これから、文学教室の第4日目をはじめさせていただきます。本日は、途中に一回、15分ほどの休憩をはさみまして、吉本隆明先生おひとりの講演となります。演題は「芥川龍之介-『地獄変』『玄鶴山房』『或阿呆の一生』」です。では、先生よろしくお願いします。
今日は、『地獄変』と、いまご紹介にありましたように、『或阿呆の一生』と、それから、『玄鶴山房』と、その3つを中心にお話したいと思います。
『地獄変』は、芥川龍之介は『鼻』という歴史小説から出発したわけですから、『地獄変』を歴史小説の代表的なものと考えれば、この世界がどういうふうに発展してきたかっていうことを、できるだけ裾野を広くといいましょうか、それから、内容的にもできるだけ、この『地獄変』の世界っていうものを広げていくことで、たぶん、芥川龍之介の晩年を除いた作品の性格っていうのが、浮かび上がってくるんじゃないかっていうふうに思います。
本来的にいいますと、文学的にいいますと、芥川の歴史小説っていうのは、その前に鴎外の歴史小説があります。鴎外の歴史小説は、一種の事実小説といいましょうか、事実を記述するというスタイルをもった小説を考えれば、芥川の歴史小説は、ようするに、一種の歴史、あるいは、古典に取材した心理小説だっていうことに、文学的にはなると思います。
ぼくがここで申し述べたいことは、文学的なそういう性格ではなくて、『地獄変』の世界をどれだけ広げられるかっていうことの問題に、重点を置いていきたいっていうふうに思っております。
芥川の歴史小説は、『今昔物語』から、たくさんの素材を取ってきているわけです。晩年の『歯車』っていう、ちょっと異様な作品の中に、『地獄変』のことが出てきます。それは、自分でそう書いているわけですけど、『侏儒の言葉』という芥川のアフォリズム、短章があるわけですけど、そのなかで、「人生っていうのは、地獄よりも、もっと地獄だ。」っていう言葉があるわけですけど、芥川は、それと並べて、『地獄変』の世界っていうのは、まったくそれとおんなじなんだっていうことを申しております。
ですから、ぼくらはいま、『地獄変』っていう作品を読んでも、そんなに深刻なっていいましょうか、そんなに真剣な世界だっていうふうに思えないんですけど、芥川にとっては、悲観的に、必死に書かれた歴史小説だっていうことが言えるんじゃないかっていうふうに思います。
『今昔物語』っていうのは、平安末期に成立したとされている、日本で初めての説話集であるわけです。日本のことに関する説話と、それから、インドに関する取材した説話と、それから、中国に関する説話と、3つあるわけですけど、それを一種の仏教的な世界観みたいなもので取り上げて、それをたくさん集めた、日本で最初の説話集だっていうふうに言うことができます。
この説話集っていうのは、いろんな人がいろんなことを言っているわけですけど、ぼくらが、これは3つの典型だなって思うのは、たとえば、柳田国男って人は、『遠野物語』っていうのを書いているわけですけど、その『遠野物語』を書くにあたって、何を手本においたかっていうと、やっぱり、『今昔物語』を手本においたってことを言っています。
それから、もうひとつ記憶するのは、南方熊楠っていう、柳田国男とは対照的な、独学の一種の巨人がいるわけですけど、南方熊楠も『今昔物語』について、非常に寛容なことを言っていますし、また、『今昔物語』について、論争したりしています。
それから、あとひとつは、ようするに、芥川自身が小説の素材にしたっていうことと、もうひとつ、芥川には『今昔物語について』っていう、短い文章がありますけど、その文章で芥川の『今昔物語』をどういうふうにつかまえているかっていいますと、ようするに、これは非常に生々しい説話を集めたものだ、あるいは、説話の記述の仕方がいかにも生々しいっていうこと、それから、もうひとつは、生々しいと関係があるわけですけど、非常に野性的な物語集だって、つまり、『源氏物語』みたいな上品な、いかにも人を考えさせるってものとは違って、非常に野性的な、あるいは、もっと違う言葉でいうと、民衆的なっていうふうに言えるかもしれませんけど、野性的な説話集だっていうことと、もうひとつ言っていることは、「娑婆苦」っていう言葉が、芥川が好きな言葉なんですけど、つまり、人生についての苦しみとか、社会生活において起こってくる、あるいは、人間と人間の関係において起こってくる苦悩、苦痛っていうもの、そういうものを非常によく描いているっていうふうに芥川は言っています。これはやっぱり、『今昔物語』についての理解としては、ちょっとおもしろいっていいますか、非常に特筆すべき理解だっていうふうになると思います。
芥川は、野性的なっていうのと、生々しい、あるいは、肉感的なっていうのと、それから、娑婆苦についてや、人生苦について、よく描かれた説話が集められている、その3つの意味で、自分の歴史小説の素材として、わりあいにたくさん『今昔物語』から取っています。
で、ぼくらが『今昔物語』を根本的に規定すると、つまり、根本的に何なんだっていうと、文学史的にはもちろん最初の説話集っていうことなんですけど、日本で初めてつくられた、言葉による形態感っていいましょうか、かたちなんですけど、言葉による形態感っていうのが、はじめて、このなかで表現されたっていう、とても重要な物語だっていうことになると思います。
つまり、日本、あるいは、日本語でもいいんですけど、日本の言葉でいいますと、日本のかたちに対する感覚っていうのは、もともと地勢、あるいは、地形っていうものと、おんなじなわけなんです。つまり、日本語で、ある地勢について語るっていうことと、その地形につけられた名称を語ることとは、おんなじなわけなんです。つまり、地形名が、いわゆる地名ってことになります。
それから、もっとそこから派生することをいえば、日本人の姓名の姓ですけど、姓のだいたい7割がたは、地形からやってきているっていうふうに言うことができます。
つまり、そのような意味合いで、日本語における、あるいは、日本人における地形感覚、あるいは、地勢感覚っていうものと、それから、地名感覚っていうのはおんなじなわけです。たとえば、鎌倉なんか行くと、いまでもそういう地名の呼び方があります。扇が谷って、谷っていうのを「ヤツ」といいます。「ヤツ」っていうのは古い言葉でして、つまり、谷間みたいなものを「ヤツ」って言ったわけです。ですから、「ヤツ」がついている、何が谷っていうふうについている地名があったら、それは、古くからある地名で、それから、地形と同じかたちから出てきた地名っていうふうに考えればいいと思います。
それから、よく出てくるあれだと、「ナイ」っていうのがあります。いまでも、東北とか、北海道とか、沖縄とかには、よく残ってますけど、稚内とか、幌内とか、「ナイ」っていうのがついている地名があるでしょ、「ナイ」っていうのは、川とか、川のほとりとかっていうところの地名のことを「ナイ」って、むかし言ったわけです。ですから、幌内っていうのは、わりあい古い地名であって、古くから呼ばれている地名で、それはどういうところかって言ったら、川のほとりであるってことが、一目瞭然であるっていいますか、地名をみれば、それは川のほとりなんだっていうことがすぐわかるっていうふうに、地形名と地名とは、日本語では、最初に同じだったわけです。たとえば、沖縄のはずれに与那国島っていうのがありますけど、与那国島のいちばん大きい町っていうのは、祖納っていうんです。その祖納の「ナイ」っていうのは、もちろん古い、地名としても古いですけど、地形名です。川のほとりにあるところ、場所っていうところで、祖納っていうのが、与那国島のいちばん大きな町ですけど、祖納っていいます。
そのように、非常に古い時代の日本語によれば、地形名のことを地名にしたっていうのが、非常に始まりにくるわけです。そうしますと、それが、日本語におけるかたちの感覚と、それから、名前の感覚とが一致している例なんですけど、この『今昔物語』っていうのは、そういう意味合いでいいますと、共通な点は何かっていいますと、はじまりが、「いまはむかし」っていう言葉からはじまるわけです。それで、いちばん終わりのところは、「~となん語り伝えたるとや」っていうふうに、いちばん終わりにつく説話を、そういうふうにして集めてあるわけです。
そうしますと、これは、「いまはむかし」からはじまり、そして、「~となん語り伝えたるとや」っていうような言い方、つまり、語り伝えたそうであるってことですけど、そういうところで終わる説話が、『今昔物語』なんですけど、それはどういうことを意味するかっていいますと、はじめて、日本語の言葉の表現に形態感覚を与えた、この形態感覚は、概して、伝承、物語なわけですけど、形態感覚を与えたのが『今昔物語』だっていうことになります。
地形に対して、形態感覚を与えたのが地名であるとすれば、言葉に対して、ある形態感覚を与えた最初の集大成が、この『今昔物語』っていうことになると思います。それが『今昔物語』の根本的な性格になります。これをもし、しいてですけど、日本の地名と関連付けるとすれば、ただひとつ関連付けられます。
それは、どういうことかって言いますと、日本列島の地形っていうのは、とくに人が住むような場所における地形っていうのは、大別してしまいますと、たくさんありますけど、千差万別ですけど、それを大雑把に分けてしまいますと、ふたつあります。
ひとつは、みなさん、そんなことはご承知でしょうけど、前に海を控えまして、うしろにわりあいに低い山がありまして、海と低い山とに囲まれたわずかなところに盆地がありまして、そこに川が流れている、山のほうから流れて、それで海に注いでいる、そういう場所に、だいたい日本の町とか、村っていうのは、まずできているわけです。
もうひとつあります。典型的なのがあります。それは、かなり標高が高いところで、山に囲まれた盆地があります。それは、東北のほうに多いですけど、山に囲まれた盆地で、盆地自体がかならずしも、海抜が低くなくて、かなり高かったりするんですけど、でも周囲の山に囲まれた、かなり高い地形の盆地、あるいは、高原と言っていいような盆地がありまして、それで、そこの盆地に村が開けているっていうのが、日本における地形と、それから、住む人たちの住処とのかかわりあいです。
