今日は農業から見た現在の時代要請みたいな話になると思います。ただ世界情勢というのではなくて、いままで2回にわたって自分なりの農業についての考え方、あるいは農業の現状についての考え方みたいなのをやってきましたので、その続きとして農業ということを関心の主体にして、現在の世界がどういうことになっているかということについて、僕なりの関心のあるところでお話ししてみたいと思います。真新しいところからはじめて行きたいと思うんですが、とくに国際情勢からはじめて、しかも日本と関係があり、また日本の農業と関係があるところでの国際情勢の問題から入っていったらいいと考えます。
現代の社会主義国が持っている問題がふたつありまして、ひとつは国家の問題です。国家というのは何なのか、あるいは国家をどうすればいいんだということです。それからもうひとつは農業問題、土地制度問題です。土地の私有とか公有とか国有という問題をどう考え、あるいは解決したらいいかということが、現代の社会主義権の解体・崩壊現象も含めて、現代の最も緊急な問題になっています。
農業問題に行く前にさっさと片付けてしまいたいのが、ソ連問題です。これはみなさんがまだ記憶に新しいように1991年8月19日にソ連でクーデターが起こりました。クーデターが19日にどうして起こったかというと、8月20日に新連邦条約が批准される。それが調印されれば決定されるというのが8月20日であったわけです。それが決定されたら困るという連中が8月19日にクーデターを起こした。
何が困ると彼らが考えたかといいますと、8月20日に批准されるものは、新連邦条約によれば政治主権その他の国家主権が各共和国にほとんど全部写される。ソ連邦というのはどうなるかといったら、各共和国から委譲された権限の範囲内で書く共和国館の調整役を演ずる。政治主権は各共和国に移す。各共和お濃くはそれぞれ自由独立に、国際社会でも国内問題でも自分たちで自主的に処理していく。連邦はただ調整役を演ずるというのが、8月20日に調印される条約案だったわけです。そうされたらソビエト連邦というのはおしまいじゃないか、つまり解体であり、消滅じゃないかと言う危機感を感じた連中がクーデターを起こしたわけです。
そんなことはどこにも書いてあって、どうでもいいわけですが、矢なーエフという副大統領だった者とルキヤの負という最高会議議長が主体になって、ゴルバチョフは病気になってしまって、政治を執れないから我々がやるという宣言を出しまして、同時に国家非常事態宣言を出し、自分たちがソ連邦を掌握したという姓名を発して、そういう準備を進めた。ところがエリツィンなんかを主体とする民主改革派、つまりロシア共和国を主体とする連中は、これはもう憲法違反のクーデターに過ぎないので、認められない。グンと市民は自分たちを応援してくれ、つまり自分たちを守ってくれという宣言を19日から20日にかけて発しまして、そこでクーデター派との対立になった。
ところでソ連は、世論調査をする前からわかっているわけですが、世論調査によりますとクーデター派というのはソ連共産党であるわけです。ソ連共産党に対する民衆の支持率は3パーセントくらいだった。エリツィンらに対しては20ないし30パーセント、いまの宮沢政権ぐらいの支持率があったわけです。ですからグンとか諸官庁は全部クーデター派が掌握しているように見えても、民衆的な基礎は10分の1しかなかったということがある。そしてこのクーデターは失敗します。それで何が失敗したかと言うことになります。それは日本の社会主義的なイデオロギーもそうでして、世界中の社会主義イデオロギーはみんなそうですが、ソ連共産党の人たちは国家社会主義者であるわけです。つまり国家管理社会主義者です。だからソ連邦が単なる調整役になって、各共和国に主権が移るということは、あたかもソ連邦国家が終わりになってしまうのと同じだというような感じ方をしました。
しかしそうではないのであって、国家というものが単なる調整役になっていくということは、やがてどこの国家も層なっていくべき理想の携帯のひとつなわけです。つまり国家は権力ではなくて調整役に過ぎないものに、だんだん移行していくことが社会主義国であろうと資本主義国であろうと国家の理想なわけですソ連邦自体が調整役になって、各共和国に政治主権が移ることは悪いことでもなんでもない。そんなものはもともとそうであるのが当たり前なので、国家は調整役であるか解体してしまうか、そうでなければ僕らの言葉でいえば、開いてしまうということです。開いてしまうと言うことは、一般大衆の無記名の直接投票で国家というのはいつでもリコールできる。そういうふうになっていけば、国家はいつでも開かれている。それは一種の理想状態に近い状態であって、それは当然なことなので、何でもないんです。
つまり聞きでも何でもないことであって、それでいいわけですが、いかんせnロシアの社会主義者もそうですが、だいたい世界の社会主義者は国家社会主義者が多いです。国家というのがものすごい権力を持っていて、それが統制していないと収まらないみたいな考え方があるものですから、それを聞きと感じて非常事態宣言を発してく出たーを起こした。しかしそうではなくてエリツィンなんかに象徴される民主改革はが民衆の支持率が多かったわけで、そっちの方が実際上は勝ちをしめて苦でターは失敗に帰した。失敗に帰したと言うことは何かといったら、要するにゴルバチョフ、当時のソ連共産党の書記長を除いたソ連共産党がクーデターに失敗したと言うことを意味します。
そうなってきますとゴルバチョフは、おれはもうソ連共産党をやめたというふうに宣言したわけです。それでクーデターは失敗した。それでお前たちも解放した方がいい、解体した方がいいという通知をゴルバチョフはソ連共産党に発して、自分はいわば脱党した。ソ連共産党を辞めてしまって、権限としてはソ連邦の大統領というのだけしかないわけです。そういうふうにしてクーデター派、つまりソ連共産党に対して絶縁状を突きつけたところで、一応クーデター騒ぎというのは収束した。
エリツィンらの方は軍事力が何もないと新聞に出ていましたが、エリツィンらを支持したのはモスクワ南部の戦車部隊と空挺部隊、レニングラードの市民・労働者、それからモスクワの市民・労働者、それからソ連に大きい炭坑がふたつあるわkですが、グズバス、ドンバスという大きな炭坑の労働者がエリツィらを支持した。それからエリツィンらはアメリカに対してクーデター派を政府として認めないでくれという約束を取り付けるみたいなことをした。それが勢力としては少数はだけれど、民衆の潜在的支持率は一〇倍ぐらい多かったということで、このクーデターは失敗した。
どういうことになったかというと、ソ連共産党はクーデターの失敗を景気にして国家権力を失った。つまり国家権力の座からすべり落ちたということです。あとは日本の共産党と同じで、共産党として存立していくかいかないかは自分たちの問題であって、国家権力を掌握する事態からすべり落ちてしまった。
それからもうひとつは僕自身の考え方になりますが、国家を開かずして社会主義が可能だと考える国家社会主義の考え方ないし思想はここで終わったと、僕は思っています。あるいは日本の国家社会主義者も、たぶんここで終わっている。弾圧もなければクーデターもしないから残っているように見えますが、僕は国家社会主義という考え方は、ここで終わったと見ています。これをどう克服するかが考えられない限り、世界の進歩派、つまり国家社会主義者は生きていく目処が立たないだろうと思っています。それができなければだめだろうと、僕は考えています。つまり国家社会主義が終わった、負けた、敗北したということを意味していると思います。
それからもちろんソ連邦は一種の調整役になって、各共和国がそれぞれ独立して、独立の主権を持つようになったと言う自体がクーデターの結果です。本当ならばある期間がかかるはずなのに、クーデターとクーデターの失敗によって即座にそれが可能になったおちうことが言えると思います。この問題はひとつの重要な柱です。つまり国家というのはどういうふうになっていくべきか、あるいはどういうのが理想家ということに対するひとつの回答、いちばん新しい回答がソ連で8月19日以降実現されていったということです。
国家社会主義理念あるいは共産党に寄る国家権力の掌握をして行われた民衆の会報が、高度資本主義社会における民衆の開放度に負けたということは歴然としているわけですが、それではどうなるのが理想なのかということについて、ソ連で起こっていることは依然として回答を与えていません。ロシア共産党はもちろん一回の政治政党になったというだけだと思います。それではエリツィンらはどうなったか。一応資本主義的な市場経済に移行するということは打ち出していますが、市場経済に移行することは資本主義を全面的に謳歌して、全面的にそこに立ち返る、つまりロシア革命以前の状態の延長戦に立ち返ることを考えているのか、あるいはそうではなくて新しい自体を考えているかについては、まったく我々にはわかっていません。そういうことの模索の途中だと考えられると思います。
社会主義権で起こった問題の重要な柱である国家の問題についての一応の成り行き、治まりはいま申し上げたことですが、もうひとつ重要なことは今日の主題である農業、それから土地制度はどう移行すれば、どうなるのが理想なのかという問題があります。それに対して今まで僕らにわかっていること、一般に日本の新聞とか雑誌をよく眺めているとわかっていることを申し上げますと、ロシア共和国では農業問題である土地所有携帯の問題です。個人所有を認める、もちろん組合所有も認めるし、存続する。あるいは国有・公有という土地制度も認めている。しかし私有制度も認めるという形態に移っていくということぐらいは打ち出しています。
それがどういうふうになっていくかはまだこれからの問題になっていきますが、いままで3パーセントくらいしか認められていなかった個人所有の農地は、今度は全面的にもしそうしたいならば、それを認める。あるいは終身貸与する。つまり相続権も含めて個人の借地権を認めるというふうに移っていくだろうと思います。いずれにしても3パーセントの個人所有の土地しかなかったんですが、それが現在では少なくとも、ロシア共和国では、それに対する制限はない。永大相続権も認める。土地貸与も認めるということが現実に行われて、また移行されつつあると推定することができます。
それからカザフ共和国の例も出ています。ここでは非常に具体的なことでいうと、ここは畜産の盛んなところですが、家畜の私有を認めるということがいわれています。それから農地を国有の土地でも50年間貸す。それは相続してもいい。そういうかたちで相続権を認めるかたちが出ている。これは新聞記事、雑誌記事をよく見ていますとそういうふうに書かれています。それで例が引かれているんですが、カザフ共和国の首都の近くのソフォーズだから国有の農地ですが、そこでは940世帯あって5300人がソフォーズに属している。つまり国有の集団農園に属そているということですが、そのうち17世帯が自営農業に転嫁する書類を提出して、そういうことになっていった。それが決行うまくいったりしたので、自営業に変わりたいという世帯が50世帯以上新たに出てきているということが、新聞記事なんかに情報で出ています。農業と土地所有の問題についてはそこらへんが具体的に出ている。つまりほくらにわかる情報です。
ところで僕が見た書物の範囲内でいちばんはっきりものを言っていて、はっきりした見解を持っていて、はっきりした専門的知識も持っていてという人がソ連の国民経済研究所の先生をしている人です。農業問題の専門家ですが、その人の考え方がいちばんはっきりしている考え方を出しています。それを申し上げてみますと、かなりな程度イメージがはっきりしてくるのではないかと思います。これはチーホノフという国民経済研究所の先生をしている農業専門家ですが、この人がソ連の農業問題について発言しています。ソ連邦の農業というのは根本的に言ったら、レーニン時代の革命期における戦時共産主義の食料徴発型の農業政策がソ連邦の農業を牛耳ってきた。それが非常に根本的な問題なんだということを言っています。
ソフォーズ、国有農業とかコルフォーズ、公有農業に農業の権限があるように形式上はなっているけれども、本当を言うと国家だけが農業に対して独占的な命令権を独占的な所有権、それから独占的な起業権を把握している。言ってみれば国家独占資本と同じで、各ソフォーズとかコルフォーズとか、あるいは個人が自主的に運営していることは本当はない。どんな種を撒くかということも、国家が指定するかたちになっている。それから農産物の価格はもちろん国家が指定した価格にする。またコルフォーズとかソフォーズが自分たちの自主的な運営でやっていることはなくて、国家食料徴発型が以前として実質的にはソ連農業を支配してきたというふうに言っています。
これは別のデータでもそうですが、僕なんかが見た例だと、ソ連では農産物の3分の1がわずかに3パーセントの私有地でつくられている。ジャガイモにいたっては60パーセントが、わずかに3パーセントの私有農地でつくられているのが、クーデター直前におけるソ連邦の農業の現状です。つまりウクライナみたいな穀倉地帯を控えているのに、その農産物は3分の1くらいが3パーセントにしか過ぎない個人の農地でつくられたものだというふうになってしまっていた。それぐらい停滞している。何が停滞していたか。生産も停滞する。何を撒くかということも停滞している。それから機械農機具もどういうふうに賄うかということも停滞している。つまり全部が停滞していて、たった3パーセントの農地で3分の1のソ連の農産物をつくっているありさまになっていたというのがクーデター直前に置けるソ連邦の農業実体です。
これに対してチーホノフは、根本的には戦時共産主義時代の食料徴発型、つまり国家が欲しいと思えば何でも徴発してきてしまう。その延長線上にあったということは、とても大きな問題だったんだと言っています。あらゆることが全部停滞してしまった。たとえば農業機械をつくるところは自分たちの技術と設備に会うような農機具ならつくるけれど、農民が必要だ、あるいはコルフォーズが必要だという農機具をつくることは全然しない。自分たちの機械設備によって都合がいいやつだけをつくる。それを欲しくもないところに回してしまう。そういうかたちを取ることで、それが障害以外の何物でもなくなったというのが根本の問題だと、チーホノフという人は分析しています。
