(主催者)
日頃言われています、産業活性化とか、村おこし運動とか、そういった我々の努力によって、すこしでも北区がよくなり、また、他の地域の人たちが、北区に遊びに来れるような、そういう街をつくろうじゃないかというふうに、いま、運動している最中でございます。また、この北区には、名勝・旧跡、それから文化、たくさんのいいものがございます。今日も、そのひとつであります、この田端の地域というのは機工街、また、文士村というような、ほんとにいい文化の発祥の地でもありますし、ここでもってみなさんにひとつ、北区というものを、すこしでも知っていただければありがたいと思って、今日は開催させていただくことになりました。どうかひとつ短い時間ではありますけど、十分堪能していただきまして、お帰りくださいますようお願い申し上げます。どうも、今日はご参加いただきまして、ありがとうございました。
(司会)
吉本先生については、今日お集りの方々のほうがむしろ、私たちよりも、よくご存じの方が多いと思いますので、取り立ててご説明するまでもありませんけども、今日の演題の「未来の親鸞」っていうことにつきましては、『最後の親鸞』の論文が発表されはじめましたのが、1971年から76年にかけて、それとあと、増版が81年に出ているということで、今回の未来の親鸞っていうことにつきましては、それ以降の、親鸞の伺察について、まとめられるというかたちで、講演をお願いしたいと思います。今回の企画にいたっては、『最後の親鸞』を出版している春秋社様より、かなりご支援をいただきました。では、吉本先生、よろしくお願いいたします。
今日は、かっこいいと思って、「未来の親鸞」というふうに、出版社のかたに、題を申し上げたんですけど、よく考えてみると、未来の親鸞って、好きだから、前にどこかであれしたんじゃないかって気がしてしょうがなくなってきたって、で、そしたら、たまたま、パンフレット読ましてもらったら、機工街を歩くみたいな、機工街で、だけど親鸞って、かっこいいんじゃないかっていうふうに、思いますので、まあそういうことにして、話の内容は、未来の親鸞まで、もっていけたらいいなっていうふうに思っています。
すぐに、親鸞の核心に入っていきたいんですけど、親鸞をどういうふうにからめていきたいかっていうと、親鸞の理念といいましょうか、イデオロギーっていいましょうか、それは、日本が浄土教、これは、インドの仏教ですけど、浄土教の理念の中に、位置づけられるものであるわけです。ですから、理念として考えられた親鸞っていうものと、もうひとつ考えなくちゃいけないことは、思想としての親鸞ってことは、理念とは、また別であって、思想って云った場合には、親鸞の個性とか、存在感とか、時代とのかかわりとか、そういうの全部入ってきて考えた場合には、理念じゃなくて、思想として、親鸞っていうものを考えるってことになると思います。それは、またすこし、別な問題になってきます。ですから、理念としての親鸞っていうものと、思想としての親鸞っていうのは、別に考えたほうがいいところがあります。
そこで、まず、理念としての親鸞っていうところからいきたいというふうに思います。理念としての親鸞っていうのは、浄土教の教義の中に位置づけられる、歴史的に位置づけられる、最後の宗教者です。仏教はインドから中国へ、中国から日本へっていうふうに渡ってきた。その、仏教の思想、イデオロギー、あるいは、理念があるわけです。そのなかで、仏教の中で大別して、浄土門っていうような部門があるわけですけど、浄土門の仏教の思想家としては、世界で最後の思想家だったっていうことになります。
どういう理念だったかっていうと、親鸞の理念っていうのはどういうのかっていうと、簡単なことです。ようするに、阿弥陀如来、これは、あとでまた、壊していきますけど、阿弥陀如来っていうものを、心の底から信仰して、そして、阿弥陀如来の名前を称えれば、だれでも浄土へいけるんだ。ほかのことは何もいらない、浄土へいけますっていうのが、親鸞の根本的な理念だったと思います。
この理念は、浄土教の理念一般とおんなじなんですけど、じゃあ親鸞の理念としての特徴がどこにあるかっていうと、ほかのことはやっちゃいけないってことが、親鸞の特徴なんです。つまり、ほかのことはやっちゃだめだぜっていう、いい行いをしようとか、修行しようとか、そういうふうに思ったら、浄土へはいけないぜってことなんです。
そういうことはしちゃだめだぜって、はじめは、親鸞の師匠としては、法然ですけど、法然の場合には、そうじゃなくて、だいたい自分たちは、煩悩が盛んな凡夫だから、えらい坊さんみたいに修行したり、自分を鍛えたりとかってことは、到底及ばないことだから、念仏称名を称えれば、もう極楽浄土へいけるんだっていうふうに、だから、自分たちは、修行なんて及ばないから、ただ名前としては、南無阿弥陀仏ですけど、それを称えれば、浄土へもいけますっていうふうに、法然の理念はそうなわけです。
ところが、親鸞の理念はもっと徹底的なものであって、なんかいいことしようと思ったり、修行しようと思ったりしたら、浄土へはいけませんよっていうふうに、ほんとの浄土へはいけませんよっていうのが、親鸞の考え方です。だから、最後まで到達しているわけです。
ただ、ほんとに阿弥陀如来っていうのを、心の底から信じて、そして、名前を称える。それだけのことです。そしたらば、浄土へいけますっていうのが、親鸞の抱いた理念として、それ以外のことはやったらだめですよっていうのが、親鸞の理念です。それ以外のことをやったらだめですよっていうことが、たいへんむずかしいことなんです。
たいていの人はだれでもそうですけど、悪いことよりも、いいことがいいと思って、すこしいいことしたがるわけです。しかし、それはだめだよって云っているわけです。そんなことしたら、往生できませんよって、親鸞は云っているわけです。
そこは、とても重要なところなんです。重要だし、いろんな問題を生じているわけですし、また、現在でも、生じているでしょ、みなさんが体験しているでしょ、いいことするやつのほうが、悪いことする、あるいは、しないやつよりもいいと思ってる、みなさんもそう思ってるかもしれないけど、いまもそうでしょ、それから、これからあとでもそうです。つまり、いいことしたやつのほうが、いいことしないやつよりいいっていう考え方を、みなさんももっていると、しかし、親鸞はあきらかに、中世のはじめに、それはだめですよっていうふうに云っているわけです。これは、非常に大きな問題なわけです。
その大きな問題がなければ、親鸞というのは、思想家としてはべつに、どうってことないですよってことになってしまうわけです。親鸞が思想家として偉大であるのは、そういうことをピタッと言い切って、それを実践してるわけですけど、言い切っているところにあるというふうに考えた方がいいわけです。
ところで、理念はわかったと、じゃあ親鸞の思想っていうのは何かっていうことになる。思想っていうのは、いま言ったことに即して云えば、まず、阿弥陀如来っていうのを、これを砕いてしまうってことなんです。つまり、阿弥陀如来っていうと、みなさんも一般的にそう思っているかもしれないけど、仏像がそうですけど、擬人化して考えてる人が多い。つまり、人だと、人の形をしているっていうふうに、仏像から連想しちゃう。それから、呼び方からすると、阿弥陀如来なんていうと、やっぱり、人間より偉い人だろうけど、超人的な存在だろうけど、しかし、人間の形をしているって、みなさんでも漠然と思っておられるでしょう。親鸞もたしかに、そういうふうに言っているところもあるわけです。
たとえば、親鸞の書簡を見ますと、書簡集を見ますと、それは書いてありますけど、よく親鸞は、弟子たちっていいますか、関東の弟子たちに手紙を送っているわけですけど、その手紙のなかで、やっぱり、わたしは年とって、目も見えなくなったと、頭もぼんやりしてきたと、わたしのほうが、きっと先に浄土へいくでしょう、今度は浄土でお会いしましょうみたいなことを、親鸞は書簡の中やなんかで、2か所ぐらいで、そういうふうに云っています。
ですから、親鸞も、そういう意味でいえば、阿弥陀如来っていうのも人間だと思うし、浄土っていうのも、どっかそこの、死んだらあの世の世界、天国みたいなのがあってというふうに、あたかも言っているように見えるわけです。それは、親鸞も、そういうふうな云い方をしているところがあります。ですから、こういうふうに云ったときに親鸞は、例えで言っているわけで、例えで言っているときの阿弥陀如来っていうのは、人間の形をしたもの、仏像の形をしたものだっていうふうに、考えたというのと同じであるし、浄土っていうのは、天国であって、死んだ後にいけるとこだっていうふうに、清浄な世界だっていうふうに、親鸞も、いちおうは迎合してっていいますか、その当時の人たちの考え方に合せるように、そう云っています。
だけど、親鸞のほんとうの思想っていうのはそうじゃない、あるいは、仏教のほんとうの思想はそうじゃないんです。阿弥陀如来っていうのを、だんだん、砕いていかなくちゃいけないわけです。砕いていっちゃうわけ、砕いていって、無であるってことになっていかなければ、無であるとか、涅槃であるところまでもっていかなければ、ほんとうの思想ではないわけなんだ。親鸞の思想はまさに、理念を超えて、そういうところにもっていこうというふうにしています。
それから、もちろん、至心に阿弥陀如来を信用すれば、信じて名前を称えるっていうか、信ずるっていう、至心にそれを信仰するっていうけど、信ずるってこともまた、ぶち壊してしまわなければいけない。壊してしまわなければいけない。つまり、これは、いまの流行りの言葉でいえば、解体していくところまでもっていかなければ、ほんとうの思想にはならないわけです。ほんとうの思想にならないってことは、究極的にいえば、仏教のほんとうの核心にあるところまで、到達できないわけです。だから、それを砕いてしまわなければならない。
それから、善悪っていうことも、いま申しましたように、すこしでも人間は、何もしないよりもいいことをしたほうがいいんだっていう、そういう観念を砕いてしまう、善よりも、悪よりも善のほうがいいんだっていう考え方を壊してしまわなければいけない。つまり、砕いてしまわなければいけない。それが、親鸞がやっていることなんです。このことも、善悪の問題も、解体してしまわなければいけない。
