1 司会

(司会)
このように多数ご参加いただきまして、まことにありがとうございます。生涯学習の必要性が叫ばれてございまして、文京区におきましても、平成2年度から生涯学習を推進し始める検討に入っているところでございます。
推進計画の素案ができあがりまして、いま、区民の代表のかたが、あるいは、区民の方々を入れた協議会に意見をお伺いしているところでございます。
来年、10月に、シビックセンターが完成いたしますが、その中に、生涯学習センターを設置してまいります。そして、平成7年の1月に、生涯学習センターをオープンする予定でございます。
この機会から、文学的な生涯学習の推進をスタートしていきたいというふうに考えてございます。昨年からの推進にあたりまして、この10月を推進のための月間というふうに名付けているところでございます。昨年からシンポジウムを開催いたしました。
今年度は、記念講演会ということで、はじまるにあたりまして、2,3、お願いを申し上げたいと思います。1点でございますが、写真撮影につきましては、ご遠慮いただきたいと思います。それから、テープレコーダー、ビデオカメラ等については、ご遠慮いただきたいと思います。それから、会場内の飲食はご遠慮ください。それから、喫煙につきましては、決められた場所でお願い申し上げたいというふうに思います。
それでは、まもなく開演でございますが、講演会の前に、司会者を代表いたしまして、わたくしどもの教育長であります、中村教育長からご挨拶を申し上げたいと思います。

(中村教育長)
みなさま、こんにちは、教育長の中村でございます。今日は、ようこそお越しいただきましてありがとうございます。本日は、生涯学習推進記念講演会を開催いたしましたので、ひとこと、わたくしからご挨拶申し上げたいと思います。本日は、「私と生涯学習」というテーマで、吉本隆明先生に、ご講演をお願いいたしましたところ、先生には、こころよくお引き受けいただきました。心から御礼申し上げたいと思います。
さて、みなさんも、ご覧のように、社会の急激な変化に伴いまして、教育、文化に関する区民の方々の関心、要求は、ますます高まってきております。生活文化の面についてみますと、生活水準の向上、あるいは、自由時間の増大、高学歴化の進行などを背景と致しまして、区民のニーズは、多様化、高度化し、物から心へ、量から質へと変化してきております。また、急速な高齢社会への移行、国際化への進展、高度情報化への進行など、その適切な対応が、いま、なによりも求められていると思います。その上、組織化、核家族化、あるいは、少子化など、いっそうの進行いたしており、地域の教育力、家庭の教育力を弱めるなど、教育上におきましても、さまざまな諸問題をもたらしております。
本区におきましては、これまで、教育委員会が、社会教育の分野におきまして、生涯学習の推進を図ってまいりました。しかし、生涯学習を体系的、総合的に推進し、拡充する必要から、昨年2月に、従来の縦割り行政の枠を超えまして、関係する部局が、一体となって、生涯学習に取り組むため、庁内に、区長を本部長とします、生涯学習推進本部を設置し、生涯学習の推進を図るための推進計画について、検討いたしてまいりました。本年の4月に、推進計画素案をまとめたところでございます。
しかしながら、生涯学習は、行政と区民が一体となって、運営を展開しなければ、真の成長・発展は期待できないものと考えております。そこで、計画に、区民のみなさまのご意見を反映させるために、区民の方々や、団体の代表の方々に、ご参加をいただき、生涯学習推進協議会を設置し、推進計画について、ご意見をいただいているところでございます。
また、教育委員会といたしましては、区民のお一人お一人が、自らの能力を最大限に発揮し、豊かな人間性を培うとともに、豊かな心を養い、希望と活気に満ちた文京区をつくりあげていくため、生涯学習推進の地盤整備を積極的に推進しているところでございます。平成5年度中には、すでに解散いたしましたオトワにつきまして、先刻、明大に生涯学習館を開設の他、今年度には、技術センター内に生涯学習センターを設置してまいります。
こうしたハードの面に加え、生涯学習推進計画においては、学習機会の増大や、学習相談、要望、成長機能を取り入れて、生涯学習の充実を図ってまいる考えでございます。どうか、生涯学習を進行するために、区民のみなさまの叡智をお寄せいただきたいと考えております。
終わりに、本日の記念講演会を契機に、これからの生涯学習の推進に役立ててまいりたいと考えておりますので、今後とも、教育行政に対します、みなさまの一層のご支援、ご協力をお願い申し上げまして、ご挨拶に変えさせていただきたいと思います。本日は、どうもありがとうございます。

(司会)
それでは、いよいよ講演に入るわけでございますけど、講師のご紹介を簡単にさせていただきたいと思います。吉本隆明先生は、1924年に、東京にお生まれになりまして、東京工業大学をご卒業、『言語にとって美とは何か』、『共同幻想論』、『心的現象論』など、多数の著書がございます。現在、日本を代表する思想家として活躍もなされているところでございます。
文京区との関わりでございますが、先生は、駒込に40年近くお住まいでございまして、たいへん詳しい方でもございます。昨年、森鴎外生誕130周年を記念いたしまして、鴎外展を実施いたしましたけども、その際も、安田講堂において、講師としてお願いを申し上げ、多数の方々に賛辞を受けているところでございます。
それでは、さっそくはじめさせていただきたいと思います。それでは、先生をお迎えしたいと思います。みなさん、拍手でお迎えください。

2 老人たちに訪れた変化

生涯学習っていうのは、わりあいに新しい概念だと思います。ぼくは、生涯学習なんて、えー、一生懸命勉強しなきゃいけないのかっていうようなことを、言ったり、書いたりしたことがあるんですけど、それで、よくよく伺ってみますと、それは、学校教育とまた違う、社会教育っていいますか、一般教育っていう概念に類するので、まだ学校やるのかぁなんていうのとは、また違うんだっていうお話で、すこし安心しているわけです。
何を学習するのかってことになるわけですけど、ひとつの例をあげますと、毎年10日間くらいサボって、夏に泳ぎに行くんですけど、その泳ぎに行くのは、いつでもおんなじところで、西伊豆の漁村なんですけど、もう30年くらいおんなじところに行くわけです。
その間、いろんな文化があるわけですけど、その中で、ぼくはいいなと思う文化っていうのがあって、それは漁村のご老人方が、おじいさん、おばあさんがいるわけですけど、30年前と、現在と比較しますと、まず30年前は、もうやることなくなってっていうか、ぼんやり、海のほうを眺めて腰をおろしていたりとか、あるいは、夜になると、自分の家の前に、縁台みたいのを置いて、そこに、ぼんやり腰かけていて涼んでいるとかっていう感じなんです。
それは、とてもいい風情なんですけど、さびしいといえば、さびしいものだなと、つまり、漁村の働き手の時代を過ぎてしまったっていうことは、さびしいことなんだなっていうことを、いつでも実感させられる感じでした。
たとえば、ここ10年足らずの間の老人、おなじくご老人のありさまっていうのは、じつに違って、つまり、変化が著しいわけです。いまでは、ご老人たちは、浜辺のところに、すこし一角を、広いところを設けまして、お互いにゲートボールみたいなことをやって遊んでいるわけです。
その変化っていうものは、じつに、これで万々歳だっていう感じくらい、ぼくは、いいなと思っちゃうわけです。もう、何もすることなくなった。体動かしても、たいして働くことができないってことで、ぼんやりと海を眺めているっていうところから、なにか自分たちで遊ぶっていうこと、つまり、目的なしに体を動かすっていうこと、漁村の人たちはしてないですから、そういうことをご老人が自分たちでするようになって、目的なしに体を動かすってことは、ぼくも年をとってきましたからわかるんですけど、非常にいいことなんだと思います。つまり、そういうことを、楽しそうにやってるっていうことです。
そういう遊ぶっていうことを、とにかく、知ったといいましょうか、遊ぶっていうことのおもしろさっていうのがわかった。ものすごい変化で、これは、ぼく、30年おんなじところにいって感じて、これだけの変化っていうのはすごいものだ、これだけの変化がご老人たちに訪れているのは、これは大したものだっていう、つまり、何が大したものだっていうふうなことを要約して、今日のテーマみたいなものにくっつけて、要約しますと、ようするに、知識でもないし、学識でもないし、見識でもないんですけど、そういう言葉は昔、古くからあって、叡智っていう言葉があるんですけど、叡智っていうのは、なかなか言いにくいんですけど、ご老人たちは叡智を獲得したって感じがするんです。
叡智っていうことが、もしかすると、一生勉強することのいちばん大きな、叡智を持つってことは、これは、大きな目的なのかなってふうに考えると、それは一生勉強するのに、学習するのも、いいじゃないですかっていう感じを持つことができます。

