる人(?)なんですよね。別に法然上人の直者(?)では無いんでしょうけれども、中に入る前にもう既に一宗(?)を確立出来るだけの宗学(?)を身につけておられた。で、尚その上で法然上人の吉水の中に参画していくと言うことは、法然上人という師匠に親鸞は一体に何を求めたのか、そこら辺のところと弥陀経詩註(?)と観経詩註(?)はあるけれど、注釈はあるんですが■■■(不明)は無いと。これは不思議だと。あそこら辺のところなんか一宗を、思想家としてかなりの集大成できる力を持った人が、学びの姿勢みたいな、そんなところなんか暗示している様な、そこら辺なところ先生なんか考えがありましたなら、お伺いしたいのですが。
(吉本さん)
僕は分かんないだけど、比叡山にいる時には言ってみれば天才的な人だけれど、ありきたりの・他の人と変わりない大秀才だったことじゃないのかなって、僕は思う訳ですけれども。大秀才って言うのはつまり―比喩を聞いて頂きたいのですが―大秀才って言うのはそれだけで一宗を立てられるかって言ったら、ぼくはそうじゃない気がするんですよね。で、何が必要なのかって言ったら要するに、エーと現実が必要なんだ―てのはおかしい言い方なんですけれど―現実の課題が身に迫って来て大秀才が経文を、万巻の経文を読み重ねて理解し尽くしてって言う様な形の終焉(?)の仕方って言うのと、それから目の前の問題、目の前をちょっと見れば直ぐに見えてんだって言う、眼前に見えている様々な課題があるとしますと、それと(の)自分が積み重ねて来た知識って言いましょうか、経文の知識とか理解とか言うものと突き合わせた時に、現実の課題の方がウンと差し迫って見えるみたいな、そういう転換点って言いましょうかね、それが欲しかったって言ったらおかしいでしょうかね、そう言うことなんじゃないんですかね。それで法然自体もつまり比叡山の大秀才、良慶みたいな大秀才に論難されていますよね。やっつけられてますよね。批判されています。その批判の中に当たっていることが2つあって、1つは要するに法然は一宗を立てる器があるのかって言う言い方をしているところがあるんですね。それから秀才―大秀才から見ると、おまえ全部、仏教を声にしちゃっているんじゃないかと言う論議があると思う。それからちょっと面白いって言うか、秀才が読んだら(?)それがこっちにはいいことを言っていると思うかも知れないと思いますね。当時。何が違うかって言うと法然と比叡山の大秀才(の)良慶と何が違うかって言うと、目の前に迫っている課題―目の前に迫って来るって言うのは、なにも民衆の直中に自分が身を移してとか、そういう意味じゃないですよ。民衆の課題、何を考えているとか何に悩んでいるのかとか、どういうあれなのかって言うことを感受する力って言いましょうかね、それが違うと思う。まるで違うと思う。それで感受する力って言うのと、自分が―法然も大秀才ですけれど―自分が蓄積して来た万巻の書・経文・知識が与える判断力と言うのと、どっちが重いんだと言うふうに考えた時に、いやもうたとえこっちを放棄しても、自分の知識の体系ってのを放棄しても、こっちの課題にどう答えられるかってことの方が重要なんだみたいな、そういう一種の転換点ってのは、法然だけがその当時で言えば体験していると思うんですね。体験している。つまり親鸞が欲しかったのは―そのなんて言うのか―息吹って言いましょうか、生々しさって言うか、僕はそれの様な気がするんですけどね。その生々しさって言うのはどこで、百日籠もってそれから法然のところに百日通うっていう様に思い詰めて行った訳だけど、どうして法然って考えたかって言うと、法然だけがなんかそういう生々しい、一般的な息吹って言いましょうかね、それを感受する力(が)あるって言うふうに見えたんじゃないのかなって思うんです。それが欲しかったんじゃないでしょうか。自分が持っていても上手く定まんないだけど、何かに触れれば自分も定まれるって言いましょうかね、その何かに触れればって言うのを法然のところ(に)百日通ってみようって言う様に思ったところなんじゃないのかな。僕にはそういう気がしますけどね。だから法然っていうのは文章から文体から見て秀才、もの凄い秀才だってのは直ぐ分かる、流れる様な流麗な文体ですよね。親鸞の文体はゴ・ツ・ゴ・ツしてますよね。ゴツゴツ―つまりあっちにつっかえ、こっちにつっかえという文体だと思います。けれどもこっちは天才的だ(と言う)気がします。法然程の大秀才では無いかも知れないけれど、法然にはない天才の様な気がしますけどね。何を天才って言うのか定義があるけど、要するに生々しい課題って言うのとね、自分の蓄積した来た体系って言いましょうか―信仰の体系でも知識の体系でもいいんですけど―それと突き合わせる、ぶつけ合わせる力みたいなのがあると思うんですけど、それが違うんじゃ無いのかなぁっていう気がしますけれども。またそれを求めたんじゃないのかなぁって気が僕はしますけどね。だからそれは終始、始めから終わりまで一宗を立てられると言う器だったと思います。そういう意味あいでは法然の懐の中に全部が入っちゃうみたいな、ふうなことは1度も無かった様な気もしますけどね。ただ法然の言うこと遣ることを信ずると言うことなんだけれども、全部信ずる、仮に信ずる姿勢に入ってもヤッパリ全部が入っちゃうみたいなことじゃなかった様な気がしますけどね。
