1 芥川龍之介の短歌観

 吉本です。今日は茂吉についてという表題を掲げましたが、これはまだ、どういうことを喋ろうかなということが、まだ集約できてない時で、とりあえずそうしておいてくれないかっていうふうに申し上げてそうしていただきました。今日もし、その表題を提出するとすれば、自分の茂吉観といいましょうか、茂吉の短歌観ていうことでもよろしいんですけど。そういうことになると思います。僕なりに、勝手にって言いましょうか、自由にお話してみますので、しばらくお聴きいただきたいと思います。
 斎藤茂吉っていう歌人は偉大な歌人なんですけれども、何が偉大かっていうことから始まるわけです。これについて例えば芥川龍之介の『文芸的な、余りに文芸的な』っていうエッセイ集の中で茂吉に触れているところがあります。芥川の触れ方っていうのは、ちょうど入り口によろしいですから、それを申し上げてみますと、短歌、一般的に申し上げて日本の詩歌って言いましょうか、古典時代からの詩歌っていうのは、近代に入ってから、芥川はそういう言葉を使っています、つまり全生活感情というものを歌の中に入れ込む、入れてくるっていうことが大変難しいので、文芸全般の元になるってことは大変困難なジャンルだと言えると。だけれどもこれを一種、物語化した人たちがいるんだっていうことを芥川は言ってます。
 まず最初に芥川が挙げたのは『悲しき玩具』の石川啄木と『酒ほがひ』の吉井勇と、この二人を挙げて、この二人が短歌っていうものを物語にしたと言いましょうか。散文に近づけていった。あるいは散文との交流点って言いましょうか、それを最初につけていったのがこの二人なんだ。非常に対照的なこの二人の歌風なんですけど、それにもかかわらず二人が短歌の中に、芥川の言葉を使えば、一種の心理描写っていうことを導き入れていった。心理描写を導き入れていきますと短歌というのはある程度物語化していくわけです。
 例えば啄木の適当な歌っていうの、何かないでしょうかね。一つ挙げてみましょうか。「田(た)も畑(はた)も売(う)りて酒(さけ)のみ/ほろびゆくふるさと人(びと)に/心寄(こころよ)する日(ひ)」という啄木の歌があります。この歌は易しくて、言ってることはすぐわかるわけですけども、読んだ人がなぜこの短歌が面白いかって言うと、このあとこの続き、つまり「田(た)も畑(はた)も売(う)りて酒(さけ)のみ/ほろびゆくふるさと人(びと)に/心寄(こころよ)する日(ひ)」って言った場合、そういうふうな気持ちになって啄木と同時に、田も畑も売りつくしちゃって酒ばっか飲んでうちを潰しちゃったっていう、その人物は今どうしたんだろうかとか、どういうふうに行末はなっただろうかとかっていうふうな、読んだ人にその続きの物語を独りでに空想させるって言いましょうか、想像させる要素があります。これは啄木の短歌の非常に大きな特徴です。
 これ、吉井勇の場合もおんなじで。詩風は違います。生活歌というよりも、遊びの歌って言いましょうか、楽しみの歌、楽しい歌ではないんですけど楽しみの歌であるっていう。それでとても心理主義的だって言う意味では、吉井勇もおんなじようなもので。芥川はやっぱり小説家ですから短歌のなかに物語性っていうのが導き入れられて、それが散文っていいましょうか、小説に近いところ、あるいは小説の後見?を持つっていうことに関心を持った場合に、第一に啄木と吉井勇が挙げられると。
 でまぁその後挙げると、その後と言いましょうか、その続きで挙げるとすれば、斎藤茂吉などのアララギ派の始祖と言いましょうか、であった正岡子規と、それから明星の与謝野晶子と与謝野鉄幹なんですけど、明星の、芥川の書いている通りに言いますと、明星の子供である北原白秋と、この二人が短歌を著しく散文の世界っていいましょうか、散文との交点といいましょうか、小説との交点、あるいは文学全般との交点をつくっていった、そういう二人を挙げることができると。
 その後に挙げているのが、要するに斎藤茂吉について挙げているわけです。特に『赤光』について挙げていて、また『赤光』のなかで、芥川が特に、みなさんもよくご存知の「死にたまふ母」っていうのと「おひろ」っていう作品、これは連作ですけれども、この連作の二つを特に芥川は挙げまして、これでもって和歌、日本の伝統的な詩歌、つまり短歌っていうものが文学全般の基礎になるっていいましょうか、そういうところまで短歌っていうものをもってったんだ、もたらしたんだっていうふうに言っております。

2 声調の切実さを死の切実さに重ね合わせる茂吉短歌

 これからは茂吉の短歌の特徴だと僕らが考えているもののなかに入っていくわけですけども、芥川が物語性を導いているってふうに言っている場合に、僕が今顧みれば、そういうことはたとえば与謝野晶子とか与謝野鉄幹、つまり明星派あるいは新詩社って言いましょうか。明星派の短歌の方が、より物語化っていうのはうまくやったんじゃないかっていうふうに、芥川とは逆にそういうふうに思えるわけです。むしろ短歌を物語性、あるいは文学全般の基礎に近づけたっていう意味だったら、もしかするとアララギ派、あるいは茂吉よりも、茂吉の『赤光』よりも与謝野晶子とか与謝野鉄幹たち、あるいはその弟子たちの短歌の方が、物語あるいは文学全般に近づけていったっていうふうに言えるのかもしれないと思います。そうすると特に芥川が斎藤茂吉の『赤光』を挙げて、やっぱりこれは日本の近代文学の基礎のところに短歌をちゃんと近づけていって、その基礎にもたらしていったって言っている場合のその物語性っていうのは非常に特異なところにあると、僕らの今の見方からは、そういうふうになります。
 それは何かって言いますと、つまり明星派の短歌っていうのは、与謝野晶子はじめそうですけど、短歌の中に啄木、まあまあ啄木も明星派と言えばそうなんですけど、つまり物語性を導入するっていう意味合いが心理性、心理描写っていうのを短歌の中に導入するって言うことによって物語性っていうものを短歌に持たせていったっていうふうに言うことができると思います。それに対して、茂吉が『赤光』でもってやった物語性っていうのはどこで成立しているかって考えますと、心理描写で成立しているんじゃないってことが非常に大きな特徴だって思います。
 心理描写で成立しているんじゃないって言えば、何で物語性を成立させているかっていうことになるわけですけど、それは芥川が挙げました「死にたまふ母」っていう作品なんかが典型的にそうなんですけど。これは、二つあります。一つは連作っていう形をとっていくっていうことと、もう一つはやっぱりこれは茂吉の短歌の特徴で、特に初期の短歌の特徴ですけれども、人間の死っていうものの切実さっていうものを一種、茂吉の言葉で言えば声調っていう、調べっていうことですけど、声調の切実さっていうのと、重ね合わせることによって、茂吉は短歌のなかに物語性を導き入れたっていうふうに言えると思います。これは明星派の歌人たちが心理描写っていうことを短歌の中に入れていくことによって短歌を物語性に近づけたっていうのと非常に対照的で、むしろ調べって言いますか、調べの切実さって言いますか、声調の切実さって言いますか、それを死の切実さ、死を歌うことによる切実さっていうこととうまく重ね合わせると言いますか、シンクロナイズさせるって言いますか、そういうことによって茂吉は短歌の中に物語性を導入していったっていうふうに思えます。そこがだいたい茂吉の短歌の第一の特徴だって僕には思えます。
 それは例えば「死にたまふ母」っていう連作を見ればすぐに分かるように、切迫した感情というようなものを、言ってみれば自分が母親のところに薬を持ってって、母親の看護をするというところから連作ははじまっていくわけです。それで、危篤状態にある母親のそばに夜通しつきっきりで看護していると。それがまた、そばにつきっきりで看護をしている夜を通してしまう。それで明け方になっていくっていう、そういう感情っていうのを実にうまく捉えています。これが連作って言いますと、そこのところから入っていきまして、自分の主観的な感情とか、周囲の明るくなっていく風景とか、非常によく知られている短歌で言えば、長押のところから見えるところにツバメが赤い口開けて鳴いているっていうような、つまり「のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳(たらち)ねの母は死にたまふなり」っていうな、そういう切実な歌に入っていくっていう。それは外形的な物語だけから言うとすれば、そこのところに母親が亡くなる重体の枕元のところに知り合いの人達、親戚の人達が集まってきて、死ぬゆく母親を看取っているっていう描写もあります。「いのちある人あつまりて我が母のいのち死行(しゆ)くを見たり死ゆくを」っていう歌がそれですけれど、そういうところの描写があります。それからお葬式の道すがらを歌った短歌もあります。「おきな草口(くち)あかく咲く野の道に光ながれて我(われ)ら行きつも」という葬式の葬(はふ)り道を母親の棺のあとからついて自分たちはついて行った。火葬場へ行ったっていうことなんでしょうけども。そういう描写があります。それからまた火葬場で、母親が焼かれていくそういう切実さをその後で歌っています。「星のゐる夜ぞらのもとに赤赤とははそはの母は燃えゆきにけり」いう短歌がそれにあります。そして「灰のなかに母をひろへり朝日子(あさひこ)ののぼるがなかに母をひろへり」という母親の骨を拾っていたっていう歌だと思います。それから死後の自分の悲しみをまた新たにするっていう歌もその後についていきますけど、この外形からみてもこの連作が一つの、母親の死にまつわる周囲とか自分の気持ちとか、あらゆる物語性の順序を追いながら一つの連作を作っていっているということがわかります。
 ここには茂吉の短歌のなかでも特にそうですけども、そんなに心理描写っていうのはないです。近代における心理描写っていうのはそれほどなくて、切実な声調って言いますか、調べっていうので、母親の死にまつわる情景を全部連作で押し切っているように思えます。それが茂吉の短歌の非常に大きな特徴だと。調べっていうことと、死の切実さっていうことによって一種の物語性を浮かび上がらせているというのが、一つの大きな特徴だと思います。

