1 司会・挨拶(小田切進)

――神奈川近代文学館の館長でありまして、同時に財団法人神奈川文学振興会の理事長でもあります、小田切進からご挨拶申し上げます。(拍手)

 私のご挨拶は、講師の先生が渋滞で遅れる場合は、ご承知の方もいらっしゃると思いますが、5年前の川端(康成)展のときは1時間半ご挨拶をいたしました(笑)。田久保(英夫)先生が世田谷から環八で動けなくなりました。後の2番目の講師の、そのときも中村真一郎先生だったのですが、中村さんが先にお着きになったというのでご挨拶をやめたんです。その後は事故もありませんで、一昨年の「ドキュメント昭和の文学展」の講演会のときも、講師の宮尾登美子さんと大江健三郎さんが早々といらっしゃいまして、ご挨拶は1分足らずで引き下がりました。今日は講師の先生はお二人とももうみえているのですが(笑)、どうしてもご報告しなければならないことがありまして、しかし私はやりだすと長いので悪名が高いので、メモに従いまして簡単にいたしますが、ちょっとだけお時間を頂きます。
 神奈川近代文学館は、開館して7年半、建物が完工しまして8年、準備にかかりましてからちょうど13年を迎えておりまして、現在45万点の資料を収蔵しております。頂いたコレクションは21になっておりまして、まだ10万点に近い大口のコレクションを頂いているんですが、整理のめどが付いていないものですから公表もできずにおりますが、近々発表できるかと思います。その後また、これに準ずるような大口の、昨年亡くなったたいへん人気のある有名な作家の全ても、神奈川に頂くお話がありまして、うれしい悲鳴を上げております。来月、創立30周年のお祝いの「川端康成没後20年展」をいたします姉妹館の東京・駒場の(日本)近代文学館は、30年で現在100万点。こちらは簡単に増築ができませんので、どちらでもいいというものは、すすんで神奈川の方へ頂くようにしています。また、神奈川の地震対策も万全な建築になっていたり、運用面でも県が非常に力を入れて熱心にやってくださったりするものですから、神奈川の方に頂こうというふうになりました。すでに45万点に達しまして、数年で満杯になるものですから、この秋、「中島敦展」を開きまして、2年休館いたします。
 中島敦は、ちょうど亡くなって50年になるのですが、ご遺族から、大切にしていた『李陵』『山月記』の原稿など肉筆380点をそっくり神奈川の文学館に寄贈いただきました。没後50年を記念いたしまして、中島敦の関係の団体や研究者の皆さんの力を借りまして、この秋、「中島敦展」を開催いたしまして、その後の工事に入ることが、この春の議会で認められまして、今、その準備が始まっております。その間2年は、外で催しをしたり、またいろいろな活動は準備いたしておりますが、そのことをどうしてもご報告して、ご了解を頂いておかなければなりません。
 増築は1,843平米、公園の建ぺい率はたいへん厳しゅうございましたが、最近、容積率が変更になりまして、増築ができることになりました。県議会でも、できたばかりなのに休館して増築とはおかしいんじゃないかという声もあったと伺っているのですが、とにかく世界中で、この文学館に資料を収めていただくのが無条件に安全で最高だなんていうふうに、だんだんおっしゃる方が多くなってきまして、そんなうれしい悲鳴を上げている次第でございます。これができますと、中ぐらい、小さい規模の展覧会を、いろいろまた開かせていただけることになります。
 「芥川龍之介展」は、すでに始まりましてご覧になった方もいらっしゃるかと思います。芥川さんは明治25年(1892年)3月1日生まれ。今年の3月1日が正確に生誕100年ということになります。満35歳で亡くなっているのですが、宇野千代さんは満95歳。せんだって日本橋の高島屋であった宇野さんの展覧会は、小さいけど楽しい、いい展覧会でした。お元気な井伏鱒二が明治31年で、宇野さんより2、3カ月後なのですが、満でいうと井伏さんも95歳。芥川さんはお元気でおられればもちろん100歳なわけですが、このごろは漱石を「古代人でしょ」なんていうお子さんなんかが出てきまして(笑)、そうしますと大正終わりですが大正生まれの私どもも、もう子どもさんから古代人扱いを受ける年配になってしまいました。
 芥川さんは、お元気でおられれば100歳。しかし、宇野千代さんや井伏さんとそんなにいくらも違わない方で、古代人どころか、その文学は全く新しい光を、今日の講師でもある中村真一郎さんをはじめいろいろな方が、芥川の文学の新しい評価をまたなさいました。世界の芥川という視点で、世界の不条理の表現者として国際的にも見直されています。中村さんは、これからお話があると思いますが、堀辰雄さんのお弟子さんというか後輩というか、いちばん親しくなさった方で、堀さんが芥川さんのまな弟子ですから、そういう系譜の、全く他にいらっしゃらない貴重な作家なんです。その中村さんが、展覧会のために1年間苦心惨憺なさいまして、一生懸命準備をなさって、豪華な、素晴らしく楽しい展覧会が、ただ今、港の見える丘公園で開かれている次第でございます。
 出品物の解説の札(キャプション)をよくご覧いただきたいのですが、この説明がよくできております。自分でいうのもおかしいのですが。若い職員たちがとても成長してくれまして、今まで字が小さくて毎回字を大きくしてくれと注文を出していたのですが、字の大きさも今度の展覧会でほぼ申し分のないものになりました。これだけの展覧会は世界中どこへ行ってもしているところはないだろう、できないだろうという展覧会が、皆さんのご援助、県の皆さんの圧倒的な熱意、骨折りによりまして、できることになりました。こんな展覧会ができるのは神奈川だからだぞ、とどこへ行ってもいわれるんですが、この場を借りまして、この13年間、あるいは開館後8年、ご援助いただきましたことを、ここでお礼を申し上げまして、2年休館のお断りを、一言どうしても申し上げたかった次第でございます。
 なお、5月15日から姉妹館の東京・駒場の日本近代文学館が創立30周年を迎えますので、伊勢丹美術館を皮切りにしまして、「川端康成没後20年展」を全国6都市で開催いたします。今年は展覧会の当たり年といいますか、芥川さんの展覧会もいろいろまだこれからもあるのですが、「井上靖展」が東京で始まりまして、また神奈川へも、館は休館になりますので横浜高島屋へ持ってまいりまして、秋にやらせていただきます。これは全国を来年にかけて回りまして、中国へ来年半年、北京・上海その他へ参ります。他に、これも編集委員会がもう何度も開かれておりますが、秋に「森鴎外生誕130年展」(註:講演音声では「100年展」と発言されているが、「生誕130年記念森鴎外展」だった可能性が高い)などが今準備されております。しかし、この芥川展は、こんなに絵も書も、いろいろ多彩な出品物が、中村真一郎単独編集で見事に構成されておりまして、新しい芥川の姿がここには形作られていると思いますので、なるべくあちこちでご吹聴いただきまして、多くの方にお出掛けいただいて、ご覧願えればと思います。
 時間が参りましたので、これをもってご挨拶とさせていただきます。(拍手)

