(※不明な箇所は■■と記しています)
概して、ぼく流に定義してしまえば、どういうことなんだ、なにを言っているのかといえば、ぼくは「クレオール化」っていうことだと思います。「クレオール化」といって「稚拙化」っていうふうに言ってありますけれど。「クレオール化」っていうことは、必ずしも「稚拙化」ってことだけじゃないんですけど。あの…、要するに、第一次産業、あるいは第二次産業にせよ、それと第三次産業劣化っていうのが、非常に目立つように起こってまいります。
これは言葉、言語で言いますと、いちばん分かりやすいわけです。例えば「クレオール化」っていう言葉が始まった、元になったところで言えばいいんですけれども、カリブ海(だから、中米か…南米でしょうか)、要するに島で、アフリカ人が原住民で、インド人が渡来人としてそこにいて、フランスの植民地でありましたので、フランス人がそこにやってきて、三者が混血して…。ゴーガンなんかが行ってきたところだと思います(ゴーガンじゃねえな?)。
そういうところで、言葉っていうのはどうなるかっていうことなんですけど。単純にあれすると、いちばん優勢なのがフランス人で、原住のアフリカ人がその次でっていう…。あるいは逆に、人口としてはアフリカ人が多くて、フランス人が少数で、だけどフランス人のほうが勢いが強くて…ってなったとすれば、たとえば文法構造だけはアフリカので、実際の使われる言葉はフランス語に似ていて、単語やなんかもフランス語に似ている。だけど、フランス語かっていったらそうじゃなくて、現地のアフリカ語っていうものと境界が融け合っちゃって、どっちでもない「第三の言葉」っていうのができちゃっている。そいういう現象を「クレオール化」っていうふうに言うわけです。
で、日本の場合でも、ぼくの考え方では、言えると思います。それは、縄文的な「旧日本人」というのと、弥生的な「新日本人」というのが、大雑把にいいますと、日本人、あるいは日本語っていうのは、その二つからできていると思います。大雑把に言いますと、そうなんです。現在の日本語、つまり奈良時代以降の日本語ですけれども、どちらの言葉でもない言葉になってしまっているというふうに思います。ですから、ようするに、これは「クレオール化」なんです。どちらでもない言葉になっちゃって、それが日本語だと思います。ですから、近隣の言葉と対比することができないわけです。あるいは、対比すれば、みんなそう思えて来ちゃうわけです。
例えば、大野晋さんという専門の言語学者は、「タミル語(南インドですけどね)と、日本語とは似ている」「だから日本語の起源というのはタミル語なんだ」っていうふうに、そういうことを大真面目に言うでしょう。「パプアニューギニア語と似ている」という江実さんという言語学者もおります。それから、素人のひとで、「日本語は韓国語から来たものだ」って言うひとたちもいます。もっとあれになると「韓国の慶尚道地区の方言から日本語は発したんだ」って、そういう報告も出ています。つまり、さまざまなあれが出ていますけれども、みんな、やるとそう思えてくるみたいなふうになっています。
どうしてそうなっているかと言えば、「クレオール化した言葉」だからなんです。ほんとうは、何とも似ていないんですよ、日本語っていうのは。何とも似ていないけれど、「旧日本語」っていうのと「新日本語」っていうものの混血だっていうことだけは、大雑把に言えば、言えると思います。小雑把に言えば(そんなこと言っちゃいけないんですけれども)たくさんの種族語が入り混じっているわけですけれども、大雑把に言えば、そう言えると思います。
それは、どちらと言ってもいいわけです。「基にあるのは、中央アジアに近い北方大陸のモンゴル系の言葉と似ている」っていうのが基層にあって、「南方(東南アジアとか、南中国とかそういうところ)から来た■■の言葉がそれにかぶさってきて、だから…」っていうふうに言ってもいいし、逆かもしれない。その逆で「南方 が基層にあって、北方系、大陸系の、つまり古アジア的なひとたちたちの言葉がかぶさって、日本語ってのはできちゃった」という。どちらがどちらとは確言できないですし、ぼくは確言しませんけれども。しかし、大雑把にいって、そういうもんだと思います。そうしますと、タミル語っていうのは、もっと遡りますと何系かっていうと、ポリネシア系の言葉です。つまり、マライ・ポリネシアって言ったり、チベット系の言葉っていうふうに言ってもいいんですけれども、タミル語っていうのはそういう言葉です。それからパプアニューギニアの言葉も、ポリネシア系の言葉で、同族の言葉です。ですから、似たような言葉っていえば、専門家がやっても素人がやっても、だいたい、似ているのを掴まえてくるわけです。抜き出してきて、「ほらほら、同じようだろう」って言うことは、いくらでもできるわけです。だけれども、ぼくの理解の仕方では、それは日本語をかたちづくっている二層のうちの一層が、それと同じ語源から発しているだろうから、似ているようにみえるんだっていうふうに言えます。
それから「もっと北方だよ、セリアックとか、そういうところの言葉と似てるんだよ」って、そういうふうに言う言語学者もいます。それもまた、もちろんそういうふうに掴まえてくれば、そういうふうに似ている言葉っていうのを抜き出すことはできますし、「似ていると言えば、言えそうなところもあるでしょう」っていうふうなことだっていうふうに思います。
この■■「クレオール化」ってのが起こりますと、どちらにも似ていない「第三の言葉」っていうのができるわけです。その「第三の言葉」ができた場合には、言語学者に言わせれば一種の「稚拙化」っていうことが起こるんだそうです。これは日常、体験することができます。たとえば、韓国人でも中国人でも、日本語を使うと「私、中国人」とか「私、韓国人」とか、こういうふうに言うでしょう。また、日本人が韓国人や中国人、日本語を知っているらしいひとに説明するとき、ちゃんと日本語で言えばいいんだけど、ときどき「私、日本人」みたいなふうに、助詞とか形容詞とか動詞とかを抜かしちゃって、「私、日本人」とかっていうふうに言いたくなっちゃうっていうようなことがあるでしょう。それは「稚拙化」っていうことの一種なんです。
つまり、二つの違った言語が境界面でぶつかってきたところに起こる、ひとつの現象なんです。
ぼくの理解の仕方では、一種の先鋭的なっていうか、前衛的な建築設計家たちが設計して実現しちゃっているもの(家や、部分的にいえば、人工都市、人工地域みたいなもの)で、現在やられている超モダンなプランというのは、ぼくは、一般的に、概していえば「稚拙化」の現れだというふうに、つまり境界面にどうしてもぶつからざるを得なくなって、つまり段階の違う境界面にぶつからざるを得なくなって、ぶつかった挙句、「稚拙化」が起こっているんだっていうふうに、理解するのが一番いいと思います。現代の建築っていうのは、名だたる建築家たちが設計したと称せられているものも、だいたい、これが多いんです。「稚拙化」って言っちゃえば、言いきれちゃうみたいなものが多いと思います。
それはどうしても問題意識っていうのを煮詰めていきますと、段階が違う(産業で言えば第一次・第二次・第三次っていうふうに、第一段階・第二段階、あるいは第一層・第二層・第三層というふうに)、違うものの境界面にぶつからざるを得なくなっているから、その種の設計やクラッド化ができてしまうっていうことがあると思います。
つまり、高度だと思って(たしかにある面は高度なんですけど)、別の面からいうと一種の「稚拙化」が起こっているというふうに言っていいと思います。ですから、このひとたちはシュルレアリズムの方法を選んだ、有効だと思うんだみたいなことを言っていますけれども、シュルレアリズムみたいに無意識を解放すれば「稚拙化」が、そういう面から行くと起こるのは当然だってそういうふうにも言えます。 だけど、現代人の問題は、多分そうじゃないんで。シュールレアリズムの問題ではなくて、イメージの問題とすれば、もっと、超シュールレアリズム、ハイパーレアリズムといいましょうか、そういう問題になっていると思います。
つまり、無意識というんじゃなくて、「現在、および、これからの無意識」っていうものを作っていくっていうか、その方向性を作っちゃうということの問題が、たぶん、イメージ問題なんだっていうふうにぼくは思います。イメージの先端的な問題なんだっていうふうに思います。
この先端的な問題っていうものと、理想的な問題っていうのは必ずしも一致しませんけれども、理想っていうのは、つまり先端的な問題は、先ほども言いました「一般人」あるいは「平均人」、「一般都市」あるいは「平均都市」っていうものを「他者」としてちゃんと、ここに、わきまえていなければ…。先端的であればいいか、新しければいいか、あるいは、「全部間違っているから、間違っていないやつを選べばいいのか」というと、そんなことはないので。いつでも、ぼくの理解の仕方では、「一般人」的なもの、「平均人」的なもの、あるいは「平均的」的なものっていうのを絶えず、「他者」として、こっちにいつでも持っていなければ、どんな先端的な試みも危ういでしょうね、っていうふうに、ぼく自身は、そう考えています。
だいたいにおいて、ぼくが、現在、自分なりの考え方の都市論をやってきまして、いま、ここらへんまでは自分なりに解ってきたと思えているところは、そこらへんまでで尽きてしまいます。
だいたい、お話できたと思っていますが…。、一応、これで終わらせていただきます。
(拍手)
それからもうひとつ。ぼくなんかは、しばしばお目にかかりますけれども、浅草に行けば吾妻橋のむこうのほう、旧アサヒビールのところに、なんか…。ぼくらがその…大げさにはいわないけど、ようするに「うんこだ、うんこだ」っていう…。その、なんていうかこう、火の玉みたいな、黄金のナントカが屋上に造ってあるんですよ。これもまた、造ったひと(フランスの建築家だと思いますけれども)の、文句…といいますか、解説っていうのが、理念っていうものが、あるわけです。
ひとつはやっぱり、一種のシュールレアリスム的な異化作用と映像をこういった…、つまり、無意識のなにかに訴えるっていいましょうか、そういうことっていうのを自分は考えているんだ、っていうことを言っています。
もうひとつ、これはぼくは素人でわからないんですけれども、「スケール感をなくそう」っていうふうに考えたって言っています。その「スケール感」っていう意味がよくわからないんです。ようするに…「なんでこんなバカでかいもの、うんこみたいなバカでかいものを造っちゃったんだ?」っていう、「バカでかい」っていうことが、このひとの言っている「スケール感を無視した」っていう意味なのかなってふうに思うんですけれども、ほんとうはよく、なにを言おうとしているのかわかりません。でも、このふたつの言葉を、設計した建築家は主張といいますか、解説しております。
ところで、ぼくがときどき浅草に飲みに行って、ちょっとむこうを見たら「おや?」っていうか「まさか!」っていうか…。つまり、どう言ったらいいか…。…ようするに「バカにすんな」って…、そう思いません?いつでもこれを見ると「バカにしやがって」って思うわけです。でも、「バカにしてやんな」って…、言葉はなんでもいいんですけれども、思わせていることっていうのは「嫌なもんつくりやがったな」って言いましょうか、そう思わせて、「しかし、よくもやったねえ、造ったね」「大胆だね」って賞賛する感じと、「バカにしてやんな」「バカにすんな」っていう感じと、両方だっていうふうに思いますけれども。あの、ぼくは、そうですけれども。そう思わせることは、たぶん、kの設計家の意図に入っていたっていうふうに、ぼくには思えます。つまり、見るたびに「バカにすんな」っていうのと、「へえ~、やるね!」っていうのとが、両方あるわけです。