3 鮮やかな色彩感覚、白黒写真からカラー写真へ

 もう一つ大きな特徴というのを挙げるとすれば、茂吉の短歌はよく気をつけて読めばわかるように、これも物語性、あるいは文学全般の基礎に短歌を近づけていった大きな要素で、また芥川なんかが大変感動した要素の一つなんですけども。それは茂吉の短歌っていうのは少なくとも当初は、視覚描写って言いましょうか、目の描写って言いましょうか、あるいは目で視る色の描写と言いましょうか、色彩の描写と言いましょうか、この描写でもって短歌を成り立たせているっていうことが大変大きな特徴だと思います。
 つまり、これどういうことかって言いますと、短歌っていうのは古典の詩歌の時代から、万葉の時代からずっと辿っていきましても、かって感覚、特に視覚、目ですね、目とそれから色彩ですね。鮮やかな色彩と、その二つを前面に押し出して作られた短歌っていうのは、まず考えることができないくらいです。例えば万葉の中に色鮮やかな短歌はあるわけですし、またその色鮮やかさ、例えば花の鮮やかさっていうのは、万葉で言えば「におい」っていう言葉でよく表現されているわけですけども、「におい」という表現で色彩を感じさせる、あるいは光を感じさせる短歌っていうのはたくさんあるわけですけども、あからさまにと言いましょうか、色彩感覚を前面に押し出して短歌がつくられているっていうのは、たぶん茂吉が『赤光』で初めてやったことのように思います。伝統短歌の中でこういうことを前面に押し出したのは茂吉が初めてだということだと思います。
 この要素は一見するとなんでもないように見えて、実は短歌としては非常に革命的なことで。短歌というのはだいたいどんな人の短歌でも主として、写真で言いますと白黒写真なわけです。白黒写真であるか、心の描写であるわけです。ところで茂吉の『赤光』でまずやったことは、それになぞらえて言えば、白黒写真じゃなくて要するにカラー写真なんです。カラー写真でやって、心の描写っていうよりも感覚の描写なんです。感覚に訴えて得られたものの描写っていうのが茂吉の『赤光』っていう短歌の非常に大きな特徴になっているわけです。
 これがまた日本の近代文学全般の基礎のところまで、短歌っていうのをもたらした非常に大きな特徴だっていうふうに思います。茂吉が初期に持っている二大特徴を挙げるとすれば、今言いましたように色彩感覚って言いますか、感覚でもって短歌をつくった。これは写生ってことを茂吉はよく言っていますけど、写生っていうことならば正岡子規以来、非常に緻密にやられた写生歌ってのがあるわけですけど。御存知の通り、子規の短歌なんてのは例えば藤の花を歌っても藤の花の色を読んだ人が思い浮かべるってことはないので、やっぱり白黒写真なんです。けして色彩の、いくら写生と言いましても色彩ある写生というのではなくて、やっぱり白黒写真的な伝統に従って、伝統に則って子規の短歌なんかも写生がつくられてるわけです。茂吉は盛んに写生っていうふうに言っていますけど、ほんとうの意味で茂吉の短歌を、あるいは茂吉の写生を近代化している、物語化している、あるいは文学全般に近づけている要素っていうのは、写生ってことではなく、写生に則るわけでしょうけれども、色彩感覚を前面に打ち出して短歌を作っていることが非常に大きな特徴になっていると思います。
 芥川はその物語性ということで、茂吉の『赤光』を捉えていますけれど、僕らが物語性っていうふうに言う場合には、死の切実さっていうなものを調べの切実さに置き換えているということ。もう一つは色彩感覚的なものを前面に押し出していて、むしろ心の歌というのが短歌の主流だとすれば、心の歌よりも感覚の歌に、感覚を前面に押し出した歌にしているってことが茂吉の短歌の大きな特徴であるし、茂吉をいわば短歌でありながら短歌的な枠をはみ出して、文学全般の中に近代短歌っていうものをまず持っていってしまったということの基礎になっている特徴だって考えられます。