(質問者)
■■■(不明)と■■■(不明)
(吉本さん)
僕には殊更意味あるって言うふうには。そんなはずは無い。読んだ読まないか理由はそんな筈はない(?)。ただ要するに、どう言ったらいいんでしょうか、親鸞の『教行信書』もそうだけど、つまり引用と注釈だけの様にみえても、つまりそこを採って来たって言うこと自体が意味がある、親鸞自体にとっては意味があるふうに出来ている様な気がするんですけどね。そういうふうに、もし親鸞がまだその時は出来てなかった―『大経』については―そういうことは出来てなかったんだっていうふうに理解することも出来るんでしょうけれども・・・。殊更僕は無いですけどね。殊更意味づけるって言うことは。
(司会者)
一応今日は親鸞の幻想についてと言うテーマでお話し頂きました。特に浄土というものが、吉本さんにとっては比喩として(しか)感じられない、と言うことが中心だったんじゃ無いかと思いますけど、そこら辺に就いてご意見御座いますでしょうか。どうぞ。
(質問者)
浄土のこともあるんですが、幻想―私が了解する限りですね、親鸞聖人の場合、往相と還相とを切り離す見方というのは無い訳で御座いましてね。例えば私はながの君に訊いて本2冊読んだんですが、僕は思想とか思索とかにあまり無関係の人間で、訳の分からんことを聞かされるんじゃないかと思ったんですが、非常に問題点は明確で、ただ非僧卑俗と往相還相、還相の問題ですね。ツウーポイントを命じておられるなぁ(?)と言うことは感じたんですが、先生の往相の使い方ですね、例えば僕の場合に実感ですけれどさっきから末世だ、末世だと仰いますね、その場合僕は念仏と■■■(不明)、つまり求道ですね。自ら求道して行かなきゃならんと、主体的に把握していかなきゃならんと(?)言うことを感じる訳なんですね。先生は還相なんですね。僕は往相なんですね。こういう形が親鸞の扱いであって、先生の還相の扱い方がちょっと引っ掛かったんですね。先生は還相をどの様に味わって(?)いらっしゃるのか。2点目。浄土の問題ですけれども、先生が浄土という問題に非常に引きつけられていると言うところに、なぜ浄土にそれ程引かれるのか、そこをちょっと訊いてみたい。先生の仰る様に浄土の問題と言うのは、現代人が非常に私は求めている世界だと感ずるんですね。例えば非常に粗っぽいんですが、社会主義社会もバラ色の夢を持てないしキリスト教の天国とも違います。浄土は。それから私の感じではですね、先生2点仰いましたけれども善導流の見方な場合では浄土は向こうにある訳ですね。しかし天親・曇鸞の場合は、今を成り立たせている根拠としての浄土と、2つの見方があります。そしてやはりお浄土を(?)向こうに見て、つまり親鸞の場合に温情までも包んだ宗教ですね。人間の情ですね。人間の情まで包んだ宗教だと思います。禅なんかとは違うと思います。向こうに浄土を見ながら念仏を唱えていくと、浄土をこっちに(で)味わえる。そのうちに氷上燃火の譬えってのが御座いますね、あの辺が1つあるんじゃないかと思いますけれども、浄土と言うのは大事な問題でありながら、我々自身もハッキリしないしどう解いたらいいのか。その辺先生がどう浄土をどうしてそんなに引きつられるのか。それをお訊きしたいと言うこと。もう1つ、死の問題ですね。大きな問題を出して頂いたので、ちょっともっと訊きたいんですけれども、死の恐怖感の処理方法としての宗教ですね、これは問題に成っていないと思うんです。仏教で死を問題にする場合には価値観の転換、回心ですね。それを起こさせるテーマとして死に向き合っていくと言うことが1番速い訳ですね。何もかも消えていきますから。価値が。握っていた価値が。そういう形なんですけど、現代に於いて死と言うことがですね、確かに死の恐怖感と言うものが迷信を生んでいると思うんですけれども、ちょっと違った位相でですね孤独とか不安とか、問題に成っている筈だと思うんです。そこいら辺、ちょっとお訊きしたいなぁと思うんですが。3点を。時間がなかったら結構なんですが。ちょっとお訊ねしたいのです。
(吉本さん)
