(笠原さん)
定刻になりましたので、いまから、講演会をはじめさせていただきます。今日の講演会の主催をしております「森集会」という会につきましては、お手元にチラシのようなものを差し上げておりますので、それで、ご承知おきいただきたいと思います。それ以上、説明はいたさないこととします。
また、「思想の森」という、吉本さんの、かつてのお話も出ておる冊子も後ろで売っておりますけど、同様です。それから、今日のご講演に関係があると思われる、春秋社から出た、『シモーヌ・ヴェイユ その劇的生涯』という本が、春秋社から出ております。それも、うしろにおいておりますので、あとででも、お買い求めいただければ幸いでございます。
それから、滋賀県のほうで、4月に吉本さんの講演会があるそうで、その案内を簡単にしたいということでございます、どうぞ。
(講演会の案内)
失礼します。ただいま、入り口で配らせていただきました、このビラのように、吉本隆明氏の講演会を、4月の11日、午後1時から、瀬田で行います。この講演会が終わりましてから、入り口で、入場券を発売しますので、ご希望の方は、どうぞご購入くださいますようにご案内申し上げます。
(笠原さん)
現在、ほとんど、満席でございますが、前に2つほど席がありますので、どうぞ、前へいらしてください。それから、これから後、来られる方は、失礼ですが、立っていただかなければ仕方がない。しかし、この上に、スペースがございますので、そこに新聞紙、古新聞紙を用意してありますので、よければ、こういうところへ座っていただいても、差支えないかと思います。そういうふうにでもしないと、収容しきれないかと思いますので、これは、みなさんがたに申し上げているのではなくて、その後に来られる方に申し上げているんですけど、そういうことですので、新聞紙は前のほうにございますので、後ろの係りの人は、ちょっとそのことを心得て、前へ行って座るようにとおっしゃってください。事務的な連絡は以上でございます。
それでは、ただいまから、講演会をはじめますが、吉本隆明氏に関しましては、もう、ここで申し上げるまでもなく、現代日本、最大の思想家であるというふうに思っております。「シモーヌ・ヴェイユの現在」というお話をしていただくわけですけど、シモーヌ・ヴェイユが、最近また、いろいろ問題になっております。
それは、ひとつは、ソ連の崩壊ということにみられる、社会主義国家のああいった状態を、ある意味で予見した人であるということが言えるのではないかと、それから、もうひとつは、カトリック教会に、信仰的にも無限に近づきながら、洗礼を受けて、教会に属することをしなかったという、いわば、社会主義国家も同様でありますけど、そういう党派性といいますか、教会という党派性、そういったものにも所属しなかったというような点が、今日の新しい思想として、評価されているんじゃないかというふうに思います。
それでは、ただいまから、吉本隆明さんに、「シモーヌ・ヴェイユの現在」というお話をしていただきます。このあと、1時間半くらいお話があると思います、そのあと、すこし、わたくしと吉本さんの間で、やりとりをいたしまして、そのあと、みなさんのお手元に、ペーパーを差し上げております、片っ方のほうに、質問事項が書くようになっておりますので、質問のある方は、たくさんですので、いちいち手を挙げていただくと大変ですから、それに書いて、係の者がおりますので、前へ提出いただいて、失礼ですが、わたくしが選ばせていただいて、吉本さんにその質問をするというかたちで、やりたいと思います。5時、15分前までに後片付けも終わらなければならない。5時、15分前に、かならず終わるようにいたしますので、よろしくお願いいたします。それでは、ただいまから、ご講演を伺います。
吉本です。ヴェイユについては、ぼく、本を一冊出しておりますので、自分なりのイメージがあるのですが、みなさんにお話する場合、どういうところを重点にしたらいいかっていう問題になるわけですけど、今日の演題は、「シモーヌ・ヴェイユの現在」っていうことで、現在、どういう意味があるのかっていうことを含めて考えますと、結局、重点は2つになります。
ひとつは、初期から中期にかけてですけど、革命思想としてのヴェイユっていうのがひとつ、とても大きな、現代に関連する問題を提起するものだと思います。
それから、もうひとつは、晩年そうなんですけども、神学思想といいますか、キリスト教神学の思想としてのヴェイユっていうのが、非常に特異な概念を自分でつくって、自分で、ヴェイユ神学とでも云うべきものを、自分でつくりあげている人ですから、そこが、とても大きく問題になると思います。それは、神学思想そのものとしては、ぼくは、格別のあれがないんですけど、関心も、言う資格もないのですけど、ヴェイユの神学思想の中には、単にキリスト教神学っていうような、あるいは、キリスト教の神信仰とかっていうことを超えて、すべての宗教的なもの、思想的なもの、あるいは、理念的なものに共通した、ある問題を提起しているところがあります。そこは、とてもぼくらに関心の深いところで、その2つの点が、結局、要約点ってことになると思います。
そこの重点をお話する前に、シモーヌ・ヴェイユの生涯っていいますか、孤児院の歴史といいましょうか、そういう点で、注意すべきことっていうのが、ぼくなりに、いくつかあると思います。それをちょっと申し上げてみます。
ひとつは、生まれつきなわけです。生まれつきっていうことは、どういう家庭に生まれてっていうことも重要かもしれませんけど、そういうことじゃなくて、なんか赤ん坊のときの育ち方みたいなものがあるわけです。そういうことは、とても問題なんじゃないかっていうのが、ぼくの考え方ですから、それをちょっと申し上げてみますと、だいたい6か月くらいのときに、生後6か月くらいのときに、授乳障害に陥ります。それは、母親が、ようするに、虫垂炎みたいなものの発作を起こして、授乳することができないっていう、で、授乳障害に陥ってしまいます。
それから、伝記的なあれによりますと、11か月頃に、おばあさんの手で離乳しようとするんですが、それがなかなかうまくいかないで、衰弱していくみたいなことがあります。こういうこと、授乳期っていうか、乳児期、まあ胎児期を含めてですけど、これにおける授乳障害っていうのは、ぼくは非常に、ヴェイユの個性的な思想にとっては、重要なものだと思います。
つまり、晩年にヴェイユは、ほとんど、病気になって、拒食症的に、つまり、食べ物をあんまり取ることを、拒否するようなかたちで死ぬわけですけど、その拒食症的なっていうのは、ヴェイユの至るところにあるっていうことと、それから、フロイト的言い方をすると、リビドーの障害っていいましょうか、そういうことも、至るところに、アッていうくらいよく考えられるところがあります。だから、それはたぶん、授乳期、あるは、もっと前の胎児期っていうことと、関係が深いんじゃないかっていうことがあります。
それから、もうひとつ、ヴェイユは生涯、強烈な頭痛に悩まされます。この頭痛っていうのも、ヴェイユの思想にたいへん関係が深かったわけです。ヴェイユの頭痛は、いまでいうと、鼻腔炎っていうんですか、頭炎っていうんですか、つまり、鼻腔に、ようするに、いろんな雑菌とか、結核菌とか、そういうものが入っていて、一種の鼻炎なんですけど、それに基づく頭痛だっていうふうに、現在では言われています。ですから、現在では、わりあいに治せる病気なんですけど、その当時のあれで、そうはいかないってことで、生涯、強烈な頭痛に悩まされるってことがあります。
その頭痛の、うんと悩まされたことと、それから、キリスト教信仰っていうのが、ちょうど一緒になったところで、なんか一種の身体離脱みたいな、そういう体験をするってこと、そこで、キリストの姿が現れて、自分に手を触れたっていうような、そういう見神体験っていうんですか、そういうのがあって、それで強烈な、それは、信仰へのいざないっていうことになっているので、それもたぶん、たいへん、2歳頃にアデノイドにかかってっていうようなことがあるんですけど、それは、たいへんそこで、関係深いことだってふうに思います。
ですから、伝記作者っていうのは、そこのところを、あんまり突っつかないで、ペトルマンっていう人の伝記だけが、それに触れているんですけど、ほんとうは、ぼくだったら、そこを一生懸命しらべて、そこを、うんとよく触れたほうが、つまり、母親との関係ってことになりますけど、触れて解明したほうがいいように思います。ですから、それは、ぼくなりの考え方から、たいへん重要なことだっていうふうに思います。
だいたい、授乳に失敗してっていいましょうか、みますと、16か月頃まで、哺乳瓶に大きな穴を空けて、それでもって、食べ物を流し込むっていうようなことをして、つまり、哺乳瓶を使わなきゃ食べないっていう、食べたり、飲み込んだりしないっていう障害にかかるわけです。そのために、衰弱してしまうっていうことがあるわけです。哺乳瓶じゃなきゃ受け付けないっていうこと自体が、なにかを物語っていると、ぼくは思います。つまり、そういうことは、とても重要なことのように思います。
それから、3歳ちょっと経った頃、ようするに、母親と、体質的に遺伝しているわけでしょうけど、虫垂炎の手術をして、手術した後、回復不可能であるって医者に宣告されるくらい衰弱してしまうっていうようなことが、伝えられています。ここいらへんのところは、ほんとうはもっとたくさん、これから、詳細に追及したほうがいいんじゃないかっていう問題だと思います。
あとは、学生時代にはすでに、組合の失業者救済運動に関連して、ビラを配ったりとかいうことをやったりしているわけです。学校を卒業しまして、ル・ピュイっていう女子高等中学、高等中学っていうのは、日本でいうとどういうところに該当するのか、ぼくは、ほんとはよく知らないんですけど、そこの哲学の先生になるわけです。
その哲学の先生になった頃には、むこうの労働総同盟っていうと、アナキズム系っていいましょうか、スターリン系じゃない系統ですけども、アナキズム系のそういう雑誌、政治論文とか、政治情勢論文みたいなものを書き始めて、フランスには、ヴェイユっていうのがいるんだっていうのが、よく知られているくらいになって、そういう政治論文を発表したり、組合運動を支援したりというようなことを、もう教師時代にはやっています。
あんまり、そういうことばっかりしているので、わりに杞憂されて、違う女子高等中学に転勤させられるわけです。その転勤させられるまでの間に、ヴェイユは、ドイツに遊んでいます。遊んでいますっていうのは、その頃ちょうど、ヒトラーがナチスと、つまり、国家社会主義党っていうのを率いて、それで、ヒトラーが台頭してくるとき、それを見たかったっていいましょうか、それがどういうことなんだっていうことを知りたかったってことでしょうけど、その転勤の間の一旦を利用して、ドイツに出かけて、つぶさにドイツの状態を見ています。
そこで、ヴェイユが見たことのいちばん重要なことは、ようするに、ドイツ共産党委員が、どんどんナチスに転向していくわけです。つまり、ナチスに入っていって、ナチスに変わっていくわけです。そのことを、とてもよく見ているってことと、それから、ドイツ共産党に対して、ソ連共産党が応援しないで、かえって強くなると困るんだって、それよりむしろ、ドイツとフランスが組んで、ソ連に、ロシアに当たるっていう方がおっかないから、そういうことを心配して、あんまり、ドイツ共産党の応援をしないんだっていうことを、とてもよく見ています。それで、ヴェイユが見たことの重要な点は、ドイツで見たのは、その2つだと思います。
それから、もうひとつ、中学教師時代に、もうひとつ、重要なことがあります。それは、何かっていいますと、ちょうど、トロツキーがスターリン体制から排斥されて、それで、放り出されちゃうっていう、そうして、トロツキーが、第4インターナショナルっていうのを別につくろうっていうふうにするわけですけど、その第4インターナショナルをつくろうとする準備の過程で、フランスにやってきたとき、ヴェイユは、自分の家を宿舎に提供したことがあります。そのとき、ヴェイユとトロツキーが、非常に論争しています。それは、とても重要なことのように思います。それは、やっぱりペトルマンっていう伝記作家だけが、それを記載していますけど、そのときのこと、論争の状態を、ヴェイユがメモしてとってあったわけです。それで、それを基にして、ペトルマンって人は、それを描写しています。
それは、どういう論争かっていうと、ヴェイユはそのとき、ようするに、トロツキーに対して、ロシア、ソ連は労働者国家だっていうけど、ちっとも労働者国家じゃないじゃないかって、いわば共産党官僚独裁国家であって、労働者なんかちっとも解放されていないじゃないか、なにも労働者国家じゃないじゃないかっていうふうに、ヴェイユは、トロツキーに言うわけです。
それに対して、トロツキーは、そんな馬鹿な、そんなことを言うのは反動だっていうわけです。つまり、労働者は、自分が容認できる限りにおいて、政府っていうのを承認しているのであると、ソ連邦の共産党国家っていうのを労働者が承認している限りは、それは労働者の国家だって言ってもいいんだっていうのが、トロツキーの観点です。
しかし、ヴェイユは、それは、そんな馬鹿なことはないって、ようするに、あれは、ただの官僚独裁にしか過ぎないので、労働者の国家ではちっともない、もし、トロツキーが言うようなことが通用するなら、どこの資本主義国家だって、ちゃんと労働者は、政府を黙認しているじゃないか。だから、おんなじじゃないか、黙認しているから労働者国家だなんてちっとも云えないので、労働者を開放していない限りは、労働者国家とはいえない、あるいは、労働者がイニシアティブをとる国家でない限り、労働者国家といえないし、労働者が解放されているといえないじゃないかっていうのが、ヴェイユの観点で、トロツキーは、そんな馬鹿なことはないんだ。そんな馬鹿なことはなくて、労働者が、現行の政府を承認しているんならば、それはやっぱり、労働者国家といえるんだっていうのが、トロツキーの考え方です。
それは、ヴェイユの考え方のほうが妥当なわけで、ヴェイユがすぐに皮肉を言っているわけです。そんなことを言うなら、資本主義国家だって、みんな労働者は、政府を承認しているじゃないか、そうして承認しているじゃないか、どこの国だってそうじゃないかって、こういうふうにいうわけです。
まったくそのとおりで、どこの国だって、労働者はそれを承認しているわけで、承認しているから肯定しているってことを意味していないので、批判があったって、それを大きな声で出すか、出さないかってことは、自ずから別なことですから、ただ承認しているから労働者国家だとはいえないってことは確かなことで、ヴェイユは、こんな茶番だっていう、あんなソ連邦なんて茶番だっていうふうに言うわけで、トロツキーはそれに対して、そんな馬鹿なことはないと、おまえは反動でしょうがないっていうふうにして、論争は物別れになるんですけど、その論争は、とても重要なことなわけです。重要なことに思います。
ヴェイユはどういうふうに、その問題を引っ張っていったかっていうと、ようするに、どんな政府、どんな支配体制とか、政府とかっていうのをつくったとしても、ようするに、頭になる者、あるいは、頭脳を働かせて指導する者と、それから、実際に、肉体を行使して、肉体労働する人との違いっていいますか、区別っていうのは、それは解消しないんじゃないか、つまり、永久に解消しないんじゃないかっていうのが、ヴェイユが、トロツキーの論争のときもそうですけど、ヴェイユの考え方が、どんどんどんどん集約していったのが、その点なんです。
つまり、どんな社会がきても、頭を行使して、それで、指導する者と、指図する者と、それから、実際に、肉体を行使して、つまり、肉体を使って、働く人との、区別っていうのは、永久になくならないんじゃないか、どんな政府をつくってもおんなじじゃないかっていうふうに、ヴェイユは考えていくわけです。
それで、ヴェイユの社会思想、あるいは、ロシア社会主義に体現された思想に対するヴェイユの不信感と、それから、ヴェイユがなにか違うものをつくろうっていうふうに考えた根底は、そこにあると思います。つまり、頭脳労働と肉体労働との区別が解消しない限りは、どんな政府をつくったって、平等、あるいは、労働者の解放っていうことは、実現しないんじゃないかっていうのが、ヴェイユの究極的な集約点になります。社会思想、あるいは、革命思想の集約点になります。
さて、このへんで、ぼくの意見を申し上げますけど、ぼくは、こう思います。つまり、ぼくだったら、どこに集約点っていいますか、社会主義思想っていいますか、ロシア・マルクス主義思想の問題点をどこにもっていくかっていったら、やっぱり、ぼくだったら、国家を開くか、開かないかってところにもっていくと思います。つまり、国家が開かれていれば、ヴェイユがいう疑問点は、ある程度、解消していくっていうふうに、ぼくは考えています。
つまり、トロツキーの考え方は、もちろん、だめなわけですけど、もちろん、スターリンは、なおさらだめなわけですけど、もし。国家を、内では、国家内では、大衆に対して、民衆に対して、国家を開くことができる。それから、外に対しては、国境を開くことができる。そうだとしたら、仮に国家というのが、ある期間、存続していても、労働者の解放への糸口っていうのは、たえず持ち続けられるってことを、ぼくは意味すると思います。
その開くっていうことは、具体的にどういうことかっていいますと、これは、口でいうのは、非常に簡単なことです。どうするかっていうと、国内的にいえば、国家、つまり、政府をつくっているものは、政府をつくっているものに対するリコール権っていいましょうか、リコール権っていうのを、無記名の直接投票で、民衆が持っているってことです。
法律でもって、民衆の、一般国民の無記名、直接投票です。つまり、代議員を通してじゃなくて、それだけは直接投票なんです。直接投票でもって、過半数が現行の政府を否認したら、政府は変わらなくちゃいけないっていう、その法律を一項目もっていれば、たぶん、国家の民衆に対して、あるいは、国民に対して、開くことができると思います。
つまり、それが開かれていれば、いつでも無記名投票で、直接投票で過半数を占めることで、政府を変えることができます。民衆が直接変えることができます。それをもっていれば、労働者が、仮に政府の中に介入していかなくても、参与していかなくても、やっぱり、労働者国家っていうふうに、まあまあ言っていいんじゃないかっていうふうに思います。
ですから、ぼくだったらやっぱり、どこを文句言うかっていったら、ようするに、民衆に政府をリコールする権利っていうのを直接に持っている、それも、名前を出してじゃなくて、無記名投票で、直接投票して、政府をいつでもリコールできるっていう法律を一丁持ってるってこと、つくってあるっていうこと、そのことで、たぶん国家を開くことができると、労働者が直接政府で、政策に関与しなくても、やっぱり、労働者の国家といってもいいんだよっていうふうに、あるいは、民衆の国家っていうふうに言ってもいいんだよってことが、言えるんじゃないかっていうふうに、ぼくは思います。そこがひとつ問題です。