4 大きな調べ、儀礼歌の要素

 これは今挙げました二つの特徴に比べれば、そんなにもしかすると大きな特徴ではないのかもしれないですけど。僕らが、さぁこれ言葉の使い方ですから人によって違う言い方でそれを言うかもしれないんですけど、もう一つの特徴は、茂吉は写生歌だ、写生歌のもとはどうしたって万葉の歌に行くんだっていうふうになっていきます。万葉の歌っていうのは一種の写生の局地になっているんだ。だから言ってみれば万葉の歌っていうのを手本にするということは大切なんだっていう言い方をしております。
 これをですね。僕らの言い方で言っちゃいますとね。茂吉の短歌の特徴、特に初期『赤光』なんかを一つの例に取りますと、それの特徴の一つっていうのは、歌の格の大きさっていうことになるんですけど、調べの長さって、おかしな言い草ですけど、長い調べって言いましょうか、大きい調べって言いましょうか、あるいは大きな調べって言いましょうか。これを一口に言っちゃいますと、儀礼歌っていう要素が万葉以来、あるいは古事記の歌謡以来あるわけです。つまり儀礼の歌って言いましょうか、儀式のときに、例えば柿本人麻呂が天皇の葬儀のときに代わりに代作して歌った悲しみの歌みたいなものが典型的にそうですけど、それを儀礼歌っていう言い方をしますと、あるいは共同の歌、共同性の歌って言いますと、儀礼歌っていう要素が『赤光』のなかで非常に大きい要素になっていると僕は思います。
 これを大きな歌、大きな調べの歌って言ってもいいわけですけど、その大きな調べの歌って言えばなんとなく茂吉の歌らしくなるわけですけど、言ってみれば儀礼歌っていう要素だと思います。短歌を儀礼歌として歌ったときの調べっていうのが、『赤光』の中に非常に大きな要素を占めているっていうことが言えそうに思います。もちろん万葉集の中にも、儀礼の場面自体を歌っていなくても、これは儀礼歌の調べだよっていうふうに言えちゃうような要素っていうのは、万葉の歌の中で意外に多くて、だいたい三分の一方がそうじゃないかって僕は思ってます。万葉の歌の三分の一方は儀礼歌なんじゃないかな。個人の歌人が個人の感情を歌った、個人の自然の感情を歌ったっていうことよりも一つの大きな調べっていうのがあって、その大きな調べに則って自然を歌っているとか、自分の身辺のことを歌っているということが意外に多くて、茂吉の万葉に心を寄せたときには、この儀礼歌の要素を独りでに受け入れているんだと思います。
 ちょっとその例を挙げてみましょうか。「蔵王山」っていう連作の中で、「蔵王をのぼりてゆけばみんなみの吾妻(あづま)の山に雲のゐる見ゆ」という歌があります。これは良い歌だと思いますけど、どこが良いのかと問われたらば、意味ではないと思います。つまり意味は、蔵王を登っていったときに南の方に吾妻連峰の山が見えて、そこに雲が浮かんでたっていうこれだけのことですから、意味が良いということじゃないと思います。そうすると調べが良いんだってことになると思います。この調べのどこが良いんだってことになりますと、調べが微妙に細かく打ち重ねるように歌われているというんじゃなくて、大きな調べで、大きな声調で、ひとえぐりふたえぐり三えぐりぐらいで歌が終わっちゃうっていうくらい大きな調べで彫り込まれているということが、この歌を良くしているんだと思います。もちろん、茂吉が盛んに言っていることですけど、声調っていうことと意味ってことは、本当は切り離すことができないんですけど、茂吉がここんとこで使っている意味っていうのは、声調が意味の代用をするという意味合いでの意味はたくさん使っていると思います。ただ言葉だけの意味、言葉の意味論でいう意味っていうんだったら、ただ蔵王の山に登っていったら吾妻の山がこっちの方に見えてそれで雲があったよっていうそれだけのことになってしまいます。言葉だけの意味で言えば。だけども声調は自ずから意味を伝えていると言いましょうか、意味と溶け合っているということでいえば、それに対して大きな調べっていうのがたくさんの意味を付けていると思います。
 その意味をなんというふうに言っていいか、つまりあんまり論理的な言葉はないんですけど、ただ要するに大きな調べだなとか、長い調べだなとか、あるいは大きな歌だなっていう言い方しかできないんですけど。大きな調べは大きな調べが伝える意味がありまして、その調べが伝える意味だから、言葉としては意味は無いんですけども、それを読む人にとってはたいへん色んな意味が伝わってくる。強烈に伝わってくるということになります。つまり茂吉が声調っていうことで言いたいことは、もどかしいんですけど、もどかしい言い方をたくさんしているんですけど、本当に言えば、何を言っているのかと言えば、声調自体を、調べ自体も意味をちゃんと伝えるんだよ。意味を伝えることってあるんだよ。ということを言いたいんだろうなって思うんです。そうすると言葉の意味と声調のもつ意味が二つ二重に重なったり響き合ったりするっていうところが、言ってみれば意味論的には単純な歌が、やっぱりこれは良い歌だっていうより仕方がないよって言いましょうか、そういうふうになるんだって、僕には思えます。
 例えばその次にある歌を蔵王の連作のなかでいきますと「あまつ日に目陰(まかげ)をすれば乳いろの湛(たたへ)かなしきみづうみの見ゆ」っていうふうになってるんですけど、これも意味論的に言葉の意味だけで言ったら、ただ見たら湖がそこに、目の下にあったって言ってるだけですから。これだけです。だけどこれ、どうして良い歌なんだろうかと考えていきますと、調べっていうもの声調っていうものの一つの大きさだと思います。大きさが一つあって、その大きさが伝える意味、声調の方から伝える意味っていうのが、言葉の意味で言えば単純であるこの詩を大きな底深い意味に持っていっている要素だと思います。
 つまり短歌っていうのは、僕らみたいにただ好きだから読んでいるやつから見ると、短歌っていうのは非常に謎が多い。今でも謎が多いものだっていうふうに思います。その謎っていうのに対しては、茂吉は一口に写生なんだと。写生の妙なんだと。写生っていうのは何かって言うと、対象である自然と自分とを一元化して命として打ち出しているっていう、そういうのが本当の意味の写生で、万葉の歌なんていうのは単純そうに見えてその命、写生の真髄が掴まれているんだっていう言い方をしています。でも、僕は、茂吉の万葉についての考え方っていうのには異論があるので、何が異論かって言うと、僕はそんなに簡単じゃないんじゃないかなっていうふうな疑問がいつでもあるもんですから、それは後でもしあれがあったら申し上げてみたいと思いますけども。やっぱり茂吉が一所懸命、声調あるいは調べっていうことで、あるいは調べと意味と両方から短歌っていうのができているんだって言い方で茂吉が一所懸命言っていることの本質っていうのは、調べ自体が言葉の意味と違って、調べ自体が伝えるある意味があって、その意味はもしかすると意味以前の意味かもしれないんですけども、我々の伝統的な日本語のリズムとメロディっていうものを独りでに自分の中に持っている、そういう人間に調べが伝える意味っていうのはなんとなくわかっちゃうんだっていうか、わかるんだっていうなことがあって。茂吉はそういうことを声調とか写生とかっていう言葉で、あるいは調べっていう言葉で一所懸命言おうとしてるんじゃないかなって思います。ですから『赤光』なんかにある茂吉の大きな調べの歌の良さっていうのは、これは一種儀礼歌的な要素なんだっていうふうに、僕はそういう言い方をしたいような気がします。儀礼歌の要素がとても多くて、茂吉はそれを大きな調べとして身に受けている。
 儀礼歌っていうのは何かって言うと大勢の人が共通に感ずる一つの感じ方とか、共通の心っていうものを象徴的に打ち出したものが儀礼歌なわけで。なにも近代的な個性があったりとかそういうことはなんにもないんですけど、でもなんとなくこれを読んでいるとあるうねりを感ずる。意味のうねりを感ずる。それはなんだということはできないけどうねりを感ずる。そういうことになっているんだと思いますけど。その儀礼歌的な要素っていうのは茂吉の初期の『赤光』なら『赤光』を成り立たせてる大変大きな要素なんだっていうふうに思います。これは儀礼歌みたいな言い方をしなくても、要するに大きな調べとか大きな歌って言ってもいいんですけど、大きな調べの歌っていうのが茂吉の『赤光』の大きな特徴じゃないかというふうに思います。

