1 司会

2 現在の問題

 吉本です。あの、大袈裟に日本農業論というふうにしましたけれども、これは僕なんかの考え方では、日本の農業が今当面している問題から入っていって、日本の農業の歴史的な問題と、それから日本というものを抜きにして一般に農業というものは、あるいは農家、農民でもいいんですけれども、どういうふうにあったら本当に理想的な状態なのかということも同時に浮かび上がらせることができたら、というふうに考えてきました。
 ただ、僕は要するに思想的に一般的に関心を持っているのと同じように農業の問題について関心を持っているにすぎないので、農業の専門家ではありませんから、たぶんその微細な点に立ち入ることはできないかと思います。
 また微細なニュアンスにおいて、もし農業に携わっている方がおられたら、皆さんの実感と違うようなこともあるかもしれませんが、僕の話がどこまでその実感のところまで接近できるかというところを皆さんの方で計りながら聞いていただければと思います。
 もし僕の喋ることに特徴があるとすれば、その代わり微細なところで接近できるかどうかはわからないですけれども、どう言ったらいいでしょう、大雑把なと言いましょうか、大きな網を被せるという意味ではやはり僕なりの考え方というものがありますから、そういうところは特徴かもしれませんから、両方考えて聞いていただければ、と思います。
 それで、歴史的な話から始めても、世界的な農業論みたいなところから始めてもいいわけですけれども、それよりも今、手っ取り早くと言いましょうか、日本の農業が現在当面している問題から単刀直入に入った方が皆さんにもよろしいでしょうし、皆さんの方がよけいによく知っているでしょうけれども、しかし、皆さんの関心と非常にマッチしているでしょうから、そこから入っていきたいと思います。
 最初に僕の読んできました文献をみんな挙げていきますけれども、ひとつは(昭和)63年度版の農業白書です。これは農民統計協会から出ています。それから国民生活白書というものがあります。これは経済企画庁から出ています。本屋さんにみんなあります。
 それから『日本農業論』というのがあります。これは磯辺(俊彦)、常盤(政治)、保志(恂)という、僕は専門家じゃないからよく知らないんだけど、戦前から戦後初期にかけていわゆる講座派というものがありまして、山田盛太郎という東大の教授を務めた経済学者がいて、その人を総帥とする講座派というものがあったわけですけれども、その講座派の系統に属する若い世代の人達だと思います。
 それからもうひとつはドーアという、これは日本の戦後の農地改革、占領軍の農地改革に関与した人じゃないかと思いますけれども、この人が『日本の農地改革』という本を出しています。それは岩波書店から訳されて出ています。これもたやすく手に入るものです。
 それから『日本の土地と農民』、これは主催者の方がおまえ読め、と指定してくださったやつで、グラッドという人の書いた研究書です。日本太平洋問題調査会が訳している、そういう本があります。あとは、マルクス・エンゲルスの農業論集というのが岩波文庫で出ております。
 で、僕が読んできたのはこれだけの本ですから、これらの知識を僕なりにアレンジしたものをお話ししたいと思います。

3 米価と自由化問題

 現在の日本農業の問題というのは何かといいますと、いちばん問題なのは米価、つまりお米の価格ということです。それはお米の自由市場化か否か、あるいは食管制を守れとかいう、そういう争点になっていることにも関連します。
 それから農産物の輸入自由化、つまり外国からの農産物の輸入問題っていうことに関して、お米の問題はまだこれは話だけ出てきていて、きっと政策議題担当者の上層のところではせめぎ合いが盛んに行われているところなんでしょうけれども、そういう問題が現在あります。そしてそれは様々な影響を与えているわけで、その実態はどういうことなのかということについて申し上げてみます。
 これは新聞に書いてあったので、新聞を中心に読んでいる人は分かっていると思いますが、1988年(昭63)度産の、だから去年産のコシヒカリについて書かれているものです。ここに書かれた数値は皆さんの方で「いや、こんなんじゃないよ。」と仰るかもしれませんが、おおよその見当ということで考えられた方がいいかもしれません。
 今コシヒカリの自主流通米というのは60kg、23,400円で売られている、または買われている。で、政府買入米の価格は16,743円です。それと闇米というのがあります。つまり農協みたいな政府の食糧管理機構を通さないで、いいお米を消費者の方が都市から直接買い付けに来まして、農家の方から直接買っていくという形のものを一応闇米というふうに言っています。闇米は29,000円と新聞には書いてありますけれども、これは30,000円以上の場合もありますし、もっと安い場合もあるでしょうけど、およそ価格の差を見るにはこれで充分だと思います。
 ところで今流通されている日本のお米の54%は自主流通米であって、それで闇米は20%を占めている。つまり両方合わせると、重なっている部分もあるわけですが、60~70%というのはすでに政府買入米ではないわけです。だからそれが流通しているわけではないわけです。そこからつまり、米価っていうのは自由市場化してしまえ、自由競争化してしまえ、いいお米を安く売る方が儲かるんだというふうにしてしまえっていう論議が当然作る方の側からも出てくるわけで、本音を吐けば、要するにやめてくれっていうことです。
 つまり食管法で政府はお米を管理して値段を決めているんだけれども、それはちっとも食べられちゃいないんだ、と。それで、食べられているのは60~70%は闇米かそうでなければ、自主流通米だ、と。そうだとしたら、食管法によるお米の価格の統制は全然ナンセンスじゃないかっていうのがたくさんの論議を呼んでいるところだ、というふうに思います。
 で、新聞に書いてある例で言いますと、山形県の村山市のある複合農家で、お米と野菜を作っている方がいます。そこではお米による収入っていうのは、以前は7割を占めていた、と。ところが現在はもうお米はそんなに収入源にはなっていない。で、収入源の主になるものは野菜だ、と。そういうふうになっている。だからつまり、収入源からしてもすでに中心をお米の生産自体は外れちゃっていて、ましてや流通して消費されているお米は食管制における政府買入米とまるで違うじゃないか、と。だから食管法によってお米の価格を統制したり流通過程を統制したりすることはまったくナンセンスだというふうに、現場の声はそうである、と新聞は記載しています。
 で、お米の消費率についても触れてあるわけですけれども、自主流通米と闇米を含めた自主的な良質米、つまりたいへんおいしいお米ということですが、そういうお米の消費率が1987年(昭62)度で63.8%で、政府買入米は19.5%だ、とあります。そうしますと、何を以ってお米は自由市場化をした方がいいんだとか、ある程度自由市場化した方がいいんだとか、食管制のやり方を守れっていうのと、どういう見解が正しいのかという場合に、素人がどういう判断の仕方をするのがいちばんいいかというと、結局いちばんいいのは消費者が50%以上消費しているお米のあり方というので以って判断するのがいちばんいいわけです。そうすると、いずれにせよ自主流通米というのは闇米も合わせて64%は、つまり半分以上は消費されているわけですし、政府買入米というのは20%くらいしか消費されていない。そうだとすれば、素人がごく常識的に考えれば、自主流通を主体にしたお米の流通、それから価格、生産方式というものを採るのが最も妥当であると考えるのがまったく常識だというふうに考えられます。
 もうひとつ、もう少し立ち入れるデータを申し上げますと、農家の現在の総取得のうちでお米の所得の割合がどうなっているかなんですが、耕作面積が1.5ha以下、つまりだいたい9割の農家は1.5ha以下だと思いますが、9割を占める農家の総所得の中のお米の所得は9%です、わずかに9%です。それから1ha以下だったら、3.7%です。
 つまりほとんどもう取るに足らない、お米自体の収入っていうのはすでに農家にとってとるに足らない所得になっているということがお分かりになると思います。ましてや流通しているのは、良質の自主流通米ないしは闇米で、半分以上がそうだ、と。
 これはまったく常識的に考えて、自主流通性というのを主体にお米の問題を考えていくべきだというのは全く疑問の余地のない当然のことになる、と私は考えます。つまりそれは妥当な考え方だというふうに、私はそう思います。
 それで、新聞の方はお米の自由市場化を助長するためにもうひとつ例を挙げています。それは果物の自由化という例ですけれども、山形県のやっぱり村山市の農協の問題を例にしておりますけれども、村山の農協では、山形はさくらんぼが名産地ですから、さくらんぼをアメリカやなんかから輸入されてきたら、これはたまらんということで盛んに勉強会を開いて研究をしまして、いい品質のものを安く生産するにはどうしたらいいか、それでビニールハウスで作った方がいいとか、肥料はこの方がいいとか、そういうやり方を勉強しまして、それでたいへんおいしいものを作って競争した。輸入のさくらんぼと競争したんだけれども、出荷量は従来の3倍になって、値段も今までは1パックが1,000円以下だったのが2,500円くらいで売れるようになった、と。
 つまり、輸入の果物がやって来たけれども、ちっとも怖くなかったっていう村山市の農協が実現した例が挙げてありました。これは「お米の自由化がいいんだぞ、いいんだぞ。」ということを強調するための例でありますけれども、そういう例が挙げてありました。つまり、これらが現在お米の値段をどうするかとか、お米の生産性を良くして良質のお米を安く生産するにはどうしたらいいかとか、皆さんの方で盛んに研究しておられたり苦心しておられたり、長岡市の市政の農業部門が盛んに論議している問題の、いちばん根本にある問題なんです。
 だけれども常識が考えるところ、つまり農業を自分がやっているとかそういうことじゃなくて、農業以外の、むしろ消費者っていいましょうか、そういうところから見た常識な妥当な線はどこにあるかっていうのはまったくもう明瞭なことだというふうに僕には思われます。そこのところをよく身につけておられた方がよろしいんじゃないか、というふうに思われます。

4 保守対進歩の構図

 ところで、これもつい2、3日前の新聞ですけれども、これは内閣の諮問機関だと思いますが、お米の集荷業者と卸小売業者からなる自主流通協議会っていうのを作っていて、そこがだいたい決定した事項があります。
 その事項を申し上げますと、従来のお米の基準価格の決定は今までは年に1回されてたんだけれども、それを年に2回、9月と12月にする。それから基準価格をベースにして入札制にするということですね。入札制にして、それを11月と3月にやる。入札制自体は今までもあったんでしょうけれども、それを年に2回やるという。それから入札価格の変動幅っていうのは今までは上下5%以内でなきゃ、食管法でいかんというふうにしてたんだけど、前後の幅を10%に拡大する、と。
 この3つのことを内閣の諮問機関である自主流通協議会が決定したということが2、3日前の新聞に出ていました。つまりこれが現在の政府自民党がだいたい持っているお米の自由化問題に対するぎりぎりの限度だ、ということになります。これは従来よりも遥かにお米の自由市場化というのを推し進めた決議だっていうことになります。
 しかし、それにもかかわらず食管制の枠を全部外しちゃったらどうなるのかっていうことについては政府自民党っていうのはあんまり自信がないんじゃないかと思います。つまり全部とっぱらっちゃうだけの自信はない。とっぱらっちゃったとき、どうなるのかっていうことについての自信がない。
 もしそうなると、良質なお米が出回るようになるかもしれないけれども、同時にお米の価格がべらぼうに高騰しちゃうってことがあるんじゃないかとか、または自由市場化すれば、株みたいに投機が行われるというか、お米の投機みたいなものが起こり、べらぼうに値段が釣り上がっちゃったり、横流しが起こったりするんじゃないかっていう諸々の心配があるもんですから、政府自民党のお米の自由化の限度はだいたいここいら辺だと思います。
 つまり入札を非常にきめ細かくやるということと、それから入札する場合の価格の幅をたいへん拡大するという、そういうふたつでもって相当お米の自由市場化という場所に近寄っていってるんですが、これがだいたいにおいて自民党の考えている米価政策とお米の自由市場化というものの限度だ、というふうに考えられます。
 ところで、僕はいくつかの課題に対してそう思うんですけれども、社会党、共産党みたいな本来左翼だとか進歩的だと言われている人の方が保守的です。つまり食管制度を守れっていう、まったく保守的な態度をお米の自由市場化に対してとっております。
 そうした立場をとる根拠は何か。社共がとっているお米の自由市場化反対、お米の輸入反対、それで食管法を守れっていう、これは社共の農業政策の柱であると思いますけれども、なぜこの柱を守っているのか、強調するのかっていうと、ひとつはやっぱり先ほどの自民党の恐れていることと同じことであって、つまりお米をまったく自由市場化したら、ものすごい競争でもってものすごく良質のお米が安く出てくるだろうけれども、と同時に優勝劣敗っていうのが起こって、落っこっていく農家はますます貧困になり、商売が上手くいいお米をたくさん作ったところは大いに儲けて、というように農民の階層的な格差が増えるんじゃないかという恐れ、もうひとつはやはり投機でもって値段がやたらに非合理に釣り上がったり、または落っこったりするんじゃないかというようなことが、やはり社共が危惧していることだというふうに思います。
 しかし、同じ危惧するにせよ、そういうふうにまったく危惧するのと多少危惧するのとでは違うわけで、そういうふうに言えば、自民党の方が遥かに進歩的だと言えます。
 これが現在のお米の問題についての政治的な党派がとっている態度と、その根拠だというふうに思われます。そこのところを皆さんがよくよく考えられることが重要だと、僕自身は思います。

5 対立の背景にあるもの

 そこの問題が日本の農業が今当面している一時的な問題というふうに一見すると思われますけれども、しかしよくよくそれを掘り下げていきますと、いったい農業っていうのは、あるいは農家でもいいんですけれども、どういうのがいちばん理想的なんだ、どうなったらいいんだっていう農業の理想のイメージが、ひとつこの問題の中には含まれています。
 それからもうひとつ、日本の農業は歴史的にどういう経路を経てきたために、こういう問題が出てきてんだっていうような歴史的な経緯の問題が見えてきます。よくよく考えると、そのふたつの意味合いがこの問題に含まれているということがわかります。
 だから、お米の自由市場化は反対である、食管制度を壊すことは反対である、それからお米を輸入することは反対であるという、社共のような進歩派の言っている問題も「おまえ、それは間違いだからやめろ。」って言ったってなかなかやめないのは、その歴史的な経緯があるからだと思います。つまり、考え方の歴史的な伝統というのがありまして、「いや、それは伝統に即してやめらんないよ。」と、「これをやめたら、俺たちの存在的な意味はなくなっちゃうんだから、やめらんねぇよ。」っていうような、そういう伝統意識があると思います。つまりそれをやめたら、自分たちが今までやってきたこと、あるいは今まで理論的につっぱってきたことが全部おしまいだっていうようなことが根本的な危惧にありますから、だから「おめぇ、それは間違いだからやめろ。」っていうふうになれば、社共は別に戦車や鉄砲は持ってないですけれども、「血を見るまでやるぞ。」っていうふうになるかもしれません。
 だからそういう問題だっていうふうにお考えになった方がいいと思います。つまりそれはかなり深刻な問題なんだ、目先のお米の値段がどうだっていうようなことも問題なんだけど、それだけじゃなくて、歴史的な考え方の伝統の問題というかなり深刻な問題が背後に控えているんだ、ということです。
 今言いましたような歴史的な伝統的な経緯という問題と、もうひとつはやはり農業っていうのはいったいどうあったらいいのか、どういうのが理想なんだということに対するイメージがあります。それぞれのイメージの問題があります。社共なら社共のイメージがあります。で、自民党にはそのイメージがあるかっていうと、それはないのです。それはだいたいにおいて無意識にその時々これがいいんだ、というふうに思いながら来た歴史的な経緯があり、そうした歴史の無意識に農業問題の全部じゃないにしても90%は任せてありますから、自民党みたいな政党には伝統はないのです。ただ、歴史の無意識を踏んできたっていう、それで無意識にこれがいいと思って来たんだっていう、そういう意味での無意識の伝統っていうのはあります。
 しかし、社共には近代思想の一源泉であるマルクスの思想、それからフランスの初期の社会主義者の思想から分かれてきた伝統的な考え方や農業に対するイメージが明瞭にあります。だから、そういう伝統を意識的に持っています。それでその意識的な伝統を守らなくてはならない、つまり破りたくないし、破るとおしまいになっちゃうからなかなか破れないんだっていうこととか、本音のところでは食管制度はやめた方がいいんじゃないかと思ってるかもしれないんだけれども、なかなかそれを口に出せないとか、さまざまなニュアンスでその問題は存在しています。
 それがだいたいにおいて現在の米価問題とか、お米の自由化問題の根底にある問題だと思います。