――それでは講演の方に入らせていただきます。最初に吉本隆明先生です。「芥川における反復概念」という題で講演いただきます。皆さまのお手元にプロフィールをお配りしてあると思いますが、先生の経歴その他につきましては、プロフィールをどうぞご覧いただきたいと思います。それでは始めさせていただきます。

2 〈反復〉という概念

 今日は「芥川における反復概念」ということでお話しするわけですけれども、この表題は漠然とそういうふうにでも付けようかな、みたいなことで付けた次第です。〈反復〉ということに少しこだわってみたいと思います。
 〈反復〉というのは、普通、僕らがいう場合には、同じことが何度も何度も繰り返されるという場合に反復という言葉を使いますけれども、〈反復〉という概念にことに思想的な意味を与えたのは、キルケゴールだと思います。キルケゴールの〈反復〉という概念のうちでいちばん大切なことはどういうことかといいますと、二つありまして、一つは、〈反復〉という概念は、追憶という概念と同一です。ただ、追憶というのは、現在から過去の方に向かって、物事は繰り返すものであるという概念が自分の方にあって、過去の方を振り返ったときに、それを追憶といいます。それに対して〈反復〉という概念は、未来の方に向かって、物事は反復するものであるという概念が自分の方にあって、未来のことについて追憶する――そういう言葉を使っているんですけれども――そういう場合にそれは哲学的な意味での〈反復〉ということだとキルケゴールはいっています。つまり、未来の方に向かって繰り返す、物事は繰り返すものだという概念をもって未来の方向性を見るという、そのことが〈反復〉という概念だといっております。このことを芥川について考えてみたいわけです。終わりまで到達できるかどうか分かりませんけれども、できるだけ素早くやってみたいと思います。
 ご承知のように、芥川が文学的に出発したのは、『鼻』という、今昔物語の説話に取材した一種の歴史小説です。これが芥川の処女作といいましょうか、出発点になっています。この『鼻』という作品が出てきたときに、芥川の先生に当たる、あるいは芥川が唯一尊敬して師匠だと思っていた漱石が、「あなたの作品に感心した。このような作品を20か30作ったら、あなたは優に文学の世界で一個の自分を主張し得る作家といえるようになるだろう」という褒め言葉を与えたわけです。たぶん、この漱石の言葉は、芥川に非常に大きな影響を与えたと思います。芥川は漱石の言葉どおり、皆さんもご承知のように、歴史小説といわれるものをたくさん書いていったわけです。この芥川の文学の方向付けは、たぶん漱石の一言で決まったといってもいいかと思います。芥川は繰り返し歴史小説、あるいは古典に取材した小説を書いているわけです。

3 芥川の歴史小説の特徴 ─ 作者の登場・内面描写・物語性

 それでは芥川の歴史小説の特徴は何かということを申し上げますと、それ以前を考えますと森鴎外の晩年の歴史小説というのがあるわけですけれども、事実の記録そのものであるかのごときフィクションを書いてそれ以外のことは何も書かないというのが、いってみれば森鴎外の歴史小説の根底にあるものです。芥川の歴史小説を鴎外の歴史小説と比べますと、特徴があります。その特徴は三つほど挙げることができます。
 一つは、歴史小説の中に作者が登場しちゃうわけです。そういうことが非常な特徴なんです。鴎外なら絶対にこういうことはしないんですけれども、芥川はその中に作者を登場させちゃうわけです。
 もう一つの特徴は、内面描写、あるいは極端な場合には心理主義的な描写をやっちゃうということです。これも古典人、つまり芥川が主として素材をとったのは平安朝時代の物語ですけど、平安朝時代人というのが到底、こんな心理主義的な、あるいは心理的なニュアンスというかあやというものを考えるはずがないというくらいまで、登場人物の内面描写あるいは心理主義的な描写をしてしまうということが、芥川の歴史小説のもう一つの特徴です。
 そして三つ目の特徴は、もちろん物語性ということです。これは古典物語でも、鴎外の歴史小説でも同じですけれども、物語性ということになります。
 この三つが芥川の生涯を貫く文学的作業の反復概念の基礎になっているものですから、ちょっとだけ例を挙げさせていただきます。『鼻』を例にしてもいいんですけど、いちばん典型的な『羅生門』という、皆さんも映画になったりしてご存じの、『鼻』と前後して書かれた作品ですけど、これを例にして今の三つのことをちょっと申し上げてみます。
 作者が登場しちゃうというのは、例えばこういうものです。2、3行読んでみましょうか。
「作者はさっき、『下人が雨やみを待っていた』と書いた。しかし、下人は雨がやんでも、格別どうしようと云う当てはない。ふだんなら、勿論、主人の家へ帰る可き筈である」というように、つまり作者が登場しちゃって、自分が「下人が雨やみを待っていた」と書いた、みたいなことを作品の中でやっちゃうことなんです。これが非常に大きな特徴であり、たぶん芥川の年代、例えば菊池寛の歴史小説なども同じですけど、芥川が初めてやっちゃったことだと思います。鴎外はこういうことは絶対しないし、むしろこういうことを避けたと思いますけど、芥川は逆にこういうことを作品の中でやっちゃうということを自分の歴史小説の特徴にしたといえると思います。
 内面描写というところも、ちょっと2、3行読んでみますと、
「どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいる遑(いとま)はない。選んでいれば、築土(ついじ)の下か、道ばたの土の上で、饑死(うえじに)をするばかりである。そうして、この門の上へ持って来て、犬のように棄てられてしまうばかりである」というふうに下人が考えるわけです。つまり、到底こういうことを平安朝時代の下人が考えるはずがないというか、考えることはあり得ないということを、現在の自分の小説概念から描写していくというようなことが、芥川の歴史小説の非常に大きな特徴です。
 あとは物語性です。例えば、
「下人は、頸(くび)をちぢめながら、山吹の汗袗(かざみ)に重ねた、紺の襖(あお)の肩を高くして門のまわりを見まわした」というふうな具合に、物語を非常に微細に描写するということになります。
 この三つを挙げますと、芥川龍之介の文学の出発点、あるいは芥川の発生といってもいいんですけど、そういうものの根本を成す歴史小説の大きな柱というのがいい尽くせるんじゃないかと思います。同時に、この三つのことが芥川の生涯の小説の反復概念になるわけです。
 その反復概念をもう少し丁寧に説明しますと、たぶん芥川の小説の全部を説明したことになるんじゃないかと思いますので、もう少し丁寧に説明してみたいと思います。
 今申し上げました、作者が歴史小説の中に登場してしまうという芥川の小説概念の特徴はどういうふうになるか、もう少し例を挙げてみます。例えば、『孤独地獄』という、やはり古典に取材した作品ですけれども、
「この話を自分は母から聞いた。母はそれを自分の大叔父から聞いたと云っている。話の真偽は知らない。ただ大叔父自身の性行から推して、こう云う事も随分ありそうだと思うだけである」とあります。この大叔父というのは、母方の大祖父という意味で、細木香以(さいきこうい)という徳川時代の一種の通人だった人です。それが吉原で放蕩好きな禅宗の坊さんと出会って、坊さんが地獄には根本地獄と近辺地獄と孤独地獄というのがある。自分はその孤独地獄というのにかかっているから、吉原へ来て遊んだってちっとも面白くはないし憂鬱なだけな状態になっている、というようなことを説明するところがあるわけですけど、その作品でもやっぱり、作者が中に登場して、それから作品に入っていくというかたちをとります。
 これは、現代小説といいますか、現代を素材にした小説でも同じです。例えば、初期の芥川に『父』という小説があります。これは、自分が中学生時代の修学旅行で上野駅に集まっていて、上野駅の構内へ入ってくる人物たちの品評会を開いているんです。そのうちに品評会でいちばん悪口をいっている男の父親が入ってくるわけですけど、その父親は、滑稽な洋服を着て、杖を持ってふらふらしているわけです。あいつは何だ、と友達がいうと、その息子である男が、「あいつはロンドン乞食さ」というふうにいっちゃうわけです。自分はそれを聞いていてはっとしたけど、それをいうだけの勇気はなかった、みたいなことが書いてあります。小さい小説なんですけど、そこでもやっぱり、
「しかし、そこにいた自分たちの連中には、一人もそれを知っている者がない。だから皆、能勢の口から、この滑稽な人物を、適当に形容する語(ことば)を聞こうとして、聞いた後の笑いを用意しながら、面白そうに能勢の顔をながめていた。中学の四年生には、その時の能勢の心もちを推測する明がない。自分は危く『あれは能勢の父(ファザア)だぜ。』と云おうとした」というふうに、「自分」という言葉で、やはり作者が登場してきてしまいます。

