(※段落番号と小見出しは、音声のチャプターとタイトルとは別になっています)
司会:
本日はお集まりいただきましてありがとうございます。ただいまより白梅学園短期大学後援会と白梅学園短期大学学生課の共催によります吉本隆明氏の講演会を始めます。公園の前にワタナベトオル後援会長より一言ご挨拶がございます。
ワタナベ:
皆さんこんにちは。私、当学園の後援会長を務めさしていただいています。ここにあります白梅幼稚園の園長のワタナベと申します。たしか昨年は講演会もご協力して、展覧会も開かれたわけですが、今回は吉本隆明先生をお招きしての「いまの社会と言葉」というテーマのお話を伺うことができるようになりました。こんなに大勢の方がお集まりいただいたこと、後援会としても???。私、幼稚園で毎日子供たちと泥まみれになって遊んでいるわけなんですけども、言葉っていう問題で考えることは今年度から一新されました新教育要領。これは???幼稚園の今までの要領と違いまして発達の側面から5つの分野からございまして、そのなかに今までは言語と言っていたところが言葉となり、音楽・リズム・絵画と言っていたあたりが「感性と表現」というように変わりました。言葉といえばこれも表現です。その言葉が取り出されたということは、取りも直さず、言葉というものは人間を育てることで大切だからということがあろうかと思います。そして感性と表現。これはともに感性豊かな子供を育てたい、そういう願いが込められているのではないかと私は感じております。言い換えれば、子供に感性豊かにということは、私達大人自身が豊かな感性の持ち主でなければならないだろうといつも思っていたんです。そんな折に「いまの社会と言葉」ということで、大変貴重なお話が伺えるものと思いますが、短い時間ではありますけども、今日の先生のお話が私達の今後の糧になればいいなぁとそのように感じております。吉本先生よろしくお願いいたします。
司会:(略)
吉本です。(拍手)今日はあの、「いまの社会と言葉」っていうテーマを与えられまして、これ大変僕らみたいな、駆け出しっていうかそういう人間には難しいテーマなんで、どっからどういうふうにやってったらいいかなぁってことを考えあぐねたんですけど、幸いなことにたしかに10日か二週間ぐらい前だと思いますけども、自由国民社、つまり「現代用語の基礎知識」ってこんな厚ぼったいマニュアルを出しているところなんですけども、そこが今年度の新語、新しい言葉と流行語の一番いいのを選んで表彰するみたいな、それが新聞記事にありまして、これはいいっていう、これは「いまの言葉」のきっかけにとてもいい材料だっていうんで、早速そこから入っていくことにいたしました。
そこで選ばれた金賞銀賞銅賞っていうのがあるんですけども、新語の方でいいますと「ファジィ」って松下電器の全自動洗濯機なんです。それで「ファジィ」っていうのは、ぼやけたとか曖昧なとかって意味になると思いますけれど、コンピュータっていうのは二進法って言うわけで、0か1か、イエスかノーかっていうことでもって、ある指令を作っていくわけですけども。そうしますと、若者っていうのを例えば20歳以下のものを若者って言うと、それ以上のものを若者じゃないっていうって、例えば決めるとします。しかし、20歳6ヶ月のものは若者でないか、っていうことになってしまいます。20歳11ヶ月のものは若者であるか若者でないかということになってしまいます。1ヶ月違いで若者の中に入れられるか、その外になってしまうかってことは、実際問題として大変不合理なわけです。だけどコンピュータってのはいつでも二進法で、これかこれか、これかこれかって選択をやりながらある指令に到達します。だからその曖昧さっていうのを入れないと、今みたいなことで、若者であるかないかってことが20歳0ヶ月から以下と以上で決めちゃったら、実際問題としては大変合わないわけです。ですから、コンピュータのシステムの中に曖昧さを許すって言いましょうか、曖昧さでもそれに応じられるっていうシステムをそこに入れますと、実際にそこをできるわけです。スプーン一杯洗剤を入れたときと一杯半入れたときと二杯入れたときと洗濯の能力が違うっていう場合に、2杯半とか1杯半とかっていうその「半」っていうのがちゃんと全自動装置がうまく作動するっていうように作ってあったほうが、いいわけです。それが松下電器で発売されまして「ファジィ」と名付けました。この「ファジィ」という言葉が新語として新鮮な感じがするしよく流行ったということで、これが金賞に選ばれています。
一通り簡単に説明しましょうか。銀賞になったのが「ブッシュホン」っていうんです。「ブッシュホン」って何かといいますとブッシュ大統領から海部首相に電話で持って、中東問題でお前んとこは援助してくれっていう、それが「ブッシュホン」っていって。これを作った人の心の中は「いつでも日本の総理大臣がアメリカの大統領に言われるとハイハイっつってる」ということに対する皮肉が込められているんだと思います。それで「ブッシュホン」という言葉が流行りまして、これが新語として銀賞になっているわけです。
銅賞は「オヤジギャル」です。これは中尊寺ゆつこの『お嬢だん』っていう漫画でもいいですけど。そういう漫画に出てくる、OLでもって少しお年をとったそういうOLのことを「オヤジギャル」っていうふうに名付けて、「オヤジギャル」らしい性格を職場で示すっていうそういう人で岡村さんという人が出てくるんですけども。その「オヤジギャル」って言葉は、オールドミスのOLで、そういう特色を持っているのを「オヤジギャル」って名付けたんですけど、それもなかなかの流行度で、新語として表彰されたってことなんです。
流行語として金賞になったのは「ちびまる子ちゃん」です。さくらももこの漫画ですけど。「ちびまる子ちゃん」がなったってことは、「ちびまる子ちゃん」という言葉自体だけじゃなくて、そういう現象を含めて金賞になったんだって思います。大変良く読まれた。今も読まれていますし、テレビなんかでも日曜にやってますけども、「ちびまる子ちゃん」ってのが金賞になっています。あとで結局そこへ絞っていきますけども、一通り説明していきます。
銀賞になったのは「バブル経済」。「バブル経済」ってのは日本の膨張しすぎてわけわからなくなってるような、そういう経済現象を「バブル経済」っていうふうにもじった、皮肉ったわけです。その言葉が流行語として銀賞になっています。これはたぶん本年の新語とか流行語の背景にある日本の社会の背景を考えていきますと、いろいろな問題が出てくると思います。
三番目、銅賞になったのはキリンビールから出てる「一番搾り」っていうのが出てますけども。ビールの味ですから人によって好きな人と好きじゃない人がありますし、「一番搾り」ってのがうまいって人とそれほどじゃないって人がいると思います。僕はそんなそれほどじゃないって思いますけど、「一番搾り」っていうなんとなく名付け方、それはなかなかのものだと思います。味よりもそっちのほうがいいんじゃないかという感じがします。
それからソニーの8ミリビデオで「パスポートサイズ」の8ミリビデオが、「パスポートサイズ」っていうのが出ています。要するに超小型のビデオ装置です。ビデオ機です。これが銅賞になってます。
これも「ファジィ」の全自動洗濯機も日本の「バブル経済」現象の非常に大きな特徴部分を占めているわけで、それは後ほど説明することはできると思います。「ファジィ」ってのは洗濯機で、この頃は掃除機でもできたって聞いています。物の本によりますと仙台市の地下鉄っていうのが全自動システムの中にベテラン運転手の経験ってのを「ファジィ」として、つまり曖昧な要素として組み入れてなかなかいい動き、運転のシステムを作っているっていうふうに言われています。つまり「ファジィ」の要素はベテラン運転手の経験っていうのは「あそこを曲がるときにはこのあたりから少しスピードを落としたほうがいいんだ」とかっていうことが機械なんかじゃとても出てこない微妙な経験がありますけれども、経験の度合いをシステムの中に入れて曖昧な要素として入れてあるということなんです。だからいろんなところに使われています。使われ始めていると思います。
