みなさま、こんばんは、長谷百合子でございます。今日は、吉本隆明さんをお招きして、「社会党あるいは社会党的なるものについて」というご講演をいただきます。
わたくしは、今日、司会を務めさせていただきますけど、肩書きは、無職と、こないだの7月の総選挙で、多くの社会党議員が落選いたしましたけど、そのひとりでございます。
いま、社会党的なるものというような意味で感じますと、7月の選挙で、社会党がかつてない、結党以来ないという、大敗北をきしているのは、みなさんご存じのとおりなんですけれども、139人おりました議員が、70人になったのでございますから、ふたりにひとりは落ちてしまった。
こういう状況、これは、いままでの社会党、戦後は長い歴史がありますから、上がったり下がったり、いろいろこういう波があるだろう、今度も波の下かな、またいずれ、このままがんばっていけば、上がっていくのかしら、こういう観測もあるかと思うんですが、今度の社会党の敗北というのは、じつはこの衆議院議員選挙が、国民のみなさんが選択をした中身というのは、やっぱりいままでの55年体制といいますか、自社体制と、この枠に代わる、そして、自民党がずーっと一党支配をしてきたわけですけど、そういうものに変わる新しい枠組みをつくりたい、こういう選択だったんではないかと思うんです。
そういうことを考えますと、いままでの社会党のきちっとした総括、こういうものをきちっと出して、本格的な、根本的な社会党のリストラというものをはからなければならないだろうと、こう思っているわけでございます。
いよいよ、参議院のほうでは、小選挙区制になるのか、ならないのか、最大の山場というところでございますけども、いずれにしましても、これから先、もう政治は、本格的な再編に入っちゃった。第二次新党ブームというのが、かならず起こるというようなところにきておるんです。
こういったなかで、非常に激動するいまの時代、このような時代において、吉本隆明さんに、吉本隆明さんは、みなさんもご存じのとおり、戦後一貫して、思想界をリードされてきた方でございます。しかも、いわゆる彼の、もっとも中心的な抵抗とか、自立というような、こういった概念をめぐって、多くの若者が、当時はわたくしも、たいへん、吉本隆明さんの大きな影響を受けたひとりでございますけども、非常に大きな影響を与えてきた方だと思います。そればかりか、わたくし、江藤淳氏の対談の中でも明らかにされたように、それまでインテリというと、たいへんひ弱であるというようなイメージがあったかと思いますが、吉本隆明さんという方は、骨太で、しぶとく生き残っていくという、強靭な生活者でもあるインテリと、こういうものが、わたしたちの信頼というものを、より確かなものにしておるのだろう、こういうふうに思っております。
ぜひ、このむずかしい時代ですけども、大上段から大きな変動が出てきて、いわゆる乱世、わたくしたちが、過去の二十数年前も、大きな政治の動きがありましたけど、これからいよいよ、ほんとに乱世の時代に入っていくんだと、こういうことでございますから、やっぱり、既成の論理、既成の党、既成の集団、こういうものを引きずって、そのまんま続けていくということでは、新しい時代は切り開くことができないんじゃないか、こういう確信をいたしているところでございます。
そのためには、もちろん、社会党がいままでやってきたことを全否定するとか、間違っていたとか、そういうことを言って、否定してしまえば済むという問題でないのは、もちろんでございます。きちっと、戦後四十数年のプラス面、評価する部分をきちっと押さえて、そして、しかし、やっぱり時代が変わってきた中で、社会党の持てる限界ということも、合わせて、明らかにしていく必要があるのではないかと思っております。
21世紀というのは、イデオロギーの時代ではない、こう言われておるわけでございますけど、いよいよ、この21世紀については、新しい論理で、新しい時代をつくっていくときには、ほんとに世界観が、これからつくりあげられなければいけないんじゃないかと、いろんな問題があるかと思うんです。環境の問題、通行の問題、エネルギーの問題、それから、平和の問題、こういった問題について、やはり新しい世界観をみんなでつくろう、これがいま、生きている私たちの役割じゃないかなと思っておるわけでございます。
そういう世界の大きな新しい価値観をつくるときに、やっぱり日本の国内の中でも、たくさんやらなきゃいけないことがあるんです。急速に進む高齢化社会、これに対して、いまだって、なかなかよくまわってないです。今日もおいでのみなさん、わたくしは、1947年生まれの段階の世代なんですが、その世代のかたも、あちらこちらたくさんいらしているように、お見受けしますけども、20年経ったとき、ほんとにどうなっちゃうんだろうか、これは、いまから手を打たないと、そのときになって、20年経って、なんとかなるようなものではないと思います。
そうした問題や、一極集中、これは政治も、経済も、文化も、一極集中というかたちで、戦後は進んできましたけども、それをどのような地方に分権をしていくのか、こういう問題、あるいは、多様な価値観を共存させて、自由で楽しい社会をつくるためには、いったい何が必要だろうか、そういったことについて、いま、政治家の役割が問われているのはもちろんですけど、政治家だけに任せるとか、政治家がなんとかするということでは済まなくて、やっぱり、ひとりひとりが自立して、この時代の解決にむけての方策を考えて、責任を持っていくということが、大いに必要ではないかと思っております。
わたくし先ほど、団塊の世代と申しましたけども、ちょうど親の世代が、第二次世界大戦になった世代、わたくしは、親たちと、いろんな、子どもの時から、話をする中で、あの戦争に、いったいどのような、誰が責任があるんだという話になったときに、実はどこにも責任がないというような構造が、当時存在していた。そして、それを、わたしたちの親の世代は、そのこと以外には、やりようがないということで、依然として、戦争という問題についての責任の解明ができなかったと、これをたいへんわたくしは、つらい思いで、親とケンカをしたような世代でございますけど、そういう世代に代わって、いよいよわたしたちの時代は、ひとりひとりが政治に参加し、社会をつくりあげる、こういう自立した、責任を持った時代というふうにつくりあげていきたいものだなと、大いに思っておるところでございます。
いよいよ社会党の新しい、社会党だけじゃないです、世界の、日本の新しい起点を求めて、重要な時期に、吉本隆明さんのお話を聞けることを、たいへんわたくしも、楽しみにしておるわけでございます。あんまり前置きをやっておると、早く引っ込んだほうがいいんじゃないかと、それでは、われらが吉本隆明さんをご紹介申し上げます。吉本隆明先生、どうぞ。
今日は、ぼくなりの現状認識とこれからを、自由に話をして帰ろうって思ったのですけれども、表題を見ますと、「社会党あるいは社会党的なるもののゆくえ」っていうふうにありますので、やはり、そういうことに接触しながら、自分の考えを述べるっていうのが、いちばんいいんだろうなってことで、そういうふうに話の重点を移すように考えてまいりました。
社会党あるいは社会党的なるものっていうのは、これから先のことはともかくとして、いままでのイメージで、ぼくらが判断するところでは、わりにソフトな社会主義思想を持ってきた政党だっていうふうに、客観的には考えてまいりました。もしかすると、ソフトなっていうのには、いろんな意味があって、ラジカルっていうのも、それから、温和なっていうのも、両方含まれているのかもしれませんけど、とにかく、そういうイメージを持っています。
社会主義政党っていうふうに、いままで考えてきたわけですけど、社会主義っていうのは何なのかっていうふうに、ちょっと言ってみますと、さまざまな条件を数えることができるんですけど、最小限3つあります。社会主義っていうものの柱にあることは3つあります。
ひとつは国家を開く、あるいは、開かれていることがひとつです。もうひとつは、国軍を持たないこと、国家の軍隊を持たないことだと思います。それから、もうひとつは、生産手段を、つまり、個々の住民大衆にとって、抑圧とならないことを条件にして、個々のひとりひとりが不利益であるっていうようなことに限って、生産手段を社会化してある。その3つの条件が、最小限ありますと、社会主義っていうふうに言えると思うわけです。
国家を開くっていうのは、ちょっと説明しますと、ようするに、ぼくの理解の仕方では、どうやったら開かれるか、なくなっちゃえば、いちばん開かれるわけですけど、国家が。そう簡単にはなくならないよ、あるいは、なくせないよっていうことでしたら、ようするに、一般の住民大衆の、無記名直接投票で、いつでも政府っていうのはリコールできるっていう体制を、体制っていっても法律でいいわけですけど、それをつくってあれば、だいたい半開きに開くと思うんです。
国家っていうのは、だから、それがさしあたって、温和な条件だと思います。その3つの条件があれば、社会主義と言えるわけですけど、みなさんのお考えになるように、社会主義っていうのは、地球上にまだ、実現されたことがないわけです。どっか1点か2点、欠けていたり、いまの条件のうち、欠けていたり、余計なものがあったり、それから、全然やりかたが、条件はあってもやりかたがへたくそだって、実現されてないとか、さまざまな理由があげられるんですけど、その3つの条件を具現した、つまり、社会主義っていう条件を持った政党っていうのは、世界に存在しません。
ですから、そのことが、もちろん、社会党もそうじゃないです。社会主義政党と言ってきましたけど、そうじゃないと思います。そういう言い方をすれば、国家社会主義政党だと思います。国家社会主義政党っていうのは、いくらでも、時代時代でファシズムに、いつでも移行できる、そういう政党だと思います。ですから、それは実現されていないってことになります。
でも、さまざまな条件のうち、少なくとも、最小限3つの条件がないと、社会主義って言えないってことは、非常に明らかなことで、その中で、日本国が現在のままで、現在の保守的な政府のもとに、唯一実現してることは、国軍を持たないっていう条項だけが、憲法第9条で保障されているわけです。これだけは、いま言ったように、世界のかんたる条項でありまして、どこにも実現されてなくて、日本国だけが実現している条項であるわけです。だけど、あとの2つは実現されてないわけです。社会党が、いままでやってきたやりかたでも、共産党がやってきたやりかたでも、実現されないでしょう。でも、最小限その3つだってことが重要だと思います。
