(※段落番号と小見出しは、音声のチャプターとタイトルとは別になっています)
今日は大変条件というか、狭いところで。私の考えではですね、本格的な文芸講座ということで40人か50人ぐらい来ていただいて吉本先生とじっくり話をしていただく会にしようと思っていたのです。ところがたくさんこんなに入っていただきまして、大変窮屈な思いというか悪い条件で申し訳ないのですが、どうぞ譲り合っていただいて聞いていただきたいと思います。
今日は煥乎堂の読書シーズンというか、3つ企画をたてたわけですが、第一回が小田実さんに出ていただきました。今日は吉本先生に「現代を読む」という題で講義していただきます。それから次の29日が小川国夫先生に講義していただくという3本立てというか3つの読書シーズンに考えたわけです。今日は、吉本先生には、我々いま現代が大変読みにくいというか、読むっていうのは洞察あるいは推察するとかそういうふうに考えていいと思うんですが、今の社会をどういうふうに吉本さんが読むのか。ちょうど6年前、58年でしたか、85年か、失礼しました。前橋市民文化会館で吉本先生を呼んで「マス・イメージをめぐって」という題で講演していただきました。その時はちょうどサブカルチャーの問題がたくさん出てきまして、先生自身も『マス・イメージ論』を書いていらっしゃった頃ですね。それで今度は、その後6年、吉本先生が何を考え、どういう発言をしてるのか、たぶん雑誌を読んでいる方、たくさんいらっしゃると思うんですが、今日はその辺をですね。吉本先生に「現代をどう読むか」っていう題でこれから1時間半ぐらい講義していただきます。その後、先生、質問いくらでも受けるそうですので、ぜひよく聞いていただいて、疑問の点があったりしたらご質問いただいたら幸いです。それでは吉本先生お願いします。
今日は「現代を読む」っていう主題を与えられたわけです。どういうふうにと思ったんですけれども、まず最初に。立っている人どっかに座れないですか。できないですかね。なんか悪い。それで、どっから始めようかと思ったんですが、現代を読むっていう現代っていうのと、現在っていうを区別するって言いましょうか。現在ってのは今ですけれども、現在っていうのと現代っていうのをまず区別するところから始めてみたいと思うんですけど。現代っていうことと現在っていうことを区別してみたいって思うんです。この区別っていうことは、大変重要なことに、僕の考え方では重要なことになってきます。どこで区別するかっていうことを申し上げてみたいっていうふうに思います。
まず第一に現在と現代をどこで区別するかっていうことの一番のポイントは何かっていうことですけれども、それは消費っていうこと。消費社会っていうふうによく言われますけれども、つまり消費っていうことで区別してみたいと思います。これは大変重要な区別になります。どういうふうに区別するかっていうかというと2つの条件があります。この2つの条件が満たされた場合以降を指して現在と呼んだらいいかと思います。一つは個人をとってくると一番良く分かるんですけども、個人の収入のうちで50%以上を消費に充てている。つまり使っている。そういう社会をまず現在っていうふうに考えたらいいと思います。
それからもう一つ条件があります。半分以上つまり50%以上を消費に充てていると。収入の50%以上を消費に充てている。平均の人を取ってくるとそうなってると。それから消費のうちで、2つあります。大きく分けると2つあります。それは必需消費というのと、選択、選んでする消費っていうのと2つあります。そのうちもう一つの条件、現在の条件が、消費のうち選択的な消費、つまり選んでやるところの消費っていうのが50%を超えている。そういう社会を指して「現在に入っている」というのが一番普遍性があって、一番わかりやすいと思います。この条件を満たしている社会というのはアメリカと日本と、かろうじて西欧社会です。東欧ではありません。西欧です。西欧社会っていうのがだいたいこの現在っていう段階に入っている社会だっていうふうに言うことができます。
もう一度申し上げますと、収入のうち50%以上が消費に充てられている。これは平均値を取ってきた場合です。平均して言っているわけですけれども、平均値を取ってきた場合に収入の50%以上を消費に充てているっていうことが、一つの条件。もう一つが、その消費のうち選択的消費、つまり必需消費と選択的消費をわけますと選択する消費、つまり選んでやる消費。たとえば明日映画へ行こうかとか、明日どこそこへ旅行に行こうかっていうな場合に、いやちょっと金がないからやめにしとこうとか、金余ってるから行こうっていうふうに、個人あるいは家族が自分たちの意志でもって選べる消費、それが全消費の中の50%以上を占めているということです。この2つの条件があった場合に「現在に入っている社会」と呼ぶことができます。それは、今申し上げました通りアメリカと日本と西欧とその三箇所がだいたい現在に入っている社会だって言うことができます。これは言ってみれば世界史の今のいろんな状況のなかで、その3つだけが現在っていう段階に入ってしまっていることを意味します。選択的消費っていうのは今申し上げましたとおりでありますけれど、普通に消費っていうのは簡単に言えば、今月の部屋代とか来月の部屋代とか、光熱費とか水道費とかというような必ず毎月なら毎月、あるいは毎日なら毎日、必ず出ていくことが必要である、そういう額の消費を必需消費って言います。もちろん、現在の日本では平均の人を取ってきますと、だいたい必需消費よりも選択的消費の方が大きく、多くなっている。選んでできる消費社会、消費の方が多くなっています。その2つの条件がとても重要な条件だと思います。この条件が満たしている社会を現在の段階ではだいたい「現在」とか、現代の中から飛び出て、「現在」っていう段階に入っている社会だって言うことができます。
この社会のあり方っていうのは、かつて分析されたことっていうのは無いわけです。現在これは重要な分析する課題になっているわけです。資本主義社会が勃興してきた19世紀末から20世紀にかけての時代っていうのが何かっていうふうに申し上げますと、資本主義は生産を基軸にしてどんどん膨張していくっていう社会でした。ところがその社会の中から、なぜか資本主義の勃興期に盛んだった製造業とか建設業とかそういう工業よりももう一つ違う、例えば流通業とかサービス業とか、この煥乎堂なんてそうですけれども、そういう第三種のといいますか、第三次の産業のほうが多くなっていったわけです。
現在の日本はもちろん大部分の産業は第三種の産業です。つまり流通業、サービス業、それから娯楽教養みたいな、あるいは医療みたいなそういう職業っていうのがだいたい過半数を占めている社会になっております。だから製造業とか農業とか漁業とかが支配?している社会っていうのは残念ですけれども、日本でもアメリカでも西欧でも終わってしまいました。そういう社会でなくなってしまいました。大部分が第三次の産業になっているっていうのが現在の社会です。現在の社会の実態のあり方です。たとえば、せっかく書いてきましたから申し上げますけれども、だいたい日本で言いますと昭和63年です。昭和63年て言いますと今からそうとう前になるんですけれど、その時にすでに夫婦共稼ぎを平均家族に取ってきますと、すでに選択的消費の方がややオーバーして52.8%。ややオーバーするそういう社会に入ってしまったわけです。片稼ぎといいますか、旦那の方だけが稼いでいるっていいますか、働いているそういう家族、家族っていうか夫婦ですけれども、夫婦を取ってきますとだいたい63年にちょうど半々ぐらい、49.8%と50.2%、選択的消費と必需的消費に使っている。ちょうど半々ぐらいになった。この時以降をだいたいにおいて日本社会で言いますと現在っていう社会に入ったっていうふうに言うことができると思います。
少しめんどくさいことを申し上げますと、必需消費っていうのは何かって申しますと、要するに人間の生命って言いますか、生活って言いますか、生活が今日もできるように、また明日もできるように毎日繰り返して生活ができるっていうことに大過ないっていうか差し支えないそういう消費額って言いますか、それが必需消費にあたるわけです。もっと違う言い方をすれば、人間が生命を再生産するのに必要な、つまり明日も生きていると、今日も生きていると、明後日も生きるだろう、ということで必ず必要な消費が必需消費であるわけです。選択的消費の方が多くなっちゃったっていうことは、どういうことを意味するかって言いますと、皆さんの言葉で、普通言う言葉で言えば「食うために働いてるんじゃない」っていうことを意味します。「食うために働いている」っていうのは、いかようにしても言えるのは必需消費が50%以上あった、つまり明日も生活できる、今日も生活できるっていうそういう額が50%以上占めていれば、それは「食うために生きてんだ」っていうふうに言えると思います。
ところで、日本では63年以降、だいたいにおいて「食うために生きているんじゃない」っていうことになりました。なんのために生きているのかっていうのが、非常に大きな問題、今でも大きな問題になりますけれども、少なくとも「食うために働いているんだ」っていうことは平均値を取ってきた場合には、日本では言えなりました。そのことはとても重要なことですから、頭に入れておかれたらいいと思います。「食うために働いている」っていう言い方は成り立たなくなったっていうことはものすごく重要なことです。歴史の中でも大変、現在で言えばアメリカと西欧と日本とそうですけど、ちょっと類例のない社会に入ったぜっていうことを意味しているわけです。「食うために働いている」わけではないわけです。
もう一つあります。それじゃ、選択的消費、つまり選んでできる消費、自分の好きで今日これだけ使おうかとか使うまいとか、今月は金余ったからたくさん使おうとか、そういうことを選んでできる消費が50%以上になった。収入のうち50%以上になったっていうことは、どういう意味を持つかっていうことが本当はよくわからないんです。そのわからないところが現在のわからなさの経済的な根本にあることです。どうしてかわからないんです。ただ我々はわからなくてもやっているわけです。現に選んで明日映画に行こうかとか、明日時間がないから行かないとか、あるいはお金がないから行かないとか、旅行に行こうかとか、お金がなくて今月は余裕がなくて行かないとかっていうふうに我々はいつでも毎日選んでいるわけですけれども。その選んで消費できる額が50%以上になってしまったっていうことは、もちろん「食うために働いている」わけでもないわけです。ということは明らかなんですけれども、それじゃ「遊ぶために生きてんのか」ってことになるわけです。そこが問題なわけです。我々確かに遊ぶために生きているわけです。遊ぶことが好きですから。それだけ選択的消費が50%以上できるわけですから。遊んだり映画行ったり飲んだり食ったりしちゃって、それで「遊んでいる」わけですけれども。ホントはそれじゃぁ、選択的な消費が50%以上になっちゃったっていうことは遊ぶために生きてんだろうかって、人間は遊ぶために生きてんだろうか、あるいは暇を持て余して退屈するために生きてんだろうか、あるいはその暇を使って何か良いことをしようっていうために生きてんだろうか、あるいは良からぬことをしようと思って生きてんだろうか、そこら辺のところは現在のところはっきりしてないわけです。つまり我々もはっきりしてないし、みなさんもたぶんそうだと思います。はっきりしてないにもかかわらず、たしかに遊んじゃったり飲んだり食っちゃったりしてることは確かなんです。それは勝手に、選んでやってるわけです。