また、国家対国家、国家間国家っていいますか、国家と国家の、国際国家の間においては、国家っていうものを閉じないってことです。いつでも開いていて、いつでも国家が存続していてもいいから、たえず、ほかの国家といつでも交流できるみたいに、たとえば、具体的に、北方領土問題みたいなのが起こっているとするでしょ、そしたら、これは、おれのところに返せとか、おまえのところに返さねえとか言ってるのが、いまのロシアと日本の、具体的にいいますと、そういう現状になっているわけでしょ。そうじゃないので、国家を開くっていう観点がそこにあるならば、それじゃあ、北方領土、歯舞、色丹か知りませんけど、そこだけは、両方の人が、いつでも自由に出入りしたり、住んだりできるようにしようじゃないか、つまり、そこだけは、国境をなしにしようじゃないか、そこでのいろんな行政的なことは、日本とソ連と、ロシアと、両方から委員を出して、それでもって、そこの4島の行政的なことは決めようじゃないかと、そしたら住民はいつでも、行くこともできるし、帰ることもできるっていうふうなことにしとこうじゃないかっていう解決の仕方を、ぼくだったらすると思います。
その手のことは、国家を開くっていう意味です。国際間で開くっていうことです。それから、国内間で開くっていうことは、ようするに、政府が、いつでも民衆が否認するっていうふうな意思を示したら、やめなきゃいけない、これは、だれがどうだからってことじゃなくて、やめなきゃいけないっていう法がひとつ制定されていれば、たぶん、国家が民衆に対して開かれているってことになると思います。
それは、なかなか口でいうのは、やさしいことですから、いつかそうなるでしょう、しなきゃいけないわけでしょうし、なるでしょうと思いますけど、なかなか政府が、保守党政府がそれを云いだすこともなければ、社共がそれを云いだすことも、まず、いまのところないわけです。
ようするに、いってみれば、国家社会主義と、ぼくはそういう言葉を使うので、社会国家主義っていうのが、ようするに、ファシズムと、それから、マルクス主義でも、ロシア・マルクス主義でもいいですけど、それの違いであって、ようするに、いずれも、国家管理っていうことが、いつでも付いてまわって、国家がちっとも開かれていないっていうことが問題なんだと思います。
ぼくは、そういう考え方を持ちますけど、ヴェイユは、そういうふうに考えなかった。ようするに、頭脳労働する人と、それから、肉体労働する人の区別がある限りは、どんな社会がきたって、どんな理想の政体をつくったって、だめなんじゃないか、やっぱり、差別区別っていうのはあるんじゃないかっていうのが、ヴェイユがたどり着いた考え方なわけです。
それで、ヴェイユは、その考え方を基にして、高等中学の先生のときに、文部省に申請を出しまして、自分は、現代の重工業と、その基礎になっている現代技術っていうものと、それから、現代文明社会の文化とか、そういうものとの関連性について、考える為に、研究する為に、ようするに、工場に働きたいから、それを許可してほしいっていうのを、文部省に申請します。そういうテーマを申請しまして、それで、工場に入っていくわけです。
工場に入って、3つばかり、工場を転々とするわけですけど、それは、いっかいの一人の女子の工員さんとして、入っていくわけです。そういうふうに入っていきまして、ヴェイユは、ようするに、自分では、前々からそうしたいと思っていたんだっていうふうに言っていますけど、ぼくは、なんかいろいろそういう政治思想っていいますか、社会主義思想っていいますか、それに絶望した挙げ句に、自分で、ほんとうに工場に入って、どういうことになっているのかっていうこと、あるいは、工員さんっていう人、肉体労働する人が、どういうことになっているのかっていうことを、自分で確かめたいっていうモチーフがあったんだろうなと思うんですけど、ヴェイユは、そう言ってません。つまり、ずっと前から、自分はそう思っていたっていうふうに言っています。それを実現して、工場を体験するわけです。
先ほど言いましたように、生まれつき体が虚弱だし、頭でっかちで、頭ばっかり磨いてきて、体のほうは磨いてこないですから、たちまち、工員さんと同じように働いて、へばったり、邪魔にされたり、さんざん苦労して、頭がなおさら痛くなったりとか、苦労するわけです。苦労して、そういうふうに体験をするわけです。
そこで、ぼくが思うに、ヴェイユの工場体験っていうのは、いってみれば、ソルボンヌ出の秀才が、そんなことをする必要がないので、しても無駄なことなので、やらなくてもいいのになっていうことなんですけど、それをやっちゃう人ですから、ヴェイユが工場体験で得たことのなかで、何が重要かっていうと、ひとつは、そこであらためて、工場の中でも、技術的に、あるいは、職制的に、労働者に対して、頭でもって指導する人と、それから、肉体労働で、ちょっとの休みもなく、製品をつくるのに追われている人とは、やっぱり、画然と、そこでも分かれていること、そういうことは、あらためて、やっぱり確認するわけです。これじゃあ、どうしようもないじゃないかっていうふうに考えて、ヴェイユは、いくわけです。
で、もうひとつ、ヴェイユの工場体験のなかで、これは人によっては、つまらんことだと言うかもしれませんけど、ぼくは重要だと思うのは、ヴェイユが手紙をそう書いていますけど、ようするに、人間っていうのは、ギュウギュウに使われっぱなしで、ギュウギュウに絞り詰められて、ギュウギュウに使われちゃうと、反抗心を持つものだっていうふうに、かならず持つものだっていうふうに思ってきたけど、そうじゃないんだなってことが、はじめてわかったっていうふうに言ってるわけです。
つまり、自分の中に、考えもしなかったけど、自分の中に、一種の奴隷の従順さっていうものが、自分の中に芽生えてくるのがわかったっていうことを言ってるわけです。つまり、それは非常に重要な体験だっていうふうに、ぼくには思います。ヴェイユはますます、これもまた、違う意味で書いていますけど、レーニンとか、トロツキーとかっていうのは、偉そうにしているけど、あの人たちは、工場の中に入ってみたことも、自分で働いたこともないやつなんだって、ああいうやつがなんか言ったって、それは馬鹿話だ、労働者の解放とか言ったって、そんなのは馬鹿話に過ぎないってことを、ヴェイユは、手紙で書いたりしています。
ようするに、人間の精神っていいますか、心のメカニズムの複雑さっていいましょうか、ギュウギュウに押し詰められたら、かならず反発するっていうふうに思うと、そんなことはないので、反発するぞ、反発するぞと思っているやつは、ギュウギュウに押し詰められた体験がないやつが、そう考えるだけで、実際にやってる人たちをみると、なんか、ギュウギュウに押し詰められても、それは反抗心とかってことよりも、なんか、わりあいに素直に、それをこなしてやってるっていう、それで、自分にも、なぜこの人たちは、おとなしくしているんだろうとか、なぜ反抗しないんだろうかっていうことの理由がすこしわかったっていうようなことを言っていますけど、それは、とても重要な体験だったっていうふうに思います。
つまり、どこにいっても、頭を働かせるやつと、それから、肉体を働かせるやつの区別っていうのは、どうしてもあるんだって、あると思えること、それは、大は官僚制度から、小はこういう一工場の工員さんと、それを指図する人たちの間にも、それがある。そういうことは解消しないんじゃないかっていうふうに、ますます、ヴェイユは、そういう考え方を固めていくわけです。
ここらへんで、ぼくは、ちょっと違う考え方をもちます。つまり、ヴェイユのような考え方をもたないで、ぼくはやっぱりそこでも、もし、それもなかなか、言うはやさしくて、ほんとはむずかしいんですけども、つまり、肉体労働している工員さんはいつでも、自分は肉体労働じゃなくて、事務労働したいっていうふうに考えたとしたら、その人は、いつでも事務労働してもいいっていうふうにし、また、事務労働したり、いろんな企画を立てたりっていうような人で、おれは、こんなことばっかりしていると嫌になっちゃうよっていう、肉体を動かして働きたくなったっていうような人がいたら、それはもう、自由に働いてもいいっていう、そういうシステムが、もしつくれれば、たぶん、ある程度は、ヴェイユの云う考え方っていうのは、解消するんじゃないかっていうふうに、ぼくは考えます。
つまり、ここでもやっぱり、開くっていうことなわけですけど、頭脳労働は、肉体労働のほうに、いつでもどっか開いてある。それから、肉体労働は、どっかに頭脳労働のほうに、行く道を開いてあるっていう、そういうシステムがもし、一工場でもいいわけですし、工場の中で、そういうやりかたが決まっていて、ちゃんと開かれていたらば、ある程度、肉体労働と、頭脳労働との区別っていいましょうか、固定的な区別、差別っていうのは、解消するんじゃないかっていうふうに思います。
これも、口で言うはやさしいんだけど、なかなかそういうことがわかってくれる経営者っていうのもいませんし、また、そういうシステムをつくるためには、なんか、ようするに、非常に気心を知れている、働いている人たち同士で気心を知れているっていう雰囲気が、だいたいつくれなきゃ、そんなことはできないですから、ほんとうは言うはやさしくて、ほんとうはむずかしいことなんですけど、しかし、原則原理としていえば、そういうことが可能だったら、つまり、肉体労働と頭脳労働との間の固定的な差別、区別っていうようなものを、あるいは、支配、被支配っていうようなふうに見えるそれは、解消できるんじゃないかっていうふうに、ぼくだったら、そういうふうに考えます。
つまり、そこいらへんのところは、ヴェイユは絶望的になるんですけど、一方では、盛んに、工場の労働者相手に、パンフレットをあれして、ギリシャ古典劇をやさしく翻訳したりだとかっていうようなことで、そういうパンフみたいなのを配ったりして、それで盛んにそういう一種の精神性っていいましょうか、そういうものに対する一種の啓蒙っていいましょうか、そういうことも、ちゃんとやってることはやってるんです。
ですから、そういうことは、感じとしては、よくわかってた人だっていうふうに、わかったんだっていうふうに思いますけど、すくなくとも、原則的に云うと、ヴェイユの革命思想の収れんっていうのは、ようするに、指導するものと、指導されるもの、あるいは、労働者と、労働者の国家と称する政府と、その間の差別っていいましょうか、それが解消しない限り、労働者は解放されないっていうふうな考え方っていうところに、ヴェイユの革命思想の考え方の根底っていうのは、収れんしていっているわけです。
ところで、こういうヴェイユの革命思想の考え方っていうのは、もちろん、現代に生きているわけです。その生きているひとつの証拠は、ソ連共産党国家が崩壊し、労働者のリコールに遭って、崩壊してしまったっていうことがあるわけですけども、崩壊して、一介の政党になってしまったという、で、国家権力からずれ落ちちゃったっていうことがあるわけです。
このこと自体がすでに、ヴェイユの考え方が妥当だったっていうことの、ひとつの証明っていいますか、ひとつの証拠になるだろうなっていうふうに思います。ヴェイユの考え方は、依然として、そこで生きているってことがあります。
それから、もうひとつあります。もうひとつは、どういうことかっていうと、工場に入っていくっていうときの、文部省に申請したテーマ、ようするに、現代の重工業と、その基礎にある現代技術と、それから、現代社会、諸文明との関係について考えたいんだっていう、そういうテーマを提出していますけど、ヴェイユの言いました重工業と、その基礎になっている現代技術っていう言い方は、当時はそうなんですけども、その重工業と、基礎になっている現代技術っていう考え方は、現在ではなくなって、あることはあるんですけど、少なくなっちゃっているわけです。
現在では、日本の社会を、たとえば、日本の社会でも、フランスの社会でも、アメリカの社会でもいいんですけど、そこを例にとりますと、ようするに、農業とか、漁業っていうのは、だいたい9%ぐらいです。それから、ヴェイユが言っている重工業、つまり、工業ですけど、それは、だいたい30%前後っていうことになります。それで、大部分の産業は、日本でもすでに50%以上の産業は、すでに第三次産業といわれているサービス業とか、流通業とか、教育業とか、医療とか、そういうものに移行してしまっているわけです。ですから、日本の労働者もすでに第三次産業といいますか、重工業を離脱した産業に従事している人が60%以上です。以上になっちゃっているわけです。
そうすると、どういうことを意味するかっていいますと、それはすでに、第三次産業、つまり、医療とか、教育とか、娯楽とかも含めてそうですけど、流通とかっていうことの半分は、半分は頭脳労働で、半分は肉体労働っていうふうなものが、第三次産業の非常に大きな特徴です。
そうすると、ヴェイユが肉体労働と頭脳労働との差別っていうのは、永久になくならないんじゃないかっていう問題は、すでに、すくなくとも、日本とか、フランスとか、アメリカとかでは、だいたいにおいて、解消しちゃっているっていう言い方もできるわけです。つまり、個々の第三次産業に従事している60%以上の労働者は、すでに頭も使うし、体も使うっていう、両方のやりかたをするようになっちゃっているわけです。そうしたらば、それ区別する、あるいは、人間とか、階層、階級で分かれちゃうっていうようなことは、すでに、半分以上は解消しちゃっているっていうふうに言うことができます。
ですから、ヴェイユの考え方を延長していきますと、そうすると、すでにそれは、頭脳労働と、肉体労働は、第三次産業に移行するにつれて、区別としては、解消されつつある、あるいは、混合されつつあるっていうふうに言ってもいいですけど、そういうふうになっちゃっているわけです。それが、ヴェイユの考えたことの現代的な意味のひとつです。
みなさんの図の中では、どうお考えか知りませんけど、よく調べてご覧になると、すぐわかりますけど、日本でも、もう、工業に従事している人数っていうのは、いまから30年とか、40年とか前にそうであったようには、中心的ではなくなっちゃっているわけなんです。すでに、そういうサービス業とか、流通業とか、教育業とか、医療とか、飲食業とか、つまり、そういう、頭とあれと、両方使わなきゃいけないっていう産業に、日本の労働者っていいますか、勤めている人たちは、大部分がそっちに移動しちゃっているわけです。フランスでもおんなじです。それから、アメリカでもそうですけども。そういうふうになっちゃってるってことは、ヴェイユの考え方がある程度、自然解消しつつあるっていうふうに言うこともできるわけです。それが、ヴェイユが、なおかつ、現在において、ヴェイユの考え方が、そのまんま、どうなっていくかっていうことを追及することによって、現代につながっていくことの非常に大きな意味だと思います。
つまり、そこのところは、ある程度、自然解消しつつあるっていうのが、現状で、これが、ヴェイユが一生懸命考えて悩んだことの延長線上に考えられることのひとつなわけです。ヴェイユの考え方は、そういういくつかの点で、現代では、成し遂げられちゃっていることに近いところに行きつつあるってことが云えるので、それは別な意味でいえば、ヴェイユが追い詰めていったところが、いかに正確であったかっていう言い方もできると思います。
つまり、そこのあたりが、いわゆる革命思想としての、ヴェイユの思想が、現在においてよみがえっている、大きな根拠だっていうふうに思われます。それは、とても重要なことのように思います。これからも、とても重要な問題として、ヴェイユの考えたことをあらためて検討されていくっていうようなことになっていくだろうっていうふうに思います。
それで、このヴェイユの考え方、ヴェイユは、そこから晩年になって、神学思想に、つまり、キリスト教神学の思想に近づいていくわけです。
近づいていく動機になったことっていうのは、いくつかあるわけですけど、工場体験の後で、体を壊したりして、休息状態にあるとき、各地を旅行するわけですけども、そこで、いくつかの細かい体験っていうのはあるわけで、ある小さな漁村のところに行ったら、そこで、船を取り囲んで、灯りを持った敬虔な村の漁師さんたちが、そこで、船を巡って、お祈りをしていた。そうすると、それは、なんか土着的な宗教のようにも思えるし、また、キリスト教信仰そのもののようにも思える、その2つのことが混じり合った人たちが、船を巡って祈りを捧げてるみたいな、そういうとこを見て、やっぱり、キリスト教っていうのは奴隷の宗教なんじゃないか、虐げられた者の宗教なんじゃないかっていうふうに感じたりするみたいなことがあるわけです。
また、聖フランシスコのいた教会に行った時に、やっぱり、キリスト教の、なんとなく真髄っていうのがわかるみたいな感じになるってことがあるわけです。
だけど、いちばん決定的だったのは、自分が、教会のお祈りみたいなものに、かたちだけでもっていいましょうか、参加しているときに、頭が猛烈に痛くなるわけです。いつも痛いわけでしょうけど、猛烈に痛くなって、それを我慢しているうちに、自分から、頭が痛いっていう自分が、自分から離れていっちゃったみたいな、そういう朦朧とした状態になるわけです。そういう朦朧とした状態で、ヴェイユは、キリストが自分のところに来て、それで、自分に触れたっていうふうに体験したと、こういうふうにヴェイユは語っています。
これは、かなり決定的な体験に、見神体験、霊神体験になるわけです。それで、ヴェイユっていうのは、あんまり、非科学的なことは好きじゃない人だから、そういうのも、うんと疑いをもって、自分で疑いをもっているし、いろんな聖女たちのそういう伝説も、疑いをもってるんですけど、自分があれしたときに、痛みを堪えて、痛みだけをもった魂だけが自分を離脱したところの朦朧とした状態で、キリストがほんとうに現れて、自分の手に触れたみたいな、そういう一種の妄想体験っていうのか、幻想体験っていうのか、そういうのを体験して、なんとなく、ようするに、ほんとだっていう感じを決定的にもつわけです。それは、とても、ヴェイユの神学への接近っていうのの、大きな理由になっていくわけです。
で、ヴェイユは、そこから、神学のほうに傾斜していって、晩年までずっと傾斜していって、自分独特の、それを神学というなら、独特の神学っていうのを、自分なりにあみ出していっちゃうわけです。
で、カトリックの神父なんかが、入信しないかっていうふうにするわけですけど、ヴェイユは、自分がどっかの教会に属した方がいいっていうふうな考え方を示唆されたり、啓示されたりしたことはないって、やっぱり、自分は外にいたほうがいいんだっていうふうにして、入信することは、断り続けるんですけど、続けながら、自分独特の神学を形成していくわけです。