6 一般大衆の原則

 ところで、その根底にある問題っていうのを僕なりにちょっと探ってみたいというふうに思うんです。それを探らなくても現在の問題をどう判断したらいいのかっていうのは、先ほど申し上げたように常識で判断すれば誰でもわかることですから、それでいいわけなんです。
 それからまた消費者や一般大衆の側から言うと、どういうことになるのか。これも原則は簡単なことです、つまり、消費者っていうのは、マーケットやお米屋さんに行ったりして、目の前に安くていいお米とそれから高くてわるいお米があったら、安くていいお米を買う。それが消費者、一般大衆の大原則です。そこのところをみなさんが生産者であったとされてもじゅうぶん心得ておられた方がいいと思います。つまりそれ以外のことは全部政治的なことです。しかし、消費者、大衆っていうものは生活的なことです。生活的な必要からどう判断するかっていえば、安くていいお米と高くてわるいお米があったら、そのお米がどこから来ようがそんなことは関係ないんです。ただ目の前に置かれたら、どんな人でも安くていいお米を選ぶでしょう。それだけのことです。
 しかしそれは重要なことです。人間の欲望の本姓っていいましょうか、人間性っていうものの本姓に根ざしたものですから、誰でもそうすると思います。つまり100人いたら100人そうすると思います。社会党員や共産党員だったら多少無理して、「俺はちょっと、安くていいお米を買いたいけれども、高くてわるいお米を買おう。」っていうふうに、それは多少イデオロギーが入って、つまり政治が入ってくれば、そういう判断をすることはありうるわけですけれども、しかしそうではない一般大衆の立場から見たならば、安くていいお米と高くてわるいお米が入ってきたら、それが輸入米であろうが、内地米であろうが、長岡米であろうが、とにかく安くていいお米を買うっていうその原則以外何もないっていうことです。
 このことを把握してるということはとても重要なことだと思います。つまり消費者はそうなんだよ、っていうことです。これはいかなる政党がいかなる理屈をつけても、その理屈は全て第二次以下の問題です。なぜならば食糧っていうのは身体の代謝っていいましょうか、人間の生命の維持のために食べるものでありますから、どういう原則もその原則に比べたら、第二次的なものになります。だけど、得てして政治党派っていうのは自民党でも社共でも政治的な必要上、誇張をして我が党に水を引きますからね。
 しかしほんとはどういうふうにお米の価格を決めるのがいいのかということじゃないですよ。それは政治的な問題、第二次的な問題であって、本当は要するに、「もしいちばん栄養があって安くて、いいお米があるっていうなら、俺はそれを食べるよ。」っていうそれだけのことで、これを阻止することはなんぴとにもできないっていうことが大原則だということをどうか忘れないでください。忘れないでほしいわけです。これは消費者の立場です。
 で、生産者の立場っていうのがいま問題だ、と。これには歴史的な伝統と歴史の無意識の積み重ねっていうのがありまして、これはなかなか相譲れないっていうところが現在の政治党派のせめぎ合いの問題でしょう。つまりこれに対してみなさんがどこまで独自の判断をしうるようになるかっていうことがこの問題のいちばん根本にある問題です。
 つまりそれをまあ、とにかく僕なりにやってみましょう。

7 初期社会主義者と農業問題

 まずは歴史的な問題、つまり古典的な考え方の問題です。これは今よりほぼ1世紀ぐらい前にヨーロッパで論議された問題です。前にどうして論議されたかと言いますと、現在の状況と割合によく似ている、まあほんとは似ていないんですけども、ある点だけとってくると割合によく似ている状況だったからです。
 当時ヨーロッパでは、アメリカの農産物の生産量が猛烈に拡大し、勃興してきました。アメリカの大規模農業というのは、大平原の肥沃な土地を鋤で耕しただけで無肥料で何回でも小麦が獲れる、みたいな農業で、そういう農業が大規模な機械でもって行われてしまい、安くていい大量の農産物がどっとヨーロッパの農産物市場に押し寄せてくる、そういう状況があったわけです。
 その時に、マルクスとかエンゲルスとかっていう当時の、初期の社会主義者、つまりマルクス主義者ですけれども、そういう人たちがそれに対してどうしたら対抗できるか、つまりアメリカの大規模で安い、いい農産物が圧倒的な多数入ってきた、これに対してどうしたらヨーロッパの農業っていうのは太刀打ちできるかっていうことをしきりに考えたわけです。
 それで彼らが理論化したことはいくつかに要約されますけれども、それは総じて言えば、要するに農地である土地を国有化し、それから国民的管理のもとに共同耕作をして、つまり小規模な農家とか小農家がたくさんあるっていうんじゃなくて、地主と小作があるとか、そういうのじゃなくて、とにかく国有化して大規模な共同経営の耕作をやって農産物を作れば安くていい物が作れるだろうから、そうすればアメリカからの圧倒的な農産物の輸入に対して対抗、太刀打ちできるんじゃないかっていうことを考えたわけです。
 そしてマルクスもエンゲルスもそうですけれども、土地の国有化っていうこととそれから国民的管理のもとにおける大規模な共同耕作ということを主張したわけです。で、ここが現在の社共の問題点でもありますし、マルクスとかエンゲルスの問題点でもあるわけですけれども、土地の国有化ということに対してマルクス、エンゲルスの考え方もたいへん楽天的だったということがひとつあると思います。
 つまり国有化っていうことをやりますと、一見すると国民的な規模でもって共同管理ができるみたいなふうに思われますけれども、そうじゃなくて国家っていうものは一旦できてしまいますと、どんな政府でも、つまり社会主義政府であろうと自由主義的な政府であろうとおんなじであって、一旦国家というものができてしまいますと、国家自体で閉じられていき、大衆的な利害と矛盾を生じてきますから、国有化ということが本当の全国民的管理ということにならず、国家官僚による管理ということになり、国家官僚の利害がいちばん大事になっちゃうっていうような、そういうことっていうのはありうるわけです。
 それでマルクスもエンゲルスも他の部門では、つまり国家論の部門ではそういうことをよく知ってまして、そういうことを強調してやまなかったわけですけれども、なぜか農業問題に関する限りは、国有化っていうことと全国民的管理っていうことを同一に考えて同一な言葉で言ってしまっています。で、僕の理解の仕方では、これはたいへんな害毒を後々の社会主義者、マルクス主義者に残しており、たぶん現在でも土地の国有化とか企業の国有化ということは社会主義の眼目だっていうふうに考えている社会主義者は大部分だと思います。
 しかしそれはまったく違います。違うことです。それはまったくの違うことです。もし無理やりに国有化っていうことを言いたいんならば、こういうふうに言わなければいけません。つまり大衆あるいは民衆の利益に反しない限りでは、あるいは利益を促進する限りのものについて国有化とか共同管理っていうのをやる、というふうに言い直さなければいけません。
 この言い方はたいへんな害毒を流していると思います。それがひとつです。これはエンゲルスの場合でもマルクスの場合でもそうです。エンゲルスの今の主張は「アメリカの食料と土地の問題」っていう論文の中によく書かれておりますから、これは僕が先ほど挙げました岩波文庫の農業論集の中にありますから、みなさんが直にお読みになれば、すぐに分かります。すぐに分かりますから、どうぞお読みになってください。そうすれば僕がおしゃべりするまでもないことなんですけれども、そこによくよく展開されています。

8 農業にとってのマルクス

 それからマルクスについて言えば、マルクスは『土地国有について』という論文の中で土地の国有化の問題に触れています。それで、まあいろんなことを言ってるわけです。マルクスはニュアンスがエンゲルスと違って微妙な人ですからね、つまり微妙に心得ている人ですから、マルクスは非常に微妙なことをたくさん言っています。考えようによってはいろんなふうにとれる言い方をしています。いくつか挙げてみましたけれども、ひとつを言ってみましょうか。
 土地を国有にして小さな分割地でもって個人とか労働組合に分け、貸し与えるというやり方をすると、政府がもしブルジョア的な政府だったとしたらば、無分別な競争が起こる、というふうに言っています。だからどんな階級にも、つまり労働者階級にも、それから農民階級にも管理を任せたらいけないんだ、と。全国民的な管理以外にはないんだということを言っています。つまり全国民的な管理イコール国有ということだ、そういうふうな考え方をしています。
 ところで、ブルジョア政府のもとではという言い方をしていますけれども、僕はかっこして書いておきましたが、これは国家官僚政府のもとではっていうふうに言ってもおんなじです。そうしたら無分別な競争の代わりに、無分別な管理が起こります。それは現在のロシアであり、中国であります。そこではまさにその問題に当面しているわけです。つまりブルジョア政府のもとではっていうのを国家官僚政府のもとでは、と言い直せば、無分別な競争の代わりに無分別な管理が起こります。そうしておいて生産者の○○○で横領するやつが出てくるっていうふうに言ってますけど、それはまったくおんなじことでしょう。つまりおんなじことが起こります。
 マルクスっていう人は偉い人ですからね。つまりエンゲルスほど単純じゃないですから非常に微妙なことを言います。微妙なふうにいくらでもとれる、つまり状況によって、あるいは時代によっていくらでも置き換え可能な言い方をたいへんしています。それはなぜかというと、マルクスの場合には自分の農業理論というものとそれから現状の問題と、それから本質的な問題とを非常によく、ちゃんとした距離感でつかまれていたからだと思います。
 エンゲルスも天才的な人ですけれども、理論的なことと、理論的に本質的なこととその現状、そこでヨーロッパがいま当面している問題、つまり100年前に当面した問題ですけれども、それをペタッと距離感なしにくっつけようとするもんですから、しばしばもう間違いが生じます。つまり時代が変わってみると間違っているとか、古くなっちゃってるっていうようなことをしばしば言っています。これは要するに本質的な理論というものと現状分析っていうものと、現状で当面している問題とをすぐにくっつけようとしたからだと思います。だから、これはちょっと時代が変わったらちょっと成り立たないよっていうことが、まあべつにこの農業問題だけじゃなくて他の問題でもエンゲルスの場合にはしばしばあります。これはちょっとマルクスと違うところだと思います。
 マルクスの場合にはやり方によって置き換えがいくらでもできる。その状況になったら、その状況に置き換えたらちゃんと通用するっていうようなことをちゃんと言っています。つまりマルクスの言う国民的規模、あるいは国有っていうことと、エンゲルスの言う国有っていうことは同じ言葉で実際問題同じことを言っているんだけれども、ニュアンスとして受け取れば、相当違います。そういうことがとてもよくわかると思います。だからこの問題をニュアンスの部分で取り違えないでちゃんと受け取れなければ、間違ってしまうと思います。そういうことがひとつあると思います。
 それからもうひとつ、これもたいへん見事なことを言っています。その頃のヨーロッパで言いますと、フランスはわりに日本と近く、小規模な自立の農業経営者みたいのがたくさんいました。そういうフランスなんかのように小規模に細分化された土地を私有していて、いちばん小規模であるなら家族だけで耕して自主的にやっているっていうような、そういう小さな農家が小さな土地を所有するという形で存在すると、それはたとえば土地の国有化ということに対してものすごく反対、敵対する意識を育ててしまうんだっていうことを言っています。
 で、マルクスはこの場合には、小さな土地を所有して自立の農業を経営している人はしばしば土地の国有化ということに抵抗を生じて敵対する意識を育ててしまうということ、つまり自分の持っているわずかな土地が何にも変えがたく大切だというふうに思うようになってしまうんだよ、っていうことを弱点、あるいは欠陥として言っているわけですけれども、これはもちろん裏返せば、利点としても言えるわけです。つまり利点としてもそれはありうるわけです。だからこれはやっぱり、このマルクスの言い方はやっぱり両方の置き換えがいつでも可能だっていう言い方のひとつにあたると思います。
 しかし、いずれにしろ初期の社会主義者のうち、理論的にたいへんしっかりしている社会主義者たちは土地の国有化と国民的な管理のもとにおける共同耕作っていうのがアメリカの圧倒的な安くていい農産物の輸入に対してヨーロッパの農業が対抗できる唯一の道だっていうふうに考えて、そういうふうに主張したわけです。この主張は少なくとも現在に至っても、基本的には現在のマルクス主義者、それから現在の社会主義国の間では大筋において遵奉されてきた考え方です。

9 ソビエトの農業

 しかし、ゴルバチョフがごく最近、今年になってからですけれど、それはだめなんじゃないかっていうことを言い出しています。で、お米の価格の問題とか自由市場化の問題で言えば、ちょうど自民党とほぼ同じくらいの主張をゴルバチョフは提案しております。それが現在のソ連の農業の現状です。
 それで、後ろに書いてあるけれど、先に言ってしまいましょうか。
 これは今申し上げました本の中に書いてあったんだけど、1982年度のデータですが、ソビエトの農場っていうのはコルホーズ、つまり協同組合経営の農場のことですが、これが全体の43.3%を占めている。ソホーズ、つまり国営農場ですけれども、これは51%で半分を占めている。それから個人副業経営という個人経営の農場が少し許されているわけですが、それはヘクタールにすれば615万haで、全体の2.9%にあたる。と、こうなっているわけです。
 これを見ると、何が問題なのかっていうのはとてもよく分かると思います。この2.9%にあたる、つまり50%か40%あるコルホーズやソホーズじゃなくて、個人経営の2.9%しかない耕作地でやってる個人経営の農産物が全生産に占める比率っていうのが書かれてあるわけですが、それを見ると(笑)ジャガイモの全生産量のうち63%は2.9%にあたる個人経営の土地で作られているわけです。こういうバカな話はないわけですよ!もっと言うと野菜も32%が2.9%の土地で作られているわけです。で、食肉も30%が2.9%の土地で作られている。コルホーズやソホーズで作られているんじゃないんですよ。牛乳も27%が個人経営のところで作られているんです。鶏卵も31%は個人経営のところで作られている。で、こういうバカげたことがなぜ行われてきたのかって言えば、要するに土地の国有化と全国民的管理による共同耕作の原則を外したら、自分らは社会主義じゃなくなっちゃうんじゃないかっていう危惧があるもんですから、こういうバカなことをやってきているわけです。
 それで2.9%しかない個人経営の農場で多くの作物が生産されるという、こんなバカなことがどうして起こるかっていえば、もう簡単なことです。いくつか挙げられます。すぐに挙げられます。常識的に挙げられます。
 ひとつは要するに国営農場とか協同組合農場っていうのは給料が決まっているから、いくら働いたって、いくら生産量を上げたって、自分の財産とか収入にはならないわけです。だから官僚並みにっていいますか、まあ役所並みにやろうじゃないですかとか、怠けもせずに働きもせずにやろうじゃないですかっていうことになるわけです。それに対して個人経営の農場では、作った農産物は売ったら自分のお金になるわけですから、こちらの方に力を入れてしまうのは当然なわけですよ。当然なことなんです。
 もうひとつはたぶん機構上のいろんな不備があるんだと思います。つまりコルホーズの経営とか国営農場の経営というものの中で、上の奴がうめえことしてうまい汁を吸っちゃったとか、あの野郎、気に食わねぇとかいろんなことがたくさんあるんだと思います。つまりそういう機構上の問題とか人間上の問題とか人間関係の問題があるために、こっちの方では能率が上がらないで、個人経営の方で能率が上がるということになっているんだと思います。それは常識的に考えられる考え方です。ソ連問題の専門家はもっとちゃんとよく研究しておられるでしょうけれども、僕らが常識的に考えてなぜこんなバカなことが起こるかっていえば、それだっていうふうになるわけです。そうしたら、つまり何が問題なのかって言ったら、要するにこの機構が問題じゃないかっていうのがひとつあるでしょう。
 それからもうひとつは私有っていうこと、マルクスはこの場合には批判的に否定的に言っているけれども、私有ということはマルクスやエンゲルスが考えたほど単調じゃなかったということだと思います。つまり欲望の問題、私有の問題っていうのに対してこの理論が浸透していくだけの力がなかったんだと思います。マルクスでも他のことだと、つまり経済論とかそれから国家論とか法律論とかそういう部門になると、個人の欲望の問題まで浸透するだけの理論的な威力があるんですよ。だけど、少なくとも農業問題に関する限りはマルクス、ましてやエンゲルスはそうですけれども、個人の欲望をどうするんだとか、私有をどうするんだっていうところまで浸透していくだけの理論がないんですよ。持てなかったんだと思います。それがこの問題がこういう矛盾を来たして、いま現れてきている原因だと思います。

