1 はじめに

 今日は良寛の話ということで、そういうテーマを与えられたのですけれども、僕が良寛について書いたりしたことがあるものですから、きっとそれでそういうテーマを選ばれたのだろうと思います。
 皆さんが良寛についてどういうイメージを持っておられるかは僕にはわからないのですけれども、自分のことから類推しまして、きっと良寛というと托鉢に行って、子供と遊んで、一日中托鉢を忘れて子どもと遊んで、手毬をついて遊んでいたというイメージはきっと誰でも持っているのではないか。
 もう一つは、これはもしかすると違うかもしれないのですけれども、良寛というのは優れた書を書く。良寛の書物は優れた書なのだと、字句がたくさんある。それで偽物が多いのですけれども、とにかく書がとてもうまい人なのだというイメージが多分どなたにもあるのではないかと思います。それで子どもと遊んでいるという良寛のイメージと、書を書く良寛のイメージと、その二つを元にすれば良寛には入りやすいのではないかと思って、その二つの話をしていきたいと思います。
 どういう生き方をしているかというと、いろいろな良寛について書かれた本はたくさんありますし、良寛の郷土である新潟県に行きますと、郷土の偉人ですから、優れた、隠れた研究家の人がたくさんいるわけです。僕はそこでお話をしたことがあるけれども、お前の書というものは間違っているとか、大変教えていただいたことがあるのですけれども、たくさんの研究家の方がおられたりして、郷土の新潟県では、誰でもが知っている人で、皆さんも岩手県に行くと宮沢賢治というと誰でも知っているというのと同じように、良寛というと誰でも知っているわけです。
 新潟県というのは、良寛と幕末に河井継之助という長岡藩の家老がいて、最後まで官軍と戦ったという偉い家老さんがいてくれて、河井継之助というのですけれども、あとは明治にいきまして北一輝というのがいますし、それから現在にくると田中角栄という、それが郷土の英雄であるわけです。それで良寛は最もその中で親しまれているという人なのです。
 作品でも、いろいろな良寛についての伝記も作品の解釈も、書についての解釈もありますけれども、僕は僕なりにやろうということで、良寛の作品だけを使って、今は子どもと遊ぶ良寛というもの。書を書く良寛というのをここでできるだけ、良寛の作品だけ使って再現したいと思ってきました。

2 遊ぶ良寛――心の動き方

 托鉢に行って子供に出会って、手毬をついて一日中遊んでいたということは、どうも本当だと思います。なぜかというと、そういう作品を良寛が作っていますから、多分それは本当なのです。
 いくつかやっていきましたけれども、遊ぶ良寛ということで、皆さんもご存じの歌を取ってきますと、「霞立つ長き春日を子どもらと手毬つきつつこの日くらしつ」などと、手毬つきの歌。それから「いざ子ども山辺に行かむ桜見に明日ともいなば散りもこそせめ」という歌がある。それから、托鉢の鉢を忘れてきてしまったという歌ですけれども、「道のべに菫つみつつ鉢之子を忘れてぞ来しあはれ鉢之子」という歌があります。
 今度は漢詩でその前後を要約したような漢詩を良寛は作っていますが、それをそこに書いておきました。「青陽二月の初物色やや新鮮なり この時鉢孟を持し得々として市てんに遊ぶ 児童たちまち我を見欣然として相将いて来る 我を要す寺門の前我を携えて歩遅々たり孟を白石の上に放ち嚢……」嚢というのはずだ袋でしょうね。つまり、托鉢のお坊さんが腰に下げているあれだと思います。「嚢を緑樹の枝に掛く ここに百草を闘わせ……」これは手毬ではありません。つまり僕らがよく遊ぶあれでしたら、例えば松葉の葉と向こうとこっちであれしてこういうふうにあれして切れたほうが負けだというような遊びだと思います。
 もう一つは手毬です。「ここに毬児を打つ」毬児というのは、毬ということだと思います。毬の子どもですけれども、これは実際の子どもという意味ではなくて、毬という意味だと思います。毬を打つということは、この場合は日本語で言えば突くです。これは漢詩ですから打つになっています。「我打てばかれ」かれというのは子どもです。子どもしばらく歌い「我歌えばかれこれを打つ 打つ去りまた打ち来たり時節の移るを知らず」時がたつのを知らなかったということだと思います。この日暮らしということだと思います。
 「行人我を顧みて笑い何によってかはそれかくのごときと 低頭してこれに応えず道い得るともまた何か似せん」難しくはないと思いますけれども、行く人が子どもと遊んでいる自分を、村の通りがかりの人が見て、笑って、あいつは一体どういうわけで子どもと遊んであんなことをしているんだというふうに言った。低頭してというのは、うつむいてということだと思いますが、自分はうつむいてこれに応えなくて、つまりうつむいて黙っていたということだと思います。何か言うとしても、またどういうことを言ったらいいのだと、言うことなど何もないのだということだと思います。
 「箇中の意を知らんと要せば」箇中の意とは、その時の自分の気持ちというか自分が心に思っていることを言うとすれば、元来からこれこれ、つまり元々、これはこれだけのことだというふうにしか言えないよと言っているのだと思います。終わりの二~三行というのは、きっと良寛にしてみれば、自分の禅の境地のことを言いたいわけだろうと思います。しかし何も言いようがないのですということだと思います。
 これを見ますと、手毬をついて、ついたまま托鉢をも忘れてしまって、子どもと遊んでその日が暮れてしまったという、良寛という人は、どうも自分が作っているのですから本当だというふうに思われます。しかし、本当ですけれども、皆さんがご自分でお考えになればすぐにわかると思いますけれども、だから良寛という人は子どものように邪気もない、そういう人だったのだと理解するというのは、僕の理解の仕方では少し間違いであるような気がします。
 それは、皆さんが例えば、何か用事があって東京に出て行って、その用事をすることを忘れて映画を見てしまったでもいいし、何でもいいのですけれども、子どもと遊んでしまったでもいいのですけれども、そういうふうに心が動くということ、動き方というのはなかなか一筋縄ではないだろうなと思われます。
 ですから子どもといろいろなことを忘れてしまって遊んで、その日が終わってしまったという良寛の遊び方というものは、楽しくて遊ぶということが一つ確実にあるわけですけれども、もういくつか考えてみれば、良寛にとって子どもと遊ぶということと、托鉢して食べ物をもらったり、時にはお金を喜捨してもらったりということでしょうけれども、そういうことと、遊ばない村人たちの生活というものに対比させれば、そういうものが良寛にとっては、全部同じだけの重さであったということが一つ言えそうな気がします。
 つまり、そういう生活というのは普通の人にはできないわけですけれども、少なくとも子どもと出会って手毬をついたりして、托鉢のことを忘れてしまうという生活の仕方というものの中には、それ自体がというかそういう生活を選べること自体、あるいは選ぶこと自体が一つの大変な意味というか無意味というか、どちらでも言えそうな気がします。
 けれども大変大きな意味、あるいは無意味さを持っていて、普通の人の生活が意味ある生活だとすれば無意味な生活、あるいは無意味だからまた意味ある生活だということが言えそうな気がします。ですから良寛にとってはそういうことは全部同じ。子どもと遊ぶことも他のこと、托鉢をすることも全部同じ重さとしてあったと考えると、とても考えやすいのではないかということが言えそうな気がします。