いやぁー、もう僕が何か言うって言うよりも、僕の方が聴いている(笑い)。そうだと思います。ずっとよくお考えに成っていると思います。死についてもずっとよくお考えに成っていると思います。ただ僕がちょっとだけ言えることがあるかなぁと思われるのは浄土ということになぜ引きつけられるかって言うことなんですけれども、思想的にこの社会がそのまま浄土に成るっていうの(に)はどういう条件とどういう条件とどういう条件を通ればそうなるのかっていう問題ってのは、ズーとまぁ20代後半から考えて来て、自分なりにそれは書いたりしてきた。それで仰る通り社会主義体制を採った国も資本主義体制を採った国も、浄土という言葉を言うのを比喩として、理想の社会って言うふうに受け取るとすると、どうしてもその両方とも理想の社会では無い、(理想の社会)とは思えない。じゃ理想の社会は何なんだ。それで、それはどういう条件があればそういうことが可能なのかって言う様なことを―つまり同じ言葉でって言うふうに僕は言う訳ですけども―あのぉ社会主義の社会でも資本主義の社会でもそうですけども、両方について同じ言葉でそう言う条件は何なんだって、どうしてそう言う条件に成らないのかって、或いはこれこれの条件を満たせばそう言うふうに成るんだって言うことが、少ーし見えて来たって言う、同じ言葉で見えて来たって言う感じがある訳です。つまり何が見えて来たかって分かんないですけども、社会がこういうふうに成っていくだろう、そこでこういう条件とこういう条件があればそれは一種の理想の社会を実現する為の前提には成るんだと言うことも同じ言葉で、何となく分かるんじゃないか。つまり言ってみれば―それこそ比喩で言ってみれば―水平線っていうか地平線っていうか、それがちょっと見える様に成ったんじゃないかと言う認識があります。僕に。そうすると見える様に成ってまた水平線の向こう側にまだ世界があるかも知れない訳です。それからまた、その向こう側には何も無くて・無いのかも知れない、しかしそれはその向こう側を考えることにあんまり意味は無いので、ただそれが見えてきた、そしたら見えてきた水平線の処から逆に此方を見る見方って言いましょうか、今を・現在を見る見方って言うのは可能なんじゃないかって言うふうに僕には少し実感的に思えてきたんですね。つまりそういうことが、そういうふうに思えて来たことがまた親鸞の―差し当たって親鸞が1番親近感を感じるんですけれども―もう1度親鸞というのを比喩として読んだら、現在読んだらどういうことに成るかと言うことをもう1度遣れるぞって言いましょうか、考えられるんじゃないかって言うふうに思って来たって言うことが在るんですね。後のことは僕、お訊きしているので、満足であんまり言うことは無いって言うか、言う種は無いって言う感じがします。
(質問者)
先生お話し中で、向こう側からと言う―御免なさい、言葉が違ったかも知れない―そういう形で浄土ということをお感じに成る訳で御座いますね。此方からみるんじゃ無くて向こう側からと。その見方。分かりました。有り難うございました。
(質問者)
あのぉ、ちょっと言葉のことでですね、引っ掛かっちゃったもんですから。そのことからちょっとお訊きしたいんですか。先生の大事な点で、そこのところで必ず比喩と言うこと(が)お話しの中に出てきたんですが、所謂比喩としてしか受け止められない時代と言うか、という言われ方をされたと思いますが、そしてまた受け止められないと言う、その比喩と言うことが、先生はどういう形で比喩と言うことを定義って言うのか、そのことが先ずそれが現実性を離れるとか、時間制がないと言うことで比喩と言うことを使われ方のか、その辺がちょっと私には曖昧な理解だったものですから。その辺もう少し汲々言葉(を)ちょっとお話し願えればと思いまして。
(吉本さん)
あのぉ、こうじゃ無いかと思うんです。つまり、どう言えば1番分かり易いかはちょっと分からないですけども、例えば親鸞の慈悲でもいいし浄土でもいいんですけど、そういうことは知識っと言いましょうかね、理路で詰めて行けばこういうことなんだって言うふうに詰められる様な感じがする、そのことの本質って言いましょうか、それは分かる様に、理路で以て詰めて行けば分かる様に思うけれども、どうしても理路だけじゃ無くて実感と言いましょうか、実感とか体験とか、そういうものを全部含めて、つまり自分が何か架空のことをあれしている訳じゃ無くて本当に分かっているという意味あいで、そこに頭で・理路で、或いは理論で以て到達出来るところですね、しかし実感とか体験とか全部を上げてそこに到達できるという感じが無いということだと思うんです。そうしたらそういう理解の仕方って言うのは、言ってみれば理解しようとしている本体って言いましょうか、それに対して比喩的にしか理解してないんだなぁと言うふうに成ると思います。そういう意味あいで使っているんですけどもね。
(質問者)