10 歴史の無意識に任せた考え方

 ここでゴルバチョフは、もし個人経営者が農場を求めるならば耕作地はいつでも貸すぞっていうような、そういうやり方に変えようじゃないかっていう提案を今年の中央委員会かなんかでやっています。それは新聞に出ていました。つい最近の新聞に出ていましたから、そうだと思います。つまりゴルバチョフはこれらの矛盾、こういう馬鹿げた矛盾に対してあまりに阿呆らしいので、そういう提案を始めたんだと思います。
 そんなことはある意味では当然なんですけれども、しかしその問題は源泉からいえば19世紀末の頃から深く理論的な原型があるわけです。本当を言うと、この理論的な原型をきちっと料理できなかったら、やっぱりいろんなことが起こるわけです。つまり自由化が進んで日本の自民党とおんなじような政府になっちゃったっていうようなこともありうるわけです。ありうるでしょう。で、そうなった場合にそれがいいのかわるいのかというとき、この原則が心に引っかかって、無意識に引っかかっていれば、それはいいとか、それはわるいんだとか言える。
 だからあくまでも社会主義政権を守るんだというふうに考えていると、社会主義政権をぶち壊すようなことまで言われちゃったら、それは反革命であるということで、銃と戦車でもって弾圧しろっていうふうになるわけです。裁判になるわけです。なぜそういうことになるかっていえば、理論的にこれを料理できないからなんですよ。つまり料理できないし、できるかもしれないのにしようとしないからですよ。特に日本のマルクス主義者みたいな人たちはしようとしないんですよ。で、これをちゃんと料理しておけばいいんですよね。つまり、『この場合はだめだぜ。』とか、『この場合はここまではいいけど、欲望の問題まではちゃんと信奉できないぜ。』とか、そういうことをちゃんと料理ができればいいわけです。で、料理していなかったり、料理したら神聖なものに触っちゃうんじゃないかっていうような考え方がある限りは、やっぱりしばらくはこういう自己矛盾を繰り返していく以外にないんだろうというふうに思います。
 日本の進歩派っていうのもだいたいおんなじことですよ。同じことをやっています。つまりこういう矛盾があるのに、この矛盾に目くじらを立てたら『おまえは反動だ、保守派だ』っていうふうに言われちゃうんじゃないかと、どこかで考えているもんですから、決してこういうことは提起しないというふうになっていく。すると、結局は自民党の方が進歩的です。つまり自民党の方がだいたいゴルバチョフとおんなじ程度には農業の自由化っていうものをやっています。だからゴルバチョフの行っているペレストロイカっていうのはだいたい自民党とおんなじくらいの程度の進歩性だっていうふうにお考えになったらいちばんいいんじゃないか。それがいちばん分かりやすいと思いますね。そういうふうな状況になっています。
 で、この古典理論の問題は非常に総合的な問題ですから、単に農業だけの問題で考えてもしょうがないんですけれども、至るところでそういう問題にぶつかり、至るところでそれをやらなければいけないように思うわけですが、ただやる場合には孤立を覚悟の上でやらなきゃいけないわけです。だから実際問題として、みなさんの方がもうそんなことは言わなくてもちゃんと分かってるんだということで、さっさとやっちゃえばいいわけですし、やるんじゃないにしても心の中で『うん、これなんだよ。』とか、『こうなんだよ。』っていうことはちゃんとどっしりと心の中に置いといた方がよろしいんじゃないでしょうか。たいへん難しい古典理論の問題がひとつここには含まれています。
 それならば、どこでもって引っかかるのか、つまりマルクス主義者とか進歩派っていうのはどこで引っかかるかって言いますとね、結局は農業っていうのはどういうふうにあったら理想なのかっていうこと、そこで引っかかるんですよ。つまりそれが言えないんですよ。それが言えずに、農業っていうのは土地を国有化してそれで共同経営すれば、生産力も向上して、そして平等で、つまり階級的な格差みたいなのが起こらない。これがいちばんいいんだっていうふうに、今もそれを理想としているわけです。つまり最後はそこです。そうするとおもしろいでしょう。おもしろいでしょうっていうのは、つまり日本の進歩派っていうのはそういうふうに考えて、最後はそこで引っかかっているわけですよ。
 ところが、ソ連みたいな社会主義権力が政権を握ってだいたい半世紀以上、まあ70~80年経っているようなところでは、逆に今度は自民党が言いそうなことを言い始めているわけです。なのに、日本の進歩派はかつてソ連や中国がやったことを繰り返そうとしているわけですよ。また初めからやりたいわけですよ。その考え方をやめない限りだめだと思います。
 しかし歴史っていうのはおもしろいもんで、やっと現在少しずつ先進的な社会主義国、つまりソ連とかポーランドとか、そういうところではこの古典的な考え方から脱却しようという兆候が見えてきています。そういう時に我が進歩派はここでまた古典的な考え方でやろうとしているわけです。そういう歴史の逆説というか皮肉っていうか巡り合わせっていうのはたいへんおもしろいです。その巡り合わせの循環というのが同時代的に起こってんだということをみなさんの方では頭の中に入れておいていただきたいんです。そういうふうに歴史の巡り方というのが同時代的にあるんだということ、それをよく判別して頭に入れておいた方がよろしいと思います。
 歴史は資本主義から社会主義へ行って、社会主義から共産主義へ行ってというふうに単調な進歩歴史観で考えない方がいいです。それからもうひとつは、ソ連とか中国が社会主義というものを実現、具現しているかどうかとは考えない方がいいです。つまり僕らの言葉で言えば、ソ連も中国も社会国家主義なんですよ。で、なぜ社会国家主義が成り立ってるかっていうと、様々な事情があるわけですけれども、やっぱり土地の国有という概念を初期の社会主義者が出してきたことがずいぶん大きな規制力を持っているんだというように僕には思えます。だからここもよくよく判別して、きちっと料理しておいた方がいいっていうふうに僕には思われます。
 つまりそこの問題が現在のつまり農業の問題の眼目になってきます。

11 農業の理想像

 そうすると、それじゃ農業はどうあるのが理想なのかということに対して僕はどう考えるかというと、国有化が理想だとは思わないんです。
 農地改革が戦後、占領軍の管理のもとに行われて、小作が解放され地主、特に不在地主の土地は没収に等しい買い上げ方でもって自作農に分け与えられたわけですけれども、それによってどういうことが具現したかって言いますと、つまりこれが日本の農業の特徴なんですけれども、それまでは農地が小規模ですから大規模な地主も不在地主もいない、だけど小規模の地主はあって、そこへたくさんの小作人が働きに行っている、そのほかに小規模な自作農がいる。と、こういう状態で日本の農業は続いてきました。それが農地改革で、これは一種のパターン化した言い方ですけれども、小さな自作農がばーっといっぱい並び立つようになった。こういうイメージをすぐに思い浮かべるのですけれども、僕は日本の農業っていうのは、小さな自作農がそれほどの格差もなく、ばーっと一面に並び立っていて、それで農業を自営しているという形がかなり理想に近いっていうふうに思っています。
 その状態はマルクス風に言うと、土地国有化に最も敵対的な考え方を作りやすいんだ、ということになります。つまり小所有者といって、小土地所有者の根性が丸出しになって、土地国有化に対して敵対心を生じやすいんだというふうにマルクスは否定的に言っていますけれども、僕は日本の農業っていうのはどうあったらいいのかって言ったら、国有化されたらいいとはちっとも思っていません。
 もし国有化ということをするとすれば、一般の自立農家、つまり全般的にあまり格差のない自立農家に対して利益である限りは生産手段も土地も国有化、あるいは共有化した方がよろしいと思いますけれども、それはもうまったく保留が付くのであって、きわめて部分的にやるっていうこと。一般の自立的な農家に対して利害に反してきちゃったらば、国有化なんかやらないっていうこと。つまり国有化っていうことは社会主義の大前提でもなんでもないっていうことです。だから一般の農家の利益を促進したり、利益を守ったりする限りにおいて生産手段やなんかを国有化、あるいは共有化したほうがいいと思いますけれども、それ以上の意味を国有化っていうことに持たせるのはだめだろうというように僕自身はそう思っています。
 僕の考え方では農家は、あるいは農奴は理想的にどうあったらいいんだということについてはそれぞれの地域がありましょうけれども、日本の場合で言えば、小さな自立農がべつに階級的な、階層的な格差もなく並び立っていて、それで自分達で協同した方が利益だっていう限りにおいて利益を推進するための共有関係っていうのを部分的に作り上げていくっていうような、そういう考え方を僕なら採ります。僕の考え方ではそれが農業における理想です。日本の農家における理想なんです。
 ところで、だんだん移っていきますけれども、なぜ理想っていうのが問題になってきちゃったのかということですけれども、たぶんたくさんの要因があるでしょうけれども、ひとつの要因は小さな土地を持っている自立農がたくさんできてしまったこと。そうすると工業が発達し、都市が発達していくにつれて、都市の近郊からどんどん自立農の土地が宅地化していくっていうことになっていったんだと思います。つまりこの問題については、もし農業社会というのが理想的な社会だとする考え方が正しいとすれば、これはもっともっと早く、そのことに気づいていなければならなかったわけですけれども、僕の理解の仕方ではもう日本の農業はその段階を過ぎてしまいました。つまり、たくさんの自立的な農家が並び立って、それで国家的な、あるいは国民的な規模で自立自給し、食料も自給できるし、じゅうぶんな貯蔵もできるし、じゅうぶん安い農産物を自分の国の一般大衆に、消費者に提供できるっていうような、そういう時代っていうのは速やかに過ぎてしまいました。
 そういう農業の理想形を描いている描き方は、たぶんもうだめでしょうっていうふうに僕には思われます。その意味では農業を主体にして考えたら、たいへん悲観的な見方が正しいんじゃないかというふうに思われます。

12 農家の現在

 そこで次は農業の現状認識ということになっていくわけです。で、その前にソ連の問題と絡めて言いますと、現在の日本の進歩派の保守的な農業面っていうのは国内食料の完全自給、それからお米の自由市場化の阻止、殊にお米の輸入には反対である、それから生産者米価を引き上げろ、それで食管制度は守れ、消費者の米価を引き下げるように生産性を高めて良質なものを作れっていう、そういうことだと思います。
 そういう方針で行われていると思いますけれども、しかしどれをひとつ取ってしても保守的であるか、そうじゃなければ、折衷的であります。つまり、現状を根底から変えてしまうようないい方法はどこにも含まれていません。
 それからこれは口でうまいこと言っているだけで、簡単なことを言っているだけなんだけれども、食管制度の保守とか米の自由市場化阻止っていうことと、生産者米価の引き上げということと、それから消費者米価の引き下げということは矛盾しないのかって言ったら、たいへん難しいと思います。だからいいことを並べて言ってる、つまり抵抗の少ないことを並べて言ってるだけで、見かけ上は進歩的に見えるわけです。
 つまり何をもって、何を○○○して基準にするかっていったら、そこを基準にしてるのかもしれませんけれども、無意識にしてると思いますけれども、それだけのことを言っているだけで、全然そういうのは進歩の意味は持っていないと思います。
 それじゃ、日本の農家の現状っていうのはどうなっているんだっていうことを申し上げてみたいと思いますけれども、これはこの前も申し上げたと思うんですが、この前と違うデータを申し上げてみたいと思います。で、農家の戸数と人口と、それから就業人口っていうのはどう移っているか。
 戸数で言いますと、1960(昭35)年から1980(昭55)年の間に農家の戸数は24%減っております。マイナスです。それで、農家の人口は1960年から1980年の間に38%減っています。それからもっと減っているのは就業人口です。就業人口、これは1955年って書いてありましたから、1955年としておきます。1955年から1980年の間に63%減っております。つまり農業の問題は1960年、つまり今から20、30年前のその時を基礎にして言ったら、全然イメージが違っちゃうんですよ。全然違うんですよ。農家就業人口はもう63%も減っちゃってるわけですよ。まったく農業はこの時の基礎でもって論議してもいけないし、ましてや食管法っていうのは戦争前につくられて、戦争中に改正されて、つまり日本の社会ファシズム、あるいは農本ファシズムが提起をした問題なんで、それが戦後も引き続いているわけですよ。で、引き継いできているわけですけれども、そんなことで現在の農業の問題を、だいたい裁断しようとするのはまったく無理だっていうふうに僕は常識的にそう思います。つまり根拠がないんですよ。食管制を保守せよっていう、根拠がないんですよ。だからそれはデータで○○○。
 それから農家の就業人口は1950(昭25)年には49.9%、だから国民の50%っていうのはだいたい農家だった。ところが1980年には9.8%が農家の就業人口だ、と。つまり全国の9.8%しか就業している人がないっていうことです。これを農業の問題を考える場合に基礎にしなければならないということを、ものすごくきちっとお腹の中に据えていないといけないっていうふうにと思います。つまりそれほど日本の農業はすでに年々戸数も人口も全て減少していってる状況にあります。
 で、今度は所得の比較をしてみましょうか。農家の所得と都市の労働者との所得の比較ですけど、これはだいたい農家の方が都市の労働者の平均よりも多いんです。それで年を経るにつれて多くなっています。しかし農業所得は多くなっているわけではなくて、農業所得は減り気味です。1960年で89,000円だったのが84,000円になり、80,000円になりっていうように農業所得は減っています。ところが農外の所得が増えているわけです。農外の所得っていうのはつまり兼業農家ということだと思いますが、第一種と第二種の違いはあるでしょうけれども、世帯主がほかの会社に正規に勤めているとか、出稼ぎしてるとか、あるいは世帯員の一人乃至は二人が働きに出てるとか、現在、全農家のだいたい80%が兼業農家です。で、残りの20%ぐらいが農業専門の専業農家です。つまり全農家の80%がすでに兼業農家になっちゃってるっていうこと。そういう状況でまた農業の問題っていうのは考えなきゃいけないっていうことがあると思います。
 また、農業で経営が成り立っているのは4.6%で、そのほか扶助を受けているのは5.7%。で、農家でも比較的裕福で、一人以上の人を雇って農業をやっている農家は、つまりお金持ちの農家ですけれども、それは0.2%。で、農外で自営を兼業している農家は2.7%っていうふうになっております。
 これでお分かりのように、今の農業を二つの特徴で捉えるとすれば、ひとつは兼業農家が圧倒的多数になっているっていうこと。それからやっぱり、さしたる大地主も、さしたる貧困な農家もいなくて、平均的に言えば小さな自立農家がたくさん並び立っているっていうこと。それでたくさん並び立っている自立農家がここ1960年から1980年の間もそうですけれども、戦後ずっと徐々に都市近郊から宅地に侵食されつつある。農家の戸数はどんどん減っていくんだけど、中身の構成はそんなに変わっていなくて、割合に小さな自立農家がそこに並び立っているっていうようなのがだいたい日本の農家のイメージじゃないかっていうふうに思います。
 そうしておいて、これからの推移っていうことを考えていきますと、たぶん特別なことがない限り農業の人口はどんどん減っていくでしょうし、また都市近郊からの宅地化っていうのは進行していくと思われます。