そのふたつが、日本における典型的な地形です。もちろん、囲まれた盆地の山と山の間をスーッと通っていくと、山道が細く通っていて、それをまた通っていくと、峠を越えると向こう側にまた、盆地が開けると、そこにまた村があったっていうふうに、ちゃんとなっていますけど、しかし、慨していえば、そのふたつが、日本列島における典型的な地形だっていうことがいえます。
そういうふうに考えますと、『今昔物語』における「いまはむかし~」からはじまって、「~となん語り伝えたるとや」っていうふうに終わる、この説話集は、地形と関連付けられますと、そのふたつの地形と関連付けられるっていうことになります。
つまり、日本の地形の感覚です。地形の感覚は、大別してふたつありまして、それとしいて関連付けようとすれば、「いまはむかし」「~となん語り伝えたるとや」っていうような、そういう終わり方っていうのは、これは、大きな大雑把な意味で、日本列島におけるふたつの大きな地形と関連付けられる言葉の表現だっていうことになると思います。つまり、しいて関連付けるとすれば、そういうことになっていきます。
これが、さまざまな人の古典物語を、現代に焼き直した、焼き直し方の原型に、よく使われる所以っていうのは、『今昔物語』っていうのは、ふつうわれわれが文学的に考えて、つまり、平安朝物語のひとつの説話タイプだっていうふうに考えるよりも、はるかに日本語の本質を、それから、日本の地形の本質と、はるかに強くつながっているってことが、『今昔物語』がさまざまなところで論じられたり、あるいは、小説家によって使われたりしている、ほんとに根底的な理由だっていうふうに、ぼくはそう考えます。
芥川もそのとおりで、極端に要約してしまいますと、『今昔物語』の登場人物に、近代人としての心理的な様々な動きですね、内心の内面の動きっていうのを与えたのが、芥川の歴史物語の、あるいは、歴史小説の基本的な性格だっていうことになります。
登場人物に様々な心理的なあやといいましょうか、近代人だけしか、そういう心理の働かせ方をしないんだっていうような、非常に複雑な、心理的なあやを、登場人物たちの心の動きに与えているんですけど、それもまた大別しますと、ふたつあります。
つまり、ひとつは、登場人物の心理が、他者との間に、ちょっと異常だと思われるほど極端な心理の動かし方をするっていうようなふうに、登場人物たちをつくりかえているってことがひとつです。
それから、もうひとつは、登場人物と言わないで、男女といえば、いちばんいいわけですけど、男女の間の心の動きかたっていうのに対して、やっぱり極端に複雑で、しかし、極端に深刻な心理的な意味を与えているっていうのが、芥川龍之介の歴史物語の特徴だと思います。そのふたつあると思います。
たとえば、『袈裟と盛遠』とか、『羅生門』みたいな作品でいいますと、これは男女の間の、非常に複雑にして深刻な関係の仕方、あるいは、心の動かし方の世界を描いているわけです。たとえば、『袈裟と盛遠』でしたら、むかし、すこし馴染だった袈裟と盛遠、盛遠は盗賊みたいなことをやっているわけですけど、袈裟はすでに結婚しているわけですけど、たまたま年を経て出会って、それでまた、昔の関係が、よじれが戻ってきて、関係して、深みにはまって、袈裟の主人はそれを知らないんですけど、深みにはまっていくと、そして、だんだん深みにはまっていくにつれて、女のほうから、うちの亭主を殺してくれって言われて、盛遠のほうからいうと、あの人のいい亭主を殺しちゃうのは嫌だけど、ふたりの関係を保っていくには、それも仕方がないっていうふうに決心する。
で、そういう決心の仕方をする場合の、女性と男性の側の心理の動かし方の違いとか、深刻さっていうようなものを、非常に見事に、近代小説でなければ描けない複雑さと、微妙さで描いているのが、『袈裟と盛遠』の世界です。
これと対照的に、たとえば、今日の主題になっている『地獄変』っていうのは、そうじゃなくて、人間が憑かれたようになっていったときに、どういう異常な心の働きかたをし、どういう異常な行為をするかってことを、これもまた、近代小説でなければ、到底ありえないような、複雑さと深刻さで描いてるってことになると思います。
『地獄変』でいいますと、ある大臣に仕えている絵師がいまして、この絵師が特異な性格を持っていて、ちょっとキチガイじみたっていいましょうか、憑かれたような、殊、絵に関してくると、憑かれたようになってしまう、それで、周囲からは敬遠されるんですけど、ご当人はいっこう構わないで、憑かれたようなふるまい方をする。弟子たちに対しても、弟子たちを縛ったりして、それで、弟子たちが苦しんだり、もがいたりするところを写生して、それを絵の素材にするみたいなことを、平気でやるようなんで、他人からは敬遠されるんですけど、たいへん名人だっていうふうに、当代に名人だっていうふうに言われるようになるわけです。娘がひとりいて、きれいな娘で、同じように大臣のところに仕えているわけです。
あるとき大臣の、いじわるさっていいますか、いじわるさも、冷淡さも含めて、欲しさも、もちろん含めてですけど、「地獄変」を主題にした屏風絵を書いてくれっていうふうに、良秀っていうんですけど、その絵師に依頼するわけです。絵師はそれを承知して、散々、苦労するわけです。
散々、苦労するんですけど、最後にどうしても、構想の頭の中にはあっても、どうしてもそれを描けないっていう場面が、ひとつあるわけです。それは空中高く、牛車といいましょうか、乗り物車が空中高くから落ちてきて、落ちてきたところから、中に乗っているきれいなお姫様が、そこから転げ落ちそうになって苦しんで、下のほうから炎が燃え盛ってて、そのなかに車が落ちていく、そういう場面を、屏風絵の中心として、イメージをしているんですけど、どうしてもそのイメージがうまく描けないってことで、その絵師は、あるとき、仕えていた堀川の大臣に、そういう場面を描こうとしているんだけど、どうしても描けないんだ。それで、どうか実際に御所車に女性を乗せて、それが落っこちてきて、下から火が燃えてて、中に乗っているお姫様が苦しむっていうような、そういう場面をつくってくれないか、つまり、モデルにしてつくってくれないかって、そうでないと、どうしても自分はそれを書くことができないっていうふうに、その絵師が言うわけです。
それで、堀川の大臣が承知して、よしわかったと、すぐに再現してみせてやるから、それを写生するがよいって言われて、そういう場面を、車をもってきて、中に女性を入れて、それでひっくり返して、火をかけるっていうようなことを、実際に絵師にやってみせるわけです。ところが、その中に乗っている姫君っていうのに、大臣は、自分に仕えている絵師の娘を使うわけです。ある意味で意地悪く、ある意味で仕方なくっていいましょうか、そういうことで、娘を結わえて、車から落っこちて、炎の中に落ちていく、そういう場面を実際に再現するわけです。
絵師はびっくりするんですけど、憑かれたようにその場面を写生して、それをもとにして、「地獄変」の屏風絵を注文どおり仕上げる、それで、仕上げて、それを堀川の大臣に献上して、その日か、その翌日か、すぐに自分も首を吊って、自殺して死んでしまうっていう作品が、この『地獄変』っていう作品です。
芥川の歴史小説の中では、先ほど言いました、男女のそういう複雑で、微妙で、奇怪な、そういう心理状態っていうのを表現した歴史小説と、それから、いくつか代表作があるとすれば、『地獄変』っていうのは、典型的にもうひとつのタイプの代表作であるわけです。
この『地獄変』は、いま現在、これは芥川の作品全般にいえるわけですけど、現在のぼくらが判断すれば、芥川がつくってきてる物語っていうのは、全部そういえばそうなんですけど、ちょっと誇張がひどくて、この場合でも、何を表現したいかっていうと、たぶん、良秀という絵師の心の地獄っていうことを表現したいために、この作品を書いていると思うんですけど、心の地獄を表現するっていう場合に、芥川はこれでもか、これでもかっていうように、地獄っていうのを誇張するっていいますか、強調するわけです。強調するから、深刻にはなるんですけれど、現在のぼくらからみると、やりすぎじゃないかっていう、つまり、かえってリアリティが薄くなったり、かえって、すごさっていうのが薄くなっちゃうんじゃないかっていうふうにしか、理解できないんですけど、先ほど言いましたように、『歯車』で、「人生は、地獄よりも、もっと地獄なんだ。」っていう言葉と並べて、この作品を取り上げている、自分で言及しているように、芸術家、あるいは、文学者としての自分の地獄の苦しみっていうのも、象徴させるつもりでもって、たぶん、良秀という絵師に託して、非常に、芸術行為の奥に潜む地獄の中の地獄っていうのを描きたいっていうのが、この作品のモチーフだと思います。
これは現在、ぼくらがどんなに誇張しすぎで、かえって感銘が薄いよっていうふうに理解しようと、そうでなかろうと、芥川にとっては、大変おおまじめなっていいますか、まともなっていいますか、本格的な作品だった、本格的に描こうとした。その中に、いわば、自分の文学者としての苦しみっていいましょうか、それもいっしょに込めたかった、そういう作品だっていうふうに言うことができます。
そうすると、ここまで地獄変という作品を引き伸ばして考えてしまいますと、地獄変が大正7年で、中期の代表作っていったらいいと思いますけど、そうすると、大正7年、8年っていう、脂が乗りきって、芥川のいちばん元気がよくて、はりきった、そういう時代の作品っていうのに、この『地獄変』の世界っていうのは、多種多様ですけど、引き伸ばして考えることができると、ぼくは思います。
つまり、それを極端に引き伸ばしてしまいますと、たぶん、芥川の中期の代表的な作品っていうのは、ぜんぶ覆うことができるんじゃないかっていうふうに思われます。たとえば、歴史小説の書き方として、この時代に、ひとつのタイプをこしらえるわけです。
