始めてよろしいでしょうか。吉本です。今日は都市論ということでお話ししたいと思います。皆さんはつくばに住んでおられて、つくばの抱えている人工都市性と旧来からの土着性、土着の町と言いましょうか、そういうものとの様々なギャップとか分裂という課題をいろいろな意味で体験しておられるでしょう。僕はそういうことも含まるようにできるだけ都市についてお話ししたいと思います。何か皆さんのほうで現に抱え込んでいる課題というものをいつでも絡めながら話を聞いてくだされば大変ありがたいと思います。
つくばについてちょっと以前に書いたこともございます。同じことを言ってもしかたがありませんので、全然違うところから入っていきたいと思っております。本当を言いますと、都市とは一体何だと万国共通に言えることというのはあまりないのです。土地条件、風土みたいなものがそれぞれ特殊なので、要するに人間の住居が集まっているところというぐらいがだいたい都市について万国共通に言えることのすべてと言っていいと思います。
それでは話になりませんので、今の「人間の住居が集まっているところ」という意味合いをもう少し具体化して考えてみますと、段階的に分けることができると思います。仮に僕が自分で言っているわけですけれども、アフリカ的段階の都市、アジア的段階の都市、それからいわゆる西洋的と言いましょうか、近代的な段階の都市というように考えるともう少し具体性を持たせることができると思います。
アフリカ的な都市とは、アジア的な都市もある程度そうなのですけれども、要するに何と言いますか、多分食料が求めやすいということを共通点として、ひとりでに人が集まってきて、また食料がそこで採集できなくなってくるとどこかへ移動してしまう。そういう段階でできる都市というのをアフリカ的段階の都市と言うことができると思います。
そしてもう少し定住性がある。人間の住居の定住性というのはどこで始まるか。それは農業、農耕をやり始めたときに定住性、つまり住まいをある程度そこに定めるという人間の定め方が出てくるわけです。そうすると都市というのはある程度永続的と言いましょうか、ある期間そこに町ができて、そして都市ができるということになるわけです。
農耕をやり始めて定住してきた初期の段階の都市をアジア的都市と言うとすると、その都市を管理、あるいは支配している、例えば王朝でも支配者でもいいわけですけれども、それが交代してしまったりどこか別なところに行ってしまうと、今まで膨大に栄えていた都市がすぐに廃墟になってしまうというのがアジア的な都市の特徴です。
それはなぜかということはある程度分かっています。要するに定住して農耕をするためには水利灌漑、つまり農耕用水が必要なわけです。灌漑用水とか農耕用水というのは住民が作るというよりも、支配者とか王朝とかが主としてつかさどる、つまり川を引いてきたり、池を掘ったりするというのがアジア的な都市の特徴なわけです。
ですからもし王朝が滅びてしまうとか交代してしまう、あるいは頭の部分がどこかへ行ってしまうと、すぐに住民たちは灌漑用水が管理できなくなり使えなくなります。自分たちで作ろうとしないから、すぐに大都市は滅びてしまうというわけです。
例えば僕は行ったことはございませんけれども、オリエントとかシルクロードみたいなところでは大変膨大な都市の跡が廃墟になってたくさんある。インカ帝国の跡には非常に膨大な都市の荒廃した建物の跡がある。昔ここには膨大な王国的な都市があったとかいうことがあるわけです。それがなぜ廃墟になってしまうか。それは王朝が滅びてしまった、交代してしまった、どこかへ行ってしまったとかがあったためです。そうするとすぐにその都市は、極端に言いますと一夜にして滅びてしまうわけです。それがアジア的な都市の特徴です。
それはなぜか。灌漑用水とか水利とか農耕用水を管理したり仕掛けを作ったりというようなことは王朝、支配者の主たる仕事になっていて、住民がそれに協力してやろうとしない。だからアジア的、あるいはアフリカ的な段階の都市では、仮に定住農耕をやったとしても、王朝が滅びてしまえば一夜にして都市が滅びてしまうという形になってしまうわけです。
そういうことからだんだんつくばの都市にも現在の都市にも関係あることに入っていきます。例えば都市というのはどこから始まるか。今言ったことから分かりますように、産業の始まりから都市というのは始まるわけです。ですから多分都市というものを考えていく場合に一番緊密な関係性があるのは何か。それは産業だと考えるのが一番適切だと思います。これは現在のつくばという都市を考える場合でも同じです。
例えば農耕とか漁業みたいな、つまり自然を相手にする産業を第一次産業といいます。これの興隆と一緒に都市が始まります。それで都市はどうやって、どういう場合に成長し衰退するかということが今日お話ししたいことの非常に主な眼目です。
まず都市の始まりは確かに第一次産業、つまり農耕とか漁業とか自然採集、つまり漁場があればそこで自然採集して食べられるというところに都市ができるわけです。確かに第一次産業、つまり自然産業、自然を相手にする産業の始まり、発展と共に都市、あるいは人間の住居の集約というのが始まるわけです。
これの成長とか展開というのはどのようになされるか。第一次産業に次いで第二次産業とは製造業とか建設業、いわゆる工業、工業都市と言われているものです。これが発展していく度合いと共に都市は成長していきます。逆なことを言いますと第一次産業、つまり農耕とか漁業とか自然を相手にする産業が減っていくと共に都市は成長していきます。これは非常に重要な原則になります。つまり第一次産業の人口比が減少していくことと都市化、都市が成長していくこと、あるいは第二次産業が興隆して都市が発展していくこととは大変なかかわりがあります。
これはとても重要なことだと思います。つまり極端な言い方をしますと、農業都市というのは成長することはあり得ないという原則になります。あるいは農耕をやる人口が例えば50%以上であるような農耕都市というのは、多分衰退の道を辿る以外にないということになります。これは全く数学でいう公理、定理と同じぐらい確実にそういう動向になってきます。これは皆さんが大変考えなければいけないことだと思います。
つまりいい点も悪い点も含めてこれは大変よく考えなければ、都市問題あるいは都市論において大変重要な問題になってきます。つまり第一次産業の減少と都市化の進展、あるいは都市の成長が進むこととは関係があります。それから第二次産業、つまり工業、製造業の進展と都市の成長とはある意味で関係がございます。