13 自由化の原則と農業の未来

 じゃあ、それはどこまで進行していって、日本の農業はどのくらいのところで留まるかというと、もうこれ以上は小さくなりようがないよとか、これ以上は小さくさせたくもないよ、というようなそういう限度がどこかに必ずあると思います。でも、たぶんしばらくはまだこの減少傾向っていうのは続いていくと思います。それに対して農家っていうのはどうしたらいいんだっていうことがあると思います。
 それは例えば、いろんな見解になって現れてきているわけで、つまり、お米の輸入自由化に反対することで農家の経営を保てっていうこととか、食管制度を守って農業生産物の流通とか生産量、価格とかを食管制の範囲で国が決めて、それでその範囲を逸脱しないようにして農家を守っていけとか、そういう考え方みたいなものが対策として考えられることだと思います。
 それから、一方ではそんな対策は意味がないんだ、本当を言っちゃったら自主流通米と闇米のパーセンテージはもうすでに食管制の主要な役割を果たしている政府買入米に対して50%以上を越えちゃってるんだから、食管制なんか全然意味がない、だから農業は自由市場化した方がいいんだ、そして良質でいいお米を生産していったならば、その方がずっと農家にとってはいいんだ、建前上の食管制に固執するなんていうのはまったく意味がないんだっていう農家の考え方っていうのもあるわけです。
 たぶんこういう考え方をとっている農家の例は山形県の村山市ですけれども、たぶん相当優秀な農家というか、お米の生産とかそういうことに対してよく考えている農家だと思います。それで自信があるから、やっぱり自由市場化して競争させて、安くいいお米を消費者に提供すればいいんだっていうように、積極的に主張できるんだと思います。またここの農協の場合で言えば、さくらんぼの品質改良と研究をやってみて、アメリカのさくらんぼと競争してみたら、存外勝っちゃったっていう、なんかそういう一種の自信みたいのがあって、それでこういう主張をしてるんだと思います。これは実際に自由化っていうものと競争してみて、それで勝ったっていう自信だと思います。そして品質の改良と風味の向上とか土壌の改良とか、そういうものを勉強してやって、それで実際に実現して、そうしたら絶対輸入果物に対して負けないんだっていう実績を上げたんで、そういう自信を持ったんだと思います。いずれにしろ農業がせめぎ合っている問題はそういう問題であって、そういうところに現れていると思います。
 ここのところで、先ほど消費者の原則ということで、要するに安くてうまいお米と、高くてわるいお米が目の前に比べて置かれたら安くてうまい方を買う、それが消費者や一般大衆にとって当然なんだ、当たり前なんだと申し上げましたけれども、じゃあ農家にとってどうなんだろうか、どうしたらいいんだろうか。つまり山形県村山市の篤農家の言うように、優秀な農家の言うように、全部自由市場化して食管制なんかとっぱらっちゃった方がいいんだっていう主張がいいのかどうかということになるわけです。
 そこで唯一の原則は、個々の農家の人がそう主張するならば、それは僕は肯定されるべきだっていうふうに思います。つまり個々の農家が「お米は自由化した方がいいんだ、食管制度なんか俺は守らないし、やめた方がいいんだ。」と、こういうふうに個々の農家が主張するならば、その主張は肯定されるべきだというふうに僕は思います。個々の農家がそう主張して、それでいいお米を作って、高い値段で闇米にして売ったというのならば、それは僕の理解の仕方では肯定されるべきだと思います。
 ところで、問題はこういう自由市場化したらいいんだとか、食管制は全部やめてしまって、それでお米の輸入は全部やった方がいいという主張を、集団あるいは組織としてすることはどうだろうかっていうことになるわけで、そこがためらいのいちばん根源にあるところだと思います。そのためらいが何なのか。つまり個々の農家としてならば、自由市場化しちゃおうがいいんだっていう主張をする人がいてもまったく肯定されるべきだっていうふうに僕には思われますけれども、そうじゃなくてそれが主張されるような集団、組織が出てきた場合にそれはどうなんだっていうことになると思います。
 そこで問題になるのが、要するに原則は、個々の農家あるいは農家全般にとって利益であること、あるいは利益を促進するものである限りにおいて組織化された方がいいっていうことです。つまりある範囲において、ある程度において組織化されていた方がいいっていう主張になります。だから、自主流通協議会の内定内容が政府の自民党の唯一の自由化の度合い、限度だとすれば、これよりももっと自由化したほうがいいのかもしれませんし、また、まったく自由化した方がいいのかもしれません。しかし、いずれにせよ、もし公共的なものがこれに介入し、あるいは組織的に米価の問題とか農産物の問題に介入することが肯定される場合があるとすれば、それは個々の農家の利害、利益に反しない限りにおいて、あるいは利益を促進する限りにおいて公共的に介入した方がいいっていうことになります。で、それ以上の介入はよくないっていうことになると、僕は思います。
 それからそれとももうひとつ見合うことになるわけですけれども、個々の農家が「俺は絶対守らない。」と、つまり闇米で自由競争でいくっていうふうに主張して、実行するとするならば、それは肯定されるべきだと僕自身の考え方ではそうなります。しかし組織が、あるいは公共的なものが介入するとすれば、個々の農家に対して農家の利益を促進するという、そういう方途である限りにおいて介入されるべきだと思います。それから個々の農家全般の利益を守るということ、それは建前として守るんじゃなくて、具体的に収入が多くなるし、生産量も多くなるっていう、そういうことが守れる限りにおいて、公共的な介入っていうのは肯定されるべきだっていうふうに僕には思われます。
 つまり、それは現在の日本の農業に対してというよりも、その、なんて言いますか、僕なりに考えた、理想的な考え方であり、また農業はどうあるのが理想かっていうのに対する僕のおおざっぱな考え方になっていきます。これはまったくの原則論ですから、個々の具体的な場合についてはどうなんだっていうことは論議していかなければいけないし、もっと言えば、個々の農家の方々の具体的な経験の中から最良の方法っていうのは編み出されてこなければいけないわけですけれども、僕らが農業問題について思想的にどこから適応していくんだ、どこからアプローチしていくんだっていう、そういう観点からのみ考えますと、今申し上げましたようなことが結論として言えると思いますし、またどこに問題点があるのかという点についても、歴史と理論的な問題の要点をかいつまむことができるっていうふうに思います。で、そういう分け方が農業についてはなかなか適応しにくいんですけれども、現在の社会主義圏とか資本主義圏が当面している農業問題のいちばん中心にある問題だというふうに、僕にはそう思われます。
 で、あとは本当に皆さんの論議と、皆さんの実際の農業経営の中から問題が出てきたり、出てこなくちゃいけないんだっていうふうに思いますので、まったく原則的なところだけなんですけれども、だいたい現在持っている農業の生産物とか配給とか流通についての問題というのは、だいたいここいら辺のところで尽きるのではないかと思われます。一応これで終わらせてもらいます。それで、あともし何かご質問でもございましたら、やってみてください。以上になります。

14 司会

15 質疑応答1

(質問者)
 えーと、今吉本さんの言われた進歩派の…(以下、聴き取り不明)。
 今吉本さんが言われたところというのはあるんだけれども、私の周りにも食管法を守れ、自由化するなっていう農家がいるし、またその逆のことも山形の村山市の農協のような形でもってあるわけだけれども、農家の特性というか、農家の人たちは言わないだろうと思うのね、つまり農家の人たちは食管法はなくてもいいんだ、自由化しない方がいいんだとは言わなかったと思うんですね。
 それはどういうことかと言うと、やっぱり兼業農家が80%いることがすごくあるんじゃないかなと思うんですね。消費者の立場に立てば、たしかにさっき言ったようにうまくて安い米を買うっていうことになるんだけれども、どこかに勤めていて農業をやっていれば、農家の収入っていうのは食管法に頼ってお米を作っていれば、ある程度兼業として(やっていけるので)、兼業している限りにおいては言わない方が現状は維持できることがあると思うんですよね。
 だから兼業農家が圧倒的に多いわけだから、農家の側から食管法はなくてもいいんだ、自由化した方がいいんだということはなかなか言えないんじゃないかなと思うんです。

(吉本)
 あの、たいへん難しいところで、兼業農家がこのデータでも80%くらいを占めているわけですから、つまり現在の日本の農業の問題っていうのは、兼業農家を主体にして考えるべきだという考え方が成り立つと思うんです。そしてもし兼業農家を主体にして農家の問題を考えるというのならば、それは日本の農業っていうのはすでに純粋な農家というのはもうないのとおんなじだっていう考え方もまた延長戦で成り立ちますよね。僕もそういう考え方はありうると思いますね。
 そうすると、仰るとおり兼業農家が主体だと考えれば、兼業なんだから食管制でも何制でもいいから、とにかくそれに任せておけばいいんだっていうものがどこかにあるということはたいへん便利なことだというか、そういう考え方はありうると思いますね。
 だからなんて言いますか、農業についての考え方が日本ではどこから出てきたかといえば、明治の初め、十年代だと思うんですけれども、明治の十年代に近代的な意味での日本の農業についての考え方が始まったわけです。その時の無意識の伝統というのがやっぱりあって、僕らもなんかこういうことを言うとき、どこかに純粋な専業農家っていうのがあると頭に浮かべていろんな考え方をするもんですから、しばしば現実とは違ってしまって、それはただのイメージだってことになってしまう。だから現実の問題はあなたの仰るとおりなのかもしれないですね。
 で、僕はべつに食管法はあった方がいいんじゃないかっていう考え方は否定的しないですね。僕はそこのところでは否定的ではないんですよ。つまり原理的な農業についての理論というか、考え方のところからいけば、ちょっとそれは問題だよっていうことなんで、食管制が出てきた経緯と、それから今も存続している経緯というのが問題なんだよっていうことなんです。
 つまり僕が何を問題にしたいのかっていうと、原理的に言いますと、日本では要するに国家社会主義と社会国家主義っていうのがもう表裏一体なんですよ。
 それでそういう経験を戦争中に経てきているわけです。つまり戦争中に、たしか食管法が最初に始まったのは昭和14年ですね。で、もうすでに昭和16年には太平洋戦争に突入しているんですよ。それで太平洋戦争に突入した翌年か翌々年には食管法の改正でもって米穀配給統制経済が始まっているわけです。それは日本社会ファシズム、農本ファシズムの業績なわけですよね。そこで、そのときに農本ファシズム、社会ファシズムだった人はなんなのかっていったら、その前はマルクス主義者、これだったんですよ。そういうふうに日本では転々としているわけで、戦後その人たちは今度はマルクス主義に返るわけで、それはロシアで展開されたものですけれども、要するに社会国家主義か、国家社会主義かどっちなのかっていう問題なんですよ。だから食管法っていうのはその両方で通ってきてしまったんですよ。
 もし自民党が全くの自由主義政党だとしたら、直ちに現在の食管法をやめると思いますね。お米も自由化、農家は自由競争だと。それでお米はいいものを安く作ったやつがよく売れて儲かるというふうにすると思います。しかし、やっぱり自民党といえども、他の世界の諸々の資本主義国と同じで、第二次世界大戦を経てきているわけですよ。そして管理の全くない資本主義というのは成り立たないんじゃないか、少しの管理もない自由主義的な経済というのは成り立たないだろうっていうことはたぶん経験上よく知っていると思うんです。だから食管法を自由化するにしても保守的に自由化するっていう感じになってるんだと思うんです。つまりそれはやっぱりひとつの歴史的な経験なんですね。
 そして僕らが国有ということと国民的管理ということは違うよって言ったように、現在の社会主義国は労働者とか農民の連合が政権を獲ったら、すぐに国家を廃絶するその準備を始めないとだめなんですよね。世界の社会主義国は今ちょうどそうですけれど、そうしないと社会国家主義になっちゃうんですよ。つまり労働者でも農民でも権力を獲ったらすぐに国家をやめる、その準備にかからないとだめなんですよね。必ずだめになるんですよ。で、その準備っていうのは何かっていったら、口で言うのは簡単なことなんですよ。要するに無記名投票で直接選挙して過半数に達したら、その政権はすぐにクビにできるっていうふうにすればいいんですよ。そうすれば国家の廃絶の第一歩というのができるんですよ。ソ連だって中国だってそれをやっていれば、こんな問題は生じないです。スターリンも大粛清なんて生じないです。
 だけど社会国家主義になっちゃうんですよ。初めは社会主義なんだけど、権力を獲るとそれを手放さないし、国家を解体しようとしないから、つまり開こうとしないもんだから、社会国家主義になっちゃうんですよ。日本なんかいちばんそれを経験してるんですね。社会国家主義が国家社会主義になったんですよ、戦争中にね。それで食管法なんかを作ったんですよ。それで戦後はまた社会国家主義に返ったんですよ。返らされたんですよ。それはもう日本の伝統なんですよ。だからお米の問題というのは歴史的な経験の問題なんですよね。
 で、いろんな自由主義者といえども、全き自由主義っていうのはだめだということを戦争中にじゅうぶん体験しているんですよ。だからどこかで管理を外すのは怖いわけです。また管理を外したら本当にだめなのかもしれない。だから世界の資本主義国っていうのは、アメリカでだいたい40%は管理していますよ。アメリカ資本主義の30~40%は国家管理していますよね。先進的な資本主義国はどこでもそうですよ。フランスならもっとそうでしょう、一応名目だけは社会主義政権ですけど、あれなんかもっと○○○。
 日本でもたぶん30%くらいは国家管理は現にあると思います。つまりこの自主流通協議会のこういう決定なんて食管制を自由化するといっても、わずかにこれだけのことですよね。
 これだって自由化だけど、これに管理力っていうのは相当多く働いていると思うんですよね。つまりそれくらいに自由主義者といえども全くの自由主義経済っていうのは成り立たないということは、やっぱり経験上は知ってるんですね。そんな経験なんかない方がいいというくらいに、もうみんなおっかないんですよ。本当に自由化したら、とんでもないことになるんじゃないかと、おっかないわけですよ。だから自民党といえどもこのくらいしか自由化はできないですね。
 だけど、実際の「俺は自信があるぞ。」って言う篤農家は「自由化していい物を安く提供すればいいじゃねぇか。」って主張するでしょうね。それもとてもよく分かると思いますね。ただ、それは公共的には主張できない問題で、個々の農家がそれを実行するのはこれは差し支えないと、僕はそう思います。ただ僕なんかいくらそう思ったって、別に権力も何もねぇし、なんでもねぇから言ってみるだけですけれど、僕はそう思っていますね。

16 質疑応答2

(質問者)
 食糧管理制度の問題と、それから戦後のマッカーサーの農地改革についてなんですが、戦後間もなく食管制度の改定があったということですが、マッカーサーがやった時点で食管制度はなぜ(廃止されずに維持されたのか?)。歴史的には非常に困難な時代だったからなんでしょうか?
 マッカーサーがやった、いわゆる農地解放がたくさんの自作農を作ったわけですが、そのことは歴史的にみて、日本の農業にとってどういう意味があるのかということと、それから先ほど理論や将来への射程などを持たずに歴史的に無意識にやってきたと仰いましたが、もっと簡単に言えば、以降の時の政府は、まあほとんど自民党政府なわけですが、農業政策をほとんど持たずに自然のままにやってきたと理解すればいいんでしょうか?