それは、『地獄変』と書き始めのところがおんなじわけですけど、たとえば、登場人物じゃなくても、これこれのことを考えたり、行ったりする事実っていうのは、人間にはありうるものだっていうようなことを書き始めのところで、作品の、物語の書き始めのところで、いわば、作者が直接説明するようなかたちで、そういう書き方をしました上で、本題の歴史小説に入っていくっていうタイプの、作品のやりかたっていうのを、芥川はこの『地獄変』でもってはじめて、つくりあげていきます。
たとえば、同じ頃に、『西郷隆盛』っていう作品があります。これは、汽車の中で、ちょっと知ってる人と出会って、それで、話が弾んで、そうすると、その人が、「あなた、西郷隆盛が西南戦争で、城山で討ち死にして、切腹したっていうようなことを信じてるか。」って、で、信じてると、そういうふうに記録されて、書かれているから、自分は信じてると、そうすると、「いや、ほんとはそうじゃないんだ。西郷隆盛は死ななかったんだ」っていうふうなことを、語って聞かせるっていうのが、この『西郷隆盛』っていうのの筋なんですけど、それはやっぱり、最初のところ、ちょっと読んでみますと、「尤も、後になって聞けば、これは「本間さんの西郷隆盛」といって、友人間には有名な話のひとつだったそうである。」っていうことを、はじめに断わって、西郷隆盛は死ななかったっていうふうに、本間さんって人が語って聞かせる話をしているわけです。つまり、話をつくっているわけです。本来は、つくられた話なんですけど、はじめのところにそういう断わり書きをする。
そうすると、どういうことが出現するかっていいますと、フィクションでないようなふうな断り書きをしながら、中の描写を、フィクションでないような書き方をしながら、本題の物語はフィクションだと、つまり、フィクションでない記録のようなかたちをとりながら、フィクションだっていうことが、こういう断り書きをすることで、可能になってくるわけです。
これは、たとえば、鴎外の歴史小説は、徹頭徹尾、これは、文献の記録をピックアップして、選択して、描いたあれで、ちっとも嘘が含まれていないじゃないかっていう書き方を、鴎外の歴史小説は、とくに自然小説はしているわけです。それは、ほんとうかもしれないけど、ほんのちょっとだけ、1割か、2割くらいは、フィクションがちゃんと鴎外の場合も、鴎外の自然小説だって、ちゃんと入っているわけです。
そのフィクションは、主として、選ぶ、記録の選択制ってことにあらわれてくるわけですけど、芥川はそういうことをしたい、つまり、鴎外のようなことをしたいわけですけど、その場合に、芥川は、はじめに、これは有名な話だそうだといいながら、そういう断り書きをはじめにしといて、ただのお話、自分が汽車の中で聞いたお話っていうようなスタイルをとりながら、ほんとはそれがフィクションなんだっていう書き方をしているわけです。
この書き方のタイプは、『地獄変』ではじめて獲得したっていうふうに言うことができると思います。つまり、あるスタイルを獲得したっていう意味合いでも、この『地獄変』は象徴的な作品だっていうふうに考えることができます。
この書き方を引き伸ばしていきますと、芥川の中期の脂の乗ったときの重要な作品のほとんどは、この書き方と、それから、この『地獄変』っていうもののモチーフとに入り込んできてしまう、つまり、歴史小説のモチーフの中に入り込んでくるっていうようなことが云えると思います。
それをいくつかあげてみます。たとえば、ぼくなんかはとても重要だと考えている芥川の作品の中に『開化の殺人』っていう作品と、『開化の良人』っていう作品と両方、ふたつあります。これは、一種の文明開化の悲劇物語なわけで、また、芥川が文明開化ってことで、何を考えていたかってことが、とてもよくわかるあれなんですけど、たとえば、『開化の殺人』っていうのは、ひとりのお医者さんがいまして、そのお医者さんに、自分のいとこで、子どものときから馴染んで、好きな女の子がいるわけです。北畠ってお医者さんは、自分は、長じて、医学校を出て、留学して、外国へ行っているわけです。その間に、そのいとこは…ごめんなさい、それは『開化の良人』のほうだ。留学している間に、自分があこがれていた女の人が、銀行家と一緒になってしまうわけです。
銀行家と一緒になるわけですけど、自分があこがれていた女の人が、放蕩無頼な富豪だってことで、有名な富豪に、お金の代償にさらわれるように結婚してしまうことが前にありまして、留学から帰ってきて、そのことを聞きまして、自分があこがれて、あなたが好きだってことも言えないし、もちろん、触れたこともないっていう、そういう女の人がさらうようにして、お金の代わりに、自分の細君にしてしまって、それで、細君にして、その挙げ句に、放蕩無頼はまだ続いてっていうような、そういうことをやっているっていうことが、ものすごく悔しくてしょうがないってことで、その富豪の男性がたまたま急に胸が痛くなったみたいな、心臓の発作みたいなそういうことが起こって、医者として呼ばれるわけですけども。
あいつは殺しても飽き足らないっていうふうに思って、自分のあこがれの人をとってしまっただけではなく、とった挙げ句にまだ、それをないがしろにして、ほかの女性と放蕩を続けているってのも、悔しくてしょうがなくてっていうことも含めて、殺しても飽き足らないと思っているわけですけど、心臓発作みたいのを起こして、急に呼ばれて、診察に行った時に、薬をその男に与えるわけですけど、その薬が、ある時間たつと、まったく突然の心臓マヒと同じような感じで死んでしまうっていう、そういう薬を与えるわけです。それで、自分の与えた薬のとおりに、放蕩無頼の男は、しばらく経つと、まるで心臓マヒの発作が重なったみたいなかたちで、死んでしまうわけです。
それで、自分のあこがれていた女性は、解放されるわけですけど、ご当人はそれで満足だって思うわけで、そのひとりになってしまった女性に対して、自分はまだ、あこがれの心を抱いているんですけど、自分の友達の本多子爵っていうのがいるんですけど、その本多子爵っていうのもまた、その女性にあこがれて、一等初め申し上げましたとおり、本多子爵と明子っていうのは、また再婚するわけです。
それで、その北畠っていうドクトルは、つまり、医者は、自分の親友と一緒になってくれたってことで、満足だって考えると同時にまた、悔しくてしょうがないってことも含まれるんですけど、でも、その本多子爵っていうのは、たいへん、その女性を大事にしてくれるってことで、満たされもするわけで、本多子爵に対して、恨みがましい気持ちっていうのは、ちっとも抱かないで、満たされているわけです。
ところで、ふたりの、本多子爵っていうのと、自分のあこがれていた女性の再婚が非常にうまくいくってことがわかって、そのわかったってことが、自分で納得できたときに、北畠という医者は自殺してしまうわけなんです。その自殺してしまった遺書があって、その遺書のかたちっていうのが、この『開化の殺人』の本題の物語になっているわけです。
そこで、自分の気持ちをぜんぶ告白するわけです。つまり、好きだった所以から、放蕩無頼の富豪っていうのを、心臓マヒといってるけど、ほんとは自分が殺したんだ、自分が薬を与えて殺したんだ、それは、誰にも告白することができないし、これは、検視のお医者さんは、やっぱり心臓マヒだっていう診断を下したから、自分は、殺人罪に問われることはないできたけど、ほんとをいうと、自分が殺したっていうことは、間違いなくそうで、それは、いつか罪に服しようって思っていたけど、あなたと、自分があこがれていた女性とが、ちゃんとした結婚をして、無事平穏にっていいましょうか、円満に生活を成り立たせるってことがわかったいま、自分は同じ薬を飲んで、自殺するつもりだってことが、その遺書のなかに書かれていて、北畠というお医者は、自殺してしまうってところで終わります。
それがその『開化の殺人』っていう物語なんですけど、何を開化っていうことで、芥川が言いたかったかっていうことは、ふたつあるわけです。ひとつは、ようするに、師匠にあたる夏目漱石の主たる作品っていうのは、全部、男女の三角関係、つまり、親友に、自分の好きな女性を譲ってしまったんだけど、のちになって、その女性が困ったり、不仲になって困っているのを知って、自分がその女性をまた奪ってしまうっていう三角関係っていうのが、漱石の作品の非常に大きな主題なわけですけど。
それと同じように、芥川にとっても、この『開化の殺人』っていうのと、『開化の良人』は、漱石の主題を、水は薄まっていますけど、受け継ぐかたちで、書かれた、かなり重要な作品だっていうふうに、ぼくは思いますけど。
ここで芥川が開化ってことで、何を言いたかったかっていうと、女性っていうことに対して、旧来でありますと、男性にとって女性っていうふうにいいますと、吉原とか、柳橋とか、向島とかっていう、いわばプロの女性たちがいるところでの女性との関係っていうのが、主たる関係となって、これを清算したり、しなかったりして、ふつうの家の、ふつうのお嬢さんっていいましょうか、ふつうの娘さんと結婚するっていうことが、明治以前には、非常に流通していた、あるいは明治になっても一般に流通していた女性観なわけですけど。
ここで開化ってことで、芥川が言いたかったのは、女性っていうものに対して、男性が、本来的にそれがリアリズムであるかは別として、過剰な思い入れをする。つまり、一方では、『開化の殺人』の場合には、過剰な思い入れが、一種のあこがれとか、純粋化っていいましょうか、そういうものとして、女性に対して、徹頭徹尾、あこがれを抱いて、それでもって終始して、それで死んでしまうっていうような、そういうことをする男性を描くことで、明治以降の文明開化っていうものは、まず、男性にとって、どういうものだったかっていうことを、芥川っていうのは言いたかった。
これは、主題でいえば、一種の淡い、漱石ほど露骨ではなんですけど、一種の三角関係としてあらわれるわけですけど、ほんとうで開化っていうことを言いたかったのは、女性っていうものに対して、文明開化の男っていうのは、どういうふうに考えたかっていうことを考えて、どういうふうに考えて、どういうふうにそれに身を処したかっていうことを、極端なまでに描きたかったっていうことが、たぶん開化ってことの芥川における意味であるわけです。
