今日は「現代文学のゆくえ」という演題を与えられましたが、現代文学の「現代」を「現在とこれからあと」という意味合いに理解していただければと思います。現代を「現在とこれからあと」と考えると、皆さんもきっと同じように思われていると思いますが、ここ数年の間に起こったいくつかの事件が、きわめて象徴的に「現在とこれからあと」を表していると思います。
挙げてみると、一つはソ連と東欧で共産党が国家権力から落ちてしまいました。これは記憶に新しいところだと思います。もう一つ挙げるとすればアメリカを指導的勢力とする中東の湾岸戦争がありましたが、これも記憶に新しいところだと思います。僕自身、二つのことについては書いたりしゃべったりしてきました。
もう一つあると思います。よく新聞やテレビで「バブル経済の崩壊」、「バブルがはじけた」と言われている、日本の経済情勢を基にした状況です。現在進行中でもありますし、皆さんも大変よく聞かれることだと思います。
前の二つの問題について言いたいことは言ったという感じがしているので、三番目のバブル経済の崩壊、バブルがはじけたと言われている問題の僕なりの見方、評価をやってみたいのです。現在日本で書かれている文学の問題、それがどういうことになってしまうのだろうかという問題とかかわりをつけられれば大変いいと思います。
バブルがはじけた、バブル経済が崩壊したということは、経済の専門家が新聞、テレビ、ラジオなりでしばしばいろいろな発言をしていますから、皆さん、ご存じだと思います。僕自身は自分なりの判断を持っていますから、簡単にいくつか申し上げます。
一つは土地評価の問題に始まって、株の値段が下落したことが一番最初にあります。そうするとどういうことになるか。個人でも企業でもそうですが、消費できる収益はたいてい株に替えて財産としています。バブルがはじけて、個人で、手持ちで株を持っている人や企業はそのために実質上、大変損害を被って、中には中小企業でそのために倒産してしまった企業もあるくらいです。皆さん個人でも、実質上、大変損をしてしまった体験をされている方もおられると思います。それが一つ、大きな問題になります。
バブルがはじけたことでもう一つ問題を挙げると、個人が消費できるお金、消費できる総額が前年度の同じ月、同じ季節に比べてちっとも増加していない状態、つまり横ばい状態で個人消費できる額はゼロ成長でちっとも増えていない。個人の消費、特に選択的消費というか個人が自分で自由に使えるお金、企業でそれに該当するのは設備投資だと思いますが、設備投資すべきお金が前年度同期に比べて減ってしまった状態が、挙げるとすると二番目に現れてきます。
こういう現れ方をするとだいたい不況、景気後退の状況になって、バブルがはじけ、それをきっかけに不況状態になっていく。両方とも現れてきたことは現在、記憶に新しいところ、あるいは現に体験しておられるかもしれないことだと思います。景気が後退した、不景気になった、不況になったということはどういう測り方をするかというと、専門家はいろいろな測り方をします。
たとえば現在の不況の状態は、全体社会としてどうして起こっているのか。企業家に言わせれば在庫品が増えてはけなくなってしまったことや、もう一つは不況か好況かを測る指数です。生産、ものをつくることで一番よい標識になるのは、鉱工業生産の指数を前年同期に比べて見ることです。パーセンテージが減少していることが不況の基準にされますが、いろいろな測り方があります。
もっと悲観的な測り方で言うと、企業の責任者から自分の企業は景気がいいか、悪いか、アンケートを取る。「景気がいい」割合より「悪い」の割合が多くなったということも、不況の判断の基準になります。
生産ではなく消費から不況の基準を測る場合には、二つか三つあります。いま言ったように、個人消費の額が前年度の同期に比べて減っているかどうかが一つの測り方です。企業で言えば、去年の同じ時期に比べて、三月なら三月、十月なら十月に比べて設備投資が減っているかどうか。減っていたら、不況に向かっていることになると思います。
これは生活に関係あることですが、住宅に投資する金が全体として減っているか、増加しているかが基準になると思います。消費から見た不況か好況かの測り方になると思いますが、その場合、個人消費も民間企業の設備投資の額も住宅に投資する金額も、全部減っているのが現在の状況だと思います。現在の状況はそうなって、衆目の見るところ不況状態に入っているという判断をしていると思います。
僕が強調したいことは少し違うことで、二つだけあります。もしかすると現代の文学に関係があるかもしれないことに属しますが、一つはこの不況が与える全体のムード、雰囲気、地盤がうんと下降している、沈滞しているという感じがだれの気分の中にもあると言いたいのです。言葉を使うと「世界負担」と言いましょうか、国内だけの問題ではなくて世界負担がとても大切なことのように思います。
世界負担というのは、日本よりは少しよくないですが、国民総生産を取ると去年に比べて少しでも増えているのは日本とドイツだけです。アメリカはマイナス、イギリスはマイナス、フランスは少し増えていますが増えていないのと同じという感じです。つまり、世界の経済的地盤沈降の負荷がかかってくるのは日本とドイツ、特に日本に一番かかってきています。
そのかかり方は経済的な問題から波及してくるわけですが、どこからともなく肩にかかってくる重さは、たぶん皆さんも実感しておられるのではないかと思います。この重さはどこから来るのか。いろいろなところ、国内の不況からも来ますが、僕が言いたいことは世界負担から来る部分がある。それはとても文学と関係があるのではないかと思います。