で、今日は、司祭者っていうこともあるので、ヴェイユの神学っていうのは、どういう構造をもってるかってことを、すこし立ち入ってお話ししてみたいと思います。ヴェイユの神学は、通常の分け方をしてしまえば、プロテスタント的っていうよりも、カトリック的だってことは、もう間違いないことなわけです。だから、カトリックに入信しないかっていう勧めは、神父さんから盛んにあるわけですけど、それは断り続けるわけです。ヴェイユの神学っていいますか、神についての考え方っていうのには、独特の語彙があります。
ひとつは、いくつかあるんですけど、これはみんな理科系の学問っていいますか、学問から得た、あるいは、実情から得た概念だと思いますけど、ヴェイユは「重力」っていう概念をよく使っています。それから、「エネルギー」っていう概念もよく使っています。それから「真空」っていう概念も、独特の内容をつけて、よく使っています。
どういうふうに使っているかっていいますと、なかなか曖昧なところもあるんですけど、曖昧さを問わないとすれば、「重力」っていうのはどういうことかっていうと、一般的に、物質っていいますか、物っていうものは、ちゃんと重力の作用を受けていると、もちろん人間の体も、体としてみれば、重力の作用を受けていると、それと同じように、人間の精神っていうのも、重力の作用を受けているっていう考え方をするわけです。
人間の精神も、重力の作用を受けているものだから、人間の精神作用は、人間の相互の間でも、自分個人としても、どんどんどんどん、下のほうに行くって、つまり、ほっとけば、どんどん人間の精神っていうのは、下のほう、つまり、低俗な方に。かならず行くようにちゃんとできてるっていうふうな概念で、「重力」っていう概念を使っています。
人間の精神作用は、すべて重力の作用を受ける。それは、人間の体が受けたり、物質が重力の作用を受けるのと同じように、人間の精神もまた、重力の作用を、いつでも受けているんだと、それで、いつでも、低い方へ低い方へいこうっていうふうに、人間の精神作用はできてるっていうことなんです。
それじゃあ、重力の作用を受けない精神作用っていうのはあるかっていったら、ある、ただひとつだけだ。それは、ようするに、恩寵っていう言葉を使っていますけど、それは、神の恩寵っていうことだと思います。つまり、神の恩寵だけは、重力の作用を受けてないんだ。それは、重力に対応して、例えてみれば、それは、光なんだっていう言い方をします。それだけは、人間の精神作用と違って、重力の作用の圏外にあるものなんだ。で、恩寵っていうのは、そういう圏外にあるものなんだっていう考え方をとっています。これが、ヴェイユの「重力」っていう考え方の、非常に大きな特徴だと思います。
それから、もうひとつ、「エネルギー」っていう言い方をよくしています。これもやっぱり、理科系の学問から、述語っていうか、概念をとってきたんだと思います。それで、「エネルギー」っていう言葉を、どういうふうに使っているかっていいますと、たとえば、人間の行為する、行動するエネルギーっていうのは、それは、外からやってくるんだ。つまり、食べ物、栄養物を取るとか、空気を吸うとかっていう、つまり、人間が外から、そういうものを取ることによって、人間は、動くエネルギーっていうのを獲得する。
こういうことが、人間についていえると、ここが独特なところですけど、おんなじように、人間の精神も、外からエネルギーを取って、それで、それをエネルギーとして発揮するんだっていう言い方をしています。人間の精神も、外からエネルギーを取って、行為になったり、精神作用になったりするんだっていう、この考え方は、独特だっていうふうに思います。
ぼくだったら、ヴェイユもそういう断わり方をしていますけど、ふつう、そうなのにもかかわらず、ふつう、人々は自分の中に、精神のエネルギーの源泉は、自分の中にあると思っていると、つまり、自分の意思とか、意志力とか、そういう中に、精神のエネルギーがあって、それで、自分の精神作用の基になっているっていうふうに、普通一般に人々はそう考えていると、しかし、それは、そうじゃない、それは、錯覚なんだ。精神のエネルギーもやっぱり、人間の外にあるんだ。で、外からやってきて、それを栄養分として、人間は精神のエネルギーを発揮するんだって、こういうふうに言っています。つまり、精神のエネルギーも、外からやってくるっていうのが、ヴェイユの独特な考え方のひとつです。
つまり、どういうことを言おうとしてるのかっていいますと、人間の外から、人間の精神エネルギーがやってくるんだっていう場合、外からっていうのは、つまり、神とか、神の恩寵からっていうふうに、ヴェイユは考えていると思います。
つまり、ようするに、人間の精神のエネルギーっていうのは、ほんとは自分の意志力だって思っているかもしれないけど、それは、そうじゃないと、つまり、重力の圏外にあるところの神の恩寵から、栄養がやってくるんだと、精神の栄養がやってきて、それを基にして、人間は精神作用を営むんだっていうのが、ヴェイユの神学の、非常に基本的な考え方だと思います。
そこまで独特な考え方をしてきまして、もうひとつ重要な要素を付け加えれば、たぶん、ヴェイユの神についての考え方、神学の考え方は、わかってしまうと思うんですけど、もうひとつは、こういう言い方をします。エホバの神、いってみれば旧約聖書の神です。旧約聖書の神っていうのは、本性的だっていう言い方をしています。本性的ってことは、ナチュラルっていうことだと思います。自然法則に従うように、本性的な法則性をもっているっていうふうに言っています。
それに対して、新約の神、つまり、キリスト教的神は、超本性的なのが本質なんだっていう言い方をします。決して自然法則的な、ナチュラルな法則に従わないんだ、従うんじゃなくて、むしろ、逆らうかもしれないので、超本性的なのが、キリスト教的神の本質なんだっていう言い方をしています。そこが、旧約の神と違うところなんだっていう言い方をしています。
その超本性的でなくて、キリスト教のほかにも、本性的だって考える考え方、たとえば、たぶん、ヴェイユはこれを、新教の考え方、つまり、カトリックに対するプロテスタントの考え方を指していると思いますけど、キリスト教の神を、本性的なものと、思い誤るところから、ようするに、あらゆる誤解と誤謬が生ずるっていう言い方をしています。本性的なところには、キリスト教的な神の本質はないんだ。それで、超本性的なところにあるんだっていう言い方をしています。
だから、たとえば、新約書のなかで、マタイ伝でも、マルコ伝でもいいですけど、読みますと、つまり、キリストがいろんな奇跡をなして、病人を触って治したりとか、死者を、よみがえれって言うと、死者がよみがえったとかっていう、あるいは、らい病の人に手を触れたら、らい病が即座に治ったっていう、そういういろんな奇跡を、キリストが演じている記述が、新約聖書のなかにあると、しかし、ヴェイユの言い方によれば、考え方によれば、これは、ちっとも重要じゃないんだっていうことを言っています。
新約聖書の主人公、つまり、イエスの、非常に重要で重大なところはなにかっていったら、ようするに、「神よ、どうして自分を見捨てるのか」とか、「どうして自分に苦難を与えようとするのか」とかっていう、いってみれば、キリストが十字架にかかる前に、泣き言を言うわけですけど、「神よ、なぜ我を見捨てたもうや」みたいなことを言うわけですけど、つまり、それだって言ってるわけです。それが、イエスの本質であるし、また、キリスト教神学っていいますか、キリスト教の神の本質は、そういうところなんだっていうふうな言い方をしています。
つまり、奇跡を演じたり、そういうところじゃない、ようするに、自分は、あなたのなぐさめを必要としているのに、どうして自分を苦しめてばかりいるのかとか、自分にどうしてこんな苦難ばかり与えるのかとか、なぜ自分を見捨てるのかっていうふうに、キリストが言うところがありますけど、そこが、ようするに、キリスト教的な神の本質で、それは、超本性的なところなんだっていうふうに言っています。
それを、なぜ超本性的かってことは、言葉自体の問題になるわけですけど、ぼくらの考え方では、それを超本性的だっていうふうに、ヴェイユが言いたいのは、ようするに、先ほどの、最初のあれでいいますと、人間と人間との間には、精神作用も含めて、全部、重力の作用だと、しかし、重力の作用を受けていないのは、ただひとつあると、それは、神の恩寵、それは、ようするに、光なんだってふうに言っています。
つまり、人間が、人間性を唯一無二のものとして、尊重するならば、ようするに、神が実在している存在と、人間の存在とは、きわどく、矛盾、背反するものなんだっていうふうに、神を設定しなくちゃだめだと、神から、苦悩が取り除けられるとか、なぐさめられるとか、あるいは、これを信仰すれば、暮らしやすくなるとか、そんなふうな考え方で信仰される神っていうのは、ぜんぜん嘘だっていうふうに、ヴェイユは言っています。そんなふうに信仰すべき神っていうのは、ぜんぜんだめだ、嘘なんだっていう。
人間っていうのは、神に接近する唯一の方法っていうのは、なぐさめのない不幸とか、絶望とか、絶対的な絶望みたいなものを通してしか、人間は、神に近づくことができない、それ以外の近づき方をしたい、あるいは、しようとしたり、したつもりになったりしているのは、ぜんぶ嘘だ、ぜんぶ間違いだ、その神はぜんぶ間違いだっていうふうに、ヴェイユの神学では、そういうふうになってきます。そこで、ヴェイユにとって重要なことは、不幸とか、死とか、それから、苦痛とか、そういうようなことが、ヴェイユにとって独特の重要な意味をもつようになります。
それは、なぜかっていいますと、いま言いましたように、それを通してしか、神に到達することはできないと、それ以外のやりかたで、神に到達するなんていうのは、とんでもない話で、全部それは嘘だ、嘘の感情と、嘘の信仰と、嘘の神なんだっていうふうなのが、ヴェイユの言い方です。
たぶん、これは、プロテスタント系の神の考え方に対する、非常に大きなアンチテーゼを言おうとしているんだっていうふうに思います。ヴェイユの考え方は、そういうふうに、徹底しています。
だから、もし、不幸とか、死とか、苦痛とかっていうのを、もうすこし言い方を考えて、一般的に、倫理の問題として、それは悪だっていうふうに、あるいは、悪の報いを受けているんだっていうふうにいうとすれば、その悪を介してしか、神へは近づけないんだっていうふうな言い方をしています。
悪を介して近づくつもりでなければ、ほんとうの神には到達しないんだっていうのが、ヴェイユの考え方だと思います。それは、人間が悪な場合には、かならず、人間の重力の圏外にいる神の恩寵っていうのは、善なるものに決まっているから、その善なるものに接近するには、やっぱり、人間は悪である以外にはないと、あるいは、悪の報いであるところの不幸とか、死とか、苦痛とか、そういうもの以外に、近づくすべがないんだ。そういうところに、神っていうのは、存在するんだっていうのが、ヴェイユの考える独特な考え方だと思いますし、また、ものすごく徹底した考え方だっていうふうにいうことができます。
ここいらへんまでいきますと、ヴェイユの考え方は、著しく、日本の中世の、浄土系の宗教家の考え方に、非常によく似てきます。たとえば、それは、親鸞なら親鸞が、「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」っていうふうに言うでしょ。つまり、善人が浄土へいけるっていうんだったら、悪人はなおさらいけるんだっていう言い方を、親鸞はしていますけど、それと著しく近づいて、ヴェイユの考え方は、近いところまでいっています。
それから、不幸とか、死とかいうことに関連していえば、ヴェイユはよく、この世に対する、現世に対する、あらゆる執着っていうのを、ぜんぶ離脱しなきゃ、絶対に神に、あるいは、神の恩寵には、到達しないっていう考え方を、ヴェイユは述べています。
つまり、現世にある執着はぜんぶ取っ払っちゃって、とにかく、自らも、なぐさめようもない不幸といいましょうか、苦痛といいましょうか、そういうところに自分を置くと、はじめて、筆舌に尽くしがたいなぐさめが、つまり、恩寵のなぐさめが、むこうからやってくるってことがありうるっていう言い方をしています。この考え方は、やっぱり、法然、親鸞じゃなくて、これは、一遍みたいな人の考え方に、著しく近いというふうに言うことができます。
つまり、ヴェイユの神の考え方は、たいへん、ぼくらに、ある意味では、わかりやすい考え方に近づいていますし、また、ある意味で、非常に徹底していて、神学的にいうと、あらゆるキリスト教的な信仰に対して、ぜんぶアンチテーゼだと、ぜんぶ違うんだと、苦痛と、不幸と、死しか、人間は神に到達する道はないっていうふうな言い方になっています。
そういうところからいく、人間の行動の倫理っていいましょうか、原則みたいなのが出てくるわけですけど、ヴェイユが強調して止まないことは、自分がそうと思わないことは、絶対するなっていうこと、そうと思える範囲内でしか行為をすべきではない、もし、それを超えて行為すると、かならず間違えるよっていう、かならず間違えるから、だめだから、人間は必然的にそうだっていうふうに思える範囲内に、自分の行為っていうものを留め置くべきだと、それを留めないで、何か違う、もっとそれ以上のことをしようと思ったり、しようとしたりしたら、かならず間違える。で、かならず違った神に到達してしまうという言い方をしています。つまり、必然の行為だけが、ほんとの、人間の倫理をつくるのは、必然の行為だけであって、必然性がない行為は、全部それは違う、人間の行為の倫理的基準にならないっていうのが、ヴェイユの考え方、ヴェイユの倫理に対する、いちばん根本の考え方だと思います。
で、先ほど言いました「真空」っていう考え方なんですけど、「真空」っていう考え方は、いま申しましたところでいえば、自分が仮に、不幸っていうものを、自分が一身に引き受けたり、その不幸の存在したところに、一種の空隙っていいますか、真空のところが生ずると、その真空のところが生ずるってことが、そこに神の恩寵が集まってくるっていう、非常に大きな要因なんだと、だから、本性的なナチュラルなものに従えば、ぜんぶ人間の精神とか、人間の体とか、行為とかっていうのは、この現実の空間と時間を埋めてしまうと、ところが、超本性的な行為を、もし、自分に課するならば、自分に集まってきた超本性的な行為の動機っていうものが、存在したところに、真空を生ずると、で、その真空を生じたところを埋めようとするのは、ようするに、神の恩寵だけだから、そこで、神の恩寵は、しばしば、降下してくるんだっていうふうに、「真空」っていう概念を、そういうふうに、ヴェイユは使っています。
こういう問題を取り巻いて、ヴェイユの神学っていいますか、神についての独特の考え方が、形成されて、それが、カトリックへの入信をいくら勧められても、それに入っていかなかった理由でありましょうし、また、ぼくには、カトリックに入ったか、入らないかっていうことよりも、ヴェイユの神学っていいましょうか、神についての考え方が、神っていう概念をはずしたとして、どこまで不易的な考え方、普遍的な考え方、とくに宗教とか、理念とか、イデオロギーとか、思想とか、そういう考え方に、どこまで、ヴェイユの神学についての考え方が、どこまで引き伸ばしていけるかってことが、ぼくにはとても大きな関心事なわけなんです。
そこのところで、ヴェイユが、非常に晩年ですけど、晩年に到達したところがあります。それを申し上げてみますと、ひとつは、人間の、これは初期からの概念の、いってみれば、ひとつの拡張になるわけです。つまり、マルクスなんかの考え方のひとつの拡張になると思いますし、拡張した分だけ、観念的になったっていう言い方も、もちろんできるわけです。
それはどういうことかっていうと、ひとつは、労働、働くことです。肉体労働をひとつ指しているわけですけど、労働っていう概念なんですけど、マルクスの労働っていう概念を大雑把にわかりやすくいいますと、人間のすべて自分以外のものに対する、対象に対する働きかけっていうのは、広い意味での労働っていうふうに考えることができます。
つまり、人間の自分以外の対象への働きかけっていうのを、広い意味での労働っていうふうに考えますと、その労働は、マルクスの考え方からすると、自分以外の対象に対する働きかけをやると、やったことが労働であると、そうすると、対象の方から、その働きかけた人間のほうにも反作用として、働きかけがあると、どういう働きかけかといいますと、ようするに、その人間を、肉体的に働きかけていると、その人は機械と同じ、つまり、生きていない無生物と同じように、ただ相手に働きかけるだけの人間に、その瞬間はなっていると、そういう相互作用っていうのはあるんだ。
もうひとつ、マルクスの考え方で、いちばん重要なのは、そういうふうに、自分以外の対象に働きかけると、働きかけたところから、その対象は、価値物に転化するっていう考え方があるんです。つまり、人間が働きかけた対象は、すべて働きかけられた瞬間から価値物に転化するっていう考え方になる。
もっと狭くいえば簡単なことで、こういうふうに働いてつくったら、これは価値ある商品になる、狭い意味の労働の概念でとればそうなりますけど、広い意味でとりますと、人間が自分以外の対象に対して働きかけると、働きかけたところから、働きかけた場所は、箇所っていいましょうか、事物っていいましょうか、それは全部、価値物に転化するっていう考え方は、マルクスの考え方です。
それで、ヴェイユは労働っていう概念を捨てないんです。晩年の神学になるまで捨てないので、それは、人間の霊的な生活の基礎になるのは、肉体労働なんだっていう考え方を捨てないのですけど、ヴェイユの考え方は、人間が宇宙に触れる触れ方、唯一の触れ方は、労働を介してしか、ありえないんだって、労働を介してしかありえないってことは、対象に対する働きかけ、宇宙に対する触り方をやると、宇宙のほうは、そこから逆に、人間のほうに、自分の本性を明かしてくれるっていう考え方です。
いってみれば、マルクスの対象化行為を労働って考える、それを非常に拡張してっていいましょうか、観念的にしてって言ってもいいんですけど、人間が宇宙に触れられる、あるいは、神の恩寵に触れられる唯一の方法っていうのは何かっていったら、ようするに、対象に対する働きかけだ、働きかけた部分から、宇宙は、その本性を自分に明かしてくれる、人間に明かしてくれる。その本性の中に神の恩寵っていうのが入ってるんだっていうのが、ヴェイユの神学の、非常に晩年に到達している非常に大きな考え方です。
これは、ある意味では、ヴェイユの神学っていうのは、観念的な宗教だっていえば、そうなんですけども、依然として、初期のマルクスの考え方は、依然として生きていて、それを一種のヴェイユなりの拡張の仕方をしています。