そこは現在の段階に入った社会の一番大きな問題です。その問題はかつて、そんなことは当たり前のことなんですけども、過去の人が分析したり、こうであろうっていうふうに言ったりしたことがない、無いことです。全く新しく我々が、現在生きて勝手に選択的消費が50%以上やっちゃってる人間が自分で決めなければ、あるいは自分で「なんのために遊ぶ」、選択的消費に使えるお金が50%上になっちゃったんだろうか、これをどうやって使ったら一番いいのかとか、一番良くないのかとかっていうようなことについては、生きている我々が考える以外に誰も考えてくれた人はいないわけですし、また過去の人が言ったことをそのまんま鵜呑みにしたって通用しません。
この資本主義社会の分析っていうのは色んな人がやったわけですし、僕らが偉いと思ってきた例えばマルクスなんて人は一番偉いと思ってきましたけれども、マルクスなんかは全然ここまではやらないわけです。とうに死んじゃっているわけですから、やれるわけもないですけども。そんなことはやってないわけです。近々、ここ10年か15年か20年かそこいらへんの段階で、いま世界で一番先へ先へと行っちゃっているそういう社会が初めて到達したって言いますか、初めてそこに入ってしまった。そういう社会ですから、誰ももちろん分析していないわけです。
そして今何をしたらいいのかわかんない。わかんないんだけれども精一杯考えて、何をしたら一番いいのか、あるいはどういうことをしたらいいのかっていうのを本当の意味で考えなくちゃならない、考えてやっていかないといけない。そういう段階に入ってるんだってことを意味すると思います。これを人に頼ることはできないので、誰もそれはやっていないです。部分的には色んな人がやっているわけですけども、それは完全に把握したっていう、現在っていうものを完全に把握したっていうような形で誰もできていないわけです。なおかつ進行中なわけですから、皆さんも我々もそうなのですけども、一生懸命考えて、選択的消費がとにかく50%以上になっちゃったっていうことは何をしろって言うことなのか、あるいは何を怠けろということなのか、あるいは何を遊べっていうことなのか、それとも何か悪いことしろっていうことなのか、あるいはいいことをしろっていうことなのか、わかりませんけれども、そういうことについて本当の意味で考えないと駄目だ、駄目な段階に入っているっていうことだと思います。
そのことが根本であって、いろいろな問題が派生してきているっていうふうに考えられるから、一番考えやすいって思います。そういう考え方をとにかく取ってみたいっていうふうに思うわけです。この現在の規定の仕方はもちろん誰もしていないわけですから、僕がしたわけですから、僕の考え方はそうです。その2つを押さえればだいたい現在っていうことの当面している様々な問題の根本を押さえたことになりますよ、わかりやすくなりますよっていうふうに申し上げたいわけです。そこが現在の段階になってくるわけです。
ところでもっと別な面からこの「現在に入った」って言う問題を言いますと、僕は前にも言ったり書いたりしたことがあるんですけれども、たとえば僕の理解の仕方では、日本の社会が現在に入ったっていう兆候を見せたのはだいたい分析するところ、1973年ですから昭和48年。48年を前後したときにだいたい日本の社会が現在って言うものに入った兆候を見せたっていうふうに、僕はそういうふうに考えております。
その前後した時期にいろんな兆候があるわけです。たとえば、産業っていいますか産業の問題で言えば、成長率が非常に止まってしまって、マイナス成長に近い成長の仕方に変わったときです。それがだいたい73年を軸にして数年の前後っていうなところで、日本の高度成長は止まっていった時点があります。その時点のところでたぶん産業は、産業構造自体を転換する。つまり今言うハイテク産業なんですけれども、ハイテク産業の方に産業が転換していくっていう、言ってみれば日本の社会が苦悶している時期がこの時期だったと思います。その転換を成し遂げたあとは、もう一度日本の成長期が持続していくわけですけれども、そこのところがだいたい昭和48年、(19)73年頃っていうふうに。この消費支出のところでいうよりもだいたい10年ぐらいあとにその兆候は社会的に歴然と現れてきたというふうに理解されるとよろしいかと思います。
いま申し上げました兆候の他にわかりやすいところで申し上げますと、その時サッポロビールが「天然水ナンバーワン」っていうのを初めて発売したんです。これがいわゆる、銘水っていうのか、???、そういう銘水を売り出したのがだいたい48年。このことはどういうことかって言いますと、マルクスみたいな資本主義の興隆期に生きた人が言ってるところによれば、水とか空気っていうのは旺盛なる使用価値があるんだ。使いみちに有効性がたくさんあるんだけれども、価値はないんだ。価値っていうのは交換価値。交換価値なんてのはねぇんだ。水とか空気にはねぇんだっていうのがマルクスの分析のなかで割合に基礎的な問題意識になっているわけです。ところが「天然水」を売り出したら交換価値があるわけです。ちゃんとお金で売ってるわけですから、交換価値が出てきたことを意味します。経済の段階で、資本主義の段階でもう一段階くぐっちゃったよということを意味すると思います。
初期資本主義、あるいは興隆期資本主義分析というものが基礎になっている考え方がやや通用し難くなったという兆候が、日本の社会で言えば昭和48年前後に、様々なところで兆候を表している。そこから以降は日本の社会は現在っていうところに入っていったというふうに僕自身は考えています。そういうふうに入っていきますと、僕に言わせれば、未知の段階に入っているわけです。世界の歴史ていうのはいつでもそうですけれども、一番先端的なところに入っている社会を分析することの方が全般を分析する場合に非常に都合がいいってことがあります。つまり一番先端のところを分析すれば、それにある条件を加えたり減らしたりするとだいたい後進地帯の経済問題は分析できる。あるいは社会問題は分析できるっていうのがだいたいにおいて常道なわけなんです。ですから先進的な箇所では分析的段階としてそういう段階に入ってしまったというふうなことを意味していると思います。この問題は新しく、一生懸命分析しないとこれからあとの問題がうまくつかめていかない。あるいは突然のように起こっていく問題をつかめていかないっていうことが言えるんじゃないかと思います。それぐらい重要な社会に入っていったっていうふうに思います。
たぶん、現在の日本で一番大きな問題というのは、どこに入ってくるか、どこで出てくるか、っていいますと現在に入った社会、産業で言えば消費産業ですね。流通業とかサービス業とか医療とか娯楽とかの産業が大半を占めてしまったというところが、例えば公害問題一つ取ってきても、何が公害か、どこで公害が生ずるかといいいますと、だいたい第2次産業、製造工業、それから第三次産業、流通業とかサービス業とか、その境界でもって公害問題というのは、主なる公害問題は生ずるということが現在の問題です。けっして第一次産業、つまり農業・漁業、自然相手の産業と製造業の間に起こる公害問題、つまり緑を守れとか緑を破壊されたとかって問題には、すでに現在に入った社会では公害問題の主たる公害問題は存在しないわけですよ。だから、それは誤解することはできないので、誤解してはならないことであって、そうじゃなくて第二次産業つまり製造工業と第三次産業つまりサービス業とか流通業とかその間に起こる公害問題が、現在の日本、あるいはアメリカ、あるいは西欧における主たる公害問題になっているわけです。これは気がつけばすぐにわかるはずですけれども、気がつかなければ依然として、緑を守れとか自然保護とか言ってると思います。しかし、すでに先端的な段階ではそれは終わっています。終わってというのは、過ぎています。多数を占めていません。多数を占めているのは、製造工業と流通業・サービス業の間の産業に起こる公害が主たる公害問題になってます。なっているはずです。理論的に歴然してそうなるわけです。それは何かって言ったら、要するに頭だって思います。ボーダーラインで境界性がはっきりしない異常と正常。精神の病だとかそういうことがたぶん今一番、今に顕在化するでしょうけども、今一番潜在的に現在に入った社会では、一番大きな公害問題だし、もちろんこれから起こってくる公害問題も主たる問題はそこに行くだろう。行くことは疑いないことだと言うことができると思います。
言いにくいことをもう少しいいますと、消費支出が収入の50%以上だと。また消費のうちの選択的消費が50%以上だと、こんな社会で消費税を取るのは当たり前のことで、当たり前っていうのは何を基準にして言うかというと大衆って言ってる、大衆を基盤にして考えた場合に、その消費税を取るのは当たり前のことなんです。なぜかっていうと、大衆は選んで消費ができる段階に入っているわけです。だから税金払いたくなければ使わなければいいわけです。節約すれば税金払わなくていいわけです。もし消費税に切り替えるならばそれでいいわけです。大衆政党とか大衆の解放ってのが課題であるって考えている考え方からすれば、選択的消費ができるところに税の問題を集中する、そういう考え方のほうが妥当なことは言うまでもないことです。ですけど、皆さんが拝見しておられるのは、進歩的なって言ってる、あるいは大衆政党だって言ってるところほど消費税反対って言ってるわけです。こんなことはとんでもない話だというのが僕の考え方です。僕はそういうことを公然と言ってきましたけれども。ぜんぜん違うんですよ。それぐらい現代資本主義っていうのと現在資本主義っていうのはそれぐらい問題が違っちゃうんですよ。その違いっていうのがわかんなかったら、今まで進歩的だとか、革命的だとか思ってきたことが全部反動になっちゃうんですよ。保守反動になっちゃうんですよ。それはもうなっちゃってるわけです。現在っていうのと現代っていうのを区別することができていないからです。そこに問題意識がないからそうなっちゃうわけです。過去の???しかないっていうことになってしまいます。それは全然違います。
そこの問題からすぐに日本社会の、どういうふうに日本社会を読んだらいいかっていういくつもポイントがあるわけですけども、ここでは若者の問題っていうよりも、老人問題っていうのを持ってきたんです。もう一つはつい最近、91年度で生活意識の調査みたいなのがありまして、五段階に分けますと中流意識を持つ人がだいたい89.7%っていうんだからだいたい90%の人が自分が中流だと思っているわけです。日本人は。0.5%の人が上流だと思っています。自分は下層だと思っている人が6.3%います。でも90%近く、89.7%の日本の人は、いずれにせよ自分は中流だって思っています。中流の中とか下とか上とか、分ければありますけれども、全部合計すればだいたい90%の人が中流だっていうふうに思っているわけです。日本の社会を読む場合に大変重要なことです。実際問題として、どうも生活があんまり楽じゃねぇから、これで中流っていうのはおかしいじゃないかっていうふうに、僕もしきりに首を傾げたりするわけですけれども。どうしても主観を入れないで言いますと、たしかに90%の人が自分は中流だと思っているわけです。
90%の人が中流だって思っている社会っていうのはどこかにあるかって言いますとそれはないわけです。日本しかねぇわけです。つまり西欧でもアメリカでもそうなってしません。これはものすごく重要なことだと思います。中間っていうものが中間の厚みが、社会のほとんど大部分を占めちゃっている。そういう社会の型としてみれば長方形の中流の型ができるわけで、わずか端っこの方に上流と、そうじゃないっていう下層だって言う人がいる。だいたい長方形の箱ができちゃって、そこがみんな中流だって言ってる。そういう社会っていうのは日本ほど極端な社会は存在しないわけです。日本の社会の現在の成り立ちってものを読む場合にものすごく重要なことだと思います。類型がないはずです。世界に類型がないはずです。それは興味深い問題です。大金持ちもいるけれど貧乏人もいるっていうことが日本の場合にはほとんどなくて、9割型の人がみんな中流だって、この箱をとってきますとそこに全部入っちゃうことになっています。これはとても重要な日本の現在の社会の入る型だと思います。これはやっぱりわかりやすく頭に入れておられたほうが何かと判断しやすいことになると思います。ですからそれを申し上げています。
