本日も、お暑い中、ご多数お集まりいただきまして、どうもありがとうございます。今日3日目は、吉本隆明先生にご講演いただきます。題は「太宰治 お伽草紙・斜陽・人間失格」です。では、先生、お願いいたします。なお休みは、2時半頃の予定になります。
今日は、太宰治の『お伽草紙』と『斜陽』と『人間失格』の3作を中心にして、お話するってことなんですけど、これは、太宰治の『お伽草紙』は戦争中ですから、第二次大戦、あるいは、太平洋戦争の戦争中から戦後にかけての太宰治の作品についてふれるっていうことになると思います。
太宰治の『お伽草紙』っていうのは、たいへんな傑作だっていうふうに思います。だいたい、ある作品を批評する場合には、その作品の、非常に印象深い箇所っていうものをつなげまして、そして、その作品の印象をつくると、そういう印象をもとにして、批評するっていうのが、いちばん安直で、いちばんやりやすいことであり、また批評家っていうのは、誰でもそんなことしているわけです。
ところで、太宰治の『お伽草紙』っていうのは、その方法は通用しない作品です。だいたい、印象深い箇所っていうものを、抽出することが不可能であるっていうふうに、ぼくには思います。つまり、全部が印象深いっていうふうに、全編の全文章が印象深いってことになりますから、印象深い箇所をつなげてっていうことが不可能なほどの作品だって、ぼくは思います。ですから、もし、お読みの方はもちろん、おわかりなわけですけど、お読みじゃない方は、ぜひ、読んでいただきたいなっていうふうに思います。
格好をつけていうと、波状にっていいましょうか、クライマックスとそうじゃないところがっていうふうに、作品ができていなくて、一様に高いレベルの緊張度でもって、はじめから終わりまで、終始しているっていう、いってみれば、かっこよく云えば、高原状っていうことになるわけでしょうけど、高原状の作品です。つまり、波形があって、谷があって、山があってっていう作品じゃないっていうふうに思います。
で、太宰治の『お伽草紙』というふうに言っていますけど、ほんとうに申し上げますと、古典、つまり、室町時代の『御伽草子』っていう民話的な、あるいは、昔話ってものを集成した古典がありますけど、古典の『御伽草子』とも、それから、いわゆる昔話といいましょうか、そういうものとも、あんまり、かかわりがない。まったく、素材自体はたしかに、おとぎ話に求めていますけど、作品としては、全然そういうものと類を別している作品であり、また、自分なりの想像力で、自分なりのモチーフで、創り上げてしまっているっていうふうに云うことができる。まったく独創的な作品だっていうふうに考えたほうがよろしいと思います。
「瘤取り」と、「カチカチ山」と、それから「雀の宿」と、「浦島太郎」と、その4つを取り上げて、太宰治なりの作品にしているわけです。もとになっているのは、はじめのはしがきのところに書いてありますけど、空襲に遭って、空襲警報が鳴って、うちで掘ってある防空壕の中に入って、子どもが、あんまり長く入っていると、騒ぎ出してっていうようなことがあるので、そういうときに絵本を読んで、子どもをなだめる、そのなだめているうちに、自分なりの構想が浮かんで、そういうふうに筋書きをつくってしまって、一個の作品にしてしまうっていうことになったものなんだっていうふうに、はじめに断わってありますけど、もとになっているのは、よくどこにでも売っている子ども用の、説明が少しあって、あとは絵でもって、そんな上等な絵本じゃないわけですけど、そういうものがもとになっているってだけで、あと、日本の伝統的な昔話っていうのと、それから、古典としての『御伽草子』とも、あんまり、かかわりがないものをつくりあげているっていうふうに云うことができます。
たとえば、「瘤取り」なんていう場合を、はじめに例にしますと、瘤取り爺さんっていうのが、右のほうに瘤を持っている爺さんっていうのは、お酒飲みで、それで、なまけ者でっていいましょうか、遊ぶのが好きで、ごろごろごろごろしていて、お婆さんは、たいへんまじめなっていいますか、きまじめな主婦で、それで、息子がひとりいて、息子がまた、非常に謹直なっていいますか、まじめな、近所のあだ名が、阿波聖人っていうふうに言われているあだ名を持った息子は、まったく謹直な人です。
その酒飲みのお爺さんは、うちでお酒を飲んで、くだを巻いたりするんですけど、全然、うちのお婆さんも相手にしてくれないし、息子も相手にしてくれないっていう性格を、右の瘤を持ったお爺さんに与えています。
左の瘤を持ったお爺さんっていうのは、非常に人品骨柄卑しからずっていいましょうか、そういう人で、堂々たる体躯の、まったく武士のような性格のお爺さんで、服装は立派で、学問があり、財産もあると、おかみさんは、奥さんは若くて美人であると、そういう設定をしてあって、娘がひとりいて、娘は蓮っ葉な娘で、奥さんと娘さんは、なんかしょっちゅう話し合って、ゲラゲラ笑っているっていうような、そういう性格付けを、まずやっています。
酒飲みの家庭では、孤独な、酒飲みでだらしない親父だと思われていて、孤独な右の瘤のお爺さんっていうのが、あるとき山へ柴刈りに行って、そこで、鬼たちが、歌い騒ぎ踊っているところに出会うわけです。それで、自分も、だんだんだんだん浮かれてきて、お酒を飲んで酔っ払って、鬼と一緒に踊りはじめる。そうすると、踊りはじめると、鬼のほうも喜んじゃって、囃したてるっていうので、けっこう盛り上がって、それで帰ろうとするんですけど、鬼のほうじゃ、またやってきてくれないかって、口約束だけじゃ嫌だから、だめだからとか言って、お爺さんの右の瘤を、ちょっとこれを預かっておくって言って、取ってしまう。
太宰治っていう人はそうなんですけど、それで、お爺さんは、瘤を取られて帰ってくるわけです。そうすると、ぼくらの説明はうまくないですけど、そうすると、お婆さんは、お爺さんの瘤が、いつのまになくなっているっていうのに気が付くんですけど、「お爺さん、瘤どうしたの。」っていうふうに言うような雰囲気は、家の中にはないのです。知らんぷりしてるんだけど、瘤がなくなったっていうふうに、お婆さんのほうは思っている、どうしたんだろうなと思っているんだけど、お爺さんには口に出さない。お爺さんのほうも口に出されないと、なんかそれを言うきっかけがないっていうような、そういうちぐはぐさっていいますか、家の中のちぐはぐさっていうのは、とてもよく太宰治流に描かれています。
息子さんも、謹直で、畑へ行く途中、出会うわけです。やっぱり、うちの親父は瘤がなくなってるなと思うんですけど、別段、「瘤をどうしたんですか。」って聞くような雰囲気は、そこのなかになくて、それで聞かない。それで、お爺さんも、瘤がなぜなくなったかとかいうことも、言いだすきっかけがない。
ただ、右の瘤のお爺さん、人がいい酒飲みの、だらしないお爺さんのほうは、そういうふうに家庭の中で孤独なものだから、瘤があるっていうこと、瘤を持っているってことは、自分の慰めになっているので、かならずしも、瘤がなくなってしまったから、寂しくてしょうがないっていうふうに太宰治は描いています。
この昔話の「瘤取り」は、もちろん、登場する人物の性格なんてものは、全然ないわけです。存在しないわけです。ようするに、話のパターンっていうのが、昔話の骨格であって、登場人物がどういう性格をもっているかとか、どういう心の動かし方をするかなんていうのは、全然ないわけです。だけれども、太宰治の特色っていうのは、そういうところで、微妙な心理の動かし方とか、食い違い方とかっていうことを、とてもよく、見事に描き出しているっていうこと、また、見事にそういうことをつくってしまうっていうことが、太宰治の特色であるわけです。そういう酒飲みのお爺さんのほうは、そういうあれで、瘤を取られてしまったことは、寂しくてしょうがないっていうふうに思っているわけです。
そうすると、左の瘤を持っているお爺さんのほうは、右の瘤のお爺さんを見ると、瘤がいつのまにかなくなってる。こっちのほうは、瘤があるってことが、なければ、自分は、人品骨柄卑しくない立派な人物に見られるのに、瘤があるものだからっていうふうに思ってて、瘤がなくなればいいなっていうふうに、いつでも思ってるっていうのが、左瘤のお爺さんの性格として設定してあります。
それで、右の瘤のお爺さんの瘤がなくなったっていうのを見て、どうして瘤がなくなったのかっていうことを聞くと、これこれこうで、山の中で、鬼が踊っているのに出会って、それで見ているうちに踊らされて、帰りに取られちゃったんだっていうふうに言うわけです。すると、左瘤のお爺さんのほうは、じゃあ自分も行って、瘤を取ってもらおうっていうふうに行くわけです。やはり、鬼たちが、騒いで踊っているようなところに行くわけですけども、行きまして、鬼たちが、騒いだり、踊ったり、歌ったりしているところに、左瘤のお爺さんも入って、その中で踊って、鬼たちと一緒に踊って遊ぼうっていうふうに思って、それをするのですけど、こちらのほうは、堂々たる大変立派な人ですから、酒飲みのお爺さんみたいに、無心に踊りに打ち込んでっていうようなことができなくて、どっかぎこちないわけです。鬼のほうが、おもしろくないから、怒っちゃって、それで、左瘤のお爺さんのほうには、前に右瘤のお爺さんから取った瘤もいっしょにくっつけて、もう来るななんて、これも返すとか言って、くっつけて、それで、左瘤のお爺さんは、両方に瘤ができてしまったっていうことになるわけです。
つまり、絵本の瘤取りっていうのは、そういうことが書いてあって、この筋書きっていいますか、筋のパターンっていうのは、おんなじ決まったようなもので、あんまり変化はないんですけど、ここにつけられた、右瘤のお爺さんと、左瘤のお爺さんと、それから、家庭でのあり方っていうのに、つけられた性格っていうのと、それから、心理の動かし方っていうのの描き方っていうのは、太宰治独特のものでして、これは、ぼくらの説明では、とても、うまくそれを表現できないのですけど、これはぜひともお読みくだされば、よろしいというふうに思います。
で、太宰治は、「瘤取り」っていうのは、いったい何をモチーフとしているのだろうかっていうふうに考えると、それは、太宰治は最後のところで、自分の考えで、人間の生活の底のほうにある、人間の性格の悲喜劇っていいますか、悲劇と、それから、喜劇っていうのが、「瘤取り」っていうおとぎ話の根本的なモチーフなんだ。
それは、自分がそのように、「瘤取り」の筋書きだけは、変えようがないものなんですけど、それに性格付けをうまくやりまして、それで、人間の性格の悲喜劇で、誰が悪いとか、誰がいいとか、この性格はいい性格だとか、悪い性格だってことでないのに、ひとりでに当面してしまう喜劇であったり、悲劇であったりっていうようなものを描きたかったんだと、そういう人間の生活には、生活のありさまのなかには、いつでもそれがあるんだ、性格の悲喜劇っていうなのが、いつでも停留しているんだっていうのが、太宰治の「瘤取り」に与えた性格付けなわけです。
これは、万事、少なくとも、太宰治が取り上げたおとぎ話には、全部そういう性格付けがしてあります。それは見事なものだっていうふうに言うことができます。
たとえば、「浦島太郎」っていう場合には、自分で勝手に、丹後の国の、水の江の海岸のところの話なんだっていうふうに、勝手につけてある。これは、『御伽草子』の中にも、浦島っていうのはありますから、民話なんかにもあります。もっといいますと、神話の中にもあります。
太宰治の性格づけはどうなってるかっていいますと、浦島太郎っていうのは、ようするに、旧家の長男なんだ。それで、風流好きで、道楽好きなんだけど、風流と道楽に、身を打ち滅ぼしちゃうみたいなふうに、打ち込むことができない。ただ、片手間の道楽みたいなものをやっている旧家の長男なんだ。それで、いつでも妹から、兄さんは冒険心がないからだめだって、いつでも言われているっていうふうに、設定してあります。
浦島太郎がどうして、竜宮に行きたがったのかっていえば、人間の世界っていうのは、あまりに、相互に批評し合って、うるさくてしょうがない。つまり、人間っていうのは、なぜ、人を批評しなきゃ生きていけないんだっていうことは、うるさくてしょうがないっていうふうに、浦島太郎は思ってて、いつか、そういう人の批評をするみたいなことがないような世界に行きたいっていうふうに、浦島太郎はいつでも思っている。
で、たまたま、亀を助けてあげた。子どもにいじめられているのを助けてあげたっていうののお礼に、亀が、竜宮へ連れてくって言って、連れていってくれるっていうような話に変えています。
竜宮っていうのは何なのかっていうことについて、太宰治は、それは、一種の批評のない世界なんだって、ようするに、人が人を許容する、何をしても許容されるっていうような、そういう世界が竜宮なんだ、それは、現世の世界が、批評なしには、一日も生きていけないっていうふうに、人間の関係ができあがっているっていうのが、現世の世界で、浦島が行きたがった、あるいは、行った竜宮っていうのは、全然そういう批評とかなくて、何をしても許されるし、好きなことをやっても許される、好きなことは何をしても許されるっていうような、そういう世界なんだっていうふうに、設定しています。
それで、浦島は竜宮へ行って、それこそ批評のない世界で、のんびりのんびり暮らして、竜宮の3日っていうのは、現世の世界の300年に該当するっていうような、そのくらいゆったりと時間が流れていて、したがって、人の批評をしたり、言わなくても、のんびりしてやっていけるっていうような、そういう世界でのんびりしているんですけど、あるとき、なんとなく、この批評をし合わない世界っていうのも、また、寂しいものだなっていうふうに思いだして、帰り心っていいますか、帰心が兆して、うちへ帰りたいって言うと、玉手箱を乙姫様がくれたと、それで帰ってきたら、誰も知ってる人がいなくて、もう300年も過ぎていた。それで、玉手箱を空けてみたらば、自分は、たちまち300歳の年寄りになってしまったっていうふうな、そういう話にしてあります。
すこし、あれを申し上げますと、浦島っていうのは、かなり古い、たぶん、南方系といったらいいんでしょうか、南方系に違いないと思うんですけど、南方系の、かなり古い説話だっていうふうに思います。もちろん、鹿児島やなんかにも、似たような話がありますし、また、東北のほうにも似たような話があるわけなんです。だから、日本列島でいえば、たいへん古い時代の、つまり、まだ日本国ができあがらない前の、古い時代から伝えられた、南方系の説話だっていうふうに、考えることができると思います。
神話にも、古事記とか、日本書紀の中にもあるわけです。それは、どういうふうにあるかっていうと、これは、みなさんもきっと、学校の教科書なんかで、習われたと思うんですけど、神話の中に、海幸彦と山幸彦の話があります。それは、神話の中でいえば、瓊瓊杵尊っていうのの子どもが3人いて、そのなかで、長男が火照命っていうんですけど、それで、三男、末子ですけど、三男が火遠理命っていうわけです。
火照命っていうのは海幸彦、つまり、海で漁をやっている、そういう人間なわけです。それで、三男の火遠理命っていうのは山幸彦、山で狩りをしているという、そういう人間なわけです。
あるとき、おれが、海の漁みたいなのを、やらしてくれって、で、あなたは、山のあれをやってみてくれっていうんで、その仕事を交換するわけです。交換して、火遠理命、つまり、三男坊が、兄から借りた釣り針があるわけですけど、釣り針を、釣りをやっているうちに、海に落として、取られてしまうっていいましょうか、なくしてしまうわけです。兄のほうは、返せって、どうしてもそれを探して返せって言われて、いつまでも探すんですけど、なかなか見つからない。
あるとき、やっぱり、針を探して、海のほとりをあれしていると、お年寄りが、これは神話の中では、塩土老翁となっていますけど、その年老いた神様がきて、わたしが、海のわだつみの神のところに連れていってあげようって言って、それで連れていってくれる。それで、海の世界の、神話では、豊玉毘売っていうのが出てきますけど、つまり、乙姫に該当するわけですけど、豊玉毘売と結婚して、やっぱり、何年間もそこに居着いてしまうわけです。
だけど、時々、憂鬱そうな顔をして、考え込んでいるのを見て、何が不服なんだっていうふうに、聞かれるわけです。豊玉毘売に聞かれて、実は、こうこうで、兄貴の釣り針をなくしてしまって、それを探そうとしても見つからないでいるわけだって言うわけです。そうすると、海の神さまが、それじゃあ、わたしが魚たちを集めて聞いてみようって、聞いてみると、鯛が針を飲み込んで切っちゃったって、鯛が、それに該当するってことがわかって、それですぐに、釣り針をもらって、国に帰って、兄貴にそれを渡す。
それで、そのときに、海の神さまが、兄貴がもう、たいへん無理難題をあれしたら、そのときは、この玉を持ち出して、おまじないをかけなさいっていうことを教えてくれるんです。兄が、無理難題を仕掛けたりしたときに、それをやって、兄貴をへこましちゃうっていうような、それで、火照命って、兄貴を水に溺れたりさしちゃう、いじわるして、逆に、溺れさせちゃうっていうようなふうに、神話ではなっています。
