1 司会

2 眼に見えない境界を越えた社会

 今日は現在、文学というものがどういうところにあり、どういうところに向いているかということについてお話しできたらと思ってやってきました。今年はいろいろなことがありまして、去年から今年にかけて作品を普段の年よりもよく読んだりしましたので、どうしてもそういうことに触れてみたいなということが主なる願望です。
 どこからお話をしていったらということを考えてきたのですが、まず現在、大っぴらなかたちではなくて、ひそかにある境界線を越えていると思われる部分があります。それが文学にわたるのでちょっと申し上げてみますと、一つは現代の世界で流通業とかサービス業とか娯楽とか教育とか、それを第三次産業と呼びますと、目に見えるものの製品をつくるという産業ではない産業に従事している人が半分以上になってしまった。いつの間にかそうなってしまったのですが、それが世界中で少なくとも三カ所あります。一カ所はアメリカです。もう一カ所は日本です。それからもう一カ所は西欧でフランスです。この三つの国では、第三次産業に従事している働き手が半分以上を越してしまった。
 これは皆さんもそうでしょうが、僕らのイメージはそうではない。つまり農業とか漁業、林業など自然相手の産業と、工業とか製造業という製品をつくったり機械をつくったりする産業が主体になって社会ができていると思っていたのですが、いつの間にかその三カ所だけはそうでなくなって、半分以上の人たちが第三次産業といわれている、かたちやものをつくるのではない職業に働くようになってしまっているということがあるわけです。
 これはとてもひそかにそうなってしまった地域が出てきたということですが、僕は非常に大切なことのように思います。ちょっと考え方を変えなくてはいけないなと思ったことの一つです。
 もう少し挙げてみますと、やはり同じことを別の言い方でいっているのと同じですが、個人の所得、つまりサラリーですが、企業でいえば収益ですが、その半分以上が消費に使われていて、また消費に使われる額のうち、半分以上が選んで使えるものに費やされている。明日遊びに行くとか、旅行に行くとか、自由に使っている額が消費の全額の半分以上になっている。消費の額全体は、また所得の半分以上になっている。言い換えれば、月給百万円の人ですと、五十万円以上が消費に使われている。その消費に使われている五十万円以上のうち、またその半分である二十五万円以上が選んで使えることに使われている。いま言った三つの地域、アメリカと日本と西欧のフランスではいつの間にかそういう消費社会というところに移ってしまっている。あっと気がついたらそうなっていたというところです。
 ひそかにある境界とは何かというと、所得の半分のところを消費に使うという、その半分のところを目に見えない境界とすると、その境界を越境してしまっている地域がアメリカとか日本とか欧州で、世界の一番先のところを走っている社会になってしまったということがあります。ある境界がひそかに越えられてしまったというのはとても興味深いことの例だと思います。
 大切なのは、ひそかに、つまり知らず知らずのうちにということです。たとえば戦争があったとか、ある大事件があって、それを契機にしてそうなってしまったというのではなくて、何かよくわからないうちにそういうふうに境界が越えられてしまったということだと思います。そういうひそかにということと、境界を越えられたということがとても大切な要素のように思います。これがたぶん現代の文学のあり方に大変関係が深いことだと思われます。

3 バブル崩壊と世界的な地盤沈下

 もう一つ、ひそかにではなくて、割合によく知られているし、またよく言われていることで、大切なことが一つあります。それは皆さんが関心を持たれているかどうかはよくわかりませんが、新聞などでバブルがはじけたといわれます。そのバブルがはじけたことを契機に、景気が悪くなってきた、不況になってきたということは、新聞、雑誌などでよくいわれているし、いろいろな発言があったりして、これはひそかにではなくて、あからさまにそうなっているという状態があります。
 この状態は、文学的な話でなければ詳しく申し上げてもいいわけですが、どこから始まったかというと、一つは不動産業者が土地転がし、土地を非常に高値で売買する。そこに何かを建てるということではなくて、ただ土地を買っては売り、買っては売りということで、その余剰の収益を得るみたいなふうにして、地価の高騰をもたらしてきて、正常価格に戻せということを公正取引委員会からいわれて、そういう意味合いで地価が下がっていって、土地転がしをやっていた不動産業者は相当恐慌をきたしてきた。それを契機にして始まったものです。
 そういうことがとても重要なことなのですが、そういうふうにして始まって、その次は証券会社のことになって、証券会社は損失を被った企業とか個人とかに対して特別に資金を援助したりということがあったりした。やはり公正取引委員会ではそういうやり方は公正ではないとチェックを受けて、それでまた証券市場が大恐慌をきたした。
 それからもう一つは、やはりどこの個人でもそういうことがあったのでしょうけれども、企業でいえば元来は製造業ですが、製造業で得た収益よりもその収益で株を売買して、そこで得た収益のほうが自分たちの職業で得た収益よりも多いみたいなかたちで、株の運営をやっていた企業が次に大恐慌をきたしたということで、それらは連鎖反応を起こして、個人にまで及びみたいなことになってきて、それが現在の不況につながってきているわけです。
 経済の専門家でないところで、専門家が言わないことで、目に見える変化として僕が申し上げたいことが二つあります。一つは、いまのバブルがはじけたところから始まった不況というものは、世界的な意味での地盤沈下で、その地盤沈下の主役はソ連、東欧での経済的な大崩壊といいますか、それに対して大なり小なりそれを補充しなくてはいけないということ、それからもう一つは、全体的にいってまあまあ黒字になっているのは日本とドイツしかなくて、アメリカは不況でマイナスですし、ほかのところは全部マイナスに近くなっている。そうすると、それを背負い込んでいるのは、いずれにせよ日本とドイツだということです。
 それはたぶんバブルがはじけたということからいえば、間接的なことで大したことはないといわれていますが、僕が強調したいのは、そちらのほうです。つまり世界負担を日本とドイツが、特に日本がしなくてはならなくなっているということが僕らの肩を大変重くしているし、また気分を重くしていることのとても大きな要素だと思います。これは文学にとても関係のあることですし、いまの世界の状態の中で、何となく重いなという感じがもし皆さんに多少でもあるとすれば、それはバブルがはじけたところから来るよりも、そういう世界負担を黒字国が補充して担わなくてはいけないみたいになっていて、全般的に地盤沈下しているということはそういうことに由来する。経済の専門家ではないのですが、僕らは文学に関係のあることですから、それはちょっと勘定に入れておいたほうがいいのではないかと思われます。