それはとても重要なこと、つまり数学でいう公理、定理に似たようなものだと思います。例えば皆さんが今でも多分よくお聞きになる論議の中にその問題が入っていると思います。つまりことは緑を大切にしろから始まって農業を大切にしろ、農業を衰退させてはならないというような論議も含めて、あるいはもっと極端になってきますと、米とか農産物の自由化を促進せよ、あるいは自由化を阻止せよとかいう論議になって皆さんの耳の中にたくさん入ってきていると思います。
その問題を考える場合に何が重要なのか。つまり都市化、あるいは都市の成長と農業人口、および所得の減少とは大変関係が深いということ。それから現在だと第三次産業というのがありますけれども、第二次産業、第三次産業の進展と都市化、都市の成長というのは大変関係が深いということ。それからもう一つ、都市の衰退と農業都市であること、つまり農業のパーセンテージが五割以上を占めているような都市というのはまずほとんど必然的にと言いましょうか、必ず衰退する。定理のようにそうなっております。そういう問題をどう考えるかということがそれらの論議の根底になくてはならない認識だと思います。
それは大変重要な問題ですので、絶えず皆さんは考えに入れておかれたほうがよろしいのではないかと思います。これは例えばつくばという人工都市と、昔ながらの町の展開が入り交ざっている、あるいは対立したり入り交ざったり、そこで断層ができたりというような新興都市の場合でもまったく同じです。産業の高次化と都市としての成長とは、正比例関係ではありませんけれども、必ずパラレルな関係があるということは考慮に入れられたほうがよろしいのではないかと思います。
つまり産業の高次化、あるいは高位化ということと、つくばにおける産業の高位化、つくばにおける都市としての展開あるいは発展ということ、あるいは新旧両住民の融和ということは大変関係が深い。根底的に言えば問題ははっきりしているので、高次的な産業というのがもし非常に適切に導入、展開できたとすれば、つくばという都市は発展するに決まっているということは定理、あるいは公理だと思います。
つまりそのように言い切ってしまえば非常に簡単、でも根本的なことのように思います。そういうことを徐々に申し上げてもいいわけですけれども、肝要で重要だと思われるところから申し上げていって、時間がございましたら非常に細かいところに入っていきたいと思います。
産業の高次化と都市の連結と網状化は現在大変重要なことだと思われます。これについてまずお話ししてみたいと思います。都市の成長と衰退には型があります。どういう成長、衰退の仕方をするかと言いますと二つあります。一つは既に今から十年~十五年ぐらい前にその時期が急速にやってきました。非常に急速な都市の成長というのはいわゆる高度成長期と言われる、昭和で言いますと三十四年から四十年ぐらいです。そのときに急速な都市の成長が日本列島の中で起こっています。
いくつかの例を引いてあります。東京圏、東京および東京周辺のうちの48%が大変急速な成長を遂げました。日本で一番多いです。それに次いで東海地区、次いで近畿地区が多くなって27・5%というように、急速な発展の仕方をしました。
例えば近畿地区に十万以上の都市が百あるとすると、そのうちの二十七~二十八の都市が急速な成長を遂げたということです。それはだいたい高度成長期、今の第一次、第二次、第三次産業という言い方で言いますと、第二次産業が急速に進展した時期です。高度成長期に都市が急速な成長を示し、その都市のパーセンテージが一番多いのが東京であり、その次が東海地区、近畿地区となりました。
ところで急速に展開する、あるいは成長する都市があるとしますと、必ずそれと対照的に自然淘汰されて都市としては消滅に近くなってしまう。つまり人口が半分に減ってしまったとか、農村地区で言いますと過疎地帯になって、人がお年寄り以外にはいなくなってしまったとかというような現象が高度成長期に起こりました。
都市が一番高い率で自然淘汰されたところが中国地方です。ほぼ50%近い都市が自然淘汰された。例えば人口が百あったとすれば五十、あるいはそれ以下になってしまったのを自然淘汰と考えるとすれば、自然淘汰された都市は中国地方が一番多かったわけです。それから九州地区、その次が四国、その次が北海道地区になります。
高度成長期、つまり第二次産業が急速に起こったときに自然淘汰された都市の割合、地区というのはそのように出ています。中国地区、九州地区、四国、北海道というところで高率に都市が自然淘汰されていった。いわば自然淘汰されたのと対照的に急速に成長した都市というのは東海、近畿、東京および圏地区地域で起こりました。これが大変高度成長期、つまり第二次産業の展開期における都市の成長と衰退の仕方の一つの大きな型だと言うことができます。
それからだいたい高度成長期を過ぎて低成長期と言われる時期に入ります。つまり昭和五十年から五十五年、一九八○年です。低成長期における都市のあり方、成長と衰退の仕方というのはどのようになるか。高度成長期みたいに急速に成長する都市というのがなくなってきます。それから逆にまた自然淘汰されて、今まで例えば十万人口があったが五万以下になってしまったというような都市も少なくなります。
低成長期には要するに、何と言いますか、停滞したり徐々に衰退したりというような都市は出てきますけれども、急成長の都市と自然淘汰されてしまう都市というのは少なくなってきます。だから低成長期は緩やかな都市の成長と衰退の仕方というのが特徴なわけです。こういうことは何と言いますか、ちょっと考えれば非常に常識的に言えることなのです。
ところがこの低成長期というのは何を意味するかということが問題なのです。確かに第二次産業である工業、製造業みたいなものはそれほど急速に展開しない時期、あるいは展開がある程度頭打ちになった時期です。それと同時に非常に潜在的ではありますけれども、何と言いますか、徐々に第二次産業から第三次産業へとだんだん重点を移していく時期でもあるわけなのです。つまり低成長期というのは第二次産業がある程度成長が緩やかになった時期でもありますし、同時に第二次産業が第三次産業化していくと言いましょうか、第二次産業重点から第三次産業重点に移っていくというような要素があります。
つまりその二つのことが低成長の中に含まれているわけで、これはとても重要なことです。この二つの要因から要するに急成長と自然淘汰がせまってきて、緩やかな衰退と成長、あるいは中に停滞というのがあって、成長も衰退もしない都市というのも出てきたりして、全体が緩やかになってきます。