その時にですね、そう言う比喩としての受け止めしか出来ない、言ってみれば例えば死と言うことで言えば、死への方向性と言うことから言わせれば、還りの姿と言う先生の還相と言うことで、死から自分がどう見られるのかと言う言われ方で還相と言うことを仰られたと思うんですが、その場合に死への方向と言うのが比喩としてしか受け止められない場合にですね、逆に此処へ向かって来ると言うその方向は、簡単に言えば往相と還相と言うけれども、その場合方向性の違いと言うことがハッキリどこかで自己否定って言うか、そう言うものがなければ還相って言うものがどうなのかなって言う、所謂先生のお言葉で言えば煩悩が旺盛であると言う問題が、どこかで展開しないことにはその煩悩性(?)という方向性からでしたら、たとえ言葉は往相と還相であってもこれは同じレベルの問題って言うか何か、先生の仰りたかった還相と意味はもう少し私の理解の間違いかも分かんないですが、先生の還相の大事さって言うのは分かるのですが、その還相と言われたことが、どこか方向の転換には違いないんだけれど、その方向の転換の支点(視点)というか、どこに方向の転換の場があるのか。煩悩旺盛なる自分という問題がですね、自分を抱えている一方で向こうからと言うことがどこで、接点っていうか、何て言うか、言葉で―何か方向転換する場合には照らされるって言うけれど、照らす問題の自分のむこうせい(無効性?)がハッキリしている以上、その中から逆な方向って言うのもあるという形では、所謂救われると言う内容の、「急ぎ仏になりて」という方向転換みたいなことが、得られないのじゃないかなと言う感じで、もう少し先生の還相って言われる転換点のところって言うかですね・・・。
【別発言者】簡単に言うと、信心と言うことを抜きにして還相が問題と成るのか成らないのかということ。
簡単に言えばそういうことに成ると思うんですけど。「そうかな。(笑い)そういうことを言いたいんじゃない」(吉本さん)。(笑い)そういう言い方ではおかしいでしょうけど。還相と言えば、「比喩になっちゃう。僕のはね」(吉本さん)。えらい大変失礼な言い方しか言えないんですけれども、ちょっと物足りないって言うか、此方へ向かって来るという方向の意味は分かるんですが、その辺先生の・・・。
(吉本さん)
比喩だから比喩としてしか還相と言うことを言えないから、だから物足りないんじゃないでしょうかね。
(質問者)
物足りないなんてそんな言葉では言い尽くせない、申し訳ないのですけど。
(吉本さん)
そんなことない(笑い)。そうじゃなくて、そんな高度な問題じゃ無くて言えば、つまり体験って言うとどういうふうに思っているかと言うと、自分が何かをね―例えば何でもいいんですけど、生活上のことでも自分の生き方のことでも何でもいいんです、職業のことでもいいんですけどね、それらを全部ひっくるめてだけどもね、僕の実感の中で、経験的実感の中で自分が意思してこう成ろうって言うふうに思ってね、出来たことって無いって言う気がするんです。一度も無いんですよ。僕は。俺はこう思って意思してこう遣ったら、出来ちゃった出来ちゃったって、そういうことは1度も無いですよ。そして何時でも―何て言うのかね―自分は意思もしますけどもね、自分はこう思ったんだと。しかし実際に何でもいいんですけど、ある事柄に当たってぶつかってみたら、そうしたら向こうから―あんたの言う比喩でしか言えないで申し訳ないんですけど―向こうからの何か力と言いましょうかね、向こうからの何かがあって、それの為にどうしても自分の意思が通らないって言うか、意思通り行けなくてね、そこでぶつかり合って、何か擦った揉んだして、そうして於いて何か知らない擦った揉んだの、あるフッとしたところでヒュッと何か逸れちゃった、ここだけは何か、少し道って言うか何となく道がひとりでに出来て来たって言うか、成っちゃったからそこへ行った。そしたらまた何かにぶつかった。意思としてはこうしようと思っていたんだとか、こういうふうに遣ろうと思っていたとか、こういうことを学ぼうと思っていたとか、そういうことはあるんですけども、そうしたらば何か知らないけど、自分の意思の及ぶ範囲とは、或いは意思の実現できる範囲とは全然違うところから、向こうの方から―比喩で言えば向こうの方から―何かどうぶつかり合って擦った揉んだ揉み合った挙げ句に出てきた1つのスッと、道って言うか、何か方向って言いましょうか、それが見えたと言うか、そうなってそこへ行くよりしょうが無かったからと言った方がいいんですけれども。それだからそこへ行ったという、何かそういうことの連続の様な体験が僕はあるんです。体験実感があるんです。これは多分資質的に言うと親鸞にもそういうことがあるんじゃ無いかなと思うんだけれど。僕、資質的に言うとね、受け身なんだと思いますけれどね。受け身じゃないかと感じがするんです。そいう実感しか無いんですよ。だから自分が意思してこう遣ったら通ったと言う、どうもそういう考え方の方向って信じられないですね。どなたの場合にも。つまり俺はチャンと少年時、意思して志を立ててこうに遣ったら出来ちゃった、成っちゃったんだとこういう人がいたら、お目に掛かりたいですね。(笑い)。僕も嘗て1度もお目に掛かったことはないですね。ないですね。居るに違いないですが僕は無いですね。それから僕自身は全く違いますね。どんな場合でも違いますね。1度もそういうことは無いですね。必ず自分の意思通りにいった例が無いとか、意思が何かとぶつかった、何かって現実だって言うけど何となく現実に対してこっちの方から何かしたらどう変わるってふうに考えるよりも、なんか向こうからの力が俺には全然どうすることも出来ない力が向こうからあって、遣って来てそれとぶつかっているという実感のところがあって、それで擦った揉んだして、辛うじて何か知らないフッと力が抜けたところの道―その道をまた行ったって言う感じっていう、そう言う実感なんですよ。