4 日本の民衆の実力

 もう一つ、いまのこととまったく反対のことを言いますが、バブルがはじけた場合、日本とかアメリカ、フランスを例にとると、先ほど言いましたように、収益、所得の二分の一の二分の一以上が選んで使える額ですが、それを仮に全国の日本の国民が使わないように、また企業が設備投資のためにお金を使わないように全部一斉にやったとすると、日本の経済規模はだいたい四分の三から二分の一に縮小してしまいます。
 しかし理屈からいいますと、規模が縮小しても生活程度は落とさなくてもいいということになります。つまり選んで消費していた額が四分の一以上ありますから、その点を一斉に全部引き締めて、我慢して使わないとしても、生活制度はちっとも落とすことはない。それで経済規模は四分の三から二分の一の間に縮小します。世界の経済が四分の三から二分の一に縮小するというのは大変なことですが、それでもアメリカと日本とフランスみたいなところの民衆は生活程度を落とさなくてもいいという理屈になります。それが非常に大切なことだと僕には思われます。
 つまり日本はアンケートでは89%の人たちが自分は中流だという意識を持っている国ですが、その89%の人たち、企業はいってみれば世界最強の民衆だということになります。そういう意味合いではバブルがはじけたということで、心理的な意味合いはいろいろありますが、それは民衆にとっては大した問題にはならないというのが日本の民衆の実力なのでしょう。それはアメリカ、フランスなどの民衆、現代の先進的な社会における大衆は、そういうふうにちょっと途方もない実力のところに行っているのだということがあるわけです。そのことを僕は申し上げておいたほうがいいのではないかと思っています。
 専門家は決してそんなことは言いませんが、僕らはそう思います。いま僕らがやっていることは、皆さんがやっていることと同じでしょうけれど、一カ月に五回映画館に行っていたのを三回ぐらいにしようというかたちでの引き締めみたいなことを一人ずつやっていると思いますが、本当は、それは全部引き締めてしまっても別に普段の生活程度はちっとも落ちないということになっていると思います。そのことはとても大切ではないかと僕には思われます。
 世界の負担の重さと、それから本当を言えばバブルがはじけようと何しようと、とにかくそれだけの実力を日本の民衆は持っていますし、また企業も本格的にそれを持っているというところですが、それはとても重要なことで、その二つのことは僕らが意識しないうちにひとりでにできあがっていた状態であり、ひとりでに何かの境界を越えていってしまったということの一つの現れだと思われます。

5 文学における境界――正常と異常

 ところで、こういうところから文学に入っていきたいわけですが、現在、ひそかに越えられている境界は何なのだろうかということを文学の中で見ていくとします。そうすると何がその境界であり、何がひそかに越えられてしまったのか、あるいはひそかに越境してしまったのかということが問題のとても大きな要素になると思います。これはどんな作品の例をとってもよろしいわけですが、いろいろな共通の内容があって、共通の言い方ができそうなので、そこを心棒に一つ申し上げてみます。
 一つは皆さんもお気づきかと思いますが、現在書かれている文学、特に純文学の作品といわれているもので、まず十編あれば、その中の九編の作品は、ちょっと頭がおかしいのではないか、どこか異常なのではないかという登場人物が出てきて物語が展開する。それが現在、非常にまじめにといったらいいのでしょうか、いわゆる純文学、つまり高級だと思われている文学の主人公や登場人物は、ほとんど異常者として書かれているということがとても大きな特徴です。
 そうならば、何が境界かということがすぐにわかりますが、要するに正常か、異常かということが文学における現在の境界線だと考えますと、ちょうど消費額が所得の半分以上を越えてしまったというそれとちょうど対応するような気がします。つまり文学においては何が境界かといったら、異常か正常か、そこが境界線で、登場する人物たちはだいたい境界線を越えて、いつのまにか異常になってしまっている。異常になっていると思うと、境界線の元に戻って、ある場合には正常な判断をしたり、正常な物語とか人間関係を結んだりするのですが、あるところまで行くと、またこれは異常ではないかとなっていくわけです。

6 新井満『尋ね人の時間』と荻野アンナ『背負い水』のモチーフ

 いまの境界を越える、あるいは正常か異常かという問題を、露骨に、非常にわかりやすく性、セックスということで象徴させると、だれでもいいのですが、たとえば新井満さんの『尋ね人の時間』という芥川賞を受賞した作品を例にとりますと、神島という主人公は、五年前に奥さんと性行為をしているときに、自分の性行為をしている姿が脳天の幕のところに浮かんできてしまって、そのとたんに性的不能に陥ります。
 いろいろなカウンセラーのところに行ったり、精神科医のところに行ったり、内科の医者に診てもらったり、しきりに診てもらうのですが快復しないで、どうすることもできない。玄人筋の女の人がいる場所に行って試したりするのですが、それでも快復しない。また昔の恋人と会って、性行為を試みようとするのですが、それでも成功しない。
 主人公の神島は、広告とかデザインという先端企業に携わっている男性ですが、挙句にどういうふうに考えるかというと、これはもしかすると地球の文明があまりに発達しすぎて、もうこれ以上人を増やしたくない、増やせばまともな人間は出てこない、だからもしかすると地球に意思があって、あなたの不能は地球の意思でもってそうなっているのかもしれないとカウンセラーに言われてしまう。本人も、もしかすると自分の不能は文明や文化があまりに発達したことの一つの報いなのではないかと考える。
 作者はどういうことを言いたいかというと、つまり性的不能、性的不可能、あるいは性的にしらけてしまっていることは、いまでいえば同性愛とかエイズなどと同じ、一つの現代文明の象徴的な病気で、つまり現代病であり、文明病であるというところに性的不能を持ってきたいということなのだと思います。それが作品の主なモチーフになっていると思います。
 しかし性的不能というのは、新井さんの描き方の範囲ではちょっとおかしい。どこに行ってもだめだったということはありえないし、どういうふうにカウンセリングしてもらってもだめだということはまずありえない。それは新井さんのモチーフの問題になってくるわけでしょうけれど、何が描きたいのかということは明らかなことで、男女間のそういう性的な問題が不可能になってしまったことを現代文明病の一つのところに持っていきたいというモチーフがあって、この作品が描かれていると思います。
 荻野アンナさんの『背負い水』の中でも、主人公の女性が、男友だちの絵描きさんと性的行為をしようとすると、何かやっぱり自分が性的行為をしているイメージ、姿が思い浮かんできてしまって、そのとたんに両方ともしらけてしまうという場面がやはり出てきます。つまり言ってみれば、いまここで性ということをモチーフにしているわけですが、出てくる人物はどうしてもノルマルなこと、つまり正常なことができないし、正常な判断とか正常な人間関係とか男女関係が全然結べなくなってしまったという作品が、まず十あれば、八つはそうだとなるわけです。