なぜこんな負担があるのか、原因の主なものは明らかなことです。ソ連、東欧における経済的不況、崩壊に近いくらいひどい状態になっていることも負担しなければならないし、アメリカがあまり好況でないから一番手で支えることがあまりできないことももちろんかかってきます。第三世界、アジアに対しても、なにがしかのことをしなければならないという負担もある。原因は非常にはっきりしていますが、その負担はどこへ行くのか。日本とドイツに行く。
われわれはそんなことにはあまり関係ない、となるわけですが、関係ないけれども何となく空気が重たいことはだれでも感じている現代の問題だと思います。そのことはもしかすると文学に関係あることかもしれませんし、関係ないのかもしれません。つまり、それが僕の言いたいことの一つです。
もう一つは何か。つまらないことに思うからかもしれないですが、いわゆる経済専門家があまり言わないのは、日本やアメリカ、西洋、フランスみたいなところでは、所得、収益の五割以上は消費しています。個々の人を取ってもそうですし、企業を取っても設備投資その他に振り当てる額は半分以上、消費あるいは設備投資に使われています。
その中で、どうしても必要な投資、個人で言えば必要な月々の光熱費、住宅費の部分に対して選んで使える。つまり、家具を買ったり、電気製品を買ったり、旅行に行ったりと選んで使える額は、日本、アメリカ、西欧の少数の国では全消費可能性のある額の半分以上になっています。企業で言えば、設備投資が可能である額がだいたい半分以上になっています。
経済人は言わないですが、常識的に考えて、個人にしろ企業にしろ、選んで使える額をゼロまで節約してしまったと仮定します。個人が明日、映画へ行こう、今度は旅行へ行こうと自分で選んで使っている半分以上の額を使わないようにしようと考えたとしたら、それだけでも半分の半分、つまり四分一以上の経済規模がなくなってしまうことを意味します。
企業も同じで、設備投資は何もしない、新しいことは何もしない。とにかくここをくぐり抜ければいいという考え方で選択的に投資できる額をゼロに引き締めたとしたら、同じように四分の一以上の経済規模はなくなってしまいます。つまり、それほど重大なことだと思います。
けれどもいま皆さんが個人としてやっておられることや企業がやっていることは、設備投資をできるだけ少なくしようではないか、広告費は少なくしようではないか、ということです。個人で言えば、三回映画に行っていたのは二回にしようじゃないか。旅行へたくさん行っていたけれども、少し節約して行かないようにしないではないか、くらいで皆さんはやっておられる。日本のいまの企業も、そうしていると思います。
しかし、本当を言うと、意識的にそれを選択できる消費をしたら経済的規模や経済的水準は少しも落とさない。精神的にはがまんしなければいけないですから辛いですが、生活規模や生活水準は落とさないでも全経済的規模は四分の三以下になってしまうというくらい、重要なことを意味していると思います。このことは、皆さん、意識しておられたほうがよろしいのではないかと思います。
現在のバブルがはじけたところから始まった不況の重たい感じと、全員、全企業が選択的消費を引き締めると、日本の経済規模はだいたい四分の三以下になってしまう。それくらい重要なことだし、生活水準や企業水準を全然落とさなくてもそうなってしまうことは、記憶しておいてよろしいことではないかと思います。もしかすると、現在の文学の状態、これからの行方に大変関係が深いかもしれないと思います。その二つは僕らが現在から非常に実感的に受け取っていることで、とても大切ではないかと思えることです。
では、現在の文学にその徴候を認められるのだろうか。あるいは、何らかの意味でそれに関連する徴候はあるのかを考えてみます。関係があると言おうとすれば言えるし、直接には何の関係もないと言えば言える。どちらにも言えますが、そのことを少し立ち入って申し上げてみたいと思います。
何を主題にして申し上げようかと思ってきたのですが、申し上げたい主題が二つあります。文学の基本的な問題の一つですが、男女の恋愛に伴う、はっきり言えば性行為です。そういうことについての描写が現代文学ではどういうふうになっているかを考えて、取り上げてみたいと思います。
現代に書かれているどの作品を取ってきてもいいですが、ここでは荻野アンナさんの『背負い水』という作品の中から取ってみたいと思います。もう一つは新井満さんの、やはり芥川賞か何かをもらった作品だと思いますが、『尋ね人の時間』という作品があります。皆さんもお読みかと思いますが、その作品にも同じような場面が同じように描かれているところがあります。
荻野さんの作品を例に取ると、私という主人公と主人公の男友だちであるカンノという絵描きさんが性行為をする場面があります。性行為をする場面でどういうことが起こるかというと、三行くらい読んでみます。性行為をしている場面を自分が上のほうからもう一回、冷静な目で見ている感じに襲われて、それとともにだんだんしらけてしまうという描写をしています。
?「薄目を開けてカンノの目を覗くと、そこにはむきだしの困惑があった。この場に及んで素面であることにお互いが辟易していた。野獣であるべきところに気配りがあった。中途半端なまま体を離した。体を交わし、言葉を交わして、体と言葉しか交わすものがないことに憮然としていた」。まったくしらけた性行為の場面を描いています。
そのしらけ方はどういうしらけ方かというと、自分が性行為をしながら、性行為をしている自分の姿が上のほうからの視線で豆粒のように見える。見えるためにしらけてしまう、という場面を描いています。