これが、隼人の祖先の神さまで、そのときからのしきたりで、隼人は、朝廷に対して、朝廷のお祭りとか、なんとかあるときには、海に溺れるありさまの踊りをやるっていうのが、習慣になってきたんだって、その神話のもとになっているわけです。
それで、この火遠理命っていうのの子どもは彦波限武鵜葺草葺不合尊っていう、つまり、子どものときに、産屋をつくって、その中で子どもを産むっていう習慣が、海の海神系の説話の中にあるわけですけど、そういうんだけど、子どものときに、鵜の萱草でもって、屋根を葺くのが、葺き終わらないうちに、子どもが産まれちゃったっていうので、名前を、彦波限武鵜葺草葺不合尊にしたと、それの子どもっていうのが、続き具合をみますと、それの子どもっていうのが、4人いまして、それで、長男が五瀬命、次男が稲冰命、三男が御毛沼命、四男が若御毛沼命っていいまして、こいつが神武天皇になるって、神話ではなってるわけです。
ですから、この海幸彦、山幸彦っていうのは、ようするに、神武天皇の、前の代の前の代、つまり、祖父の代の説話っていうことになっているわけです。この種の海神系の説話っていうのは、浦島の説話と、パターンがおんなじですし、また、おんなじものであるわけです。
これは、日本の神話でいいますと、舞台である空間っていうのが、神話の中でわかるっていうふうに書かれている、一等最初の神話であるわけです。つまり、これを読んでいますと、これは南の方、南九州を想定しているなっていうのがわかるように描かれています。それが、神話の中で場所がわかる、つまり、漠然とですけども、これはやっぱり、九州を指しているなっていうことがわかる、一等最初の神話・説話です。それ以前の説話っていうのは、空間がわかりません。どこの説話・神話であるかっていうのは、空間がうまく設定されていないわけです。つまり、日本列島以外であるかもしれないっていうふうに考えられる、空間が設定されていない神話なんですけど、ここへきてはじめて、南九州じゃないのかな、南九州の海神系、海人系の説話じゃないのかなっていうことがわかることになるように思います。
そういうことと、もうひとつは、火照命っていう長男と、それから、火遠理命っていう三男になっています。別な言葉でいいますと、長子と、末子って、末の子どもですね、末子っていうことになります。それから、神武天皇になる神倭伊波礼彦、つまり、若御毛沼命っていうのも、末子であるわけです。それから、五瀬命っていうのは、長子である、長男であるわけです。これは、習慣として、末子相続っていいますか、次子ないし末子、長男はけっして相続しないっていう、そういう習慣があったところの場所を、たいへんよく指していると思います。
初期天皇群は、だいたい、神武から十代ぐらいまでは、全部そうなっています。つまり、長男っていうのは、神事にたずさわるっていいましょうか、つまり、長男のほうは神事にたずさわって、末子ないしは二男っていうのが、現世を治めるっていいますか、現世の政治を行うっていうようなかたちっていうのが、少なくとも、初期の、実在はたいへん危ぶまれているわけですけど、初期の天皇群の十代ぐらいまでと、それから、この海幸、山幸の、つまり、空間が指定できる神話になってからの神話が、漠然とですけれど、やっぱり、末子相続の習慣があるところ、あるいは、あったところっていうことを、とてもよく指定してあります。だいたい長男は、神事にたずさわって、末子のほうが、ようするに、現世を治めるっていうようなかたちになるわけです。
その神武東征っていうのがあります。神話の中にありますけど、この場合でも、五瀬命っていうのは、瀬戸内海を浪速のほうに上陸しようとして、長髄彦の軍隊に阻まれて、それで、この長男の五瀬命っていうのは、長髄彦の矢を受けて、それで負傷してしまう。それで、途中で、熊野から上陸して、大和に入ろうとした途中で死んでしまうことになっています。その説話もおんなじなんですけど、五瀬命っていうのは、神武に対して、やっぱり、神事にたずさわる人間っていうふうな設定になっています。それで、神武天皇っていうのが、末子なんですけど、これが、現世を治めるってかたちの説話になっています。
だから、その当時の末子相続、あるいは、第二子相続とかいうふうなものが、習慣になっているところの場所が、設定された場所だっていうふうに、神話の設定している場所だっていうふうに言うことができます。
浦島の説話っていうのも、神話の中にある、海幸・山幸彦の説話と、パターンがまったく同じで、同根だって、同じものだっていうふうに思います。これは、南のほうにもありますけど、北のほうにもあるわけなんです。南のほうにもあるし、北のほうにもあるっていうことは、ようするに、たいへん古い時代だろうなぁって、時代からの説話だろうなってことを、暗示するものだっていうふうに思います。だから、日本国ができる前の、日本人のなかに流布されてた説話だっていうふうに考えると、浦島さんっていうのは、たいへん古い説話だっていうことが言えると思います。
もちろん、太宰治は、ものすごくモダンなふうに、浦島説話を直してしまっているわけで、やっぱり、浦島説話についても、太宰治は、モチーフっていう、この浦島説話のモチーフは何なんだろうかっていうふうにいうことを、終わりのところで述べています。それは、太宰が自分の考えるところでは、年月っていうのは、人間の救いなんだっていうことを言ってるんじゃないか、あるいは、忘却、忘れることっていうのは、人間の救いなんじゃないかってことを言ってんじゃないかって、それがたぶん、「浦島太郎」というおとぎ話、あるいは、説話のほんとのモチーフじゃないかっていうふうに、太宰治は、そういう解釈というか、理解の仕方のほうに、この説話を引き込んでいます。
しかし、この説話は、いま申し上げましたとおり、かなり古いものだっていうふうに、言うことができると思います。太宰治の「浦島太郎」では、そうやって、玉手箱でお年寄りになってから、浦島は10年くらい、幸福な老人として生活したっていうふうにいうところで、この説話をむすんでおります。この浦島太郎の説話の変え方っていうのも、たいへん見事なものだっていうふうに思います。
太宰は、そういうおとぎ話を取り上げているわけですけど、もうひとつ、3番目に「カチカチ山」のおとぎ話っていうのを取り上げています。これも、もちろん、むちゃくちゃに、太宰治は、勝手な空想とイメージでもって、勝手な話につくり変えております。
カチカチ山の狸っていうのは、いまの河口湖のほとりに住んでいた狸なんだっていうふうに、太宰治は、そういうふうに変えちゃっています。それで、狸は、山へ柴刈りに行ったお爺さんに捕まっちゃって、うちへ連れてこられたわけです。どうやって捕まったかっていうと、狸が休む石があって、その石に狸が休んで、お爺さんが仕事をしていると、からかって、ろくに仕事をさせないみたいに、からかってばかりいると、あるとき、お爺さんのほうが、狸が休む石に鳥もちをつけておくと、そこに座って逃げらんなくなっちゃって、それを引っ括って、うちへ連れてくと、それで、お婆さんに、狸汁をつくっといてくれって言って、また、仕事に行っちゃうわけですけど、それで、狸汁をつくろうとすると、「お婆さん、ひもを緩めてくれれば、わたしがうまくお手伝いします。」とか言って、お婆さんが人がよくて、ひもを緩めると、狸が、お婆さんを逆に捕まえちゃって、婆汁をつくっちゃって、自分はお婆さんに化けて、すまして、お爺さんに婆汁を食べさせちゃうっていうことから、発端がはじまるわけです。
この手の話は、もちろん、どこの国でも同じパターンであります。まったく同じ、かなり残酷なパターンなんですけど、それで、お爺さんが嘆いて、兎にそれを訴えると、兎が、自分が復讐してやるって、狸に復習してあげようって言って、まず、狸に柴を背負わせて、そこに火をつけて、狸に大やけどをさせちゃう、で、大やけどして困っていると、兎が知らんぷりして通りかかって、やけどで痛くてしょうがないんだって言うと、それは、唐辛子を塗ればすぐ治るからって言って、唐辛子を塗らして、ますます痛くなる。この種の説話のパターンも、よく、どこの国も童話にもあるものです。日本の神話にでも、たとえば、大国主命の出雲神話のなかに、やっぱり、同じようなパターンの説話があります。それで、最後に舟をつくって、遊ぼうっていうふうに、兎が誘って、兎は、自分は木の舟をつくり、狸には泥の舟をつくらせて、それで、浮かべて、狸を沈めて、お爺さんの仇討をするっていうようなことになるわけです。
太宰治は、どういうふうにこれを性格づけているかっていうと、兎っていうのは、ようするに、15,6歳の少女なんだ、狸っていうのは、ようするに、だらしない人のよい爺さんなんだ。で、女の人にはいつでも、15,6歳の少女である兎の様相が、どんな女の人にもあるんだ。だらしない、ひどい目に遭う狸っていうのは、どんな男にも、ひとりの狸が住んでいて、いつでもこういうことになるんだっていうのが、太宰治の解釈です。
その解釈は、とてもおもしろくて、そういう解釈の仕方をしたために、ものすごく、この「カチカチ山」っていう話は、おもしろくなっています。狸はすぐに、兎に何か言われるといい気になって、そのとおりにして、またひどい目に遭う、ひどい目に遭って、懲りるかっていうと、そうじゃなくて、またすぐに、何か言われると、それを真似しちゃって、それでまた、ひどい目に遭う、それを繰り返し、繰り返しやって、しまいには泥舟に乗せられて、沈められちゃうって、男っていうのは、いつでもこうだっていうのが、太宰治の解釈で、女の子っていうのは、いつでも、こういう残酷さがあるんだ。それは、自分の、女性に対して、不振だった反省をかえりみても、まったくそのとおりだと思うんだっていうふうな解釈づけをやって、大変おもしろい話にしています。
太宰治の説話の性格づけ・解釈づけの一例あるんですけど、たとえば、こういうことをあれされると、ぼくらは、びっくりしちゃうっていうか、この人はすごい人だなっていうふうに思っちゃうところが、中にたくさんエピソードで出てきます。その一例をあげてみますと、その中にあるわけですけど、「読者諸君も気を付けるがよい。あそこの家にいくのはどうも、大儀だ、窮屈だと思いながら、しぶしぶ出かけていくときには、案外、その家で、君たちの来訪を、心から喜んでいるものである。それに反して、あの家は、なんて気持ちの良い家だろう、ほとんど、我が家同然だ、いや、我が家以上に居心地がよい。吾輩の唯一の憩いの巣だ。なんともあの家にいくのは楽しみだなどと、いい気分で出かける家においては、諸君はたいてい迷惑がられ、汚がられ、恐怖せられ、ふすまの影に、箒など立てられているものである。」というようなのが出てきますけど、ぼくはものすごく感心します。
ものすごく見事な心理洞察っていうのが、ここの中にあるので、この種のエピソードを、『お伽草紙』ぜんぶの中に、至るところに散りばめられていて、たぶん、太宰治作品のなかで、言い方を変えれば、これほど見事な作品っていうのはないっていうくらい、太宰治のもっている持ち物は、ぜんぶこの中にぶち込んであります。
ただ、お伽草紙っていうのですから、ひとつは、子どもの話であるし、ひとつは、説話であるわけです。つまり、説話であり、子どもの話であるってことは、何を意味するかっていうと、どうしても大人のニヒリズムとか、大人のデカダンスとか、そういうものっていうのは、入り得る余地はないわけです。
ですから、太宰治は、非常に『お伽草紙』の中では、非常に健康な洞察力を発揮しています。つまり、非常に読みよくて、また、読んで、びっくりして感心するっていうような作品であるわけです。少なくとも、読んだために、読者のほうに、非常に暗鬱なものが、つまり、作者の暗鬱なものが、こちらに移ってくるっていうようなことは、一切ないように描かれています。
それでいて、ちっとも、子どもに読ませればいいんだっていうような、自分の洞察力みたいなものにブレーキをかけているみたいなとか、こういう不健康なことを言っちゃいけないんだみたいな、ブレーキは、ひとつも、お伽草紙にはかかっていないで、それで、非常に健康な読み物っていいましょうか、小説になっているんだと思います。
これはやっぱり、ある意味では、戦争っていうことのもたらした功徳といえば、功徳だと思います。戦後、洞察されている思想では、戦争中不健康で、悪いことばっかりやってって、こういうふうになっていて、戦後のほうがいいんだってなっているわけですけど、ほんとうを云いますと、そうでなくて、戦争っていうのは、ものすごく、人間を健康で浅くしてしまう、人間の洞察力を健康で浅くしてしまい、そして、また均一化してしまうものなわけです。
つまり、戦争のほんとうの怖さっていうのは、不健康で死屍累々と巷にあってっていうふうなのが、戦争の怖さではなくて、ほんとうを云いますと、戦争の怖さっていうのは、どんなことでも、デカダンスを許さない、不道徳を許さない、悪を許さないっていうふうに、マイナス点をぜんぶ許さないっていうようなかたちでもって、健康さとか、世のため、人のためみたいな言葉が、いっぱい世の中に氾濫してきて、不健康さを許さないっていうふうになっちゃうってことが、戦争のいちばん怖いことなわけです。
ぼくらが体験したのは、まさにそうであって、同時代として体験したのはそうであって、戦争っていうのは、そういう意味合いで人間の心を浅く、不健康なものをぜんぶ隠してしまって、健康なもの、世のため、人のためになるようなことばっかり言う人が表面に出てきてっていうふうになっていくのが、戦争のいちばん怖いところなわけで、そのいちばん怖いところを、戦後の思想は、あんまり、戦争の怖さの中で強調しないできたわけですけど、ぼくは戦中に生まれた戦中派っていうのに属するわけですから、ぼくらはとてもよくわかるんですけど、戦争のいちばん怖いのは、人間に、どんな人にも、健康なことしか言わせたり、やらせたりしないとか、人のためにあれするのはいいことなんだみたいなことばっかり言うやつが、表面に出てくるっていう、それが、とても戦争のいちばん危なっかしい、危険なところであるわけです。
ですから、戦後でも、そういうものが前面に出てきたときには、危ないっていうふうに、たいへん危ないときだっていうふうに思われたほうが、よろしいっていうふうに、ぼくは思います。現在なんかは、わりあいにそうです。ここ数年来っていいますか、5,6年来っていいますか、たいへん健康なことばっかり言うやつが表へ出てきて、表面に出てきてっていうような、たいへん危険な状態にあるっていうふうにお考えになったほうが、ぼくはいいと思います。
戦争っていうのは、まさに、もっとそうなわけで、もっと健康で、人のため、世のためになるようなことばっかり言うやつが出てくるし、また、やるやつも出てくるわけです。それで、そういうときが、いちばん危険なときだと、ぼくは思います。ぼくは、戦争の怖さっていうのを、そういうところで、見てきましたから、それは、ぼくなりに換言することができるわけですけど、そういうふうに、世の中になってきて、たいへん建設的な、立派なこと言う人ばっかりが、多くなったら、たいへん危険なときだ、危険信号だっていうふうにお考えになるのが、よろしいんじゃないかって思います。
太宰治さんって人も、戦争中、やっぱり、個人っていうものは、うんとがんばっても、なかなか、その時代風潮っていうのの影響を拒絶するってことができないのです。ですから、太宰治って人は、青春時代から戦争中に入るまでに、何回も、女の人と心中事件を起こしたりだとかしながら、たいへん不健康なあれをやってきた人なんですけど、戦争中はやっぱり、太宰さんなりに、太宰さんなりの健康さっていうのを心がけもしましたし、また、そういうふうに、ひとりでになっていったってことは言えるわけです。
しかし、ぼくはそのとき、いわゆる文学青年で、読者でしたから、読者として、とてもよく日本の文学を読んでいましたから、ぼくの感じ方でいえば、太宰治って人は、戦争に迎合しなかった、たいへん数少ない作家です。
それでも、やっぱり、太宰さんなりに、戦争が言いふらす健康さっていうようなものに、太宰さんなりに乗っかっていって、この『お伽草紙』っていうのは、書いているってことは、とてもよくわかります。しかし、その健康さっていうことの風潮の中で、太宰治は『お伽草紙』の中でも、ほとんど極限まで、健康さってことを前提とすれば、つまり、ほんきのデカダンスとか、自殺願望とか、あるいは、市民社会から外れてしまいたい願望とか、そういうことを除けば、健康さの風潮の中で、太宰さんなりに、精一杯の人間洞察力を発揮したっていうのが、この『お伽草紙』っていう作品だっていうふうに思います。
これは、たいへん見事な作品です。もちろん、これだって、健康だっていえば、健康なお話で、つまり、夏目漱石が国民作家っていわれるのと同じ意味で、国民作家というふうに、この戦争中の『お伽草紙』みたいなものを取り出せば、太宰治って人は、国民作家だっていうふうに云えるくらい、非常に見事なものなんですけど、それでもやっぱり、時代風潮っていうのの中に、あらがうやり方っていうのは、だんだんだんだん、太宰さんもなくなって、そういう意味では、追い詰められて、健康になっていくわけで、健康な生活者になっていくわけで、つまり、追い詰められて健康な生活者になるっていうのはおかしな言い方ですけど、おかしな言い方でも、ここではそういうふうに言わせてください。