3 〈愚〉ということに徹した人

 それからもう一つは、良寛は、後で出てきますけれども、出家して禅宗(曹洞宗)のお坊さんとして、だいたい九年か十年修行をしているわけです。修行をして、認可あるいは印可ということですけれども、印可を得ているわけです。つまり、お前は一人前というか、禅宗のお坊さんとして一個独立した、きちんとした修行を積んだお坊さんであるという免許証のようなものですけれども、その印可あるいは認可を受けているわけです。
 ですから禅宗のお坊さんとして、一人前のというか一個独立の師家であるという資格とそのあれをもらっているわけです。もっと言うと、良寛は今でいうと岡山県ですけれども、円通寺という曹洞宗の非常に名のあるお寺で修行をする。そこで良寛直接の師匠は国仙という人で、その国仙という人も、近世(江戸時代)は指折りの優れた禅僧であったわけです。良寛はその人の元で九年か十年修行して、大愚という呼び名をもらっているわけです。例えば曹洞宗の元祖である道元だとすれば、永平道元というのですけれども、永平というあれを持っているわけですけれども、それと同じように大愚という名前を、印可を受けた時に、師匠の国仙からもらっているわけです。
 ところで、それも良寛の詩によく書いていますけれども、良寛という人は、大愚と師匠から言われるように、相当「愚」ということに徹した人で、無意識のうちに自分の資質というか、子どもの時からの性質、性格として、愚かさというか抜けているところというか、テンポの遅いところというところを本当に持っていたということです。十年間の修行でもってそのことを自分で意識したり、またそれを壊したりというようなことをやっているわけです。それで大愚という呼び名をもらっているわけです。
 これは大層愚かなという普通の意味合いとはちょっと違います。それはきちんとした禅宗の一個の師家として、大愚という呼び名をもらっているということなのであって、それは愚かさというものは自然に持っている自分の愚かさとか自分のテンポの遅さというものだけでもって、そういう呼び名をもらうことはできないので、自分の資質がそういうものであったとしたならば、それを自分が十年間修行してそれを壊したり、壊して鋭くなってみたり、またそれを壊してみたり、またそれを凝縮してみたりということを、それも意識して修練をして、そして一個の禅僧だと認められたということを意味しているのです。そういう意味合いで子どもと手毬をついて遊んで、托鉢することも忘れて一日中遊び暮らしたというその意味は、ただのん気な性格で、子どものような人だったからそうだというふうに理解することはできないわけです。
 そうには違いないのですけれども、それはそういう自分を壊したり、またはそれを作り上げたりというようなことを何回も何回も内面的に練り練って、そしてそこに達しているわけですから、たぶん子どもと遊んだという歌も、詩も、そうやって一日中暮してしまったという詩も、良寛は何気なくそれを表現して、そして後世の人たちはそれを子どものような人だ、無邪気な人だったのだというくらいに受け取っているかもしれませんけれども、僕はそう思いません。
 それは、大変無邪気でもあったでしょうけれども、またちょっと抜けたところというかテンポの遅いところもある人だったでしょうけれども、それをまた何度壊したり、また作ったりということをやって修練して、意識してそうなのか、無意識でそうなのかわからないというようなところまで自分も作り上げていった、そういう良寛が子どもと手毬をつきながら遊んでいるのだと理解することが一番近い理解の仕方のように思われます。ですから、そこまで理解していけばよろしいのではないかと思うわけです。もう少し後になって、もう少し何か言わなければいけないかと思いますから先に行きます。

4 良寛はどういう生活をしていたか

 では、良寛はどういう生活をしていたのだということを、また良寛の歌とか詩でもって再現していきます。まず日常、行乞というのは托鉢です。村里へ出て行って、村の人から、その家のところに立ってお米をもらったり、その他食べ物をもらったり、時にはお金をもらうこともあるでしょうけれども、そういう喜捨を受けて生活するということが、日常の生活がある。それは「飯乞ふと我来にければこのそのの萩の盛りにあいにけるかも」という、これは托鉢に行った途中で、萩の花の盛りに出会ったという詩です。
 この行乞というのは何かというと、これは特に禅宗の場合そうですけれども、お坊さんにとっては必須の条件なのです。それをしなければお坊さんの資格はないというくらいに必須なわけです。なぜ村人から、自分で耕して食べるというのではなくて村人からお米を乞うて、それをもらってくるということがどうして必須条件かということになるわけですけれども、それは坊さん、つまり僧侶というのは一体何者なのだ。僧侶というのはどうあればいいのだという問題とかかわってくるわけです。
 特に曹洞宗の元祖というか、始祖である永平道元という人の考え方がそうですけれども、一日ただ座れという考え方です。ただ座禅しろという考え方。他のことは何もしなくてもいい。食べることも本当はしなくてもいい。二十四時間ひたすら座れということが道元の考え方です。なぜそうかというと、ひたすら座って、座禅して座っているその姿、そのこと、それ自体が仏というものの姿なのだと。要するに自分が仏になるということはどういうことなのだ。あるいは仏に学ぶということはどういうことになるのだというと、そうなればいいだろうということなわけです。
 ですから座ればいい。そしてほかのことは何もするな。何か人のためにいいことをしようとか、何か土木工事をして、橋を造ったり、田んぼを耕したり、そんなことは一切いらないということが道元の考え方です。そんなことはどうでもいいのだ。それからまた、人のために奉仕するなどということもどうでもいいことだ。ただ二十四時間ひたすら座れ。もしできるならば食べることもやめてしまえ。座れ、その姿自体が仏であると。仏の姿というものを自分で体現するわけだから、それ以上のことは何もないし何もいらないということが、この良寛が学んだ曹洞宗の基礎の考え方です。
 そうすると僧侶とは一体何なのだ。二十四時間座っているということで、それで終わりかということになるわけです。ただ、絶えず自分の場所というものを確かめていないといけないということが、ただ一つ僧侶にはあるわけなのです。特に、道元などの曹洞宗の考え方ではそうです。つまり、自分の場所というものを絶えず確かめていなければいけない。自分はただ二十四時間、極端に言えば座っているだけである。その他は何もしなくていいし、何もする必要もない。なぜならそれは仏なのだ。
 そうすると、それと村の毎日耕す、毎日働いて、生活をしている人たちと比べて、どういう場所にいるかということを確かめる手段というものは、ただ一つ坊さんのほうからなないわけです。それは村人に食べ物をくださいという、喜捨を乞うという行為しか比べることができない、比べる方法を持っていないということです。ですから托鉢するということは必須条件だということになります。
 そうやって、食べるものというものを、薬をのむということと同じで、かろうじてというか最小限生きられるというか、明日も生きられるだけのお米をとにかく村人からもらって、そのもらったもので生きなさいということなのです。それを生きることで、自分が坊さんだと、二十四時間座っているだけでいいのだと、何もしなくてもいいという、そういう自分の行為が何であるかということを、村人に対して何であるか。村人と比べて何であるかということを確かめる唯一の方法であるし、村人とつながる唯一の方法なのである。
 ですから、自分で耕して、自分であれするというのではなくて、とにかくもらわなくてはいけない。しかもただでもらわなくてはいけないということなのです。ただでもらうということは、それ以外のことなど自分がゆとりありませんということで、自分はただ二十四時間座っているだけです。本当なら食べなくてもいいのだけれども、食べることを最小限にして座っているだけですという、それが本来の自分の姿ですから、ただでもらってくるという行為以外に村人たち、つまり一般的に、今日も働いて、明日も働きですけどつながっている。つながる道がないし、またそれに対して自分の占めている場所というものを確かめる手段がないので、この托鉢に行くということが、必須条件なわけです。それは毎日のようにするわけです。でも時として、食べるものを乞うことを忘れて、子どもと遊んでしまって、そのまま帰ってしまうという時もあるのだということだと思います。
 お祭りや何かになって、お祭りの人たち、村の人たちに交じって踊ったり何かということもしているわけです。それは「風はきよし月はさやけしいざともに踊りあかさむ老いのなごりに」という、これは踊りあかさむということは、村人であったり村人のグループであったりということで、それと一緒にということだと思います。
 それからあとはどういうところに住処を定めるかということですけれども、良寛の場合は、国上山という新潟県に山がありますけれども、そこの中腹のところに庵を結んで、それから二回くらい場所は移しています。村里の近くにという時もありますし、また村人の屋敷方にということもありましたけれども、国上の山の中腹のところの草庵が一番よく知られているわけです。「いざここにわが身は老いむあしびきの国上の山の松の下陰」という詩があります。もっとたくさんありますけれども一つとってみました。それが良寛の住居なわけです。そういうところに住みまして、山を下って行って村へ来て托鉢をしてお米をもらってまた帰って行くという、そのくり返しの生活です。
 病気のことが歌われています。「うづみ火に足さしくべて臥せれどもこよひの寒さ腹にとほりぬ」という詩があります。その前に「ことに出ていへばやすけりくだり腹、まことその身はいやたえがたし」下痢でもって耐え難いほど痛くて苦しくて仕方ないという詩だと思います。
 良寛、どうでしょう、お医者さんはわかるわけですけれども、直腸がんとかそういうので死んだのではないかと思われます。あるいは神経性なのかわかりませんけれども、とにかく下痢ということが良寛の持病でして、下痢にはものすごく苦しんで、晩年死ぬ時は多分それで死んでいます。
 ですからそういう自分の日常の下痢の苦しさというものとか、足をぬるいところにさしかけて寝ているのだけれども、寒さが腹にしみていたし方ないという、新潟県の山の中腹で、それで草庵、粗末な庵ですから寒くて仕方ないというところでいたのだと思います。ですからそういう詩を作って。この下痢というのは持病になって、やがて死病になった病気です。ですから良寛という人は、たえずそういう持病に苦しめられて生活していた人であるわけです。
 悩みの詩というものもあります。それは「むらぎもの心をやらむ方ぞなき、あふさきるさに思ひみだれて」これだけ読むと恋愛の詩のように思えるわけです。「会うにつけ」それからこの「やってきるさ」というのは来るさだと思います。やって来る人に会うにつけ、やって来る人を見るにつけ、自分の心は思い乱れて悩むのであるという詩だと思います。
 一見すると恋愛のように思われますけれども、恋愛ということで良寛唯一知られているのは、晩年近くに貞心尼という尼さんがいるわけですけれども、尼さんが良寛の詩その他のお弟子さんになって、晩年の良寛の庵に時々訪れていたということがわかっています。それは一種の恋愛感情といえば恋愛感情なのですけれども、それはとてもよくわかっていますから、それかと思うのですけれども、他にもそういうことがいい知れぬことであったのかもしれませんから、そこはわかりませんけれども、いずれにせよ悩みの詩というものを作っております。