新井満さんの『尋ね人の時間』にも、同じような場面が出てきます。主人公が自分の奥さんと五年前に性行為をしていると、自分と奥さんが性行為をしている場面が頭の中の白いスクリーンにイメージとして浮かんできてしまいます。その途端、しらけてしまってというか、神島という主人公は性交不能になってしまいます。
性交不能になったのは一時的なものにすぎないと思っているのですが、相手を取り替えてもどうしても元に戻らないのです。しまいには、お医者さんへ行きます。お医者さんには、内分泌にも何も、全然異常がないと言われます。「あなたのは心理的なものだと思うから、カウンセラーのところへ行ってカウンセリングを受けたらどうだ」と言われて、カウンセラーのところへ行きます。カウンセラーがカウンセリングしてくれますが、ちっともよくなりません。どんなかたちでどうしようと、昔の女友だちと出会ってそういう場面を持とうとしたり、自分を好いてくれるモデルさんと性行為をしようとしても、性交不能に陥って治らないわけです。
それも原因になって、奥さんとは別れることになります。奥さんは別の男と再婚か同棲するとなっているけれども、自分はちっとも回復していない。回復しないということは、フロイト流に言うと強迫神経症みたいになってやりきれないとなるわけですが、この主人公は別段、神経症になるほど思い悩まない。要するに、性的不能であることにしらけてしまっている状態で回復しません。
カウンセラーは、「あなたのはどういうふうにしても、いままで考えられる原因はどれもこれも考えられない。全然違うことかもしれないし、全然何でもないことかもしれない。これはカウンセリングでどうする、ということではないような気がする」。冗談半分に、「もしかすると地球は人間に増えてほしくなくて、不能の人をいっぱいつくっていると言えるのかもしれない」みたいなことを言います。冗談半分に言うわけですが、作者はある程度、本気です。この主人公の性交不能を現在の同性愛やエイズと同じような特別な地位、域に持っていきたいのだと思えます。男女の性の問題をそういうところまで持っていきたいというモチーフを、この作品が持っているのだと思います。
このことを違う言い方をすると、『尋ね人の時間』のしらけ方は頭の中に白いスクリーンがあって、スクリーンに映る映像の中に性行為をしている自分が映るというしらけ方です。荻野さんの『背負い水』ではそういうものではなくて、自分を見ている自分の目がどこかに客観的に、冷静に冷たくある。それが性行為自体をしらけさせてしまうという描き方になっていると思います。よくよくこの描き方を考えると、一つはいまはやりの、たとえば立花さんなどがよく言っている、あるいは脳死と関連して盛んに論じられている臨死体験と言いましょうか、つまり、死に瀕したときに自分が横たわっている姿が自分で見えてしまう体験ですが、『背負い水』は大変それに似た描き方をされています。
新井さんの描き方は、たぶんいまはやりの新新興宗教の教祖が持っている一種の超能力、超能力に対する関心と同じことになると思います。見えないところが頭のスクリーンに映ってしまうのは一種の超能力現象ですが、それが現在の新新宗教の教祖に共通した体験だと思います。
幸福の科学から、統一教会から、オウム真理教まで、全部超能力的なイメージが頭の中のスクリーンにちゃんと出てきてしまう体験を一度はしたことがある人が教祖になっています。それに非常に関心を持つ若い人たちの関心の持ち方を考えると、どこかで超能力がほしい。つまり何か普通のままだったらわからないことが自分だけにわかってしまったらいいな、という一種の願望があったりする。超能力願望がある。それが新新興宗教を盛んにさせている要素だと思います。
新井さんがそこからヒントを得たかどうかは別ですが、新井さんの『尋ね人の時間』の性行為に対するしらけ方の基には超能力的な体験、超イメージ的な体験があって、それがしらける要素になっています。片方は、脳死問題と一緒に論じられる臨死体験と同じで、日に日に意識が薄れていったときに自分が病床に横たわっている姿が自分で見える。そういう見え方が、『背負い水』におけるしらける原因として描かれています。
これをもっと宗教的に言うと、修練によってそういう状態がつくれる新興宗教もあります。いずれにせよ超能力願望と臨死体験的なものにある、一見不可解ですがそういう現象が、この二つの作品の、同じようにしらける場面に出てきます。これはいったい何なのか。どうしてこういう作品の中で、性についてこういうふうに描かれるのだろうかとなると、さまざまな理由づけ、さまざまな関連づけができると思います。
僕は人間の死に近い体験、超能力者の超能力的体験に対する無意識の傾向性が、普遍的に現在あるのではないかというところに関連を引き延ばしていくと、大変現在らしい作品の描かれ方になっていくだろうと思います。こういうしらけ方にどれだけの普遍性があるかはなかなか言い難いですが、現代描かれている作品の中では割合にいい作品がそろいもそろって同じような場面を同じように描いて、同じようにしらけた性行為として描いている。そこにある一つの共通的な基盤を見るとすれば、それは現代の中でとても大きな問題になっていることではないかと言えなくはないと思います。僕だったら、そういう引き延ばし方、結びつけ方をすると思います。
この場面は、もっと別な言い方もできます。ハイテクの技術を使えば、それでもできます。バーチャルなイメージ、バーチャルな視線は、現に現在ではハイテク技術でつくれるわけです。メガネのようなものを目につけて見るとまったく現実と関係ない現実があって、自分がその中にいてちゃんと手ざわりや接近感の感覚も全部ある。においまではまだ行きませんが、とにかく架空の現実がつくれる。ハイテク技術でもそういうことができますが、ハイテク技術ではなく臨死的体験、超能力的な体験、新新宗教的な体験からもそういうものがつくれるし、そういう体験はできます。宗教からも、サイエンスからも、両方ともイメージとして可能な状態になってきています。