(吉本)
 最後のところから申し上げますと、農業政策を持たなかったんじゃなくて、その都度その時々に起こってきた問題に対して、これが最良の解決だっていうやり方でもってやってきたんだと思います。それが無意識にやってきたということです。
 だから農業政策はもちろん持ってきてやってるわけですけれども、農業というのはどうあったらいいんだっていう理念を持たなかったというふうに思えばいいんじゃないでしょうか。だから政策もあったし、実際それもやってきて、できる限り最良の方法を知恵をしぼってやってきたということは事実なんだけれども、ただ農業理念は、つまり究極的に言えば農業はどうあったらいいんだっていうことの理論は持っていなかったということじゃないんでしょうか。
 もうひとつ食管制ということですけれど、これができる前に、明治5、6年だと思いますけれど、地租改正というのがあるわけですね。それ以降の歴史的な経緯も前史も食管制には含まれているわけです。
 それは要するにお米が暴騰したり暴落したりして、それで農民一揆が起こったりということ、つまり農産物の価格、特にお米の価格が上がったり下がったりすると、それが社会問題にもなりますし、一種の一揆にもなりますし、大変な状況を経てきているわけですよ。それでどうしても怖いんですよ。食べ物っていうの価格が変動したり、天候に左右されることがとても怖いっていうことがあるわけですね。そういう過程があって、それをなんとか生産と価格とそれから流通とをうまく管理してやれば、価格の変動によって困るということがなくなるんじゃないかということで食管制度はできたように思います。
 それができるまで、つまり少なくとも明治の初年から大正の末年まで、あるいはもっと昭和の十年代まではお米の価格変動の問題でも大変苦労してきているんですね。だから非常におっかないんですね。お米が高騰したり暴落することはとてもおっかないっていうことがどうしてもあるわけで、それでその挙げ句に戦地に入っていって、内地でもそうですけれども、侵略に出かけていった外地でも食料を確保しなきゃいけないみたいなことになってきて、食管制度が配給制度として非常に統制されてきたってことがあるんですね。そういう経緯を経てきているので、食管制には前史と後史があると思います。
 それからまた敗戦によって戦争は終わってみたんだけど、食料なんかどこにもない。それで米よこせってことになりますし、それから我々の体験でもそうなんですけれど、あんまり食べ物がないんですよね。僕らはまだ学生の半ば頃でしたが、経験上から言うと、学校に行くのに日暮里の駅の階段を上がってホームを乗り換えるんだけど、足がかったるくて階段を上がるのが苦痛なんですね。いや、それほど勉強家だったという意味じゃなくて、退屈だったから学校へ行ってたっていうことなんですけれども(笑)、それくらい食いもんなんていうのはなかったんですね。そういう経験があるんですよ。
 だから食管制というのはやめる機会を失ってしまったんですね。それで現在までずるずると来てるっていうのはおかしな言い方ですけれども、つまりいろんないいこともやってきていて、それで今も続いているんだと思いますけれど、いよいよ本格的にこれを考えなくちゃいけねぇみたいな段階に自民党政府といえどもなってきたのが現在の状況じゃないか。それは自主流通米、闇米とそれから政府買上げ米との格差がこれほど違っちゃいましたし、消費流通も自主流通米がもう半分を超えちゃってるわけですから、これだったらやっぱりどうすることもできないですよね。見直す以外の方法はないですよね、もう。別に数字だけを信ずるわけじゃないけど、ここまでいったらもう検討するほかにないんじゃないかということにやっとなってきたということじゃないんでしょうかね。
 それでも食べ物に関する限りは本当に自由化することは怖いんですね。自民党の先生もそうでしょうし、僕らもそうだけど、飢えた経験がみんなあるもんですから、やっぱり食いもんってのはこえぇなっていうのがありますから、全部取っ払っちゃうことはできないんじゃないでしょうかね。そこの問題のような気がするんですけどね。
 だから政策はあるんだと思うんですよね。だけど理念はないと思うんですよ。その時その時、農家の人の要求にある程度応えられるというのが、つまり過半数の農家の人に応えられると考えて、こういう政策を採るわけですから。その時々の政府が採る政策というのはいつもそうですから、本当にそうかどうかは別として過半数の大衆のためにこれがいいぞって思われるような政策をとりますから、それ以上の政策を採れば、革命ですからね。革命する気はあったらやるでしょうけれども、ないと思います、たぶん。自民党にはないと思います。無意識にやっていると思います。つまり無意識にお米の自由化の方向に進んでると思います。歴史の必然の方向に進んでいると思います。つまりこれは無意識にやっている革命なんですよね。革命なんですよ。だけど、決して意識してこれが理想だからこうするんだっていうような、多少の抵抗があってもこうするっていうようなことはたぶん自民党にはできないと思いますね。まして社共にもできないと僕は思っていますけれども。
 つまりそうじゃなくて、折衷的にいいと思われることを政策としてやる。で、政策をたまたま担当していない政党がこれが大多数の民衆が考えられることだろうと見当をつけて、文句をつける。片一方は政策を担当しているから、それが政策をやるっていうそれだけのことで、だからその時々の政策の範囲内で変わるんじゃないんでしょうか。それだけのことであって、理論があるとか理念があるってことじゃないと僕は思いますね。そこが食管制度が今も存続して、これからも存続するかもしれない根拠だと思いますし、またある程度は改正せざるを得ない根拠だっていうふうに、僕はそう思いますけどね。

17 主催者挨拶

18 質疑応答3

(質問者)
 日本の農業論ということでしたけれども、身の回りで見たり聞いたりしていますと、農業外の収入が非常に増えたり、あるいは兼業農家が多いという今の日本の農業の現状がありまして、我々のこの議論をするときにそういう問題もあるわけですけれども、やはり日本の農業のきちんとした展望があるのか、あるならどういうのが理想なんだ、という議論をしたいと思うんですね。
 そういうふうにしていきますと、例えば安定ということについて米に関して言えば、生産者の方は高収入に安定していることが基本的にあると思うんですね。それから消費者の方は安く安定している方がいいというようなことがあって、そこに農業政策というものが介入してくると思うんです。そういうときに今の食管制というものがあって、それはどういうふうにあったらいいのか。消滅しちゃっていいのか、それとも形を変えてある方がいいのか。だとしたら、どういう形にあるのが安定ということに対して理想的なのか。それがひとつ先生にお聞きしてみたいところです。
 もうひとつは先ほどもエンゲルスとかマルクスのお話がありましたが、そういうものを料理していった上で、そうした議論の中から日本の農業の将来性を展望したとき、そういう観点から国民的管理といったものが可能かどうかっていうことをふたつ目にちょっとお聞きしてみたいっていうふうに思います。
 で、まあちょっとたくさんになっちゃってあれなんですけれども、今はお米のことで言っているんですけれども、例えば果樹だとか他の農業生産物について国家的な何か介入、あるいは国民的な管理というものが可能かどうかということについて、そういうようなことを3点お聞きしてみたいと思います。

(吉本)
 えーと、最初はなんでしたっけ。

(質問者)
 結局その、価格が安定しているということについて、国家的な何か介入っていうものが農政上必要であると。あった方がいいんだ、ベターなんだというふうに考えた方がいいのか。

(吉本)
 あのう、先ほどもちょっと申し上げたと思うんですけれども、大雑把な言い方をしますとね、例えば現在の社会主義国では、国家管理っていうのは100%からだいたい80%の方に移りつつあるみたいな言い方をしますと、広義の資本主義国、例えば欧州とかアメリカは逆に管理が30%から40%、もしかすると50%近くまでいくかもしれない。そうすると両方のイメージがある範囲内に近づいて、だいたい同じようなイメージになっていくみたいなことがあります。さしあたってそういう言い方をすると、よく目に見えていることのような気がするんですよ。
 つまり、ある範囲の管理なしには価格安定というものはちょっと望めない。まったく自由な市場で自由な競争をしたら、それで負けても勝っても、あるいは不均衡になっても、あるいは○○○でも、それはもう一番気持ちがいいことだっていうふうに言いたいところなんですけれども、だいたい資本主義社会になってから2世紀近くが経っているし、社会主義になってからも70~80年は経っていて、それぞれいろんな経験を経てきて、またその間にバリエーションっていうか、変種っていうか、社会ファシズムみたいなものが出てきたりしたわけですけれども、そういうものをひっくるめまして、ある範囲内の管理っていうことなしにはあなたの仰る農産物なんかの場合でもそうだし、一般的な商品の場合でも価格安定っていうのは不可能なんじゃないかっていうことは、なんとなく社会主義国、資本主義国の両方の経験から言えそうだと思いますし、そういうふうになってると思うんですね。
 だから、ある程度の管理は必要で、それをどこにもっていくのかっていうそのやり方で為政者や社会権力者、あるいは政府と言い方はいろいろあるでしょうけれども、そういうものの失敗とか成功とかが問われることのように思いますけどね。
 そういうことに照らして言いますと、僕の理解の仕方では日本の資本主義というのはかなりうまくやってきた。つまり、どこまで管理してどこまで自由経済にいけばいいのかっていうことについては今まで、少なくとも高度成長期以降、日本の資本主義及びその保守政府はかなりうまくやってきた方じゃないのかなと思うんですね。ですから、そこでどの程度の管理をどういうふうに行ってきたかっていうことは、歴史的な経験としては相当な意味を持つんじゃないのかなと僕は思っていますけどね。
 だから、ある程度の管理っていうのは必要で、それなしには価格安定というのは不可能であるということ、つまり国家の介入なしには不可能であるということ。ただ、程度の中身っていうのが問題なんだと思う。それは非常に具体的な問題になるんだっていうことじゃないでしょうか。その中で割合に日本の資本主義というのはうまくやってきている。少なくとも、世界の他の資本主義、社会主義に比べてもかなりうまく管理をやってきている。それから管理のパーセントもなかなかうまくやってきてるっていうふうに僕には思えますけどね。
 だからリクルート疑惑みたいな収賄贈賄とか、じゃなきゃ女の問題でなんか女性を金で扱ったとか、そういうことでしか今の政権はあんまり倒れないんじゃないか。(聴衆、笑い)
 そのほかの政策でいったら、かなりうまくやってきたから、ちょっとなかなか文句をつけるのは難しいんじゃないでしょうか。文句はいくらでもつけられますけれども、他の国に比べて文句をつけることはたいへん難しいんじゃないかっていうのが僕の分析ですね。建前じゃなくて、正直な分析ですね。そこらへんのところじゃないでしょうかね。

19 質疑応答4

(質問者)
 農家とか農協が食管制度の廃止になんで強行に反対の態度をとっているかというと、いわゆる農業と市場、農協と市場の問題があって、百姓の立場からすると食管制度というのは非常に楽なんですね。農家の代表である農協ももちろんそうだし、80%が兼業農家というけれども、80%のその内容というものは昔の専業農家と同じ意識が非常に濃い。そこが錯覚を起こしてるんじゃないかと思うんですけれども、ただ統計的にばかりパーセントやなんかに幻惑されている。私はいくら兼業でも質的にはあまり変わっていないように思う。うちも倅がサラリーマンになっていようとどうしようと、非常に土地に対する愛着があるから。
 ですから、食管の問題は一概に廃止するというわけにはいかないんじゃないかと思うんですね。なぜかというと、政府だってそのことはやっぱりわかっているので、今度は米価の据え置きというのをやる。相当ないわゆる今の政府も○○○も支持している団体なんですからね。そいつがみんな反旗を翻したら大変な問題になる可能性がある。そういうような問題があるんじゃないでしょうか。

(吉本)
 それはもうその通りだと思いますね。食管制を廃絶しようっていうことは、それに伴ういろんな制度とか組織の形態を全部廃止せよということと結局は同じことになりますから、そこまでいけば農協も廃止せよっていうふうに当然なっていってしまいます。それがたいへん難しいところのような気はします。
 それは労働運動でいえば、総評(日本労働組合総評議会)を廃止せよと言うのと同じくらい難しいことなんじゃないでしょうか。つまり「あれはあんまり役に立たんのだから廃止しちゃえ。」っていう論理はとても簡単のような気がするんですよ。しかし実際問題として総評っていうのは廃止しろと言うのは大変難しい。それと同じように農協も廃止せよ、食管制度も廃止せよっていうことは大変難しい。

(質問者)
 それともうひとつ、いわゆる80%の兼業農家というのは、みんな実際は自分のところではやらないんだよね、私は百姓ですけれども。それでどうしているかというと、要するに春になるとトラクターを頼んで掘ってもらう、耕地するわけですね。田をならせば、昔はリヤカーを引っ張っていって苗代作って、種まきをして、となるんだけれど、それを省いて、苗を買って植えてもらうんだよね。そうして秋になると、刈り入れは全部やってもらって、ちゃんと袋に入れてもらい、できました、となる。そうでなかったら、みんな農協に収めて刈るだけ○○○。それらをみんな請け負ってもらっても多少でも儲けがあるんですね。なおかつ土地は守ってる。実態はそういうのがいわゆる80%になってるわけです。
 それでもやっぱり土地を守ってるということは、やっぱり昔の意識が非常に濃いんです。だから政府もこれは票に繋がるから、○○○しているわけだから、米価据え置きをやるんです。来年はどうなるかわからんと言うけれども、それだってまだわかりませんよ。

(吉本)
 そう思います。つまり今の状況だったら、兼業農家の割合はもっと増えて、専業農家の割合はもっと減っていくということは確実だと思うんですよね。
 だけれども、「どうせそうなら、そんなのみんなやめてしまえ。」とか、「食管制度もやめてしまえ、農協もやめてしまえ。それでもう自由市場化して自由競争して生き残るのは生き残る。農家をあくまでもやるっていうのだけは残って、そうじゃないのはもうやめてしまえ、兼業してしまえ。」と、こういうように言えるかっていうと、なかなかそうは言えないと思うんです。そういう方向に行くっていうことだけは黙っていたって確実だと、僕は思うんです。だけど誰もどうせそうならやめてしまえということはなかなか言えない。
 そこが非常に難しいところで、日本の農業っていうのは土地の私有っていうことに本当の意味で目覚めたのはそんなに以前じゃないんですね。つまり歴史の中で言ってみれば、目覚めたばっかりなんだよっていう。それまでは例えば、あなたの親父さんとかおじいさんぐらいの時にはだいたい土地は天皇陛下のものだと思ってたわけなんですよね。最後には土地は天皇陛下のもので、それをありがたく借りてるようなものなんだというふうに思っていたわけですからね。
 それがやっとといいますか、農地改革以降、実際に少なくても自分の土地所有ができるようになって、それで小作をしなくてもいいようになって、それで目覚めたっていったって、まだ半世紀も経ってないくらいですから、つまり土地の私有に目覚めた期間というのは本当に歴史の中でせいぜいそのくらいです。日本だったら千数百年でしょうし、東洋全体だったら数千年でしょうけど、数千年間、土地は天皇のものとか皇帝のものだって思っていて、たった半世紀だけ自分の私有だっていうふうに認められもしたし、そう思えるようになったということですから、これをまたたやすく違う形にして執着を断ち切れって言ったって、それはできない相談だと僕は思いますけれど、いずれにせよ、兼業農家が多くなって、それからもしかすると耕作、生産する手段が集団化、大規模化していくことはちょっと避けられないんじゃないでしょうか。

(質問者)
 さっきの山形のさくらんぼの話じゃないけれども、農業のいわゆる外圧というか、要するに農産物の市場開放という問題に対抗するには、やっぱり大型化するほかにもう逃げ場はなくなってきているんですね。それでも…。

(吉本)
 生産性を高めて、それでいい物を安く作るには大型化する以外になかなかできにくいと言うんですけれども、そうすると、どうせ大型化するのならば、誰がするのかっていう問題になる。それはやはりできる限りは自主的にっていいましょうかね、自主的な協議会とか、そういうものができるのがいちばん望ましいわけでしょうけれども、それもなかなか難しいから、きっとまた政府はこういうふうにこの地区はこう大型化した方がいいんだみたいなことになって、そういうふうになるのかと思いますけれども、いずれにせよ、大型化する以外になかなか対抗できないっていう…。

(質問者)
 百姓もピンキリということになるわけだね、結局は。

(吉本)
 そうなんですよね。つまりある者は首を切られ、ある者はよくなりっていうことが起こるわけですよ。

(質問者)
 それがいいのかどうかっていう、そういうジレンマはある。

(吉本)
 そうなんです。つまりそこがとても難しいところなんだけれども、例えばそれは前にあったんですよね。国鉄が民営化するっていうことが前にあったんで。民営化した方がいいに決まってるわけですよ、そんなことはね。決まってるわけです。そんなの反対する方がおかしいわけですよ。だけど反対する者の論理っていうのは、その中で失業しちゃう奴もいるだろうと、それから生まれて初めての土地に配置転換で行かなきゃならない奴もいるだろう。これをどうしてくれるんだっていう問題でもって反対するっていうことが起こってくるわけです。それが総評なら総評の方針になって出てくるわけなんですよね。
 だけど、本当はそういうことと民営化する方が歴史の正しい必然の方向なんだよっていうことを知ってて反対することと、そうじゃないことではまるで違うことなわけですよ。だから、もうそういうことは言ってるパターンがありましてね、型があって決まってるんですけれどね。つまり農家の首を切ったら、首を切られる前より切られた後の方がいい仕事に就けて、収入もよくなったら文句はないわけです。そうならば首を切られたっていいわけだから。そういうことがどうやったら可能になるのかみたいなことが問題になってくると思うんですよ。だけれども、そういう集団化っていうか、大規模化っていうことは対抗上やっぱり避けられないように思いますけどね。