大衆賞っていうのが一つあります。これは二谷友里恵の「愛される理由」っていう本がベストセラーになっています。みなさんきっと相当な部分の人が読まれていると思います。なぜこれが流行ったのか。大衆賞になったっていうのがとてもよく分かるんですけど、別に「愛される理由」っていう言葉自体は内容とそれほどマッチしてるわけではないんですけど、なんとなく「愛される理由」っていう言葉自体がもつ、イメージが広がっていって、よく売れている本だと思います。もちろんなぜ売れるかっていう特色はあるわけです。文学的に言ってもあります。この著者は、郷ひろみの奥さんですけども。きれいな人ですけども、きれいな人と関わりなく大変いい感覚のきらめきを持っている文章を書いています。それから、もう一つは非常に歯切れがいい。女の人にしては大変歯切れがいい判断力をもっていて、あんまり毛羽立たないけども決して男に譲るってこともないっていう、非常にピタッとした判断力を示せるその資質って言いますか、性質が文章の中にとても良く現れています。それが資質って言いますか、文章力っていうのも含めて、資質っていうのが一番良く出ているのは、一頭最初のところにとても良く出ていると思います。自分のおじいさんにお土産を買って行こうと思ってパリで流行品、ブランド品を売っている店へ入った。そしたら日本人の観光の旅行者なんかが並んでそれを買うために待ち受けていた。そしたら、一時間も一時間半もみんな待っているのに、店員さんであるフランス人の女性は、全然馬鹿にした態度でなかなかやってくれない。しまいに係のやつがどっかへ外出するんだって、どっかへいっちゃいそうになっちゃうんです。それで怒って二谷友里恵が「待て」って言って「もう一時間半も待っているのにどっか行くんだったら代わりの誰かを指定していけ」っていうふうに抗議するわけです。向こうはびっくりして、ちがう日本人の係の人が出てきて「申し訳ない」って自分が代わりにあれしますって言って、だんだんスムーズになっていった。そのときに「待て」っていうふうに言ったときに拍手が起こったって書いてあります。それが一番読んでると気持ちがいい。日本人が読むと気持ちが良いんです。良いとこなんですけど、その歯切れの良さっていうのをきちっと持っているところがとてもいいので、読む人に爽快感を女性なんだけど爽快感を与えるっていう。そこがたぶん、文章も歯切れがいいんです。だからそこはたぶんこの「愛される理由」っていう自伝的フィクションが受けた、あるいは受けつつある理由だっていうふうに思われます。
これで一通りの説明が終わったわけです。ところで、今言いましたことを全部を通しまして何が共通かって、つまり背景にある共通なものってのは何なのかっていうことを考えてみたいわけです。これを考えてみるってことは本当は言葉にとっては筋じゃないんですけども、もう一回入っていこうと思います。一応これら全部を通して全部の背景にある共通な社会現象、あるいは社会構造っていうのはなんだろうかってことで、みなさんに関係が比較的ありそうなところをピックアップして参ります。それをお話したいと思います。
一つは消費社会っていうみなさんもよく聞かれる言葉があると思います。これらの「ファジィ」もそうですし、「キリン一番絞り」もそうですし、ソニーの8ミリビデオもそうですし、それから「オヤジギャル」とかの「ちびまる子ちゃん」の流行現象の背後にあるものも、しいて言えばそうだと思うのですが、それらは消費社会、日本の高度な消費社会っていうのを背景にしています。消費社会っていうのは何でしょうか。何を消費社会って名付けるかっていうふうなことになるわけです。そうすると、みなさんも探ってご覧になればすぐわかるように、人によって消費社会っていう言葉を使っていても何を消費社会って言ってるかってのは、人によって様々であります。言ってみればそんなに確からしい消費社会の定義を下している本とか専門家はいないっていうことがわかります。僕もそれをしてみたんですけども、いないってことがわかります。それで、自分なりに消費社会っていうのはこういうんだよっていうことをどこで言えるかってことを自分なり考えてみました。それを例を持って申し上げてみます。
ここに日本の中流の人ですね。中流の所帯の人の家計のうち消費できる部分がどういうパーセンテージを占めているかっていうデータがあります。日本人の民衆はだいたい7割から8割の人が自分は中流だって思っています。中流のうち、上中下とわければそうなるわけですけど、それを合わせて8割近い日本人は、自分は中流だって思っていることがわかります。この例はたぶん「中流の中」じゃないかって思います。「中流の中」から少し「上」に行ったところだと思います。年収が600万円から800万円くらいですから、給料にしてみますと50万円から70万円ぐらいの給料をもらっている収入がある人です。たぶん「中流の中」から少しだけ上の方に行っている人だと思います。それが例に取られています。 それでもってデータをあれしてみますと、平均ですけど、必需消費が32%です。必需消費っていうのは光熱費とか、いつだって毎月必ず要るというのが必需消費の部分です。それから選択消費が38%ぐらい。選択消費っていうのは「ファジィ」と同じで、余裕があれば買うし、買いたいと思えば買うし、買うのはもったいないと思う人は買わないっていうように選択できる消費支出部分です。それを選択消費って言いますけどそれが38%です。そらから保険とかなんとか契約の支出、それから余ったのは貯金してあるっていうそういうもんです。これはこっちのほうは住宅ローンの返済がある人が41%。住宅ローンの返済がない人が58%ぐらいですけど。消費??のデータで必需消費が38%、選択消費の分多くなって43%ぐらい、契約支出のほうがローンも減っちゃってる感じです。貯金も少し多めにできる、ってこういうふうになってます。
消費社会って何かっていいますと、その社会の大部分の人たちの消費できる会計部分、家計費のうち消費に支出できる部分で、必需消費よりも、つまり毎月必ず払う光熱費とか水道代とかそういうことですけど、そういうものパーセンテージよりも、選択消費のパーセンテージのほうが多くなっている。つまりその社会の大部分の人たちの消費支出で選択消費の方が必需消費より多くなっている、より多く消費できるっていう家計部分を持っている。そういうのが大部分であるっていう社会を消費社会とお考えになるとよろしいんじゃないかと思います。これは私の提示です。いろいろ考えたし、人の書いたものも読んだりしたんですけど、結局はこれが一番いいんじゃないかって僕は考えました。そういう社会を消費社会って言うと定義したらいいと思います。日本は今、こっちが32でこっちが38ですから明らかに中流の人ですから大部分の人です。つまりその人たちの選択消費の方が多くなっておりますから、日本の社会は消費社会と呼ぶことができます。
消費部分っていうのを、これとこれを足してみますとだいたい半分以上を超えているっていうのが消費社会の特徴です。つまりどっちから取っていっても70%以上が家計費の中で消費に使われているってことになってます。もう一つ選択消費のほうが必需消費よりも多くなっている、これが消費社会の特徴です。これを消費社会って言うことの定義にされてもよろしいんじゃないかって思います。
それは、これらの「ファジィ」とか、キリンの「一番搾り」とか、ビデオとかこういうどちらかと言えば選択消費部分に属するわけですけども、これが流行しているっていう現象と消費社会であるという現象とは大変背景としてパラレルになっている。背景としてそういうことがあるってことは、消費社会があるってことがわかると思います。
それから日本の社会で皆さんに関係が多少あるんだってところを拾ってきますと、老人度ってものと青少年度ってものがあります。老人度とか青少年度ってことは、これは僕なんかの造語ですけど、流行らなかっただけで造語なんですけども。これを見ますと日本の社会の青少年っていう人口を0歳から14歳と取るとします。老年っていうものを65歳以上と取るとします。そうしますと、昭和10年ですから、戦前ですね。戦前におきましては0歳から14歳の人口は36.9%、老年の人口は4.7%。昭和45年になりますと青少年の人口は減っていきます。24%ぐらいに減ってしまいます。それに対して老年の人口は増えていっています。現在に近いところですけど、青少年の人口つまり0歳から14歳の人口はもっとなおさら減っています。18.5%。65歳以上の老人のパーセンテージは11.9%で増えています。これはますますそうなっていって、青少年人口が少なくなり、老年人口が多くなる傾向にあります。年齢のとり方によりますけれど、だいだいにおいて働ける人口あるいは働く人口といいますか、15歳から64歳までの割合っていうのはそんなに変わらないんです。それに対して青少年の人口が、0歳から14歳までの人口が減っていくにつれて老人の数が増えていくってことがあります。これは割合に、逆平衡状態にあるってことが言えます。ますます、青少年の人口が減っていき、ますます老年の人口が増えていくだろうってことは推測することができます。消費社会のたいへん大きな特徴だっていうふうに言うことができます。また日本の社会の現在とこれから、過去と比べての大変大きな特徴だっていうふうに言えると思います。よく新聞なんかにある老齢化社会になりつつあるとか、これから大変なんだっていう記事がよく出てますけども、そういうふうになっていくだろうって思います。そこでは介護老人と言いましょうか、いわゆるボケ老人っていうのと、寝たきり老人っていいますかそれの数ももちろん増えていくでしょうけれども、活性のある老人の数ももちろん増えていきます。そういうことについては人間というのは、老齢化社会になるにつれて老人はまた元気になります。つまり昔の60歳と今の60歳だったら比べ物になんないくらいに今の60歳の老人のほうが元気に働くことができます。そういうことは大変主体的な問題を入れていかないとデータだけで行きますと、大変悲観的なイメージになりますけれどそれとは限らないわけです。