ところで問題は結局この低成長期を過ぎてしまったときにどういう現象が起きてきたか。だいたい第三次産業というものに産業の重点が移っていったと言えます。つまり所得からいきましても、その産業に従事している人口から言いましても、だいたい五割以上が第三次産業に移っていきます。この低成長期を経過して以降はだんだんとそのように第三次産業のほうに、何と言いますか、産業の人口、それから重点も移っていったと言えるわけです。現在の日本で言えば多分60%あるいは70%、その間ぐらいの人口の人たちが第三次産業に従事していることになると思います。
第三次産業というのは何か。一般的にサービス業と言われているものとか流通業、あるいはつくばで言えばレストランとか外食、教育、娯楽施設です。つまりそういうところに産業人口、また産業の重点も移っていったということがこの低成長期以降、現在のとても重要な問題になってきているわけです。
この産業の高次化と、都市の成長とか衰退で言えば緩やかな成長と衰退がどういうことを意味しているかということがとても重要だと思います。
それは何か。一つは産業がそこのところで高次化していったということなのです。産業の高次化とはどういうことか。第三次産業は流通とか情報、あるいは娯楽、外食とかサービス業です。サービス業というのは医療とか教育とかも含めて言えるわけです。そういうものを産業の中心にして、つまり第三次産業を一つのてこにしてと言いましょうか、都市とその周辺にある都市とが連結されてしまう。つまり連結されて同じ位置を持ってしまう、近づいていくと言いましょうか。そういうのが産業の高次化の一つの意味になります。
つまり低成長ということを構造的によく見ていきますと、一つは要するに低成長なのだけれども、例えばこの都市だけが高度に膨大にでかくなっていくということよりも、この都市とその周辺の都市とが第三次産業をいわば連結する糸としてつながってしまう。価値としては、あるいは意味としても同じになってきて、同一化に近づいていってしまう。これが産業の高次化、あるいは低成長ということの一つの形、重要な柱になるわけです。
それからもう一つ、そこの構造で質的に重要なことは、それぞれの都市がそうなのですけれども、それぞれの都市の中で一種の産業と産業をつなぐ網の目というものが部分的に作られてしまうということなのです。これがやはり産業の高次化、あるいは低成長期以降の都市の非常に大きな問題になってきます。つまりその都市の中自体が網の目のように産業と産業がつながってしまうとか、同じ産業でも違った産業でもいいわけですけれども、全部産業と産業とがつなげられて網の目状になってしまうというような形がいわば産業の高次化、それから都市の発展、成長のいわば現在の一番大きな主な姿になってしまっているということなのです。これがとても重要なことのように思います。
もう一度申し上げます。いわば都市と都市とが第三次産業をかぎにして連結してしまう。もはや同じ価値を持つようなところまで緊密に連結が進んでしまうということ。それともう一つは都市のそれぞれの内部で産業と産業とが網の目のように連結してしまう。この二つの問題が産業の高次化、あるいは第三次産業化、それから都市の成長ということの現在における重要な姿、あるいは低成長期以降現在までに至る重要な特徴になっています。
都市の成長と衰退についての定理
先ほども申し上げましたけれども現在、つまり産業の次元というものが高次になればなるほど都市というのは成長していきます。ですから第二次産業都市、つまり製造工業の都市よりも現在の第三次産業が主体になった日本の産業構成の中のほうが都市は成長していくわけです。
つまり都市というのは実に、もし反感を持たれるのならば非常にいやらしい本質を持っています。都市というのは、何と言いますか、産業が高次化していって農業、漁業みたいな第一次産業が衰退していけばいくほど成長します。それから第二次産業、製造業が大きくなればなるほど成長していきます。しかしもっと都市が成長するのはどういう段階か。製造業よりも第三次産業のほうに重点が移っていったときに都市はなお成長していきます。
そうすると都市の成長というのをもし否定的に評価するのならば、都市というのは実に、何と言えばいいのか、嫌な特性を持っているということをちゃんとわきまえておられたほうがよろしいように思います。
これは感情論でもなければ倫理の問題でもありません。つまり数学で言えば定理とか公理と同じように、産業が高次化するほど都市は成長するものだということ。そして今の歴史的な経由から持っていきますと、多分それが歴史の発展する方向なのだということは疑いないものだと思います。
皆さんの中でもし都市は嫌だと思われている方がおられるとすれば、都市というのは実に嫌な本質を持っていると考えられると思います。つまりそれが多分現在における様々な緑をめぐる論議というものの根底になっていると思います。しかし公理は公理です。感情論でも倫理論で片付く問題でもなくて、どうしてもそうなっていくという本質を持っています。ですから都市というものをどんどん極めていきたい、突っ込んでいきたいと考えられるのならば、産業の次元の高次化と都市化が、決して正比例ではないのですけれどもパラレル、比例関係にあるということは疑いようもない。そして現在の日本の社会における産業構造は、第三次産業が六割ないし七割近くなりつつあって、これは元に戻すことはできないように僕には思われます。つまりそういうことはとてもよく考えておられたほうがよろしいと思います。それが都市論の非常に大きな核心になります。
都市論というのは実に、例えば僕が一番よくやっていると思える人はフランスにボードリアールという哲学者、社会学者がいます。この人は低成長期以降の世界における先進資本主義国の現状分析、産業分析あるいは都市分析というものについて一番よくやっているように思います。
僕がボードリアールを気に食わないと思うのは、一つは倫理的に甘いことばかり言っている。つまり産業が高次化してもいいことはないのだということばかり言っていること。それから甘い論議ばかりしているわけです。つまり産業が高次化していって、何と言いますか、例えば高度な文化、流行、ファッション、広告とかが発達していくというような、そういうものと結び付けたりする。あるいは産業の高次化と記号論を結び付けようとして実にあいまいで甘い論議をやっているというところが僕が気に食わないと思うところです。