4 登場してくる作者 ≡ 書いている作者

 この作者が登場してきてしまうという芥川の歴史小説の特徴は、繰り返しているうちに、次第に拡大していきます。つまり、作者の登場する部分が多くなっていきます。しまいにどういうことになるかといいますと、晩年に近くなったときに、「保吉(やすきち)もの」と普通いわれている、堀川保吉という人物が主人公になって出てくる作品があるんですけど、保吉はこういうふうに思った、というような書き方で出てくるわけです。その保吉ものというようなところから、だんだん保吉イコール作者というふうに変わっていって、初めは単に一要素にすぎなかった作者の作品の中への登場ということが、だんだん作品の全部を占めていくというふうに、芥川の小説は展開されていきます。
 そして、皆さんがご承知のように晩年のもうだいぶ神経も体も危なくなってきた頃の作品、例えば『大導寺信輔の半生』とか『或阿呆の一生』になってきますと、登場してくる作者イコール書いている作者――イコールとは、数学でいうと二本棒のイコールでなくて三本棒のイコール、つまり合同、全く同じだという意味のイコールですけど――そういうふうになっていきます。それは最後の『或阿呆の一生』みたいなものまで続きまして、それが極まっていくわけです。
 その保吉ものなんですけれども、最初に作者自体が登場する、保吉と書いてある人物が同時に作者自体だというのが始まるのが、たぶん大正13年ごろだから死ぬ2、3年前だと思いますけれども、『少年』という作品があります。これも保吉ものの一つなんですけれども、この場合の保吉はもうイコール登場する作者であるといっていいようになってきます。
 話は簡単なことで、自分がバスに乗っていると、向かいに女の子が乗っていた。そこへ牧師さんも乗り合わせていて、牧師さんが女の子に「今日は何日だか知ってますか」なんて聞くわけです。女の子が「知ってますよ。今日は12月25日でしょう」というと、牧師さんは「何の日ですか」という。それは当然、キリストの降誕日だと少女が答えることを期待して、そういうふうに聞くわけです。「今日は何の日だろうか」とまた質問をすると、少女は「今日は私の誕生日です」という。それで、乗っていた保吉は少し愉快になってきたというわけです。初めは、この牧師はなんという嫌なやつだろう、こんな小さな子どもに今日がキリストの誕生日だということをいわせて、大切な人が生まれたんだよ、みたいなお説教をしたくて少女に問いかけたので、なんという無法な牧師だろうと保吉は思っていた。ところが、少女が「今日は私の誕生日です」といったので、途端にだんだん愉快になってきた。牧師さんは笑って、「とてもいい日に生まれましたね」といって、それ以上のことは何も始まらなかった。そういう短編なんですけど、このあたりで保吉という、バスに乗り合わせたその人物がイコール作者であったり、保吉の感想というのはイコール作者の感想だというふうに変わっていった、その変わり目の作品だと思われます。
 あとは、作中の主人公、例えば『大導寺信輔の半生』だったら信輔という人物がイコール登場した作者であり、同時にイコール書いている作者であるというふうになってきて、別の言葉でいえば自伝的な小説ということになるわけですけれども、自伝的な小説を芥川が書くにつれて、つまりそれが極まるにつれて、死が近づいてくる、自殺が近づいてくるということになるわけです。
 いずれにせよ、初めは歴史小説の中にわずかに注釈者として登場した作者という部分が、繰り返し繰り返し生涯の中で繰り返されているうちに、作品の中に占める部分が多くなっていきまして、それがだんだん極まっていって、登場してくる作者イコール書いている作者というふうに同等になっていったときに、作者というものの反復概念も極まりまして、同時に芥川の生も極まったといいましょうか、自殺という行為に入っていく契機になっていくということになります。つまり、芥川における作者の登場という最初の反復概念の基礎は、ものすごく重要なことになって、芥川の小説の生涯というものを支配していくわけです。