だからその向こうからって言うのがね、自分のつまんない体験って言いましょうか、そういう体験って言うところとね、ある意味で還相と言うのを僕は頭の中で直接は繋げて無いんですけれども、どっかで還相って言うのに固守するって言いましょうか、そういう考えのどっかに僕はそう言う自分の―なんて言いましょうかね―資質の体験と言うんでしょうかね、なんか物事スムーズに行ったことが無いよって言うそういう体験になる訳です。そこで向こうからの力みたいな、そう言う感じ方がどうしてもあって、それとなんかどっかで関係付けている様な気が僕はしているんです。しています。だから還相と言う考え方はとても固守しますし、僕なりの固守の仕方で気持ちがいい―気持ちがいいと言うのはおかしいですけど―それを考えること、つまり意味がある様な、自分にとっては意味がある様な気がしているんですけどね。だからそれはもう理解としてちっとも正当性は無いでしょうけど、強いて話を分かり易くする為に、自分の実感体験と言うものと結び付けると、そう言うふうに結び付く様な気がしているんですけどね
(質問者)
エーとあのー。信と知と言うことなんですけども、信と知の境界って言うものをどう考えていらっしゃるのか。僕は信と知と言うものは、知と言うものはズーとあって、あるところで信になっていくんだという、そういう何か、境界って言うものは、そういう見方はダメなんじゃないか。結局質的にあるもので先生がさっき仰った自分は知の立場だと言うのに従うんですけど、それを敢えて信なんだって言っちゃったらどうなんだと思うんですね。先生(は)信と言うふうに言えないところが比喩って言うか、頭で分かっていても実感がない、それで比喩なんだって使っていると、そういう思いってある訳ですか?。
(吉本さん)
いやー。僕は違う様な気がするんですけどね。違う様に思う、実感される訳です。つまりもし自分に信じていることって言うのがあるとすれば、信と言うものと不信でもいいんですけども或いは非信でもいいんですけれども、それの境目って言うの(が)壊れるって言いましょうか、境目が取れてしまうって言いましょうか、そういうことってあり得るんじゃないかなぁと言うことを、何となく自分の考えを進めていく上で信じている様な気がするんですけどね。でも仰る様な意味では僕は信と言うのは無いんですよ。何に対しても無いんですよ。無いんです。宗教に対しても理念に対しても無いんですよ。こう言う理念を信じているんだって言う様なものは本当は無いんですよ。エーと、これらの自分の主要な関心だって言う様なことはあるんですけども。それが理念に入っちゃうってこともあるんでけども、だけども信と言うのは僕には無いんで、普通―皆さんは違うけどもさ―普通信仰の人って言うのは、信仰を持っている人って言う人は、これは何でもいいです(が)、宗教の信仰でもいいし理念の信仰、例えば俺は今マルクス主義を信じているんだ、或いは共産主義を信じているんだと言う人もそうだけど、信じている人ってのは大抵信じている方が信じてないよりも上だって言う様にどっかで思う訳ですよ。どっかで思っているんですよ。具体的は思ってないんだけども、無意識の中で思ってるんですよ。これはマルクス主義でも共産党でもいいですが、その様に信じている人は自分の方が信じてない人よりも上位にあるって無意識に思っている訳なんですよ。あるんですよ。ところで僕は信じている人がね、信じてない人よりも下位にあるってふうに、そういうふうに思えたらいいと思っている訳です。だから僕がもし知識の人だとか自分を自己限定しているとすれば、知識(がある人)よりも知識が無い方が上位にあるんだってこと(で)、そうでありたいって言うか、そいうことが課題なんですよ。で、大抵はね。親鸞という人、親鸞はそこが僕はこの人はヤッパリ信仰の人だって言うふうに思いますけど、思いますけれどもそこがよく出来ているんじゃないでしょうか。つまり不信の人よりも自分の方が上位にあるって言うふうには無意識の中でも思っていないところがあるんですよ。それは不信の人にとってもよく分かるところがあるんですよ。僕らみたいにはとってもよく分かって、ヤッパリ凄い人だなぁって言うふうなことに1つに成っちゃうですね。キリスト教で言うと、女性でもう死んじゃった人なんですけども、シモーヌ・ヴェイユと言う女の人がいるんですが、フランスにいるんですがその人がカトリック―うるさいですから―の神父から要するに入信しろって言うふうに言われるんだけれども、どうしても出来ないし、しないんですね。それは何かって言ったら要するに、カトリックの神父の方は絶対に信じている訳ですよ。つまり自分を(は?)これを導いて遣る。不信の人は導いて信仰のところ迄引き上げて遣るって思っている。疑わない訳です。