マルクスは、宇宙っていう考え方とか、語彙とかっていうのは使わないんですけど、ただ、対象的行為っていうのが、人間の労働行為を解釈した労働なんです。対象的行為をされた対象物から価値物に転化するっていうのは、マルクスの考え方を、ぼくなりな理解をすると、そういうふうになりますけど、それをヴェイユが宇宙っていう言葉を使って、宇宙に対するある働きかけ方をすると、働きかけられた宇宙が、自分を明かしてくれる。それだから、労働っていうことは、ようするに、人間の精神生活、あるいは、霊的な生活の基礎になるものだっていうのが、ヴェイユのひとつの大きな考え方です。
だから、こういう人間の働きかけ方っていうのが、あらゆるものになされるっていうことが、最も重要なことなんで、それが、信仰の深化っていうことに、深まりってことにつながるわけだけども、ヴェイユの考え方では、そういう考え方になります。
で、ヴェイユはけっして、労働っていうことを、ボランティアっていうふうには、一度も考えたことがないんです。いつでも、賃労働の延長線です。つまり、賃労働の延長線を拡張していくわけです。それでやっぱり、宇宙の切片でもいいんですけど、断片でもいいんですけど、それに触れた箇所から、宇宙が本性を人間に明かしてくれるっていうふうに、それを、宇宙の本性とは何か、それは神の恩寵なんだっていう考え方をしています。
それはとても興味深い考え方だっていうふうに思います。それで、これは、観念的っていいますか、宗教的に考えれば、これは、一種の異端のカトリックの考え方なんでしょうけど、そうじゃなくて、もっと一般的に考えますと、一般論として考えていけば、ようするに、人間のあらゆる行為っていうのは、対象に対する働きかけですから、精神か、肉体かの働きかけですから、その働きかけによって、宇宙は、自分の本性を明かしてくれるんだ、それが神なんだ。マルクスならば、そこで価値物っていうのができるんだ。価値物は、人間が対象的に働きかけた、その対象をもとに価値物ができるんだっていうことになって、たいへん興味深い考え方をして、もしかすると、ヴェイユの考え方は、そこでまた、宗教をもう一度超えていくっていう、ひとつのキーポイントになるかもしれない考え方だと思います。
ぼくらは、そこにいきますと、なまけ者ですから、息苦しくてしょうがないわけです。ヴェイユの考え方も息苦しいですけど、マルクスの考え方も、なんか人間の対象化行為で、働きかけの対象になったものから全部、価値物に転化していくっていう考え方っていうのは、抜け目がないわけです。抜け目がないっていうか、抜け道がないわけです。
人間っていうのは、ぜんぶ価値物に取り囲まれていないと、もっと極端にいうと、商品に取り囲まれていないとなんないみたいな感じで、すこしは遊んでるところがないのかっていう感じ方なので、ぼくが、たとえば、マルクスの考え方を修正したいと思うのは、そういうところです。つまり、どっかに遊ぶところがないのかっていうのが、ぼくなんかの修正の仕方です。
つまり、遊ぶところをつくらないと、だめなんじゃないか、この思想はっていうのが、ぼくなんかの考え方ですけど、ヴェイユっていう人は、まじめ一方ですし、たいへんストレートにっていいますか、直線的に突き詰めて、けっして妥協しない人ですから、徹底的にやっていくと、そういうふうになっていきます。それで、マルクスもそうです。そういうふうにやって、とにかく人間が働きかけて、労働ってことですけど、働きかけたものから、その働きかけられたものは、価値物になると、つまり、値段を生ずる、あるいは、価格を生ずるとか、価値を生ずるっていう考え方をとっています。
そうすると、もう息苦しくてしょうがないっていう、夜、寝るのも、やっぱり、価値物をつくっていることになります。マルクスの考え方はそうです。つまり、休息するってことで、今日と同じように、明日も同じように働けるだけのものを、寝ることによって、つくりつつあるっていう考え方に、マルクスはなります。マルクスの考え方はそうです。
それから、消費っていう考え方もそうです。つまり、消費っていうのは、マルクスの考え方からすれば、ようするに、遅延された、送れてやってくる生産なわけです。すぐいう生産っていうのは、いま働きかけたら、これができたっていうことなんですけど、いまこれをつくったんだけど、こいつが回りまわって、どっかで売られて、それを買ったっていうと、自分が生産したものをまた買って、それを自分が役立てることによって、自分がこれで酒飲んで、元気を出して、また明日、仕事するっていうのは、こういうことでいえば、ようするに、消費っていうのは、遅れたる生産っていう意味になります。
つまり、どう考えたって、ぜんぶ抜け目ないわけです。女の人なんかよく、家事労働っていうのは、トレードオフだみたいなことをいう人もいますけど、それは、マルクスの考え方はそうじゃないんです。家庭労働っていうのは何かっていったら、自分もそうですけど、自分の旦那とか、子どもとかが、明日も、今日と同じくらい、職場へ行って働けて不都合ないっていう、そういう栄養物を補給するのが、ようするに、いい家庭なんです。そのために、主婦が、ものをつくるってことは、けっしてそれは無価値でもないし、奴隷労働でもなくて、旦那の価値増殖にちゃんと寄与していることになっているわけです。ですから、それはやっぱり、価値労働なわけなんです。それは、見かけがどうあろうと、そうなわけで、マルクスの考え方はそうです。徹底的にそうです。
こうなってくると、全部、そうなっちゃうんです。人間っていうのは、人間の存在自体がそうなってしまうので、それはちょっとやりきれないぜっていうことが、ぼくはちょっと問題なような気がいたします。
それ自体はちっとも問題じゃないですけど、そうだそうだと言ってるうちに、だいたい、人間うそをついていることになっちゃったりするわけです。だから、それは、ソ連共産党がだめになったひとつの原因ですよ(会場笑)、つまり、いいことばっかり言ってるんだけど、ほんとは嘘ついてたんだっていう、そういうことになってしまいますから、どっかでやっぱり、それなりの安息感みたいのがいると思いますけど、ぼくだったら、そういう修正の仕方をどっかでしようと考えるわけですけど、ヴェイユは大まともにそれを突っ込んでいって、労働概念をたいへん広く拡張して、そのなかには、経済学も含まれれば、神学って、神についての考え方も含まれるっていうようなところまで、労働っていう概念を拡張していっています。
それから、もうひとつ、ヴェイユの考え方で、これは重要だな、つまり、いまも重要だし、これからも重要だなって思われることがあります。それは、ヴェイユの科学とか、芸術とか、文化とか、文学とか、そういうものに対する考え方なんですけど、つまり、ヴェイユの言い方をしますと、それが、つまり、科学とか、芸術とか、文学とか、哲学とか、そういうものは全部、人間の人格のひとつの表現の、さまざまな形式をなしていると、形式であると、その中の、非常に優れた人がいて、その優れた人は、何千年も名前が伝わって、名前と業績が伝わっているような、人類の歴史が始まってから、ずっと保存されるような名前を伝えられて、それで、光輝ある仕事だ、業績だっていうふうに云われていると、しかし、ほんとはそうじゃないんだっていうことを言っています。
そういう輝かしい天才たちが、何千年も名前を残すような仕事と、それから、業績っていう、そういう領域のもっとむこう側に、ほんとうに本質的な領域は、もっとそのむこう側にあるっていう言い方をしています。その本質的な領域こそが、ほんとは第一級の領域なんだっていうふうな言い方をしています。で、人間的な領域でもって、輝かしい業績だとか、歴史が保存した仕事だとか、名前だとか言っているものは、ほんとはそうじゃないんだっていう言い方をしています。
それよりも、もっと深淵を距てたむこうに、ようするに、第一級のものだけが存在する領域があると、その存在する領域っていうのは、偶然に名前が記録されることもあるかもしれないけど、だいたいにおいて、それは無名の領域だっていうふうな言い方をしています。その無名の領域ないしは匿名の領域なんだ、だけども、誰がそこにいったか、誰がそうなのかっていうのは、ぜんぜんわからないと、しかし、第一級のものと人々が考えている、あるいは、歴史が考えている、それよりも、もっとむこう側のところに、深い淵を距てて、ひとつの領域があって、そここそが第一級の領域なんだっていう言い方をしています。
それが、ヴェイユの神学っていいますか、神についての考え方が最後に到達した地点です。これが、最後にロンドンで死ぬわけですけど、ロンドンにいた時に言った、ヴェイユの言葉なんです。それが、たぶん、ヴェイユの神学の到達点なんだ。
そこまでいきますと、われわれは、この領域がまたわからないんですけど、わからないし、ぼくらは到底、そこへ到達できるとか、そこはどんなんだって考えられるような、そういう領域ではないわけですけど、そこまで考えれば、その領域っていうのは、たぶん、どんな場所からも、どんな場所からもっていうのは、つまり、キリスト教の信仰からも、それから、仏教の信仰からも、それから、信仰じゃなくて、イデオロギーとか、思想とか、そういうものの側からも、やっぱり、そこの点っていうのは、なにかわからないけど、そこの点を考えれば、そこの点は見えるんじゃないか、つまり、いわゆる党派の領域じゃなくて、あるいは、宗教の派閥の領域ではないとか、違う宗教の領域であるとかっていうのではなくて、どっからも見える、ひとつの領域っていうのは、そこでまた、考えられるんじゃないかっていうことが言えそうな気がします。
つまり、ヴェイユの神についての考え方は、カトリック的でありますけど、それを超えて、なお、ヴェイユは、あるひとつの普遍的な領域、それがいちばん第一級領域で、誰が到達しているか何もわからない、とにかく、匿名の領域、あるいは、無名性の領域で、そここそが、ほんとうの第一級の場所なんだっていう言い方で指しているものっていうのは、どっからでも見えるっていいましょうか、そういう見え方ができるんじゃないか、つまり、そこへ考え方を集中していくと、誰が集中していっても、そこへ集中していくっていうことで、ひとつの普遍理念といったらよろしいでしょうか、あるいは、普遍宗教でもいいですけど、そういう領域っていうのを、人間は考えることができるんじゃないのかっていう希望を抱かせます。
そこへいけるとは、けっして言いませんけども、そういうものが設定できるんじゃないかなっていう、だから、人間の社会があれば、人間の政治社会があれば、かならず、そこには、対立があるとかっていう、それで、争いがあるとか、そういうことじゃなくて、つまり、どっから見たって、そこは普遍的な真理の場所だよみたいなものが、われわれが考えている遥かむこうのほうに、もうひとつ設定できるんだっていうヴェイユの最後の到達点っていうのは、非常にわれわれに希望を抱かせるような気がいたします。
そこは、どっからいっても、目指すことができる領域のように思いますし、独特の党派、あるいは、宗派独特の習慣儀礼に従わなくても、そんなことはいらなくて、ただ、ようするに、いかにして、真理に近づくかっていう考え方だけあれば、そこへ到達する、不可能だとしても、到達可能性はいつでもあるっていう、その場所っていうのを、いけるんじゃないかっていうことが、言えそうな気がします。つまり、ヴェイユが、現代に生きて、神学思想として生きている、ほんとうの理由っていうのは、ぼくはそこに見たいっていうふうに思います。
つまり、キリスト教でもなければ、仏教的でもない、あるいは、どちらとも似ているといえば、似ているし、また、イデオロギー的であるようにも、つまり、革命思想的、労働概念なんかみると、革命思想的でもあるようにみえて、そうでもない宗教的でもあるようにみえるっていうのは、そういうことを介して、そこにいけるっていう、どっからみてもいけるっていう、あるいは、どっからいってもいけるっていう、いけるはずだっていう、そういう場所を、とにかく、指をさしてみせてくれたっていうことが、たぶん、ヴェイユの宗教としての現代性の、いちばん大きな場所じゃないかっていうふうに、ぼくはそう考えます。
また、宗派の人、あるいは、キリスト教、あるいは、カトリックの人は、また別の、ヴェイユの理解の仕方、解釈の仕方をすると思いますし、それはもう、それぞれでよろしいんですけど、ぼくらみたいなのからみたヴェイユの神学思想の到達点っていうのの、現代的な意味、現在的な意味っていいましょうか、それは、まさにそういうところにあるような気が、ぼくはしております。今日は、ヴェイユの宗教思想っていうところに、すこしウェイトをおいて、ヴェイユについて、大雑把なところは、お話することができたと思います。これで、終わらせていただきます。(会場拍手)
(笠原さん)
ありがとうございました。いまから、ちょっと休憩をしたほうがいいんじゃないかと思いますので、いま3時2,3分ですけど、3時10分まで、短いですけど休憩、たばこをのまれるかたは、廊下でお願いします。それから、先にお配りした紙に、質問のある方は書いていただいて、係の者がおりますので、前のほうへ、わたしのほうへ提出していただきたいというふうに思っております。3時10分からはじめますのでよろしく。
(笠原さん)
それでは、再開をいたします。はじめに、申し上げるのを忘れておりましたけど、わたくしは、この森集会の主催者をしております笠原芳光と申します。いまからすこし、吉本さんにご質問をいたしまして、そのあとみなさん方から提出された質問を吉本さんにぶつけようと思うんですけど、非常にたくさんの質問がきておりますので、はじめのわたくしの考えといいましょうか、わたしの質問っていうのをひとつだけにしまして、あとはできるだけ、みなさま方の質問を取り上げたいと思いますが、非常に多いので、ぜんぶお答えしていただけないということを、あらかじめ、ご了承いただきたいというふうに思っております。時間は、5時、15分前まで、4時45分までするつもりでございます。
それでですね、質問はだいたい、4つぐらいに分かれまして、ひとつは最初に話された幼児体験というような問題の、そういう病気とか、そういったことに関する問題であります。
それから、もうひとつは、国家社会に関する、マルクス主義に関する問題であります。
それから、もうひとつは、やはり、最後に強調されたシモーヌ・ヴェイユの宗教観をめぐる問題です。
それから、もうひとつは、その他というべきような質問でございます。わたしも、まだ時間が足りなくて、整理をしておりませんけど、その中から、いろいろご質問をしたいと思いますが、わたくしの質問を、最初に申し上げますと、シモーヌ・ヴェイユは、神という問題を、宗教の問題としてではなくて、むしろ、初期の新しい社会を求めて、マルクス主義、あるいは、アナキズムといってもいいと思うんですけど、そういうったものと、非常に格闘したわけですけれども、そういった、神という問題が、やはり社会とか、国家とか、宗教の問題だけじゃなくて、社会とか、国家とかいう問題の、一種の理想的なイメージにもなっているんだろうかということと、それから、その神っていうのは、ヴェイユの前には、なにか先天的に一種の宗教体験を通して、得たような気がするんですけど、はたして、そういったなにか先天的にっていいましょうか、観念としての神であったというようなことでしょうか。たとえば、イエス・キリストに出会ったとか、ブッタに出会ったとか、そういう具体的な人物を介してではなくてのように思われるんですけど、そういったことについて、お答えいただきたいと思います。
(吉本さん)
いま、笠原さんが言われてきたことですけど、ぼくの理解の仕方では、ようするに、ヴェイユの神っていう概念は、人間の身体的な行動と、精神的な行為、表現とがつくりあげた文明っていうものとは、はじめはともかくも、最終的に到達したところでは、ぜんぜん違うところにあるものだっていうふうに、神っていう概念をつくったっていうふうに、ぼくは思っているわけです。
ですから、地上の人間とか、制度とか、文明の理想的なかたちに対して、ヴェイユの考えている神っていうのは、なんらかの意味で、モデルになるとか、模範になるとかっていうことは、ぼくはないんじゃないかっていう、だから、神っていう概念を、もっと、まったく違うところに、人間の築いた文明とか、精神的な業績とか、そういうことの、まったく外側にあるものっていうふうに考えたんじゃないかなっていうふうに、ぼくはそういうふうに考えます。ですから、あんまり関係ないんじゃないかな、関係ないところを設定したかったし、したんじゃないかなっていうふうに、思えるわけです。
それから、具体的に、たとえば、ソ連の修道院で、修道院の生活っていうのを一緒にやっていたときに、一種、神を見るっていうのか、キリストの姿を現前に見て、自分に触れるのを見たというふうに、ヴェイユが言っているわけです。その種の体験は、アメリカに、ナチのユダヤ人排斥みたいなのがあって、アメリカに行くわけです。アメリカでも、そういうことがあったというふうに、ヴェイユが書いていると思います。
それはかなり、ヴェイユの信仰っていうことに対しては、徹底的な役割をしているように、ぼくは思いますけど、もし、それがなかったら、ヴェイユの神学っていうか、神についての考え方は、できなかったかなっていうふうに考えると、ぼくは、そうまでは言えないんじゃないかって思うんです。
というのは、それ以前にもまた、ペラン神父とかなんかの往復書簡の中にも、やっぱり、自分の神秘的な見神体験っていうんですか、神が現れたとかっていう、そういう体験っていうのの伝説・伝承は、あんまり、真を得ていないんだっていうことを、繰り返してますし、ヴェイユ自体の考え方も、論理的ですから、そんなにそれは、キリスト教っていうのは、結局は、被支配者っていうのか、奴隷の宗教なんだっていうことはわかったとか、そういうふうに感じたとかっていう、そういう体験の積み重ねよりは、そんなに大きな役割を果たしてないんじゃないかなっていうのが、ぼくの考え方です。
(笠原さん)
なぜ、そしたら「神」という言葉を、彼女は使ったのか、もっといわゆるキリスト教とか、神ではないにもかかわらず、神を待ち望むとか、あるいは、「恩寵」とかいうかたちの様を使っているんですけど、そういったことを超えた神であれば、もうすこし違った表現もできたんじゃないかと思うんですけど。
(吉本さん)
ぼくが思いますのには、旧約聖書の、つまり、ユダヤ教の神の考え方っていうのがあるとします。それは、ほとんど、ぼくは自然っていう考え方を代置させれば、たぶん、ほとんど同じものだっていうふうに、言っちゃってもいいような気がするんです。