5 物語性と童話性

 先ほど三つ申し上げましたので、もう二つ申し上げなければいけないんですけど、もう二つは一緒にしちゃっても同じなんで、もう一つあえて反復概念の基礎として項目を立てるとすれば、物語、あるいは物語性ということだと思います。芥川龍之介の作品の物語性というもののいちばん基礎になっているのは、ごく例外を除きますと、僕は童話性だと思うんです。童話性というのは、子どもの物語という意味です。つまり、芥川龍之介の物語というのは童話性を基本にしている、あるいは本質にしていると考えるのがいちばん考えやすいと思います。そして繰り返し繰り返し、この童話性というのが芥川の小説作品の中に登場してまいります。
 僕が童話性の例にする場合にいちばん好きなのは「蜜柑」とか「沼地」というような作品なんですけれども、この童話性とはどういうことかということを説明いたしますと、もちろん、子どものための物語を童話というように、一種の子ども性なわけなんです。子ども性というのをもう少し文学的な装いを凝らして申し上げますと、一つは、パターンの強調です。パターンの強調とはどういうことかと申し上げますと、物語というのは、典型的に、子どもに通用するように、あるいは子どもに分かるように、大昔の「むかしむかし」の民話というようなものとなぞらえてもいいわけです。どういうことが重要な問題かといいますと、『一寸法師』でも何でもいいんですけれども、主人公が出てきて、波乱万丈いろんなことに遭遇して、だんだん悪い目にばかり遭ってどん底まで陥ったところで、一つの山場になる事件あるいは契機がありますと、それから後は、「そうして主人公は幸せになったとさ」というふうになるか、あるいは「主人公はそれで死んでしまったとさ」というふうになるか。いずれにせよ、非常に誇張された型として、いったんどん底に陥った主人公がまた幸福になるとか、ずっと生涯幸福だった主人公があることを契機にして急に不幸に陥ってしまったとか、急に死んでしまったとかいうように、極端に明暗が誇張されて打ち出される。それは子どもに対して分かりやすいということがあるわけですけれども、それが童話というものの非常に大きなパターンなわけです。同時に、誇張されたパターンには、誇張された道徳とはいわないまでも、誇張された倫理がその中に含まれているというのが、童話のいちばん大きな特徴だといえると思います。
 そういうふうにいっていきますと、芥川龍之介の作品というのは、少数の例外を除きまして、ことごとく童話性を本質としているといってよろしいかと思います。もちろん、ご承知のとおり『杜子春』とか『蜘蛛の糸』という本格的な童話も芥川龍之介は書いているわけですけれども、童話性、つまり誇張されたパターンを、あたかも伝承された事実のように書いているというのが、芥川龍之介の作品の根本にある特徴だといえばいえると思います。それが繰り返し繰り返し芥川の生涯の作品を貫いている物語性のいちばん根底にあるものだと思います。

6 「わん」の童話性

 「沼地」とか「蜜柑」を例に挙げてもよろしいわけですけど、僕は何回もそういうことを書いたりしたから、ここでは違う例をちょっと挙げてみますと、例えば、『保吉の手帳から』という作品の中に「わん」という短い作品があります。わんというのは、犬のほえるワンワンという声のことです。
 この作品はどういう作品かというと、「蜜柑」や「沼地」と同じことなんですけれども、芥川が、つまり保吉なんですけど、海軍機関学校の先生をしていた時代のことで、学校の近くの教師たちがよく行くレストランみたいなところで昼食か何かを食べていると、同じレストランに海軍の主計の将校が、やはりビールか何か飲みながらいたんです。見ていると、窓から下の方に向かって「わんと云え」と怒鳴っているんですね。保吉が、一体何をしているのだろうと思って下を向くと、下に乞食の子どもがいた。乞食の子どもに向かって主計将校たちが、半分酔っぱらってでしょうけれども、「わんと云え。わんと云えばこれをやるぞ」とかいっているんです。下にいる乞食の子どもは、それを欲しいんだけれども、わんというのが恥ずかしいので、周りをきょろきょろ見回して、誰もいないことを確かめながら、小声で「わん」というわけです。もっとちゃんといえ、とかいうふうに将校たちがまたからかうと、少し大きな声で「わん。わん」とその乞食の子どもがいった。そうしたら、主計将校たちがネーブル・オレンジを窓から投げてやって、下の子どもがそれを喜んで拾って食べた、というふうなことなんです。
 それで保吉の感想ということになるわけですけれども、自分は乞食の子どもなんかに同情したことなんか、ちっともなかった。同情するやつは偽善者なんだと自分はいつでも思っていて、同情したことはちっともなかった、とまず書いてあるわけです。それが童話性の一つのパターンなんですけど、それは芥川の誇張なんで、乞食というものに対して、うんと悪く思っているということをまず強調するわけです。保吉は、同情したような顔をするやつはみんな偽善者だと普段は思っていたというわけですね。そして、目撃してよくよく考えてみると、自分だって生活のために、給料を欲しいために勤めに行って「わん」といっているのと同じじゃないかと保吉は考えるわけです。
 今度は一転して給料日になって、保吉は勤めている海軍機関学校の、主計係の将校が月給を渡す係をやっているわけですけど、そこへ行って、私の給料をくださいというふうに行くわけです。そうすると、その主計官は、わかりました、とかいうんだけど、いろんな用事にかこつけて、なかなか給料を渡してくれない。その主計将校というのは、レストランで乞食に「わんと云え」といっていたその将校であるわけなんですが、保吉はそこで、その主計将校に向かって「わんと云いましょうか」というわけです。それが「わん」という作品の作品たるゆえんなわけです。
 それを非常にうまくリアルに、実話であるかのごとく書いてありますけれども、僕の理解のしかたでは、フィクションであると思います。根本にあるのは本当だったことが基になっているんでしょうけれども、この誇張のされ方というのは、たぶんフィクションだったと思います。芥川龍之介という人は、そういう気がない人ではないですけれども、乞食を見て、俺は全然同情なんかしないんだ、というような人では実際はなかったと思います。しかし、この作品では、俺は絶対そんなことをしたことはなかった、こんな同情するやつは偽善者だといつでも思っていたという冷たい心を俺は持っているんだということを、芥川は、といいますか保吉は強調するわけです。しかし、これはたぶんフィクションなのであって、童話性、あるいは作品性を成り立たせるためにどうしても必要なフィクションだったと思います。それから、今度は給料日に同じ主計官が給料係をしていた。それは事実あったことかもしれないんですけど、そこに行くとぐずぐずしていて忙しがってなかなか給料を渡してくれないので、「わんと云いましょうか」と保吉がいったと書いてあるわけですけれども、僕は芥川がそんなことをいうような勇気のある人(笑)、勇気かどうか分かりませんけれども、そういう図々しいといいますか、大胆なといいましょうか、そういうことをいえる人ではないように思います。ですから、たぶんこれも一種の誇張である、作品を成り立たせるための誇張であると、僕には思われます。
 これは、書き方自体を素直に読みますと、あたかも実録であるかのごとく書かれておりますけれども、たぶん実録のように書かれた、あるいは実記録のように書かれたフィクションであろうと僕は思います。これは芥川の作品の非常に根本にある大きな特徴だと思います。あたかも実録のように書かれているフィクションというのは、芥川の作品の本質性だと僕には思われます。