すると、たとえば、糞尿譚ではないですけども、糞尿っていうものは、第一次産業の肥料なわけです。エコロジストが…まあ有機農法っていうのはそのまんま今でもそうでしょうし、そうでなくても、農業、第一次産業の出発点、起源っていうのは、そこから始まったわけです。つまり、このひとは(そんなことは考えていなかったでしょうけれども)、ぼく流の理論的な割り方をすれば、このひとは要するに、第一次産業を「あたまに載せようとした」んです。第三次産業の「あたまに載せようとした」っていうところがミソだっていいましょうか。つまり、このひとがやったことはなにかっていうと、第一段階、第一層というもの、産業の第一段階っていうようなものを、第三次段階の頭に載せるっていうふうに考えたんです。
頭に載せますとどういうことになるかっていうと、要するに、誰だってやっぱり「このやろう」と思ったり、「なんでえ、バカにすんな」って思ったり、「いやあ、すごいことしやがるな」っていう。これは万人に対して…、浅草区民…台東区民か知りませんけど、地域のひとだけじゃなくて、全部に対して糞尿を振り撒いているのと同じこと。まあ、糞尿のイメージを振り撒いているわけですから。
そういうことを頭の上からやっていくっていうのが…。地面にこういうのを造られていれば、またいで行ったり、そこをよけて行ったりすればいいわけですけれども、頭にあるわけですから。誰でも仰ぎ見てしまったりしますから。誰でも多少は被害を免れない、糞尿の被害は免れないっていうふうに、ちゃんと造ったと思います。そう造ったかどうかは別として、この建築家のやった設計の意味っていうのは、そういうもんだっていうふうに思います。
これは、ある程度、エコロジストの考え方と似ているわけです。つまり、全部が第一次産業、全部が自然相手の産業である原始未開的な社会っていうのが理想の社会です、そういうふうになったほうがいいんですとか、緑を大切にして都市のビル街のような索漠とした街地みたいなのは無くなっちゃった方がいいんだっていう考え方と、たいへんよく似ているわけです。
どういうふうにすればエコロジストの考え方を実現できるかって言うと、エコロジストが国家を掌握して、政府を作って、こういった大都会をみんなぶっ壊せばいいわけです。ぶっ壊して原っぱとか耕作地にしちゃえば、エコロジストが主張しているようになりますよ。理想的になるわけです。だけど、そんなこと、どんなキチガイが考えたって、おかしなやつが考えたって、いまさら出来上がったビルを、政権を取ったらみんなぶち壊せって、ヒットラーもやらなかったことですよ、そんなことは。作り変えることはやったけれども、ヒットラーもやらなかったことです。でも、エコロジストが主張していることはそういうことですよ。
だけれども、よくよく考えると、エコロジストが主張していることと同じことをやろうと思えば、イメージでやる以外にないわけです。そうすると、これは唯一のやり方なんですよ。唯一のやり方だっていうふうに思います。つまり、ぼくはこの建築家はエコロジストか、超モダニスト、つまりハイパーレアリストか、どっちかは知りませんけれども、どっちか…たぶん、後者のほう、ハイパーレアリストではないかっていうふうに思えるんですけど、しかし、行きつくところはエコロジストと同じことをイメージでやったということの意味になります。
多分、ぼくの感受性が正しいとすれば、万人、誰しも、やっぱり浅草の吾妻橋の下のところまで行って思わず見ちゃったっていった場合には、多分、「ええ!?バカにしてやがるな」っていうふうに思いながらも「しかし、よくもやったねえ」っていうふうに感心したり、「このやろう」と思ったり、どちらも思うと思いますけれども。ぼくの感受性が正しければそうだと思います。
ご当人はそうは言ってないで「浅草の地域のひとたちも、企業人もよろこんでくれた」って書いてありますけど、「本当かね!?」っていう…。よろこびもしたでしょうけれども、「よせやい」ってふうに思わなければ嘘でないかっていうふうに、ぼくには思えます。でも、このひとがやったことには、エコロジストのイメージを天上から振り撒くやり方だっていうふうに思います。
それが、都市っていうもの、先進社会での都市のあり方っていうのを壊さずにできる、多分、唯一のやり方だと思います。だけれども、これが理想のビル設計の仕方とか(中にも入ったことがありますけれども)、都市はこういうふうに、エコロジストのいうようにすればいいのかっていうふうになっていけばなかなか…それは、エコロジストのいうように具体的なやり方っていうのはどうしようもない、キチガイのやり方ですけれども。つまり、ビルなんかみんなぶち壊さなくちゃならないわけですけれども。そうじゃなければ、何らかの形で人工都市を、上からいつでも糞尿を振り撒かれているように人工都市を造るっていうような設計の仕方っていうのは、なにかすればイメージとしてできるのかもしれませんですけれども(まあそういうやり方が唯一だと思う)。ぼくはしかし、それは、理想的な都市のあり方とか、理想的な建物のあり方とか、理想的な国家社会のあり方だっていうふうには、ぼくには到底、それは思えないわけなんです。
理想じゃないならどうするんだ、いまさらどうしようかって言っても遅いじゃないかっていう地域もありまして、つまり、日本も含めて先進社会っていうのはそういう議論にはなるはずもないし、そんなこと言ったって、そりゃ、どうしようもないんだよっていうふうになります。で、理想の社会をつくるならば、人工都市を造る以外にないっていうふうに、日本だってなっていると思います。人工都市ならば、まだ日本っていうのは、さきほども言いましたように、山岳地帯が多いですから、可能性はたくさんあります。海にも囲まれていますから、ぼくは、可能性はあるっていうふうに思います。
しかし、生のまんま可能性があるのは、ぼくは、第三世界だけだと思います。ぼくの言葉で言えば「アフリカ的段階」なんですけれども、アフリカ的段階だけには、その可能性があるように思います。しかし、その可能性も、アフリカや中近東の為政者が実行するなんて、到底、ぼくには思えないんですけれども。しかし、理想的なあり方は可能だっていうふうに思います。それは、どこが違うかっていいますと、ほかの地域とどこが違うかっていうと、森林とか草原みたいなものが広々としてあるっていうことだと思います。だから、そこでは生のまんまの可能性、やりようによっては可能性があると思いますけれども、そこぐらいしかないと思います。
日本でやろうとすれば、山を削っちゃうか、海に出っぱっちゃうか、それじゃなければ第二次産業がすこし衰退してきたところの地域を使って人工都市を造っちゃうみたいな、そういうやり方をするか(政府が■■にやったみたいな)、それしか、まあ、ないでしょうけれども。
しかし、現在、吾妻橋のアサヒビールは、これ…。建築家としてどの程度で、どう評価されているのか知りませんけれども、フィリップ・スタルクっていうフランスの(わりあいに若手だと思いますけれども、)建築家が設計したもんなんだそうです。「■■もよろこんでくれるし、地域のひとも大変よろこんでくれる」ってふうに自分では書いてありますけれども、話半分に聞いた方が、ぼくはいいと思います。半分はよろこんでいるかもしれないけど、半分は「バカにすんな」って思っていると、ぼくは、そう考えます。
これは、試みっていうのは先鋭的なっていうか前衛な試みで、ぼくは意欲的には十分で「いいな、結構だな」っていう…。つまり「現状には不満である」ってことでやっているわけですから、「こんだけ意欲があればいいよな」っていうふうに思いますけれども。
さしあたって、東京っていう都市がモデルであるように、第一次産業、つまり農業みたいなものが、0 2%ぐらになっちゃうってことは避けがたいことだっていうふうにお考えになるのが、たぶん、(怖いことだけれども)常識的だっていうふうに考えたらよろしいんじゃないかと思います。国家社会の問題としても、そうじゃないかと思います。先進国からどんどん第一次産業がゼロに近いところにいくだろう、っていう。あるいは、それをやらないならば、第一次産業を天然自然を相手にする産業からハイテク産業に変えちゃうっていうやり方をするか、どちらかだと思いますけれども。
そうしたらば、不均衡はどういうふうに生じるかっていったら、東京と地方との不均衡と同じように、それから類推すればわかるように、第三世界、つまりアフリカとかアジアのある部分とかが、農産物、第一次産業担当地域になってしまって、そして、先進国からだんだん第一次産業がなくなっていくっていうような、そういうタイプの社会が、黙っておけば、そういう社会が近未来のうちにできあがるっていうふうに思います。そのとき、その不均衡をどうするんだっていうことになります。
つまり、何が不均衡なのかって言ったら、所得がまず、不均衡です。天然自然を相手にする産業に従事している限り、貧困から逃れられないっていうことが、経済学上…っていうと、ぼくは経済学者じゃないから「生意気だ」って言われるからそう言わないで、経済工学って言っていますけれども、経済工学上の定理ないし公理です。だから、農産物担当地域と漁業担当地域っていうのが世界中で貧困を背負うことになり、先進国はコージーな社会を実現することになり、この不均衡をどうするのかっていうことになります。
ぼくらの考え方からすると、贈与っていうこと…つまり、ただでやるっていうことですけど、贈与っていうことが経済工学上、問題になってくるっていうふうに、ぼく自身は考えています。贈与の問題が出てくる。
価値交換、つまり交換価値ないし価値を主体とする経済学っていうのは、そこでアウトってことになるだろうっていうふうに思います。つまり贈与価値ってものを主体とする経済工学上の考え方をしていかないと、だいたい、この不均衡というものは世界的なところで是正できないだろう。それは、やがて、わりあいに近いうちにやってくるでしょうっていうふうに、ぼく自身は考えています。だから、そこのところで、国家社会っていうのはどういうふうになったら理想なんだっていう問題に対する解答を、やはり、いつでも問われているって考えられたらいいっていうふうに、ぼくには思えます。
だから、この問題を小なる領域で…、小なる地域、ビルディング内部でもいいんですけれども、そういうところで、そういう問題を提起していく。第三の系列に属している、つまり異化領域っていうのが、その系列に属している場所だっていうふうに、ぼくには思われます。
もうひとつの系列の領域があります。これは要するに、みなさんがビルの窓からちょっと眺めれば、すぐにみられる風景っていうのがそうなんですけれども、となりのビルで事務かなんかをやっている人影がみえる。で、そのビルの窓越しに、JR線の電車が走っていたら、その中に乗客が立っているのが見えたとかっていうふうに、かつては一視野の中ではとうてい納まりがつかないような、そういう風景が…、つまり、何視野もなければそれだけの風景は見られないっていうようなそういう風景が一視野の中にも重なって見えてしまう。もっと簡単なことを言えば、ビルの密集地域みたいなものです。これは、やはり重要な…これをまあ第四の系列っていふうに考えますと、これもとても重要な問題をはらんでいるんじゃないかっていうふうに、ぼくは考えました。
そして、およそこの四つの系列を作りますと、イメージとしての都市っていうものは、だいたい尽くせるっていうふうに、ぼく自身は考えました。そのうち重要なのは、今申し上げました異化領域っていうものと、視野が重なりあって過密しているイメージです。つまり、過密したイメージがいつでもつくれる、いくつもの視野を想定しないとこれだけの(風景は)見られないっていうのは、そういうふたつの領域が、今も重要でしょうこれども、これからの重要な領域になるんだっていうふうに、ぼく自身は考えました。そして、それだけを考えれば、だいたい、現代の都市っていうものが持っているイメージというのは尽くせるというふうに考えて、その四つの系列を選びました。