5 擬音語擬声語のうまさ

 もう一つ挙げるとしますと、一種の、これは調べの場合と同じなんですけど、一種の擬音語あるいは擬声語って言いましょうか、その使い方が大変うまいっていうか、うまくて数からすれば一般の同時代の歌人に比べて多いのかもしれません。使い方が上手くて多いっていうことがあると思います。どういうあれを擬声語っていう言葉で言いたいかといいますと、例えば大正2年の作品で「笛(ふえ)の音(ね)のとろりほろろと鳴りひびき紅色(こうしょく)の獅子(しし)あらはれにけり」っていうその「とろりほろろ」っていうのが擬声語だっていうふうに。擬声語でこういう言葉を使った人は、そんなにいないんじゃないかな、つまり茂吉の発明にかかるかもしれないと思います。それから「あはれなる女(をみな)の瞼(まぶた)戀ひ撫でてその夜ほとほとわれは死にけり」っていう歌がありますけど、その「ほとほと」っていう擬声語だと思いますけど、この擬声語も大変見事な擬声語だと思います。あんまり人が使っていないんじゃないかな。同時代の歌人は使っていないんじゃないかなと思いますから、やっぱり茂吉初期の大きな特徴だと思います。その他にも「ほのぼの」とか「しんしんと」とかたくさん普通の歌人がよく使う擬声語もよく使ってあります。しかし今申し上げました擬声語はたぶんの茂吉の発明にかかるわけで、これは大変関心を持っていたということだと思います。
 どうして擬声語に関心を持っていたのかっていうことを考えてみますと、これはやっぱり茂吉の調べに対する、声調って言うことに対する関心と同じなんじゃないかなと思います。こういう擬声語っていうのは、「ほとほと」とか「ほのぼの」とかっていう擬声語っていうのは短歌の中で擬声語を使うことの効果っていうのは、少なくても今申し上げました考え方で言えば、意味ではないわけです。意味として言えば格別の意味を伝えているわけじゃないんです。つまり言語論的な意味と言いますか、意味論的な意味と言いますか、そういう意味では何も意味を伝えているわけではないんですけども、いわゆる一種の声調、音声って言いましょうか、音声の繰り返しでしかも意味を禁じている言葉ですけども、禁じているために返って浮かんでくる漠然とした、漠然としたなにか心に強く伝わってくる、そういう擬声語が伝える意味っていうのがあると思います。それが茂吉が、擬声語を巧みに独自に使っている大きな理由だっていうふうに思います。なにも意味論的に意味を複雑にしようってことじゃなくて、意味は禁じられている言葉なんで、擬声語擬音語なんですけども、それ自体が伝える何かわからない大きな意味があって、何かわからないけどもある意味が伝わってくるっていう、その意味合いを大変茂吉が短歌の中で巧みに使っていると言いましょうか、大きな要素として使っているってことを意味するんじゃないかって思います。だから、これは言葉を複雑にするっていう効果よりも、擬声語を使って言葉としての意味はないんだけども、そのかわりに何か違う大きな意味にならない意味、あるいは意味以前の意味みたいなものを伝えてくる要素が大変多いわけで、これの使い方は茂吉は非常に巧みに使っていると思います。
 一般的に言いまして擬声語とか擬音語とかっていうのは、極端に言いますと、母親と乳児の間にしか意味が伝わらないのが、擬音語とか擬声語だっていうふうに思います。よく言う言い方で言えば「あわわ言葉」って言いましょうか。母親が「あわわ」って言うと乳児も「あわわ」っていうんだけど、母親と二人の間ではなにか意味にならない意味がちゃんと伝わって分かり合えちゃっているいうな、そういう言葉っていうのはだいたい乳幼児期によく使われる母親と、しかもコミュニケーションといいますか、意味が伝わるのは母親と乳児の間だけにしか伝わらない。他の人が聞いても、何言っているかわかんないんだけど、二人の間では通ずる。それは一種の「あわわ」言葉ってのがあるわけですけども、擬声語とか擬音語とかっていうのは言ってみれば、その「あわわ」言葉とおんなじで、本当ならば、言葉としての意味はもう母親との間にしか了解がつかないんだけども、意味以前の意味って言いましょうか、感情のうねりとか感情の動きとかっていうのは「あわわ」言葉で伝わっちゃうってのがあるわけですけど。茂吉はそういう意味合いで擬声語とか擬音語とかいうのをたくさんよく使っているっていうふうに思います。うまく巧みに使っているというふうに思います。たぶん、僕なんかが読みますと、茂吉が『赤光』でもって短歌を一気に近代化し、一気に日本文学全般の中に基礎のところに入れ込んでしまえたっていうことの大きな要素は、今申し上げましたような特徴で捉えることができるんじゃないかと思います。