7 江國香織『きらきらひかる』の世界

 最近の作品でいえば、江國香織さんの『きらきらひかる』、映画化される作品だそうですが、この作品も同じように睦月という同性愛しかできない男と、その奥さんが私ということで描写されているわけですが、私との間の夫婦生活の成り立ちがたさ、あるいは難しさみたいなものをやはり初めから描いているわけです。
 睦月という旦那さんにはホモの紺さんという男友達がちゃんとくっついている。私は昔、神経症にかかったことがあるのですが、睦月と結婚する。もちろん性的な関係は二人の間には成り立たない。そして何がこの作品なのかといったら、読んでいる限り、つまり主題で読んでいる限りは、奥さんがときどきかなわなくなってヒステリーを起こす。だけど旦那さんは性行為をしてくれないし、しないのですが、大変善良な人で別れる気はしない。だけど性行為は成り立たないということで、奥さんはたびたびヒステリーを起こす。
 旦那さんはお医者さんですが、結局、親とか周りから子どもができないということはおかしく見られてしまうから人工授精をしたらどうかと勧められる。それが両方ともいやだということですが、奥さんは、睦月という旦那さんとそのホモの男友だちの二人の精液を一緒に混ぜて、それで人工授精をしようかという発想をする。つまりもう正気の沙汰ではないという作品の世界です。
 それはどこが特徴かというと、極めて当然のように、自然のように物語が作品として描かれていて、作者自身が少しも異常とも考えていないし、また作品に登場するホモの旦那とやや神経症ぎみでホモの旦那でもいいとして結婚した女性と、ときどき生理的にヒステリーを起こすのですが、それは別に異常なことをしているのではないというようなかたちで描かれている。
 こういうことは文学作品ですから、主題主義的に言ってはいけないのですが、わかりやすいから申し上げると、そういうふうに主題主義的にちょっとノルマルである人物が登場する作品は極めてまれであって、ほとんど十中八、九までは異常な人物が登場し、作品自体にそれがあたかも普通であるかのような感覚で描かれています。
 だから江國さんの『きらきらひかる』という作品も、もし主題的にではなくて、これはいったい何をモチーフとして描きたかったのかと考えると、それはやはり楽で、気がおけなくて、高尚でという夫婦関係を描こうとすると、その夫婦はこういう異常な人間を夫婦としてしつらえた物語をつくる以外にないみたいなところに、現在の文学の主流が追い込まれているということなのでしょう。
 つまりそういう主流に占められていて、どこからどういうふうに取ってきてもノルマルではない、しかしノルマルでない人を持ってこなければ、現在の社会にふさわしい軽やかで、短絡的で、気がおけないという夫婦関係を描くことはできないということが、たぶん江國さんの『きらきらひかる』という作品の大切なところ、つまり作品の存在理由、あるいは存在価値になっているのだと理解するより仕方がないと思います。このように非常にいい作品だといわれている作品は、とにかく十中八、九はこういう作品になっていきます。

8 現在を象徴する作品――新井素子『おしまいの日』

 僕は、主題主義的に見て、現在ということを非常によくわきまえている作品、つまり先ほどの言葉でいえばひそかに何かの境界をいつの間にか越えてしまっていて、そのこと自体に自分たちはちっとも気づいていない。言ってみれば現在の精神的な世界での社会的病理といいましょうか、そういうものを非常によく象徴している作品で、僕が去年から今年にかけて読んだ作品の中では、やはり新井素子さんの『おしまいの日』という作品です。これが一番見事に、主題からいえば的確に現在の精神的な社会が陥っている病理と生理を一番よく象徴的に描いていると思います。
 それはいままで申し上げた作品がひそかにというよりも、大っぴらにといったほうがいいようですが、新井さんの『おしまいの日』はそうではなくて、ひそかにということがとてもうまくわきまえられていて、ひそかに何かある境界を越えてしまっている登場人物を描いているということでは、現在を一番よく象徴していると思います。
 主題的にそれを象徴しているということは、必ずしも文学作品として非常にすぐれた作品だということとイコールではないのですが、主題的に取ってくると、おそらく新井さんの作品は一番見事な作品だと思います。
 これはごく普通のサラリーマンの夫婦を主人公としています。毎日のように会社で仕事をして、残業をやったり、残業のはてにまたお付き合いで会社の招待客と飲んだり、いつでも午前にしか帰ってこないというように一生懸命働いて、重要視されているエリートサラリーマンです。それで寂しくてしょうがない奥さんが主題になって、奥さんの日記というかたちで物語が展開します。
 奥さんは寂しくてしょうがないのだけれども、この寂しさは自分の夫が会社で重要視されて、いい働きをするためにはどうしても仕方のないことだ。このために自分がいい家を借りて住み、申し分のない生活をしているのだから、旦那がいつも夜遅く、あるいは明け方に帰ってくるという付き合い方を会社でやっていかなければ仕方がないということで、夕食をつくって、夜も寝ないで旦那の帰りを待っている。
 そういう生活を続けていくうちに、奥さんのほうは口ではいえない寂しさみたいなもの、味気なさみたいなものがたまりにたまってきて、一種妄想的で異常になっていくわけです。新井さんの描き方が見事だと思うのは、あからさまに妄想性や異常になっていくことが書かれていないで、奥さんの日記では、たとえば隣との塀に破けて穴が開いたところがあって、そこから猫が顔を出している。寂しいからその猫を家で飼おうと思った。旦那が帰ってきたら猫を飼うことを承知してもらおうと、猫の餌や椅子を買ってきたり、餌をつくったりあげたりした。
 ところが奥さんは日記の中で、猫をそういうふうに飼ってかわいがっていると書いているのですが、本当にその猫が実在しているのか、それとも妄想で書いているのか、とてもわからない。つまりそれは読む人にとって妄想とも受け取れるし、また寂しさのあまり本当に猫を飼っているとも受け取れる。どちらとも受け取れるような描写の仕方をしているわけです。
 それはとても見事だと僕は思いますが、寂しさのあまりノイローゼになって病院通いをするようになってしまったというようなあからさまな描き方はしていなくて、猫がやってくると食べ物をあてがってということは描写してあるのですが、たとえばその猫は、夜遅くに旦那さんが帰ってくる音がすると、すっといなくなってしまうと書いてあります。
 でもそれは本当にいなくなるのか、妄想の中の猫は、旦那さんが帰ってくると、妄想が破れていなくなってしまうのか、読む人はどちらとも取れるように描かれている。要するに、寂しさのあまり正常と異常の間をひそかに行き来してしまっているその奥さんのあり方を実に見事に描いていると思います。
 この描き方は、僕が去年から今年、読んだ作品の中では見事に現在の精神的な社会病理的なところ、あるいは生理的なところの欠陥と非常によく対応する描き方だと思います。それをものすごくよく感受性として心得ている人だと思います。さすがにサブカルチャーのチャンピオンなのだなと僕は感心して読みました。