3 叡智を養うことが大きな目的

叡智っていうのは、学識、経験っていうのと、また違うことであって、なんかものごとが具体的に起こったときに、こういうふうに判断するとか、そういうことは、学識があるなしじゃなくて、ようするに、叡智があるなしで、ずいぶん違っちゃうことになると思います。
ぼくは、叡智を養うってことは、とても、学校を卒業したらそれまでってことじゃなくて、むしろ、学校を卒業したら、それははじまりっていう意味になります。また、学校っていうことは、制度的な学校っていうことは、叡智を養うってことの意味では、そんなに役に立たないものだってことに、ぼくはそう、経験上そう考えています。ですから、そういうことを考えると、やっぱりそれは、生涯の問題だよって云ってもいいし、学校出てからの問題だよ、出てから、本格的になってくる問題だよってことになるような気がいたします。
だんだん、生涯学習ってことに近づいていきたいと思うんですけど、現在、日本の平均寿命っていうのは、昨年度で、男子が76.9歳、それから、女子が82.22歳っていうのが、平均寿命になっています。この平均寿命は、世界でいちばん長い平均寿命です。そこいらへんのところで、世界でいちばんの平均寿命を、日本の人たちは獲得しているっていうことになります。
ぼくらの経験上からいきましても、学校の同級生っていいますか、同じ年齢の人たちで比べると、60歳で会社定年が大部分であり、それから、少数が65歳、それで、なかには、すこし重役みたいになっていたりするのがいて、そういうのは、あまり定年っていうのは響かないで、いまもやってるって感じですけど、だいたい65歳になったら、完全に定年、そうすると65歳って言ったって、あと10年、15年、余生っていいますか、余命っていうのはあるわけです。
余命をどうするんだって話してみると、一様に、どうしていいかわからないんだっていうのが、一様の本音のようです。つまり、昔のイメージだったら、定年退職、すこし財産もあり、いろいろ保障されてる年金もありってことになっていくと、植木鉢とか、盆栽とかいじって、孫の世話をしていれば、それでいいわけだと、絶対、ぼくもそうですけど、絶対そういうふうには、65歳過ぎてもならないのです。気分がだいたいそうならないのです。そういう落ち着きもないし、それだけ落ち着いている気持ちもないし、体もまだ少し動くみたいなことがありますから、どうしても、盆栽をいじって、孫の世話をしてってことで、やれって言われても、それは違うって、それは納得しないってことになるわけです。
そういうふうに考えると、どうしていいかわからないっていうのが、一様に、時々会って、話をすると、一様に、それが話題になって、おまえどうするんだってことで、何してるんだっていうことが話題になります。どうしていいかわからないってことは、つまり、もう一生涯、65歳から、もう一山超えないとだめだってことになるわけで、それをどうするかってことが、一様にぼくらの問題になります。
これは、一方では、高齢化社会っていうのは、非常に若い人たちの負担になっているってことになりますけど、一方では、そうじゃなくて、当事者のほうからっていいますか、つまり、ご老人のほうからっていいますか、老齢者のほうからいいますと、よせやいっていうか、そんなにべつに、面倒見てもらわなくてもいいから、すこし楽な働き場所っていうのを、いきなり与えてくれって、そうすればやれるから、能力もそんなに衰えてはいないから、多少衰えても、衰えていないからっていうふうに、みんな、ご老人は思ってるわけです。だけど、そういう場所がないってことがあって、べつに、負担をかけようなんて気持ちは、そんなにないわけです。そういうところが、老齢化社会の問題だっていうふうになると思います。
これは、日本の社会が、ここ10年足らずの間に、急激に当面している問題だっていうふうに思います。それから、もうひとつ、日本の社会が、急激に当面している問題っていうのがあります。それは、女性の、去年やっとっていえば、やっとなんですけど、去年度においてはじめて、女性の大学とか、短大とかの志願者っていいましょうか、志願者も、進学者も、男性をオーバーした、男性の大学志願者をオーバーした。つまり、超えたってことが、非常に顕著な、去年度における、非常に大きなできごとです。いってみれば、大事件です。
つまり、女性の大学・短大志願者っていうのは、だいたい数字で見ますと、46万6千人っていうふうになっています。男性は、45万3千人ってなっていますから、女性のほうがオーバーしたっていうことになります。そのオーバーの仕方っていうのが問題になるんですが、進学率からいきましても、女性のほうが42.4%、男性のほうは21.6%っていう内容、女性の42.4%っていうのは、短大も含めてですから、大学だけをいいますと、かならずしもそうではなくて、男性のほうが、すこし多いかもしれません。ですけども、短大も含めていえば、だいたい女性の進学率のほうが、歴然と多くなっていることになります。これは、去年度はじめて達成されたことであって、これは、非常に重大なできごとだと、ぼくは思います。つまり、将来のことについて、とても重大なことのように、ぼくは考えます。

4 子どもの教育のために働くという宿命

それから、そのことに関連して申し上げますと、2つあるわけです。ひとつは、エンゲル係数っていわれているんですけど、家計費の中に占める食費の割合っていうことですけど、それは、だいたい、日本で、20%くらいに落ちています。もっと落ちると思いますけど、落ちています。つまり、20%ぐらいが、家計費の中で食費が占めている量ってことになります。
ところで、もうひとつ、そういうふうな言い方をする人がいますけど、エンゼル係数っていうのがある。つまり、天使であるってことです。それは、何かっていいますと、子どもの教育費です。子どもの教育に家計費がどのくらい割いているかってものを見ますと、だいたい、およそ40%ぐらいを、子どもの教育費に充てています。つまり、子どもの教育費は、すでに、食費・生活費っていうことをオーバーしている、はるかにオーバーしている、2倍くらいになっているということがあります。
これも、重要なことのように思います。エンゲル係数が20%くらい、つまり、50%以下だってことは、ようするに、食うために働いているんじゃないってことを意味します。50%ぐらい食費が占めていたら、おれは食うために働いているんだってことになりますけど、20%ぐらいの食費ですから、食うために働いているんじゃないってことになります。
じゃあ、何のために働いているんだってことになりますと、すこぶる問題なわけで、子どもの教育費に40%充てていますから、これは、もうすこし多くなるかもしれませんから、だいたい、子どもを教育するために働いているんだってことになりかねないというか、なりそうな感じがいたします。
それは、重要な変化のように、ぼくは思います。つまり、このエンゼル係数っていうのが、いま40%ぐらいですけど、もうすこし経ちますと、だいたい50%オーバーする。すると、人間は何のために生きているのかっていったら、子どもの教育のために生きているんだってことになりそうな感じがいたします。それが、いってみれば、世界の平均的な国の社会の宿命みたいなもので、だいたい、子どもの教育のために働いているんだってことに、結果的にはなっていると、つまり、個々の人は、それぞれ違う意味で働いているつもりでいても、結局、結果から見ると、だいたい子どもの教育のために働いているんだ。つまり、次の代のために働いているんだっていうことになりそうな感じがいたします。
これは、いまは40%だから、今度は50%を超えたら、そういうふうに言って、おおよそ間違いじゃないことになります。つまり、食うために働いているんじゃなくて、それから、自分のために働いているっていうよりも、子どもの教育のために働いているんだってことになりつつあるっていうのが、だいたい世界の先進的な社会・国家の運命、宿命みたいなものです。いやだって言ったって、そうなっちゃうんだからしょうがないよっていうのが運命だと思います。
まして、こういう生涯学習とか、日本生涯教育学会とかができたりすると、ますますそれに拍車をかけるわけで、どんどん、そういうふうになっていくと思います。これが、先進国における宿命のようなものです。
つまり、何のために働いているのかっていうことを、あらためてっていいますか、そのようなことを、あらためて問わなければならないようになってるっていうのが、先進国の運命みたいなものだと思います。そして、それに対する、ほんとうにいい答えっていうのが、与えられなければ、つまり、得られなかったら、それはやっぱり、ちょっとだめなんじゃないかなって気がいたします。つまり、何のために生きているんだかわからないけど、子どもの教育費が半分以上になっちゃったとか、食うために働くのは、食うっていうのは、生活の20%ぐらいあればたくさんなんだっていうことになっちゃっていると、20%働けば、食うためにはいいじゃないかとなるわけですけど、そういうふうになっちゃってる。そうだったらば、いったい何のために生きて、何のために働いているんだってことは、あらためて、非常に、既成の回答っていいますか、いままである回答っていうのは全部だめだ、先進国ではだめなんだ。つまり、あらためて、それをひとりひとりが自分に問うていって、自分らしい、このためにおれは生きているんだってことを、自分で決めていかなければいけないってならなくなっちゃってるってことが、先進国の運命だと思います。
先進国っていうのは、いま云いますと、日本と、それから西欧4か国と、それからアメリカです。それが先進3地域です。この先進3地域の役割っていいますか、そういう時代に入っちゃったってことは、当分の間、つまり、すくなくとも、半世紀ぐらいはまず、変わらないと思われた方がいいわけだと、ぼくは思います。つまり、変わらないと思います。ですから、一国ずつでいえば、アメリカに次いで、日本が世界で2番目の経済大国ですけど、西欧の個々の国は3番目ってことになります。西欧の先進国、つまり、フランスとか、ドイツとか、イギリスとか、イタリアとか、そういうのを4つ合わせると、そっちのほうが2番目になります。日本は一国で3番目になります。
ですけれど、その構図っていうのは、まず、2,30年、それくらいは変わらないと思われた方がいいわけで、そうすると、いま申し上げました、食うために生きているんじゃないぜっていう、食うために働いているんじゃないぜっていうことと、それから、必然的に、子どもの教育のために働いていることになっちゃってるよっていうことは、そういう宿命っていうのは、非常に長期間続くっていうふうにお考えになったほうがよろしいわけで、そうだったら、ほんとにそれでいいのかねとか、自分のことはどうしたらいいのかねとか、いろんなことがあるでしょうから、そのことは本格的に問われなければならないっていうふうに、ぼくは思います。
そういうことは、誰も回答してくれないですから、そういう事態になったのは、わりあいに新しいですから、ここ近々、10年か、15年くらいですから、誰もそれは、回答を与えてくれるわけではありませんから、みなさんのほうで、個々に、自分でもって考えて、自分であみだして、おれはやっぱり、このために働いているんだっていう、そういうことはやっぱり、自分でちゃんと心得てわかるっていうようなところまでもっていけたら、いってみれば、生涯学習っていうことの中における、叡智の学習っていいましょうか、ほんとうの意味の知恵だっていいましょうか、そういう知恵を獲得したことになると思います。
それが、ぼくの考えでは、生涯学習ってことの、非常に大きな目標になると思います。そういう、何のために自分は生きているんだってことは、既成の概念では、ぜんぜん当てはまらないですから、自分で考えていくことができるってことが、叡智をもつっていうことで、それは、生涯学習のいちばん大きな目標のひとつになるんじゃないかっていうふうに思います。