文学でも同じで、例えば20歳の明治時代の石川啄木は現在僕67ぐらいだと思いますけど、僕らよりも遥かに大人です。明治時代の啄木は20歳のときに書いたものみますと僕らよりも大人です。つまり当時の20歳っていうのは今の60歳ぐらいに該当するぐらいなんです。つまり我々は若いっていうか未熟。60歳のくせに未熟なんです。逆な意味では活性があるわけです。活力があります。だから老齢化社会っていうから老人はみんな寝たきり老人と痴呆の老人だけかって言うとそんなことはないんです。そういう人ももちろん増えるでしょうけれど、元気があって判断力も立派でそういう老人もますます増えていくっていうことは間違いないことなんで。だから人間っていうのは主体的なものなんで別に環境だけで言っちゃいけないって言うことがあります。これは老人問題だけに限らないんですけども、環境問題ってよく出てますけども、ああいう論議っていうのは全部そうですけど、ひとりでに人間の方はぼやっとして汚染されてるばっかりだと思ってるそういう口ぶりになってしまいますけど、そんなことはないので。人間っていうのは汚染されているうちは、気がつかないうちはいいけど、気がついたらちゃんとそれに対して対策を講ずるってことができるんです。主体性もあるんだよってことをちゃんと勘定に入れないと論議が間違ってしまうと思います。
これは、みなさんにも関係があると思います。もっと皆さんに関係があるのを申し上げますと、合計特殊出生率というのがあります。生涯出生率ともいうわけですけど。年齢別に子供の数を集めていって、その合計というものから、一人の女性が生涯に産むであろう人数を推定して計算したのが、この合計特殊出生率、あるいは生涯出生率というものです。先進国の合計特殊出生率の移り変わりをあれしてみますと、合計特殊出生率というのが2.1以下になると人口は減っていくとされています。その推移を見てみますと、日本は1975年頃から人口が減少現象のところに入っていきます。それからだんだん生涯出生率が減っていく一方です。だいたい先進国ばっかりですけど、アメリカも1975年頃から人口減少状態に推移していきます。スウェーデンというのは、他のことはともかくとして社会福祉みたいな関係では先進国なんですけど、この先進国は1970年頃から人口減少状態に入っていきます。だいたいにおいてイタリアを除いて1975年頃から世界先進諸国は人口が減っているところに入っていきつつあります。
これはある意味で良いことでしょう。そうしますと個々の生活はそれだけ豊かになりうるわけですから、それは良いことなんでしょうし、また為政者のように心配な人がいると人口が減っていったらどうなるんだとか心配なこともあるんでしょう。良いことも悪いこともあるので。人口が減少していくっていうことそれ自体がどうだ、良いとか悪いとか一意的には決められないので、良い面もあれば悪い面もある。見方によって悲観的に見る見方もできますし、これは良い状態だって見る見方もあると思います。それはそれぞれなんですけど、だいたい75年頃は、これで言いますと消費支出がだいたい半分以上になっていって、産業で言いますと第三次産業って言いますけど、サービス業とか小売業とか流通業とかっていう産業が半分以上占めていった社会に変化したのがだいたいこのあたりだと思います。75年辺りから先進国は消費社会といえる状態に入っていったと考えるとだいたいにおいて間違いないと思います。
消費社会に入っていったということは、産業的に言いますと製造業と第一次産業、農業、漁業、林業というようなものが相対立して製造業中心の社会であったという資本主義の社会の初期から興隆期かけてそうなんですけど、そういう社会のイメージが通じなくなったということを意味しています。現在においては、製造業に中心があるというわけじゃなくて、人口から言っても生産力から言っても第三次産業に日本の社会、あるいは一般的に消費社会の重点が移っていってしまっております。それはだいたいにおいて75年頃からそうじゃないかと思われます。そのことと生涯出生率というのは関係があるかどうかっていうのは一義的には決められないことですけど、ある関係がありそうに思われます。どう関係あるかってことを決定するのは難しいですけども、ある関係がありそうに思われます。みなさんにも関係が深いので挙げてみました。日本の状態も先進国並みに同じように推移しております。
同じ関連したデータですけど、20歳から24歳までの女性の未婚率というのがあるわけです。未婚率の推移を見てみますと、20歳から24歳で半分以上が未婚だっていうのは1950年頃からそうです。60年で63.3、70年で71.7、80年で77.7%が、20歳から24歳の女性が未婚である率です。つまり大変な数です。圧倒的に世界の先進国の中で多い数です。なぜ多くなるのかですが、色んな理由が挙げられるでしょうけれど、それは皆さんのほうが自分でお考えになれば、つまり自分が結婚したくないと思っている理由がまさにその理由だと思いますから。そういうふうにお考えになれば、なぜだろうかと考えていくことはできると思います。とにかく言えることは日本というのは圧倒的に20歳から24歳の女性の未婚率が多いっていうこと。それはたぶん生涯出生率の問題にも関係があることだと思います。これは大変珍しいといいますか、興味深いデータなんでこれを挙げてみました。
この未婚率っていうものが「オヤジギャル」っていうのを生み出しているわけですし、中尊寺ゆつこなんかの漫画の感覚的な感性的な基盤になっていると思います。中尊寺ゆつこは、都会で勤めているOLの生活とか感覚とか振る舞い方とかっていうのを描くのが得意で、そこで描いてきたわけですから。それはこういう20歳から24歳までの、あるいはそれ以上でもいいわけですけども、未婚率が日本は圧倒的に多いんだっていうことを、一つの漫画の基盤にしているということが言えると思います。
独身の男女の収入の平均のデータがありますから持ってきてみました。独身男子は収入は平均で25万2,542円となっています。女子は21万631円というデータが出ています。女子の方が少ないですけども、名目実質の前年度に比べてどれだけ増しているかのを入れてみますと、男子の方が名目収入額は14.6%増です、前年に比べて。それに比べて女子の方は、22.2%増です。実質もそうで、男子の方が9.6%増ですが、女子の方は16.3%増です。つまり圧倒的な速さで女子の収入は男子に追いつきつつあるっていうふうに言うことができると思います。数年後には同じところまで行くだろうと思われます。これらのことは流行語や新語が生み出され、生み出された流行語や新語の背景になっているいろんな社会的な消費物質とか言葉とかそういうものと大変関わりが深いって言うことができると思います。
次に、5番目に挙げた項目になりますけども、こういうデータがありますから持ってきました。皆さんの方の関心がどこにあるのかっていうのはよくわからないで当てずっぽうでやってきましたから、関心がありそうなところをやってみたり、少し面倒なことを言ってみたりと、うまく定まらないんですけども。関心の深そうなところでデータを持ってきました。平成2年度の大学卒の女子の就職率と就職業種で、就職率っていうのは81%の人が就職しています。これは男子とほとんど同じパーセンテージです。つまり、そういう意味から言ったらもう女性の進出っていうのは男子並みになっているということが言えます。就職業種の順位を言いますと製造業が第一位で、二位がサービス業、三位が卸小売業となっています。この卸小売業とサービス業を足しますと、両方とも第三次産業っていうふうに言われているものですけども、第三次産業への就職のほうがパーセンテージが多いんじゃないかっていうふうに思います。製造業の方が少ないパーセンテージになっちゃうと思います。それが現状だと思います。