9 ひそやかに境界を超えていく生活

 結局、あるときいままで買ってきてあったと思う猫の食べ物や椅子などが全部なくなって、猫もいなくなってしまっているという場面に遭遇する。やはり自分はおかしいのだとある程度は思うのですが、また別な意味でおかしくないのだとも思う。
 それがあるとき爆発する。どういうふうに爆発するかというと、あるとき旦那さんが帰ってきて、今日は話があるんだ、実は会社で自分が責任を持ってやっていたプロジェクトが失敗した、自分は責任を取って給料も下げられるかもしれないし、地位も下げられるかもしれないという事態になった、後始末のためにいままでよりももっと遅くまで仕事をしなければいけないかもしれない、それを了解してくれと細君に言う。
 そこで細君は爆発して、そんなばかなことはない、あなたを働かせるだけ働かせて、そんな会社なんか辞めてくれ、私はあなたが偉くならなくても何でもいいのだ、とにかく平穏でごく普通の家庭生活ができれば、それが一番いいので、もうそんな会社は辞めて、そんな責任のないもっと違うところに勤めてくれ、そうでなければいやだと言う。それを旦那さんは、そういうふうにはいかないのだとなだめて、その生活を続けようとする。
 それから少したったときに、今度は旦那のほうが爆発する。お前は俺が遅く帰ってきても夕食の支度をして、食べないで待っている、しかしそんなことはやめてくれ、お前はそれがとてもいい細君で夫のために尽くしていると思っているかもしれないけれど、俺はしんどくてしょうがない、勝手に食べて遅かったら先に寝てくれたほうが自分ははるかに気分が楽なのに、お前はわざとらしく夕食も食べないで遅くまで待っている、今後はやめてくれと旦那のほうが爆発する。
 それを聞いて奥さんはがっくりして、家出をしてしまう。友だちの家を渡り歩いているというのではなくて、完全にわからないところに家出をしてしまう。何年かたって失踪届を出して、旦那さんは再婚する。奥さんは完全失踪して、自分の親友だった高校時代の友だちにだけ消息を知らせて、自分はどうして失踪したかというと、実は旦那の子どもを妊娠したのだけれど、この子が生まれてきたら旦那が二人になったと同じことになって、いままで一人でも大変だったのだけれど、二人だったら絶対に大変になると思うから、これはもう自分が逃げて、子どもを生んで育てる以外にないと思って自分は完全に失踪してしまった、だからだれにも言わないでくれと話して、結末になるわけです。
 これはごく普通のありふれたサラリーマンの夫婦を主人公にして、そして精神異常であるのか、妄想でそうしているのか、妄想でないのか、少し神経質すぎて旦那が帰ってくるのを律儀に食べないでいつまでも待っているのは異常だというべきなのか。ひそやかに、少しもわからないように、読むほうでは異常と判断もできるし、また律儀でやさしすぎる奥さんなのだとも受け取れるし、どちらとも取れるような描き方で、まさに病理的になっていくごく普通のサラリーマン夫婦の対応、ありさまをよく描いています。
 この新井さんの作品が、僕は主題的にいえばある境界がひそやかに越えられて、そこでかろうじて生活が成り立っているというような、そういう現在に一番近い病理的な箇所が非常によくまともに受け取られて、まともに感じられて、まともに描かれていると僕は思いました。
 江國さんの作品も新井さんの作品も、サブカルチャーの世界の描き方ですから、作品としては描き方にたくさん不服があります。新井さんの作品でいえば、細君の日記みたいなもので物語が進行して、ときには日記に対して別に日記の注釈みたいな地の文があって、ときにはまた作品全体を解説するような地の文があってという描き方をしている。これはいってみれば純文学の作家は、普通はそういう書き方を取らないわけです。普通は、作者が登場させた人物がおり、その人物たちが物語を演じて、その物語を演ずることで足りないところは、地の文が補ってとなっていくわけですけれども、新井さんの作品はそういうとり方をしないで、読み物的な方法を取っているので、そういう意味合いで不服を言えばたくさんあります。
 また江國さんの作品も第一章目は奥さんのほうを主格として描かれているかと思うと、第二章目は旦那さんのほうを主格として文章が描かれている。また今度、第三章目は奥さんが主格として文章が書かれている。こういうやり方を非常に意識的にとっていますが、これもまた現在の純文学、カルチャーの文学のほうの人たちはあまりやらない方法ですし、物語は大変展開しやすいのですけれども、えてして中身の構成が甘く、すきだらけになってしまうので、そういうやり方を取らないわけですが、江國さんの作品はそういうやり方を取っています。
 ですから主題主義的な読み方をすると、たくさんの弱点があるわけですが、少なくとも主題として考えるならば、新井さんの作品などは一番見事に現在のひそやかに、ひそかにある境界線を越えてしまって、僕らは生活をしているという現在のあり方を非常によくとらえています。それもまた決して異常な人物を持ってきているのではなくて、それが働き蜂的サラリーマンの亭主と、寂しくて仕方がないのだけれど、それを生活のために我慢をしている妻、そういうごく普通の設定の仕方をして、またひそやかに異常か正常かの境界線と考えれば、どちらかよくわからない、あるいはどちらともとれるような描き方で、境界線を行き来する現在の精神社会での人々の生活の仕方を、非常によく象徴した描き方をしていると思われます。

10 第二次産業と第三次産業の境界で生じる公害

 ここらへんのところというのが、たとえば僕はそう思いますけれども、先ほど言いましたように所得とか収益とかの半分以上が消費に使われている社会、別の言葉でいえば、要するに食うために生きているのではない社会になってしまったのだということを意味すると思います。つまり自分が食うために働いているのだという場合には、食費とか光熱費とか医薬品費などの生活費が所得の半分を超してしまって、明日のお米を確保しなくてはいけないみたいになることでしょう。消費が所得の半分以上になって、そのまた半分以上は選んで自由に使える金だとなってしまっている社会では、かつて資本主義の社会が興隆し、発達してきて、田園が汚れ、そして都市に働きに出た労働者たちは安い賃金で働かされて、そこで公害病、肺結核みたいなものが蔓延している。要するに農村、漁村も、それから都会の製造工業も少ないパーセントになってしまって、あとは流通業とかサービス業に大部分の人たちが携わるという社会になってしまったという部分だけは、まったく未知の部分に入ってしまったということになります。
 つまり都会と農村の対立みたいなことでいう都会では、現在の東京でもそうですし、ニューヨークやパリでもそうでしょうけれども、そういう都会は、そういう意味合いの都会ではなくなってしまっているわけです。またそういう社会でなくなってしまっているわけです。その部分だけはとてもわかりにくい部分で、従来の都会観とか農村観というのではわかりにくくなってしまっているわけです。だからそこでの公害病というものがもし設定することができるとすれば、働く人たちの大部分が携わっている第三次産業と、製造工業みたいな第二次産業との境界線のところで公害病は発生するというのが主な公害病のあり方だということになります。
 それでは第三次産業と第二次産業の間で起こってくる公害病というのは何かといったら、それは境界線がひそかでわかりにくい精神異常とかが、大部分の公害病を占めるようになっていると僕には思われます。それはもうすぐ顕在化するのではないかと思いますが、いまでも潜在的にはそうだと思っています。つまり公害病というのはそういう第三次産業のところにいっている、目に見えない境界を越境してしまっている。人間の精神とか心理とか、あるいは性というものは、目に見えない境界を越境してしまっていて、そこにたぶんこれからの公害病は主な場所が移っていくと僕は考えています。
 ですからそこの問題を、やはり新井さんの『おしまいの日』みたいな作品は実に見事にそれを感受していると僕には思われます。もし純文学の作品が最も鋭い感性を持った言語芸術のあり方がそうなっているのだというとすれば、現在の純文学の作品が十あれは、そのうち八、九までが、だいたい出てくる登場人物はどこかで異常な、それは性的に異常であるか、精神的に異常である。それはいろいろいえますけれども、いずれにせよどこかで異常であるという人物を主人公として持ってくるしかいたしかたがないというのが現状であるし、またもし純文学の作家たちは一番センスのある鋭い作家だというならば、それらの人たちが非常に感じ取っているのは、そういう箇所だと言うことができると思います。その感受性というのは、僕はかなり正確な感受性であって、たぶん現代の精神的な社会というのは、だいたいそこらへんのところに突入をしてしまっているということになると思います。