(質問者)
 自給の問題についてですけど、今中国でああいう騒ぎ(天安門事件のことか?)を起こしているために、大豆とか他の農産物が入ってこないで、豆腐屋とかが大騒ぎしているっていう話なんだけれども、こういう問題だってお米に起きないっていう保証はないわけなんだよね。そういう問題をどうするか。

(吉本)
 中国もそうだけど、ソ連は全世界の耕作地のたぶん16%~17%くらいあるんですよ。ソ連っていうのは広大な土地を持ってますからね。だけど、あそこは20%以上食料を輸入してます。それはどうしてだと思いますか。どうしてそんなことが起こるんだろう。
 中国っていうのは、今度は逆に農産物では世界で一番目か二番目くらいですよ。麦だろうが、トウモロコシだろうが、とにかく中国は世界の農産物の1位か2位くらいの生産量です。アメリカに次ぐくらいですよ。でも食品の輸入がたぶん10何%くらいあると思いますよ。どうしてでしょうかね。僕らにはちょっと理解できないんですけれど、ただ理解するとすれば、やり方がわるいんだ、まずいんだっていうことしか理解できないけど、そんなことがあるのかなと思って。あんな広い土地を持っていても20何%食糧を輸入して、それでなんか個人経営のところで農産物をかなりのウェイトで生産しなきゃいけないみたいになって、こういうとんでもねぇことっていうのはどうして起こるのかっていうのはなかなかよく理解できないんですけどね、ただやり方がまずいんだろうっていうことだけはなんとなく言えそうな気がするんですけどね。
 中国の場合はそうで、生産量でいえば、ほとんどの主要な生産物っていうのはたぶん世界で一番か二番ですよ。トウモロコシやなんかもそうだしね。それだけど、輸入していますよね。なんでそんなことが起こんのかねっていうのはよく理解できないところですけど、そういうことがあり得るわけなんですね。特に農業に起こりやすいのかもしれませんですけどね。あり得ることのように思いますね。
 自給っていうと、国境とか関税的な意味での税金とかを全部とっぱらっちゃって、ある所から買ってくりゃいいし、また、ない所へ輸出したらいいしっていうふうに全部とっぱらっちゃう、つまり横に全部開いちゃうという考え方と、それから国家なら国家の中だけで自給できるような農業の体制を作るんだっていう考え方と、まるで直角くらい、こう筋違いになるくらい違いますよね。
 で、その問題をどのように解決したらいいのかというのは、それは政治家とか政府担当者とか、きっと頭を悩ませているところなんだと思いますけどね。そうすると何を基準にして我々は、我々はっていうのはおかしいですけれども、僕なら僕で何を基準にして考えたらいいのかっていったら、やっぱり最後のところまでいけば、要するに先ほど言いましたように、安くていい農産物と高くてわるい農産物があったら、こっちを買うに決まってるだろっていう、その原則でいこうじゃないかっていうように最後のどんづまりになったらそうしますし、農家の人は農家の人でとにかく、自分のやっていく経営にとっていちばんいいやり方はなんだっていうことを考えて、それをやっていくっていうことしか最後には残らないわけですよ。そうやっていって、それじゃ自由化がいいっていうなら、全部自由化したらいいのかってことになってくるので、そこで初めて政府とか政策とかっていうものが介入してくる余地があるんだっていうふうに思いますけどね。
 原則はすごく簡単なことで、要するに自分は誰が見たって自分はこっちとそっちでいったら、これを取るに決まってるじゃないかっていうものを取るという以外にないと僕は思いますけどね。個々の農家だってやっぱりそれしかないんだと思います。それでとてつもない混乱を生ずるとか、とてつもない問題が出てくるというんだったら、初めてそこに政策の問題が介入してくる。で、どの程度まで介入したらいいかっていう問題が入ってくるんだと思います。
 だから何を主体にこういう問題を考えたらいいのかっていったら、やっぱりごく一般的な消費者とか、ごく一般的な生産者、農家っていうものが自分にとってこういうことを突きつけられたら、どっちを取るんだっていうことは割合にはっきりしたことのように思うんですよ。つまり人のことは気にしないで、そういうんだったら、どっちを選ぶかっていうのは非常にはっきりしてくるんだと思う。だからそれでいいと思いますね。原則的にはそれでいいんであって、それで全社会的に矛盾が、あるいは全国家的に矛盾が生じたとき、初めて国家の機関とか政府とかが政策として介入してくる余地があるというふうに僕は思うんで、何よりも第一にどっちが先に決めてくれるんだっていったら、自分が決めるんだよっていうことが一等最初に来て、それで矛盾が生じた場合にはそれはもう手に負えないから、つまり手に負えないってことは、あっちにいったりして、なんだかんだって言ってられないから、誰かそういう専門の人にやってくれっていうことになってきて、初めて政府が政策的に介入してくる、みたいなそういう事の順序になると僕は思いますけどね。その順序さえこっちがわきまえていれば、それは相当正確な判断ができるんじゃないでしょうか。
 その順序を違えちゃうとちょっと話は混乱して、問題はあれになってきますね。つまり、日本国が栄えるためにはこれこれが必要なんだっていうところを最初にすると、ちょっとそれは判断が狂ってくるように思いますね。あるいは全農家とか、全消費者にとってこういうことが必要だからこうしなきゃいけないみたいなふうにやってくると、話は全然見当が外れてしまう気がしますから、初めにはやっぱり自分がいちばんいいっていうような、農家にとってなんなんだ、それから消費者にとってなんなんだみたいなところから出発していって、それを推し進めていくとなんか矛盾が生ずる。そういうときに初めて政策っていうのは介入するべきものであると、少なくとも順序はそういうものなんだっていうふうに事がはっきりしていれば、まあ、たいていそんなには判断は狂わないような気が僕はしますけどね。一旦反対に考えると、限りなく狂ってしまいますね。と、僕は思いますけどね。

20 質疑応答5

(質問者)
 つまらない質問なんですが、吉本さんは先ほど、質の良い食物を消費者は選ぶと仰いましたが、よい食物といいますか、よい農産物とは例えばどんなものだとイメージして仰っているんでしょうか。

(吉本)
 よい農産物とはどういうものかっていうことですか。それは簡単なことじゃないでしょうか。つまり栄養分に富み、それから嗜好品としておいしいっていうことですね。それから安いっていう、つまり安く買えたり、安く生産できたり、それで質が良くて栄養分に富み、嗜好品としてもおいしいっていう、それがよい食料、よい食品じゃないでしょうか。

(質問者)
 そこに安全のことは考えないんでしょうか。

(吉本)
 いや、そんなことはなくて、考えないことはないと思うんです。だから、食品の安全性とか農薬の薬害とかっていうことに対して、そんなものは無視しようと言っているわけでは決してないんで、そこは誤解しないでほしいわけです。
 また、そういうことを声を大にして叫ぶ人がいることを別にどうやこうやと言いたいのではないということも誤解しないでほしいわけですけれども、ただ僕が言いたいのはウェイトということ。つまり薬害ということはこのウェイトで、このくらいの重さでもって例えば、全食品生産と全食品消費という中でこのくらいのウェイトで存在するんだっていうこと、そのことを間違えないで、つまり見当を外さないでほしいっていうことを言いたいだけなんです。つまり、薬害を指摘する人はそれが全部みたいに言われてしまうと困ってしまうなって、ただそれだけのことなんですけどね。
 だから、そこのところはあんまり誤解してもらっても困るわけですし、またそういう薬害とか公害を強調する人たちがその公害運動こそが全ての社会運動だみたいな、もう全てだみたいなふうに言ってもらうと、それは違いますよっていうふうになると思うんですよね。それはそうじゃないですよ。ある重さをもってそれは出てきていることですよって、そういうふうに訂正せざるをえないわけでして、そういう問題だと僕は思いますけどね。
 だから今申しました、いい食品というのは栄養に富み、安くて、そしておいしくてっていうようなその3つの条件があれば、まずまず90何%まではそれでよろしいでしょうということになりそうな気が僕はしていますけどね。

21 主催者コメント

(主催者1)
 日本農業論ということで、今日お話しいただいたわけですが、その中で社会主義のマルクス、エンゲルスのその理念において農業理論、あるいは国有化理論というものをもってきて、ソ連や中国は今非常に大変な状況を迎えてペレストロイカであるとか、中国の場合はもっと後退しているような感じがあるわけなんですが、そうした動きとアメリカや欧米の先端的な農業、あるいはそれよりも産業という形になるんでしょうけれども、エレクトロニクスやバイオテクノロジーの先端的な動きというものの対立というんでしょうか、これは吉本さんの方では都市と農村の対立という考え方はだめなんじゃないか、そういう枠組みではなくて、もっと双方に浸透させていく考え方の方が重要なんじゃないかということで、先ほどのパンフレットの中にも書いてあるわけなんですが、そういう辺りの話をされたわけなので、せっかくの機会ですから、その辺のところをもう少しばかり聞かせていただきたい。これはあの、現状というものからもうひとつ先にいくような問題かもわからないのですが、私の方からはその2点です。
 ただ、仰ったことはよく分かるけれども、世間の動きがどうも尋常でないなあと、なんか起きるのかなという感じがしています。平成元年になったんで、どうもちょっとその、そういうニュアンスなのか、それとも空騒ぎに過ぎないのか、そこらのところは私なんかの立場では非常に関心のあるところだと、そんなような印象を受けましたので、一応述べさせていただきます。

(主催者2)
 今までの話で、特に戦後に関してですが、主に自民党政府が理論、理念はないが、その時々に応じて比較的うまい政策をとってきて、戦後の世界の中では東側東欧と比べても比較的成功してきた方ではないかというふうに仰られました。それなりに「ああ、そうか。」と分かる感じがするんですが、それでは現在のところ、将来を見通した有効なっていうんでしょうか、長い射程まで可能な農業理論というのは世界中ではまだないと考えていいのでしょうか。
 それともうひとつ先ほどの、いちばん農業はどうあるのが理想なのかというところで、○○○の場合ですが、大規模化をしてくるでしょうけれども、小さな自立した、自主的な農家経営ができればいちばんいいのではないかと仰られたと思うのですが、まあ森田さんとも少し重なると思うんですけれども、現在進行中のいわゆる第三次農業革命といわれている、工場農業といいますか、水耕栽培等がこれから出てくると思うんですが、それが出てきたときにどうしても主導してくるのは資本だと思うんですね。そうしたときにそういったのが理想だよと仰った、自主的で自立した農家の○○○でいけば、民衆にとっていちばん幸せだと思うんですが、そういうのとどうぶつかるのか、その行方はどうなるのか、あるいはどう対処していくのがいちばんいいのか。それについてもう少し教えていただければ、と思います。

(主催者3)
 それでは、私の方から感想を述べさせていただきますが、前回の吉本さんのご講演では例えば、大前研一さんの農業革命論、あるいは自由化論というのをご紹介いただいて、最後の方ではそういった自由化論、それからそれに反対する考え方を両方ご紹介いただいて、「皆さん、あまりこの論には加担しない方がいいですよ。」というようなご指摘だったんじゃないかと思うんです。それは農業と工業、あるいは他の産業と対立した形でしか捉えられないから、そういう加担というのはよくないのであって、対立した見方ではなくて、交接するような考え方を今後やっていかなくてはならないという、そういう結論だったんではないかなと思っているわけですが、今日の感想ですと、それをもうひとつ先に進めまして、将来の農業像を考えた場合、ニュアンスはもちろん違うかもわかりませんが、自由化っていいましょうか、つまりそれは農業にとって自由化というのは国家の問題、国家の障壁を取り払えば、それは可能なんだし、究極的にはそういった形しか考えられないんだと、こういう断言をしていただいたような気がするわけです。
 たしかにいろんなところで農業の自由化とか、金融の自由化、労働力の自由化などの問題があるわけですが、その障壁となっているのは国家の壁であるというのは、たしか全く仰るとおりで、国家の壁さえなければ、そういった自由化とそれによって生ずる問題というのは一挙に解決する、というのはそのとおりで、そこのところは本質論として断言していただいたんだなと、そういうふうに感じたわけです。
 ただ、現実の国家の障壁を払うこと、つまり国家をなくす、国家を開くというふうに言っていただいたわけですけれども、どんな形でこれが可能になるのか、またはイメージとして見えてくるのかということになりますと、実際の国際情勢を見た場合に、中国の状況を見ましても、あるいはソ連を見ましても、非常にそこらはわからないといいますか、どういうふうにそこの段階っていうんでしょうか、それを考えればいいのかいいのか。非常に本質的な問題であるだけに、じゃあどうするんだと、どうすればいいんだというのが見えないという感じを受けているわけです。
 例えばEC(欧州諸共同体)の統合にいたしましても、それが国家の廃絶の方向のひとつだということで、かなり肯定的にお話しいただいたように受け取ったわけなんですが、実際にはむしろ国家の廃絶というよりも日本やNIES(新興工業経済地域)とかの追い上げによって、危機感からヨーロッパが身を固めるといいますか、国家の枠を変えて、国家の枠をある程度払っても、ヨーロッパという単位で身を固くしていかざるを得なかったというふうにも考えられるんじゃないかと思うわけで、そこはそう楽観的にはまだ言えないんじゃないのかなという気がしたわけです。
 非常に本質的な問題を提出していただいたということで、午前中、それから昼からの議論の中でも段階論をどうするのかということで、例えば食料安保論というんでしょうか、コメの自給率の問題ですとか、段階論としていろんな問題が出てくるのは当然なわけですけれども、本質論のところでさらにもうひとつ話を進めていくことができればたいへんありがたいと思ってお聞きしたわけです。
 それで吉本さん、我々主催者として雑駁な感想、勝手な感想を申し上げたんですけれども、それについて何か言っていただけることがあれば、お願いしたいと思うんですけれど。