事態はとてもよくはっきり見つめたほうがいい。産業の次元の高次化と都市の成長ということ。これが都市の成長が持つ魅力だと思われる方もあると思います。そう思われる方にとってはこれほど成長した都市、産業の高次化した次元での大都市というものの魅力、これは社会的魅力もあります。つまり様々な娯楽、消費施設と言いましょうか。それから教育。物を買うにも消費にも何でも便利なこととか、経済的魅力もあります。就職が簡単。簡単にちょっとアルバイトすればすぐにお金が入る。パートに出ようとすればすぐに場所があってお金をかせぐことができる。つまり社会的、経済的、それから文化的魅力というのがありますから、魅力的だと考えるのならば実に魅力的なわけです。
つまり高次産業化して成長した都市というのは、実に何と言いますか、もしそれを魅力と考えるのならば大変な魅力であるわけです。これをまた魅力と考えないで、これほどいやらしいものはないと考えるのならば実に都市というのはいやらしいものだということになってしまって、昔の素朴な緑と原始的な生活に近いほうがいいみたいな観点というのもまた出てくる余地があるわけです。
つまり極端に言いますとその二つの観点が出てきて相争って、さまざまなニュアンスで主張されているとお考えになればよろしい。現状がつかめると思います。しかし問題は何か。産業の高次化と都市の成長というのはパラレル、つまり比例的な関係にあるという原則はほとんど数学でいう公理、あるいは定理と同じように非常に確実で動かすことができない、多分歴史の進展方向だということが根底にある。つまりこの根底をとことん見据えた上で、これに対して何と言いますか、微細な、微妙なところまで考察を加えていくことが重要です。
ボードリアールみたいに中途半端なところで倫理的な観点を導入したり、何か消費、贅沢はよくないみたいなことを言ってみる。産業の高次化、経済の高度化というのは決して人間を幸福にしないとか、また不幸な感情も起こってくるというような観点を中途半端に入れてくると全部分析が停滞してしまう。つまり考察が途中であいまいになってしまうわけです。
そういうことを避けるのならば、やはり基本のところはしっかりと産業の高次化と都市の成長とは比例関係がとても深いということを考慮に入れた上で、文明社会と言いましょうか、人類の歴史、これからの歴史というのはどうやったら、どういう条件をつかまえたら我々の理想状態をつかみ得るのかということを十分に考察して考えるべきだと思います。
中途半端に倫理性や感情論を入れたりするととてつもなく狂ってしまいます。つまり口当たりはいいのですけれども、本当は全部認識が狂ってしまいます。ですからそうでなくてこの問題、今の産業の高次化と都市の成長がパラレル、比例関係にあるという公理、あるいは定理というのを冷酷、冷静に見つめて分析する。そしてその様々な条件を取り出した上で、これを我々の理想の状態に近づけるにはどういう考慮が必要なのかということを問題にすべきだと思います。
そして現在の第三次産業が重点になっている都市というのは、昔の先ほど言いましたアジア的都市、あるいはアフリカ的都市のように支配者がいなくなったら途端に消えてしまうということではないわけです。日本で言いますとだいたい国家、日本国政府が日本列島のさまざまな産業都市に対して規正、規定を与えているパーセンテージはだいたい30%だと思います。
つまりさまざまな産業、あるいは商店法とか今、日米構造協議で問題になっている大店法のような法律を介して、日本の高次産業都市に対して国家が規正できているパーセンテージは30%ぐらいで、これがアメリカならばだいたい40%ぐらいだと思います。
つまりそれ以上はアジア的都市、アジア的国家、あるいはアフリカ的都市と違って国家が産業都市を動かすことは今のところできないわけです。今のところできているのは30%ぐらいですから、国家が産業都市の成長、衰退に関与できる仕方というのはだいたい30%止まりだとお考えになればいい。つまりほとんど産業の高次化、都市の成長というのに対して国家は30%しか関与できないとお考えになればいいと思います。
先進資本主義国では国家が都市あるいは産業に対して規正できているのは全部だいたい30%から40%ぐらいだと思います。あとは産業都市はそれぞれの自主性と無意識の転換によって成長したり衰退を繰り返したりする以外にないわけです。ですから今の産業の高次化と都市の成長はパラレルな比例関係にあるいうことはほとんど公理、定理と考えていいので、これを大変よくとことんまで分析された上で理想の条件は何かということをよく取り出してこないと、中途半端な倫理性、感情論で都市論をやってもちょっと現在および未来に耐えないと思います。
現在のその手の論議というのは大抵第一次産業、つまり自然産業、農業あるいは漁業と製造業が対立していた時期の観点で、今もそうだと考えているのです。だけれども現在すでに第三次産業のほうが人口の重点が多くなっております。先進社会というのはいずれもそうです。日本だったら50%から60%ぐらいだと思いますが、アメリカならば70%ぐらいそうなっています。
ですから何と言いますか、論議というものは都市について、あるいは農村についてもそうなのです。あるいは第一次、第二次、第三次産業についての論議というのは感情論とか中途半端な倫理論でやっても多分無効だと、そういう段階に入っていると僕は考えています。だからそこでの産業の高次化と都市の成長との関係については本当に冷静で冷徹な分析が必要だと思います。
ほとんどの経済学者とか社会学者はそれをやっていません。経済学的な自己と人間としての自己と言いましょうか、それが分裂したことを言ってみたりする。あるいはそれを折衷するとボードリアールみたいな、何と言いますか、眼目、目の付け所がいいものですから大変よく分析しているのですけれども、やはり中途半端なところでばかなことを言う、ばかな倫理性を導入して論議を何か曇らせてあいまいにしてしまうということになってしまいます。
僕は専門の経済学者ではありませんけれども、僕が主張したい、皆さんに伝えたいのもそうではない。産業の高次化と都市の成長とはパラレルだということは多分数学でいう定理、公理と同じようにくつがえすことはできませんということを前提とした上で、それならば未来に対してどういう条件をここで作れたら理想の住みかができるかということを考えるべき段階にあるということが僕の伝えたい、強調したいことになります。