5 無能ということのふたつの意味

 今度は詩ではなくて漢詩でやってみましょう。これは自分の性格を自分で総括しているわけですけれども、「無能の生涯作す所なく、国上の山嶺にこの身を托す。他日交情もし相問わば、山田の僧都これ同参」という。自分の生涯は無能な人間の生涯であって何もなすことなく、国上山の頂のところに庵を結んでそこで生きていく。ある時、知り合いの者が、あいつは何をしているのだ、どういう生活をしているのだと聞くことがあったとしたらば、自分は山田の僧都を、同参というのは仲間とか修行の同胞というか、修行の仲間ということでしょうけれども、山田の僧都を自分の修行の仲間として暮らしているというふうに答えていくという意味合いになると思います。
 山田の僧都というのは、理解の仕方が二つあって、一つは山田のかかし。かかしの例えだといういわれ方がされております。もう一つは喜撰法師という百人一首にも歌がある坊さんですけれども、それのことだという解釈の仕方もある。いずれの解釈をとっていても、自分は何も無能であってなすところもなく、国上の山のところに庵を結んで生きているということだと思います。この無能というふうに自分を言っていますけれども、この無能という言い方もたぶん二つの意味があって、一つは本当に無能だと思っていたと思います。それからもう一つは自分の無能さいうことを何回も考えては壊してみたり、また考えては壊してみたりというふうにやった揚げ句の無能という意味合いだと思います。そういう意味で使っていると思います。
 例えば、良寛がいた岡山ですけれども、円通寺というところは国仙という人がお寺の和尚さんだったわけで、そこで良寛は十年間修行して一人前の師家としての認可を受けたわけです。そうすると、もしも良寛に禅僧としての一人前というか、きちんとした独立した資格というか境地を獲得しているわけですから、それは言うことはないわけですけれども、もし良寛に行政的手腕といったらいいでしょうか、つまりお寺を統括していく。
 実は、曹洞宗からしてみれば非常に名刹ですから、著名なお寺ですから、大変いろいろな意味で、円通寺の和尚さんになるということは、たぶん曹洞宗の偉いお坊さんになるということと同じことだと思います。もし良寛にお寺の行政的なこと、日常的なことを処理していくというような能力があったとしたならば、当然、国仙が死んだ時に、良寛がその後を継いで円通寺の師家というか和尚さんというか、それになることがいわば順序だということになると思います。
 ところが、良寛が無能と自分で言っていますし、また国仙からは大愚という呼び名をもらったということからもわかりますけれども、良寛には行政的手腕というか、いろいろなお寺のしきたりとか行事とかいろいろあるわけです。それから本山からのいろいろな指令とかもあるわけですけれども、指令をどのように実行したらよいかとか、いろいろそういうことが仕事としてあるわけですけれども、たぶん良寛にはそういうことに対する能力が欠けていたのだと思います。つまりそういう能力がない人だったのだと思います。
 そういう能力がないということは、決してお坊さんとして、僧侶としての境地が低いことでもないし、駄目なことでも何でもないのですけれども、しかし、それがなかったらいわゆる一宗派の偉いお坊さんというふうにはならないわけです。そういう意味合いで良寛の名は曹洞宗の僧侶としての、残念ながら後世に残っている良寛の名は曹洞宗の師家として、和尚としての名前ではないわけです。
 その名前で良寛が言われるようになったのは、良寛が他のことで著名になってきたものですから、曹洞宗でも、わが宗の偉大な人ということで、この頃というか最近はそういうことになっておりますけれども、本当は師家としての良寛がそういう意味合いでは、曹洞宗の名だたる僧侶ということではなかったわけです。
 良寛が、国仙が死んだ時、師匠さんが死んだ時に、本山から玄透即中という、これも近世に名だたる名前をもっている著名な禅宗の坊さんですけれども、玄透即中という者が本山からやってきて、国仙の後を継いで円通寺の和尚になるわけです。
 良寛は、そこがよくわからないところですけれども、玄透即中がやって来たからお寺を出たのか、あるいはやって来る前に出たのかそこはわからないところですけれども、国仙が死んだ後、玄透即中が後を継ぐ前後の時にお寺を出て、故郷へ帰ってきたわけです。そういうことで自分の資質というか、事務的無能力というか、そういうことも含めて無能の生涯と自分を言っていると思います。
 そして故郷へ帰って来るわけです。故郷へ帰ってこの国上山のところに庵を結ぶわけですけれども、そこの庵に住んだ時の、どういう生活だったかということを総括している詩があります。それをそこに一つだけ書いておきました。「杖をついてしばらく一人行き行きて北山のほとりに至る 松柏?センコのほか?キョウジツ悲風吹く」風が吹いて松や柏の葉が風に悲しそうに鳴っているということだと思います。
 「下に?チンシの人あり 長夜何の知るところぞ」下にチンシの人ありというのは、この松や柏が生えているその下には昔の死んだ人のお墓になっていて、それが埋まっているということだと思います。そういう松や柏の下で眠っている死んだ人たちは、長夜というのは黄泉路だと思います。つまり黄泉路を死んで歩きながら何をしようとしているのだろうかと言っているのだと思います。
 「狐狸?ユウソウニ隠れ」。つまりキツネやタヌキが草むらのところに隠れてキョロキョロしていたり、「鴟カンシに鳴く」フクロウが枯れた枝のところで鳴いている。「千秋万歳の後誰かここに来てざらむ」長い長い年月がたった後に、誰か松や柏の下に埋まって死なないという人がいるだろうかと言っているのだと思います。「?ホウコウして去るにしのびず、?セイサ涙衣を潤す」そういうことを考えて、立ち去る気になれないでこの辺りをさまよいながら涙を流したという歌だと思います。
 これは良寛が、托鉢に行って子どもと遊んだりというようなことが、良寛の愉快な日だと考えれば、良寛がとてもうつ状態だったというか、沈んでいた時に作った詩だと思います。これがだいたい良寛が草庵の中で生活していた、生活の中での出来事のほとんどすべてだと思います。こういうことをしながら良寛は生活している。それからこういうことを考えたりしていたのだということになると思います。