いろんな兆候からそういう問題を探ってみますと、だいたい貧富の差が日本みたいにない社会っていうのは、本当はデータを取りますとないわけです。もちろん中流っていうふうに思っている人が90%いるっていう自体がそれを語っていますけれど、他のデータを見ましても、西欧社会ならばだいたい12段階に分けて、一番貧困な、一番下層の生活をしている人と、一番上層の生活をしている人を12段階にわけるというふうに考えますと、だいたい西欧でもアメリカでも12段階いずれもいるわけです。日本の場合、だいたい6段階しかないと思います。一番大金持ちのやつと一番貧乏のやつの差っていうのは同じ段階でわけたら6段階ぐらいしかないと思います。それは非常に日本の社会の特異な型だと思います。それはやっぱり記憶しておかれたほうがよろしいっていうふうに思います。だれも知らないことになってるぜっていうことが日本の社会の現状だということだと思います。
この得体のしれなさをなんとかして解明してはっきりさせてしまわないととんでもない見当違いをしたり、とんでもないおかしなことが起こったりということになりますから、どうしても分析してつかまえたいと思うわけです。そこの問題は日本の社会はとても奇妙な型を持っていることは頭のなかに入れたほうがよろしいんじゃないかと考えます。もう一つそこに老人問題という言葉も出しておきました。これもつい最近、敬老の日を前後して新聞が一斉に調査のデータを掲げたわけです。それは面白かったからあれしてきたわけですけれど、だいたい60歳以上の老人に、お前は他の同年輩の老人に比べて幸せだと思いますか?というアンケートを取ったらば、67.2%の60歳以上の日本の老人が自分の同年輩の人たちに比べて「幸せだ」「やや幸せだ」をあわせますと67%の人が「幸せだ」あるいは「やや幸せだ」っていうような回答を得ています。同じようなアンケートをアメリカ、イギリス、韓国、ドイツで取ったデータが出ていましたけれども、同年輩の老人に比べてあなたは幸せだと思うか?という問に対して、日本では67.2%ですけれどもアメリカでは47.6%、イギリスでは43%、韓国では39%、ドイツでは38%、こういうデータになっています。アメリカからドイツまでいずれにせよ、半数以下の人です。自分は「幸せだ」とか「やや幸せだ」とか回答した人はいずれにせよ半数以下になっています。
データはデータなりだっていうことでよろしいんでしょうけれど、問題なのは日本であって、日本の場合は67%以上ですから、つまり半数以上のご老人は自分は他の同年輩の老人に比べて「幸せだ」あるいは「やや幸せだ」っていうふうに思っているわけです。半数以上がそう思っているってことは、老人は幸せだって思っていることになるわけなんですよ。これはちょっとやっぱりおっかないっていうか、恐ろしいデータだと僕は思います。よく考えていますと、半数以上のご老人は自分は同年輩の人に比べて自分は幸せだとお互いに思い合っているわけですけども。半数以上がそうだという社会はちょっと気味悪いなあと。気味悪いぐらい気味悪いわけです。(会場笑い)そういうふうになっちゃてるわけです。
何が言いたいかと言いますと、ようするに驚いてほしいわけなんですよ。得体の知れないことになっちゃってる。悪くはないんですよ。いいことなんですけど、だれも知らないことになっちゃってるなぁと。よくよく考えてみると、俺は幸せだと思ってるやつが半分、こういう社会って何なんだって言うことになってるわけですけども。確かにデータを取りますとそういうふうになってしまいます。他の国は、アメリカとか西欧の国は50%以下ですから、50%以下の問題だって言うことになりますけども、日本の場合は50%以上の問題ですから、それ自体が大変な問題なんだって僕には思われます。たくさんいろいろ考えるべき余地がある問題だというふうに僕には思われます。
ところでそれらのご老人に自分が不安がってる、心配になっているものが何だ?っていう訊き方をしています。健康だとか一人ぼっちになっちゃったのが不安だっていうのが、日本のご老人がそういう回答を寄せたり、老後の経済問題が不安なんだっていう回答も高率であります。ところが逆にアメリカとかイギリスとかの場合には、不安なしという人が70%ぐらいになってます。これは僕にはよくわからないことです。どうして不安ないんだというのがよくわからないところで、具体的に不安がないっていうことよりも不安っていう、不安を持つっていう意識状態がないんだっていうことなのか、それはよくわからない。でも日本のご老人がいろいろ心配して経済問題から、一人ぼっちになっちゃうんじゃないだろうかとかいうことから色々心配しているのに対して、アメリカやイギリスの人は不安じゃないっていう人が70%占めています。
もう一つ非常に特色が現れているのが、子供や孫たちと同居したほうがいいか別居したほうがいいか?といった場合に同居したほうがいい、同居したいんだという人が半分以上占めています。アメリカとかイギリスとか西欧では、70%から55%くらいのご老人が別居がいいって言ってます。時々孫や子供と会って話を団欒するというのが一番いいんだと言ってるのが、アメリカとかイギリスとかドイツとか欧米では過半数を占めて多い。日本のご老人は逆です。韓国も逆です。つまり東洋的な社会の要素が残っていると。それは逆になっています。ここにも日本の社会を占う場合に、社会構造を読む場合に大変重要な問題なように僕には思われます。日本のご老人っていうのは、生活習慣、伝統・歴史含めまして、単独で生活して寂しくないっていう孤独が寂しくないっていうふうな意識は、日本のご老人たち、一般に東洋のご老人たちは持っていなくて、やっぱり孫とか子供とか一緒に賑やかにやったほうがいいっていう考え方を持っているわけです。それに対して欧米のご老人たちはそうじゃなくて時々会うのが一番いいっていう言い方をしています。これはやっぱり社会の構造、伝統とか風習とか風俗とかそういうところまで含めて言いますと、日本の社会の非常に大きな特色をなしているということができます。
指標となるものはたくさんありますけれど、今申し上げました消費の問題から老人問題までのいくつかの柱を申し上げましたけども、このくらいの柱を申し上げますと、日本の社会っていうのは現在どういうところにいるのかっていうのがとてもよくわかると思います。そこの問題が日本の問題で、ほとんどの問題がよく分析されるっていう意味では、あまりまだよくわかられていないということが言えると思います。もちろん我々もそうですけれど、みなさんも直感的にはといいますか、感覚的にはそんなことがわかっているわけです。日々直面しているからわかっているんですけども、いわば分析の言葉で言いますとなかなかわかられていない。なかなかわかんないというとこが多すぎて一所懸命捉えていかないと、まだ大変な???なことが今の問題のように思われます。
次に近年、起こってきた世界情勢の様々な問題、それに伴う日本の様々な政治的な動きとか経済的な動きとかそういうものと関連してお話しますと、もう少し外からの目がいくんじゃないかと、うまく辿れるんじゃないかっていうことで、一応、ソ連の問題とアメリカの問題を代表として挙げてきました。ソ連の問題とアメリカの問題というのはどういう問題かというと日本人にしてみれば、頭から上の問題というのは大部分は相当程度、ソ連の問題に関わるわけです。つまりソ連の問題がどうにかなっちゃうと日本人の首から上の問題、かなりの程度打撃を受けたり影響を受けたりするぜっていうふうに日本人はそういうふうになってるはずです。首からしたの日本人っていうのはだいたいアメリカの問題が大変なことになると、だいたい日本人の首から下の問題は大変なことになるぜとか、様々な反応が無関係でなく起こったりします。それは日本の社会意識、あるいは政治意識の非常に大きな問題になります。ソ連の問題を考えることとかアメリカの問題を考えることとかは、首から上の問題を考えることと首から下の問題を考えることにほぼ帰着するわけです。つまり日本人の問題はだいたい2つの問題になっています。帰着してしまうぜっていうことにもなりますし、もっと広く言いますと、世界の現在の問題というのはソ連の問題とアメリカの問題にだいたい絡めて考えれば、だいたい世界の現在起こっている問題は考え尽くせるという言い方もまたできると思います。ソ連の問題とアメリカの問題っていうのに少し触れてみたいと思います。
ソ連の問題というのはご承知のように、どっから始まったかといいますと8月19日に始まっているわけです。8月19日というのはどういう日かといいますと、8月20日、翌日ですけど、翌日にソ連の新連邦条約、あるいは連邦規約、あるいは新ソ連における憲法といいますか、そういうものが承認されるっていうのが8月20日の日だったわけです。8月19日に新連邦条約というのが発令されてしまったら、あるいは通ってしまったら、承認されてしまったら、これは大変だって思っているソ連の首脳部、ソ連政府の首脳部というのがクーデターを起こしたわけです。つまり明日調印される新連邦条約っていうのをとにかく調印させないようにしようということで19日にクーデターを起こしたわけです。クーデターを起こしたのはヤナーエフっていう副大統領、それからルキアノフっていう最高会議長がだいたい主たるメンバーだと思います。ですけどももっと言ってしまうとソ連共産党、ゴルバチョフを除いたソ連共産党がクーデターを起こしたというふうにお考えになればよろしいと思います。このクーデターというのはソ連共産党の意志だったというのはまず間違いなく明瞭だと思います。それはどういうことかというと、その翌日に調印されるはずの新連邦条約の調印を阻止するためです。ただちにヤナーエフが臨時大統領になってゴルバチョフは健康を害して執務ができないと宣言しまして、このルキアノフっていうのはこの新連邦条約を阻止すると。やめなきゃいけない。変えなきゃいけない。改めなきゃいけないということを宣言して、だいたい非常事態宣言を出して、クーデターをおこしたっていうことがソ連政変の始まりです。
それじゃ、何が問題なのかっていうことになります。まず、このクーデターの主たる問題は、ソ連の新しい連邦条約が問題だったわけです。それがどういうふうな問題かということはそのあと連邦条約案が日本の新聞には紹介されていますから、それはわかってるわけですけども、ソビエト連邦の中央政府の権限というのをだいたいにおいて全部各共和国に移譲してしまうと。主権は全部共和国に移譲してしまうと。ソ連邦の中央政府というのはそれらに対して、それらを調整する役割をするのがソ連邦中央政府だって、その他の権限は全部各共和国に主権を移譲してしまうと。それがだいたいにおいて新しい条約案の一番の根本にある問題なんです。ソ連邦というものを、僕はそういう比喩を使うんですけども、町会のゴミ集めの当番みたいなものの意味をソビエトの中央政府は持っていると。ゴミ当番はこの次は誰だぜとかを調整する役割を中央政府がやるけれど、他の権限はないっていうことで、他の権限は外交問題から経済問題、国内の問題全部、各共和国の独立した意志によって行う。そこへ移譲してしまうんだと変えてしまうのが新連邦条約なんです。