それから、もちろん、浄土っていうこと、いちおうは、なんかこの世でもって生きてて、病気になって死んだりして、そのあと天国いったら、いくところが天国、魂がいくところが天国だみたいなふうに考えられている浄土っていうのを、これも砕いてしまわなければいけない。これも解体してしまわなければ、ほんとうの仏教の思想にならないってことだから、だから、親鸞はそこまでやっています。だから、これもまた、親鸞の思想的な課題になるわけです。
そうすると、ひとまず、浄土宗、あるいは、浄土教の理念として、阿弥陀如来を至心に信仰して、つまり、心の底から信仰して、名前を称えれば、浄土へいけますよっていう、そういう理念を、ひとまず、自分がつくりあげて、それで、その理念に条件をつけるならば、しかし、名前を称えること以外のことをやったらば、浄土へはいけませんよっていう保留をつけて、徹底的にそういう考え方を打ち出して、しかも、思想としては、阿弥陀如来ってこともそうだし、浄土ってことも、それから、浄土へいくために死っていうことがありますけど、死っていうのも、従来考えられているそういうものを砕いてしまわなければいけないっていうことがあるわけです。それをまた、親鸞は徹底的にやっているわけです。
ところで、なぜそんなことをしなければ、ほんとうの思想にならないのか、あるいは、ほんとうの仏教の、浄土部門の完成っていいますか、集大成っていいますか、そういうふうにならないのかっていうことがあるわけですけど、それは、ひとつは、理念を理念として信じて、頭の中に固定してっていうんじゃなくて、ようするに、親鸞の理念っていうのは、浄土理念っていうのは、やっぱり、外に向かって開いているってことなんです。
つまり、状況っていいますか、親鸞の生きていた時代の状況のなかで、それじゃあ浄土っていうのは何なのか、死っていうのは何なのかっていうことを、問い合わせなきゃ、ただ浄土っていえば天国だ、それから、天国だってちゃんと云ってあるとか、経文にそう云ってあるとか、そういうふうに浄土っていうのを信じ切ったらそれで済むかっていうと、そうじゃないのであって、それから、末法の世っていうことになりますけど、末法の世の状況においては、浄土っていうのは、どういうふうになってるんだ。浄土っていうのは、だいたい、人は信じてるのか、死後の世界なんて信じてるのかって問題が、ちゃんと出てきてるわけです。
つまり、それに対応できなかったら、それは仏教の思想にはならないわけですし、いくら理念を云ったって、いまでもおんなじことです。つまり、善はいいことだ、悪はわるいことだって言ってるだけだったら、それは、善悪の問題にならないのです。それは、学校で教える修身とか、道徳の問題にしかならないのです。全部それは嘘だってことになってしまう。
だから、おんなじであって、死んだら浄土へいけるみたいなことを言って、浄土っていうのは、あの世、天国だみたいなことを言っていたら、そんなのは思想にはならない、そんなのほんとうには、嘘だってことになっちゃうわけです。それで、末法の世ってことですけど、中世のはじめですけど、親鸞の生きていた時代では、すでにそれがはじまっているわけです。つまり、民衆はだれも、人々はだれも、ほんとうの意味では、死んだ後、浄土にいけるとは、天国いけるなんて、誰も思っていないわけです。
それから、誰も思っていないだけじゃなくて、思いもしないし、思わぬでもない、つまり、そんなことは無関心だと、みなさんとおんなじことです。つまり、死んだ後、おれどうなるかっていう、浄土へいくなんて思っている人も、すこしはいるんでしょうけど、信仰の人はそうでしょうけど、当時から、つまり、中世のはじめから、もうそういうことは始まっちゃったっていう、民衆のほうは、あんまり、そんなことは信じてもいないし、信じていなくもない、つまり、無関心なわけです。
それから、死っていうのは何なんだっていう、それは、一般的にみなさんだっておんなじだと思いますけど、一般的に思い浮かべると、こわいこわいっていう、死んだ後どうなるだろうかとか、死ぬときは苦しいだろうなとか、闇になっちゃうとかなんとか、いろいろ考えるでしょうけど、ほんとうに死っていうものを突き詰めていくってことはないわけです。つまり、そんなことは無関心な、それで、その無関心のはじまりっていうのは、やっぱり、中世のはじめから、始まっているわけです。
まさに、親鸞っていう宗教者は、それに対応しようとしたんです。つまり、浄土教の理念をもちながら、その状況に対応しようとしたわけです。そして、自分の思想っていうのをつくりあげていって、浄土宗はどうしたらいいのかっていうこともつくりあげていったわけなんです。
だから、まず、死に対しての無関心とか、浄土に対しての無関心っていうのは、もうそのときから、本音をいえば無関心なんだっていうところ、それから、誰もそんなことは信じてないんだっていうことは、そのときからもう始まっているわけです。それにもかかわらず、坊さんたちは、そういうことを口だけで、あるいは、理念だけで言っているわけです。しかし、そんなことは、心の底から、自分だって信じていないわけです。坊さん自体だって信じていないわけです。そんなふうになっているわけです。そんなことにどうやって対応できたかってことが、ほんとうの問題になっていくわけですけど、そういう状況のなかで、死っていうもの、それから、死んだ後にいけるだろうって云われている浄土っていうものを、どういうふうに考えたらいいかっていうことを、まず、親鸞は、はじめたわけです。
ところで、どういうふうに浄土っていうのを設定していったら、考えていったらいいのか、それから、死っていうのをどういうふうに考えていったらいいのか、浄土っていうのはなにかっていったら、死んだらすぐ後にいける世界だってふうに、仏教はそういっているわけですけど、しかし、浄土っていうのと、それから、死っていうのと、死後の浄土っていうのはどういうふうに考えたらいいのかっていうのが大問題であるわけです。それで、たぶん、いまでもそれは、あんまり解決していないわけです。みなさんだって解決しないわけです。死っていうのは何なんだってことは、解決していないわけです。
一般論として、この時代よりも、みなさんのほうが、死についてよりよく知っていると、一般論としてです、よりよく知っている人もいるでしょうけど、そうじゃなくて、一般論としてよりよく知っている人は、どこまで、この時代の人より、みなさんのほうがよく知っているかっていうと、ようするに、死っていうのは、自分は体験できないっていうこと、それから、人の死は体験できる、人の死は見ることもできるし、そばにくっついてることも、世話することもできる、悲しむこともできる。しかし、自分の死は、自分では体験できないんだよっていうような、死の基本的な構造ですけど、成り立ちなんですけど、それは、たぶん、みなさんは一般的に、この時代の人よりは、よく知っていると思います。つまり、だれでも知ってると思います。
この時代の人は、まだそこまでもわからなかったんです。ただ、すこし遠巻きに死っていうのを考えて、こわいなぁとか、真っ暗になっちゃうんだろうなぁとか、息が苦しいんだろうなぁとかっていうことは知っているわけで、そこまでは考えるんだけど、もうすこし、こういうことは自分では体験できないものだと、しかし、人の死は体験できるっていう、この基本的構造は、その時代の人は、まだわからない、一般的にいえばわからなかったわけです。
だから、みなさんは、そこいらへんだけは、中世の民衆より、みなさんのほうがよく知っていると思います。そのくらいだと思います。あとは、みなさんだって、たいして変わり映えしないと思います。たぶん、もうすこしだけ、死っていうのは何なのかっていうのは、この時代でも、もうすこしだけ、先にいくことができます。時間があったらそれは、あれしたいと思いますけど、しかし、一般としては、そこらへんまでは、いまの人はわかってると、しかし、この時代の人はわかってなかった、ただ、こわいこわいとか、死んだらどうするんだろうなとか、地獄いくんだろうなとか。極楽いくんだろうなっていうことぐらいしか、漠然と考えてなかったっていう、そういう時代です。
しかし、死んだら天国みたいなところがあるなんてこと、あるいは、いけるんだみたいなことは、口では坊さんが盛んに言うものですから、そんなものかねって思ってて、心の底では、そんなの思ってや、信じてもいないっていうのが、実情だったっていうふうに思います。そういうときに、親鸞っていうのは、死っていうのと、浄土っていうのは、どういうふうに設定したかってことが、あるいは、どういうふうに答えてしまったかってことが問題になるわけです。
第一に、砕いたことはどういうことかっていいますと、すくなくとも、死っていうのも、それから、あの世っていうのも、あの世っていいますか、浄土っていいますか、死後にいくべき、天国みたいなところですけど、そういうものは、どっかに死っていうものも、どっかにあって、それで、そのあとに魂だけがいく世界があってっていう考え方を、親鸞はやめたって、つまり、それは、成り立たないっていうふうに思ったわけです。
どこに成り立たせようとしたかっていうと、それよりも手前に、成り立たせようとしたっていうふうに思います。つまり、手前っていうのは何なのか、それは、そういう云い方をしますと、ひとつの比喩の云い方ですけど、一般的にそういうふうに、死んだっていうことがあって、その次には、死んだ後に天国にいくんだ、こういうふうにあった、そういう漠然と頭の中であった考え方をやめにしまして、死後、それから、死んだ後にいける浄土っていうもの、もうすこし手前にあるんだ、手前っていうのは何かっていったら、口で云うのはむつかしいんですけど、しかし、あえて比喩でいいますと、一般的に、その時代の仏教の坊さんたちが云っていたような、ようするに、生きているこの世とあの世の中間といいましょうか、あるいは、生きていることと、死ぬこととの、中間のところ、中間っていう言葉には、いろいろな意味を含めて言うわけですけど、この中間のところまで、浄土っていう考え方と、死っていう考え方を、移したっていうふうに考えます。つまり、そういうふうに考えるべきだって、死っていうのは、肉体がくたばった後で、魂がいく清浄な世界だって考え方は、もうだれも信じていない、そんなのやめにしようってことです。そんなことは成り立たんのだよ、だから浄土っていうのは何なのかっていったらば、いってみれば、そういう云い方ですれば、生と死のちょうど中間のところにある、ひとつの場所っていいましょうか、場所ってものを設定しますと、その場所っていうものが、いわば浄土であり、それから、その場所っていうものが死だってこと、つまり、死と浄土っていうのは、そういうくっつきかたをしている。