7 「蜜柑」の童話性

 これは、「蜜柑」というような作品でも同じことです。東海道線か何かで東京へ行くのに二等の車両で乗っていた。そうしたら、みすぼらしいなりの少女が入ってきて、三等の切符で自分の前のところへ座って、トンネルに入るのも構わずに窓を開けてしまった。煙がわんわん入ってきた。こんな不作法な嫌な子どもはいないと思ったけれども、トンネルを出たところで少女が、踏切のところに来ていた男の子にみかんを投げてやった。これはたぶんこれから東京へ奉公に行く女の子で、それで別れに来た弟たちにみかんを投げてやっていたんだ。そういうふうに思うわけです。それを見て、人生は憂鬱でくだらないところだと思っていた自分が一瞬とてもいい気持ちになった、というのが「蜜柑」という作品です。
 ここでも、僕は冷たい心を持って、厭世的で、嫌で嫌でしょうがない、不作法に三等の切符を持って二等車に乗り込んできた身なりの貧しい少女が不愉快でしょうがなかった、とまずそういうふうに書いています。そして、みかんを投げてやったのを見て、今度は逆に、ちょっと人生はいいものだと思った、というふうに転換するわけです。
 このパターンは、典型的な童話のパターンだと思います。そして、この典型というのは、芥川龍之介の作品の全部を貫いている物語性だと考えればいいのじゃないかと思います。この物語性は、よくよく読みますと、最初の『鼻』のような歴史小説から晩年の作品に至るまで全部を貫いている、芥川龍之介の作品の本質だと思います。
 この本質は、ある意味で芥川龍之介の作品を非常に通俗的にしています。いってみれば、かなりお粗末なものにさせている要素になっております。しかし逆にいいますと、この分かりやすい童話性といいますか、分かりやすい誇張のパターン、つまり物語というのは、とにかく山あり谷ありというのはあるけれども、最後には山のところへ行って、そこからすうっと下がっていって終わりに行くという、それが物語性の典型で、昔ながらの童話とか民話に貫かれている特徴なんだという、芥川の持っている古典的な物語概念を非常によく語っています。そのために、芥川龍之介の作品を非常に普遍的なものにしているといいますか、今日でもたくさんの読者を持たせている大きな要素になっていると思います。しかし一面では、今申し上げましたとおりに、分かりやす過ぎて、実際にあったように書いてあるけど、ちょっと眉に唾つけた方がいいよといわせてしまう要素も、芥川の作品の中にはあります。芥川の作品の物語性の非常に大きな美点、特徴にも優れた点にもなっていると同時に、やや芥川龍之介の作品を通俗的にしている一つの要素にもなっていると思われます。

8 童話性から外れた作品 ─ 「袈裟と盛遠」

 芥川龍之介の作品の中でこの童話性から外れてしまう作品というのは、非常に数少ないけれども、ないことはありません。それを申し上げてみますと、これはとてもいい作品といえばいい作品なんですけど、「袈裟と盛遠」というかなり長編の作品があります。この作品は、構成としてはとてもよく考えられていて、破綻のないものになっております。それで童話性から免れています。どういう免れ方をしているかというと、心理主義的な免れ方をしているわけです。お読みになればすぐ分かりますけれども、袈裟という、あばずれ女でだらしのない、男出入りの激しい女に、盛遠は愛人になっているわけですけれども、私の旦那を殺さないか、とささやかれて殺してしまう心理状態になっていくに至る過程を、非常に緻密に描いている作品です。
 この作品は破綻のない、いい作品といえばいい作品ですし、芥川の歴史小説の本領だといえば本領になっておりますけれども、平安朝時代の男女がこんな緻密な心理の動かし方をするはずがないよ、というふうにいったんうたぐってしまったら全部うたぐられてしまうような作品です。古典に取材した物語ではありますけれども、「袈裟と盛遠」という代わりに「花子と太郎」というふうに変えて現代の作品にしても、いっこう変わらない。袈裟と書いてあるところに花子という字を入れて、盛遠と書いてあるところに太郎という字を入れて読んだって、読んでちっともおかしくはない。決して悪い作品じゃないですけど、決しておかしくはない。そうだったら、別に歴史物語に取材する意味はないじゃないかということになってしまうと思います。しかしこれはある意味で、先ほどいいました芥川龍之介の反復概念である内面描写というものを、いちばん典型的に、いってみればいちばんよく、いちばん完璧に表現した作品だということができると思います。この作品に象徴されるものは、芥川龍之介の作品の中では童話性を免れている作品だと思います。これは例外的な作品だと思います。