意味づけをもっと引き延ばしてみると、宗教的に言えばバーチャルイメージをつくる装置をつけてイメージの世界に如実に触れたり、接近して体験する仕方を見ると、現実世界もイメージ世界もいつでも交換できるくらい、どちらにリアリティがあるのかすこぶる境界が危うくなってきている。現に、イメージ体験を体験できるところまできています。
これを宗教体験と言い直してしまえば、昔から仏教がやってきたことです。中世以前の仏教の修行はみんなそうです。死後の世界と言われるもののイメージを修行によってつくることが修行の主な眼目になっているのが中世までの仏教のお坊さんの修行のやり方であり、到達点はそういうことです。つまり、その体験を経ることによって、この世の現実もあの世の現実も全部同じではないか。手ざわりも同じだし、もしかしたらにおいもするし、全部同じではないか。そうしたらこの世の現実で肉体が死んでしまう、死んでしまわない、ということはたいした問題ではない。精神というか魂のイメージというか、現実からまた違う現実以外の世界へ行ってもちゃんと如実に触ったり、近寄ったり、見たり、においを嗅いだりが本当に体験できる。そういうあの世の世界がある。
そういうふうに考えれば、人間の死というものは超えられるではないかというのが仏教の修行の眼目です。宗教的に言えば、そういうことになります。イメージの世界も現実の世界も同じではないか。いつでも交換できるではないかという体験の問題というところまで、引き延ばすことができると思います。 現在、ハイテク社会と言ってもいいですが、これが高度な社会、高度な先進的な社会が当面している、とても大きな問題になります。そこではやっている宗教、あるいは宗教と関連なく描かれた文学作品の中に出てくるイメージのつくり方、自分がやっていることだけではなくて姿まで自分で客観的に見えてしまう。見えてしまうために、やっている行為自体が全部しらけてしまう。そういう描かれ方が、文学の中にあります。
文学の中にあるこの問題は、引き延ばしてみると現在の先進的な社会が当面している問題の大きな部分と共通のところを占めていると言えると思います。この引き延ばし方は、もしかすると皆さんはあまり気に入らないかもしれませんし、こじつけだと思われてしまうかもしれませんが、僕にはそう思われます。
引き延ばして文学、小説に描かれたこういう問題を現在の問題と関連づけるとすれば、そういう関連のつけ方で性的なしらけ方、性行為におけるしらけ方、自分がやっていることが自分で見えてしまうということがもたらすわれわれの感情的なしらけ方、現実とイメージの境界が曖昧になってしまう。あるいは能と不能が曖昧になってしまう、感覚と不感との境界が曖昧になってしまう。そういう体験の描かれ方は現在の病根には違いないですが、病根の非常に大きな部分と接触していると受け取ることができると思います。
つまり、このことを一般的に言うと、要するに現実にある物質的な手ざわりもイメージの手ざわりも、いつでも交換ができる。いつでも同じではないかとなってしまっている。目に見えない感覚的なイメージと、物質的な現実的なイメージ、現実的なものとの境界がすこぶる曖昧になってしまっている。
宗教的に言えば、生と死の境界がすこぶる曖昧になってしまっている。この曖昧がどういうことになるか。自分はわかりませんけれども、自分の近親みたいな人や自分が愛着を持っている動物とかの死に対しては、ものすごく切実な感じを持ちます。他人の死、世間的な死、社会的な死に対しては確かに関心は持ちますが、すぐに穴が埋まるようにすぐにふさがれてしまって、「はい、次だ。忘れてしまったよ」となってしまう。死の悲しさみたいなものも、その人を持続的にとどめておくことができない。そういう状態がいまの状態にあるとすれば、やはり境界が曖昧になっている。われわれ現在の社会に生きている人間が、境界を曖昧にするような感受性をどうしても持たざるをえなくなっているという問題が、そこにあるのではないかと思われます。
このことを強いて現実の問題、あるいは現実の構造とストレートに関連づけようとすると、先ほど「経済専門家は不況の指針になるのは鉱工業の生産指数だと言う」と申し上げました。先進的社会では、すでに鉱工業は半分以下のパーセンテージです。生産性としても、生産に携わる人口としても、半分以下になってしまっています。半分以上の人たちはそういうことに携わっていなくて、流通、サービス業の部門に携わっている人が半分以上になってしまっています。そういうことは何かというと、ものを十個つくった、五個つくった、今日は残業して十五個つくったという意味合いで確かな手ざわりのあるものを生産した産業は、先進社会では少なくとも半分以下になってしまっています。
自分はこう残業したから何がどうなったかはあまりはっきりわからない状態が、たぶん先進社会での一般的な状態です。そのこととストレートに関連づけようとすれば、そういうことと関連づけられると思います。
ものの手ざわりがあって、自分は確かにこれを五個つくった、十五個つくった、十五個つくるために何時間残業したという意味合いではっきりと手ざわりがある産業は、本当を言うともう半分以下になってしまっています。手ざわりという意味合いでは、半分以上は何もなくなってしまった。そういうところに半分以上の人が携わり、半分以上の産業はそうなってしまっている現状があります。ものの手ざわりと目に見えない心の働き、感覚との境界がすこぶる曖昧になってしまった。イメージと現実の世界との境界がちっともはっきりしない、いつでも交換可能で、われわれの心の働きの中にそういうものが出てきてしまった。文学作品の中にまったく不測の事態というか、無意識であってもすでにいい作品と言われているものの中に出てきてしまうということは、たぶんそういうこととストレートに結びつけることができるのではないかと思います。