これは、漱石における近代ってことの意味が、三角関係、男女の関係としては、自然であるけども、制度としては、けっして自然ではないっていう三角関係、いまでいう不倫関係ですけど。不倫関係の挙げ句に、友達とか、知り合いの女性を、結婚している女性を奪ってしまって、そして、自分たちはひっそりと暮らすみたいな、そういうやりかたをするみたいな、漱石の主人公たちのやりかたなんですけど、男女の間には、自然的な関係、つまり、好きなものは好きじゃないかって、相手が結婚してようとしてまいと、好きなものは好きじゃないかって、相互に好きだっていう自然さの愛があるならば、結果として、制度に反することになったって、それは、仕方がないことなんだ。また、それが罪だっていうなら、それは管理しなきゃいけないっていう、そういう感じ方が、近代の大きな感じ方だっていうのが、漱石の小説の、大きな主題なんですけど。
芥川の場合には、はじめから、男性っていうのは、女性っていうのを、どういうふうに考え、どういうふうに扱うってことが、文明開化の意味であるかっていうことを、芥川は主題にしたわけです。それは、『開化の殺人』のひとつの主題であるわけです。
これは、もうすこし、漱石よりさかのぼりますと、北村透谷みたいな、非常に早熟の天才みたいな人が、はじめにそういうことを考えたんです。つまり、徳川時代における女性っていうものの理想は、粋だって、米へんに卒業の卒と書く、粋ですけど、つまり、吉原とか、遊郭とか、そういうところにおける、女性の心意気をもった玄人の女性っていうものが粋であって、それが、ある意味では、徳川時代の平民思想のひとつのあらわれであって、それが、明治になって、つまり、近代になって、それがどういうふうに変わるかっていうと、ようするに、ふつうの女性に対して、透谷は自分を厭世的な詩人だっていうふうに考えていたわけですから、厭世的な詩人にとって、現実の世の中に対して、あるいは、現実の社会に対して、戦って敗れたときに、唯一拠り所になるのは、女性なんだっていうふうなのが、透谷の思想なわけです。
透谷は一生懸命それを、徳川時代と比べて、一生懸命、強調したところで、透谷の、ほんとうの意味での独創思想っていうのは、唯一それだって言っていいくらいに、透谷はそれに真剣だったわけです。つまり、命を懸けたわけです。だから、石坂美奈子との恋愛にも命を懸けましたけども、自分の思想にも命を懸けたので、つまり、徳川時代における、遊女の持っている心意気っていうものの世界と、明治になってから、近代における女性の、厭世詩人の、詩人が現実から敗れたときに、現実社会から敗れたときに、唯一拠り所になってくるのは、女性なんだっていう、そういう意味の、独立した女性っていいましょうか、それが唯一の拠り所なんだって考えた、その女性との対比の上で、唯一、透谷の独創的な思想はそこであったわけですけど。
これは、大なり小なり、漱石にとっても、また、その後の芥川にとっても、それは、そういう意味合いで、文明開化っていうのは何なのかって言った場合に、それをまっすぐに象徴できるのは、女性、あるいは、女性に対して、どう男性が付き合うかっていいましょうか、対応するかってことのなかに、文明開化の意味があるんだってことを、探っていったってことが言えるわけです。
これは、漱石と鴎外と違うところなので、鴎外は玄人筋にもうけるわけですけど、自然小説もうけるわけですし、また、それだけの作品でもあるわけですけど、鴎外っていうのは、半分は遊女の世界っていいますか、粋の世界とか、心意気の世界とか、あるいは、遊郭の世界とか、半分は、鴎外はそこに浸っているわけです。
だから、よく柳橋が舞台になった小説が、鴎外の中には出てきますし、また、実生活の上でも、はじめの奥さんと別れて、2番目の奥さんをもらうときの間には、鴎外は、お袋さんの差し金でもって、ようするに、玄人筋の女性っていうのと付き合いがあって、それがたぶん『雁』っていう作品のおたまさんっていうお妾さんがいますけど、その『雁』っていうのは、非常にいい作品ですけど、どうしてこんなことをよくわかるものだねっていうくらい、よくわかられたお妾さんの世界ですけど、それは、鴎外の実体験に基づくというふうに言っていいんです。その間に、お袋さんが世話した、そういう女性との付き合いがあるわけです。それで、もちろん、次の奥さんと一緒になる時には、お袋さんが出てって、お金を払ってっていうふうにして、別れさせてってことをやった人だし、鴎外自身も、それは、半分は承認してたっていいますか、半分はそういう世界っていうのを肯定してたっていいますか、慣れてた人です。
鴎外と漱石の間は、たぶん、10年か、15年の隔たりです。いまで言うと、次世代ってことになるのかもしれません。つまり、半世代ないし次世代ですけど、もうそれだけ違っちゃうわけです。鴎外も第一等の近代知識人ですけど、鴎外にとっては、半分は紅灯の巷っていいましょうか、遊女の世界っていうのは、半分は生活的にも、あるいは、作品の上でも、半分はわりあいに慣れ親しんだ世界であったわけです。
そういうことで悪口をいうとすれば、ドイツ留学時代に仲良かった踊り子のエリスっていうのが、わざわざ追っかけてきたのに、なんかやっぱり、親類縁者が出てきて、お金をあれして追っ払っちゃったっていうことがあるわけで、なんてやつだっていえば言えるわけですけど、しかし、鴎外にしてみれば、それはわりあいに慣れ親しんだっていいますか、まだ江戸時代のなごりがあって、それができた人です。
ところで、漱石っていうのは、一切それができなかった人です。つまり、漱石において、はじめて近代における男性対女性の関係っていうのがこうなるという問題と、それから、こうなることがありうるという問題と、それから、男女の間の自然の情愛っていうものと、それから、制度がつくる、家族制度っていいますか、制度がつくる結婚っていうかたちとは、矛盾することっていうのはありうるんだよっていうようなことを、はじめて、近代の象徴として描いたっていうふうに言うことができます。
そうしますと、芥川の『開化の殺人』っていうのは、まったくその世界に連続していくわけです。この世界は、『地獄変』の中になかったかっていうと、それはあるわけです。つまり、『地獄変』の中には、男女の仲として出てこないんですけど、父親と娘の関係としては、みごとに深刻極まりないところまで出てくるわけです。極端なことをいうと、自分の芸術のためには、火でもって炙り殺されちゃうっていうのも、仕方がないっていう感じにしておいて、それでもって、自分は、絵が完成したときに、自殺してしまうっていう、そういう父親と娘との間柄っていうのがありうるんだっていうことが、『地獄変』の中で、古典に材をとっていますけど、近代小説そっくりの、非常に微妙な心理を交えたかたちで、それを描いているわけです。
ですから、この描き方を延長して、素材を文明開化、明治以降にとれば、『開化の殺人』みたいな作品が、かならずそこから芥川のモチーフとして出てくるってことが云えるわけです。
『開化の良人』っていうのは、おんなじように文明開化とは何かっていうことを、『開化の殺人』とは、ちょっと逆な意味で言っているわけです。これは、本多子爵っていうのが、今度は主人公になって出てくるわけです。本多子爵っていう主人公は、男女の間の仲っていうのは、愛なくしては、成り立つわけはないし、また、成り立たせてはいけないんだ、で、愛がなければ、また、一緒になってはいけないんだっていうことを、いわば、本多子爵っていうのは、自分の心の中のモットーにしているわけです。だから、愛のない制度による結婚みたいのが、どっかに入っているような、そんな結婚は自分はしたくないんだっていうのが、本多子爵の文明開化の心意気であるわけです。
そして、自分の好きないとこが、子どもの時から仲のよかったいとこがいるわけです。そのいとこが、なんか子どものときに仲良かっただけじゃなくて、娘さんになってからも、自分が成長してからも、非常にその娘が好きだっていうふうに言って、それで、その娘さんと結婚するわけです。
これも、『地獄変』とおんなじで、わたくしっていうのが、本多子爵の友達であって、わたくしが、本多子爵から聞いた話として、それが書かれているわけです。それで、愛があるっていうことで、娘さんと結婚するわけです。ところが結婚してみると、ひとつは、その娘さんには、いとこの男の子が、つまり、年下の男の子が、くっついていてっていうのはおかしいですけど、見え隠れしていて、結婚して3か月くらい経つと、そのいとこっていう男は、つきまとうみたいに、そこに出入りしたりしてくるわけです。それで、本多子爵は、自分は、相互に愛あるつもりで結婚したけど、そうじゃないのかもしれないなっていうふうに疑いだすわけです。
それから、もうひとつは、反省しだして、自分は愛ある結婚だっていうふうに思ってやってきたけれど、もし、いとこっていうのが、ほんとうに自分の細君と、ほんとうに愛情があるのだったら、自分は身を退いてもいいなっていうふうに、いつでも考えるようになるわけです。
ところで、自分の細君っていうのは、今度は、それだけじゃなくて、その頃、女の実業家で、男勝りの実業家で、浮名を流しているような女性がいるわけですけど、その女性としょっちゅう一緒にくっついて、やっぱり、紅灯の巷に出入りしたり、あるいは、男遊びをしたりっていうようなことを、自分の奥さんがやりだすわけです。
それでとうとう、自分の奥さんに、ほんとに自分は愛情があるつもりで結婚したけど、もし、おまえが、いとこがほんとうに好きだったら、自分は身を退けるからっていうふうに言うんだけども、そうでもなくて、ようするに、ただの一種の放蕩遊びをしているっていうような、そういうふうなだけにみえるわけです。それで、とうとう決心して、離婚してしまうっていう、そういう話なわけです。
それで、何が開化かっていうと、本多子爵が心に抱いている、愛がなくて、男女っていうのは、一緒になったり、親しくなったりしてはいけないんだっていうふうに考えて、それをつらぬいたつもりで、結婚するんだけど、ほんとうはそうじゃなかったっていうことがわかって、それで離婚してしまうっていうような、そういうところに、本多子爵が抱いている文明開化の、一種の理念っていいましょうか、女性に対する理念っていいましょうか、思想っていうのがあって、それで、それをつらぬくっていうことが、『開化の良人』っていう作品のモチーフだと思います。