最近の選挙で、社会党っていうのは大敗したわけですけど、大敗した理由っていうのを、現場の人から、選挙のやりかたから、綱領からなにから、いろいろこういうところがだめだったとか、いろいろ言い方があるでしょうけど、ぼくが、なぜ負けたかってあげてみたい理由は、いくつもありますけど、さしあたって2つあります。
ひとつは何かっていいますと、日本国っていうのは、現状のまんまでですけど、日本国っていうのは、国民の所得分配率っていうのを、数字的にとってみますと、人口の20%ずつを5段階に分けたものですけど、所得分配率っていうデータをとってみますと、日本国は貧富の差がいちばん少ないわけです。つまり、最高所得と最低所得っていうのが、だいたい4.3:1です。最低を1とすれば、最高所得をとってるやつは4,3倍だっていう、そういうことは、世界でいちばん平等化を実現している社会です。
その次はオランダ、その次は西ドイツってなります。西ドイツが1:5,0です。イギリスだったら5,7:1、それから、イタリアだったら7.1:1、アメリカだったら7,5:1、フランスだったら7,7:1っていうふうになっています。つまり、ようするに、日本国っていうのは、それ自体、ちっとも満足すべきものではありませんけども、世界の現状で比較すれば、どんな国よりも、所得の平等化を実現している社会だっていうことになります。
みなさんが社会党の人かどうか知りませんけど、社会党についていえば、社会党がなぜ負けてしまったかっていいますと、ようするに、すくなくとも、絶対的ではないですけど、相対的にいえば、世界で最も貧富の差がなくなっている国でもって、まだ貧富の差を縮めようとか、ようするに、言ってることは全部、みんな実現しちゃってあるわけです。それだから、社会党っていうのはいらないんじゃないかっていうのが、だいたい一般の認識だと思います。だから、それが選挙に敗れた理由の、ぼくはいちばん大きな理由だっていうふうに、ぼくが言うとそうなります。つまり、貧富の差なんて、世界に比べたら、そんなにない国なんだよっていうのに、まだそんなのがうんとあるかのごときことを言ったって、それはだめですから、そこが、社会党が敗れた理由のいちばん第一だと思います。
それから、第二の重要な理由っていうのは、日本国だけじゃないですけど、つまり、アメリカ、日本国、西欧4か国合わせたEC、つまり、ヨーロッパ共同体ですけども、少なくとも、その3つだけは、消費資本主義っていう段階に入っているってことなんです。
消費資本主義っていうのは、非常に簡単に定義しますと、ようするに、所得のうち、50%以上を、一般大衆の平均ですけど、50%以上を消費に使っている資本主義国家っていうのが、消費資本主義国家です。つまり、所得のうち、50%以上を消費に使っているんだ。それでまた、50%以上の消費のうち、それを、必需消費と選択消費というふうに分けますと、必需消費っていうのは、光熱費とか、家賃とかって、月々かならずいる消費額を必需消費っていいますけど、選択消費っていうのは、使わなければ使わなくていい消費ですけど、そうすると、必需消費と選択消費を比べますと、選択消費のほうが多いんです。また50%以上なんです。その2つの条件を持っている消費は、消費資本主義っていうふうに呼ぶことができます。
これはやはり、マルクスが『資本論』で分析したような、興隆期の資本主義みたいに、つまり、生産のほうが多いとか、そういう生産を主体に考えなきゃいけないっていう段階をはるかに過ぎてしまったっていうことを意味しています。
ちょっとデータを書かせてください。たとえば、これは最新のですけど、平成2年度だから昨年度ですけど、平均の家計の支出は、月33万4千円だと、そのうち雑費とか交際費のような、その他の出費ってところを除けば、24万4千円、その次、選択消費、つまり、今月は使いたくないから使わないとか、今月は旅行に行くのをやめにしようとかいうような意味合いで、勝手に、それぞれの人が勝手に選べる消費です。それが12万3千円あります。これは、50%以上、50.4%になります。所得の消費のうちの半分以上は、選んで使えるってことになります。もし、雑費、交際費っていうのも、選択消費の中に入れるとします。それもまた、交際費っていうのも選べるんだ。使わなきゃ使わない、使うなら使うっていうふうになりますと、29万3千円ですから、これは、87%が選択できる消費っていうことになります。
わかりやすいために極端なことをいいますと、もし個々の大衆がようするに、半年でもいいんですけど、半年なり、1年なり、おれは映画にも、どこにも行かんっていうふうにやっちゃったらどういうことになるかっていうと、日本国の経済規模っていうのは、半分から4分の3ぐらいに減ってしまいます。すぐに減ってしまいます。そうしたらば、どんな政府でも、たいてい潰れてしまいます。そういう半分から4分の3程度に、経済規模が下がってしまう、それだけ下がってしまう、そういう状況に耐えることは、まず政権担当者はできないので、ぜんぶ潰れてしまいます。
どういうことかっていいますと、消費資本主義ってことは、つまり、高度資本主義ってことですけど、高度資本主義っていうのは、ぼくがいま定義したような意味でいいますと、とてつもない社会に入っちゃってるんだっていうことだと思います。ただようするに、半年なら半年、旅行いくのを我慢するとか、そういう、映画いくのを我慢するとか、酒飲むのを我慢するとか、そういうことを仮に、全国民がやったとすれば、それでもって、どんな政府も成り立たないです。つまり、潰れてしまいます。それくらい、一般大衆のほうに、すでに潜在的権力は移行しているってことが消費資本主義社会の非常に大きな特徴です。
アメリカ、日本国および西洋4か国っていうのは、だいたいそういうふうになっています。だから、とてつもない社会に入っているんだけども、みなさんのほうでは、あんまり、そういう自覚はないから、まあ成り立っているんですけど、ほんとうに民衆が自覚しちゃって、必要な使うものだけでやめようじゃないかって、半年やったら、それで潰れてしまいます。どんな進歩的な政府ができようと何しようと、ぜんぶ潰れてしまいます。つまり、それくらい一般大衆、つまり、消費資本主義社会っていうのは、とてつもない社会に入ってるってことを、まず、ぼくは言いたい、強調したい。それは、たいへん過激なことを言っているわけですけど、それは、非常に事実だっていうことになります。
それは、そういうことを、国民に対して自覚するっていうか、わかるっていうことは、たいへんだなぁとは思いますけど、しかし、潜在的には、すでに、そういうふうになっている社会だっていうことは、非常に重要なことだと思います。つまり、先進3地域っていうのは、そういう社会に入っていることが、ものすごく重要なことで、みなさんが社会党として、どういう政策をとる場合にも、ほんとうはこうなんだぜっていう、こうなってるんだよってことは、はっきりとお腹に入れておいたほうが、今後10年か、15年の間っていうのは、過ごしやすいんじゃないでしょうかっていうふうに、ぼくは思います。それを入れておくと、間違えたりしないと思います。間違った政策を打ち出したりとか、間違ったやりかたをしたりっていうようなことをしないと思います。ですから、それはお腹に入れておかれたほうがよろしんじゃないかっていうふうにぼくは思います。
いま言いましたように、個人個人がわきを締めてしまいますと、選択消費を加減してしまいますと、どのくらいの、国家財政に対して、いま流行りの言葉でいえば、GNP、つまり、国民総生産ですけど、国民総生産に対して、個人消費っていうのは、どのくらいの重さがあるかっていいますと、ここにデータをあげておきましたけど、58から53っていうふうに、だいたいその範囲の重さがあるわけです。
ですから、個人が消費しなかったら、どんな公共投資を政府がやろうと、絶対不況から回復しません。そういうことは明らかなんです。半分以上は個人消費が、しかも、選択消費にかかっていることがありますから、だから、国民総生産の半分以上の重さでもって、個人の消費っていうのが、現在、先進3地域ではあるってことが、またしても重要なことだと思います。つまり、そのくらいの重さがあるってことだと思います。
50%以上の重さがあって、しかも、選択消費が、全国家予算の4分の1以上を占めているっていう、そういう段階ですから、あとひとこと言いたいと思いますけど、政府が公共投資を第二次産業のところに、つまり、公共設備の拡充みたいなところに、いくら投資したって、そんなに簡単に不況から脱出するはずがないでしょ。
いま申し上げましたとおり、お考えになればすぐにわかるように、そんな第二次産業、つまり、建設業のところに公共投資を大部分やって、それで、公共設備を拡充して、道路を拡充して、なにしてとか、飛行場つくってとか、港湾整備してとか、そういうことをやって、それがめぐりめぐって、6割の重さのある個人消費のところまで、影響を及ぼしてくるなんていうのは、夢のまた夢っていうか、めぐりめぐってやってくるっていうのは、そういう状態であるわけです。ですから、非常に巨額の公共投資を政府がやれば、不況から脱出していくかもしれませんけど、かもしれませんってだけであって、こういう状況になっている民衆の実力っていうのは、どういうところにあらわれるかっていうと、徐々にしか不況を脱出しませんよっていうことに帰着するわけです。
それが、マルクス主義経済学とか、ケインズの経済学とかっていうのの、最大の弱点です。つまり、それは消費の興隆期までしか通用しないんです。つまり、消費資本主義の段階に入りました、つまり、世界の3地域ですけど、3地域では、そのやりかたはだめだってことになります。
非常に簡単な、不況から脱出する非常に簡単な方法っていうのは、非常に明瞭なわけです。つまり、個人消費のところに、公共投資すればいいわけです。つまり、たとえば、わかりやすいように極端な例をしますと、ぼくならぼくに、政府が無償で3000万円、無利子無期限で、そうまで言わなくていいけど、3000万円投資してくれたら、ぼくはやれることがたくさんあるんです。それは、みなさんだって同じでしょ、個々に対してもおんなじです。民衆もおんなじです。いちばん極端なことをいうと、国民に対する消費っていうことに、いちばんストレートに響いてくるところに、政府の公共投資っていうのは、そこにストレートにもっていけば、すぐに不況から脱出します。それは、大変なことでしょう。つまり、たいへん過激なことになるわけでしょう。しかし、理屈はもう、世界の先進的地域では、どうすれば不況から脱するかとか、個々の民衆の実力っていうのは、どのくらいあるかっていうのは、非常に明瞭に出ているわけです。