5 教育ストックという概念

それに関連して、もうすこし申し上げますと、これは、佐貫利雄さんっていう経済学者の概念なんですけど、教育ストック、ストックっていうのは貯蔵です。教育ストックっていう概念を出しています。
佐貫さんは、明治18年から昭和の16年まで、1世紀、100年をとりまして、その間に、国民総生産、つまり、GNPっていうふうに言われているもの、国民総生産が、明治18年から昭和16年までをとって、82倍ぐらいに増えている。つまり、そのくらい、日本国は昭和16年までとっても、発展してきたっていうことを言ってるわけだと思います。
それでは、その間において、教育費っていうのはどのくらい増えているか、出しています。それは、300倍に増えているっていうような、教育費は増えていると云っています。
それから、もうひとつが、教育ストックっていう概念を出しています。貯槽品、在庫品ってことですけど、それは、明治18年から昭和16年までとっても、4,575倍ぐらい増えてるって言っています。
つまり、GNPに比較しても、教育費に比較しても、はるかにオーダーが違うっていうくらい、片っぽは、教育費は300くらいですけど、教育ストックっていう概念を作るとすれば、4,500倍ぐらいに増えてるっていうふうに言っています。それで、佐貫さんは、そういう解釈をしていますけど、GNPは82倍に増えてると、それから、教育は300倍に増えてる、しかし、教育ストックは4,575倍増えてる。この恐ろしいっていうか、凄まじい教育ストックの数字こそが、日本をわずか近々20年の間に、世界二番目の経済大国にのし上がってしまった、いちばん大きな原因はそれだっていうふうに言っています。
桁違いの教育ストックが、つまり、20年前は後進国であるとか、アジアのせいぜい中心国であるみたいに言われていたのが、いまや、世界二番目の大国になってしまったっていう、その理由は、この教育ストックによるっていうふうに、教育ストックが圧倒的な倍数に増えているってことが、いちばんの原因だっていうふうに、佐貫さんは、そういう理解の仕方をしています。
これは、ぼくは非常に、ハッとしたっていいましょうか、ギクッとしたっていいましょうか、ハッとしたほど優れた考え方だっていうふうに思います。教育ストックって何かっていいますと、それは、うまく佐貫さんが解説してくれてないものだから、いわく、わかりにくいんですけど、ようするに、ぼくがいい加減な解釈をすると、学歴社会、学校出て社会、会社に出るとします。で、そうすると、学校で習ったことの5,6割くらいの能力と知識を発揮すれば、会社っていうのは、会社で勤めることに、大差なく勤めることができるっていうふうに、ぼくは思います。
ぼくもそうだったですから、そうすると、5,6割使えばいいっていう、そうすると、4割ぐらいは、使わないで済んでいる教育知識とか、いろんなものが入っているわけです。その入っている部分の、使わないでいる部分を基にして、学校教育によって獲得したっていいますか、貯蔵した、そういう能力のストックっていいますか、たまりっていいますか、それのことを教育ストックっていうふうに解釈すればいいんじゃないかなっていうふうに思うわけです。
みなさんも、そういうことは大変ご存じだと思いますけど、一般的に社会に出まして、10割、獲得した知識とか、その他の要因を、10割発揮しようなんて会社で思ったら、たちまち頭ぶっ叩かれて、足引っ張られたりすることになりますし、また、4割以下しか、能力を発揮しなかったら、だめだって言われて、あんまり給料上がんないってなります。だから、だいたい5,6割か、7割くらい、能力を使ってると、そうすると、同僚と調和がとれて、上役からも、そんなににらまれないし、いいんじゃないかっていうことになっているわけです。
だから、使わない部分のストックを中心にして、やっぱり、日本人が明治以降、獲得したストックがだいたい明治18年から昭和16年までに、だいたい4,500倍に増えているんだっていうふうにお考えになれば、よろしいんじゃないかなっていうふうに解釈いたします。
そうすると、そのべらぼうなっていいましょうか、ほかのものに比べて、経済的な伸びとか、発展とか、教育費のかさみ方とかに比べて、ひとけた違うストックを獲得したっていうことが、日本の、現在の、世界第二の経済大国にしている所以だっていうふうに思います。この世界第二の経済大国っていうのは、近々20年足らずのうちに獲得したもの、現れてきたものだと思います。
だから、バブルがはじけたら、すぐにしぼんでしまうなんていうふうに思いたい人もいるわけでしょうけど、そんなことはありません。すくなくとも、2,30年はこの構図は動かないっていうふうにお考えになったほうがよろしいというふうに思います。
それほど、教育ストックっていうことは、非常に重要なことだってことになると思います。これが、現在、教育っていう、生涯学習ってことでもいいんですけど、そういうことにまつわる、日本が当面している問題だっていうふうに、ぼくは思います。そこのところをどう判断するかっていう叡智を獲得できたらなっていうふうに思うわけです。