つまり、これは、『開化の殺人』の場合と、ちょうど逆な働きなんですけど、でも、両者とも、男性っていうのが、女性に対して、どういう純粋な理念っていうのをもって、処しなければいけないっていうふうに、日本の文明開化は、考えたかっていうことを、芥川は芥川なりに、非常によく追及しているわけです。
たぶん、このモチーフは、芥川が、漱石の作品から、たくさんのヒントを得たっていうふうに、ぼくには思われますし、また、漱石・芥川っていうようなものを、一種の漱石山脈っていうならば、芥川はやはり、漱石山脈の二代目で、いろんな意味で、さまざまな意味で、漱石の抱いた問題意識っていうのを、芥川も抱いたんだっていうことが云えると思います。
漱石山脈の三代目は誰なのかっていうふうに言いますと、たぶん、これは小説家ではないですけど、小林秀雄っていう、近代の大批評家ですけど、小林秀雄がたぶん三代目であって、いわば、意識的にないし、無意識的に、漱石が抱いた女性観っていいましょうか、それとおなんじことを、たとえば、小林の場合には、中原中也っていう友達の詩人ですけど、間に、ひとりの女性をめぐって、やっぱりおんなじことをやっています。おなじことをやってるって言うと、なんか、やるのがいいようなあれですけど、そういう意味じゃなくて、日本の近代の中にある不毛な部分っていうか、かたわな部分っていいましょうか、どうしても、西欧近代並みにいかないよっていう、そういう部分があって、それをもし、女性との関係において、象徴させるとすれば、だいたいそういうことはありうることだなっていうことが言えちゃうんじゃないかと思います。
もちろん、それぞれの文学者の資質、生まれついた資質っていうのもありますから、それだけでは言えないのですけど、でも、このモチーフっていうのは、日本の近代小説の中で、非常に大きな部分が背負っているモチーフだっていうふうにいえば言えると思います。芥川は、まことに典型的に、その部分を背負ったっていうふうに言うことができると思います。
しかし、芥川の作品の経歴からいえば、もう『地獄変』みたいな作品を書いたり、『袈裟と盛遠』みたいな作品、あるいは、『羅生門』みたいな、そういう作品っていうのを書いたときに、すでに、そのなかに兆してたっていうふうにいえば言えると思います。かならず、ここまではいくんだっていうところへ、兆してたっていうことは言えると思います。
ですから、『開化の良人』とか、『開化の殺人』っていう作品もまた、『地獄変』の一種の延長線で理解することもできるっていうふうに思います。だんだん、この問題は芥川のなかで、つまり、悲劇的なかたちっていうのをとっていくなっていうふうに、言うことができると思います。なおこの『地獄変』の世界っていうのを引き伸ばしていくっていうふうに考えます。これは、一種のモラルっていいましょうか、芥川が抱いた倫理観とか、芸術観っていうのに、関連していくわけですけど、引き伸ばすことができると思います。
ぼくらが好きな作品でいいますと、『蜜柑』っていう短編とか、『沼地』っていう短編があるわけですけど、ぼくらがとても好きな作品です。『蜜柑』っていう作品を例にとりますと、いろんな意味でも、芥川の本音に近い素質っていうのが、いろんな意味で出てきているところなんですけど、作品なんですけど、非常にいい作品だと思います。
『蜜柑』っていう作品は、芥川が鵠沼かなんかに住んでいたときだと思います。東京へ列車でもって、通っているわけですけど、そのときのことなんですけど、そのときのエピソードが主題なんですけど、二等車に乗って、いいかげん厭世的になっている芥川なんですけど、つまり、この人生っていうのは嫌だなぁっていう、つまり、芥川の好きな言葉でいえば、娑婆苦に満ちていて、この娑婆は嫌だなっていうふうに、いつでも芥川が厭世的になっている、透谷のいう厭世詩人になっている、厭世散文家になっているときなんですけど。
二等列車で、鵠沼から東京のほうに通っているわけですけど、そのときに途中から、いかにも田舎娘らしい着物を着て、風呂敷包みを持った女の子が、二等車の中に乗りこんでくるわけです。芥川は、何もかも面白くないと思って、神経をとがらせているものだから、なんでこんな娘が、こんなところに来たんだっていうふうな顔をして、そういうふうに思って、こんな不都合なこと、不合理なことはねえとか、おもしろくないことはねえっていうふうに思うわけですけど、思ってるのもかまわず、その娘が、自分の席の前のところへ割り込んできて、窓を開けるわけです。むかしの列車ですから、窓を開けるわけです。そうすると、列車の、昔は煙がよく窓から入り込んでくるわけですけど。それから、石炭臭い油煙が、いっぱい入ってくるわけですけど、そういうのもかまわず、その娘は窓を開けるわけです。そうすると、ますます芥川は不機嫌になって、そういうところは、誇張なんですけど、芥川の誇張なんですけど、ここは二等で、こんな娘が入ってくるところじゃねえんだみたいなふうに、芥川は心の中で思って、イライラ、イライラしてくるんですけど、娘のほうはおかまいなしに開けて、煙がバーッて入ってくるんですけど、それもおかまいないで、だけど、列車が踏切を通るところで、風呂敷包みから蜜柑を取り出して、それで、開けた窓から首を乗り出して、その蜜柑を列車の外に放るわけです。そうすると、よくみると、その列車の外に、その娘の弟らしい子どもがふたりぐらいいて、それで手を振って、別れに手を振っているわけです。そこへ蜜柑をパラパラっと投げてやるわけです。それを見て、芥川は、いままでの不機嫌と、不快さが治るわけです。
この娘は、これから東京に奉公にいくんだろう、それを弟たちが見送りに来たんだろう、それで、弟たちに蜜柑を投げてやって別れたんだろうと、この不愉快な人生にも、こういういいこともあるんだなっていうふうに思うっていうのが、『蜜柑』っていう作品のモチーフなんですけど。
そうしますと、ここにあらわれていることは、『地獄変』の延長線でいえば、ふたつあって、ひとつはやっぱり、ぼくはそう思いますけど、芥川が作品をつくる場合によくやる、一種の誇張だと思います。誇張することによって、その問題意識を鮮明にさせちゃう、鮮明にするっていうことなんですけど、はじめは、自分は、世の中が不愉快でしょうがないと思っていること、それから、娘がこんなところへきて、勝手に窓を開けて、煙がワァーッと入ってきて、ますます不愉快だっていうところで、こんな馬鹿なことはないっていう、極端なことをいうと、芥川は、貧乏人のくせにして、こんなところに入ってきてっていうふうに、芥川は言っているわけです。そういうふうに書いているわけです。それは、芥川のもっている誇張、つまり、倫理のひとつの誇張になっているわけです。
なぜ、そんなことをするかっていうと、それからの娘のふるまい方でもって、自分のそういう考えが間違って、また、癒されて、そして、とても人生が楽しくなるっていうことを言うために、ちょっと自分の考え方を誇張してみせるっていうことなわけですけど、芥川はちょっと誇張して、そういうふうに変えているっていうところは、やっぱり、『地獄変』の世界にもある世界で、これは、ひとつ、『地獄変』の延長で考えれば、芥川の物語に、非常に重要な出方をしているわけです。
『蜜柑』という作品もいい作品ですけど、文句いうならば、やっぱり、現在のぼくらがそれを読めば、いい作品ですけど、これはちょっとわざとらしいんじゃないのっていうところが、その描写の中に含まれています。これはやっぱり、わざとらしいんじゃないのっていうのは、ぼくは、芥川の作品の書き方として、誇張していることを意味するような気がします。つまり、芥川の、一種のもっている、通俗性なんですけど、つまり、俗っぽさなんです。俗っぽさのあらわれだって思ってるわけです。
俗っぽかったっていいじゃないのっていえば、いいわけなんですけど、もし、本気になって、この『蜜柑』っていう作品を読もうとすると、やっぱりそこは、引っかかってくる場所になります。つまり、これはちょっと誇張だよって、もうすこし、この誇張が少なかったらいいのになっていう感想を、どうしても抱かざるを得ないところがあります。
しかし、後半になってきて、芥川の、非常に古典的なんですけど、非常にあったかい心みたいのがあって、このあったかい心っていうのは、芥川っていうのは出すことができないわけです。つまり、世間的な意味でも、理知的な作家だってふうに言われていますし、自分も、理知的で、頭のいい作家だって、自分でも思っているわけですから、自分のもっている、そういうのを出すことができないんです。
だけども、非常に誇張して、自分が悪人たる所以を誇張して描けば、その対象として、はじめて、あったかい心っていうのを描き出すことができるっていうふうなかたちで、芥川の心の中は、そういうかたちでできあがっていますし、芥川の倫理はそういうかたちでできあがっていたっていうふうに思います。
つまり、そういう意味合いでは、芥川には、何が足りないのかとしたら、自然さが足りないのです。自然さが足りないところが、芥川の病気です、病気の所以ですってことになると思います。だけれども、一般的にいいまして、ようするに、頭が良いってことは病気ですから、一般的にいえば、頭のいい作家だなっていうふうに、逆にいうことも、日本にはめずらしい頭のいい作家だなって言うことができると思いますけど、そういうことっていうのはあらわれています。
これは、『地獄変』からもあらわれています。この『地獄変』とか、『沼地』っていう作品っていうのは、とてもいい作品です。つまり、芥川の心臓のありどころと、倫理のありどころっていう、つまり、意外に古い倫理のありどころっていうのが、とてもよくあらわれています。
それからもっといえば、意外に古い芥川の芸術意識、あるいは、芸術家意識っていうものが、とてもよくあらわれていると思います。つまり、この人は、古典的な芸術意識を信じている人だなっていうふうにわかるような、非常に古いっていいますか、古典的な芸術意識がよくあらわれていると思います。