少しデータがありますから細かく言ってみます。第一次産業(農業、漁業)の人口比が50%以上の農業都市は96・6%までが衰退するというデータを佐貫敏雄さんという経済学者が取っています。つまりほとんど第一次産業人口比が半分以上を占めている、言ってみれば農業都市ですけれども、それはほとんど96・6%まで衰退している。これは別にデータを取らなくても、今まで申し上げたように産業の次元の高次化と都市の成長はパラレルな関係にあるということはまず定理ですから、定理をそのまま言っているということだと思います。つまり定理の通りデータが出ているに過ぎないと思います。
それから第二次産業の人口比が50%以上の、言ってみれば製造業ないし工業都市です。例えば四十八個その都市があるとすればそのうちの三十四個、つまり70%は成長しているというデータが出ております。
それからついでに第三次産業(流通業、サービス業)の人口比が50%以上の、何と呼んでもいいのですけれども、ここでは商業管理都市と言っています。それは74%が成長しているというデータがございます。
もう一段申し上げますと第二次産業(製造業、建設業)と第三次産業の人口比が80%以上で、しかも第二次産業と第三次産業が先ほど言いましたように大変うまくネットワークと言いますか、網目状の機能と、それから隣接都市との連結と言いましょうか、その二つの複合機能ができている都市というのはだいたい80%ぐらいが成長しているというデータが出ています。
これらのデータは別に数字はどうでもいいと言いましょうか、いかようにも精密に取ろうとすれば取れると思います。そうではなくて産業の高次化と都市の成長とはパラレルな関係にあるという定理、都市の持つ本質的な性格と言いましょうか、少し細かく言えばそういう問題になっていくと思います。
それからもう一つ重要なことを申し上げておきたい。先進諸国の産業の次元構成がどうなっているかという一九八○年のデータです。例えば日本は第一次産業(農業、漁業、林業)が10・9%、第二次産業(製造業、工業)が33・7%、第三次産業が55・4%、これは現在は多分60%ちょっと超えていると思います。そのようになっています。産業の次元構成は先進国の日本、アメリカ、西ドイツ、イギリス、フランス、イタリア、みんなだいたい似たり寄ったりです。
僕が申し上げたいことはどういうことか。現在まで、つまり八〇年度までの限界点の数値はどうなっているかということです。それが僕はとても重要な気がします。第一次産業の限界点、つまり人口のパーセンテージです。第一次産業(農業、漁業)などに従事している人口のパーセンテージは日本はこの八十年で10・9%になっています。今はもっと少ないと思います。イギリスを見ますと1・6%になっています。つまり第一次産業(農業、漁業、林業)に従事する人口は1・6%くらいまでは実際には減る可能性があるということを意味しています。これはよくよく皆さんにやはり記憶していていただきたいことです。
現在日本の例えば専業農家だけを取ると多分13%ぐらいだと思います。そうすると日米構造協議か何か知りませんけれども、そういうので農業の自由化みたいなことが行われるとすれば日本の農業、例えば今専業農家は14(3?)%ぐらいだとして、だいたい6%~7%、9%とかまで少なくなって、だいたいそういうところで競争に耐えるところにいくのではないかというのが僕なんかのあてずっぽうです。
しかしこのイギリスの例を取りますと、農業とか漁業に従事する人は人口の1・6%ぐらいまで減る可能性があるということは頭の中に入れておいていただきたい非常に重要なことのように僕には思えます。つまりこれが一種の第一次産業の現在までのところの限界値なのです。
では第二次産業の限界値は何か。これはアメリカの29・3%です。つまり製造業、工業がどこまで減り得るかの限界値は29・3%が現在までのところの状態です。これはアメリカです。例えばその他の国はだいたい30数%から40%ぐらいまで、西ドイツとかイタリア、フランスなどというのはございます。しかしこの第二次産業(製造業、工業)も29・3%までは減る可能性がある、具体的に実際に減っているところがあるということは限界値として頭に入れておいてくださったほうがいいです。
もしかすると皆さんの頭の中には製造業が50%、農業が50%でチャンバラしているみたいなイメージがあるかもしれない。それは全然違うということをよく頭に入れておかれるととても分かりやすいと言いますか、見通しが分かりやすいと思います。
それから第三次産業(サービス業、流通業、商業、教育、娯楽業)はだいたい限界値として、アメリカで67・1%という数字があります。だから要するに少なくとも現在まで、つまり八〇年までのところ67%ぐらいまでは第三次産業の人口、従事する者が増えてしまうことがあり得るということはよくお考えになったほうがよろしいと思います。日本は55・4%、今は多分60%ぐらいになっていると思います。アメリカはもっと増えて70%ぐらいになっていると思います。だいたいここまで具体的に第三次産業のほうが多くなってしまっている、実際にあり得るのだということを頭に入れておかれると、とても限界値というのが描きやすいと思います。
そうすると一番問題なのはこうなってしまうわけです。つまり人間の生活というのは、貧困から離脱するためには農業を止めればいいということになる。農業、つまり第一次産業を止めて第二次産業になれば貧困からの離脱はできる。第二次産業から第三次産業へ行けばなおさら貧困からの離脱は成し遂げられるみたいになっていくわけです。
ところでそのようになっていって不都合かもしれないことが大きな意味合いで一つあります。つまり地球的規模と言いますか、世界的規模で一つだけあります。例えばアメリカでもイギリスでもいいですけれども、第一次産業のパーセンテージがどんどん減ってゼロに近づいていく。つまりイギリスで言えば1・6%が限界値ですけれども、これがもっとどんどん減ってゼロに近づいていく。逆に第三次産業がアメリカの67・1%、これはどんどん増えていってしまうというようなことを想像、概想しますと、これから未来に対してカーブを取っていきますと、どうしたってそのようになるに違いないということが一種の定理、ないしは公理として言えるわけです。
そうなってしまったら一体どのようなことになるのか。アメリカとかイギリス、極端な言い方をしますと先進諸国の産業はみんな第三次産業になっていってしまう。それでもしかすると住民の生活性は上昇していくということになるわけです。そうすると先ほど言いましたアフリカ的段階、つまり南アメリカとかアフリカの諸国というのは今度は逆に農業、第一次産業専門業にならないとだめなのではないかということにどうも世界的な規模の一つのイメージとしてそのような観点、問題というのは出てくるような気がするのです。