いま申し上げました重要だというふたつの系列につきまして、もうすこし、ぼくは考えることができたわけです。その「もうすこし」というところを、申し上げておきます。
いま考えることなんですけれども、第一に「どういう都市というものが平均的な都市だろうか」っていうことを想定するとします。そうすると、日本の場合は、平均的な都市っていうのは(都市も、農村も、含めていいんですけれども)、平均しますと、だいたい、第一次産業(つまり農業、漁業、林業)のパーセンテージっていうのが、人口でいいますと8点何%、だいたい9%ぐらい。農業について言ってみますと、そのうちの専業農家っていうのが、また、そのうちの14%。つまり、8%くらいのうちの、また14%が、専業の農家です。ですから、かなり少ない農業人口になってしまいます。
あとは兼業の農家です。兼業の農家っていうのは、ふたつありまして、ひとつが主たる農家の働き手が正規の会社勤めをしているっていう兼業農家が、第一種っていえば第一種なんです。それから、第二種っていうのが、主たる働き手が(従たる働き手でもいいんですけれども)、パートならパート(あるいはアルバイト)でちゃんと毎週決まって働きに行ってるっていう、そういう兼業農家っていうのがあります。でも、それが、日本の農家の大部分です。
ですから兼業農家が大部分で、専業農家っていうのは、8%×14%にすぎない人口が農業をやっています。よくよく考えると、大変こころぼそいっていうことになりますから。論理としてだけ言えば、農業の自給自足っていうようなものとか、農業の自由化を阻止するとかっていう言い方っていうのは、まったくナンセンスっていうか、成り立たないですよ。だいたい、8%×14%にすぎないひとが専業農家って、それだけしかいないわけですから。それで日本国なら日本国の食料を自給しようなんていうのは夢のまた夢っていうか、■■論であるってことがわかります。これはまた、だんだん減っていく移行でもあるわけです。
つまり、その種の論理っていうのは、もう、なんていいますか、原則、現実的にいえば問題にもなにもならない。ぼくの基準ではちっとも知的ではない、思想的ではないんですけれども。その手の論理っていうのには、うんざりだなって、ぼくには思えます。つまり、現実的にはもうそうなっているので。
第二次産業、つまり製造業とか建設業そういうのがだいたい人口で言って33%くらい、第三次産業、サービス業とか流通業とか娯楽業とか医療教育とかそういう産業が人口で言って57%、生産額でいえば60%ちょっとというふうになっています。
だから、言ってみますと、異化領域っていうものの場合に、ビルの中の一次産業的なもの(つまりビルの中における自然的な、地べたにあるべきもの)と、製造業・組み立て業的なものと、サービス業的なものとか流通業的なものが、だいたい今のパーセント、つまり8%、33%、57%っていう割合でひとつのビルの中に含まれているとすれば、それが日本の平均的なビルのあり方だっていうことになりますし、また、それと対応するように、日本における平均的な都市のあり方っていうものは、そういう割合であったらば、日本における平均的な都市のあり方だっていうことになると思います。
平均的っていうことは、かならずしもいいとか悪いとかっていうことで言えば、中性点、中立点であって良くもないし悪くもないって、そういう点だって思います。しかし、別の意味からいえば、この平均点っていうのが、精神的な問題でいえば、非常に常識的なって言いますか、非常に正常な判断力が存在できる点だっていうふうに言うこともできます。
ですから、都市が(東京なんかはもちろんそうですけども)、大なり小なり平均的なパーセンテージから偏っている。あるいは、ひとつのビルの中の構成割合が平均的なパーセンテージから偏っているとすれば、そのビルは偏っているっていうことだから(いいビルかもしれないし悪いビルかもしれませんけれど、それを判断するのはまた違う分析をしなければいけませんですけれども)、平均から偏っているということは間違いないと思います。平均っていうのは良くも悪くもないってことですけれども、逆に言いますと、それが基準ですよっていうか、常識ですよってことになると思います。
そして、大なり小なり、現実の都市っていうのは平均からずれるように出来上がっていますし、ずれる方向に行ったり、マイナスのずれか、平均のほうに近づきつつあるか、そのどちらかのかたちが、現在の日本の全体の社会で占めている感じ方、占めている状態ではないかなというふうに思われます。そしてそれが都市の領域だっていうふうに思います。
ですから、今申しました通り、異化領域っていうのを考える場合に「ビル=都市である」っていう、そういうひとつの外枠って言いましょうか、モダンな言い方をすれば、たぶん、パラダイムなんでしょうけれども、その「都市=ビル」っていうパラダイムをつくって考えれば、都市における異化領域の問題は考えやすくなるっていうふうに思います。
都市の枠組みもまったく同じように存在すると思います。それが現在の平均的な都市からの「ずれ」の問題です。たとえば、ビルの将来がどうなっていくだろうかっていうことについて極端にいえば、第三次産業層といいましょうか、第三次段階がもう100%近くを占めてしまうという、そういうビルっていうふうになっていくかもしれませんし、そうじゃなくて、第一次産業だけがなくなってしまうっていう(現在の構成がわりにそれに近いと思いますけれども)、そういうふうになってしまうかもしれませんし、さまざまな形態が考えられています。
現在ではまだ、第三次産業、第三次段階っていうものがビルディングの全部、100%を占めているビルっていうのは少ないと思います。少ないっていうのは、少しはある。たとえば東京タワーみたいなのが、たぶん、そうだと思います。ひとつのビルがひとつの観光会社であるとか。
同時にひとつの都市の対応で、人口が5万とか10万人、そこに、24時間じゃないですけれども、人口が15万とか10万とかっていう都市ができあがっていって、その数が増えていくだろうっていうのは、たぶん、近い将来にそうなるだろうって思います。それを止める力っていうのは、まず、存在しない。
存在しないわけじゃなくて、たとえばナチスドイツ、ヒットラーの国家権力■■を見たときに、やっぱり一般維持のほかに、たとえば総統兵みたいなものを臨時につくって、「この都市はこうでなければ」なんとか、「こうすべし」とかいう人工的なことをやっちゃって、都市のあり方とか、ビルディングの作り方とかっていうものに対して、統制を加えたっていうような事実があります。そういう強制をするような、あまり望ましくない政府っていうのができたら強制はできるでしょうけれども、そんなに長続きするもんではないと言いましょうか。文明の一種の自然な方向性ってものを変えるってことはできないので。多少、遅くするか早くするかっていう違いがあるくらいで、ぼくは、そういう勢いっていうのは止められないと思っていますから。
第三次段階、あるいは第三次の層だけでできあがった、つまり、ビルそのものが一個の都市を成す…。たとえばプランだけなら、きっと、現在でもいくつか…、ふたつかみっつ、そういうプランが出ていると思いますけれども、超高層ビルみたいなものをぶっ建てて、そこで、ひとつのビルが、ひとつの2~30万の人口を持った都市として作ってしまうっていう…。下から上へ、下から上へ行くには、その、なんかこう、リニア装置がついたエレベーターみたいなので行っちゃうとか…、そういう、プランだけはあると思いますけれども、その手の1ビル1都市っていいましょうか、そういうビルが造られる、そういうふうになっていく可能性も、わりあいに近い将来に多くなるだろうっていうふうに、ぼくには思われます。それは、おいおい増えていくだろうって思いますし、いかようなこともできるだろうっていうふうに思っております。
それから、もうひとつは、やっぱりまったく、ビルだけじゃなくて都市自体を人工都市としてつくってしまうっていうような、そういうかたちっていうのも、できあがっていくだろうっていうふうに思います。そこでも「どういうのが理想的な人工都市なのか」っていうことが、直ちに問われると思います。
いろんなところから問われると思いますけれども、いちばん解りやすいのは、第一次段階の産業と第二次段階の産業と第三次段階の産業とを、人工都市の中でどういうふうに按配し、どういう割合でつくれば理想かっていうことが、直ちに問われてしまうと思います。人工都市の■■っていうものが。
現在でも、人工都市に類似したものが存在しないわけではありません。現在あるのは、全部が消費都市だっていうふうに考えたほうがいいように思えるんですね。たとえばそれは「東京ディズニーランド」であったり、大阪の西武がやってる「つかしん」であったりっていうのは、全部が消費都市っていうかたちに、人工都市のモデルっていうのは、つくってあります。
しかし、もしも郊外とか山を切り開いて「理想的な人工都市をつくれ」ってことになったとした場合に、どういうふうな割合で、どういうふうにつくればいいかっていうことは、直ちに問われるだろうというふうに、ぼくには思われます。
つまり、そういうふうに考えて人工都市が設計され、つくられたっていうことは、現在までのところ、日本では存在しないわけです。
日本では、せいぜい建築家っていうのがいて、建築家の良心に訴えている。つまり「緑が大切」だと思う建築家はこういう設計をしているとかっていうようなかたちでつくられている都市とか、いわゆるニュータウンっていうのがありますけれども、それは、必ずしも理想的につくられているわけではなくて、それはまあ、設計者だとか、施工者の良心的なあれでもってつくられている。たとえば、現在みたいに「緑が大切」みたいなふうに社会的に言われていると、やっぱり建築設計家もそういうことを考えたりとか。まあ、建築家としての理論的な問題というのも、もちろんあるわけですけれども。そういう理論的な問題に照らして、自分の理念に適う建物を設計してつくるとか、都市をつくる、街区をつくるとかっていうものはあるわけですけれども、「ほんとうに理想的な人工都市っていうものはどういう都市を指していうのか」っていう問題について、きちっと考えてつくられた都市っていうのは存在できない、しないわけです。
存在しないから、理想的なとはなんなんだっていうことは、決めるのがなかなか難しいですけれども、しかし、これは専門家の衆知を選りすぐって…っていうふうにもっていけば、容易にっていいますか、わりあい簡単にっていいますか、はじき出すことはできるっていうふうに、ぼくには思われます。
つまり「はじき出すことをしない」ってだけであって、また、「はじき出した設計をして、かつ、それを実行するっていうことが為されていない」っていうだけで、はじき出すことは容易にできるだろうっていうふうに、ぼくには思われます。
これは、先ほど言いましたように、それじゃあどのような社会が理想的な社会かっていうようなことも、はじき出すことだけならば、これは、できると思います。そういうふうに専門家が寄り集まったりすれば、できると思います。それこそ「理想的な社会、国家社会っていうのはこうだ」って、「わかってるつもり」のやつが寄り集まって変な国家をつくっちゃったりして、いま失敗したりしていますから。主観的に「これがいいな」とか、知的、知識人的に「これが理想なんだ」っていうふうに言ったってこれはちっともあてにならないので。他者っていうのが…。理想的な設計には「他者」っていうのが要るわけなんです。
どこに「他者」っていうのを想定するかっていうのは、ぼくの場合は単純なんです。つまり平均値っていいますか、川崎徹さんの言葉を使えば「一般大衆」ですね。「一般大衆」っていうものが、理想の国家社会をどうつくるかっていう場合の、唯一、「他者」になりうるっていうふうに、ぼくは、考えています。
