司会:
 本日の講師の先生は、文明批評家、詩人の吉本隆明先生でいらっしゃいます。吉本先生は、こちらの佃島小学校のご卒業生でいらっしゃいまして、月島、新佃島、現在の佃二丁目あたりになりましょうか。そちらの方で幼年時代と少年時代をお過ごしでいらっしゃいます。お手元の出演者のプロフィールに紹介させていただいていますが、多数のご著作とともに現代社会に対しても常に発言をなさっていらっしゃる先生でいらっしゃいます。本日は「わが月島」というテーマでご講演をお願い致します。それでは吉本先生よろしくお願いいたします。(会場拍手)

1 幼少期の月島の風景

 あの。今日は月島についてお話をするということなんですけども。どういうんでしょうか。僕が月島に生まれて、だいたい気がついたときには新佃島で、子供のときから14、5のあたりまでおりました。わけでもう、いろんなところに思い出とか、様々あるわけですけれども、何か懐古的な話っていうのだけで終止するのもなんですので、いろいろ考えてきたんですけども。僕が印象深く月島っていうのを感じている点とそれからそれを、客観的にといいましょうか冷静に見た場合に、どういうふうに自分の切実な体験とか思い出とかとどういうふうにつながるかっていう、その接点のところで何かお話できたらと考えてきました。
 だいたい僕は、気がついたときっていいましょうか、気がついたときはだいたい昭和の4、5年から13、4年ぐらいの間だと思うんです。つまり、その間の月島、佃島、新佃島っていうのについては、大変良く知っているということになりますし、まず、そういうところから、少しばかり入ってみたいわけですけども。こちらの図書館から頂きました昭和8、9年頃の京橋区の地図だと思います。これを見ますと僕が子供の時の月島っていうのが、彷彿とするわけです。どういうふうに彷彿するかと言いますと、佃島月島っていうふうにしますと、この一番端っこに書いてあるのが僕ら三号地と呼んでいました三号埋立地の跡です。三号埋立地にはほとんど人はいなくて土管とか鉄管とか転がっていて、この突端のところには、ある時期、そんなに長くじゃないんですが、ある時期、海水浴場がありまして、時々泳ぎに行ったっていうようなことを覚えています。それから、今の晴海ですけど、四号埋立地。四号地って言ってましたけど、ここはほとんど草っ原で、昭和十年代になってからぼちぼちいろんな公園とかなんとかできかけたっていうことですけど、だいたい小さい頃はここは草っ原で、何もない。バッタ取りでも行くとか釣りに行くとか、そういうことしかできない、そういう原っぱだったわけです。この四号埋立地、晴海地区が原っぱであることと、三号地っていうのはほとんどピンからなかっていうのが、僕が体験している月島であるわけです。今は、この先っちょに豊海とかできているわけですし、晴海の方の先っちょに埠頭ができているわけですし、だいぶ変わってしまっているわけです。

2 月島がなぜ生まれたのか

 そのころの月島っていうのを僕なんか持っている月島の原型と言いましょうか初期と言いましょうか、初期というふうに考えますと、月島の初期っていうのはどういうふうになっているかってことをお話して、月島の現在っていうのはどういう問題があるかっていうことをお話できたらと思います。
 月島がどうして発生したかって言いますと、どうして湧き上がったかって言いますと、それは具体的には明治25年に一号地、27年に二号地、明治29年に新佃島っていう順序で埋め立てがなされて、それが京橋区に編入されるっていうふうになったのが、そういう順序です。三号地っていうのは大正の初め頃、京橋区に編入されます。だから、埋立地はその前後にあって、前後に三号地、四号地っていうのは埋め立てされているわけですけど、京橋区に正式に編入された順序は、大正に三号地、昭和5年に四号地が京橋区に編入されて、そういう順序になります。
 しかし、月島がなぜ生まれたかっていうことを考えますと、それは、僕の理解の仕方ですと、東京という都市をどうするかっていうのが明治政府の大課題になったわけですけども。つまり江戸幕府時代からの江戸っていう名残の東京と文明開化の東京とがゴテゴテ(後手後手?)になって混乱を呈していたときに、どうやって東京っていう都市を作っていったらいいかっていうのが明治政府の課題になりまして、その課題がちょうどはじめは、ひどい考え方で、貧乏人は麦を喰えじゃないですけど、貧乏人の掘っ立て小屋みたいな不衛生な汚いあれはどっか追っ払っちゃえばいい。それで東京という都市を囲い込みをして、その圏外に貧困な家屋とか非衛生な家屋をみんな追っ払っちゃえばいいという論議が一等最初に出てきたわけですが、それはすぐに大反発を民間のジャーナリストなんかから大反発をくらいまして。僕らがそれをどうしてそんなことを知っているかって言いますと、僕は森鴎外のことを調べたことがあるんですけども、森鴎外がそれに対して猛反発した文章を書いています。鴎外っていう人は、衛生家、あるいは衛生医学家としてなかなか見識のある人で、あたかも東京をどうするかっていう論議がひどい形で起こったときに、森鴎外なんかがちょうど明治21年頃ですけども、大反発する文章を書いて。市区改正といいますか、東京をどうするかっていう問題の中に介入してきています。でも一番市区改正、東京をどうするかっていう問題の中で、一番大きく介入してきたのは石川島造船の初代の、石川島造船が民間に払い下げになったときの初代の社長なんですけども、平野富造という人がなかなか見識のある人で、その人とか、皆さんも御存知の財閥で、???が大変そういう問題について大きな役割を果たしています。
 それを渋沢栄一なんかの提案で象徴させますと、結局、東京をどうするかっていう論議は二つになりまして、一つは帝都っていいますか、帝都らしい相応なる都市にちゃんと道路を整備し、それから民家を整備し、建てる建物はまぁ立派なものを建ててっていう、そういう考え方と、もう一つは、いやそうじゃないと。東京っていうのは商業都市、あるいは工業都市って言いましょうか、そういう産業都市として発展させるべきだっていうのが、だいたい渋沢栄一なんか、つまり民間のいわゆる産業家とか金融家の考え方で、平野富造なんていう人も、やっぱりそういう考え方をとって、結局その欧州ヨーロッパで言えば、パリみたいな整備された大都市にすべきだっていう考え方、それから、いやそうじゃないと。産業都市にすべきだと。それには東京の湾港を整備して築港、港を作らなきゃいけないっていう論議と、その二つが出てきたわけです。