芥川の自伝的な作品っていいますか、この頃、まだ、27,8だと思いますけど、学生時代、つまり、漱石でいうと、『三四郎』みたいな作品として、『路上』という作品が、やっぱり、この『地獄変』を一年前後して、芥川の『路上』っていう作品が描かれています。
この『路上』っていう作品は、学生時代の学生仲間の関係を描いているわけですけど、また、女性に対する関係も描いているわけですけど、この『路上』という作品は、漱石でいえば『三四郎』にあたるでしょうし、鴎外でいえば『青年』にあたるような作品だと思います。いい作品ですけれど、やはり、この作品の中にも、芥川が描いている都会の学生が持っている、誇張された反倫理性っていいますか、反倫理性みたいなものが、誇張された形で、わりあいによく描かれています。これはもう、もちろん『地獄変』の延長線に入れてくることができるっていうふうに思います。
この作品のあとで、だんだん、芥川の怪しくなってくるっていいますか、病気っていうのが、作品の表現のなかにも、わりあいによく出てくるようになります。つまり、はじめから病気ですよっていえば、はじめから病気ですってことになるのでしょうけど、作品のなかにあからさまに病気が出てくるっていうようなことは、『路上』というような作品をはじめとして、それまでは、誇張した倫理的なこと、倫理的な悪っていうのを、たいへん誇張して描かなければ、倫理的な善っていうのを描けなかった。そういうギャップみたいなものが、芥川のなかでどんどん広がって、その『路上』になりますと、もっと広がっていくっていうようなかたちで、次第、次第に広がって出てきます。
それとともに、文章上の病気性っていうのを、象徴することを申し上げてみますと、これもまた、漱石から受け継いでいるっていえば言えるんですけど、ひとつは、「のみならず、~であった。」っていう、その「のみならず」っていう言葉が、芥川の文章の中で、非常に特徴的な言葉遣いなんで、これを気にしていると、ものすごく気になってくるわけですけれど、「のみならず」っていう表現が、だんだん、小説作品も、随筆の中でもそうですけど、「のみならず」っていう表現の仕方が、だんだん多くなっていきます。
これは、ぼくは、だんだん病気の兆候が大きくなったことの、ひとつの文体的兆候だっていうふうに思います。どうしてかっていうと、たとえば、彼は阿呆だった、のみならず、病気であったっていう使い方をすれば、まあ、「のみならず」の使い方としては、まあ悪くないよなっていう使い方になると思いますけど、ちょっと、この使い方にのみならずっていったら、逸脱じゃないかっていう使い方もしています。つまり、まったく違う意味になるぜっていうことが、こんなところで、のみならずっていう言葉を使うのは、おかしいじゃないのっていう意味合いで、「のみならず」っていう言葉を使うことが、だんだん多くなっていきます。これは、文体上の特徴になります。
これは、ぼくは、半分は無意識だと思います。半分は、よく漱石が使っている言葉の使い方であり、また、芥川は漱石に傾倒した人ですから、漱石が使っている言葉で、非常に目立つ言葉遣いですので、はじめのうちは、使ってみようっていうかたちで、使っていたんでしょうけど、だんだん使い方が激しくなっていって、また、激しくなるとともに病的になってくると、ちょっと使い方としてはおかしいんじゃないのっていう、そういう使い方が増えてくるっていうことになってきます。この兆候はやっぱり、すくなくとも、中期の『地獄変』の1年も経たないうちに、とくに現代ものを主題にした場合に、非常によく出てくる特徴だと思います。
で、もうひとつ、やっぱり病的だと思うのは、本来ならば、これは匂いで描写すべきじゃないんじゃないかっていうふうに思われるような、匂いをつかう使い方をしているその度合いは、だんだん増えていきます。この頃からだんだん増えていきます。これは、漱石、それから、芥川、それから、ぼくらの関心でいえば、芥川の、お弟子さん筋にあたる堀辰雄とか、立原道造っていう詩人がいますけど、この詩人とかはやっぱり同じですけど、匂いっていうことに対して、過敏だっていうことを、こんなところで匂いっていうことを使うのは、ちょっと特異だなっていう使い方が、ますます激しくなっていきます。
これは、漱石でもおんなじです。漱石でも、匂いの使い方っていうのは、たいへん厳しく、たいへん特異な使い方をしていると思います。たとえば、『それから』っていう作品なんか、よくよく注意してみますと、匂いっていう、とくに花の匂いっていうのは、頻繁に出てきて、この人は、こんな感受性をもっているのかねっていうふうに思う程度から、やや少し使い過ぎじゃないでしょうかっていうふうに思われるところまで、漱石もやっています。
同じように、芥川も匂いっていうものに対して、たいへん多様な使い方をしています。ぼくはここでメモってきたのでいいますと、「辰子は、すぐに目を伏せたが、やがて、俊介のほうへ、後ろを向けると、そっとピアノの蓋をあけて、まるで、ふたりを取り巻いた…」、その後なんですけど、「バラの匂いのする沈黙を追い払おうとするように、ふたつみっつ鍵盤を打った。」っていうんですけど、バラの匂いのする沈黙を追い払おうとするようにっていうのは、こじつければわからないことはないよなっていうふうになりますけど、それはおかしいんじゃないですかっていえば、おかしな使い方だと思います。
バラの花の匂いのような沈黙っていうのは、たとえば、詩の作品でこういうのが出てきたら、やっぱりこれは、下手な直喩の使い方だっていうふうなことに入ると思います。これはちょっとおかしいよっていうことに入ると思います。これは、一例に過ぎませんけど、この種の、これは匂いとして描写すると、ちょっとおかしいよっていう匂いの使い方を、非常に多くなっていくのが、この頃からだっていうふうに言えます。
これは、『地獄変』のなかでは、ちっとも顕著ではありません。けれども、だんだんと、『地獄変』に続く作品のなかで、あるいは、『地獄変』のモチーフと、それから、主題の描き方っていうのを、延長していけば、かならず出てくる描写の仕方だっていうことができると思います。
もう少し先まで、この『地獄変』の世界を延長してみたいところがあります。それはあまり一般的には注目されていないわけですし、地味な作品っていえば、地味な作品なんですけど、『妖婆』っていう作品があります。妖婆っていうのは、妖しいお婆さんっていう意味です。『妖婆』っていう作品があります。この『妖婆』っていう作品は、ぼくはとてもいい作品ですし、おもしろい、興味深い作品だって思うわけです。
芥川は、この『妖婆』っていう作品を、『地獄変』の書き出しと同じように、「わたし」が、自分の知り合いの出版社の若旦那の話をしているっていうかたちで、一等初め、断り書きをしながら物語がはじまるっていうわけです。そういう書き方を文体上はしています。
この『妖婆』っていう作品について、はじめの断り書きのところで、わたしが、ポオやホフマンの幻想小説といいましょうか、怪奇小説が甚だ好きで、興味を持っているんだみたいなことも書いているから、どうせっていいますか、きっと、どの作品だって指摘することはできませんけど、たとえば、ホフマンの『砂男』みたいな、よく人に知られている作品を、ひとつの手本で書いたかなってことが、もしかすると言えるかもしれません。
この『妖婆』っていう作品は、おもしろいことがふたつあります。ひとつは、一種、異様な世界に、異様な幻想的な、あるいは、超自然的な世界に興味を示して、そこへ主題を入れていったっていうことが、それは、主題をそういうふうにとっていったってふうにとどまらず、晩年の芥川の作品の中で、自伝的な意味合いをおびている作品、今日とりあげられる『或阿呆の一生』いいですし、『歯車』でもいいわけですけど、そういう作品の中では、『妖婆』で入ってきた超自然的な世界を自分自身が演ずるみたいなかたちで、神経的に、病気っていいましょうか、芥川の資質のあらわれっていうのは、だんだん出てくるわけです。そういう意味合いで、『妖婆』っていうのは、ホフマンの世界に、あるいは、ポオの世界に、関心が深かったっていうふうに入っていきながら、ほんとうは、だんだん自分の中にある資質と、同感、共鳴、それから、それのおびき出してしまったっていいますか、あらわれてくるっていうことに、関連した主題なんじゃないかって思えるわけです。
それから、もうひとつ、この『妖婆』っていう作品の特徴があります。ぼくの理解の仕方ですと、自分が好きだからっていうこともあるのですけど、これは、芥川のエッセイとか、自伝を除けば、芥川は、東京下町のとくに、自分は中流下層の世界で、隣近所の駄菓子屋さんで、駄菓子を買って、それを道で、食べて遊んでいるっていうような、そういうふうな育ち方をした。子どものとき、そういう育ち方をしたっていうふうに、自分の自伝の中では書いています。ぼくらも、とても親しい世界なので、とてもよくわかりますが、この『妖婆』の世界は、ほんとに如実に、そういう東京下町の棟割長屋的な、そういう家の立ち並んだ、つまり、隣の家のかまどの中もわかっているっていう、お互いにお米をないときは、貸してやるとか、借りたりっていうような、そういうおかずがあると持っていったりとか、そういう暮らし方をしている世界を、非常にみごとに描いています。
主題は、妖婆ですから、そういうところに住んでいる神降ろしっていう、いまでいうと、巫女さんです。拝み屋さんですよね。拝み屋さんが、小さい長屋の棟割長屋のなかに、異様な神棚やなんか祀って、そこにお札がたくさんベタベタ貼ってあって、榊とかがおいてあって、そこに、変な人間だかなんだかわからないようなお婆さんが、なんか拝んで、拝み屋さんをやっていてっていうような、そういう人っていうのは、時々、そういうなかにいるわけなんです。いたわけなんです。いまはいないでしょうけど、いたわけなんです。