その「他者」っていうのを絶えずにらまえて■■なり理想ってものをはじき出さないと、ようするに失敗しますからね。つまり、ソ連や東欧みたいに失敗しますから。主観的なゲインだけとか、インテリのうぬぼれとかそういうのだけでやっちゃったから、ああいうことになるわけなんで。一般的な知者、あるいは言うことを聞く大衆だけを目当てにしてつくるからああいうことになるので。
そうじゃない、言うこときくかきかないかわからない「一般大衆」、つまり平均人っていいましょうか、そういうひとを「他者」として照らし出さなければ、たぶん、仮にはじき出していても失敗するだろうっていうふうに、ぼくには思われる。
つまり、「現代国家社会っていうのはどういうのが理想的なのか」っていうのでいちばん難しいのは、そういうことのような気がします。
それから現実的な条件としては、かつては「一般大衆」っていうのを想定しても「もしかすると明日お米が食べられないかもしれないぜ」っていう、そういう意味合いの貧困っていうのが想定できたわけですけれども。現在の(日本もそうですしアメリカも欧州もそうですけれども)「一般大衆」っていうのは、「おまえの生活レベルはどれくらいだ?」ってアンケートをすると、だいたい80%から90%近くのひとが「自分は中流だ」って、主観的にそう言うわけです。
具体的にいうとぼくもピーピーしてますし、ピーピーしてるひとってのが多いと思うんだけど、「ぼくはピーピーしてるから下層だ」って言うと、やっぱり怒られちゃうだろうっていうふうに思うんです。そういうこととは少し違いますけれども、でも、自分が中層、中流だって言っているひとがだいたい日本国民の80%から90%いるっていうから、恐るべき社会なんだって…。これで「平均人」ってバカにすると、そうとう大変なひとたちの塊だっていうことになって、これを「他者」として想定しないかぎり、「理想の国家社会」っていうのはどうなんだっていう、その「理想」といったイメージはつくれないと思いますし、「理想の都市とはなんだ」っていうのを、もし「人工的につくってみせろ」って言われた場合でも、よくよくそういうことを考えなければつくれないっていうふうになっていると思います。つまり、ほんとうの難しさっていうのはそこにあると思います。
ひととおりの理論で言えば、平均人といいますか、平均都市っていうものを「他者」として理想の都市っていうものの設計を考えれば、それは、だいたいにおいて大過ないっていうふうなデータが出てくるというふうに、ぼくには思われます。それはつくられてはいませんけれども、つくろうと思えばつくれるというふうに思います。
つくれる場所は、日本にだってふたつあります。日本では、都市、街っていうのは、「後ろが山であって前が海で、平地のまんなかに川が流れて海に注いでいて、その山間といいますか、山と海岸線のところに平地が広がっていて…」っていう、そういう場所に都市、街ができるか、それじゃなきゃ、「かなりの標高がある、低い山に囲まれた一種の盆地」なんですけれども、海岸線から高い一種の盆地なんですけれども、大雑把に言えば、日本の街ができる地勢っていうのは、その二つしかないわけです。
ですから、悪いことをいいますけれども…。ようするに「森林を伐採するのはけしからん」っていうけれども、日本の場合、山岳地帯っていうのはべらぼうに多いわけですよ。だから、「森林を伐採して平地にして」っていうのは、ぼくは、それ自体が悪だっていうふうにはちっとも思っていないですから。日本っていうのはほんとうに狭い、山と海とに囲まれた狭い地域とか、山の中の盆地とかって、そいういうところに街がつくられている。その面積は、みなさんデータをお調べになればすぐにわかりますけれども、非常に少ない領域です。ですから、人工の都市っていうのをつくる可能性は、たくさんございます。
もちろん、海のほうに広げるっていうのは安直ですから、いまでもやられています。東京でもやられていますし、いちばん見事にやられているのは福岡だと思いますし、また、きっと、そいういう意味で都市としては発展するだろうなっていうのは一番ですけれども。そういうことは一見、やられていますけれども、そうではなくて、人工的な都市をつくれっていう場合には、やっぱり内陸部の地面を削る、山を削るっていうことになっていくのではないでしょうか。
つまり、それくらい日本の街っていうのは全体としていえば狭いですし、森林が伐採されているっていいますけれども、森林が伐採されている度合っていうのは極めて少ないです、日本では。少ないっていうことは、みなさんがデータを広げてごらんになれば、すぐにわかります。それほどイメージが狂ってしまう。違っちゃうんですよ、社会的通念としていわれているイメージと。ほんとうにみなさんが眼を皿にしてデータを調べてってされたのとは、まるでイメージが違ってしまうっていうふうになると思います。つまり、そこの問題っていうものが、異化領域の問題として、もっとそれを広げていきますと、その問題っていうのがが存在するだろうって、ぼくには思われます。
それから、視野が重なっている過密領域、重畳領域ということになりますけど、これにはいくつかのイメージの特色があらわれます。そのいくつかを挙げておきましたけれども、ひとつは、イメージと現実との区別が…、何と言いますか、あまりに重畳現象が極端で視野が十人分くらいはすぐに集まって重なって見えちゃうとそういうかたちになってくると、イメージと現実とが同一化してしまうっていうか、融け合っちゃうというような現象がおこります。
つまり、錯覚としてなら誰でも、みなさんも経験したことがあると思いますし、ぼくも経験したことがあります。しかし、錯覚…、あるとき「おやっ」と思っちゃう、これは現実の、たとえばビルから見る光景が現実とは思えないよって、あるとき、ある瞬間に感じたっていうのは誰にでもあるでしょうけれども、そういうような現実とイメージとの融け合いっていうことが起こってしまうっていうことが、ひとつ、重要なことだというふうに、ぼくには思われます。
ぼくが唯一、具体的な視点で見たのは後楽園の遊園地なんですけれども、後楽園遊園地で観覧車に乗りまして、ジェットコースターとかが走っている設計を見たときの視野が典型的にそうですけれども、後楽園内部の建物とかジェットコースターのレールもそうですけどそういう設備とか、その周りを取り巻いている低いビル(三階とか四階とかのビルが多いですけれどもそういうビル)とか、その向こうの後景に見えるわりあいに高いビルとか、そういうものとの区別がまったくつかない。まったくつかなくなるということが、とてもよくわかります。つまり、街中にある、ああいう人工的なキンダーランドというか、こどもこどもした稚拙な場所っていいましょうか、そういうものが街なかにあるとしますと、ある視角から見ますと、もう、どちらが…つまり、街なかのほうが遊園地の続きなのか、遊園地のほうが街なかの続きなのかっていうのは、ぜんぜん区別がつかないっていうふうな景観というのを体験することができます。ぼくは少なくとも、観覧車に乗ったその視角から見ました後楽園の遊園地っていうのはそういうふうに見えまして、大変興味深い場所だっていうふうに、ぼくは思いました。
つまり、その手のことっていうのは、あるとき、ある瞬間、誰でも体験するってことが起きるそうなんですけれども。そういうふうに重畳領域における作用っていうのは、それに視覚が慣れていく、視覚的イメージが慣れていく作用っていうのは、イメージと現実のものとの区別がだんだん融け合ってしまうっていう、そういう体験だっていうふうに思われます。
たぶん、現在では密接に、もっとこういうふうな体験を機械的にすることができる装置ができていると思いますけれども。それは機械的な装置っていうんじゃなくて、具体的に現実に都市の中の場面として、そういうふうに重畳した領域っていうのは、イメージと現実的な街との境界が融け合ってしまう、わからなくなってしまって、同一化するっていうことが起こります。もうひとつ起こることがあります。これもたぶん、都心でもある場所からある視覚であれば必ず、境界が融け合ってしまって、映画でも観ているような感じだなっていうのを体験することができるんじゃないかというふうに、ぼくは、思います。
もうひとつ、ぼくが行楽に行って、境界の喪失、融けてしまうっていうのを体験したのは、名古屋から30分くらい行ったところに長島温泉っていう俗悪無類というふうに言われている温泉場があるんですけれども、そこは、やっぱり、ぼくはびっくりしたところなんですけれども。
旅館、温泉旅館がビルになっていまして、もちろん温泉が中に引いてありますし、共同浴場もありますっていうふうにできているわけです。ビルの中にそういうのがありまして、共同浴場から自分の部屋に帰る途中、手ぬぐいひっかけて部屋まで帰る途中の両側にスタンドがあったり、バーがあったり、飲み屋があったりして、「お湯に入った帰りがけに一杯ビールを飲んで」っていうことがすぐに…通路から■■ってあれすれば、それができるっていうふうにちゃんとできてますし、朝は朝市がビルの中に立ちまして、朝市ですからもちろん、第一次産業の海産物とか干物とかがビルの中で買うことも見ることもできるっていうふうになっていました。
それから下駄…をつっかけたら怒られちゃうから、靴を履いて庭におりますと、庭の続きが後楽園遊園地みたいなキンダーランドっていいますか要するに遊園地になっていまして、ジェットコースターもあれば観覧車もある。こどもとおとなが遊べる、何でもある。おまけにヘリコプターの基地まであって、ひとり2500円か3000円か、それくらい出せば、ヘリコプターでそこから飛び立ってあたりを4,5分か3,4分か見せてくれて戻ってくるみたいな。それがちゃんと庭続きでそういうふうになっているっていうことで、そこでもやっぱり境界が融けてしまう、境界がなくなっちゃっているわけです。
ぼくは大変感心しました。ここまでやれば…。ぼくは極端って言いますか、温泉場といえば深山幽谷の山の中のお風呂場で人里離れてたまにはゆっくりしたいなっていうふうにも思いますけれども、長島温泉的に「あそこまでやればそれはもう、どうしようもないよ」っていうくらい…、すごいんだなと思いました。つまり感心しました、ぼくは。
感心して…、、金は取られるわけですけれど、うまくできてまして。不愉快とか不便とか思うことはなにひとつないわけです。サービスからなにから、なにひとつ、不愉快、不便に思うことはなにひとつないわけで、そういう意味で至れり尽くせりなわけです。
深山幽谷の温泉場もいいですけれども、その場合には、やっぱり、多少「なんとかが不便だな」とか「ここで一杯呑めたらな、でもそれはちょっとできないな」とか「ここで何々を食べたいんだけどそれはできない、無理だな」とか、いろいろ…、制約を犠牲にするわけで、つまり第二次産業、第三次産業を犠牲にして、深山幽谷で休むわけですけれども。
こっちのほうは、そういう意味合いではもう、至れり尽くせりで文句つけさせるところは(金だけですね、金が高すぎるっていう文句をつければ別ですけれど、それ以外には)何もないっていうのは、これはひとつの極限の見事さで「ここまでやるんだな」っていう…。ここまでやるんなら感心する以外にないよ、やっぱり一種の未来都市、未来像だよっていう感じなんです。だけどまあ、そういうことばっか言うってもほら、よくこのごろは怒られるわけですけれども…。
なんかのついで、歌詠みの会でおしゃべりするので名古屋に行ったんですけれども、「今日はこれからどうされるんですか」「俺はこれから長島温泉に行くんだ」って…。ほかは一杯でそこしかなかったんだって、長島温泉に行くんだって言ったら、みんなニヤニヤ、ニヤニヤするわけです。「なんて俗悪なところに行くんだ」っていうふうな顔してみんなにニヤニヤされたんで、「あっ、そうか、そういうふうなのか」っていうふうに思って行きましたら、それはもう、とんでもない間違い、インテリの間違いだっていうふうに思いますね。
