健康な文学を読む

1 本の読み方・書評の仕方

 今日は文芸講座ということで、皆さんもたぶんよく読んでおられるだろういろいろな作品を土台にいたしまして、今の文学作品というものがどういうふうになっているかみたいなことについて僕なりの読み方というのをしてみたいと思っています。
 『新・書物の解体学』という本は僕のもので、新しく出た本なのです。その前に僕は『書物の解体学』という?復刻文学ですけれども、作品を主体にした作品論といいますか、作家論といいますか、そういうものを書いていました。その後、今度出ました『新・書物の解体学』というものは、『マリ・クレール』という中央公論から出ているファッション雑誌があるわけで、違うものもちょっと入っていますけれども、そのファッション雑誌に連載していたものが主なものです。そこで十枚前後、十五枚ぐらいのものもあります。それくらいの書評をやったのを集めたものなのです。
 例えば、いま新聞なんかでも、毎週一回ぐらいは書評というのがあるわけです。今だいたい四、五枚ぐらいの書評がたくさん出ているのを、皆さんも見ておられると思います。本の読み方というのは人さまざまといいましょうか、人の違う好みと、違う角度で読むものですから、同じ作品がさまざまな評価になったり、違うところに重点が置かれたりということがあるわけです。
 僕なんかの考え方のいちばん基本にあるのはどういうことかといったら、ある作品を読みますと、その作品の読み方は百人いれば百通りの読み方があるわけですけれども、一回だけではなくて百通りあってみんなそれぞれ違う。そうしたら、もう一回読んでみてくれというふうに言えまして、また同じ作品を同じ百人の人が読むというようなことをする。それを無限回繰り返しますと、だいたい同じ作品の評価に立ち至るというのが僕が何回も考えた形です。
 それでは、どういうところに立ち至るかといったら、書いた人のモチーフのところに収斂される。つまり、集まっていくはずだ、凝縮していくはずだというのが僕らの考え方です。ですから、一通り読むと百人百様違うわけですけれども、どんどんどんどん読んでいってそれを無限回読んでいったら、必ず同じになっていく。
 同じというのは何が同じなのだといったら、作者の書こうとした意図的な、あるいは潜在的なモチーフというのが表れるような読み方のところに集まっていくだろうというふうなのが本の読み方についての僕らの考え方なのです。そういう考え方からしますと、僕の『新・書物の解体学』の本の書評の仕方というのもそんなによくはない。そこまで?受けにいっているわけではないというか、そんなによくないのですけれども、新聞なんかに週に一回出てくるような書評よりは僕のほうがずっといいと思います。それは疑いもなくそうだ。
 もう一つ申し上げますと、何を読めばいいのかということになるわけです。そうすると、たいていの書評も、本を読んだ感想もそうなのですけれども、それはだいたい書物の中に非常に印象深いいくつかの箇所があるわけです。そういう印象深い箇所をつなぎ合わせて、この作品がこうだと言っているのが、だいたいの書評がやっていることなわけです。
 けれども、僕の理解の仕方では本当はそれは誰でもやることなのです。誰でもやることだからやっていいわけで、それでいいといえばいいわけなのですけれども、一見すると気づかないようなことに気づいてしまうという読み方をすることができたら、本当の書評に近づいていけるよというふうに僕は思います。
 それは例えばどういうことか。具体的に言えますと一番いいのですけれども。いま触れたところで具体的にできるかもしれないですけれど、比喩で言ってみますと、例えば「今朝早く起きて歯を磨いた」という文章と、「今朝六時ごろ起きて歯を磨いた」という文章は、だいたい普通の書評の場合には同じだと見なしているわけです。つまり、どちらも考えている、思っているわけです。
 けれども本当をいうと、「朝早く起きて歯を磨いた」という文章と「朝六時ごろ起きて歯を磨いた」という文章は違うわけです。何が違うのかということをだんだんだんだん読んでいって、読んでいったことが批評の中に出てこなければ、それはあまりいい読み方ではないということになると思います。
 ふつう皆さんが書評を書かれることも同じで、印象深い箇所の印象をつなぎ合わせて、あれはこういう作品だ、これはこういう作品だというような作品の評価の仕方をしているということになるわけです。けれども、もう少し読み方という筋があるとすれば、その次には「朝、六時ごろ起きて」というのと「朝早く起きて歯を磨いた」というのとは本当は違うのだよということです。作者の側からも違うわけですし、読むほうのニュアンスも違う。ちゃんと区別といいましょうか、そういうことが読み込めてくるというようなふうになっていくのだろうと思います。
 もし、文芸批評みたいなものに専門性というものがあるとして何かといったら、そういうことができるか、できないかということで、どの程度そういうことができるかということが違うのだと思います。読者としてある作品を読んで鑑賞するという読み方と何が違うのかといわれると、そういうところが微妙に組み込まれているかどうかということが違うのだと思います。

2 村上春樹『国境の南、太陽の西』のモチーフ

 本題に入っていきます。健康な文学と健康でない文学というので今の文学を分けてしまったら、いったいどういうことになるかということをお話ししていきたいわけです。健康であるということと健康でないということとは、本当をいうとどういう問題が出てくるかということがうまくお話しできたらというふうに思ってきました。皆さんの心に通じるところで、よく読まれている作品というものからいきたいと思うのです。
 例えば、村上春樹の今度出ました『国境の南、太陽の西』という作品を例に挙げるとします。この作品というのは、僕はたいへん健康な作品だというふうに思います。村上春樹という人は、この次はどんな作品を書くかなということを何か期待させる、そういう数少ない作家の一人だと思うのです。
 ところで、今度の『国境の南、太陽の西』というのは、僕はそんなにいい作品ではないというふうに読みまして思いました。どこがいい作品ではないというふうに思ったかということをうまく申し上げられればいいと思うのですけれども、一つは、読まれた方は…?…読んだと思うのですけれども。つまり、僕という人物と、僕と小学校のとき同級生だった一人っ子の島本さんという女性とがいる。僕というのも一人っ子で、一人っ子同士で好意を持ち合って付き合っていく。一緒に本を読んだり、一緒に音楽を聴いたりということで付き合って、仲が良かったのです。
 仲が良くて好意を持っていた女性と中学校で別れ別れになり、それから高校を出てわからなかった。現在の僕というのは、要するにバーの店を二軒ぐらい持っている経営者というふうになっているわけである。そこへ何十年ぶりかで島本さんというのがバーのお客として現れて再会する。再会して性的な交渉が始まる。島本さんと僕とが何十年ぶりかに再会する。僕のほうはいま言いましたように、バーの店を二軒も経営している。それで奥さんもいる。それから娘も二人いる。それで、わりあいに平穏な家庭を営んでいる。そういう状態である。
 島本さんというのは何をしているのかわからない、なかなか明かされないのですけれども、小学校のときよりもずっと美人になっているということと、小学校の頃は脚が悪いのですけれども、それも手術をしてずいぶんよくなっている。そういう設定で流れていく。何十年ぶりかで再会して、むかし好意を持ち合っていた延長戦で性的な交渉が始まるということなのです。
 この作品の見せどころというのは、一冊の本なのですけれども、言ってみれば性的な交渉の場面というのが長々とあるわけです。そこがこの作品の一番のクライマックスというか、見せどころだというふうになっている。だいたい、僕なんかが考え出すとそれだけしか見せどころがないということです。登場する人物もたいへん少数で、しかも単純である。そういう登場の仕方です。やはり、一編の長編にするのがだいたい無理なのを無理にやってしまっているということが、第一にこの作品の弱点だといえば弱点だというふうに言えると思います。
 前の村上春樹の作品の延長戦でいえば、『ダンス・ダンス・ダンス』の中で、メイというあだ名の高級のコールガールが出てくるのです。『ダンス・ダンス・ダンス』でメイという高級コールガールとの性的交渉というのが、かつて体験したことのないほど甘美な体験であったというふうに書いてあるのですけれども、どんな体験だったというのはほとんど何も書いていないわけです。
 たぶん僕の感じ方では、『国境の南、太陽の西』の島本さんと僕との年月を隔てての再会と、性的な交渉の場面というのは、メイとの性的交渉の場面が一番甘美な体験だったと『ダンス・ダンス・ダンス』で書いていて、それを違う主人公で書きたかったということだと思います。だから、その場面がクライマックスで、その他にはさして変化に富んだ工夫がしてあるわけでもないし、変化に富んだ筋立てでもない。
 小学校のときと島本さんと再会するまでに、僕というのは二人ぐらい好きになった女性がいる。それで、性的交渉もあるわけですし、また性的な遊びというのも体験するわけです。最後にたいへん好ましい女性と恋愛関係に陥って、それで結婚して娘が二人生まれてというふうになっていく。そのほかに格別の物語はないですから、極めて単調です。言ってみれば、島本さんとの再会も、この人との性的場面に『ダンス・ダンス・ダンス』での高級コールガール、メイとの性的交渉というようなことを含めて描きたかったというのが、たぶんこの作品のモチーフだというふうに思えるのです。
 つまり、あまりに簡単なモチーフと簡単なクライマックスのために、長編小説に仕立てるというのは、村上さんというのはたいへん力量のある作家ですけれども、それは無理だったのではないか。その無理さが弱点となって一つ表れていると思います。