これらの歴史的な回顧の検討をこの人はしているわkですが、だいたい30年代にスターリンが集団農場あるいは農業集団かというのを強制的にやった。その強制的にやった農業集団化というのは、実質上から言えば銃剣と恐怖でそういうふうにさせた。3百万戸の農家が強制的に集団移住されたり、言うことを聞かなかったら銃殺されたり強制収容所に送られた。ほぼ2千万人ぐらいの死者をそのとき出した。結局顧みて見ればスターリンの最大の犯罪だ。民衆、とくに農民に対してスターリンは戦争を仕掛けた。それで2千万人ぐらいを殺してしまったと分析しています。それで人工的に集団移住させられて、農業を集団化したやり方は、ソ連における最大の農業問題だと言っています。スターリンがそういうふうにやって飢餓状態に達した農家、それから死者を出した農家がごまんと出た年にも、ウクライナなんかでの穀物の産物は決して飢饉ということはなかった。それであっても百万から千万単位の餓死者を出した。それはまったくスターリンの農民に仕掛けた戦争だというふうに、この人は分析しています。
この人がクーデター以後に農業改革案を出していますが、第一に、土地は農民に返した方がいいということを言っています。何らかのかたちで土地の所有権を農民に認めるべきだと第一に言っています。第二に、コルフォーズとかソフォーズは必ずしも解体する必要はないけれども、その中で知り合いの者同士、あるいは気心の合う者同士が小集団をつくって協同組合的な農業をつくろうじゃないか。それで自分たちで自主的に経営していこうじゃないか。ソフォーズ、コルフォーズの中にそういうものがあって、それを認めていかなくてはいけない。認めるべきだと言っています。もちろん個人で土地を借りて農業をやりたいというのも、また認めるべきだということを言っています。
そういう意味合いでは農業の国有、公有のかたちも含めて、あるいは協同組合経営も含めてあらゆる農業の経営形態を認めた方がいい。その中で競争も奨励し、コルフォーズとかソフォーズというのは赤字だったら自然消滅していくだろう。それは自然消滅に任せた方がいい。ソフォーズ、コルフォーズの12パーセントか15パーセントぐらいは赤字のために消滅していくだろうと考えられる。それからあと30パーセントから35パーセントのコルフォーズは、ある期間内に存続しなくなっていくだろうと言っています。そういうかたちで農民に土地を貸したり売ったり、それから所有を認めたり、相続を認めたりというかたちを取りながら、あらゆる形態の農業の経営のしかたを農民に任せるようにすべきだ。それがソ連邦における農業問題と土地問題のいちばん眼目にあるものだ、この人はそういう案を提出しています。
それはロシア共和国とかカザフ共和国でやろうとしていることとだいたい同じことであると思います。そういうのはソ連邦におけるクーデター以後の、あるいはこれを革命というなら8月革命以後のソ連邦で行われようとしている農業と地問題についての改革です。それでは自然放置していったら、資本主義社会における農業の問題と同じところにいくだろうか、あるいは層じゃないだろうか。つまりいままでのソフォーズ、コルフォーズ形態を取った経験は持っているわけですから、何らかのかたちでプラスの方に生かされていって、資本主義社会における農業とはまた違う形態を取るだろうかということは、今のところはまったくわからないところです。
本当は過度的な問題としてあるから、我々はそういうことはよく注意して、どうなっていくかというのはよくよく眺めていた方がいいのじゃないかと思います。それはあるいは資本主義社会そのものと同じ農業形態になっていくのかもしれません。なっていったらそれほど学ぶことはないでしょうが、曲がりなりにも過去一世紀近くにわたる集団農業化の経験を踏まえていることが、何からの意味でプラスに転嫁されたかたちでそれ以後の農業がなされていくということだったら、たぶん我々に本みたいなところでもたいへん参考になる。日本の農業にとっても参考になる形態が得られるのではないかと思います。
それがどちらにいくかというのは、今のところはまったくわかりません。今のところは集団農業化というのは悪であるということだけが前面に出ていて、それを何よりも解体させて、農産物収穫の形態を全部取っ払うことが最大の課題になっています。どこにそれがいくかというのは、資本主義そのものの農業形態に帰っていくか、そうじゃないかということはいまのところわかりませんし、決めることができません。これはいろいろな新聞・雑誌にその都度いろいろな情報が乗ると思いますので、それはよくよくご覧になっていた方がよろしいかと思います。それの中に参考になる分と、もしかして参考にも何にもならんよということになるかもしれません。そこのところはまだ未定であるということが、ソ連における農業土地問題だということになると思います。
人によって違いますが、僕が考えている社会主義の基本的な柱というのは3つあります。ひとつは先ほど言いましたように国家が開かれているということです。ロシア革命が成就した。それから即座に国家を解体していくのが本当なんですが、周囲の環境とか国際環境とか、さまざまな環境があってそう簡単にいかないとすれば、国家は開かれていなければいけない。つまり国家は代議士を通して投票するのではなくて、国民大衆というものの無記名の直接投票でする。その規定は何でもいいんです。3分の2以上の支持者がなかったら国家は解体する、交代するというような法的な処置自体を持っていれば、国家はいずれにせよ開かれている可能性がある。社会主義を考える場合に、それがとても大きな条件のひとつです。
それからもうひとつの条件はやはり同じことですが国家は国軍を持たないということです。国家の軍隊を持たない。どういうことかと言いますと、一般大衆の無記名の直接投票でたとえば3分の2以上の支持がなかったら軍隊を動かすことができない。そういう規定がなければ社会主義にはならんわけです。
もうひとつはやはり土地、それから農業が付随しますが土地所有制度というとこです。土地所有制度あるいは生産手段の教養制度あるいは私有制度となるわけですが、土地の公有とか国有、あるいは生産手段の公有というのは各農家のプラスになる限りにおいて認める。それと矛盾するならばやめるということです。それが社会主義の大きな柱のひとつです。
そうしますとクーデター以後のソ連邦の改革において、現在僕らが見えているところで、これは進歩だなと思えるのはソ連邦が単なる調整役に転じて、各共和国に政治主権が写される。各共和国はそれぞれ独立に国際関係も国内関係も処理していく。そういうふうになったということだけが、いまところ我々が外から見ていて進歩だと思えます。そのほかの点は依然として駄目なんです。国家というものが軍隊を動かせるなんてことはなくて、これは国民の過半数が無記名投票で軍隊を動かしていいという投票がない限りは軍隊を動かせない。せめてそういう規定がない限りは社会主義とは言えない。単なる国家社会主義にしか過ぎないということです。
国家社会主義というのはファシズムにもなるし、スターリン主義にもなる。それだけのものに過ぎない。つまり、それは別にどうということはないわけです。どうということはないというより、それは先進資本主義よりも民衆の会報が遅れているということが歴然としたというだけのことです。だけど社会主義というのは国家社会主義とは違います。だから依然としてソ連邦がそういうようになっていく可能性は、今のところよく見えていない。見えているのは、ソ連邦というものは一種の共和国間の調整役に転じた。ソ連邦国家というのがいわば機能的な役割だけをするところに転じたということだけは非常に進歩だ、つまり人類の歴史の立場から見て進歩だと言えるのは、その点だと思います。あとの点はちっとも進歩だというふうに見えてきていません。
あと土地制度・農業制度がどうなるかというのはさまざまなかたちで、さまざまな地域で、さまざまなこころみが なされようとしたり、論議がされようとしたり、混乱が生じたりということことになっていると思います。それがまたどうなっていくかは、これからを見ていかないとわからないと思います。それが現在ソ連で起こりました問題の中の非常に重要なポイントだと思います。つまり国家がどうなっていくかということと、農業問題がどうなっていくかということのふたつを、ソ連問題については注目されていかれたら、これからも間違えることはないだろうと、僕は思います。
新聞とか雑誌はその時々の話題として面白かったり華やかだったり、胸が躍ったりか知りませんが、そういうことが大きく扱われてしまいます。それに動かされていると、何が問題なのかを見失ってしまいますが、そのふたつの問題を軸にソ連の問題を眺めていかれたら、たぶん判断を間違えることがないと思います。世論と言われている新聞とかテレビの報道の傾向がどんなことを言っても、間違ったことを言っているやつと、当たったことを言っているやつはそのふたつに照らしてすぐにわかりますから、そういうことにあまり惑わされないだろうなと思います。日本の政党についても同じで、誰がどういうことについて間違って、どの政党が言っているかということはすぐに判断できるだろうと思われます。これがソ連問題についてのおよその問題になっていくと思います。
それで今度はアメリカ問題になっていきます。これはみなさんの方は半分忘れかけたかもしれないですが、平成2年、昨年の8月2日にイラクがクウェートに侵攻した。クウェートを占領したわけです。それに対してアメリカは何をしたかと言いますと、国連を通じて、あるいは直接にソ連邦の了解を取りつけて、それからフランスとイギリスの中近東の地区にかつて植民地を持っていた国とおもに語らって、イラクを海上経済封鎖し、即座に反応したわけです。また逆に言うと即座に反応できたのはアメリカだけだと言ってもいいでしょう。アメリカはフランスとイギリスと語らって、ソ連に対しては自分の国内で大騒ぎしていることもあるわけですが、とにかく手を出すなという了解を取りつけて海上封鎖をやったわけです。
その後、海上封鎖のあげくに平成3年、今年の1月15日を期限にして、それまでにイラクがクウェートから撤退しなければ武力を行使するという国連決議をアメリカが促進、つまり決議を取った。15日以降にもし撤退しないならば、何をするかわからんぞという約束を国際的に国連を通じて取りつけた。それで15日が過ぎたというところで、アメリカはイラクを攻撃しました。そして2月27日に勝利宣言をして、停戦をやったわけです。少なくともイラクがクウェートから撤退するということだけは、軍隊もその時は半分以上追い払っていましたから、そういうことだけは実現した。
これに対して日本はいろいろな反応があるわけですが、日本国政府が何をしたかといったら、一種の国連武力に対して武力強力をするという案を出したんですが、これは民衆の大反対にあって撤回した。そして結局90億ドルの戦費を援助するところで、中東戦争に対してコミットしたというか、寄与したというか、参戦したかたちになって終わった。これに対して保守は、それから進歩は両方のさまざまな反応がありましたのはみなさんも覚えておられると思います。日本国というのは憲法九条があったために武力でもって国際協力もできなかったと嘆く人たちと、憲法九条は平和憲法なんだから戦費を供与するのだっておかしなことだと言う人たちがいた。極端に言えばそのふたつがあって、その中間にはさまざまなニュアンスの論議が行なわれたわけです。
僕なんかが中東湾岸戦争を見ていて感じたことは、僕らは戦争の年代だからすぐにそう感じたんだけど、アメリカというのは半世紀たってもやることは変わらんねということです。日本もかつて半世紀前に、日本軍隊は大陸から撤兵しろということをアメリカから提起されました。アメリカは極東に植民地を持っていたフランス、イギリス、オランダと語らって日本を海上封鎖した。主に燃料封鎖ですが、石油封鎖して、もし日本が大陸から兵を引かなければ石油封鎖はいつまでも続けるぞというふうになってきました。日本国の政府は当時天皇と総理大臣が東条英機だったんですが、それはイラクのフセインと同じで「これはもうやるよりしょうがねえ」というところに追いつめられた感じで戦争をはじめた。
そうすると言い種まで似ていまして、日本はその頃天皇と東条内閣でアメリカとイギリスを鬼畜米英、鬼か獣だというふうに呼んだ。イラクのフセインはおあつらえ向きで、同じように「アメリカは悪魔だ」というふうに呼んでやっていました。僕らはどういう姿を見たかというと、アメリカというのは半世紀たっても同じことしかしないじゃないか。同じように武力の威嚇、それから経済封鎖による威嚇をやるわけだし、力でもって圧伏できるみたいなことを半世紀前と同じようにやる。イラクというのは半世紀前の日本とまったく同じことをやったじゃないの、というのが僕らが中央湾岸戦争に対して感じていた基本的な感じ方でした。当時の軍国少年、軍国青年はそれから半世紀の間に少し進歩したかどうかしているわけですから、これは両方とも駄目だよと思っていました。両方とも否定する以外にないと、僕は思っていました。そう書きましたし、そう思っていました。
それからもうひとつは、憲法第九条に戦争放棄と平和を武力に訴えないということを謳っているのだから、戦争に反対だと言うことを言っている人たちにも、僕は反対した。社会主義国の軍隊規定、それから資本主義国の軍隊規定のどちらに比べても、日本国憲法九条はだいたい一オクターブはいい項目なんです。だけで一オクターブ高いものだからキイキイ声なんです。つまり世界にこんなことを言ったって通用しない。社会主義国もいつでも動かせる軍隊を持っていますし、資本主義国も持っています。いつでもやりたけりゃ戦争する。それでもって、日本国は平和憲法だから戦争反対だ。そんなことを言ったって、誰も聞くやつなんかいやしないのに、そういう言い方をしている。それはどうしてかというと、オクターブが高いからなんです。未来性をはらんでいる理想憲法なんですが、オクターブが高いということを知らないやつがいくら言っても駄目なんです。それはもうナンセンスになってしまう。だから僕が言うならば、もっと積極的に言わなければいけない。
さしあたってアメリカとイラクだから、そんなことができるかどうかわからないけど、理屈だけから言いますと日本国は経済的な実力、特に対外援助学と対外資産は世界一です。それだけの経済大国ですから、この経済大国たるあれを使いまして、僕が総理大臣になることはないですけど、僕だったらちゃんとイラクとアメリカに行って、イラクにはクウェートに入って得られる利益くらいの金は我々が無償で貸与するから、クウェートからは撤退した方がいいぞという説得をすると思います。その説得が唯一日本が持っている実力なんです。
しかしこの実力は決して馬鹿にできない。これは対内的にはそうでもないんですが、対外的に言えば世界第一の経済実力を持っているわけです。それから世界第一の対外援助の実績を持っている。これだけの実力を持っているから、それだけは言えるんです。それだけを我々は貸与するから、返済は無期限に延ばしてもいいから、クウェートから撤退しろ。僕だったらそういう説得をすると思います。撤退させればアメリカには戦争をする理由がないわけです。だからやべるべきだ。そういう役割をするだろうなと、僕だったら思います。それだけのことくらいはして欲しかったと思うlそれはちゃんとした方がいいんです。