 その場合の築港論と言いましょうか、つまり港を造るべきだっていう論議のところで初めて月島っていうのが、いわば胎内に胎児となって生まれ始めたっていうふうに言うことができます。その時、渋沢栄一なんかの提案はいくつもあるわけですけど、主なものを言いますと、東京港は海の港とするべきよりも隅田川の河口を利用したって言いますか、そういう港とすべきだと。つまり、隅田川の河口を中心とした港とすべきだと。海の港とすべきじゃないっていう考え方のことを言い出したわけです。それから、これは港湾を広げろって言うことですけど、ドックの数を増やして港湾を広げろって言うことですけど、それに伴ってその背後にだいたい百万坪ぐらいの埋め立てをすべきだっていう提案を渋沢栄一なんかはやったわけです。それで渋沢栄一はその時の内務大臣っていうのは山県有朋ですけど。山県有朋と松方正義っていう大蔵大臣ですけど、それが二人の連名でもって、東京の市区改正条例っていうのをかなり強硬に公布させたわけです。その時の協議の母体になったなかでの民間人のなかに渋沢栄一なんかが入っているわけです。そこのところではじめて月島っていうのが胎内に生まれたっていうふうに言うことができます。それはだいたい明治21年から2年頃になります。ご覧の通り、埋め立てが明治25年頃から始まっているわけですが、少し遅れて埋め立てが実現していくっていうことになります。
 もちろん、もっと胎内に発生する以前のことを言うならもう、大変大昔から、つまり17世紀頃から佃島っていうのは、三角州?としてあって、隅田川の三角州として浅瀬が積み重なった形であって、それで幕府の船手衆、今で言えば海軍なんでしょうけれど、その石川八左ヱ門っていうのにその島を幕府が与えたわけです。それでそこで船の管理、つまり船交通の管理をさせたっていうことになります。そこからもう一度あって、みなさんもよくテレビなんかの時代劇でご存知な長谷川平蔵っていう火盗、火附盗賊改の役なんですけど、長谷川平蔵っていうのがその後、佃島三角州のところに人足寄場っていう浮浪者的な人、つまり悪いことしかねないって言う人を集めて人足寄場にして、そこで???業って言いましょうか、様々な職業訓練みたいなことをそういう人たちにやったっていうふうにして、佃島っていうのはもともと石川島とあわさって人足寄場と、船の交通管理と、それから後に、幕府が大坂の西成の佃村から漁師さんを招き寄せて幕府の御用達にしたっていう、そういう三つのことが集まって佃島っていうのが発生して来たというふうに言うことができます。

3 初期月島のイメージとその根拠

 僕は、思春期の前期まで佃島にいましたから、独特の思い入れっていうのがあるし、独特の佃島月島に対するイメージがあります。そのイメージっていうのは、一種の記憶なんですけど、その記憶に根拠を与えてみたいといいましょうか、それはこういうことだったんだなと根拠を与えてみたいので、二番目に初期の月島って何なのかということをいくつかの特徴を挙げて申し上げてみたいと思うわけです。初期っていうのはあとから書いたんですけど、はじめは月島っていうのは何なんだっていうふうなことにしようと思ったんですけど、現在の月島っていうのは全くイメージが違いますから、これは初期月島っていうふうに言わないと正確じゃないなと思いまして。つまり自分のイメージとして固定している月島っていうのは、かなり初期の月島なんだっていうふうに考えたほうがいいし、また初期の月島として言えばそれぞれの根拠というのは与えられるような気がしましたので、初期の月島っていうのは何なんだっていうことを幾つかの項目で、申し上げてみたいと思いました。
 これは、様々な言い方ができます。できるんでしょうけども、僕なりの考え方をしてみますと、第一番に石川造船所っていうのが明治年代のかなり早くから、中頃ぐらい以降からですけど、民間に払い下げられて、盛んに造船事業を、要するに戦争中は軍艦を造ったり、汽船を作ったりとか。のちには、例えば厩橋なんかの橋の橋梁と言いましょうか、橋の骨組みっていうのも石川島造船で造ったりしています。ですから、そこ?が月島佃島の工業地区としての特徴としての一番始まりの地っていうのが、石川島造船なわけです。だいたいそれで、月島の大小の工業、工場というのがあるわけですけども、それらの相当な部分が元は石川島造船に勤めていた人たちが自分で自家営業してとか、独立してとかして、月島の工業地帯を作っていったというふうにいうことができます。ですから、大変、僕らも子供の頃にそうですが、共同体的な意識って言いますか、良いにつけ悪いにつけ共同体的な意識があって、すぐにどこそこのうちの娘がどっかいって離縁なって帰ってきたとか、どこの息子が不良になっちゃって、どっかの厄介になってるとか、そういうなこと、どこでもすぐにわかっちゃうみたいな点があるわけですけど。良いにつけ悪いにつけそういう共同体的な意識っていうのが、住民の、初期の月島にあったわけですけども。それと同じように工業化、あるいは工場化の間にも石川島造船を中心、というよりも発生点として、そういうなんか大変緊密な工場のネットワークみたいなものがあったというのが、大変、月島地区の特徴だというふうに言うことができます。
 それと関連して申し上げますと、僕は佃島小学校ですけども、小学校の先生が、新任してきますと、おめえたちは東京で一番頭の悪い奴らだ、生徒だっていうふうによく言われます。もう一つは、一番ダメな生徒なんだっていうふうによく言われました。つまり、勉強もできないし、生活状態もいけないし、問題児も結構あってっていう意味合いで、とにかくおめえら最下位だっていう、東京の最下位だのをよく知ってないとダメだぞっていうなことを新任の先生からよく言われて、そうかなるほどなって思っていたってのを覚えています。