6 少年・青年期と出家のはじまり

 ところで、今までもお話ししましたけれども、良寛は少年の時に国仙という円通寺の和尚さんですけれども、国仙が諸国へ修行に出ていて、たまたま良寛の故郷というところは越後の国、今の新潟県出雲崎なのですけれども、出雲崎の禅宗のお寺に国仙が立ち寄った時があります。良寛もそのお寺へ行きまして、その国仙に頼んで自分を出家させてくれないかと言って、出家を遂げたということが出家の始まりです。それで国仙の後をついて行って、国仙と一緒に円通寺へ行って、九年か十年間修行したということになっています。
 良寛は出雲崎の辺りの、今で言えば村長さんとか町長さんですけれども、出雲崎の村あるいは町の長というか、そういう家の長男に生まれているわけです。長男ですけれども、村の町長さんとか村長という形でもって、村人の政治をつかさどるというようなことがなかなか苦手な少年だったわけで、それできっと出家の志のようなものを遂げたのだと思います。
 良寛は、自分でそれを詩に作っています。少年期・青年期ですけれども、「尋思す少年の日吁嗟あるを知らず 好んで黄がの衫をつけ能く白鼻の劉に騎る 朝に新豊の酒を買い暮に可陽の花を看る 帰り来たる知らで何のところと直ちに指す莫愁の家」という詩を作っています。
 少年の日のことを思い出してみると、自分はその時恵まれた生活をしていて、愁いなど何もなかった。好んで黄色い薄い上着を着て、しゃれた着物を着てということでしょうけれども、鼻の白い馬に乗っていた。朝にはお酒を買いに行って飲み、夕方には川辺の花、これは桃の花を見に行ったりして遊んでいた。帰っていくところはどこかというと、家ではなくて莫愁の家。今で言うと芸者さんのようなところだと思います。帰って行くのは家ではなくて芸者さんのところだったという、生活をしていたという時に、自分でそういう詩を作っていますから、確実にそういう生活をしていたのだと思います。
 出家以前の良寛という人は、恵まれた村長の家の長男で、お金に不自由しないで、遊び歩いて酒を飲んだり、花見をしたりというように遊び歩いていて放蕩三昧だったと。家になどなかなか帰って行かないで、娼家というか芸者さんの家といいましょうか、そういうところに行って泊まって遊んでいたという詩を書いています。多分そうだったのだろうと思います。学問というか本はよく読む人だったと思いますけれども、その他のことで言えば、大変のんびりした放蕩三昧に近い、恵まれた生活をしていたということだと思います。
 ところで、国仙がやって来た時に出家するわけですけれども、出家のことも詩に歌っています。「少年父を捨てて他国に走り辛苦虎を画いて猫にも成らず 人あってもし箇中の意を問わば箇は是れ従来の栄蔵生」栄蔵というのは子どもの時の良寛の名前です。ですからこれは少年の時に父を捨てて、国仙の後をくっついて他国に出家して修行に出て行ってしまった。自分の主観的な気持ちでは、辛苦して優れた偉い坊さんになろうと思って、行ったわけだけれども、それはトラになろうと思って行ったわけだけれども、ネコにもならないで帰ってきてしまったと自分のことを言っているわけです。
 人が、もしお前の気持ちはどうなんだ。お前の真の気持ちはどうなんだと聞かれたら、昔、子どものとき栄蔵と呼ばれていた時の昔のままの自分とちっとも変わらない、同じだよと自分は答えるだろうという詩だと思います。ことごとくそうですけれども、「大愚」とか「無能の生涯」とか、トラになろうとしたけれどもネコにもならないで自分は終わってしまったという、これは一種の挫折感というか、それは良寛の生涯につきまとって離れなかったものです。

7 がんばることができない人

 僕らはそんなことはよくわからないのですけれども、詩とか漢詩というものからは、小説でもないし、近代小説でもないわけですから、心理の奥の奥までを探ろうと思ってもなかなか探れないわけですけれども、それでもかすかににおってくる良寛が、こういうややこしい言葉の中からにおってくるものがあるわけです。そのにおいは、良寛は一種の人間悲劇というか人格悲劇というか、人格的にとても悲劇的だったと思います。今の言葉で言えば、あまり頑張ることができない人だったと思います。
 物事を順序どおりに処理して、計画して、生活するということ、またそういうふうにして人の上に立つとかというようなことが、まったく苦手な人だったと思います。それはある意味で、とても悲しい資質というか性格だと言えると思います。良寛にはたえず、そういう自分の悲しい性格というものに対する思いというものがいつでもある。そのために自分は禅宗の坊さんになって修行をして、一個の師家としての認可を受けたのだけれども、お寺をつかさどっていって、ゆくゆくは永平寺の、一宗の大和尚になるというようなことというのはとうとう自分にはできなかったなと。
 なぜできなかったのかといえば、自分にはそういう……(録音切れ)……みたいなそういうことというのは性格的にできなくて、自分はそういうふうになれなかったという思いというものが、良寛の一生につきまとっているわけです。
 このことは、良寛が必ずしも禅宗の僧侶としての境地が駄目だったということを意味していないわけです。僕らの言っている、書だけで言ってはいけないのですけれども、書などで判断すると、良寛の境地のほうが、禅宗のお坊さんというのはいろいろな書を残したりしています。一休のような人もそうですけれども、いろいろな書を残したりしていますけれども、良寛の書のほうがはるかに境地がいいと思います。高いと思います。
 ですから、そういう意味合いで、禅宗のお坊さんとして境地が低いということを意味しないのですけれども、今もそうであるように、徳川時代でもそうであって、何か事務的な処理能力というものがなければ、いわば後世、大僧侶だと言われるような、名僧だと言われるような僧侶にはならないことになっています。なれないことになっています。
 僧侶というものは、そんなことはいらないはずなのだけれども、しかし最小限そういう才能がなかったらなれないわけです。良寛にも徹頭徹尾、ほんのちょっぴりもそういう意味合いの才能がなかったのだと思います。それはある意味で悲しいこと、絶えず悲しい目にあったということを意味しているような気がします。それがまた良寛を良寛たらしめたということになるのではないかと思います。
 良寛は、決して子どもとむやみに遊んでいるという時の良寛だけが、良寛ということでもないのであって、良寛の性格というか、それはかなり複雑であり、また悲劇的だと、つまり直しようがないのだというか、仕方ないのだというか、頑張れないのだというか、いわゆる普通に言われる頑張りということはできないのだという、性格の持ち主だったと考えるのがとても考えやすいような気がします。