つまり南アメリカ、あるいはアフリカのどこそこの国はもう全部農業専門国。それから先進諸国、アメリカとかイギリス、ドイツ、日本は全部第三次産業。食べ物は全部農業国から輸入して持ってきて、それから第三次産業の設備、あるいはそれに絡む投資というのは全部アフリカないし南アメリカの諸国に行くというような、極端なことを言うとそういうイメージが出てきそうな気がするのです。
つまり一種の地域産業分担構造みたいに世界がなっていってしまったら一体どのようなことになるのだという問題が、極言すると出てくるような気がします。その問題はとても重要です。どちらが幸せかなどということではなくて、それは一種の地域におけるちんばの状態ですから、そのときにまだ先進国というような、つまり国家、国境という壁が残っていたとすれば、とても重要な問題が起こってきそうな気がします。
つまりこの問題は世界的な規模でも起こり得る可能性というのは大変多いわけです。この問題は小規模にすれば今の日米構造協議みたいなもののアメリカ側要求とかに対して、日本では大店法反対であり農業の自由化反対であるというような言い分も一方ではある。その問題はだいたい大規模に世界的規模で起こってくるだろう問題が日米両国の規模で起こっているというようなことに該当するように思います。
ですからそれについても多分感情論とか倫理論というのは成り立たない。つまり大した論議にならないのであって、やはりその問題もよく大きく深く冷静に分析していって、どういう状態が人間の歴史の理想なのかということについても十分考察し、その条件を取り出すことができるということがとても重要なことのように思います。
つまりその種の論議もやはり同じ問題に帰着してしまいます。でも現状はとてもよくそこでにらまえることができますから、そこのところをよく追求していくことが重要なのではないかと思われます。もちろん日本国でなくて例えばつくばを取っても、どうすればこの都市が成長するか、こうすればいいというのは今申し上げました通り、大変自明なわけです。
つまりもしつくばが旧来の製造都市、あるいは第一次産業都市であったとしたら、それを高次化していけばつくばという都市は展開、発展していくでしょう、新旧両住民の対立みたいなのがあるとすれば融合してしまうでしょうということは、大変口で言うならば自明のことであって、どんなことを誰がどう考えようと、それが一番基本にある問題となると思います。だからそういうことは非常に自明なことなのです。
けれども自明な問題というのは、何と言いますか、至るところに顔を出して問題をつっかえさせています。それは大は世界的規模の問題でもありますし、日米両国間で起こっている問題でもあります。それから日本の中で言えば農村と都市、農村愛好者と都市愛好者とが対立している問題にも換言することができます。
つまりそういう問題は全部構造上は同一の構造を呈していると言えます。そしてその構造の基本をなしているのは、今までたびたび申し上げました通り、都市の成長と産業の高次化とがパラレルな関係にあるということが問題の大きな条件になっていると言うことができると思います。
少し違うことで申し上げてみます。都市が極端に成長するというのは様々なところから図れるのですけれども、昼夜の人口比というのがあります。例えば東京で言いますと千代田区というのは昼と夜の人口がだいたい十七倍、あるいは十七分の一の割合で違ってきます。中央区ではだいたい七・九倍というデータが出ています。つまりだいたい八倍近く昼と夜の人口が違うということになっているわけです。それから港区では三・五倍、台東区では一・八倍。名古屋でも中央は四・二倍、大阪では東の地区が十二倍、北の地区が七・七倍というように昼夜の人口が違ってきています。
つまり昼夜の人口が違うということは何を意味するか。周辺都市から、何と言いますか、東京へ仕事、つまり職業上通ってまた夜は帰ってくるという人が多いということ。それからいわばもう一つは、先ほどで言いますと都市と都市との連結が非常に進んでいるということ。つまり第三次産業化が進んでいることの象徴だと見ることができます。もう一つの条件も直接には関わりませんけれども、多分都市内部での産業と産業との網状化と言いましょうか、ネットワーク化が大変進んでいるということを暗に昼夜人口の比というのは象徴していると思います。
いくつかの都市が成長したり衰退したりする原因について、今申し上げましたことの他にいくつかの条件があります。一つが所得格差というもので、そこに住むかその周辺に住んで働くと、所得が他のところに比べて多いということを意味します。あるいは全国平均の所得よりも多いか少ないかで言いますと、所得格差というのはそこに職業、あるいは仕事の場所を求めると高い所得が得られやすいというようなところでは一応誰が考えてもそうなるわけです。高い所得が得られるところに人口は集まってきますから、都市は勢い成長してきます。そういうことはだいたいにおいて比例関係にあると言えます。
やはり東京圏が一番所得格差が平均値よりも多いです。平均値より多いのは東京、近畿、東海というデータが出ています。そのようなところでは都市の成長が多くなってきます。その人口の増減率を縦に、所得格差を横に取ると、多少のカーブとかデコボコは生じますけれども、だいたい比例曲線が出てきてしまうということが言えます。ですからだいたい人は所得が多いところに集まりやすい。集まりやすいところに都市ができやすい、成長しやすいということが言えるわけです。
ところで先ほどの低成長期になり、産業の高次化が進んでいくことと製造業の展開が一応頭打ちになっていった。そういう時期になってきますと必ずしも所得格差によって人口が増えたり減ったりということが言えなくなってしまいます。どうしてか。先ほど申し上げたように、一つは周辺の都市と基の都市との連結が進んでいって、つまり同じもの、格差がないものというようにだんだん都市と都市との連結が緊密になりますから、必ずしも中央に集まってこなくても周辺都市でもだいたい同じ所得額が得られるために、必ずしも所得格差に基づいてだけ人が集まってくるということが言えなくなるわけです。