6 生涯の概念

そこからもうひとつ、ぼくがふだん考えていることで、ぼくなりに考え方っていうのを言ってみたいことがあるわけです。それは、生涯学習の生涯っていう概念です。ぼくは、ここ数年来、生涯っていう概念は、2つの点で、修正を要するんじゃないかなっていうふうに考えてきました。
ひとつは、生涯っていうのは、生まれてからあと死ぬまでっていう概念で使われていますけれど、ぼくは胎児の時代、つまり、母親のお腹の中にいる時代の後半からっていうふうに、数え直したほうがいいんじゃないかなっていうふうに思っています。そういうことになってきたんじゃないかなっていうふうに、ぼくは思っています。
ですから、まず、乳胎児期っていうのは、胎児期の、お腹の中にいる時の後半から乳児、典型的にいえば、母親または母親代理のおっぱいを飲んで育っていると、もちろん、その間、世話をしなければ、自分だけで、単独で生きていけないって時代ですけど、この胎児の後半から1歳未満までを乳胎児期っていうふうに考えたほうがよろしいんじゃないかっていうふうに思います。
常識的にいえばきっと、乳幼児期って言い方をして、生まれてから3歳、4歳まで、あるいは、人によっては5歳までって人もいるかもしれませんけど、乳幼児期みたいに言うんですけど、ぼくはやっぱり、乳胎児期っていうのを、ひとつ、目印として考えて、その次に、幼児期っていうのがきます。幼児期っていうのは、だいたい学校へ行く手前までくらいに考えるのが、ふつうじゃないかと思います。そのあとに、人によって違いますけど、学童期っていうのがやってきます。で、学童期っていうのは、だいたい12,3歳までっていいましょうか、前思春期っていってもいいんですけど、そこらへんまでの間を、学童期とか、学校期とかっていうふうに、つまり、制度としての学校へ行って義務教育を受ける時期っていうふうにとれば、学童期っていうのは、そのあとです。それで、そのあと、思春期っていうもの、あるいは、青春期っていうのがやってくるっていうことになるわけです。
学校制度としての学習期っていうのは、だんだんと延びる傾向にあります。いま申し上げましたとおり、だいたい大学・短大の進学率みたいなのが、もう40%になろうとしているわけで、そうすると、その次は、大学院を出るっていうのが、ごくふつうになってきたっていうことが学校制度の中でも出てくるんじゃないかって思います。
それは、制度としての学校に行く時期っていうのが、だんだん延びる傾向にあります。これは、ある意味で致し方ないなってなりますけど、ある意味では、おかしいなっていうか、生涯の半分以上、学校に通っているわけです。学校っていうのを離れて、現実の社会にあれするのに、活動するみたいなのは、それから後ってことになってしまうわけです。この傾向は、だんだん延びていく一方だっていうふうに思います。これはあほらしくて、なんでそうなんだって思うわけです。
本来、教育専門家とか、あるいは、母親・父親っていうのは、どう思うかっていうのは、それぞれなんですけど、思春期に入ったときには、ほんとはもう終わりっていいますか、終わりなわけです。もう、どうしようもないわけです。つまり、思春期に入ってから、それから人間の、精神の問題とか、心の問題とか、そういうものが、思春期に入ってから以降、変わるっていうことはありえないわけですから、思春期に入ったときには、もう終わりってことになるわけです。もしかすると、親のほうはそう考えず、思春期に入ってからが問題なんだって考えておられるかもしれないけど、精神の問題からいえば、そのときは終わってるんだっていうことになります。できちゃってるんで、どうしようもなく、動かせないよってことになっていると、心の問題とか、精神の問題としては、できちゃってるよってことになってると思います。あと、知識は、学校制度の中で、学校に行けば、知識は増えていくでしょうし、学習も自分でやれば、それも増えていくでしょうけど、心の問題とか、精神の問題っていうのは、だいたい12,3のときまでで、だいたい終わったっていうふうに考えられたほうが、よろしいわけだっていうふうに、ぼくは思います。

7 教育の目的は価値の転倒

それじゃ、それ以前までの問題で、どこがいちばんみなさんが、日本の社会で当面している問題で、どこがいちばん隘路かっていったら、ちょうど10歳から13歳とか、そこらへんのところがいちばん隘路であるわけです。
それから、学校制度でいえば、中学の同級生になるんでしょうかね、中学の同級生のところがいちばんの隘路なわけです。そのときに、高校なら高校、上の学校に行くために、塾行って勉強するとか、偏差値よくするために勉強するとかっていうことで、いちばん隘路となって勉強して、ご本人たちにとってはいちばんきつい時期っていうのが、その時期ってことになります。
その時期を、へまな過ごし方をすると、ちょっとへまな高校に行くってことになって、へまな大学に行くってことになる。そうすると、へまな大学行ったら、へまな会社に行くということになるというふうに一般に思われているわけです。一般論でいえば、そのとおりってことになるわけですけど、常識でいえばそうなるものですから、いちばんの隘路は中学頃やってくる。いちばんきついときに、いちばん隘路がやってくる、狭き門がやってくることになるので、そこのところで、登校拒否の問題とか、さまざまな問題が、そこで生じてくるんだっていうふうに思います。
本格的にいいますと、この問題っていうのは、もうすこし、つまってくると、ちょっとことだぜってなりそうな気がしてしょうがないんですけど、それだけで見てみると、中学生で塾に行ってる人は、だいたい5割以上の人が塾に行っているってことに、だいたいなっていると思います。
5割以上の人が塾に行っていなきゃいけないってことは、ようするに、中学校っていうのはだめだってこと、中学校っていうのは意味がない、機能を果たしていないってことになると僕は思います。つまり、半分以上のやつは、いずれにせよ、補習しなきゃならないっていうのは、行き詰まりっていうのは、その中学校の教育自体が、全然だめだから、こんなものはやめちゃったほうがいいってことに、ぼくはなると思います。それくらい、そこが隘路であるわけです。だから、そこのところできつい問題がいちばん生じているように思います。
ですから、この問題は、生涯教育ってこととは関係ないのですけど、教育ってこととは関係あるわけです。教育のいちばん根底的な目標っていうのは何なのかっていうことを、ほんとうはそこのところで問われないといけないような気がいたします。なかなか上のほうで、人それぞれでしょうけど、ぼく、自分の考え方の本音を言ってしまえば、教育の目的っていうのは何かっていうと、高度な教育を受けること、あるいは、受けた、獲得した人間っていうのは、高度な教育を獲得していない人間よりも下位にある、つまり、下にあるってことです。それから、体のことでいえば、体育が得意で、運動の選手で、いろいろいるわけですけど、そういうふうに、体が一生懸命きく人っていいましょうか、人一倍きくようにしてきた人っていうのは、それご自慢じゃなくて、体のきかない人よりも下位にあるんだ、下のほうにあるんだっていう、そういう観念を獲得するっていうようになるっていうことが、教育の最終目的だっていうふうに、ぼくには思います。
むずかしいことなんですけど、教育の最終目的は何かっていったら、一種の転倒だと思います。ひっくり返しだと、ぼくは思います。ひっくり返せるようになったらいいんだってことになると思います。
ですから、いまの教育制度は、中学の制度としての教育で、中学の制度のところに隘路があるっていう、これを根本的に解決する方法っていうのは、理屈からいえば、非常に簡単なわけです。それは、何かっていったら、ようするに、大学の先生を変えればいいわけです。つまり、大学の先生の何を変えればいいか、心を変えればいいんだ。たとえば、制度としていうならば、東京大学の先生は、文京女子大でもいいんですけど、文京女子大の先生を、最低4回はやらなきゃいけないっていうふうなことを決めればいいです。それから、文京女子大の先生は、最低4回は、東京大学に行って、先生をやって、そこの大学の学生の卒論を引き受けて、卒業させてやるっていうことを、少なくとも、最小限4か年やる義務があるっていうふうに、大学の教師でも、そのあれを変えてしまえばいいわけです。
そしたらば、受験戦争っていうのは、ぜんぶ終わっちゃうわけです。それで、学生は、どこ卒業したっていいし、自分がこの人だって思う先生のところで4年間やってみなっていうことで、どうでもいいんだよっていうふうにしてしまえば、それでもって、あらゆる受験戦争はぜんぶ終わりです。それで終わっちゃうわけです。
なんでできないかっていうのは、非常に簡単なことで、はっきりしているわけで、それは、大学の先生、とくに東大とか、早稲田とか、京都でいえば、京大とか、そういうところの先生っていうのは、やっぱり自分がいちばん偉いと思ってるわけです。つまり、頭に関しては、いちばん偉いと思ってるから、おまえ、文京女子大行って、4年間やってこいっていうと、そしたらやだって言ったりする、それから、今度は逆に、文京女子大の先生がいたらごめんなさい(会場笑)、おまえ、東大でかならず4年間最低限やらなきゃだめだっていう義務付けをした場合に、おれで大丈夫かなって、自分が学識に自信がないのか、つまり、それを変えればいいわけです。その精神のありかたっていうのを検討すればいいわけです。そんなことは、理屈は簡単なことなんです。理屈は簡単だけど、実際は、ほんとは人間にとって、いちばんむずかしいことかもしれないんですけど。