8 良寛の性格悲劇

 修行時代のことを言っているものがあります。その辺を見るととてもよくわかりますけれども、「憶う円通に在りし時」円通寺にいた時ということで、「つねにわが道の孤なるを歎ぜしこと」いつも自分が孤独、そこでも孤独な道を行っていると絶えず感じていたと言っています。「柴を運んでほう公を懐い」ほう公というのは禅宗の偉いお坊さんのことです。中国の偉いお坊さんです。「碓を踏んで老廬を思ふ 入室あえておくるるにあらず」入室あえておくるるにあらずというのは、公案を与えられたりなどすると、公案を解いて、解けたと思ったら和尚さんの部屋に行って、問答をするわけです。まだそんな答えでは駄目だと、追い返されてまた修行してということだと思います。そういうよい入室というかそういう場合に、人に後れたことはないと、つまり自信のほどを言っているのだと思います。
 「朝参つねに徒に先んず」朝の修行の参でをするという場合に、いつでも仲間より先に来て行ったのだと言っていると思います。「ひとたび席を散じてより悠々たり三十年」ひとたび席を散じてよりということは、円通寺を出てしまって、禅宗の師家としては違う道を行くというか、そういうふうに違う道を行ってから悠々として三十年すぎたと言っているのだと言えると思います。
 「山海中州をへだてて消息人の伝ふるなし」山海中州をへだてというのは、円通寺といま自分がいる新潟の間を山や海がへだてていて、円通寺の消息は自分のところへなかなか伝わってこないというふうに言っているのだと思います。「恩に感じつ涙あり、これを寄す水の潺湲たるに」ついでに言えば、円通寺にいた時の仲間や和尚さんたちの恩を思うと涙が出てくるということで、これは水がこんこんと流れているということは、そういう思いと同じことなのだと言っていると思います。
 よく言っていると思いますけれども、この詩を見ると、良寛が禅宗の僧侶としての修行において、人に後れたことはないのだという、良寛の一種の自負のようなものもこの中には入っていると思います。それが円通寺にいた時の自分だということを言っていると思います。
 それからまた円通寺の出た後、故郷へ帰ってからの生活についても詩を書いています。「白蓮精舎の会を出でしより」円通寺の修行のお寺を出てからということです。「騰々ごつごつこの身を送る」騰々ごつごつというのは、悠々たりということと同じことだと思います。この身を送っている。「一枝の烏藤を長く相随い」一枝の烏藤というのは、藤の木の枝で作った杖をいつでも自分は持っている。「七斤の布衫破れて煙のごとし」七つの布で作ったお坊さんの上着だと思います。それは破れて煙のようになってしまっている。「幽窓雨を聴く草庵の夜大道毬を打つ百花の春」子どもたちと手毬をつくということで、いくつもの春をすぎたということです。「前途客有りてもし相問わばわがこれ?ショウヘイの一閑人」どこかへ行った時に誰かよその人が、あなたどうしていますかと聞かれたら、自分はショウヘイの一閑人だと。つまり太平の世の一人の閑人なのだと答えると言っている詩を書いています。
 これがお寺を出て国上の山に帰ってきてからの自分の生活の仕方というものを、自分で詩に作っている。詩を通じて生活の仕方を述べているところです。この詩の漢詩というものは、人間の信義というようなものまではなかなか伝わってきませんから、そういうものがわかりにくいのですけれども、しかし推察を働かせれば、良寛が自分の生活を自分でどういうふうに考えているかということが何となくわかるような気がします。
 これをどこまでどういうふうに再現したらいいのか、どこまで再現してしまったら再現のしすぎなのかということは、なかなかわからないところです。たくさんの人たちが良寛の伝記を書いていますし、また良寛を主題に小説作品を書いていたりしますから、もし皆さんがご覧になれば、いろいろな人たちが良寛という人をどのようなイメージをして描いているかということがわかると思います。
 しかしながら、良寛自身が、良寛をどう描いているのかというと、このような形で自分を描いているということ以上のことは、良寛自身は描いてはいないわけです。良寛という人がどういう人だったかということを再現するためにも、だいたいこの程度の詩の作品も、ここでは一個ずつしか挙げてはおりませんけれども、いくつかありますからそのいくつかを元にして良寛の生涯というものを再現するほかないわけです。その再現の仕方というものは、たぶん読んだ人の気持ちに従って、少しずつ違ってしまうのだと思います。
 ですから良寛を、無邪気で子どもとよく遊んでいて、遊ぶと他のことをみな忘れてしまってというような良寛像もありますし、そうではなくて、良寛という人はかなり複雑な性格の持ち主で、それからまた近代的な意味で言えば、性格悲劇を持った人で、生涯、自分の生き方に対しては一種の挫折感を持って抱いて、それを去らなかった人だというような見方もできるわけです。その再現の仕方というものは、その再現する人ひとによって違うので、それもまたさまざまな解釈を許すということになります。
 どうしてかというと、元々こういう詩とか漢詩とかというもの、東洋の詩歌というものは、心理主義的ではないですから、なかなかそこからどういう心理を持って、心理の動き方をしていたのだというところまでは、つかまえて来ることは難しいし、またそれは読む人の個人的な考え方に委ねられてしまいますから、さまざまな再現の仕方ができるのだと僕には思われます。そこで良寛のだいたい一生の暮らし方、それからなぜ子どもと手毬をついて遊んでいる良寛というイメージが、なぜ良寛というとつきまとってくるのかという根拠あるいは理由というものは、だいたいこういうところから推察することができると思います。