つまり第三次産業を基にすればそれだけではなくて、家族が住みいいからとか娯楽とか教育の設備がいいからということが大きな要素になって、それが都市として、何と言いますか、発展していくことがあり得るようになります。所得格差と都市の人口の増加というのは多分製造業が急成長してきた時に非常によく当てはまったことで、それ以外の、何と言いますか、産業の第三次化ということが起こり始めたところでは、必ずしも所得格差と人口の増減率とが比例関係にあるというようにはならない。他の要素、つまり消費の要素と言ってもいいのですけれども、大変違う要素が都市の成長に関係してくると言えるようになると思います。
もう一つ申し上げたいことがあります。第一次産業、つまり農業、漁業の人口の極大と極小の差というのはその時期、時代によって違うわけです。例えば昭和五年を取ってきます。第一次産業の人口が一番多い県と一番少ない県との割合は十・八倍あるいは十・八分の一だった。これが昭和三十五年になってきますと、第一次産業の人口が非常に多いところと非常に少ないところの格差はだいたい二十七倍、あるいは二十七分の一となってきます。三十五年の場合には鹿児島を一とすれば東京は二十七・五分の一しか第一次産業の人口はないということです。それが昭和五十四年度になりますとだいたい第一次産業、つまり農業、漁業の人口の極大な県と極小な県、この場合は東京と岩手県ですけれども、その格差はだいたい六十倍、ないしは六十分の一となります。
この格差の広がりというのは何を意味するか。本当は何も意味しないと言えば何も意味しないのですけれども、一つ重要だと思えるのは産業の高次化というのは一体何なのだろうかということです。言ってみれば例えば第三次産業というような、こちらのA地区からB地区へ物を動かしたりとか、A地区で物を売る場合にAプラスアルファというように付加価値を付けて売るとかということはなされますけれども、物自体を作るということは第三次産業以上では起こらないわけです。そうすると第三次産業というのは一体何なのだろうか。第三次産業が産業人口の大部分を占めてしまった。例えば90%の人口が第三次産業に従事するようになったというような極端なイメージを思い浮かべられればすぐに分かるわけです。
決して物を作るわけでも何でもありません。物をこっちからこっちへ動かすとか、こっちに付加価値を作る。あるいはサービス業みたいな、例えばお医者さんのようにその人の体のどこかを治したとか、あるいは学校の教育者のように、何と言いますか、その人の頭を少し良くしたというような、何かを作ったわけでもないことというのは、外から見たってちっとも分からないわけです。つまり分からないことに従事する人がだいたい90%を占めてしまったというイメージを思い浮かべられればすぐに分かるわけです。
なぜ産業の高次化というのが一種の不安を与える要素になるか。物を作ったり、作る過程における物の手触りとか自分が手をこのようにやったらこのように形が変わったのだとか、あるいはこういう機械をこのように動かしたらこの原料からこういうものができたというのを目で見ながら作るというのは大変ある意味で分かりやすくて、一種の開放感みたいなものがあるのです。しかし風邪を引いた人を治してやったとか、その人の頭を少し良くしてやったとかといったって、何も本当は手ごたえなんかないわけです。
つまりそういうことに従事する人が例えば人口の90%を占めてしまった。アメリカで言えば今70%を占めてしまった。そうすると何か形あるものに手を加えて、あるいは機械でそれを加工したらこういうものができたというような手触りとか目触りとかが全然ないものに人口の90%が従事するという場面を想像すればすぐに分かりますように、大変つかまえどころがないわけです。つまりつかまえどころがないことに従事することが自分の職業であり、その職業に従事する人が社会の例えば90%を占めてしまうとなるわけです。そのときの手触りのなさがもたらす、何と言いますか、一種の不安感とか頼りなさとかを想像するととても不安になったりきつくなったりするわけです。
それから多分皆さんの中に得体の知れない疲労感とか不安感とかというのが、もし産業、あるいは都市が発達して、発達した都市の中にいればいるほど何となく不安であるとか疲労するとかということが無意識のうちにあるとすれば、多分その原因の根本のところに産業が高次化していって何か手触りあるものを手触りあるように付け加えて、そして手触りのあるものを作ったというような実感からだんだん人間が、産業の高次化と共に隔てられていってしまうということが必ず無意識の中に入っていると思います。
つまりそういう問題を一体どのように考えたらいいのかということは、これからとても重要な問題になってきそうに思います。ただ基本的に考えやすく言えることは第一次産業、つまり自然を相手にする産業ですから手触りのある産業ですよね。第一次産業の人口の極大と極小の格差が大きくなっていくことというのは、産業が高次化していくことの象徴なのです。
しかし何と言いますか、高次産業というのはだいたい低次産業というものをその中に含んでいると考える考え方が僕はいいような気がします。つまり何か非常に形あるものを作っていないのだけれども、その基になっているのは非常に形あるものなのだ。その形あるものはまた加工されたものなのだけれども、その基になっているのは第一次産業の、つまり自然から採取された産物なのだと考える。つまり第三次産業は形が見えない産業ですけれども、その中には第一次産業の産物も第二次産業の産物も全部、いわばストレートにそのままの形ではないけれども、フォーカスされているのだと考える考え方を取ったほうが僕はいいような気がします。
そうでないとだいたい頼りなくてやりきれない状況の中に精神的にも入っていってしまうような気がします。またそれを避けることは多分人間にはできないので、それはどうしても不可能だという方向に進んでいくことは疑いないとなっていくと思います。これが現在の都市というものがはらんでいる一番根底にある問題と考えられます。これを解いていくには、本当に冷静に分析していい条件を作っていく以外にないわけです。
それからもう一つだけ可能性が考えられます。それはやはり人工都市です。例えば理想の第一次、第二次、第三次産業の配分を考慮した上で理想の人工都市を作ることはやろうとすれば可能なわけです。これは言ってみれば都市の成長の問題と産業の高次化の問題を歴史あるいは文明の歴史から解放することになるわけです。つまりそれを一挙に解放する方法は、理想の第一次、第二次、第三次産業の人口比の割り振りを作ることで人工都市を作るというやり方をもし採れば、言ってみれば都市問題が歴史、ないしは文明史から一挙に解放される方法というのはそれ以外にちょっと考えられないです。