そうすると、それは何なのかってことになりますけど、それはたぶん、ぼくがそういう云い方をしてしまいますけど、たぶん、死、あるいは、浄土っていうところの場所へ行けると、場所に行くと、そうすると、ほんとうの死っていいますか、肉体の死とか、死後の清浄な世界、つまり、天国なんて思ってたもんじゃないものが、非常にはっきり見えちゃう場所だ。つまり、そこへ行っても行かなくても、それは、おんなじことなんだっていうものが、見えてしまう場所だっていう、そこが死であり、浄土だっていうふうに、親鸞は考えたと思います。
そこから照らし出すと、われわれの生っていうもの、生きているこの世の生っていうものを、よく見渡せるし、それから、逆にあの世っていうふうに、仏教者が考えていた、あるいは、宗教者が、それまで考えてきたあの世っていうもの、あるいは、浄土っていうふうに考えてきたものも、非常によく見えるっていう、そういう場所っていうところに、浄土っていうもの、それから、死っていうものを、移したと思います。
それは、そういうふうに移したときに、はじめて、浄土宗が、浄土教が云う、至心に阿弥陀仏を信仰して、信じて名前を称えれば、それは浄土へいけるんだっていう、その云い方が、はじめて、実感として成り立つだろうっていうふうに親鸞は考えて、実感として成り立たないような嘘を言ったってしょうがないわけですから、だから、実感として成り立つ、そういうところまで、死っていうものと、浄土っていうものを移し変えたと思います。
その移し変えたところから、照らし出した場合に、この世も見えるし、あの世も見えるっていう、あるいは、人間の死っていうのも見えるし、生っていうのもよく見えるっていう、その場所が、かならずあるんだっていう、そういうところに、死の問題、それから、浄土の問題を移し変えたっていうふうに思います。
そうすることによって、浄土教の理念ですね、つまり、阿弥陀仏を至心に、心の底から信仰して、名前を称えれば、ちゃんと浄土へいけますよっていう、そういう云い方が、はじめて、実感として完全に成り立つっていうふうに、親鸞は考えたと思います。つまり、そこが親鸞の思想の核心であり、それから、仏教の浄土教部門の、仏教の考え方の最終点です。そういう意味では、親鸞は当時でいう世界的な最後の思想家です。浄土部門の最後の思想家です。最後の集大成をした人だって思います。そのころは、ヨーロッパっていうのは、視野の中にありませんから、東洋しかありませんから、東洋が世界ですから、だから、そのときの世界的な思想家だっていうふうに思います。それで、そこまで、浄土の問題、死の問題をもってきたときに、親鸞ははじめて、現在でも生きる場所っていう、現在も生きてるよっていう場所が得られたっていうふうに思います。
それじゃあ、そんなことを言うなら、あの世っていうのがあるっていうふうに云うから、阿弥陀如来っていうのを、あの世の主としてありうる、浄土の主として、人間のかたちをした超人的なものですけど、人間のかたちをしてあるみたいに云ってるけども、それじゃあ、あの世っていうものを、そういうふうに設定しないで、生と死の中間みたいなところに、設定したとすれば、阿弥陀如来っていうのも、また、そういうふうに砕いてしまって、移し変えなければいけないわけです。
その場合に、どういうふうに移し変えたかっていうふうになります。これは、親鸞の最後の思想なわけです。この親鸞最後の思想は、〈自然法爾〉というふうに呼ばれています。つまり、おのずからっていうことなんですけど、心の底から、阿弥陀仏を信仰して、名前を称えれば浄土へいけますっていう、その浄土教の理念ですけど、そういう云い方の場合に、至心に、つまり、心の底から信仰するってことは、どういうことかっていうことなんです。
それは、どういうことかっていうと、自分のほうからは、あんまり計らいっていいますか、意図をもたないことだっていうふうに、親鸞は云ったわけです。自分が、たとえば、それまでの坊さんがそうだし、いまの坊さんもそういうのが多いですけど、なんか、僧院の中で、座禅を組んだり、修行したりして、めちゃくちゃに修行して、からだを痛めつけて、幻覚みたいなものをつくって、それが仏教の修行であって、それが浄土へいく道だみたいに考えられていたわけですけど、いまでも考えられている部門が多いですけど、そんなことは嘘だっていう、親鸞は嘘だと考えた。そんなふうにして、善行を積んだり、修行をしたり、そんなことしたらだめなんだよ、そういうのは嘘っぱちだよっていうふうに、親鸞は考えたわけです。
そうじゃないんだ、おのずから、自分のほうで、善行をしようとか、あの世にいきたいなぁとか、浄土へいきたいなぁとか、そんなふうに、自分のほうで思ったりしたらいけないのであって、そうじゃなくて、無心っていうんでしょうか、無心よりももっと茫漠とした、なんか光に包まれたみたいな状態になって、ただ、そういうふうになった状態、おのずからそうなった状態みたいなもので、名前を称えればってことなんです。
おのずからそうなった状態みたいになったときに、光みたいなものに茫漠と包まれているみたいな感じになると、そのことが〈自然〉ということであり、その光と、そのときの名前っていいますか、南無阿弥陀仏とかいう、名前ですけど、そのときの名前っていうものが、それは、〈自然〉なんだっていう、おのずからっていうことだ、自然っていうことは、そういうことなんだ。つまり、善行しようとか、修行して、境地を獲得して、それで、清浄の世界にいこうなんていうのは、絶対考えたらだめなんであって、そんなことは考えたらいけないので、なにも計らわないで、自然にして、光がバァーって包んだみたいな状態になって、その名前を称えるっていうこと、それが、浄土へいくことであるし、そのときの浄土っていうのは、ちょうど生と死の中間でもって、生のほうも照らし出せるし、死のほうも照らし出せるっていう、そういう場所なんだっていうふうに、親鸞は考えたわけです。
そうしたら、阿弥陀如来っていうものも、人の形をして、イメージとして人の形をしてるとか、仏像の形をしてるみたいなのは、嘘だっていうことになるわけです。そうすると、阿弥陀如来っていうのは何かっていいますと、〈自然〉っていうふうな状態に、人間を、その人をもっていけるための手段っていうのが、阿弥陀如来なんだっていうふうに、云い方をしています。
手段っていうのが、阿弥陀如来なんだ。だから、阿弥陀如来っていうのは、色もなければ、形もないものですよっていうふうに云っています。つまり、無であります。無常の仏っていうことは、なにかって云ったら、無っていうことです。色も形もないものです。それは、人間をそういう光に包まれたみたいな状態にして、名前だけを称えるっていう、そういう状態にもっていけるっていう、そうしたらば、浄土とか、死っていうのは、生と死の中間に置かれると、そういう状態にもっていくための手段が、それは、親鸞の言葉でいえば、「料」っていう言葉、つまり、料理の料ですけど、つまり、手段です。あるいは、素材です。素材が阿弥陀如来なんだよって云っています。
だから、色も形もないんだ、まして、人の形なんかしていないんだってこと、つまり、ひとまず、人の形をしているみたいな理念も、浄土教の理念ですけど、思想として、それを砕いていけば、次にそれは、無ですよっていう、つまり、浄土っていうのは無ですよっていう、色も形もないんですよっていう、そういう世界に、涅槃の世界にいけるための手段が、ようするに、阿弥陀如来であるっていうふうに、自分がそういうふうにいかしてる。
親鸞は八十何歳か、九十歳近くになったとき、そういうふうに云っています。それが、親鸞が最後に云っている思想です。それから、それは仏教の浄土部門が、浄土部門の仏教の経典が云っている最後の場所です。親鸞は、それを、そういう云い方で云っています。
怖いでしょう、つまり、親鸞の思想、仏教の思想っていうのは、怖いでしょう。ぼくは、怖いです。そこまでいわれると、ちょっと怖いですね。もうすこし、人の形をして、仏像の形をしてて、それを拝んでたらあっちのほうへいけるっていう、浄土いけるって思ってたほうが、気が楽っていうことになります。
しかし、それはだめなんだよっていうことなんです。それは、ただこうすれば天国にいけるっていう、そういうふうに言っているだけで、実感がちっとも伴わないのであって、ほんとに実感の伴うところまでもっていけば、結局はそういうものなんだよって、阿弥陀如来っていうのは、人間の形なんか全然していない、それは、ようするに、無だよって、色も形もないものだよ、そして、人間の、自然の、ほんとにおのずから自然の状態にもっていける、そういう手段、あるいは、質料っていいましょうか、素材っていうのが、それが阿弥陀如来であるっていうふうに、はっきり、そういうふうに言いきっています。
それは、親鸞のようなやさしい言葉で、みごとな思想の言葉で、そういうふうに言ってる人はいないですけど、それは、仏教の大乗思想が、はるかに昔に、たとえば、涅槃経なら涅槃経の中で、それは云っていることなんです。だけど、そういうふうに、人々の前で、つまり、死はおっかないっていう、漠然とおっかないわけです。おっかないと思って、それ以上、死っていうのを突き詰めるなんてことは、そういうことはしない、そういう人たちの前で、そんなこと言ったって、ただおっかないのに輪をかけるだけなわけです。
だから、いわば比喩的に、阿弥陀如来っていうと、仏像みたいなこういう形をしていて、人間の煩悩の凡夫でもつかみとって、清浄なあの世にもっていってくれるものなんだ、あるいは、人なんだっていうふうに、そういうふうに言っていたほうが、そういう比喩で言っていたほうが、ようするに、比喩を信じていたほうが、そういうほうが気が楽なわけです。楽なわけでしょ、それは、みなさんだってそうなんです。そういうふうに言ってもらったほうが、気が楽なんだと思います。