9 良寛の書とは何なのか
――存在の跡を自然のなかに浮かび上がらせる

 ところで、もう一つ、良寛という人は、書がうまい人なのだという言われ方があります。良寛は書がうまい人なのだということは、何となく誰にでも伝わっているし、雑誌などでも写真で見かけるということも数多いわけです。良寛の書というものは、一体どういうものなのか少し申し上げてみたいと思うわけです。
 いろいろなことが言えるのですけれども、例えば、日本で書が優れている、また後に三蹟と言われた人たち、非常に優れているのだというように、いろいろ優れた書家というか、書を書く人というのはいるわけだし、そう言われている人たちもいるわけなのです。空海とか嵯峨天皇という人がそうなのです。
 ところで、これは人の主観によりますけれども、良寛の書というものは、もしかすると空海などよりずっと上なのではないかという気もします。これはその人の好みになってしまいますからどうしようもないと言えばどうしようもないのですけれども。良寛の書というものは、中国の非常に優れた書家という人がいるわけです。王義之とか顔真卿とかいろいろいるわけですけれども、そういう人たちともし比べて日本のいい書を書く人がいるかと言ったら、空海がいいという人もいるかもしれないけれども、もしかすると良寛の書ならばそれと比べられるよということになるのかもしれないくらい、優れた書家だと思っています。
 良寛の書というものは何なのか、どういうものがということを少しだけ立ち入って申し上げて見たいと思います。書というものは一般的にどういうふうに見たらいいのかということがあるわけです。これは書家に聞かなければいけないわけだし、専門の書家はまた専門の書家としていろいろなことを言ってくれると思いますけれども、僕は書というものはどういうふうに理解していったらいいのか。特に良寛の書などは特にそうですけれども、どのように理解していったらいいのかということを、僕なりの理解の筋道というものの中に良寛を入れてみて申し上げていきます。
 まず、書というものは、一番いい詩を、例えを使いますと、書の紙というか布というか……
【テープ反転】
 ……布とかというものは自然なんだと、そこのところに何か文字を書き連ねるということになるわけです。それが書だということになります。文字を書き連ねることと、絵を描き連ねることとは何が違うかというと、例えば水墨画というものは墨で書くわけですけれども、何が違うかというと、文字の場合には一個一個に意味があるわけです。一個一個が意味であってつながっている、それを書くわけです。
 水墨画の場合には、ただ風景物もそこに一つの模写というか、そういうものがまず、あるいは象徴というものがやってくるわけですけれども、それに対すれば書というものはそこに文字がやってくるわけです。文字の続きがあって、文字の続きということは意味の続きということを意味します。ですからそこだけが、文字の意味するものというものだけが書と違うわけです。
 それと良寛の書というものは、細筆が多いのですけれども、どういうふうに考えたらいいかというと、良寛が本当は全部自分の、例えば、良寛という存在自体をもし自分が消したいと思ったならば、消したいと思った時には、その背景の紙とか布とかというものには何も書けないわけだというように考えていきます。そうすると、良寛は自分の存在の跡のようなものを、かすかに自然の中に浮かび上がらせようとしていると考えたとすると、それがたぶん良寛の書を理解するのには一番いい理解の仕方ではないかと僕には思われます。
 自然の中に、何か痕跡を残したいのだ。それで痕跡を残したいという場合に、われわれだったら、できるだけ力を入れて大きくぶったくるように塗りたくって、ほらここに、おれは確固としてこの自然の中に存在しているぞというようにやりたいわけですけれども、良寛の場合には、それはむしろ自然の中に同化してしまって、自分は本当はゼロにしたい、空白にしてしまいたい。空白にしてしまいたければ、背景は紙とか布とか何も書くものは要らないわけです。
 ところが、そこにかすかに自分が自然の中に、自然からはみ出してというか、大部分の体が自然の中に全部同化してしまっているのだけど、ちょっと頭の先か手の先かわかりませんけれども、かすかに痕跡だけは自分が自然の中からはみ出しているものがあって、それが自分の存在なのだというようなことを良寛が示したいと考えたとしたならば、良寛のような細筆の、流れるようなこういう書になるのではないかと理解していくと、とても理解しやすいのだと僕には思われます。つまり良寛の書というものは、よく音楽的だとか、滞ることなく流れるような書であってというふうに、よく見るととても音楽的なのだと、リズムがあるのだというような言われ方をよくしますし、書家の人たちの書いたものを読むとそういう言い方をしています。
 しかし、僕は一個の批評家ですから、そういう言われ方というのは、いつでも結果論にすぎないのです。結果の、書は書かれてここにあるから、それについてあるものを眺めて、そういうふうに結果的に思えるということで、これは結果論にすぎないのです。ですからそれは本当の批評にはならないのです。本当の批評というものは結果論ではなくて、結果論の印象ではなくて、そこには原因論を含めるし、また、もしできるならばそこに存在論も含む。その人自身の性格も含むとか、資質も含む。その人自身の技術も含むというような形で、この書というものを言い得なかったら、それは批評にはならないわけです。
 ですから批評的に言って、一番いい言い方というものは、?ハイセイの紙とか布とかを全部自然だと考えて、良寛は本当は自分の全存在を自然と同化してしまいたいという生き方をしたいわけだし、自然の中に、殴るようにそこに存在感を打ちつけるというような考えが少しでも?もたない。もしできるならば自然と全部同化してしまいたいというように考えているのですけれども、それが少しだけ、かすかに自分が自然と違和感を持つ部分があって、そこだけが自分の存在なのだといって、それが細い線になって、しかも流れるようなリズムがある線になって、それを表現しているというように理解すると、とても理解しやすいのだと思われます。
 それは皆さんが、禅宗のお坊さんの書いた書というものを、一休の書もそうですけれども、書をご覧になればわかりますけれども、禅宗のお坊さんというのは、ものすごく俗っぽい書を書くわけです。ものすごく自分の存在感というものをたたきつけようというような勢い、それか自分の勢いというか、勢いというか気合というか、それをたたきつけようとするものですから、ものすごく僕らが見ると俗っぽいのです。力強いけれども俗っぽいという書を書く偉いお坊さんというのは、そういう書を書く人が多いのですけれども、良寛はまったく反対です。
 できるならば、自然と全部同化してしまって、自分の存在を全部消してしまいたい。けれども、かすかにだけ自然の中に自分が存在している。それはなぜかというと、自分の中に一種のリズムがある。そのリズムがあるものだから、かすかに自然の中に存在感を残してしまうのだというふうで、本当は…?…そういうふうに良寛は思っていると考えたほうが考えやすいのです。それが良寛の禅宗の坊さんとしての境地でもあると思います。