それを両方とも嫌だと、たとえばフセインは、「おれは金だけで言っているのじゃない、シリアなんかもやって、イスラエルもやっていることをおれもやっているだけだ。これは一種の大義名分があるんだ。だからおれは撤退しない」と言うなら、それなら勝手にすればいいじゃないか。それからアメリカだってイラクがクウェートから撤退すればいいんだ。だからやめてくれと言うのに、それでもやる。威信に関わるとか言うんだったら、それじゃあもう勝手にしてくれとすればいい。つまり我々は調停したけれども、言うことを聞かなかった……
【テープ反転】
……残念ですけども、政府にはそれだけの腕力がない。見識もないし、実力もない。社会党に至ってはもっとない。何かしなければいけないと、ウロウロと土井委員長がイラクに行ったけれど、何もしないで帰ってきた。
九条というのはやはり理想なんですよ。ソ連においてソ連邦という国家が一種の調整役に変わった。それだけは人類の進歩に寄与しているんです。それだけはソ連というのは人類に寄与しているんです。それと同じく日本国憲法九条というのは、人類の未来に対してひとつの突破口を開いているんです。だからこれに従わなければ嘘だぞ、というふうに言えばいいんです。つまり九条に従わないというのはおかしいんだ。だから各派もちろんそうだけれど、武器はだんだん減らしていけ。それはもう積極的にそうする。憲法九条は、いまのところ世界でいちばん理想的な条項だから、みんなこれに従うべきだと主張すべきなんです。
そういう主張をしなければ、平和憲法だから武力を放棄したんです。そんなことを言っているやつはどうしようもない。そうじゃないんです。これに従うべきだと言う首長をすべきであって、そこまでは進歩的な政党、社共というのはそこまでは言えるはずなんです。だけと言ったことはないですね。平和憲法だから守れとか、戦争反対、そんなことばかり言っている。そんなのは駄目ですよ。つまりオクターブが違うんだから。おまえ、現実を見ているか、社会主義国を見ているか。もっと言いますとイラクにいちばん武器を輸出しているのはソ連ですよ。イラクだけではない。世界に対していちばん目か2番目くらいに武器を輸出しているのはソ連なんです。それからソ連の輸出品目の中で一位は兵器です。
つまり、何を言っているのかということになるんです。日本の進歩はというのは「何を言っているの、おまえら」ということになっちゃう。つまり、そういうのに対して一度も文句を言ったことがない。お前ら武器をいちばん売っているじゃないかと言うことで文句を言ったことがない。お前ら武器をいちばん売っているじゃないかということで文句を言ったことがない。そういう進歩派ばかりですから、どうしようもない。だけど日本が持っている未来性で唯一の取りえは憲法九条だけです。ただ、みなさんがよくご承知であるように、これはオクターブが高いんですよね。だからこんなことを言ったって、どこにも通用するわけがない。鼻で笑われちゃうわけです。何を夢みたいなことを言っているんだと言うに決まっているわけです。だからそれは覚悟の上で、これは未来なんだから、これに従うべきだよという説得をすべきだけれども、それはしたことがない。
これが中東湾岸戦争に対する日本のだらしなさというか、駄目さです。これは自民党が今度内閣が変わってどうなるかわかりませんが、やはりそれほど変わらないだろうなと思います。少しよくなるのか知りませんが、変わらないだろうなと思います。また社旗等が政権を取ったら、なおさら駄目だろうなという気がします。つまり度胸がない。そkらへんがどうしようもない。民衆次元というか、一般次元でもっと積極的になっていくとか、一般次元で自主的になっていく。それを待つ以外に方法はないということだと思います。
さて、アメリカ問題でもうひとつ重要なことがあるんです。日米構造協議が日本とアメリカとにあるわけですが、その中でアメリカが出している日本改造案というのがあります。その日本改造案というのは全部ご覧になるとみなさんはすぐにもおわかりになるんですが、これはものすごい経済分析です。日本の経済構造・社会構造のどこに問題点があるかを逐一レントゲンで写し取るように見事に正確に分析されています。つまりアメリカにはらわたの底まで分析尽くされていると言っていいくらいやられています。これを全部話してもいいんですが、個々ではふたつ、農業関係のアメリカの日本改造案と、バブル経済と言われている問題をやりましょう。証券会社が大手顧客に株式の損倍保証を勝手にやって癒着しているというわけです。
その問題とふたつに限って申し上げます。
農業問題については日米構造協議のアメリカ案の日本改造案の中にどういうことがいわれているか。第一に農業や地方公共事業に対する援助は少なくして、それは都市とか国際流通とか交通、あるいは情報ネットワークに資金を振り向けるべきだということを第一に言っています。それから第二に農地とそれ以外の土地の評価が違うわけですが、評価の乖離を都市部では少なくしろということを言っています。どういうことかというのはみなさんの方が専門家だからご存知だと思いますが、都市周辺の農地は税金が遊閑地と比べると税金は安いんです。その手の土地評価の格差を都市部あるいは都市部周辺では少なくしろと言っている。つまり都市周辺の農地を売りやすくしろと言っているわけです。
また税金も都市部の農地に対する免税を廃止しろ。僕はよく知らないけれど、免税じゃなくて減税だと思いますが、それは廃止しろ、同じだけ税金を取るべきだと言っているわけです。それからあとは不動産なんかの移転に関する制限を撤廃しろ。もし譲渡したい土地があったら自由に譲渡できるようにして、譲渡する場合に税率も低くしろということを言っています。それはどういうことを意味するかというと、都市周辺における農地というのはいつでも自由に農民が売り払ってもいいように、つまり宅地化してもいいように、都合がいいようにしてやりなさい。つまり農民に対しても税金を少なくするとか、所得税を免税する。それから買う方に対してもやりやすいようにしなさいと言っているわけです。都市周辺の農地はもう農地として意味をなさないから、いつでも処分できるように自由にやりたい時にできるようなかたちに直した方がいいぜと、アメリカは言っているわけです。
日本能農業は現在農業人口でいえば全労働人口の9パーセントが農業に関連して存在しています。9パーセントのうち専業農家はまたその14パーセントくらいです。あとは兼業農家です。つまりこれが日本における農業、あるいは第一次産業としうものの現状です。何も幻想とか希望的観測をもうけないでいえば、労働人口の9パーセントしか農業に携わっている人はおりません。それからそのうちの専業農家は14パーセントくらいしかいません。それ以外の農家は全部兼業農家です。これで日本の農業はどうするんだということは非常にシビアな問題であるし、リアルな観測をしない限りはどうしようもないということが言えると思います。
僕は前2回でもそういうことを言ってきました。その頃はエコロジカルな主張が今よりももっと盛んな時で下が、僕は希望的観測は嘘だと思っていましたから、たいへんシビアなことを言ってきたつもりです。それがシビアな現状です。これが一体どうなったらいいんだということはものすごく大きな問題です。ただ、非常にはっきりわかっていることは、先進諸国においては農業、もっと言いますと第一次産業、あるいはもっと言いますと自然を相手にして生産する産業は減少する一方だということです。この減少する速度はそれぞれですが、減少することは歴史の必然、部名の必然であって、これを帰ることはできないと僕は思っています。基本的にはできないんです。これを遅くしたり、あるいは止めたりということは政策いかんによってできないことはありませんが、それにも関わらず文明の発達は第一次産業、自然を相手にする産業を減少させていくだろうということはきわめて自然必然、歴史必然だろう。基本的にはそうだろうということは間違いないことです。ですからこれはアメリカが言うのを肯定しても否定してもどちらでもいいわけですが、農業の問題というのはいずれにしろ残ります。あるいは農業が減少していくということは必然的に残ります。それを頭から払うことはできません。それはよくよくリアルな認識として持っておられたほうがよろしいように、僕には思われます。
日米問題あるいはアメリカ問題でもうひとつ関連があるのは、バブル経済という問題です。現在新聞種になっているのは銀行の低利子における有しということ、それともうひとつは証券会社が大口の株売買をやっている大口の業者に対して、株価が下がった場合の損害みたいなものを内緒で保証していた。そういうことがあからさまになった。バブル経済で証券会社と産業との癒着だとか、銀行と産業との癒着だとか言われて騒がれている問題です。これは日米構造協議においてアメリカから詩的されています。アメリカは日本の公正取引委員会はちっともやらねえじゃないか。株式問題についての前近代的癒着に対してメスを入れない。系列会社とか自分の得意先だけに対して有利であるとか、企業グループが自分たちだけで社長会みたいなのを開いて、そこで勝手にいろいろなことを決めてしまって、外国からの競争の申し入れに対して排他的に排除していく。そういうやり方に対して日本の公正取引委員会は何も厳格なメスを入れていないということは、アメリカから指摘されてしまっている。その問題がいま出てきているわけです。
それからサランラップみたいなので闇カルテルをつくっていることも最近指摘されて、公正取引委員会の立入検査を招いています。その手のことというのは資本主義の経済関係を透明にしろとか近代的にしろとか、合理的にしろという要求として日米構造協議でアメリカからしてキツくされている問題です。それが今、表に出てきてしまったということです。
それを明らかにすべきだと、誰が最初に言ったのかというのはたいへん問題だと、僕は思っています。決して新聞社が先ではないと思っていますが、日米構造協議でアメリカが日本の経済構造に対してあらゆるところに正確にメスを入れていますから、それでやられている。僕はそういうふうに理解しています。そこらへんはあまり声を大きくすることはできないんですが、それならば日本だって、アメリカの経済をレントゲンで写すがごとく正確に分析し尽くして、お前のところの経済はここが駄目だよ、こんなことで戦争なんかやる気になるのはおかしいぞと言えるだけの実力が日本の経済関係の研究者・学者、それから官僚・政府にありましたら、その面からだけでもアメリカの中東戦争への介入は十分阻止力はあったはずなんです。こんなんで戦争をするつもりかという指摘のしかたは十分できるはずですが、残念なことに日本の経済学者、経済関係環境がそれだけ実力がないんです。日本はめちゃくちゃに不咳し尽くされているけれど、アメリカを日本が分析し尽くしているということは経済関係だけでもないわけです。
僕らはそう感じたんですが、日米構造協議のアメリカの日本改造案が出たときにものすごくショックを受けたんです。つまり、「あっ、また負けたのか。太平洋戦争で負けたけど、また負けたのか」というくらいショックを受けました。それぐらい重要なことです。これは対等な実力でアメリカの経済のどこに欠陥があるか。どこを変えなければまいるぞということが指摘できていたら、それだけだってアメリカの戦争介入力を抑制することができるんです。それぐらい重要なことですが、残念なことに全部逆なんです。日本の方はとことんまで分析し尽くされてやられているんだけれど、日本には対等にお返しするだけの力はない。これは怠惰だといえば怠惰であって、そういうことに対して僕はたいへん衝撃的です。僕はナショナリストではないんですが、戦後一所懸命になって軍国主義青少年時代の自分を反省して、どこが駄目だったのかというので一緒懸命勉強して、どこにも負けないぞというふうに一所懸命やってきたつもりなんですが、こういうのが出てきてみると衝撃を受けてしまいますね。これは駄目だよというふうになってしまいましたね。たいへん衝撃でしたね。だからこのことは今後の日米問題は非常に重要だと思います。
だからバブル経済問題で日本資本主義が駄目になる、なんていう希望的観測なんかいっさい持たない方がいいですよ。だいたい資本主義が駄目になってどこにいくつもりですか。ソ連よりもいいいき方をやれる人なんか日本の進歩主義者、社会主義には1人もいないです。だからこれが駄目だと言ったって、どこにもいきようがないわけです。バブル経済というのはどうして起こってしまったのか。だいたいアメリカに指摘されたって、おまえの方はアメリカに指摘できたかといったら、できていない。それでは前にもいけない、後ろにもいけないというのが日本の現状だと、僕には思われます。
つまり希望的な観測で、これなら日本資本主義が潰れるみたいに思ったらとんでもない間違いです。新聞の中に救っているおかしなやつらはそういう記事を書きたがるけれど、そんなのは絶対に嘘ですよ。バブル経済の問題は、アメリカはとうに言っているわけです。だからこれでもって日本資本主義はどうなるなんて、喜ばない方がいです。希望的観測には絶対にならないです。要するにこれだけ駄目なんだよと。日本資本主義は退くことも駄目だし、先にいくこともできない。そういう状態に現在あるんだという現状認識を非常にリアルに把握した方が、僕はいいと思います。そうじゃなければいけませんよ。
どこかに希望があるみたいに振りまいている連中はたくさんいますが、そんなのは駄目です。それからアメリカに従っていけばいいみたいに思っている人もいます。しかしアメリカに従っていったって、悪いとは決して言いませんが、こんだけやられて、「お前いいのかい」と言われて、「いいや、やられても何でもいいよ、繁栄すればいいよ」と言う人もいるかもしれないけれど、それはなかなか人格的に困難なことです。やはり悔しい。何とかならないのかと、他人に頼むわけにいかないけれど、せめて自分の分野くらいは何とかなるんだよ、どこにも負けやしないんだよというところまで移行じゃないの。そういう気力は出して欲しい。希望的には、僕はそう思います。
それだけの問題はもう確実に出てきてしまっている。前にもいけないし、後ろにもいけないというようになっている。だから結構なあなあのところでお茶を濁していこうじゃないのかというのが、日本の現状だと思いますが、そういうところに日本というのは入っている。それはきちっとしておかなければいけないのではないか。僕にはそう思われます。
さて、日本の問題に入っていきます。過去2回日本の農業問題で言ってきたつもりですが、同じことは言いたくないですから違うことを指摘してみたいと思います。ここに非常にリアルに問題があって、コメの自由化問題というのが起こっています。自由化反対論議から自由化賛成論議までさまざま起こっているし、また日本のコメ市場内部からはそれぞれゴタゴタが起こっている。みなさんのところにもきっと起こっているだろうと思います。コメの自由化問題というのはどうしたらいいのかというのは、現在政権を担当している連中が自分たちの責任で決めればいいわけで、われわれはそんなことに責任を感じることは何もないわけです。ないわけですが、ないという八二を逸脱しない限界内でいろいろ申し上げてみたいと思います。