ただようするに、ぼくは、不況っていうのは何だこれはっていうことで気になって、ここ1,2年あれしてきましたけど、ちょっと突っ込んできましたけど、非常に簡単明瞭にこうなんだってわかっているんだけど、それをやったら非常に革命的ですから、だからやらないってだけでしょう。それから、経済学者っていうのも、いろんなやつの、あれしてみたんですけど、みんないい加減なことを言ってるんです。つまり、こうやればいいって、わかってるくせして、そう言わないわけです。みんなインチキです。インチキっていうか、社会党に迎合したり、自民党に迎合したりとか、連立政権に迎合したり、いい加減なことばっかり言ってるやつが多くて、ほんとはもう非常に明瞭なわけです。どうしたら不況から脱するか、だけど、そんなことを言ってるやつは、ひとりだっていないです。みんな、ようするに、しょうがねえなって、ぼくはそう思います。しょうがねえなっていうのが、ぼくの感想です。
いま申し上げましたことが、理由としてあげましたけど、この2つのことを考えますと、もうひとつしまして、食費、つまり、エンゲル係数ですけど、エンゲル係数っていうのは、家計費の、いま日本で20%ぐらいです。だから、マルクス経済学の概念でいえば、ようするに、明日、今日と同じ条件で働くこと、労働することができる条件っていうのを、エンゲル係数っていうふうにいえば、明日、生命を再生産する最小限の出費がエンゲル係数だっていえば、それに使っているのは、わずか20%、それからもし、必需消費っていうのを、明日も今日と同じように生活し、労働ができるっていうような、そういう最小限のあれが必需消費だっていうふうにいえば、それは、50%以上はそういうふうになって、それで、そのうちのまた50%以上は自由に使っていいっていうふうになっているってことになっています。だから、生命の生産に使っているのは、わずか食費分20%ぐらいです。つまり、それしか使っていません。
あと何に使っているってふうに、みなさんお考えかわかりませんけど、それは、だいたい教育費、子どもの教育費に使っています。40%は子どもの教育費に使っています。それは、みなさんが子どもの教育に熱心であるか、熱心でないかにかかわりなく、必然的にっていいますか、不可避的に使わされているわけです。教育費みたいなものに、所得の40%は使わされているわけです。つまり、今日食うために使うのは20%で、あと40%は自分が食うためじゃなくて、子どもが食いいいようなために使ってるっていうのが、この先進3地域における非常に明らかな現象であるわけです。
こういう社会っていうのは、よくよくお考えになったほうがいいと思います。つまり、何のために生きているんだって言った場合に、食うために生きているんじゃもちろんないわけです。それじゃあ、自分が自由な豊かな生活をするために生きているのか、そうでもない、ほんとを言っちゃえば、なんとかして次代の子どものために、子どもの世代のために投資しているために生きているっていうのが、非常に本音に近いところだと思います。自分は、おれは違うよって言ったって、それは仕方がないので、そういうふうにさせられている、不可避的にそうなっているってこと、ですから、誰でもそういうふうになってるよってことになると思います。
そういう社会っていうのは、ある意味では奇形な社会です。それから、ある意味では、とてつもない社会です。つまり、なんだこれはっていう、人間の生きる価値っていうのは何なんだ。少なくとも、40%は子どもを教育するためとか、子どもに楽なようにするために生きているんだみたいなことになっているわけです。それは、生きる目的にとって、とてつもない社会だけども、それでいいんだっていえば、いいわけでしょうけど、とてつもない社会に入っているってことは言えると思います。
つまり、その2つの理由が、社会党なんてのはいらねえぜっていう、いらないぜっていうのは、なぜかっていうと、ぜんぜん違うことを言っている、つまり、見当はずれなことを言ってるよってことは、非常に実感的にわかるから、やっぱり票なんか入れるわけはないです。それが選挙に負けた理由だと、ぼくはそう思います。ぼくのあげる理由はそれです。もちろん、みなさんのほうからいえば、いや選挙技術がまずかったんだとか、あの野郎が候補者がまずかったんだとか、いろいろあるでしょうけど、ぼくの理由をあげるとすれば、その2つの理由が、非常に大きな理由になります。そこのところを認識しているかどうかってこと、認識して、それにふさわしいことを打ち出してた、あるいは、やりかたをしたかどうかってことは、非常に大きな問題になるっていうふうに思います。
もうひとつ、次に問題なのは、それじゃあ、いま必要な現状認識といいますか、状況認識で、いまどういうところにいるんだっていう現状認識っていうのは、どこにあるかっていうことを、ちょっと重要なところだけあげてみますと、ひとつは、どこが結節点になるかってことになります。
データを見ていきますと、だいたい大正9年から昭和15年の間のどこかで、だいたい日本は農業国から離脱しております。つまり、農業国を脱しております。だから、農業国ではありません。それは、大正9年のデータでみますと、農業みたいなものは34%、それから、工業・製造業みたいなのが24%、だいたい同じなんです。また、第三次産業、流通業とか、サービス業とか、そういうのが30%ぐらい。次に昭和15年のデータをみますと、農業みたいな自然を相手の産業が18%、もう確実に減っちゃってるわけで、第二次産業、工業のほうが確実に増えちゃって38%ぐらい、それで第三次産業のほうはもうすこし増えちゃって43%か44%になっています。もう完全に農業国たるあれを離脱しちゃっているわけです。ですから、その間に、農業国としての終焉っていうか、終末っていうような、大正9年から昭和15年の間にきているっていうふうに思います。
それから、昭和21年っていうデータがあります。この昭和21年っていうデータっていうのは、ようするに、太平洋戦争敗戦の前後です。前後のときには、工業は、爆撃その他で衰えていますから、それで食い物が足りないですから、だいたい農業みたいなのが38%っていう、それから、工業・製造業が26%っていうふうに減っています。これは、敗戦前後で、ちょっと特殊例だっていうふうに思います。
それから、もうひとつ、結節点っていいますか、段階を分けますと、昭和25年、1950年、それから、昭和35年だから、1960年ですけど、そこいらへんくらいまでが、だいたい日本が工業国だっていうふうに言われるのが、そのくらいの間のところまでが、だいたい日本が工業国であるっていうふうに言われていた段階だと思います。その節目は、昭和25年、1950年から60年の間にやってきています。
それ以降は、だいたいなんて言っていいのかわかりませんけど、高次産業国っていうふうになります。高次産業国っていうのは何かっていいますと、農業とか、製造業とかっていうよりも、第三次産業、つまり、サービス業とか、流通業とか、医療とか、教育とか、娯楽とか、そういうものの総生産のほうが、はるかに多くなり、またかつ、半分を突破しましたっていう産業体勢にあるとすれば、高次産業の国だっていうふうに言っています。この状況は、この高次産業の段階っていうのは、消費資本主義といいましょうか、高度資本主義に入った時点をあらわしているわけで、それはアメリカもそうですし、ヨーロッパ4か国もそうだっていうふうに言うことができます。経済的な意味での先進3か国っていうのは、高次産業国、あるいは、高次産業地域に入ってしまったっていうことになります。
そうすると、どういうことが問題になるのかっていいますと、ようするに、資本主義の興隆期っていうのを定義すれば、ようするに、農業と、それから工業・製造業とが、相対立して、葛藤を演じて、おれは農業のほうが重要だと思うとか、おれは工業のほうが重要だと思うっていうふうな意味で、葛藤・対立を生じている段階っていうのが、工業国の段階だとすれば、高次産業の段階では、それは過ぎてしまったっていうことになります。
高次産業のほうが半分以上を、国民総生産に対してもそうですし、また、労働人口としても、第三次産業のほうが、半分以上になってしまっているわけです。そうだとしたらば、重要なのは何なのかっていったら、労働者の大部分が従事している、高次産業における、生産額としても半分以上を占めちゃってる第三次産業っていうのが、重要であるってことはもう、非常に明瞭であるわけです。
ですけれど、みなさんもそうですけど、共産党もそうですけど、なんか農業を守れって言ってるわけです。農業を守れって言うけど、農業っていうのは、総生産でいえば、4.5ってあります。これは、人によって多少違いますけど、4.2っていう人もいますし、人口としても、所得の全体としても、ようするに、全体の4%ぐらいしか存在しないわけです。それで、農業を守れとか、一国の食料は一国でまかなえるようにするみたいに、こう言うっていうのは、だいたい常識はずれでしょ。どうしようもないわけです。つまり、現状認識が全然できていないってことを意味していると思います。全然そうじゃないです。
第二次産業と第三次産業、とくに第三次産業に移行しているわけです。だから、労働者がそうなんだから、いちばん重要な大多数の人間がいる、そこのところに政策の重点を置かなければいけないってことは、非常に常識的に明瞭なことなんです。
だけど、みなさんのやっていることは、お米の自由化をどうするかとか、自由化を許すか、許さないかっていうのを言っているわけで、しかし、冗談じゃないです。総生産として4.5%くらいしかなくなっちゃってるっていう、そんなところで、お米の自由化を許すか、許さないかなんて言っているのはおかしいじゃないか、問題にもならないわけです。それがやっぱり、ぼくは選挙やって、票が減っちゃった理由だと思います。
地方へ行くと、そんなことばっかり言っているわけです。つまり、純粋のお百姓さんがそう言ってるんじゃなくて、お百姓さんのうち、多少なんか、多少、ケがあるっていうんですかね、多少、信仰政党にいかれてるっていうか、そういう人たちがそういう論議をして、だけどほんとうの黙々としてやってるお百姓さんがけっしてそんなことを言ってるわけじゃないです。それは区別しなきゃいけないわけで、だから、みんな空中戦になっちゃうんです。
いまだってそうです。お米の自由化の問題っていうと、かたっぽで森島っていうのが、お米の自由化をすると200万人くらい農家で失業者が出ると、こういう計算で、かたっぽは青山学園のなにがしは、いやそんなことはありえないんだっていう、なんかようするに、みんな違うんじゃないのって、ぼくから言わせれば、話が違うんじゃないのってなるわけです。