これは日本の消費社会の現状に見合っているというふうに思います。日本の消費社会では第一次産業、つまり農業とか漁業とか林業とかそういうような第一次産業に携わっている人口は全体の7、8%です。製造業に携わっているのは30%ぐらいです。30%から40%の間ぐらいです。ところが第三次産業、つまりサービス業とか卸小売業とか流通業とかそういう産業に携わっている人は日本ではだいたい50何%つまり60%ぐらいです。大部分の日本人はもうすでに第三次産業に重点を移していることが言えます。もちろん就職先でも女子であろうと男子であろうとに関わらず第三次産業への就職のパーセンテージが多いだろうということは推察がつけられるわけです。
これらのイメージで言いますと女性の解放度と言いましょうか、職業についての解放度、その他についての解放度というのは圧倒的な速さで日本の社会では進みつつあるということが概して言えると思います。そういう意味合いだったら女性のほうは、希望を持っていいんじゃないかと思います。圧倒的なものだと思います。それに対して、男子のほうはくたびれちゃっている感じがします。僕らもくたびれてますけども、学校卒業したところでもくたびれているような気がします。それに比べて女性の方は圧倒的な活力で追いつきつつあるっていうのが現状だと思います。
その一つの例として日曜の夜をどう過ごすかってサラリーマンについてですが。20代のOLと20代のビジネスマンと両方で比較してみますと、日曜日の夜をどうしてるかって、ほとんど毎週外出しているっていうのが女性のOLでは13%、男の方は4%です。圧倒的に少ないです。ようするにゴロゴロしている方が多いってことですよ。月に2、3度外出するっていうのが女性の方は40%、男の方は22%です。これも圧倒的に女性の方が元気です。元気があってよく外出する。月に一度外出するってのは20代の女性26%、男の方は28%。億劫な方が多くなってきますね。ほとんど外出しないってのは、女性は21%、男は46%。半分はほとんど外出しないってゴロゴロしてるってことになります。つまりくたびれているんじゃないかと思います。くたびれの度合いが女性の方が少ないということと、圧倒的な速さで男性並みの活力に近づきつつあるっていうのが日本の社会での現象ではないかと思います。
これらの現象は、一つは消費社会っていうことがとても大きな要因だっていうふうに思われます。それから外出をよくするかしないかっていうことは、つまり選択消費のパーセンテージが多いってことを意味しますから、日本の消費社会、高度な消費社会ってことを背景にしてこういうデータが出てきますし、女性の活力もそういうところで出てきていると思います。それがまた出生率とか、未婚率で言えば女性の子供を産む率っていうのは少なくなりつつあり、未婚、独身のままで過ごしたほうが良いっていう数がだんだん増えていく、そういう形になっているんだと思われます。それは全体的に言って日本の高度な消費社会を背景にして存在する、大変珍しいというか貴重な現象だと思われます。この現象は、全般的に言えば先進的な消費社会というのは全部そうだと言えば言えるのですけども、そのなかでも日本の消費社会っていうのは、大変著しい速度で高度な消費社会に移りつつあるということが言えると思います。
ここまで申し上げていきまして、あと一番最初に帰っていきたいともいます。どこで帰っていこうかと思ったんですけども、さくらももこの「ちびまる子ちゃん」と中尊寺ゆつこの白井麻子っていうのが主人公なんですけども、それの性格と作品の性格というところに帰っていくのが良かろうというふうに思いまして。その性格が出てくるところをピックアップして、こういう特徴があるんだということを申し上げてみたいと思います。
「ちびまる子ちゃん」っていう漫画、もちろん僕らより皆さんのほうがよく読んでおられるかと思いますけども。ざっと申し上げてみますとどういうところが特徴であり、どういうところに流行現象、あるいは新語現象を生むほどの要因があるのかということを申し上げてみます。ごく普通に言いまして、「ちびまる子ちゃん」というのは小学校3年生の女の子です。「ちびまる子ちゃん」という漫画はどういう記述の方法、あるいは創作の方法をやっているかって言いますと、小説の方で言えばいわゆる私小説というがありますけど。つまり私はこれこれしたっていう記述の仕方で、ナレーターも「私は」っていうあれで、ナレーターイコール作者であるというそういう小説を特に日本の文学では私小説と読んでいますけれど、「ちびまる子ちゃん」の創作の方法も全く私小説と同じで、「私は」って言ってんのはちびまる子ちゃんであり、同時にそれは作者であるさくらももこが小学校3年生であったときのことだっていうことに作品の中でなっています。それは作品の中の書いてある通りで言いますと「私は小学校3年のときのさくらももこです。私、小さかったからちびまるに、女の子だから子をつけてちびまる子ちゃんて呼ばれていたの。」っていうふうに真っ先に規定してあります。作者が小学校3年生であったときの女の子っていうのが作品の主人公であるわけです。言ってみれば私小説として考えれば自分の小学校3年生のころのことを、フィクションを多少は交えているわけですけども、主として体験したことの記憶をもとにして漫画に描いているということになります。
なぜこの漫画「ちびまる子ちゃん」がウケるのかということになると思います。なぜウケるのかというのは、今テレビで日曜日にやっていますけども。テレビの「ちびまる子ちゃん」はあんまりよくないと思います。演出家が良くないんだと思いますけどね。これでもってなんでウケるのかっていうのはあんまりよくわからない。誰が見ててもよくわかんないと思います。だけども原作はそうじゃありません。これはやっぱり、相当なものだということがわかります。相当な作品だって、良い作品だってことがわかります。どういうところをまず特徴として良いと言えるかといいますと、一つは、小学校3年生なんですけども、僕らが60なら60として、あるいは二十歳なら二十歳として、30なら30として、小学校3年生頃の記憶、あるいは思い出に残っていることを考えてみろっていうふうに言った場合に、その考えられる「ああいうことあったな」とか「こういうことあったな」ということが色々あるわけですけども、この作品はそういうふうに我々が、小学校3年の自分というものを振り返ってみて記憶しているそういう記憶よりも遥かに見事に微細に、あっと思うほど、万人が誰でもが「こういうことあったな。でも忘れてたな」ということが非常に微妙に微細に描かれて一つの物語をなしているということがわかります。これがこの作者の才能だと思いますし、またこの作品がウケている、沢山の人に読まれている理由の第一だっていうふうに僕は思います。様々な分析の仕方ができるでしょうけれど、僕らが考えてみますとそこが「ちびまる子ちゃん」という作品の特徴であり、沢山の人に読まれている理由だというふうに僕は思います。
もう一つあります。記憶とか追憶とかということに対して、少年時代あるいは少女時代というよりは子供時代ですけども、子供時代を振り返ったときの快さっていうのが並外れてよく再現されているということで、作品の良さを形成しているわけですけども。もう一つ、今の消費社会っていう現在なぜこれがウケるのか。現在っていうことに還元してこの作品の良さを取り出してみますと、読んだ方はすぐお分かりになると思いますけども、「ちびまる子ちゃん」の家族は決してあたたかい家族じゃないんですよ。あたたかいといいますか、みんながいたわりあって楽しくやっているみたいなそういう家族じゃないんですよ。読まれればすぐお分かりになるように、みんな相当言いたいことを言ってんです。父親も母親も子供を叱るときに「このばかやろう」も言いますし、口悪く罵ったりもしますし、おふくろさんも親父さんも姉さんもそうですし。逆に、ちびまる子ちゃん自身も姉さんに対しても父親に対しても母親に対しても呵責なくっていいますか遠慮会釈なく批判しますし、批判しないまでも心のなかで「なんてやつだ」って思ってたり、そういうことも隠さずに表現されています。