3 村上春樹の才能観・芸術観

 それから、意味を付けて読もうと思えばもう二つぐらい意味が付けられる。その中で、島本さんがなぜ僕が経営するバーへ通ってくるようになったかということを島本さんが言うところがある。あなたのところで作られているカクテルというのは、ほかの店の味と比べると格段にいい味がする、それはどうしてなんだみたいなことを、島本さんという女性が突っ込んでいるところがある。それに対して、バーの経営者である僕が答えるところがある。自分が非常に高い給料でここにいるバーテンを雇っていて、このバーテンはすごい才能を持っていて、うまいカクテルを作るものだから高給を払っているんだという説明をするわけです。
 そこで勢い余って、僕というのがもっと先まで説明するわけです。同じお酒を使って同じように同じ時間だけシェイクをやっても、できてくるカクテルの味というのは人それぞれ違うんだ。人それぞれ違うんだという意味合いでも違う。ここに雇ったバーテンのカクテルは格段にうまいものができた。それはやっぱり一種の才能だというふうに思う。その才能というのはどうすることもできないので、才能のある、なしということは、どんなふうに条件をしつらえても、そういうのがあるんだ。どうしようもないんだ。それはちょっと芸術とよく似ているんだ。という説明をバーの経営者である僕がするところがある。
 つまり、僕というのが一人のバーの経営者の考え方を述べているというだけではない。その中に村上さんの一種の才能観といいましょうか、才能についての考え方と芸術についての考え方みたいなものが、そういうところにひとりでに出てくるわけです。自分は実業家でも経営者でも何でもないのだけれども、自分がもしここのお客だったらどういう味を好むか、どういうものを飲みたいかというのは自分なりにイメージがあるから、そのイメージにできるだけ近いほうに自分はやっているんだ。それで、才能のあると思えるバーテンを雇って、非常に高給を払っている。それが自分のところのカクテルがうまい理由だというふうに島本さんに説明するところがあるわけです。
 これはたぶん、村上さんの才能観というものが表れていると思っていいわけです。おかしいことには、その少し二、三行前の島本さんとの僕との対話の中です。僕はこの頃本をあんまり読まなくなったんだ。つまんない本を読んでも昔だったらつまんないのはつまんないなりに、自分なりにくみ取るところがあるというような読み方をしてきたけれども、今はつまんない本を読むと時間つぶしだというふうに思えちゃうのであまり読まなくなっちゃったんだ。という言葉がその少し前にあるわけです。
 だから、それも含めて、これは村上さんの才能観とか芸術観とかというものの表れなのだろう。これはある程度、まともに受け取っていい場所なのだというふうに思います。
 例えば、僕が作品の中の僕だとしたら違うことを言うと思います。「才能なんてものはないんだ」というふうに言うだろうなと思います。ですから、これは才能なんだ、才能みたいなのはどうしようもないんだというような言い方は、村上さん流の考え方なのだろうなと思います。僕が作品の中に入っていたらそうは言わないで、「才能というのは元々ないんですよ」というふうに言うだろうなと思います。

4 見せ場のなさと自己模倣

 もう一つ、この作品の中でまともに受け取れるところがあります。それは、今度は逆に島本さんが僕に説明して言うところがあるのです。それはどういうことかというと、シベリアのほうにはシベリア病というのがあるのだということです。シベリア病というのは何かというと、シベリアの果てしない荒野の中で、耕している農夫が毎日のように、毎季節のように、田んぼや畑を耕して物を作っているというようなことをくり返す。それでだんだんむなしくなってきて、虚無的になってきて、あるときふっと耕すことをやめて、歩き出してどこかへ行ってしまうということというのがある。どこかへ行ってしまうと、行き倒れてしまって農夫は死んでしまう。そういうことをシベリア病というんだというふうに島本さんが説明するわけです。
 国境の南というのはナット・キング・コールの曲の名前だとすれば、太陽の西というのはそのことです。つまり、シベリア病の農夫が太陽の西に向かって果てしなく歩いていって、しかし行き倒れて死んでしまう。そういう病気というのがあるそうだというふうに、島本さんが説明するところがあるのです。
 それで、それが何に結びつくかといいますと、島本さんが小学校のときに別れたきり、経てきた自分の閲歴について何も言わないわけです。つまり、家庭を持っているのかも、子供がいるのかも、亭主がいるのかということも言わない。言いたがらないし、言わないでいるわけです。
 ただ、再会してみて、僕は自分には何かが欠けている。その何か欠けているものを補うことができるのはあんただけだ。だから、家庭や子供も捨ててあんたと一緒にこれから生活しよう。あんたがいなくなっちゃうということは、ちょっと耐えられないからそうしちゃおうというふうに僕のほうが決心するわけです。
 そして、島本さんがそのときに、そうしてもいいのかもしれないけれども、そうするということは要するにあなたが全部を捨てるということだよというふうに言うわけです。それから、また自分もまた全部を捨てるということを意味するのでそれでもいいのかと言うわけです。僕のほうは、それでいいんだ、どうしてもそれが自分に必要だと思うんだというふうに言うわけです。
 それで、一夜の性交渉をして夜が明けてみたら、島本さんのほうがいなくなってしまっている。そこはとてもやはり村上さんのうまいところだと思います。どこかへ失踪してでも島本さんと生活するんだと思ったために、自分の奥さんとか娘さんとかというのを捨ててしまうという気持ちでもって傷つけた。その傷を回復するという過程が後続いていって、やがてそういうのは回復されるだろうみたいなことで作品は終わるわけです。
 そこの描き方いうのは村上さんらしくて、うまい描き方をしていると思います。いったん傷つけあってしまった家庭というのをまた再建していく。そういう再建の仕方の描き方というのは、とても見事なものだと思いました。でも、クライマックスはそこで終わってしまうわけです。
 この作品は、今も言いましたシベリア病というところと、自分と一緒になるなら全部捨てきってしないと駄目だというところ。自分のほうはできているんだというふうに言う島本さんの言い方と、それでもいいから一緒になるんだと決心する僕。そういうのとシベリア病で行方不明になって行き倒れてしまう人の話はつながっていくのだというふうになります。
 そうすると、この作品というのは先ほどの印象深いという言い方をしますと、その三つの印象深いことということをつなげていけば、だいたいこの作品の概要はちゃんとつかめるということになっていると思います。僕がこの作品はあまりいい作品ではないと思う理由は、あまりに物語として単調であって、性的交渉の場面だけしか見せ場がないということです。それはちょっと無理なのではないかということを申し上げましたけれども、そういうことが一つ。
 それからもう一つ言えることは、村上さんが自分の今までの作品の愛読者について一つのイメージを持っています。愛読者のイメージというのは、自分ですがりたいイメージがあって、イメージを意識して、逆に作品を今度はこしらえるというようなこと。違う言葉で言えば、自己を模倣するということと同じなのです。自己模倣ということがここに始まっている、顕著に現れているといってもいいのです。
 つまり、もう自分が愛読者のイメージを自分でつくってしまって、つくられたイメージに向かって自分の作品を書いている。そういう書き方になってしまっているところが非常にはっきり表れてきているわけです。この点がとてもこの作品を駄目にしている理由ではないかと僕には思えた。
 恋愛小説みたいなものとして見れば、この作品は大変うまく描かれた健康的な主人公と健康的な幼なじみの女性とが再会して親密な関係になるという、言ってみればたいへん作品としては健康的なといいましょうか、正常的な作品である。また、村上さんが意図してつくり上げている自分の愛読者のイメージというのも、またたいへん健康な愛読者のイメージである。そこに向かって自分の作品を書いているわけですから、不健康になりようがないという感じで、やはり健康な作品だというふうに言うことができると思います。
 つまり、健康な作品というのは、現在書かれている作品の非常に主なもので、何々賞というものをもらったり、たいへん評判になったり、映画化されたりとかというような作品の代表的な作品を見ますと、健康な登場人物が出てきて、何はともあれ非常に健康な恋愛関係が描かれている。それで、何はともあれ、非常にたくさんの人から読まれる筆力とか、作品の質というのもある程度ある。そういう作品というのは現在ではたいへん珍しいといっていいぐらい珍しいのです。