ここにコメが自由化された場合にどういう影響を呈するかということを試算したパンフレットがあります。それは東大の森島賢という先生たちがつくっているコメ政策研究会というのがあるそうです。僕は知りません。ただ、そのパンフレットを読んだだけです。そのパンフレットで、コメの自由化が現状でなされた場合にどういうことが起こるかという計算をしています。まず値段の問題で、現在の日本のコメのコストはアメリカと比べますと6倍から7倍高いです。品質を借りに同じぐらいと考えて、日本のコメは7倍から6倍高い。
これが自由化されるとします。自由化されれば、日本のコメはもちろん現状から去るほかないわけです。アメリカの方が安いわけだし、ほぼ同じような品質で安いわけだから、それが自由に入ってきたら日本のコメのコストが下がるだろうということは誰でも予想できる。試算したので借りに50パーセントのコメのコストの低下に耐えられる農家は三・一パーセントであって、あとは耐えられないという計算をしています。それから仮に60パーセント値段が低下したとすると、それに耐えられる日本の農家の戸数は全体の0.3パーセントだ。大部分はコスト低下に耐えられないだろうと計算しています。
それから現状の農業技術を仮定して、農業技術の進歩だけによって、コストはどのぐらい下げられるか。西暦2000年に6.5パーセントなら下げられるだろう。それから2007年に9.5パーセント、2010年には10.8パーセントなら下げられるだろう。つまり現状の技術だけに依存したとして、そのぐらいまでなら下げられるけれど、半分下げるのはとても技術だけでは無理とうことになります。
それにともなって今度は作付けの規模を広げるとすると、農地の規模は現在を0.9ヘクタールと仮定して、だいたい2000年になって19.31ヘクタール、それから2007年に14.2ヘクタールです。それから2010年に12.5ヘクタールの規模に大きくすればいいということでしょう。だから12パーセントから10パーセントぐらいまでを現状よりも作付け規模を大きくすれば40パーセントのコスト低下に耐えられるという計算をしています。そのほかの計算もしているんですが、主なことはそのぐらいのところです。
それでこのコメ政策研究会は何を言いたいんだろうとういことになります。そのときに確実に言えることは技術的な進歩、農業技術の進歩と農業の大規模化ということは、お米の自由化を前提とすれば不可欠だおるということだけは言っていると思います。つまり技術を発達させることと、農地を何らかの意味で大規模化する。そういうことをすることは、まず誰もが昇任できる不可欠のことではないか。そういうことをこれで言っていると思います。
そのほかの論は人さまざまですが、僕は言えていないだろうなと思います。たいへん悲観的な観測をしていますが、ほのほかのことはいろいろな意味で言えていないなと思います。だからこれだけ読むと、自由化したら地獄だというふうになりますが、僕はそうは思いません。そのいちばん大きな要因は、こういう統計はいつでもそうですが、農家の主体がどうなるかということを何も感情に入れていないわけです。つまり農家自身がロボットになっていることを仮定しないと、こういうことは言えない。人間ですからそれにどう対応するか、あるいはどういう工夫をしてこの競争に耐えるかみたいなことがあるわkです。そのことがここにはちっとも入っていないから、これだけ読んで普遍かすることはできないということが、僕の考え方です。
ここで言っていることで確実なのは、技術進歩と農耕地の大規模化ということが、誰が考えてもこれからの大きな課題になるだろうなということです。この手のことに対しては反対のデータも出せるんです。貧困から離脱するためにはどうしたらいいのかというと、農業をやめればいい。そういう一種の経済的な公理があります。農業をやったら貧乏しますよ。貧乏から解放されるには農業をやめたほうがいい。そこの問題になってくる。
だから言うんですが、このコメ政策研究会を真に受けて、それでは農業をやろうというのがいいかと言ったら、僕はそうは言いません。公だったらまだ多少婉曲ないい方をするだろうけれど、たとえば僕の親戚が農業をやっていて、「うまく行かないんだったらやめちゃえやめちゃえ」と言うと思います。親戚じゃなかったら責任問題になるから言わないけれど、貧困から離脱するには自然を相手にする生産業から離脱するのがいちばんです。あるいは離脱する以外にないというデータがまた一方ではあるんです。
しかし農業と言うのは必ずしも自然を相手にする産業か、天然自然が相手の産業かというと、そうとも限らない。農業というのはハイテク化することもできますし、製造工業化することもできます。いくらでもできるんです。だからそれはここにいう技術的進歩という問題に入っていくと思います。
いつまでも魚が入ってくるのをつかまえるんだ、公海といってここから入るなと言われているのを内緒で入って、魚が泳いでいるのを捕ってきて、それが漁業だと思っていたらとんでもない間違いです。マグロの習性はこうだというのがわかってきているわけだから、回遊路をつくってしまうことはできる。漁業だってそういうようになっていくに決まっているわけです。人工ふ化するとか、回遊路をちゃんとつくってしまう。いつまでも魚が泳いでいるのを見つけて捕ってきて、そんなばかなことを漁業だと思っていたら大間違いです。必ずしも天然を相手にする産業だからいつまでもそうだということはないそれを高次化することはできるわけです。それは技術の問題です。
非常に簡単なことで言えば、昔、19世紀末の経済学によれば空気とか水は有用なものだけれど、これはただであって交換価値はないんだというのが一種の原則としてあった。しかしいまはそうじゃないんです。みなさんだったら長岡の減水とか何とかを出したりしているわけでしょう。天然の水だってちゃんと商品になってしまう。天然の水は使用価値、使う時に有効なものだけれど交換価値あるいは価格はないんだというのが旧資本論の基礎的な常識ですが、今ではそれが商品として交換価値がある。
それは何を意味するかというと、天然を相手にする産業が一次元高次化したことを意味します。魚だって同じです。泳いでいるのを捕ってきたらいつまでもいいと思っていたら大間違いです。それでは減っていくだけだから人口ふ化もすすり、魚の性質は水産学でわかってきているわけです。回遊路をつくるにはどうしたらいいかわはわかっているわけだから、それをやって魚を捕るというふうになるに決まっている。そうしたら天然を相手にする産業だと必ずしも言えないわけです。それは技術の進歩によるわけです。ですけれども旧来的な意味でしたら、貧困からリだ鶴唯一の方法は産業を高次化すること、高次産業に従うことなんだと言うのは、経済が苦情のひとつの公理にみたいにしてあります。
それを曖昧なこと、いい加減なことを言う人が多すぎるわけです。だけど本当に対応して方法を見つけていかない限りは、やはりそうなってきます。日本の農業も自給率は0.7パーセントから0.4パーセントぐらいの間をうろうろしているわけです。それで米の完全時給かとか、そんなことばかり言っている。冗談じゃないんですよ。時給かと言うのは、社会が高度かすればするほど減るだけです。だからそんなことを言っていてもどうしようもないのに、そういうことを言っている。そんなんじゃないんです。だんだん自給率も減るわけです。
完全時給かというけれど、すべての国家は同じような土地に国家をしいているわけはないんです。国境を定めているわけではない。地味の豊富なところ、地域も膨大にある。そういういところを国家としているところもあるし、日本みたいな山間と海の間の平らなところで農業をやっているところもあります。大陸みたいな広い農地でやっているところもある。それも国家を定めたところの地勢・地域で違うわけです。そこの全部に農業の自立化・完全自給を言うのは意味がないんです。文明が高度になってくれば、自然を相手にする産業がだんだん減っていくことはどうすることもできない。これは歴史必然であるし、自然必然です。
こういうことについてはよくよく考えなければいけないわけですが、表に自給率とありますが、八九年度の日本の自給率は熱量でいえば48パーセント、主食穀物で68パーセント、農産物全体の送料で30パーセントが日本の食料自給できる。それが現状で、これはだんだん減っていきます。増えていくことはありません。減っていくというふうになっています。
まずその点のデータがひとつああります。都市の人口規模と各産業のパーセンテージとの割り振りのデータがあります。第一次産業は農業とか漁業とか林業です。それから第二次産業は製造業とか建設業です。第三次産業は流通業とかサービス業とか、娯楽業とかそういうのが第三次産業です。
そうすると都市の規模と産業の構成との割り振りがあります。仮に長岡としますと長岡の第一時産業、つまり天然自然を相手にする産業の人口比は20パーセントから三十数パーセントです。もう少し違う表をみますと、第一次産業が全労働人口のうちの20パーセントから32パーセント、つまり長岡的になったところでは、人が増えてくるというのと減っていくという人口流入の超過がだいたい0パーセントから5.1パーセントになります。つまり長岡というのは僕は知りませんが、このデータで判断すれば人口が笛もしなければ減りもしない。増えているとしても、ごく少数増えている。こういうのがデータから判断する長岡の現状だと思います。
この人口流入と第一次産業、農業なんかの人口比がこの割合だとすると、どういう規模の都市だったら妥当か。表に赤いので四角にしていいますが、第一次産業が27.3パーセントからその次の40.1パーセントの間です。要するに長岡というのは人口規模が3万から10万人ぐらいだったらいいのじゃないでしょうか。しかし、20万近くあるんですよね。
そうしたらおかしいんです。長岡というのはどこかおがおかしいんです。長岡市というのは非常にエゴイズムを発揮して、おれのところだけひとり富んでやろう、なかにいる市民も金持ちになって少しよくなろうと思ったら、どこかがおかしいことになっています。データだけのことから推理できることは、第一次産業のパーセンテージを減らせばいいということだけは、このデータから歴然としています。
10万から20万の都市の規模にするためには、いまの20から30パーセントに対して第一次産業を16.4パーセントぐらいにすれば悪くないという圏内にいきますということは、このデータの上からだけは言えます。だけどあとはみなさんの方がよく知っていると思います。冬は寒くて交通事情が混んでいるとか、農家の人はこうとか、いろいろあるでしょうから、それはみなさんのほうが判断されるべきことです。
ただ、僕らみたいな者がデータの上から推理するだけで言えることはそういうことになります。そういうことがまたひとつの経済技術的なというか、経済工学的な通則として言えるということが一方にあります。ですからよくよく幻想とか先入観に惑わされないで、リアルに考察していかれたほうがいいのじゃないかと、僕には思われます。
日本の農業の問題の中には技術的規模、それから作付けの規模が、改善と同時にどうしてもそうせざるを得ないんだということと、どこでそういう判断を振り返れるかということは、とても大きな問題になるのではないかと思います。これもごく最近の新聞記事に出たことですが、現在農水産省が主体になって、農業の大改革をやろうとしているというが出ています。それはどういうことかと言いますと、新聞のうたうところによれば、戦後の農地改革につぐ重大な改革で、それが農水産省案として検討されつつあるという記事です。
それはひとつは農業地域で制限されていることですが、農業の主体を農家から企業、法人に広げる。それによって農業規模を拡たいしたり、新規の農業に入ってくる人口を伸ばしていく。そのために農家だけではなくて会社法人にも農業ができるんだというようにして、経営規模を大きくすることがひとつです。これはどういうことを言っているかというと、資本力を農業経営の中に自由に出入りできるようにして、資本力で農業を大規模化したっていいというように農地法を変えようじゃないかということだと思います。そうすると先ほど言いました農地の大規模化を促進するという問題に入るわけですから、これは誰が見ても妥当だということになりそうなわけです。
ところでこれが妥当だと言うことはいいんですが、やはり資本力が大きい奴が農業を大規模化することになっていくわけです。その面の不合理が同時に出てくると思います。たとえば国際的なアメリカのコメ自由化でも、それに対応できるような規模をつくることはできるでしょうが、同時に大資本農業の資本主義化というか、大規模経営化が起こってくる。その面の弊害は工場とか製造業が、かつてしこたま体験したと同じような弊害をやはり体験するかもしれないことになっていくように思います。これはわかりませんが、対抗できる唯一の方法は、やはり自分たちが共同出資したりいろいろな手を考えて、自分たちだけでそういう規模をつくってしまうというやり方が伊いつ対抗できるやり方だと思います。
しかしいずれにせよ自然の勢いとしていけば、大規模化ということ自体は悪でも何でもない。このように農地法が改革されて資本が農業経営に入ってきて、大規模化するということだけは確かだと思いますが、それで起こってくる弊害はやはりたくさん出てくるから、やはりそれは自立的な共同経営みたいなやり方を何とか工夫していく以外に、僕にはちょっと考えられないような気がします。そこはみなさんに課題として残るのじゃないかと思います。
それから今までのようにコメの減反というものに政府が介入したり強要したりすることはやめにするというkとが、そのなかにひとつ出てきます。それは各農家の自由な自主的な管理に任せるということです。これはもうひとつ違うことと関連するわけですが、減反に応じた農家だけに政府が保護価格を保証する。しかし別に減反に応じずに、自由にやっていく農家は、いくら自由にやってもよろしいというふうに改定する。農水産省が現在掲げているのは日本の第三次農業革命ということになるわkですが、農水産省がもっている農業革命の柱はそのふたつです。
つまり減反政策を一律にしない。一律にすることをやめようじゃないか、それは自由に任せようじゃないかということと、もう一方では企業みたいなものが農業に介入してくる。それで農業を大規模化していく。あるいは資本力を使ってもっと高度技術かしてくることを許すようにするのじゃないか。農水産省がいま練っている第三次の農業革命の案はそのふたつに帰するわけです。この案というのは、一面では肯定するよりしかたがないと思えます。つまり反対する理由はちっとも内。しかしこれはいかんなというのは、農家も意地があるし、農業についての理念とか思想にもそれなりの意地というものがある。