9 唯一の大人の現代小説 ─ 『玄鶴山房』

 もう一つ、童話性を免れている作品があります。僕の理解のしかたですけれども、どこから読んでもこれは優れた、芥川龍之介の代表的な作品だと思いますけど、晩年に近い頃、『玄鶴山房』という作品を書いております。
 これは、玄鶴という本所に住んでいる絵描きさん、かつて割合によく知られた絵描きさんで、また印刻といいますか、はんこについての特許を取ったりして小金もためたという元絵描きさんが、老人性の結核で死病の床に就いている。細君であるお鳥というおばあさんも、あまり足腰が立たなくなって床に就いている。そこに付き添いの看護婦さんがいる。重吉という養子がいて、銀行員で、玄鶴の娘のお鈴と結婚して婿養子になっている。そこに、昔女中さんをしていて玄鶴の妾であったお芳という、千葉県の漁師町に住んでいる女の人がいて、玄鶴の子である男の子を連れてやって来る。玄鶴の当面する病苦といいましょうか、老齢苦といいますか、老苦、死病に至るという、ちょっと陰惨な小説なんですけれども、しかし非常によく考えられた、優れた作品です。
 これは、童話性というものがどこにもない、本当の意味で大人の小説です。たぶん芥川の書いた大人の現代小説である唯一の小説で、最も優れた作品だと思います。これは、玄鶴の死に至る一家のいざこざと暗鬱な空気と、玄鶴が看護婦さんにさらしを買ってきてくれといって、そのさらしで首を吊って死のうと思ったりするというような、いずれにせよ徹頭徹尾、陰惨な小説といえば陰惨な小説だけれども、実に見事な小説です。その中に私性、つまり芥川の晩年の自分の心境を投影していないことはないのですけれども、作者が登場するとか自伝的になっているとかいうことは全くない作品、そういうかたちでは作者は登場してこないという、童話性からも、芥川の文学概念である反復概念のどれにも該当しないような、非常に特殊な、また唯一の優れた作品だといえるものです。これだけはどこにも童話性の気配もないということで、芥川の作品の中では特別な位置を占めていると僕には思われます。
 この『玄鶴山房』は、師である漱石の作品になぞらえれば、ちょうど『明暗』という小説に対応するものだということができると思います。つまり、『玄鶴山房』は芥川龍之介の『明暗』なんだということができます。漱石の『明暗』は、自伝的な要素がどこにも入っていないおそらくは初めての小説で、また優れた構成を持っていて、出てくる人物はみんな平凡なといいますか、非凡さのどこにもないような、作者の影なんかどこにもないような人物を登場させている、非常に珍しい作品なんです。それと同じように、この『玄鶴山房』は、芥川の作品の中では自伝的な影もないし、芥川の小説概念である童話性もどこにもそういう気配もない。完全にそういうことを切って、玄鶴に象徴される人間の生活の、芥川の好きなよく使った言葉でいえば「娑婆苦」の世界を描いた、非常に珍しい作品なわけです。
 芥川の文学作品には、こういった童話性ということからは例外に属する作品もないことはないのですけれども、本当にそれは例外に属するもので、芥川の作品の本質は、童話性ということ、あるいは童話的なパターン、童話的な誇張、童話的な二律背反というようなものを必ず作品のどこかに潜めていて、それが作品の頂点といいますか、クライマックスを成しています。そういう芥川龍之介の小説概念の例外と本質というようなものを、とてもよく語っていると思われます。

10 漱石に魅せられた生涯と文学

 僕はお話しするのでちょっと芥川の作品を読み返してきたわけですけれども、読み返して改めて感じたことは、芥川が漱石の影響を被っている度合いはとても大きいんだなあということでした。変ないい方をしますと、「漱石に魅せられた生涯と文学」だなということを強く感じました。
 例えば、いろんなことでいえるわけですが、芥川の閲歴ということは、自伝的な小説を継ぎ合わせるとよく出てきます。芥川は、父親のちょうど厄年のときの子どもだということで、形式的にもらい子にやられてまた引き取られるということがありました。もう一つは、芥川が生まれて7、8カ月の頃、母親が精神異常になって保育ができなくなったので、芥川は母方の実家の芥川家に引き取られて、そこで芥川の母親の独身の姉に育てられています。その伯母との関係は、生涯引きずられていくわけです。子どものときから、牛乳を哺乳瓶で与えてくれたのもその伯母であり、生涯芥川を世話してくれて、また生涯一緒に住んでいて、愛情も注いでくれた代わりに、その愛情が息苦しくてしょうがなかったということを芥川は書いていますけれども、そういう関係を伯母さんと結びます。この関係は、単においと伯母とかという関係よりも、これも芥川独特の言葉遣いをすれば、やや親和力が強い関係です。つまり、性的な親和力が強い関係ということがいえると思います。だから、結婚しても何をしても息苦しくてしょうがない、自分をよく世話してくれるんだけど息苦しくてしょうがない、というようなことを芥川は述懐していますけれども、そういう関係が出来上がります。
 これは漱石が、父親母親の年を取ってからの子どもで恥ずかしいからというのでもらい子にやられて、それが道具屋さんの家で、道具屋さんの夜店でたなざらしにされていて、姉さんが通りかかってかわいそうだというので家へ連れてきた、というようなエピソードを自分で書いていますけど、それとよく似ています。また今度は、父親の部下であった塩原家に養子にやられて、養家の夫婦の仲が悪くなって離婚沙汰になってきて、また実家に引き取られる。漱石自身の言葉によれば、俺は品物と同じだった。実の父親は俺を厄介な品物ぐらいにしか扱ってくれなかったし、養家の父親は役に立つ品物だというふうにしか扱ってくれなかった、と漱石は述懐しています。

11 乳幼児期の閲歴

 芥川も同じように、生まれてから乳幼児の時代は相当惨憺たるものだったということができると思います。この手の閲歴も、漱石ととてもよく似ています。芥川という人は、漱石晩年の弟子なんですけれども、たぶんそういうことをものすごくよく意識した人なんじゃないかなと思えてしかたがありません。そういうことは絶えず気に掛かってしょうがなかったように思います。乳幼児期の不幸な生い立ちという点で、漱石と芥川はたいへんよく似ていて、たいへんよく似た気にしかたをしています。
 例えば、『或阿呆の一生』の中で、20歳の頃、本屋さんのはしごに登って上の方の棚のところから下を見下ろしたら、店員さんと本屋のお客さんが小さく見えた。自分はそれを見ながら、「人生は一行のボオドレエルにも若かない」と考えた、ということをいっています。芥川はそれを青春期の自分の考え方みたいに述べていますけど、僕は本当はそうじゃないと思います。そうじゃないと思えるのはもう一つあって、芥川は「或旧友へ送る手記」という遺言の中で、自分はなぜ自殺するかといっていて、考えてみるとそれは「ただぼんやりした不安」なんだといっています。時代であるとか、また現在の自分の職業であるとか、生活にまつわる煩瑣ないろんな関係とか、そういうことの厄介さを考えて不安でしょうがない。「ぼんやりした不安」ということを芥川はそのように理解して書いていますけど、僕は、この芥川の「ぼんやりした不安」というのと、20歳のときに「人生は一行のボオドレエルにも若かない」と冷たいニヒルな気分を持っていたという、この二つは特にそうですけれども、自分の考えでは、乳幼児期の芥川の閲歴に由来すると考えます。特に、自分は精神病の母親の子で、牛乳で育てられたということを絶えず気にしていて、母乳で育てられた友達に対していつでも虚勢を張っていたみたいなことを書いていますけど、僕は、牛乳で育てられたか哺乳瓶で育てられたかということじゃなくて、母親とのまっとうな関係を結ばない、乳児のときにすでに母親から切り離されてしまったというような、その閲歴の一カ所に集約されてしまうように思います。
 芥川が、自分を現在ならしめているし、また未来に対してぼんやりしたある不安を抱いていると考えているものは、本当は、過去から自分が受け取った不安というものの、一種の未来への反復概念だということができるんじゃないかと思います。そういう点でいえば、芥川はずいぶん思い違いをしているところがあるように思います。しかし、この思い違いはどうすることもできないので、未来が先すぼまりみたいになっていくと考えざるを得ないというのは、たぶん過去の閲歴に由来するだろうなと思います。これは『道草』のような作品を読めばよく書いてありますけど、たぶん芥川は、師の漱石の閲歴と自分を比較しながら、かなりよくそれを意識して考えていたと思われます。