11 中流意識のゆくえ

 日本でアンケートを取ると、今年は日本の国民のうち八割九分の人が自分たちは中流だと意識を持っているという結果が出てきています。こういうことは、本当をいうとびっくりするといったらいいのでしょうか、不気味だといったらいいのでしょうか、つまりぎょっとすることだと考えられたほうが、僕はよろしいように思います。
 このことは、明日食べるためのお米がないとか、明日生活する必需消費の部分が足りないということは、だんだんなくなってしまって、大部分の人、八、九割の人がなくなってしまっているのですが、いるということはまったく新しい時代です。それからもう一つは、そういう人たちが何を悩みとするか、どこが変になってしまったのかと考えると、だいたいにおいて精神的に正常であるか異常であるかという目に見えない境界線を行ったり来たりしている状態になりつつあり、またそういう人たちが増えつつあるという現状があって、それを文学作品として感受しているといいますか、感覚しているというのが現在書かれている純文学の状態ではないかと思われます。
 これは考えればすぐにわかるように、たとえば二年前にアンケートをとると、自分が中流だと思っている人は……
【テープ反転】
……要するに私は中流ですという社会は、まず少なくとももうすぐやってきます。つまり考えられる非常に近い未来に確実にやってくると僕には思われます。まったく確実だと思えます。九九%の人たちが、私は中流ですと言う社会は、まったく不気味な社会だといったらいいのでしょうか、まったく理想的な社会だといったらいいのでしょうか、言い方はいろいろあるでしょう。明日生活するお米がないということを基準にしていえば、九割九分の人が、私は中流意識を持っていますという社会はまったく理想的ではないですかということになるわけです。自分が社会の中間、あるいは中枢を占めていると少なくとも思っている人たちが九割九分いるという社会だとしたら、それはやることなんかもう何もないでしょうとなって、それは理想的な社会といえば理想的な社会ということになると思います。
 ところで別の言い方をしますと九割九分の人が、私は中流ですという社会はまったく不気味な社会だということになると思います。この不気味さはたぶん十年とか十五年ぐらい先に非常に想定できる未来に、まったくありうることだと僕は考えます。九割九分の人が私は中流意識を持っていますと答える社会になったら、どうしたらいいのでしょうか、何をしたらいいのでしょうかということになると思います。
 それをイメージで描くことはすぐに二つあります。一つは、自分たちは中流ですと思っている人が九割九分がになったら、その九割九分の人は、みんなどこか頭がおかしいと思うか、もう一つは、逆にそうではなくて九割九分の人が私は中流ですという社会は、社会のほうがちょっとおかしいのだと考えて社会のほうが入院して少し治療してもらって、まあ正常だと治ったらまた元に復帰してもらいたいとなるか、どちらかではないかと僕には思われます。
 つまり九割九分の人がみんなおかしくなっているよと考えて、一人ひとりが病院に行って治してもらうか、また社会のほうがおかしいと考えて、社会の病気を治す病院に入ってもらって治してもらうか、僕はどちらかのような気がします。それは割合に近い近未来のところで確実にやってくるということは、少なくとも二、三年前に八四%だったのが、いまは89%だという勢いを単純に延長すれば、考えられる未来に九割九分の人が、私は中流ですという社会がやってくると考えたほうが、僕は妥当だと思います。
 ですからそのとき九割九分の人がちょっとおかしいんですよといえる一つの感覚的基盤と、人間的基盤、人類の基盤をきちっと持つようになっているということになるか、あるいは社会自体が病気と考えて、これはちょっと病気を治してもらわなければならないのだけれど、どういうふうにしたら社会を病院に入れることができるだろうかということのやり方をちゃんと確立してあるということは非常に大切なことだと思われます。

12 社会主義の理念とは何だったのか

 皆さんが感じている、あるいは考えられている輝いてきた社会主義は、ここ数年の間に大変人気衰え、あるいは寂しいということになってきています。こういう意味での社会主義の原理は、違う面からどういうことを意味するかというと、今日の言い方ですれば、所得のうち消費の部分が半分以下であるという社会が存在したとき、あるいはそういう社会をもたらすための手段として存在しえた理念だと思います。
 それから別の言い方をすると、所得のうち半分以下が消費に使える、また半分以下が第三次産業で、主なる産業は製造工業と農業、漁業、林業であって第三次産業は少ない部分だった。つまりそういう言い方をすれば工業国家を何とかして後世に継ごうじゃないかみたいなことが理念の課題に挙がったときのイデオロギー的な理念は、これはいまロシアで発達して、世界中にあれして、最近、破産に瀕したという社会主義の原理は、そういうときの原理だと思います。
 つまり農業、漁業からいかにして重工業国家をつくるかとか、工業国家をつくって民衆を富ますとかいう、そういう理念をつくろうとしたときの考え方が社会主義の原理だったと僕は思います。別の意味でいうと、党派の対立の理念ということになると思います。しかしそれはたぶん九割九分の人が私は中流ですと言ってしまう社会まで持ちはしないと思います。またそういう社会に住んでいくのには耐えられないという意味合いだと思います。これは工業国家までが限度だと思います。
 それから別の言い方をすれば、消費が所得の五〇%以下であり、また第三次産業が少ない産業だったという社会であったところまででギリギリのところだったと僕には思えます。ですからそれはだれが失敗したから壊れたというよりも、レーニン以降の社会主義理論は、たぶん九割九分の人が、自分は中流だという社会になったときどうするんですかという問いに対しては、たぶん答えを持っていないし、答えられないと思います。
 それが状態だと思いますし、いまの先進的な社会でももちろん半分以上が消費に回っていて、半分以上が第三次産業に従事していて、工場労働者、製造工業労働者を意味したという時代が日本でもはるかに過ぎてしまっていますから、その形態でももちろん先進的な地域では耐えられないと思いますけれど、ましてや九割九分の人がこの社会で自分は中流を占めていると思うようになったときの考え方としては耐えられないだろうと思います。
 つまり違うことを考えないと、違うふうに考えないとだめじゃないかと僕は思っていますし、また同時にどういうふうに考えたらいいのかということが現在あまりよくわからないで、そこのところをどんどん突付いていかないといけない。もし文学者というのが感覚的人間であるか、あるいは理念的人間であるか、あるいは頭脳的であるか。何らかの特色を持っている人が文学や小説を書いている人だと考えれば、そういう人たちの書く小説の十中八、九は何かおかしな人たちを主人公にしてしか小説が書けなくなっているということはとても重要な象徴を意味していると僕は思います。