つまり、表面の健康さっていうのは、かならずしも、ほんとの健康っていうことを意味しないんだっていうことを、とてもよく太宰治の『お伽草紙』っていうのは、あらわしていると思います。
これも、たいへん健康な風潮の中で、健康な感覚の中で、しかし、太宰さんなりに、精一杯の不健康さって言ったらいいんでしょうか、人間の精神の可能性っていいましょうか、人間の精神が、不健康なほうにも、健康なほうにも、どんどん浸透し、また炸裂していくっていうふうに、それを、健康な風潮の中で、たいへんよく試みようとして、たいへんよく成功している作品だっていうふうに、言うことができると思います。これほど見事に、戦争中に、これほど見事な作品を書いた人は、類例がないんですけど、類例がないっていうのもないので、もっとふつうの物書きさんは、作家も、それから、批評家も、もっと白痴的な健康さっていうようなものを、臆面もなくっていいましょうか、恥ずかしげもなく言いふらしているっていうふうな風潮に、全部なっていったわけで、全部そういう意味合いでは、太宰治よりもだめだったよなっていうふうになっているわけです。
そのなかでは、太宰治は、『お伽草紙』で、精一杯、健康な中で、どれだけ、人間の精神っていうのは委縮しないでっていいましょうか、自己規制しないで、人間の精神の働きっていうのは、発揮できるのかってことを、もう精一杯、想像力をめぐらし、また、心理主義的な性格づけですけど、おとぎ話の中に、性格づけをやって、それを表現しているっていうふうに言うことができると思います。
太宰治さんが、あと「舌切り雀」っていうのが残っているわけです。で、「カチカチ山」についても、これはいったい、どういうモチーフをあらわしているのだろうかっていうことを、自分は考えてみた。それで、やっぱり、それを言っているわけですけど、それは一言でいえば、惚れたが悪いかってことだっていうふうに言っています。
そういうことが象徴されているんだ。つまり、狸さんは、兎さんに惚れているものだから、兎さんの言うことは何でも聞いちゃう。聞いちゃっては、兎さんに、ドスンとひどい目に遭っちゃう、それを何回も繰り返して、狸さんは、最後に泥舟に乗せられて、沈んじゃうっていうふうになるわけですけども、それはやっぱり、何を言ってるかっていったら、結局、惚れたが悪いかってことを言ってるんだ、惚れたらいけないのか、惚れてひどい目に遭っちゃった、それは悪いことかっていうことを言いたくて、この作品はできてるんだっていうふうに、太宰治は、そういう言い方をしています。
最後のところで、「古来、世界中の文芸の愛は、主題は、一にここにかかっていると言っても過言ではあるまい。女性にはすべて、この無慈悲な兎が住んでいるし、男性には、あの善良な狸が、いつも溺れかかってあがいている。作者も、それこそ三十何年来の、すこぶる不振の経歴に徴してみても、それは明々白々であった。おそらくは、また、君においても。」っていうふうなところで終わらせています。つまり、惚れたが悪いかっていうのがテーマなんだよっていうふうに、太宰治は言っています。
あと、「舌切り雀」を取り上げてみます。これも、ものすごく見事な小説だと思います。「舌切り雀」の舞台を、太宰治は、仙台の郊外の愛宕山のふもとで、広瀬川の流れのところのそばの大竹藪の中での出来事なんだっていうふうに言っています。
「舌切り雀」のお爺さんっていうのは、まだ、40歳にもならない人間なんだ。だけれども、いつでも、力のない咳をして、顔色も悪くて、朝起きて、部屋の障子にはたきをかけると、もうぐったりして、一日中、机の側に寝たり、起きたりゴロゴロしていると、それで、夕食になると、夕食を食べて、またすぐに、布団を敷いて、ごろっと寝てしまう。そういうのが、「舌切り雀」のお爺さんのあり方だったんだっていうふうに言っています。
もとをただせば、このお爺さんは、大金持ちの三男坊で、ぼんやりして暮らしているうちに、病気になっちゃった。病気になって、金銭的には、父親、母親のやっかいになっていると、子どもはいないんだっていう設定をしています。
つまり、ある程度、自伝的なっていいますか、自分の自伝的要素を、この「舌切り雀」のお爺さんに仮託しているっていいますか、託しているわけです。
で、このお爺さんは、万事にくっつけて、いま言いましたように、消極的で、いるか、いないか、わかんないような暮らしをしているわけです。これに対して、お爺さんの奥さんは、細君は、もともとはお爺さんのうちの召使いだったんだけど、爺さんの身辺の世話をしているうちに、いわゆるできちゃって、それで、細君になっちゃった。この細君のほうは、情け容赦なく、お爺さんのだらしない生活にあきれかえって、なんでも、「洗濯物出せ」っていうと、お爺さんは、「めんどくさいから出したくねぇ」って言うし、奥さんのほうは、「それじゃ汚いじゃないか」って、「汚くたっていいなじゃないか」って具合で、お爺さんは、すこぶる無気力に生きている。細君のほうは、すこぶる大まじめで、現実的でっていうふうに、それが細君の性格なんだっていうふうに、設定をやっています。
あるときに、庭へやってきた雀に餌をやって、それで、雀がだんだん近寄ってきて、お爺さんの部屋で遊ぶようになって、そのうちに、お爺さんの部屋にやってきて、机の辺りで遊んでいる雀が、そのうち、口を利くようになって、「お爺さんはだらしなく暮らしていて、いったい何のために生きてるんだ、生まれてきたんだ」っていうふうに、雀が聞くと、お爺さんは、「おれは、ほんとのことを言うために生まれてきたんだ」って、お爺さんが言うっていうんです。「だけど、その、ほんとのことを言う場面が、なかなかやってこないので、こんなボヤっとしてるんだ、ボヤっと、ゴロゴロしてるんだ」って、お爺さんは答えているわけです。
それで、あるとき、お爺さんが、雀と、そんな話をしていると、お婆さんがやってきて、「あなた、いま、誰か若い女の子と話をしてたでしょ」って、「いや、そんなの全然いないよ」って、「いや、そんなことない。ちゃんと聞こえた。」って言って、「いやーそんなことない、いたのは雀だけだ」っていうふうに、お爺さんは言うわけです。すると、お婆さんは、癪に障って、雀を捕まえて、おまえみたいのがいるからいけないんだとか、おじいさんがこんなふうになっちゃうんだとか言って、それで、雀の舌を抜いちゃうっていうふうに、抜いて放り出しちゃうっていうふうになっています。
この「舌切り雀」っていうのは、バリエーションがいろいろあって、おとぎ話でいえば、お婆さんがつくった糊をなめて食べちゃう、それでもって、お婆さんが怒って、舌を抜いちゃうっていうふうになったりしています。太宰治は、そういうふうにしないで、お爺さんが独り言のように女の子と話をしている。その女の子っていうのが、誰もいなくて、雀だった。で、雀の舌を抜いちゃうっていう話だっていうふうになっています。そういうふうに書いています。
ところで、舌を抜かれて、雀は、逃げていなくなってしまうわけですけど、それから、お爺さんは、とつぜん、ようするに、人が変わったみたいに、積極的になるわけです。積極的になって、毎日のように、竹やぶに、「舌切り雀のお宿はどこなんだ」っていうふうに言いながら、竹やぶのなかを探して歩く。そのお爺さんっていうのは、何かに憑かれたように、あの怠け者のお爺さんがっていうふうに、憑かれたようになって、竹やぶを探し回るっていうふうになっています。
それも、非常に見事な描き方なんですけど、そこで、お爺さんが、はじめて、恋っていうのを、異性を恋する恋っていうのを、はじめて、お爺さんが、恋する心っていうのを、はじめて体験したんだっていうふうに、太宰治は、そういう設定の仕方をしています。
それで、ゴロゴロ寝転んで、消極的で、万事消極的で、寝転んでばかりいるお爺さんが、目が覚めたみたいに、毎日のように、竹やぶへ行って、舌切り雀を探して歩くように変わっていく。それは、ひとくちにいえば、お爺さんの恋心なんですけど、ほんとは、恋っていう言葉に、恋愛っていう言葉に該当しないかもしれない。しかし、いずれにせよ、お爺さんは、そこで人が変わったように、積極的に探し回るっていうような、そういう設定の仕方をしています。
そういうお爺さんの、ボヤっとして、無為徒食しているみたいな人間が、突如として、なんか目覚めたみたいに、積極的になって、何かやりだすっていう、その転換の仕方の見事な描写っていうのは、やっぱり、太宰治じゃなければできないだろうなっていうような見事さで描いています。
それで、あるとき、お爺さんが竹やぶを探しているとき、竹に積もった雪が、頭に落ちてきて、気を失っちゃう。で、目が覚めてみたら、自分が、竹やぶの中の、家の中に、寝ていた。で、雀がお人形さんみたいな着物を着て出てきて、「誰を探しているんだ」って、「舌を切られた雀を探しているんだ」って、「それは、自分の友達のお照さんっていう雀がそうだ。いま、舌を切られたあれでもって寝込んで、寝ている」っていうんです。それで、お爺さんに、「寝ているから、会いに行ったらいいじゃないか」って言って、お爺さんを、寝ている舌切り雀のお照さんの寝床のそばに連れていくわけです。
連れていくんだけど、お爺さんのほうも、お照さんのほうも、両方とも照れちゃって、口をなんにも聞かないで、座っているだけだと、それで、しばらく、そうやってやってて、「もう帰る」ってふうにお爺さんが言って、帰ろうとすると、お照さんが、自分のかんざしである稲の穂を取って、お爺さんにくれるわけです。すると、お爺さんは、稲の穂を持って、うちへ帰っていくわけです。
うちに帰ると、また、例によって、机の上に稲の穂を置いて、お爺さんが、独り言みたいに、それをやってる。それを、お婆さんが見て、「それはいったい何なんだって、説明しろ」って言って、「これは、舌切り雀からもらったんだ」っていうふうに言うわけです。それで、お婆さんに、根掘り葉掘り聞かれるから、実は、竹やぶで気を失っていたら、いつの間にか、そこに行ってたんだ、それで、つづらみたいなものを出してきたんだけど、そんな重たいものはやだって言ったら、そしたら、この稲の穂をくれたから、もらってきたんだって言うわけです。
それじゃあ、わたしも竹やぶのところで寝転んで、寝ていると、そうすると、そこへ行けるわけだ。じゃあ、わたしも行って、わたしはつづらをもらってくるって言って、お婆さんがそこへ行って、雪の上に伏せていると、やっぱり、うちへいつの間にかいっているわけです。それで、大きいつづらをもらってくるわけです。もらってくるんだけど、その中には、金貨がいっぱい入っていて、それはあまりに重いので、倒れたまま、お婆さんが、凍えて死んでしまうわけです。
で、金貨がいっぱい入っていたのをもとにして、お爺さんは都へ出て、偉い人になって、雀大臣っていうふうに言われるようになるわけです。それは、もとをただせば、お爺さんが、雀に対して、親切に、愛情をもって接したから、こういうふうになったんだっていうふうに、世間の人が、そういうふうに言うと、お爺さんは、いや、そうじゃない、あれは女房のおかげです。あれには苦労をかけましたっていうふうに、お爺さんが言ったっていうのが、太宰治の落ちっていいましょうか、つまり、「舌切り雀」の落ちになっているわけです。
これも、まことに見事な、ぼくらから見れば、人間と人間の恋愛っていうのは、ありふれたっていいましょうか、誰でも小説のテーマになり、小説に描いたりするわけですし、また、誰でもが、多い少ないにかかわらず、体験するわけですけども、これは、人間と動物といいましょうか、雀との恋愛っていうのを、非常に見事に描いていて、人間と動物の間にも、恋愛っていうのは成り立つんだっていうことと、それが成り立つとすれば、どういうかたちと、どういう心理状態になるのかっていうようなことも、まことに見事に、それらしく描かれているわけです。
これも、まことに見事な作品に、太宰治は仕上げています。太宰治には、いろんな作品があるわけですけど、これなんかは、太宰治の一方の作品の代表作だっていうことができますし、やさしいですし、それから、健康ですから、つまり、国民作家的ですから、これは、とても見事で、いい小説で、もしお読みになっていなかったら、読まれたらいいんじゃないかなっていうふうに、ぼくは思います。
ところで、もうすこし、この『お伽草紙』について、申し上げてみたいことがあるわけですけど、それは何かっていうと、なぜ太宰治が、『お伽草紙』っていうのを、戦争中ですけど、相当力を込めて、作品に仕上げているかっていうふうなことを、もうすこし考えてみると、ぼくはやっぱり、一種のもとになる源流といいましょうか、原型といいましょうか、そういうものがあるような気がします。
それは何かっていいますと、母親って言っても、母親の欠如って言ってもいいんですけど、それが、太宰治が『お伽草紙』をこれだけ熱を入れてっていいますか、力を込めて戦争中に書いた理由なんじゃないかなっていうふうに思うわけです。
それを、母親っていうことと、母の欠如っていうことなんですけど、それを具体的に申し上げますと、太宰治は、津軽地方の、青森の旧家の家の三男坊に生まれているわけで、ちょうど、雀のお宿のお爺さんの閲歴に仮託したのとおんなじで、三男坊に生まれてくるわけですけど、うんと大きい旧家でって言うのはおかしいですけど、生まれたらすぐ、お袋さんを離されて、乳母といいましょうか、お乳を飲ませる母親といいましょうか、乳母にお乳を飲まされて、1歳、2歳くらいまで、育てられるわけです。
そのあとは、そのときの言葉でいえば、女中さんなんですけど、女中さんで、太宰治の係りの女中さんが、3歳から8歳くらいまで育てるわけです。太宰治が、ようするに、自分のほんとうの母親っていうのは知っているわけですけど、お乳を飲まされたこともないし、すぐに離されて、乳母の手に預けられて、乳母のお乳を飲んで、それで、3歳頃に、そういう女中さんに養われて、係の女中さんに養われて育てられたっていうふうになって、太宰治が、自分の母親っていうのは、誰なんだっていうふうに考えていたし、また、意識的にもいたかっていうと、3歳か8歳くらいまで育ててくれた女中さんっていいましょうか、雇っている女中さんが、自分の母親だっていうふうに思い込んでいたし、また、意識的にも、思い込もうとしたっていいましょうか、思おうとしたってことが、言えると思います。
ほんとうの母親っていうのは、太宰治は、たいへん気品のある立派な母親だったけど、自分は、一度も、お乳を飲まされたこともないし、抱かれた覚えもないし、立派な人だったけれども、自分は馴染まない人だった。で、やっぱり、誰にいちばん馴染んだかっていうと、その女中さんにいちばん馴染んだ。その女中さんが、漁村にお嫁さんにいくときには、自分に知らせると、自分が泣き叫んで、後を追うかもしれないっていうので、自分に内緒で、いつの間にか、その女中さんが、あるとき、いつの間にかいなくなっちゃった。自分は落胆して、どうしようもない心境になったけど、どうすることもできなかったっていうふうに、太宰治は書いています。
太宰治にしてみますと、この女の人は、ほんとの母親だと、自分は思っている人なんだ。それで、この人は、太宰治の小説の中で、少なくとも、2つ出てきます。2つ見事に、この人がモデルに違いないと思われる人が出てきます。
ひとつは戦前といいましょうか、まだ、太平洋戦争が始まる前なんですけど、『黄金風景』っていう、11枚くらいの短編っていう小編なんですけど、たいへんな傑作ですけど、その『黄金風景』の中で、お慶さんっていう名前で出てきます。
お慶さんっていうのは、どういうあれかっていうと、自分が病気になって、胸が悪くて、船橋で家を借りて、そこで静養して、ふらふらしてたときに、戸籍を調べにきたお巡りさんがいて、戸籍を調べながら、戸籍簿と見比べて、青森県金木っていうんですけど、金木の津島さんじゃないかって言われるんです。そうだって言うと、わたしもあそこで、馬車屋さんをしていたことがあるんだっていうふうに、その戸籍調べのお巡りさんが言うわけです。自分の女房は、あなたのところに、女中さんでいたことがある、お慶っていうんだっていうふうに言うわけです。
太宰治はそれを聞いて、自分は確かに、女中さんが世話してもらって、いつの間にかいなくなっちゃったりして、だけど、太宰治は悪いほうに、自分を悪いほうに位置づけるわけですけど、その女中さんにはわがままいっぱいなことを言って、無理なことを言って、いじめてばかりいた、いじわるばっかりしてた。それで、あるときは、絵本の中に、たくさんの兵隊さんがあって、それをいちいち切り抜かせて、切り抜き方がちょっとまずいと叱り飛ばしてっていうふうにして、なんか肩を蹴っ飛ばすつもりで蹴っ飛ばしたら、そしたら、顔に当たっちゃった。それで、その女中さんが、恨めしそうにして、「わたしは、親からも顔に手をあげられたことはないので、一生忘れないで覚えています。」ってその女中さんに言われたのを覚えてる。その女中さんが、お巡りさんの奥さんになってるっていうあれだ。