一般的に申しまして、そんなにあたたかく親愛感あふれる家族を描いているから人気があるんじゃなくて、逆であって、要するに家族の親と子の間も子供同士の間も相互の間も、言いたいこと言って冷たいこと言うねって、言い方もしてますし、つまり言いたいこと言っている家族っていう印象が一番深いと思います。それはとても重要な事で、なぜ重要かって言いますと現在の家族制度の中で、お年寄りの方はすぐおわかりになるでしょうけど、子供なんか当てにできないぞなんていうふうになって、自分が年取ってきたら子供がいたわってくれて、よく世話してくれてなんてのは到底思えないってふうに、年取った方はお思いになっておられると思いますし、また若い人はゴメンだよっていうふうに、面倒見たり気分を察してやったりなんてめんどくさくてしょうがないと子供の方は本音のところで思っているだろうってことは、たぶん現在の家族像として大変普通だと思います。そこまで現在の日本の社会の家族像はいくら希望的観測にしてもそういうふうになってるってことを疑うことはできないと思います。全部が全部そうでありませんし、皆さんの家庭は特にそうではないかもしれませんが、しかし一般論として言えば麗しい家族制度とか麗しい親と子の関係というものはすでに表面上からももしかすると本質的なところからも消えていきつつあるのかもしれないというのが今の現状だと思います。これは率直に認識しなければならないし、嘘偽りなく言えばそういうことになっちゃうよということだと思います。つまり「ちびまる子ちゃん」というのは、それをとても良く、知らず知らずのうちにと言いますか、意識的にあるいは無意識的にそれをとても良く表現しています。それが「ちびまる子ちゃん」の持っている現在性といいましょうか、現在の生々しさ、あるいは生き生きしてる箇所だっていうふうに思います。
「ちびまる子ちゃん」という漫画の環境というのは何なのかを考えてみます。大都会の真ん中じゃないんです。東京で言えば下町の片隅だということに。片隅の商店街があるようなところだというイメージになりましょうし、地方で言えば地方の小都市の雰囲気が「ちびまる子ちゃん」の作品の雰囲気といいますか環境だと思います。実際的でもありますけれど、逆に言いますと多分に懐古的でもあります。現在この作者、さくらももこ、現在27、8だとしまして、小学校3年ですから、今より十何年前の地方の都市とか、東京で言えば下町の片隅の商店街とか、そういうところを彷彿とさせる環境の中で学校に通っていることがわかります。そういう意味合いで言えば多分に懐古的なものを読む人にくすぐるといいますか、与えるところがあります。それが「ちびまる子ちゃん」のまた一つの特色だと思われます。それだけの特色が見事に表現されていますと、大変良く現在アピールしていろんな年齢の人に読まれてるんだと思いますけど、読まれている根拠になりうるということが言えると思います。
いずれにせよ、そういう中で第一に作品の特色を挙げなければならないのは幼児期、少女期あるいは少年期の再現性というのが実に見事だというのがこの作者の才能だと思います。これは大変貴重な才能だと思います。この才能がものを言ってるのは確かだと思います。風俗だけでこの作品がウケているわけはないんで、作品としての良さはその再現性というのにあると思います。僕らは色んな所で感心しちゃうわけですけども、たとえば、夏休みが始まるっていうときに、明日っから夏休みだってなって、きちっとした生徒はちゃんと普段から机の中ちゃんと整理してあるんですけども、僕らみたいなだらしない生徒は、明日っから夏休みっていう前になって急に机の中全部総ざらえしてそれを全部持ってうちに帰るってなことになっちゃうっていうことを覚えているわけですけども、そういうことっていうのが実によくこの作品が再現しています。あっと思うくらいその時の気持ちって言いますか、キッタナイ机のなか総ざらえして、担いだり持ったりして、あーあと思いながらうちへ帰ったという記憶があるわけですけども、そういうときの気分が実によく再現してあります。また逆に夏休みが終わったんだけどちっとも宿題をやってないわけですよ。日記帳もつけていない。それで慌てくさって、それでも間に合わないで、姉とか兄とか親とかにおっつけて少しずつやってもらってやっと間に合わせるとか。宿題でも昆虫採集の標本を作れなんていうのを全然やってないわけですよ。もう明日あさって、学校に持ってかなきゃならんというふうになってから、僕なんかも記憶ありますけど、原っぱへ行ってコオロギかなんか取ってきて、にわかに残酷なんですけど針で突っついて留めて持っていっていい加減にやったって。そういうの、嫌で嫌でしょうがなかったけども、やんなきゃなんないっていうその時の気分は覚えているわけですけど、そういうのが実によく再現されているわけです。これはちょっと天才的だよなというふうに、ここまで覚えていて再現できるのは大変な才能だよなと思います。いずれにせよそれが第一義だということが言えると思います。
ところで今度は中尊寺さんの漫画の主人公である白井麻子という女の子がいるわけですけど、その主人公というのはどういう主人公かというと、もちろんOLなんですけど。どういう主人公なのか。どういうふうに日本の現在の社会に居そうな人であるか、居そうでない人であるか。どこが茶化しているか。つまりどこが漫画化してるか。どこがまともかっていうことを、ちょっと作者がやっているところがあります。 つまり「麻子25歳の出発」というのが『お嬢だん』という漫画の中にそういう項があるんですけども、そこで自分が25歳になったときにこうなっていたらいたらいいとか、こうなってるはずだとかとかそういう理想を子供の時に思い描くわけです。それは自分を上げています。第一に超一流企業のOLに25歳の時になってる。それから社用ヘリコプターで全国を飛び回ってるっていうイメージ。それからときに海外出張してパリとかニューヨークに行く。スーツはシャネルのスーツで靴はシャルルジョルダンの靴を履いてる。おまけに社長の息子との縁談に勿体をつける。ミス丸の内に三年連続で優勝している。女優にスカウトされるのはやっぱり勿体をつける。これが子供のときにあげていた25歳の自分のイメージであるわけです。このなかで漫画化してる、滑稽化してる、あるいは漫画としての質はそんなに新しくないってことがわかります。こういうところが漫画化の、つまり「ミス丸の内三年連続優勝」とか「社長の息子との縁談」とかこういうところがこの作者の漫画化の仕方、どこで漫画化してるかっていうことをとても良く表していて、それは必ずしも冴えてもいなければ、そんなに新しいわけでもないということがわかります。
でもこういうところとか、この人は割合に言葉を「オヤジギャル」っていうのもそうですけども、言葉をジャグるといいましょうか、そういうのがとてもうまいです。それは一所懸命考えて、大変うまいですけども、そういうことがあります。それからこのイメージですけども、はっきりとして富める消費社会の日本というイメージの中で初めて思い浮かぶイメージであって、そういう意味合いでこの作者の漫画がウケる理由があると思います。この作者の漫画の主人公は何人かいるわけですけども、これは典型的な主人公なんですけども、白井麻子っていう主人公は決して個性があるように描かれているわけじゃありません。個性があるというよりも現在の風俗というものをOLっていう人間にしたらこうなるっていう。つまり風俗を人間化したような人物だって言うことがわかります。決して漫画化あるいは滑稽化のやり方っていうのは新しいわけでもなんでもありません。かなり常識的な類型的な漫画化のやり方をやっています。それだけれど圧倒的に風俗に対する感覚、あるいは現在の日本社会の風俗に対する、あるいはOL風俗でもいいんですけども、大部分の中流の女の子の風俗に対する感覚というのは大変見事なものです。それを人物像にしてるっていうのがこの人の漫画の特徴だと思います。
ところがこれも描かれているのをただ現実っていうふうに描いただけなんですけども、この25歳の麻子が会社で今何をしてるかって言うと、たとえば同僚の男の子を奪い合うから、「白井くん、来週コンペに行けるか」、つまりゴルフに行くとかって言われてる。それから「白井先輩、バーゲン情報ですよ」と後輩OLからバーゲン情報を教わっているとか、「白井くん、今日飲みに行くかい?」ってやっぱり同僚から言われている。いわゆる「オヤジギャル」といいますか、自分の上にいるオールドミスのOLから「白井さん、お茶がぬるいよ」と怒られてるとか、同僚の女の子から「麻子きいてよ。彼がね」とかって自分の恋人の話を関係ないのにしゃべられるとか。つまりこれが25歳の白井麻子が現に現実に会社で当面してるのはこんなことぐらいなんだってことなんですけども、理想と現実とはこれだけ違うんだけども、オチはちゃんとついてて「ま、これでも全て順風満帆。丸の内は今日も快晴なんだ」っていうのがこの漫画のここのところのオチなわけです。つまり中尊寺さんの「オヤジギャル」っていう流行り言葉を作ったこの人の風俗感覚というのは抜群に現在を指し示している。しかし、それほど個性ある人物を作り上げているわけでもないし、ギャグ化っていうのが特に新しいというわけでも特に鋭いわけでもなくて。そういう意味合いでいったら常識的なあるいは類型的なギャグ化をやってるので、そういう意味合いではあんまり特色はないんだっていうふうに言うことができると思います。