ところがヴェイユってのはそうじゃ無くて、もし信仰の人―信の人よりも不信の人の方が上位にあるって言うふうに思っている信仰の人があったら、自分は帰依してもいいって思っている訳だけども、そうじゃないんですね。そこで往復書簡などを見ると葛藤を生じているんですね。そいうことがあるんじゃないでしょうか。マルクス主義者―俺はマルクス主義だっていうふうに自己限定している人ってのはもう先ず同じなんですけどね。先ず10人いたら10人、ヤッパリ非マルクス主義者より自分の方が上位にあると思っていますよ。でも(笑い)、全く信じてないんですよ。そういうのを信じてないんですよ。また自分の知識って言うのを自分を自己限定している時、それを信じてないですね。それが知識(が)ないより上位にあるってこと(を)全く信じてないですね。だからそこの問題として信―僕には信と言うことの中心、課題ってのはどうしてもそこのところにありそうに思っている訳ですけどね。
(質問者)
先の■■■(不明)比喩としての浄土■■■(不明)本を読んでいませんのでよく分かりませんけど、まさっきの■■■(不明)浄土と言うこと■■■(不明)地平が見えて来た。その地平の彼方から■■■(不明)その時にヤッパリ先生が求めておられる浄土と言うものがどういうものなのか。さっきお話の中で、例えば永遠と言う言葉が1つありました。■■■(不明)信■■■(不明)。そういう世界が、どうも漠然としているけども真実の世界(?)を求める■■■(不明)求道■■■(不明)。やっぱり求めているものがなければ、そこからの解と言うものはあり得ない。問題は求める―何を求めているのかと言うことが1番の基本じゃないかなぁ。それがハッキリしないと、どうしても還相という言葉も、もっと言えばですね、私としての意見ですけれども往相というのはヤッパリ僕ら1人1人の人間の課題、還相というのは仏様の世界・仏様の課題じゃないかなと思うんですが、我々は■■■(不明)浄土という■■■(不明)死にする(?)■■■(不明)人間の■■■(不明)損得を越えたもう1つの世界【鐘の音】■■■(不明)。
(吉本さん)
それは僕らの言葉で言ってしまえば、理想的な社会って言う言い方で宜しいんじゃないでしょうか。理想的な社会って言うのは何かって言ったら、万人が平等だって言うことだと思いますけどね。平等な社会。それは僕が地平線って言うのが朧気見えるんじゃないかなって言う感じ、というのは平等な社会と言うのを実現する為に必要(須)の条件、必ず要る条件って言うのは大体設定、どういう社会でも―資本主義社会でも社会主義社会に適応しても、同じ言葉で結構だってそういうのが、ポイントが考えられる様に成ったんじゃないかなって言うふうに僕は思っている訳です。そう言う条件から今の現在の社会条件ってのはちっとも平等じゃない訳ですけども。それから、平等じゃない訳ですけども、そういう外部の条件でも、社会的意味でも平等じゃない訳です。そういうところから照らし出す照らし出し方もありますし、今平等じゃないところに自分が嵌まり込んで人に対して自分の方が優位な条件を持っている場合には、俺は平等ではない人に対して、なぜが知らないけど優位な条件に成っちゃっている、このことはどういうふうに解いたらいいんだとか、自分より上位な条件を持っている人に対して自分はどういうふうな感じを持ったり、したらいいのかって言う課題―今の課題があると思うんです。それぞれの場所であると思いますけども。それと同時に、向こうの方から平等な社会の条件はこういうふうに考えられる、これだけは少なくともその柱の中になっきゃぁいけない筈だって言う、そういうことが設定できるところから逆に今のぶつかっている・思い悩んでいることに照らし出したら遙かに風通しはよくなる、分かりがよくなるって言うことはあると僕は思いますけども。だから僕はあんまり此方から彼方へ行くという課題しか無くて、向こうから此方に還ってくるのは仏の課題だって言うふうには僕には思えないで、そういう意味で言うならば仏って言うのをそんなに別に僕は信じていないですし、勿論分からないんです。信じていなですし、分からないですから、ただ比喩としてしか分からないって言うことに、繰り返しますけど成っちゃうんですね。ただ向こうからの課題が無いってことが僕には信じられないんです。あると思います。思ってる訳です。それからどう言ったらいいんでしょう。それは、つまり理想社会って言うのは調うって言う条件と言うのとね、それからそれで課題が終わるかって(言うと)そんなことは無いので、先程から言っていましたあれで言えば緊急の課題だけはそれで終わるかも知れないんです。つまり平等の社会が実現すると緊急の課題と申し上げましたが、それは解決するかも知れないけれども、永遠の課題って言うのはそれからまた始まっちゃうと思います。つまり外的な条件が調ったら全部人間終わりかなって、そんなことは絶対ない訳なんです。それで初めて永遠の課題って言うんでしょうか、そう言う課題に、課題を充分な意味で考えられる様に成るって言うに過ぎないって言うふうに僕は思っていますけどね。だけれどもそれにも係わらず永遠の課題の方から此方を照らし出す、今の現状を照らし出すって言うことはとても重要なことなんじゃ無いかって僕には思えて仕方無いってことなんですけどね。