そうするとみなさんはどう思うかもしれませんけど、ソ連共産党の首脳部たちは、それはもうソ連国の破産であると、ソ連邦帝国の破産であるというふうに理解したわけです。こうなったらたまんねぇ、ソ連っていう国は壊れちゃうんだ、解体しちゃうんだ、そんなことを黙ってみていられないと考えたと思います。ソ連共産党の首脳部は。それでクーデターを起こした。ところでみなさんもそう考えるかもしれないです。つまり日本国というのを考えても、そうお考えかもしれないですけども、僕はそれは違う考え方を持っています。
ようするに町会のゴミ集めみたいに、政府とか国家とか国家の権力とかそういうものは、町会のゴミ集めと同じで、こんなものは当番でかわりばんこにやればいいんであって、みんな本当を言えば嫌々ながらやるのが、嫌々ながら内閣総理大臣になるとか、嫌々ながら政府になるとか、そういうのが一番いいわけです。つまりそれが理想の国家というもの、未来の理想なわけなんです。僕に言わせれば新連邦条約案っていうのは、それを額面通り受け取りますと、ものすごく新しい。言ってみれば、やがてそれが全世界に及ぶとすれば、つまり民族国家を中心とした、民族を中心とした近代国家というのは解体に向かうという。国境を撤回する、解体に向かう一つのさきがけになりうることなんです。これはものすごくいいことなんですよ。僕は理解します。
しかし、僕思うんだけども、日本の進歩的な人たちもそうなんだけど、国家社会主義者なんですよ。国家がどうかなっちゃっちゃたまんねぇっていうふうに思っているわけで、国家なんかそんなに大切でないですよ。国家なんてのはそんなにね、びっくりするほど意味はないですよ。新連邦条約っていうのはものすごくいい条約なんですよ。もし、中身がどうこれから展開するかわかりませんけれど、額面通り受け取りますとこれは世界の現在の民族国家が未来に向かって向かうべき国家の、国家を開いていくさきがけになるようないいあれなんですよ。つまり中央権力は全部、ゴミ当番の調整役みたいにしてしまって各共和国に主権を移しちゃう。これはまず第一段階で、日本国で言えば、中央政府がゴミ当番の調整役になって、各県なら県、地方自治体っていいましょうか、それにだいたいにおいて自由に地域ごとの特色を発揮して、やり方を任せるっていってるのと同じことです。同じことじゃないですけど、そういうふうに類推するとわかりやすいと思います。そういうふうになることはものすごくいいことなんです。中央政府のやつがえばったり、権力亡者みたいにあっちこっち細工したりとか、そういうみっともない段階は早くなくなっちゃったほうがいいわけで。中央政府はゴミ当番の調整役のような各地方自治体に全部任せちゃって。そういうやり方っていうのが、近代民族国家を中心とした国家の権力というものを強大にしないで、権力というものを少なくして、民衆のものにしていくための一等最初のさきがけがこれなわけです。
アメリカでも例え話を持っていっても同じで、アメリカ合衆国中央政府というのがいて、ブッシュっていう大統領がいて、というのよりも、ニューヨーク州とか何々州とか、行政のやり方を任せるというふうに、中央はただ調整役になるということは大変、国家を開くために重要なことで、重要な第一歩なんです。大変いいことなんです。だけども、僕ら見ていると、昔からそう思ってましたけれども、ソ連共産党の首脳でも、日本共産党でもどこの共産党でもそうですけど、国家社会主義なんですよ。国家社会主義っていうのは、つまりファッショと同じわけですよ。国家っていうのはどうしても存続すると抑圧というのが解けないんですよ。国家は開いちゃったほうがいいんですよ。すぐに解散しろって言ったって、国家解散しちゃえって、たとえば日本国解散しちゃえって言ったって、そうはいかないってなるでしょう。即座に解散できないならば、方法はあるわけです。無記名の一般大衆の民衆の直接投票で政府というのはいつでもリコールできるっていう法律を作ればいいだけ、それだけ、これ作れたら大変なものですけども、これ一丁あれば大体において国家っていうのは開けるわけです。国家っていうのはそれほど重要ではないよっていうことがだんだんわかられてくるわけです。それには簡単なことです。無記名で直接投票で、衆議院とかそんなんじゃなくて、直接無記名投票で過半数が反対した政府はリコールされるという法律を一丁作れれば国家は開いていけるわけです。やがてそういうふうになることは、僕は明瞭だって、少なくとも僕の読み方では、僕が現在を読んでこれから先を読んでいる限りはそうなってくるのは明瞭なことなんで。
少なくともソ連は第一歩で、連邦は単なる調整役、各共和国に主権が移動する。そういうことをやろうとして、クーデターにあった。クーデターをやったのは誰かというと共産党ですよ。危機感だった。ソ連大帝国が解体する危機感だと思ったわけです。だけど、それは国家というのを非常と?思わないからですよ。そんなことはなんでもないんですよ。お年寄りはご存知かと思うんですけども、太平洋戦争負けてから、負けたときから何ヶ月間はだいたい政府なんかいなかったんだから。なり手がないし。誰もいなかったんですよ。誰もなんにも言ってくれなかったし、誰もなんにもしてくれないわけだから、自分たちで???へ買い出しに行って、お芋とか買い出ししてそれを食べて、それを食って、お金がなくなると買い出したいもの、お芋ならお芋、少しでもむしろの上でもならべて目抜き通りっていうか賑やかなとこ持ってって、それを売り飛ばして、それでまた金に換えて、これを勝手にやってたって、つまりそれぐらい第2次大戦終わって、太平洋戦争終わって数ヶ月間は日本人は、体験しているわけですよ。やっているんですよ。政府がなけりゃ一日も、国家がなけりゃ一日も生きていけないかというとそんなことは絶対ないわけですよ。
ソ連だって同じですよ。ソ連邦が単なる調整役になったからといってどうっちゅうことはない。解体でもなければなんでもないんです。どおってことないわけです。つまり国家っていうものに対して過剰な思い込みがあるわけです。その過剰な思い込みを第一に打破するというのは、ソ連の新連邦条約案がまずはじめに出したと僕は思います。それに反対するいわれは少しもないと僕は思います。額面通り受け取ればそうなります。しかしこれからどう展開するのかはわかりません。ゴルバチョフの代わりにエリツィンが。ところがエリツィンというのはわからないところがあります。大ロシア主義者で、どういう人になるかわからない。おっかないところもあります。どう展開するかわかりませんから、なんとも言いませんけども、少なくとも新連邦条約がソ連の民衆にとって悪いということは僕は絶対的にありえないと思っています。世界の歴史に対して、つまり諸国家に対して一種の模範を示すことになります。受け取りようによってはそうなります。また、受け取りようによってそうならないかもしれませんけども、しかし兆候をまずはじめに打ち出したっていうことが言えるわけです。
今、日本の政府の誰でもいいですけども、政府がこれから日本国を解散する、調整役だけにする、各自治体は県知事が地域ごとにいいようにやってくれ。その間の経済調整は、経済同盟条約というのが出てますけど、それによって経済関係の調整をすると。そういうふうに日本の政府がしてくれてもいいし、誰でもいいし社会党でもいいですけど、そういうふうに宣言するのと同じことをやったっていうことを意味します。そうするとびっくりしちゃって、「おら反対だ」ってクーデターを起こす人がいるかもしれないけれども、いやそんなクーデターを起こすほどのことでもないよって、いいことだよっていうふうになると僕は思います。そういう問題だと思います。この手のことは規模を小さくすれば、全部日本の問題にも当てはめることができまして、アメリカの問題にも当てはめることができるんです。それが現在ソ連で行われていることなんです。
このクーデターはもちろん、3日ぐらいで破られてしまった。なぜかって言うとホントを言いますとソ連で共産党の支持者って数%しかいないんです。アンケートすると。エリツィンの民主化同盟みたいな、エリツィンの党派みたいなものに対する支持率は30%ぐらい。海部内閣と同じぐらいなんですけど、そのくらいの支持率です。権力的な意味ではクーデター派のほうが強かったし、軍隊を掌握しましたけれども、民衆の支持がまるで違いますから、エリツィンたちの民主化同盟の支持者の民衆が多いですから、このクーデターは成立しなかったんだと思います。ゴルバチョフは業を煮やしてといいますか「俺は共産党辞めた」っていうふうに書記長だったわけですけども「俺は共産党辞めた」ってゴルバチョフは言ってしまいました。同時におめえらも解散したほうがいいっていうふうに???をやったっていうのが現情なわけです。だいたいにおいて、ソ連は新連邦条約と経済同盟条約で各共和国が動きだしつつあるっていうのがソ連の現情だと思います。ソ連邦だけにとってではなく現在の世界にとってとても重要な意味を新連邦条約というのは持っていた。国家っていうのはどういうふうになったら理想的なのか、どういうふうになったら理想の方向に向いてるのだろうかということについては大変重要な意味を持っているわけです。
ソ連の政変でもう一つ重要な問題があります。それは、所有っていう問題です。現在のソ連は、農地で言いますと国有の農地と、あるいは国有の土地と、公有の土地と、私有の土地とあります。私有の土地は大変少ない。数%。国有と公有の土地があります。農業でも国営の農業と公営の農業と、それから私営の農業が数%あります。
これもまた類推ができるわけです。みなさんが例えば、前橋市の市役所の公務員だったとお考えになると、公務員の給与は決まっているわけです。農業でいくら収穫物を上げたって、いくら少なく上げたって、だいたい給与しかくれねぇわけだから、くれないとなればやっぱりあんまり働かないですからね。人間の通性、労働ということの本性なんで。いくら働いてもおんなじ給料だって言うんだったら、やっぱり働かないで給料もらうのがいいじゃないのかってなりますから。なるなるっていうのが半世紀以上、一世紀になんなんとするのを蓄積しちゃったわけです。そしたら国営・公営で収穫される農産物は、本当ならば80%、90%を占めなければならないはずが、逆にじゃがいもに至っては数%の私有の農地で、とれちゃったっていう。そういうふうになってきちゃったんです。一世紀あまりの間になっちゃったんです。意欲もなんにもないやつでどうせ給料だけしかもらえないんじゃということだと思います。そういうことがいわば限界まで来たということが一つあるんです。
その問題がどう変わるかっていうことが、ソ連の問題のもう一つの非常に大きな問題です。ある意味で国際的にはよく見えてきませんけれども、外国から見てるとよくみえないですけど、国内からみたら何が重要かって言ったら、私有地を許してくれるとか。今のソ連の農業法律みたいなのが新しく出てきてるので言いますと、もちろん国有地も、国有の農地もあるし、公有の農地もあるんですけど、しかし私有の農地も許すと。国有の農地もそれを一生涯、一生の間貸してあげて相続権も認めると。そこで自由に農業をやってよろしいっていうな改正案が今出ています。それがどういうふうに改正されるか、どういうふうに農産物の配布っていうのが打破されるか、という問題がこれからもう一つソ連の問題で重要な問題だと思います。みなさんが新聞を、新聞のほうが華やかでないですからそういうことについてはそんなに大きな見出しで新聞に出てこないですけれど、よく注意してご覧になっていると、ソ連で農業問題がどういうふうになっているか、どういうふうに決められたかとかなんとか、どういうふうに変わっていったか、みなさんがちゃんと分かるように新聞に出てまいりますから、どうか注意していただきたい。他のことは、ソ連の問題、別にあんまりあれする必要はないと思います。あとは農業問題、土地の所有の問題をどういうふうに切り開いていくかっていうのが、たぶんソ連の非常に大きな問題だと思います。新聞をよく注意していたら必ずわかるようになりますから、注目しておられるとうれしいと思います。