ぼくに言わせれば、お米の問題でいちばん重要なのは何かっていうと、ここいらへんの人たちにとって、何が利益なのかってことが、いちばん重要なんです。ここいらへんの人にとって、何が重要かっていえば、ようするに、なんでもいいです、お米屋さん行ったら、スーパーの店先に行ったら、うまくて安い米と、高くてまずい米があったら、誰だってうまくて安い米を買うわけです。それだけの原則なんです。それから、うまくて高い米と、まずくて安い米があったら、懐具合によって、今月はまずい米食おうとか、ちょっといいの食おうとかっていう、懐具合で選ぶっていう、それが、一般大衆、国民大衆の原則です。それ以外の原則をとらないです。
どんなふうに頑張っても、政策が、どんな政策を各党によって違って、各党によって勝手なことを言うかもしれないけど、国民大衆の大部分がどういうふうに考えるかっていったら、ようするに、安くてうまい米があったら、どこの米だっていいから買うよ、食うよっていうわけで、それから、まずくて高い米があったら、これは食わねえってだけです。それ以外の選択の仕方をするわけがないです。だから、そんなことは非常に明瞭なことなんです。
それで、もうひとつ明瞭なことをいいますと、日本のブランド品のお米、つまり、コシヒカリみたいな、それから日本米とかそういうのから、カリフォルニア米とか、タイ米とか、韓国米とか、そういうのと比較して食べたデータっていうのを見ましたけど、そしたらば、日本のブランド品のお米っていうのは、やっぱり圧倒的にうまいってことになります。たいてい食べる限りは圧倒的にうまいんだっていうデータが出ています。
そうだったら、話はまずまず簡単で、輸入品がきたら、懐具合によって、安くてまずいカリフォルニア米を食うか、じゃなければ、うまくて高いコシヒカリを食うか、それだけのことなわけです。お米の自由化をしたら、農家が200万人くらい失業するんだって、そういう馬鹿なこと言ってもらったら困るわけです。そんなことは、ありえないです。
ぼくの理解の仕方では、自由化したら、いまよりは農家のパーセンテージが減ると思います。だけども、あるところまでいったら、日本の農家っていうのは馬鹿じゃないですから、やっぱり、カリフォルニア米と匹敵する、カリフォルニア米のまずさと安さっていうのと、それに見合うお米をつくるでしょうし、それから、高くていいお米もつくるでしょうし、そんなことは、知恵を働かせればいいわけで、そういうふうにやって、いまよりは減るかもしれないけど、あるところで均衡点をもつことは疑いのないことなので、そういう誇張したデータっていうのを、しかも、200万人失業するって言って、失業っていうのはどういうことか知りもしないくせに、そういうことを言っちゃいけないと思います。そんなことはないです。
つまり、射程を、年月を短くとるか、長くとるかってことで、たとえば、70年の射程をとれば、誰でも失業したり、兼業したりしているわけです。嫌な目に遭ったりするわけです。失業ってことと、兼業ってこととは、射程を長くすれば同じことなんです。イコールなんです。だから、射程をできるだけ長くとって、政府が馬鹿じゃなくて、ようするに、兼業する場合の十分な生活援助とか、資金援助みたいなものを、十分な政策をもってやれば、それだけのことなんです。そんなおおそれたことじゃないんです。
だけど、ぜんぶ観念的です。対立自体が観念的です。それから、考え自体が観念的です。米の自由化が是か非か、それも観念的です。そんな馬鹿なことはないんです。4.5%で、ますます減ろうという農家でもって、日本国の全体の食料をまかなうのがいちばんいいんだみたいなことを言ってるのも、どうかしてるんじゃないか。
そういう言い方をしますと、農家っていうのは、自然相手の職業っていうのは、非常にきついし、効率悪いですから、農業や漁業に従事している限り、従事している人は、貧困を脱することができないです。むずかしいんです。だから、文明が発達していくとともに、農業の人口っていうのは減っていっちゃうわけなんです。それはなぜかっていったら、生活のより優位なところに、人間はいこうとしますから、能率がよくて、所得が多いところにいこうとしますから、その結果、先進国ほど、農業の減少として現れるわけです。東京でいったら、零コンマ何パーセントです、農業は。そのぐらい減っちゃっているわけです。
だけれども、そのなかで盛んに兼業っていうのは、個々の人で行われているでしょうけど、ちっとも失業っていうふうに、大学の先生が計算する失業には、どうして入らないかっていえば、ようするに、射程を長くとれば、あるいは、ゆるやかな兼業だったら、それは、失業はイコール兼業と同じってことになってしまいますから、そんな、感動詞で考えるような数字で出てくるわけがないのです。
ぼくに言わせれば、日本国が、農業国から離脱して、工業国から離脱して、第三次産業国っていいますか、高次産業国になっていくっていう、その影響は、非常によく理解しないといけないと思います。つまり、いろんなことが未知です。いろんなことがよく考えないと、妥当な考え方はとれないと、とられていないということを意味します。
たとえば、マルクスっていうのは、西欧が、農業国からだんだんと、工業が盛んになっていて、農業やる田園と工業やる都市が、対立状態に入って、都市には、公害病として、肺結核ですけど、肺結核がしきりに流行って、そういう時代の、マルクスの分析はそうです。
マルクスは、そういうことを『資本論』の中で言っていますけど、マルクスがいちばん目安にして言ってることは、ようするに、空気とか、水とかっていうのは、市場価値は非常に多大にあるけど、しかしそれは、交換価値はない、つまり、タダなんだっていうのが、マルクスの考え方の大きな基礎であるし、社会段階がそういうところにあったっていうこと、ですけど、高次産業資本主義ってなったときには、それは、同じような、明瞭にわかりやすいことを言ってみれば、いまは、天然水といえども、市場価値も交換価値もあるわけです。売ってて、みんな買っているわけです。つまり、飲み水は買わないでしょうけど、少なくとも、お酒飲むときなんかは、買ってるわけです。六甲の水とかなんとかを、みんな買ってるでしょ。マルクスが言うように、市場価値はあるけど、交換価値はゼロなんだ、ないんだっていうことではないでしょ。いま、交換価値あるでしょ。あるわけですし、空気だって、やっぱり、いまはわかりませんけど、都心のビルなんかは、空気を瓶詰めじゃないけど、ボンベに詰めて売るっていうような段階に、もうすぐ来るんじゃないかと、ぼくは思いますけど、そういう段階になっているっていうことの現状認識っていうのは、とても重要なんじゃないかっていうふうに、ぼくはそういうふうに考えます。
そこのところが結節点として、とても重要なことなので、農業と工業が、大部分の生産を占めていたっていう、そういう段階のことと、それから高次産業のほうが大部分を占めて、農業はほとんど取るに足らなくなってきたっていう、そういう段階の社会っていうのは、まるで構造が違いますから、考え方も違うし、分析の仕方も違っていかないといけないっていうふうに思います。
そこまで、現在の日本もそうですけど、世界の先進3国家地域っていうのは、そこまでいっちゃっているわけなんです。このいきかたっていうのは、長い、つまり、半世紀ぐらいとれば、いつまでもそうだとは言い難いところがあります。ありますけど、少なくとも、ここ10年とか、15年の範囲内でいえば、この世界の3地域が、そういう段階に入ってしまって、ほかの地域がそこの段階に入っていくっていうようなことをするし、また、その3地域で、世界経済の全体を支えなければいけないっていうのは、少なくとも、10年、15年の間だけは、確実に続くっていうふうに、ぼくは思います。半世紀やってもどうなるかっていうのは、それはわかりません。つまり、日本みたいな、中進国ないし後進国っていうふうに、半世紀いわれていた、そういう国が、いまは、世界1,2を争う先進地域になってしまうことがあるわけです。ですから、半世紀たったら、どんなところが、どんなふうになっているか、想像がつきません。しかし、10年や15年の射程だったら、だいたいその3地域が、世界経済を支えるだろうってことは、非常に間違いないと言えることだと、ぼくはそう理解いたします。
西欧だけは、欧州共同体ってことになって、共同体をつくる、つくらないで、もめているって段階に、欧州の先進国、フランスとか、ドイツとか、イギリスとかっていうのは、盛んに相互にもめているわけですけど、それは、少なくとも、アメリカと日本の経済規模に匹敵するだけのあれは、欧州だと、4か国あわせないと、それに匹敵するっていうあれにならないんです。それで、しかも、わりに衰退の過程にあるって言ったほうがいいんです、西欧の経済地域っていうのは。だから、どうしても欧州共同体っていうのは必要なんだけど、なかなか切実に、利害関係がきしんでくるっていうのは、いまの現状だと思います。
日本は一国でも、少なくとも、10年、15年の射程ならば、世界経済の3分の1を支えるだけの力があって、それはまず動かないだろうなって、ぼくにはそう思います。ですから、こういうところがいまの現状認識っていうことになるんじゃないかってふうに思います。
これらのことをぜんぶ合わせて、ぼくが考えている、現在の世界情況、大きな問題点になっていって、それに対して、どこまで適切な転換ができるかっていうことが、非常に大きな、少なくとも、当初のうちは、ロシアマルクス主義の影響を受けてつくられた政治党派っていうのにとっては、そこのところの理解の仕方っていうのが、非常に大きな問題になるんじゃないかっていうふうに思われます。それができるか、できないかってことは、たとえば、それは社会党なら社会党にとっても、非常に重要なことになっていくんじゃないかっていうふうに思います。
現在の日本が当面している問題で、重要な問題は何なんだっていうことにしていきますけど、先ほどもちょっと出ましたけど、第一に不況っていうことについて、不況っていうのは、現在、日本国が当面している、それから、ほんとをいいますと、世界の先進3地域っていうのは、みんなそれぞれの意味合いで、少しずつ当面しているわけです。そのなかで、日本はまだマシなんだっていうような状況にあると思います。
そのときに、世界経済の規模では、どういうことが云われているかっていうと、アメリカは日本に対して、おまえのところは、不況、不況っていうけど、おまえのところは、貿易黒字であるし、国際的にいえば、経常黒字である、そうだから、おまえのところは黒字を減らせっていう要求をアメリカはしています。これは、全般的に世界3先進地域っていうのは、地盤が沈下して、不況状態にあるわけですけど、そのなかでも、いい不況も、悪い不況もっていいましょうか、不況の段階が違うと、日本では比較的いいから、おまえのところは、もうちょっと悪くしろ、黒字を減らせ、そうしたらば、おれらのところも少しよくなるし、西欧もよくなるんだっていうふうなのが、アメリカが、日本に要求していることだっていうふうに思います。