5 伊集院静『受け月』は健康極まる作品

 僕は、今年はかなりよく文学作品はいろいろな作品を読んだのですけれども、読んだ中で健康な作品だなというか、健康としか言いようがないといってもいい作品だなと思えるのは、この村上さんの作品と、直木賞をもらいました伊集院さんという人の『受け月』という作品がそうなのです。『受け月』という作品は、やはり同じように健康極まる作品です。僕がここ一年かそこら読んだ中で、健康な主人公が出てきて、健康な恋愛をして、健康な物語を演じている作品というのは、体験した限りではその二つぐらいしかないのです。
 伊集院さんが直木賞をもらいました『受け月』という作品は、ものすごく健康な作品です。これは、村上さんとはまた違う意味でたいへん健康な作品なのです。これをお読みになった方はすぐにおわかりかと思うのです。これは、かなり年を取った鐵次郎という会社の野球部の監督をしている男が主人公です。細君が沙やというのです。それから、二十歳ぐらいの孫娘がさやかというのです。その三人が主たる登場人物なのです。
 それで何が健康かというと、鐵次郎という主人公は頑固な社会人野球の監督なのですけれども、この頑固な男というのはいかにも本当に、典型的に頑固じじいだというように非常によく描かれている。別の言い方をすれば、たいへん類型的に頑固な老人のうるさい監督というのが非常に描かれているわけです。
 それからまた、細君は沙やというのですけれども、そのおばあさんはいかにも昔かたぎで、頑固な亭主に対してはへりくだって、はいはいということを聞いて、よく世話をしてやる。また、これも典型に、類型的な昔かたぎのおばあさんといいましょうか、おばさんといいましょうか、そういうのが非常に典型的に描かれているわけです。
 孫娘というのは現代風の娘なのですけれども、この娘が要するに親の反対を押し切って好きな男と一緒になるわけです。その好きな男というのは何かといったら、かつて鐵次郎という監督の下で会社に入ってきて、社会人野球のメンバーに入って鐵次郎にしごかれた男です。それで、肩をけがしてしまって野球ができなくなり、鐵次郎が口を利いて重役の秘書室の勤務に回してもらった。それが能力を発揮して、今は会社では専務になって鐵次郎よりもはるかに地位が上になってしまっているのです。
 昔かたぎの頑固さで、鐵次郎は専務に少しもへりくだらないで威張ってばかりいるというので、片方の専務になった人物は面白くなくてしょうがない。ところが、そいつの息子が鐵次郎の孫娘を好きになってしまって、駆け落ちみたいにして反対を押し切って結婚してしまうみたいなことがおおよその筋立てなのです。
 その専務は石井というのですけれども、その専務もまた、類型的に会社の専務とはかくのごときタイプで、かくのごときことを考え、かくのごときことを言う。まったく典型的にそういう類型が描かれているわけです。言ってみれば、古典落語の人情話みたいなものが筋としてでき上がるわけなのです。
 この人情話は、正義の人と、類型的にたいへん頑固で、いいようのないあれで、子供たちはそれの反対を押し切って一緒になってしまう。親達同士は仇敵のように嫌い合って、煙たがっている。そういう関係も、古典落語の人情話を聞くみたいなふうに描かれています。これもまったく類型的で、かつ健康極まりない作品だと言うことができます。
 例えば、鐵次郎のほうは夜に、あまり優秀ではない新人投手の夜間の練習を見に行く、監督に行くんだというふうに合宿所のほうへ出かける。それから、孫娘のほうはだんなが心臓の手術のために入院していて、帰りがけに見舞いに行く。要するに、一緒に出かけて途中道で会話をかわすところがある。七、八行になりますけれども、読んでみます。典型的に人情話的麗しさというのでしょうか。そういうものが典型的に描かれています。
 孫娘が鐵次郎のことを鐵さんという呼び方をするのです。「『ねぇ、鐵さん。ちょっと聞いていい』隣りで自転車を押しながら歩くさやかが言った。『何だ?』『人がさ、自分でない人のために祈る時はさ。どんなふうにしたら通じるのかな』『何のことだ』『だから、私は毎日雄一さんのためにお祈りをしてるのよ。』」。
 雄一さんというのは、要するに孫娘が駆け落ちしてしまったといいますか、親の反対を押し切って一緒に同棲した亭主で、心臓の手術のために入院している。それで、そのためにお祈りしているのだということを言っています。
 「『ところがさ、私は元気で雄一さんは身体の具合が悪いわけでしょう。お祈りのしかたが悪いのかなって、思って……』鐵次郎は生まれてからこのかた何かを祈るということをしたことがなかった。祈るという行為が、すでにそこで人間を弱者にしていると考えていた。さやかが立ち止まった。空を見上げていた。冬の星座がきらめいていた。『星を見てもさ、山を見てもさ。私毎日祈ってるの。どうか早く雄一さんが元気になりますようにって。でもちっとも通じない。私の身体の半分が、いいえ、全部を雄一さんのととっかえてもいいですよって、祈ってるのに……』孫の頬に涙が伝っていた。『大馬鹿者。おまえがそんな弱気でどうする。おまえが病気をひっぱたいて雄一君と二人で生還するんだ』鐵次郎は孫のそばに寄ると、『涙は最後に流すもんだ。おまえと雄一君なら、きっと乗り切れる。信じろ、わしを』と半コートの肩を抱いた。」というような箇所があります。
 これを見てもわかるのですけれども、今どきこんな女の人がいるのかなという?始まりで、これは一つの人情話の類型だとしか受け取れない。いかにも頑固者のおじいさんらしくて、しかも人情深いという感情がものすごくよく表れています。これは伊集院さんの作品の全部にあてはまる類型です。
 つまり、この人は何をどういう小説を書いているのかは、新しい人情話というのをうまくいきいき書いている。一つもリアルではないのです。リアルではないけれども、類型のパターンというのは強力なパターンがあるので、人情話のパターンというのは正確に踏んでいると思われる。それが受けている理由だろうと思います。それが実にうまいと思います。

6 人情話のパターンとおもしろさ

 僕らが例えばテレビで水戸黄門というのを見ると、いつでもほら今に始まると思うとだいたいちゃんばらが始まる。ちゃんばらが始まるなら全部終わりまでやればいいのになと思うと、途中で「静まれ、静まれ」とか言って「この印籠が目に映らぬか」とか言うでしょう。「ははーっ」と敬服して納まるということになるわけです。それで悪いのは罰せられる。このパターンが、今でも毎週テレビを見ていると毎週必ず来るパターンなのです。
 だけど、なぜ我々は、というか、皆さんは見ないかもしれないけれども、僕はよく見る。(笑)もう始まるよと思うと、ちゃんと印籠を出す。(笑)それがわかっているのにどうして見るかといいますと、あれは時代劇の一つの強力なパターンがあります。歌舞伎みたいなものから始まって、めんめんと明治以降も続いている時代劇のパターンというのがあるわけです。そのパターンというのは、もう類型としてわかっているのですけれども、あまりに強力であるために、やっぱりああまた見ちゃったという感じになって、また来週繰り返されるというふうになっていると思います。
 つまり、歌舞伎の見得を切るところもそうなのですけれども、全部類型なわけです。ちっともリアルではないわけです。けれども、やはり歌舞伎の人気というのは衰えないし、若い人もまた見ます。それはなぜかといったら、強力なパターンがかなり深い衆俗といいますか、民族といいましょうか、そういうものに根差した日本人の心情にかなり深く食い込んだパターンを持っているから、それを見るわけです。そのパターンを知りながら見るというようなことになっていくわけです。
 これは無視することができないわけです。何を無視することができないかと言いますと、こうだと思います。どこの国の物語であろうと、翻訳をした本であろうと、何であろうと、それを読めば必ずわかるのだというわかり方というのも一つあります。
 しかし、もう少し深みにはまっていった見方からすれば、例えば外国人が日本の物語のパターンをわかろうとするならば、自分のところの言葉と日本語とを同じくらいよくわからなければ本当をいうとなかなかパターンがわからない、うまく理解できないという深みというのもまた必ずそういう物語的な、心情的なパターンにあるわけです。
 もっと極端な深みにまで入っていけば、一代でなかった。つまり、何百年も同じその土地に住み着いて、何百年も経て、住まい方とか、そういう生活の仕方とか、無意識に親から受け取ったものとか。そういうのを何百年も同じ土地にいてそれを体験しないと、これは本当にはわからないよ、その深間のわかり方ではないとわからないという箇所もあるわけです。
 それに対して、例えば歌舞伎なら歌舞伎でも人情話のパターンなのです。これはそれほどの深みはないかもしれませんけれども、何代かその土地に住み着いて、無意識のうちにその土地の心情的な受け取り方とか、生活の仕方というのは無意識に自分が持ってしまっているということがなければこれはわからない。そういう深間までのわかられ方というのは人情話でも歌舞伎のパターンでもそれは必ずあるわけです。そのくらいの強力さがあるわけです。
 これはちっともリアルではないのです。日本人の民衆の本当にリアルな心の動きを描いているわけでもないのです。ただ、パターンとしてはたいへん深間まで描いているということがある得るわけです。
 伊集院さんのこの小説というのはほとんど全部そうです。非常に健康な人情話に現在の衣がちゃんと着せられてあったり、古い人情話に近いものであったりというような違いはありますけれども、この人の作品の良さというのはその人情話の類型性、パターンのある面白さ、良さといいましょうか。それを非常に最大限に使いつくしているというふうに思います。
 そこが伊集院さんの作品の大変受けるところで、また、ある意味で健康極まりない作品だというふうに言えば、言える。読んで決して不快な感じというものはないし、しこりのようなものを読者に残すみたいなことはなくて、ちょっと人情話にまみれさせられたなというふうになっていく。そういう要素があります。それが伊集院さんの作品の特徴だと思います。