それで、お巡りさんは、お慶はいつでも、あなたの噂ばっかりしている、いつか一緒に、お礼に伺おうと思いますって言うわけです。だけど、太宰のほうは、いじめた記憶しかあまりない、足蹴にして、そういうふうに、一生忘れないって言われた覚えっていうのは覚えている。だから、びっくりしちゃって、いや、そんなことしなくていいって言うんですけど、ある日、そのお慶さんと、お巡りさんが、上の子どもひとりを連れて訪ねてくるわけです。そうすると、彼はいたたまれなくなって、今日は用事があるから、いつかまた来てくれとか言って、さっさかどっかいっちゃうわけです。
それで、ひと回りして、どこも行くとこがなくて、船橋なんですけど、船橋の町をひと回りして、海岸ぺりへ出ていくと、お巡りさんと、お慶さんと、子どもが、三人、海岸ぺりで、なんか、むこうに石を投げて遊んでいるわけです。それで、そこの後ろのほうに行ってみて、それを見ていて、まことに平和な風景で、見事なものだって、つまり、おれは敗けたなって思うわけです。
それで、風に乗って、しゃべっている言葉が聞こえてくる、お巡りが、「あの方は、たいへん頭のよさそうな人じゃないか、いまに偉くなるぞ」っていうふうに、お巡りのほうが言ってると、それに対して、お慶さんが、「そうですとも、あの人は、子どものときから一風変わってた。わたしに対して、つまり、目下の人に対して、それはもう親切にやってくださった」っていうふうに、お慶さんが、そう言っているわけです。太宰のほうは、いじめたことしか記憶にない、それで、やっぱりこれは、おれは敗けたっていうふうに思って、ひとりでに涙が出てきたっていうのが、その『黄金風景』の全部なわけですけど、そのときに出てくるお慶さんっていうのが、いわゆる太宰治の、3歳から8歳頃まで、世話してくれた女中さんがモデルだっていうことがわかります。
それから、もうひとつ、わかるのがあります。これは、戦後なんですけど、戦争中から戦後にかけてって言ってもいいんですけど、戦後すぐにかけてって言ってもいいんですけど、『津軽』っていう、出版社が風土記の企画を立てて、太宰治には、津軽地方の新篇風土記ってことで、なんか書いてくれって言われて、頼まれて、国へ帰るっていう、津軽っていう、ルポルタージュとも、小説ともつかない作品があります。
これもまた、いい作品ですけど、その中で、これはもう、自伝的にっていいますか、生のまんまで、お慶さんに該当する、おたけっていうんですけど、おたけさんっていうのが、出てくるわけです。
で、津軽地方の、いろいろな言い伝えとかなんかを、調べた限りのことは書かれていて、あっちこっち訪ね歩いたことと、実家に寄ったときのこととか、兄貴たちに許されるところとか、そういうことも書いているんですけど、最後のところで、結局、津軽地方に、何のために来たかっていうふうに、自分で考えて、何のためにそういう仕事を引き受けてきたかっていうのを考えると、結局、おれは、おたけさんに、つまり、自分が母親だと思っていたおたけさんに会いたいために、ここへ来たんだっていうふうに、これがいちばんの新風土記の、津軽地方のあれを引き受けた、いちばんのモチーフなんだっていうふうに、太宰治は、そこで書いているわけです。
最後のところで、おたけさんが、お嫁さんに行ってるところへ、小泊っていうんですけど、小泊っていうところへ訪ねていくわけです。訪ねていって、おたきさんっていう名前と、名字しか知らないで、こういう人を知らないかっていうふうに、村へ行って、尋ねるわけです。そうすると、教えてくれる人がいて、今日は子どもの運動会で、おたきさんも、弁当をつくって持って、運動会を見に行っているはずだって言うんです。それで、太宰治は、そこに訪ねていくわけです。
訪ねていくんだけど、いっぱい、弁当を食っている家族の人たちがいっぱいいて、何回もまわるんですけど、わからないわけです。諦めて、おれがやることは、いつでもそうだ。おれが、計画していこうとすると、いつでも、こういうふうにちぐはぐになって遂げられない。挫折して終わっちゃうんだっていうふうに考えて、諦めかけて、バスの停車場のところまで行って、金木まで帰ろうとするわけです。
だけど、まだバスが来ない間、30分くらいあって、それで、もう一度行ってみようと思って、おたきさんの家に行くと、いままで鍵が閉まっていた家の、鍵が開いているわけです。そして、子どもが出てきて、おたけはいるかって言うと、いや、運動会のところにいるって言うわけです。自分は、お腹が痛くなったんで、薬を取りに来たところなんだ。それじゃあ、おれを案内せいって、おれは、金木にいた修治なんだっていうふうに、本名を言うわけですけど、おたけに会いたいから連れてってくれ、それで、その子どもが連れてってくれるわけです。
行くと、おたけさんが、30年ぶりか、40年ぶりかで会うわけですけど、金木の修治だっていうふうに言うと、茫然として、おたけさんが、茫然として、ああというわけで、とにかくここに座れって言って、弁当を食べて、運動会を見ているところに、座らして、黙って、口もあんまりきかないで、黙って運動会を見てる。だけど、なんかそういうふうにしているうちに、なんとなく、安心感っていうか、なんとも言えない安心感があって、黙ってんだけど、ちっとも、おかしくなくて、非常に自然に、安心感をもってて、ほんとにホッとするみたいな安心感を体験するわけで、それで、太宰治は、母親っていうのはこういうのかっていうふうに、はじめて勘ずく、こういうのが母親っていうのだって、で、自分の実の母親には、そういうのを感じたことがない。だから、やっぱり、この人が、自分の母親なんだっていうことと、それから、おれはちょっと、粗野で、卑しいところがある。これはやっぱり、おれは、大金持ちの息子じゃなくて、どうもそうじゃねぇっていう、兄弟の中で、おれだけは違うような気がするっていうふうに、前から思ってたけど、やっぱり、これが、おれの母親なんだっていうふうに、思うわけです。
それで、納得するわけで、やがて、おたけさんが、ちょっと外へ出ようとか言って、ふたりで歩いて、外へ出たところで、じつはびっくりしたと、おまえがおれを訪ねてくるとは、ぜんぜん思ってなかったって、おれも非常に会いたくて、いままで会いたかったと、それで、金木へいくところがあって、金木の町で、おまえがどっかにいないかと思って、何度も探すみたいな、そういうことをしたことがある。道路で探したことがある。今日は、ほんとによかったっていうふうに言うわけです。
で、やっぱり、母親っていうのは、こういうのだって、おれの母親はこれなんだっていうふうに、そこで納得するわけです。で、そのおたけさんっていう人は、3歳か8歳まで、何をしてくれたかっていうと、いくつかのことをしてくれたわけですけど、記憶しているわけで、ひとつはようするに、勉強を教えてくれた。勉強っていっても、本を読むことですけど、図書館みたいなところから、本を借りてきちゃあ、わたしにそれを読ませた、で、わたしは、それを読んで、おとぎ話みたいなのを読んで育ったと、それで、もうひとつはお寺へ行って、地獄極楽絵図っていうのがあって、それを見て、おまえ、悪いことをすると、地獄へいっちゃうんだぞっていうような、その絵を見ながら教えてくれたっていうわけです。それから、そのお寺に、卒塔婆が立っていて、卒塔婆には、輪でつくった金がつけてある。その金をガラガラって回して、ガラガラと回って止まれば、そうすれば、極楽へいけると、ところが、ガラガラと回して止まったところから、逆に、ガラガラと、もとへ巻き戻されるようにして止まったら、おまえは地獄行きだっていうふうになってる。で、何回か、それを、いつか子どものときにやったけど、何回かは地獄行きのところになっちゃったりした。そういうのを、おたけさんが、自分に教えてくれたっていうふうに考えるわけです。で、夜、寝るときには、寝るまで、おとぎ話を読んでくれって言って、おたけさんに、それを読ませて、読ませているうちに、自分は、いつの間にか寝ちゃうっていうようなことを、毎晩のように、それを繰り返した。それが、おたけさんの思い出であり、また、おたけさんが、自分のほんとうの母親だっていうふうに思っている所以なんだっていうふうに、『津軽』の中でも、そういうふうに書いています。
『津軽』っていう作品の、いちばんのモチーフは、おたけさんに会いに行く、もはや、訪ねていっても会えないのか、そこにいるってことがわかっていても、会えないのかと思って、これは自分の生涯のパターンだっていうふうに、つまり、いつでも自分は、そういうふうに、何かをしようとすると、いつでもできそうに思いながら、できないで挫折してしまうってことが、自分の生涯の、繰り返し、繰り返しやったパターンで、今度もそうかと思ってるのに、最後にやっと会えて、それをおたけさんが、母親だと思い、おたけさんから、おとぎ話を聞いたり、地獄極楽絵図を見たりというようなことを、思い出したということを、『津軽』の作品の、いちばんのモチーフであり、頂点になっているわけですけど、たぶん、『お伽草紙』に戦争中、力を入れたっていうのは、ぼくは、その、母親兼おたけさんっていいましょうか、それが、太宰治の、生涯のモチーフになっていて、それがやっぱり、このおとぎ話っていう作品の中で、非常に大きな力を込めた要素として、太宰治に、おとぎ話を書かせた、いちばんのモチーフじゃないかと思われるわけです。
つまり、太宰治っていう人は、日本でも、旧家とか、王家とかっていう、つまり、天皇家ですけど、王家とか、旧家とかっていうのは、たいてい、生まれ落ちるとすぐに、乳母が決まっていて、その乳母のところに預けられて、そのお乳で育てられてっていうようなことになるっていうのは、日本において、旧家とか、もっといえば、王家とか、貴族とかっていうものの、一般的な風潮なわけなんです。
それは、なぜそうするかっていうことになるわけなんですけど、なぜそういうことをするのかってことになるわけですけど、結局、さまざまな解釈が可能でしょうけど、ぼくはやっぱり、公的な、つまり私的な部分がない人間でなければ困るみたいな、たとえば、旧家の主とか、王家の主とか、あるいは、日本国の主か知りませんけど、そういう、公的な場面で、一生涯ふるまわなくちゃならないみたいな人に対して、母親がいて、母親のお乳を吸って育てるっていうようなやりかたをすると、そうならないのです。
ですから、すぐに、母親から切り離してしまって、乳母を設定して、乳母にお乳を飲ませて育てられて、で、ある時期まで育てられてっていうふうにやると、その人間が、あんまり、ほんとは、ものすごい、それがコンプレックスになって、無意識のいちばん奥に、ぜんぶ突き刺さっているわけですから、人間的には、欠陥の多い人間になってしまうわけで、つまり、公私っていう、公と、私っていうのがあるとすると、私っていうのを、どんなときでも持ち出せない人間になってしまうわけですけど、人間的には片端なわけですけど、でも、支配者とか、王者とか、旧家の主とかっていうのは、そうじゃなくちゃおさまりがつかないみたいなところが、きっとあるんだと思います。ぼくは、わかりません。わかりませんけども、王家とか、貴族とか、旧家とかの乳母を使う育て方っていうのは、そうだと思います。
そうして、名前っていうのは、どうつけるかっていうと、乳母の出生地の名前をつけるっていうのが、昔からのしきたりです。たとえば、天武天皇でしょうか、大津皇子でしょうか、大津皇子っていいますと、たぶん、乳母がいたところが大津なんです。その乳母がいたところの出生地の名前を自分の名前にするっていうのが、だいたい習慣なわけです。
太宰治もたぶん、三男坊でありながら、やっぱり、旧家風に育てられたんだっていうふうに思います。つまり、私部分っていうのを、母親とつながらないようにする。公だけでもないんでしょうけど、公を主にするのが、生涯の役目であるとか、そういうふうな人間に対しては、そういう育て方をするっていうのが、一般的なかたちだっていうふうに言うことができます。それはもう、日本の天皇家、貴族、それから、地方における旧家とかっていうのは、みんなそういう具合になってると思います。
太宰治も、そういう育てられ方をして、そういう育てられ方において、太宰治の場合には、やっぱり、すこし、変わった人だと思います。悪くすれば、精神異常っていうところに、いつでもいきかねないような、そういう場所にいた人だもんですから、自分の無意識のところに閉じ込められているものっていうのを、ある程度、表現、または、生活状態でもって、太宰治は解放したと思います。
そうすると、出てくるのは、母親の欠如であり、母親として出てくるのは、乳母が2歳くらいまでで、そのあとの、わりあい意識できるようになってからの女中さんっていうのが、母親として出てくるっていうようなかたちになったっていうふうに思います。
それは、太宰治の生涯に、非常に大きな影響を与えていると思います。つまり、太宰治が、どうしても、おさまりがつかないで、生涯に何回か心中事件を起こして、最後の心中事件では、心中を成就して、死んでしまうわけですけど、その心中っていう場合の心中も、ほんとのモチーフっていうのは何なのかっていうと、ぼくは、やっぱり、母親だと思いますけど、あるいは、母親の欠如だと思います。
つまり、そこいらへんのところが、太宰治には非常に大きくひっかかっていて、大きくひっかかったって、それをぜんぶ無意識のところに、全部おさえ切っちゃうことができれば、それは非常に、公面をすることが、得意なっていいますか、あるいは、人の上に立って、公面をしてっていう、そういうことが得意な人になり得るんでしょうけど、太宰治の場合には、たぶん、たいへん、よく云えば、柔軟性ですけど、悪く云えば、神経的に過敏なところがあって、ほんとは、無意識に抑えられるべきものが、ピンチになると、危機になると出てきちゃうっていうようなことがあって、それで、太宰治の生涯の生き方を支配したんだっていうふうに思います。
この、国民作家と云える、非常に健康な太宰治の作品っていうふうに云えて、作品としても立派ですし、健康だっていうふうに云えるのは、中期から戦争期にかけての、ほんのすこしの間だけが、そういうふうに云えて、前期と、いちばん戦後の後期っていうのは、やはり、太宰治っていうのは、まっしぐらにデカダンスと、破滅のほうに、突っ込んでいっちゃうみたいな、そういう生き方になっていって、作品自体もまた、そういう作品が多く書かれるようになってきます。
それも、優れた作品ですけども、一般的に、国民作家みたいに云うわけにはいかんのだろうなっていうふうに思います。つまり、国民作家っていうのは、どっかで抑え込みができて、公の人間になり得るっていいましょうか、そういう役割をちゃんとできるっていうようなところが、どっかにないと、国民作家にはなりませんから、太宰治でいえば、ほんとに限られた中期の時だけが、国民作家太宰治っていうことになると思います。
だけど、作品として、ほんとに、いいかどうかっていうのは、また、それとは違うかもしれません。その評価とは、違う評価になるかもしれません。それは、太宰治を、現在も、漱石とか、宮沢賢治とかっていうような作家と並ぶほど、現在でも、たくさん、太宰治の作品が読まれていますけど、その太宰治の作品が読まれている所以のものは、だいたい、そういう中期の作品を主にして、そして、中期の健康な作品の中での、精一杯の精神の動きを描いた、そういう作品っていうのが、主に主体として、前後がくっつくっていうようなかたちで、太宰治の作品は今でも古典のように読まれているんだっていうふうに思います。
ぼくらは、太宰治を、古典として読むってことが、なかなかできなくて、同時代の読者として読むっていう読み方を、どうしても逃げられないところがあるわけです。ですから、ほんとうに古典として、太宰治を評価していったら、また違う評価が成り立つかもしれませんが、ぼくらが評価すると、そういう戦争中の『お伽草紙』の評価になっていきます。
ぼく、一度か二度くらい会ったことがあるんですけど、太宰治が、しきりに言っていたことは、いくつか覚えています。「おれは、自分を神の寵児だと思ってるよ」っていうふうに、もう死ぬ1年ぐらい前ですけど、「おれは、神の寵児だと思ってるよ」っていうことを、しきりに言っています。
それから、男っていうのの特徴っていいますか、「男の特性っていうのはなんだかわかるか。」っていうふうに言われたことがあります。「いや、わかりません。」って言ったら、「それは、マザーシップだよ」っていうふうに言いました。ファザーシップじゃないです、マザーシップだ、母性だ、つまり、男の特徴っていうのは、母性なんだっていうふうに、ぼくが、聞いたのを覚えています。
それは非常によく、別な意味で、よくわかるような気がするんです。太宰治という人は、たいへん見事な、ぼくがお会いしたときには、まことに見事に善と悪、いわゆる、常識的でいう、社会的にいう善と悪が、ちゃんと引っくり返っている人になっていました。一般的に善だという人が、いいことだと思ってることは、ぜんぶ悪いことで、悪いことだと思ってることは、ぜんぶいいことだって、ちゃんと引っくり返って、完全に引っくり返って、ゆるぎない自信でもって引っくり返っていまして、ああ、すごい人がいるんだなっていうふうに、学生時代ですけど、思ったのを、覚えています。
あと、『斜陽』と『人間失格』が残るわけですけども、少し休んで、やらせていただきます。これは、戦後の作品だと思います。戦後の、まあ代表的な作品だって言っていいと思います。あと半分で、2つの作品について申し上げて、終わりにしたいと思います。(会場拍手)