ぼくらも、そういう世界に親しいわけです。それで、ぼくらがいえば、5,6軒先に、ここで出てくる芥川が描写している妖婆そっくりなお婆さんがいて、そのお婆さんはいつも軍鶏を飼っていまして、ときどき、家の前の道のところへ出てきて、手でもって首のところを持って、軍鶏をねじ切るわけです。それで、血がドクドクって出てくるのを茶碗のところにとりまして、それで、茶碗から軍鶏の血をこういうふうに飲むわけです。そうすると、ぼくら近所の子どもたちは、あのババアがまた出てきたぞって言って、そば行って見ているわけです。そうすると、平気で首をひねって、血をあれして、それを飲むんです。気持ち悪い、ここらへんに血をダラダラ垂らして、アーッと思うわけです。それでみんなでいっぺんに、オーイとか言って、いっせいに鬼ババアとか言って、それでサッサと駆け出して逃げていくって、そういうお婆さんがいましたけど、この『妖婆』の主人公っていうのは、そういう、まったく、ぼくらの覚えようでいえば、彷彿とするような、神降ろしのっていいますか、拝み屋さんのお婆さんなんです。
ぼくは、工業学校がそばにあったから知ってますけど、堅川っていうのが深川にあるんですけど、隅田川に注ぐ川なんですけど、堅川の川っぺりに、このお婆さんの住む長屋があって、そこから、夜になると、そのお婆さんが白装束になって、家の裏から、堅川に降りてくるわけです。それで、堅川で、水浴びしては拝んで、拝み屋さんとしての能力を更新するわけです。それを毎晩のようにやるわけです。
それで、そのお婆さんの気持ち悪さを描いているわけですけど、それには、自分の知り合いの出版社の若旦那が、自分の家に働いて雇っている娘さんがいて、きれいな娘さんで、その娘さんと恋仲になるんです。恋仲になるけど、あるとき、その娘さんが突然といいますか、神隠しのように、突然いなくなっちゃうわけです。八方手を尽くすけどいないわけです。そして、人に評判を聞いていくと、そうすると、おまえの言っている娘さんらしいのが、その神降ろしのお婆さんの家にいるっていうわけです。
それで、その出版社の若旦那は、自分の飲み友達に、一緒に行ってくれとか言って、お婆さんのところに行くと、たしかにいるわけなんです。それで、顔を見てびっくりするわけですけど、ふたりで示し合わせて、近所の石置き場があって、そこに夕方になって、やってこいって言って、そこで聞いてみると、とにかく、あのお婆さんが自分を逃がしてくれないんだって言うんですね。あのお婆さんはものすごい能力を持っていて、拝まれると、体が動かなくなっちゃうみたいに、ようするに、逃げることができないんだって、あなたも危ないから、近寄らない方がいいですみたいに言われるわけです。
そんな馬鹿なことはねぇって、この時代にそんな馬鹿なことはねぇって言って、その娘さんを、なんとかして、友達とふたりでさらって出ちゃおうと思う、そうすると娘さんが言うには、あれは、自分の母親じゃないんだけど、遠い親戚のおばさん筋にあたるんだけど、でも、自分の両親が死んでから、ちょっと世話になったことがあるお婆さんなんだ、ところが、そのお婆さんが拝みにくる株屋さんの金持ちがいて、そいつがわたしのことをお妾さんに欲しいって言って、お婆さんに金をあてがって言うもんだから、お婆さんがその気になっちゃって、わたしを監視して逃がしてくれないっていうわけです。おまけに、あのお婆さんはものすごい超能力があって、わたしにちょっとした素振りがあったら、すぐにわかっちゃうっていうわけです。どうすることもできないんだっていうわけです。
ふたりで工夫して、なんとかして、あのお婆さんの超能力が及ばないところへ連れてきちゃおうっていうことで、まず、その出版社の若旦那の友達っていうのが、おれのうちへ呼び出すからって言って、電話をかけますと、それで、神降ろしに用事を頼むので、かけたんだけど、その娘さんが電話のむこうに出てきて、これこれこうだから、若旦那も待ってるから、おまえ何時頃うちへやってこいっていうふうに約束をするんですけど、その電話をかけていると、そこで混線して、もし娘をさらっていったら、おまえに祟りがくるぞみたいな声が、その中に混線して聞こえてきたりするわけです。
おっかなくなっちゃうんだけど、とにかく、若旦那のところへはなんともあれができないと、友達の、うちへやってこいって言って、うちの2階で会えっていうわけで、それで、娘さんを引き出して、約束しまして、老婆の呪いみたいなのがあるわけですけど、それを振り切り、振り切りして、やっとこさ娘さんを、老婆の影響が及ばないところに引き出そうとするわけです。それだけど、娘さんが見つかりまして、老婆が即座に呪いをかけるわけですけど、ちょうど夏の夕立どきで、雷鳴が鳴って、雨が降って、その落雷でもって、小説をみますと、落雷でお婆さんが死んじゃう、あるいは、気を失っちゃうっていうかたちで、呪いが解けちゃうわけです。
それで、若旦那もそこで気を失っちゃうんだけど、若旦那が目を覚めてみたら、自分の家にいて、友達とお袋さんが看護していて、その娘さんがそばにいて、やはり、なにくれとなく看護してくれるってところで、若旦那の目が覚めて、それで、いずれにせよ、めでたしめでたしになるってことが、『妖婆』っていう作品になります。
これはおしゃべりでは到底通じないんですけど、ものすごく精密に雰囲気を込めて、下町のそういうごてごてして得体の知れないやつがそばにいてとか、婆さんがいてとか、そういう雰囲気がものすごく見事に描かれていて、そのなかで、老婆の発揮する超能力と、アホらしくてしょうがないっていうのじゃ済まされないような、不気味な足枷手枷っていうような呪いがかけられて、みんなちょっと頭が、若旦那も、その友達も、その娘も、頭がおかしい具合になっていっちゃうっていう、そういう奇妙な、それこそホフマンの世界を彷彿とするような、そういう世界が見事に描かれています。
作品としても立派な作品ですけど、ぼくは何よりも、これほど如実に、その時代の、本所界隈の、そういう棟割長屋的な町筋のことを、これだけ見事に描いているのはないなぁっていうふうに思うくらい、見事な作品として描かれています。
そのなかに正常な若旦那も、友達も、一緒に巻き込まれていっちゃって、三者三様に妙な具合の心理状態になっていっちゃう、そういう描写も実にみごとに描かれていて、たいへんいい作品だっていうふうにぼくは思います。
ぼくは、この『妖婆』っていう作品と、その手の作品は、芥川の作品のなかに、もうふたつくらいあります。そういう怪しげな世界っていいましょうか、怪しげな世界に惹かれていく自分を描いた、あるいは、登場人物を描いた世界っていってもいいんですけど。それは、芥川の小説の中で、たぶん、もうふたつくらいあります。それは、あんまり評判にならないんですけど、ぼくは、わりあいに、芥川にとって正気じゃないか、つまり、本気に近い作品なんじゃないか、かなり、別な意味で重要な作品で、晩年の芥川の自伝的な作品につながっていくし、芥川のもっている悲劇につながっていく作品じゃないかっていうふうに、ぼくは考えます。
つまり、『地獄変』の世界は、時代を、時間的な幅と、それから、空間的な幅っていいましょうか、それをとりますと、この『妖婆』のあたりまで、文明開化を経て、大正時代なんですけど、『妖婆』のあたりまで、時間的には延長していくことができますし、空間的にはといいましょうか、素材的にはといいましょうか、この『妖婆』のあたりまで、芥川のかなり本格的な資質があらわれてきているっていうふうに言うことができると思います。
ですから、ここらあたりまでは、しいて言えば、芥川の作品の『地獄変』の世界を延長することで、覆い尽すことができるんじゃないかっていうふうに思います。
それは、別な意味でいえば、芥川の自伝の、あるいは、詩歌の作品を除いたほとんど全部の世界に近い世界が覆い尽せると言っていいくらいじゃないかっていうふうに思います。
その後の晩期の自伝的な世界と、ある意味では対応するわけですけど、晩期の最も芥川にとって優れた世界であると同時に、最も芥川の代表的な作品とぼくは思っている『玄鶴山房』っていう作品については、後半で少し申し上げて終わりに致したいと思います。
あと、『玄鶴山房』と『或阿呆の一生』が残ってるわけで、『玄鶴山房』っていう作品を、あらかじめ、除いておきますと、晩年、芥川が死んだ年が昭和2年だと思いますけど、昭和2年の最晩年に芥川が書いた小説らしい小説っていうのを考えると、この『玄鶴山房』と、それから、『河童』という作品が、たぶん、最晩年の小説らしい小説だと思います。とくに、『玄鶴山房』っていうのはやっぱり、渾身の力を込めて、これだけの作品をつくったなって思えるほど、ぼくは、芥川の作品では、いちばん見事な作品だと思います。
それを除きますと、晩年は『或阿呆の一生』に象徴されるような、一種自伝小説です。自分で自分を食うっていいましょうか、食った作品といいましょうか、つまりいずれも自伝的な作品であるわけです。この自伝的な作品っていうのは、芥川にとっては、作品と言っても言わなくてもいいので、ようするに、自己告白的に、自分の生涯を語ったっていうふうにいえば、それでいいんじゃないかと思います。
この『或阿呆の一生』も、それから、それと対照的な作品っていうのは、『歯車』っていう作品だと思いますけど、それは作品としていいといえば、いいんですけど、こういう作品をいいって言ったって、始まらないよなっていいましょうか、いい悪いの問題じゃなくなっちゃってるよなっていうことをいえば、ゆとりのあるいい作品をつくろうみたいな、ゆとりをもって書かれた作品ではないっていうふうに言えます。
この自伝的な作品を類別しますと、ふたつに類別されます。ひとつは、『或阿呆の一生』が典型的にそうですけど。いわば、自分の過去っていいますか、生涯っていいますか、過去を拡散するように描いているってことです。拡散するって言うべきなのか、放心するっていいますか、ぼんやりとして描くっていったらいいんでしょうか、『或阿呆の一生』なんかはそういうふうにいうとすれば、拡散するように描いた自伝的作品です。
これに対して、『歯車』みたいなものは、自分の病に心を固執するものですから、やっぱりたいへん病的な作品です。関係妄想まではいかないんですけど、関係強調っていったらいいんでしょうか、そう関係付けなくてもいい問題が、自分のなかで関係付けられて、自分でそれにビックリしてっていいましょうか、自分でドキドキして、自分はおかしくなっているんじゃないかって、また考えて、また関係付けが激しくなるっていうような、一種病的な作品になっていて、それは、『歯車』なんかは集約された、つまり、自分の病的なところを凝縮した作品だっていうふうにいえば言えると思います。