もっと違う問題の立て方をする人は、たとえば、『複合不況』っていう本を出している宮崎さんって人なんかは、どう言っているかっていうと、ようするに、先進3地域における地盤沈下っていいましょうか、これはどうしようもないから、これをあれするには、非常に強力な共通通貨の協議体みたいなのをつくって、それで、そこが世界の共通通貨っていうのをつくって、そこでもって、統御して、経済的に不利なところ、有利なところにはどうするかとか、不利なところはこうするって、全体的に統御できる、そういう強力な世界的な通貨の統御機関っていうのをつくる以外にない、つくるのがいいんだっていうふうな処方箋を出しています。
しかし、ぼくが思うには、アメリカの言い方も、宮崎さんみたいな言い方も、ぼくは違う、本音をいえば、違うと思います。そんなことは、先ほど言いましたように、公共投資を建設業のところに投資して、そこで、公共設備の拡充みたいなのをやって、そこで起こった景気補助策みたいなのが、民衆の景気にも及ぶだろうみたいな、そういう考え方とおんなじで、ぼくは違うと思います。つまり、そういうやりかたっていうのは、いずれも違うんだって、ぼくは思っています。
つまり、ぼくだったら、そういうふうに考えないで、まず日本国なら、日本国っていう規模で、不況から離脱しちゃえばいいっていうふうに思います。それが刺激になって、ほかの地域も、アメリカも、西欧も、不況から脱するっていう、そういうやりかたをしたほうが、ぼくはいいと思います。
日本国はどうやったら不況から離脱するかってことは、先ほどもすこし申しましたとおり、非常に簡単なわけです。第三次産業的なものに公共投資をやればいい、第二次産業ではありません。つまり、建設業みたいなところに、いくら公共投資をやったって、それは徐々の効果しか、不況脱出の効果はあがらないっていうのは、非常に明瞭だと思いますから、先進3地域だったら、そうじゃなくて、ぼくは第三次産業的なものに、公共投資っていうのは、直接に、ストレートに投資するっていうのが、はっきりしていちばんいいと思います。もっとはっきりするのは、個々の人に投資したら、いちばんはっきりするわけです。おまえに、タダで5000万円貸すって、無利子、無返済で、無期限で、5000万円貸すっていう、個々の人にやれば、たちまち、ふところが緩んできて、選択消費の部分で、たくさんものを買ったり、遊んだりするようになりますから、すぐに不況は脱出します。そういうふうになりまして、ぼくは先ほど言いましたように、5割から6割の比重がありますから、全体的な景気が回復するっていうのは、非常にぼくは明瞭だと思います。
そういうことを、どこまで正直に、政権担当者がやるかどうかってことに、不況を脱出するかしないかってことはかかっているわけです。よくよくこういうことを露骨にいいますと、これは革命になっちゃうわけなんです。だから、なかなかできないのです、おっかないから。できないから、非常にごまかし、ごまかし、言ってるんですけど、ほんとは、それは無効です。大部分は無効です。第二次産業って、つまり、建設業みたいなところに公共投資やったって、それはようするに、間接的な効果しかありませんってことは、非常に明瞭なことだっていうふうに思います。
こんなことを言うと、おまえそういうふうに、素人考えだって、あんまり単調なこと言うなっておっしゃるかもしれませんけど、ぼくは、ここ1,2年、一生懸命、経済学者とか、経済専門家とか、政府の関係者っていうのは、どういうことを言ってるのかっていうふうに、不況、不況っていうのは、何を言ってるのかっていうと、たいてい、その企業体の経常利益がどうなっているかとか、鉱工業指数がどうなっているかとか、あるいは、状況判断として、企業体の首脳っていうのが、何か月後に景気が回復すると思うとか、そういう状況判断をするわけです。そういうもので、はかってみたりとか、設備投資とか、設備投資はまあいいほうですけど、設備投資が、前年度の同月にくらべて、どのくらい減っているか、増えているかってことで言っているわけです。
しかし、ぼくらが、そういうのをいちいちたどってっていいましょうか、いちいち検討していきましたけれど、結局は、これはちょっと、ぜんぶ違うよっていう、全部、非常にあいまいな言い方だよっていう、結局、ぼくは、5割から6割の比重がある、個人の消費、とくに選択消費っていうのを、ふところを開けさせることができるか、できないかっていうのに、不況から脱出するか、しないかの運命は、少なくともかかっているってことが、最終的な結論として、そういうふうになります。
それは、現在の先進資本主義国、つまり、消費資本主義国における全般的な運命です。つまり、そこの段階まで、人類っていうのはやってきちゃったなっていうこと、つまり、そこでは、個人の消費を、とくに個人の選択消費を緩められない限りは、不況から脱出することはありえないです。企業体がどういうふうに頑張ったって、それは、ありえないと思います。頑張ったって、あとのまわりの人は、まわりまわった効果ですから、そうじゃなくて、ストレートな効果でいうならば、そこにストレートで公共投資する以外にないってことになります。そうしたらば、たとえば、個々の国民に対して、おまえに無利子、無期限、無返済で、500万円貸すとか、5000万円貸すっていうことを、たとえば、政府が極端な話、そう言ったとしたら、もうそれは、驚天動地のできごとになるわけです。つまり、それは革命ってことになるでしょ。どんな革命よりも、革命なんです。
だけど、ほんとを言うと、潜在的には、そこの段階まできているってことを、考えには入れなくてもいいから、お腹の中には入れておいたほうがよろしいんじゃないでしょうか。いろんなことを間違えないと思います、そういうことを入れとかないと。つまり、そういう段階になっちゃったっていうことは、誰がどう言ったって、動かしようがないですよっていうふうなところにいってしまっているってことは、お腹の中に入れられておいたほうがよろしいんじゃないでしょうか。そのうえで、非常に穏健なやわらかい進歩的な政策をお取りになれば、よろしいんじゃないでしょうか。ただそんなこと言ってもダメなので、お腹の中には、いったいどういうふうになってるんだ、この社会はどういうふうになっちゃってるんだってことは、ちゃんとお腹に入れといたほうが、馬鹿なことを言わなくなると、ぼくは思います。そういうことだと思います。
もうひとつ、そういうふうに結論付けますと、不況であるか、ないか、どこで測ればいいかってことになるわけです。そうしたら、先ほどから言いましたように、5割から6割のウェイトで、個人消費で測ればいいってことになるわけです。これは、誰でもできるわけです。
家計のことをよく知っている主婦なら主婦で、よく調べる人がいたら、すぐにわかります。家計費の支出が、前の年の12月なら12月と、今年の12月と、どっちが支出が増えているだろうか、減っているだろうかっていうふうに、そういうやりかたをして、今年のほうが減っているっていうふうになったり、あるいは、パーセンテージとして減っているってなったりしたら、それは不況であるっていうふうに判断せらればいいと思います。
つまり、個人がそういうふうに判断せられたことは、全日本社会にぜんぶ通用します。ですから、極端にいえば、個人がそうされたらいいと思います。つまり、前年の同じ月に比べて、今年は、自分は使い抑えしてるかなとか、数字があればなおさらいいですけど、そういうことを自分でお考えになって、確かに自分は、前年の12月よりか、今年のほうがすこし、使い抑えしてるっていうふうになったとしたら、それは、日本全般が不況であるっていう判断に及ぼしても、まあ大過なく間違いないと思います。非常に簡単です。そこで不況を測ればいいってことになります。
そういうことが面倒くさい場合には、どうすればいいかってことになります。そのときには、非常に簡単です。みなさんが、個々の人たちがどこで、選択できる消費を、どこで使うかっていったら、だいたいスーパーとか、百貨店、デパートとかでいちばん使いますから、いちばん典型的に使いますから、スーパーとか、百貨店の売上高ってところは、新聞にときどき出ますから、そこでもって、それが、前年の同月のパーセンテージに比べて、減ってるっていうデータになっていたら、これは不況だっていうふうに考えられたらいいと思います。そこで判断するのが、ぼくの理解の仕方では、いちばん正確です。
あと、企業体の、たとえば、設備投資がいくら減ったかとか、経常利益がどうなったとか、そういうところで、判断されるのが一般的なんですけど、それは間接的です。いちばん直接的なのは、自分の家庭でもって判断するのが、いちばん直接的です。それは、全体を通しても間違いないと思います。それで面倒だと思ったらば、新聞にときどき出てくるスーパーとか、百貨店の売上げっていうのが、前年の同月に比べて、どうパーセンテージが減ってるかとかっていうことを、お調べになれば、ああこれは不況だなっていうふうにお考えして、大過なく間違いないと思います。そういうふうに、先進三か国ではそういう段階に入っていると思います。
これは、スーパーですけど、日本チェーンストア協会っていうのは、ダイエーの中内功っていうのが会長ですけど、全国スーパーの売上高っていうのを出しています。それで、これは9月号で、1兆2690億であると、前年同月比ですけど、前年同月に比べて、2.1%減っているっていうデータが出ています。もうひとつありまして、12か月連続で減っているっていうふうにデータを出しています。
そうしたら、これは非常に、みなさんの消費が減っているってことを意味しているので、消費の儲けが減っているってことと、ほとんど同じことですから、連続12か月っていうのは、少なくとも、12か月以上くらいは不況が続いているんだっていうふうに判断せられるのが、いちばん正確だっていうふうに、ぼくは思います。
それから、日本百貨店協会で、板倉芳明っていう人が会長だそうですけど、全国百貨店売上高っていうのは、5980億、前年同月比にくらべて、4.6%減っております。そして、これは18か月連続して減ってるというデータを百貨店協会が出しています。これも、ここで判断して、18か月くらい、日本の不況っていうのは続いているなっていう判断して、間違いないと思う。
つまり、何を意味するかっていうと、みなさんの個人消費っていうのが、合わせるとこれだけ減っているってことを意味します。それが18か月続いているんだってことを意味しますから、これでもって不況を測るのが、いちばん正確で、いちばん手っ取り早くて、いちばんわかりがいいと思います。
余計な、経済専門家のいうことは、変なことで測らされたりしますから、そんなのは、よくよくぼくはいろんなことをあれしましたけど、結局はこれだってことになります。だから、ここで判断するのが、いちばん簡単明瞭であるし、もっと簡単明瞭なのは、自分のうちの家計費が前年同月比にくらべて、どれだけ減っているか、増えてるかでもって、判断されれば、非常に大過なく間違いなく、不況の判断ができるというふうに思います。