あそこまでやって「これが理想だ」っていうふうに、もし、言うならば、それはやっぱり、考えなくちゃいけないってふうに思います。たとえば日本の国家社会っていうもの、アメリカの国家社会、フランスの国家社会とか欧州共同体とかっていうのがどういく可能性があるかっていうと、やっぱり、そういく可能性が一番多いと思います。
それがほんとうに理想かどうかっていうのは、金がかかりすぎるとか、まあ、色々たぶん出てくる。ほかのなんとかを犠牲にしてるんだっていう、いろんなことがつきまとうんだっていうふうに思います。しかし、これが理想だっていうふうにいく可能性が、一番、多いと思います。これはバカにすることはできないと、ぼくは、そういうふうに考えています。
これをバカにすると、ソ連・中国型、東欧型っていう、どうしてもそういうふうになっていく可能性っていうのが多いんですよ。だから、ぼくはこれをバカにしちゃいけないぜ、この問題はやっぱり大検討しなくちゃだめだぜっていうふうに思います。ぼくは長島温泉っていうのは感心しました。境界が融けてしまうっていう、第一次産業的なもの、第一段階的なものを内包しちゃうっていう、ビルの中に内包してしまうっていう、そういうはたらきっていうのを完全に造っちゃってるわけですけれども。そういうことを、見かけ上はやっちゃっています。つまり、これを徹底的にやっちゃっているから、誰も不愉快じゃなくて…。これは言ってみれば一種のユートピア(逆ユートピアって言ってもいいんですけれども。初期の社会主義者が夢想したものから比べれば逆ユートピアなのかと思うんですけれども)っていうのに違いないんで、「どこも不愉快なところが何もない、金さえやったら文句ない」っていうふうに、だいたいなっているっていうふうに、ぼくは理解します。
これは、重畳領域の問題としては、重要な問題のひとつになるというふうに、ぼくは思います。
この問題っていうのは、さまざまな模索のされ方をしていると思います。
たとえば、こういうのを具体的に設計するのは都市設計家であるとか、あるいはその中にどういうビルを配置していくかっていう場合には建築家とかっていうものが主体になってプランを立てるわけでしょうし、それからお金のある私企業とか地方自治体とかが施工主として金を出すわけでしょうし、材料をあれしてきて具体的にやるのは技術者であり、工務店さんなりっていうふうになるわけでしょう。
つまり、さまざまなひとたちが、さまざまなプランでもって、どれが理想的な都市で、どれがそうじゃないのかっていうことについてさまざまな試みをしているわけです。この場合には何が問題になるのかっていうと、建築とか都市とかっていうことが何なのか。どういう理念が、どういう考え方が理想なのかっていう、個々の建築家とか都市プランの設計家とか、あるいは建設企業の頭脳部の考え方っていうのが問われるわけだっていうふうに思います。そこで問われる問題が、理想の問題に対する施主の具体的な模索っていうことになっていくんだと思います。
ここでは、映像が高次化していくことに、どういう対応の仕方を具体的にしているかっていうことの、ふたつ、例を挙げてきました。ひとつは青山の製図学校、製図専門学校の新しい…、これは渡辺さんっていうひとが設計してやったものだそうですが…。写真としては、こうなんですけれども…。
つまり、何が問題なのかっていうと、ご当人の一種の説明っていうのを聞きますとね、このいちばん屋上のところにでっぱっている、もやもや、虫の頭っていうか、なんか触角みたいなでっぱりっていいますか、アンテナみたいなのがあるわけですけれども、そういうもの、どこにもシンメトリーがないように、言ってみれば生物の、昆虫の頭みたいなものが上のほうにでっぱってきているわけです。
ご当人の説明といいますか、ご当人が解説といいますか理念を述べているわけですけれど、ご当人が述べている理念としては、こういうふうに何故したかという理念としては、建築的な…建築学的なプロテクトというのがこういうとき一番上でやることなんだけれども、やめたんだって、そういう試みだっていうふうに言っています。
つまり、建築的なプロテクトの装置というのを使うのはやめたんだってことが、どれほどの理念的な意味があるかっていうことは、建築専門家的にはぼくはちっともわかりません。しかし、これが一種の天空、生のままの天空、ぼくらの言い方をすれば天上から下のほうに降りてくる視線なんですけれども、われわれがこのビルのてっぺんのところを見る場合に、具体的には視線をこういうふうにななめ上のほうにして見るわけですけれども、そのとき、これをイメージとして見ようとすれば、それに対して、いちばんてっぺんのほうから、もうひとつ視点が加わっているというところを自分がイメージすれば、この屋上のかたちというのはイメージしてみることができるわけです。
たぶん、このひとは、そういう天空の上からくる曝射っていうものに対して、プロテクトしない、なにもプロテクトしないっていうことを意図することによって、なんか、一種の「建築の存在根拠」みたいなものを主張しようとしたんだっていうふうに思えます。
このひとの解説は(解りにくい文章…、解りにくい、下手くそな字であって…、でも)、言いたいことはきっとそうだっていうふうに思います。「自分はアンチ・アンチロマン」なんていうような言い方をしていますけれども、そんなことはどうでもいいので。
要するに、一種の異化作用も含めて、こういうのをプロテクトなしに、上からの視線、天空からの視線に晒すっていうことを意図したっていうふうに思います。これが理想の建築であるか、それからもうひとつ言えば、もっと敷衍して理想の都市っていうのはそういうふうにすればいいのかっていうふうに言えば、たくさんの異論が出てくるだろうし、また、ほんとうにそうかどうかは、なかなかむつかしい、分からないわけです。だけれども、すくなくともこの建築家は、何かしようとしているわけです。つまり、なにか現状では飽き足らぬというか、「これでいいのか」「平均点でいいのか」「平均的でいいのか」っていうことになるのか…、あるいは、「東京はこれでいいのか」かもわかりませんですけれども、あるいは「東京をもっと悪くしてやれ」っていうのかもしれませんですけど…。とにかく「何か」をしようとしているっていうことは確かで、そのしようとする場合に、高次の映像化っていうのと、一種の異化作用っていうものとが混合して、ここに設計を試みて、実際に造っちゃったっていうことだと思います。
どうもありがとうございました。長時間、ほんとにどうもありがとうございました。
時間もちょうど予定の■■ですが、せっかくの機会でございますので、質問などあればお受けしたいと思います。
質問者:
先生のお話(雑音)生産活動っていうことで、一次産業、二次産業、三次産業ということで。それはまあ、ビルであったり、都市であったり、国家であるということなんですが。街とか都市って考えますと、生産活動っていうこともありますけれど、そこに■■、ひとが住んでいるわけです。そこで寝起きして、たぶん、お父さんがどっかビルっていうか街に出て行って、そしてそのお父さんがたまたま、第三次産業とか第二次産業に勤めに行きっていうことになると、こどものときから家庭は同じマンションなりアパートの中にあるんですね。そういう、なんか、生活を営んでいるっていう、そういう■■的な見方では、どういうふうに捉えたらよろしいでしょうか。
吉本:
ひとつ、消費社会っていうことの定義を申し上げましたけれども…。そいういうところで(マンション、アパートに)住んでいるっていう、それは何なんだって、そういうふうに言いました? それは必需系消費の領域ではないでしょうか。選択消費っていうのは要するに、都市の街なかで行われたり、街なかの半分以上がそういう選択消費の問題を対象として造られてきていると。もちろん、住宅地は大都市から…今はまだ少数はありますけれども、だいたい外へ…。大都市の、極限都市を考えますと、そこの中には決してそういうのは無くて、必需消費をしている生活の根拠地っていうのは、都市の外に(都市の近隣ではありましょうけれども、都市の外に)なる。いまのところ全部じゃないですけれども、そのうちに100%、都市の外に、住宅っていうのは変わるっていうふうになっていく可能性っていうのは、いちばん多いんじゃないでしょうか。
それで都市っていうのは、消費…、街の光景みたいなものを考えれば、例の中に挙げた街の構成っていうのを含めて考えれば、選択消費っていうことに対してどう立ち向かうかという、そういう問題が、「来たる課題」として出てくるというふうに考えればよろしいんじゃないでしょうか。
もうひとつ、こういうことまで言うと経済工学の原理的な問題になってしまうわけですけれど、「消費っていうのはなにか」っていうことになるわけです。ぼくの考え方は要するに消費っていうのは「遅れたる生産である」というふうに考えます。つまり、空間的、ないし時間的に遅れた生産のことを「消費」というような考え方です。
いちばん簡単に、わかりやすく言うと、原始時代に、ここに木の実があったからこれをその場で取って食ったと。取るっていうことがまあこの例では生産したってこと(■雑音で聞き取れず■)そうして食ったっていうことは、生産と消費とが同時なわけです。空間的にも同空間です。
ところが、文明が発達して消費社会ということになると、あるとき生産に誰かが従事した。その生産物が、どこで、誰によって消費されるか。遅れることは確かなんです。時間的、空間的に遅れて、隔たったところで誰かが消費する。でも、あまりにその隔たりが大きすぎて、その商品、製品がここで■■ってことが否定できない。見えなくなっちゃう。とくに消費社会における基本的な問題っていうのは、どこからどこが、その「消費とは遅らされた、あるいは遅れたる、遅延したる生産のことだ」っていう定義が、どこかで「これ以上遠くなっちゃったら(遅れがひどくなっちゃったら、時間的、空間的に遠くなっちゃったら)、もうその定義すら成り立たんよ」っていう、閾値っていうか、境界値があるわけです。消費社会っていうものが、どこに行こうとしているか、どこに来ているかと言ったら、もうこの閾値を超えちゃったよっていうところの話です。消費っていうのは確かに遅延された生産なんですけれども、これはもう浮遊したもの、フロートしたもので…消費としてフロートしてしまうというふうな考え方を取り入れなきゃ、こっちだって理論化できないよっていう段階かもしれないわけです。
もうひとつ考えられることといえば、住宅とか住んでいるところっていうのは、そのひとが今日も明日と同じように生産に従事するために生理消費(家賃であったり三度の食事を食べたり)をやって、そのことによって明日も今日と同じコンディションで働けるようにしている、命の手入れを生産しているところというか、生活を生産している場所が、要するに住宅地であって。それは多分、都市という選択消費という問題のところからは、場所柄も、空間的にも、時間的にも、おそらく違うところにいくだろう。
それは、ますますひどくなる。もし、新幹線よりもっと速い、なんですか、モノレールじゃない、なんていうんだろう…、そういうナントカみたいなのができたら、もっと遠くから通うことができる。もっと遠くに住宅を造っちゃうとかっていうふうになるだろうと思いますけれども。その手のことは、選択消費と生理消費の分離・分裂ということになりまして、特に選択消費のパーセンテージが大きな割合を占めていってしまえばしまうほど、そういうふうになって、都市と…大都市化していく都市と、住宅地というものが離れてしまう。場所柄的にも、空間的にも離れてしまうというふうになってくるんじゃないでしょうか。(■雑音でききとれず■)そう思います。
司会者:
それ以外にございませんか?