(質問者)
向こうから照らし出すって言うことは漠然とあるんですが、先生の仰ったこと■■■(不明)方向って(?)危ない(?)■■■(不明)。
(吉本さん)
ああそうですか。じゃあ、具体的な例で申し上げましょうか。例えばですね、ここに片腕の無い人とか、片足の無い人とか(が)居たとしますね。この人は偶然の事故とか原因は様々あるでしょうけれど、生まれながらと言う身障だって場合もあるでしょうけれど、そういう人が居たとします。こういう人とそうじゃ無い人とが平等である、平等であることがどうすれば実現出来るんだと言うことが具体的な課題を採るとしますと、すると僕の理解の仕方ではまずまず外的な条件で平等である条件は直ぐに考えられる訳です。どういうことかって言ますと、要するにその人が例えば20歳の時に片腕を無くしちゃったと、その為に普通の職場で片腕のある人と比べて作業能率が低いから給料が低かった。それで不平等が出来た。或いは就職するのが難しかったってことがありますね、具体的に。お分かりでしょうね、具体的に。それでそうするとそれが平等である条件ってのは何だろうか。外的な条件(は)何だろうか。こう成ります。それは理屈上簡単なことです。つまりこの人が20歳の時に片腕を無くしたとすれば、20歳からこの人が亡くなる迄―いつ亡くなるのか分かりませんけども―自然に亡くなる迄の、自然死ですね、自然に亡くなる迄の間の給与が、片腕がある人の亡くなる迄の給与と同じ給与だけを予め補うことが出来れば―誰が補うかは別として、国家が補うのか、何かの集団が補うかは、それは別として―それを補うことが出来れば、つまりその人が20歳の時にそう成ったとすれば、20歳以降片腕を失わない人と死ぬまで同じだけのものを補うことが出来れば、少なくとも外的な条件だけは、或いは給与条件だけは、経済生活だけは平等になし得る訳でしょうと僕は思う訳ですけども。つまりそれ以外の平等性って言うのは成り立たないですよ。つまり一時的な平等性なんですよ。だからその人の身障に成ってから死ぬまでのあれを予め補償するならば、って言うことに成ると思います。で、少なくとも経済生活的には平等に成ると僕は思います。非常に簡単なことです。
ところでそれで全部平等は遂げられたかって言うことに成る。しかし僕はそうじゃないと思いますね。つまりその人が片腕がないと言うことの為に抱く精神の問題って言いましょうかね。精神の問題がまた波及して、現実の問題に様々波及してきて起こって来る問題とか、そういうのを考えますと精神の問題は少なくとも何にも解決、解かれてない。精神の平等性って言うのは、そこでは解決出来ない訳でしょ。出来てない訳です。それじゃあ精神の平等性までも含めてそれを解決するにはどうしたらいいんだって言う課題は、僕は永遠の課題だと思います。つまりそれは人間が・人間社会が・人類社会が外的な平等性を確立した後でも残る課題の様に思います。最後の課題の様に思います。つまり一見すると交通事故で片腕を失ったとか片足を失ったとか言う人と、そうじゃない人との平等って言うことはどうやったら遂げられるって言うと、一見すると具体的で且つある意味では誰にでも分かる様な、誰にでも分かりそうな課題の様に見えますけども、平等の条件を実現するにはどうしたらいいかって言うふうな、どういう条件があればいいのかとか、どうしたらいいかと言う問題になったら最後にヤッパリ外的条件、経済条件みたいなを調えたとしたって―調えるだけだって誰もそれを遣ってくれないですけどね。今の政府なんかは、遣ってくれる訳はないです。つまり20歳の時に交通事故で怪我したら、その人が死ぬまで補償してくれる、代償してくれるってのは中々それは実現されないと思いますけども、それだけでも。だけどそれを仮に実現したとしたって―その人の後精神の問題が、それから精神が与える現実的な問題が、平等性って中々解決できない。それはヤッパリ僕の考えでは、どんな一見大問題に見えることよりも、もっと後まで僕は残る様な気がします。つまりその問題を解決するって(ことは)かなり永遠の問題、永続的な問題の様な気がします。つまり片腕を失ったか失わなかったと言うことだけでも平等性を実現するということの課題の中には永遠の問題と緊急に解かれるべき問題、或いは外的に・外部の条件として解かれる問題と両方が含まれていると僕には思える訳です。つまり僕が言いたいことはそう言うことなんです。そう言うことだって永遠な課題はなおかつ残るよって言うこと(です)。
(質問者)
永遠の課題は■■■(不明)。完全に主体の問題ですね。1人の人間。「個人の問題ですね」(吉本さん)。その時に自分は手が無くなったけども人間は平等である、ある筈だ、あるべきだって言うことをその人は平等の世界を求め始めて悪戦苦闘してその中から平等の世界から、なんか自分に向こうから■■■(不明)そういうものを感じて、初めてその人が腕が無くても俺は人間として平等に生きられると言う自信がどこかに出てくる、そう言う問題。