もちろん、先ほどから繰り返しておりますように、この不況はどういうふうに、つまり、先進国における不況はどういうふうにして、離脱できるか、あるいは、日本国における不況は、どういうふうに離脱することができるかっていったらば、ようするに、いちばん簡単なのは、例として、具体的な例としてあげるために、また、極端なことを言いますけど、たとえば、日本チェーンストア協会に政府の公共投資をなんでもいいんですけど、1兆なら1兆、公共投資をするっていうふうにして、無利子でもって、非常に長い返還期限にして、それを貸与するって、そういうふうにしたとすれば、スーパーはたちまちのうちに、品物を増やしたり、安くしてみたり、それから、従業員っていいますか、働いている労働者の給与を上げたりってことをするに決まっているわけです。そうしたら、それで、個人の消費の中にすぐに響いてきます。少なくとも、百貨店ストアとか、スーパーとか、あるいは、その他、第三次産業に従事している人っていう個々の人たちのふところは、たちまちのうちに豊富になりますから、それは、たちまちのうちに選択消費の増大になってあらわれます。そうしたらば、全般的な好況にすぐに結びついていくってことが、まったく明瞭なことになります。ですから、そうすればいいってことになります。
もっと極端にいえば、先ほど言いましたように、個々の人に、おまえのところに100万貸すぞとか、500万、タダで貸すぞとかいうふうに、政府がやれば、たちまちのうちに、ふところは潤って、たちまちのうちに、選択消費は多くするに決まっているわけです。
つまり。そういうところが、不況から脱出する、原理的に明晰な最短距離なわけです。みなさんがよく注意してご覧になればわかるように、政府は、第二次産業である建設業に対して、建設業者が港湾の整備とか、道路の整備とか、飛行場の整備とか、そういうことに従事して、そこからなんとなく、景気がにぎやかになってくるってことを期待して、そこに投資するっていうやりかたをしています。
しかし、それは、いま申しましたとおり、先進三地域は、たぶん、それほど有効な効果を発揮しないってことは、非常に明瞭なことだっていうふうに、ぼくは思います。ですけれど、政府は、そういうふうに血道を打ちますし、経済学者は従来からの、資本主義興隆期からの慣例によって、そういう考え方をやめないと思います。ですけれど、ほんとはそうじゃないってことは、非常にはっきりとつかんでおられたほうが、ぼくはよろしいんじゃないかっていうふうに思います。
あと農業問題っていうのがあります。これは、何が問題なのかっていうことを、お米を例にとりますと、たとえば、米国産でも、カリフォルニア米でもいいんですけど、それとか、タイ国産のお米ですけど、それはだいたい、生産者価格っていうところで、日本は、米国産の生産者価格よりも、7.7倍多いという数字が出ています。それから、タイ国産のお米に対しては、11.0倍くらい高いっていうふうになっています。それが第一の問題です。
それで、小売価格でいって、米国産に対して、2.9倍高いってなっています。それから、タイ産に対しては、6.6倍高いってことになっております。これが、いちばんのネックなわけです。
これでもってお米の自由化をやったら、価格差でもって、まるで日本の高いお米を買うわけないじゃないかっていうのが、農家にとって、大恐慌なわけだと思います。しかし、先ほど言いましたように、うまい、まずいでいいますと、日本のブランド米、どれだけの人が食べているかよくわからないんですけど、都会では、たいていの人が食べているんじゃないですか、日本のブランド米のほうが、カリフォルニア米よりもうまいってことが出ています。高いけれどうまいよっていうふうな、お米として、日本のブランド米なら残りますし、ブランド米じゃなくても、少なくとも、同等のうまさとしては残ると思います。
ですから、もちろん黙っていても、農業のパーセンテージっていうのは、黙っていても減っていきますけど、農業の自由化をすると、やっぱり減ると思います。しかし、ぼくは、大学の先生が計算しているようには、失業者が200万人くらい出るっていうふうには減らないと思います。
それは、自然に、農業っていうのは減っていくわけですけど、自然減よりはやや早めのかたちで減って、あるところまでいったら均衡点に達するだろうって、十分に外国米が入ってきても、日本の農家のお米っていうのは、ブランド米はもちろんですけど、そうじゃなくても、十分対抗して、拮抗していけるだろうって思いますから、多少、自然に減る度合いより、多少、早いかもしれないけど、十分にそれは、自由化したとしても、競争に耐えていくだろうって、ぼくには思われます。ぼくはそういうふうに思っています。いちばんの問題は価格差っていうことが、いちばんの問題なんで、うまい、まずいでいったら、日本のお米のほうがうまいってことになります。ですから、価格差のところで、自然に農業のパーセンテージが減っていくわけですけど、それより少し早く減っていくってことが、ありうるんじゃないかっていうふうに思います。
それから、これから起こりうる問題として、もうひとつあります。それは、自衛隊とか、国連っていう問題なわけです。日本国は、憲法第九条で、自衛隊っていうのは国軍じゃないってことになっています。これは、とても重要なことで、また、いいことだと思います。
国軍じゃないっていうんだけど、兵力としていえば、十分、世界3番目か、4番目くらいの兵力をもっているんだってことはあるんですけど、それとは違うんです。憲法規定によって、たとえば、自衛隊が国軍でないってなってるっていうことは、とても重要なことで、この一点だけとれば、ほかのところはともかく、憲法のほかの点はともかくとして、非常に世界にかんたる第九条っていうことになると思います。
それで、そうしますと、どういうことが問題になってくるかっていうふうに思います。これは、現状のままで、憲法を改正しないで、最小限の改正で、現状のままとおるっていうふうな言い方は何かっていえば、それは小沢一郎が『日本改造計画』のなかで、十分に言っちゃっています。
どういうふうに言っているかっていうと、憲法改正する必要はない、改正なんかしない、ただ、憲法九条の二項まであるわけですけど、第三項目に国連に協力する限りでは、海外に自衛隊を派遣するっていうことはよろしい、可能であるっていうふうに、第九条第三項として、その一項を加えれば、現状のままで、合理的に、合法的にやれるっていうのが、小沢一郎の考え方だと思います。
この考え方は、現状を肯定するならば、極端までいって、いちばんいい考え方だと思います。この考え方で、ぼくも、10年やそこら、これで持つんじゃないかなっていう感じがするんです。それ以上の問題になると、それは小沢一郎には不可能なわけです。考えることが不可能で、国家をどうするかとか、国軍をどうするかっていう問題の中に、先進国は一様に突入していきます。つまり、国軍は廃止すべきであるっていう段階に、先進国家は突入していくに決まってるって、ぼくには思います。
ですから、その段階では、いまの小沢一郎的政党では、不可能だよってぼくには思います。それまでだったら、十分、小沢一郎は妥当だっていうか、非常にとおりのいいことを、憲法問題について、あるいは、自衛隊問題について言っています。小沢一郎の言い方に欠陥があるとすれば、ふたつあるわけです。
ひとつは、国家を開くとしたら、国軍は持つべきではないっていう段階にきたときには、それじゃあどうするんだっていう段階の問題に対しては、小沢一郎の理論は届きようがないわけです。それは、一種のまだ実現されていない、ぼくに言わせれば、最小限の3つの柱ですけれども、その柱を実現するっていうことの課題がはじめてあらわれるわけで、そのときには、ちょっと違う考え方が必要だっていうことになってきます。それまでならば、小沢一郎は、非常に現状とあった言い方をしています。
たとえば、いま現在、今年、そういう問題がひとつありましたけど、カンボジアの問題があったでしょ。それから、ソマリア、たぶん派遣していく、自衛隊を、つまり、その問題があるでしょ。つまり、そういうことを現状でやっているわけです。内緒であるかどうか、あんまり知らせないようにして、いろんなあれはあるでしょうけど、しかし、やっているわけです。しかし、それは憲法違反っていうことになります。いまのままだったら、憲法違反ってことになります、厳密にいえば。つまり、そういうふうに派遣したら、先ほどのソマリアみたいに、国連軍と、ソマリアの内部の武装勢力と衝突した場合には、必然的に武装衝突する中に加わることになりますから、それは、海外で応戦したってことになりますから、現状のままだったら、憲法違反だと思います。
でも、そういうことは、現実にやっちゃっているってことはあるわけです。現実にやっちゃっているっていうことと、自衛隊問題っていうことと、憲法と、矛盾なしに存在するには、小沢一郎の言い方がいちばん妥当なわけです。いまの憲法のままで第三項を設けて、それで、国連に協力する限りは、海外に自衛隊をむかわせてもいいとしようという項目を、第三項として設ければいいということになっちゃって、それで解いちゃうわけです。
ぼくは、それで、社会党の、ソフトであって、かつ、温和な、社会党の中の考え方は、そのなかに十分含まれうると思います。そのなかに十分は入れる規定だと思います。それから、ソフトでありながら、やっぱり、ラディカルであるという社会党の別の部分にとっては、名目的に認められない。それでまあ10年か、15年あとになったら、ちょっと本気でやろうじゃないかってことに、ぼくはなると思います。そのどちらかを選ばれても、社会党はソフトですから、どちらのほうも選ぶ領域にあるんだと思います。もしそれが、社会党内部で矛盾だったら、さよならすれば、それでいいわけですけど、ぼくは、どちらだっていいんじゃないですかっていうふうに、あるいは、どちらでもいいんじゃないですかっていうくらいのところで、よろしいんじゃないかと思います。
だけども確実に、小沢一郎の考え方が、どうしても到達できない、これは、本気になって、社会主義とは何かとか、資本主義とは何かとかっていうことを、ソ連のマネをしてきたってことじゃなくて、今度は本気になって考えていった問題が出てきた時には、小沢一郎の論理は及ばないですから、そのときは、みなさんの出番っていうのがくるっていうふうにお考えになったほうがよろしい、それは、10年か、15年あとに確実にやってくるってことになります。そのときに、モタモタしていることはないので、いまからそれはわかりきっていることですから、それぞれのやりかたで、そのところを目指せばいいっていうことになると思います。