しかし、ほんとうはそうじゃないです。相当怖いんです。怖いっていうか、ぼくはそう思います。つまり、ほんとのことを言ったら怖いんですっていう、怖いんだぜっていう、仏教は馬鹿にしちゃいけないです。つまり、怖いことなんです。そこまでいかないため、ほんとの思想家になる気はないんです。つまり、こうすれば天国にいけるとか、こういうふうにやれば、この世は天国と同じになるみたいなことを、誰かが云ったのを口真似してたら、そしたらそうなるなんて思っているやつはしょうがないでしょう。そうじゃなくて、実感が伴わないでしょう。ますます、こういう世界になってきたら、末法の世界になったら、ますます伴わないです。そんなんじゃだめなんです。
そこのところで、いわば、構築っていうことと、解体ってことが、はじまるわけです。自ら構築したものを、あるいは、自ら構築の中でつかみとった理念っていうものを、壊さなければ、それは、思想にはならんのです。また、だれも実感として、それを信ずることはできないし、実感としてそれを、行うこともできない。つまり、そこのところに問題が、親鸞の問題であり、親鸞が浄土教の、世界的な最後の思想家である所以は、そこにあるわけです。そういうことを、たいへんやさしい言葉で、親鸞は云い切っているわけなんです。
実際問題として、実際、民衆の間において、その問題は、どういうふうに転化されて、問題になったかっていうと、さきほどから言っています、善と悪の問題なんです。善と悪の問題としてだったら、ふつうの一般的に、われわれにはわかりやすいわけです。だから、親鸞のそういう、最後の理念っていうものを、最後の考え方、思想っていうものを、一般の生き方の問題、生活の生き方の問題に転化していけば、どういうことになるかっていいますと、それじゃあ人間っていうのは、善を行わなくていいのか、つまり、何にもしなくていいのかっていう問題、この問題は、いまでもそうでしょう、いまでも何にもしないでいいのかっていう、いい行いなんかしなくていいのかっていうことがあるでしょ。それから、困っている人がそこにいたらば、それを助けなくていいのか、目の前に困っている人がいたら、それを助けなくていいのかってふうな問題になってくるでしょ。
それから、もっと徹底していけば、いいことしたら、浄土へいけませんよって、親鸞は云っているわけですから、それならば、悪いことしようじゃないかっていうやつも出てきちゃうわけです。つまり、弟子のなかに出てきたわけです。そういうことを言うやつが、言いふらすっていいますか、そういうことを民衆に言うやつも出てきたわけです。親鸞の弟子っていいますか、系統の人たちで、関東ですけど、造悪論っていうわけですけど、それじゃあ、そんなこというんだったら、悪をしたほうが、善をしたよりも、浄土へいきやすい、天国へいきやすいっていうならば、そういうんだったら、悪いことしようじゃないかっていう人も出てきたわけです。
そうまで云わなくても、悪いことしたっていいんだ、ちっともかまわないんだっていうふうな人たちも出てきたんです、
それから、もちろん、それじゃあもっと、それほどじゃないけど、いいことは人間はしなくていいのかっていう人も出てきたわけです。
それから、もうひとつは、それじゃあ目の前に、困っている人がいたときに、それを助けなくてもいいのかっていう問題も出てきたわけです。
それで、それに対して、そういう問題が、弟子たちのなかから一般的に出てきた。それで、大混乱を呈するわけです。それに、もうひとつからんでくるのは、親鸞の子どもがいるわけで、善鸞というんですけど、子どもは、また、それでいい気になっちゃって、とてつもないことを、それに輪をかけて言い出すんですけど、どういうふうに言うかっていうと、おれは親父から、深夜ひそかに、おれだけがこういうふうに教えられたことがあると、おまえたちが信用している阿弥陀仏の第十八願、つまり、心の底から阿弥陀仏を信じて、それで、称名念仏を称えれば、浄土へいけますっていう、そういう理念ですけど、こんなものは嘘っぱちだっていう、嘘っぱちだぞっていうふうなことを、善鸞は関東へ行って、またそれを言いふらすわけです。そうすると、めちゃくちゃに、教団がめちゃくちゃになっていくわけです。親鸞は、ついに、わが子ですけど、善鸞を義絶するわけです。おれは親とも子とも思わねえ、おまえ、とてつもないことを言いふらしているそうだけど、それは、ほかの弟子からちゃんと聞いて、これはとんでもないことだ、それは悪逆無道で、外道であるということと、おれは思うから、おまえを義絶するっていう、書簡が残っていますけど、そういうふうに、子どもを義絶しちゃうわけで、善鸞は義絶しちゃうわけです。
それから、弟子たちに対しては、書簡をもって、お年寄りになってから、80歳を過ぎてからですけど、書簡をもって、手紙でもって、盛んに、それは違うんだ、こうなんだっていうふうに言っているわけ、いちいちそれに答えているわけです。
それについて、申し上げますと、どっから申し上げたら、みなさんがわかりやすいかっていいますと、それはもう、徹底しているわけです。たとえば、ここの目の前に困っている人がいるとか、そういうのを助けるってことはいらないのか、その当時でいえば、飢えたり、戦乱があったり、疫病が流行ったりして、町でごろごろ死んだりしている人が目の前にいる。そういうのを助けたりするってことはいらないのかどうか、そういうことしたら、それは、いい行いにならないのか、そういう行い、いい行いをしたら、浄土へいけないのかっていう、そういう問題を生じた、そういう疑問が当然生ずるわけです。
どうして、そう云うかっていいますと、親鸞の思想の徹底度っていうのは、結局は最後まで云い切るよりしょうがないわけですけど、云い切っているわけです。だから、どうしても、そういう日常生活っていいますか、日常生活の次元の、どうしてもそういう疑問が起こるわけです。だから、当然それは起こるわけです。それでまた、親鸞は、当然それに答えなければならないわけで、疑問が起こるのも当然だし、起こすのも当然なんです。しかし、それに対して、ちゃんと答えなければ、ぎりぎりのところで答えなければいけないんです。
親鸞は、たとえば、その問題に対して、どう答えているかっていいますと、そうだっていうふうに答えています。目の前に困っている人がいると、なんでもいいですよ、アフリカ行くと、たいへん困っているやつが、民衆が飢えたりしている、それで困っている人がいると。それを助ける、毛布一枚やるってことはいい行いだとか、そういうことはどうなんだ、そういういい行いをしたら、浄土へいけないのかっていう、たとえば、いまの比喩でいいますと、そういうことなんです。そういう問題が当然出てくるわけです。親鸞はそれに答えていますけど、そうだって云っています。そんなことは、だめだって云っています。
どうしてかって理由を聞きますと、それは、そんなことをしても、ようするに、人間の限りある労力とあれでは、どうしたってそれは、限界があって、助けおおせるってことはできないっていうふうに云っています。だから、できないから、そうじゃないと、いちばん大切なのは、そういうことじゃないと、大切なのは、徹底して、浄土教の理念ですけど、理念に従って、徹底して念仏を、称名念仏を称えることによって、あの世に、つまり浄土へいって、ひとたび浄土へいって、そして還ってこなきゃいけないんです。還ってきて助けなきゃ、徹底的に助けなきゃだめですよと、助けおうせなければだめですよ、また、そういうふうに還ってくれば、徹底的に助けおうせるんですよっていうことですけども。それが、大慈悲っていうのは、そうなんだっていう、そういう目の前に、飢えてる人、毛布1枚あげようとか、毛布1枚出そうとかいう、そういう助けかたっていうのは、ようするに、それはだめですよって、そういう助けかたはいいっていうふうに言って、それが第一義だっていうふうに考えている慈悲に対する考え方、あるいは、救済に対する考え方はだめだっていうふうに云い切っています。
だからといって、またこれは、造悪論っていうのと関連するわけです。だからといって、目の前にいる人、飢えそうに、目の前の人でいいですけど、つまり、お金を恵んでくださいって言ってる人でいいんだけど、そういう人を、それじゃあ造悪論のほうがいいんだってことで、その前を通ったら、蹴っ飛ばして、なおさらケガさせたり、するほうがいいのかっていうふうに、当然おかしいでしょうけど、そういう論理になります。徹底して論理すれば、そうなります。
それに対して親鸞は、造悪論ってことに対する答えですけど、そんなことはちっとも言ってないっていうふうに、そんなことは、言ってないんだ。そんなことは、自然の自分のはからいですればいい、はからいでやりなさいって言ってるわけ、おのずからのはからいで、そうしたいと思ったら助けなさいというふうに云ってるわけです。それが〈自然〉ということだと、だけど、そんなことを第一義だって思ってもらったら困りますって言っているわけです。
そんなものはだめなんだ、そんなことは、相対的なっていいますか、善悪にしかすぎないので、そんなものは、徹底的でないくせにやってるっていう善悪にしかすぎない。ほんとうに徹底している善悪っていうのは、ようするに、ひとたび浄土へいって、この場合の浄土っていうのは、つまり、本質的な浄土ですから、死んじまったあの世ってことじゃないですから、ぼくがいう中間ってことは、たいへんまずい言葉なんですけど、つまり、比喩として聞いてください。つまり、中間っていう浄土です。生っていうものを見通せる、死っていうものを見通せる、こういう場所から、自分が還ってくるってこと、それで、死っていうもの、そこで出てくる慈悲っていうものを、自分の第一義の慈悲というふうに考えなさいというふうに、親鸞はそう答えています。
それから、いま言いました造悪ってこと、言ったとおんなじなんですけど、つまり、それなら、進んで悪いことすればいいのかっていったら、そんなことはないと、悪いことをしたって、ちゃんと救済されるっていうふうに、これが浄土教の思想であると、理念だっていうふうに、親鸞は云っています。