 つまり、それは、新佃島月島っていうのが、そういうような工場のネットワーク、工業地帯として発達した街だって。住民本位の街って言うよりも工業地帯に付随する住民の街っていうことで、もちろん、埋め立てたのがせいぜい明治25年ですから、それ以前の人っていうのは月島にはいないわけですから、伝統ある人とか代々お金持ちの豪華なうちでっていうなものは月島には存在しないわけです。その事情が相まって、お前たちは東京で一番ダメな学校だぜっていうふうに、そういうレッテルを貼られ、また事実もそうだったっていうふうに思いますけど。そういうふうなことの理由だって思います。
 つまり明治20年以前に何もなかった。住民の逸話もないっていうことと工場のネットワークを主体として、発達した街だからというその二つのことが、そういうふうに言われた理由だと思います。悪い言い方をすると、月島っていうのは東京の植民地として発達したっていうふうに言われて、そういうふうに言われる言われ方ってのもあるわけです。これは例えば、ポーランドならポーランドが西欧内部の植民地とよく言われたりすることがあるわけですけども、つまり東欧っていうのはそうなんだって言われることがあるわけですけど、それと同じように東京が内部に抱え込んだ月島ってのは、植民地的なところなんだっていうふうに言われる言われ方もされてきたわけです。
 どういうところがそこで、新開地だっていうことを含めて特徴になるかって言いますと、だいたい初期の月島には墓場と金融機関と中等学校っていうのが存在しなかった。それから水上学校というのが月島だけにあったていうふうに言えます。つまり月島には水上生活者の子供さん、児童っていう施設?がやっぱりいて、僕らもそういう記憶を持っているわけですけども。そういう非常に珍しいところだと思います。それから、特別衛生地区、つまり公立の病院とか?とか、初期の月島にはなかったわけです。つまり、衛生関係のことっていうのは特別衛生地区っていうことになっておりまして、例えば佃島小学校だと聖路加病院の保健館から看護婦さんが保健室にやってきて、それでそこに詰めるっていうようなそういう形で。特別衛生地区なわけで。レントゲンの調子で胸の調子が悪いと、行って来いとか言われて、保健館までレントゲン撮り直しに行くってなことをよくやらされていましたから。つまり特別衛生地区なわけです。そういうことも珍しいことなんです。
 先程から申し上げましたとおり、昭和初年でもそうなんですけども、三号地四号地には一個も住居がないっていうことがあります。もう一つ非常に大雑把な特徴ですけど、今では非常に利権としての特徴になっていますけども、都心に近いくせに辺境地帯なんです。つまり、そういうふうに、あれは鏑木清方かな、なんか書いた明治の東京みないなのを読むと、川向うの、つまり築地とか明石町とかそういうところの親は子供がいたずらすると「お前佃島へやっちゃうぞ」とか「月島へやっちゃうぞ」っていうのが脅かしの文句になったっていうくらい都心に近い辺境だって、辺鄙なところだっていうふうに思われていたってことになります。それにも関わらず昭和10年で京橋区の人口の四分の一は月島に存在したっていうふうな、つまり辺境でかつ工場地帯に通勤した人たちも含めて言えば、密集してくるっていうような、そういう場所だったというふうに言えると思います。
 それから、これも非常に、自分のうちもそうだったからあれなんですけど、つまり貧しい貧困な地域だっていうことでは、東京でも相当指折りなところであったというふうに思います。そういう、ちょっと僕ら言わないと、せっかく昔の場所へ来たんです。小学校で、月謝を持ってくっていうのがあるでしょ。今、どうかはわかんないですけど。封筒の中へ月謝を入れて持っていくわけです。学校へ。それだけど、僕らはみんな時々やるわけですけど、親父から月謝の金を払ってもらうのがなんとなく気の毒だぞって思ったときがあるんです。そうすると、学校行って忘れましたって言うわけです。月謝持って来いっていうのを持ってこないで、忘れましたって。そうすると先生は、なんでそんなの忘れるんだ、だらしないって言って怒るわけですけどね。それはね、ちょっと微妙なわけです。つまり、子供だけど、なんてのんきな先生なんだっていうふうに逆に思うときもあったわけです。つまり子供でなかなか察しが良くて。多分月謝安かったですからね、親父に言えばくれると思うんだけど、なんか言うのが悪いなっていう感じで。そういうときには、忘れましたって言うんです。それでそれが僕だけじゃなくて、そういう子供がいるわけです。クラスに。みんな忘れましたって立って言うと、なんでこんなに忘れ物をあれするやつが多いんだって怒られるわけですけどね。だけどちょっとそれは違うんでないのっていうふうに、思いながら、でも説教は聞いてくっていうそういう場所だったからとても貧困な地域だっていうことは大変良く実感的にもとても良くわかっています。たしかに月島っていうのは貧困なとこだっていうことはわかっていたんです。
 それを具体的なデータで言いますと、例えば母子保護法ってのはあるわけですけども、母子保護法で昭和14年のところ抜き出してきましたけども、母親、扶助人員ですけども、つまり扶助を受ける人員ですが、母親が17人で京橋区全体で30人のうち17人ですから50%以上ですね、それが月島であった。子供が103人で、京橋全体で179人ですから、そうすっとこれは60%近くが月島に扶助家族、扶助の母子家族ってのがあったと言えるわけで。やっぱりなるほど貧乏だよなってことがデータ的にも言えるわけです。もちろん子供ですから僕らはそういうことをデータを知ってるわけでも何でもなくて、ただ漠然と自分の実感でそう感じたということなんですけど。それから、工場を中心として発達した場所ですから、工場労働者っていうのが多いわけです。工場労働者の多さっていうのもデータがありますから、これは大正7年か8年頃です。データですけども。だいたい京橋区、例えば月島の工場の特徴っていうのは機械工業っていうのがべらぼうに他の地域に比べて多いってことが特徴なんですけども、機械工場っていうのだけを今比べてみますと、工場数を言いますと京橋区全体で75だと、そうするとそのうちの51ですから大体70%近くは月島にあったっていうデータになっています。機械工場に働いている人員ですけども、京橋区全体の機械工場で働いている人員の90%っていうのが月島にあったっていうことがデータとして出ています。それくらい、京橋区を支えている工場地帯みたいなもんであり、同時にそれはもしかすると東京都全体の工場を支えている場所であったかもしれないということが言えると思います。そういう場所が月島っていう場所だったっていうことが言えると思います。