8 「偉大」の向こうにある無名の領域-シモーヌ・ヴェイユの考え

ほんとに偉い人っていうのは、だいたい、口真似しているだけですけど、ほんとに偉い人は、だいたいそういうことを考えています。たとえば、ぼくの好きなフランスの女性の思想家で、シモーヌ・ヴェイユっていう人がいるんですけど、この人は、100年、1000年の単位で、人類が偉大な人たちで、偉大な影響力を与えてるって人たちが、世界中にはいるっていうふうに言っています。
しかし、そのまた向こう側に、ひとつの領域があって、そこに、真みたいな人はそこにいる。真みたいな人はそこにいるんだけど、その人は、人に知られているわけでもないし、なんでもなかったりしているものだから、偉いかどうかっていうのは、わからないんだけど、ほんとに偉いって人は、100年、1000年の歴史の中に残るっていうのは、そういう人じゃなくて、もっとその向こう側に、一個の無名の領域があって、そこのところに行けた人が、ほんとに偉いんだっていうふうに言っています。そこに行くのが、自分は目標なんだっていうふうな言い方をしています。
こんなことは、ぼくらみたいなものがいうと、きざなことを言うなってことになっちゃうわけですけど、だから、口真似しているだけですけど、ほんとに偉い人は、いつでもそういうことを考えているわけです。
こういうことに比べれば、おまえ、4年間、文京女子大に行って、講師とか、学生を引き受けて、卒業させてやれっていうふうに、そういうことくらいは、すぐにでもないですけど、できるはずなんです。だけど、何ができないかっていうと、ようするに、いけないと思ってるからできないんです。思わなければいいじゃないかと思うんですけど、嫌になっちゃう、だけど、それを転倒するっていうのは、ほんとにむずかしいことなんだけど、しかし、ほんとうは簡単なことなわけです。
ですから、みなさんが文部大臣かなにかやられたら、すぐに、東大の先生は、学校の先生っていうのは、何年間は違う学校に行って、学生を引き受けて、卒業させるっていう、そういう義務があるっていう、かならず義務があるっていう、最低4年はそうやるあれがあるっていう、そういう制度をつくってください。そしたら、受験戦争はぜんぶ終わりです。どこに行ってもいいわけですから、ぜんぶ終わりってことになります。そのくらいのことは、文部大臣になったらやってください。
そういうことは、教育の非常に根底的な問題なんで、それは、学校制度の問題でも、生涯教育の問題でも、同じだと思います。それだけの叡智を、誰もが獲得するようになったときに、目的が遂げられたことになります。
だけれども、申し上げておきますけど、いい加減なことで、そういうやつはたくさんいるわけですけど、そういう教育をやっている学校もあります。たとえば、ぼくの子どもなんか、滑り止め兼楽ちんってことで、うちの子はできない子ですから、明星学園ってところを受験したことがあります。あそこはいい学校なんです。つまり、それだけとってくれば、いい学校なんです。だけど、そこから、大学行きたいんだって言ったら最後っていうか、もう一度、予備校かどこか行って、やり直ししなきゃ、ちょっといまの制度の学校へ行けないわけです。
そういう場合に、それは、いまの学校制度が悪いんだって言うやつはたくさんいるわけです。しかし、それはだめです。つまり、全体を貫徹して、いまの教育制度っていうのはこうなっているってことを、それを貫徹して、やっぱりそうだったら、戦うところは戦おうじゃないかってことを抜きにして、それはだめだから、引退しよう、隠居とおんなじだ、つまり、そういうのはないところでやればいいじゃないのというふうな考え方の人ならば、たくさんいるわけです。しかし、ぼくは間違いだと思います。
それは、地球上をみんな緑にすればいいって云ってるやつとおんなじで、冗談じゃないぞっていう、いまの文明の中で、どうしたら息苦しくないかっていうのを考える気もしないで、いや、それは緑をいっぱいにすればいいんだ、そういうようなことに責任をとれないでしょ、そういうことは。つまり、逆戻りっていうのはしないですから、だから、責任とれないことを言うやつはたくさんいるわけで、それだけとってくれば、なかなかいい学校だっていうふうなのがあるわけです。
のんびりしてて、いい学校じゃないですか、子どもがのんびりしていて、楽しそうにやってるじゃないですか、上の学校に行きたいんだっていうふうになったら、いまの制度の中に突入する以外ないわけです。そうしたらば、途端に顔がいかつくなっちゃって、予備校かなんか通って、1年か、2年通って、やっと目的のところに行くっていう、こういうことになるわけです。ですから、そういう意味のことを、ぼくは言おうとしているのでは全然ないんです。そうじゃないです。
つまり、制度とか、現存する社会がこうなっている仕組み自体は、それは、無意識としては受け入れているところを前提としたうえで、しかし、教育のほんとうの目的は何なのかっていったら、やっぱりぼくは、価値の変更ってことにあるんだよっていうふうに思えてならないところがあります。そこのところが、問題になっていくように、ぼくは思います。

9 ヘーゲルとルソーの考え

少なくとも、ぼくの知っている偉い人で、そういうことについて、はっきりした言い方をやっている人っていうのは、さしあたり2人、すぐに思い浮かびます。ひとりはヘーゲルっていう人です。それから、ひとりはルソーっていう人です。その2人は、そのぐらいところは徹底的に云っています。
ヘーゲルは、『精神現象学』っていう主著ですけど、その中で、教育みたいなことを、研究して、とくに12,3歳までの思春期ですけど、つまり、学童期って云われている、そういう時期っていうのは、人間の本性からいいますと、いちばん、本能とか、生命力とか、そういうものが解放される多感な時期なわけです。その時期に、学校行って、ぎゅうぎゅうな目に、算数を教えたり、国語を教えたり、それから、道徳を教えたりっていうことは、いいことなのかどうかっていうことに対して、根本的な問いを発して、根本的に答えたっていう人は、ヘーゲルが、ぼくは、ただひとりだと思います。
あとの人はいいかげんです、みんな云ってることは。勉強しなくてもいいんだとか言ってる人も、自分の子だけは勉強したりする(会場笑)。やっぱり、いいかげんなんです。勉強しなかったために、ろくな学校行けなかったら、責任とるかっていったら、とれるようなやつはいやしない、とれるようにいってるやつは、ひとりもいやしない。調子の良いことばっかり言ってるわけです。
ヘーゲルは徹底的に言っています。ほんとうは、人間の生理的なっていいますか、肉体的な本性からいえば、いちばん、なんでもめちゃくちゃ、思ってる限りの、あらゆる善も悪も、あらゆるエネルギッシュな、生命力の発露っていうときですから、ぜんぶ放っとけば、なんでも解放しちゃうっていうような、それで、悪いことでも、いいことでも、ぜんぶ解放しちゃうっていう年齢が、学童期なわけなんですけど、そのときに、ぎゅうぎゅうに追いつめて、規則を守らせて、えらい勉強、算数とか、国語とか、えらい勉強させたり、道徳みたいな、こうしちゃいけない、これは悪いんだとか、これはやったらだめなんだっていうことを教え込むことが、絶対的にいいことなんだっていうふうにヘーゲルは云っています。
そんなこと云うと、なんて野郎だと文句言うかもしれませんけど、ヘーゲルの言い方は、ほんとうに徹底して云っています。確信をもっていて、徹底して、自分の哲学的な全体系の中から、それを言っています。そんなこと言って、だめになったらどうするんだっていったら、おれは知らないっていう、そういうことを言ってるのとはぜんぜん違うので、本格的に云っています。これは、たいへんな、検討に値する見識だって思います。古い考えですけど、古いが故に、根本的な考え方だと思います。
 で、これと、まったく正反対なことに近いことを言ってるのは、ルソーです。ルソーは、ようするに、自然がいちばんいいんだ、自然に放ったままにしておくのがいちばんいいんだっていうふうに、徹頭徹尾言っています。
これもまた、とにかく自分の、生涯、考えに考え抜いた、そういうあらゆることについての集大成として言ってるので、無責任ではないです。つまり、間違っちゃったら、しょうがねえよなって、間違ったものはしょうがねえよなって思うより仕方がないっていう、そのくらい本気で言って、そういうふうに言っています。正反対のことを言っています。
ルソーの言ってることを、すこし追っかけてみますと、ルソーは、生まれたばかりの子ども、つまり、新生児ってことから言っているわけです。ぼくらが、いま言うとすれば、やっぱり、胎児っていうところから言うと思います。つまり、胎児の後半からっていうふうに言うと思います。ルソーの時代には、胎児がどうだってことっていうのは、あんまり考えられていなかったですから、新生児のところから言っています。
生まれたとき、だいたい常識と、ことごとく反するわけですけど、つまり、新生児はとにかく、頭に何かかぶせたり、産着みたいのを着せたり、そういうことを一切しなくていいってことを言っています。一切、自由にしなさい。で、新生児が苦痛を訴える場合、泣くことしかできない。新生児が泣くっていうことは、ほんとうをいえば、大変なことなんだっていうことを言っています。
どんなつらい種類のことでも、ぜんぶ泣くっていうこと以外のことで、新生児は表現できないので、だから、これを推察するのは、大人以外にないんだっていうふうに、ルソーは言うわけです。だから、泣いたりさせない条件をできるだけつくって、だいたい産着を着せて、手足を拘束するようなことをさせたりしたらだめだ。それは、自然に反することだって言っています。
それから、人間の子どもっていうのは、生まれたときから、誰かの弟子なんだって言っています。誰かっていうのは何なのか、それは、自然だって言っています。人間の子どもっていうのは、生まれたときから教師は、自然なんです。自然を教師とする弟子なんだっていう言い方をしています。
そういうふうに言われると、やっぱり、ほんとかとか、いろいろ文句はつけられるんですけど、弟子とするとは思います。つまり、生まれたときには、すでに何かの弟子なんだ。その何かとはなんだ、それは自然だっていうふうに言っています。