だから、悪いことをしたからといって、それはだめだって、いいことしたから、それはいいなんて、ちっとも言ってないと、おれは云ってないと、おんなじだ、そんなことは、悪いことしたって、いいことしたって、それは、人間のやる善悪なんか、大したものじゃねえんだって、どうせ大したものじゃない。だから、かならず浄土へいけると、悪いことしたって浄土へいけると、もちろん、いいことしたって浄土へいけると、しかし、悪いことを進んでやるってことを、ちっとも意味していない。それから、いいことを進んでやることはいいってことも、ちっとも意味していないっていう、そんなことは、どうでもいいことだっていうふうに、そんなことは、いずれにせよ、大したことじゃないんだって、救済っていうものの、あるいは、利他っていうもの、他者っていうものに対する救済っていうものの本旨っていうのは、もっと広漠とした、もっと規模の大きいものなんだっていう、つまり、善悪っていうふうに、そういうふうに言ってもいいけど、その善悪っていうのは、もっと規模の大きいものなんだと、だから、人間のやる善悪でもって、いいことしたら浄土へいけるとか、悪いことをしたら浄土へいけないとか、そんなのは嘘だっていうふうに云ってるわけです。さらばといって、進んで悪いことしたらいいのかっていうと、そんなことは、なおさら嘘っぱちだっていうふうに云っているわけです。
そんなことは、自分がおのずからであればいいけど、おのずからで、つい、悪をしちゃったっていうんだったら、それは、悪だから断罪されるかっていうと、そうじゃないと、浄土門は絶対断罪しない、そういうやつを断罪したりしないっていうのが、浄土門の立場なんです。そういうふうに親鸞は云っています。しかし、進んで悪をしろなんて、ちっとも云ってないです。おのずから悪をしちゃったんだっていうんだったら、それは致し方ないんだ。それはいいんだっていうことなんです。それは、誰にでも、そういうことは、ありうることなんだっていうふうに云っているわけです。
それで、その問題は、もっとさらにもう一歩だけ突っ込んで申し上げますと、今度は、いい、悪いってことの問題を、教義っていいますか、浄土教の理念の上で、もっと突き詰めていきますと、ここも見解が分かれてしまうところなんです。その分かれ方のところからいいますと、2系統の親鸞の思想の、受け取り方の分かれ方があります。それは、大別するとそうなるんです。
ひとつの系統は、ただひとり、唯円っていう、著書でいいますと、『歎異抄』っていう、親鸞の言葉を集めた『歎異抄』っていう著書が唯円にありますけど、『歎異抄』の著者である唯円の考え方と、それから、親鸞の子ども、それから孫とか、そういう系統の、いわゆる、いまある本願寺の系統なんですけど、オーソドクシーなんで、オーソドックスな系統だって、今はなっている系統ですけど、つまり、本願寺系統の、親鸞の血族の、子どもとか孫とかの系統を盛り立ててつくられた系列っていうのが、善悪、なぜそうなのかってことに対する理解の仕方が違います。
そのうち、理解の仕方っていうのは、いくつも例を挙げてもいいわけですけど、たとえば、ひとつの例でいいますと、親鸞の血族系統の人の著書のなかにも、それから、唯円っていう、親鸞の直弟子なんですけど、終わりが、どこでまっとうしたのか、どうしたのか、わからない人なんです、唯円っていう人は。いまのところわからない人なんですけど、つまり、オーソドックス異端とされて、オーソドックスな系統にはならなかった人なんですけど、しかし、『歎異抄』っていうのは、なかなか優れた著書ですけど、その著者ですけど。それが、なぜそうなのか、善悪についての受け取り方、親鸞の思想の受け取り方っていうものでは、違うわけです。
『歎異抄』の、唯円の系統の受け取り方、例を申し上げますと、たとえば、『歎異抄』の中にも、覚如とか、如信とかっていう、つまり、親鸞の血族系統の人たちの著書の中にも、両方の中に入ってる例えがあるんですけど、その例えのひとつに、親鸞があるときに、唯円が『歎異抄』にそう書いてるわけですけど、あるとき自分に対して、唯円坊は、わたしの言うことを信ずるかっていうふうに、親鸞が言ってくれたと、そこで自分は、あなたの仰せのことは、なんでも自分は信じますっていうふうに、そういうふうに答えると、親鸞が、じゃあ、ひとを千人殺してみろっていうふうに、親鸞が言ったっていうわけです。それに対して、唯円はすぐに、私には、そんな器量がないっていう云い方をしています。自分は、ひと一人さえも、どうしても殺すだけの器量がない、だから、自分には、それはできませんっていうふうに、唯円は答えるわけです。
それに対して親鸞は、そうだろうっていう、それみたことかとはいいませんけど、それはそうだろうと、おまえはいま、ちょっと先に、わたしの言うことはなんでも信じますって言ったじゃないか、だけれども、すぐにそれをひるがえしただろう、わたしが千人殺してみろって言ったら、それは私にはできませんって、すぐに言ったじゃないかと、つまり、わたしに従いますと言いながら、すぐに、それを違う言い方をしているじゃないかって、つまり、人間っていうのは、そこの理解の仕方が問題なのですけど、ようするに、一人の人間でも、契機っていう、つまり、モメントなんですけど、契機っていうもの、あるチャンスってしときましょうか、あるチャンスっていいましょうか、心の底からのチャンス、必然っていいましょうか、必然のチャンスっていうものがなければ、ひとは人間なんか、一人の人間だって殺せやしないんだよ。だけれども、ようするに、チャンスっていいましょうか、契機っていうのがあると、自分は殺そうと思わなくても、千人のひとを殺しちゃうことだって、人間にはありうるんですよっていうふうに、親鸞が云うわけです。
人間っていうものは、おれは人殺しなんかしねえよとか、できねえよとか、おれは仲間を殺したりとか、うちきを殺ったりとか、おれはそんな悪辣なことなんかできやしねえよって、いまでも言う人はたくさんいるでしょう、おれだけは別物だと思って、しかし、親鸞はそれに対して、そうじゃない、それができるか、するか、しないかっていうのは、契機の問題が第一義だ、つまり、必然的に、そういうふうにならされたとか、なった場面にいったら、どんな人間だって、人殺しもするんです。つまり、千人も殺すってことは、ありうるんですよっていう、そういう必然っていうのは、人間は負っているんです。自分だけは別物だって考えるのは、大間違いですよと言っているわけです。
さればといって、契機がないところにいれば、そういうチャンスっていいますか、そういう必然のチャンスっていいましょうか、外からくるチャンスって意味じゃないですよ、心の底からそうなるっていう、そうさせられる、するっていう、それがなければ人間なんか、一人の人間だって殺せやしません。その人間は、別な人間じゃありませんよ、おんなじですよっていうふうに云ってるわけです。
だから、そこの問題が解けなければ、それは、善と悪の問題っていうのを、第一義の問題としては、解けませんよってことを、親鸞は徹底して云っているわけです。つまり、そういう理解の仕方を、親鸞がとるわけです。ところが、その理解の仕方をとっているのは、唯円っていう人、つまり、『歎異抄』の著者である唯円っていう人の理解の仕方が、そういう理解の仕方をしています。
ところで、親鸞の子どもとか、孫とかっていう、そういう系統の、血族の系統の、あるいは、本願寺をつくっていった、つまり、浄土真宗の最大の教派にもっていった、そういう人たちの考え方は、いささか違います。契機の問題じゃないと、それは、大乗仏教の理念の問題だと、つまり、人間の善悪っていうのは、人間がこの世である善悪っていうのは、全部、前世の因縁であるっていうふうに理解したわけです。それは、同時に、一般的な理解です。一般的な仏教の理解はそうです。
つまり、前世と後世があるわけです。それで、前世に悪いことをしたとか、どれだけ悪いことをしたか、どんな種類の悪いことをしたか、あるいは、どんな種類のいいことをしたかってことによって、現世のその人っていうのは決まる。だから、その人が、千人殺すっていうのも、もちろん、その人の罪じゃないと、しかしながら、その人の罪だとしても、浄土真宗、浄土教を信仰すれば救われると、こう言っているわけですけど、しかし、ほんとは、その人の罪じゃない、その人が前世でやった罪であって、前世でやった罪の報いが、その人を千人殺させるっていうふうにしちゃったわけなんであって、その人のこの世での責任じゃないし、また、罪じゃないっていうのが、親鸞の血族系統の人たちの考え方です。
つまり、それは因縁の問題、因果の問題だっていうのが、だから、千人殺す人っていうのは、もちろん、その人の責任じゃないし、殺すのが罪だとしても、それは救われると、浄土真宗を信ずれば、称名を称えれば、ちゃんと救われると、しかしながら、この千人殺したってことの罪は、この人がやった罪じゃなくて、この人の前世に何をしたかってことで決められた、宿命としての罪だから、現世におけるこの人の罪じゃないっていうのが、親鸞の血族系統の人たちの考え方です。
だから、それは、千人殺す、殺さないっていうのもそうですし、親鸞は、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、つまり、悪人のほうが往生しやすいんだ、浄土へいきやすいんだよって言ってるんですけど、その問題についても、おんなじなんです。なぜかっていえば、前世において、いい行いをした人は、現世においても、いい行いをするっていうように、それはもう決められている。それから、現世において、悪い行いをする人は、前世においても、悪い行いをした人なんだ、した、その報いなんだ。だから、その人たち、そういう因縁によって、善になったり、悪になったりっていう、煩悩にあふれたごく普通の人たちを救済する、つまり、むしろ悪い人っていうのも含めて、救済するためにこそ、浄土真宗っていうのはあるわけだから、浄土宗っていうのはあるわけだから、もちろん、救済されるんだっていうのが、善悪に対する親鸞の血脈系統の人たちの考え方です。
どちらの考え方がいいのかっていうことは、ぼくはおのずからはっきりしているような気がいたします。たとえば、『歎異抄』っていう著書っていうのは、親鸞の血族系統の人たちの著書がありますけど、それと比較したときに、これは、ぼくがなにも言う必要がないので、読まれる機会があったら、比較して読まれたらよろしいと思いますけど、春秋社さんは、それを現代語したやつ出版したりしているから、すぐに読めますけど、それをお読みになれば、どっちがいい本だっていうのは、だれにでもわかると思います。それくらい違うんです。