質問者:
あのー、平均的な都市っていうのは、私は無いんじゃないかと思うんですが。つまり現在の特色っていうのは、分業とか分化っていうのが、現代の特に高度な先進社会の特色だと思うんですね。それが地球規模っていうか、世界的な規模で行われていて、国内でも行われているんで、そういう意味では、さっき先生がおっしゃったような分け方でいうと、三次産業にどんどん特化していく、もしくは四次産業に特化していく。で、おっしゃった意味は、つまり平均を無視しちゃいけないっていうのは、存在としての現実っていうか、そういうものを無視しちゃいけないっていう意味じゃないかと理解したんですが。
吉本:
あの、それでいいんじゃないでしょうか。メタフィジカルにいえばおっしゃる通りでよろしいんじゃないでしょうか。
もっと具体的に言っちゃえば、八割も九割も「おれは平均人だ」つまり「中流だ」って言っているひとがいるんだから、このひとたちの存在とか具体的な欲求とか欲望とか、便利さ・不便利さとか、所得の位置とか、そういうものを無視しては都市も成り立たんだろうし、ベンチャーも成り立たんでしょうっていうふうに考えてもよろしいわけでしょう。
メタフィジカルにいえば、おっしゃるとおりじゃないかと思いますけれども。
質問者:
それでもうひとつは、分業がですね、分化が進んでいくと、逆にシミュレーションとしての抽象化というか純化みたいなものが進んで、それを求めていくところで、…つまり分化したところで純化を求めていくというところで、空白領域みたいなものが出てくるんじゃないかと思いますが。ディズニーランドみたいな。
吉本:
そう思いますね。とりあえずやることは、とにかく誰も考えたことがなくて、しかも、いままで考えられていたことが成し遂げて来たことよりも、少しでも良い結果をもたらされるもの、っていうふうに、機能的にもそうだし、もたらされるものを、いずれにしろ目指していくより仕方がないんですけれども、それをやみくもに目指していけばよろしいんだろうかっていうふうに、もし考えるとすれば、やっぱり「他者」っていうものをイメージにもって、それに対してどういう抽象性をもっていくかっていうか、それに対してどういう分化していくかっていうことを、いずれもこっちに置きながら考えていくっていうやり方をすることのほうがいいんじゃないかっていうことくらいなんだと思うんですけどね。
ぼくが今考えられていることはそういうことだと思うんですけれども。そこの問題ではないかと思うんですけどね。
司会者:
時間も過ぎましたですが、なかなかこういう機会もございませんので、どうぞ…。
質問者:
4つの像というのはよくわかったんですけれども、これはフィジカルな面だけを対象としていると思うんですが、実際は、人間がそれにくっついてくるわけですよね。やっぱり、それぞれの像の系列に対応するような共同体っていうのがあるんじゃないかっていうのは、思うわけなんです。
とくに一番目と二番目については、下町型のような街とかですね、まあ二番目だと、もうちょっとアパートみたいなところになるのかもしれませんけども。その共同体っていうのは、三番目、四番目…、まあ、未来型のほうの系列について、どんなふうに表れてくるんだろうかっていうことについてお話しいただけたらと思うんですけれども。
吉本:
いやー、考えていることでは、それはちょっと、あのー、何とも言えないわけです。
いい加減なことは言えるんですけれども…。つまり、いい加減なっていうか、自分の趣味だとか趣向だとかが含まれちゃっていることはできるんですけれども…。
ぼくが持っている、なんていうか、都市論に対する原則っていうのがありまして、ここから以上のことは、ぼくがいま自分がいる場所から言っても何の意味もないよっていうこととか、ここから以上のことを言っちゃうと、これは為政者の問題になっちゃう。政府要人とか地方自治体の要人とかが考えるべき問題になっちゃって、ぼくが今いる場所から言っても意味がないし言う気もしないよっていうふうな、一種の原則っていうのがあると思うんですよ。
おっしゃることっていうのは、たぶん、その…。ぼくだったら、あの、原則…。…言ったっていいけれども、それは俺の守備範囲じゃないよっていうようなことになっちゃうような気がするんです。だからあの…。だからまあ、せいぜい言ってもこのレベルで言っているんだとか、あえて自分の利害で言っているんだっていうことを含めてと言っちゃえば言えないこともないんですけれど、それはぼくの領域外…。
だから、あなたのお考えでよろしいんじゃないでしょうか、どういうふうに考えられても。自由に考えられてよろしいんじゃないでしょうか。
質問者:
(遠くで)難しいことなんで、ぜひ…(■雑音でききとれず■)
吉本:
あのね、やっちゃうんだよね、やっちゃうんですよね、ついつい…。テレビなんかによく出てくるひとが、「そんなことはお前なんかから聞く必要はねえんだ、ほんとは政府の役人が考えてやればいいんだ」とかね、そういうこと言っちゃったりするでしょう。そうすると、なんか、守備範囲外にこのひとは出ちゃってる、っていうふうになっちゃうんですよ。それは、ものすごく、ぼくが原則として警戒するところなんですよね。
だからもう、あなたの思い通りにやっちゃいなさい、考えちゃいなさいってなるわけです。あなたが政府の通産大臣とか建設大臣とかになったら、やっちゃえばいい、実行しちゃえばいいんですよ。どういうふうにやるか、そんなのは、ご自分がもう、自由に考えられたらいいんじゃないでしょうか。
ぼくが今日申し上げたことで、大切…公理とか定理というか「動かすことができないよ」って言っちゃってもいいんじゃないかって思っていることは、要するに、天然自然を相手にする職業、産業については、こうでもしない限りは…ハイテクにしない限りは、貧しさから離脱できないっていうことです。これはもう、公理っていうか。
ですから、いい加減なやつが…。あの、農家のひとは言っていい。「俺は農家は大切だと思っている、人間の食べ物をつくる大切な職業だと思っているから農家をやるんだ」っていうひとには、ぼくは敬意を表しますけれど。農家でもないインテリが、農業で自給自足論とか政治家が言ったりするとね、それはとんでもないことを言っているんですよ、それは。「それじゃお前、この国の農民が貧乏だっていうのをどうやって離脱させるんだっていうことに対するお前のプランを言え」っていうふうになっちゃう。つまり、それだけのことが無いなら言うなっていう問題になっちゃう。だけど、そんなことを言うやつはいっぱいいるわけですよ。それは違うんです。それは「言ってはならん」ということが、「原則に反してる」って、一見、無責任のようでも、「責任とれることしか言えない、言っちゃいけない」という原則が大切だっていうことがあると思います。
それからぼくは盛んに一般人、一般都市って言いましたけれども、一般都市、一般人、あるいは自分が中流だって言っている八割がたのひとたち、そのひとが何を考え、どうしているかっていうことを、どこかに(具体的に勘定に入れるか、抽象的に入れるか、あるいはイメージとして入れるかは別として)、それをいつでも考えていないと間違うぜ、正しいことを言ってるのに間違うよっていうふうに思っているから、それは原則にします。
ぼくの原則はそのふたつしかないんです。
あなたがおっしゃることは非常に重要なことで、ぼくも思わず「俺の理解」とかそんなようなことを含めて言っちゃいたいみたいなことがあるんだけれども、たぶんそれは無駄、言っても仕方がないという気がして…。
だから、逆に言えば、あなたが自由に考えられて、どう考えられていいと思いますよ。ほんとに自由に考えられて。どんなプランを造られたっていいと思います。それで、あなたが責任者になったときに、やっちゃえばいいんですよ。要するに建設大臣とか日本鋼管の社長になったときに、やっちゃえばいいんですよ。ほんとにやっちゃえばいい、思っている通りにやっちゃえばいいと、ぼくは思いますね。ぼくにはもう、そういう可能性はないから、しょうがないから自分の分を守って言っているだけなものですから。
みんなそうしろなんて、ちっとも…。あなたにもそうしろなんて言いませんから、やっちゃってくださいよ。
質問者:
(■雑音でききとれず■)吉本先生は、像である都市っていうのはあるんですけど、それと対応するような、都市に住んでいる人間とは一応切り離して、像の部分だけを考えておられたというような理解(■雑音でききとれず■)
吉本:
いや…だんだんあなたに、なんか、誘惑されて…。プライベートで「あれはこうだな!」とかっていうぐらいなら良いんだけれども、こういうところで許されざることを言いそうになっちゃうわけですけども。
あのー、どう言ったらいいでしょうね…。
「人間」っておっしゃるでしょう? その「人間」っていうのは、さまざまなひとりひとりなわけです。すくなくともほかのことはともかくとして、どんな家に住もうとか、どんな家を造ろうとか、どんな家を造るには俺は金がないとか、そういうことっていうのは、さまざまなわけですよ。つまり、さまざまで、それぞれ好みも違えばやり方も違うし、また、逆に言えば、それだけは自由だぜっていうことなんです。ほかに、たぶん、どっかに自由を制約されることは受け入れているわけですけれども、自分がどういうところに住んでどう生活するかっていうことだけはもう、ひとそれぞれであって、まったく自由なので。その自由を制約するってことっていうのは、どんな発言も、どんな言い方も、一見よさそうに見えても、やっぱりそれは、よくよく考えないと「それは言えないんだよ」っていう問題のように思うんです。
ですから、ぼくがこう考えているからといって、お前もそうかっていうとそんなことはないわけですよね。
たとえば、ぼくの隣のところはお寺さんなわけですけれども、お寺さんのところに、たとえば政府、かつての電子力公団から「ここに原子力発電所をつくる」って言われたらどうするんだって、そういうことを言ったひとがいる、書いたひとがいるじゃないですか。「東京の真ん中に原子力発電所ができたらどうするんだ」っていう。そうすると「そんなおっかないこと、俺は大反対だ」っていうひともいるわけだし、「そんなの絶対おっかなくないよ」「科学的装置によってこれほど安全なものはないんだよ」っていうひともいるわけですよ。 安全だと思っているひとは「勝手に造ってくれ」って言うし、「俺はいやだ、こんなところはおっかなくて住めねえから、すくなくとも50キロ、50里くらい離れて住みたいんだ、それを補償してくれ」って言えば、やっぱり補償金を取るっていうことに対しては、まあ、そうしなきゃいけないでしょうな。