10 「あわわ言葉」のコミュニケーションの重要さ

生まれてから1歳未満まで、言葉がしゃべれないわけです。言葉が通じるのは、母親と子どもの間には、言葉がなくても、言葉が通じています。つまり、「あわわ言葉」っていいましょうか、あわわと言ってるだけなんだけど、あるいは、子どもが泣いた時に、母親がある言い方をすると、子どもが笑うとかっていうことは、母親との間では、ちゃんと言葉が通じている。だけど、あいうえおの言葉じゃないわけです。そのぐらい、言葉の前の言葉の段階っていうのは、とても大切ですよってことをルソーは言っています。
この考え方は、ルソーのあとでも、この考え方を展開した人はたくさんいると思います。フロイトなんかもそうだと思いますし、たくさんいるわけです。つまり、言葉を持たないときの言葉で、母親とだけ、極端にいえば、コミュニケーションをとれる言葉の時代っていうのは、ものすごく大切なんだよってことを言っています。
それは、ぼくらの考え方みたいのからいっても、「あわわ言葉」のときっていうのは、とても重要なときなので、なんで重要かっていいますと、そのときは、母親または母親代理でもいいんですけど、母親代理との間にしかコミュニケーションが成立しない、コミュニケーションっていうのは、あわわ言葉を発声しているだけじゃなくて、あらゆる意味で、母親との間には、コミュニケーションが通じることになっているわけです。
そのときには、育て方いかんによっては、母親が全世界なんです。新生児にとっては、母親が全世界なんです。母親が全世界だから、母親がそばにいて、おっぱいをもらったり、あわわ言葉で話をするってことは、ものすごくいいことなわけですけど、同時に弱点をいえば、もし、たとえば、母親が不安で不安でしょうがない何かがあって、生活上の何かがあって、おっぱいをやったり、あわわと子どもとコミュニケーションをしていたりすると、子どもには、たちまちそれは移ってしまいます。刷り込まれてしまいます。また、母親が、この子は、嫌で嫌でしょうがない、つまり、旦那が嫌だから、この子も嫌だって思って、それでも、どうせ何を思ってるかわからないだろうっておっぱいやったりしたら、子どもには完璧にわかっちゃってるわけです。つまり、完璧に通じちゃってるわけです。こんなのは、猫さんや、犬さんでも、移っちゃってますから、ましてや、人間のうんとわかると思ったほうがいいです。つまり、通じちゃいます。自分が嫌だ嫌だと思いながら、授乳したりしていると、あるいは、経済的に心配でしょうがなくて、旦那と仲が悪くて、いつ別れるかなぁと思ってると、たちまち、赤ん坊には通じます。乳児には通じています。
だから、そういう母親が全世界っていう、言葉なき、言葉以前の言葉で、「あわわ言葉」でやっていくっていうのは、よくすれば、非常に、何よりもいいことなんです。それをやってる子どもっていうのは、大きくなって、おかしなやつになる心配がないわけです。つまり、精神がおかしくなるとか、そういうことはありえないと言っていいくらい、絶対的にいいんですけど、だけど、もし母親がそのとき、なんらかの意味で、つまり、やむを得ない事情でも、やむを得る事情でもいいんですけど、なんか心配事があったり、嫌々ながら授乳したり、そういうふうにやったら、その子どもは、わりあい早くに、精神的におかしくなったり、変になったり、ものすごくなりやすいんですっていうふうに言っていいと思います。それくらい、「あわわ言葉」時代の母親っていうのは、子どもにとっては、全世界なわけです。
ですから、極端にいうんですけど、いい人だったら極端にいいんですけど、悪い人だったら極端に悪いと、ルソーの時代っていうのはそうなんでしょうけど、ルソーが『エミール』の中で言っているのは、これも、フランスの育児習慣っていうのは、だいたい生まれたらすぐに、新生児は乳母に預けてしまうっていう習慣があったように書かれています。ですから、乳母に預けて、母親のほうは、自分で自由に遊びにいちゃったりするってことが、ルソーの教育論の前提になっていますけど、そういう習慣であったわけです。新生児は、乳母に預けて、それで、乳母のお乳を飲んで、それで育てる。母親のほうは、さっさと自分のやりたいことをやるっていうようなかたちになるっていうようなやりかたをしていたことがわかります。
そうすると、ルソーは、それが嫌で嫌でしょうがないわけです。だから、絶対そんなことをしたらだめだぜってことを言ってるわけで、つまり、「あわわ言葉」しかしゃべれない1歳未満の時期こそが、非常に重大であって、これはもう、母親が、自分でもって自らこうやらないと、絶対だめだっていうふうに、それを乳母に預けて、自分は違うことをしちゃうっていうやりかたっていうのは、絶対だめだってことを、ルソーは強調してやまない。
それは、いまでも、もちろん通用する考え方だと思います。つまり、ルソーの考え方の中で、いちばんいいところだと思います。それは、いまでも通用すると思います。つまり、それをやられたって人っていうのは、ものすごくむずかしいです。

11 太宰治・三島由紀夫の場合

たとえば、みなさんご存じであると思う人でいえば、太宰治とか、三島由紀夫っていう人はそうです。大なり小なり、そういうやりかたをされた人です。ご覧のとおりって言ったらおかしいですけど、おふたりとも、一生懸命、そういうことは、作品の中にはそれほど、すこしは見えるんですけど、それほど見えないで、あれしてありますけど、しかし、心の中だけでいえば、個人の人に云えない心の中だけでいえば、三島さんも、太宰治も、とにかく、そうやられているものだから、生きられないのですよ、つまり、生きる魅力っていうのがないって言ったらいいんでしょうか、みなさんがそう思わないで、いや、立派な作品を書いて、世間からもてはやされていて、いいじゃないのと、こう思うかもしれませんけど、それは、非常に薄い考え方なんです。
そんなことはないのです。そうじゃなくて、まあ、人間の幸福とか、不幸とかは、どこに求めるかっていうのは、人それぞれでしょうけど、あの人たちが、ひとに云えないところでやってるつらさっていうか、苦しさ、つまり、自分が、何を目標に、何を手がかかりに生きていったらいいのかっていうのが、何もわからないわけです。つまり、それを教えてくれなかったんです。母親が教えてくれないで、乳母に預けたり、すぐにおばあさんがひったくっていっちゃったりっていうかたちで、ちっとも母親との接触をしてないんです。
そうすると、どうやって生きていくかってことと、生半可な、中途半端なところではわかることですし、頭のいい人たちだから、わかってるわけなんだけど、もっと根底的に、無意識まで食い込んだところでは、全然わからないわけです。ですから、生きるのがとてもむずかしいわけです。
もしかすると、結果論からおまえ言ってるだけじゃないかとおっしゃるかもしれませんけど、ぼくはそう思わないで、ふたりとも、どっかでは生きられなくなっちゃう、生きられないところまで、自分を追い込む以外にないってところまでいくわけです。
だけど、それまでのことで言うならば、どうやって生きるかわからないっていうのを補うために、一生懸命、表現したり、表現することでそれを克服しようとしたり、そういう自分の宿命的なっていいますか、意識しないところで宿命になっている自分を超えようとして、いろんなことをしているわけです。いろんな作品を書いたりして、一生懸命書いたりして、健康を保ちながら、生きよう生きようとするわけですけど、しかし、とうとうだめじゃないですかっていう、だめだったっていう結果なってしまうわけです。
で、こんなことを言うと、あの人たちは特別なんだと思うかもしれないけど、それはみなさんが口で言わないですけど、そのとおりですよ、つまり、もし、そういう方がおられたら、生きるのがつらいでしょ、人には言えないでしょ、そんなこと、しかし、つらいでしょ、しかし、それを超えていくってことは生きることだっていうふうに、誰でも考えて、それで生きるわけです。
しかし、それでも、あんまりきついと、やっぱり生きられないってことになってきます。それで、それはあんまりきついための、もちろん表現ってことでもってある自分の表現を獲得していることは、世間もそれを認めたってこともあって、多少の解放感はもしかするとあったかもしれないけど、その解放感っていうのは、たかが知れている解放感なんです。つまり、人から見て、他人から見て、あいつ、うまくやってるじゃないかっていう意味の解放感であって、ほんとうのその人の心の中に入っていったら、そんな解放感なんか、役立たずなんだよっていうくらい切実なものがあるわけです。そういうことっていうのはあるわけで、ルソーは、それをしきりに言うわけです。