ぼくは、唯円の受け取り方、親鸞の言葉に対する、唯円の受け取り方のほうがいいように思います。つまり、〈契機〉という考え方と、それから、前世の〈因縁〉だっていう考え方、因縁っていうのは代々無限に繰り返してきていて、現世にきた、現世で悪いことすると、来世で人間じゃないものに生まれるかもしれないっていう、そういう仏教は代々流布している考え方っていうのは、輪廻っていうわけですけど、輪廻転生っていうわけですけど、そういう考え方はあるけど、そんなのは、あほらしくて信じられるかって、みなさんは、信仰がなければ、そう思われるでしょうけど、ぼくもそう思います。
つまり、冗談じゃねえよって、つまらないことを言ってもらったら困ると、それはたぶん、中世の、親鸞が生きていた時代の民衆は、だいたい実感では、そう思っちゃってるわけです。わかっちゃってるわけです。わかっちゃってたと思います。だけど、理念としては、ああそうかなと思ってるわけです。おれが、いまこうなってるのは、貧乏してるのは、前世でよほど悪いことしたんだなぁと思って納得してたりしてたんです。だけど、本音をいえば、冗談じゃないよっていう、たぶん、本音では思ってたと思います。
それに答えられなければ、それはもう、宗教者でも、思想家でもないっていうのが、親鸞の考え方だと思います。だから、そういう考え方っていうのは滅びるでしょ、長い時間に耐えられないでしょ。人間、前世もあったし、これから、来世もあるんだっていう、そんな考え方、いいんですけど、信じた人は馬鹿だって決して言いませんけど、おれは信じないよっていうふうに云うだけですけど、だけど、よく実感で考えて、冗談じゃないよっていうふうに思うでしょ。ただ、それの中に、比喩として、嘘じゃないことが含まれていることは、確かなんです。
どうしてかっていうと、人間っていうのは、どこで生まれるか、どの家に生まれるかとか、貧乏な家に生まれるか、金持ちの家に生まれるか、教師の家に生まれるか、誰の家に生まれるかっていうことは、つまり、どこに生まれるかってことに対しては、そのとき生まれた人には責任がないでしょ、選べないでしょっていうことは、確かなことです。つまり、そこが、ようするに、前世っていうことを考えやすい理由なんです。
いまだって、決して、解かれているわけではないんです。いまだって、その人がどこに生まれたか、金持ちに生まれたか、貧乏人に生まれたかってことは、べつに、中国に生まれたとか、日本人に生まれたとか、そんなことは、その人が選んだものじゃないんです。だから、それは前世の因縁で生まれたと考えるほうが、考えやすいでしょ。いまでも、その問題は解決できてないんです。
だけど、いま、当時よりも、すこし解決できているところがあります。それは何かっていいますと、人間っていうのは、出生以前っていうのがあるんです。つまり、出生以前に、十月十日というふうに云われていますけど、十か月くらい体内にいるときがあるでしょ。つまり、体内にいるときは、生まれてない以前でしょ。体内にいるときの問題っていうのが、だんだんわかってきたってことがあるんです。当時はわからないですけど、いまだったら、いまはもう透視ができますし、どのくらい胎児っていうのは発達していて、それから、どのくらいのことがわかってるか、たとえば、母親を急に驚かしたら、胎児がどういうふるまいをするかとか、母親がこういうふうな考え方をとったら、胎児っていうのは、どういうふうな反応したかってことがわかりますから、いまは、科学的にわかるようになりましたから、だから、胎児までに、人間の心がどうなるか、あるいは、心の形成に、どういう意味合いをもつかってことが、現在では、わかるようになってきています。
それで、当時はわからなかったんです。少なくとも、出生以前っていうのは、十か月までは、わかるようになってきたわけです。だから、当時よりは、よくわかるようになっていますけど、当時だったら、出生以降しかわからないんです。どこで生まれるかってのは、だれにもわからないわけです。いまだってわからないんですよ、出生以前までは、わかるようになってきているわけです。
それが、現代、あるいは、未来ってことにつながるわけですけど、だから、その問題は、前世の因縁で、いま、こう生まれて、日本に生まれたのは、よほど悪いことをしたんだ、前世で、だから、日本なんかに生まれちゃったんだとか、そういうふうに考えれば、考えやすいわけです。アメリカに生まれるかどうかっていうのは、ほんとにわからないわけですから、そう考えやすいってことがあるわけです。
しかし、それは、長い歴史のなかで、人間の考え方が進歩し、発達して、発達に耐えないでしょう、そういう考え方は、しかし、いま申し上げました、人間っていうのは、善悪っていうのは、おまえらが言っているようなものじゃねえんだ、もっと大きいものなんだ、だから、だれにでも千人殺す契機さえあれば、モメントさえあれば、だれでも千人殺す可能性があるんで、それは、その人が人格的におとなしいとか、いい人だとか、そういうこととは全然関係ないんだよ。ただ、モメントっていいますか、契機があれば、そういうことをしちゃうってことはありうるんだよ、そういう悪いことをしたり、それから、契機がなければ、その人は、無残な馬鹿野郎なんだけど、そういう契機がなかったら、悪いことしなくて済むってことはありうるんだよってことです。そういう考え方っていうのは、いまだって滅びないでしょう、死んでないでしょう、つまり、みなさんは、こういう考え方で、さまざまなところで、応用することができます。
それから、善悪の問題でも、たとえば、アフリカで飢えている人がいると、なぜ、これについて、毛布一枚寄付しましょうという、町内会とか、区役所で、そういうことを始めたって、これはいいことだ、いいことには違いない、しかし、なんとなく胡散臭いなっていうふうに、思うところもあるでしょ、こんなこと、どうしてする必要があるのかっていう、テレビに映ってるじゃないかっていう、じゃあ、おれ、テレビ見ないんだっていう人だったら、どういうふうに飢えているのか、どのくらいの人が飢えているのか、どういうふうに飢えて、だれが悪いから飢えているのか、どの政府が悪いから飢えているのか、そんなことも何にもわからないで、どうして文句言われなくちゃいけないんだ。そういうふうに、疑問に思うことがあるでしょ、いまでも、それに対して、親鸞の答えたことは、中世に答えたことは、ちゃんと答えにいけてるでしょ、いまだって。つまり、そうなんだ、そうなんだ、自然に毛布を出したいと思ったら、それは出せばいいんです。だけど、そういうふうに思わなかったら、それを疑問だと思ったら、出さなければいいんです。いずれにせよ、毛布を出す、出さないで、おまえはけしからんとか、おまえはいいことをどうしてしないんだとかって、言うやつはだめなやつなんだって、だめなやつだそいつはって、どうしてだめかっていうと、それは、狭い人間の、人間がありつける眼前善悪みたいな、非常に大きなものに錯覚しているから、人間の善悪を第一義のように錯覚しているから、そうなっちゃうんだ。だから、それはだめなんだよって、すぐに、みなさんも、そう考えることができるでしょう。つまり、考えることはできないかもしれないけど、そういうふうに考えたら、その問題は解けるわけです。
いまだって、解けるってことは、親鸞がそのとき答えたことは、いまだって生きてるってこと、だから、〈契機〉っていう考え方のほうが、少なくとも、前世の因縁でいいことしたり、悪いことをしたりすることが、ありうるんだよっていう考え方よりはいいだろうっていうことは、だいたいみなさんだって納得するに違いないって、ぼくには思います。
ぼくらが、親鸞っていうものが、親鸞の思想のうち、いま生きてる問題があるよとか、これから生きる問題があるって考えるようにしたら、考えられるとしたら、そこだと思います。思想っていうもの、あるいは、思想っていうものが生きるってこと、どう生きられるかってことは、どう生きるか、どう死ぬかって、いっけん生きてるように見えて、どう死んでるかとか、いっけん死んでるように見えて、どう生きてるかっていう問題を、よくよく判断する基準っていうのは、そういうところにあるわけなんで、偉大な人っていうことは、そういうふうに、どっかに滅びぬものも、もちろんあるわけです。
なぜならば、親鸞を、ぼくは信じないですけど、親鸞の云っているように、おのずからってなったら、光に包まれるようになって、名前を称えたら、あれになるって、ぼくは信じてないんです。そういうところは、信じてないところがあります。そこは、ぼくはそう思ってますけど、親鸞の思想のうち、時代が隔たったために滅びたところです。しかし、親鸞の思想でも、滅びていないところがあります。それが、偉大ってことのしるしだと思います。それがなければ、思想っていうのは、生きられないのです。いっけん生きてるように見えたって、それはだめなんです。
だから、そこの問題を提起すると、未来の親鸞っていう問題に到達することができるわけです。未来の親鸞っていう、そこへもっていかないと時間切れになりそうなので(会場笑)、心配ですから、さきにもってきますけど、未来の親鸞っていうことは何かっていうと、これは、仮定推理になりますから、あんまり、信用しないほうがいいです。仮定して、入って、あたかも、親鸞の見解がごとく言ってるけど、あの野郎、てめえの言いたいことを言ってるってなるかもしれませんから、あんまり、信用しないで聞いてください。
どういうところが、未来につながるか、親鸞の思想のうち、未来につながるか、第一に、これは、親鸞の血族の人たちの系統の覚如っていう人がいるわけですけど、覚如の『改邪鈔』っていう、邪を改めるってことですけど、『改邪鈔』っていう著書がありますけど、そのなかで、ぼくが唯一、いいところだって思ってるわけですけど、それは、一遍の系統の人たちを批判しながら、言ってるわけですけど、末末においては、これはどうでもいいことなんですけど、衣の色は白だっていうふうに、伝教大師最澄は、そういうふうに云っていると、ところが、近頃なんか、一遍坊、一遍上人の系統、いまの時宗の系統です、一遍上人の系統のやつが、やたらに黒い衣を着て、黒い衣を着ているだけじゃなくて、いかにも後世、つまり浄土を願う人たちみたいな、異様な風体をして、そして、のし歩いているのがいるじゃないかと、しかし、あれはいっけんすると、わが教祖、親鸞の云っていることと、おんなじように実行しているやつのように見えるけど、あんなの嘘っぱちだ、どういう嘘っぱちかっていうと、そういう言葉を使っていますけど、背中合わせの嘘っぱちだっていうふうに云っています。似ているようで違う。