ストレートに結びつけないとすれば、われわれの実感的な現在の感覚を顧みれば、そのことが言えます。また、その体験があるから作者たちはそういう場面を描いているのだと思います。これが現在ということのとても大きな問題だと思います。
ところで、われわれは精神の病気と正常という区別をしています。専門家にそういうお医者さんもいます。しかし、バーチャルな現実のイメージは現実そのものと変わりがないし、いつでも交換可能だ。要するに、ある意味では病者の世界と言えます。
病者の世界を典型的に言えば、イメージの中で物語をつくってしまう。その物語の中で自分は主人公だったり、端役だったり、ドラマに登場したりということが曖昧に、現実との区別がつかずに、自分でも自覚なしに不測の事態として出てきてしまう場合、お医者さんはたぶん精神の病気と規定していると思います。
いま申し上げたことは、精神の病気ということと大変関連深いわけです。ただ、病者は四六時中というか、不測に、突発的にそういう事態を自分でつくれたり、そうなってしまったり、現実とイメージ、幻覚の世界の区別がつかなかったりという体験に陥ってしまいます。われわれはたまにというか、ある場面においてそういうことに当面しますが、普段はそれほどでもない。割に正常だと思って正常にやっている。違いと言えば、わずかにそのへんくらいです。正常と異常、病気と病気でないということの区別も、もしかすると境界が曖昧になっているのかもしれないと思います。
現に専門家は、現在一番増えてきたのは境界性の精神病と名前をつけている精神異常だと。異常なところに知らないうちに踏み込んでしまってそうなっているかと思うと、すぐに正常の領域を引き返してくる。その真ん中に境界線があるとすれば、その境界線が割合に絶えず越えられて、向こうへ行ったりこっちへ行ったりすることになっている。そういう場合を境界性精神異常あるいは精神病というのでしょうが、それがきわめて増えつつあると言うお医者さんもいます。
これも産業的なことと関連づけるならば、製造業は一時間働いたら十個でした、二時間働いたら二十個でした、とはっきりしていた。何かをつくったら効果がちゃんと目に見えて現れることがなくなってしまった産業に大多数の人が携わっていることが、大変大きな境界性の精神異常や精神病に関連していると考えます。
たとえば僕の理解の仕方では、本当は緑を守れ、緑を大切にしろと言っているのは遅いと思います。緑を対象にした産業に携わっている、つまり農業、漁業とか天然自然を相手の産業に携わっている人口はわずか七%くらいです。現に、世の中にはそのくらいしかいません。緑の問題が人間の精神に与える影響の問題は、七%くらいの農業、漁業に携わっている人と鉱工業に携わっている人との境界で生じる問題のように思います。
いずれにしろ、それは大きく見積もっても半分には達しない状態だというのが実際の問題です。現在およびこれからの問題は、何を守ればいいのか。たぶん頭を守ればいい、神経を守ればいいと思います。神経を守らなくてはいけない。一種の産業病、職業病の一番大きな部分を現に潜在的に占めていると思いますし、それはやがて顕在化してだれの目にも明らかになるだろうと思われます。それに対して文学作品、鋭敏な作家はそれをよく予兆しているというか、よく予感している、象徴していると言えるのではないかと思います。
もう一つ、例を取ると、文字通り精神異常と関連が深いのですが、ここ一、二年の間につくられた作品です。たとえば村上春樹さんの『TVピープル』という文章があります。それから、新井素子さんの『おしまいの日』はいま出ているし、よく読まれている作品ではないかと思います。この二つが扱っている問題は何かというと、境界が非常に曖昧な精神異常の主人公たちを扱っています。
『TVピープル』の主人公は僕です。僕は大企業の割合、先端的な職業に就いて、忙しく働いている人です。その主人公にはTVピープル、テレビ人間、青い洋服を着た小さい人間がよく見えます。勝手に自分のうちの中にやってきてテレビを据え付けて帰ってしまったり、会社で会議を開いていると会議場にテレビ人間がやってきて、勝手にテレビを据え付けて帰ってしまう。そういうことが主人公にはよく見えます。
不思議なことによく見えて、「こいつは何なのだ」と思っています。自分の奥さんに「テレビ、ここにテレビ人間が持ってきちゃったんだよ」と部屋の中のテレビを指しても、奥さんはぽかんとしているというか全然反応を示さない。「会議場に据え付けちゃった」と言っても会社の同僚はあまり不思議がらないみたいな風になっていきます。そういう描き方をしています。
つまり、幻覚だと自分でわかっていない。本当にあると思っています。自分の奥さんや同僚は、突然やってきてこんなことをしているのに文句も言わないし何も注意しない。どうしてなのだろうかと時には疑問に思うのですが、時には別に何も思わない。自分だけにはちゃんとそれが見えている。たぶん奥さんや同僚にはそれは見えていない、という描き方をしています。
この描き方は大変見事な描き方です。主人公の僕の頭がおかしくなってしまっていて病的な幻覚なのだと描かれているわけではないのです。ご当人はテレビ人間が来て据え付けてしまったと思うけれども、傍の人は全然そう思わないという描き方をしています。