6 茂吉の声調論、風土性、生活性

 茂吉の短歌のうつりゆきの経路から言いますと、茂吉の大きな調べ、大きな声調っていうのは、僕の理解の仕方ではだんだんなくなっていって、むしろ小さな調べって言いましょうか、あるいは小さな歌と言いましょうか、それがだんだん茂吉の歌の主流になっていくっていう経路が歴史的に言いますと、茂吉の生涯の歴史から言いますと、そういうふうになっていってるんじゃないかなって思います。これは短歌自体に対する評価とも関わりがありますから、僕がそう思うというだけにしといた方がいいので、もちろん違う見解ってのもたくさんありうるわけです。
 ただ僕は、要するに特に『赤光』にあった大きな調べって言いましょうか、それはだんだん後期になるに連れて少なくなっていって、むしろ小さな調べあるいは小さな歌っていうのが茂吉の短歌の主流になっていくっていう経路が見えるんじゃないか。そして茂吉の短歌の本当に傑作だっていう歌はどこにあるかっていうと、僕は年食ってきたせいっていうのもあるんでしょうけれど、だんだん後期の小さな調べの歌の中に茂吉の傑作があるんじゃないかなあみたいな感じ方が、割合この頃自分の中で出てきました。初期の『赤光』が一番見事なんだっていうふうに決めといていいんだっていうふうに思ってきましたけれども、だんだん年食ってくるとそうもいかないでと言いましょうか、少し小さな調べの歌っていうのがもしかすると茂吉の歌の本領であり、また傑作なんじゃないかなと思えてきました。
 その一種前提といたしまして、茂吉が言う声調っていう、声の調べ、つまり声調、あるいは歌の調べっていうふうに茂吉が言っているものの性格と言いますか、性質って言いますか、それをちょっと申し上げてみたいと思うんです。どうすれば一番そういうのがわかりやすいかっていうのを、少し考えてみたんですけど、茂吉が外遊したときに作った歌があるわけです。外遊の時に歌った歌があるわけです。歌集で言えば『遠遊』とか『遍歴』とかっていう歌集がそうだと思います。外遊時代に作った歌っていうのがあるわけです。
 僕は最初にそう思った契機は、外遊時代の歌っていうのを見ますと、茂吉の言う写生っていうものの特徴も、調べっていう声調って言うものの特徴も極めてあいまいになっているなって思ったわけです。なぜあいまいになっているのかっていうのを見ますと、それは風景が、つまり自然の風景自体がちょっと日本的な風景じゃなくて、あるいは東洋的っていうのかもしれませんけど、そういう風景じゃないっていうことが茂吉の短歌から声調の特徴と調べの切実さみたいな、調べの大きさ切実さみたいなものも、それから写生っていうことの見事さって言いますか、感覚的な見事さ、あるいは色彩的な視覚的な見事さっていうのも、もちろん外遊中ですから物語的な見事さっていうのも、薄れてしまう。ないに等しい。つまり旅人にしか過ぎないですから、ないに等しい。あらゆる茂吉の初期の短歌の要素、良くする要素を形作っていたすべての条件が外遊中には全部あいまいにしか、あるいはそんなにいい形では茂吉の短歌の対象にはなってこないってことが、これが外遊中の歌の調べを非常に簡単にしちゃって、言ってみれば強弱も高低もないような掘り方にしちゃっている要素なんじゃないかなって。
 そうすると茂吉の言っている声調って言うことは多分非常に風土性っていうのとか、まぁ生活性っていうのはおかしいですけど、生活性っていうものと非常に関わりがあるんじゃないかなっていうふうに。僕はまず最初に外遊の歌ではそういうのを考えたわけです。つまり、これを伝統みたいに言っちゃうと話が単調になりすぎて良くないんで、伝統があるかないかみたいなことはあんまり言いたくないんですけど、茂吉の言う声調とか物語性とか色彩感覚とかっていう茂吉の特徴っていうのは、風土性っていうものと大変関わりが深いんで、この風土性に対する食い込みがもし多く取れなかったら、茂吉の声調ってのは単調になってしまうんじゃないんじゃないかなって、彫りがおんなじになっちゃうんじゃないかなっていうことをまず考えたわけです。
 ちょっとその例みたいなのを挙げてみましょうか。例えば「リンデンの黄に色づきし木のもとに落葉がたまる日に照らされて」っていう歌があります。その続きに「たどり來しレナウの墓の傍にほほづき赤くなれる寂しさ」っていう歌もあります。もう一つやってみましょうか。「秋ふかき村の小さき墓地中(ぼちなか)の胡桃(くるみ)の木より落葉しやまず」っていう歌があります。これ『赤光』の歌とくれべてみれば、『赤光』の歌の色彩感覚と比べてみればよくわかるんですけど、ちゃんと色彩感覚は歌われているんですけど、極めてボケた、色彩がボケた感じにしか起こってこないってことが一つあります。それから、いかにも調べの彫り方の強弱高低があんまりついていないっていう意味合いで極めて単調な調べになって、調べの方からやってくる意味って言いましょうか、それがほとんど、実際の歌の意味に加担してないっていうか、加わってないようなきがするわけです。「リンデンの黄に色づきし木のもとに落葉がたまる日に照らされて」っていう歌があるとすれば、もうこの歌は言葉のその通りじゃないかっていうだけなような気がするわけです。つまり調べの方からやってくる意味っていうのがこの中に加担してないって思えるわけです。それはなぜかって言ったら、僕はつまり生活とか風土性とかそういうものを調べの中で感じ取るみたいな、そういうところに外遊中なかったからだっていうふうにしか理解することができないような気がするんです。僕はそういうふうに理解しました。これはもっと、茂吉ほどのあれじゃなくて、もっと新詩社みたいな明星派の人たちみたいに心理主義的、あるいはモダンな歌のつくり方をする人だったら、また一種のエキゾチズムの歌っていうのをつくれるわけですけど、たぶん茂吉はエキゾチズムの歌をあっさりつくるほど、よりは遥かに自分の写生と声調というものに深入りしていて、そんな簡単にエキゾチズムの歌ってのもつくれない。眼前にあるのは、そう思うと思うまいと日本にはない木が生えていたりそういう風景があったりっていうもんで、これに対してどういうふうに自然を適用させていいかっていうのが、茂吉にはうまく掴み取れないって言いましょうか、あるいはうまいまずいじゃなくてそれを掴み取ることが茂吉の方法ではできなかったんじゃないかなっていうふうに思えるわけです。
 ですから、こういうふうに考えていきますと茂吉の言う声調っていうことは、大変風土性って言いましょうか、自然の風土性って言いましょうか、それから自分の気持ちの持ち方っていうものと大変大きく関わりがあるって思えてならないってことが、僕はものすごく外遊歌からそういうふうに考えてみたわけです。茂吉の声調論の非常に大きな特徴のような気が致します。
 つまり柳田国男的に言えば、我々はとにかくどこかの西洋なら西洋に行って、茂吉のいるドイツならドイツに行って、そこの生活をして、そこの言葉がわかるようになれば、だいたいそこの人の生活のやり方とか生活感情とかだいたい少し飲み込めてくるってことはあるわけです。それはもちろん外国人が日本に来た場合でも同じで、日本語をわかるようになり、日本の生活に馴染んでいけば、だいたい日本人はこういう考え方するみたいなことがわかるわけです。しかし、本当に、例えば日本人の生活感情とか、こういうときにこういう反応をするっていうのはこういうところに由来があるんだよみたいなところまでわかり切るためには、柳田国男は何代もおんなじところに住み着いていないとわからない感情の表し方っていうのがあるんだっていう言い方をしています。つまり柳田国男は民俗学っていうことで突き詰めて行きたかったことは、そういうことだと思います。言葉さえわかれば、あるいは場所さえそこへ行けば、だいたいわかるっていうようなわかり方ももちろんあるわけですし、言葉も何もわかんなくてもそこへ行ってみれば「あっ」っていうふうに気がついた、そういうわかり方ももちろんあるわけですけども、もっと奥の方には何代も同じところに住み着いていなきゃこの感じはわかんないよっていうわからなさとか、わかりやすさとかいうのもまたあるわけで。そこにはなかなか行けない。
 そうすると茂吉の声調論と言いましょうか、短歌の感覚っていうのはある程度相当深入りしていかなきゃわからないみたいなところへ茂吉の声調が届いて行っちゃっているっていうことが一つあるんじゃないかと思います。逆に言いますとそこまで届いている一種の声調論というのは、一年や二年外遊してそこで生活したくらいじゃ、なんか転換も効かないってくらい自分の中に染み付いちゃっているって言うなことも、逆に言えばあるのかもしれません。そういうことが茂吉の外遊歌を比較的不自由にしているっていいましょうか、単調にしている。声調の方から、調べの方からやってくる意味の響きっていうのがちっとも加わってこないじゃないかっていうな歌が多くなっている理由じゃないかって、僕には思えます。