わが師、親鸞は、生きているとき、こういうふうに云ったと、たとえ、牛盗人って言われてもいいから、善人だとか、後世、つまり、浄土を願う人だとか、おれは仏教者だとか、そういうふうな恰好なんかするなっていうふうに云っているっていうふうに云っています。あの野郎たちは、こういうふうに誇示していると、しかし、親鸞はそんなことを云っていないと、あの野郎、牛盗人だって言われてもいいから、あいつは善人だとか、仏教、浄土を信仰している人だとか、仏教者だとか、仏教を信仰している敬虔な人だとか、そういうふうに思われるような、そういう風体はするなっていうふうに、親鸞は云っていると、だから、一遍はだめだ、ああいうふうにのし歩いて、変な恰好をして、わざと風体をあれして、のし歩いているのはだめだ、こういうふうに云っています。
これは、ぼくは、親鸞の考え方のなかで、たぶん、未来にも通ずる考え方のように思います。これは、単に服装のことだけを言っているのではないのです。ないんだってことを意味しています。もちろん、一遍の理念と考え、思想と、親鸞の思想は違うんです。どこが違うかっていうと、親鸞の思想は、いま申しましたとおりで、一遍の思想はそうじゃないんです。ようするに、何も持つなって云ってるわけです。てめえ、金も持つな、郵便貯金も持つな、もちろん、洋服だとか、家だとか、そういうのは全部持つなっていう、つまり、無一物で、生きていながらにして、自分が浄土に往生していると、無一物のまんまで、なにか持っちゃって、この世に執着をもったら、あの世なんかいけないと、この世に、ひとりひとりが執着をもたないで、無一物になったら、そういう人が増えていったら、この世は、そのまま浄土になるんだっていうのが、一遍の考え方です。
もちろん、一遍自身は、大思想家ですから、自分は実行しました。だから、一遍は生涯、家なんか、もたなかったです。一か所にとどまってどうってなことはしないで、諸国を遍歴して死にました。つまり、熊野いったり、方々いって、念仏を唱えたり、念仏を人に広めながら、それで、死んだ人です。やっぱり、自分の思想っていうものを、自分がやった人ですし、そういう思想、つまり、自分が無一物になれば、そういう人が増えていったらば、50%優位を決めたら、だいたい、この世は浄土になっちゃうっていうふうに、こういうのが一遍の思想です。
親鸞の思想と、一遍の思想はどっちがいいと思われるか、みなさんは知りませんから、みなさんは自由にお考えになればいいと思います。しかし、ぼくは、親鸞の思想がいいと思ってます。いま、一遍の思想みたいなことを言いながら、嘘ついているやつは、たくさん、いま、ひでえ目に遭ってるから、よくわかるけど(会場笑)、つまり、冗談じゃねえっていう、思想の大小っていうことは、そういうことなんです。べつに、親鸞なんか、そんなことは、てめえが、ようするに、そういうことも云ってますけど、唯円の『歎異抄』で云ってますけど、ようするに、そんな冗談じゃねえ、そんなことはどうでもいいことであって、それは弟子に聞かれて、そう言っています。
唯円っていう人は『歎異抄』の著者で、ひとかどの思想家ですから、親鸞に率直に聞いているわけです。念仏を称えてあれすれば、至心に信用して、阿弥陀仏の念仏を称えれば、あの世にいけるっていうふうに、そういうふうに、教義では、そうなってると、しかし、わたしは、念仏を唱えたけど、一度もよろこんであの世にいきたいって思ったことが、一度もないんだけど、どうしてだろうかっていうふうに、ちゃんと親鸞に聞いています。
親鸞はちゃんと答えています。それは当たり前だと、おれもそうだって云っています。おれもそうなんだって云ってるわけです。どうしてかっていうと、ようするに、人間っていうのは、そういう意味では、おのずから死ぬ時期がきたときに、おのずから浄土にいけばいいんです。こういうふうに答えています。
それならば、そこがまた、たくさんの疑問の連鎖を生ずるところですけど、われわれ凡夫には生ずるところですけど、徹底してそれを云っています。おのずから、そうなったときに浄土へいけばいいんです。なにもこの世でもってる財産もなにも、全部、無一物で放っちゃえばいいなんていうのは、とてつもないことだ、そんなことはいらないんだ、おのずからそういうふうになったとき、浄土へいけばいいんですよっていうふうに、親鸞はそう答えています。だから、どっちがいいか、ぼくは、そのほうが、やっぱり、大思想は大思想だっていうふうに思います。つまり、一遍よりは、親鸞のほうが、大思想だって思います。
それだけれども、一遍もたいへんな思想家だとは思いますけど、しかし、それは何かっていうと、ようするに、すぐに、その考え方っていうのは、いっけんすると、凄まじいようにみえるんだけど、すぐに、自己欺瞞が伴うわけです。それは、自己欺瞞はいいんだよ、自分が自己欺瞞している間はいいんだけど、それをほかの人に及ぼしたり、大衆に及ぼしたり、そういうふうにしたら、冗談じゃないよっていうふうになるんです。なっちゃうんです。その問題っていうのは、いまもあるでしょう。あるだろうっていうふうに、ぼくは思っています。いまも違う言葉でいえばあるでしょう。つまり、生きているでしょう、親鸞の思想っていうのは、あるいは、生きていないとみなさんがお考えになったとしても、ようするに、みなさんの、ある疑問に答えるものがあるし、あるいは、疑問を提起するところがあるでしょ。つまり、そういうことっていうのは、思想なんです。大思想の問題なんです。だから、そういうふうに答えています。その問題は、ぼくは未来にもいくと思います。
それから、もうひとつあります。さっきの時宗のところで申し上げましたけど、人間っていうのは、ひとたび、ほんとうに他人に対して尽すとか、他人を救済するみたいなことに、自分が関与するとしたら、ひとたび、浄土へいって、浄土から還ってきて、大いなる慈悲っていうものでもって、それで救済っていうのを考えるべきなんだ。もし、自分が、それができないので、浄土へいくまでの過程で、なんか救済っていうのを考えたりすると、しばしば自己欺瞞に陥りますよってことを云ってるんだと思います。ですから、徹底して浄土へいって、浄土から還っていく視線っていいますか、還ってくる眼を、自分が獲得したところから、ようするに、慈悲っていうのを考えた方がいいです。
だから、目の前に困っている人がいて、おのずからそうなったら、救済に関与したらいいです。思わなかったら、思わないでよろしいです。ただ、どちらにしても、浄土へひとたびいってから、還ってくる課題っていうのはありますよっていう問題を云っているわけです。その問題は、たぶん、未来へいけるだろうって、ぼくは思っています。
そして、たぶん、それに注釈をひとつ付けるとすれば、ただひとつあります。それは、何かって云ったら、現在では往きの過程でみたら、それで済んだとか、還りの過程でみたら、それで済んだってことばかりじゃなくて、往きと還りの見方っていうのを、同時に行使しなければ、ある事柄の本質っていうのがわからないよっていう問題が、ぼつぼつと出てきているってことです。出てきていると、ぼくは思います。
なぜ、出てくるかっていうと、わからなくなってくるからだ。つまり、資本主義はどのくらい発達して、どのくらいまでは、ある考え方をとれば、わかったけど、どのくらい以降は、ちょっとわからないよって、だから、いま、また考え直すっていうのは、改めてってことじゃなくて、いま、また誰かが、親鸞でもいいですけど、マルクスでもいいですけど、それがかつて考えたと同じようなふうに、いまの時代を、皆が考えて、そこでつくっていかない考え方じゃだめですよっていう、考え方をとらなければだめですよっていう、そういう考え方をとらないで、昔、19世紀にとったとか、中世にとった考え方を、そのまんま適用できるなんて思ったらだめですよっていう問題は、ぼくは、少しずつ出てきたからだって思っております。
だから、ぼくは、往きと還りを両方、両方の考え方を同時に考えなければ、ある問題は解けないっていう、起こってくる問題は解けないっていう、そういう問題がごくごく現れてきましたねっていうふうに、ぼくは考えております。それが、ぼくの注釈です。
で、往きの考え方と、浄土へひとたびいって、浄土っていうのは、さきほど言いましたとおり、生と死と、これも比喩なんですけど、生と死が両方を見渡せる場所っていう、お考えいただいて、そこから、またもう一度引き返してこなければ、わからないぞっていう、そういう問題は、まず、これから先も、未来のほうへいくだろうっていうふうに、ぼくには思えます。
それから、もうひとつ、簡単なことで、しかし、わからないことがあるわけです。これも未来にいくだろうっていうふうに思いますのは、ようするに、親鸞もそれを考えたわけですけど、〈死〉の問題です。〈死〉っていうことです。〈死〉の問題も、みなさんもわからないでしょうけど、みんなよくわからないんです。なかなか解けないんです。この問題は、やっぱり、未来までもちこされるだろう。
この問題は考えないとだめですよっていうふうに、みなさんには、めんどくさいことはやめにして、〈死〉の問題で、何がいちばん、わかりやすく、また、ひっかかるかっていう問題を申し上げますと、たとえば、すぐにこの問題は、老人問題とか、福祉問題ってことに、すぐにひっかかります。これは、死の問題のたったひとつに過ぎないのですけど、みなさんにわかりやすいから、その件を申し上げますと、たとえば、福祉問題としての〈死〉っていうのがあるでしょ、老人問題っていうのがあるでしょ。そうすると、どうしたら、この問題が解決できるかっていうことがあるわけです。究極の解決点っていうのは何かってことなんです。それは、親鸞流の考え方でいえば、簡単なことです。
ひとつは、ようするに、人間っていうのは、あれしないで、おのずから歳をとって、おのずからあの世にいくみたいな、浄土へいくみだいな、そういうことになったら、いけばいいんですよってことなわけです、それで、基本的には、それでいいと思います。