さきほど申し上げましたとおり、『斜陽』、『人間失格』っていうのは、戦後の代表的な作品だと思います。『斜陽』は、戦争が終わってから、より近いところで書かれたものですし、『人間失格』は、晩年、死に近い、どちらかといえば、死に近いところで、書かれた作品だっていうふうに思います。
おとぎ話と、たとえば、戦争が終わって、わりあい近い時期に書かれた『斜陽』を作品として並べてみた場合に、いちばん何が違うかっていいますと、背景がもちろん違うわけですけど、背景に対する感覚が違う、感じ方がまるで違うってことがあると思います。つまり、戦争中の感じ方と、戦争終わって、敗戦後すぐの時代の感じ方との背景が、たいへんに違うっていうふうに思います。
本来的にいいますと、太宰治は戦争中、ほかの文学者に比べれば、たいへん見事な作品をつくりながら、通過していきましたから、格別、敗戦後に、世の中変わったっていうことで、恐縮する必要はないわけですけれど、恐縮する必要がない人ほど、恐縮したっていうふうに、いうことができるんじゃないかと思います。
ほんとは、恐縮してもらわないと困るんだっていうふうに、読者の側から見れば、とくにそうで、この人は、昨日言ったことと、今日言ったことと、戦争終わったっていうことで、こんだけ違うことを言ってもらうと、まったく困るんだって、読むほうは、戸惑う以外ないわけで、困るんだっていう人ほど、あんまり、恐縮しないで、戦後に、また、作品活動をやっていたっていうふうに思えてならないところがあります。
太宰治は、そのなかで、恐縮しないで、いちばん恐縮しないでいいはずの人なんですけど、たいへん恐縮してしまったわけです。ほとんど、身体的なこととか、そういうことがなくても、精神的なことだけ云っても、戦争中、自分が書き続けてきたことの延長線で、戦後もまた書くっていうんだったら、ちょっと生きちゃいられないんだっていうような、みっともなくて生きちゃいられないんだくらいに、たぶん、太宰治は考えたっていうふうに思います。
ところで、もう生きちゃいられないんだっていうくらいに、考えたところで、太宰治は、マイナーな作家から、メジャーな作家に変わったわけです。これは、太宰治が変わったっていうよりも、もてはやす人が変わったって言ったらいいんでしょうか、太宰治は、戦後になって、一種のメジャーな作家っていうふうにみられて、たくさんの読者を獲得していったわけです。少なくとも、戦争中までくらいは、一部の好きで、好きで、やりきれないみたいな読者と、それから、やっぱり、非常にいい作品だっていうので注目していた人しか、比較的知らなかったっていうような作家だと思いますけど、戦後は、そうじゃなくて、メジャーな作家のまっただなかに、無頼派ってことで位置するところから、戦後がはじまったわけです。
でも、ほんとをいいますと、そういうふうに流行っちゃったときに、つまり、メジャーな作家になったときに、ほんとうは、太宰治としては、非常に恐縮して、戦争中みっともないことを書いたなってことが、反省の材料になりまして、恐縮してやり切れない、正気ではいられないみたいなふうな心理状態に、陥っていたんじゃないかっていうふうに思われます。
この背景、もちろん、敗戦ですから、社会的な背景が、ガラリと、軍国主義的な、さきほど申し上げました、非常に健康そのもので、いいことばっかり言う人たちがいっぱい出てきたっていう、いっぱいいたっていうのに対して、まったく正反対な意味で、今度は、また、いいことばかり言う人が、また、戦後いっぱい出てきたっていうので、戦争中とまるで180度引っくり返ったんだけど、共通してるのは。やっぱり、いいことばっかり言うやつが出てきたっていうことだけが共通しているわけで、その天地がひっくり返ったっていうところを、うまく処理できないでっていいますか、誰でもそうなんですけども、太宰治も、ほんとうには、うまく処理できないで、破滅的になっていく以外に、もうやることがないと、生きるあれがないっていうふうに、たぶん、なっていったんだって思います。
社会的にいっても正反対な、イデオロギーが正反対な政治理念として出てくることがあり、また、占領軍の占領下に置かれるっていうようなことから、はじまっていったわけです。そんな中で、太宰治の『斜陽』に象徴されるような作品が、書かれていったっていうふうに考えられます。
たとえば、何がいちばん、太宰治にとって、戦争中と戦後っていうので、何が変わっていったかっていうと、健康さっていうのを、どこに向けるかってことなんですけど、もちろん、戦争に向けるとか、社会に向けるとかってことがあるわけですけど、それよりも、いちばん響くのは、家庭に向けるってことだと思います。
戦争中の、太宰治っていうのは、それこそ、『お伽草紙』のまえがきのところにありますように、防空壕の中で、子どもに絵本を読んで聞かせてっていうようなところから、はじまっていくわけで、それで、配給があれば、それを取りに並び、隣組の防空練習があれば、それに出ていってっていうようなことで、すこぶる、自ら建設的にふるまうっていいましょうか、健康的にふるまうっていうような、日常生活をやっていたわけですけど、第一に太宰治が戦後に、戦争中に比べて打撃を受けたのは、家っていうことだと思います。つまり、家庭ってことだと思います。
太宰治は、急にメジャーな作家のようにもてはやされたってことに、ちょっと、自分でもってもついていけない、自分で慌てちゃったことも含まれるわけですけど、まともには、つまり、正気ではいられないみたいな心理状態になって、それで、まず第一に、家っていうのを、家庭っていうのを、とにかく壊してしまうってところにいったと思います。
たとえば、そこのところで、いちばん、戦争中と戦後で、どこが違うかっていうのを申し上げてみますと、たとえば、戦争中に、これは昭和17年ですから、太平洋戦争がはじまって、1年ぐらい経った時ですけど、『新郎』っていう、新郎っていうのは、新しい花婿っていう意味ですけど、『新郎』っていう作品がありますけど、そのなかで、自分は、一日一日を非常にやさしい思いで暮らしているんだ、やさしい思いで、健康に暮らしてるんだっていうふうに、煙草1本吸うのも泣きたいくらい感謝の念で吸っているんだ。家の者たちにも、めっきりやさしくなっていて、となりで子どもが泣いていると、知らんぷりしないで、ちゃんと立っていって、抱き上げて、子どもをあやしてやったりするし、子どもの寝顔を忘れないように、そっと見つめていたりとか、食卓の上には何もないけど、実においしそうにごはんも食べるしってなことで、なんでも、じつに健康に自分はふるまっているんだ。一日一日、勤めることが、生涯の務めとおんなじだってぐらいに思って、一日一日を、暮らしているっていうようなことを書いています。
毎日、朝、かならず髭を剃るし、歯も磨くし、手の爪も、足の爪もちゃんと切るしっていうようなことで、健康そのもので、毎日暮らしていると、着るものも、いつ、どんなことがあってもいいように、洗濯して、さっぱりしたものを着て暮らしてるっていうようなことで、まったくこれは象徴的にそうですけど、いってみれば、新しい花婿、つまり、新郎みたいなふうな精神状態でもって、自分は毎日、毎日過ごして暮らしているんだっていうようなことを、『新郎』っていう作品の中で書いていますけど、つまり、ことほどさようで、たいへん家庭的にいえば、健康そのもののようにつとめて、ある意味でははじめて、市民らしい市民の生活をしてっていうようなことをやって、戦争中を太宰治は過ごしているわけです。
そういうふうに過ごしながら、作品としては、能う限りいい作品を残しています。これが、同時代の、ほかの作家と比べてみれば、すぐに、わかるわけで、誰にでもわかることですけど、作品としては、ほかの作家に比べて、非常にいい作品を書いています。実生活としてはそのように、健康そのもの、とくに、家っていうもの、家庭っていうものに対して、健康そのものの過ごし方を、細君に対しても、子どもに対してもしているっていうようなことが、作品の中のつまみにも書いていますし、また、実際に、そういう生活をしていただろうと思います。
つまり、健康っていうことが、健康な生活、健康な精神状態、それから、私よりも、公が大切っていうようなのは、戦争中の社会風潮であり、また、別な意味でいえば、戦争の怖さっていうのは、一にかかってそこにあるって言っていいくらい健康そのものであったっていうふうになるわけです。それが、戦争中の太宰治の生活ですけども、戦後はそれが、ガラリと変わっていくわけです。
このガラリという変わり方っていうのは、社会的な変わり方でもありますし、また、焼け跡でも何も残らないっていう負け方でもありますし、どこいっても、どこを見渡しても、いいことなんか何もないんだっていうようなところが、戦後の出発になるわけです。
だけれども、こと、文学に関することでいえば、太宰治の作品っていうのは、戦後になって、ほんとうにメジャーなところで、誰でもが読むようになっていって、誰でもが、いい作家だっていうふうに、認めるようになっていくわけです。
だから、そのちぐはぐさっていうのは、例えようがないので、戦争中、健康であって、戦後になって、作品も受け入れられないし、実生活もめちゃくちゃになってっていうことでしたら、また、ある意味で、わりあいに、わかりがよろしいわけですけれども、太宰治の場合には、そうじゃなくて、文学者としての太宰治は、戦後になって、たいへん流行作家になり、メジャーになりっていうふうになっていくわけです。
何がメジャーにさせたかって言ったら、太宰治の中にある破滅的な感覚っていうようなものが、作品の中に、よく再現されてて、それが、人々の、ほんとの精神の混乱に受け入れられていくってことが、メジャーになった印だっていうふうに言うことができます。
そこのところで、太宰治の戦後ははじまっていくので、生活としては、めちゃくちゃになっていくわけです。太宰治の生活のしっぷりっていうのは、いくつかの作品に、非常にあからさまに描かれていますが、たとえば、『父』という、敗戦直後です、22年の4月ですから、敗戦の翌年から半年くらい経った頃の作品ですけど、それを見てみますと、午後3時か4時頃、自分は、仕事に区切りをつけて立ち上がって、机の引き出しから財布を取り出して、中をちょっと調べて、懐にしまって、黙って、二重回しを羽織って、外へ出ると、すると、外で自分の子どもが遊んでいると、子どもは自分の顔を見て、自分もまた、子どもの顔を見て、無言でいるときもあるし、たまに近寄っていって、ハンカチで鼻を拭いてやったりすることもあるし、とにかくそうやって、子どものおやつとか、子どものおもちゃとか、子どもの着物とか、靴とか、いろいろ買わなくちゃいけないお金なんだけど、それを一夜のうちに、自分は、紙屑みたいに浪費する場所に、自分は行くんだって、つまり、飲みに行っちゃうわけですけど、それで、出かけたが最後、3日も4日も帰らない。
それで、この作品の中では、父親は、義のために遊んでるのであって、地獄の思いで遊んでいるので、一度も、楽しくて遊んだことなんかねぇ、つまり、自分は、命がけで遊んでいるようなものだっていうふうに書いています。
そうすると、母親のほうは、子どもの手を引いて、古本屋に本を売りに出かけて、それで、父親が金をちっとも置いていかないものだから、本を売りに行って、その金で、子どもの食べ物を買ったりっていうようなことをやってる。そうすると、そういうことで、ときどき、家の中で話し合うと、母親のほうは、お乳の間に、涙の谷があるんだっていうふうに、母親のほうは言うし、父親のほうは、それを無視して、とにかく、一夜のうちに、金を使い尽くしてしまうみたいな、めちゃくちゃな遊び方、飲み方をやってるって、だけど、自分の中には、盗人にも三分の理があるように、自分も遊んでいるけど、楽しくて遊んでいるわけじゃなんだ。つまり、地獄の思いしてっていいますか、命がけで遊んでるんだ。つまり、もっとかっこいいこと云えば、義のために遊んでいるんだっていうふうに、ほんとは思ってるんだ、そんなことを言ったって、誰も、本気にするやつはいやしない。だから、言うことはできないんだけど、自分の胸の中には、白い絹が張ってあって、そこには、はっきり読めないんだけど、字が書いてあって、それが読めれば、自分が、義のために遊んでいるっていうような言い方で、言ってることが、ほんとはわかるんだけど、それは、自分さえも、あんまり読めないんだ。だから、そんなこと言うわけにはいかないんだ。
ようするに、だらしなくて、子どもや、細君にお金をかけて、あれしてやるべきものを全部、飲んで使っちゃって、それで、子どもたちは不自由して、母親は本を売りに行って、それで、おかずをつくったりしてやってると、そういう状態に、自分はなってるんだっていうふうなことを書いて、これを紛らわせるには、いつでも、痛いところっていいますか、深刻なところに、お互いに触れないようにしながら、口で、冗談ばっかり言って、冗談でぜんぶ紛らわしちゃって、ごまかしちゃって、それで、なるべく深刻なことには触れないようにして、毎日、毎日、薄氷を踏む思いで、暮らしてるんだっていうようなことを、作品の中に書いています。
これが、戦争中、健康そのもので、子どもの世話をして、空襲になれば、防空壕に入れて、本を読んでやってっていうようなことをやって生活していた人間だとはとても思えないようなデカダンスに、戦争終わってすぐに、太宰治は、そういう生活に入ってしまいます。つまり、まともな生活は、もう終わってしまって、ただ、破滅だけが残っているっていうような生活になってしまっているっていうのが、太宰治の戦後であるわけです。
この、文学的には無頼派っていうふうに、太宰治とか、坂口安吾とか、それから、織田作之助とか、そういう人たちを、石川淳なんかも含めて言われるんですけど、みんな似ていないんですけど、みんな違うんですけど、いっしょくたにして、無頼派っていうふうに言われていたわけです。その無頼派っていうふうに言われている人の中でも、いちばんおおそれたことを考えていたのは、ぼくは、太宰治と坂口安吾だと思います。とくに、太宰治っていうのは、非常におおそれたことを考えて、本気で考えた人です。
どういうことかっていいますと、たとえば、聖書の新約書のなかに、汝を愛するがごとく、汝の隣人を愛せよっていうようなことが、戒律として述べられたりしているわけです。そうすると、太宰治っていう人は、本気になって、自分を愛するように、自分の隣人を愛せるかっていうことを、愛しようと思い、それはできないっていう思いと、つまり、愛せるか、いや、それは、できるか、できないか、そうしなければならないってことを、本気になって考えていた人です。
つまり、これが、おおそれたことになります。つまり、いま、ぼくらがここで、こういうことを言うと、解説にはなるんですけど、本気でこういうことを言うと、恥ずかしいっていうか、みっともないっていうか、そういうふうになっちゃうわけですけど、太宰治って人は、本気で、自分を愛するように、おまえの隣人、知人でもいいんですけど、それを愛せるかってことを、本気で考えて、本気で、やっぱりそれはできないなぁってことで、思い悩んだりってことを、本気でやった人です。そういう意味合いで、じつに、作家としては、文学者としては、古典的であり、かつ本格的な人です。
こういう人は、その後はいないわけで、それ以前にはいたことがあるんですけど、いないわけです。これは、坂口安吾もおんなじで、でたらめな生活ばっかりしたことだけが目立ってるわけですけども、しかし、この人も、かなり本格的なことを考えた人です。本格的に、人はどういうふうにしたら、人間の本質的なものとして、生きることができるかっていうようなことを、本気で考えた人です。坂口安吾って人もそうです。
だけど、見かけからいえば、無頼派で、ろくなことはしでかさない、賭博はやる、麻薬中毒にはなるっていう、競馬には凝るって感じで、デカダンスな生活しかしていないんですけど、しかし、心の中で、本格的な課題っていいましょうか、本格的なことを考えて、それができるか、できないかっていうのに対しては、必死になって考えて、必死になって思いわずらってっていうようなことをやった人です。そんな人は、この人が最後、つまり、無頼派でも、太宰治や坂口安吾が最後であるわけです。
織田作之助って人は、もっと、風俗的なところで、逃げ場所が、ある意味で、いっぱいあった人ですから、体を悪くした人ですけど、デカダンスを悪くした人ですけど、逃げ方がいろいとあった人ですし、石川淳っていう人は、知識人としてっていうか、知の人っていうんですか、ぼくらは、偽隠者だ、偽隠者だっていうふうに言ってましたけど、知の人としての逃げ道っていうのは、石川淳っていう人はあった人です。だから、あんまり、本格的じゃない人です。いっしょくたにして、でも、無頼派っていうふうに呼ばれていました。
しかし、この太宰治とか、坂口安吾に関する限りは、たいへん本格的なことを考えて、本格的なことを思い悩んで、つまり、そんなこと考えるのはおかしいよとか、そんなことは人間はできるはずがねぇよ、ほんと云ったらできるはずがないじゃないか、自分をごまかす以外できるわけないじゃないかっていう、そういうふうに言いたいようなことを、しかし、わりあいにごまかさないで、本格的に考えて、本格的に思い悩んで、思い悩んだら、また、デカダンスに走ってっていうようなことを、繰り返し、繰り返しやって、デカダンスを、自殺と同じように考えればやっぱり、ちょっと自殺としかいいようのない死に方、あるいは、生き方をした人です。太宰治もそうでした。