7 茂吉の声調論、歴史感情、伝統意識の無さ

 もう一つ、茂吉の声調論の輪郭と言いましょうか、性格を形作っているのは、それならば茂吉の声調論は、時間の感覚で何代も同じところに住み着いていなきゃちょっとこの感じはわかんないよっていうそういう意味合いでいきますと、茂吉の声調論と言いますのは時間の中にどんどんどんどん時間の過去に食い込んでいっている要素があるっていうふうに、そういうところに届いている要素があるって一面では言えます。
 しかし、もう一つ茂吉の特徴を言いますと、そういうふうに時間の中では非常に深く茂吉の声調論、調べの論というのは奥深くの方まで、つまり何代も同じところに住み着いていなきゃわかんないっていうところまで食い込んでいるにも関わらず、茂吉には、うまい言葉がないんですけど言っちゃうと、歴史感情っていうのが僕はなかったんじゃないかなって思えるんです。歴史感情っていう段になりますと、これは明星派の歌人のほうがひとりでに持っていたっていうふうに言えるのではないかなって思えるんです。つまり茂吉の奥深い生活感情っていうのは、どこまで行っても、金太郎飴じゃないですけど、どこで切っても歴史感情っていうのは出てこない。本当ならばそんなに時間の奥深くまで入っている調べだから、輪切りにしたらちゃんと金太郎飴みたいに歴史感情ってのが現れてくるってなことになりそうに思うのですけども、僕の理解の仕方では、茂吉は歴史感情ってのは、比較的なかったんじゃないかなって思います。それは茂吉の写生の説っていうのと関わりが深いと思いますけど、目前の写生って言うことが茂吉の一種の核の方にどんどん沈めていっても、なおかつやり方としてはおんなじなんだという形でもって、一種の歴史感情って言ったら良いんでしょうか、伝統意識つったらいいんでしょうか、これはなんともいい言葉がないんですけど、それは茂吉には比較的少なかったんじゃないかなっていうふうに思えるんです。僕はそう思えます。どこまで行っても、どこまで過去に食い込んで沈んでいっても茂吉の調べは生活感情の調べであるとなっていて、歴史感情あるいは言葉がないんですけど、伝統感情と言いましょうか、そういうところには茂吉の調べは行かない。むしろその方は明星派の歌人のほうが行けたんだっていうふうに僕には思えます。それは茂吉の調べ論、あるいは声調論というものの非常に大きな特色だっていうふうに思います。その特色を、良い特色と見るか欠陥と見るかは、歌人の様々な立場によって違うわけでしょうけれど、僕は茂吉の過去感情と言いましょうか、あるいは時間感情の中にはどこまで行っても歴史感情はなくて生活感情があって、金太郎飴みたいに金太郎の顔はいつでも生活の顔をしていると言いますか、生活感情の顔をしている。それが茂吉の声調論の大きな特徴であるように思います。茂吉の声調論の特徴とはいわばそういう一つの、歴史感情よりも生活感情だっていう意味合いでどこまでも時間の奥深く入っていく要素があるってことは、とても大きな特徴なんじゃないかっていうふうに思います。
 例えば、茂吉も時に、名所旧跡を回ったりして名所旧跡を歌枕のように、歌に詠んでいるわけです。例えば熊野へ行ったときの歌があります。読んでみましょうか。「紀伊のくに大雲取の峰ごえに一足ごとにわが汗はおつ」って、汗って、この汗ですね。もう一回やってみましょうか。「紀伊のくに大雲取の峰ごえに一足ごとにわが汗はおつ」っていうんですよ。これ上の句の「紀伊のくに大雲取の峰ごえに」っていうところまで来たんだから、たぶん歴史感情に富んでいる人だったら、下の句に「一足ごとにわが汗はおつ」っていうふうにはつくらないだろうなと思います。つまりもっとうまくつくるだろうなと思います。もっと歴史感情に満ちた一種の儀礼歌に近いわけですけど、歴史的由緒ある歌っていうのをつくっちゃうだろうと思います。だからこの下の句に「一足ごとにわが汗はおつ」っていうふうにはやりませんでしょうって。この下の句はこの歌を非常に悪くしていると思います。つまらなくしているわけです。しかしこのつまらなくしているには根拠はあるわけです。その根拠は何かと申しますと茂吉はどんなに由緒深い歴史感情をそそるような場面に遭遇して、場面を歌ってもなんとなく生活感情を捨てるってことがどうしてもできない。そうするとやはりこの「一足ごとにわが汗はおつ」になってしまうと思います。これはやっぱりこの歌をよくなくしていると思います。つまり上の句っていうのは当然歴史感情を歌った主題にした歌になるはずの表現の仕方なんですけども、下の句で生活感情にしちゃって汗が垂れたっていうふうにしちゃっているわけです。こういう仕方っていうのは一つの例にしか過ぎませんけども、この例から一番わかりやすいわけですけども、わかり易い例を挙げてわけですけども、茂吉の過去感情と言いましょうか、過去の生活感情っていうものをどんどんどんどん彫っていっても、そこで出てくるのは生活感情で決して歴史的な伝統感情というのになっていかないっていうことが、とても大きな茂吉の調べ論、あるいは声調論ていうのの特徴になっていますし、茂吉の歌の特徴全般をとてもよく表しているように思います。