7 村上春樹への注文

 この種の健康な特徴というのは、現在の日本文学の作品の中では非常に珍しいものです。そういう意味では、希少価値が大変あるものだと言うこともまたできそうに思います。つまり、健康な人情にあふれた登場人物が出てきて人情で泣かせる。古い形ではなくてかなりモダンな形なのだけれども、結局はしかし、そういう泣かせるなというような作品の良さがあって、それが伊集院さんの健康な物語というものの一種のパターンをなしています。どの作品を読んでもそれが同じように出てきて、読者がきっと歓迎する要素になっているのではないかと思います。
 村上さんの作品と伊集院さんの作品というのは大変そういう意味合いで非常に見事な作品だと言うこともできますし、また、あまりに類型的過ぎるではないかといえば、あまりに類型的過ぎるということにもなると思います。また、あまりに健康的過ぎてちょっと言いようがないよというふうに言えば、またあまりに健康的です。健康的でうそっぽいよというふうに言えば、また言えるのかもしれません。つまり、さまざまな言い方があり得るでしょうけれども、特徴としてはそういうところに特徴があると言えると思います。
 この種の作品に対してもし書評として注文を付けるとすれば、村上さんに対してならばこれはやってもらいたくない。つまり、あらかじめ自分がつくり上げた自分の愛読者のイメージというのに対して、また自分がそれに向かって書くみたいなそういう自己模倣というようなこと。こういう作品はやはり村上さんにはやってもらいたくない。村上春樹、村上龍というのは、ある意味で日本文学、現代文学のホープですから、これはしてもらいたくないねというふうに書評で注文を付けるとすれば、そういうふうになると思います。
 つまり、僕が村上春樹とか村上龍とかという人の作品は、いい作品だ、いい作品だというふうに日本の文芸批評の常識に反してそういうふうに主張してきたわけです。それはなぜかと言ったら、現代の風俗に対する洞察力が格段にいいのです。勘がいいといいますか、格段によくできている。これはなまじの因習にとらわれた文芸批評家にはそのものの良さというのはわからないよと思うくらい、たいへん風俗に対する洞察が優れているわけです。
 それからよく言った場合にいい作品になっていると思います。そういうところが日本だなといえば日本なのですけれども、つっかえ棒の作品だと思えて仕方がないのです。つまり、思いっきりやればいいのになというふうに思えるのに、何か一種つっかえ棒の作品を愛読者に狙いを定めて、また読者のイメージを限定している。読む人はどんな人か、また誰が読むかそんなことはわからないんだよという、そういうわからなさというのはどこにもなくしてしまっている。それで、もうわかっている自分の愛読者層みたいなものの自分なりのイメージに向かって作品を書くみたいな、こういうことは村上さんにはしてもらいたくない。僕が書評すればそういう注文を付けると思います。
 『国境の南、太陽の西』というのは大変よく読まれていますけれども、僕はやはり一種のつっかえ棒の作品だというふうに思えます。これは村上龍も同じで、『イビサ』という作品というのはかなりいい作品だと僕は思うのです。けれども、村上龍も一種のつっかえ棒の作品があり、『長崎オランダ村』という作品がそうです。つっかえ棒の作品というのも書くわけです。
 つまり、どう言ったらいいのでしょう。やはりこう思うのです。日本の現在の顔が見えない読者というのをどうやってつかもうか、どう考えたらいいんだという場合に、それがとても怖いのだと思います。ですから非常につっかえ棒になるような作品というのを、一方でどうしても書いてしまうというふうにどうしてもなるように思うのです。この手の作品は明治時代からさんざん書かれている。尾崎紅葉の『金色夜叉』ではないですけれども、『金色夜叉』以外でもこんなものはたくさん書かれているんだよ、これは村上さんには書いてもらいたくないよというふうになります。
 また、村上龍の『長崎オランダ村』。こんなものは夏目漱石の『坊ちゃん』という作品がこれよりも何倍もいい形でこんなのはやっちゃってるよという、そういうことをやるわけです。つまり、何かしらのつっかえ棒なのです。それはやっぱり怖いんだろうなと僕は思います。日本の読者というのは怖いんだよな。
 つまり、大多数は表面的にたいへん善意にあふれているようで心の中では何を考えているのかわからないみたいな怖さというのは、日本の現在の大多数の大衆の中、民衆の中にある。その怖さというのが怖いのだと思うのです。ですから、「この印籠が目に入らぬか」に似たような非常にわかりがいいところでわからせるような作品というのに狙いを定めて書くというようなことを一方でしてしまうのだと僕には思えてしょうがないのです。
 伊集院さんはもともとサブカルチャーといいますか、物語の読み手を想定した?いよいよつきない語り手というようなものから出発している人ですから、これは大変よくできた作品だというふうに言えば、言ってしまっていいのだと思います。サブカルチャーの読み物の作品というのもずいぶん優れた質になってきたというふうに言ってしまえば文句はないよなというふうになるのだろうと思います。
 ですから、僕はあまり距離感が遠いものですから、村上龍とか村上春樹を書評で注文を付けるという気は全然ないのです。でも、パターンがわかっている類型的な人物の描き方と、類型的な人情話の現代版だなというふうに思うと、何となく物寂しいなというような感じは持たざるを得ないわけです。

8 文学の初源性と通俗性

 しかし、僕らが物寂しいと思えるところが、伊集院さんが女の人なんかにもてる理由ではないかと思うのです。(笑)物寂しいといえば物寂しいなという感じがするのです。どうしてかと言いますと、例えば夏目漱石の『坊ちゃん』でもいいし、『虞美人草』という新聞小説でもいいのですけれども、たいへん類型的です。いろいろな化粧といいますか、装飾を取ってしまうと、たいへん通俗的な小説だというふうになると思います。
 けれども、類型的な、通俗的に見える『坊ちゃん』と『虞美人草』も、伊集院さんの作品とか、村上龍の『長崎オランダ村』とか、村上春樹の『国境の南、太陽の西』とどこが違うかというと、違う箇所が一か所あるのです。つまり、そこが問題になるところです。漱石の『坊ちゃん』でも、『虞美人草』でもそれがもっている通俗性というのは文学というのがもとを正せばこういうところから始まったんだよなというような、そういう初々しさと言ったらいいのでしょうか、そういうものがあるわけです。
 そういう要素は必ず通俗性にいく要素がもちろんあるわけです。通俗性のほうに展開していくという要素と、もう一つは甘さと言ったらいいのでしょうか。この甘さというのは本格的な甘さである。第一級の作品にしかないんだよなという甘さというのは、『坊ちゃん』とか『虞美人草』の甘さとか、通俗さの中にはあるのです。
 例えば僕らの純愛小説というものの中で世界的な作品というのは、バルザックの『谷間のさゆり』です。あれは『谷間のゆり』と訳してあるのですけれども、『谷間のさゆり』という作品とか、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』みたいな作品が純愛小説として世界的に第一級のものだと思います。
 これらのもっている甘さというか、甘美さは、第一級の作品にしかない甘美さ、甘さだというふうに言えると思います。この持っている甘さと、通俗性、類型性に流れていく作品の甘さとはもとを正せば同じ根元です。それがどちらにも行くことがあり得るのだという、そういう甘さだと思います。その甘さというのはまた別の言葉で言いますと、文学の一種の本質にかかわってくるわけです。
 バルザックの『谷間のさゆり』でもいいですけれども、そういう純愛小説は世界的な傑作だと思いますけれども。そういうのを持ってきて、ただいま熱中している恋愛中の若い男女に、「おまえ、これは恋愛小説の傑作だから読んでみろ」と言っても、決して振り向いて読むなどということはしない。自分たちの恋愛のほうがずっと生々しくてずっといいと思うわけです。
 つまり、文学というものが、現に熱中している、恋愛している、盛んに純愛している男女に対して、いくら世界的な傑作の純愛小説でもそれを振り向かせる力というのは文学にはないわけです。生々しさの感じはまるで違うわけですから、振り向かせることはできないわけです。それが文学の弱みといえば弱みになる。
 しかし、その弱みは同時に強みでもあるわけです。そういう世界的な傑作の純愛小説というのは、例えば現に恋愛中、純愛中の若い男女は、仮に恋愛がうまく行って、一緒になって、所帯を持って、子供を産んで、だんだん年を取ってくる。そのうちにもしかすると純愛がさめていってしまうのかもしれませんし、しまいに合わなくなって離婚してしまうということになってしまうのかもしれません。
 そういうときに、バルザックの『谷間のさゆり』を今度は少し嫌気が差したところだからということで振り向いて読むかもしれない。読んだら、やっぱりこの純愛さというのはおれにもあったんだよなということで、自分が体験したよりも何十倍も大きな規模でそれを体験させるという力はそういう純愛小説にあるわけです。一級の純愛小説が持っている弱さと強さ、あるいは文学自身が持っている弱さと強さというのは、そういうところにあると思います。

9 第一級の作品にしかない文学の本質

 だから、これは何でも同じです。例えばレーニンという、今はたいへん評判が悪いのですけれどもロシア革命の父と言われている人がいるわけです。レーニンが好きだった小説というのはトルストイの『アンナ・カレーニナ』です。これは今の言葉で言えば不倫小説です。これがレーニンの愛読書で何十回も読んだ。いい作品で、いい不倫小説ですけれども、これがレーニンの好きな作品なのです。…?…好きではないか。それのほうが正直でいいし当たり前なのですけれども。その小説が好きだったのです。
 では、ただいま不倫中のお友達とか女性がいたとして、不倫に夢中になっている人に『アンナ・カレーニナ』を読んでみなと言っても、それは生々しさが違うから不倫をやめてそれを振り返って読むなどということはしない。不倫も続行するし、発展していくに決まっているわけなのです。けれども、不倫があるところまで来て、どうしてもにっちもさっちも行かなくなったというようなことで、それが壊れるということも不倫でしたらあり得るし、だんだん冷たくなって別れるということも、駄目になるということもある得るわけです。
 そういうふうなところで、「これを読んでみな、これは世界的にいい不倫小説だよ」と言う。もし、そういう体験を経た人は、『アンナ・カレーニナ』を読んだとしたならば、自分たちが体験した不倫がまだ足りなかったといったらおかしいですけれども、つまりまだ感じ方が浅すぎたとか、もっと深く不倫すべきだったとか、いろいろな意味合いでたいへん役に立ったり、思い直したり、また、ああそうかと。
 物事の体験というのはおどおどしながらやるものではなくて、本当にそう思ったら本当にそういう深い深い感情でそういうのを体験するのだったのだなというふうに、今度やるときはそうしようとか。そういうふうに、いろいろな意味で役に立つというような読み方ができるものがある。それがやはり文学作品の良さだといえば良さだと思います。つまり、そういうところが文学の作品、言葉の芸術の弱点であり、同時に良さであるというふうに言うことができます。
 そうすると、その基にあるのがたいへん通俗性にも流れていくものであるし、また第一級の文学作品にしかこういうものはないんだよ、こういう甘さの追求の仕方というのはそれしかないんだよ、文学というのは何かといったら、もとを正せばこういうところから出てきたんだよなというものというのがあっていいはずなのです。
 もし、本当の意味の甘さだったならばそういうのがあっていいはずなのですけれども、残念ですけれどもそこまでのことを言えば、伊集院さんの作品でも、村上春樹の『国境の南、太陽の西』でも、そこまでの良さといいましょうか、文学というのはこういうものだったなという良さというのはないというふうに言うことができます。
 小学校のときに付き合っていた同級生が何十年ぶりに再会して親密になっていくというのは純愛小説のパターンなのです。しかし、この再会した後の二人のよじれ方とか、先ほど言いました芸術観とか才能観というのを見てみますと、かなりの程度途中で口には出さないけれども相当よじれた体験というのを持っているみたいなふうになっていて、とうてい優れた第一級の純愛小説みたいにはなかなかいかないというふうになっています。
 しかし、文学というのはもとを正せばそういうものだというのがあって、それが通俗性にも流れる、いい作品にも流れるというふうになると考えられます。もし、皆さんが健康な小説といいましょうか、言ってみれば健全な小説なのですけれども、こういう小説に遭遇されて、この小説の中にある良さというものの中に、よく映画批評家で「映画っていうのはいいですね」とかテレビで言う人がいますけれども、それと同じで、文学というのはいいものだなと思わせるそういう文学の初々しさというか、初源性といいましょうか、もとを正せばという良さを見つけられたら、それはいい作品だと思われたほうがいい。
 また、そういう作家の作品にたまたま遭遇した。それは人がどう言おうと、世間がどう言おうと、やはりそれはいい作家なのだというふうに考えてよろしいのではないかと思います。そういうところが、現在日本の文学で書かれている言ってみれば健康な小説なのです。健康な小説が持っている一つの問題性であるというふうに言うことができると思います。