この人の根本的なモチーフはやっぱり、愛っていうこと、家庭愛でも、人類愛でも、人間愛でもいいんですけど、男女愛でもいいんですけど、愛ってことだと思います。愛ってことも、自分を愛するように、人を愛せるかってことを、本気で考えて、それができないってことで、思い悩んでっていうようなことを、繰り返し、繰り返しやっていった人だっていうふうに思います。
ですから、まだ、この本格さっていうのが、ほんとうには、なかなか突き詰められていないっていうふうに言うことができます。ですから、無頼派っていうのは、やっぱりいろんな意味で、大転換期っていうような時代にあって、たいへん問題になることで、これは、そういうときになると、検討に値するものとして浮かび上がってくるっていうふうに思います。
みなさんは、そう思っていないかもしれないけど、現在も、戦後すぐ、敗戦後すぐに負けず劣らず、大転換期です。現在の大転換っていうのは、目に見えないとか、こういう兆候があるとかっていうふうに、なかなか言えないですけど、そういうはっきりした焼け跡で、浮浪者だらけだとか、そういうふうにはなっていないんですけど、でも、現在は、戦後、第二番目の大転換期であるわけです。
やはり、こういうときには、無頼派的な作家が、何を考え、何を悩んだかみたいなことは、たいへん問題になってくるんじゃないかっていうふうに、ぼくには思われます。太宰治の戦後も、やっぱりそういうふうに、奇妙な形ですけども、そういう大転換期に遭遇して、そして、戦前の自分、それから、戦争中の自分、あるいは、戦後の自分っていうふうな、3つ分ければ分けられますけど、3つそれぞれ違う生き方をしなかったら、とてもやっていけないっていうような、生きていけないっていうようなことに当面しながら、たいへん本格的に、太宰治って人は、作品の上でも、実生活の上でも、考えていた人だっていうふうに思います。
そんななかで、『斜陽』っていう作品が、敗戦から1年くらいの間に書かれているわけです。いまの若い読者の人が、太宰治を、一種の新しい古典として、たぶん読んでいると思いますけど、新しい古典として『斜陽』っていう作品を読んだ場合と、同時代の読者として読んだ場合とは、どうしても違うことになるから、いまの人が、新しい古典として読んだら、どういう評価をするかってことはわからないんですけど、ぼくらが、戦争中からの、わりあい熱心な読者でしたから、『斜陽』っていう作品は、恐ろしいほど、この作家っていうのは、作品がうまくなっちゃったなっていいましょうか、うまいなっていうふうに思うと同時に、ちょっと、これだったら、おあつらえむきすぎるんじゃないかなっていう感想をもって評価したっていうのを覚えています。確かにいい作品で、うまいなぁっていうふうに、うまくなったなぁっていうふうに、やっぱり、メジャーになったっていうことは、大変なことなんだなっていうふうに、一面では思いましたけど、一面では、これ、ちょっと、おあつらえむきやしないかなってふうに思ったことは確かだってふうに覚えています。
これは、物語の筋立ては、元貴族で、母親がいて、子どもの姉弟、姉と弟がいるわけなんですけど、敗戦後、そういう没落ってことは、確かにあったわけです。没落とかあって、家族が食べることに困って、家を売ったりとか、着物を売って、売りぐりしたりってなことがあったわけです。そういうふうにしながら、旧家族の母親と、子どもの姉弟、姉と弟が、それぞれ破滅していくって、だんだん、没落して破滅していくっていうことを、描いているわけです。母親は、その中でも、最後の貴族らしい誇りみたいのを保ちながら、衰えて死んでいくわけなんですけども、姉弟たちは、それぞれいろんなことを考えて、自分なりの積極的な生き方、ただ滅びていくのはやだっていうことで、積極的な生き方をしながら、滅んでいくっていうような、そういう作品であるわけです。
これは、論議の的になった作品で、評判も、もちろん高かったんですけど、論議の的にもなって、たとえば、志賀直哉なんかは、あいつは、没落していく貴族のことを『斜陽』で書いているっていうふうに言うけど、あいつの書いている貴族なんていうのは、全然うそだって、あんなはずはねぇとかっていうふうに、志賀直哉は批判したっていうことがあるわけです。
志賀直哉が批判したのは何かっていうことになるわけですけど、いくつかあるわけです。ひとつは、『斜陽』の中の、貴族が使う言葉の、敬語の使い方がおかしいっていうふうに、第一に文句をつけたわけです。これは、母親がいて、姉がいて、弟がいて、姉が「わたくし」って一人称で述べているって文章に、そういう書き方をしているわけですけど、その敬語の使い方がおかしいっていうことを、志賀直哉は、文句つけているわけで、ちょっと読んでみましょうか、やっぱり、ちょっとおかしいんじゃないかと思います。
二人で火の傍に駆け戻り、これは、家が、火鉢をひっくり返して、火事にしちゃったところの描写です。二人は火の傍に駆け戻り、バケツでお池の水を汲んでかけていると、お座敷の廊下のほうから、お母様のあーという叫び声が聞こえた。わたしはバケツを投げ捨て、お庭から廊下に上がった。倒れかかるお母様を抱きとめ、お寝床にいって寝かせ、また火のところに飛んでかえって、今度は、お風呂の水を汲んではっていうふうに、やたらに、「お」っていうのをつけているけど、あんな使い方はねぇって、志賀直哉は元貴族ですから、そんなことはねぇって言っているわけです。
確かにちょっと使い過ぎじゃないかっていうふうに思いますけど、大した傷ではないんだっていうふうに思えば、つまり、「お」の使い方がおかしいじゃないかっていうことを、ひとつ言っているわけで、もうひとつは、太宰治は、ほかの作品にも書いているところがありますけど、ルイ王朝の時代の貴婦人は、宮殿の庭とか、会談の下なんかで、立ち小便をしたっていうことを、ほかの作品の中で書いていますけど、『斜陽』の母親っていうのは、やっぱり、庭の草むらで立ち小便するところがあるわけです。それで、娘に、「わたしが何をしているかわかる?」って言うわけで、「草をむしったりなんかしてるんだ」って言うと、「おしっこしてるんだよ」って言うところがあるわけです。
そこもまた、志賀直哉は、馬鹿なことを書いていると、そんなことはしやしないって、貴族はそんなことしやしないっていうふうに、文句をつけているわけで、このことは少し重大でっていいましょうか、そのことは、たいへん、太宰治は、傷ついたわけです。晩年のっていいますか、死ぬ間際の『如是我聞』の中で、志賀直哉に対して、食ってかかってます。おまえだって、虫かなんかを、娘が、「お殺せなさいますの」っていうふうに言ってるのを書いてるじゃないかって、お殺せとはいい言葉だねとかっていうふうに、太宰治は『如是我聞』の中で言い返しています。
それからもうひとつ、志賀直哉に対して、言い返していることがあります。それは何かっていいますと、おまえの小説は威張ってるだけだ、威張ってるだけで、詰将棋だって言ってるわけです。かならず、常に決まっていることを書いているっていうふうに、批判しているわけです。常に決まってることを書いて、ただ威張っているだけじゃないか、主人公が威張って、あいつは気に食わないの、好かんのとか言ってるだけじゃないかっていうふうに文句をつけています。
それに対して、おれの小説は違うんだ、おれはようするに、読者に対して、サービスしてるんだって、サービスしているってことはどういうことかっていうと、心尽くしの料理っていうのを、読者に提供してるんだって、おれはそうなんだっていうふうに言っているわけなんです。
つまり、転換期になると、いつでも、いまもそうですけど、問題になりますけれども、太宰治が、読者に心尽くしの料理を差し出しているんだ。つまり、サービスしているんだっていう言い方っていうのを、非常にやさしく噛み砕いて、おれは書いているんだよ、書くために、ほんとは苦心してるんだよっていうことを言ってるんだっていうふうに、思っていましたけれども、やっぱりここ数年来、もしかすると、そうじゃないぞって、この人は、何が重要かっていうこと、つまり、転換期の文学にとって、何が重要なのかっていうことを、ほんとは言いたかったんじゃないかなっていうふうに、ぼくはここ数年来、それを違うように、ただ読者にやさしい言葉で、わかりやすいように作品を書いているんだってくらいに考えてきたけど、ほんとはもっと違うことを言いたかったんじゃないかなっていうふうに、ここ数年来は思っています。
つまり、心尽くしという意味は、大転換期に、何を文学で、モチーフはそれぞれですけど、作家として何を考えたらいいんだっていう場合に、大転換期における読者とは、何者なのか、どういうやつなのか、あるいは、文学の読者っていうのは、どういうものなのだろうかっていうことは、ほんとは本気で考えないとだめだぜっていうことを、おれは考えてるんだよっていうことを言ってるんじゃないかなっていうふうに思うようになりました。
それは、いまでもおんなじです。古いタイプの批評家っていうのは、ようするに、まだ、純文学の中の純文学みたいな、読むのがちっともおもしろくもないし、読む気もしねぇみたいな作品は、いまでも純文学の雑誌に、たくさん書いて、人は読んでくれるものだと思っているけど、それはとんでもない話であって、つまり、心尽くしっていうことを、すこし考えたらどうだっていうふうに言ってやりたいようなやつばっかりいます。
それは、どうしてかっていうと、転換期っていうものにおける読者っていうののイメージっていうのは、あらゆる可能性を作家のほうからいえば、あるいは、文学者のほうからいえば、あらゆる可能性っていうのを想定せずには、外れてしまうわけです。だから、どういうものかよくわからないんだけど、ここがいちばん読者のイメージとして、考えどころだぜっていうことの問題意識があったほうがいいんです。
あるのは余計なことだとか、あんまりいいことじゃないんだみたいに、そういう評価ばっかり言うわけですけど、それは、違うとぼくは思います。そうじゃないです。つまり、こういう転換期に、読者は何を考えて、何を無意識に、どういう方向にいこうとしてるのかっていうことについて、本気で考えるってことは、一度はやっていいはずなんです。
だけど、そうじゃなくて、純文学の作家もだめですけど、批評家もだめで、馬鹿なことばっかり威張ってるんだけど、そんなことはどうでもいいことなんです。そんなことじゃないんです。おのれの才能とか、なんとかを威張ることはいらないのだから、だけど、読者のイメージっていうのは、転換期でどうなるかっていうことをやっぱり、どうなのかなっていうことに対する懐疑っていいますか、疑いぐらいはもったほうが、ぼくはいいと思います。それがぼくの考え方です。
それは、疑いをもったって、なかなかできないんですけど、実行はできないんですけど、実行するっていうのは、ものすごくむずかしいんですけど、やっぱりそういう疑いを少しはもったらいいんですけど、あまりにもたなすぎます。世界の思想が転換しても知らん顔しているし、それから、そういう読者のイメージが、大転換期で変わってんじゃないかって思えるときでも、それを考えようともしないで、つまらない作品を高級ぶって書いてんだけど、ほんとはちっとも高級じゃなくて、純文学の通俗なんです。通俗作品なんです。
それしかできてないんで、それは、無意識だからです。読者が転換期に対して無意識だから、純文学で通俗作品を書くんです。書いちゃうんです。そうじゃなくて、通俗めかしておいて、太宰治はそうですけど、通俗めかしておいて、通俗小説じゃないんです。純文学なんです。
それはどうしてかっていったら、読者のイメージっていうのはどういうふうになっているんだっていうことについて、疑いを自分がもっているから、だからそうなるんです。通俗めかしているんですけど、純文学なんです。
ところが、いまの純文学の作家の作品を読んでみなさい、ぜんぶ純文学ぶっているんだけど、ぜんぶ通俗小説です。通俗小説としかいいようのないような小説です。そこが、そこのところで言おうとしているので、敬語の使い方で、志賀直哉が食ってかかったっていうのも、それなりに意義深いことですけども、それに対して、太宰治がまた、死の間際に反論したっていうことも、たいへん意義深いことだっていうふうに思います。
この『斜陽』っていう小説は、そういう意味合いでは、読んでいると照れくさいところもあるんですけど、読者のほうで照れちゃうっていうようなところがあるんです。つまり、そこは、あまりに太宰治が典型的な状況における、典型的な登場人物の没落を描きすぎているからだと、ぼくは思いますけど、ちょっと照れくさいところがあるわけなんです。
母親は、そういうふうにして、売り食いをするような生活になりながら、いわゆる最後の貴族らしい鷹揚さは失わないで死んでいくっていうことになるわけです。
で、姉のほうは、これも、ぼくは会ったとき、作品を書きつつあったのか、書いてるんだと思うんですけど、「人間の特徴っていうのは、なんだかわかるか」って言われて、「それは、わからん」って言って、「それは、秘め事っていうのをもってることなんだよ」って盛んに言っちゃうことがあるわけですけど、この『斜陽』っていう作品のモチーフっていいますか、重要なモチーフのひとつはやっぱり、秘め事っていうことだと思います。
母親のほうも、誰にも言えないことがあって、外から、最後に貴族らしいあれでもって、没落しながら死んでいったよなってことに、外から見えるように描かれているんですけど、中からいえば、母親なんか、自分なりの秘め事をもちながら死んでいったっていうふうに、受け取れるように書かれています。
また、姉のほうは、母親が死んでから、弟が付き合っている新進の流行作家がいてっていうのは、たぶん、自分を戯画化したモデルなんですけど、そこへ弟の代わりに訪ねていったりして、その作家と一緒に寝て、その作家の子どもが生まれて、生まれるのを経験して、別れてしまう。で、自分は、その子どもを育てる、その作家には、いつか、自分はひとつだけ願い事があると、それは何かっていったら、この子どもを、あなたの奥さんに一度、抱いてもらってくれっていうふうにいう手紙を出すわけです。それはなぜかっていうことは、口では言えないっていうふうに、けど、そういうふうに抱いてもらってくれっていうわけです。
それは何かっていうと、弟のほうが、家にある宝石類とか、その他を持ち出して、売り飛ばしちゃあ、そのデカダンスな作家たちのグループと一緒に飲み歩いて、使い尽くしちゃって、それから、麻薬の中毒にかかってっていうようなふうになっていってるわけなんですけど、その弟のほうが、その作家の奥さんが、さきほどの『父』という作品じゃないですけど、亭主が、金を使い放題使い果たして、家にちっとも入れてくれないから、本を売っては、子どものミルクを買ったりとか、おかずを買ったりしてる。その奥さんを、弟のほうは、ひそかに好きであって、だけど、好きだってことを一度も言えないで、それで、弟のほうは自殺してしまう、最後にしてしまうわけですけど、弟が、自分が好きだった人がひとりいると、それは、姉さんも知っている人なんだ。誰だっていうふうには言わないけど、その人はこういう人なんだ、旦那のほうは、うちに寄りつかないで、外で飲み歩いて、酔いつぶれて、酔いどれてばっかりな、その留守中に、いつでも、子どもを抱いてあやしながら、アパートの窓で外を眺めたりしながら、うちでしょんぼりとっていいましょうか、留守番をしている、そんな人なんだっていうふうな書かれ方をして、それがその作家の細君だってことが、だいたいわかるように書かれているわけです。
ですから、自分の産んだ子なんかを、奥さんに抱かしてやってくれっていうのは、きっと、弟の遺言で言った、弟の好きだった人に抱かしてくれという意味合いだっていうふうに取れるわけですけど、そういうふうにして、姉のほうは、母親が死ぬと、自分は、あとの生涯は冒険をやって、恋愛と革命のために、わたしは死ぬんだとか言って、そのデカダンスの小説家たちのグループに入って、一緒に飲み歩いたりしていて、この人たちは、なんか間違っていると思うと、つまり、この作家が、なにはともあれ、一生懸命書いて稼いだお金で、こんなふうにたかって、みんなで飲んじゃってっていうような、こういう生活の仕方っていうのは、どっか、何かが間違ってるんだっていうふうに考えて、そのグループを外れてしまうわけですけど、弟が自殺してから、作家に接近していくっていうような、で、子どもを産むっていうふうに、姉のほうはなるわけで、弟のほうは、小説家と一緒のグループで遊び歩いて、飲み歩いているんですけど、ちっとも楽しいわけじゃなかった。ただ、そうするよりほかに、どうしようもなかったんだ。
だいたい、自分には、なにかのふりをしているってことと、何かほんとうなんだってこととの区別が全然つかなくなってしまったと、つまり、自分には、なにかやっても全部うそみたいなもので、全部なにかのふりをしているだけだとしか、思えなくなってしまったと、こういうかたちになって、麻薬中毒・アヘン中毒みたいになって、生きている甲斐もないし、生きている気持ちもないっていうような遺言を残して、その弟のほうも、死んで、自殺してしまうっていうふうになっています。