しかし中尊寺さんもそうですけど、内田春菊もそうですけども、わりあいOLの世界っていうのをよく描いているというのは大変現在ウケている作品の特徴だというふうに言うことができます。どうしてかというのを考えるわけですけども、先程からデータを挙げていますように、OLの世界というのがたぶん、一つは現在の日本の社会の中で非常に活力がある。あるいはもしそういうふうに言っていいとすれば、唯一活力がある部分というのはOLの世界、あるいは20代から24ぐらいの女性の世界っていうのが、あるいは職業の世界というのがたぶん唯一活力があって、消費する余裕やゆとりがあって、金銭的なゆとりもあって、時間的にもあって、一番そこが日本の社会の現在あるいはこれから少しあとになりましょうけれど、そのところで言えば一番活力のある部分で、一番面白い部分なんだっていうことが一つあると思うんです。これは同じ年代の男の子を持ってきたってゴロゴロしてる方が多いっていうんだから、半分近くがゴロゴロしてるんだってんで、これは漫画にはならないっていうふうに思います。もちろん僕らみたいなお年寄りを取ってきたって大したことないので、つまり下りたくてしょうがねんだって、そういう感覚だっていうふうに思います。つまい、かっこいい言葉を使えば「行きじゃないんだ。おれはもう帰りなんだ」って。「帰りっていうのはいろんなことがわかるんだぜ」とかいうことも言えそうにも思いますけども、つまり下りたくてしょうがねえんだっていう。それに対して若い女性だけが登りたくてしょうがないし、登ろうと思えば登れる活力を持っているんだと思います。
同じ年代の男性の方はどうかっていいますと、これは日本の社会っていうのはもう70%ないしは80%が「自分は中流だ」と思ってるわけです。それが主として男性の世界だっていうふうに思います。自分が70%も80%も、つまり大部分の人が自分は中流なんだって思ってるってことは何かって言いますと、もう何もすることないじゃないかっていうことだと思います。もちろん中には特別「俺上流に行くんだ」っていう人もいるかもしれないけれども、何も困りもしないで自由なことできるんだったら、もういいよというのが普通の人の考え方だと思います。中流の人が70ないし80%いるってことは何かって言ったら「もういいよ」っていう感じだと思います。つまり「いいよ」という感じは誰が背負っているかといいますとやっぱり働く年齢の人から、20代の青年と言いましょうか、そういう人たちが「もういいよ」という感覚を、日本の社会におけるこれ以上いいことはないよという感覚を背負ってるんだと思います。
それは、とてもある意味できついことなんですよ。どうしてかといいますと、人間の道徳とか倫理とか善悪の判断とかというのはどういうところで、昔から人類の歴史から言って決めてきたかといいますと、2つあるんですよ。要素は一つはなにかといったら、欠乏です。あるいは欠如ですね。欠如を補う。人の欠如を補ってやろうとか、補わなけりゃいけないとか。自分はいいんだけど人の欠如は補ってやんなきゃいけない、ということと、もう一つは僕の言葉で言えば段階なんですけど。段階ということから道徳とか倫理とかを人類は生み出してきているわけ。段階といえば卑近なことを言えば、ここに例えばここに身障者で働けない人がいたと、そしてこっちには五体健全の、他の条件はおんなじなんだけどこっちには五体健全だ。そうするとこちらの方は段階的に給与で言えば、こっちは20万円しかもらえなかった。しかしこっちは30万円もらったとこういう段階の違いってのがそういうとこで生じたとするでしょう。段階っていうのがもう一つ倫理とか道徳とか善悪とかって判断を人類が形成してきた根拠であるわけで。
ところで、この欠如っていうのをもとにした倫理観とか道徳観というのは、たぶん7割8割方までは、解かれてしまっていると思います。これは正直な現状だと思います。つまり、俺はちっとも解かれていないとか、社会を見渡すとそれを解かれていない人いるじゃないかというふうに言えばもちろんいるわけですけども、概して平均的には一般的に言うならば7割8割自分は中流だと思うようになっているわけですから、中流ということは社会の半分のところの方を占めているということですから、半分と言ったら上へ行くよりないわけです。これでもいいといえばこれでいいわけです。社会の中枢を形作っているわけですから。つまり欠如、欠乏をもとにした倫理というのは組み換えを必要としています。一般論として言えば、組み換えを必要としているというのは、日本の社会あるいは日本だけじゃなく世界の先進的な社会での現状だと思います。あとは段階をもとにしては人間の倫理ってのはホントは作れないよ。真っ正直に言っちゃえばそういう段階、そういうところに来ていると思ったほうがよろしいと思います。
そういうところに来てるということが何をもたらすかということなんですけど、そういうことがとても中尊寺さんのこの漫画もそうですし、ちびまる子ちゃんもそうですし、岡崎さんの漫画もそうですし、内田春菊もそうですけど、そういう問題を無意識のうちに、無意識的にとても良く象徴してるってことがあると思います。それがたぶん、こういう漫画が大変ウケている理由だと思います。こっちで言えば「愛される理由」というのは典型的にそうですけど、ここで欠如についての言葉は一つもありません。欠如してないわけですよ。郷ひろみの方も欠如してないし、精神的な欠乏はあっても物質的な欠乏なんかありようがないわけです。自分の方もありようがないですから、欠乏あるいは欠如をもとにする倫理観というのはここにはありません。もちろん段階をもとにした倫理観はかすかですけれどあります。それはあります。またもしそれを世界大に広げるならフランス人ってやつは、西欧の先進国といいますか文化先進国ってのは、にわか成金の日本人がなんか金にまかせて押し出してって、パリかなんか押し出してって、観光しちゃまた流行品の店行って並んじゃ、物買ってってのを軽蔑の眼で見渡しているみたいな、そういうのをすぐに肌で感ずるわけですけども、感じてそれに対してストレートに反発する。つまり段階に対しては、大変見事な反発の仕方をしています。つまり誰でも万人がそういう意味合いの文化的に馬鹿にしているということは誰にでもわかるわけです。
僕らの世界でも文学とか哲学の世界でも向こうから人がやってきて、そうすると馬鹿にしやがってと思うわけで。思うことはしばしばあります。また逆に馬鹿にしているから少しいじめてやれと思うときもあります。僕は今はやらんことにしてますけど、数年前までよく性能の悪い要撃用ミサイルで、僕にやれやれって言うから何回かやったことがありますが、もう冗談じゃねぇよというふうに思うことはたくさんあります。そうすると、なんて野郎だと思うわけですよ。つまりそういうことってのは、またあるわけです。だけれどもそれをあからさまに向こうでも言うことはできないんです。ますます向こうが内向する理由だと思います。なぜかっていうと日本というのはにわか成金であろうとなかろうと、世界で二番目に富める国でありますし、また対外資産で言いますと世界一の国でありますし、またイギリス関係で言えば大変見事な成果を上げている国でありますから、そういう意味合いで無視することはできないから、ますます内向していたったらますます馬鹿に仕方が陰にこもってくるということがあるわけです。そういうつまり段階の相違というのはどうしても、個人的にもなくならないし、国家と国家の間にもなくならないし、地域と地域の間にもなくならないということがあるでしょう。それはこれからも倫理、道徳、善悪の問題たりうると思います。でも少なくとも欠乏をもとにする原理ってのはたぶん組み換えを必要としていると、思想的に言えばあるいは哲学的に文学的に言えば組み換えを必要としていると僕には思われます。現在の難しい課題を持ちながら、みなさんもそうですし僕らもこれからやってかなくちゃいけない。その問題をたいへんよくこういう流行現象を編み出すような創作家たちがたいへんよくそれを無意識のうちにもよく表現しているんだと思います。それが新しい言葉を生み出したり流行語を生み出したり、それが流行っていくというくようなことのもとにある問題じゃないかっていうふうに思います。