13 伊集院静『乳房』の健全さ

 そんなことを言うのならば、正常な登場人物で、正常な感覚を持った小説作品は存在しないのか、ありえないことなのか、不可能なのかということが問題になりそうな気がします。やはり僕が去年から今年にかけて読んだ小説の中で、これは正常だというか、健常だ、健康だと思える作品は、僕が見た限りで少なくとも二つあります。
 一つは、伊集院静という人の作品です。もう一つはやっぱり村上春樹の最近の『国境の南、太陽の西』という作品です。これはまことに健全な、健常な登場人物たちが出てきて、健常なふるまいをし、健常な感覚を持っていると僕は思いました。では健常というのは何なのだということが大変問題になると思います。健常ということがいいことなのかという問いをもし発するとすれば、必ずしもそうでないと思います。
 たとえば伊集院さんの割合に初めのころの代表作で『乳房』という短編ですが、まあ、いい作品です。これはたぶん自伝的なあれをそこに投影していると思うのですが、奥さんががんで入院していて、旦那さんは毎日のように看護に出かけている。ほかのことは何もできないのだけれども、看護一本やりで、奥さんにはがんだということを言わないで看護して、また家に帰ってくるという暮らしを繰り返している。奥さんは、あなたは遊びに行きたいならば、つまりそれは性的な遊びを意味するわけでしょうけれども、そういうところに行っていいんですよと言うわけです。だけど旦那は、そういうところに行かないで、お酒で紛らわしたりしながら献身的に奥さんの看護をしている。非常にけなげな世界を描いているわけです。
 たとえば先ほどの新井満さんの作品の主人公たちとか、荻野アンナさんの作品の主人公たちのような性的主題に集約させていますが、『乳房』の中でもそういう描写があるわけです。二、三行を読んでみますと、里子というのが奥さんですが、?「里子の先刻の言葉が、自分の性欲と妻の性欲のことを考えた。健康だったころの妻の肉体と二人でセックスをしている姿がビデオを見ているように頭の中に現れた。私がこんなことを想像するように、妻も同じことを思い浮かべているのだろうか。『食べちゃうぞ』、鎌倉のアパートの布団の中で私の胸にうずくまった里子は、セックスを始めるきっかけのように言っていた声が聞えた」と描写されています。ここでも夫の私は、自分と妻がセックスをしている姿を客観的に思い浮かべる。しかしこの場合には少しも異常でもないし、不健全ではない思い浮かべ方で、またそれに終始しているわけで、なかなかそういうけなげな小説です。
 この伊集院さんの小説は、直木賞をもらった『受け月』もそうですが、全部正常な人たちが正常な愛情あふれる感覚を持っていて、正常な物語の解決の仕方をしているというふうに描かれていて、この人はなぜかという理由がとてもよくわかるような気がします。でも正常なものが文学なのかということをもし問いただすことになってくると、やはりたくさんの問題があるわけです。
 それは何かというと、伊集院さんの作品は先ほど言いました八割九分の人が中流意識を持ったごく普通のサラリーマンとか働いている人だと考えると、その89%のそういう人たちを自分なりに読者として担架して、その読者に対してあらかじめフィットさせるというか、それに対してピタッとはまるというか、入れる、はまれるというか、ピタッと合うように作品が初めから設定されているといえば設定されている。
 そうするとどういうことが起こるかというと、89%の人たちは、細かいことをいえばみんなそれぞれ違った顔と違った性格を持って、違った生活の仕方をして、一人ひとりが全部個性ある生活の仕方をしていると理解するのが正しいので、もし89%が自分は中流であるというのを一般大衆であるということでマスとして把握して、それに対して適合するように作品が描かれたら、89%の中の個々の人は、人によってはそれを不服に思うに違いないと思います。
 たとえば僕はその89%の中流意識の人の中に入ると思います。中流の人の生活をしていると思います。あまり貧しい生活をしているというと怒られますが、それは中流だと思って生活しています。僕の中の個性的な僕は不服なわけです。つまり一般大衆としての僕といいますか、89%の人としての僕が、なかなか温かみのある、実に健全ないい作品だと言ってもいいわけですが、個性としての僕なら僕は、いや、不服だというふうになると思います。どこが不服かというと、89%の中に不服な僕が入るとして、あとの11%は、僕の中に入らないところがあると思います。
 どういう入らなさかということも、それぞれでしょうけれども、僕はひねくれているというか、へそ曲がりなところがあって、そこはおもしろくないと仮に自分が見て、89%の中流意識の中に入ってしまうとしても、入ってしまう自分がおもしろくないというのがあと11%ぐらいあって、これはちょっと違うことを考えるぞとか、違うことを思っているぞみたいなことがあるわけです。これは僕がそう思うだけではなくて、89%の中流意識を持っている人たちが、それぞれ個々にそれを持っているだろうと僕には思えます。

14 健全さへの不服

 一般大衆としてならば、それは文句ない、この作品はいいよ、健全で読んでいて楽しいよ、俺だって楽しいよというのは決していやじゃないからいいですよと言ってもいいのですが、あとの11%は、おもしろくないな、こういう楽しさをしこたま味わって、そのまま埋められてしまうというのでしょうか、それはちょっとおもしろくないですよと、つまり自分の中の11%はやっぱり不服である、これはおもしろくないと自分に対しても思いますし、また自分の生活に対しても思いますし、また伊集院さんの作品に対しても思うわけです。
 つまりこれはあまりにもおあつらえ向きに89%の中流の人たちにうまく合うようにちゃんとできてしまっているじゃないの、これは、それはそれでいいけれども、決して悪いと全面否定はしないけれど、しかしどんなに89%がそうでも11%だけはそれぞれ不服を持っているはずですよ、その不服はみんなそれぞれ違うはずですよということがありますから、その違うはずですよという11%の部分を満たすことはできないだろうなと思うわけです。
 そういう面からいえば、異常な人物ばかり登場させている作品ではあるけれども、純文学の作品のほうが否定的な意味では、これのほうがまだちょっと11%のどこかに切り込んでいるところが少しあるよと思えたりするわけです。そこが微妙な、現代の文学の兼ね合いのところだし、また現在の日本の社会、あるいは世界の先進的な社会が持っている非常に難しいところだと思います。
 つまり89%のところで受け止めれば、僕は半世紀近く前から、やっぱり親父たちは明日食う米とか、生活する金とかということで、やっぱりちょっと苦労してたよなという思い出がありますから、それからすると、いや、そういうのはなくなったわけだから大したものだよと思えば、これで結構なものじゃないですかということになるように思います。なるように思うから、また自民党の政府も成り立っているわけでしょうから、それはそれでよろしいんじゃないですかといえばよろしいのですが、あとの11%の人はどうしてくれるんだ、あるいは11%の部分はどうしてくれるんだということになると思います。
 それをどうしてくれればいいかということは、もうすぐわかります。日本、あるいはアメリカやフランスの社会で、九九%の人が自分は中流意識を持ったときには、どうしてくれるんだという問題が僕は相当明瞭にわかると思います。いまは、それほど違いがありませんから、わからないで済まそうと思えば済ませますし、こんな楽で、申し分がなくて、平穏な社会はないじゃないですかといえば、日本ほど平和で、富める社会で、貧富の差が少ないところはない。貧富の差からいえばほかのヨーロッパとかアメリカは、十二段階ぐらいに刻まなければならないけれども、日本の場合には五、六回刻めば、その中に入ってしまうみたいな社会ですから、これは率直にいえば悪い社会じゃないじゃないですかという仮定はもちろん成り立ちうるわけです。でもあとの11%は、いや、違う、この無事さ、平穏さは、平穏だといっているときにはいいけれども、この平穏だ、平穏だがこのままのパターンで重なっていって、もう身動きも取れなくなったら、どうしようもないぜという一種のやりきれなさもまたあるわけです。
 伊集院さんの作品はいい作品だと八割九分の人は受け入れるであろうし、気持ち悪い作品だといえば済む分はあるでしょうけれども、伊集院さんだけではなくていろいろな作品が同じようにマスとしての一般大衆にねらいを定めて、そこにアピールするような作品がどんどんどんどん積み重なっていったら、やっぱりこれでは文学はちょっとかなわないぜと。社会的に積み重なっていったら、こういう社会で、とにかく九割九分まで文句ないよとなったんだけれど、その代わり文句のなさが厚ぼったい層をなして、これはどういうふうにしても絹がつがれるみたいなところには行かないよとなった場合を想像すると、これはやっぱりかなわないな、これはちょっとおかしいよということになるのではないかと思います。