生死の問題はいいわけですけど、しかし、現代では、老人問題とか、死の問題は、あらためて、起こっているわけでしょ。その場合に、福祉問題としての〈死〉は、なにが究極かっていえば、ようするに、ひとりひとりの老人が、自分の好きな暮らし方ができて、しかも、その人の内心が、内面っていいますか、心が生きる、生かし方っていうのは、その人が自分の能力で、自分の経済能力でって云ってもいいんですけど、自分の能力で、自分の好きな生活ができて、そういうかたちでもって、〈死〉っていうものを見られたら、見られる場所にいけたら、いける人が、いってみれば、50%を超えたら、それは、福祉問題としての〈死〉は、解決したっていうふうに、理解したらいいってことになります。それは、100%になれば、なおさらいいわけですけど、そういうふうにあれしたらば、いいことになります。それが解決点です。
つまり、福祉問題ってことは、みなさんが、どうお考えかは知らないけど、ぼくはそう思ってます。福祉問題っていうのは、みなさん、国家がたくさんの予算を、区役所がたくさんの予算を組んでくれて、個々の人たちに、医者もよこしてくれるし、看護師もよこしてくれるし、それから、お金もたくさん、生活費もくれてっていうふうに、なれば理想だっていうふうに思われるかもしれないけど、それは個々の老人にお聞きになればすぐにわかりますけど、その人の、老人の本心っていうのは、それでは、満たされるわけじゃないわけです。
だから、自分が、本心から、こういう家族形態で、こういうふうになってくれて、経済的にもなってきて、こういう自由な暮らし方っていうのは、自分の気ままってことに、それができたら、理想だなっていうふうに、老人は心の底で思ってるくらいに、そういうことができたときに、個々の老人は、全部違います。自分はこうしてほしいとか、仲の悪いのと、嫁と、実は仲良く和解して、同じ家に世話してもらって、〈死〉っていうものが見られたら、いちばんいいなと思ってる人、違う老人は、うまいものたくさん食ってるんだけど、金がねえんだって、そういう老人もいる。それは、個々の老人によって違うわけです。個々、それぞれ違う老人が、自分に自由な暮らし方、自分の好きな暮らし方で、好きな家族関係で、ちゃんと暮らせるようになったら、それが理想なんであって、べつに福祉国家ができて、たくさんの予算できて、全部老人施設をたくさん拡充して、いい生活をさせてっていったら、これでいいのかって、それは違います。それは、途中の救済で、悪いことじゃないですけど、第一義の問題じゃないですよってことになります。つまり、そういう老人の実際の問題は、50%以上できるように社会がなったら、それは、福祉問題としての〈死〉っていうものは、解決されたことを意味します。
これがひとつ、わかりやすい解決の問題と、全然解決されないで、未来へもちこされている、わかりやすい死の問題、もっとわかりにくい死の問題が、たくさんありますけど、それはいいでしょう。それは、みなさんの問題じゃないかもしれないので、これは哲学の問題だったり、文学の問題であったり、そういう問題であるかもしれませんし、また、たまたまみなさんが、そういうことに当面したときに、それは、自分が切実に考えなければならない問題かもしれません。
ただ、一般論としていえば、〈死〉っていうのは、だいたい、自分では体験できないものなんだよって、そばまでは体験できるんですけど、〈死〉そのものは体験できないよって、体験しているときは、死んじゃっているわけですし、体験しないときは、死んでいないわけですから、体験できないものであって、しかし、他者の死は、肉親の死とか、友達の死とか、だれかほかの国の人の死っていうのは、体験できるんだっていうこと、つまり、構造としては、そういうふうになってるっていうところまでは、たぶん、みなさんが一般的によくご存じのことなんで、今度は、それからもっと先まで、細かいところまでっていいますか、細部まで、いかなければいけないわけです。
それは、どういうことかっていいますと、それは、肉体の死っていうのは、どういうことなんだっていう問題があります。わかりやすいところでいえば、心臓が止まっているのが死であるか、脳が死んだ時が死であるかっていうのは、現に、お医者さんの専門家の間では、論議されているでしょう。そういうことも解かれなければいけない問題なわけです。これに対する解き方っていうのも、まあ、それは、可能でしょうと思います。可能であると思っていますけど、そういうことも解かなければ、それから、精神の問題でもあるわけです。
さきほどから、親鸞の浄土の思想、死の思想、死っていうものを云うたびに、生と死の中間のところにあるんだっていうふうに申し上げました。親鸞の言葉で、親鸞はべつの比喩をつかってるんで、たとえば、そのひとつの比喩は、皇帝に対して、皇太子みたいなものなんだ、つまり、場所なんだっていうふうに云っています。つまり、皇太子っていうのは、皇帝になるのが決まっているっていうふうに、皇帝になれるってことだけが決まっているっていう、だけども、皇帝そのものじゃない。そういう場所が、ようするに、期していける、至心に阿弥陀如来を信仰して、それで念仏を唱えていける場所っていうのは、そういう場所なんだ、救済の場所なんだ、それは、ほかのやりかたをしたって、どうしてもいけないんだけど、そういうやりかたをした人だけが、そこにいけるって、これはもう、弥勒菩薩に次ぐ人の位なんだ。もう、皇帝になれるとか、皇帝の位につけるっていうのがわかりきっているんだけれど、皇帝そのものでは、やや違うんだっていう比喩のたて方をしています。
それを、中間っていう云い方でしてきましたけど、中間っていう云い方は、また、さまざまな誤解をされようを招きますから、これは比喩だっていうふうに受け取ってください。中間って云い方をすると、これをまた、中間ってことを実体化しますと、生も実体化して、死も実体化して、全部実体化して、中間なんてどこにもないじゃないかというふうに、死に損なってるのも中間かみたいになってしまうので(会場笑)、そういう意味では全然ないわけで、ただ、比喩としてなら、そういうことになってくるわけ、だから、その問題っていうのは、いまでもあります。
そこの問題を、どういうふうに解くかってことは、しきりにあります。それは、もしかすると、未来にもちこされて、きっと解かれるに違いないと思いますけど、やっぱり、むずかしい問題ですから、少しずつしか解かれていかない。哲学がそれを少しずつ解くかもしれないし、医学がそれを少しずつ助けるかもしれません。つまり、その問題を、別のところへもっていくかもしれません。
しかし、やっぱり、考えなければ、死の問題っていうのは、最後には解けないと、そのことが、宗教って、いままで親鸞なら親鸞…たくさんいるわけですけど、たとえば、みなさんもよくご存じで、ぼくなんかもたくさん論じたり、関わったり、読んだりとかっていうふうにして、自分の影響を受けた人ですけど、宮沢賢治なんて人も、盛んに思想の問題にひっかかっています。
つまり、理念からいけば、どうしても、浄土っていいますか、あの世っていいますか、その世界っていうものが、いくっていう問題があるんだけども、それじゃあ、その世界ってどこにあるんだって、そうしたらいけるんだって、いったっていう証拠はあるのかっていう、いったっていう証拠はどうして捉えられるのかっていう問題に、宮沢賢治っていうのは、しきりにひっかかっているわけです。
わざわざ妹さんが亡くなった後で、自分が用事にかこつけてですけど、わざわざ樺太、ロシア領のサハリンですけど、樺太まで出かけていって、その途中で、宮沢賢治っていう人は、あの世をわりに実体化していましたから、それは、あの世へいった妹さんと、盛んに交信しようっていうふうに、おれの信仰の強さがあれば、交信ができるはずだといって、交信をやろうと思ったりしています。
それは、宮沢賢治があの世っていうのを、わりに親鸞と違って、親鸞のように解体っていうあれじゃないですから、つまり、日蓮宗にはないですから、解体っていう考え方がないといけないですから、構築だけありますから、宮沢賢治はそういうふうに考えて、そういう考えであったりしているわけです。それでも解けないわけです。それで、宮沢賢治は、『銀河鉄道の夜』なんかの中では、もし、ほんとうの考えと、嘘の考えっていうのを分ける実験の方法さえ決まれば、そうしたらば、信仰っていうのも、科学と同じになるんだっていうことを、しきりに云っています。あるいは、言わせています。
そこが、宮沢賢治の、しきりにひっかかってやまなかったところで、それは、そんなことは嘘っぱちなんだっていうふうに云ってしまえば、宮沢賢治の法華経信仰っていうのは、なくなってしまう、無に帰してしまうわけです。宮沢賢治は、最後まで、熱烈な法華経信者として、終始するわけです。だけれども、しかし、科学者でもありましたから、そこのところにひっかかるわけです。それで、だからようするに、信仰と科学っていうのは、つまり、嘘の考えと、ほんとうの考えっていうのは、分けることができたら、そういう実験の方法がわかったら、それはおんなじになるんだ。その実験の方法っていうのは何なんだっていうことを、しきりに考え尽そうとするわけです。それが、宮沢賢治の思想の到達点であったりするわけで、あるいは、到達できなかった地点でもあるわけです。そこらへんにこだわっています。
いまのようなこだわり方っていうのは、親鸞の場合にもおんなじで、質は違うんですけど、おんなじような問題ですけど、その問題は、歴然と未来までいくっていいますか、もってかれるこだわり方、あるいは、もっていかれる、いって解決しなければならない問題のように思います。それは、だれが解決するのかわかりませんし、だれか偉い人が解決するのかもしれませんし、みなさんがおのずから解決してしまうのかもしれませんし、そこは、なんとも云うことができないのですけど、そういう問題っていうものを、遠い中世の初めから、現在まで、滅びないっていいますか、死なない思想っていいますか、ありかたとしてもち続けているっていうことが、親鸞を偉大な思想家にしている問題だっていうふうに、ぼくには思われます。ここいらへんのところで、話を閉じさせていただきたいと思います。ご清聴感謝します。(会場拍手)
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