そういう描き方をされると、読者はさまざまな解釈が可能です。本当にだれかがテレビを据え付けてしまったのを、僕という主人公は「テレビ人間が来て据えた」と思い込んでいるのかなとも思いますし、これはまったくの幻覚にすぎないのかなとも思います。また、周辺の奥さんや同僚はテレビが一台増えたぐらいで何を言ってるのと、見えているけれども関心を持たないのかとも解釈は可能です。つまり、さまざまな解釈が可能なわけで、そこに一種のミステリアスな効果が出てきます。ミステリアスな効果と見なければ、やはり主人公は境界性の精神異常に罹っているのだなという見方も可能です。そこまで見ていくならば、妄想というか幻想、幻覚の描き方は現代的なものだと理解できると思います。
新井素子さんの『おしまいの日』という作品も同じです。ごく普通の大企業の有能な会社員と奥さんの生活を、奥さんの日記を主体にして描いています。旦那さんは会社が忙しくてめったに定時には帰ってこないし、日曜日にはゴルフか何かに行ってつきあいが始まってしまう。ときには同僚と飲んで夜中過ぎ、午前様で帰ってくる状態がずっと続いている。有能な社員なのでしょうが、そういうことが続いています。
奥さんは自分の親戚に問題があるわけではなく、親が不幸だ、病気だというわけでもない。自分たちは大変うまくいっている夫婦だと考えなくてはいけないと思っていますが、ものすごく寂しくて仕方がない。寂しさが募る一方です。
あるとき、塀に穴が開いていて、そこから猫が顔を覗かせています。自分は寂しくて、夜中過ぎまで帰りを待っていないといけない状態なので、寂しいから猫を飼おうといってその猫を飼います。猫の食べものの器やクッションを買ってきて、つくって飼ってあげます。その猫を飼っていいか、いつか旦那さんの了解を得ようと思っているけれども、旦那さんは遅く帰ってくることが多くて、めったに普通の会話ができない状態で過ぎていきます。その猫は、旦那さんが玄関に帰ってくる音がすると消えてしまう、いなくなってしまう、逃げてしまいます。そういうふうに描かれていて、終わりのほうになって猫が家出してしまって、どこを捜してもいない。いろいろ捜し回る場面があります。つくってやったクッションも、餌を与えるために買ったお皿もなくなってしまう、というふうに描かれています。
読者から言うと、奥さんは寂しさのあまり精神異常というか神経症的になって、猫を飼っているというけれども、その猫は本当は幻覚なのではないか。奥さんは幻覚の猫を飼っていると思っているのではないかという一種の不気味さが作品の中から出てきます。そういう生活を描いています。
奥さんは、あるとき爆発します。旦那は会社のプロジェクトの責任者になっているのだけれども、それが失敗したために自分は降格されるかもしれないし、給料も減るかもしれないし、ボーナスも少なくなってしまうかもしれない。後始末のためにこれからも残業、残業が続くかもしれないみたいなことで、あるとき「話がある」と言って奥さんに了解を得ようとする。奥さんはいっぺんに爆発して、「そんなのは嫌だ。私はあなたの体のことも考え、夕食も食べないで帰ってくるのを待っている。あなたの体を気をつけているのに、あなたの会社はあなたを使えばいいと思っているんだ。そんな会社は辞めて、給料も少なくていい。普通に帰ってこられる普通のところに勤めを替えてくれ」と、爆発した挙げ句、旦那さんに訴えます。
旦那さんはびっくりしてしまう。大変有能な社員ですから、そんなことくらい了解してもらっていると思っているのですが、そうではないのでびっくりしてしまってぎくしゃくします。それから一月もたたないうちに、今度は旦那さんのほうが爆発します。
どういう爆発の仕方をするか。「お前は俺が残業で遅くなったら先にさっさと夕飯を食べて、時間が来たら寝てくれてしまったほうがよほど気分が楽だ。そのほうがよほどいい。それなのにお前がやっていることはまったく反対で、俺には重たくて、重たくてしょうがない。これではがまんできない」という爆発の仕方をします。大変いい奥さんである主人公はがっくりしてしまうというか、そこで糸が切れたみたいにプツンとしてしまって、家出をしてしまいます。
「完全家出」と表現してありますが、完全に家出してしまいます。旦那様の親類にも言わないし、友だち、旦那さんが知っているところに行かないで、全然違うところへ行ってしまいます。自分の高校時代の友だちにだけ手紙を寄越して、「自分を探さないでくれ」と言います。どうして自分は家出をしてしまったかというと、子どもを妊娠している。この子どもを産んだら、いままで一人でさえ耐え難いほどだった旦那さんがもう一人増えることになって、とうてい自分はやっていけないと思ったから、だれにも告げないで家出をしてしまった。そこで自分は子どもを産んで、子どもを育てながらやっていこうと思う。別に自殺したりはしない。そういうふうにやっていこうと思うという手紙を高校時代の友だちにあげます。
ある年月がたって、旦那さんは一種、失踪届けみたいなものを出してお葬式をして、次に知り合いになった女の人と再婚するところでこの作品は終わります。だから一番いい作品だ、という言い方は格別したくないですが、何を主題にしているかということから言うと、新井素子の『おしまいの日』は大変見事な作品です。
奥さんが幻覚かもしれない猫を飼っていると思い込んでいて、その猫が突然、いなくなってしまう。猫のお皿やクッションもなくなってしまうということは、いかにも本当にいたのだけれども猫がいなくなってしまったとも思います。また、奥さんが寂しさから一種の神経症になって、これは全部、神経症がつくりあげた一種の幻覚だったのだとも読者には思える。大変現代的、あるいは現在的でもありますし、現在ありそうに思える主題を不気味さを感じさせながら描いている。主題主義的に言うと、大変見事な作品です。