では人工都市というのは可能か。これは二つの意味があります。一つはもちろん財力、資力の問題です。それからもう一つは土地でもいいですけれども、場所の問題です。その二つの問題があります。この問題は帰するところはまた一つになります。つまり現在では、財力で場所の問題は解決する部分が大変多いだろうということになります。では財力の問題と場所の問題というのをどうやって誰が解決すれば人工都市ができるか。
場所の問題として言えば僕は二つ可能性があると考えてきました。一つは要するに第三次産業が興隆していって、第二次産業、つまり大規模な製造工場みたいなものが要らなくなった場所と言いましょうか、あるいはそれが廃墟になった場所というのがもし考えられるとすれば、そこでは人工都市が可能だと思います。それからもう一つの可能性は、やはりアフリカ的な段階の場所だと思う。アフリカ的段階の土地とは何か。それは森林と草原です。つまりそれがあるところでは人工都市は可能です。理想の第一次、第二次、第三次産業人口の割り振りをしながら、森林と草原地帯、つまりアフリカ的段階の土地では理想の人口都市は可能だと思います。
場所的に言えばその二つのところしか可能でないわけです。もっと単純化してしまえば、アフリカ的場所というところでは人工都市は可能だということになります。つまりアフリカ的な場所というのは何か。それは第一次産業以前、つまり自然採取の産業も可能であるし、自然産業も製造工業も可能だという地域です。それは日本国の中でも、ある地域の場所というのを特定に取ればいくらでもアフリカ的段階の土地というのはございます。 だからそういうところでは可能であろうと思います。
それからもう一つは本当に文字通りアフリカ的段階で可能だと考えます。草原と森林なわけです。草原と森林というのは何か。エコロジストはよくアフリカの森林や草原などを伐採するというのは非常に地球的規模のエコロジカルな条件を変えてしまうからそんなにみだらに伐採するべきではないみたいなことを主張しているわけです。僕はそのように思わない。森林とか草原は重要です。言ってみれば一挙に理想的な人工都市を作れる可能性のある場所なのです。そして一挙に人工的、理想的な都市が作れるというのは第一次産業の場所も第二次、第三次産業の場所も理想的な割り振りができているような場所に人工都市が作れるということを意味します。
つまりそれは森林地帯と草原地帯で可能なわけです。エコロジストというのは今の段階で言ってみるだけですから、もしエコロジストがそんなことを言ったって黙っておけば森林というのは伐採され草原も耕されて農耕地帯になってしまう。だいたい人類の歴史はそのように通ってきましたからそうなるに決まっているわけです。放っておけばそうなります。
アフリカ的段階はアジア的段階に進んでいきます。だからそうではないのだ。放っておけばそのように進んでしまうけれども、人工的に理想的な人工都市を作ろうとすれば可能性は森林地帯と草原地帯に、あるいは日本で言えばこのような第三次産業が可能な場所と、それから第一次産業以前の自然採取ができる場所、例えば山とかが後ろに控えているとか、前に海っぺたが控えているような場所の一角を小規模に取っていけば、そこでは人工的な理想的な都市を作ることは可能なわけです。
つまりアフリカ的段階というのはアフリカだけにあるということではなくて、どんなに高度に発達した文明国でも、ある部分を取ってくればそこに存在できる余地があるし、存在しているわけです。だからそういう場所ならば人口都市は可能なのです。つまり僕は都市問題というのは先ほどいやらしいと思えばとてもいやらしい、きつい問題だと。しかしやはり数学で言う定理とか公理と同じなのだと言いました。
この歴史的ないやらしさと言いましょうか、文明史がはらんでいるそういう都市問題のいやらしさを一挙に解こうとすれば、やはり人工都市というものを考えて、そこで第一次、第二次、第三次産業の理想の割り振りを始めから設定、設計して、よく考えてそこを作るやり方というのは、要するにアフリカ的段階の森林、草原ないしそれに準ずるアフリカ的段階の場所で可能だと思います。
多分僕はそれ以外に都市問題、あるいは産業問題が、何と言いますか、率直に言いまして文明史ないし人間の歴史の課題から解放される可能性はないと考えています。ないから悲観的だというのではなくて、ないから作ればいいのだと言っているわけです。それ以外にないだろうと。
そこのところで皆さんによく考えていただきたいことは、繰り返し申し上げますけれども、中途半端な感情論で問題の本質を曇らせないようにしていただきたいということです。感情論とか倫理論というようなもので曇らせたら、今行われている論議と同じ次元になってしまいます。
つまりそういう都市問題の次元の問題、あるいはエコロジーの次元の問題を、今論議されているような問題の次元から離脱させたいということは、ここ数年来の僕が取ってきた非常に大きな課題の一つでやってきました。
ですから僕が都市問題について皆さんに申し上げるとすれば、つくばの問題というのは皆さんにとって切実なのでしょうけれども、それも含めて都市問題が根底的にはらんでいる問題がとにかくどこにあるかということ。それからそれを冷静に分析していって、どうすれば理想的な条件が作れるかというような問題を、とにかく僕らのイメージの中に一人ひとり、徐々にでもいいですけれどもはっきりさせていくことができたら大変いいことです。
今世界中で行われているエコロジスト、社会学者、経済学者、あるいはヒューマニストがやっている論議の次元というのはやはり離脱していかないとだめだと僕は思います。その一つの手段というのは、そういうことを非常に冷静に分析して、これならば大丈夫だ、これならば歴史というのはより良く進むだろうといういい条件をイメージとして考えていくことができたら言うことはないわけです。つまり僕らがやってきた、考えてきた問題、それから展開してきた問題の核心というのはいずれにせよそういうところに集約することができます。
このことを皆さんにお伝えできれば、僕の今日のお話は僕なりに任務を果たしたと言いますか、責任を果たしたような感じになれるので、そういうお話を繰り返し、問題を強調してまいりました。皆さんのほうでそれをとてもよくご自分で展開して、自分なりのイメージをそれぞれ作っていってくだされば大変ありがたい。僕の話したお話の甲斐があるということになると思います。
一応これで終らせていただきます。