15 村上春樹『国境の南、太陽の西』の心地よさとうさんくささ

 これは村上春樹さんの『国境の南、太陽の西』という今度の作品も僕はそうだと思います。こういうことはモチーフとしていえば、たとえば『ダンス・ダンス・ダンス』という長編作品がありますが、その中にメイというあだなの高級娼婦が出てきます。『ダンス・ダンス・ダンス』の主人公は、前の作品ではメイという高級娼婦と性的な行為をするときが一番気持ちがよくて、一番愉快で、一番すばらしかったと書いてあるのだけれど、ではどういうふうにしたかというのは何も書いてなかったわけです。
 今度の『国境の南、太陽の西』という作品は、そのメイという高級娼婦に該当する登場人物を、主人公の小学校、中学校のころの同級生の女性と設定して、何十年かぶりに出会って、主人公自身はバーみたいな店を経営していて、その女の子がバーにちょっとやってきて、それで交渉が始まる。二人の性的な行為の描写が長々とあるわけで、それがクライマックスということになるわけです。
 この作品を見ると、やはり大変健全な感覚で、健全な世界が描かれていて、もっと違う言い方をすると、村上さんが自分の世界、自分の小説世界の中で、一般に八割九分の人たちが気持ちがいい、快いと思ってくれる部分を、自分で意識して、その部分を拡大してつくった作品が今度の作品だと思います。まったく健全な感覚と、健全な描写と、申し分のない愛情物語で、どこにも欠陥もないし、病的なところも何もないということになるわけで、この作品も大変心地よい作品ですが、その心地よさには一種のうさんくささが伴うわけです。
 そのうさんくささは何かというと、やはり89%の一般としては満たされているけれども、満たされない自分はこれはちょっとこういうふうな意味合いで健全な作品につくられてしまって、これが積み重ねされたらちょっとかなわないよな、いまにどうしようもなくなってしまう。こういうのが八割九分の人たちが、健全な常識で、生活の苦労もなくなって申し分のない社会になったといえるようになっても、これではちょっとかなわないのではないでしょうかと11%の人が思う。
 どこかに11%が、かなわない、現状にも不服であるし、もっとどうにもならない社会がどうにかなるはずじゃないかと思っている不服さに対して、何か口を開いていてくれないと、あるいは裂け目を持っていてくれる作品でないと、僕は読んでいると気持ちはいいですけれども、やっぱりこの気持ちよさは不服だとどうしてもなるのではないかと思います。僕らもなりますし、読まれたどんな人もたぶんやっぱりどこか不服だということが残るのではないかと思います。
 この不服さの行方は、いまに九九%の人が自分は中流で社会の中枢を占めていると思う社会がやってくるまでには、ある一つのかたちが備わってなければいけないはずです。そのかたちは倫理として備わるのか、道徳として備わるのか、あるいは善悪として備わるのか、あるいはわかりませんが社会を病気とみたたて、その社会を病気でなくするにはどうしたいいかという処方箋として不服であるのかわかりませんが、そういう不服さに対して具体的なイメージが与えられるようなものが文学そのものとしてもなければ、やはり現在でも本当の意味では現実の日本社会、先進的な世界の社会の状態には耐えられないのではないかと思われるわけです。

16 文学と社会に共通する課題

 現在、たとえば村上春樹さん、村上龍さんは、この次はどんな作品を書くかなと期待を抱かせる割合に数少ない作家ですが、僕は少なくともこの『国境の南、太陽の西』という作品は、気持ちのよさが一種の気持ちの悪さにつながるもので、僕はそんなにいい作品ではないと感じました。だから村上さんくらいだったら、この手の小説は書いてもらいたくない。書いてもらうならば、この手の小説のどこかに不服な部分に対して、口を開いているというか、展望、展開を与えるところがどこかにあるような作品として描かれてしかるべきではないかと僕は思います。やっぱりそこが物足りないといえば物足りない部分になってきます。
 伊集院さんはサブカルチャーの世界からの到来者だということになるから、そこで別に注文をつけることは何も言わないので、サブカルチャーは、89%の人たちを満たすものを与えることが少なくとも最大のモチーフですから、そこではあまり言うことはないのですが、村上春樹さんだったら、やっぱりこの手の小説でどうこうとやってもらいたくない。どこかに裂け目、開かれた道をつけた作品を懸命に書いてくれたら、それは現在の日本の文学のチャンピオンだといえるだろうと思いますので、そうしてくださいみたいな注文はつけたくなるわけです。
 僕は現在の文学の境界線は、目に見えない異常と正常の間を行き来している状態、あるいは社会でいいますと、かつて都市とか工業社会とか、そういうふうなことで満たされていた世界から、いつのまにか越境して違う社会に移ってしまった。よくわからないけれど、目に見えないけれど移ってしまったというそのところに対して何か満たされるものを目指す、そういうところに文学が行ってくれたらなという願望は読み手としては持つわけです。
 社会的な意味でも、その問題は非常に抱えていて、これはたぶん非常に近い未来に、それをどういうふうに考えたらいいのかということが具体的に必要であるという社会が僕は来るような気がします。これは確実に来るだろうと思っていますので、そこのところに何か届くというか、口を開いているというような作品が出てくれば、現在の文学として申し分ないことになるわけです。
 今日申し上げましたように、現在の文学の状態はどちらかに偏っていて、それは不健全な、異常な登場人物たちの物語としてみても、あるいは健全な登場人物たちの健全な感覚な物語としてみても、どちらも満たされない部分がどうしても残るのだということになっていると思います。それが現在、いい作品を書いているとか、鋭い感覚を持っている作家だといわれている人たちが描いている世界のあり方だと思います。
 これは日本の文学だけが特に悪いとか、特にだめなのだということはちっともないので、そういう意味合いではあまり見劣りはしないというところまで日本の文学が追いかけていったと思えますが、でもやっぱりそこの問題はどうしても課題として残るのではないかというのは、現在の日本の文学の非常に大きな問題点だと思います。
 基準をもっと多様に取っていくと、さまざまなことがまだたくさん出てくると思いますが、僕は現在の世界の中の日本とかアメリカとか西欧とかが占めている場所と、それから現在日本で描かれている文学作品にある共通の対応性を見つけようとすると、その一つが今日申し上げたひそやかにある境界を越えて、違うところに行ってしまっている。そうかと思うと、また元に戻っているとか、そこのところはたぶん現在の社会、文学作品が共通に抱いている課題のありどころではないかと思われます。
 その境界をどうやって越えたのかとか、どうやって元に戻ったのかということが、たぶん大きな共通点になるのだというところで、文学の作品と社会の状態とを少し対応させてみたわけです。そこのところで問題点を皆さんのほうではっきりと捕まえて、しかもあわよくば、これから皆さんの手でその問題を解決した作品が生み出されていったら大変申し分のないことになるのだろうと思います。これで一応終わらせていただきます。(拍手)