12 漱石を生涯の反復概念の手本に

 もう一つ、芥川が漱石の閲歴で意識しただろうと思われることは、生活のために海軍機関学校の英語の先生をしているわけですけど、それから本当の先生になるかなという段階のときに、大阪の毎日新聞から勧誘があって、大阪の毎日新聞の社友になって小説を書いていくというふうになるわけです。これはやはり漱石に倣ったといっていいので、先生を辞めちゃって朝日新聞の社友になって小説書きになったという漱石の閲歴が自分の前にあって、それは芥川が先生になって勤めるのをやめて大阪毎日へ行こうと考えた、その考え方の大きな原動力になったんじゃないかと思われます。
 作品でいいましても同じで、『玄鶴山房』は先ほどいいましたように『明暗』になぞらえることができますし、『将軍』という乃木将軍の殉死を風刺した作品があるわけですけど、これはたぶん漱石でいえば『こころ』という作品に該当するのだと思います。
 芥川には『開化の殺人』とか『開化の良人』というような一種の三角関係にまつわる「開化もの」といわれる小説があるわけですけれども、これは漱石の『それから』とか『門』とか『行人』とかいう作品を意識の中に入れて作っていて、決して無意識で作っているとは思いません。たぶん漱石のそういう作品が絶えず頭にあって、それを意識して書かれていると思います。漱石は、『それから』とか『門』というような作品の中では、作者である自分よりも5歳とか10歳とか年下の年代の、ほとんど同時代に該当する人物を主人公にすれば作品を書けたわけですけれども、芥川にはもうすでに、そういうかたちで自分より5歳とか10歳とか下の人を主人公にして漱石と同じような三角関係の小説というのは書くことができなかったと思います。ですから一足飛びに、明治開化期といいますか明治初年の主人公たちと、日本近代最初の恋愛感覚というようなものを基にして、三角関係にまつわるこういう小説を書いたんだと思われます。
 そこいらへんのことを考えますと、どうしても、芥川は閲歴についても、作品についても、漱石という偉大な師匠を、自分の生涯の反復概念の手本にするといいましょうか、基本にすることを、いつでも意識していたと思えてしかたないのです。そう意識しながら、そこからどうやって出て行こうかということが、芥川にとってとても重要な問題になったんだと思われてならないところがあります。これは特に『将軍』なんかという作品を読むととてもよく分かります。『将軍』の中の乃木将軍に対する風刺といいますか、皮肉といいますか、からかい方といいましょうか、そういうものです。
 『こころ』では、乃木将軍が明治天皇の死の後追いをして殉死するということが起こった。なぜ殉死するのか。それは乃木将軍の遺書によれば、明治10年に薩摩軍つまり西郷隆盛の軍隊に軍旗を奪われてしまった。そのときもう自分は責任上死のうと思ったけれども、死ぬ場所を得ないで来てしまった。35年間たってやっと死ぬことができるような場面に当面した、ということになるわけで、これは『こころ』の最後のところに書かれていて、それを見て『こころ』の主人公である先生は、自分も自殺するというふうになるわけです。
 芥川の『将軍』では、乃木将軍が殉死する前に記念写真なんか撮らせている、死ぬ前にそんな余裕があるというのはおかしいじゃないか。まさか死んでから後、記念写真が店に飾られるということを予想して写真を撮らせたわけではあるまい、なんていうふうに主人公がいって、親父さんに怒られるといいますか、けんかするところがあります。その扱い方を見ていると、『こころ』の結末、あるいは『こころ』の主人公の先生に対して、芥川が、時代が違うということ、それから自分の感性が違うということで、どういうふうにそれを抜けていくかということを、いつでも考えていたんじゃないかということが、とてもよく分かるような気がします。
 これはたぶん、大きな見方をすれば、芥川龍之介の文学と生涯の反復概念とはいったい最終的に何なのかといったら、それは夏目漱石じゃないかということになると思います。つまり、夏目漱石が芥川龍之介にとって生涯の反復概念になった。そして、夏目漱石は『こころ』の主人公を自殺させて、自分は自殺したわけではありませんけれども、芥川は、私小説あるいは自伝的作家というところまで自分を追い詰めていった揚げ句に、自分を死なせてしまうことで結末をつけることになったんだと考えると、いってみれば、芥川の反復概念のいちばん大きな枠組みは漱石自身だった。しかも、作品だけじゃなくて、漱石の生き方、それから閲歴といいましょうか、不幸ということも、それら全部を含めて、漱石自体が芥川の反復概念の基礎になっていたんだといえばいえるんじゃないかと思います。