こういうこととか、国民総生産ってこととか、産業構造ってことと、関係するんですけど、現在、日本の国民に、生活の程度についてアンケートすると、だいたい自分たちの9割1分の人は、自分たちは中流だっていうふうに言っています。とにかく、自分たちは中流だっていう人が9割1分はいます。それは92年度にそうなっています。91年度だったら、87%か、88%です。その前は、もうひとつ減ってたと思います。
つまり、そういう、わたし中流っていう増え方の度合いっていうのを数年間たどってみますと、その延長線で9割9分の人が、わたし中流だって、自分が中流だと思っている人が9割9分くらいを占めるっていうふうになるのは、そんなに遠くない、つまり、10年か、15年あとには、そういうときがやってくるわけです。そのときが、ほんとうの出番っていうことになるのではないでしょうかっていうのが、ぼくらの理解の仕方です。
そのときに、どういう考え方っていうのができてるかってことが、非常に大きな問題になるんだっていうふうに、ぼくには思われます。つまり、そのときには、ロシア的マルクス主義の考え方っていうのは通用しません。そういう考え方は、いまでももちろん、潜在的には通用しないんですけど、しかし、事態はなかなか深刻だよっていう、つまり、9割9分の人が、わたし中流だよって言いだしたら、それからあとは、1割の人が上流だってとこにいく以外に方法はないわけです。そのときが、たいへん重要な問題が出てくるって、ぼくは思います。だから、そのときの問題だっていうふうに、ぼくには思われます。ですから、それはたぶん、そういうところで出てくるだろうって、ぼくには思われるわけです。だから、国軍を廃止すべきだっていう問題が、本気の問題になるのは、そこのところじゃないかっていうふうに思います。
小沢一郎はもうすこし、国際的に、国連についても、いいことも言っています。日本は世界の核兵器を保有している国家にさきがけて、国連の中で、各国の国家の持っている核兵器は、国連が管理するっていう体制を、日本が先頭になって押しすすめなきゃいけないっていうふうに、小沢一郎は『日本改造計画』の中で言っています。
つまり、それだけのことで言っちゃえば、だいたい10年や、15年は完全に持つと思います。それでいいって言ってもいいと思います。それでいいじゃないかって言ってもいいし、おれはやだって言っても、いいって言っても、おんなじなんです(会場笑)。やだって言ってみただけ、ほんとにやだっていうことは、10年か、15年後に、かならずやってきます。そのときは、失礼なことを言って申し訳ないですけど、護憲だとか、そういうことを言ってる、そういうあれじゃダメなんです。積極的にあれしないとダメだから、いまどう言ってもいいと、ぼくは思ってます。でも、その問題は、かならずやってくるだろうって思います。
それからもうひとつ、小沢一郎の考え方で、欠点みたいだなって思うのは、一種の国連至上主義なんです。これは、みなさんの年代の前の社会党とか、共産党とか、あるいは、インテリっていうのは、しきりに言っています。ロシアマルクス主義、第三インターのペットっていうふうにやってきて、ひでえ目に遭ったっていうことはあるわけです。
どうして、ひでえ目に遭ったかっていうと、第三インターの終末期ですけど、第三インターっていうのは、ソ連国家も、あらゆる国家も超越した連合体だっていうふうに、そういうのが、名目上はそうなんですけど、実質上は、ソ連国家の養護、つまり、スターリン流にいえば、大祖国です。大祖国戦争みたいな、自分たちを養護しろっていうふうな道具に、みんな使われちゃったわけです。使われちゃった、苦い経験があるんです。
それとおんなじで、国連っていっても、現在の段階でいえば、イコール、アメリカの意向ですから、国連に協力してって名目を取りながら、実質上は、アメリカ一国の利益に奉仕しているみたいな面が、露骨に出てきているっていうことになりうる可能性がいっぱいあるわけです。これは、知識の問題、文化の問題から、政治の問題、経済の問題、ぜんぶ含めて、そういう可能性はいくらでもあるし、ある意味では、いまでもそうだっていうふうにいえば、云えるわけです。
つまり、不況を脱するために日本が黒字を減らせばいいとか、内需を拡大しろとか、それは、ヨーロッパとか、アメリカとか、赤字の多いところからいえば、そのとおりでしょうよってなるけど、そんなのハイハイ聞くことはないわけで、冗談じゃない、それよりも三者三様、先進国は全部、経済黒字っていうのには、どういう方法が可能なのかっていうことをやるっていうことのほうが大切なわけです。
アメリカは、日本に黒字を減らせ減らせばっかり言ってるわけです。それから、農業も、お米をはじめ、それから、ハイテク製品もそうですけど、どんどん市場を自由化して開放しろっていうふうに言っているわけです。それは、そのとおりです。先進国が当面している問題でいえば、そのとおりですよって、いちおうは言えるんですけど、もうひとつモヤモヤってしたところがあって、モヤモヤってしたところは、アメリカ経済がそういうふうにやると非常によくなるってことが、ちゃんとそのなかに入っているわけです。
自分たちの利益なのか、国際的な先進地域の全般の利益なのか、あるいは、世界経済の利益なのかっていうふうに問うていけば、なかなかそう簡単じゃないってニュアンスが出てきます。そういうことっていうのはありうるわけで、日本のインテリっていうのは、かつて、インターナショナルの問題で、散々な目に遭って、つまり、スターリン政治の、あるいは、ソ連国養護に奉仕しちゃったっていうことが、たくさんあるわけです。
だから、それとおんなじで、今度は、国連っていうことと、アメリカの意向っていうことと、イコールの部分だけは、あんまり、小沢一郎的に国連一辺倒なことをいうと、ほんとは世界経済のため、あるいは、世界文化のために言っているように思いながら、実は、アメリカに都合のいいことを言ってるに過ぎないっていう、日本のインテリゲンツィア特有の動向っていうのは、また出てくるかもしれないので、やっぱり、そこのところはよく考えなきゃいけないっていう問題だと思います。それは、いずれにせよ、10年か、15年のうちに、かならずあがる問題っていうふうに、ぼくには思います。
もうひとつ、社会党ですから申し上げるわけですけど、労働組合運動っていうのがあります。これは、公開されたデータでいえば、92年度で、労働者っていいますか、サラリーマンの22.4%が組織されている。これは、前年に比べて、0.2%減だって、いまはまたわかりませんけど、そうなっています。ただ、労働組合数っていうのは、前年に比べて、39個増えてるっていうふうに、データがなっています。これは、92年度で、そういうデータが出ています。
それで、ぼくは、先ほどから申している現状認識がそうですけど、つまり、消費主義段階に入ってしまったところの労働運動っていうのは、どうすればいいのかとか、何を主題にすればいいのかっていうのは、ほんとうなら、はっきりわかっていないわけです。
ただ、少なくとも、労働組合運動を生産の場、職場ってことに限るっていいましょうか、職場の生産段階を主体にして、労働運動を考える考え方がダメだろうなっていうことは、確実に言えそうな気がします。そのダメだろうなっていうののあらわれは、組織率の低下になってあらわれてきてるって、ぼくには思います。これは、自然にほっとけば、だんだんもっと減っていくだろうなと思います。
重要なことは何かっていったらば、違う意味合いです。つまり、消費資本主義段階における労働組合っていうものは、どうあるべきで、何をしたらいいんだっていうことっていうのを、ひとつは非常に明瞭に出さないといけないと思います。
いまはもう結局、いわゆる生産の場でできあがった労働者の権利を保護するためにできあがった労働組合のラディカリズムっていうのを、だんだん水にうすめて薄くしていっているのが、いまの現状だと思います。
たぶんそれは違うわけです。消費資本主義段階における労働組合は、何をすべきなのか、どういうやりかたが可能なのかっていうようなことは、よくよく理論的にも、ちゃんと考えないといけないってことがあります。ただ、現状の、昔からの続きの労働組合運動っていうのは、まずまず、だんだん減っていくだろうなっていうふうなことが言えるっていうことがあります。
その問題について、ぼくが考えていることで、唯一、言うことがあるとすれば、労働組合っていうのは、政党から離脱したほうがいい、あるいは、政党から独立したほうがいいっていうふうに思っています。これは、どこの政党とも独立した労働組合っていうのをつくるっていうことは、まず、必須前提であるような気がいたします。で、たぶん、消費資本主義にふさわしい労働組合のありかたとか、やりかたっていうのを、とにかくはっきりと、つかみだすことの問題があると思います。さしあたって、ぼくはそうだと思います。
逆なことをいいますと、いままで労働組合に依存してた政党っていうのは、逆に労働組合から手を引くってこと、手を引いてどうするんだって、かたっぽは先ほど言いましたように、小沢一郎さんでいいじゃないってことで、大臣にもなって、やるようになって、少しずつ、いいことを、自分が考えているいいことを、少しずつでも説明していくっていうやりかたをするのが、ひとつでしょうし、極端なことを言いますと、もうひとつはやっぱり、下野しちゃうってことだと思います。つまり、地域の市民運動とか、労働運動とかの中に下野しちゃうっていったらおかしいんでしょうか、下りちゃうっていう、そういうやりかた、極端にいうとそうなんで、下りなくてもいいですけど、下りたと同じようなことをされるっていう、そういうことがもうひとつあると思います。
つまり、道はふたつしかない、政党のほかをいえば、ぼくはそのふたつしかないって、そのことは、労働組合の側からすれば、政党としていえば、労働組合はできるって、つくれるっていうような、この24%のところで、それをつくるのもあるかもしれないけど、まったくそうじゃない、どんどんやめていっちゃった、そこでもってつくることを考えることで、正直いいわけなんですけど、とにかく、消費資本主義段階にふさわしい労働組合っていうのは何なのかっていうと、それは、政党から自立してっていいましょうか、独立しているって、政党員であるものは、労働組合員たりえないっていうクローズドショップ制の、そういう組合をつくって、何をやったらいいのかっていうことを、明瞭に打ち出しっていうことができれば、さしあたって、それでもって10年、15年は持つんじゃないでしょうか。また、それがあれば、10年か15年後にやってくる事態っていうのに、なんとか対応できるっていうことが、可能なんじゃないかなっていうふうに、ぼくには思われます。