10 異常な人物を描く純文学

 ところが、ちょっと健康でない小説のことを申し上げたいのです。健康な小説が少ないのに反して、健康でない小説というのは非常に多いわけです。例えば十編作品を読んだらと言わなくても、芥川賞をもらったとか、直木賞をもらったとか、その他、映画化されるとかというような、よくここ数年の間に我々がよく知っている作品みたいなものを見てみますと、その種の作品というのはだいたい頭がおかしいのか、性的におかしいか。とにかく真っ当な人間というのは一つも出てこないというのが大部分の現在の日本の文学の主流である。文学の?地位が昔流の言い方をしますと純文学ということになるわけですけれども、純文学の作品も一般的な趨向、趨勢だというふうに言うことができると思います。
 例えば、去年か、おととし芥川賞をもらいました荻野アンナさんという人の『背負い水』という作品があります。主人公たちというのは浮気をして性的な交渉に入るわけなのです。性的な交渉に入りながら、性的な交渉をやっている姿勢とか、状態というものが自分の頭の中にちゃんと浮かんできてしまう。そうすると、とたんに自分がしらけてしまって、性的な交渉がうまくいかないことになってくるみたいな作品であるわけです。つまり、ちっとも正常ではない主人公が出てきて、正常ではない性的な体験をして、どう考えてもおかしいというような体験をしてしらけてしまうみたいな、そういう作品です。
 また、芥川賞をもらいました新井満の『尋ね人の時間』というのもやはり同じです。五年前に奥さんと性的交渉をたまたましているうちに、性的交渉をしている自分たちの姿が頭の中のスクリーンに浮かんできてしまう。それが浮かんできたとたんに、主人公が不能になる。不能になっていろいろなお医者さんを訪ね歩くのですが、どうしても理由がわからない、原因がわからないということになっている。それ以後ずっと不能になってしまう。そういう小説です。
 不能になってしまうということに作者は意味をつけているわけです。それはもしかすると文化があまりに、文明があまりに高度になったために、もうこれ以上人間を増やさないようにしたほうがいいという神様の意思か何かがあって、こういうふうに治らなくなっちゃっているというふうにでも考えなるより仕方がないんじゃないかというふうに、お医者さんが主人公に語るみたいなふうに解釈をさせているところがあります。この『尋ね人の時間』の主たるモチーフなわけです。これもまたおかしな、異常なというか、全部異常だというより仕方がない主人公と、その相手の人しか登場してこないということになっています。
 それから、つい最近、薬師丸ひろ子かなんかなどで映画化されるという江國香織さんという人の『きらきらひかる』という作品があるのです。むしろ作品として、いま言いましたようにみんなかなり賞などをもらっているのです。作品の出来ばえとしてはいいほうの作品だというふうには言えるのです。これもなかなかいいほうの作品だと言えますけれども、これもまた同じです。
 睦月という、主人公のだんななのですけれども、このだんなはホモであって異性との交渉なんかぜんぜんできない。ホモの相手はいるのですけれども、私という女性は自分があまり性的交渉が好きではないからホモでもいいんだということで、睦月というホモの男性と結婚してしまうわけです。
 それで結婚生活をするのですけれども、睦月とはぜんぜん性的交渉がない。私というのは笑子というのですが、ときどきヒステリーを起こす。周期的にヒステリーを起こしてしまう。でも我慢して一緒にいる。片方は相変わらずホモの相手はホモの相手で…?…ある。お医者さまなのですけれども。
 二人の不健康といいますか、異常な人間が一緒になって夫婦の形を取り始める。親たちは心配して、人工授精で子供をつくったらどうかみたいなことを言うわけです。世間体が悪いからそういうふうにしたらどうかみたいなことを言う。そういうことはしたくないんだというふうに私という女性は思うのだけれど、どうしようもないみたいな、そういう両者の性格というものを描いているわけです。
 こういう風俗がないということは決して言えないし、ある程度あるからこういうフィクションが出てきているわけでしょうから、ないわけではないのでしょう。しかし、十編のそういう純文学作品を読んだら、とにかく?十編までは性的におかしいか、精神的におかしいか、どちらかというような主人公たちしか出てこないわけです。

11 新井素子『おしまいの日』の主題の見事さ

 僕はそういうおかしな人しか出てこない作品の中では立派な作品だ、一番いいのではないかと思うのは、新井素子の『おしまいの日』という作品なのです。これは大変いい作品ではないか。おかしい人たちが出てくる作品としてはいいのではないかと思うのです。
 これはごく普通のサラリーマンの夫婦がいて、だけど亭主のほうは会社が忙しくてうちへ帰ってくるといつも午前様になるか夜中になるかで、奥さんのほうはだいたい夕飯を食べないで、夜中に帰ってくるだんなさんの食事を用意して待っているわけです。それが続くうちに、だんだん仕方がないんだ、これがあるからうちのだんなは会社からも重要視されているんだと思って我慢に我慢を重ねて、?だんなさんのほうがひとりでおかしいところへ行ってしまう。
 その描き方はやはり見事だと思うのです。隣の塀の穴かから猫がこっちをのぞいている。それで、その猫を寂しいから飼いたくなって飼うわけです。飼うためにえさを入れる器を買ってきたりとかして、いろいろ構ったりするのです。食料を買ってきたり構ったりして、猫を飼うわけです。
 その猫はだんなさんが帰ってくるととたんにスッとどこかに行ってしまう。だんなさんがいない留守だけやってきてご飯を食べたりしているわけです。いつかだんなさんに寂しいから猫を飼ったということを断ろうと思うのだけれども、だんなさんは遅くにしか帰ってこないからなかなかそういう機会がないという生活で、私という女の主人公は日記の形に書いていた。
 ところで、どこが魅力か。そういうふうにして猫を飼って寂しさを紛らわしているというふうになっているのですけれども、あるときから猫がいなくなってしまう。いなくなってしまうと、自分は猫のためにご飯を食べる皿を買ってきたりとか、いろいろ買ってきたりしたつもりなのに、そういうのもなくなってしまう。そういう描写というのが実に見事である。
 もしかすると、女主人公は寂しさのあまり一種の幻覚性のノイローゼになっている。塀からのぞいていた猫を自分が寂しいから飼ったというふうに思っているけれども、本当はそれは全部幻想ではないかと読者のほうにそう思わせるようにちゃんと書かれているわけです。それでいて、主人公の奥さんのほうから見ると、確かに自分は寂しさを紛らわせるために猫を飼っていて、器にえさを入れてちゃんと与えたりしたのだと思っている。けれども、読者に、もしかすると、奥さんはノイローゼになってきて、奥さんの幻覚に過ぎないのではないかというふうに思わせるところが非常によく描かれている。いかにも現在リアルにあり得るシチュエーションというのをちゃんと取っている。
 この奥さんが寂しさのあまりノイローゼになってみたり、また元に戻って正常になってみたりというのがくり返しているなというようなことを、読者のほうにちゃんと感じさせるように描かれています。それで、しまいにはやはり奥さんのほうが爆発してしまって、だんなのほうは会社で責任を持ってやっていたプロジェクトに失敗してしまい、会社から文句を言われ、それで転勤させられそうになる。それから後始末のためにまた帰りが遅くなる。
 そういうことになって、また少し遅くなるかもしれないと奥さんに告白するわけです。奥さんはそれで爆発して、そんな会社なんかやめてしまってください。あなたが偉くなるなんていうことはたくさん。どこか北海道でも行ってゆとりのある勤め口のところへちゃんと…?…あんたはきっと偉くなる。非常にゆったりした暮らしをしよう、そうじゃなかったらと爆発して怒ってしまうのです。怒り出してから、またそれをなだめる。
 ひと月ぐらいたったら、今度はだんなさんのほうが爆発してしまう。お前はわざと意地悪している。夕ご飯も、わざわざご飯が冷たくなる夜中まで自分も食べないで待っている。こんなことをされたら気が重くて仕方がない。おれの帰りが遅くなったら、夕飯食べてさっさと寝てくれたほうがいかに気が楽かわかんねえとかいうふうに言い返してきて爆発する。こんなのはお前が意地悪しているとしか思えないみたいなことを言って大爆発するわけです。
 だんなのそういう大爆発を契機にして、奥さんのほうはどこかへ完全に失踪してしまうというのが小説の終わりです。失踪してしまって仲のいい友達に手紙が来る。だんなさんのほうにはわからないのですけれども、その友達のほうに言わないでくれと言う。自分はだんなの子供を妊娠した。この子供が生まれたら自分は今までのだんなさんと二人できたと同じことになるので、とても耐えられないから失踪してこの子だけは育てようと思って失踪した。だけどだんなには言わないでくれという手紙が友達のところへ来るわけです。それで、だんなのほうは一年半もわからないものだから失踪届けを出して、再婚してしまうということでこの作品は終わっているわけです。
 さすがに新井素子という人はサブカルチャーのチャンピオンだけあって、実に現在にありそうで、実に見事に異常さと、抱いた幻覚が本当だったのかなというふうに思わせている。またそれは幻覚に違いないと読者にさまざまな解釈、可能性を与えてちゃんと描かれて、特異な例ではなくていかにもありそうな主人公たちを登場させて、そういう作品を描いている。
 これも異常な人たちが主人公なことには変わりないわけですけれども、言ってみればいちばん妥当性がある。異常な作品、異常な登場人物しか出てこない作品としてみれば、たいへん妥当な作品だというふうに言っていいのではないかと思います。