13 表現上の反復概念 ─ 「のみならず」

 もう一つ、少し時間を借りますと、文体あるいは表現上の反復概念というのもあるわけなんです。それは漱石の作品および生涯が芥川の反復概念の基礎だと考えれば考えやすいということとたいへん関連するわけですけれども、皆さんが芥川の作品をお読みになることがありましたら、言葉遣いをぜひ気にしながら読んでいただきたいんですけど、「のみならず」という言葉を芥川は生涯の作品の中に頻発させます。「のみならず」という言葉をやたらに使うわけです。それも晩年になればなるほど「のみならず」という表現を多用しております。この人はおかしいんじゃないですか、というくらいに、もし気にされると、「のみならず」という表現が多いことがお分かりになると思います。この「のみならず」というのは、師匠である漱石が、わりによく使っている表現なんです。芥川がそれをまねしたのかどうかということは、ちゃんと実証しないとなかなかいうことができないのですけれども、ひととおりな意味で、芥川の反復概念とはつまり漱石自体なんだよ、という大ざっぱないい方を成り立つものといたしますと、この「のみならず」という表現のしかたは、漱石の表現概念の反復拡大だと考えてよろしいんじゃないかと思います。
 皆さんは「のみならず」という言葉を今お使いにならないと思いますけれども、どういう意味かということは、おおよそ見当はつかれると思います。ところで、芥川の「のみならず」という言葉の使い方をみますと、それは漱石にもありますけど、使い方自体、逸脱じゃないかと思います。副詞的に使っているかと思うと、関係語的に使っていたりしています。そうかと思うと、これは意味がないんじゃないか、という使い方もしていると思います。
 ちょっと申し上げましょうか。例えばですね、『大導寺信輔の半生』の話の中に、
「元来体の弱かった母は一粒種の彼を産んだ後さえ、一滴の乳も与えなかった。のみならず乳母を養うことも貧しい彼の家の生計には出来ない相談の一つだった」。これは、まっとうな使い方です。母親が弱くて一滴の乳も与えられなかった。その上に、という意味で「のみならず」というのは、前の文章を受けますから、これはまっとうな使い方だと思います。
 ところで、まっとうでない使い方をだんだん申し上げてみましょうか。やはり『大導寺信輔の半生』の中で、
「しかし彼の迷信は幸にも次第に消えて行った。のみならず彼は西洋史の中に少くとも彼の迷信には反証に近いものを発見した」。この「のみならず」というのは、「その上」といい換えますと、少しだけ違ってしまいます。「それだけでなく」という訳し方をすると、だいたい当たると思います。「その上」でもいいですけど、やや違って、正確にいいたいならば、「それだけではなく」という訳し方をすればよろしいような使い方だと思います。
 だんだん逸脱してきます。
「のみならず信輔自身もまた嘘に嘘を重ねることは必ずしも父母に劣らなかった」というのがあります。父母の見えっ張りの例をずっと前の文章で挙げているわけですけど、改行して「のみならず信輔自身もまた嘘に嘘を重ねることは必ずしも父母に劣らなかった」といいますと、この「のみならず」は、構文上、前の文章全部を受けることになります。そうすると、この「のみならず」という言葉は、どういうふうに僕らが考えてみても、直前の文章を受けるならばまだこれは成り立つけれど、前にある文章全部を受けて、改行して「のみならず」という、こういう使い方は、やや逸脱ではないかと思われます。この逸脱は心理的にいえば、どういうところから来るかといえば、強い関係付けの意識から来ると思います。

14 芥川の病的な語法

 もっと極端に、『歯車』なんかにある関係妄想の描写に関連させていいますと、自分では、前に書いた文章全体と次の文章の関連が、自分の頭の中といいましょうか、内面的にはとてもよく付いているんだけど、文章ではあまり付けられなくなっているということが、この「のみならず」を前文全部を受けるというような使い方にしていると思います。もう少し違う使い方をしています。
「道はもう暮れかかっていた。のみならず道に敷いた石炭殻も霧雨か露かに濡れ透っていた」(註:『死後』)。この「のみならず」というのは、もう意味が通らない、関係付けられないと思います。前の文章は、「道はもう暮れかかっていた」と、道が暮れている、暗くなっているという、そういう文章です。「のみならず道に敷いた石炭殻も霧雨か露かに濡れ透っていた」。雨が降っていたことと暮れかかっていることとは関係ないわけですから、この「のみならず」は、ちょっと無理ではないかということになります。ですから、この場合、この「のみならず」は「そしてまた」とでも訳さなければ、訳にならないと思います。「のみならず」というのは「そしてまた」という意味だということになってしまうわけです。まんざら全然不都合とはいえないまでも、やや「のみならず」という語法にずれが生じています。これは、自分の頭の中では、道が暮れかかっていることと雨が降っていることの場面のイメージは関連が付いているんですけど、文章では、「のみならず」でつなげるというのは、たいへん無理だということになっていると思います。つまり、これは一種、芥川の無理な「のみならず」だ、というふうにいえると思います。
 時間が過ぎましたが、もう一つで終わりにします(笑)。もう一つは、全然意味が通らない「のみならず」です。これは『玄鶴山房』の中にあります。
「殊に近頃は見越しの松に雪よけの縄がかかったり、玄関の前に敷いた枯れ松葉に藪柑子(やぶこうじ)の実が赤らんだり、一層風流に見えるのだった。のみならずこの家のある横町もほとんど人通りと云うものはなかった」。要するに、風流に見えることと、この横町に人通りがなかったこととは、全然関係がないわけです。ですから、この「のみならず」は全然意味が通らないわけです。だけれども、この語法は、芥川が漱石から受け取りましたたいへん大きな遺産であり得るわけです。この遺産を芥川は非常に多用いたしまして、しかもかなり病的なところまで引き伸ばしていったと思います。
 この芥川の病的な語法というのは、例えば『或阿呆の一生』を皆さんがご覧になれば分かりますけれども、これは遺書で、50章ばかりの小さい文章を集めたものなんですけど、その中でだいたい10ぐらいは、つまり6分の1ぐらいは、全然意味が通らない文章を書いています。どういうことかというと、誰が読んでも何が書いてあるんだか分からない。文法が間違っているとかそういうことじゃないんですけど、何をいおうとしているのか、自分だけは分かっているんだけど、読む人には絶対に分からないよ、というような文章が書かれています。これは、芥川龍之介を一種の表現と現実とのずれに導いたもの、それからまた、芥川自身の人間性と文学とをずれに導いた、いちばん大きな要素ではないかと思われます。
 芥川龍之介についていうべきことはたくさんあるのですけれども、だいたいにおいて、芥川が反復概念として用いた根底にあるもの、あるいは漱石の生涯から受け取った非常に大きな遺産であると同時に拘束であるものというようなものを基にして考えていった場合に、芥川の文学はたいへん考えやすいものになっていくんじゃないかと思います。芥川の自殺ということは、たいへんさまざまな問題をはらんでいるので、これは別に一章を設けなければならないくらいの大きな問題だと思われますけれども、だいたいにおいて、作品概念の中から、あるいは文学概念の中から求められる芥川の特徴は、今日申し上げましたところで要約できるのではないかと思われます。
 時間もちょうど参りましたようで、あるいは過ぎましたようで(笑)、これで終わらせていただきます。(拍手)

――少し過ぎましたんですが(笑)、申し訳ありませんけれども休憩時間を少し短縮させていただきまして、3時10分から始めさせていただきますので、その間にトイレ等に行っていただきたいと思います。なお、入り口のロビーのところで、今やっております芥川龍之介展の図録を販売しておりますので、お求めの方はどうぞお求めください。……失礼しました。5分だとちょっと休憩が少なそうで、申し訳ありませんが休憩を10分にさせていただきます。よろしくお願いいたします。



テキスト化協力と註:山内円さま