 それから同じことなんですけども、月島の子供ですけども、月島第一小学校と第二小学校の4年、5年、6年生の児童に、自分の保護者ですから親父さんとか親父さんに代わる人でしょうけれど、そういう人がどういうふうな勤め方をしてるかっていう調査をしたのが大正7年にあります。それによりますと、これは大変な、ほんとは重要なって言いますか、珍しいって言いましょうか、月島の特徴だっていうふうに思いますけども、大正7年ないし8年において、第一次産業って、農業とか漁業とか鉱業とか、鉱業ってのは鉱山業ですけど、そういうのを指すわけですけども、それの月島における百分率って言いましょうかパーセンテージは0.5%っていうふうになっています。これはそういう保護者調査したデータを僕が直したわけです。つまり第一次産業、第二次産業、第三次産業っていうデータに直したわけです。だからそういう意味では正確ないかもしれません。直し替えてみたんですけど、百分率からして0.5%が第一次産業。つまり自然を相手にした産業に従事している。しかしその当時の全国を考えますと、全国で言いますと農業、漁業、鉱山業に従事している人員は34%くらいあったわけです。つまり、それに比べると、それは月島の特殊な点ですけども、第一次産業の百分率っていうものが非常に少ない。もともと少ない。だから、こういうところっていうのは、独立はできないんですね。つまり今で言うと、香港とかシンガポールとかそういうところと大変よく似ているので、香港やシンガポールは独立国にはなかなかならないんですね。でも都市国家的に言えば大変発達した先進国です。つまりシンガポールとか香港とかっていうのは独立国家として、独立の都市国家としてみれば大変発達した、世界でも有数に発達した場所なんですけど、いかんせん第一次産業からだんだん都会化していって製造業工業が主体になっていってそれから第三次産業になってっていうような歴史的な経緯を踏んでいないですから、だからそれは独立はできないんですね。月島佃島も同じです。第一次産業の比率が大正7年にして0.5%ぐらいしかないんですから、これじゃお話にならない。食い物は全部どっかから持って来るよりしかたないっていうことになります。全国で言えば34%ぐらい。だけれども、も一つ重大な特徴があります。月島に。
 これは、第二次産業、つまり製造業とか建設業とかそういうのに含めて第二次産業と言っていますけれど、それは85%。月島、新佃島、佃島、85%ぐらい、大正7年にあったわけです。つまり大部分が工業製造業だったわけです。それは当時の全国で言えば大体26、7%っていうのが、全国における工業製造業のパーセントなんですけども、その時すでに85%製造業工業があったっていうのはものすごい特徴なわけです。この特徴を本当は、数字慣れしてる人で言えば、これだけの特徴を挙げればもうイメージがふぁっていうふうに月島のイメージがいっぺんに分かっちゃうっていうぐらい重要な指標です。当時大正7年、8年において工業製造業が85%あったっていうのが。全国平均が26、7%しかないっていう。それは大変な特徴です。
 もう一つ特徴を挙げますと、第三次産業、つまり流通業とかサービス業とか運輸業とか自営業なんかも含めてそうですけど、そういうののパーセンテージが14.5%、全国平均は39%ですから大変、産業の高次化っていうことを自然推移っていうふうに考えれば大変遅れた地域だっていうふうになると思います。製造業がべらぼうに多いって言うことと、第三次産業がやや遅れ気味であるという点と、第一次産業つまり農業、漁業、林業、鉱山業っていうのがべらぼうに少ないっていうこと。その三つの特色っていうのは佃島月島地区のものすごい大きな特徴です。この特徴は現在どう解消されているかっていうのについてよく僕はイメージが湧かないんで、先程ちょっと早く来て図書館で俄勉強したんですけど、間に合いませんであれですけど、この特徴を徐々に解消していって、京橋区あるいは中央区一般の、一般に型ならししちゃうってのは過程が多分月島の現在、初期の月島から後期の月島へかけての月島の発展の仕方になるんじゃないかって漠然と感じます。
 もう一つ、今工業のことを申し上げました。こんど商業の特徴を申し上げます。これも昭和12年のデータがあります。西仲通のデータがありますからこの特徴を申し上げますと、月島の商店街の特徴というのは調理職業っていうふうに言えるものが50%ちょっとオーバーしてるくらいあるってこと。これは月島商店街のものすごい特徴だっていうのになります。昭和12年に。つまり、これに比べられる商店街は東京にはありません。まるで桁外れに調理職業っていうのが月島地区では多いってことが、ものすごい大きな特徴です。普通の東京の商店街ってのは、昭和12年で言ってみれば20%から30%が一番多い方です。ところが月島だけは50%を超えるっていう非常に大きな特徴です。
 それからもう一つは、保健衛生業っていうか、これなんだろうね、薬局みたいなものでしょうか。つまりそれに類したことでしょうが、それが7.95って、これもべらぼうに他の商店街に比べて多いってこと。薬屋さんが多いんじゃねぇかなって気がするんですけど、それはよくわかりません。この二つがべらぼうに多いってことが月島商店街の大きな特徴っていうことになります。昭和12年っていうのを初期っていうのはおかしいかもしれませんですけど。これは中日戦争あるいは日支事変って言われていた、あるいは支那事変って言われてたものの直前までの月島の概要ってのを初期の延長っていうに考えれば、これらの特徴が初期の月島の大きな特徴だったというふうに言うことができると思います。

4 現在の月島、東京フロンティア計画と南関東大都市地域整備計画

 現在の月島っていうのはどういうことになるんでしょうか。あるいはどういうことになっているんでしょうかっていうことを僕なり調べてみたんですけども、だいたいにおいて主な考え方っていうのは、二つあると思います。月島内での考え方じゃないんです。外部から押し付けられているっていうか、あるいは東京全体として押し付けられている、あるいはもっと南関東全体として押し付けられている月島地区に対する考え方っていうのがありますけど。それは対立して二つあると思います。