日本でいう自然っていうのと多少違うかもしれないんですけど、ユダヤ教の基本的な、つまり、旧約聖書の基本的な考え方によれば、ようするに、基本的な宇宙観によれば、神がいて、自然物をつくって、それで、人間もつくったっていうふうに、大雑把にいうと、こういう発想になって、この根源にある神っていうのを、根源に神を設定するわけで、その神が、ようするに、自然もつくったし、人間もつくったし、その他のものみんなつくったっていう考え方になると思いますけど、これは、われわれが、自然と言う場合には、逆であって、自然っていうのに名前を付けると、人間の名前を付ける、だから、全部、自然っていうのは、生き物と同じなんだ。たとえば、風の音っていうのは、ようするに、人間の声と同じなんだっていうことになりますし、水の流れっていうのは、やっぱり、人間の音楽的な言葉を支えているのと同じなんだとか、岩みたいな、自然の無生物みたいな自然物っていうのも、やっぱり、岩に付くっていう神の存在っていうのはあって、その存在のあらわれなんだっていう、こういう考え方になってくると思うんですけど、これとは、まるで違う意味合いの自然なんですけど、ユダヤ教の神っていうのは、ようするに、ナチュラルなもの全部、これは神なんだっていうふうに、ナチュラルなものに全部、根源があって、それが、いわゆる天然自然をつくったり、人間をつくったり、ほかのものをつくったりっていうふうにしたものだっていう観点でいえる自然だと思うんですけど、ヴェイユのいう自然っていうのは、それに対して、もうすこし、ぼく、そういう書き方をしたと思うんですけど、人間の感覚とか、心情とかを場合によっては、自然っていう動物種といいましょうか、そういうものに対して、人間の感覚とか、心情とかっていうものをいっしょに加味しても、もしかすると、人間の思考っていうようなものも、考えっていうようなものも、ぜんぶ加味してもいいようなものとして、たしかにヴェイユは神を設定していると思うんですけど、それは、旧約聖書の自然っていう概念を、ある面から、そこがようするに、神を見たか、見ないかっていうことに関係する面は、そこだと思うんですけど、それに、人間の心情的なものとか、感覚的なものっていうのを、場合よっては、くっつけてもおかしくないんだっていうように、ヴェイユの神っていうのは、できているような気がするんです。
だから、たぶん半分は、ヴェイユがそういう見神体験っていいましょうか、キリストが、自分にあらわれて手に触れたとか、あるいは、見知らぬ男がやってきて、自分をどっかへ連れていった、そこで、何日かいっしょに暮して、おまえにかつて体験したことがないことを体験させてやるからと言って、いっしょに暮してたんだけど、しまいには、その男は、もっといてくれっていうのに、立ち去ってしまったんだっていう体験を、アメリカに行ってからの体験ですけど、そう書いていますけど、その人の体験がなければ、たしかに半分はつくれなかったと思うんですけど、ぼくは、ヴェイユの神に対する考え方のいちばんの特徴は、神を実在と考えぬならば、人間は実在じゃないって、徹底的に、そういうふうに言っちゃってるってことだと思うんです。
人間を悪だとしたときに、あるいは、人間を救われない不幸だっていうふうに、そういう観点になっていかなければ、神には到達しないんだっていう、そういう徹底的な、神と、人間的領域との、二律背反みたいなものを設定しちゃっているところが、特徴だっていうことで、この神に万物、つまり、あらゆる万能の力を配置してるっていうには思えないんです。
そういう意味では、旧約聖書のほうが、神に万能の力を配置しているんですけど、ヴェイユの神っていうのは、そういう意味合いではちっとも、万能の力を配置しているんじゃなくて、ただ、いちばんの特徴は、人間とはまったく相容れないっていいましょうか、人間的領域と、まったく外側にあるものなんだって、こっちを認めるなら、こっちを認めるな、こっちはないほうがいいんだ。だから、自分は存在しないほうが、ほんとうはいいんだと、自分は天地の間に、息をして何かしているってことは、ようするに、天地を汚すことなんだっていう言い方になってくるわけで、完全に自己抹殺っていいましょうか、そういうふうなところに行かなきゃ、だいたい神には到達しないんだっていう、そこのところがいちばんの特徴のように、ぼくには思います。
(笠原さん)
恐ろしい思想ですが(笑)
(吉本さん)
恐ろしい思想なんですね。
(笠原さん)
そのあと、自分だけじゃなくて、すべてのものを抹殺しなければ、神っていうものは出てこないっていう感じがしますね。
(吉本さん)
ぼくは、ヴェイユの考え方は、つまるとことは、ちゃんとそこまで言っちゃってるっていうふうに、ぼくには思えるんですけどね。ただ、ようするに、救いっていうのはあるわけです。つまり、なにを善とするか、なにを悪とするかっていうことになるわけですけど、ヴェイユは、そういう意味合いで、徹底的ではあるんですけど、徹底的な悪だよっていうふうに、悪の肯定だよっていうふうに云えないことがあるとすれば、ぼくは、ある箇所までいくと、ヴェイユっていうのは、キリスト教的な愛でも、神の愛でも恩寵でもいいんですけど、そういうものと、切実さとか、痛切さっていうのがあるでしょ。痛切さっていうのは、おんなじなんだと思ってるところがあると、それがヴェイユの徹底性に対するひとつの救いなんじゃないでしょうか、笠原さんもそう思いませんか。
たとえば、笠原さんが、ぼくの家に猫が5匹いるんですけど(会場笑)、ぼくになついているのは2匹とか、たとえば、うちのその猫が死んじゃったとするでしょ、そのときの痛切性っていうのがあると思うんです。その痛切性は、たとえば、笠原さんが死んじゃったらおかしいか(会場笑)、死んじゃったときの、ほんとうは、ぼくのほうが早く死ぬから、笠原さんが、ぼくが死んだときに、ああ、死んだかって思う、それよりも、笠原さんが仮に猫を飼っておられるとして、猫が死んだときのほうがおれは悲しいっていうことっていうのはあるでしょ。(会場笑)。あるんですよ、これは、ないといったら、うそをついてることになります。(会場笑)。ぼくはそう思ってます。
だけど、そのときに、なぜ、そんなことが起こるんだろうかと、こっちは、いずれにしろ動物じゃないか、こっちは人じゃないかっていうことになるわけです。そうすると、どうして、そういうことがあるかっていうと、ぼくはどっかで、痛切さとか、切実さっていうことと、それは、悲しみとか、不幸でもいいんです。そういうものと、愛っていいましょうか、憐れみでもいいんでしょうけど、愛とか、憐れみとか、同情とかいうものと、どっかで混同してるっていうか、おんなじだと思っちゃてるところがあるから、なんとなく許されるみたいな気が、ぼくはするんです。ぼくは、事実あると思ってます。今日だったか、昨日だったか、阿部公房が死んで…。
(笠原さん)
昨日ですよ、同じ年じゃないですか。
(吉本さん)
同じです。(会場笑)。だから、あーって思うわけです。もし、それじゃあ、おまえんちの猫が死んだら、どっちが悲しいかって言われたら、こっちのほうが悲しいだろうと思います。(会場笑)。
いままでもそうだったですし、だけど、ぼくは、その場合に、悲しいっていうことを、なんとなく自分にとって、切実だとか、痛切だとか、それといっしょくたにしているところがあると思います。だから、そう言ったっていいじゃないのっていうことが、肯定されるような気がするんです。
ヴェイユの場合も、ぼくは、それは云えるんじゃないかなと思うんです。つまり、ヴェイユの神っていうのは、そうとう徹底的なものであって、ほんとうをいうと、あらゆる神学をぜんぶ否定するしっていう感じで、どうしようもないぜっていうふうなところまで、いってるように思いますけど、でも、ヴェイユの神、やっぱり、救いがあるよっていうふうに思える、どっかでやっぱり、痛切さっていうものと、そういう愛とか、憐れみとか、恩寵とか、そういうことと、どっかでいっしょにしちゃって、あるいは、いっしょになっちゃってるみたいな、そういう箇所があるからなような気が、ぼくはするんです。
(笠原さん)
ありがとうございました。
(笠原さん)
それじゃあ、みなさまがたの質問の中からいくつか選んで申し上げたいと思うんですが、非常に多いんですが、まず最初におっしゃった、いわゆる幼児体験っていいましょうか、それとか、病気とかの問題ですけど、ちょっと読んでみますと、「胎児期、胎児の時代、乳児期の育ち方の失敗は、その人の生涯に影響するという考え方は、体験的にはうなずけるのですが、その失敗を、どのように生きたらよいのか、生かしたらよいのかがわかりません。影響下に一生を終えるというのは、あまりにも残念な気もします。私自身、育ち方をしくじったらしいと思っています。失敗を自覚してからの生き方を、どう考えたらよいかを教えていただきたい」っていうようなことですが、そのほか、「ヴェイユにおける幼年期の欠如体験の影響を重視すると云われましたが、しかし、欠如を指摘することは、欠如をしていない状態、健康を基準としてしまうことになると思う。欠如なき健康とファシズム・スターリズム的イデア、観念であり、開かれていくことをむきふとする、吉本さんの考え方と矛盾するような気がするのですが、この点について、ご意見伺いたい」とか、「乳幼児期の生活を精神基盤として、思想を展開したのではないかとおっしゃいましたが、特異な領域をもたないものは思想をもたない、もてないと思われますが、特異な原体験をもたないものは、表明すべきものをもたないのですか」、うんぬんというようなところがあるのですが、そのあたり、ひとつひとつじゃなくて、だいたいイメージしてお答えいただければ幸いです。
(吉本さん)
ぼくは、やっぱり、乳幼児期の体験っていうのは、とくに、母親との体験、つまり、言葉も、まだ生み出さない、言葉がしゃべれない時期です。それから、もうひとつは、授乳、母乳であるとは限らない、なんでもいいんですけど、牛乳でもいいんですけど、授乳期における母親、あるいは、母親代理との関係のうまくいかなさっていうことが、たぶん、第一次的な意味で、非常に決定的に、その人の心っていうのを否定するだろうっていうような、その否定は、たぶん、生涯にわたって否定するだろうって思います。
それで、その場合に、心を規定するっていうことと、精神を規定するっていうことは、ちょっと違うので、人間の精神作用、あるいは、働きっていうのが、心の働きと、それから、そういう分け方をして、ほんとは、そんなに厳密に分けられないんですけど、分け方をすれば、心の働きと、感覚の働き、目で見たとか、耳で聞いたとか、五感の働きっていうものと両方から、人間の精神の働きっていうのは、できていると思います。
そのうちの、心の働きだけは、たぶん、乳胎児期に、第一次的に決定するっていうふうに思います。ですから、それは、思春期までは、かなり全面に出てきますけど、思春期以降は、一種の無意識のところに入ったものとして、ときどき自分がそういう気はないのに、そうしちゃったとか、自分をそういうふうな考えにもっていっちゃったとかっていうような、いわば、半分、無意識の体験として、かならず出てくるっていうふうに思います。それは、思春期までは、かなり、全面的に出てくると思います。だから、かなりな程度、人間の生涯を決定するっていうふうに、一生涯の心の働きを決定すると思います。
感覚の働きは、かなり後から、どんどんどんどん、発達したり、増えたりしますから、つまり、大脳皮質にどんどん重なってきますから、それらをぜんぶ混合したものとして、融合したものとして、人間の精神の働きっていうのはありますから、心の働きが決定されたから、ぜんぶ決定されたってことにはなりませんけど、しかし、重要に決定するだろうって思います。
それで、やっぱりこれは、うまくなかったなってことは、ぼくもそう思っていますけど、これは、ある意味では、どうすることもできないので、一生涯、引きずっていくわけですし、一生涯、自分の中に抑え込んだり、それを修正したり、否定したりしながら、いく致し方がないわけです。だけれども、結局、人間が生きるっていうことは何なのかっていうことにもなりますけど、そういう第一次的に決定してしまって、ほんとならば、無意識の中にしまい込まれているもので、どうすることもできないのですけども、その規定を自分で、意志的に抑えたりとか、修正したりとか、否定したりしながら、それを超えていこうっていうふうに考える、そういうふうにやっていくことが、人間が生きるっていうことですから、それは、だれでもそういうふうにやっていると思いますし、極端に乳幼児期のあれが悪い、失敗だっていうふうに、とくに、母親との関係は失敗だっていうふうに思える人は、きっと、そうとう、人には言えないところで、ずいぶん苦労してるんだろうなと思います。つまり、それを、たえず、超えよう超えようとして、それを意識的に抑えたりとか、意識的に修正して、あっ、いかんと思ったりってことを繰り返してやっているんだと思います。そのことは、悪い面、つまり、マイナスな面でもありますけど、不幸な面でもありますけど、逆に、そういう不幸な面をバネにして、なんかを人よりも、余計にやっちゃうってことが、ヴェイユもそうですけど、やっちゃうってこともありうるわけです。
それだから、そこで、価値観の問題になるわけですけど、人よりも余計にやっちゃうやつは、やっちゃった人は、えらいのか、それじゃ、そうやらないで、非常に健康に生きすぎて、夫婦仲良く、子ども仲良く、立派に育てて老いたっていう、それは、よくない生き方なのか、価値のない生き方なのかっていったら、けっしてそうじゃないっていう観点にどうしてもなります。それは。致し方がないんじゃないでしょうか、致し方がないって言えるほど、ぼくは、乳幼児期の体験、とくに、母親との体験っていうのは、関係の失敗っていうのは、それくらい、ある意味で重要な、ある意味では、なにそんなのは、超えたり、否定したりすればいいんだっていうことになるわけですけど、そういうものとして、あらわれるだろうっていうふうに思っています。
たとえば、ヴェイユみたいに、ちっとも楽しくなくて、授乳された人っていうのは、体験をもっている乳幼児っていうのは、やっぱり、ヴェイユは、晩年はそうだったですけど、やっぱり、一種、拒食症的な、つまり、食べることがちっとも楽しくないっていうふうになって、ずいぶんあらわれるんじゃないかなっていうふうに思います。
そういうことの体験っていうのは、動物でも、ちゃんと子どもには刷り込まれます。人間だったらなおさらで、子どもにぜんぶ刷り込まれているって考えられたほうがいいほど、たいへんだと思いますけど、そりゃあ考えようで、不幸とか、苦痛とかっていうのは、いくらでも、それをバネにして、人一倍なにかをしちゃうっていうようなこともありますし、そんなものない人っていうのもいないですけど、比較的なくて、無事に過ぎたっていう人がいたら、大変いいことじゃないかなと思うんです。
つまり、そういう人は、ぼくは、あまり、お目にかかったことがないんです。たいていはみんな、口で言うか、言わないかは、別として、そうとう心の中で苦労しているわけです。それは、もう源泉にそれがあるんだから、乳幼児期にあるのであって、どうしようもないのです。だけど、ずいぶん苦労したりして、それを我慢したりして、それがぜんぜんなかったら、これほどいいことはないですけど、どんな父親、母親でも、よくいってたいてい6割くらい、うまい関係を子どもとつくったっていうふうにできたら、たいしたものであって、たいていは4割とか、3割とか、もっと、7割、8割の人もいるわけでしょうけど、そしたら、それは立派なものだと、そういう人は、自分の子どもは、どんな不幸な目にあったって、頭がおかしくなっちゃったり、それから、おかしなことをしでかしたりとか、ないよって自信をもって、ぼくはいいと思います。それくらい、重要だと思います。つまり、それくらい響きます。
そういう人は、みんなおかしくなっちゃうかっていうと、そんなことはないです。だけども、逆におかしな人っていうか、たとえば、精神の病気をした人っていうのは、かならず、100%、やっぱりおかしいです。つまり、乳幼児期の母親との関係がおかしいです。だけど、そこがおかしければ、100%精神がおかしくなるか、やがて、精神病者になるかっていったら、それは違います。それは、人間はそれを克服することが、生きるっていうことなんですから、それができちゃう場合もありますけど、でも、逆は、絶対100%そうだと、ぼくは信じます。自信を持って言い切れます。つまり、精神がおかしくなったっていう、少なくとも病院に入って、病院に入院するみたいなくらいおかしい人がいたら、その人の乳幼児期の育ち方は、100%だめだったなっていうふうに云えるってことは間違いないと、ぼくは思っています。重要さって意味は、そういうことになるような気がいたします。
(笠原さん)
しかしですね、そういうふうにおかしい人間っていうのも、ヴェイユも、おかしいっていうのは、カッコ付きのおかしいと言ったほうがいいかもしれませんけど…
(笠原さん)
それでは、いちばん多い問題は、労働とか、社会とか、国家とかいうご質問なんですけど、とてもぜんぶ申し上げられませんけど、選んで読ませていただきます。
「精神労働と肉体労働の差異の問題と、政府をリコールする選挙制度との問題は、まったく位相が違うのではないか。民衆の選挙に対するリコール制度は、現在の日本の選挙制度と大差ないと思われる。精神労働と肉体労働とは、質的差異が大きすぎ、交換不可能と思われます。」っていうのとか、「国家を開いていっても、民族主義はいつまでも残るのではないか。普遍理念でもって、民族主義は超えられると思われますでしょうか。」、「将来は、技術的に、肉体労働の数は限りなく少なくなっていくと思いますが、現在では、日本でのサービス業従事者が、60%を超えているのは、東南アジア各国で現地生産したり、不法入国者を使ったりして、労働者をカバーしているので、問題を他国に押しつけているだけではありませんか。」、いささか、埴谷雄高風の発想ですが、そういうのとか、「みんなが自由に、いろいろな国家感や宗教像をもって、気軽に生きていくことが、開かれた国家に至る経路ということでしょうか。」、「民衆に対して、開かれた国家の民衆とは誰ですか。」、「国籍のない人、外国人労働者も無記名直接投票ができなければならないと思いますか。」、「失業問題など、なかなかむずかしいものがあります。具体的な展望はいかがですか。」うんぬんというような、ちょっとそのへんで。
(吉本さん)
全部にうまく、丁重に答えられるかどうか、わかりませんけど、耳に残ったところからいいますと、たとえば、民族主義っていうのは、国家を開いたって残るじゃないかっていうふうにいう考え方ですけど、ぼくは、この場合、国家が開かれて、民族主義が残ったとしても、その民族主義の内容は、民族的習慣っていいましょうか、あるいは、風俗とか、つまり、日本人はやっぱり、着物を着るっていうことをやめないよっていうような意味で、つまり、風俗・習慣としては残るけど、イズムとして残るっていうふうには、ぼくには思いません。国家が開かれていれば、徐々に民族主義は解体していくだろうっていうふうに、ぼくには思われます。