10 良寛の楷書

 良寛はどういう境地が偉大なのか、どういう境地が禅宗のお坊さんとして優れているのかといった場合に、まるで禅宗の優れた名僧と言われている人たちと、違う考え方をしていたように僕には思われます。まったく反対の考え方で、本当ならば存在は全部消してしまったほうがいいのだ。人間の存在というものは全部消してしまったほうがいいのだ。けれども、少しだけ、かすかにだけ自分は自然の中で突出している、残るものを自分が持っていて、それをリズムでもって解きほぐしながら自分の書なのだと考えれば、良寛の書というものはとても考えやすいと思います。
 それをもう少し具体的にというか、もう少し細かく申し上げたいので、ちょっとやってみました。こういう楷書ですけれども、楷書というものは何かというと、書であると同時に、一個一個の意味が全部わかるように書かれたものが楷書なわけです。これは先ほどの白い花の栗毛の馬に乗って、朝新しい豊潤な酒を買って来て飲みというところを自分で楷書で書いたものです。これは書であって同時に一個一個の字が意味を持ち、それから持っているということをそのまま出し、それからもう一つは全体の配置がどうなっているか、線がどうなっているか、それらが全部ここに出てきてしまうわけです。
 良寛の楷書というものの特徴は何かと言うと、ここではわかりにくい。これだと少しわかるのですけれども、例えば虚空の空、見えるかどうかわからないのですけれども、空という字なのです。(笑)空という字の場合に、良寛の特徴というのは、僕らが空という字を書きますと、ウ冠にハを書いてエという字を書くわけですけれども、たいてい僕らが字を書こうとする場合に、ウ冠にハを書いた部分と下に来るエという字ですけれども、それと均衡を取れるようにと、だいたい僕らが書けばそういうふうに書くわけですけれども、良寛の場合にそういう特徴というようなもの、空の場合でもそうですけれども、下のエという字が間延びするように非常に大きな、大柄な絵を書く。
 これは空という場合だけではなくて皆そうです。これが如来と書いてあるわけですけれども、如来の来を見てもとてもよくわかるのですけれども、良寛の楷書には下のほうにものすごく開放感があるのです。それは良寛の楷書の位置というのは、全部そういうものが、一字一字の下のほうがとても開放感があって大柄だということがとても大きな特徴なように思います。
 もう一つ、良寛の楷書の特徴を言うとすれば、これは二行ですからよくわからないのですけれども、もう少し何行もあるものを見ますと、とてもよくわかるのですけれども、良寛は、ここで言うと醜という字が、これは?好醜ですから醜いという字でこの醜いという字の左の酉偏ですけれども、酉偏に鬼という字を書くわけです。つまり偏に対して旁のほうがとても大きく書く。しかも下がって書くというところが特徴です。下のほうに書く。つまり下がって書くという、偏は左にあるわけでも、右のほうに偏よりも大きく下がって書くということがとても大きな良寛の楷書の特徴です。
 専門家はきっと良寛に筆の持ち方とか運び方というものがそうなんだよと言うかもしれませんけれども、僕らはそれが言えませんから、良寛の一種の資質というか、流れるような資質からいうと、だんだんリズムが乗っていく流れが最後に開いていくという、つづまっていかないで開いていく。何処まで開いていくのか本当はわからないのだけれども、こういう字の後に字がないわけです。この空白のところに向かって、なんか良寛に聞いたら、いつでも上から下に、あるいは右から左に流れていくと、流れの最後のところはグンと流れとして開いていくという感じというものが良寛にはあると思います。
 それは楷書の中でもとてもよく表れていると思います。それはとても大きな特徴ですから、実にのびのびとした感じを与えるのです。そののびのびとした感じというのはどこからくるかというと、たぶん偏よりも旁のほうが大柄で、下げて書いているということが、良寛の書の流れを、柄を大きくしているというふうに、僕には思われます。そういうことは良寛のとても大きな特徴になっていると思います。

11 草書の早さとリズム

 今度は、こういう楷書というのは、崩してしまうと草書になってしまうわけです。良寛の草書というものは、どこまで崩してあるかということをここにあれしてあります。これは「言う」という字が二つです。「曰く」という字と「言う」と…?…。「言う」という字二つですけれども、これは良寛の字のところを取ってきたわけですけれども、良寛の、普通きちんと書くとこうなりますけれども、これは良寛の崩した字なのです。これは速度の問題もありますし、リズムの問題もあるから字が崩れていくわけです。これをご覧になればわかるように、もしこちらに字がなかったら、これは何であるかということはわからないと思います。つまり誰にもわからないと思います。これはたぶん専門家でもこの字は何なのだと言ったらわからないと思います。つまり、それくらい崩し方というのが著しいわけです。
 どうしてそのように崩れてしまうかといえば、一つは流れの速さが速いということと、それからもう一つはリズムだと思います。リズムをとっていくと、言葉という字も?ゲンと言う字もこんなことをやっていられないので、チョッ、スーッとなってしまうということだと思います。それは速さとリズムだと思います。
 速さとリズムで、その場合にはもう良寛の草書というものは、字自体として一字一字が意味があるかどうかということは誰にもわからなくなってしまう。それでもちゃんと、一種のリズムというものがあって、書の全体的な姿というものが出来上がっていく。一字一字を読めと言われたら、たぶん相当専門家でも長い間かかってこれを解読しないと読めないのではないかと思います。それくらい字としては崩されています。
 これは「?語らず心いふよし」ということだと思いますけれども、これは良寛の崩し方ではこういうふうになります。これでも、この「ふ」という字は必ずと似ていますからわかるでしょうけれども、語らずという言葉は。これで語るだと判断することはこちらがなかったら、あるいは続きがなかったらたぶん判断できないのではないかと思います。
 でもまだこれだったら、格好から何だということが言えそうな気がしますけれども、ここで意に出て、意味の意ですけれども、この心という「意」という字はここにありますけれども、これだけのものですから、ちょんちょん、ちょん、ちょんちょんです。これでもって意というように読めると言っても誰にも読めないだろうと思います。つまりそれくらいリズムと速さによって、良寛の字は崩してあります。つまり字としての意味をたどることができないくらいに崩してあります。
 これは悠々の「悠」ですけれども、上のほうだけわかりますけれども、下の心はただこうやってあるだけです。つまりこうやって、心という字はただこうやってあるだけ。つまりそれくらい崩してあります。これも本当は、一字持ってきたらどういう字かということがわからないくらい崩れていると思います。そのことは、言ってみれば良寛の草書というものは、水墨画というものは絵と書とどこが違うのだといったら、ただ抽象画と具象画の違いだというくらいの、違いに還元されてしまっているということを意味していると思います。これが良寛の草書というものの特徴だと思います。
 そこまでもう意味としては崩してしまっていることだと思います。けれども、水墨画というものとは、どこが違うのだといえば、良寛の書は、一種の、草書だったら抽象画として見たら、逆にとてもよくわかるのだということになるのかもしれませんし、本当言えば、良寛の書を読んで、これはこういう意味のことがこう書かれている、こういう字が書かれているのだとわかるほうがおかしいと思います。
 長い歴史があって、いろいろな人が解釈したりしているからわかっているのであって、本当はバサッといきなり出されて良寛の書、これは何て書いてあるのと聞いて、読める人という人はいないと思います。つまり、これは抽象画だと考えたほうがずっと考えやすいみたいに崩れています。ですから、これは言ってみれば、リズムと速度でもって、ある抽象的な線が連ねられている。それが良寛の書だと考えればいいのではないかと思います。
 先ほど言いました「空」という字ですけれども、空という字の良寛の、ウ冠を書いた個所と下の「エ」の釣り合いですけれども、これはずいぶん違う。いくつかの例を見ましたけれども、ずいぶん違うわけです。下の語が間延びするように大きいわけです。これは「春」という字をとってきても同じです。下のほうが間延びするように、下のほうに開いているという感じがあります。ですから良寛の字というものは、ものすごくゆったりした感じという、細いけれどもゆったりした感じというものを与えるのだと思われます。これが良寛の草書の中にある特徴なわけです。