ソ連の問題っていうのは、国家の問題、あるいは連邦国家の問題と各共和国の問題と、農業と土地所有の問題がどういうふうに変わっていくか、変えられるか。まず法律的にどういうふうに変えられるか。2つをみなさんが押さえておられたら、押さえきれると思います。どんな事態が突発的な事態が起こっても、その2つを中心にして動くはずですから、かならずそれは押さえられると思います。それがソ連の問題であるわけです。
もう一つ最後にアメリカの問題というのがあります。アメリカの問題で一番生々しいのは、去年の8月2日にイラクがクウェートに侵入した、クウェートを占領したということです。それに対して直ちにアメリカは海上封鎖を実際的に行って経済封鎖をまずやった。次いで国連を介して決議を取り付けて、イラクはクウェートを撤退しろっていう決議を取り付けた。もう一つは、ソ連は今混乱がありますから、ソビエト、西欧のイギリス・フランスに対して、おめぇたちも俺たちはイラクを海上封鎖するからそれに協力しろっていう約束といいますか、少なくとも協力しないなら黙ってろ、なんにも手を出すなということの約束を取り付けて、アメリカが経済封鎖をしたわけです。それで国連を介して今年の1月15日、イラクがクウェートから撤退しなければ、武力行使をするっていう決議を取り付けまして。15日までにイラクが撤退しなかった。そのためにアメリカを中心とする多国籍軍っていっている。中東戦争というか湾岸戦争をしています。しかし、僕らは湾岸戦争って言えば東京湾の湾岸しか思い浮かばないですけど、僕は中東戦争って言う。中東戦争に国連加盟のアメリカ・フランス・イギリスの3つの軍隊を主体とした軍隊が武力行使に出ているわけです。2月27日にだいたい多国籍軍というのかアメリカ軍中心の軍隊が自分たちが目的を達して勝利したっていう宣言を発して戦争をやめたわけです。
この中東戦争っていうのを僕らが見ていまして、これもお年寄りの方は二度見たってことになるわけです。あるいは二度体験したってことになると思います。一つはアメリカのやり方とイラクのフセインのやり方っていうのがよく見えたわけだと思います。それを見ていますと、アメリカのやり方はいっこう昔と変わらんねっていうふうに思います。つまり半世紀前とちっとも変わらない。太平洋戦争勃発の契機となったわけですけども、東洋に植民地を持っているフランスとかオランダとかイギリスとか、それを語らって、日本国を石油封鎖をまずやってアメリカはなんて言ったかって言うと、大陸から日本国は撤退せよという要求をやったわけです。石油封鎖をしたわけです。ところが日本国の例えば当時の軍部、東條英機だと思いますけども、軍事権力っていうのは要するに、???以上やる以外にないじゃないかって、フセインと同じで戦争を始めちゃったわけです。半世紀以前になるわけですけど。僕は二度目ですからよく観察させてもらいましたけれども、これを見ていますとアメリカのやり方っていうのは半世紀前とちっとも変わっていないじゃないかと思いました。もう一つは、イラクのフセインのやり方って東條のやり方、あるいは天皇のやり方でもいいんですけども、おんなじじゃないか。つまり世界が見えていないってことがやりきれないなぁっていう、そういう感じを持ちました。この体験は昔、ある一定の例えば60歳なら60歳以上の人は多分2回体験していると思うんです。一度は当事者の民衆として、一度は傍観者として中東戦争として。アメリカのやり方は昔とちっとも変わらない。イラクのフセインのやり方も天皇・東條・軍部ってのとちっとも変わらない。ようするに世界がなんにも見えていない。正義と言いますか戦争の理屈はちゃんと持っているわけです。東條だっても持ってたわけで。大東亜の解放だっていうふうに、大東亜共栄圏の確立だって言うことで理屈はもう持ってるわけです。
つまりやり方っていうのはちっとも変わらないじゃないかっていうのを、一定年齢以上の人はやっぱり二度体験していると思っています。現在の日本はたぶん当時の東條と天皇と違っていますから、多少は進歩していると思います。アメリカの方は進歩していると思えなかったんです。アメリカっていうのはやるときやるね、無茶苦茶やるねっていうか、冷酷無残なやり方をするねっていうことを改めて感じました。太平洋戦争でもそれは感じましたけれども、僕らの感じは戦後4、50年たったうちに緩和されたんです。なぜ緩和されたかって言うとアメリカ占領軍の占領の仕方っていうのが能う限り良かったんですよ。我々に良かったんですよ。えばりもしないし、そんなには悪いことも、時々は新聞に出たりもしましたけれど、それほど悪いことはしない。占領軍として悪いことはしないし、そんなにえばらないし。割合によく接触して。僕らのアメリカに対する感じ方っていうのは随分緩和されて半世紀経てきたわけですけども。今度改めてうーんと僕は思いました。つまりかなり残酷なもんなんだなぁ、こいつらは。サラリーマンみたいな顔をして結構やるじゃないか。残酷なことするじゃないかと、僕はそういう感じを持ちました。随分僕は得るところがありました。色んな意味で得るところはあったように思います。
ところでこの中東戦争に伴って日本国はどうしたんだっていうふうになるわけです。僕が見ていると日本国はアメリカの言うとおりにしているわけです。何とも言えないということになるわけです。言うとおりにして、場合によっては言うとおり以上のサービスをしたりするわけですね。これはちょっとね、あんまりだなって。別に日本に硬派な民族主義者が「我々は世界を相手にだってやるんだ」みたいなそういうやつが出てくればいいとはちっとも思わないんですけど。しかしこれ、この言いなりっていうのはちょっとひどいんじゃないかって、誰でも感じさせるように日本国は振るまったわけです。
戦費つまりお金を出してくれって言われて、お金を出しますって言ったわけです。このお金を出しますぐらいは僕はまぁいいんじゃねぇかって。なぜかって言いますと日本国っていうのは、現在の段階に入った日本国っていうのは世界で一番、ないしは二番目の対外資産と対外援助額ってのを持ってるわけです。ですからお金を出すぐらいはいいんじゃないか。お金を出すってことですむぐらいならいいんじゃないかって見方はできるわけです。その上に軍隊を派遣しようかとかしないかって、またそういうことも言い出すわけです。それはもう過剰サービスというやつで、そうしないと世界に孤立したりするからって論拠をするわけですよ。冗談じゃないので。それはみなさんがお考えになる、みなさんが自分は日本一の大金持ちだったとして、お金出して何かに寄付したって、そしたら孤立することがありうるだろうかって、考えればわかるわけです。世界一、あるいは世界二番目の大金持ちが孤立するなんてことはありえないわけですよ。過剰サービスで、何もしなくていいんですよ。お金出してくれ言うから、あぁ出しますよって、これでいいわけですよ。過剰サービスするわけですよ。これもまたやりきれないわけですよ。やりきれない日本っていうやり方だなって。ソ連がさ、かつてレーニン時代にソ連国のまたその上にコミンテルンといいますが国際共産党の連邦組織っていうのを作って、ほんとはこんなこととソ連国とは全然関係ねぇはずなのにソ連国、レーニンはまだ良かったんだけど、スターリンになったらこれをごっちゃにしちゃって全部コミンテルンからなにからソ連国の利益のために、奉仕するみたいな形に実際にはしてしまっているわけです。日本のマルクス主義者ってのはお人好しだから、行ってそういうところでサービスしてるわけですよ。そんなの別にサービスすることないのにサービスしてるわけ。それで現在の体たらくって僕は思いますけれども。つまり過剰サービスなんかする必要ないんですよ。中東戦争に対してもそうなんです。僕が見てると過剰サービスなんです。こんな過剰サービスしないでもう少しちゃんとしたらどうかねっていうことになるわけです。一方社会党の土井たか子っていうのは、とにかくなんかしなきゃいけないと思って、平和憲法を守れとか行ったんだけど、行ってウロウロしてるだけで何にもしないわけです。できないで帰ってくるわけですよ。
要するにどうしようもないわけじゃないですか。これをどうしようもないと思うことが起点なんですけどね。何かの始まりなんですけどね。それくらいどうしようもないわけですよ。どうしようもないっていうのが日本の中東戦争に対する介入の仕方だったと僕には思います。だからどうにかしようっていうならば、僕はそう思いますけど、できないことはないだろうと思うわけです。知らないですけど、僕は政治家じゃないから実際問題わからないですけども。原則だから貫けたはずだと思うんですけど。原則は簡単なこと。世界一か二の資産を持っている、対外援助経済力を持っているわけですから。アメリカとイラクに対してお金は出すと、それからイラクに対してはクウェートに入ったぐらいの、入った利益に該当するだけのお金は寄付すること、無条件であるいは低利率で、???でもってカバーするから、だからお前クウェートから撤退しろって。???ちゃんと交渉する場所、立場っていうのを、もし日本の政府がしっかりしていたら原則的にできるわけです。原則的にできる実力はあるし、日本がやれることはそれしかなかったはずなんです。うまくやれば。実力は持っているわけです。武力はなんにもないわけですけど、経済的実力はあるわけですから。世界一か二なんですから、それでもいう事聞かないっていうんだったら、それはちょっと事だぜってことになるわけだから。やりようによってはそれで戦争をやめさせるっていう、そういうやり方っていうのは立派な政府だったらできると思います。そこまではやれたはずなんですけども、現実の体たらくは皆さんご覧の通りで、これはもう見ちゃいられないっていふうになってしまったわけです。それが中東戦争です。
中東戦争でどうしてそうなっちゃったのかっていうことの始まりはどこにあるかって言いますと、昨年の日米構造協議っていうのがあるわけですけど。日米間の構造問題で、つまり社会問題、経済問題、その他の問題で、問題があるところをお互いに協議して指摘しあって、それを改善していくんだっていう日米構造協議っていうのがあるんですけども。その中で日本改造案というのがアメリカから出されたわけです。その日本改造案というのは、みなさんがご覧になればすぐにわかるわけですけども、ほとんど日本の経済構造というのは完全にアメリカによって分析し尽くされているって感じもします。それも極めて正確にピタリと。正確に分析しつくされて、ここは駄目だぜ、ここは駄目だぜっていうふうに指摘されているわけです。その分析の正確さの度合いっていうのは、僕らは衝撃を受けたといっても過言でない。衝撃を受けました。そのくらい完全に日本の経済構造とか社会的な問題点は指摘しつくされて。しかも正確に指摘しつくされているわけです。そこまでやられているのは、ことわざで「お尻の穴の中までわかられちゃったよ」みたいな言葉がありますけども、そこまでわかられちゃったら言うこと聞く以外にないじゃないですかって言う他ないわけです。経済政策の水準の違いでありますけども、あるいは経済研究者の水準の違いでありますし、どっから言っても全然お話しにならないよっていうくらいに完膚なきまでにアメリカに分析しつくされてしまったわけです。だからもう、僕らみたいなコウケツ?の徒といいますか物書きみたいなものから言えば、ここまでやられちゃっているっていうのはまるで実力の格段の違いだよっていうことになるんです。この格段の違いっていうのは、声を荒らげればなおるってもんでもないし。誤魔化せば流れちゃうってもんでもなくて、ぐうの音もでないぐらいの敗北感なわけです。これはもう言うこと聞くよりしょうがないんですよ。そこまでやられちゃったら言うこと聞くよりしょうがないって、学問的あるいは研究的あるいは経済政策的には、なると思います。根性だけは張り切っててもいいんですけども、根性だけ張り切っても実力が伴わなければどうしようもないっていうことから言えば、もうここまでやられたらちょっとどうしようもないよなぁって感じを僕は持ちました。