(吉本さん)
いや。それは違います。僕が言っていることとは違います。それも結構なことでしょうけどもね。僕の言っていることとはまるで違います。つまりその手の人は沢山いる。沢山でも無いけどいるんです。つまり両腕も失った足も失った。しかし個人的に刻苦勉励し、或いは口で以て針の糸を通して縫い物が出来るとか、そういう刻苦勉励、超人的な努力をしてごく普通な人と同じ様なことが出来る様に成ったって言う様な模範的な人って言うのは沢山いる訳です。沢山でもないけどいる訳です。しかしそれは解決で無いですね。解決で無いですね。ちっとも無いですね。その人にとって1つの解決だって言うだけであって、その解決というのは先程言いました様に、幾重にも層がある訳です。つまり社会的な層もあるし家庭的な層もあるし個人的な層もある、それら全部が解決されなければ、それは少なくともその人自身がどうであろうと、それを他に及ぼす・他の人にとっても解決だってあれにはならない訳ですよね。沢山います。片腕が無い人で両腕ある人とよりも遙かに優秀な人、遙かに優秀なことを遣る人なんか沢山いますよ。沢山でもないけどいる訳です。出来ます。遣っちゃっている人もいるんです。偉い人っていっぱいいる訳です。いるんだけどそれはちっとも解決でないですね。その人にとっての解決なんです。その人にとっての解決ってことは悪いことじゃない。良いことなんです。解決しないより良いことなんだけど。或いはその人は普通の人、平等以上に優れた人に成っちゃったって、それもまた良いことなんだけども、しかしそれは解決ではないですね。つまりある人物の解決には往相と還相って分けてしまえば、それは観念的だ・機械的じゃないか・分けられないってことに成るんだけども、しかし仮にそういうふうに分けたとしても往相と還相という2つの解決の仕方を・解決の層を、両方を解決しなければ全解決には成らない訳です。沢山のことが・解決すべき層がそれが全部解決された時に初めて問題は人に及ぼすことが出来る、誰にだって及ぼせるってことが出来る訳で、その時に初めて平等が実現されたって言うことに僕は成ると思うんです。だから仰る様なことと僕が言ってることとはまるで違うと思います。
身障という問題が今あれしましたが、身障という問題は平等不平等の問題の中で最後に、大変難しい問題なんですね、本当に考えるとですよ。簡単考えれば、もっと福祉予算をぶんどってこれをあれしようとかね、就職口を沢山創ってやれとか言ったら解決する様なふうに思っているけど、そんなこたぁ嘘なんだ、ちっとも解決じゃないんですよ、一時しのぎなんですよ。本当に解決する為には大変な問題がある訳なんです。つまりその問題をどうやって解くんだって言った場合に、それは沢山の層があると思います。で、それを全部解かない限り人には及ばせないですね。つまり凡庸な人に対しても煩悩の盛んな凡夫に対してもそれは適応出来ると。勿論凡夫じゃ無い人は自力で以て平等以上に平等を克服するでしょうし、それは沢山いる訳です。それは身障の問題だけじゃぁ無くてもいいんです。お金を蓄財するとか、そういうことの問題だって刻苦勉励して自分が松下幸之助みたいな人もいる訳ですよ。それはその人で立派な人だと思いますし、解決した人だと思う。だけども松下幸之助の解決の仕方を万人に適用することは出来ないんですよ。それはその人の問題なんですよ。(その人)だけにしか(?)本当は適用出来ない。或いは一般論としてある、努力すれば報いられるぞ、くらいな意味あいでは適用出来るんですけれど、そうじゃないんですよ。努力しようがしまいが、誰にでも通用するって言う解決の仕方が出来ない限りは、平等と言うものを解決したことには成らないと思いますね。
(質問者)
その言い方が■■■(不明)。永遠ということが問題、永遠の課題だと言うですね。■■■(不明)社会的問題、いろいろな問題■■■(不明)そう言う本質的な問題が残る。それはよく分かる。それを解決すると言うことはですね、永遠に解決出来ない問題、ズーと遺る永遠というよりも、一人一人の人間が生きていく苦しみの中に永遠の世界を一人一人が感得(していく、)感じていく、そういう世界じゃないかなと言うことを僕は言いたかった。
(吉本)
あぁ、そうですか。僕―そういうお考えで僕は宜しいんじゃないかと思います。ただ僕はちょっと違います。つまりあるところで必ず永遠の課題が見えて来る箇所って言うのがあるんだ。何て言いますかね、日々刻々の中に永遠の課題と言う、精神の問題として蓄積していくんだと言うふうには僕は考えないので、今の課題、今の課題を追究してあるところに行った時に、永遠の課題が見えて来ることがあるんだ、そういうふうに永遠の課題って言うのは人間に遣って来るだろうなってふうに僕はそう考えていますですね。
(司会者)
それでは時間もオーバーしましたので、これで終わりたいと思います。
テキスト化協力:石川光男さま