言葉っていうのは、言葉が変わっていく変わり方は2つあります。一つは、言葉の専門家、つまり例を挙げれば小説家が小説を書きながら自分の言葉を鍛えていったり、推敲して直して非常に適切な表現を編み出していくってこと。これは言葉の専門家である文学者がそれをやっていく。そのことによってひとりでに言葉ってのは変わっていくということがあります。そういう変わり方が一つあります。もう一つの変わり方は、みなさんが専門家じゃなくてみなさんが街頭へ出ていって、どこでもいいんですよ、六本木でもいいし、池袋でもいいんですけど、街頭へ出ていって街頭で飛び交っている言葉にそれを感じ、また街頭でたまたま当面した問題に自分が言葉を吐き出すことで新しい言葉が生み出されていきます。つまり言葉を生み出せられるのは、そういう話し言葉っていうのが街頭で飛び交っていることによって、言葉が生み出され変わっていくっていう変わり方が一つあります。それと専門家が専門的な修練の果に言葉が変わっていく。言葉っていうのはその2つの変わり方があります。
この2つの変わり方、それぞれ別なんですけども、どこかで交わります。どこで交わるかって言うことは非常に簡単なんで、言葉の専門家といえどもやっぱり街頭へ行ったときにはただの人ですから、やっぱりそこで飛び交っている言葉、すぐ耳に入ってきますし、自分もなんかそういう言葉を吐き出したりします。これは自分が書いてる言葉と全く違う言葉がそこで即座に出てきたりします。そういうことでそれがまた取り入れられて自分の書き言葉の中に入っていくという形で、それが一緒になっていきます。それからまた逆に街頭で言葉が飛び交わしている人達だって、うちへ帰って手紙を友人に書こうとすれば、それはやっぱり書き言葉で書くわけですから、そういう形でまた言葉は変わったりしていきます。ですから、言葉っていうのはそういう変わり方をしていくわけです。それがあるところで突出していくとこういう新語流行語になっていったり、突出していかなくたって、みなさんが新しくいつでも言葉を生み出していることは間違いないわけで、生み出してそのまま自分で忘れちゃうこともありますし、それが残っていることもありますし、それが人が面白がって伝えてくれるということもありますし。そういう形で言葉っていうのは、持続していくわけです。ですから専門家だけが言葉を操って、新しい言葉を生み出すというのではありません。また一般の人たちが街頭で新しい言葉を生み出したのが、消えてしまうこともありますし、またそれが人から人へと伝わって広がっていくこともあり、それを言葉の専門家が書き言葉の中に入れていくっていうことももちろんあり得る、そういう形で言葉ってのはどんどん続いていきます。
だから例えばそれはとても不思議だっていえば不思議で、その手の現象っていうのはいくつかあるわけで、たとえば20歳ちょうどのときに写真館で写真を撮った。そして20歳1ヶ月のときに同じ写真館で同じポーズで同じとこから写真を同じ人に撮ってもらった。20歳2ヶ月のときにもまた撮ってもらった。たとえばその3つを比べてみたら、どこも変わっていないっていうふうにどう考えたって見えるわけです。でも、それを4ヶ月5ヶ月6ヶ月っていうふうにやってって、1年なら1年、毎月一回同じポーズで同じ写真を撮っていったらいつの間にか変わっています。その人の表情って言いますか、顔のあれも変わっていますし、それから目の光も変わってくるとか、とにかく1年なら1年あれしてみると変わっていくということがあります。その手の問題いくつかあります。言葉もそのうちの一つです。つまり今日の言葉と明日の言葉はちっとも変わっていないようにみえるんですけど、それが1年なら1年、2年なら2年経つといつのまにか変わっているっていうような変わり方を言葉はすることがあります。もちろん断絶的に新しい新語を勝手に吐いて、勝手にできちゃったっていうことももちろん自由自在なんですけども、そうじゃなくて、1ヶ月や2ヶ月では全然変わっていると思えないんだけど、「候べし」とか昔言ってたんだけど、500年も経つと「そうだぞ」とかっていう言葉に変わっちゃってるわけです。だけども500年前から501年前、499年前とかっていうふうに連続的に取っていたらちっとも変わり方がわかんないっていうことになるわけです。でもそれが蓄積すれば変わっている。言葉っていうのはそういう変わり方する面もあります。この種の同じような性質を持っているものはいくつかあります。みなさんも考えれば出せると思います。そういうふうなものが一様に言葉の断続性、つまり新語とか流行語っていうのと、同時に言葉の連続性、日本語は日本語じゃないかっていう連続性。その2つの面を作って時代とともに移っていくことになるわけです。これがたぶん言葉の持っている生理と言いましょうか、心理と言いましょうか、そういうものに属するわけで、その背景の社会はそれぞれ色々変わっていくってことになると思います。これからの日本の社会の変わり方も、まぁ今の延長線で行くでしょうけれども、言ってみればたぶん欠乏をもとにする倫理っていうのはだんだん壊れていくだろうなっていうふうに思います。あと、残っているのは段階っていうことです。段階っていうのをもとにする倫理とか道徳とか善悪とかっていうのは生き延びていくし、なかなかなくならないでしょうというふうに思いますけども、それはおおよそ言葉の面から指させるこれからのことだっていうふうに、僕には思われます。このくらいで終わらせていただきます。(会場拍手)
質疑質問者:
終わりでも強調しておっしゃってくださいましたが、倫理とか道徳がどっから出てくるか、その判断はというところで、段階を必要とする倫理観というところをおっしゃいましたが、もう少し具体的に、わかりませんのでそこのところをもう少しお話していただきたいと思います。
吉本: 僕が言っていることは大変簡単なことでして、先程の例にとりましたんですけども、例えば自分が給与が30万円だったと。それでA君ならA君が20万円だったと。どうも考えてみると自分とA君とは仕事の能力から言っても、全然変わりがない。むしろ自分の方が駄目なくらいでA君の方が良いくらいなんだけども、彼は20万円で自分は30万円だと。これはやっぱりなんとなく、自分が悪いような気がするなとか、あの人もう少し給与が多くなって自分と同じぐらいの給与がもらえるべきなんじゃないかなっていうふうに思うとします。そうするとその思ったことが倫理とか道徳の一つのもとになると思います。それを広げていけば社会的な倫理とか道徳みたいなものになると思います。例えば社会の中における身障者問題とか老人問題とか、やっぱりそれは手足がちゃんと動かせて働ける人から見ると働けない人がいるって。それはやっぱりこれじゃ駄目だ。働けない人をなんとかしなきゃいけないんじゃないかなと思うところから社会倫理っていうのが出てくるかもしれない。僕がようするに段階のもとにする倫理とか道徳とかっていうのは、言ってみればそういう意味になりますよ。はい。
質問者:
今のと関連するのですが、それに対しての欠如をもとにした倫理観が崩壊していくんじゃないかと、言われたんですけど、その欠如をもとにした倫理観というのが、段階をもとにした倫理観というのはわかるのですが、今ひとつ具体的にしたいのと、もう一つ環境問題に対して人間は汚染されているばっかりじゃなくって、主体性あるところを完全に見なきゃだめだと、そのことはエコロジー運動とか見てもそういう問題が言えると思うんですけども。例えば核の問題でもある歯止めにはなっているんじゃないかと。例えば反核運動だとか。まぁ世界が崩壊しちゃうだとかそういうことを言っちゃだめだよというのはとてもわかるんですが、ある歯止めにはなっているっていうところを、吉本さんはどういうふうに評価されるんだろうかということ。その2つをお聞きしたいんです。
吉本:
歯止めにはなっているんじゃないか反核っていうのは、というところから申し上げますと、歯止めにはなってんだって思わなければ当事者は困るでしょうね。ただそう思いたいわけですけども、どういうふうに歯止めになっているんだっていうとすこぶる曖昧なことになると思います。僕の考え方ではその今までとか今でもいいですけど、例えば文学者で言うと大江健三郎さん、そういう人が持っている反核ってのは僕は欠如をもとにする倫理って言いましょうか、それから発祥してるって思うんです。つまり欠如のない人から欠如のある人に向かって、あるいは核軍備に対して知識を持っている人から持たない人に向けて、運動がなされるみたいなね。そういう運動だと思うんです。僕、反核運動ってのは別にしないで、むしろ反対してたりしたんですけども、その反対っていうのが何かと言うと、核戦争した方がいいという反対ではなくて、それ違うんだっていう反対です。