それから、耳に残ったところから申し上げますと、国家を開くっていうことが、頭脳労働と肉体労働との区別があるっていうことと違わないっていうふうな質問だったと思いますけど、それは、そんなことないと思います。いってみれば、そういう言い方を比喩でいえば、国家の頭脳機関っていうのが、政府であって、そこから政令が出て、法律をつくったり、法律が出たり、命令が出たりしてっていうふうに、下に及んでいくってなっていまして、それで、国民、大衆がいるわけですから、国家と国民、あるいは、政府と国民、大衆っていうふうにいえば、国民大衆が、肉体労働を象徴し、国家が、ようするに、頭脳労働を象徴するっていうのは、命令・被命令、支配・被支配っていう関係からみれば、まったく違う位相の問題じゃないと、ぼくはそう思いますけど。
それから、リコール制、ようするに、直接無記名投票で、リコールできるっていう法律があるとすると、町会議員選挙して、県会議員選挙して、市会議員選挙して、それで、国会議員選挙して、それが多数決でなんとか決めてっていうふうに、これが、現在の代理人制度ですけど、それと、直接無記名投票とは、まるで違うっていうふうに思います。
直接無記名投票っていうのは、それが、理想的なイメージでいえば、だれに気兼ねすることもなく、ようするに、この政府、ほんとうにだめだと思ったら、だめだって言っちゃえば、投票しちゃえばいいわけですから、それが多かったら、政府はやめなくちゃいけない。こういうふうになりますから、これは、自民党が多数決でいくらやって、引っくり返らないよっていうこととは、まるで違うので、いってみれば、何に匹敵するかっていうと、国民全員がデモに出かけていって、全員がデモに出かけていって、「内閣やめろ」って言ってるのと同じことに匹敵すると、ぼくは思います。それをやる代わりに、リコールするんだっていう、それくらい意味が違うと思います。
それから、もし、ソ連が、つまり、レーニン時代から、そういうリコール制ってこと、つまり、労働者国家だって名乗るだけの、実質で、リコール制ができるっていう、そういう法律がつくってあったら、つい2,3年前みたいな、あんなていたらくはいらないわけで、もっと前にリコールされているわけです。そういうのがないものだから、ギリギリになってはじめて、労働者とか、一般のロシアの民衆とかが、はじめて自分の意思表示をしてっていうふうになったわけで、それは、法律がそういうふうにつくられたら、もっと前になっていたっていうふうに、ぼくには思います。
それは、無記名直接投票っていうことは、そのこと当体自体に対する無記名直接投票っていうことは、だれのオルガニゼーション、つまり、だれが、宣伝、先導するのも、ぜんぜん効かないんだよっていうことを意味しますから、つまり、その人は、だれの気兼ねなしに、自分の思っているとおり、言っちゃえばいいんだって、書いちゃえばいいんだってことになりますから、その意思表示っていうことになれば、それは、ぼくは、いまの代議員制とは、まるで違うだろうっていうふうに思われます。
それをもうすこし、立体的にいいますと、そういうふうなものができるっていうことと、なにが対応するかっていいますと、ようするに、国民がっていいましょうか、一般大衆がっていいましょうか、市民がっていってもいいんですけど、自分が、ようするに、現在のこの社会の主人公であるっていうことを、ほんとうにわかっちゃうってことを意味すると思います。いまでもそうなっているんです、実際は。実際はそうなっているんです。
どうしてかっていうと、統計を取りますと、たとえば、昨年度は91%の人が、日本の民衆は、91%の人が、ようするに、自分は中流生活を営んでいるって言ってるわけです。ある程度とると、そう出てくるわけです。91%の人は、中流生活をしているってことは、社会のちょうど真ん中の生活程度で、真ん中の収入で、真ん中の文化程度であって、そういう自由度を自分は享受しているんだよって、つまり、生活してるんだよって人は、91%いるっていうことを意味しているわけです。
そうしたらば、それが主人公であるっていうことは、91%、つまり、50%以上ですから、やはり、100%近くですから、これは、自分がある程度、そう思っているわけなんだから、思って生活していると思っているわけですから、それが主人公に決まっているわけです。その人の意欲っていうか、意思っていうのは、即座に反映しなければ、嘘なわけなんです。即座に、いまの政治なら政治に反映しなければ、それが反映しないのは、なぜかって言ったら、そうなってるのに、そう自覚していないってことを意味しています。そう自覚したら、リコールしようとしたらいつでもできるってことを意味してるわけです。それは、そうなっているにもかかわらず、それぞれの人が自覚していないってことを意味しています。
たとえば、いろんなことが云えます。経済的な問題、不況だとかなんとかいって、いまの不況についての考え方っていうのは、ぜんぶ嘘です。極端にいえば、ぜんぶ嘘なんです。全部、政府、あるいは、支配者の側からの理念なんです。で、不況なんです。それから、マルクス主義者でも、不況だ、不況だっていうか、複合不況だって言ってるやつがいますけど、そんなのぜんぶ嘘です。それは、いつでも支配っていうところから、経済現象を考えようとしているから、そうなるのです。そういうふうになるのです。
だけれども、こんなことは、簡単なことなんです。つまり、91%の人が、ようするに、自分は、社会の中枢を占めていると思っているってことはひとつの要件、それから、もうひとつは、ぼくが調べたところでは、間違いなくそうなんですけど、だいたい91%の人は、ようするに、所得が100万円あるとすれば、そのうち50万円以上を消費に使っているんです。その消費のうち、光熱費とか、家賃とかっていう、月々かならず使うあれを必要消費っていいますけど、それと、今度は、選択消費っていいますけど、今月は旅行に行くとか、遊びに行くとか、食べに行くとか、それに使っている消費と、どっちが多いかっていうと、遊びに行くとか、自分で勝手に使える消費のほうが、60%以上を占めています。つまり、日本人っていうのはそうです。中流の生活をして、自分は、収入の所得の100万円の人だったら、50万円のうちのまた、25万円以上です。25万円以上を、自分が選んで使える、消費に使っているっていうのは、厳たる事実です。厳然たる事実です。
そうだとすれば、もし、これはアジテーションになっちゃうか(会場笑)、自覚して、選択して使える部分だけ、今月は使わないっていうことと、91%の人は一斉にやったとしたらどうなるかっていいますと、日本の経済規模は、2分の1、つまり、4分の2から4分の3に、規模が縮小します。すぐに、縮小します。そうしたら、政府なんか潰れます、すぐに。自民党がやろうと、共産党がやろうとおんなじです。それは潰れます。つまり、それだけの実力っていうのが、ようするに、民衆の中に、91%っていうのはあるんです。
だけど知らないでしょ、あなたがたは、ほんとに知ってたら、それをやったら、何にもいらないんです。もちろん、リコール制っていうのは、あれば、いちばんいいですけど、なくたって、おれは使わないぞって言って、で、あなたも使うなって言って、選んで使える部分だから、その人の生活費は、あるいは、生活水準はひとつも下げなくていいんです。つまり、生活水準にかかる部分が、ひとつも減らさなくていいんです。だから、光熱費を減らして、パチパチ電気を消して歩いたりする必要はぜんぜんないんです。ぜんぜんなくて、ただ、ようするに、映画に行くとか、行かないとか、それから、旅行行くとか、行かないとかっていうのを、ようするに、絶対、使わないぞっていうのを、たとえば、1年なら1年、一斉に我慢したら、そうしたら、政府は潰れます。だれがやっても潰れます。つまり、それだけの力があるっていうこと、実力はあるんです。それを知らないっていうだけです。
だけど、経済学者が不況っていうときには、上のほうから考えるわけです。つまり、金融措置がどうしたとか、そういうところからつかまえていって、なぜ不況になったか、複合不況だとかいって、冗談じゃないです。そんな経済学はだめなんです。マルクス経済学も、近代経済学も、ぜんぶ支配の経済学なんです。
ほんとはそうじゃないんです。簡単ですよ。不況であるか、不況でないか、どこで測るかっていうのを、そんなこと一切やめにしたらいいんです。つまり、あなたがたが、去年の1月に比べて、今年の1月の選択消費に旅行に行く量とか、選んで使える消費ですけど、それをどのくらい減らした、何パーセント減らしたとか、通貨が上がったから何パーセント増やしたかとか、そういうのをあれすれば、不況であるかないかっていうのは、すぐにわかるわけです。不況であるかないかは、そこで調べたらいいじゃないですか。それだけど、経済学者は、そうしないです。金融措置がどうしたとか、銀行がどうしたとか、バブルがどうしたとか、そういうふうに言ってるでしょ。しかし、バブルがどうしたっていうことは、絶対に、日本の民衆の91%の民衆の生活水準には何も関係ないです。それから、みなさんも何も関係ないです。けっして、電気を節約するとか、水道を節約するとか、する必要はないです。生活水準は落とす必要ないです。ただ、選ぶ使い方、旅行いくのをちょっとやめようとか、そういうふうにすれば、いまの不況も超えられるわけです。だれでも超えられるから、それはよく知っといたほうがいいです。政府がどう言おうと、経済学者がなんと言おうと、それは嘘ですから、つまり、それは政府筋がそうしなきゃいけないと思っているだけであって、あなたたちがそうする必要はべつにないわけです。
あなたたちは、ただ、こんな政府はおもしろくないと、自民党の政府がおもしろくないと思えば、一斉に、選択消費、選んで使える消費をやめればいいわけです。やめて、つらいけれど、そんなつらさは、生活水準が落ちるつらさじゃないですから、すこし欲望を我慢すればいいわけだから、ジーっとして、1年間もおってごらんなさい、もう大恐慌をきたします。日本の経済規模は、半分ないし4分の3に減っちゃうわけですから、黙っていても、ほかの何もあれも減っちゃうんだから、大恐慌をきたします。かならず、責任取ってやめます、政府は。それをよく知っておいていかれたほうがいいです。共産党がやったっておんなじです。共産党がいくら偉そうなことを言ったって、あなたたちがこういうふうに引き締めれば、それで終わりです。それをどうすることもできやしないです。それできるのは、あなたがた自身だってことだけです。あなたがた自身だけなんです。それをただ知っていないだけです。だから、ひとりの家庭が、電気パチパチ消して歩いたとか、水道をすこし節約したとか、こたつをすこし減らしてとか、そういうふうにやってるでしょ、みなさんは。だけど、そういうのは違うわけです。だけど、そうじゃなくて、そんなものは、極端なこと言って、ぜんぶおれはやめたと、そういうのは、おれは使わないと、貯金しとると、貯金するとまた使われちゃうから(会場笑)、なんか家の押入れにぜんぶ入れておこうと、1年くらい入れとくってやって、そういうふうに全員が、91%の人、全員がやったら、それでもう政府は、手を挙げる以外にないんです。
だから、景気をよくするにはどうするかって言ったら、2つしか方法がないです。政府の支配筋が、景気をよくするにはどうするかっていったら、ようするに、あなたがたに使わせよう、使わせようと、皇太子が結婚したから、いい気持ちになって使うのを期待するわけです。おれもいい着物きて、それで使おうと思って、使ってくれることを期待するってことが、ひとつなんです。それが、61%はそれです。61%ぐらいは、それの影響があるんです。
つまり、あなたがたが、皇太子にのっとって、すこしいい着物きようなんて思うと、そうすると景気がよくなるっていう作用が、61%の作用があると、あとは、企業に対して、金をたくさん貸すから、すこし設備投資しようとか、それから、建築業に対しては、すこし援助するから、住宅費を援助するから、家を建てろとかっていうふうに、それ以外に、公共事業にあれして、そこに金を使うから、それですこし景気がよくなるってするから、結局、みなさんが、いっぱい消費してくれることを期待して、選択消費してることを期待して、それで、それは景気対策だって云っているわけです。
だから、ようするに、いい気なものだよって、つまり、ほんとにみなさんが自覚したら、そんな馬鹿なこと言ったって、おれはいうこときかないぜって、つまり、おれは使わないぜって、こういうふうに、みなさんがやったら、それで終わりなんです。そのぐらい、日本とか、フランスもそうですけど、アメリカとかって、つまり、先進社会っていいますか、先進国です。つまり、所得のうち、消費の額が、半分を超しちゃった社会っていうのの役割は、ものすごく重要だっていうこと、それをただ、みなさんは知っていないっていうだけなわけです。自覚していないってだけで、自覚すれば、それで何にもいらないんです。余計なことは何にもいらないぜっていうことになります。
つまり、社会を変えるにはどうすればいいかって、ようするに、脇を引き締めればいいんです。それだけのことです。自覚すれば、そういうことになりますから、つまり、そういうことがわからない反体制なんてインチキですから、ぜんぶ信用しない方がいいです。
それから、もうひとつのことは、そういうふうにして、第三次産業になりますと、肉体労働と精神労働との差別っていうのは、たしかに、一人の中に、両方やらなくちゃいけない部分があるから、肉体労働がぜひ必要だってことは、日本の社会もそうなりつつありますけど、第三国の人が来て、そういう役割をおっているわけです。低い給料で、そういう人たちは、働いてくれるわけです。肉体労働してくれるわけで、日本でも、だんだん、それが社会問題化しているわけです。ヨーロッパだったら、なおさら社会問題化しております。
それは、たしかに、おっしゃるとおりなんです。だけど、そうおっしゃる人の考え方は、非常に、ぼくは、危険だと思うことがあるのは、つまり、それは、おんなじだよ、そういう考え方すると、スターリン主義とおんなじだよ、ロシアでやったこととおなんじになっちゃうんだよ。というのは、つまり、たしかにそうなんです。そういう場合に、下層の肉体労働をして、それで、低い給料をもらっていると、この給料を、本国に送ると、通貨の差異があるために、本国では、1か月分暮らせるんだっていう額が儲かるから、こういうのをやるんだっていうこと、それで、日本にやってきて、そういうふうに、肉体労働でもやるんだっていうのが、だんだん増えてきて、東南アジアとか、フィリピンとか、そういうところが増えているわけです。あるいは、中東、中近東とか増えているわけです。それで、その人たちは、日本人の肉体労働の代わりをしてくれるわけです。
そうすると、代わりをだんだんしてくると、それはたぶん、もっと多くなるってことが考えられるわけです。そうすると、その格差をどうしてくれるんだっていうことになるんです。ぼくらが考える唯一のことは、その必然は、たぶん避けがたいだろうっていうのが、ぼくらの考え方です。
ですから、避けがたいから、そのいちばんあれしてる外国人労働者を搾取してるって、日本の労働者は、外国人労働者を搾取し、資本家は日本の労働者を搾取し、こういうふうになってるじゃないかっていうことになるわけで、世界的規模でいえば、アジア・アフリカ地区の貧困っていうのを、先進国は金持ちになって、こっちは貧困の役割を背負ってってなるし、また、産業でいえば、こっちが、農業とか、漁業とかもっぱらやってるのに、こっちは、第三次産業をあれして、あんまり手を汚さないで儲かる。いい気持ちになってるじゃないかってことになるわけです。ここの格差、ぼくの考え方では、それは避けがたいだろうと思います。
国内的にいえば、ようするに第三国の人たちが安い給料でもくるっていう人たちがきて、それで、安い給料で肉体労働して、働くっていう、そういうあれが増えていくだろうって、日本人は、だんだん、そういうところから手を引いていくだろう、日本の労働者は引いていくだろう、それが避けがたいだろうって思うわけです。
どうしたらいいのか、それじゃあ、立て、万国の労働者で、そういう人たちを組織して、これで革命をやるんだっていうふうに、たぶん、考えるだろうと思うわけです。つまり、既成の左翼っていうのは、そう考えると思うんです。
しかし、ぼくはそう思わないんです。そうやると嘘になっちゃうんです。つまり、なぜくるのかっていったら、低い給料で、肉体労働しても、やっぱり、ここでひと月働くと、故郷では1年間暮らせるんだよっていうのがあるから、働きに来ているんだから、それは、非常に重要なことなので、ぼくだったら、ぼくだったらっていうのはおかしいですけど、そうしてくれないですけど、つまり、ぼくだったら、一種の、厚生年金手帳とかなんとかと同じで、一種の外国人労働手帳とかいう、そういう手帳をつくって、この手帳を持ってくると、月々年金くれて、格差を解消してくれるんだみたいな、そういうことをやると思います。
それから、世界的な規模でいえば、アジア・アフリカが兵站基地とか、全世界の農産物の基地になり、それから、先進国、つまり、アメリカとか、フランスとか、日本とか、そういうのだったら、いい気持ちになって、手を汚さないで儲けとくっていうふうになっていくっていうふうになるだろうと思います。
これをどうするんだって、これは、ようするに、従来の既成の左翼っていうのは、そういうのは帝国主義で削除しているんだって、こういうふうに言って、どうするんだおまえはっていうふうに言ったら、どうしようもないから、ソ連なんか潰れちゃったんですよ。つまり、嘘になって、潰れちゃったんだと、だから、ぼくはそうじゃなくて、ようするに、価値概念を拡張する以外にないんだ。つまり、贈与する以外にないだろうなっていうふうに、ぼくは思います。
贈与交換っていうことを、価値交換の中に入れていくっていう以外に、つまり、先進社会は、そういうふうにして贈与していくっていうふうにする以外にないだろうなと思うわけです。現在でも、もちろん、日本でも、アメリカでも、フランスでもいいですけど、そういう先進国が、たとえば、アフリカの国とか、アジアの国に、たくさんお金を支出しています。これは、民間からも支出して、政府も支出しています。
そうすると、帝国主義で侵略だから、経済的に抑えているんだっていう見方も、もちろんできますけど、逆からいうと、ようするに、返してもらうあては、ぜんぜんないわけです。どうしてかっていうと、そういう国の年間GNPよりも、借りた金のほうがずっと多いわけですから、返せるわけがないから、いまだって、返せると思って貸してるわけじゃないんです。ないんだけど、いちおう貸してるっていうかたちになってるんです。だけど、そうじゃない、これは、くれちゃうんだっていう、価値観として、これは贈与するんだって、贈与して、そこでなんとかして、格差を解消するんだっていう考え方をとる以外に、ぼくはないだろうなと思います。