 一つはだいたい都が考えたり、あるいは専門家っていいますか、都市関係の専門家みたいな人、建築専門家みたいな人、そういう人たちのアイデアを集めて都が考えている東京フロンティア計画っていうのがあります。この計画にはまた、計画に対する批判って言うのもまたあるんです。これが一つ出ているプランで、その中に月島地区、恵比寿の先の臨海地区は全部含まれてしまうってことになると思います。それから、もう一つあります。もう一つは、現在ではちょっと前ですけど国土庁を中心とした企画みたいのがあって、それが南関東地域全体に渡る整備計画っていうのがプランとしては出されています。
 たぶんみなさんが日常聞いているのは、一番目の東京フロンティア計画だというふうに思います。これは、東京の十号埋立地から十三号埋立地のあたりにハイテクの情報集積地?みたいのとか25万人くらい人口を吸収する住宅及び住宅と事業とが相接した地域をつくるとか、公園つくるとか。その手の臨海副都心計画と言いましょうか、月島地区あるいはその延長線上の臨海地区を第七番目の副都心と考えて、その臨海副都心というのをどういうふうに整備するかっていう、そういう計画だと思います。
 その計画に対しては、計画のアイデアの非常に根本的な点は、どういうところにあるのかなと、要するに本に書いてあるのを眺めてみますと、二つあると思います。一つは、住宅っていうものと企業というものとを込みでと言いましょうか。一塊として整備した、つくりあげちゃってっていうそういう考え方だと思います。非常に根本的な理念といいましょうか、臨海プランの理念だと思います。それから、あとは、これは初期の月島がかって東京の植民地だって言われたのと同じような意味合いで、世界都市東京の一種の植民地的な役割を全部臨海副都心地区に持ってっちゃおうってことがそこに含まれていると思います。でも、根本的な理念ていうところで言えば、企業の工場というのと住宅地っていうのを一緒に込みにして街をつくっちゃおう、それも第三次産業に該当する街づくり港づくりをやっちゃおうっていうことが根本的な理念だというふうに思います。
 ですからこれに対する批判ももちろんあります。そんなことしないで企業みたいなこととかハイテクの集積地にするなんてことはあんまり考えないで、住民本位の住居地区っていうのをいっぱいして、企業は少なくした方が良いっていう批判が、例えば港湾労働組合なんかから出てきたり、あるいは様々な文化人とか建築専門家とか都市専門家とかからそういう批判が出ています。つまり、企業とか事業とかというふうに考えないで、主として住民がいかに住みよいかっていう、そういう場所を臨海地区につくるべきだって、その批判だというふうに思います。
 しかし、もし僕に言わせれば、批判するんならそんなこと批判したってしょうがない。言ってみるだけっていう批判にしか過ぎないので、要するに、根本的な理念である企業、職場って言いますか、事業所っていいますか、企業の場所というものと住居とを込みにして近くして交通の混乱を避けて、街をつくるっていう根本理念に対する批判っていうのがなければそれは批判にならないので、全部批判もプランも全部おんなじだって考えたほうがいいと思います。本当にこれを批判する批判的観点がありうるとすれば、住居っていうものと職場っていうものがくっついているべきか、あるいはべらぼうに離すべきかっていうことが非常に大きな重要な理念の問題、つまり理念が競り合う問題になります。つまり、それ以外の競り合いは単なる言ってみるだけで、どっちでもおんなじだよってことになります。そうじゃないです。つまり、事業所って言いますか働きに行くところって言いますか職場って言いますか、あるいは産業の場所ってものと、自分のプライベートな住居っていうものとは、くっついているべきか、あるいは離れているべきか。それは全然別の問題であるかっていうふうに考える。そこのところがこういう都市プランにおける非常に根本的な問題になります。
 どうしてかと申しますと、プライベートな家っていうのは、足りるとか足りないとか言いますけど、プライベートな家っていうのは、それぞれで違うわけです。それぞれの家族家庭であって考え方も違いますし、員数も違いますし、やり方も違いますし、どんなんが理想とするかというのも違いますし。一戸建てがいいっていう家族もあるし、めんどくさいからマンションのほうがずっといいんだっていう人もいますし、それから人とおんなじのは嫌だと、つまり掘っ立て小屋でもいいからやっぱり自分なりに好きなあれを作ってそこだけはどんなに都会が発達しようと文明が発達しようと緑がなくなろうととにかくうちに帰れば自分の好きなように作れるんだよっていうそういうなのが好ましいんだっていう考え方をとるか、あるいは住居と事業所は込みにしておんなじで、交通、つまり行き帰りの時間を節約した方がいいと考えるか、理念としてはそのどちらかになります。僕らが日本の現在の現状を考えますと消費の額とか時間のほうがずっと多くなっていますから、どんな人でも、だいたい平均値取れば多くなっていますから、住居っていうのは原則としては離して、それはそれぞれの家族の考え方で、一番いいと思う考え方で人がどうあろうとぜんぜん関係なく、一番いいやり方を取って、それぞれの家族単位で全然別でいいんだっていう考え方のほうが僕は妥当なような気がします。
 ですから、もとのプランに対して異論を立てるでのあればそこで立てる以外にないんです。そこの問題が非常に重要な問題なんですけど。今まで出てきている批判っていうのは全部そうじゃないですね。交通が苦しいから行き帰りの時間を節約するために住居と事業所は込みにして街をつくったほうがいいっていう考え方をするわけですよ。そんなことすればその挙げ句の果ては、どういうふうになるかって申しますと、あのうちも三種類ぐらいのうちに還元されてしまって、あの人と俺のうちは中はおんなじだよっていううちにみんな入ることになります。そういうふうになって行きます。それはちっとも理想じゃないんだって言うこと。金銭の節約っていう面ではあるいはある時期そういうことはありうるかもしれない。節約になりうるかもしれないけど、理念としてはたいへん違う考え方だっていうふうに僕には思えます。つまり駄目な考え方だと思います。いくら遠くても交通機関が発達すればいいから、発達させればいいから遠くてもいいけど、自分のうち自分の街っていうのは自由にやらせてくれって。自由に休ませてくれとか自由にやらせてくれって。自由なうちをつくらせてくれっていうのが僕は妥当な気がします。そこのところは人によって考え方は違いますから、それがいいとは決して言いませんけど、もしこういうプランに異論を立てるとか批判をするってんなら、そういうところで理念を批判しないと批判にはならんのだっていうことは、とても重要なことのように思われます。