つまり誰から誰に言うのか、誰から誰に反核を言うのかってのは、僕の考え方からすれば、下から上に言うべきだっていうふうになるわけです。つまり上から下にとか、知識あるものから知識ないものにとか。核装備を持っている人たちから持っていない人たちに、持つ持たないと関わりないような民衆に言うんじゃなくて、民衆の方から持ってるやつに向かって、そんなものは捨ててしまえって言うのが反核運動なんで。つまり反対運動っていうのは、やっぱり習慣的なんですね。習慣的に欠如をもとにする倫理を運動の原理にしてきた、そういうところから発祥しているわけですよ。それは駄目なんだ。っていうのが僕の反対の仕方なんです。そうじゃないんだ。反核っていうのはつまり核戦争というのは、できるやつは誰かって言えば核軍備を持ってるやつなんです。核軍備を持ってるのはだれか、持っているのはどこの国か、どこにいるかっていうのは、それははっきりわかっている。どこの国とどこの国が一番しそうかって、やりそうかっていうのも、わかっているわけです。それじゃ、やりそうなやつのなかでボタンを押せそうなやつは誰と誰と誰なんだっていうことも、まず100人か1000人かそれくらいの範囲でわかるわけです。そうしたらその人に向かって、多くの人がその人に向かって、反核をしなきゃお前駄目だぞって言うべきだと思うんですよ。
ところが、欠如をもとにする倫理から発している反核というのは逆なんですよね。知識のあるものから知識のないものに反核を訴えたり、核軍備をしてるくせにしてる連中が、道具さえ持ってないような民衆に反核を訴えたりしてるわけです。そしたらば必ずお前の反核はインチキだっていう人がまた出て来るに決まってるので、僕もそうですけども。要するにそれは欠如をもとにして組み立てられた運動というのはみんな駄目だと思う、僕は。極端なことを言っちゃえば駄目だと思ってる。あなたおっしゃるような、反核っていいけど全然違うじゃないかって、欠如をもとにしてるんじゃないか。欠如をもとにしているというか、欠如を頼みにしてるだろう。人間の欠如を、つまり持てるものと持たないものがいるっていうことが、ボタンを押せる人と押せない人がいるっていうのがわかっているのに、押せる人が反核を言うことはないでしょう。知識のない人に反核を言うってのは筋違いでしょう。逆縁でしょうって思うわけです。
こういうのうまくあなたに通じないと思うけども、しかし僕が大変重要なこと。欠如をもとにした倫理っていうのはだんだん壊れていくんじゃないかっていうのは、相当見通しているつもりですから。世界史ってのを見通しているつもりですから、根底的なことなんです。こんなことをいって分かる人なんかいないと思うくらい、あれですけど、僕はだめだと思っています。今も行われているかもしれない反核っていうのは全部そうですよ。持てる者が持たない人を脅かしているわけです。反核でもなんでもそうですけどね。脅かしている。爆発するぞとかって。脅かされる方は、何も手段もないし、ボタンを押すあれを持っているわけでもなんでもないんだけど。そういう手段を持っているやつが持ってないやつに、駄目だぞみたいな、脅かしているっていうのは逆縁なんです。欠如をもとにした倫理を運動化すると社会運動化するとみんなそんなんなっちゃうんですね。それは僕に言わせれば部分的修正じゃないんですよ。根底から考え方変えなきゃ駄目だっていう課題に当面してるっていうふうに僕は思っていますけどね。あなた、このぐらいでは納得されないでしょうけども、僕は大変大きな根底で言ってるつもりで、単に反核がどうだとかそういうこととかね。人間の思考の転換として欠如をもとにした倫理っていうのは駄目なんじゃないかなと、
質問者:
そこまではなんとかついていけるんですよ。じゃ、そっから先、主体的に、我々がどういうふうに動いていかなければ、私がです。我々がです。その点に関して、
吉本:
僕が言っててわかってて言えることが一つだけあるんですけど、それは日本の民衆で言えば7割から8割自分が中流だって、中流の下中上だっていう、中流だと思っている。そういう人たちが例えば一般市民でもいいし、一般大衆でもいいんですけど、その一般大衆っていうふうに理念っていうのを作るっていうことじゃないでしょうか。
一般大衆がって言いますか、それが7割8割を占めている一般大衆が歴史の主人公なんだっていう、そういう理念を持った主人公であるのかっていうことを自分で作り上げていくっていうことが、課題になるんじゃないでしょうか。それだけじゃないでしょうか。つまり欠如がなくなった世界でね、現在の世界の精神的な部分での課題ってのは、思想的課題、理念的課題はそれだけじゃないでしょうか。それをつくることじゃないんですか。今の日本社会だって日本の産業社会だって、今の自民党政府だって、ちゃんと一般大衆の無意識の利益はちゃんと、利益になるようにはしてくれているつもりだと思います。7割8割は中流だっていうところまでしてくれたつもりだと思います。税金が高ければ、消費税が駄目だっていうんだったら、消費税をなおそうとか、やめにしようとか、各政党が言ってくれてるわけ。そうしたら消費税は安い方がいいっていうのが一般大衆の無意識だと思います。僕でも無意識で言えば安いほうがいいよってなるわけです。それはちゃんとやってくれる政党もあれば言ってくれる政党もあるし、主張してくれるサラリーマン政党もあるわけです。一般大衆あるいは一般市民という理念を作ってくれるっていう政党なんかどこにもないわけです。自分なんか、俺は良い理念を持っているんだからお前を引っ張ってやろうっていうな政党はあるわけない。そうじゃなくて、自分が要するに一般大衆とか一般市民っていう理念を作っていくんだ。自分がこうするんだみたいなことを自分で考えていって、自分が歴史のこれからの主人公なんだっていうことを、ちゃんとはっきりと自分の中に持てるっていうそういう一般市民っていうのは、まだいないわけなんですよ。
今、市民主義運動みたいなのがありますよね。反核もそうです。エコロジーもそうですし、市民主義運動っていうのがあります。しかしそれは、欠如をもとにした理念っていうのに、付き従っている、それをソフトにしているだけの運動です。それが今ある市民主義。そうじゃなくて僕が言ってるのは、そうじゃないですよ。一般市民自ら、誰も引っ張ってくれる人なんか誰も居ないんだって言うことを前提にして、そういう理念を作っていくってことなんです。それが課題なんです。それがたぶん現在の世界の先進的な社会での僕は唯一の課題だと思いますよ。あとの課題はたぶん先進的なところでは社会は終わっていると、正直に言ったらホントは終わっちゃってるんです。正直に言わなきゃね、いやまだ。日本だって山谷に行けばあるじゃないかとかね。西成行けばあるじゃないか。と、たしかにあるんですよ。個々のそういうものが解決してるとはちっとも言ってないし、僕は言わないんだけども、一般論としては、それは終わっちゃってるんです。理念の問題としては終わっちゃってるんです。世界の先進的な国では終わっていると僕は思います。ですから、ほんとに正直に言ったらそれだけしかないんです。あと、一般市民が自分を解放するって言いますか。解放する理念をちゃんと持てる。上に誰かが解放してくれるから解放されるんじゃなくて、誰もいないっていうことを前提にして、解放してくれるとか主導者とかそんなのはいない。ただ自分は社会の主人公だから、自分が決めてくんだ。そういう理念を作るってことが、僕は唯一の課題だって思ってます。それが正直なところですね。もちろん誤解してほしくないことは、全部そうかっていうことではないし、もちろん片隅に行けばいくらでも飢えている人はいます。西成行けば、それこそ「一杯のかけそば」みたいな人、もちろんいるわけですからね。具体的なことというのはいくらでもありますし、それぞれの皆さんの職場だって、僕の棲んでいる文学の世界だって、面白くないこと、不合理なこともいっぱいあるわけです。あるから、そんなことは具体的に解決していかないといけないけど、一般の理念の問題としては、たぶんそれだけしか残っていないと。それが課題じゃないでしょうか。はい。
テキスト化協力:まるネコ堂さま