逆に日本の経済政策担当者とか経済学者とか、僕らみたいな口ばっかりの奴らはアメリカに対しそれだけ分析し尽くしているかというと、そうでないんですよ。尽くしてないんですよ。尽くしてたら、またやれるんですよね。尽くしたらそれだけでやれるんですよ。お金なんてなんにもなくったって、お前こうじゃないかって、これで戦争するつもりかって、そういうふうに正確に指摘できたらアメリカだって怖いわけですよ。そこまでやられたらこれは大変だぜって、ここまでわかられたら大変だぜってなるはずなんです。それは一種の戦争抑止力になるわけなんです。ところが実質日本の経済担当者とか経済学者とか僕らみたいなやつはそこまでやれてないんですよ。逆にはそこまでやられている。それは一種の従属の構造なんです。これはもう言うなりにゆうことを聞くしかしょうがねぇじゃないかっていうふうに言えるわけです。言うこと聞く必要はないっていうのは、せいぜいここが限度だよっていうことはあるわけで。それ以上はできないっていう限度は。そこは大きな問題なわけです。
そこの問題は他のことであっても全然解決つくことはできません。日本国は憲法でも改正して、軍備をもう少し整えてなんて言ったって、冗談じゃないので。日本は世界で一番目か二番目の陸軍と三番目ぐらいの海軍を持って、それで戦争して負けちゃったわけですから。戦争だけのことで言えばね。現在のアメリカをオーバーする軍備なんてのはもう不可能なわけです。僕の考え方になりますけども、憲法第九条ってのはどこの国よりもいいんだから、どこの社会主義国よりも、どこの資本主義国よりもいいんだから、お前ら軍備なんて全部やめてしまえって説得するほうがずっと早いと思います。日本ってのはそういう憲法を持ってるってことと、そういう経済力を持つっていうこの実力を何にも発揮しないで言いなりになっているわけだからどうしようもないわけです。どうしようもないってことはやりきれないよなぁって言えるところもあるわけです。それがこの問題なわけです。
日米構造協議のやられ方の問題を現在の問題に多少引っ掛けてみて、一応終わらしていただきますけども。現在みなさんよく、少し下火になりましたけども、証券会社が大口の株所有者に対して株の損害を保証しちゃった。プライベートに内緒で保証しちゃったっていうことが現在問題になってるでしょ。証券会社の問題になったり、日本の、去年の流行り言葉で言えばバブル経済が破裂したとか言う言い方で新聞が盛んに言ってることがあるでしょ。しかし、僕は全然違う見方をします。そんなことは大した問題じゃない。証券会社がお得意先の大株主と癒着して損害したら勝手に保証してたっていう癒着の構造っていうことが、日米構造協議でもってアメリカからめちゃくちゃ指摘されているわけです。これ駄目だぜって指摘されている。どういう指摘の仕方をしてるかって言うと公正取引委員会をもっと厳しく、こういう癒着とか自分の系列会社だけ、あるいは自分のお得意先の会社だけ特権を与えたり利益を与えたりしている、あるいは経理の資金を提供したりとか損害を保証したりとかやっていることに対して、日本の公正取引委員会はもっと厳しくすべきであるってことは、構造協議でアメリカからめちゃくちゃに指摘されているわけです。
それに対して、それを少しはやる気があったんでしょうけれど、ズルズルズルズル伸ばしてやってきたっていうのが、この現在問題になっている証券会社の癒着の問題みたいなこととして出てきているわけです。僕はそう理解します。こんなことは資本主義の一種の近代化って言いますか、現代化って言いますか、これは現在化ではないですね。現代化っていうことの一つのテーマであって、こんなことはアメリカからとうに指摘されちゃって。やればいいのにやらなかったっていうだけで、今頃になって少し厳しいことを公正取引委員会は言ってますけども。そんなことはもうとうに指摘されちゃっているわけです。これは日本資本主義の一種の現代的な要素の残り滓がまだ残ってたということであって、ほんとはそれ以上の意味はありませんよ。だからそこの問題だと思うんです。それはもうとうにアメリカによって指摘されている。ちゃんと公正取引委員会みたいなのがあって、そりゃ厳しく監視していれば現在化っていうのはできるわけですけども。それをいい加減になぁなぁで流していけばそういうふうになりますし、たしかに日本の社会構造とか日本人の意識の構造の中には、たしかになぁなぁでいったほうが都合いいぜっていう面ていうのはあるわけです。僕にもありますし、みなさんにも多分あるでしょう。その問題の非常に大規模な問題が起こったっていうことだと思います。つまりそれ以上過剰な意味をつけようとすると見当が違ってしまうと僕は思います。
アメリカの問題っていうのはすでに中東戦争以前に日本の問題と絡めて出されてきていて、それに対してどう対応するかっていう問題になっていくって思います。これからのソ連とアメリカの二極構造で動いてきた世界史っていうのは、そうじゃない動きをするだろうと思います。そんなかで、非常重要なことは国家っていうのはどういうふうになっていくかっていうことと、もし日本国ってなものを問題にするなら日本国っていうのはどういうふうにそんなかで立ち振舞ができるのか、ここらへんまでは実力上やっても不自然じゃないっていうことと、これ以上やったら日本の実力では駄目だよっていうこと、そういうことはしっかりと押さえられるってことが問題だっていうふうになると思います。未来への見通しっていうことになるわけですけども、国家っていうのはだんだん少しずつ開かれていったほうがいいって考えますから。ソ連の問題をよく眺めていけば、どういうふうに国家っていうのは開いていけるかってことは自ずから出てくると思います。
もう一つは軍事問題ってのがあるわけですけども。ソ連の新連邦条約とか経済同盟条約とか所有の問題って言うはたぶん僕らが考えていて、今までよりもずっと良い形をとられるだろうって思います。でも、ただひとつ良い形が取られないのが軍事問題です。これは新連邦条約にも経済同盟条約にも謳われていますけども、軍事力は各共和国に移管される。各共和国はそれぞれの軍事力を持つっていうふうな規定があります。しかし僕らが考えて、また考え抜いて、この柱だけあれば新しいあれが開けるっていう柱は、一つには国家っていうのは、日本で言えば国家っていうのは政府ってことなんですけども、政府が動かせるような軍隊っていうのを持たないっていうことが国家を開く場合の非常に大きな条件になります。こればかりはソ連の今回の様々な改革があるわけですけども、これだけは全然謳われていません。しかし国家つまり政府が動かせるような軍隊を持たないっていうことは国家っていうものが開かれていくために非常に大きな条件になります。先程の国家を直接開くっていうことと同じで、一般大衆の無記名の直接投票で例えば過半数以上を占めなければ軍隊を動かすことはできないっていう規定を設ければ、これは国軍ではなくなるわけです。つまり政府が動かせる軍隊ではなくなるわけです。軍隊を動かすには、一般大衆の無記名直接投票で過半数を占めなければとか三分の二を占めなければ軍隊を動かせないんだっていうそういう規定を設ければいいわけです。それは国軍ではなくなるわけです。それがなければ、ほんとうの意味では国家は開かれないんです。
それは今のところ、ソ連にも期待することはできないし、アメリカにも期待することはできない。もちろん日本には期待することはできません。期待できるはずなんですけども、憲法規定からそういうはずなんですけども、逆に憲法改正しておおっぴらに軍隊を持っちゃうっていう論議の方が、近頃の世論調査によるとそっちの方が増えてきたって。50%以上になってきたみたいな兆候があります。だから日本国は駄目だろうなとは思います。ただ今の現状の規定では日本国の憲法は、世界に冠たるもので一オクターブ上の段階に、軍隊規定、戦争規定ってのを日本の憲法は持っています。せっかくこんだけ、これを持ったために現在、世界一番目か二番目の経済を持つようになったわけですから、もう少しそうすればいいのになと思うんですけども。中東戦争以降ですけども、そうでなくて逆におおっぴらに自衛隊を軍隊にしちゃえみたいな、そういう論議が出てきたりしますけど。なかなか日本国ってのは思い通りいかんもんだなと思いますけども。その問題はこれからの問題として、大きな問題として残るっていうふうに僕自身は考えております。
僕はそういうふうに考えますと、現在の政治情勢と言いますか政治的社会的あるいは感覚的に感じておられている情勢というのは、二番目の、二回目の世界大戦の敗北みたいな、敗戦時みたいなもんだと僕は考えています。これはかつて一回目の敗戦のように空爆で街が壊れているとか人が死んでいるとか目には見えないんですけど。皆さんの目にはそんなことは感じないよと思われるかもしれないですけども、本当は目に見えない第二の敗戦期だとお考えになるといろんなことがわかりやすいんじゃないかと僕は思っています。僕はそういうふうに考えるといろいろわかりやすところがあるもんですから。二回目の敗戦ってのは目には見えない。目に見えるところでは大変な繁栄をしているように見えている。繁栄して気持ちが良さそうにしているっていうふうに見えているわけですけども、よくよく探ってみますと頭から上はソ連と一緒に敗戦してるし、首から下はアメリカと一緒に敗戦してるっていうのが日本の現在の状態の一種の比喩じゃないでしょうか。そういうふうにお考えになるといろんなことがわかりやすくなるんじゃないかっていうふうに、僕自身が考えて。基本的にはそこんとこで見ていけばいいと思っています。どこで国際問題とか国内問題を見ればいいかってことは、今日お話しました要点を押さえてもらえたら、わりあいによく見えてくることがあるんじゃないだろうかって思っています。一応僕が考えていることはお伝えしたわけです。ここで終わらせていただきます。(会場拍手)
(質問者)
ひとつに具体的にはどの政党を推していて、どの政治家が最も調和していると思っておられるのか。
(吉本さん)
支持する政党なしという。政治家もいないです。
(質問者)
第二点に『書物の解体学』という本でバタイユについて書いておられました。そこで「現代を読む」ということで今日お話していただきましたが、西洋では現在、ポスト構造主義というような思想が流行っております。そのなかに中核思想というのは、反理性とか、非知的なこともおよそ中核なのかと思うんです。そのことと、先生の最新の現状だとか、マス・イメージだとか、そういうことに一貫していることは、やはり、非知性的ということがあると思うんです。
そのことについて考えて、バタイユがたしか雨が降っていない時に傘をさしていたと、そしてバタイユは変な笑い方をしてキチガイみたいになってしまったというところで、先生は病理学的な方法で説明して、先生もバタイユをあざ笑っていたように私には思えたのですが、現段階での先生のマス・イメージの本を読んでいますと、あれは昔の解釈であって、現段階ではバタイユに対して特に主体と客体の融合とか、傘をさして笑っていたとか、ああいった場面とかいうものを再解釈できるようになったような気がするんですけど、そこらへんのところはどうなんでしょうか。
(吉本さん)
バタイユに対する評価というものが、さっきあなたが言ったように精神病理という、バタイユに対する評価はもうひとつあるんです。それは巨大な思想家だということです。健康であるかどうかは別として巨大な思想家です。