 それから、もう一つのプランがあります。それは、要するに東京の問題を東京の問題だけで解決するのは駄目じゃないかということになると思います。小さく言えば月島の問題は月島の問題だけで解決しようっていう考え方をやめようじゃないかっていうのとおんなじことになると思いますけど。もう一つのプランは、佐貫(利雄)さんって言う人の委員会のプランですけども、都心として上野、浅草、秋葉原それから汐留、浜松町、品川っていうところ、都心地区として設定すると。もう一つは新都心地区として池袋、新宿、渋谷地区を設定すると。そうしといて、都心新都心から40キロぐらいのところ前に衛星都市っていうのがありまして、そこから都心へ通うとか、あるいは都心近くからそちらの工場へ通うとかっていうことになっているから、ちょうど40キロじゃなくて中間の30キロっていうところに一つの核都市といいますか核になる都市を設定する。例えば北の方で言えば大宮だ。あと立川と千葉と横浜っていうのを仮に核都市っていうふうに、30キロの地点、線上にある核都市っていうふうに考えると、そこにある程度、都心新都心にある東京の中枢的な管理機構を部分的にそこに移動させちゃうと。分散させちゃうと。そして都心から30キロ地点へ通う人もいるし、40キロ地点から30キロ地点へ通う人もいるっていう形で交通は自ずから逆になるから少しは緩和されるはずだっていうプランだと思います。こういうプランがもう一つあります。これは、もう一つあるって言うほどみなさんも世間も評価してないかもしれないけど、僕は佐貫さんっていう人は大変優秀な経済学者だというふうに思っていまして、この人の『衰退する都市 成長する都市』っていう書物がありますけど、これはものすごくいい本だと思います。時事通信社から出てる本ですけど。僕はだからこの人をとても信頼していますので、これはなかなかのプランだというふうに思います。

5 衰退する東京とその産業構成

 臨海都市をかっての初期月島のように東京の植民地的なあれにして、月島は工業地帯としてそういうふうになってきたわけです。つまり工業地帯ってことは第二次産業の勃興期にそういう役割を果たしてきたわけです。今や第三次産業っていうのが日本の産業の大部分を占めています。大部分を占めていますから、そこでは工場っていうのは縮小していく以外にないので、また工業地域と製造会社の本社っていいましょうかね、事務事業所っていうのを主体として発達した町っていうのはだいたい衰退に向かっているっていうふうに言うことができます。東京はことごとく全部衰退に向かっています。つまり京橋区と言いますか中央区っていうのもそうですけど、中央区っていうのはもう千代田区についで初期の衰退が始まった地域で、ますます衰退しつつある地域だっていうふうに言うことができます。今東京でかろうじて、1980年頃、昭和55年から56年頃ですか、そこらへんでもって大体衰退はしないけど停滞してるっていうだけだっていうのは江東区と練馬区と足立区と江戸川区です。あとは全部東京の区は全部衰退しつつあります。衰退の象徴っていうのはどこであれするかって言いますと、工業地区あるいは工業地帯として本社事務所とかそういうものとして発達した場所っていうのはだいたい全部だんだん衰退しつつあるっていうふうに考えるのが一番よろしいと思います。千代田区、中央区、港区っていうのは一番真っ先に衰退し始めたところで。これは昭和30年頃にはもう衰退が始まったわけです。それからだんだんだんだん衰退する一方なわけです。ですから中央区なんかは年々人口は減少していくっていうふうになっています。そればかりじゃなくて、東京は停滞している旧下町区って言いましょうか、旧江東?地区と言いましょうか、停滞しているのはそこいらへんだけであとはほとんど衰退に向かっているっていうのが東京の現状です。特に中央区の現状っていうのは、二番目に衰退が始まって、もう衰退の一途であるというふうになっています。あの、これをどうしたらいいのかっていうのは興ざめ?(笑)なことだと。僕には関係ないのですけど、つまり今申し上げました通り、物は考えようだということになります。
 先程の月島地区、臨海地区を含めて、東京フロンティア計画で都なんかが、いろいろ事業所と住民の住居と込みにしたそういう街をつくろうっていうなモチーフはどっから出てくるかって言ったら、東京は衰退しつつあるからだということになります。つまり衰退しつつあるから、そこだけは衰退しないように先に込みにしておこうじゃないかって。込みにしてもう離れらんないみたいなふうにしとこうじゃないかって。悪口言うとそういうのが根本モチーフなんです。だけど僕に言わせればこの考え方は、農村、漁村、山村があって、そこからだんだん産業が発達してきて都市周辺に工業地帯ができて、工業製造業が優勢になってきて都市が大きくなって、都市と農村とが対立し始めたっていう、その段階までの考え方だっていうふうに僕は思います。その考え方はもう終わってしまっているわけです。日本において日本とアメリカと西欧で言えばフランスですけど、すでにその段階を終わってしまっているわけです。すでに産業の重点が人口的に言っても第三次産業、つまり運輸業とか流通業とかサービス業とか教育、医療、娯楽とかそういうような産業に大部分が移行しつつあるわけです。