ぼくはとらないです。つまり、日本のお金とか、先進国のお金が第三国とか、アフリカにいってとか、民間の金がいってとかっていうふうに、そうすると、これはぜんぶ帝国主義的侵略だっていう観点も、もちろん、旧来の左翼の観点からするとありうるんだけど、だけど、ぼくはその考えをとりません。その考えはだめだと思います。
そうじゃなくて、それよりも、もう返してもらおうと思うな、つまり、思わないところの価値概念でもって、そういう格差を解消するっていうやりかたをする以外にないっていうふうに、ぼくは、そう考えます。
国内でも、そう考えます。第三国の肉体労働者で、安い賃金で働いている人たちも、それは、必要があるからやってきて、必要があるから働いてるんですから、だから、一種の外国人労働者手帳みたいなのをつくって、なんとかして、それを持っていけば、ようするに、年金のようにあれをくれるんだっていうような、そういうあれをつくって、なんとかして、格差を解消するっていうやりかたを、ぼくならとると思います。
ぼくだったら、おめえら、いちばん下層の労働者であれだから、これを団結して、この社会をあれしようっていうふうに、そういうふうに、ぼくだったら、そういうやりかたをとりません。
ぼくだったら、贈与しろとか、そういう年金手帳みたいなのをつくって、格差を解消しようみたいな、ぼくだったら、そういうやりかたをとります。いままで、レーニン以降、ロシアで失敗したことを、ほかの社会主義国で失敗しているようなことを、またやることはないので、そういうのはだめだと思います。
いろんなことで、そういうことがぼくはいえるわけで、そういうことをいうやつが、笠原さんもそうですけど、官立大学の先生で、そういうことを、マルクス主義経済学で、そういうことを言っちゃうやつがいるわけで、それはちょうど、おまえ給料もらって、ジャーナリズムでいろんなことを書いたりして、その給料もらったあげく、ジャーナリズムでなんか書いて、ちゃらちゃらしてるけど、おまえは、おれたちの税金を搾取してるんだぞと、おまえ言われたらどうだと、こういうことなんです。
それだって、嘘じゃないんです。ようするに、あいつらは、民衆の税金を給与にしているわけだから、それで嘘じゃないんです。官立大学だからそうなんです。でも、そうだったら、いい気持ちしないでしょ。いい気持ちしないで、いやぁっていうでしょ。そういうふうに言われると、ちょっと困るんだって言うに決まっているわけです。そういうふうに言われたら困るっていうことを、人に対しても言うなっていうことです(会場笑)。
それから、そんな汚い経済学をやめろっていうことなんです。それで、経済学もよせって、それは嘘だからよせっていうことになるので、だけど、自分は平気でそういうことを、官立大学で、ようするに、民衆の税金から集めた給与をもらってるくせして、別でなんか書くと、そこから原稿料入ってまたもらって、そういうことをしてるくせに、世界的なことでいうと、マルクス主義系左翼だから、帝国主義が搾取して、後進国を搾取しているって言わないと済まないものだから、そう言ってるけど、そんなことは、自分に振り返ってみるとすぐわかるわけで、嘘じゃないですよ、確かにそうです。嘘じゃないです、つまり、こっちも儲けているし、民間からいけば儲けてる、政府はそうはいかないけど、儲けているわけだから、嘘じゃないことは、確かだけど、しかし、同時に、それは寄与していることでもあるわけですし、また、借金は返してもらってないから、永久に返してもらえないかもしれないっていうこと、パーになっちゃうかもしれないよっていうことになってるわけで、だから、ぼくだったら、贈与っていう問題を、非常にあからさまに、問題としてうち出して、それで、それは解決するっていうやりかたをとると、ぼくはそう思います。ぼくの考え方はそうです。
(笠原さん)
官立大学でなくて幸いです。(会場笑)。
(笠原さん)
もうちょっとだけ、類似した問題。これは、簡単にお願いしたいんですが、「ヴェイユが工場労働したことの意味を、身体を通じた思想の進化という方法と捉えたらどうでしょうか。そうすると、工場労働が単なるエピソードとは考えられない、重要な意味をもつのではないか。宗教思想を考える場合、身体という計器を抜きにはできないのではないか。重力という言葉にも、それを感じますが。」ということと、ちょっと違うんですが、「自立という問題ですが、思想にも、政治にも、圧倒的な力をもっていたスターリニズムやナチスに捉えることなく、ヴェイユは、ドイツの政治状況を分析したと、その分析は、現在も生きた言葉としてある。自立するとは、奇妙な情熱をもつ人間集団や、政治的マヌーバーの言葉が密集する中でも、自分の課題を白い紙と鉛筆をもって考えようとする意志であると、わたしは解釈しているのですが、吉本さんの意見を伺いたい。」というような、あるいは、「中央集権から地方分権について、どう思われますか。」みたいなものもある。適当にお答えください。あんまり、時間がだんだんなく、あと、宗教の問題もありますので、よろしく。
(吉本さん)
自立っていうことで、いま言われたことは、たいへん立派な言い方で、ぼくが言うより、ずっと立派な言い方だと思います。それで、方策っていうのはあるわけです。そう言うことは全部わかっているわけです。つまり、だれが最初にそうすればいいのって言ったら、それは、いちおうはやっぱり、組織されてる、つまり、労働組合をつくっている組織されてる労働者がそうすればいいんです。
どうすればいいかって言ったら簡単なことで、ようするに、あらゆる、公的な政党に属している人間は、労働組合人たり得えないっていう規定をもった労働組合をつくればいいわけです。つくれば、まず、そこからはじまるっていうふうに、ぼくは思います。
だけど、いまの労働運動っていうのは、見ればわかるように、元総評より連合のほうがまだましだよっていうふうになってるけど、連合っていうのは何を考えているかっていうと、ようするに、ゆるくすることを考えてるわけで、スターリン主義っていいましょうか、ゆるめて水で薄めることばっかり考えて、ようするに、共産党あれだったのが社会党で、社会党支援してたのが、今度は民社党的なものを支援するみたいな、そういうゆるくしているだけなんです。てめえたちは、ようするに、公的な政党なんて入ってるやつは、ぜんぶ労働組合たり得ないっていうような労働運動やってみろっていうふうに、ぼくは思うわけです。つまり、そういうのがないんです。連合なんていうのはないんです。それは、自立していないんです。だけど、それがつくれるようになったら、大したものです。そこからはじまると、ぼくは思っています。
それから、ヴェイユの工場体験っていうんですけど、たしかに、ヴェイユの思想に、たくさんの寄与をしてると、思いますけども、ぼくは、あんまり、あれじゃないんです。つまり、ヴェイユっていうのは、頭しかない人ですから、肉体が弱いし、不器用だし、頭しかない人ですから、それは、そういう人は、頭の巨大さを発揮すれば、それでいいんだっていうふうに、ぼくは思います。わざわざそういう人が肉体労働をするために、工場体験をするっていう発想は、ぼくだったら、よせよせっていうふうに言うと思います。それが、ぼくは、ヴェイユの特徴でもあります。
それから、日本でいえば、宮沢賢治なんかもそうなんです。べつにインテリで、体弱いくせにして、自分で畑を耕して、父親の残した小屋をあれして、そこのところで畑を耕したりして、また病気になったりして、つまり、何の意味もないよ、それはって、そんなことはしなくていいんだよって、それは立派な童話をたくさん書いてくれたほうが、ずっといいわけです。だけども、ご当人たちは、やめがたいものがあって、そうしていると思います。
それは、止めることはできないけれども、それは、普遍化することはできないです。ヴェイユの考え方も普遍化することはできない。みんなそうしようっていうこともできないです。そうしようっていうふうに言っちゃうと、スターリン主義、毛沢東主義みたいになっちゃうんです。つまり、下放っていいましょうか、農村へ行ってあれしろとか、こういうのは、ぼくらも戦争中、軍隊・軍部から言われて、工場へ行きましたけど、そういうこと、ファシズムか、スターリニズムのやりかたとおんなじになっちゃうんです。
それで、宮沢賢治だって、詩をみると、テニスをやりながら教える学校の先生から教わる学問なんか身に付きはしないんだ、それよりは、君たちが畑を耕して、土をこねてとかいって、そうやって身をもって刻んでいく、そういう学問は、ほんとうの学問だみたいな詩がありますけど、それは嘘だと思います。つまり、学問なんていうのは、テニスをしながらやろうと、カップルを見ながらやろうと、それは、教えたことだけを受け取ればいいので、学問の技術はそういうものだと思います。ぼくは、それに価値観をつけたらいけないと思います。ぼくだったら、いや、それは違うよっていうふうに、宮沢賢治のそこがいちばん苦しいところだと思います。息苦しいところだと思います。ぼくだったら、そこまでは普遍化できないよっていうふうに思います。それが、だいたいぼくらの考え方です。
(笠原さん)
はい、ありがとうございました。
それじゃあ続いて、宗教関係に移りたいと思いますが、いくつか読みます。「ヴェイユの神学思想についてのお話、非常に興味深く聞かせていただきました。わたしにとっても、切実な問題です。最後に話された収れんする一点、無名の世界は、吉本さんの二重否定の論理によって、どれほど理解を助けられたかもしれません。私自身も、神の恩寵は、認識の問題として捉えています。自我が自我を逆照射するとき、それは普遍の世界へと通じる道を予感させます。そしてなおも、その認識の実、知恵の実を食べた原罪としての否定の中に、キリストが死んでいったということにおいて、はじめて、恩寵という新約の世界が生まれたということなのではないでしょうか。また、吉本さんのお話の中に、ヴェイユの重力についての概念は、物質性、安定性、死と密接であることを思わせます。ということは、マルクスの価値物と、ヴェイユの価値は、価値物を包含しつつ、超えた概念といえるのではないでしょうか。」、ちょっとわかりにくいんですが、そういうご質問、「それから、シモーヌ・ヴェイユのお話を聞いて、キルケゴールの思想との関連を考えたと、キルケゴールも絶望し、死のなかから神を見ようとしました。吉本氏の最後での、第一級のところとは、神であると考えます。聖書の詩篇に愚かなるものは神などいないという、このところから、中世のアンセム、近代のカールバルトなどの神学者は、神の存在証明をしています。しかし、人間の考えでは、神を語ることは不可能であり、晩年のヴェイユはこの神と出会い、神の存在証明を試みようとしたと考えますが、いかがでしょうか。」とか、「キリスト教に関する捉え方が、ユングのヨブ記、ヨハネの黙示録の捉え方と、非常に共通している概念であると思うが、シモーヌ・ヴェイユとC・G・ユングは、お互いに影響し合うようなことがあったのか、シモーヌ・ヴェイユはヨブ記について、もっと詳しく話しておれば、それが知りたいです。」、ちょっとその辺りでいかがですか。
(吉本さん)
いまのご質問は、ご質問とは言えなくて、ぼくよりずっと立派な人のような気がします。ぼくは、ただ拝聴している。(会場笑)。それ以外にないくらい立派な考え方じゃないでしょうか。
ぼくが、ヴェイユが第一級の考え方に魅かれるのは、やっぱり、わかりやすくいえば、党派でない思想っていいましょうか、どういう角度からも見えるひとつの場所っていうのは、ぼく、自分の考え方の、ひとつの憧れの点なので、そういう憧れる点っていうところを考えて、それをぼくらよりもはるかにはっきり言っちゃって、そういう領域っていうのはあるんだよと考えてよさそうな感じがするものですから、とても魅かれるわけです。
だけど、ぼくは、もっとまるで手前っていいますか、まるで手前のところでいるので、到底ほんとは、考えることも、いくこともできないみたいなところにいるので、それを押し殺して何かを言ってしまうと、なんとなく嘘ついてるみたいに言いにくいですから、ぼくは、ぜんぜんそれ以前ですから、具体的におっしゃったことは、はるかに、ぼくなんかより、いいこと、立派なことの考えを述べておられるっていうのが、ぼくの感想です。
そういうものは、宮沢賢治にも感ずるので、『銀河鉄道の夜』の中でも、ジョバンニっていうのが、いっしょに乗り合わせた女の子と言い合うところがあって、おまえの神さまは、ほんとうじゃなくて、おれの神さまがほんとうだみたいなことを、お互いに自分の神っていうのを言い張るところがあるわけですけど、それはまあ現状なんですけど、それも宮沢賢治が指摘しちゃってるんですけど、そうであるにもかかわらず、違う神を信じている人がやったことでも、感動するってことがありうるってことも、非常に確かなことなわけです。
そうだとしたらば、違う神であっても、どんな神であっても、ある領域を考えれば、その領域は、みんな、わかるんだと、感動しないまでも、そこは、どっからみても、わかり合うことができるんだっていう、そういう領域がどっかありうるっていうことを、宮沢賢治も、一面では言いたくて、一面では自分の党派である法華経信仰がいちばんいいんだと、ほんとは言いたいわけですけど、もうすこし、違うところでは、宮沢賢治が、どっから見たってわかるんだと、他人の信じてる宗教の人だって、感動することをやったことは、感動することはあるんだって、それは相互にありうるんだっていう、そういうことを糧にしてっていいますか、媒介にして、どっか非常に普遍的に、だれでも了解可能だっていう、ひとつの、宗教だけじゃなくて、非宗教的な思想でも、やっぱり、了解可能だっていう、そこのところがあるんじゃないかっていうことを、ぼくは、考えることだけは、考えるわけで、それに対して、一歩だけ、非常に確かなこと、ヴェイユの神学思想っていうのは、確かなことを言っちゃってるなっていう感じが、ぼくはするので、それは相当、身にこたえたっていうことで、ただ自分は、到底それを云うだけのところにいないですから、まったく以前にいるから、そのことについて、必要以上に言っちゃうと、あいつ、つまらないことを言ってるってなってしまうので、ぼくは、いま言われた人の考え方でよろしいんじゃないかなっていうふうに思うんだけどね。
(笠原さん)
続きまして、「ヴェイユが現代に生きるわけ、それは、キリスト教でも仏教でもない、革命思想でもない、どこからでもいける場所を提供した、この点を、もうすこし具体的にお話しいただきたい。ヴェイユにおけるヨーロッパの徹底的な理念的な生は、ヨーロッパの父系的な家族のあり方とに関係があるのではないでしょうか。アジアにおける母系的な家族を伝統としてもっているわたしたちとの違いは、どのようにお考えでしょうか。」、「マルクスの労働概念の拡張と不幸などを通して生じる、真実の神に近づく、または、神がわれわれに近づく、2つの…領域でしょうか、2つのなんとかの関係について、どのように考えますか。」
(吉本さん)
ヨーロッパの父系的な社会だから、ヴェイユの考え方は父系的なところがあるんじゃないかっていうのは、ぼくも、うすうす感じることがあるんです。たとえば、ヴェイユはこういうことを言ってるんです。ぼくにはわかんないなと思う。ヴェイユは、非常に頭が痛い、頭痛っていうのは持病ですから、うんと頭が痛くなると、相手の自分と同じ頭が痛い箇所をぶん殴ってやりたくなっちゃうんだっていう言い方をしているところがあります。つまり、痛みっていうのを、相手もおんなじところをぶん殴ってやりたいみたいなところがあるんだっていうことを言ってるところがあります。
それはちょっと、ぼくは合点がいかない考え方なんで、ほんとはよくわからないんで、それは、たぶん父系的なところなんじゃないかなって、父系的な考え方の潔さっていうんじゃないかなっていうふうに思うわけです。
ぼくが仮に相手のそこをぶん殴りたくなっちゃったと、自分が痛くなったとして、相手もおれと同じぐらい痛いといいなと思っちゃうことがあるかっていうと、正直いうと、それはあんまりないんです、ぼくは。それじゃあ、瞬間的にもないかって言われると、それはちょっと怪しくなってきて、瞬間的にはあるかもしれないけど、それは、すぐ消えちゃう程度のものだと、だけど、その瞬間をいかしたとして、そういう考え方っていうのを、自分が、いけねって、こういう考え方をしたらいけねぇんだって、次の瞬間に思って、なぜいけないのかっていうふうにいうと、やっぱりそれは、人間っていうものがもっている弱さじゃないのかなっていうふうに、ぼくなら、そういう解釈の仕方をしちゃうんですけど、ヴェイユは、それは人間の弱さなんだっていう解釈の仕方はとっていません。
かなり本気っていいましょうか、あんまり痛くなると、なんかそこにいる人が、おんなじところ痛くなればいいのにと思ったり、おんなじところ引っ叩いてやりたくなっちゃうっていうことを、かなり、ヒステリックじゃなく言っています。それはちょっと、ぼくらの感覚と違うなっていうふうに思っちゃうわけで、これはちょっと、ほんとはわからないなっていう、すると、このほんとはわからないなの根源を探っていくと、やっぱり、父系的っていうことに行きつくのかもしれないなって気がするんです。
これは、だいぶ違うんです。日本人なんて、母系的ですから、徹頭徹尾母系的な社会ですから、ちょっとそこが違っちゃうんです。それはもう、そういう考え方をもっちゃったら、それは弱さだから、あんまり、出さない方がいいよっていうふうな考え方になっちゃって、その考え方は、たぶん、たいへん母系的な考え方なように、ぼくには思えるんです。
だから、そこは違ったとしても、神の概念はもちろん、旧約聖書の神の概念から、日本の神の概念はまったく違う、日本の神の概念は、自然のあらゆる部分っていうのをみんな、神として擬人化してしまうっていうのが、日本人なんかの原始的なところにある考え方なんですけど、そんなものはヨーロッパにはないので、ヨーロッパは、神が、創造主が、あらゆるものをみんなつくっちゃったものなんだっていう考え方になってると、これは、どうしても、父系的な考え方を突き詰めていくと、そうなっちゃうってことになるような気がします。
これは、まったく違うので、われわれは、両方知ってはいるんですけど、本音をどこまでも辿っていっちゃうと、かなり母系的なものが出てきちゃうっていうふうに、ぼくには思えるんです。つまり、そこでは、父系的・母系的っていうふうに、言えそうな気がして、とくに、ぼくは、ここ数年間はそうです。つまり、ヨーロッパ並みのあれでもって、わりあいにヨーロッパ人の翻訳した書物を、そういうつもりで読んで、自分がヨーロッパ人になりきったようなつもりで、読んでるんだけど、読んでたけれども、ここ数年はそうじゃなくて、途中で、おやってことになっちゃって、おれはやられてるほうだぜっていう、ほうの人間らしいぞとかっていうふうに、感覚的になっちゃうところがあって、近頃では、ぼくもそういう差っていうのが、ちょっと気になってしょうがないっていうふうになってるところがあるから、たぶん、そこじゃないんでしょうか。