12 ヨーロッパの子育て・日本の子育て

極端にいいますと、いまは違うと思いますけど、一時代前の、日本の母親の姿っていうのは、典型的にいま言った、新生児が生まれるとすぐ、自分が寝ているそばにおいといて、ギャーギャー泣くと、おっぱいやってっていうふうにしながら、自分が起き上がるまでは、少なくとも、そばにいて、おっぱいやったり、おしめ替えたりやりながら、育てていくってなるわけです。
もしこれが、母親がいい母親だったら、問題ない母親だったら、子どもの育て方っていうのは、新生児に対する教育としたら、最良のひとつだって、人類における育て方の、極端な一方の育て方だっていうふうに、典型だって言うことができる。ものすごくいいことです。
ただし、もし、母親がいろんな心配事があったり、経済的な憂いがあったり、あるいは、夫婦仲が悪かったりして、すごく不安であったら、ちょっとそれはいちばん悪い育て方になってしまうこともありうるわけです。それはぜんぶ、ひとつの典型なわけです。
それから、もうひとつの典型は、いまはもう、ヨーロッパでもそういうことはしないでしょうけど、ヨーロッパの人たちの典型っていうのを、もし極端に、キリスト教的な典型っていうのをいえば、生まれてから一週間後に、割礼っていうのをしちゃうわけです。つまり、一種の去勢と同じことなんです。割礼っていうのを、男の子でも、女の子でもやっちゃうわけです。
そうすると、これはもう、だいたい生まれたことが苦痛でしょうがない、つまり、いままでは、母親の胎内にあって、のんびりして、えら呼吸みたいのをしてたのが、急に空気呼吸に変わるわけです。肺呼吸に変わる。そうしたら、だいたいお医者さんが、逆さまにして、ぺんぺん叩くと、ギャーって産声をあげるわけです。産声をあげるっていうのは、つまり、えら呼吸から、肺呼吸に変わったっていう、それは、はじめてのことだから、苦痛感をもってギャーギャー泣くわけです。それを産声と言うわけです。つまり、それくらい苦痛なわけです。
それで、もう一週間後には割礼しちゃうわけです。また、もう一丁、苦痛を加えるわけです。これは、キリスト教的な習慣はそうです。そうすると、この育て方っていうのは、母親が悪いと仮定すれば、まあこれでいいんじゃないかってことになるかもしれません。母親がいいと仮定すれば、ルソーの云うとおり、いちばん悪い育て方なわけです。
こういう育て方をするとどういうことになるかっていいますと、肌触りが冷たくなりますし、同性愛みたいなのが増えてきます。同性愛みたいなところに収れんしていきます。けっしてよくはないです。
だけど、いい場合もあります。母親が悪いと仮定したときに悪いし、いいと仮定したときに、いいかもしれないのですけど、だいたい、そうでなければ、いいと仮定したら、こんな育て方をしたら、冷たい人間ばっかり、冷たい肌触りの人間ばっかりできて、人間は孤独なペンペン草に、そういうふうになってくるに決まってるわけです。これは、ルソーが言うのとは、まったく反対のように、西欧の歴史っていうのは、現在みたいにきている。それは、ある意味では、俗にいう「甘えの構造」になっているのがいいことになっている。それは、いいと仮定すればいいことなんですけど、悪いと仮定すれば、これほど悪いことはないってなります。つまり、甘えっていうことを知らない、そういう人間、いいことなんかなんにもないです。だから、それはひとつの極端な典型なわけです。つまり、それぐらい、新生児の問題っていうのは、重要な問題だと考えて、ルソーはしきりにそれは申し上げるわけです。生まれてからすぐに、乳母に預けてしまうことを非常によくないことだっていうふうに言っています。

13 宿命を超えることは生きること

ぼくが好きな作家のひとりで、太宰治って作家は晩年になって、『津軽』っていう作品を書くわけです。『津軽』っていう作品は、全国の風土記っていうのをつくるから、おまえは津軽が故郷だから、津軽の風土記を書いてくれって言われて、太宰治は行くわけです。もちろん、注文どおり書く気はないわけで、風土記については、適当に書いて調べて、適当に書いているわけですけど、もうひとつ、ほんとうの目的があって、それは、自分を授乳して育ててくれた乳母に会うために行くわけです。母親に会うためじゃないです。自分は、乳母が母親と思っているわけです。それで、乳母に会うために行くわけです。
そうすると、乳母は、自分の子どもの運動会だってことで、町内会で運動会へ行って、そこでお弁当食ったりして、そういうふうにして子どもの運動会を見ているわけです。太宰は訪れていって、探し回るんですけど見つからないわけです。なかなか見つからない。それで、帰ろうとするんだけど、もう一度、家へ行くと、たまたま子どもが帰ってきて、それで、おれを連れていけって言って、連れていってもらって、それで会うわけなんです。そうすると、びっくりしたような顔をするんだけど、来たかって言って、ここへ座れって言って、むしろへ座らせてくれるわけです。
で、話はそんなにはずまないで、黙っているんだけど、言うとおり座っているわけですけど、そのときの安心感っていったら、かつて感じたことがない安心感を感じたっていうふうに書いています。つまり、安堵感を感じて、ただ、何にもしゃべらないで、隣にいるだけなんだけど、それを感じた。
それで、ちょっと歩くかとか言って、年とった乳母さんが、太宰を連れてふたりで、ふらふらと歩きながら、ほんとはびっくりしたんだ。おまえがここに来るとは思わなかったって、自分は、結婚するために嫁に行くために、おまえの家から去ったわけだけど、そのあとも、おまえに会いたくて、おまえのうちの周りをうろうろしたり、おまえの町へ来てみたりしても、会えなくて帰ったのが何篇もあった。ほんとうは、ものすごい会いたかった。だから、うんとびっくりしたって、はじめてそう言うわけです。
太宰はそのときに、おれは、このために来たんだなっていうふうに納得するわけです。で、おれの母親はこの人だって思って、満足して帰るってあれがあるわけですけど、それは『津軽』っていう、津軽地方の風土記っていう注文を雑誌社から受けて書いた作品の、ほんとうのメインのテーマっていうのはそこなわけです。つまり、太宰治っていうのは、終始一貫、それだって言っていいくらいで、終始一貫そうなんです。
つまり、女の人、異性っていいましょうか、恋愛する異性とか、結婚する異性っていう場合でも、母親の代わりの面影みたいなのがいつでもあって、とにかく、これはマザコンなわけです。
つまり、三島さんも、太宰も、マザコンですけど、あらわれ方が正反対です。太宰治のマザコンは、作品を読んですぐに出てきますからわかりますけど、三島さんのは逆に出てくるから、なかなかわかりにくいっていうふうになりますけど、マザコンには違いないっていうふうに思います。それくらい、とくに無意識に入ったそれっていうのは、ものすごい重要で、無意識のいちばん核にくるのは、言葉を使う前の、つまり、あわわ言葉でしか母親と通信できないっていう、その時代の体験っていうか、その時代に刷り込まれた問題が、ようするに、その人の無意識のいちばん根底のところを占めることになります。
だから、ある意味で、これがいちばん重要であるし、これで、その人は決まっちゃうよっていうくらい宿命的なものです。でも、言わなきゃいけないことは、人間っていうのは、いつでも、自分の宿命っていうものを超えるってことが生きるってことなわけです。ですから、自分の資質、人に言えないつらさっていうのが、それを超える為に、超えるってことは、生きるってことを意味しますから、宿命だから、それを満足してっていいますか、ただそれを受け入れるっていうふうに生きるのではなくて、それをどうやって超えようか、超えようかって、あるいは、切ろうかってことが、生涯の、その人の精神の成長過程ってことになっていくってことになると思います。
ルソーもそのことを強調してやまないわけです。ほんとに極端にいえば、ルソーも極端に言う人ですけど、極端にいえば、12,3歳までっていうのは、人間は、生まれてから乳児段階までが、いちばん危ないときなんだ。その危ないときっていうのは、どうやったら、いちばんいいかっていいますと、ようするに、健康で、頑丈で、右の手があればやることは左の手は知らないっていう、そういう育ち方がいちばんいいんだっていうふうに言っています。
つまり、体の器官とか、健康とか、感覚の力とか、そういうことは、いっぱい訓練した方がいいと、しかし、魂だけはできるだけ、何にも触れないほうがいいですよっていう、染まらないほうがいいっていう育て方が理想なんだっていうふうに言っています。そんなことはできるわけはないんですけど、しかし、言っている意味は、とてもよくわかるような気がします。
つまり、人間の心っていうのは、つまらない人で、つまらないほうがいいですよってことを言いたいんだと思う。だから、それに反して、肉体とか、感覚とかっていうのは、いっぱい訓練して、いっぱい磨いて、体を丈夫にしたほうがいいですよって、それから、魂のことは、あんまり触れないでいけたら、いちばんいい育ち方だっていうふうに、ルソーは言っています。
もちろん、ルソーの言い方は極端ですから、そんなことは、できるわけがないんですけど、ルソーの考え方と、その徹底した度合いっていうものは、とてもよくわかります。何かを言う時には、徹底したことを言ったほうがいいです。そのとおり、人が実行してくれなくてもかまわないです。ただ、自分の考え方を引き伸ばしていったら、こういうことになりますよってところまでは、言ったほうが、言わないよりは、あいまいにするよりはいいってことになると思います。