さすがにこの人はサブカルチャーのチャンピオンだなと思わせるだけの、なかなか見事なとらえ方です。正面切った、現在社会でありそうな非常に平凡な人物ですが、それを描きながら不気味、かつ日常的な世界の破綻を大変よく描いています。描き方はサブカルチャー、つまり語りものの描き方、読みものの描き方を持っていますから、主人公の奥さん、三津子の日記を主体にして日記を補うような説明の文章をつけたり、全体を説明する地の文をつけたりという描き方です。いわゆる純文学の作家はめったにやらない手法で、読みもの、物語の作家は割によくやる描き方をしています。
文学は必ずしも主題ではありません。主題が正面切って現代的だからこの作品はいいのだと必ずしも言うわけにいきませんが、この人はさすがに現在の社会でだれにでも起こりうるべき問題を大変よく知っている人だ、洞察している人だと言えると思います。つまり、そこはとても大きな問題だと思われます。
どういうことか。たとえばアメリカでも西洋、フランスでも似たり寄ったりですが、日本で言うと皆さんが新聞でよくご覧になるように、アンケートを取ると九割の人、八九%の人は「自分は中流の生活をしている」と出てきます。これはある意味で大変不気味な数字だし、ある意味で大変なものだと思います。
何が大変なのかというと、極端に引き延ばしてみるとすぐにわかります。「自分は中流の生活をしている」という人を極端に引き延ばして、九割から九割九分になったとします。九割九分の人が「自分は中流の生活をしている」と思っている社会を皆さんが想像されればすぐにわかりますが、このときはその社会はやめないといけない、変えないといけません。もちろん変えなくてもいいのですが、その社会はどん詰まりだと言ってもいいと思います。あたりを見回したら九割九分、「お前、俺と同じだ。俺を鏡に写したようなやつばかりで全部そうなってしまっている」という、新井素子でなくてもまことに不気味な社会と言えると思います。
アンケートを取ると「自分は中流だ」と回答する九割九分の人たちは全部病気だから正常に変えようではないかという場合も、九割九分の人を病院で医者に診てもらって治すことは不可能です。どうしても、いっそのこと社会を病院に入れてしまおうではないか、となると思います。治してから社会を社会復帰させようということになると思います。
社会を社会復帰させるとは何かというと、やめてしまおう、変えてしまおうではないかということと同じことになるのではないかと思います。正常と異常ということは、たとえば新井さんの小説や村上春樹の小説の段階、荻野さん、新井満とか、現在描かれている小説の範囲内で言えば、まあまあ、そんなに危機感は感じない。おかしいと思うけれども、こんな人たちしか現在の小説は描いていないのか、描けないのかという意味ではおかしいことになっています。
そのおかしさは、まあまあ我慢できる。俺は違う、俺は別問題だと思えばそれでいいではないですかということになるわけです。けれども、九割九分の人はこういうふうになってしまった。九割九分の小説はみんなこうなってしまったという場面を想定すればすぐにわかるように、大変不気味な社会です。
これを病人と考えるか。そうでなければ、九割九分のあとの一分を病院だと考えるか。あるいは、社会全部が病人だ。個々の人を病院で診てもらうなどというのはまだるっこいことであって、社会そのものを病院で診てもらおうではないかとなってしまうと思います。病院で診てもらって、お医者さんが何と言うかはわかりません。やぶ医者はでたらめなことを言うかもしれませんし、いい医者はいいことを言うかもしれませんし、「これは治らない」と言うかもしれません。わかりませんが、社会を病院に入れて、社会を社会復帰させるみたいなことをする以外になくなってしまうのではないか。そうでなければ、九割九分が正常であとの一分だけが異常で、病気だ。あるいは、九割九分の人が中流だという社会はまことに健全でめでたい社会だと思うか。いくつかの選択肢はあるでしょうが、いずれにせよそういうことになるのではないかと思います。
世界の先進的な社会で、九割九分の人が自分は中流の生活をしていると言う社会がやってくることが夢ではないというよりも、本当を言ってしまえば割合に近未来だと言ったほうがいいような気がします。つまり、実現可能性の範囲内で、現在から見通せる範囲内で、先進的なところではそういう社会が来るとお考えになるほうがたぶん妥当だと思います。なぜならば、日本の場合は八九%、ほぼ九割の人が自分は中流の生活をしていると思っているわけです。アメリカなら八〇%、フランスなら七十何%の人が、そういうふうに思っています。思い方のパーセンテージは割合に急激に増える。日本もこういう段階になったのは近々、たぶん二十年足らずだと思いますが、そういう段階に入っています。
九割九分の人がそうなる社会が空想だとは言いにくい。どのくらいの年数がかかるか、どうなるか、占いではありませんし超能力者でもありませんから、(笑)「そうなるよ」と確定的に言うことはできません。外れるかもしれませんが、理論的に言えばというか、非常に単純な延長、引き延ばしで言えば、たぶん九九%の人が「私は中流の生活をしています」と言う社会は、そんなに年数がかからないでやってくると考えるのが妥当な推理ではないかと思います。
それは大変な社会です。村上さんで言えばTV人間だし、新井さんで言えば旦那さんが勤め先からなかなか帰ってこないで、日曜はゴルフに出かけるしということで寂しくて、寂しくてしょうがない。そういう段階で個々のあれはとどまっていますが、九割九分になったときにはそうはいかないだろうと思います。