8 大きな調べから小さな調べへ

 茂吉の歌っていうのは、また西欧の医学留学から帰ってから息を吹き返すように、また見事な歌に返っていくわけです。返っていって、僕がそういうふうに思ってそれを特徴じゃないかなと見るわけですけども、歌の調べから言いますと、小さな調べっていうふうに、小さな調べの歌っていうふうになっていくと思います。茂吉はだんだんだんだん歴史的になっていくと思います。その小さな調べの歌っていうのは、どこいらへんから始まるかって言うと、僕は自分の見方からすると『赤光』の中にはほとんどないと思います。非常に小さな主題、ふとした主題っていうのを取り上げているときでも、その調べはやっぱりたいへん大きな調べです。大きな調べの歌です。たぶん『赤光』のところではまずほとんど見つけることができないんじゃないかって思います。小さな調べの歌っていうのはやっぱり、言ってみれば『あらたま』のところから始まって最後まで続いていくっていうふうになっていくんだと思います。茂吉の歌の調べが小さくなっていくにつれて、非常に茂吉の短歌出し?をするような傑作短歌がたくさん出てくるっていうような、推移の仕方っていうのは大変、興味深いことですしまた、そういうふうに言っちゃっていいのかなっていうことは、本当言うと疑問、問題があるように思いますけど。
 僕こんどあれしてみて、もしかするとやっぱりだんだん終わりになってきて出て来る、小さな調べの良い歌っていうのが本当に茂吉の良い歌なんじゃないかなって、思えるようになってきました。それは僕自身が年食ったっていうことが大変大きな要素かもしれないので、僕らの考え方に主観的な移りゆきかもしれないです。僕、小さな歌って言ってるのはどういう歌かってのを申し上げてみましょう。
 例えば『赤光』の次の『あらたま』なんかで言えば、ちょっと読んでみましょうか。「ふゆ空(ぞら)に虹(にじ)の立(た)つこそやさしけれ角兵衛童子(かくべゑどうじ)坂(さか)のぼりつつ」っていうふうな歌があります。この種の歌っていうのはもちろん『赤光』のなかにいっぱいあります。もし言葉の意味だけで言うんならこの種の短歌はたくさんあります。しかし僕は小さい歌って言ってる意味は、ちょっとそういうこととは違うので。つまり調べ、声調っていうものから、調べからやってくる意味の響きっていうのも言葉の意味だけから意味と重なり合って出て来る調べはかなり複雑だって、それでいてしかし、やっぱり小さな歌だって。大きくうねるように大きく二回三回うねったら一首の歌は終わったっていうんじゃなくて、大変細かい刀を、非常に見事に彫りを深くしたり優しくしたり強くしたり高くしたりっていうなふうにして使いながら調べの響きっていうのを意味に変えて、言葉の意味と重ね合わせるってな形の歌っていうのを僕は小さい歌っていうふうに思うわけです。小さい歌で良い歌だって思うわけです。ですから今言ったような歌はただ主題だけから言えばあるいは主題の言葉の意味だけから言えば『赤光』の中にたくさんあります。もっと小さいことを微妙に歌っているっていうなそういうのはありますけど、調べは決して『赤光』の場合には、それを歌っている調べは決して小さな調べではありません。つまり大きな調べで小さな主題、微妙な主題を歌っているわけです。それは『赤光』の中の小さな主題の歌です。ところでこの『あらたま』なんかから始まってくる兆しが見えてくる茂吉の小さな歌っていうのは、調べからやってくる無形の意味の響きっていうのを加えた意味合いで、響き合った意味合いで、たいへん小さな微妙な調べで、微妙な良い歌を構成しているっていうふうになっていると思います。
 もう一つここで『つゆじも』の中から、一つ挙げてみましょうか。「海のべの唐津(からつ)のやどりしばしばも噛みあつる飯(いひ)の砂(すな)のかなしさ」。ご飯中に噛んでたら砂が入ってたってことなんでしょうけど。「海のべの唐津(からつ)のやどりしばしばも噛みあつる飯(いひ)の砂(すな)のかなしさ」っていう歌が『つゆじも』の中にあります。この歌も僕は小さな歌で良い歌だと思います。この歌も主題だけから言えば『赤光』のなかにたくさんあります。この種の小さな主題を歌ったっていう、主題だけで言うならいっぱいあります。しかしこの調べ自体の小ささとか微妙さ、小さいけれどまた微妙さ、それから高低強弱っていうなことは、非常によく考えられていて、それが使われていて、その響きが言葉の意味の響きに重なってきて一首の微妙な色合いを作っている。この種の歌はやっぱり小さな歌っていうふうに呼ぶとしますと、これは後期になると、なるごとに多くなっていくことがわかります。多くなってまた微妙さもやっぱりたくさん加わっていく。そうすると茂吉の歌の良い歌っていうのはなんなのかって言うことによっては、初期の『赤光』『あらたま』っていうなところの歌を良しとする考え方とそれから、後期の方が良いという考え方とは違うかもしれないし、いずれとも言いようはないわけですけども。しかし僕が見たところでは後期になるにつれて、小さな歌でしかも響きが微妙になるだけです。その微妙に響いている調べが、微妙な意味合いとして、言葉の意味に加わっていくっていう、その要素が大きくなって一種の、小さいんだけどなんていったらいいんでしょうね、ものすごい大きな響き合いをやっているっていうな、そういう歌が後期になるにつれて多くなっていくっていうふうに思います。
 何かもう一つぐらいやってみましょうか。『たかはら』の中にある歌ですけれど。「をりにふれて」っていうんで、「章魚(たこ)の足を煮てひさぎをる店(みせ)ありて玉(たま)の井町(ゐまち)にこころは和(な)ぎぬ」和やかになったってことです。「章魚(たこ)の足を煮てひさぎをる店(みせ)ありて玉(たま)の井町(ゐまち)にこころは和(な)ぎぬ」っていう歌があります。この歌も主題だけで言えば、たとえば蔵王の麓のところに、鉄砲で撃って白いウサギが吊るしてある店があったみたいな歌が『赤光』の中にあると思いますけど、それとさして変わりないっていう、小さな主題をさして変わりないように歌っていると思います。だけれどもここにある調べっていうのは『赤光』のときの大きな調べでそれを歌ってるんじゃなくて、それを歌ってるんじゃなくて、ものすごく小さな微妙な調べで歌っていて、なんとも言えない調べ自体からやってくる意味が響き合って、何とも言えない見事なと僕には思えますけど、見事な歌だって思います。「章魚(たこ)の足を煮てひさぎをる店(みせ)ありて玉(たま)の井町(ゐまち)にこころは和(な)ぎぬ」っていう歌です。平凡だっていうあれで言えばそうなのかもしれないですけれど、それは多分主題だけから来るのであって、来る考え方であって、小さな調べが小さな主題と響き合って、意味を増幅してると言いましょうか、そういう意味合いで言ったらまことに見事な歌だっていうふうに思います。