それで、不幸ってことと、労働ってことですけど、ヴェイユは、非常にそこはつながっている、ヴェイユは不幸を介してとか、苦痛を介してっていうふうに、神につながるっていうような言い方を、あるいは、宇宙につながるみたいなことを言いますけど、その場合に、労働っていうのは、別の意味合いで、不幸の極限だと考えているわけです。
それから、もうひとつは、労働っていうのは、その日その日の死と同じなんだっていう、つまり、労働っていうのは、死と同じなんだ、死ぬことと同じなんだっていうことも言ってるわけです。
ですから、たぶん、不幸ってことと、労働っていうことを、ほんとは、ヴェイユは、いっしょにしてるところがあります。労働は不幸なんだとか、労働は死なんだ、その日の死なんだっていう考え方をとってると思います。その考え方のつなげ方が、たぶん、マルクスの対象的行為を労働というんだっていう考え方と、ヴェイユの労働についての晩年の考え方が、つながっちゃう場合の、つなげられる場合の、つながりの役目を果たしてるんだと思います。
労働イコール死ないしは不幸の極まれるものっていう、だけども、これが人間の霊的な生活っていうふうに言ってますけど、精神的な生活の中心なんだっていうのが、ヴェイユの考え方なんじゃないでしょうか。そこで、つながっちゃうところがあると、ぼくは思いますけど、そんなところで。
(笠原さん)
ヴェイユの家族の宗教・宗派についてお教えくださいっていうの、これは、ヴェイユの家族っていうのは、ユダヤ人ですけども、宗教人じゃないですね。
(吉本さん)
そうですね。
(笠原さん)
以上。
(笠原さん)
これは、いままでと違った分野ですが、「他者・状況に対して働きかけなければ、自己は存在しなくなるという考え方と、すでに、自分は存在しているという矛盾について、どう考えますか。」、これはちょっと哲学一般的な考えですが、「お話の最後にあった、普遍理念の領域に関連して、バタイユに触れていただければ幸いである。」と、「ギリシャ悲劇のテーマを労働者へ語りかけるという行為がありましたが、ヴェイユはギリシャ悲劇を通して、何を語ろうとしたのか展開してください。」、ちょっとその辺で、もうちょっとありますがよろしいでしょうか。
(吉本さん)
一番最後のところをいいますと、ヴェイユはギリシャ神話、あるいは、ギリシャ哲学、ギリシャ文学、古典文学の、ある意味で専門家だと思います。ヴェイユは、ギリシャ神話ないしは、ギリシャ文学、ギリシャ劇ですけど、古典劇ですけど、古典劇っていうのから何をとったのかっていうことになると思います。
ヴェイユは、ギリシャ古典劇、あるいは、ギリシャ神話っていうのを、キリスト教的な云い換えをしているところがあります。ぜんぶキリスト教的な云い換えをしちゃってるところがあります。それは、嘘でしょうけど、つまり、解釈の問題ですけど、解釈として、みんなのギリシャ神話の世界をキリスト教的な解釈の仕方に変えちゃってる、そういうやりかたをしているところがあります。
それはまあ、ひとつなんですけど、ギリシャ神話から何をとってきたのかっていうと、一種の近親のドラマ性といいましょうか、つまり、近親のドラマ性っていうのはいったい何なのかっていえば、それは、権力のいちばん露骨で、いちばんはっきりしたあらわれ方っていうのが、近親の中にあらわれるっていう考え方があると思います。ですから、ギリシャ神話をそういうふうに読んでいると思います。
それで、その読み方の延長が、ヨーロッパの古典劇、たとえば、シェイクスピア劇とか、フランスでいえば、ラシーヌとか、コルネイユとかの古典劇の読み方に、ヴェイユの読み方につながっていくんだと思います。それは、近親の悲劇的な対応の仕方、その中に、縮められた一種の権力関係っていうのが介在してきちゃうってことのように思います。
それは、エディプス・コンプレックスってことで説明してもいいわけですけど、また、近親間における愛情っていう問題に還元しちゃってもいいわけですけど、たとえば、どういうふうにいえばいいかと、エディプス王の物語があるとすると、これが、子どもの存在に対して、自分の権力に対して、いちばん邪魔っけなもののように、理解するってことがあるわけです。理解する仕方っていうのが、たとえば、エディプス王のいちばん肝心なところなわけです。
逆に子どもから見れば、エディプス王っていうのは、いちばん邪魔、自分のお妃に対する、自分の憧れに対して、いちばん邪魔っけな存在だってことになるわけで、これが、ギリシャ神話、あるいは、ギリシャ哲学のいちばん根本のところで、ヴェイユが抜き出している問題だと思います。
だから、たとえば、シェイクスピア劇でも、いちばんヴェイユがいいって言ってるのは、リア王なんです。リア王物語なんです。これが、シェイクスピア劇の中で、一流の劇の価値があるのはこれだけだ、あとは、シェイクスピアの劇はみんな三流だっていうふうに言っています。それから、まあラシーヌはいいけれども、ラシーヌは二流だけど、コルネイユっていったら、これは三流以下だというのがヴェイユの考え方です。
そこにもあらわれてくるわけですけど、『リア王』っていうのは何が根本かっていうと、やっぱり、近親間における愛憎の読み違いってことが根本になるわけです。つまり、誰が自分のことを、娘に対して、誰が自分のことをいちばん愛しているかってことを試したくなって、それで、なんか言ってみろって言わせると、そうすると、姉貴たちがうまいこと言って、自分は大切にしているんだ、親父さんを大切にしてるんだって言うんだけど、コーデリアって末娘だけが、なんかそういうわざとらしいことが、これもまた近親作用なんですけど、近親なもので、わざとらしく父親に対してなんとかってことを言えないで、ごくふつうに、親として尊重したいってことを言うだけで、リア王は、自分の領地みたいなのは、みんな、うまいこと言った姉たちに分けちゃう、それで、姉たちをへねぐって暮らすわけですけど、みんな、冷たくあしらわれて、乞食のように落ちぶれて、放浪しちゃうっていう段階を経て、コーデリアも張り子に身をやつして、父を助けてってして、やがて、めでたしめでたしになるわけですけど、それが一種の古典劇、あるいは、神話のパターンですけど、つまり、主人公たちが、ひとたび近親を思い違いしたり、誤解したりするために、それは一種、権力の行使の仕方を間違えたりすることによって、近親を誤解してってことで、自分が落ちぶれてしまう、それだけど、落ちぶれるんだけど、やがてそれを回復して、口だけで冷たいあしらいをしたやつはひどい目に遭うっていう、こういうパターンが、だいたい古典劇、あるいは、古典神話の、ひとつの典型的なパターンになるわけですけど、ヴェイユが尊重していたのは、そういう面で、つまり、何なのかっていうと、やっぱり権力っていうものは、どういう働き方をするかなってことを、ギリシャ劇を通じて、知識としてとか、教養としてとか、あるいは、思い当たる問題として、労働者にわかってもらいたいみたいなモチーフが、ぼくはあったんだと思います。
それを介しないと、近親の憎悪とか、愛憎とか、誤解とか、それを介しないと、権力の問題っていうのは、ただの権力一般の問題として考えちゃうと、あんまりうまく、労働者に入っていかないってことがありますから、やっぱりそこのところで、自分の専門として、得意とするギリシャ劇を、やさしく言い直して、ジェラシーみたいなものをつくって、それを読んでもらうみたいなことをしたんだっていうふうに、ぼくはそういうことじゃないのかなっていう解釈をとります。
(笠原さん)
最後ですが、「ごく個人的に、吉本さんのヴェイユへの傾斜、傾倒、そのモチーフはなんでしょうか。最後の無名、匿名の領域というのは、大衆の無名性としての、日々の営みという、あの思想でもあるのでしょうか。」とか、「普遍的宗教への接近の方策はいかん。」とか、「人間、現在、地上に存在するのは進化論であるとお考えでしょうか。」というような妙な、失礼、いかがでしょうか。
(吉本さん)
ぼく、ヴェイユにひっかかってっていうか、関心をもってっていうのは、ようするに、宮沢賢治の場合でも、おんなじですし、親鸞の場合でもおんなじなんですけれども、好き嫌いで簡単にいってしまえば、宗教的思想っていうのは、あるいは、宗教に収れんしていくような思想ですね、それでいて、宗教っていう一般的な概念をどっかで壊しているっていいますか、どっかで壊れているっていいましょうか、そういう思想に対して、好みとして、それが好きなんだっていうことがあると思います。
宗教的な信仰っていうものと、宗教に対する不信っていうようなものとが、ちょうど境目を中心に、背中合わせになっているみたいな、そういう考え方のところが、非常に関心が深いものですから、そういうことのひとつだっていうふうに、自分では思っています。
なぜ、そこに中心が深いかっていうと、宗教に対する信仰と不信とが、ちょうど背中合わせになってるみたいなところを、手探りすると、宗教的な思想だけじゃなくて、イデオロギー的な考え方、あるいは、理念っていうような考え方っていうのにも、普遍性が通用する問題っていうのが、そっから開けていくんじゃないかっていうような考え方がありまして、そういう思想に、ぼくは、執着をもつものですから、宮沢賢治もそうです。そういう意味合いですけど、ヴェイユもそうですし、親鸞もそうですけど、そういう境界領域っていいましょうか、信と不信とが背中合わせになった境界領域みたいなところに、なにかあるよみたいなふうに思ってるってことがあるわけです。
それから、だけれども、先ほど言いましたように、ぼくは、ぜんぜんそんなところに行っておりませんから、一般に普通の人が、ふつうの生活をするってことが、してるっていうのが、いちばん価値ある生き方なんだみたいな、そういう意味合いの価値観っていうのは、ヴェイユがいうよりも、つまり、第一級の人たちが切り開いている領域よりも、もっと手前にある領域のことを指しているので、ヴェイユが言っている領域は、第一級の人たちが、開いている領域よりも、もっと彼方にあるっていいましょうか、そのことを指していると思います。
しかし、ぼくは、ようするに、ごくふつうの考え方をもってるってことで、ぜんぜんヴェイユなんかのあれとは違うことを指していると思います。だから、それはぜんぜん違うことで、同一には論じられないっていうふうに思います。なるんだと思います。だからそれは、同じようなあれとしては、論じられないんじゃないかなっていう感じを、ぼくはもっています。そこが、ぼくらがウロウロしている領域と、非常に長い射程をとったときに、ちょっとそこをわかってみたいなっていう感じをもってるっていうだけです。
(笠原さん)
さきほど4時45分で終わらなければならないと言いましたけど、15分延長して、5時で終わってよろしいということでありますので、ちょっとだけですが延長いたします。
さっきの質問の中に、普遍的宗教への接近の方策っていうのがあったんですが、最後に普遍的宗教みたいなことをヴェイユは言ってるような感じがされたので、こういう質問だと思うんですが。
(吉本さん)
そうですね。ぼくは、もうすでに、第一級の、歴史が残している、第一級の人たちのもってきた、それを人類がだれでも仰ぎ見ながら、それを模倣しながらやってきたわけですけど、それのむこうに、なにか深い淵を距てて、そのむこうに、ほんとうの第一級の世界っていうのが、そのむこうにあるんだみたいなことを言ってることは、もうヴェイユが、一種の神学を超えていっちゃってっていうか、少なくとも、キリスト教的な神学を超えちゃったところを、自分は考えてたんだっていうふうに、ぼくには思えるわけです。
モチーフはとにかく、散々、いろんな意味合いで、党派的な思想・理念っていうものに、もみくちゃにされながらやってきて、どうもこいつはだめなんじゃないかっていう感じっていうのをもって、それじゃ、だめだったら、党派的でなくて、みんな調和がとれて、よろしいよろしいって、つまり、91%の中流だと思う社会になったから、これでもう大満足だっていうふうに言えばいいのかっていうと、いや、それはちょっと違うぜっていう、そういう意味の調和っていうのを求めているわけじゃないです。
党派っていうのをだめだなっていうふうに、党派思想っていうのは、結局だめだなって思ったのとおんなじように、やっぱり、一種の調和思想が、自分は民衆のために、こういう法律をつくったんだとか、民衆のために、こういう宗教をつくったんだとか、民衆の解放のために、こういう政治運動してるんだっていう、そういう問題じゃなくて、そういうものに、もみくちゃになっちゃったから、そういう問題じゃなくて、でも、民衆が主人公でありうるっていう条件と、理念っていうのは、どういうものなんだっていうことは、たえずやっぱり、考えるわけです。
それを考える考え方のなかで、一種の普遍的な理念っていいますか、思想っていいますか、それが、可能だったらいいなって思うわけです。つまり、それが可能であるし、それが、ものをいう時っていうのはくるであろうなっていうふうに、ぼくには思えるわけです。
つまり、それはどういう時にくるかっていったら、いま、91%の人が、自分たちは中流だと思ってるわけです、しかし、今度は、何年か後か、10、20年後なのかわかりませんけども、ようするに、99%の人が、おれは中流だっていうふうに、アンケートをとると、みんな、そういうのが出てきたっていったら、そしたら、いずれにせよ、本気になって考えないといけないわけです。
いや、これでいいんだっていうふうに思うか、つまり、99%の人が、この社会がよくて、中流で、非常に文句ないっていうふうに、文句ない社会だと思えばいいのか、いやぁ、そうじゃないよ、こうなってきたら、これはもう、逆に社会全体を病院に入れたほうがいいぞとか、精神病院に入れたほうがいいんじゃないかとか、どちらかじゃないかっていう感じがするんです。
つまり、どちらかになっちゃうんじゃないかなって、そういうときに、ちゃんとものが言える普遍的理念っていいましょうか、それがあったらいいな、それは求めていられたらいいなっていうふうには、ぼくは思っています。
党派的思想っていうのは、たぶん、現在でも、もう無効なんです。意味、ほとんどないんです。ようするに、91%の人が一斉にわきを締めれば、それで終わりだっていうふうになってる社会なんだから、党派的理念を、ほんとうの意味でものいうあれは、もう終わってると思います。世界の先進的なところでは、終わっていると思います。それはいらないんです。そんなのはいらないんです、ほんとうをいうと。
だから、99%の人は、自分は中流だって、こういうふうになったっていうときに、それじゃあ、あとどうするのって、どうすりゃいいのって、なにもやることないのっていうふうに考えるか、いや、どうもおかしいっていうふうに、99%が、おれは中流で、もう文句ないよって思ってる社会っていうのは、おかしいんじゃないかって考えるか、やっぱり、どちらかだと思います。
そのときは、本気にならないとだめだと思います。いま、中流の人が、本気にならないと、だれがこう言ったから、こうやるんだとか、そんなことじゃなくて、本気にならないとだめじゃないかとか、つまり、そのとき本気になったら、こう考えればいいんだみたいなのがあったらいいなと思うわけで、それが、ぼくのいう、普遍的な理念なわけなんです。
(笠原さん)
ありがとうございました。
(笠原さん)
最後に、つまらん質問ですけど、こないだ東京で、シモーヌ・ヴェイユの戯曲があったのですが、吉本さん、そのときにいらして、講演もされたそうですけど、戯曲をご覧になったんですね、ちょっとご感想を伺いたい。
(吉本さん)
その戯曲は、日本でいえば、日本でいえばって言わなくてもそうですけど、いわゆるレーゼドラマっていいましょうか、ようするに、ヴェイユの書いたものの中から、ヴェイユの生涯の節目節目のところに、ヴェイユの書いたものを、アレンジして、つくりながら、ようするに、ヴェイユの生涯を劇にしているわけです。だから、言葉がわからないと、たぶん、大変つらいわけです。動きでは、ぜんぜんわからないわけだから。
(笠原さん)
通訳はないわけですか。
(吉本さん)
ないんです。つけないほうがいいだろうと思いますし、むこうでは、ようするに、言葉がわからないで、これが通用するかどうか、非常に心細いですから、そんなのないほうがいいんじゃないですかって、ぼくもわからないだけど(会場笑)、退屈はしなかったっていう、そういうわかる人もいたでしょうから、わかる人にとっては、相当、ヴェイユのピカイチの言葉はぜんぶ出てきますし、生涯はつらぬかれていますし、それは、たいへんよかったんじゃないかなと思います。
それから、もうひとつは、さっき忘れましたけど、ヴェイユの古典劇に対する考え方っていうのは、ひとつ特色があって、劇っていうのは、ドラマっていうのは、ようするに、動きがねえほうがいいって言ってるんです。
(笠原さん)
突っ立ってやるっていう。
(吉本さん)
そうそう、だから3人が突っ立って、ひとりがヴェイユ役をして、あとは、ヴェイユの言葉のアレンジをまた、注釈するっていう役割を2人はして、それだけ突っ立ったまんま、ほとんど、突っ立ったまんまでやってるんです。そうすると、日本でいえば、能ですね、能ならもうちょっと動くのになって思うんですけど、でも、能とおんなじで、能だって、あらかじめ読んでいかないと、何を言ってるかわからないですから、能とおんなじような意味合いであれして、退屈はしないけど、ほんとは肝心なとこはわかってないんだなって思うことと、やっぱり、フランス人っていうのはやるよなっていうふうに言ったらいいのか、ずうずうしいと言ったらいいのか、やっぱり、ずうずうしいよなって、つまり、日本人だったら、もうすこし、なんとか工夫してくるのになっていうことになるわけですけど、でも、やってました。(会場笑)。そういう、やってるよなっていうのだけは、ちゃんと受け取りました。
(笠原さん)
なんかロングランですって。
(吉本さん)
むこうではずっとやってますね。日本で、言葉わかる人は、かなりあれだと思うんです。また、ヴェイユの劇概念に忠実に、とにかく、動きがない方がいいって言ってるんだから、動かないんです。言葉がわからなきゃやってもなっていうのが、ぼくの感想ですね。(会場笑)。
(笠原さん)
ありがとうございました。せっかく質問を出していただいたんですが、ちょっと取り上げなかった問題もありまして、その点、ご容赦いただきたいと思います。今日は、吉本さんが、いかに深い思想家であるかということと、いかに偉大なアジテーターであるかということが、よくわかりました(笑)。最後に、文学者の面も、チラッと見せていただきまして、たいへんな人だと思っております。
今日は、これで終わりますけれども、また、数年後に、またお招きして、こういう会をやりたいと思っておりますので、そのときを楽しみにしていただきたいと思います。それでは、最後に、吉本さんに、絶大な拍手をして終わりたいと思います。(会場拍手)。ありがとうございました。終わります。
テキスト化協力:ぱんつさま