やはり自分たちが個人単独で耕して収穫していたのを、何人かでもいいから一緒に出資しあって、少し大規模化しようじゃないかということを自発的にやっていくことが、唯一の対抗案じゃないかと思います。その観点から農水産省が考えている案は認めてもいいと思いますが、そこの点はやはり問題のあるところです。そこでならば、もっと重要な第三次の農業革命ができるんだということが辛うじて言えそうな気がします。いずれにせよ日本の官庁自体がすでにこういうことを考えはじめているということはあるわkですから、その辺のところは、それを超えていく考え方は農家自身が出していく以外にないし、またやっていく以外にないのではないか。そうでなければ追いつめられていくと思います。
お米の自由化に伴って追いつめられ、もちろん黙っていても農業の割合は減っていく。また減っていくことは、それ自体は経済的な法則から言えば決して悪いことではないということにもなりますが、そういうふうに任せていったら、それに応じていく以外にないことになってきますから、どこかでそうじゃなくて自主的に対応できる方法があるとすれば、そういうようなところでいちばんやりyほうが残されているということが言えるのではないかと思います。
そうすると日本の農業が当面している問題も、ソ連邦が当面している問題も、それからアメリカは農耕地が非常に広くて、大規模でかつ比較的安く農産物を収穫することができますから、アメリカにとってはそんなに悪いことじゃない。いまのところは悪いことではないんですが、一方から言えばアメリカの農業もパーセンテージからいうとものすごく減っています。刻々に減りつつある。だからそれほど長い間安泰でも何でもないんですが、いずれにせよ農業というもんだいが 当面している問題は、たぶんアメリカでもソ連でも日本でもそんなに変わらない問題だと思います。
そうると国境障壁がだんだんなくなっていけばどういうことになるかとうと、たとえば第三世界みたいなものとかアジアの一角が日本の農耕地として残って、いまの先進国は農業からだんだん離脱していく。そうすると一方の第三地域が農業を担当し、それ以外の知己は製造業とか流通とかサービス業とか、そういう方向にどんどん移っていくことになっていくのがもっとも歩むべき未来の世界的なイメージだと、僕には思われます。
そうすると先ほどの原則公理によりまして、農業をやっている第3世界とアジアのある地域は貧乏であって、それ以下のところはいい気持ちになって富んでしまうということになります。しかるにそれを同巣人んだと言うことになりますが、僕はそれは先進地域が贈与する。無償でもって経済的な資金とか高次な機械類とか生産手段を第三世界とか農耕地帯に提供することになっていく以外に、僕はないように思います。そういうようになっていくあり方が、未来の可能性としてはいちばんあるような気がしています。
贈与ということはただでやるということですが、ただでやるということは、決して空想的なことではないということです。先ほど言いましたように、湾岸戦争でイラクに対して、クウェートに入って得する金ぐらいはおれのところで提供するからというふうに、日本なら日本が提案することは決して架空なことではない、空想じゃないんです。そういうふうになっていくと思います。これから後になっていくと、後進地帯と言われている第三世界とかアジアのある地域が穀倉地帯になって、世界のほかの国はほかの産業が主体になっていく。そうすると貧富の格差がどんどん大きくなって、農業をやっているところはだんだん貧乏になっていく。そういうようになっていくことは確実だと思います。それは贈与によって補う以外に方法はないというふうにだんだんなっていくような気がします。
既にある部門ではいまの先進国は日本もそうですが、第3世界とかアジアのある地域に借款で貸していますが、それは贈与とほとんど同じです。帰ってくる気遣いはまずないというぐらいのもので、贈与と実質上同じだけれど、本当の意味で贈与ということが、きっと問題になってくると思います。湾岸戦争における日本の立場というのは、いろいろな意味でそういうことが試みられるべき一種のチャンスだったけれど、残念ですがチャンスだと思える人たちがいないわけだから致し方ないということだと思います。だんだんそうなっていくと思います。
農業問題に関する限りはそんなに異なった問題はない。国境があるから多少異なって見えますが、それは国家を開いてしまえばそんなに異なった問題にならないというところに、農業問題はきていると思います。どこの農業問題を眺めていても、たぶん自分たちの参考に供することはできると、僕は考えます。それは現在農業問題の方から見た世界の問題のいちばん肝要な……
【テープ終了】
(質問者)
自然相手の産業、特に農業の退化というのは必然的だとおっしゃっていましたけど、それに対する世界各国の市場経済というところではだいたい保護政策をとっているのですけど。それはやはりしょうがないわけじゃないんでしょうか。それと先生のおっしゃったあれとどういうあれがあるのか聞きたい。
(吉本さん)
存続している限りはしょうがないんじゃないかと僕も思います。例えば、イギリスだと農業はたしか2%なんです。日本はまだ9%ぐらいあると思います。2%が、たしか農業人口が現在、世界でいちばん少ない国だと思いますけど。だから、逆にいいますと、そこらへんくらいまでは、農業の人口というのは下がっていく可能性があるということを意味すると思います、逆にいえば。
そうすると、それをどうするんだという、おっしゃるような保障制度あるいは補償金みたいなもので補っていくというのは、いずれにせよそれでいいのでしょうけど、根本的な解決には何もならないんじゃないかなというふうに、ぼくにはおもいます。
ぼくが、自分が農政担当の責任者だったらもう少し一生懸命考えて、違うことを考えるかもしれないですけど、ぼくが言える範囲でいえば、それは一時的な解決にしかならないんじゃないかという、それからどうしても前例があるように、農業というのはどうしてもなくなっていくというところまでいきますよというふうに考えたほうがいいと僕には思います。
(質問者)
昭和30年の半ばにかけて農業の協業化というのが農林省で大変推進されていましたけど、それがほとんど失敗したわけなんです。そういう集団とかいわゆる大規模というもの、そこに頼らず稲を分けるんだけど、それもだいたいダメなんです。集団化すると色々言い分が出まして、みんな解散したりして。
(吉本さん)
おっしゃっていることは、農業あるいは農家というものは、集団で共同経営するとか、有限会社みたいにして経営することに慣れていないということですか。それが失敗の原因ですか。
(質問者)
嫉妬とか妬み根性とか、そのなかで当然リーダーがいるわけです。いわゆる社長です。そういう問題がありまして。
(吉本さん)
そうすると、製造工業なんかの経営に慣れた人が指揮として、リーダーとして入っていくことは必ずしも悪いことではないとお考えになりますか。
(質問者)
そうですね。
(吉本さん)
先ほど言いました農水産省のあれだったら当然そういうふうに考えていくと思います。企業家の人が指揮をとって経営能力をさげて入ってくる、その人に対してそれをとらせるという、そういうことを予想していると思います。それでも大規模化ということと技術的な進歩ということの両方に対して、決して悪くはないんです。いいことだと思います、悪くはないです。
ただ、今度は逆にそれじゃあそういうことについては、100年近くの間、歴史は企業競争というのをやってきまして、どこが欠陥でどこが良いのかということについて十分経験があるわけですから、それに対して、企業が入ってきてもその欠陥だけは、つまり、製造業で繰り返してきたような欠陥だけは繰り返さないみたいな、そういうことが考えられるのはいいと思いますけど。それができればいいと思いますけど。企業が入ってきたっていいと思いますけど。
それができないと、そういうことについてなら都会の製造工業で散々ぱら、雇人と雇われ人の間とか、雇われてお互いの間の問題とかもいっぱい経験は積んできているわけだから、その経験が農業や漁業についてまた始まるということは避けられないと思うんです。それに対して、かつて経験したことですから、少しは違うあれができないかということは、工夫の余地といえば工夫の余地だと思いますけど、ぼくはそれでもいいと思います。
(質問者)
日本の農家は、農業が根底に、それによって農業をあてにしたのが強いわけじゃないでしょうか。農業の崩壊を防ぐために、大規模だけでもって、それを支えられるのでしょうか。
(吉本さん)
ぼくは、自分が実感をもってそれを言えないので、なんともお答えにならないのですけど、そのことはたとえば、日本の農業が始まったのは公式でいえば、2000年ぐらい前で、非公式であればもっと前かもしれないですけど、そのくらい前に日本の農業というのは始まったと思うのですけど、その始まった当初だってやっぱりそれは言われたんじゃないでしょうか。それまでは野原に生えてる草を、あるいは実を採ったり、山の獣を獲ったりして、それを食っていたんだけど、平地を耕して種を植えるという発想を農業の人が最初にしたわけです。
だから、それ以前の人はあんなふうにしてと思ったんじゃないでしょうか。自然を人工化したわけですから、野原だったのを農地にしちゃったわけだし、山の獣を獲って食ってたら済んでいたのを、わざわざ農地を耕して種を使ってあれしてというふうに人工的にしたわけですから、そのときやっぱり日本でいえば、縄文時代の狩りやなんかで食っていた人たちと、農耕の人たちの間には、一律な田んぼがあって、お前のは人工的でダメだとか、そんなことをしているからお前らはダメになっちゃうんだとか、そうとうあったんじゃないでしょうか。
ぼくは、その時にウィルスが蔓延して、狩りばっかりやっている人たちはだんだん滅んじゃったとしていますけど、ぼくはそれを信用していないので、やっぱり、こんな人工的なことをして自然を傷つけていいのかという論理と、そんなこと言ってるから食いっぱぐれちゃうんだという論理とが、やっぱり戦って、一方は追い詰められちゃったんじゃないかなと、ぼくはそういう気がするんです。
(質問者)
もうひとつお伺いしたいんですけど、食糧安保論という問題なんですけど、主食とかそういうものを他国に頼っていいのかと。
(吉本さん)
食糧自給論の根本にはそれがあると思うのです。それが国家社会主義だというふうに思うんです。国家社会主義という考え方を捨てられないというか、そこから脱却できない人は考え方がどうしてもそうなるんです。それじゃあ戦争になったらどうするんだと、おまえは戦争やる気かと、一方では戦争やめましょう平和憲法だと言っておきながら、お前は戦争やる気かということになるんです。
だから、それは国家ということがものすごく頭にある人と、国家というのはそんなに大したものじゃないですよと、特に民族国家というのはそんなにたいして強固じゃなくていいんですよと、日本人は単一民族というけどそんなことはないです。日本人と同じような顔をしているのはソ連の共和国にたくさんいますし、ようするに、日本人面しているけどぜんぶ違うという、単一じゃないんです。
それでこうなってきたので、あまり、民族国家というのに固執しなければ、そんなに食糧安保論議というのは成り立たないと、ぼくは思います。つまり、いいじゃないですか、そこで売らないならあっちで買ってくるさというだけのことであって、それだけのことじゃないでしょうか。
つまり、どうしても国家と国家との対立を考えると、そういう考え方が拭いきれない、どうしてもそうなっちゃうんです。だけど、そんなに根底ではないんです。あなたはどうかわからないけど、ぼくはいま67か8だと思うんです。いわゆるあれで分けると戦中派なんです。ぼくらは大学生の途中だったけど体験しているんだけど、そのときに敗戦ということになったんです。
敗戦になってから厳密にいって数か月間は政府がいなかったんです。誰もなり手がいないわけだから、誰がなっていいのか、なったってやっていいのかいけないのか、命令していいのかいけないのか、それもわからないので、占領軍の意向は我々だからわからないから、誰も政府になり手はいないし、だけど3か月間何も食わないでいるわけにもいかないです、一般大衆たるものは、だから、ぼくらはある限りの金を集めて、東京、千葉がいちばん多いのですけど、買い出しに行ってお芋買ってきて、帰ってきてそれで食べて、金がもっとなくなってくると、少し余計に買ってきて、それを近所で物々交換で交換してもらったり、どこか市場に出して勝手に商売したり、売り飛ばしたり、とにかく、政府になんてなくたって食えるというか、食っていけます、人間というのは。
つまり、政府というのは、国家といってもいいですけど、そんなに大変なものじゃないという感じ方を僕はそのときに学んだような気がするんです。あんなものなくたって、誰もやり手がなくたって、人間というのはちゃんと食っていくんだなという体験をそのときにしたんです。ぼくは国家に対する考え方というのは、ずいぶんそれで変わったように思っているんです。つまり、それはそんなに重要な問題じゃないです。
それからまた、今度はあまり国家主義者みたいに、もしくはこうでなくちゃいけないとか、そんなにムキになるほどのことはないものだというふうに僕は思っています。それは先ほど言いましたように、国家というのは、あんなことをやっている奴はみんなリコールして変えてしまえと思ったら、投票して変えてしまえば変えられるという、また違う奴がなればいいんです。
そんなことしたら政策がどうなんだと思うけど、そんなことはないんです。政策やる奴は事務官僚でちゃんといまして、政務官僚というのはいなくたって、ちゃんと政策ぐらい続けてやっていけるというのはあるんです。だからいまだって、宮沢内閣か知らないけど、誰が何大臣になるなんて、こんなことやったこともない奴が文部大臣になったり、関心もない奴が平気でできるわけです。それはなにかといったら、やっぱり、事務をやっている官僚というのが文部省にいて、それはやることがそんなに変わっていないからです。できるんです。それくらいそんなにたいして重く見なくてよろしいんじゃないか。
つまり片一方で、平和憲法で戦争は絶対反対と言いながら、片一方で国家と国家が喧嘩したらどこから食料を持ってくるんだとか言っている論理は成り立たないと僕は思いますし、ぼくは全然そう思っていません。仮にそうなったら他で買ってくればいいよとなりますし、そんなに大きな問題じゃないんじゃないでしょうか。
ただ、ようするに通念としての民族国家というのは一世紀半以上、強固に作られてきましたから、これに対する思い込みというのは随分ありますから、ソ連の共産党は徹底的にクーデターをやるくらい、ソ連国が各共和国の調整役になったっていいじゃないのとか、かえってそのほうが国家としてはいい形なんだよという、それは承認できない。やっぱりクーデターをしたぐらいだから、だから、たいへん国家というのは頭の中では重くなっているんですけど、実質上はそんなに大したことはないと考えたほうが僕はいいと思っているわけです。経験上もそう思います。