その巨大なということのいちばん大きな理由は、ポスト構造主義と関連したことでいえば、ひとつは、バタイユに『呪われた部分』という経済的な論理があるわけですけど。マルクスの近代思想に対する、ロシアのマルクス主義にそれなりの見解を示して、西欧のマルクス主義、あるいは、日本のマルクス主義、大なり小なりマルクスの影響を受けた思想があるわけですけど、それは一種の解体の表現なわけですけど、ポストモダニズムあるいはポスト構造主義というのは何なのかっていいますと、ぼくらの言い方でわかりやすいのは、マルクス主義の解体の一種の極限であって、つまり、マルクス主義からイデオロギーを抜いちゃえば、ポスト構造主義になるって考えたら一番考えやすいです。
なぜイデオロギーを抜くということが必然かということははっきりしていることで、ひとまずイデオロギーを抜いちゃうということがいかに現代的課題のひとつかということはいえると思います。そういう意味ではポスト構造主義あるいはポストモダニズムはマルクス主義のいちばん極限であって、もっと少し前までは、つまり、「現代」というところまでは、構造改革論というのはマルクス主義の極限だったですけど。たぶん、それ以降の「現在」に入ってからのマルクス主義の極限というのはポスト構造主義、あるいは、マルクス主義からイデオロギーあるいは党派性というのを抜いたものだと思います。抜くことは日本で必然があるかどうかは別として、西欧では必然があったからポストモダニズムになったかと思います。
ところが、バタイユというのは、マルクスあるいはマルクス主義の系列とは違うところで自分の思想をつくった、西洋でいえば唯一の思想家じゃないかと思っているわけです。つまり、極端なことをいいますと、あの人は全部が消費だと言っている、つまり、生産しているのは太陽エネルギーだけで、あとは太陽エネルギーをどういう形で使うかというのが、こういう物の生産になったり、人間の生産になったり、そういうふうになってくるので、ぜんぶ消費して、生産しているのは太陽エネルギーだけだというのがバタイユの一種の普遍経済学の原理なんです。
それだけはマルクスも全然考えたことがないので、そういう意味あいでバタイユというのはマルクス主義の影響を、少なくとも自分の思想をつくって以降は影響のちっともないところで独自に思想をつくられたという意味あいで、たいへん巨大な人だとおもうんです。
(質問者)
マルクスはヘーゲルとニーチェの間をちょうど中間飛行しているような人に私には思えるのですが、そこのところはどうでしょうか。
(吉本さん)
影響としてはそうじゃないでしょうか。ヘーゲルの影響はものすごく甚大だとおもいます。バタイユも。それからおっしゃるとおり、ニーチェ、それからフロイトもあるんでしょうけど、それは甚大な影響を受けている。それから、あとはたぶん、フィジカルなサイエンス、つまり、科学とかがバタイユのなかにあります。
(質問者)
海外の見通しについて、今までの日本は米ソの対立の中での繁栄だというのを新聞で見たことがあるんですけど。今後の日本の経済みたいなものと、いまのお話を伺ってみると、選択消費はあまり減らないんじゃないかというような吉本さんの観測のように思えたんですけど。
(吉本さん)
バブル経済が弾けて、何かになるなんて思わないほうがいいです。あれはいずれにせよバブルなんだから、弾けたってべつにどうってことないので、ようするに、日本的な二尺の構造なんです。だから、いまの段階では健全だと思うんです。
(質問者)
不況だ。不況だという論調もありますが。
(吉本さん)
ぼくはおもうんです、バブルが弾けちゃったとしても、つまり、国家社会主義と高度資本主義というのは競争において、ぼくは高度資本主義のほうが勝ったと思っているわけです。つまり、何を基準にしてそう言うかというと、一般大衆の解放ということ、一般大衆を経済的に政治的に、それから生活的に、思想的に、どれだけ解放したか、それにおいて、国家社会主義は高度資本主義に敗けたとおもっています。
このことをとおりながら、今度は消費資本主義と呼べる、つまり、現代資本主義というものをどういうふうにして入れていくのか、どこでこれがポシャることがあるか、どこでこれを超える方法がつかめるかということが、極端にいえば、非常に明瞭な課題じゃないでしょうか。
まだ、いまでは国家社会主義は負けていないと思っているインテリもたくさんいるわけです。負けていないということで押していけると思っているインテリもたくさんいるわけです。でも僕は違います。ぼくは明瞭に国家社会主義は高度資本主義に大衆の解放において負けたと思っています。
ですから、このことを容認したうえで、しかし、高度資本主義はがんとしていつまでも続いていきますかといったら僕はいかないと思っています。でも、いまいかないと言いたくないわけです。いまいかないと言うと国家社会主義は負けていないと言う奴と俺は同じになっちゃうんです。同じになるのが嫌だから、同じと思われるのが嫌だから、ぼくはそう言わないけれど。
これは何を解決できないかというと、たとえば、あなたが明日50万円選択消費できると、50万円飲んじゃうことをあなたはできる。しかし、ある人は3万円しかできないんだという、これだけはどうしても高度資本主義が解くことはできないので、解くことができないから、だから、どこかでは矛盾点が来るということを、ぼくは考えています。
もちろん、それは現在だってその矛盾点はいくらでも見ようと思えば見えます。でも、これを国家社会主義だというのは嘘になっちゃうから、敗けたくせしやがっていい気になっちゃうから、ぼくは嫌なんです。ぼくの中にも国家社会主義に影響を受けた、ソ連のマルクス主義ならマルクス主義の影響を受けたんです。いい気になっちゃうことが嫌だったから、そこはダメなんだというのをやっぱり思わなきゃダメだぞという、自分に言い聞かせることから、だからそう言ってるんですけど。だけど、べつにこれが重要だとはちっとも思っていません。
これは本気で考えなきゃいけないと、本気でどうやって超えられるか考えなきゃいけないことが出てきそうな気がします。いまのところは、ぼくはバブルが弾けてもどうってことはない。だから、高度資本主義の範囲内で解決できる程度の問題に過ぎないと僕は思っています。
(質問者)
今日のお話とまったく関係ないんですけど、24時間討論の記録を読みまして、中上健次が随分めちゃくちゃな発言をしているなって僕は感じたんですけど。吉本さんが中上健次と一緒にやって行動を共にしている理由はやはり中上健次の文学的才能とかそういうものを評しているということなんですか。そのほかになんか理由がありますか。
(吉本さん)
行動を共にしていないところもいっぱいあるんですけど。日本国の官憲に反対しますというのは、何を言ってるんだろうなというのでちっとも行動を共にしていないです。それから、その前の文藝家協会を脱退するかしないかなんてやってたことがあるんです。ぼくから言わせると入っていたほうが不思議だよ。入ってると思っていなかったです。
何を言ってるのという、文学なんて一人でやるというのが当然なのであって、○○について何か言いたければ、一人の文学者が何か存在を賭けてどういうふうにしたっていいです、それは。それは自分が主張して書いたらそれですべてなんです。言いたいことがあるなら、それは、ぼくは主張していないので。文学だったら主張はありますよね。つまり、奥深い領域というものを一種の根拠地にしているわけです。
そんなものはいってみればすぐわかるんです、そんなものはないんです。そんなものは開発されるだけです。だから、このやり方をしたらダメじゃないかということは、何度も僕は言っているわけです。公でも言ってますし、個人的にも、ダメじゃないかと。そういうことは、なくなっちゃうということは一種の文明の必然なんです。これを動かすことはできないんです。
第一次産業というのは、農業が少なくなったからといって動かすことはできないんです。それを止めることはできないんです。止められるなんていうのは全部嘘ですから、間違えちゃうんです。それから、止める課題は大きな問題だと考えるのもそれも嘘です。それから、日本国の食べ物は日本国でまかなうというのも嘘です。そんなものは地球上の国家のものでも同じ土地には、同じ広々の土地で国を作ってなんていうけど、そうじゃないんです。そんなことは一種の文明の、文化の発達ということです。やっぱり自然産業が少なくなって減っていくという必然の法則なんです、これを動かすことはできない。
それから、もしそれを再生するならば、違う再生の仕方をしないといけない。つまり、これは大規模経営に見直すとか、それじゃなければ新たにつくっちゃうとかです。あるいは、農地を作っちゃうかということ以外にないんです。つまり、天然自然から一段階進んでいるというような形でしかありえないんです。だから、中上さんがいくら頑張ったってそれはダメです。これを防ぐことはできないでしょうね。
(質問者)
4点ほどなんですけど、まず1点目は第二次産業と第三次産業との重なっていく間隙のところにどういう問題、精神病理学的な問題があらわれてくると、それはBPDのことだと思うんですけど、これは具体的にどういう症例を考えていらっしゃるんでしょうか。
(吉本さん)
ぼくは2つだけデータがあるんですけど、ひとつは境界性の精神病、ボーダーライン、それはとても増えているというデータがあるんです。それから、もうひとつは慢性疲労症、それがやっぱりたいへん増えているというデータがあるんです。それは言いやすいわけです。
つまり、第二次産業というのまでは、製品を作ると、今日は500個作ったからとちゃんと目に見える量が重なるわけです、生産高として。だから、拘束8時間のうちでいくら作ったってちゃんと目に見えてできるんですけど。それで残業何時間やったら何個増えたというふうに言えるわけですけど。
第三次産業というのは、そういう意味合いの目に見える規準というのはなかなか取りにくいんです。取れないことはないんですけど、取りにくいことがあるんです。ですから、同じ拘束時間の中で働き過ぎちゃったかそうじゃないかということの目安が、第一次産業、第二次産業みたいに、つまり、農産物とか、製造工業の産物のときみたいにはっきり確定できないから、いくらでも出しちゃうということが言えちゃうわけですし、また働くほうの側からいえば、どのくらいやったかということがあって、ついやりすぎちゃって疲労が溜まっちゃうみたいなことがある。
つまり、そういう目に見える生産との関係がたいへん希薄になってきたということが、ボーダーラインの精神障害、それから、慢性疲労の障害というのが増えてきたことの大きな要因になっているあれだなと僕には思えるんです。そこが境界のいちばん多い境界なんでしょうね。
(質問者)
第2点目なんですけど、「現代」と「現在」の違いということで、よく先生が引用される部分の歴史哲学でいうと絶対的な方法があって、西のほうに移転していって、具体的には中央アジアを経由して、ギリシャ、ローマ、さらにはドイツ、ゲルマンですかというような話が、定かではないんですけど。先生の提起されているアフリカ的という概念、それから、次の段階としてのアジア的になって、次が西洋的、その次に来るのが「現在」という段階というふうに理解して、そして、それをなおかつ歴史的必然というふうに理解されていらっしゃるということでしょうか。
(吉本さん)
歴史的必然というふうに理解していますし、そういうふうにいくだろうというふうに考えて理解している。つまり、ぼくは構造主義者の言っていることに反対なんですけど。ぼくはまだヘーゲル、マルクスのように、段階論というのをよく信用しているんです。だから、ぼくはそう思っているわけです。だから、いくらでも確信のところは必然だというふうに僕には思えます。それがとても考えやすいです。