 僕はちょっと今、俄勉強で図書室で調べて計算したんですけど、中央区の産業構成を申し上げましょうか。中央区の産業構成は、第一次産業つまり自然を相手にする産業ってのは0.36%です。ほとんどもうこれはイギリスのロンドンに匹敵するぐらい少ないパーセンテージです。今にゼロになっちゃうかもしれませんですけど。それくらい少ないです。それから第二次産業っていうのは19%になっています。第三次産業っていうのは80.6%になっています。80.6%っていうのは東京平均が67%ですから、それより多いわけです。つまり中央区というのは千代田区と並んでもはや日本において最も第三次産業の人口パーセンテージが多い場所。第一次産業、自然相手の産業のパーセンテージが最も少ない。そういう地域に移っています。僕は月島っていうのはどうなんだっていうのをしきりに知りたかったんですけど、どうしても今ちょっと30分か40分の間には見つけることができなかったんですけど、これはちょっと調べてご覧になるといいと思います。たぶん中央区とあんまり違わないようになっているんじゃないかなっていうふうに僕は思います。そうするとかって初期の月島っていうのは東京都で最も貧困で最も未発達な辺境地帯だっていうふうに言われてそういうデータばっかりになるわけですけども、現在の月島っていうのは、これはちょっとデータを見つけられればよかったんですけど、中央区とほぼ同じじゃないかなって考えれば、もはや日本で一二を争う第三次産業の街に移りつつある。それから農業、漁業ってのは日本で最もパーセンテージが少ない、東京の平均よりももっと少ないっていう。つまり最も、なんていうか、せっかく来たんだから高度なって言っときましょうか(会場笑い)、日本で最も高度な場所に転換してきてるっていうことが言えるわけです。
 僕の理解の仕方では、産業の高次化っていうのは遅い早いっていのがありますし、政府の政策その他によって多少遅くなったり早くなったりっていうことはありますけど、産業の高次化、高次移行化っていうことは、これは歴史の推移として避けることができないっていうふうに僕は考えております。つまり、農業をやめるやつは死刑にしちゃうっていうふうな法律を作っても僕は防ぐことはできないだろうと思います。これは遅くなるだけだっていうふうに思います。だから、例えば中央区なんてのは世界に冠たる区域だって、もし月島がそれとおんなじだってしたら世界でこれほど発達したところってちょっとないよ、っていうことになっちゃうと思います。つまり発達したところの欠点、悩みっていうものがやっぱり中央区とか月島地区の悩みになりつつあるんじゃないかなって、おおよそ推測です。少なくとも中央区のデータを拾った限りではそうですね。もうこれは世界で最も発達した都市、あるいは街の持つ悩みであって、農産物ってのは他から買ってくる、国で言えば輸入するってことですけど、他から買ってくる以外にないわけです。その代わりに高度な産業っていうのはここからどこにでも提供できるという形になります。それから大体製造業ってのは減っていってしまいまして、流通業とかサービス業とかそういうなんか物を作って、何個作ったとか、つまり形あるものを作ったっていうなそういう産業からだんだん遠ざかっていくというイメージを作りますと、それはだいたい中央区の地域の街としてのイメージになるんじゃないかと思います。月島がもしほぼおんなじようになっちゃったんだっていうふうに考えますと、月島発生から100年ちょっとぐらい経ったところで、すでに東京の最も遅れた地域から最も発達した地域に駆け足でどんどんどんどん駆けて行っちゃった。それで今はまた東京フロンティア計画が進められればもっと先へ駆けて行っちゃうんだ。そういうところの悩みと利点と言いましょうか、そういうものが月島の持つ特徴になっていきつつあるっていうふうに言えるんじゃないかって思います。
 ここに佐貫さんって人の計算したものですけども、月島の人口は今、3万から5万の範囲内にあると思います。3万から5万の範囲内にある街といいましょうか都市っていうので、一番温和な穏健で自然な産業構成っていうのを考えますと、第一次産業、農業とか漁業とかそういう自然相手の産業が40%、第二次産業が26%、第三次産業が33.8%。だいたいこのくらいの割合でありますと、3万から5万の都市?は、非常に温和で自然で急速に発達した軋みもなければ、衰退するということもまぁまぁないっていう、そういう割合がこういう割合だっていうふうにはじき出されております。月島っていうのはどうしようもない(笑)っていう。5万から10万の都市でしたら、第一次産業は27.3%、第二次産業は32%、第三次産業39%。中央区っていうのはここに入ると思います。5万から10万の間に入ると思いますけど。このくらいの産業の構成割合があれば非常に温和に穏健にやっていけるっていうふうになる割合であるわけです。ですけど、もうそれはすでに遅いわけです。遅いというか通り過ぎてしまっていますから、別の課題を考えないと駄目じゃないかと思います。それから、10万から20万の都市ですと第一次産業が16%、第二次産業が35%、第三次産業が48%。このくらいであれば自然で穏健な温和なそういう都会だって言うことになるわけですけど、もはや東京自体も駄目ですし、日本自体ももうすでに通り過ぎていってしまいまして、いわば高度なと言いますか、高次な産業社会っていうのに移行してしまっているっていうことが言うことができます。東京の第一次産業が0.4%、第二次産業が23%、第三次産業が67%。こういうふうな東京の有様というのと、匹敵するのはニューヨークとパリとその三つがそれに匹敵すると思います。世界の産業的な先進国の課題っていうのは一応におんなじなわけで、しまいに第一次産業はゼロに近くなっていって第二次産業と第三次産業の割合を言えばどんどん逆転していって、第三次産業の方が多くなっていくっていうのがだいたい現在の世界の非常に先端的な都市、あるいは地域の非常に大きな課題です。

6 世界的先進地としての月島