22 質疑応答6

 必ずしも今お話しの要旨が明瞭にわかったとは思わないんですけれども、おおよそこういうことかなっていう感じは伝わってきたような気がするんですよ。
 それでちょっと申し上げてみますと、太田さんの言われたことで、世の中が、つまり日本の現状が明日にでも変わるんじゃないかみたいな騒ぎ方というのが、例えば選挙とか新聞の論調を見ますとなんとなく感じられて、つまりそういうことがひとつ言われておったような認識で、僕もこういう問題についての判断を簡単に申し上げればいちばんいいんじゃないかなと思いますので、それを申し上げますと、ふたつあると思います。といいますか、国内的な問題と国際的な問題というように、ふたつに分けましょう。
 国際的な問題っていうのは、ポーランドの選挙でのポーランド共産党の退潮と連帯の進出みたいなことがひとつ。ソビエトでいえば、ペレストロイカに伴う民族主義的な運動、つまりロシアの各共和国のチームでおれたちは独立するんだみたいな言論が見え始めたり、暴動が起こったりというようなことと、ゴルバチョフの自由化政策というようなこと。それらを推進しているのは何かひとつの動きのように見えるわけです。
 また、ごく最近でいえば、中国の学生や市民を主体にした民主化要求の動き。僕が新聞やテレビでよく観察していたところでは、ひとつは民主化要求というのと、それと専制反対、言論報道の自由というスローガンと、腐敗した権力者を排除せよみたいな、4つくらいのスローガンに要約されると思いますけれども、そういう運動が鎮圧されたりする動きがあった。そうすると、その一連の動きは何か新しい兆候っていいましょうかね、何か動きの兆候があるように観察され、考えられるということがひとつ。
 それから国内的に見ますと、いわゆるリクルート疑惑と消費税の問題というのがひとつ大きな主題となって自民党政府を揺さぶって、それに伴って野党の勢力が進出してくるみたいな、そういう動きがあった。これも関連して考えれば、何かある動きのように思えるっていうことと、そうではなくてそれほどの動きの意味はないと考える、つまり太田さんの言われていた空騒ぎっていうことに類するのかっていうことがあると思います。
 僕もこの一連の動きっていうのは新聞とかテレビとかでわりによく注意して見ていたように思うんです。それで、僕の判断は非常に単純化してしまいますと、国外的な問題、つまり国際的な問題ではどこに目をつけたらいいのか、どこの何を中心に考えたらいいのかといいますと、僕はやっぱり依然としてポーランド問題の中に現在の世界のいちばん先端的な、つまりもし政治とか権力とか制度とかそういうことの問題を見たいのならば、それはポーランド問題の中にいちばん集約的に現れているだろうと思っております。だからポーランド問題をよく見てよく分析することが現在の国際的な問題を解く場合にポイントになるんじゃないかと僕自身がそう考えて、そういうふうに見ています。
 それで中国の問題もこれは中国固有の問題というよりも、中国共産党政府はある意味でアジア的なタイプの権力なんで、そういう問題として捉えた方がいいかと思います。アジア的なタイプの権力っていうのはどういうことかっていうと、ちょうどここは田中角栄さんのところですが、田中角栄さんに兵隊というか、私兵を持たせたような人が中央へ来て、それで集まって政治をやっているということです。ただ、それだけで理解すると間違えてしまって、僕らも間違えたりしましたけれども、テレビや新聞なんかも間違えた。つまり、趙紫陽の軍隊と保守派の軍隊とが対立して衝突するんじゃないか、それで衝突して保守派の軍隊を排除しちゃうんじゃないかみたいな希望的観測をテレビ、新聞全部そういう論調になったわけですけれども、なぜそういう観測が出てくるかっていうと、中国の政府、つまり国家を構成している権力っていうのは一面ではそういうところがあるからで、田中角栄さんに軍隊を持たせたような人たちが郷里から出てきて、それで中央で政治をやっているという面があるからだと思います。たしかにその面があるわけです。その面としかし、イデオロギーとしてはコミュニズムや社会主義のイデオロギーを持っているという、そういう面と両方あるわけだから、必ずしも一方的な観測はできないわけですけれども、そういう中で中国の問題の中で何が問題なのか、国外から見て何が重要なことなのかっていったら、それはポーランドと同じ問題がその中に含まれているとすれば、どのくらい含まれているか、あるいはそれはどういう性質で含まれているかっていうことがとても重要だと思います。だから、そこでは保守派が勝って学生達は鎮圧され、民衆も犠牲者を出して後退してしまったという一連の動きがあるわけですけれども、その動きの奥にあるのは何なのかということを見るためには、やっぱりポーランドと同じ問題がそこにどれだけ含まれ、どういう性質で含まれているかっていうのを見ていったらいいんじゃないのかなっていうのが僕の見方です。
 それから国内問題について申し上げますと、リクルート疑惑、つまり未公開の株をとにかく手に入れて政治資金にしたり、懐に入れちゃったりというようなことに端を発して疑惑が広がったということがあるわけですけれど、それとまた消費税という問題があるわけです。それからそこに女性問題が絡んだりとか、いろいろあるわけですけれども、そのために自民党が揺さぶられているわけです。それで、これは全然当てにならないから信用しないで与太話として聞いてくれればいいんですけれど、僕は今年の秋から冬、乃至は来年の春にかけて総選挙があって、それで自民党が過半数を割るか割らないかぐらいなところまで後退するだろうっていうふうに漠然とそう考えています。それが当たるか当たらないかわかりませんけど、そう思っています。
 それでこの問題の中で何が重要なのかっていうことになります。それでいちばん重要なのは消費税の問題だと僕は思っています。日本では田中角栄さんの後退と共に、いい意味でも悪い意味でもアジア型の政治家がいなくなってしまっているわけですから、あるいは少なくなって退潮しているわけですから、ほぼ西洋型の政府の構成になりつつあるというふうに僕は思いますけれども、その中で消費税の問題っていうのは日本が西欧型の現代国家というものから一種の現在国家に転換する場合のいちばんの指標になると思っています。
 ですから、この問題は本当を言うと、皆さんが考えておられるような、また自民党自身が考えているよりも遥かに重要な問題だというふうに僕は思っています。つまり現在化維新、国家が現在化していくためにこれは不可侵の転換だっていうふうに僕には思えますから、これがなんら揺さぶられないで無傷で通っていくっていうことは到底考えられないので、ほとんどぎりぎりいっぱいのところまでたぶん自民党は消費税問題で打撃を受けるだろうと思います。しかし、たぶん僕の理解の仕方では通るだろうと、つまり通っていって、かろうじて現在化革命は成り立っていくだろうっていうふうに思っています。
 しかし選挙はわかりませんから、あるいは逆転するのかもしれませんし、逆転して消費税廃止っていうふうになって、また元の木阿弥になるのかもしれませんし、それで後退して、またもう一度現在化革命の問題が近い将来に起こってくるのかもしれないですし、それはわかりません。これは占い師ではないから予断することはできないですけれども、消費税の問題は根本的に言えば、課税の問題を所得の場面で考えるか、そうじゃなきゃ消費の場面で考えるかっていう問題だと思います。つまり消費の場面で課税の問題を考えざるをえないっていうのが現在化革命のやむを得ない過程だと、僕には思えます。だからこれは相当重要なことなんで、これに対して率直に日本の民衆が反動でもなんでもいいですから、これは反対なら反対っていうのを意思表示した方がいいし、また自民党はこんなものが簡単に通ると思わない方がいいので、だからとことんまで揺さぶられた方がいいっていうふうに僕は思っています。しかし、たぶんかろうじてこれは通るんじゃないかっていうのが僕の漠然たる予想です。まあ、当たったらお慰みだと思ってください。
 消費税の問題はそれほど重要で重大な問題だと思います。つまり日本の現在において革命のようなことが行われるとすれば、こういうやる方もやらない方も無意識でやられちゃったという形しかとれないような気がするんです。どうしてかっていうと、全部進歩的勢力が反動的なことばっかりしか言わないですからね、全部反動ですからね。これじゃどうしようもないわけですよ。だからたぶん僕は無意識な形で革命が行われるだろうと思います。ただ申し上げておきますけれども、消費税、つまり現在化革命っていうことを僕は支持しているわけではないです。ただ、現在の段階で社会主義国家とか資本主義国家っていう国家というものの存続を認めるんだ、いまのところは認めておいていいんだ、それ以上のことはできないんだっていうようなことの範囲内で言うならば、消費税になっていくことはまず避けられない現在化革命だっていうふうに僕は思っています。ですから、限定的な上で、たぶんこれは重要なことだろうと僕は思っています。
 だけど、僕は自分の究極的なイデオロギーというか、社会理念とか国家理念を申し上げれば、やっぱり国家は部分的にでもいいからだんだんなくなっていった方がいいっていうふうに、また国境は撤廃していった方がいいっていうふうに思っています。歴史は必ずそういうふうに決まっているって思っていますから、そこまで話をもっていけば、こんな消費税がどうだろうと、そんなことはどうでもいいやっていうことになってしまいますし、また自民党や社共がどうだろうとそんなことはどうでもいいやっていうことになってしまいます。しかし国家というものの存続を現在の段階でまあしょうがないじゃないか、今何か言ったってしょうがないじゃないかっていう段階で認めるとすれば、消費税の問題は日本国家が現在化するための重要な指標のように思いますから、これが最も重要な問題だっていうふうに見るのが僕の考え方です。
 それでリクルート疑惑とか女性の問題を重要だと思う人もおられるわけでしょうけれども、僕はそれほど重要じゃないと思っています。これに動かされるのは浮動的な票と女性票だけじゃないかなと思っています。基本的にはそれ以上の意味はないんじゃないかって思います。もし政治資金ということが問題だとするならば、社共はどこから政治資金を持ってきているかっていうことまできちっと分析した方が僕はよろしいと思います。その上でこれじゃだめじゃないかっていうなら、その段階でこれではだめじゃないかって、これは批判的だとか、これは肯定されるべきだとかっていうことをちゃんと決めた方がいい。そこまで徹底的に分析された方がよろしいと思います。今のような段階でリクルート疑惑という形で行われている問題というのは大した問題じゃなくて、たぶん浮動票しか動かさないだろうなと思います。
 それから女性問題、つまり総理大臣とか政治家の女性問題という問題になりますけれども、「こんなの僕には関係ねぇよ。」と言いたいところなんですけれども(笑)、つまり宇野総理がそうだろうと僕には関係がないんで、だけどあれは態度が悪いと思います。何が悪いのかっていったら、ちゃんとそうだって言うべきだと思うんですよね。つまりこれはたしかにそうだと、しかし金で買ったわけじゃないとかさ、それはまあ知らないけどさ(笑)、金で買ったんじゃない、結果として金をあげたことはあげたけれども、本当はやっぱ愛情だったんだとかちゃんと言わないといけないと思います。言わなければだめだと思います。
 それからまた、追求する方も「おめぇ、なんにもしねぇのか。」って言われて、「おれはしねぇよ。」って言える政治家がいるのかといったら、僕は信じないですよ。そんなのは社共であろうと自民党の政治家であろうと、信じないですね。政治家じゃなくて一般市民であろうと、それは信じないですね。やっぱり奥さんがいたり子供がいたりしても、なんか違う女の人に惹かれるっていうか、もっと進んだっていうことは誰にでもあることで、だから免除するっていうんじゃなくてね、そういうことははっきり言わなきゃいけないと思います。自民党の政治家だろうと、社会党の政治家だろうと女性問題についてそれははっきり言えないといけないと思いますね。これに蓋をするような人ばかりいるのは全然だめだと思いますね。
 つまりそこが政治家の問題なんで、女性問題といっても女性を金でどうしたとか言うけれど、それはまた違うんですよね。ほんとに芸者さんを好きになって、それであれしたってことはあるわけで、結果として金で支払ったとか、金でもって勘弁してもらったということはありうるわけだから、人間はそういうことについては非合理なわけですから、僕は自分の自己弁護してるんじゃないんだけど(笑)、僕は比較的清廉潔白の方なんですけれど、しかし、それはちゃんと言えなければだめだなって僕は思います。つまりそこがだめだと思いますね。
 僕はもう亡くなられたんですけれど、池田弥三郎さんっていう慶応大学の先生と何かの時に一緒になって、からかったことがあるんですが、ちょうどその頃、立教の先生で大場さんという助教授が女性問題で一家心中しちゃったっていう事件があったんですよね。にっちもさっちもいかなくなって、それで心中しちゃったっていうようなのがありまして、それと青山学院の春木さんっていう教授が女子学生といい仲になって、それでもって指弾されたっていうことがあったんですよ。その頃でね、僕は池田さんに「池田さんもてるでしょ、どうですか。」とかって、からかったことがあって、あの人はね、「いや、私の家は江戸時代からの天麩羅屋で、商家の家訓として『女性は素人の女性とは関係するな、玄人の女性と関係しろ』ってそれはもう家訓なんだ、だから女子学生とどうとかそんなことは絶対ありません。」と、こういうふうに言っておられました。
 それはなぜかって言ったら、だいたい別れ話になった時にお金でスパッと解決ができちゃうっていうこと、つまり比較的情が残らないで解決できちゃうということがあるからだと、池田さんが説明しておられましたけれども、宇野さんもせめてそのくらいのことを言えばいいと思うんです、正直に。それでもってまた文句を言われるんなら、自業自得だから言われても仕方ないんだけど、そのくらいのことは言った方がいいように思うんです。
 つまり、これはね、僕は文学だから文学の方でいきますとね、森鴎外っていうのはそうなんですよね。ところで森鴎外と夏目漱石は十いくつしか違わないんですよ。ヨーロッパへ行ったのもそのくらいで、ほぼ同時代なんだけれども、十いくつ違うでしょ。それで森鴎外はやっぱり玄人筋の女の人なんですよ。漱石には絶対それはしないし、またできないんですけれど、鴎外は一番目の奥さんと離婚したでしょ。それで僕の家の近所に治右衛門坂って坂があって、そこに渡辺治右衛門っていうその土地の大金持ちで銀行家だった人がいるんですけれど、その人の娘さんがね、なんとか小町って言われるくらいに美人だったんですよ。その人がどこかへ結婚して、それで離婚して帰ってきてたんですよね。それで、鴎外にその人との縁談が持ち上がるわけですけれども、森鴎外の母親はとてつもない賢夫人っていうのか、そういう人だったから、鴎外が離婚してから縁談が持ち上がるまでの期間、鴎外に玄人の女の人を斡旋するっていうか、世話するんですよ。それで上野の池之端の辺りに住まわせるわけです。で、鴎外は最初の奥さんと後の奥さんと結婚する中間のところをその女の人の所に通って関係するわけです。鴎外の「雁」という小説がありますけれど、僕の理解の仕方では、あれはたぶんある程度は自分の実体験が入っているように思います。つまり中間のところは鴎外はそうだった。それで二番目の奥さんとの縁談が持ち上がった時に、やっぱり母親が出てきて、それでお金でたぶん解決したんだっていうふうに思います。
 それで、もっと以前まで言えば、鴎外はドイツに行って向こうでエリスっていう踊り娘さんと仲良くなるんですね。それで踊り娘さんが日本へ追っかけてくるわけですよ。そしたらまた、鴎外のお袋さんとか親戚が呼び集まって、それで鴎外に会わせないで、その娘さんを説得してたぶんお金をあげたと思いますけれども、お金をあげて帰ってもらっちゃうっていうのが「舞姫」という小説の真相だと思いますけれども、つまりわずか十何年の違いなんですけれど、鴎外はそういうタイプですね。
 それから漱石はもうそんなことは金輪際できないんで、できないのみならず、なんていいますか、奥さんのことを女の人として扱うっていうこともあんまりしないで、人間としてばっかり扱うもんですから、奥さんの方は面白くないわけですよ。ということが漱石家の仲の悪いっていう評判の根底にあったと思うんですけれど、つまり十数年の違いで、もちろんその人の資質もあるんですけれども、漱石っていうのは金輪際そういうのはできないんです。だけど、生涯たとえば、あんまりいい小説家ではないですけれど、たいへん美人で聡明な大塚楠緒子という女流作家がいるんですけれど、その女流作家を生涯、なんて言いますか、方恋というか秘め事で好きだったみたいに言われていますけれども、金輪際不倫ができる人じゃなかったわけです。わずか十数年ですけれども、それだけ違っちゃうっていう、もちろんその人の資質によっても違っちゃうっていうことがありますから、それより遥かに遅れているとはいいながら、しかし宇野総理大臣がそのくらいのことをはっきり言って弁明したり、こうなんだっていうことを言ってあれしたらいいじゃないですかと思うんですけれど、まあそこがだめだっていうふうに僕は女性問題についてはそう思いますね。
 だから、たぶん今年の秋、乃至は来年の冬から春にかけて総選挙みたいなところまで行くと僕は思っていまして、いずれその辺りまで揉め事が、つまり太田さんの言われた騒がしさは続くんでしょうけれども、その根本をどこで見るかっていう場合に、僕は消費税の問題として見たいって思います。つまり消費税の問題は重要ですよっていうこと、反対する方も賛成する方も考えているよりもずっと重要なことですよっていうことです。
 面倒くさいからこれは反対だとか、それでいいんですよ。冗談じゃねぇんだって、面倒くさいのはいいことなんですよ。何がいいことかっていうと、アジアの民衆はみんなそうですけどね、国家が税金を少し多くしたとか少なくしたとか、税金の制度を変えたっていうことで一般的に騒いだりはしないんですよ。つまり無関心なんですよ。それで、日本だって無関心で過ぎてきたから、お釣りが面倒くさいっていうことを介して政治に関心を持つってことはたいへん重要なことで、いいことなんですよ。どうしてもね、西欧型の現在国家に転換するには民衆自体が税金なんかに関心を持った方がいいんですよ。だからあれはいいことだと僕は思ってますけどね。だから関心を持った方がいい、面倒くさいなら面倒くさいでいいから、面倒くさいと言えばいいんだから、関心を持った方がいいと僕は思っていますね。
 それからもうひとつは、だいたい3%って言うでしょ、100円の物が103円になってね、僕はそんなことに気がつく主婦がいたらお目にかかりてぇなって。僕は野菜やなんか自分で買いに行きますからよく分かりますけどね、野菜なんて毎日変わってますよ。ちょっと品がいいか悪いかでとてつもなく変わりますからね。それで100円のうち3円くらい変わったって、そんなことは問題にはなりませんよ。それくらい変わっていますよ。だからしょっちゅう買い物している人はよくわかるはずで、そんなことで3円上がったから税金高ぇとか、これは消費税に便乗して値上げしたんだって、たしかにそうでしょうけれどもね、しかしそんなことで目くじらを立てるほど日本の主婦は発達してないですよ。つまり物を買うことについては自分がやっているからよくわかっています。それは違います。そんなことを社共が宣伝の材料にしているのは嘘だと僕は思いますね。そんなことはありません。100円の物が103円になって文句を言えるほどね、敏感な主婦がいたらお目にかかりたいですよ。10人いたら1人しかいないと思います。だからそれは嘘だと思います。
 それよりもそういうことを通じてね、税金というものに関心を持った方がいいと思います。そうじゃなければ、アジアの民衆っていうのは代々数千年間、権力者のやることに大抵のことは無関心に過ぎてきたんですよ。だから勝手なことをされちゃうんですよ。それよりも103円でも文句言ってね、こんな面倒くさいのは初めてだとか文句言って、せいぜい文句を言って、こんなのはやめてしまえって言って、反対に投票するのもいいですから。僕はどっちでもいいんだから、つまりどっちでもおんなじだと思っているんだから、それは反対してもいいですし、どっちでもいいんですけれども、ただ僕が言いたいことは消費税の問題っていうのは非常に重要なことですよっていうこと、つまり考えられているよりもずっと重要で、また社共が宣伝しているようなことよりもずっと重要なことですよ、あるいは自民党が意識していないけれども、それよりももっと重要なことですよっていうことを申し上げたい。つまりその問題が国内問題の要だと僕には思えますね。