だから、クーデターが失敗して新連邦条約というのができましたから、そうすると、それだってソ連邦はどういうふうに外から見て変わったのといったら、べつにそれほど変わっていないです。もちろん、中から見るとずいぶん変わっているんですけど、外から見て、やっぱりゴルバチョフは大統領だしというふうに考えれば、そんなに急に何かが変わったということはないと思うんです。ほんとうは大変な変わり様なんですけど、いっけんすれば別になんでもないという、そんなにクーデターやってビックリしている分だったらマルじゃないのということがあると思うんです。だから、ぼくはその論議は、日本の進歩的な人たちというのはそういうふうに考えますけど、それは全然ぼくは成り立たないと、ぼくはそれは違うというふうに考えています。よくないんじゃないでしょうか、そういう考え方というのは。
(質問者)
農業問題とは直接関係ないんですけど、ソビエトの8月19日、20日のクーデターの後、8月26日の新聞でソビエトの担当がゴルバチョフ大統領命令一本で退散してしまいまして、新聞を見て私自身はショックを受けまして、ソビエトと反対みたいに言いながら生きてきたのに、これがなくなっちゃったら後は、誰の○○しながら生きていけばいいのかという問題があって、私みたいな人間でも10何年ぐらい、民衆革命が起こって、ソビエトとか東ヨーロッパに民衆革命が起こって、下から民衆が立ち上がって潰れてしまうだろうぐらいはわかっていたんですけど、いったんあのような事態が起きてしまいまして、すべてなくなってしまったときに、具合が悪いというか気分が悪くて、周りの事を見回していたら、小林まさよさんとか、幸福の科学とか、信仰問題とか、男女問題のところに世間の関心がいっていると、アメリカもそういうことで、一生懸命、社会全体が大きくそっちのほうに関心がずれちゃって、私が生まれた年の1953年のスターリンが死んだ時のスターリニズムみたいな、世界がそれで震撼するということが何もなくて、スーッと何もなかったかのように続いてきたことに対して、なんだか○○を失ったような感じが、私みたいな○○。これはマルクスの本なんかを一生懸命読んできた僕自身の無法性とは私は思いませんけど、東ドイツなんかでもマルクスの銅像を引き倒して、マルクスまでは引き倒してませんけど、レーニンの銅像までは引き倒されてしまったという事態はあって、ペンキで各国の労働者たちよ私を許してくださいとか、こういうことを書いてあるという状況があって、これに対して自分が確かに引き倒した民衆のほうが大好きですけど、しかし、自分がマルクスを読んできたこととどういう関係になるのだろうか、わからなくなってしまいまして、吉本先生はどのようにお感じになったのか。世界史の大きな構造の転換点だったのか。
(吉本さん)
ぼくは基本的にはロシアのマルクス主義というのは、いってみれば、エンゲルスから始まって、レーニン、スターリンというふうに始まって、なってきたんですけど。つまり、ロシアの中心に展開されてきたマルクス主義というのは、ここで言いましたけど、基本的には国家社会主義だ、あるいは社会国家主義だというふうに思っているわけなんです。
だから、これの解体ということ、つまり、国家権力から揺れ落ちてしまうということ、でも、たぶん共産党はなくならないと思うんです。日本でもなくなりませんけど。ソ連だってなくならないであるでしょうけど、ただ、国家権力から外れちゃったということだと思うんです。これは大激動だといえば大激動だと、かつて歴史上あったことがないほど、つまり、ぼくらの生涯だったら、こういうことは、まず生涯のうちにありえないかもしれないなと思ったけれどありえたわけで、それぐらい大激動だと思いますけれど、これを基本的にいえば国家社会主義の敗れたというふうに僕には思うんです。
つまり、なにかというと、これはマルクスもそうですけど、レーニンの理論を読んでも、結局、革命もいいし、労働者、プロレタリアの革命というのもいい、独裁もいいと、だけれども、国家の権力を握ったら、それはすぐに翌日からでも国家を解体していくという、その工作をとれば、かろうじて社会主義というのは成り立つというのが、マルクスとか、理論的にいえばレーニンの考え方だと思うんです。
ところが、これをしかし、国家というふうに半世紀近くも維持しちゃったのだから、これは社会主義であるはずがないとなるんです、理屈上は。だから、それは誰が悪いといったらロシアが悪いので、つまり、レーニン以下のやり方が悪いということになるわけですけど。今度はやり方が悪いというけど、しかし、それならすぐに国家を解体してしまうことなんかできやしないじゃないか。なぜならば、周りを取り囲んでいるのは、やっぱり国家主義であったり、それから資本主義であったりというのだから、これに対抗する国家というのは維持せざるを得ないというのが、たとえばレーニンの考え方だと思うのですけど。
だけど、そうだとしたら、国家を開けるといいますか、いつでも開くという形というのだけは取っておかなければどうしようもないわけで、社会主義にはならないのです。だから、これは社会主義ではないので、国家社会主義なんです。ロシアもそうですし、中国もそうですし、キューバもそうですし、これは国家社会主義なんです。国家社会主義というのは、日本の例がよく示していますように、たとえば、ぼくは戦中派だからよく知っているけど、戦争中にファシズム運動の前衛だった人というのは、いまはぜんぶ社会党員になって、年寄りですけど、ぜんぶ社会党員か共産党員になったんです。
つまり、いつでも国家社会主義というものと、社会国家主義というのはいつでも相互転換できるというふうになっているのが理論的な事実であるし、歴史的な事実です。つまり、戦争中に国家社会主義ないしは、社会国家主義でなかったという人は牢屋へ入っていった宮本顕治ぐらいなものじゃないでしょうか。つまり、後の人は大なり小なり戦争中にファシズム運動の先頭に立っていた人です。それが敗戦後には社会党、共産党員として再生してきたわけです。
これは政治家だけを言ってはいけないので、文学でも同じで、戦争中に軍国主義、戦争を謳歌しなかった文学者というのは一人もいないです。ただ一人の例外もいないです。これははっきり言えるわけです。一人もいないです。全部そういうのを書いています。つまり、それほど社会主義といえる観念は、国家という観念と結び付いたときに、それはもういくらでも転換できるということはあるんです。
これは根本的に社会主義、つまり、マルクスが考えた社会主義というものとはまるで違うものです。だから、これは国家社会主義と考えたほうが、ぼくは考えやすいと思います。国家社会主義だと考えたほうが考えやすいと、ぼくはそういうふうに思っています。
だから、何よりもそのことが重要で、国家社会主義ないし社会国家主義というものからどうやって脱却できるのか、あるいは、どうやって国家というのは国家じゃないもの、国家を開くことができるか、そのことがない限りは成り立っていかないと思います。
日本国だってそうです。日本国だって軍隊を持っていると、憲法では持っていないけど、実質上、持っている。国家は開いていない。だけど、自民党の中で国家を開こうという発想を持っている人なんか一人もいないです。これじゃあどうしようもないじゃないかとなると思うんです。
ただ、何に望みがあるかというと、産業にあるんです。第二次産業、つまり、製造工業、流通業というような、第二次産業以上の高次の産業は必然的に国際的なんです。つまり、国家の枠をある程度破っているんです。そこにある程度望みを託すなら、望みを託せるのはそこだけなんです。自民党の奴には国家を開こうなんて発想は何もないわけです。ただ、高次産業は国家を開こうとしなくたって開いています、ちゃんと。半分は開いています、半分は国家の関税とか、いろんな問題にひっかかってきますけど。為替関税法とかにひっかかってきますけど、本当はそれはないほうが産業というのはやりやすいわけで、だから、産業資本というのは、半分は国家を突破しています、いまでも。農業を除いた高次産業というのは国家を突破しています。それは唯一の希望といえば希望でしょ。
あなたもそうだけど、それから、語学ができる人は自由自在に、ほんとうは自由自在じゃないですけど、英文学と日本文学とは交流しているかといったら交流していないでしょ、なにも交流していないし、フランス文学と日本文学が交流しているかといったら、何も交流してないです。日本文学なんて向こうで三島とかなんとか言っても、腹切る奴だって知っているだけで、三島さんのほんとうの文学的なものは何もわかっていないです。これは逆でも同じです。日本の文学者でフランス文学者だという人がいるけど、ほんとうにお前そうかといったら、みんな当てにならないです。当てにならないものを翻訳したり、言っていることがおかしいじゃないかと、ぼくの見ている範囲ではそうなるんです。それほどまだ強固です。文化の面でも強固だし、これは、いずれはしかし、それを突破していくということがあると思うんです。翻訳しているうちに、そのうちにはなんとかなるでしょうと思うより仕方がないです。
それから、産業もなんとか国境を突破するでしょう。それは希望が持てる。だけど、他のところは、政治なんかは持てないというふうになっていると思います。だから、それじゃあ、社会党、共産党の新左翼に社会主義理念というのは国家社会主義を離脱しているかといったら、それはそうじゃないでしょ、それはみなさんの農業問題に、農村に対して何を言っているんだといえばすぐにわかるじゃないですか。農業の自給自足とか言っていたり、消費税反対と言っていたり、何を言ってるのという、まるでなってないじゃないのというふうになっているんです。ようするに国家社会主義です。それは脱却する以外にないです。つまり、そこがいちばんネックということになるんじゃないでしょうか。
ぼくはあなたほどソ連のいまの東欧で起こっている変化をあなたほど衝撃を受けていないのです。これは基本的にはいいことだと思って、いろんなことを注視しているわけですけど、いろんなことを検討しながらいいことだと思っているわけですけど。国家社会主義というのは破れた、しかし、社会主義というもののイメージというのが破れたというふうにはちっとも思っていないのです。
それから、高度資本主義は確かに前半戦じゃない後半戦において、つまり、近々2,30年において、国家社会主義に対して飛躍的に民衆の解放を成し遂げたというふうに僕は思っている。だから、高度資本主義のほうが勝利したというふうにいちおう考えています。
だから、ぼくはあなたのように考えるのはとても当然のような気がするんです。僕の中にもそれはあります。つまり、衝撃を受けているものがあります。さきほどアメリカ問題というのを言いましたけど、ソ連問題だって僕の中に無意識のうちにソ連社会主義というものの存在によっかかった部分とか、よっかかていた時代というのがあるわけですから、そういう部分は自分の中で衝撃を受けていますけど、やっぱりその中から自分なりに考えていこうといって、自分なりに社会主義というのを考えればどういうことになるかというのを考えていこうというふうにやってきたから、その部分ではちっとも打撃は受けていないと思っているから、でもあなたが打撃を受けている部分は僕だって打撃を受けている部分があります。
それから、自分が戦後はいい人になって、つまり、太平洋戦争敗戦でアメリカというのは占領軍としてきたわけです。ぼくらの時代の奴に言わせればみんなそうなるような気がするんですけど、ものすごくいいことをしているんです。占領政策というのはものすごくうまかったんです。だから、アッと思って目を開かれることばっかりだったんです。軍国主義少年ないし青年にはヘーッと思ったわけです。
つまり、戦争中はアメリカ軍というのは粗暴にして、占領軍として来たら、婦女子はみんな強姦し、学生はなんとかとか、乱暴で一方的に荒い感じにするみたいなふうにそういうイメージを持っていたら、来てみたらそうじゃないんです。鉄砲なんか反対に担いで、ガムをクチャクチャして、女の子と戯れているし、何にもないわけです。つまり、へーっと思ったわけです。鬼畜米英でもないし、威張るわけでもないし、なんでもないわけです。
それが認識の区切りの始まりで、それからずーっと見ていると、かなりいいことをしているんです。もちろん、部分的には黒い人のせいにして、黒い人が婦女子を横浜で襲ったとか新聞に出ることはあったんですけど、それは慨していえばものすごくうまい占領政策、アメリカというのはこれだったらちょっと勝てないぜというのが納得させられるような、だからわりあいにいいイメージを僕はもっていたんです。
それはやっぱり今度は湾岸戦争とか中東戦争とか、湾岸戦争でまたちょっと狂いましたけど、これはちょっとアメリカというのはやるぜという、いざとなったらブッシュなんていうのは顔を見ているとサラリーマンみたいな、会社の部長みたいな、そういう顔をしているでしょ、こんな奴が戦争を始めると残酷なことを平気でやるでしょ。へーっと思ったんですよ、ほんとは日本人もやられて、日本の兵隊もぼくらも残酷な空襲を受けたり、兵隊さんは外地で相当残酷にやられたんです。それでアメリカというのはいざと本気になると強いんですよ。それは骨身にしみて体験しましたけど、だから強いとは思っていましたけど、だけど初めて傍観的に客観的に見ていると、イラクに対して戦争を見てるとそうとう残酷なことをやるぜという、アメリカというのは占領政策をうまくやったから、そういうふうに考えているのとちょっと違うよというふうに考えたところがあります。考え直したところがあります。だから、ぼくはとても得ることが多かったです、湾岸戦争では多かったです。だから、いろんな意味でへーッと思ったんです。
だから、ぼくはあなたの心の中で思っているよっかかりどころのなさというか、不安さとか、漠然としてということというのは本当なんじゃないでしょうか、それのほうが本質なんじゃないかと僕は思うわけです。
ぼくはそれがないような平気な顔をしているのはちょっと解せないなと、ぼくも思っているんですけど。これで平気だというのはおれは解せないよというふうに思っています。進歩的な人にも思っていますし、保守的な人にも、ほんとは解せないなというふうに思っています。だから、あなたの愕然としたというのは、ほんとなんじゃないかと思います。そのほうが正当なので、そのほうから考え方を広げていくみたいな、それのほうが僕は少なくとも正当だというふうに思っています。