 そこでは何をどうしたらいいのだろうかっていう、何をすればいいんだろうかっていうのが問題になるんだと思います。それが21世紀に向ける課題になると思います。この課題は世界的な課題で、世界的な先進国における課題ですけども、この課題は大げさに言わなくても、月島はどうすればいいんだっていうふうなこととか、東京フロンティア計画に対してどういうふうに考えればいいんだっていうふうなことを考えることは、すなわち世界の一番先端的な場所でも国でも都市でもいいんですけども。国とか都市とか地域とかの課題を考えることとおんなじことになります。ですから月島の問題を考える、あるいは中央区の問題を考えることでだいたい世界の問題をどうやったらいいんだっていうふうに言うことのとっかかりと言いましょうか。それらを掴めるはずになります。だから大変良く考えられた方がいいし、そういう考え方を自分自身で持たれた方がいいんじゃないかって思います。持たれたことが別に都のプランを変更させるだけの力があるかどうかとか変更させるかどうか、そらわからないけども、しかしそういうプランを住民の人達が持っているという限りは???に決まっているわけで。なぜならば統計を取りますとみなさんみたいな人たちが中流意識っていうのを持っていて、それがだいたい日本人の89%は中流意識を持っていますから、そういう人たちが考えてる考え方が、誰かがいつか実現しなくて勝手なことできるはずがないのですよ。だからみなさんがきちっと自分なりのプランを持たれたほうがいいんじゃないか。それは相当先端的な課題とイコールになります。だからそれは非常によく考えられた方がよろしいと思います。それで現在のプランとか、それに対する批判とかっていうのは全然それはもう、つまり識者って言いましょうか、専門家って言いますけど全然専門家って、専門家らしくないです。非常にいいかんげんなものだって僕は思います。そういうところには問題がないんだっていう、そういうところにはないんだっていう問題を捕まえることはできないので、それは違うと思います。
 ですから、月島の課題っていうふうにあるっていうことが非常に大きな全体的な課題とつながるのではなく、課題を考えるもとになりうるっていうことです。一人ひとりの人がそれぞれのプランを持っていることと一人ひとりの生活は別でいいんだよっていうか、つまりそれぞれ自由でいいんだよっていう。つまり俺はもうどう考えたってウサギ小屋の方が住みいいんだって人はウサギ小屋に住めばいいんであって、別にそれを一律に誰かに決めてもらって、一律にそんなところへ入る必要があるってことじゃちっともないんで。いわゆる家族単位っていうふうに考えた場合には、それは全くプライベートな問題であって、全くプライベートになることが、プライベートな好みに従うってことが最終の理想ですから、それはもうどういうふうに考えられてどういうふうに実現されてもよろしいわけです。そこのところは考えどころだっていうことになると思います。
 それは言ってみれば理想論であって、みなさんだって臨海区にたくさん入れるマンションができて、それを安く貸すって言ったら、飛びついていくわけですけど。それはそれでいいわけですけど。少なくともこんなフロンティア計画っていう住居と事業所と一緒に込みにしたそういうまちづくりなんていうそういうアホらしいこと考える人たちに、せめてべらぼうに安い金で住居マンションを貸したり売ったりすればいいんですよ。それなら日々、そうじゃないけども入ってやるかっていう感じになりますけど、せいぜいそのくらいの品位しかないって、住居と事業所、あるいは産業として働く場所と家族として家として憩う場所とをくっつけるべきか離すべきかっていうのは大変重要な問題なので、そこの問題はよくよく考えたほうがいいので、よほど安くない限りはこんなところに入らないほうがいいと思います。なんか一生その事業所に縛られて辞めることもできない。やめるにはうちも変えなきゃいけないっていうなことになるわけですから、それはちょっと考えられる限り安くなければ入る価値はない。そういう???に違いないので。そういう抜本的な批判っていうのはしていかないと、これからの都市像というのは成り立たないっていうのが僕らの考え方です。
 これは、僕らも月島のイメージも工業は興隆して農業、漁業の街から工業製造業は発達してきた資本主義社会の興隆期の役割を担った場所が初期の月島で、そういうイメージが非常に後景してあるんですけど、今や全然そうじゃなくて工業製造業は少なくなっていく一方だし、農業、漁業も少なくなっていく一方だし、第三次産業が大部分を占めて来ているそういう状態になっているわけですから、初期の月島が孕んでいた問題をそのまま延長していっても、現在ないしこれからの月島のイメージはつくれないことが言えますし、現在のフロンティア計画っていうのの概して言えば工業製造業と農業、漁業みたいなものとが対立していたときのそういうイメージで持って作られているプランっていうふうに言うことができます。それは全然違います。全然間違いで、全然違ったところにもう世界の先進的な地域っていうのは移ってしまっている。まして中央区とか中央区の中である月島とかっていうのは一挙にそういうところに行っちゃっているっていうふうに考えられた方がいいんで。
 月島の歴史を紐解いて見ていくと、日本の明治以降の近代の、封建時代から超現代的なところまで駆け足で通り過ぎていった歴史を非常によく象徴的に表していると思います。僕が子供の時の街で懐かしいですから、初期の月島のイメージと思い出にひたることもたくさんあるんですけども、こういうところでお話するときに、そういうお話をするとなんとなく和やかになるんですけど、実際問題で言いますと月島っていうのはたぶんそういうところを通り過ぎちゃったよって、ちょっと途方も無いところに入っているんだよいうふうなことをやっぱり考えた方がよろしいんじゃないかと。そういうところから初期の月島、佃島を振り返ると懐かしさもまたひとしおですし、否定性もまたひとしおだっていうふうになると思いますけども。それが一番よろしいんじゃないかって僕には思います。
 僕がだいたい東京という近代都市が政府によってどう作られるかっていう問題が出たときから月島、佃島が発達して、そういうプランと合致していってからの歴史っていうなことを考えて、特徴を抜き出したところはだいたいこういうところに尽きるわけですけど、こういうところから、これからの街のつくり方とか発達の仕方っていうのをお考えになる場合の参考にしてくだされば大変いいんじゃないかっていうふうに思います。それにいくらかでも参考になることができたら今日の僕の話もよかったかなっていうことになると思います。これで終わらせていただきます。(会場拍手)



テキスト化協力:まるネコ堂さま