結局、『斜陽』っていう作品で、『桜の園』じゃないですけど、没落していく元貴族の家庭の、それぞれのかたちっていうのを描いていってるわけですけども、さきほども申しましたとおり、あまりにおあつらえむきすぎるので、ぼくらには、ちょっと照れくさくて、読めないなってところも、ないことはないのです
しかし、太宰治にしてみますと、はじめて、自分を、戦後、自分がマイナーな作家から、メジャーな作家だっていうふうに、人にさせられてしまった。それが、自分には、どうしても、自分では納得できないっていうような気分でいるわけですけども、この『斜陽』っていう作品が、はじめて、自分が、マイナーな作家から、メジャーな作家に、転換したっていいましょうか、自分が転換したわけじゃないんですけど、そういうふうに、客観的にっていいますか、周囲から転換させられたっていいましょうか、メジャーな作家になっていたと、日本の文壇の文学世界の中心的な位置に、自分が、いつのまにか置かされてしまっているっていうような、そういうことに対して、恥ずかしさだとか、どうもよくわからないとか、おかしいとかっていうような感じを、全部抜きにして、このメジャーな作家としての自分っていうのを、もし肯定したらばっていいましょうか、それを承認したらば、あるいは、それを受け入れたとしたらば、自分はどんな作品が書けるだろうかっていうようなことを試みた、はじめての作品じゃないかっていうふうに思います。
たいへん、たくさん気張ってっていいましょうか、いろんなことを工夫して考えて、よくつくってある作品で、また、たいへんうまいですから、見事な作品なんですけども、ちょっとこれは、典型的に照れくさいなっていうふうに思われるところがあるのは、そういうところで、すこし、マイナーな作家から、メジャーな作家に転換するときの、転換の仕方っていうのに、ほんの少しですけど、自分でついていけないところが、この作品の中に残っているんだと思います。
それが、なんか、読者のほうからすると、すこし照れくさいよなっていうふうになりますし、志賀直哉みたいな人から見ますと、やたらに貴族だ、貴族だっていっても、ちっともできちゃいないじゃないかっていうふうな批評になってあらわれるみたいなところが、出てきているんだと思います。
それは、太宰治自身のマイナーとは何か、メジャーとは何かっていうことで、太宰治の中で、すこし勘違いしているところがあったっていうようなことを、ぼくは意味しているように思います。それが、出た当時の、ぼくの読み方ですし、いまでも変わらないといえば変わらない読み方なわけなんです。
つまり、マイナーな作家から、メジャーな作家にっていう、転換の仕方っていうのは、ほんとうは、現在でも、よくわからないんです。はじめっからメジャーな作家っていうのはいますし、はじめっからマイナーな作家で、終わりもマイナーな作家っていうのも、成熟はするんですけど、マイナーな作家っていう人もいるわけです。
ところで、現在みたいな、戦後すぐもそうですけど、現在みたいな、戦後二番目の大転換期ですと、やっぱり、マイナーな作家が、メジャーなところに、ひょいと乗せられて、いかされたり、メジャーな作家が、超メジャーなところにいかせられてみたり、あるいは、メジャーな作家が、マイナーなところにいかせられてみたいにいうようなところが、しきりに、現在、起こりつつあるところなわけです。これは、すこし注意深く、個々の作家っていうのを読んでご覧になれば、この人がどこで困っているのか、あるいは、どこで勘違いしてるのかとか、どこでだめなのか、そういうことは、とてもよくわかります。わかるはずです。
それで、どうしてかっていうと、やっぱり、転換期っていうのは、読者のイメージがわかりませんから、社会のイメージはもちろんわからないんですけど、読者のイメージがわかりませんから、自分で、間違いないっていうふうなところの筋道を、自分でつくりあげて、自分でいくより仕方がないわけです。ですから、そこのところで、それぞれがいこうとしたり、いかせられたりしているんだけど、勘違いしている分だけ、たぶん、狂ってくるわけです。違うふうに狂ってくるわけ、それは、作品をすこしよくご覧になれば、すぐによくわかります。
なぜこの人たちは、この転換期の把握っていうのが、読者の把握、社会の把握、それから、感覚的、無意識の把握っていうのが、なぜどこで間違えちゃうかとか、いや、相当正確にやってんだけど、ここのところで違ってるんだよなとか、そういうことを、読者の側からみれば、とてもよくわかります。
読者でないと、なかなかわかりにくいところがあります。どうしてかっていうと、なんか因習でもって、評価したり、友達だとよく評価しちゃったりとか、グループだとよく評価しちゃったり、悪く評価したり、気に食わないやつだと悪く評価しちゃったりっていうことが、それぞれありますから、読者っていうのは、そんなことはかまわないわけですから、非常に正確にみれますから、そうすると、よく読んでいると、とてもよくわかります。
結局は、文学作品の読み方っていうので、いちばん興味深くて、いちばん、また、いい読み方っていうのは、結局、そこのところで、この人は、ここのところは違うんだよなっていうことが、なんとなく感じられて、なんとなく感じられた事柄を云えるっていうふうにもっていけたら、文学作品を読む読み方としては、たいへんいい読み方になっていくと思います。
そこのところは、いまみたいな転換期だと、そういうことはありますから、転換期じゃないと、淡々として、無事平穏として、自分の資質どおり書いていると、だんだんうまくなっていって、それなりにやっていくんだよなってことで終わるわけですけど、いまは、いくら個々の作家がそう思ったって、そうはいきませんから、かならずどっかで勘違いしたり、どっかでよかったりとか、どっかで転換したりとかって、やっていますから、それが読者の側からとてもよく見えるはずだっていうふうに思います。
『斜陽』という作品は、たぶん、太宰治がはじめて、どうもおれは、マイナーからメジャーのほうへ移ったらしいんだよなっていうことが、だんだん、お金が儲かったとか、注文が多くなったとか、人がなんか言ってくれるとかっていうんで、だんだん、おれはそうじゃないかなって思ってきたんです。肯定的になってきて、それじゃあ、どういうことが問題なのかなっていうことを考えていって、やっぱりメジャーらしい作品をやってみようと、自分が考えるメジャーらしい作品をやってみようと思って書かれた大作であり、最初の作品が『斜陽』じゃないかっていうふうに、ぼくは思います。
これは、現在の人が、そういうことを抜きにして、新しい古典っていうふうに考えて、この作品を読んだら、また、ぜんぜん違う読み方ができるんじゃないかっていうふうに思いますけど、ぼくらはそういうふうに読めないものですから、自分から離せないものですから、そういう読み方になってしまいますし、また、ぼくらみたいなやつしか、年食っちゃって、そういう読み方を、太宰治についてやれるっていう人は、少なくなっていますから、そういう見方もありうるってことを、お話するわけですけど、ぼくは、そういうふうに、はじめて、マイナーな作家っていう自分を、すこし崩していって、恐る恐る崩していって、おれはメジャーな作家かもしれんぞというふうに思って、それらしく書いてみるかってことで、はじめて書いた作品じゃないかってふうに、ぼくには思います。これが、『斜陽』という作品の問題です。
もちろん、『斜陽』という作品だって、これの原形となる作品っていうのは、前にも書かれているわけです。『花火』っていう、短編ですけど、この作品がそうだと思います。これは、絵描きさんが、老画家がいて、やっぱり、息子と娘がいて、それで、息子のほうはデカダンスで、悪い仲間とか、つまり、デカダンス仲間とか、デカダンス作家と一緒に、飲み歩いたり、麻薬中毒になったりしていって、どうしようもなくなって、親父が有名な絵描きさんで、親父の書いた絵を持ち出していっちゃ、それを売り飛ばして、酒代にかえるとか、麻薬代にかえるみたいなことをしているわけです。
それを、親父のほうもわかっていて、文句を言ったりするんですけど、文句を言ったりすると、娘のほうがかばって、あの絵を持っていったのはわたしだっていうようなかばいかたをして、かばっちゃうわけなんですけれども、最後のところでは、親父さんのほうが、この息子がいたら、ぜんぶ不幸になるっていうふうに、家族は不幸になるって思って、ある日、一緒に一家がボート遊びを沼でやるわけですけど、そのとき、息子のボートに、おれも乗せろって言って、父親を乗せて、たぶん、父親が、息子を突き落としちゃうわけです。ボートを寄せたときにはひとりしかいなくて、どうしたんだって言ったら、途中で、用があるからいくって言って、丘へ上がっちゃったってごまかすわけですけど、ほんとは、たぶん、突き落としたんだっていうふうに作品では描かれているわけです。
でも、なんとなく、突き落としたんじゃなくて、溺れ死んだんだっていうようなことが、警察には通ってしまっちゃうわけです。それで、他人が、子どもさんが死んじゃって、たいへんだろうなとか、お兄さんが死んで、寂しいでしょうとか、そう言うと、子どものほうは、兄が死んじゃって、ホッとしました。わたしたちは幸福になりましたっていうふうに答えるみたいなところで終わるわけですけど、そういう作品は、『斜陽』の前に書かれている原形的な作品なんで、はじめて書かれたわけではないんですけど、おあつらえむきに書かれているという意味合いでは、やっぱり、戦後になってはじめて書いたっていうふうに思います。
戦争、とくに敗戦っていうかたちで、戦争が終わったってことは、それぞれのところで、それぞれの人が、たいへんな体験をしたわけでしょうけど、太宰治も、その体験の仕方っていうのをやってみたかったんだっていうふうに思います。ぼくらは、若かったから、がっくりしたけれども、気分のほうっていいますか、精神はがっくりしても、体力は、体はもって、若いものだから、そういうところをくぐり抜けてこられたけれども、たぶん、太宰治とか、ぼくが好きになった作家でいえば、横光利一っていう人ですけど、この人なんかは、戦争終わったときには、がっくりしてっていうか、もう立ち上がれないくらいがっくりしたんだと思います。
ですから、太宰治とは違うかたちですけど、やっぱり、横光利一も胃を悪くしたりして、そこからちょっと、神がかってきたりして、亡くなってしまうわけですけど、やっぱり、広い意味で自殺したって言っても、いいくらいな死にかただと思います。それくらい、たいへんきつい転換期であったわけです。
ほんとは、戦争中、良心的であった人ほど、転換期をきついかたちで受け入れて、なかなか生き延びられなかったっていうふうなことになっていったっていうふうに思います。太宰治も、典型的な人だったっていうふうに思います。もし、マイナーなままでいたら、それほどじゃなかったんですけど、戦後にメジャーになって流行ってしまったっていうことが、とても、太宰治には矛盾として出てきたんじゃないかなっていうふうに思います。
自分が捨て身になって、悪いことばっかり、つまり、健康でない小説ばっかり書いているつもりなんだけど、たぶん、そのことが、一般の人たち、とくに、若い人たちの気持ちとしては、いちばんよく、気持ちにアピールするところがあったものだから、それでもって、非常に流行的な作家になっていったっていうことになるので、それはある意味で、当然なんですけど、しかし、太宰治にしてみれば、急にメジャーになっちゃったってことは、不可解であるし、不可思議でしょうがないっていうことで、自分は生きているのもいやだって、ほんとは言いたいくらいなところで生きていたんだっていうふうに思います。
『人間失格』になって、これは死ぬ間際になっていくわけですけど、この『人間失格』になりますと、もう人物の描き方っていうのは、自分の自伝的な要素から、ぜんぶ取って、そこから抽出してきていることで、ちっとも、そういう意味では新しいところはないわけです。
主人公は、文学者にはしていないんですけど、太宰治の生涯の歴史の中にある、たとえば、心中事件とか、同棲事件とか、左翼事件とか、そういう、生涯にあることは全部、この『人間失格』の中に、エピソードとしては、ぜんぶ入って込めてあります。もちろん、自分が主人公だってふうには書かれていなくても、それは自伝的な要素をたくさん詰め込んだ作品なわけです。
でも、どこをとってきても、希望的に描いているところはひとつもないわけで、全部、希望じゃないふうに、希望なんてどこにもないってふうに描き尽しています。それは、少年時代から描かれているわけですけど、少年時代のことでも全部、希望はないし、絶望の色でもって、自分の少年時代をぜんぶ塗りたくって、それで、全部そういう、どうしようもない奇形の、みじめな奇形な、おかしな、不気味な男の子みたいな肖像画を、文章でつくってしまって、そういうふうに、どこをとってきても、希望のひとかけらもない描き方で、『人間失格』っていう作品を覆っています。
これは、いってみれば、自分の生涯っていうのを、希望の色をぜんぶ失くして、自分の生涯の自伝を、自伝じゃないような書き方で書いた作品だっていうふうに言うことができると思います。
つまり、どこで終わりだっていうふうに、作家として、決心したのかっていうのは、なかなかよくわかりにくいところなんですけど、たぶん、『人間失格』を書くときには、一片の希望も、その中にはのせないでっていうようなかたちで、徹しようっていうふうに書いた、非常に意志的に書いたっていいましょうか、意識的に書いたっていいましょうか、そういうふうに書かれている作品だっていうふうに思います。
『人間失格』っていう場合の、何を失格だっていうふうに描いているかっていうことになるわけですけど、ひとつは、青少年時代といいますか、若い時のことを書いたところで、出てくることは、ちょっと自分は、病理的にっていいましょうか、病理的に人間らしさっていうのはない、奇妙な性格の持ち主であるっていうふうに、自画像をゆがめて描いています。
表情は全部、不吉な表情しかしない。で、どこにも、健康な要素っていうのはどこにもない。ただ、他人も怖いし、家族も怖いし、父親も怖いし、みんな、人間っていうのは、恐怖の的なんだ。人間は恐怖の的で、おっかなくて、居ても立っても居られないほど、人間はおっかないんで、それをごまかすために、自分はたえず、道化たことをやったり、言ったりして、他人を笑わせたりして、かろうじて、その場を保たせるみたいな、そういうことをやったと、しかし、心の内心では、いつでも、おっかなくて、おっかなくて、逃げよう逃げようっていうふうに思ってると、おっかなくて、おっかなくてしょうがなくて生きてたっていうふうに、自分を置き換えて描いています。
つまり、はじめから生存が不可能だっていうふうに、描いてるってこと、それから、自分には欲望っていうものが、よくわからないんだっていうふうに描いていると思います。欲望っていうのがわからないんだ。だから、人間は、ごはんを食べる為には、働かなくちゃいけないんだっていうふうに、子どものときに、他人から言われると、まったくわからなかった。つまり、ごはんを食べる為には、生きて働かなくちゃいけないんだって言うけれど、自分はごはんを食べたいと思って食べたことなんか一度もないし、もちろん、おいしいと思って食べたことなんかないっていうふうな、描き方をしています。
ですから、働かなければ食えないんだとか、人間は働いて、ごはんを食べなきゃいけないとかって言う人の言い方っていうのは、まったく自分には理解できなかったっていうような描き方を、自分の青少年についてやっています。つまり、自分には、生きるという欲望といいましょうか、そういうことがまったく自分にはなかったっていうような言い方をしています。描き方をしています。
だから、生きる欲っていうのは、最初からないといえばなかったんだ。だから、空腹の感じも、飢えた感じもしたことがないし、空腹だからごはんを食べるっていうような感じをもったことが、自分はなかった。ただ、習慣だから、三度三度の食事をして、黙って下を向き、黙って食べ物を食べて、ちっとも愉快じゃないし、そういうふうに、食べることとか、空腹とか、飢えとか、食べる為に働くんだとか、そういうふうに考える考え方っていうのは、まったく思いも及ばないことだったし、また、ごはんを食べなければ死ぬんだなんてことを、考えたことはないっていうふうに、そういう描き方をしています。
そういうことと、人格的にいえば、自分は、中学か高等学校に入ったときには、頭が悪くなかったもので、クラスの者とか、先生から、尊敬されたりしたけども、そんな、尊敬されたりすると、恐怖でしょうがなかったっていう描き方をしています。
それから、子どもの時に、女中さんから、性的な悪戯を覚えさせられたし、性的な悪戯をされて、犯されたりしたことも描いています。これは、人間の犯罪のうちで、いちばんひどい犯罪なんだってことを言っています。人間の性の欲望みたいなもののあり方を決定するのは、たぶん、ひとつは、生まれたときってことになりますけど、生まれる前後ってことになりますけど、ひとつは、こういう傍の人から受けた、思春前期における悪戯っていうのが、決定的になるわけですけど、太宰治は、そういうことを、『人間失格』の中で、非常にはっきり描き切っています。