14 何のために生きるのかが問い直される時代

それじゃあ、教育の目的っていうのは何なのかって、ぼくは転倒だ、価値の転倒なんだっていうふうな言い方をしましたけど、ルソーの云った根本の思想は、自然っていうことですから、ルソーの云い方で、教育の目的っていうのは何なのかというと、自然秩序の前では、人間はみんな平等なんだっていうこと、それから、人間にとって共通の天職っていいましょうか、共通の職業って言ったらいいんでしょうか、共通の職業はなんだっていったら、それは、人間であることだっていう言い方をしています。人間であることが、人間の天職なんだと。それ以外のことはないってこと、それ以外の天職はないってこと、そう言っています。
それから、人間は、自然の前では平等なんだ。自然であることは、ルソーの本旨ですから、つまり、ルソーの考え方では、人間はみんな平等なんだっていうことを知ること、そして、人間の天職は人間なんだって、人間であることなんだっていうことが、ルソーの教育の目的っていうことになるってことになります。
だけど、ルソーは、乳母っていうことを盛んに、そういう習慣っていうのを、盛んにこだわっていますけど、人間のほんとうの乳母っていうのは母親だと、ほんとうの教師っていうのは父親だという云い方をしています。それは、ルソーの時代の、フランスならフランスの教育の習慣、あるいは、育児の習慣ってことを前提とした上での言葉になりますけど、しかし、ある意味で、人間のほんとうの乳母が母親で、ほんとうの教師が父親であるというふうな言い方をされますと、やっぱりこの人は、なんか、とことんまで考えているよっていうことになってしまうっていうふうに思います。
つまり、もうひとつ、ルソー時代、18世紀でしょうか、ルソー時代の特色っていうのは、そういうことを『エミール』の中に言っていますけど、新生児から8歳までの間に、人間っていうのは、半分は死んじゃうっていうふうに、半分の子どもは死んじゃうって言っています。で、半分の子どもは生きる。で、どうやって、どういうふうによく生きさせるかっていうと、やっぱり、自然の秩序に従って、それで、自然に育てるっていう育て方がいちばんいいって言っています。
現在では、たぶん、新生児の大部分は生きてしまうわけです。大部分が生きます。それがようするに、平均寿命の延びっていうふうになっていると思います。日本なんかでも、平均寿命が世界でいちばん延びていますけど、新生児のほとんどが生きちゃうっていう、生きていけるっていうふうに、予防、衛生、医学っていうものが、発達しているからだっていうふうにいえば、言えるというふうに思います。
つまり、ルソー時代と、いまの時代と、たいへん違うわけで、だいたい大部分の新生児は生きてしまう。それで、もちろん平均寿命っていう概念は、新生児の余命っていいますか、新生児がこれからどのくらい生きるかなっていうものの平均を平均寿命っていうわけです。
その年の人数ぜんぶ足して、それを人数で割ってるっていうんじゃなくて、0歳児がどれだけ余命があるか、つまり、これから生きるかっていう平均が、平均寿命ってことになるわけです。もちろん0歳児と、10歳児と、20歳と40歳とは違う、あと余命がいくらあるかってことに対して、違う条件を持ちます。とくに、疫病とか、がんで死ぬ人が多かったとか、疫病が多かったとか、天災があって急に死んだってなると、それは、その年齢の人の余命が低くなる要因ですから、平均寿命が落ちてきます。平均寿命っていうことは、0歳児がどれだけ生きるかっていうような、現在の条件と昔の条件でどれだけ違うかっていうののあれが平均寿命っていう概念になるわけです。
ルソーの中で、ぼくらが見て、よせやい、とんでもねえなぁっていうふうに思うルソーの考え方っていうのがあります。それは、ルソーは医学っていうのは嫌いで、病気より医学っていうふうに言っています。医者は病気を治すかもしれないけど、病気よりもっと、有害なことをもたらす。それは何かっていいますと、臆病とか、卑怯とか、迷信とか、死に対する恐怖心だっていうふうに言っています。すごく医者が嫌いなわけです。医者が嫌いだっていうのが、ルソーの考えです。
こういう考え方は、ぼくが知ってる思想家っていうのをすぐ思い出すけれど、イヴァン・イリイチという思想家、この人は、ものすごく医者が嫌いで、医学が嫌いでっていう人で、だから、日本でも、反文明の教祖、つまり、エコロジストなんかの教祖です。この人は、医学が嫌いで、ぼくはそういうふうに、つまり、平安京時代に平均年齢が33,4歳から7,8歳っていいますか、そのくらいが平均寿命だっていうふうに考えると、そうすると、いまは、先ほど言いましたように、女性だと80歳まできているわけです。そしたら、明らかにこれは、医学の進歩、予防医学の進歩、衛生学の進歩だって考える以外にないじゃないですかって、ぼくが言ったら、怒りますし、この中に人口学者いますか、人口学者がいたらわかるはずだけど、そんなことはないって、それはようするに平均寿命は、0歳児がいまの条件でどれだけ生きるかが平均寿命なんだ。そしたら、30歳、40歳、50歳って人たちがどれだけ生きるかっていうのを見てみたら、少ないはず、低いはずだっていうわけです。もっと言いたいことは、特別少ないはず、低いはずだってことを言いたいんだと思います。言いたかったんだと思います。
で、ぼくは、そんな馬鹿なことはない、ようするに、どんなふうに、寿命の数え方を、どんなふうに考えたとしても、ようするに、平安時代に、千年前に38歳だったものが、いま80歳になったっていうことは、医学、衛生、予防っていう、そういうもののやりかたの発達っていうこと、つまり、全般的にいえば、文明の発達っていうことを前提にしなければ、絶対に、いくらなんだってそんな馬鹿なことはないっていうふうに、ぼくは言うわけですけど、むこうはしょうがないです。そんな馬鹿なことはないって、ふたりとも終いには、そっぽ向いて、嫌になってそっぽ向いてっていうふうになったことがあります。
つまり、平均寿命っていう概念を、ほんとうに調べないで、あらを言おうとすれば、そういうふうに言う概念なわけです。30歳、40歳、働き盛りの人が、この寿命が減っていたって、平均寿命は多いことはありうるわけですから、だから、あらは逆に探せますけど、しかし、そういうふうに、あらを探せばそうだけど、全般的にいって、38歳が80歳になったっていったら、予防医学、衛生医学、医療ってものが発達してきたっていうふうに、文明のおかげでしょって言う以外にないわけでしょって、ぼくは言うんですけど、絶対ないんだって主張です。そういう人はいるわけです。
しかし、これは元をただせば、さかのぼれば、ルソーにいきつくわけです。ルソーは、いろんな意味で、あらゆるあれに影響を与えています。社会思想にも与えていますし、心理学的な医学にも与えていますし、もちろん、教育に対しても、あらゆる影響を与えています。たいへんな人です。社会学とか、政治学とかっていう面でいえば、マルクスなんかずいぶん、ルソーの影響を受けています。いろんな面で影響を与えています。ルソーの直系の嫡子とでも言うより仕方がない人も、いっぱいいるわけです。それこそ、偉い人もいます。それくらい、さまざまむずかしいことになっているっていうのが、いまの状態だと思います。
そのなかで、いずれにせよ、余命がたくさんある時代に入って、もうひとしきり生きなきゃっていう、いまより30年前の人よりは、もうひとしきり生きなきゃっていうふうになっている時代ですから、そして、食うために生きるのではなくて、それから、自分のために生きるのではなくて、子どものために生きているみたいな形勢になりそうになっている時代ですから、そういうところでもう一度、自分は何のために生きてるんだっていうことを、もう一度、問い直すことがとても重要な気がします。
それはたぶん、既成の概念とか、一時代前の、ぼくらの父親、あるいは、父親の父親みたいなのが、親はみんな子どものために生きているんだっていうふうに思っていた、その時代の子どものためっていう意味と、ひとまわり、一循環違った次元で、子どものために生きることになっちゃっているわけです。みなさんがどんなにエゴイストだっていうふうに主張したとしても、この社会に生きていたらきっと、40%は子どものために使うっていうことになるに決まっているわけですから、そしたらやっぱり、もう一循環、違う次元で、一世代、二世代前の人とは違う次元で、何のために生きているのかって、何のために自分は生きているのかっていうのをやっぱり問うことであり、問うことに、答えを探し得るっていいますか、探して見つける、それぞれに見つけるっていうことがやっぱり、今日のテーマでくっつければ、やっぱり、生涯学習で獲得すべき叡智ってことの目的じゃないかっていうふうに、ぼくには思われます。
これは、生涯学習ってことの、専門家の言われることと合致するかわからないのですけど、ぼくなりに、しょっちゅう悪口ばっかりしか言わないやつですから、それが、せっかく呼ばれたんですから、ぼくなりに言ってみたいと思いまして、言わせていただきました。これで、終わらせていただきます。(会場拍手)

 

 

テキスト化協力:ぱんつさま