それから「いやもう絶対許せねえ」、「これはもう文明に対する犯罪だ。俺は死んでもここには電子力発電所は造らせねえ」って言うひとも無いことはない。そういうひとたちがいるわけですよ。それはもうさまざまなんです。
みんながそうすれば…。つまり「俺は危なっかしくて住めねえ」っていうふうに考える、「俺は大反対だ」って言っているひとたちは、これが一番正しいやり方だっていうふうに主観的には思っているんですよ。だけど、ちっとも一番正しいやり方でも、一番いいやり方でもなんでもないんですよ、そんなのは。やっぱり一種の思い込みの集団なんですよ。
だからね、そうじゃないんですよ。つまり、おっしゃることはね…。ぼくが一番言うのは、要するに、自由であることです。
つまり「危なくってこんなとこいらんねえ」って言うやつらには、補償金をできるだけたくさん取って、ほかに引っ越して家をぶっ建てることができるっていうような、そういう補償金を取るってことは、そのひとたちにとっては一番いいことだから、そういうことをやる。それから「危ないとはちっとも思ってねえんだ、俺はこのままいるぜ」っていう、「報奨金くれるならくれよ」って言うひとには、もう、くれると。それから「ぼくは大反対」って言うひとは「死ぬまでやってくれ」。「おめえが死んじゃったらやっぱり、ぶっ建つかもしれねえ」っていうふうになっちゃったら「俺はもう逃げちゃうから、こんどは補償金くれ」って言うひとがいてもいいわけなんです。
つまり、そんなことはひとさまざまなんで、集団化する理由が無いんですよ。だから、集団化する理由がないことが見えている場所っていうのは、要するに住宅地なんです。つまり自分が住む場所、日々の命を再生産する場所っていうのは誰からも制約される必要はないし、制約してはならないし、また、それを制約するような政府、企業っていうのは「ダメなものだ」っていうふうに、断定してよろしいと思います。
そんなに厳しくは制約しない、いくらかは大雑把には制約するけれども、厳しくは制約しないと。「まあまあ我慢できる」っていうなら、そういう政府をいただいて、そういう企業をいただいて就職してえからいいけれども。それを、個人的な住まいをどうするかっていうことに制約を加えるっていうのは、どんな立派なことを言っている政府であっても、みんなぶっ倒していいし、必ずぶっ倒れちゃいますよ。大衆、一般人の力でぶっ倒れてしまいます。そう、ぼくは思っています。それがソ連等の問題だとぼくは思っています。
だから、少なくとも主観的に「これがいい」と思ったら、そんなのはちっとも当てにする必要はないんです。また、自分の命を守るっていう場所については、誰からも制約される必要はないし、制約してはならないし、また、すこしでも制約とか、相手にこう考えを持たせちゃえっていうようなふうに、「あいつは教唆・扇動しているんだぜ」っていうふうに思えることは、できるだけ言わないほうがいいってふうになっちゃって…。まあ、ぼくが言ってることも扇動かもしれないんですけど。その、あるひとから見ると扇動なのかもしれないけど…。
だけど、個々人のすくなくとも生理・生活を今日も明日も同じように健康でっていうような、それを守るための住処っていえば、それはもう、できるならばそのひとたちの好み、できなければその好みにできるだけ近づくみたいなね、そういうやり方しかない。そのやり方に対して制約を加えたり、「それはいかんよ」とか言うのは、もう、ちょっと…。あらゆる言い方はすべてダメだっていう、そういう原則しかないのではないでしょうか。
司会者:
時間がずいぶん超過してしまいましたのでですね、このへんでおしまいにしたいんですが…。
おしまいにして、あとで殴られても困りますので、「これだけは質問しておかないと、俺は帰れないぞ」というのがあれば、もう一問くらいと思うんですが。…どうも、おられないようなので、わたしも殴られないと思うので、このあたりでおしまいにしたいと思います。
それでは、今日はほんとうにありがとうございました。
(拍手)
いま紹介いただきました吉本です。
ちょうど自分が都市論に関心を持ちまして、像として、イメージとしての都市論をやり始めたときが、ちょうど、現代の国家社会がいったいどういうことになっているのか、どういう方向にいくのか、どういうふうにいけば理想なのかっていうのが、ぼく自身の中でも「なかなかわかりにくくなってきたぞ」っていうときだったと思います。
都市が現在どうなっていて、これからどうなるか、どうなるのが理想なのであるかっていうことは、ぼくの考え方では、今言いましたように、国家社会が現状がどういうふうになっていて、これからどういうふうになっていくのか、それから、どういうふうになっていけば理想なのかっていうことの「わからなさ」、そして「わからない部分」というのは共通だっていうふうに、都市論をやってきました。
もうすこし申し上げますと、都市の中における建物、街区…。あるいは建物っていう概念、具体的な建築物、ビルディングっていうことだけでなくて、建築っていう、建物っていうのはどういうふうになっていくのが理想なのか、どういうふうにいくだろうかっていうこともまた、パラレルに対応するっていうふうに、ぼく自身は考えています。
ですから、小さく言えば、ひとつのビル、日本鋼管のビルでもいいんですけれども、ひとつのビルの中がどうなっているか、あるいはビルの外郭はどうふうになっているかということを追究するっていうことと、都市がいったい、どういうふうになっているかっていうことと、国家社会というものがどういうふうになっていくのかっていうことを追究することは、全部パラレルで対応するっていうふうに、ぼく自身は考えています。ですから、そういうところで都市っていうものを掴まえようとした場合に、どういう掴まえ方をするかっていうことが、つまり「像としての都市」っていう考え方を、ぼくはやってきました。
どういうところが、いちばん都市論、国家社会の問題で分かりにくいかって言いますと、つまり、アメリカと西欧と日本っていうのは、現在、消費社会っていうふうなところに入っているってふうに思います。その三つだけが入っていると思います。
消費社会っていうのは、皆さんがいろんな考え方でいろんな定義のされ方をするかもしれないですけど、ぼくはぼくなりの定義をもっていまして、消費社会っていうのはふたつのことによって定義されると思います。これは法人を取ってきても個人を取ってきてもいいんですけれども、わかりやすいから個人の所得ということにしますと、日本の平均人の個人所得の中で、50%以上が消費に使われているっていうのが、消費社会と呼ぶ場合の第一の条件です。
もうひとつ条件があります。それは、消費額のうちで50%以上が選択消費、つまり選んで使える消費です。つまり光熱費とか家賃とか、毎月必要である消費ではなくて、「今月旅行に行こうか」とか「予算が無いから行くまい」とかっていうふうに、それぞれが選んで使える部分を選択的消費、あるいは選択消費っていいますと、それが全消費額の50%以上を占めているっていう。そういうふたつの条件を満たしていれば、ぼくの考え方では、消費社会って定義ができるっていうふうに言えると考えます。で、いま、そういう段階に確実にあるっていうふうに言えるものは、アメリカと日本と西欧だと思います。フランスならフランスを象徴とすれば、そういうところがまず、消費社会の段階に入っているというふうに考えます。
消費社会に入っている段階の消費というものは、いままでの分析の仕方では、分析できないところが出てきたわけです。そこが未知の部分であろうと思いますけど、未知の部分が出てきたっていうことで、非常に国家社会が現在どうなっているのか、あるいはこれからどういくだろうか、それからどういけば理想なのかっていうことが、大変にわかりにくくなっている、いちばん根本的の理由が、世界の先進的な社会国家が消費社会、あるいは消費標準と言ってもいいんですけれども、そういう段階に入ったということが、問題を難しくさせているっていうふうに思います。
つまり、これはかつての分析法が通用しない部分が出てきたっていうことと、それから、未だかつて、これを完全に全体的に分析し尽くす方法っていうのは、どなたもできておらないで、模索中であるということになっていると思います。そこが一番の難しさだと思います。
それと対応するように、都市論の難しさっていうのも、やはり、同じところにあります。消費社会の主たる指標っていうものをどこに求めてもいいわけですけれども、ぼくの求め方では、やはり、産業というものの次元、段階というもので決めるのがよかろうというふうに考えますと、消費社会に入った先進地域では、大体において、第三次産業といわれているもの…サービス業とか娯楽業とか、医療とか教育とか、その手の産業が、だいたい半分以上を占めている。つまり、生産額としても、就業人口としても、半分以上を占めている。そういう社会が、消費社会の一番わかりやすい指標だと思います。
たぶん、ぼくはよくわからないけれど、日本鋼管さんていうのは第二次産業の「素材をつくる」というイメージから出発していると思います。現在は多分、第三次産業の方に、きっと、手を伸ばしているのか、足を伸ばしているのか…、まあ、そういうふうになっているんじゃないかっていうふうに、ぼくは考えます。
つまり、それほど日本の産業というものは、製造工業、建設業というものと、天然自然を相手にする農業とか漁業とか林業とか、そういうものとの対立といいますか、主なる対立割合によって社会ができているというふうなイメージを持ちますと、それは間違ってしまうわけです。現在では第三次産業というのに従事しているひと、それから、生産人口っていうのは、まず、働くひとの50%以上を占めているということになっておりますから、第三次産業を主体にして日本の産業構造というものを考えなければならないっていうことになっていると思います。
それと同じように、都市というものの難しさ、都市とはなんだっていうのをつかむことの難しさというのは、現在においては、やはりその、第三次産業だけでなく第三次段階とか第三次層(レイヤ)っていうのが主体になりつつあるということが、大変、都市というものの考え方を難しくしていると思います。
いろんな言い方があるわけです。情報化社会だとか情報都市だとか、いろんな言い方がありますけれども、ぼくは、そういうふうに掴まえます。要するに、第三次産業、第三次層っていうものが都市の主体となってきたということが、都市を変貌させていますし、都市とはなんなんだってことを考えるのを大変難しくさせている要素だと思います。
ぼくの問題意識はそういうところから出発していまして、自分なりにのろのろと考えを進めてきたわけですけれども、その考えの筋道っていうのを、今日はお話しできたらいいというふうに思ってやってきました。