(質問者)
3点目なんですけど、これは必要消費と、それから選択消費、とくに選択消費が50%を超えたということに関連してなんですけど。先生の柳田国男論の中で柳田が内閣だったか法制局の参事官だった時に、田舎の悲惨な刑事事件が起きて、こういう犯罪には何人であれそういう条件が与えられれば必然的にそういうふうになってしまう、ようするに、偶然に積み重ならなくても必然に喧嘩するようなかみさんだと。
それにさらに絡めていうと親鸞論のなかでも親鸞が業因ということを言うときに、必然の契機があれば人間は善人であろうとなんであろうが、千人殺してしまうことがありうると、それは個人個人の善とか悪とかいう問題じゃなくて、それを業因というふうにおっしゃったと思うんですけど。
そうすると現在のように必要消費が50%以上占めている段階には、そういう偶然の積み重ねの果てに必然がポッとくるようなことは想定できるんですけど、選択消費が半分を超えてしまうと、選択消費はあくまでも選択であり、有利性であり、偶然性であるとすると、そういう必然に喧嘩するような犯罪なりといいましょうか、そういう善悪の問題というのはこれからますます出てこなくなるんではないかという、そんなふうな理解の仕方なんでしょうか。
(吉本さん)
あなたのおっしゃってることは思いつきかどうかわからないですけど、少なくとも現在までというのはおかしいですけど、歴史的に考えて、道徳・倫理の発生ということから、歴史的に出てきた道徳・倫理というものが、いまの言葉でいうと選択的消費というのが50%を超えたというふうに「現在」という段階でほとんど捨てられてしまったというふうに僕は思っているわけです。
つまり、それは通用せんだろうという、あるいは、通用しているように見えても、それは疑似的に通用していることであって、ほんとうの意味では通用していない。無理やり通用していると、そういうことになっちゃっている。
たとえば、<音声聞き取れず>
つまり、そこでの善とか倫理というものだけは、近代的な善とか道徳というものに過ぎないからだと思います。それはたぶん現在という段階に入ったら、みんな解除されちゃっている。ですから、もし無倫理ということじゃなくて、倫理ということをもし、それはむずかしいことなんですけど、簡単に倫理を認めたりするととてつもないぜってことになりそうな気がして、ぼくはしょうがないからいきたくないんです。
選択的消費では50%以上になって、人間に何をしろって言ってるんだって、わかりませんけど、人間は何をすればいいんだとか、何をしなければいいのとか、ただ遊んでろってことなのかとか、いろんな問いが考えられると思います。それはやっぱりちょっと探さないとダメじゃないかなと、つまり、旧来の倫理・道徳の延長線で倫理を考えても僕はダメじゃないかなと漠然とですけど思っているわけです。
だから、それは倫理というものは、欠如といいますか、欠乏といいますか、それを基にして人間の倫理はつくられてきたものですから、たぶん、その欠乏という概念が怪しくなっちゃったんです。つまり、選択的消費が50%以上できるという段階に来た時に、欠乏を基にした倫理というものが怪しいぜというような、表面的には通用するかもしれないけど、根本的には怪しくなっているぜっていうことだと思います。だから、欠乏を基準にした倫理というのは通用せんだろうと思うわけです。
ですから、それじゃあ遊べっていうことだとか、デカダンスがいいのかというふうにやらなくちゃならない。また、いままでの倫理でいいのか、それも決められない。たいへんむずかしいところなんですけど、簡単には決められないです。だから、欠乏を基にした倫理というのはたぶん難しくなっちゃっているということが確かじゃないかなというのが、いま僕が漠然と感じることです。いずれにしても考え中ですけど。
(質問者)
今日のテーマと直接関係なくて恐縮なんですけど、最近の先生の「南島論」の中に初めて出てきた「アフリカ的」という概念に絡めてなんですけど、ぼくの誤解だろうと思うのですけど、たとえば、柳田なんかは晩年になると○○とか、根の国の話とかいって、他界思考みたいなものが強まっていって、また、折口信夫なんかにしても最後は唯物史観における他界観念というのが出てきて非常に他界というかあの世に関するものが死ぬ間際に非常に強まってきていると、そういう根の国とか、常世の国とか、いわゆる南島のほうのニライカナイですか、そういうものに対する憧憬のようなものが非常に強く感じられるんですけど。先生のアフリカ的という概念はある意味ではそういう意味するものはあるんでしょうか。それとそのアフリカ的というのは一種の他界論みたいなふうな理解をしてもよろしいんでしょうか。
(吉本さん)
言われたことは2つのことが一緒に入っているような気がするんですけど。ぼくがアフリカ的という意味でいうときにはやっぱりヘーゲル、マルクス流の考え方なんです。ヘーゲルがどこで規定して、つまり、近代初っ端の時にその規定をしているわけですけど、ヘーゲルがアフリカ的という時には大雑把に2つあって、ひとつは人類の母体がそこにあるんだという言い方がひとつなんです。
もうひとつは、まだ天然自然というのが宗教になって、まだ人間にとって自分と自然との区別がつけていないというか、そういう段階がひとつアフリカ的ということのなかに入る。それからもうひとつは、ヘーゲルは近代の真っただ中で言っているわけですから、非常に迷妄なんだという意味のちょっとバカにした言い方なんですけど、そういう言い方をしているんです、ヘーゲルは。
ところで、ぼくはアフリカ的というのをやっぱり段階的に設定したいということの場合にはどういうことかというと、まだ、人類の母体に、自然の体内に人間が眠っているところなんだというふうに、あるいは、段階なんだというふうに言っているわけですけど、ぼくらが見ているアフリカというのはややその段階を脱して、歴史の中に初めてアフリカ的というのが登場したところの問題なんだというふうにひとつはそういうふうな考え方をしているわけです。
もうひとつは、具体的には様々なアフリカの条件があるわけですけど、もうひとつは何かといいますと、折口さんの小説を関連させて、折口さんが日本の民族というのを、あるいは柳田国男も同じですけど、たどっていって、たとえば、他界とか、理想の浄土を設定するところまでいくでしょ、それが僕が折口さんがそう言うとか言わないにかかわらず、アフリカ的段階の宗教意識というふうに思うんです。
つまり、どういうあれかというときに、折口さんとか柳田さんに中心なところでいえば、オセアニアから、つまり、アジア東岸にといいますか、岸辺にかけて、あるいは島にかけて、一種の永生観念があって、それだと死んだ人の魂というのは山の上にいって、島の中に集まっていくと、それで部落の人間が赤ん坊を産むというのは、そこのところの死んだ人の霊魂がたまたま水浴びをしている女の人に憑いて、それで生まれ変わって赤ん坊ができるんだという、そういう永生観念というのはオセアニアからアジアの岸辺にかけてずーっと分布してあるわけです。それは、前アジア的段階、つまり、アフリカ的段階の宗教意識。
仏教というのはもちろん、いまのでいえば、ヒンドゥー教とかというのは、それを切断しようとしたわけです。そういう輪廻転生をほんとうは切断しようとしたわけです。貧乏な輪廻にまた生まれてくるのかというのが嫌で嫌でしょうがないというような、そうだったらもう生まれてこなくていいと、理想のところへ行っちゃえと、浄土の、そこへいっちゃえばもう生まれてこなくて、理想のところで魂がとどまれるんだというのが原始仏教だと思いますけど。つまり、それを切断しようとしたと思います。
だから、仏教はアジア的なものなんですけど、その以前というのに折口さんなんかも柳田さんなんかも、日本の民族をたどっていくとそこにいっちゃうわけです。同じ日本人というのもたどっていきますと、大雑把にいいますと、旧日本人と新日本人という、旧日本人というのは、ぼくのいまの理解の仕方ではやっぱりオセアニアなんかと同じでポリネシアン系だと思います。言葉もそうだと思います。つまり、結局、そこへぶつかっちゃったとおもいます。柳田さんも折口さんもぶつかったと、それはアフリカ的段階というもの。
それは中東戦争でいえば、フセインというのは可能性を残して持っているわけです。つまり、アジアとアフリカの間ぐらいのあれを持っているわけです。だから、具体的には僕は知りませんけど、イラクがどうなっているかわかりませんけど、段階論でいっちゃえばそこだと思います。これがどういうあれを持っているかだいたいわかるような気がするんですけど、これの課題はものすごくむずかしいと思います。現在ではむずかしいとおもいます。いちばん先端部が消費社会といいますか、つまり、選択する消費が多くなっちゃっているという、そういう社会段階に突入しているわけです。
そこでイラクみたいな、つまり、アジア・アフリカの混交段階みたいなところにいるわけです。そこの主導的課題というものにどうしても、そういう言い方をしますと、超西欧的というところになるんじゃないか、救われないです、救いようがないです。だから、言っちゃ悪いけど救いようがないです。だから、フセインだってそこまで見識を持てたら、ああいう戦争の仕方はしないし、もっと違うやり方をすると思います。だけど、フセインみたいなやり方をそのまま延長したらばアジア的段階にいきます。つまり、毛沢東的なところにいきます。
それは段階論からいえばわかりきっていることだと、そんなものはいろんな要素が絡まるからそう単純じゃないでしょうけど。しかし、段階論としてはこういきます。だから、それはダメなんです。ダメというのはもうわかっているんです。だから、せっかくアフリカ的段階にあるんだったら、それを残しているんだったら、超西欧的視点を持てたらやれるんです。いろんなことができるんです。いろんな解放というのができるんですけど、それはそれだけのないです、見ていると、中東戦争を見ているとそれだけの見識はフセインにはないです。だから、発達したアジア的指導者までに他に道はないとおもいます。ぼくはそうおもいます。
だから、それと同じで、つまり、おれみたいなものの考え方で…<音声聞き取れず>、そういう考え方というのを、つまり、ぼくらにもし課題があるとしたら、そういう考え方を非常に選択消費のその段階からその問題を組み替えるといいますか、組み直していくかという、それが課題になるという、それをほっとけば、アジアにもいいところがあるよみたいになって、あるのか知らないですけど、言っている宗教はたくさんあるわけで、そういうふうになっちゃうわけです。そうじゃないんです。だから、せっかくそこまで突き詰めちゃったら、それはいまの選択消費の段階にそこからつかみ直すという課題がとても重要だとおもいます。
アフリカ的段階というのに、フセインというのは超西欧的課題を視野として持っていたらあんなやり方は絶対しないです。あんな戦争の仕方もしないし、そんなことはなかにいる人間に求めるのは無理な話なのだと思いますけど。ほんとはそうだとおもいます。それはむずかしい、まだ地球上に相当そういう地域はあるわけですけど。
そこはどういうふうに考えたらいいかといったとき、ある意味ではものすごい可能性があるんです。つまり、アジアというのは僕の理解の仕方では○○か、それ以下の、多くはないと僕には思われます。だけど、アフリカというのは一足飛びに世界史のいちばん突端までやりようによっては○○することはできると思います。でもそれは、指導者の見識と能力にかかっています。そんなことはないものねだりといえばないものねだりで、アジア的段階に○○、そういうあれじゃないんでしょうか。
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