ぼくは太平洋戦争が終わった時にはそうしました。つまり、自分は隠しようがなくて軍国主義青年、少年だった。これは戦後あらわれてきまして、昨日までなんとか言っていた文学者がみんな違うことを言いだして、なんじゃこりゃという、なんか2,3年は何にもする気がしねえよというそういうふうに思ってきましたから、今度はそれほど衝撃を受けていないです。かなりな点、ぼくは自分で戦後考えてきたと思っているから、それほど衝撃は受けていないのですけど、でも衝撃を受けている部分はありますし、特にアメリカなんかのあれはものすごく受けています。高等教育のあれでも受けていますし、それから、中東戦争のやり方でもヘーッと思っています。
だから、ぼくは目に見えない第二の敗戦だという受け止め方をします。ここからどういうふうに脱却することができるかということがだいたいこれからの課題になるなというふうに僕自身はそう思っているから、ぼくはあなたの考え方は大筋においてはいいんじゃないかなと思うんです。
(質問者)
吉本先生が丸山正男論のなかで、社会主義はスターリン主義に移管するという言葉を使いまして、それ以来30年間ずっと一貫して当ててこられたわけですから、もう吉本先生がおっしゃったとおりの情況。これは吉本先生の本を読んできた人はみんなわかっているわけで、誰がどうそれを広めるかということでもないわけですから、吉本先生自身が次の段階にいくというひとつの決意みたいなところを私なりにもわかりまして、たとえば、アメリカ問題に関して、私が東京で付き合っているアメリカ人たちというのは、なんかほんとに流れてきたようなアメリカ人と申しますか、いちおう大学を出ているけどという、その人たちが持っている世界認識というのか、そういうことをあれこれ言うんですけど、すごく厳しく当たっているというか、たいして学力がないんだけどきちんきちんと言うんです。悪口もかなり入っているんですけど、どうしてこんなに当たってしまうのかと、どういった意味での知識とか考え方を彼らは生い立ちのなかから勉強してきて、どうしてこんなによく見えるんだろうと、逆に私が知識とかを、だから日本人に生まれた以上、枕草子とか、アジア的な古典教養が頭の中にいっぱい入っていますから、それは彼らにはないわけですから、その分だけ楽なのかなと思うのですけど、きっとそれ以外に知識の取り方、考え方、情報の取り方に対して、粗雑な面もあるんですけど、やっぱり負けちゃうなというのが日々ありまして、そうするとやっぱり日本で知識というのをもう少し外側に開いていくようなふうに考えないとそういう意味でそのまま負けていくなと。
(吉本さん)
ちょうどだから、幸福の科学とか、あのへんの宗教問題というのが出てきているでしょ。やっぱりぼくは、大川隆法なんかが宗教の時代なんだとか言うけれど、ぼくは戦争終わった敗戦直後にやっぱり雨後の竹の子のように新興宗教がたくさん出てきたんです。ある意味でそれととてもよく似ているというふうに思っていますけど。気持ち悪いんですけどね、気持ち悪いというか、構うなといいますけど、一種の第二の目に見えない敗戦現象といいましょうか、それのひとつじゃないかなというふうに、やっぱり拠り所というのはなかなかなくて、だけど繁栄はしていると、だけどよるところはないそれはどうするんだという、何が幸福/かみたいなことになってくると、いまの新興宗教の第二次流行といいましょうか、そういうことは一種の敗戦現象みたいなものと同じなのかなというふうに類推するとわかりやすいですから、ぼくはそんな類推の仕方をしているんですけど。
(質問者)
さきほど憲法9条の話が出たんですが、いま私どもも色々な方が色々な批評をしているわけですが、国家を開くというかたちではなく逆に閉じていこうというような、西部邁さんだとか、政治家でもある程度、石原慎太郎さんみたいな動きがあるし、当時、湾岸戦争の時に柄谷さんとか、中上さんあたりが逆に、吉本先生とは違うような言い方なのだろうが、国は守らなければならんという形で、それこそ時代がわけがわからんような言い方をしていたもので、そうしますと、前の反核の時と似たような感じなのかと、あるいは、もうひとつ螺旋的に難しい課題にいっているのかなという感じもしているんですが、いま私、大学、高校とやってきているんですが、いま流行の批評家たちをどういうふうに見ておられるのか、瀬島さんから話がありましたですが、そこが暗いのか、いわゆる盲点なのかなというのが、ちょっと私はわからないもので聞かせていただきたいなと。
それからもうひとつですが、さきほどの国家を開くという話の中で、連邦制が共和国の調整役をやっていくんだということで話があったんですが、私なんかはいま長岡の自治体の議員をやっているわけですけど、国よりもっと下の県だとか、あるいは市とか、私なんかは長岡市なんてところだから、そんなに財力は、道路の掃除だとか、側溝だとかやっている程度だとおもっているわけだけど。開く場合のかたちで、どういうふうな段階点といいますか、逆にいうと自治体までも開いていかなければならないのか、その辺ところを国との関係でもうちょっと筋道を聞かせていただきたいなと、そんなふうに思います。
(吉本さん)
現在の日本の政府がどうだというのは、まだよくわからないんですけど、石原さんというのは一種の強い国家と、高度な資本主義とがうまく結びついた、そういうのが本当の現在の国家だみたいなイメージをだいたい持っていると思うんです。開くという発想はないと思うんですけど。
石原さんのそういう言い方というのは、矛盾があるといえば、高度の資本主義ということ自体は、必然的に国家を強制的にといいますか、経済必然的に国家を開いたものだと思うんです、高度資本主義というのは。だから、たぶん石原さんの国家を強力にして、国家主義みたいに強力にして高度な資本主義は高度の資本主義を保ちながらというのは、たぶんどこかしらで実際にやってみれば矛盾にさらされると思うんです。
だから、ぼくはそういう意味あいでいったならば、日本は高次の産業国家、高度な産業国家というのは何かといいますと、つまり消費の資本主義です。つまり、個人収入でいえば所得の半分以上を消費に使っている。そういうのが高次な資本主義です。そして、消費に使っている部分の半分以上は選択的な消費とか、選んで使える消費に使っている。それが高度な資本主義、日本とか、アメリカとか、西欧とかというものの実態だと思います。
そこでは、産業自体のところでは、国家は完全に開いていく以外に方法はないというところまでいっちゃっているわけで、それは欧州は欧州共同体、西欧共同体みたいなふうに、だんだんなっていく以外にないというふうになっていると思います。
産業のほうから国家を開くほうが要請されるみたいになっていって開いていくから、石原さんみたいな考え方は、たとえば、湾岸戦争やなんかに対する、その他の日米構造協議に対するあまりにも日本国のだらしなさというのに憤慨してといいますか、それのアンチテーゼとして強い国家みたいなイメージを打ち出している、ノーと言える国家みたいなものを打ちだしているんだと思うけど、それは、すぐに高度資本主義である日本の社会と矛盾していきますから、自然に開いていかざるを得ないんじゃないかと、ぼくには思います。
そこでいえば希望は産業自体のあり方にしかないとも言えますし、逆に希望は産業のほうにあるんだと、だから、いくらどんな政府ができて、国家を閉じよう閉じようとしたって、必ず産業がそれを開かせざると得ないよって、あるいは、国際的に開かされちゃうよというふうに、ぼくにはそう思えます。
だから、そこにしか希望はないし、またそこに希望があるといえば言えるんじゃないでしょうか。だけれども、ぼくは国家を本当に開くということはそういうことじゃなくて、やっぱり、選挙権を持っている普通の人たち、いってみれば国民なわけですけど、国民が無記名の直接投票で国家というのはいつでもリコールできるという、変えられるという、そういうシステムが作れたときに、本当の意味で開かれるということになるように思うんです。そこにはなかなか大変なジグザグの筋道を通らなければ、そこはなかなか行けないということになるのではないでしょうか。だけど、そこへ必ず行くに違いないことは間違いないというふうに僕にはそう思えますけど。
憲法9条というのもちょうどそんな意味しかないので、いずれジグザグしたって世界中がそこへ行くよりしょうがないよっていうふうに言えば言えるわけですし、それはいまのところ日本の憲法だけがもっているというかたちで持っているわけですけど。そこへいくより仕方がないよ。
それでよくよく見てみれば、ソ連だってアメリカだって、核軍縮しようじゃないかと団体が言いだしてきているじゃないか、それだって日本国憲法のあり方みたいなものに近づいていきつつあるという見方としては見られなくはないんだよというふうに見れると思うんです。
だけども、もう一面から見たら、日本国憲法というのはとてつもない憲法で、リアルタイムでいったら、これはちょっと世界中でこんなことを言っていたら通用するはずがないよということは、僕は前提だという気がするんです。前提にしておかなければいけないと思うんです。未来に平和憲法だからあれしましょうみたいなことを言っていたり、そういうふうに言ったらそれは全然違うことだと思います。
だから、これはもうどうしようもなくて、こんな憲法というのは持っているというのは、変人奇人みたいなもので、どうしようもないんだよ、だけれども、これの方向でいくより仕方がないんだということはやっぱり言っていくよりしょうがないし、これをまたやめにしてということになるかもしれないけど、やめにして軍隊を認めようとか、自衛隊を認めようとか、派兵を認めようというほうが2,3年経つと強くなっちゃうことがありうると思うんですけど。
ぼくに言わせればつくづくそう思うんだけど。ぼくに言わせるとそんなことはまったく無駄なことのように思えるんです。つまり、経済的にも無駄なことですし、出費としても無駄なことだと思います。軍国主義的な昔取った杵柄みたいな言い方をすると、ようするに、アメリカとソ連の両方を抑えられるぐらいの軍備を持つというのならば、まだ意味があるのかもしれませんけど。そんなことは、天地がひっくり返ったって不可能な事なのです。だから、そんなことは初めからやめたほうがいいんです。また、それに近づけようなんていうのはまったく意味のないことで、それよりもお前やめたほうがいいよ戦争なんてという、核なんて捨てたほうがいいという、どんどんどんどんそういうふうに説得して、軍備も捨てたほうが、そのほうが経済的にも楽になるぞみたいなふうにして、どんどん捨てていくという方に、そういうふうに働きかけるほうが遥かに未来性もあるし近道だと思います。リアルタイムとしても近道だと思っています。
これをいまさら軍隊を認めようと、でもそうなる可能性はずいぶん多いです。選挙をし直したらとか、自民党が憲法改正法案を出してきたとかいったら、国民選挙をしてみたらそうなる可能性というのはずいぶん多いと思います。でも、そういうことにはあまりめげないで、そんなオクターブは違うというふうに考えるのが、ぼくは近道だと思います。
ほんとうにそうですから、つまり、かつて太平洋戦争というか、第二次世界大戦のときに、日本国というのは世界で2番目か3番目の海軍力と、それから世界で1番と言われていた陸軍力をもっていて、それで戦争をやらかして、それでめちゃくちゃにやられているわけです。それは世界に逆行することですし、その道でもってどこかを抑えていくみたいことというのはまったく不可能ですから、初めから考えないほうがいいし、それに近づけようなんて少しも思わないほうが、ぼくはいいと思っています。これは軍国少年の昔取ったあれで言うのであって、憲法9条というのは、オクターブが高いということは覚悟の上で主張したほうがいいよというふうに思います。
文学者というもののあれは、ようするに色々言いたいことがあるわけで、これはオクターブが高いんだということは別の言い方でコメントのなかで言っていると思います。つまり、日本というのは最終戦争みたいなのをしちゃったんだという言い方で言っていると思います。つまり、オクターブが高いということなんです。べつに、柄谷たちが最終戦争しちゃったと言ったって、またするかもしれないので、そんなことは柄谷たちには予言できることじゃないです。これは政府の為政者がやることであって、これは変な奴が出てきて、また戦争やるかもしれないし、そんなことは誰も予言できないわけだから、その予言自体には意味はないんだけど、そういう言い方で日本国憲法9条というのはオクターブが高いんだよという、世界中こんなのについてくる国なんてどこにもないんだよということは言おうとしていると思います。そこは肯定できる唯一のことじゃないでしょうか。
ぼくが思ったのは、もうひとつは、文学者が中東戦争について言いたいことがあったら、一人一人に、文学というのは一人一人ですからいずれにしても、自分が自分の名前で言ったらいいと思うんです。それはどういうのでもいいです。つまり、戦争賛成だという主張だって、反対だっていいけど、自分で言わないといけないと思います。べつに集まってなんとかということは、まったくナンセンスだと思います。それは、国家社会主義者の影響が残っているので、そういう人たちには残っているから、一人一人でやればいいと思います。言いたい放題のことを主張したらいいと思います。書いて自分の名前で主張したらいいと僕は思います。それは、反対だろうが、賛成だろうが、その場命でそれを言ったらいいじゃないかと思います。だんだん集まってなんとかというのはあれだと思います。
それからもうひとつは、日本国の参戦に反対だというアピールなんです。日本国の参戦に反対か賛成かということは、いずれどうであったとしても、それは中東湾岸戦争に対しては第二義的なことです。アメリカ国とイラク国の戦争に反対か賛成かということがいずれにせよ主たることで、ほんとうに戦争をやめてもらいたいと思っているならば、アメリカ国の戦争に反対ですとか、イラク国の戦争に反対ですとか、湾岸戦争に反対ですとか、そういうふうなアピールでなければ意味がないと思います、
ぼくは。つまり、少しも国際的でないと思っています。つまり、この場合には日本国が参戦するかしないかというのは二の次であって、それは解釈のしようであって、救助国に選挙を出したっていうことは、参戦だといえば参戦なんです。参戦じゃないと言えばそうじゃないという、武器を取ってあれしているんじゃないといえば、そうじゃないという理屈になるだけであって、それは解釈のしようでいかようにもなるという、自民党と社会党みたいなもので、そんなのどっちだって解釈のしようじゃないかという問題、日本国が参戦するかしないかということは、この際、第二義的なことであるから、ああいうアピールにはあまりアピール自体に意味はないんじゃないでしょうか。あったとしたって第二義的な意味しかないんじゃないでしょうか。