まず、ぼくの都市論がどういうふうに出発してきたかっていいますと、まず、都市っていうものを4系列に分けるというふうに考えたわけです。あるいは4系列に分ければ、都市っていうのは尽くせる、考え尽くせるっていうふうに考えたわけです。
簡単なほうからやってっちゃいますと、いちばん簡単な系列を系列一とします。系列一っていうのイメージっていうのは、東京でいえば下町の住宅街とか商店街っていうのがそうですけれど、地べたに住宅が…低い、一階屋ないし二階屋くらいの低い住宅が、地べたに建っている。これはイメージっていうのではなくて、ちゃんと見れば見えるわけです。人間の座高とか、身長の高さで地面に水平の視線を働かせれば、事実見えるわけだから、視覚的な事実ゾーンということになりますけれど。イメージを作ろうするならばどうすればいいかと言いますと、そういうところに自分の眼と同じ高さの、地面に水平な視線と、同時に、自分が上から、真上から、天上からやってくる視線とを同時に行使しているっていう自分を想定しますと、事実の下町の住宅街の住宅は、事実像、視覚像から、あるイメージ像に転化することができます。ですから釣り合い上、そういうふうに考えますと、(つまり事実見ればわかるじゃないかっていうことになっているわけですけれども、それをイメージすれば、)それは見ている視線と、同時に上から、真上から来ている視線を同時に行使しているというイメージを自分で想定すれば、この第一系列の場所っていうのは、尽くすことができるというふうに考えます。つまり、それが第一系列です。
第二系列っていうのは何かと言いますと、たとえばここから見ると隣のビルの間の広場みたいのがあるとしますと、そこが人工的に広場として休み場所みたいなふうに造られているところが(日比谷にもありますし、赤坂、六本木のあたりもありますし、新宿のあたりにも)あります。つまり、そういうところが、第二系列に属すると考えます。これも言ってみれば見ればすぐに分かってしまうわけですけれども、これをイメージとしていう場合には、第一系列と区別するために、眼の高さであるかどうかは別として、人工的な地面に水平な視線というものと、上の方からと言いたいとこなんですけれども第一系列と同じになってしまいますから、■■を突きましてマイナスに地面の方から上のほうに行っている垂直の視線というものが同時に重なる場所っていうふうにイメージを作れば、だいたいこの、ビルとビルの間に造られている人工的な広場みたいなものは尽くせるんじゃないかというふうに思います。
人工的な広場っていうのは、たとえば新宿あたりでは駅のそば、駅と駅ビルの間の空閑地につくられていて、そこに休む椅子とテーブルが置いてあるとか、商店が周りといいますか、両端に並んでいるみたいなふうになっている。六本木あたりもそうです。憩いの場所であったり、ちょっと休む場所であったり、店を覗いてみるみたいな、そういう場所であったりというふうに、人工的に造られています。ここら辺だったら、多少、樹やなんかも植えたり、ベンチを置いたりして、造ってあると思います。それを仮に第二番目の系列というふうに考えるとします。
一応、ビルとビルとの間に造られた広場的な空間というのを全部そこにひっくるめて、大雑把に考えてくださればよろしいと思いますけれども、それで第二番目の系列は尽くせます。そして、この系列は、素早く取り除いておきます。つまり「分かった」「分かっている」ということで取り除いておきます。
ほんとうはここでも問題があると思います。たとえば、つくばの学園都市なんかに行きますと、原っぱの中に校舎を建てた、ビルディングを建てたっていうふうになっていまして、ぼくは行ったことがありますけれども、喫茶店なんかとか集会所みたいなものがあるんですけれども、ちょっと不気味な感じになっています。つまり学園の中とか集会場にいるときには結構、雰囲気がちゃんとあるんですけれど、いったん集会場とか学園から外に出たら、真っ暗な野っぱらの中に入っていったみたいな、そういうふうになっているわけです。 こういう感じっていうのは、非常に問題だって…。一時、学校でも自殺者が(助手とかそういう特権的でない先生たちが)自殺したり、そういう場所での自殺者がたくさん出たりして(高島平もそうですけれども)。
問題はあるんですけれども、しかしそれは、一応それほどのあれじゃないということで、つまり、やりようによってはいかようにも変えられるということで、一応、素早く取り除いておくといたします。
そうすると、都市の中で、あとふたつの系列、問題になる重要な点、系列がある。
第三番目の系列は「異化領域」っていうふうに書いてきました。これは何かっていうと、例えば具体的に言ったら簡単なことで、ビルの中に、たとえば日本庭園を造ったり、プールを造ったり、茶室を造ったりっていうようなところが、みなさんご承知のように…。それからビルの屋上に教会を造ったりとか、ゴルフの練習場を造ったりっていうようなところっていうのは、皆さんご承知のように、あると思います。つまり、それは異化領域っていうふうに考えます。これは、第三の系列を成します。
つまり、これはどういうことを意味するかって言いますと、さきほどの都市論の問題でいきますと、ビルの中に第一次産業と第二次産業と第三次産業を包括しちゃう。あるいは、ビルの中の第三次産業的なものが、第一次産業的なものを包括してるとか、あるいは組み立て工業とかハイテク工業とか、そういうようなものをビルの中に包括しちゃってる、っていう…、あるいはビルの中に、天然自然、本来地べたにあるべきはずのものを包括しちゃってるという、そいういうふうに考えますと、つまり何て言いますか、第一次産業層と第二次産業層と第三次産業層が雑居しているっていうふうに考えたら、いちばん考えやすいわけです。
この種の領域は、一見するとバカバカしいわけです。大げさなことを言わなくても、ビルの中で飲み屋さんに行くと、飲み屋さんの中にちゃんと噴水があったり金魚が泳いでたりとかっていうところは、よくあるわけです。つまりバカバカしいっていえばバカバカしいわけですけれども。このイメージは普遍化していきますと、かなり重大なことになってきまして、第三次産業的なもの、つまり流通とかサービス業とかそういうものの中に、第一次産業的なものを包括しているというイメージになります。あるいは組み立て工業とかハイテク工業みたいなものを、小規模で包括している。規模を大きくすれば、都市の中で第一次産業、第二次産業、第三次産業の割合はどうなっているのかっていう問題と、全くパラレル、あるいは対応するものになります。
例えば、東京っていうのの第一次産業、農業なら農業を考えますと、だいたい東京の農業っていうのは0 2%くらいだと思います。人口にしても生産高にしても、たぶん、その程度のものだというふうに思います。それがどういうモデルになるかといいますと、ビルの中にちょっとした植え込みっていうのを植えてあるっていうような、ビルの問題、建物の問題とすれば、そういうイメージになります。
それからもっと重要なことで言えば、つまり国家社会はやがてどうなっていくんだろうか、特に先進的な国家社会はどういうふうになっていくだろうかということを考えますと、だいたい0 2%、第一次産業が0 2%であるっていうところまでは、国家社会っていうのは、これから行くっていうふうに考えたらよろしいと思います。つまり、行く可能性があるんだよ、そして東京っていう都市は、そのモデルだよっていうふうにお考えになったら、かなり重要な国家社会の問題になってきます。
それじゃあ、農業、あるいは第一次産業が0 2%になるっていうことは、国家社会の理想であろうかどうかっていうことを問うことになります。「理想であろうがなかろうが、必然的にそうなっていく。防ぎようがないよ」っていうふうにお考えになるか、またはエコロジストみたいに「緑を大切に」みたいにすれば変わると思うひともいるわけです。しかし、ほんとうはどうなのかっていうこともありますし、また、どれが理想なんだっていう問題が、ただちに問われてしまいます。
つまり、どれが理想の国家社会なんだっていうふうに問われてしまうように、どれが理想の都市なんだっていうことが、同じように問われてきます。東京は理想の都市なのか。農業、第一次産業が0 2%になってしまうっていうのは、それでいいのか、それで都市っていうのはいいのか、ということになります。しかし、これが一種の究極の都市ってもののイメージに近いということは間違いないことで、0 2%がゼロになってしまうかもしれない。つまり、理論上、便宜上はゼロになってしまうかもしれないということになります。東京の農業はゼロになってしまうかもしれない。
そうしたら、あとは第二次産業と第三次産業の問題になって、「緑はどうしてくれるんだ」っていうことが問題になります。緑っていうのは、その場合はもう、造る以外にないんだっていうことになってくると、ぼくは思います。そんな都市はいやらしい都市だから、とんでもない都市だからぶっ壊してしまえっていう、エコロジストたちの主張もあるわけです。これは直ちに重要な問題で問われる、近未来のうちに問われるだろうというふうにぼくは想定します。
たとえば、ぼくが暗記しているデータが間違いでないとすれば、イギリスの農業は2%ぐらい、アメリカは確か7%ぐらい、日本は9%ぐらいです。これが減っていくっていうことは、もうどうしようもない。まあぼくはそう思いますけれど。減っていくっていうことは、もう、モデルがすでにあるわけです。
それはいったい、国家社会の理想なのか。つまり農業が0 2%というのは理想の社会なのか。イギリスの2%っていうのは理想の社会なのか。あるいは、みなさんが「いや、これは理想の社会じゃない」って思われるなら、どうすれば理想になるのか、あるいは、なにを理想というふうに考えるのかという問題にすぐに■■■れる。
この第三領域の異化領域っていいましょうか、これは一見するとビルの中に日本料理屋があったよ、今日一杯お燗つけて呑んできたよとかって、そこの中に茶室があって、お茶が最後に出てきたよっていうふうにすれば、ぼくらのちょっとした仕事が終わってからの飲み代になるわけですけれども。しかし、この問題はそんなに簡単じゃなくて、いかようにも重要な問題に敷衍することができます。敷衍することができるように、ぼくは、都市論というのを創ってきたわけです。 それは重要な問題だ。だから、いつでも、どういうのが理想なんだっていうことを問われているっていうふうに思います。ビルディングも問われていますし、都市も問われていますし、それから国家社会も、それを問われているっていうのが現状だっていうふうにぼくには思えます。
テキスト化協力:小島恵さま