12 まゆつばの健康さと不健康さ

 現在大ざっぱに分けてしまうと、健康な主題、健康な物語、健康な登場人物が出てくる小説の健康さというのは一皮向けば、まゆにつばをつけないと。この作品の描いている健康さというのは真実といいますか、本当を描いているかという疑問を与えてしまうような健康さというものが、一つ少数派みたいなものとしてあるとすれば、大多数の現在の日本で書かれているものはたいてい不健康な登場人物で、どうしようもないような場面に立ち至ってしまう。そういう作品が圧倒に描かれている。
 その不健康さというのは、ちっともリアリティがないといえばないわけです。例えば、その『尋ね人の時間』の性的不能になってしまう事実も不健康さも、もう少し細部にわたっていくと実にいい加減ではないか。絶対に五年間治らないだんなのほうの性的不能のために離婚をするわけです。ホモセクシャリティーといいましょうか、同性愛者とか、エイズの患者とか、もしそういう言い方をすれば永久不能というものなどと同一において一種の現代の高度文明病の一つなのだというところに持っていきたいというモチーフが作者の中のどこかにあると思いました。
 けれども、ちょっとそれはまゆにつばをつけないといけないと思うのです。性的不能というのが文明病に位置づけることはできないのではないでしょうかということが一つあります。また、男性が絶対不能というか、永久不能というか、そういうのをエイズと同じとか、同性愛とかと同じところに奉ろうとしても、それは無茶な話であって、永久不能というのはあり得ないです。これはやぶ医者のところにばかり行ったから治らないのです。ちゃんとした医者のところに行けばすぐに治るんだなというふうに思わせるいんちきさというのはあるわけです。
 でも作者のモチーフは非常にわかりやすいし、そういう不能というものを文明があまりに高度になったために起こる一つの病の一つの形というところまで持っていきたいというモチーフが作品の中に非常によく表れているということになるわけです。それならば、この不健康さというのを本当にいったら、まゆにつばをつけたほうがいいんじゃないですかということになっていくと僕には思えます。
 つまり、本当の健康さ、健康な文学というもの、本当に病的な文学というのも、両方とも因果関係はないというのが現状ではないのかなというふうに思います。本当に不健康な文学というのはどこでも…?…している。例えばサドならサドの作品なのですけれど、これはやはりちょっと一種の文明批評でもあります。これはちょっとすさまじい迫力もありますし、すさまじい衝撃力もありますし、決してうまい小説でないわけです。しかし、この衝撃力はちょっと何かに関係があるよという、そういう衝撃力を持っています。
 そういうのを持ってくればわかる。文学は別に健康でなくてはならないという理由は少しもないわけです。不健康でも、悪人でも、犯罪者でも、何でもいいのですけれども、とにかく本当の不健康さというのが描かれていれば、それは文学の美徳といいましょうか、一種の文学の存在理由になるわけです。
 先ほど言いましたように本当の健康さが描かれていたならば、世界的に純愛小説があり得るように、またそれが本当にいい健康さということになるのでしょうけれども、現在、日本で描かれている作品というのは、そういうふうに分けてしまえばどちらも本当でない健康さと本当でない不健康さしかそこにはないのではないかというふうにしかとうてい思われない。やかましい書評をしてみれば、そういうことになってしまうのではないかと思います。
 つまり、やかましい書評ではない書評をすればまた別です。皆さんがご覧になる三大新聞なら三大新聞の一週間に一度ある書評欄というのをご覧になると、やかましい書評ではないのです。たいていなところで褒めあげたり何かしてあります。それは違うので、本当に読んでご覧になったら、ちょっとそうじゃないよ、ここにあるのは全部本当でない健康さと、本当でない不健康さしかないんだよ、というふうに言っていいくらいなのが本当のところだと思います。正直な書評をすればそういうところになってしまうと思います。
 そうすると、書評家としてはどこかに意義を見つけたいということはあるわけです。…?…この小説も本当の健康さじゃないよ、この小説も本当の不健康さじゃないよ、だからちょっと面白くないよと言えば済んでしまうかというと、それじゃあ面白くないでしょう、それじゃあやりきれないでしょうとかということはあると思うのです。だから、そこを意味づけたい、意義づけたいというモチーフが働かないことがないわけです。意義づけたいというモチーフを申し上げて、面白くないなという一般的書評、一般的な嘆きといいましょうか。そういうものに何かあれをつけてみますと、格好をつけてみたいということがあるわけです。

13 現在の公害病としての境界性人格障害

 そうするとどういうことが言えるかというと、わりあいにどこを境にして健康なのか、どこを境にして健康ではないのか。あるいは、どこを境にして作られていれば、こちらからの考え方からすれば正常だけれども、ちょっとこの境のこっちに来てしまえばどうも正常ではない、異常だというより仕方がないんだというそういう境界線をあちこちする。つまり、異常さと正常さのどちらともつかない。しかもある時間を取ってくると正常だというようなところに行ってみたかと思うと、二十四時間のうちある時間を取ってくると異常なというところにいるとしか思えない。だいたい相当な人数の人たちがそういうふうになりつつあるのではないかと理解します。
 そうすると、非常に鋭敏な小説家がそれを作品に書くと、本当でない健康さと本当でない不健康さしか作品の中に出てこないということにもなってしまうのではないか。だけど、本当をいうとその底を探れば、大多数の人たちはある瞬間を取ってくればどうも異常だとしか思えないというところに踏み込んでいたかと思うと、ある時間を取ってきたらやっぱり正常だよというようなところにいるとかという、そういう境界線のあいまいな正常さと異常さのところを行き来するようになってきてしまっているみたいなことがかなりな程度一般的な風潮としてあるのではないか。というところにかろうじて結びつけると、面白くないなという文学もある程度意味あるもののように読むことができるのではないかなというふうにこじつけて書評をつくりたいわけです。つまり、書評家としては書評をつくりたいということになるわけです。
 そうすると、ある時間を取ると、振る舞い方、感じ方、考え方が異常だ。しかし、ある時間を取るともちろん正常な行動に戻っている。そういう境界線を行き来している精神的な障害というのは、お医者さんが境界性人格障害というふうに呼んでいるものに大変よく該当している。それは大変増えつつあるというのが現状だと思います。
 なぜこれが増えつつあるかということは、非常に根拠はわかりやすいわけです。それはなぜかというと、日本の働く人たちの職場です。つまり産業です。農業とか、漁業とか、林業とか、自然を相手にする職業に従事して働く人はだいたい9%ぐらいしか日本の働く人全体の中ではいないわけです。製造業とか、工業とか、そういうところで働いている人はだいたい30%から二十数%というくらいしかいないわけです。大部分の人たちは流通業とかサービス業とかです。本屋さんもそうです。学校の先生とか、娯楽、教育機関とかで働いている人が日本では半分以上です。七十何%という人はそういうところで働いているわけです。
 ところが、我々はひとりでに農業とか、漁業とか、それから都会周辺の工業地帯に働く都会の人たちとの間に、いろいろな問題が起きている。緑を守れとか、守らないとか、破壊したとかとかいうことが起こっているというように、我々はそう考えがちですけれども、それは違います。それは少数の者です。つまり、緑を守れとか、守らないで破壊しちゃったとか、そういうことでやっているのは、9%の人と二十何%の人です。
 しかし、大部分の人たち、日本人の50%以上の人、七十数%の人たちはそんなところで働いてもみません。第三次産業と言われていますけれども、流通業とか、サービス業とか、そういうところで働いています。ですから、もし公害病というのを現在考えなければならないとしたら第三次産業です。つまり大多数の人たちが働いている流通業とかサービス業と、都会の製造業、都会周辺の製造業とか加工業とか、そこの間で公害病というものが起こるのが正しい考え方です。現在の大多数の公害病というのがそこで起こるというのは当然のはずなのです。
 そこで起こるのが今の境界がわからない精神、あるいは人格障害というものがそこで起こってくる公害病であるわけです。潜在的には今でもそうですけれども、多数を占めつつありますし、多数を占めていくだろうということはまったく疑いのないところです。そこが現代の社会の公害病の主たる戦場といいましょうか、主たる場面というのはそういうところに移ってきているわけです。
 そうすると、そういうところで起こる障害というのは何か。たとえば製造業と農業の境界の問題だったら自然を大切にしようとか、垂れ流しをするなとかいうようなことで済んでいくわけです。製造業にしても、農業にしても、これだけ働いたからこれだけ米が取れたとか、これだけ働いたからコップが百個できたとか、百五十個作るにはもうちょっと働いたほうがいいなとか、働いて作った物というのが目に見えるものが多いわけです。
 そうしたら、どこで働きすぎたか。定時間で百しか作れないものを百五十作れといわれたらついやってしまった。そうしたら、時間外勤務というのがだんだんだんだん続いた。そこがそうなっているのがすぐにわかります。
 第三次産業というのは物を作っていくら増やしたというようなことというのはないわけです。ですから、どれだけ働き過ぎたか、過ぎないかというのも本当は測りがたいので、疲労感でもって主観的に測る以外ないみたいなことがあるわけです。コップが本当は百個しかできないのに、おれがこれだけ働いたから百五十個できたというのがちゃんと目に見えて結果が出てきたら、それなりに安堵感といいますか、安心感みたいなものがあるわけです。
 けれども、第三次産業みたいなサービス業とか、流通業みたいなのは、自分がこれだけ働いたからこういう成果が出たみたいなことが目に見えないものですからものすごくいらだつといいましょうか、まいっちゃうということがあるわけです。それが境界を行き来する人格障害ということが現在増えつつあるということの主なる理由だろうなというふうに僕には思います。
 多くの人はそこで働いていますから、そこでの商売というのが、現在でもそうですけれども、そこにやってくるというのが現在、あるいはこれ以後の社会の公害病のあり方です。それをどうするかという問題が非常に切実な問題としてやってくるということに今でもなりつつあります。これからもっとなっていくということになるだろうというのが僕なんかの理解の仕方です。
 つまり、そこまで結びつければ純文学の作家たちがおかしな登場人物しか描けなくなってしまっているということの理由はたいへん根拠があると言うことができます。それがあまりいい不健康さではない。いいというふうなのはおかしな言い方ですけれども、いい作品としての不健康さというのはつまり、本格的な意味の不健康さでもないよな、本格的な健康さでもないよ、という理由もまた大変わかりやすい、なるほどわかるなという。
 こういうことに本格的に迫ってこないと、やはり本格的な不健康さも描けない。しかし、潜在的な不健康さはちゃんと現在描かれていると理解すれば、書評もまた救いがあるといいますか、書評がかなりはっきりしたものを指差すことができる、書評にも救いがあるということが言えるのではないかと思えてくるわけです。
 そこら辺のところが境界性精神障害に大きな問題になっている。それが社会問題として現に潜在的に増えつつありますけれども、これから以降ますます顕在化していくというようなことになっていくだろうと思います。