9 衰えない茂吉の歌、極微の調べへ

 こういう茂吉の歌の主流の移り変わりっていうのが微妙でありますけれど、だんだん後期になるにつれて、ますます微妙に、ますます小さな調べの歌になっていくと思います。それはたぶん、よくわからないところですけれど、昭和9年頃の『白桃』という歌集がありますけど、その歌集のあたりから茂吉の歌の調べっていうのが、小さな歌がもっと小さな、極微と言ったらいいんでしょうか。極微の世界みたいなものをつくっていて、まことに抜き差しならない境のところに、茂吉の写生と声調ということが二つの車輪にして、ちょっとどうしようもないなっていうか、誰がどう言おうともこういうところまで行っちゃったかっていう、その見事なところまでいっちゃっているその最初の兆候は『白桃』あたりからじゃないかなっていうふうに、僕には思えます。
 「弟(おとうと)と相むかひゐてものを言ふ互(かたみ)のこゑは父母(ちちはは)のこゑ」っていう歌があります。僕は大変見事な歌だっていうふうに思います。つまり、自分の声と弟の声にだんだん父親と母親の昔聞いた声に似てきちゃってるなっていうことを言ってるんだと思うんですけど。まことに微妙な主題を微妙な調べでやっているように思えます。このあたりから茂吉は要するに一種の、老いの静かさって言うのと老いの諦めっていうか諦念っていいましょうか。そういうものがだんだん歌の中に入ってくるようになります。なったと思います。興味深いことは、そのことは茂吉の歌の老い、衰えとか老いとかを意味しないってことです。これはきっと主題の側からも心の側からも両方から来るんでしょうけども、自分の老いをそれなりに受け入れて、それを歌の表現の中に持っていくことによって、歌の表現自体はちっとも衰えないと言いましょうか、衰えを見せないっていうところを後期になるほど、後になるほどそういうふうになっていきます。これはちょっと大変なことだなと思います。茂吉は心の老いっていうのに対して自己肯定することによって、歌はものすごく緊迫した若い歌に、初期の頃とおんなじような、あるいはもっとあれよりも微妙な、『赤光』よりも微妙な調べを与えるものすごい緊張した歌にしていると思います。それは茂吉の見事なとこだと思います。
 そういうのを挙げてみましょうか。例えば、これはなんだろう『寒雲』か。『寒雲』ですから昭和の10年代でしょうか。「自転車のうへの氷を忽ちに鋸(のこぎり)もちて挽きはじめたり」っていう歌があります。つまりもうちょっと、この歌どこが良い、どうしてこれ良い、良いってことはたぶん誰でも良い歌だって言うと思います。これを悪い歌だって言う鑑賞は成り立たないと思います。ですから誰でも良い歌だと思います。だけど、どうしてこれが良い歌なんだっていうことを言ってみろっていったなら、もう歌の言葉の意味からは、何も言えないと思います。言葉の意味からは何も言えないです。「自転車のうへの氷を忽ちに鋸(のこぎり)もちて挽きはじめたり」っていう。これだけの意味でしか言葉の意味ではないんで、これがどうして良い歌なのって言ったら、そりゃ、声調、つまり調べだよっていう。そのこの調べっていうのはどうしてわかるって、どうしてわかるって今度は問われたとしたらば、どう答えるかって、答えようがないわけです。つまり小さな調べから来る微妙な意味がこんなかに加わっているからだよって言うこともまずできないんだけど、その小さな調べっていうのが言ってみれば極微の調べっていうふうになっているから、そんな調べなんかなんにも入ってないよっていうふうにしか言えないようにしか見えないのです。でもほんとはそうじゃなくて、非常に極微なって言いますか、もうちょっと解釈のしようがないっていうか、抜き差しがならないっていうか、そういう極微の調べがここんなかに微妙にもう、一つの言葉ごとに全部入ってんだと思います。もっかい読んでいましょうか。「自転車のうへの氷を忽ちに鋸(のこぎり)もちて挽きはじめたり」っていう、だけです。これ、どこに小さな調べがどこにあるんだって言われれば、僕は、いやこれはちょっともう小さな調べとも言えないんだと。これはもう極微の調べっていうんでもう、なんていうんですか。言葉の意味それ自体にひっつきながら、しかし微妙な何とも言えない声調から来る極微の調べっていうのがちゃんと意味としてこんなかへ入っちゃってんだよっていう解釈の仕方をする以外に、僕はないと思います。これはたぶん氷屋さんが自転車で持ってきた氷を、氷挽く鋸で挽いてるって、ただそれだけの歌だと思いますけど。これはでも、良い歌だって言うより仕方がないっていうか、どんな人が読んでもたぶん良い歌だっていうふうに言うに決まってると思います。でも、なぜ良いんだって言われたら、意味からはどういう要素も発見できないと思います。いやこれ調べが良いんだって言ったって、どこが調べが良いんだって言われたら、ちょっとあのどこにも特徴ある調べが、誰にもわかるような意味合いでは無いっていう、伝わってきません。どうして伝わってこないだろうかって言ったらそれはもう、非常に調べ自体が極微であってもうちょっと目にも耳にもちょっとやそっとじゃ聞こえないんだよっていうぐらいにもう、言葉の意味自体にくっついちゃってる極微の調べが、意味にたちまちのうちに変貌してこの中に加わっているんだっていう、まぁそういう解釈でもする以外にちょっと方法が無いと思います。これがたぶん昭和10年代の良い歌の非常に典型的なものであるし、また茂吉の写生と調べっていうのが極地のところで合わさっちゃってる歌だっていうふうに思います。
 もっと戦後の、じゃ最後に近い頃で良い歌っていうのをちょっと挙げてみましょうか。んー。これは『つきかげ』ですから戦後四、五年経ってからだと思います。「わが生(せい)はかくのごとけおのがため納豆買ひて歸るゆふぐれ」っていう歌があります。もうちょっと、「わが生(せい)はかくのごとけおのがため納豆買ひて歸るゆふぐれ」っていう歌です。これはもうほんとに自分の老いっていうのを一種の静かさと諦念として完全に受け入れちゃった上で成り立っている歌ですけれど、この歌自体は年取ってないと言いますか、衰弱してたり、衰えたりは少しもしておりません。つまり、主題あるいは言葉の意味、歌の意味としては、そうですけど、歌自体としては誠に見事な緊迫した歌になっていると、僕は思います。これはやはり先程言いましたように、調べ自体から来るものっていうものが極微の世界になっちゃっていて、それが言葉の意味に加わってきてるんだと思います。言葉の意味自体だけをとってきてももちろんこれは良い歌ですけど、たぶんそうじゃないんで。これを言葉の意味の上にたぶん、極微の小さな調べっていうのが加わって、そして一つの響きをつくっておると思います。これはたぶん茂吉の歌の傑作と言いましょうか、茂吉の傑作の歌っていうのの一番最後にやってくる歌じゃないかなっていうふうに僕には思えます。
 これは先程から度々申し上げました通り、いやそれは初期なんだって、初期の『赤光』がやっぱり一番いいんだよっていう見解ももちろんありえますから、それ人様々でよろしいわけですけども。ただ???文学の世界でって言いましょうか。散文の世界でって言いましょうか。小説の世界でって言いましょうか。こういうふうに微妙な、その場合でしたら散文ですから調べとは言わないんですけど、微妙ななんて言いますか光と影っていうのが言葉の意味に付け加えられながら、最後まで衰えない散文、あるいは小説を書いたっていうのは明治以降たぶん夏目漱石一人だと思います。つまり、夏目漱石の『明暗』っていう作品が、今言いましたこの茂吉の「わが生はかくのごとくおのがため納豆買いて帰る夕暮れ」という歌とちょうどこう、漱石の『明暗』っていうのは大変良く、対応する作品だと思います。漱石の『明暗』もすでになんか漱石の深刻な心のえぐり方もなにも全部、そういう意味合いではなくなっちゃっているんですけども、この作品、中途で終わっていますけども、この作品は読んでいますと字に書かれている以外に、なんていうんですかね、僕はそういう感じを持つんですけども、一種の文章自体のなかに一種の艶めかしさつったらいいんですかね。艶めかしさみたいなものがね、文章の響きって言いましょうか文体の中に入って来てるんですよ。ちっとも、筋もまぁ途中までで終わってるせいだけじゃなくて、最後まで書いたとしたってそんなに大した筋、物語に筋になる作品とは思えないんですけど、ただこの作品の完成度っていうのと、微妙な響きっていう、それから一種の僕は艶めかしさだと思いますけど、艶めかしさの文体っていうのは、これはたぶん言葉の意味以外のところから加わってくる要素だと思いますけど。この漱石の『明暗』っていう作品は大変良い作品なんですけども、この作品の良さっていうのは、どこか際立ってここだっていうふうに言うことはできないのに全体がなんとも言えない、ちょっと艶めかしいと言ったらいいんでしょうか、若々しいと言ったらいいのか、老いないっていう、老いない方法を獲得したって言ったらいいんでしょうか。何とも言えない良さっていうのがあるわけで、この『明暗』っていう作品がたぶん茂吉の後期の良い作品に匹敵する、あるいは該当するんじゃないかって思います。これは、散文の方でと言いますか、小説の方では、たぶんそれを最後までやったなって思えるのは、僕は漱石だけだと思います。
 じゃ、詩人でそういう詩人はいるかっていうふうになるんですけど、僕は、年取った詩人っていうのは年取った作品を書いてっていうふうになっていって、茂吉が作品がそうであるような意味合いで、こりゃやっぱり衰えなかった人だなっていうふうに言える人はまずいないか、それじゃなければ詩人っていうのは長生きしないってことがあるのかどうか知りませんけども、若くして死んでしまったっていうそういう人はいるんですけども、緊張した詩を書いたまま死んじゃったっていう人はいるんですけども。非常に長く生きた詩人で最後まで、こういう意味合いで、ちょっと衰えを知らないっていうような作品を全うしたっていう詩人っていうのはいないように僕には思えます。少なくとも、今まではいないんじゃないかなって思います。
 そういうふうに考えてみますと、やっぱり斎藤茂吉っていう人は、初期をたくさん評価するにしろ、後期をたくさん評価するにしろ、やっぱり大変な大歌人で、日本の詩歌っていうものの伝統って言いますか、系列っていうのを文学全般の中に導き入れていったっていうことを初めてやったし、また最後まで衰えなかったっていう意味合いでは、やっぱり明治以降のなんとも言えない高嶺なんだなぁっていうふうに、僕には思えます。僕らが、大雑把なところですけども、茂吉の歌について考えてきた特徴っていうのは、以上申し上げてきたところでだいたいお話できたような気がします。
 僕、あとお話するとすれば、もすこし微細に渡って、なぜ茂吉の歌の中に歴史感情っていうのがあんまり入ってこない。歴史感情が入ってこないってことで、例えば万葉の歌を評価する場合に、この評価は違うんじゃないかなって僕は思ってるところはあります。でもそういう話をすると、微細な話になっていってしまいます。僕やるとすれば、微細な茂吉の茂吉論をやる以外にないと思いますけども、僕が掴んでいる茂吉の特徴と存在理由っていうのは今日お話したところでだいたい尽くせたと思っております。非常にお粗末で簡単なんですけど、これで終わらしていただきます。(会場拍手)

司会、閉会挨拶(略)



テキスト化協力:まるネコ堂さま