描き方も、そんな描き方では不気味さが現れてこない。今度はどこかでカタストロフィ、破局をつくらないと文学にはならないでしょう。また、性的なしらけ方も、自分が性行為している姿を自分で客体視できるという程度のしらけ方や、新井満さんで言えば自分が性行為している姿が脳のスクリーンに如実に浮かんできたというしらけ方ではない。もっと切実なというか、破局をもたらすようなしらけ方、描き方をどうしても必要とすることになりそうな感じがします。しらけ方も、現在のところ九〇%と言いましょうか、中くらいと言いましょうか。中くらいで進んでいるところが、現在の文学の姿だと思います。
では、健全な文学はないのか、現代、書かれていないのかということになると思います。そうでないかもしれない、あるのかもしれません。健全な文学作品も、つくられているのかもしれません。
僕がドゥマゴ賞の選考を引き受けたこの一年間は、怠けないで割によく読みました。その範囲内で申し上げると、これは健全な作品だというのは、伊集院静という人の『受け月』という作品集があります。その中の「夕空晴れて」という作品が一番いいと思います。この人の作品の世界は、大変健全に思います。何を健全というかというと、現在九割ある「自分は中流だ」と思っている人たちの感覚、感じ方、情念に対して、初めから大変よく、非常にていねいに笑顔で挨拶しています。
そうすると読むほうも、九割の読み手は挨拶に対して笑顔で返すほかないのです。返さないと礼儀を知らない、ということになってしまいます。僕も読んで感動しました。つまり、九割の中流は僕の中にもあります。ないと言ったら嘘になってしまう。ありますから、僕の中なる九割の中流はやはり感動しました。感心するわけです。
どうしてかというと、ちゃんと挨拶してくれる。それも、大変気持ちよくと言ったらいいのでしょうか。受けるように、女の人にはもてるのではないか、特に美人の女の人にはもてるのではないかと思いますが、(笑)もてるような、大変見事な、いい笑顔でいい挨拶の仕方をしてくれています。文体といい、内容といい、そうです。
一種のスポーツ小説です。たとえばプロ野球の選手になろうと思った。高校のときはそう思ったけれども挫折した主人公で、しかし挫折とは思っていない。プロ野球の選手になろうとして、人を蹴落としても選手になるというやり方はしない。みんなと一緒に野球を楽しむのが本当に神様がついている野球なんだ、スポーツなんだという考え方を持って、町の少年野球の監督みたいなことをしている。プロのスポーツマンになろうと思ったけれども、いろいろな事情でできなかった。それを挫折と考えるより、「本当のスポーツはそうではないと考えよう」という人たちが主人公になっていて、大変見事な笑顔で見事な挨拶をしてくれます。内容もそういうもので、感動的な内容です。そうすると、自分の中の、九割の中流の一人である自分の部分は感動します。
しかし、僕の中にもつむじ曲がりがいて、つむじ曲がりの部分は納得しないと言わざるをえないのです。何に納得しないかというと、笑顔で挨拶することはないでしょうというわけです。どうしてか。九割は挨拶して結構なことですが、あとの一割は、挨拶を重ねてしまうとマンホールみたいに強固な蓋ができてしまうのです。現在の社会、日本は確かに豊かで九割の人は中流だと思っている。無事平穏でいいではないか。僕だってそう思っているし、それで満足だと言えば、僕だって、満足だと思っています。しかし、あとの一割である僕の中の一割は満足しません。
蓋をしないでくれと言いたいのです。蓋をしないでどこかに裂け目というか、九割九分の人が中流と思えるようなときが来たら、この裂け目から裂けてください。避ける糸口をここにつくっておいてください、糸口を残しておいてくださいと言いたいのです。言いたいものが、僕の中にも一割は残っています。その一割が不服なのです。
なぜ不服か。どんな作品を描こうと、批評家は文句は言います。批評家の言うことを聞く必要は何もないのでこちらもそんなことはちっとも思っていないけれども、これを重ねてどんどん蓋をされてしまったらちょっと困るじゃないか。何が困るかというと、九割九分の人がこの挨拶に納得するような社会が来てしまったらどうするの? となります。この挨拶を喜んで受ける自分のほうが病気で、納得しないと言っている一割の自分の部分のほうが正常だ。その正常な人間は、「これならこういうイメージがいい」というイメージを裂け目からつかんでこられるかもしれません。
だけど、非常に円満で文句の言い様のない笑顔でどんどん蓋をして、九割なら九割の人が納得したものをつくってくれてしまったら、蓋はマンホールみたいに固まる。マンホールをコンクリートで固めて、と同じになってしまう。生活の貧困とかではなく、もっと別なことが社会で問題だということがそんなに遠くない未来、本当の課題となって出てきたときに、少しどければ糸口、この社会にもしかしたらあるかもしれない裂け目がすぐ見つかるようになっていてくれないと困ります。
また、どれが病気かと言ったら、「九割九分のほうが病気で一割のほうは病気ではない」という人が出てきても納得する。あるいは、九割九分の人は中流で文句がないという社会が病気で、これではだめだという社会のほうが病気ではない。そうなったときに、マンホールの取っ手を少し動かせば開いて、いろいろなことがこうやれば変わるね、こうやればもっといい社会になるねと言える。そういうところが保存されてほしい。 だから伊集院さんみたいな作品とまったく正反対、裏腹の読みもの、物語に対して反物語、読みものに対して反読みものという作品がどこかから出てきてほしいという願望は、批評するものとして持たざるをえないところがあります。そこらへんがこれからの現代文学の主たる問題になっていくのではないかということが、僕らが考えている行方です。うまく続いたかどうかすこぶるわからないですが、自分の意のあるところは申し上げて、これで終わらせていただきます。(拍手)