14 正常と異常の尺度

 境界性の人格障害というよりも境界線をどこで越したか越さないかというあれがありますから、ちょっと読んでみましょうか。スケールといいますか、その尺度がありますから、どういう尺度かちょっと読んでみましょうか。これは日本人に適用するように直してあるのですけれども五十個、とりあえず。
・私は周囲の人や事物からいつも見放されている気がするということがあるかどうか。
・私は気が狂うのではないかと恐れているということがあるかどうか。
・私は自分を傷つけたくなるときがあるかどうか。
・私は他人との親しい個人関係を持つことを恐れているということがあるかどうか。
・ 最初に会ったときにはその人がとても立派に見えても、やがてがっかりするということが多いということがあるかどうか。
・他人が私に失望していると思うかどうか。
・私は人生に立ち向かう力がないと感じているかどうか。
・このところ、ずっと幸福だと思うことがないと思っているかどうか。
・私の内面は空虚だと思っているかどうか。
・自分の人生を自分でコントロールできないと思っているかどうか。
・たいてい私は孤独だと思っているかどうか。
・私は自分がなろうとした人間と違った人間になってしまったと思っているかどうか。
・私はなんでも新しいことが怖いと思っているかどうか。
・私は記憶力に問題があると思っているかどうか。
・何かを決心することが私には難しいと思っているかどうか。
・私の周りには何か壁があるように思うかどうか。
・いったい私は誰なのかと困ってしまうことがあるかどうか。
・将来に不安があるかどうか。
・時に私はバラバラになるように感じることがあるかどうか。
・私は人前で気が失うのではないかと心配していることがあるかどうか。
・私はできるだけ努力しても決してうまくはできないと思っているかどうか。
・私は自分が何かを演じているかのように自分を見ているかどうか。
・私がいないほうが、家族はむしろうまくやっていくだろうと思っているかどうか。
・私は至るところで失敗している人間だと思いはじめているかどうか。
・この先、何をしていいのか私にはわからないと思っているかどうか。
・人間関係の中に入ると私は自由でなくなってしまうように感じるかどうか。
・実際起こったことと、想像したことの区別がよくわからないかどうか。
・他人は私を物のように扱うと思っているかどうか。
・ 何か変な考えが頭に浮かぶと私はそれを取り除けることができないと思っているかどうか。
・人生に希望はないと思っているかどうか。
・私は自分自身を尊敬することができないと思っているかどうか。
・私はまるで霧の中に生きているようにはっきりしないと思っているかどうか。
・私が他人の責任を負うことは怖いことだと思っているかどうか。
・自分が他人に必要とされている人間とは感じないかどうか。
・私は真の友達を持っていないと思っているかどうか。
・私は自分の人生を生きることができないと思っているかどうか。
・買い物や映画を見にいくときのような人ごみの中にいると不安になるかどうか。
・ 私はもはや人に認められる立派な人間になろうとするには遅すぎると思っているかどうか。
・周りの人が勝手に自分の心を読んでいるのではないかと思うかどうか。
・私の周りで何かが起こりそうだと感じるかどうか。
・私には残酷な考え方があり、苦しむことがあるかどうか。
・私は自分が男性、あるいは女性であることに自信を持っていないかどうか。
・私は長く友人づきあいができないと思っているかどうか。
・私は自分を憎んでいるかどうか。
・私は広い場所や市街に出ることを恐れているかどうか。
・私は時に自分は生きているのだと自分に言い聞かせているかどうか。
・時に私は自分自身でないと思うことがあるかどうか。
 この五十個の問いで、三十一個思い当たる人は境界性の人格障害で危ないということになっています。二十個この中で思い当たることがあると分裂病の疑いが濃い。十八個この中に思い当たる部分があると、うつ病の疑いが濃い。十四個ぐらいあると神経症の疑いがある。四個ぐらい思い当たる範囲だったら正常だということであるというデータになっています。
 僕は自分でやってみたら二十二個になるから、境界性人格障害と分裂病の間ぐらいのところがあるなと思いました。(笑)境界性の人格障害ということが盛んに公害病みたいな問題になりつつあるということで、自分なりにおれはどうなんだとやってみたのですけれども、だいたい二十二思い当たるところがありました。だから相当…?…なっている。本当にいい人は平均して六・〇六個ということになっています。そのぐらいしか思い当たることがなければたいへん正常だということになるのだそうです。
 皆さんもたぶん六個ぐらいという人は少ないのではないかと僕は感じがしました。かなりの点で思い当たってしまうというふうにできているように思います。潜在的にはもっと前からなのでしょうけれども、数年来顕著になってきた精神的に境界をいつ越えていくか自分でもわからない。だけど、あるときは越えていて、端から見るとちょっとお前の判断はおかしいぞなんていうふうに言えるのだけれども、次の瞬間には治っているものだからそれでまあ何とかやりすごしているといいますか。
 けれども、本当は見たらおまえの考えちょっとおかしいぞという場面に一日のうちに何回か、何時間かというのは、そういう場面にいるというようなことになってしまっているというようなのが、これから顕著になりつつある境界性の人格障害ということの非常に大きな要因になっている。
 ここを考えていきますと、現代社会の病根というようなものが……。もちろん見かけ上の健康さというのと見かけ上の不健康さというのと、両方見かけ上ということで両方の型としてできています。文学作品というのはそういうかなり鋭敏に無意識のうちに写し取っているというようなことが言えると思います。

15 ほんとうの本の読まれ方

 もし、作品の批評ということをやって、この作品は怪しい健康さでつまんないよとか、これは怪しい不健康さだけが出ていて面白くない作品だということでやめてしまうのはいかにも残念だ、口惜しいというふうに思えたとしたならば、これが現在の社会の持っている病根というものをどの程度写し取っているのだろうかということ。間接的にしろ、無意識的にしろ病根を写し取っているのだろうかなということを考えに入れてそこまで書物の批評、文学作品の批評をそこまで引き延ばしていくならば、ある程度?その通りそれの批評をするとか感想を述べるということが、それなりに意味を持つようになるのではないかというふうに思います。
 そういうふうにしていきますと、見かけ上の健康さと見かけ上の不健康さというのは、そんなに長く続かないほうがいいように思います。つまり、単に見かけ上というふうに言えている間はいいですけれども、それが積もり積もって見かけ上の健康さと見かけ上の不健康さというのが当たり前だというか、これでもういいんだというふうになってしまったら、もう後は停滞感みたいなものしか我々にはやってこないです。
 そうではなくて、いつでも見かけ上の不健康さと見かけ上の健康さというのはもしメスを少し入れるとちゃんと見かけ上でない不健康さと見かけ上でない健康さというのは何なのかというのを誰でもがのぞき見ることができるのではないか。
 文学作品を介してでもいいのですけれども、それをのぞくことができる、そういうめくりやすいといいましょうか、裂けやすいいところといいましょうか、切れやすいところというのがいつでも存在したほうがいいのです。見かけ上の健康な作品と見かけ上の不健康な作品というのは、あまり長い年月が積み重なってこれが当たり前みたいにならないほうが文学のためにいいです。読むにしても、誰が見てもそんなふうになってしまったらどうしようもないよというか、動かしようもないよな、考えようもないよなということになってしまうと思いますので、そういうことにならないほうがいいと思います。
 ですから、本を読むということが必ずしも優れた作品にいつでもぶつかることであるとも限らないです。ぶつからないことが多いわけです。そのぶつからないことという中からでも何か絞り取ることができるというようなことが、もし本の読み方で差し当たって一番いい読み方なのだと言えるとすれば、見かけ上の健康さと見かけ上の不健康さの後ろのほうに真実らしさというのとか、真実の甘美さというものがいつでも見つけることができるみたいなことが、読むほうとしてもとても大切なことなのではないかと思えてなりません。
 本を読んで、感想を述べるとか、書評をするとかということ、そこら辺のところまで行けたら、差し当たって本の読み方としてはいい読み方というふうに言うことができるのではないかと思います。ですから、そういうところまでは皆さんのほうで読んでほしいし、そういうような作品にぶつかってほしいような気がいたします。そういう感じ方で、例えば新聞なんかに紹介したり、書評欄で紹介した作品を、書評が当たっている、当たっていないにかかわらず、そういうのを参考に、新聞の書評をやっている人とまた違う形で、自分なりの書評を絶えず自分なりにやってみるということができたら、本の読み方としてはとてもいい読み方です。そういう読み方がこれから増えていってくださればとてもいいのではないかと思います。
 見かけ上は書物というのがだんだん読まれなくなっている。ストレートさがないわけです。つまり、映像とか音楽みたいにストレートに感覚に訴えてこなくて、ひとたび言葉みたいな間接的なものを通るものですから、まどろっこしいものですから、本の読まれ方というのはだんだん存在的にいえば少なくなっているというふうになるわけです。でも、絶対値が少なくなっているわけではないのです。ですから、依然として去年よりもたぶん今年のほうが本はたくさん読まれていると思います。
 昔は音楽を聴くという人は少なくて本を読むという人が多かった。今は音楽を聴くという人のほうが多くて本が少なくなった。そういうことはあり得ますけれども、本を読む人の絶対量というのは決して減っているわけではない。だから、本の読まれ方の必要性といいましょうか。読まれ方というものにはいろいろな読まれ方があって、本当をいうとなかなかここが限度だという読み方というのは。結局は、書いた作者がそう読まれたいと願って書いた読まれ方に、だんだんだんだん近づいていくというのが本当の読まれ方なのです。誰でもそこまではなかなかやれないわけです。
 つまり、五回、十回ならまだいい作品を読むということはあり得るけれども、百回みたいなことになってくると、なかなかそこまでは読むあれはないよなというふうになってくるわけです。レーニンがトルストイの『アンナ・カレーニナ』を百回ぐらい…?…なのに読んだという逸話がありますけれども、そのくらい読まれたら大変いいなと思うのです。そういう読み方をされたら作者が持っているイメージがありましょうし、読むほうもきっとそこまで読んだらものすごい得るところがある読み方というものになってくるのだろうと思います。そこまでは暇がないよというのは、世間一般の考え方でしょう。
 でも、書物というのは必要性がなくなっていくわけではなくて、読む人の絶対量、出る本の絶対数というのは年々増えているということは確実に言えるわけですから、そこの中で本の読み方というものを工夫していくということの必要性というのは止めることもないというふうに思われます。だから、いい読み方をしてくださるようになれたら、もっと、書評を一冊の本にしたみたいな人間としては大変もってうれしいというふうに考えているわけです。
 一応これで終わらせていただきます。(拍手)