それ以外だったら、ぼくはやっぱり、可能性がないから、99%がわたし中流だよって言ったら、ハイもうやることなしっていうことでやめてしまえばいいってことになると思いますけど、唯一のあれがあるとすれば、ここのような気がします。
ここらへんのところは、ぼくらからみたら、ぼくらがいまの段階でいえることの主要なことは、そこらへんのところに帰着していくような気がします。そうすると、そんなことは、いろんな人が言っているようにみえるかもしれないですけど、言ってる人はいないんです。ソ連型の社会主義みたいな、ソ連マルクス主義みたいなものを、だんだん、だんだんゆるくしていってっていうようなことの言い方っていうのは、いまでもたくさん、政党から、知識人から、組合幹部から、そういうことは言ってんだけど、ぼくが考えているのはぜんぜん違うことです。だいたい基盤が違います。
つまり、ぼくらが手放さないのは何かっていったら、ようするに、一般大衆っていうことを一度も手放さないっていうのが、ぼくらの考え方であって、一般大衆っていうことは、大衆の味方であるっていうこととは、ぜんぜん違うことなんです。それを手放さないで、出てくる問題っていうのを考えてると、たとえ今日申し上げたようなことに、帰着していくわけなんです。
どうして、一般大衆っていうことを手放しちゃダメなんだって、つまり、政党じゃなくて、一般大衆を手放しちゃ、いかなる政党もダメだっていうのは、どうして言うかっていうと、説明しましたように、すでに潜在的にいいますと、一般大衆の実力は、いつでも、声をそろえたら、どんな政府も成り立たないっていう、それだけの経済的実力っていうのを、一般大衆自体が潜在的には持っちゃってるっていうのが、世界の先進的な地域における実情だっていうことです。経済的な実情だっていうことです。つまり、消費資本主義っていいましょうか、高次産業資本主義っていうものの、本性っていうのは何かっていったら、一般大衆の経済的実力がそこまでいっちゃってるんだ。潜在的にいっちゃてるんだ。そうしたらば、いかなる政党といえども、これを基盤に据えないで、どんな政策も打ち出すことは、間違いだろうというふうに言うことは、非常に明瞭だっていうのは、ぼくの考え方になっていきます。
ある人が、ぼくの考え方っていうのを批評している中で、ぼくの考え方は基本的にふたつあるって言ってるんです。ひとつは、社会主義よりも、資本主義のほうがいいと考えていることがひとつと、それから、経済的な移行っていうのは、ようするに、自然史の過程であって、誰がどう頑張ったって、多少頑張れるだけで、ちっとも元へ戻すことはできませんよ。たとえば、農業が4%になっちゃって、それだと一国の食料をまかなうのがって言ったって、そんなのナンセンスだとぼくは思いますけど、それでも、いろんな政治党派で、政策として、農業奨励政策みたいなのをとれば、また農業国みたいのに戻っていくみたいな考え方っていうのは、ぜんぜん成り立たないんだよっていう、究極にいったら成り立たないんだよっていうのが、ぼくの考え方に確かにあります。
そのふたつは、主張した人はいいと思う。つまり、資本主義と社会主義っていうのは、資本主義のほうがいいんだと思ってるっていうのも、そういう言い方をすればそうなんです。でも、ぼくは、それは限定があるので、ソ連型の社会主義っていうのを、いってみれば国家社会主義なんですけど、国家管理社会主義なんですけど、それは、資本主義よりもダメだったなっていうことは、非常に明瞭に、ここ数年間の間に、明瞭に結果が出たと思ってるから、そういう意味でいえば、そのとおり、資本主義がいいと思っているって言っていいんだと思います。
もうひとつ、批評している人たちが見過ごしていることがあります。それは、ぼくは消費資本主義の段階に先進国が入ってから以降のことについて、ぼくは一般大衆っていう立場っていいますか、場所っていうのを離れて、公のことで発言したことはないのです。一度もないのです。つまり、ぼくのイデオロギーで発言したことはないのです。一般大衆の立場っていうのを考えた上で、それを基準にすると、ソ連の国家社会主義よりは、資本主義のほうがよかったよ、高度資本主義はそれに勝利したよっていうふうに思っています。それは、何を基準にして言うんだっていったら、それは、政治体制を基準にして言うんじゃなくて、ようするに、一般大衆の利害っていうふうにして、それを基準にしたときに、そう言っていいんだよって、ぼくは思っています。
それから、これだけのことについてもそうなので、一般大衆のことを抜きにして、論議したら間違えますってことを、ぼくは強調したいわけです。つまり、その理由は、ぼくなりの基盤があって、消費資本主義の段階に入ったってことは、それだけの実力を一般大衆が潜在的に持ってしまったっていうことを意味しますので、それを基準にして考えないと、どんな政策、社会思想っていうのもありえないっていうふうに、ぼく自身は思っています。
ぼくはよくケンカしますけど、マルクス主義とか、左翼の知識人だとか、進歩的知識人とかとよくケンカしますけど、あの人たちは、自分がそう思ってることを言っているだけで、ちっとも、一般大衆がどうだっていうことは、あんまり関係ないです。ただ、錯覚はしてるんです。自分が言ってることは、一般大衆もたぶんだっていうことは、錯覚はしてるけど、ほんとはぜんぜん一般大衆でもないですし、主観で言ってるだけなんです。
その主観っていうのはたいていは、ソ連社会主義の、あるいは、ソ連マルクス主義のそのレベルのあれをちっとも考えないで、思想でもって言ってるっていうことに過ぎないので、ぼくらがいちばんケンカしている相手は、そこであり、いまもあるわけです。それは、どういう基盤かっていうと、やっぱり、一般大衆の経済的実力っていうのは、潜在的にそこまでしちゃったっていうことの現状認識からきているわけです。その3か所のことを言ってくれるなら、ぼくは、ぼくの考え方はそのとおりですよってふうに、ぼくは言っていいと思います。
それから、ぼく、10年か、15年後って言ってますけど、社会主義っていうのは、先ほど言いましたように、3つの条件がなかったら、社会主義と言えないんだっていうことがあるんです。それは、10年か、15年後の、最小限、その3つの条件がとり急ぐんだってことは、非常に明瞭に出てくると思います。
そのときが、少なくとも、小沢一郎さんの考えている理論では、そこまでは届いていないと思います。ですから、そこのところでは、ダメになっちゃうだろうなっていうふうに思います。しかし、いま小沢一郎っていうのは、相当いいと思っています。いいこと言ってるんじゃないかなと思います。
それから、もうひとつはやっぱり、本気だと思います。それから、いまの段階では、ほんとに『日本改造計画』っていうのをお読みになればわかりますけど、インテリは、あいつはファシズムとかなんとか言いますけど、そんなことはないです。ものすごく、開明的です。社会党のソフトな部分も、とても温和な部分も、完全に入ってしまうぐらい、非常にソフトな考え方をしています。ちゃんと打ち出しています。だから、ちっとも乱暴じゃないと思います。
それで、本気だから、ちょっと怖いわけです。本気になった人っていうのは怖いですから、どんな人でも怖いですから、それは怖いからなんだかんだ言うんだと思います。ぼくはさしあたって、10年、15年の間は、その考え方でいっちゃうんじゃないかなっていう、文句言ったって、それは通らないんじゃないかなっていう感じはしています。
だけども、10年か、15年後には、それは終わるわけだっていうふうに思います。そのときは、本気になって、まだ最高所得と最低所得が、1:4.3ありますから、つまり、4倍はありますから、これはなんらかの意味で同等であるっていうふうになるっていうのは、人類の理想なので、それはいつなのかわかりませんけど、やることはまだたくさんあるってことになるわけだと思います。
でも、さしあたって、文句つけないでいえば、いちばんいいことは、しょうがないなっていうふうにやれば、ほんとにいちばんいいんですから、みなさん社会主義国のほうが貧富の差がなくなるなんて、もしかすると錯覚しておられるかもしれないですけど、そんなことはないです。日本国がいちばんいいんです。いちばん貧富の差がないんです。まだしかし、差があることはあるわけですし、不合理が至る所に転がっているわけですし、やるべきことはたくさんあるんですけど、基本的な点からいえば、そこらへんで、だいたい10年や、15年のところは、持っていっちゃうんじゃないのかなっていうのが、おおよそぼくらの考え方になっています。
ぼくらは、10年か、15年後に、やってくることに対して、ぼくは文学畑ですから、文学はどういうふうにやったらいいのかなとか、それから、思想をどういうふうにやったらいいのかなっていう、それから、国家の制度っていうのはどうやったらいいのかなみたいなことは、やっぱりいちばん自分の考えるべきことのように思って、それを課題にしているっていうのが、ぼく自身の現状です。
たぶん、その現状のある部分は、みなさんとも共通であるような気がいたします。でも、今日、新聞に出てましたみなさんの口上っていうのをみると、まるであれなんですね、憲法問題っていうのも、ぼくはちょっと違いますよね、護憲、護憲っていうのは、おもしろくないわけです。もっと積極的なわけなんです。護憲じゃないんです。やがて、国軍を廃止するっていうように、世界的な規模でそういうふうになっていくってことは、10年や15年の射程で、非常に明瞭なことなのですから、わざわざいまから変えることはないと思いますけど、また、護憲ってこともないので、ほっとけって感じは、ぼくはしますけど、あるところは、ぼくは共通の感覚で、共通の場所で考えるってことになってきます。みなさんがたも、そういう考えになっていると思いますけど、ある点では、たいへん食い違ってるなあっていうことになっていくと思います。
ぼく、こういう所得分配率とか、消費資本主義の段階に入ってるっていうことと、これは、少なくとも、10年、15年は続きますよっていう、そういうことだけは、共通に、あるいは、共有できるっていう共通なことであって、これは、どんな保守的な人でも、やっぱり共通にできることであるというふうに、ぼくは思っています。ですから、そこらへんは共通な基盤でいけるような気がします。それからまた、違ったところは、違ったところで、いたしかたがないところで、自分は自分なりにやっていこうっていうのが、ぼくの考え方です。
こういう考え方は、多少、参考になったかどうかわかりませんけど、いちおう自分が現在考えている問題の主要なところは尽してお話したと思います。ここで終わりにします。(会場拍手)
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