もっと露骨なことをいえば、あのアピールを出した文学者たちはいずれも日本に対しても、外人が日本に親しみをもっているのは親日派というでしょ、それから、日本国をよく知っているのは知日派というでしょ、あのアピールを出した人たちは知アメリカ派なのね。つまり、知アメリカ派というのは、一年ぐらいアメリカに留学したとか、しょっちゅうアメリカに行ったり来たりしてとか、そういう人たちなんです。知アメリカ派は、もうすこしましなことを、アメリカに対して、こういうので戦争をするのはおかしいじゃないかくらいなことは言ってもらいたいわけです。だけど、それは言わないで、日本国の参戦に反対だ賛成だって、それはちょっと聞く意味ないねというふうに僕はなると思います。
ぼくはその時にいろんなところのアピールというのはよく集めて調べていますけど、いろんなアピールがあるの、つまり、イラクを後進国、あるいは、元西洋の植民地国とか、そういうふうに思っている。そういう人たちのアピールというのは、日本でも古いタイプの国家社会主義者ですけど、そういう人たちは、アメリカがイラクみたいな後進国、あるいは、元植民地国にたいして、攻撃を仕掛けるとか、中東の内部事情というのを解さないであれすることには反対だというアピールを出して、そういうアピールを出している人たちが、戦争中、東条が大東亜共栄圏の確立だとか、東亜の人種の解放のために、この戦争をやるんだというのに賛成したらよかったのにと思うので、それはそうじゃないので、そういうのは軍国主義でダメだったと言っているので、そうだったら、イラクにだって軍国主義はダメだと言えばいいのに、そういう言い方をしているアピールはいっこうにない。古いタイプのインテリというのはそうなのね、そういうアピールをやっていない。たとえば、加藤周一とか、大江健三郎とか、それから、もっと国家社会主義者でいえば○○○○とか、そういう人たちのアピールというのはそういう類なんです。
それから今度は安保闘争のときは違って、今度は新民族派という新しい右翼ですよね、昔流の言い方をすれば、そういう人たちもやっぱりアピールして出している、デモをしている。そういう人たちのデモは古いタイプの進歩派のデモと同じで、イラクを応援しようという、アメリカはけしからんというアピールを出していく、つまり、それは一致するわけです。とても興味深いことなんです。つまり、あぁまたサイクルが回ってきたぜって、眼に見えないけれど、またサイクルが回ってきたぜと言えると思います。ニュアンスは同じだと思います。
ぼくはアピールみたいにしないけれど、ぼくはその時に終始一貫それに対して論じてきたつもりですけど、ぼくのあれは、最終的には、アメリカというのはこんなやり方をして、半世紀前のやり方だ、こんなのはダメだという言い方と、それから、イラクというのはダメだと、天皇、東条と変らないよという言い方、これもダメだと、両方ダメだという言い方をぼくは書いていますけど。そういうアピールはなかったです。ぼくの見た限りではないです。
やっぱりどちらかのニュアンスになっていくみたいな、そういうアピールになって、それでいちばん極端なのは、新民族派と旧左翼といいましょうか、そういう知識人のアピールというのは同じところに落ち着いていったなというふうになって、つまり、後進国対先進国みたいな、あるいは、旧植民地国対西欧諸国の争いというような、そういう観点で見ようとしていまして、どちらかです。だから、このアピールも、文学者のアピールも含めて、ぼくらはちょっと違うという、違うニュアンスだというふうに思ってきました。そこの問題はなかなかまれなんじゃないでしょうか、興味深いことのように、ぼくには思えるんですけど。
だから、国家を開くというのも、いまのところ資本主義の高次産業というのが、必然的に国境を超えちゃっているのであって、国際的なあれになっちゃっているんだよという、その勢いが唯一の希望といえば希望だし、また唯一の国家を開くやり方の強制力になっているのが現状じゃないでしょうか。
あと、政治の次元でそれは少しも具現されていないので、かえって太田さんも言われたように、日本というのはこんなにだらしないのはダメだから、もっと強くならなきゃという、石原さんみたいな人のほうが多いんじゃないでしょうか。石原さんもそうだろうし、自民党とか社会党の全部に共通して、若手の人たちの主張と考え方というのは、そこへいっているんじゃないでしょうか。
それは決していい徴候じゃないと思いますけど。これをいい徴候じゃないと言うためには、そうとう我慢しないといけないんじゃないでしょうか。我慢しないとやっぱり、そっちのほうが現実性があるよという論理にどうしてもなっていっちゃいますし、民衆のほうもそういう論理に段々傾いていくというのが、ここ数年間起こりそうな気がしますけどね。
でも、産業はそうはいきませんよって、それに対して絶えずそういう考え方を開こう開こうって産業はそういうふうに発達していくように思いますけど。だから、農業というのは非常に土地に密着していますから、なかなかそういうふうにいかないわけですし、土地に対する執着というのは、これは理屈だけでは割り切れないですし、なかなか一筋縄ではないんですけど、でも、農業の当面している問題の中で、歴史的にこれが逆流するということは、まず絶対にありえないよという部分と、そうじゃなくて、これはやりようによってはできるよという部分と、それはとてもよく見分けられないと、狂ってしまうような気がするので、この東大の先生たち、米政策研究家っていう、ちょっとこういう研究試算みたいな、米自由化に伴う計算みたいのをしてもらうとものすごく困ります。困りますというのは一面的に思います。
こうじゃないです。もっと本格的なというか、本当の計算の仕方とか、考え方を米について出していかないといけないような気がしますし、それはウカウカすると農林水産省のやっているいまの批判というのが数年のうちに出てくると思うんですけど。たぶん、それに敗けちゃうといいましょうか、それがいちばん進歩的だということになっちゃうんじゃないでしょうか、現状からいうと。これがいちばん進歩的だからあれだよと。
つまり、消費税が進歩的だと同じように、これが進歩的だということになっちゃうんじゃないでしょうか。チェックすることができないんじゃないでしょうか。だから、よほどそこはよく考えて、もっと先を考えて、多様なあれを考えられたらチェックできるけど、そうじゃなければ、これでいくよりしょうがないということになるんじゃないでしょうか。
消費税だって同じであんなの社共が反対しなければいいのに、反対しないでこういうふうに対応策があるんだというあれを出せばいいのに反対しちゃうでしょ。だけど、どう考えたって、日本の民衆の所得の半分以上は消費に使われているでしょ、そのうちの消費に使われている額の半分以上は選択消費なので、つまり、選んで使われるものです。明日、旅行に行きたいんだけど予算がないからおれはやめにしとこうとか、明日、映画を見に行きたいんだけど、映画を見たら家計の予算をオーバーしちゃったからやめにしようと選べる消費というのがあるでしょ、選べる消費が消費全額の半分以上なんです、日本の場合、平均していえば。
そうしたらば、消費の場面で、つまり、民衆が選べば加減できる、明日旅行に行くのを我慢すれば、それだけ税金を払わなくて済むわけじゃないですか。そこの面で主たる税金を考えるのが当たり前です。民衆の立場というのはそうです。それを考えるのは当たり前じゃないですか。それがいつのまにか反動になっちゃうわけです。
つまり、資本主義の興隆期までは進歩だと思われていたし、自分でも思っていたんです。ところが、資本主義が新たな段階、つまり、所得のうち消費のほうが多くなり、消費のうち選んでできる消費のほうが多くなった日本、アメリカ、それから西欧、フランス辺りがそうですけど、そういうところの社会においては、つまり、いままで進歩だったと思っているものがまだ進歩だと思ってるとそうじゃなくなっちゃうんです。反動になっちゃうんです。
それは何に照らして反動かそうじゃないかというと、政党の伝統に照らしていうんじゃなくて、現在の一般民衆をどちらがよく解放するか、どちらが役に立つかということに対して、進歩と反動というのは決められるべきなんです。そうしたらば、消費税になるほうが進歩なんです。
それは、だって日本というのはそういうところに入っちゃったんですから、段階に、日本は入っちゃったんです、10年くらい前からそういう段階に入ったんです。それはデータをあげればすぐにわかります。所得の50万のうち25万は消費に使っているんです。消費は2つあって、必需消費というのは必要な消費で、つまり、毎月の電気代とか、家賃とか、食糧費とか、毎月、必需消費は必ずいるわけです。それのほうが選んでいる消費より少なくなっちゃっているんです。だから、選んでできる消費のほうが額が多くなっちゃっているんです。そうしたら税金を加減するには、選んで加減しようと、それが半分以上できるんだというところでするのが当然なわけです。そのほうが進歩なんです。だからいまのところ、税金だけでいえば自民党のほうが進歩なんです。
これはそのときからわかっていたんです。ぼくはそういう主張をしています、書いています。そんなの全然わからないんだからしょうがないです。承知してくれないんだから。こんなことを言うのは自民党だろということしか考えていない。冗談じゃないと、おれは自民党じゃないと、そんなことは一切関係なくて、一般の大衆というのを解放できるかどうかに照らして進歩であるか、そうでないかを俺は決める、俺はそうだと思っているわけです。だから、おれはその基準以外にどこにも何のコネも何もないですから、そういうことを言ってるからダメなんです。だから、絶対そうなります。選択消費が50%以上になっちゃっているんだから、ここで選べば税金は少なく払えるわけじゃないですか。つまり、今日はステーキの牛肉を買おうと思ったけど、ちょっとこれは予算が足りないから買えないんだと、じゃあ我慢しちゃうおうとすれば、ステーキの肉を買ったために生じる税金は自然に伴うわけで、それは加減できるわけじゃないですか。それが50%以上になっちゃっているんだから、そうしたら、消費税のところでいくのが一般的民衆の解放的進歩です。そうすればいいわけです。それで、これに対する細かい点、ここは不合理だと、それはあります。それはそれで改正すればいいわけで、改正案を出せばいいわけで、だけど、消費税自体に反対するということに対してはまったく意味がないです。国家社会主義者は反動に転化しちゃっている。ことごとく反動に転化しちゃっていることを意味していると僕は思います。極端にいえばみんなそうです。こんなのは進歩だと思っていたら全然違います。きっと自民党から社会党の若い連中の横に貫く線というのは、たぶん、そこらへんのところはちゃんと心得た上でこれに対応しなきゃやれないぜって、これになってくれっていうふうに、ぼくはそうなっていくと思います。
だから、もしかすると、太田さんもそうなるというか、たしかにそれのほうがいいんですけど、それはわかりませんけど、そういうことは抜きにして、ぼくはそれにしてもここはこう言いたくないとか、ここは企業家が入ってくるのはノーとか、企業経営を受けて大規模にやられたら相当席巻されちゃうぜとか、いまから予想できる問題はあると思うんです。だから、それはなんとかして啓蒙するなり、経営のエキスパートをちょっと入れておくなりして、なんとか自主的に農業を有限会社くらいにしてやろうじゃないかみたいな、そういうことが自発的にできたらまず、ある程度の対抗ができるような気が僕はしますけど、そうじゃなければ、農水産省がいちばん進歩的だということになりそうな気がします。
そこがやっぱりネックだし、第一次農業革命というのは、明治初年の地租改正というのはそうだったと思うんです。つまり、封建的な農業から、そうじゃない農業市場というのを認めようじゃないかというのが地租改正です。だけどあれは劇的にひどい不公正で暴動を産んだんです。だけれど、あれをよく読むと中身は決して悪くないんです。規模の割合で税金は規模の多いところからたくさんとって少ない農地を持っている奴のところは少なくとろうじゃないかとか、統一市場の農業市場を作って、農産物を売れるようにしようじゃないかとか、税金も現物で貢納じゃなくて金で払えるようにしようじゃないかという、ことごとく悪くないんです、地租改正というのは。
ところが、やってみたら大変なことになってきて、農地を売らなきゃ税金を払えないみたいな奴が出てきたりして、大地主のほうがあまり影響を受けないで、農業がめちゃくちゃに激変しちゃったんです。困る奴は暴動起こすよりしょうがなくて、日本の近代の中でいちばん暴動が起きたのは地租改正以降なんです。明治10年くらいまでがいちばん起きたんです。それから、明治10年、西南戦争も起きていますけど、それはなぜかというと、もとをたどれば地租改正なんです。だけど、よくよく読んでみると地租改正にはちっとも悪いところはないです。ちっとも悪くない農業の近代化なんです。
それまでは、二宮金次郎だったんです。つまり、夜なべして作ったやつを売って歩いて貯めておこう貯めておこうと、農家はこれで富むより仕方がないというのがやり方だったんです。それを地租改正は変えたんです。近代的に変えた。それはことごとくいいんだけど、そういうことをやってみたらものすごいことになった。
つまり、そういうことはあるわけです。だから、ぼくは農水産省がいま作っている案というのは悪いところはないといえばないんです。ただ、あるとすれば、大規模経営を許すというような、法人が農業経営をやるのを許すということをやれば、きっと大資本がいっぱい入ってきて席巻するだろうなということはひとつの危惧です。いまから危惧だから、そこはなんとか対応できなければ嘘だよなって、それは社共とか、新左翼がそれに対応できるとはちっとも思っていないけど、しかし、対応しなければ嘘だよなと僕には思います。それが第一次革命です。
第二次革命は戦後の農地改革です。小作農を自律的な自作農に、土地を与えるというような、安い金で、公定の金で与えるみたいな大改革です。これは日本人だけではできないんだけど、占領軍がわりに強烈にやって強行しましたけど、これで日本の近代化の基礎というのはできたわけですけど。
ところがいま、ぼくは第三次農業改革あるいは農業革命ということに当面していると僕には思います。そこで誰がいい案を出すかということになるので、そうすると、いま僕があれしている限りは農林水産省のつい最近出た練られている案というのは最も進歩的だと思います。だけど、これはそうとうすごいことになるなというふうに僕には思えます。
だから、対応はできるんじゃないかと、これは政党に期待したってダメだと思います。政党は米自由化反対、農業自給論、つまり、農業は国の宝、お米は国の宝とか、そんなことばかり言っているんだから、これに対応できる期待を持つというのは、ぼくはできないと思います。だから、これは自分たちで考えて対応するよりないけど、もう数年後にそれが出てくることは非常に確かなことのように、ぼくには思います。だから、そこらへんの問題なんじゃないでしょうか。それがぼくの考え方です。
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