質疑応答

(質問者)
<音声聞き取れず>

(吉本さん)
 最後のところから申し上げて、ぼくは文学というのに、ひとつその前にお答えしないといけないのですけど、そういうことは完璧にといいますか、あるいは十分な条件で言うとすれば、言っておかないといけないんですけど。ようするに、文学の主題性ということは、ほんとうは文学のすべてでもなんでもない。健康さ、不健康さというのも、ぼくが今日お話したのはわかりやすいためにわりあいに主題性に則して言った帰来がありますけど。文学の芸術性にとって主題がどういう主題をとったかということは、あんまり意味がないというふうなのはいい考え方だとぼくは思っています。
 つまり、もっと言いますと、主題が積極的であるとか消極的であるとか、あるいは主題として何を選んだか、不健康であるのか健康であるのかということは、べつにさして文学にとって問題にならないので、文学に立場というものがあるとすれば、あらゆる限界の不健康さ、限界の悪というものをなお許容することができるという、世間的なといいますか、社会的な常識に反して、あらゆる不健康さ、あらゆる悪というものを文学はなおかつ包括することができるということが唯一、文学が持っている立場だというふうに僕はそう思っています。
 それから、歴史性というなかに階級制があったり、あなたのおっしゃった司馬遼太郎のことを言うんですけど、司馬遼太郎という人の歴史小説というのはかなりな程度、いい歴史小説だというふうに思いますけれど。ほんとうは嘘つけという、ぜんぶ嘘つけなんですよ。嘘つけというのは、司馬遼太郎独特のフィクションの作り方でもって真実らしさというふうに見せているというふうに思います。
 それは何と比べればいいかというと、たとえば、司馬遼太郎の歴史小説というのを森鷗外の史伝小説というのと比べてみればよくわかると思います。そうすると、司馬遼太郎の歴史小説というのは遥かに通俗的です。つまり、通俗的という意味あいはパターン的です。パターン的にないように非常にうまくあたう限りやっていますけど、しかし、よく読めばやっぱりパターン的です。
 これはたとえば、トルストイの『戦争と平和』というのは、一種の歴史小説なんですけど。これに比べればまた非常によくわかるので、まるでそれを比べたら比べものにならないくらい通俗的に思うんです。だから、ぼくは通俗性、通俗性じゃないという言い方で歴史小説を片づけますけど、そこでいう通俗性であるか通俗性でないかということは、ぼくは歴史小説のかなりな程度、本質的な部分に属するだろうと、それをたとえば、伝統文化みたいな人に言わせると、またそこに階級、あるいは階級意識みたいなことが入ってくるわけなんですけど。
 ぼくも若い時はルカーチみたいなのに影響を受けましたけど、ああいうのをいかにして克服するかというようなことが課題で、ぼくは「社会主義リアリズムの批判」というのを書いて、その後にこういう批判だけじゃきめえということで、じゃあ、ぼく、自分の文学理論をというふうにあれして、『言語にとって美とはなにか』というのを書いたわけですけど。ぼくはこれでもって完全にルカーチ流の考え方というのは、完全に克服したというふうに、ぼくは思っていますけど。
 これはルカーチの書いたものに比べて、ぼくの書いたものがいいと言っているんじゃないです。書き物としていいと言っているんじゃないです。そういう意味でルカーチというのは大変な人だと思うけど、そういう意味じゃなくて、どっちが真に近いかというふうにいえば、ぼくのほうが真に近いと思います。つまり、完全に超えたよというふうに思っています。それはたいへん僕なりに苦心したんですけど、その種の論議というのは、ぼくの言語にとってというのが超えたなというふうに、ぼくは思っています。あれはそういう意味ではちょっと世界的な本なんです。ぼくは海外のことを知らないんですけど、たいていそうだと思います。
 それは、ぼくはあなたのようには思っていなくて、また司馬遼太郎の歴史小説なんかをかなりいいんだけど、かなりインチキだよなというものとして僕は読みますけど、おれも好きだからかなり読んでいますけど。本格的にいったらそんなことないよという、いい歴史小説というのはたくさんあるよというふうにどうしてもなっちゃうと思うんですね。
 それから、向田さんの作品というのもいいんです。言ってみれば読み物といいますか、つまり、エンターテイメントみたいなものの成り立ちから言ってみるととてもいい作品で、質の高い作品でとなるわけなんですけど。やっぱりそういうエンターテイメントの特徴はやっぱりひとつはパターン認識で物語が展開されるという、そういうことがひとつとても大きな特徴として前面に出てきちゃう、そうすると向田さんの作品はパターン認識というのを完全に払底しきれているかというとそうじゃなくて、やっぱり類型的なパターンというのは、どうしても最後に残るということがひとつあるということです。
 それから、もうひとつは、エンターテイメントの特徴というのは、主題主義だということです。どういう主題を描いているかということはかなりな程度大きなウェイトを占めるのがやっぱりエンターテイメントの特徴だと思います。しかし、文学というものの中には、エンターテイメントもありますし、非エンターテイメントもあるし、詩歌にもあるというふうな意味あいで、全体的に文学というのを考える場合には、主題がどうであるかということは、決して作品の大きな要因にはならないということをいうほうが正しいように思います。
 そういう意味でいったら、向田さんの作品の持つ不健康さと健康さというのの理解の仕方というのも、類型性ということと主題の積極性といいましょうか、その2つの要因というのを完全に払底するというところまではやっぱりいっていないんじゃないかなというふうに僕は思っています。それはぼくの評価ですけどね。
 ですから、慨していえば、あなたのおっしゃったことで俺は、しまったと思ったのは、主題というのは必ずしも文学にとって大きなあれじゃありませんよということは、文学の理解として大きなあれじゃありませんよということをやっぱり言うべきだったかな。やや主題的な読み方の批評の仕方をしちゃったかなというふうなことを考えて、ちょっとしまったなと思ったんです。
 それから、文学の立場というのもそうなんですけど、これこれの立場とか、階級的立場とかいうものは、ぼくは一切ないと思っています。一切それはダメだというふうに思います。
 だから、文学・芸術というものが立場を持っているとすれば、どんな悪でも、どんな退廃でも、それが文学あるいは芸術である限り、それはちゃんと受け入れられるものなんだ。それは世間的社会的常識が、その時代時代の常識が何を指そうと、また時の支配者が何を良しとして何を悪いとするか、それは関係のないことであって、文学ということ自体の立場は、悪も善もぜんぶ包括している。退廃もぜんぶ包括している。それが作品の良し悪しを左右するものでは決してない。そういう何ものにもまして包容力のある場所というのが、もし人間に可能であるとすれば、それは文学・芸術しかないよというふうに、ぼくは思っていますから、ほんとうは宗教みたいなものもそうあってほしいわけですけど、宗教はそうじゃないですから、慨していえばないですから、本質に近いところまでいくものほど、なんか包容力があったほうがいいというふうに僕は思っていますけど。なかなかそうはいかないんです。犯罪を犯したことある人は、運営教会に入れないとか言ってみたり、また、入れないのはおかしいと脱退してみたり、よくあるじゃないですか、つまり、その程度なんです。それはどちらもダメだと思います。入ろうなんてやつも馬鹿でダメだけど、そんなんじゃなくて、初めからぜんぶ包括して考えるのがいいと思います。
 ぼくが『言語にとって美とはなにか』という文学論で潜在的に言い切ったところはそういうところで、それはなかなか言い切った人はいないので、たぶんいいものだというふうに僕は思っていますけど。文学の立場といったらそれじゃあないのかって、つまり、どんな立場でも言えちゃう立場といいましょうか、それが文学じゃないかと僕は思っていますけど。



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