23 質疑応答7

(質問者)
 それと関連してなんですが、やはり農業というものをどんどん先に行かせなきゃならんという課題が来ているということですね。その中で日本の農業というのは非常にこの頃の、1950年代ぐらいに持っていたアジア的な農業の匂いっていうんでしょうか、情念みたいなものがあったわけですが、これが新しい資本主義の中でいかなきゃならんという方向の中でどんどんそういう情念みたいなものとか、あるいはアジア的な感覚というものがそがれていくと。それは先ほどのお話でいけばいいことなんだし、しょうがないことなんだということなんですけれど、そういうある面でのナショナリズムみたいな、気持ちというか情念というか、こういうものというのは、例えば私などの年代でいくと、まだそういう匂いが好きで、自分の少年時代みたいな感じがありまして、それこそつい先頃の美空ひばりだとか、昭和天皇なんかの感じにまだ心動かされるところがあるわけなんですね。
 ところが今の新しい、それこそ文学者や歌手やいろいろの人たちはそういう面ではもうかなり捨ててきてますね。というか、そういうものには影響されないんですけれども、その情念の行方というんでしょうか、やっぱり自分で始末していく以外にないんでしょうかねえ。非常にその辺が私も最近は古くなったなぁという感じがしまして、自分なりに時代の動きや空気を相当敏感に分かっている方なんだと思っていたんだけれども、どうも自分が前の時代の年代に属しているなあと、まあ吉本さんの場合はもっと前であるわけですが、その処理の仕方というのが非常に最近は難しくなってきたなあという感じが私なんかにはあるんですが、その辺はどういうふうに考えていったらいいのか。まあ、「おまえ、自分で考えろ。」って言うのなら、もうそれでいいんですけれども、ちょっとヒントがありましたら聞かせていただきたいと思います。

(吉本)
 どうなんでしょうかねぇ。その、なんでもいいんですが、美空ひばりでもいいんですけれど、美空ひばり的な情念に全然関係ないところで歌とか音楽を考えている人もいる。また天皇の問題だって、天皇なんてのは全然関係ないよっていうところで、自分の生活感覚や知識で判断して、蓄えていく人もいるし、またたいへん古くから天皇の問題を考えているためにどうしてもふっきれないで引きずっている人もいるわけですけれども、僕はこれを捨ててこっちを取るみたいな形ではあんまりそういう問題を考えないので、自分が経てきた考え方の経路というものがあるとすれば、それは自分の一種の体験の幅だっていうふうに考えて、それは引きずっていくっていいましょうか、あくまでも引きずっていくみたいなもので、どこかで切り捨てることはなくて、引きずっていく。しかし時代が進んでいくにつれて、自分の考え方もある程度進んでいくわけで、ある部分では引きずっているうちにもう溶けて、はがれていって、どこかでなくなってしまったとするならば、それはなくなったということに任せるみたいな、そういう感じしかないんですけどね。
 だから、古い考え方と新しい考え方の対立というよりも、自分が引きずっている考え方の中でひとりでに欠落して、はがれて、どっかへなくなっちゃったっていうことが自分の体験としては問題なのであって、そのことをことさら強調することもないし、またそのことをことさら拒否して忘れてしまって、まったく別な場所に着くということも必要なくて、ただ引きずってて、ひとりでにはがれていっちゃったら、はがしちゃえばいいんじゃないかって、で、引きずっているときにはずっと引きずっていけば、それでいいんじゃないかな。ただ、引きずったことに意味をつけたりすることさえしなければいいし、引きずっているものを意識的にとっぱらっちゃって違う場所に行くっていうことをしなければいいんじゃないかなという気はするんですけどね。それだけのやり方しか僕にはないですよね、そういうやり方しかとっていない気がするんですよ。
 だから、例えば、僕は美空ひばりのことが好きだけど、まったくこんなの嫌いだ、身震いするっていう人もいるわけです。そうすると、僕はそうじゃなくて、大変な人だ、大変な歌い手だと思うでしょ。そうしたら、そういう自分というものは肯定しますけどね。しかし、僕がこれから自分が考え方を進めて、ひとりでに美空ひばり的なものがひとりでにはがれて取れていっちゃったら、それはもう、取れていっちゃったとすればいいので、なぜ取れていっちゃったのかとかいうことを別に考える必要もないし、また無理に美空ひばりなんかどうせこれはだめなんだとか言って、拒否することも否定して別の場所へ行くこともないし、それだけのことじゃないんでしょうかね。原則的にはそれしかないと僕は思うんですけれどね。

24 質疑応答8

(質問者)
 私はこの近辺で農業をやっておりまして、それで農業論というのはすごく○○○のテーマで、私どもにはちょっとレベルが高すぎて…それで今までずっと伺っていまして、現実に私たちは農業をやっていると、非常にとまどいを感じているわけです。今の先生の話を聞いていますと、全て今の流れの中で行くんだ、そういう前提というふうに聞いているわけなんですけれども、自分も農業は少数の人間がある程度の規模を踏まえてやることになるんだろうというふうに考えています。
 ただ、農業論というもの自体については、経済が主流のものの考え方で処理されていいとはどうしてもやっぱり思えない。今の農業が直面している問題は全体の中に含めて考えるべき問題で、極端に言うと東京と長岡という地域の違いを相当やっぱり考えていかないといけないんじゃないか。日本と世界っていう考え方も当然必要だと思うんですけれども、現実には地域という小さな範囲の中で農業というものを考えていかなきゃならないのではないか。
 それで、農家の人口が少なくなって、例えば、長男が長岡に残らないで東京で仕事をすることになった、と。こういうことは東京に住んでいる人にとってはそう大した問題ではないかと思うけれども、この長岡に住んでいる人たち、農業をやっている私も住んでいる、長岡っていう地域全体、これを○○○できない、あくまでも今の先生の考え方というのは東京に住んでいる人だけのものの考え方のように思われる。むしろ広く世界というものを遠くにいて見渡しているようであっても、実際は日本くらいのほんの一部の視点から見ただけの農業じゃないか、あるいは日本という世界環境の中のものを○○○ものの考え方じゃない、もう少し広いものの考え方を取り入れて考えることも重要ではないか。その辺に政治の関与というものが必要だというような話がありましたけれども、農業の理想論を考えるときにはその辺にもう少し踏み込んでトータルしたものの考え方をしないとおかしいんじゃないか。
 先ほど、食料の安全というものについて触れられていましたけれども、これらもやはり無視はできない大きな問題であろうと思います。それもひとつのトータルして考えるものの考え方が必要じゃないか。○○○の問題にしてもトータルしてものを考える。そういう大きなものの考え方から考えていくと、そこから○○○そうしたものも○○○してしまうものがあるんじゃないか。こんなふうに考えるんですけれども、先生の考え方はどうでしょうか。

(吉本)
 ええと、よく意味が分からないところもあるんですけれども、今あなたが例に挙げられた農家の人が東京へ出て行くっていうようなことがある、と。そうすると農家としては働き手が一人減るわけだし、また農業から離れていくことになって、それは東京の人から見ると、別段そんなことはなんでもないように見えるけれども、長男から家を離れられた、あるいは農業を離れられた農家にとっては大切な問題だから、問題なんじゃないか。だから…。

(質問者)
 あの、その前に付け加えていただきたいのは地域経済、全体の中での地域経済というものについて大きな影響を及ぼすので、単純に農家だけでなくて、私らは地域経済の中でやっぱり動いている部分があって…。

(吉本)
 それだったら地域経済っていうのは全体経済の中で動いているわけですから、あなたの考え方でいえば、地域経済よりもっと上位な考え方があるわけですよね。もっと上位な思想があるっていうことになるんじゃないでしょうか。
 僕が言いたいのはそうじゃなくてね、非常に簡単なことで、今のあなたの例で言えば、長男が東京へ出て行っちゃった。で、働き手が一人少なくなって、農家の人口も減った。そういう問題は農家にとっても、地域の経済にとっても重要な影響を及ぼすことだから、それを考えに入れなきゃおかしいんじゃないかと、あなたが言われているわけですけれども、それだったら、今言いましたように地域経済よりも全体経済の方が重要なんだから、全体経済からこれを見たならば、長男が東京へ行った、行かないっていうことはさしたる意味はない、さしたる関係はないんだっていう観点もまた成り立つわけであって、僕はあなたのような考え方をとっていくとだめなような気がするんです。
 ですから、僕が言っているのはそうじゃなくて、究極的にいえば、ある農家の長男が東京へ行って農業から離れるかどうかっていうことは、その農家自体の問題だということ。それはつまり地域経済にとって都合の悪いことだから、谷川雁じゃないけれども、「おまえは東京に行くな。」って言うことは間違いだって僕は言っているわけです。そうじゃないんだと。その農家自身の必要とか要求があって、それを家族が承認して長男が東京へ行ったというのならば、別に東京に住んでいるからとか、長岡に住んでいるからというのではなく、そうだったらそれは行けばいいんだっていうことが大原則だって言っているわけです。
 つまり農家自身の利益が第一次的なことで、その次に第二次的にあなたの仰っているとおり、地域経済にどういう影響を及ぼすかとか、長岡市の予算にどういう影響を及ぼすかとか、日本国の予算にどういう影響を及ぼすかっていうのはその後に考える。つまり第二次的以下に考えるのが妥当であるって言っているんです。その考え方が根底的に違うと思いますね。つまり考え方の順序が違うと思いますね。だから究極的に詰めていったら、農家の都合でもって長男が東京へ行こうが、農業から離れようが、または帰農しようが、そのことはその家族のただ利益ということ、理解ということだけを主眼にして、そこでもって行為自体が決定されることでいいんだよっていうことを僕は言っているわけです。
 それは根本的な原則としてそうなんです。つまり個人主義ですよ。個人主義っていうか、私有個人主義っていうのを媒介にしないとどんな全体主義も成り立たないっていうことが根底にあるわけですよ。だからあなたの言い方もおかしいんであって、地域経済なんてどうだっていいよ、全体経済にとって長岡の経済なんかどうだっていいよっていうんだったら、どうだっていいっていうことになっちゃうじゃないですか、あなたの言い方をすれば。長岡の農家がどうなろうとそんなことは日本国全体の経済からいえば、どうでもいいことだっていうことになってしまいますよ。つまりより大きな地域を考え、経済的利害をいつでも考えなきゃいけないというのならば、そうなるじゃないですか。それは僕は間違いだって言っているわけです。そういう考え方は間違いであると言っているわけです。
 僕の原則は違うって言っているわけです。その場合に農家は農家の利益っていうものだけを主体にして考えるのがいいと。もっと極端に言うならば、ある農家自身の家族の利益だけで第一次的に考えるっていうふうにした方がいい。そして矛盾が生じたときには第二次的以下にあなたの仰るように地域経済の問題を考えるのもいいでしょうし、日本国全体の経済を考えるのもいいっていうふうに、第二次的以下の条件としてそうなるのがだいたい原則の順序であると僕は言っているんで、あなたの考え方とはまったく違いますね。
 あなたの考え方だったら、地域にとっての利害に反したときに個人の行動が制約されてしまう、また制約されるのが当然だという考え方になると思います。僕は違いますね。絶対それは反対だと思いますね。個人の利益でもってふるまっていって、それが矛盾に到達した時に初めて地域の問題がそこに入ってくる。地域の問題が日本国全体の経済的な利害と矛盾してきた時に初めて、それは初めて日本全体の利害の問題が出てきている。それでそうしたときにその問題を地域の農家が考えなきゃいけないかもしれないけれども、そういう考え方の順序がまるで違うっていうことがある。それは根本的な問題だと思いますね。
 それはどんな比喩をもってきてもそれは同じなんです。安全性の問題というのも同じなんです。安全性の問題は根底的にわかりきったことです。つまり安全性の問題はいちばん顕著に現れてくるのは、例えば今まで日本人の平均寿命が女性で82歳、男性が76歳だったと。これが男性の平均寿命が急激に60歳に、女性の平均寿命が70歳になったと。こう低下したら、これは食い物のせいじゃないか、食い物の安全性にどこか欠陥があるんじゃないかっていう話になると思います。けれども、100%の問題の中で3%だけ安全性の問題があるとしたら、安全性の問題に注意を払ってくれる専門家とか人がいるということはたいへんいいことだと思いますし、その恩恵を受けているわけですけれども、たった3%の問題を全体の問題にすり替えてしまったら、それはとんでもない考え違いでありましょうと僕は言っているわけです。それは安全性の問題を考える必要はないとは決して言っていないんで、そんなことははっきりしていることです。つまりそんなのは安全性の問題がもし一般大衆の大多数を脅かすようになったら、必ず平均寿命は減退するっていうふうに出てくるに決まっているわけですよ。
 けれども、安全性の問題はまだ要するに100%のうちの数%だったら、それを専門家が考えてチェックし、それをチェックする人たちがいるっていうことがそれに対してチェック機関になりうるわけであって、それだけの問題だと思いますね。それを生産全体の問題にすることはできないというのが僕の考え方です。だからそれはまるで違うと思いますよ。
 まあ、それはあなたに言ってもしょうがないんですけれどね、あなたが農家の人だと仰ったから、僕はあなたの考えに合わせる気は全然ないのであって、ただそういうことをイデオローグとして主張したり、そういうのを組織したりしてそれが社会運動になりうるなんて思っている奴がいて、僕はそういう奴と論争していますけれども、それはそういうのとやればいい問題なんですけれども、だからいいんですけれどね、あなたが個々にどういう考えを持たれていても、それはまったく尊重しますよ。ただ、僕は違う考え方ですよって言うだけで、尊重します。だから決してあれは持ってないですけどね、そこの区別はもう非常にあれしておいてください。そういうことなんですけれど。
 ただ、もしあなたがイデオローグとしてそれを組織されて、社会運動にされている人だったら、それはあくまでもやるということになる(聴衆、笑い)。どっちが正しいか、あくまでもやる、それだけのことなんですよ。

25 司会挨拶



テキスト化協力:さとかつさま