12 文字に対する考え方――万葉仮名と平仮名

 ところで、良寛の草書というものには、漢字の草書と平仮名の草書があります。漢字の草書と平仮名の草書のかかわり方というものは、良寛にとってどういうものになっていったのかと考えてみると、日本の最初の音で言う言葉というものは、最初は日本では七世紀とか八世紀頃に、いわゆる万葉仮名というもので、中国の漢字を音読みにしてもらってきて、それでもって日本語の言葉というものを表現したわけです。万葉仮名というものと平仮名というものが、だいたい平安朝時代からでき上がって決まってきて、使われるようになるわけです。主として女流の作家とか歌人とかという人は、平仮名の日記をつけたりというようなことを始めて、平仮名が流布されていくわけです。
 平仮名と万葉仮名の間には違いがあるわけですけれども、その違いというものは何かというと、万葉仮名は少なくとも日本の音声というものを写していると考えることができます。つまり万葉仮名で写したものは何かといえば日本語の音声なのだと。音声には地方地方によってなまりもありますし、少しの違いもあります。それから人によって個性が違いますから、個性的な違いもある。声の違いもある。そういうものをとにかく万葉仮名で写したということだと思います。それで字に書き留めたということだと思います。
 平仮名というものは何かというと、音声とかなまりとかそういうことは全部抜きにして、言葉、言語学で言えば、言葉の音韻だけをとったと理解しますと、万葉仮名と平仮名の違いというものが一番わかりやすいのではないかと思います。
 良寛の草書には、万葉仮名あるいは漢字の草書と崩した草書と、それから平仮名で書いた草書があります。それがどういう鑑定になっているかという考え方をすると、たぶん良寛の中では、いつでも万葉仮名というものが良寛の仮名文字の表になっておりまして、万葉仮名が崩されていって平仮名になったのだという、文字に対する良寛の考え方が書の中にとてもよく表れているのではないかと僕には思われます。
 良寛が漢字の草書と平仮名の草書というものをどこで区別しているかというと、万葉仮名は日本語の音声を写したものだ。平仮名というものは音韻を写したものだ。それだけの違いがある。音声を写した万葉仮名から音韻を写した平仮名にというように考えると、それは良寛の中では、一種連続した一つのつながりがあって、万葉仮名から平仮名へという移り行きというものが、その間に音声は音韻に変わり、音声から個性が全部はぎ取られて、抽象されて、音韻だけが残ったものが平仮名だと。その万葉仮名と平仮名、あるいは漢字と平仮名というものの間の移り行きというようなものが、良寛の頭の中にたえずあって、草書を書いているのだと僕には思われます。
 それは良寛の文字に対するとても大きな考え方だと思います。良寛という人はいろいろなことをやっている人なのです。平仮名の五十音というものがありますけれども、五十音と何か文法的な変化について、良寛はいろいろ考えたりしています。それくらい平仮名の五十音というものにものすごく関心があるし、日本語というものに関心が深い人だったし、自分なりの研究を成し遂げてきた人なのです。
 ですから万葉仮名といわゆる平仮名というものとどこが違うのだということは、良寛の心の中では非常にはっきりしていて、その移り行きがずっとはっきりしていて、それは良寛の草書というものを形作っていると、根本にまで良寛の文字に対する考え方のように僕には思われます。

13 音楽性とリズムを与えているもの

 なぜ僕はそう思うかというと、例を挙げて申し上げてみます。ここに「能」という字があります。能力の能ですけれども、この能という字や万葉仮名の「能」は、万葉仮名の「の」という音声にあてた漢字の一つです。これだけではありませんけれども、これは、たまたま良寛の書にありますから持って来ましたけれども、能という字は万葉仮名では「の」という音声にあてた文字として使われています。ですから音声としての「の」というものを意味します。
 ところで、良寛の草書を見ると、この能という漢字を「の」として崩していった崩し方、ここにありますけれども、これを「の」と読ませている…?…これはよくわかると思いますけれども、この「能」という字を崩してできた「の」というのが仮名です。これは崩し方がまだ形が少し残っていますからわかると思います。いわゆる普通の、僕らが書いている「の」というものを良寛は書いているわけです。それから中間も書いています。
 この「の」というものは、いま僕らが書いている「の」というものは、どうしてできたかというと二色の考え方があります。一つは、乃木大将の「乃」です。これからこれを続けて書いているうちにこの「の」というものができたのだと。つまり速く書いているうちに「の」ができたのだという考え方もあります。もう一つはこの「能」という字です。「能」という字を崩して崩していって、ここの部分を広げて、この部分をとっていけば、右側のこの?チョイの部分をとっていけば、やはり「の」になっていきます。その二つの考え方ができます。
 良寛は、どちらとも取れる「の」の書き方をやっています。同じ書の中でもやっていますし、違う書の中でもやっています。この「乃」を書いたり、この「能」を書いたり、それは自在にはやっています。それはどういうことを意味するかというと、良寛は万葉仮名の音声として使った「能」と、平仮名の「の」というものの間にさまざまな形での、途中の過程というか、それが良寛の心の中にはいつでもあって、またそれがいつでも思い浮かべが可能だったと思われるわけです。ですからそこのところは自在に使っています。
 「あ」という字もそうです。「あ」という字が万葉仮名の一つの使い方としては、安いという字の「安」を万葉仮名では「あ」と読ませています。「安」という字でもって、音声の「あ」というものを表しているわけです。これを崩していきますと、崩していって作られていきますと、いわゆる僕らが使っている「あ」という字になります。
 良寛はこの「安」という字を、どのように崩していって、この「あ」になるかということを、全部書の中に示しています。つまりこういうことが、書の中に自在に示されているということは、この「安」という万葉仮名の「あ」から平仮名の「あ」までに至る、意識と歴史の移り行きのようなものが良寛の中にはでき上がっていて、わかっていてでき上がって、それを良寛は自在に取り出すことができたのだということを意味していると思います。これは草書というものの崩しですけれども、崩しの字を見れば、非常に大きな良寛の書の特徴だと思います。
 そういうことを良寛が自在に思い浮かべることができたということです。良寛は詩を作る場合に、お手本にないのを?見本から印刷した場合、万葉集だと言っています。万葉集だけでいいのだと。他のものは読まないほうがいいと人に教えたりしています。ですから万葉というものは、良寛にとっては非常に読みに読み込んだ書なのでしょう。もちろん万葉仮名というものをよく熟知している、よく知っているわけです。その万葉仮名をどう崩していって平仮名になるかという、その崩し方の途中の移り行きというものも、良寛のものは非常に明りょうで、また実際自在にこなすことができたということは、良寛の崩し字、草書というものが非常に大きく、特徴的と言えますし、良寛の草書に一種の音楽性、リズム性というものが与えているとすれば、そういうことがとても自在だったからということが、とても大きなことのように思われます。
 もう一つ、良寛の書で言うべきことが残っているとすれば、たった一つなのです。これは皆さんのほうで見えるかどうかわかりませんけれども、それは見える見えないにかかわらず、全体で一種の絵だと考えてくださると、絵が構図的にというか構成的に、非常に考えられた絵になっているということだと思います。
 書なのですけれども、良寛の書というのは、全体的な構図、あるいは構成というものがものすごくよく考えられていて、墨の濃淡から点の大きさ、流れとか、流すところとかそういうところを全部を含めまして、良寛という人は絵にしていると思います。全体的に一つの絵の?コクゴシショウというものを作っていることでは非常に重要だと思われます。それが良寛の書が優れていると言われている大きな理由だ、一つの理由だと思います。
 なぜかいうと、これがその例なのですけれども、これは良寛の托鉢に行ったという詩なのですけれども、「十字街頭乞食を終え」となるわけです。これは韻を踏まないところの……。
【録音終了】