質疑応答

(質問者)
 <音声聞き取れず>、「ぼくは秩序の敵であるとおなじにきみたちの敵だ」と書いているんですけど、それは吉本隆明さんが60年代安保の頃に書かれたと思うんですけど。じゃあ君たちはみんな秩序なのかと思って、ぼくと君の関係は何なのと考えたら、○○がすでにくっついているんじゃないか、卵みたいに、その辺がはっきりしなくて、吉本隆明さんは私より12歳年上なんですよね。だから吉本隆明さんは戌年だなと思って、案外その辺で犬どおしで似ているので、私は60年代安保で結局左遷されて、おもしろかったんですけど、おもしろいで終わっただけですけど。とにかく見に行ったんです。そうして吉本隆明さんの話を聞いたときに、すごく○○な人だなと、最近の社共は全然わからなくて、頭がすっかり○○になってたんですけど。秩序の敵でありきみたちの敵だという意識は、私も詩を書くんですけど、そう言えるのかなと。いまは書いていらっしゃいませんけど、吉本隆明さんも、詩じゃ言い足りないと、詩を書くなら小説を書くと。吉本隆明さんは○○だからいいと思うんですけど。きみたちの敵だと言い続けることができるだろうかと、その辺を聞きたい。

(吉本さん)
 いま言われた詩というのは60年安保とおっしゃいましたけど、もっと前に出てくる印刷インキの工場で働いていた時に書いた詩なんです。その場合に、秩序の敵であるとおなじにきみたちの敵だというきみたちというのは具体的に何だったかというのは、僕は覚えているんですけど。ようするに工場で働いている同業者の人です。そういうのを指しているんです。だからもっと前だったんです。
 現在も僕、そう密かに思っているんですけど、どういうふうに何をいうかというのがあるわけです。ひとつはその頃は詩を書いたりしていましたけど文筆業者でなかった。いまは文筆業者で、文筆業者というのは定義が難しい、色々あるのでしょうけど、ぼくは何だったかというと、たえず闘っているのが2つあるんです。
 ひとつは同じ世界にやっぱり文筆業者みたいなのがいまして、あそこにいるあいつはこういうこと考えていると、しかし、おれはこういうふうに考えているとかいうことのイメージがいつでもあるんです。つまり、フランスのこいつはこういうことを考えている、しかし、おれは違うぞとかいうような意味あいで、そういう意味あいで眼に見えない闘いといえば闘いだし、競り合いといえば競り合いだし、それはいつでもあるんです、いまでもあるんです。
 それは、やっぱり戦いで、これは口で言うと変なことになっちゃっているんですけど、心の中では思っています。つまり、あそこにああいうやつがいて、こういうことを考えている、これはダメだとか、これは間違っているんだとかというようなことがあります。それはいつでもあります。競り合いをしています、眼に見えない。知らないですよ、ぼくは言葉も知らないし、行ったこともないし、だけど、こういうふうに考えているとか、それはだいたい頭の中にあって、それは闘いとしています。これはほんとうをいうと他人に告げようがないことなんです。
 それから、もうひとつは、これはやっぱり全面的に闘いだと思っている。つまり、日本社会というのは、お前と俺は敵だというふうに言ったって、会ったらおはようございますという、つまり、敵ということは、あいつとは口をきかないと心の中で言っている、心の中というか、理念の中というか、思想の中では思っていても、日本というのは界隈が狭いですから、やっぱり会うとやだなと思いながら、挨拶したりとかになっちゃうんです。だから、そういうことはありまして、日本でおまえらぜんぶ敵だという生き方というのはものすごく難しいんです。むずかしいけれど、ぼくはそう考えています。
 これは、たとえば、漱石なら漱石が書いているでしょ。つまり、自分は険しくなっちゃうと、つまり、頭がおかしくなったときに、険しくなっちゃうと、細君から何からぜんぶ敵だ、みんな敵だと思えちゃって、生きているのも苦しくなっちゃう、ところが、病気になって、血を吐いて、そうすると、奥さんは決死で看護しますし、子供たちもちゃんとして、友人たちは心配して世話したりいろいろやってくれたり、そういうので漱石は改心するわけです。
 改心するというのは、つまり、この社会というか、世間というものは自分が考えているほど険しいものではないのかもしれないなと、いいところなのかもしれないなというふうに、修禅寺の対話の後でそういうふうに漱石が言うところがあるんです。あれはとてもわかりやすいんです。
 日本の社会というのはやっぱりそういう感じがします。やっぱりいい人ばかりいまして、心の中で思っていても、いざ人間関係の中でいくと、じゃないんですね、わりに温かくていい社会になってくるんです。そうすると、おれはちょっと考えすぎかなと思ったり、そういうことですよ、ようするに。

(質問者)

(<音声聞き取れず>

(吉本さん)
 だけどさ、ヨーロッパとか、アメリカとか、一週間ぐらいいた人が帰ってきてそういう話をすると、カメラを持っていたら、ひったくって持っていっちゃうやつがいるんだからとか言って、鍵かけておかないとかっぱらわれちゃうぞとかって、日本ってそんなことはないですから、だから、日本の社会のほうがいいんだと言えばいいのに、えてして日本のインテリというのは、それでもフランスのほうがいいと言うから、とにかく持っていっちゃうんだから大変なんだという話をしてましたけど。それなら、そんなくだらない社会はないと言えばいいじゃないかと、そうじゃないようなことを言いますから、ぼくは日本の社会というのはそんなには悪くないと思っています。険しさとそれを解体させられちゃうような温和さ、善良な温和な社会というのと、ヨーロッパ社会のあり方というのが、やっぱり僕は厳しい社会も決して悪くはないでしょうけど、社会が悪いといったらもったいない感じもしますけどね。改心させられたり、それを繰り返してやっています。



テキスト化協力:ぱんつさま(質疑応答部分)