それから、あと、デカダンスの生活っていうのに、麻薬中毒になり、左翼運動に走りっていうけど、ひとつとして、なにか崇高な目的のために、そうしたことはなくて、なんか誘われるままに、そういうふうになっちゃったんだっていうような言い方を、太宰治は、『人間失格』ではとっています。
自分は、あるとき、やっと世間っていうのがわかるように思った。で、世間とは何かってことになるわけですけど、世間っていうのは、なにかたくさんの集合体みたいに思うけど、ほんとうはそうじゃなくて、個人だってことで、世間が悪いんだとかいうけど、それは、いってみれば、個人が、その人が悪いんだってことになるんじゃないかっていうことが、やっとわかってきたっていうようなことを言っております。ちょっと休ませてください。(会場笑)。
この『人間失格』っていうのを、ぼくらが同時代の読者として、どういうふうに読んだかってことになるんですけど、ぼくらの当時の記憶では、やっぱり、太宰治の作品を、中期の安定期を抜かした、太宰治の初期の頃の、たいへんな、心中事件とか、左翼運動の事件とか、そういうようなことを描いた作品と、戦後、同時代に描いた、たいへん短い作品があるわけですけど、それらの作品は、一種の、取りまとめっていうか、総合っていうか、それもあまり、いい取りまとめ方じゃないっていうふうなのが、当時のぼくらの印象なんです。
これもたぶん、同時代的なあれによるんだと思いますけれど、つまり、ぼくら自身の、戦争っていうことで受けた、さまざまな精神的な課題っていうのを、どういうふうに処理していくかってことについての、自分なりの処理の仕方っていいますか、考え方っていいますか、方向っていいますか、それと太宰治の考え方とが、少しずつ違ってくるみたいなことが、その中に含まれているんだっていうふうに思うんですけど、とにかく、ちょっとこれは、取りまとめ方として、いい取りまとめ方ではないんじゃないかなっていうのが、ぼくらの当時の印象だったと思います。
その当時の印象は、いまも続いていまして、やっぱり、現在読みましても、いい作品だと思います。代表的な作品だと思いますけど、これは、太宰治のほかの小説に描かれた、自伝的要素っていうのを、ひとつに総合して、それに否定的な影をそこに加味したっていう、そういう感じで、けっして、いい作品だっていうふうに感心するっていうようなことじゃなかったように、そのとき評価したように思います。
かならず、このあとに、もっといい作品を、もっと書くに違いないってことを勘定に入れながら、『人間失格』を読んだように覚えております。これは、現在でもそうであって、ぼくらも、現在、これを読んでみても、そんなに、いいまとめ方だってふうに思えないんです。
で、何が、いいまとめ方じゃないのかってことになっていくわけなんですけど、それはやっぱり、中期から戦争にかけてですけど、中期から戦争にかけての、たいへん健康な時代で、もし、太宰治の代表的な作品をって言われたら、きっと、その中の、その時代の作品をあげるってことは、ひとつの見識のありかたであって、あるいは、国民作家的に評価をすれば、そこであげられる、たとえば、『富嶽百景』でもいいんですけど、あるいは、『走れメロス』でもいいんですけど、それから、長編でいえば、『正義と微笑』とか、『右大臣実朝』とか、『新ハムレット』とか、そういう作品ですけど、ここいらへんをあげるってことになる考え方っていうのは、ありうるわけで、そうすると、この『人間失格』の中には、その中期の、たいへん健康な時代、あるいは、健康な市民であろうと、太宰治が心がけた、そういう時代の作品と、それから、生き方っていうのについての、自伝っていうのはおかしいんですけど、ついての自分、そういう時代を通過した自分というのが、この『人間失格』の中に含まれてないってふうに思えるわけで、含まれてないってことは、その時代の自分と作品、及び、自分の生活の仕方、生き方っていうのに対して、自分がなんか意味を付け加えるってことを、ひとつもしていないってことを意味するので、つまり、その時代についての、自分の理解の仕方っていうのが、自分自身で、自分に対する理解の仕方っていうのが、ひとつもないじゃないかっていうことになると思うんです。
そこは、ぼくらの『人間失格』の自伝的要素の含み方、あるいは、別の言葉でいえば、精神の自伝なんですけど、精神の自伝として足りないじゃないかっていうふうに思うのは、そこのような気がするんです。
それから、また、別な意味でいえば、その時代こそ、ぼくならぼくにとっては、青春時代だったわけだから、青春の前期から中期っていうのは、その中には入っていたわけだから、ぼくは、自分の生涯から、その時代を抜かして、自分の精神形成っていうのを語ることはできないし、言うことはできないってことを、おんなじような意味合いを込めていえば、太宰治の、その時代についての、その時代はその時代なりにいい作品があるわけですけど、『富嶽百景』から『お伽草紙』にいたるまでの、いい作品があるわけですけど、その時代のことは、その時代に形成したことっていうのは、抜けてるじゃないか、抜けた要約の仕方じゃないかっていうふうに思えたところが、いちばん不満だったっていうふうに、ぼくは思います。
その要約の仕方は、いってみれば、戦後的な風潮っていいますか、風潮の中にやっぱり、太宰治がまた、ある意味で無意識のうちに呑み込まれていった部分だっていうふうに思えるのです。つまり、戦後的な風潮からいえば、戦争っていうのは悪であり、戦争中にやったことは、ぜんぶ無駄であり、戦争の死っていうのは、ぜんぶ無駄死にでありっていうふうな評価っていうのがあります。戦後の評価があってきたわけですけど、とくに敗戦後すぐは、そうだったんですけど、その風潮の中に、太宰治もいる、ある部分は入っていて、その部分では、そういう中期の安定した時代の、自分っていうのに対する、自分自身の解釈っていうのを、作品の中に打ち出すことができなかったんだっていうふうに、ぼくらには思えたわけです。
ところで、ぼくらから言わせれば、その時代を抜きにしたら、自分の生涯の、非常に重要な部分を抜きにしたのと同じことになりますから、その時代を抜きにするわけにはいかないよっていうふうに、どうしてもなるわけです。だから、そこから少しずつ分かれていくところっていうのは、あるわけでしょうけれど、そこからみると、『人間失格』という作品は、たいへん、ぼくら的には、物足りない作品だというふうになると思います。
だけれども、もし、そうじゃなくて、全然そんな先入見なしに、ひとりの読者が、たまたま、『人間失格』という作品を、たまたま読んだっていうふうになったら、たぶん相当、いい作品だっていうので、感銘を受けるんじゃないかっていうふうに、ぼくには思います。
でも、これを歴史の現場に戻してっていうふうに考えた場合には、いちばん、太宰治の安定した時期っていいましょうか、安定して、それなりにいい作品を書いた時期のことが、すこしもこの中に含まれていないじゃないか、塗ってあるのは、全部、真っ黒なベタベタな、真っ黒な色ばっかりで、ちっとも、中期にポーッと明るくて、健康で、それで、健康な中で、精一杯、精神の働きを働かせてっていうような、そういうふうに描かれた作品の時代っていうのは、『人間失格』の中には、ちっとも入る余地がないよっていう意味合いで、なんか物足りないといいましょうか、要約の仕方が、どうもおれは、あんまりいいと思わないなっていうふうになったんだと思いますし。いま読みましても、ぼくはそこのところが、不満だなっていえば、不満だなって思えるっていうのが、ぼくらの『人間失格』に対する考え方です。
太宰治の『人間失格』の中で、しきりに言っていることがあります。それは、堀木っていう仲良しの友達と遊びをするってところで出てくるんですけど、「罪」っていう言葉の反対語っていいますか、アントニムですけど、反対語っていうのは何かっていうのが、よくわからないっていうことを言っています。
つまり、「罪」っていうのの反対は何なんだ。「罪」に対して、キリスト教的に、「許し」だとか、そういう言葉を使っちゃったら、それは、反対語にならないんだっていうふうに、太宰治は考えるわけです。その反対語はいったい何なんだって考えて、堀木って友達が、それは「法律」じゃないかって言っちゃうわけです。それは、まるで違うっていうふうに、主人公は、葉蔵っていうんですけど、主人公はまるで違うと考えるわけで、そして、ドストエフスキーのことを思い出して、ドストエフスキーの『罪と罰』っていう作品があるわけですけど、「罪」の反対語っていうのは、「罰」かなっていうふうに考えるわけです。
「罰」かなっていうのは、どういうことかっていいますと、ドストエフスキーが「罰」っていう言葉を、違うように、ちょっと罰するとか、そういう意味合いに考えなかったんじゃないかなっていうふうに、主人公が考え込むところがあります。ここが、作品の中に出てきますけど、ぼくらは、ここらへんは、太宰治という作家の勘所だっていうふうに思えるわけです。
太宰治っていう、さきほど、おおそれたことを、太宰治って人は、考えていた人だっていうふうに言いましたけども、太宰治の考えているおおそれたことっていうのは、「罪」っていう言葉の反対語っていうのは何なのかっていうことに対して、おぼろげには、なんとなくわかりそうに思えても、ほんとは、なんだかよく云えないんだっていう、そこいらへんのところに、太宰治のおおそれたことの考え方の勘所は、ぼくはあるような気がするんです。
それは、自分を愛するように、人を愛せるかっていうふうなことを、本気で考えて、本気で悩んでたっていう太宰治のところに、関連していく、食いこんでいくわけですけど、「罪」の反対語っていうのは、何なのかっていうことに対して、十分な回答っていうのは、どうしても見つからないみたいなことが、作品の中に書かれているんですけど、ここいらあたりは、とても、『人間失格』の中でも、おおまともな、おおまじめなところで、また、非常に重要なところのような気がいたします。そこはもう、太宰治という作家の、いちばん根本的なところにある大問題であって、生涯、太宰治は、それは解きにくかったんだっていうふうに思えるわけです。
太宰治は、女性っていうこと、それから、心中っていうこと、それから、最後には、近親のものとか、友達とか、先輩とかに、うまいこと騙されて、騙されてっていうか、精神病院に入れられちゃったっていうことが、麻薬中毒であるんですけど、そのことが大変なひっかかりかたで、精神病院に入れられちゃったっていうことを、太宰治自身には、『人間失格』の「失格」っていうことの中に入れています。
その「失格」っていうのは。人間から、自分が外されちゃったっていう意味合いもありますけど、そうじゃなくて、自分は、他人を信頼してたんだけど、他人は、自分が思ってるほど、自分を信頼してくれないんだって、人間はまた、人間を信頼しないんだ、人間が人間を信頼できないってことがわかるってことが、青春から大人になることの、いちばん大切なことなんだ、いちばんの問題なんだっていうふうに言っていますけども、つまり、「失格」って意味は、人間を、あんまり信頼しすぎたために、人間から外されちゃうってことっていうのがありうるんだよっていうことを、太宰治は言ってると思います。
つまり、2つのことを言ってると思います。自分は、だめで、いいことなんかちっともしたくなかった。つまり、「罪」っていうのを重ねてきたっていうふうに思ってるために、人間から外されちゃったっていうふうに、一方では、そういうふうに自分を考えているけども、一方では、自分は、人間を信頼しすぎた、信じすぎたってことで、自分は、いつのまにか、人間から外されちゃってたっていう思いがあって、それも、「失格」っていうことの中に含ませていると思います。つまり、太宰治が、人間失格って言う場合には、「失格」という意味は、その2つの意味が含まれていたっていうふうに思います。
それで、最終的に、太宰治が、自分の救いだっていうふうに言ってる言葉っていうのが、『人間失格』の中にあるわけですけど、それは、一切が過ぎていくんだっていうこと、一切が過ぎていくんだっていうことが、人間にとっての唯一の救いなんだっていうことが、たぶん、『人間失格』っていう作品の、全体のモチーフっていうふうに、作者自身は考えていたと思います。つまり、一切は過ぎていっちゃうんだっていうことと、一切は忘却、忘れちゃうんだっていうこと、人間は忘れることができる存在なんだっていうことが、人間にとっての救いなんだってことが、太宰治の『人間失格』の根本的なモチーフなんじゃないかってふうに思います。
つまり、太宰治っていうのは、そのあたりのところにいくと、大変まともなって言ったらいいんでしょうか、まじめな作家でして、いってみれば、おおそれたことなんですけど、おおそれたことを考えていて、考えてることはおかしくない、おかしくないって言ったら、言い方がおかしいんですけど、照れくさくないっていいますか、今日も、自分自身照れくさくないっていうだけのあれをもっていたっていう人は、近代作家では、太宰治くらいなものじゃないでしょうか。つまり、たいへん、おおそれたことを考えていた人です。
日本で、キリスト教的なっていいますか、聖書的なっていいますか、キリスト教的な「罪」っていうことのアントニムっていいますか、反対語っていうのは何なのかっていうことを、そういうおおそれたことを考えた作家っていうのも、また、それを作品に書いた作家っていうのもいないことはないんです。芥川でもそうですし、けっして、いないことはないんですけど、本格的な意味で、やっぱり、そのことを一生懸命考えて、まともに考えて、まともに悩んでっていうようなことをした人は、やっぱり、太宰治に指を屈するより仕方がないんじゃないかっていうふうに思います。それくらい、おおまじめだったと思います。
ぼくらが考えている太宰治の中期なんですけど、『駈け込み訴へ』っていう、短い作品ですけどあります。キリストを裏切ったユダ、ユダが裏切ったとされているわけですけど、ユダの側から書いたキリストっていうのが、『駈け込み訴へ』なんですけど、これは、いってみれば、日本のキリスト教文学の中で、ピカイチの作品なんじゃないかって、ぼくには思います。ここいらへんが、太宰治が、おいしい作家だっていいますか、心尽くしの作家だっていうことの意味合いになると思います。
つまり、いちばんおおそれたことを考えて、いちばんおおそれたことを表現しながら、でも、ひょっと、さりげなく、軽く表現するものですから、あんまり照れくさくなくて、それが受け取れるっていうのが、太宰治の作家としての本領だと思います。深刻なことを深刻にっていうんじゃなくて、おおそれたことを、非常にさらっと出すものだかた、一見すると、おおそれてないように、読めちゃうってことが、太宰治の真髄だと思います。
だから、太宰治っていうのは、軽薄なっていいますか、いまでいえば、中間的な作家かってふうに考えられると、とても大間違いであって、それは、すぐにわかります。外側が、非常にやさしい言葉で、やさしく書かれている作品だけれども、これを書いている心棒は、ものすごく純文学なんです。おおまじめになって、そういう作品です。
これは、いまの純文学の作家とは、まったく逆です。いまの純文学の作家は、外側はおおまじめなことを書いて、おおそれたことを書いているようで、ほんとは通俗的だ。通俗的でどうしようもないみたいな、そういうふうになっていると思います。
それだけ違います。そこいらへんが、太宰治のおいしい作家だっていう理由だっていうふうに思います。戦後の日本文学で、まず、古典として残る最後の人だと思います。それ以降の作家っていうのは、古典として残るか、残らないかっていうのを断定することができないと思います。まだ、そういうのを断定してはいけないような気がします。でも、太宰治まででしたら、たぶん、日本の近代文学の古典であるっていうふうに言っちゃっていいんじゃないかなって、ぼくはひそかに考えております。
太宰治の3つの作品で、太宰治の戦中から戦後にかけての、全般的なお話と関連したわけです。たださせたわけです。ぼくは、さきほどから申し上げますように、読者として、同時代だものですから、あんまり、いい読み方をしてないかもしれないと、いつでも思っております。
ほんとは、先入見なしに、ひとつの新しい古典として、太宰治を詠まれることが、いちばんいい読み方になるんじゃないかって思いますし、その読み方が、いちばん、甦った太宰っていいますか、作家とか、作品っていうのは、一度死なないと、甦りませんから、太宰治は、たぶん、甦った作家だと思います。これは、だから、読み方は、古典として読むっていいますか、そういう読み方が、たぶん、正確な読み方になるんじゃないかと思います。
それには、ぼくらの読み方は、ちょっと違っていて、だめなんで、古典として引き離すことができないところがありますから、いい読み方じゃないかもしれないんですけど、参考に供せられたら、非常にありがたいと思います。これで終わらせていただきます。(会場拍手)
テキスト化協力:ぱんつさま