それに対して、『或阿呆の一生』は自分の病的なところを拡散しちゃった作品だっていうふうにいえば言えるんじゃないかっていうふうに思います。拡散しちゃったってことを申し上げてみますと、どういうことかって申し上げてみますと、ようするに、これは短章から成り立っているわけです。たとえば、病とか、家とか、東京とか、欲とかっていうふうに、ようするに、原稿用紙1枚半で尽きちゃうような、そういう短い文章、短章を集めて、『或阿呆の一生』っていうふうに、自分を、名付けるところで、自分の主たるポイントを打ち出しているわけで、これはどうして拡散的かっていうと、『或阿呆の一生』っていうのは、うかうかと読みますと、わかるわかるっていうふうに読めるんですけど、ちゃんと読みますと、ほんとうはわからない短章が多いんです。わからなくなっちゃってるんです。
それをちょっと申し上げますと、たとえば、『或阿呆の一生』の十ってところに、「先生」っていう項があります。先生っていうのは、夏目漱石のことです。「彼は大きい樫の木の下に、先生の本を読んでいた。樫の木は、秋の日の中に、一枚の葉さえ動かなかった。どこか遠い空中に硝子の皿を垂れた秤がひとつ、ちょうど平衡を保っている。彼は先生の本を読みながら、こういう光景を感じていた。」っていうのが、全部です。
つまり、何を言ってるのかちっともわからないです。どうして夏目漱石なのか、どこが夏目漱石なのかっていうのもよくわかりません。つまり、橿の木の下で、夏目漱石の本を読んでいたって言ってるだけなんです。どうしてなのか何にもわからないっていうのが、ほんとうはわからないです。この『或阿呆の一生』は、相当部分がわからないです。わからないですっていうニュアンスがあるんですけど、ぼくも何度も読んでるから、いちおう、わかったわかったっていうふうに読んでるわけですけど、ほんとをいうと、全然わからないじゃないかっていう、わかるような文章なんかないじゃないかっていうことになるんですね。
たとえば、「蝶」っていう項目があります。これも4行くらいの短章です。「藻の匂の満ちた風の中に、蝶が一羽ひらめいていた。彼はほんの一瞬間、乾いた彼の唇の上へ、この蝶の翅の触れるのを感じた。が、彼の唇の上へ、いつか、かすっていった翅の粉だけは」鱗粉ってことですね、「数年後にもまだきらめいていた。」。これ、文章になってないでしょ、文章にはなってないと、ぼくは思います。
つまり、『或阿呆の一生』のなかで、どうしてこれを書いたかっていうのもわからないです。だいたい、唇の上に蝶の翅の触れるのを感じたっていうんですけど、それは、ほんとに触れたっていう意味なのか、比喩として、なんかのメタファーとして、そう言っているのかっていうのもわからない。それから、彼の唇の上へ、かすっていった翅の粉が、数年後にもまだきらめいていたっていう、これも比喩なのか、もちろんほんとじゃないですね、ほんとには、そんなことはありえないですから、比喩なんでしょうけど、これはどういう比喩なんだっていうのは、ぜんぜんわからないです。もちろん、よく、もしかすると調べた人がいて、研究家がいて、わかってるのかもしれないですけど、少なくとも、ふつうの人がふつうに読んだら全然わからない文章です。
つまり、どうしてもぼくが思うには、すでにこの『或阿呆の一生』は、芥川は病的になっていて、自分の心のなかの中のほうでは、なにか蝶の翅がここらへんに触れたとかいうようなことで、何かがあるんだと思います。
しかし、こう書けば、それは人に通ずると思って書いてると思います。しかし、本来的には、ぜんぜん通じないっていうことになります。つまり、これは芥川の晩年の神経的な病に、性質がよく似ていて、自分ではちゃんと脈絡がついていると思っているんですけど、ほんとうは人から見ると、いや、それは思い過ごしだよっていうふうにしか見えないっていうふうになります。
たとえば、『歯車』のなかで、ホテルに泊まっていて、ベッドのそばにスリッパがひとつ置いてあると、すると、もう一方のスリッパはどうしてないんだろうっていうふうに思い悩むわけです。それで、ボーイさんを電話で呼び出して、ボーイさんがやってきて、スリッパがひとつしかないんだって言うんです。ひとつがどっかいっちゃってるんだっていうふうに、どっかいっちゃってるってとき芥川は超自然的なことを考えているんです。つまり、ひとつ消えちゃったって思っているわけです。
ところが、そうですかって言って、ボーイさんが部屋中探して、お風呂場へ行くと、お風呂場にもう一方のスリッパがあるわけです。で、お風呂場にありましたって帰ってくるわけです。そうすると、芥川は、なぜお風呂場にかたっぽだけあるんだろうかって思うわけです。思い悩むわけです。
そんなはずはない、どうしてスリッパがひとりでにそっちへ行っちゃうんだろうか、こんなおかしいことはあるだろうか、どうしてこういうおかしいことばかりに自分は当面するようになっちゃったんだろうかっていうふうに思い悩むんだけど、それはふつうに解釈すれば、どうってことなくて、自分がお風呂場へ行って、かたっぽだけ置いてきちゃったんだって考えるのが、いちばん妥当な考え方です。ふつうだったら、そういうふうになってることに判断するわけですけど、自分ではそうならないで、異様な脈絡をつけるわけです。
それとぼく、『或阿呆の一生』の、こういうわからない章っていうのは、おんなじじゃないかなって思います。つまり、自分では、脈絡がついている、文章をなしているっていうふうに思うんですけど、ほんとはなってないっていう、自分だけがわかってるだけで、なってないっていうふうになってると思います。
つまり、もちろん文学者ですから、ふつうの文章になっていないっていう意味では、文法的になっているわけですけど、だけども、ほんとうはわからないっていうふうになっていて、それが、『或阿呆の一生』の非常に大きな自伝的な意味だと思います。
これは、いくらでもそんなのはあるんです。たとえば、十五のところに「彼等」っていうのがあって、「彼等は平和に生活した。大きい芭蕉の葉の広がった影に。彼らの家は、東京から汽車でもたっぷり1時間かかるある海岸の町にあったから」って書いてある。どうして、そういう町にあったから、彼らは平和に生活した。大きい芭蕉の葉の広がった影にって言ってるわけです。その家は、東京から汽車で、約1時間かかる町にあったから。なぜ、「から」なんでしょうかっていうことは、ぜんぜん意味が通じないと思います。
無理に通じさせようとするとつまらないことになります。つまり、東京は遠いから、東京は嫌なところで、それでここは遠いところで、自分たちは住んでいるから、だから、平和な家庭なんだ、で、得するって解釈すれば、たいへんつまらない文章で、『或阿呆の一生』の中に、取り立てて書くほどのあれは、何もないわけです。だから、そういう意味じゃないんです。何かがあるんですけど、自分の中だけで脈絡がついているって理解するのが、いちばんいいんじゃないでしょうか。
みんなそうです。その十五の次に、十六ってところに「枕」っていうのがあるんです。「彼らは、薔薇の葉の匂いのする懐疑主義に枕しながら、アナトール・フランスの本を読んでいた。いつかその枕の中にも、半身反馬身」ってことですから、ルサントールってことですね。「いることには気づかなかった。」っていう章があって、「枕」となっているんですけど、これもよくわかりません。これはぼくの知識不足でわからないのかもしれません。つまり、どうしてアナトール・フランスが懐疑主義と何が関係あるんだっていうと、その当時では、そういうふうに思われていたんだっていうことで、解釈できるのかもしれないけども、それを読んでいて、そしたら、自分は枕にしながら読んでいて、枕の中に、半身反馬身だから、ルサントールがいるのに気がつかなかったって言うんだけど、それはちょっと無理でしょう、わかろうとしたって、全然わかりません。これは、知識不足が入っているかもしれないから、なんとも言えないです。とにかく、この種の不明な章がたくさんあるわけ、
ところが、いっぺんに、そう理屈ばらんで読めよっていうかたちで、これを読みますと、全体の感じからは、わかるっていう感じになっちゃうわけです。その全体の感じっていうのの流れっていうふうに、全体を読みますと、また、その流れの全体のリズムと同じリズムで、こういう短章を、その速さで読みますと、なんとなくわかったわかったっていう感じになることができます。
しかし、それ以外の、芥川のそういう叙情の流れみたいな、叙情の懐古的な流れみたいなものに、もし読む人が入れなかったら、これはぜんぜん入れない作品です。それでも、『或阿呆の一生』の特色を言うとすれば、これはいま申し上げましたとおり、脈絡が通じない文章だってこと、つまり、自分のなかだけで、一様にわかっちゃっていて、外には全然わからないように書かれた一種の拡散された文章であって、凝縮されたものは、わずかに自分の中にだけあってっていう、そういう文章で書かれた自伝だって考えると、この作品は、はじめてわかると思います。
それから、ザーッと読んでわからないやつは、この人の一種の懐古的な抒情詩、それは一種、一生を振り返ったときの、悲劇的な一種の情緒なんですけど、過去を振り返ること自体が悲劇的だっていうような、芥川のもっている情緒の自然さなんです。それの流れる速さでもって、この文章を読めば、たいへんよくわかりやすくわかるんじゃないかって思います。
でも、ひとたび、ちょっとでもずれを生じたら、読む人にまったくわからないんじゃないでしょうか。たぶん、研究者の人はわかるっていうように突き詰めて、研究しておられると思いますけど、それはまた非常にたいへんな作業だなっていうふうに、ぼくには思われます。読者としていうならば、そこいらへんのところに、『或阿呆の一生』の心臓っていいますか、いちばん肝心なところがあるように、ぼくは思います。
これと対照的な、つまり、放心されて書かれたっていうのと、対象的なところで書かれた作品で、これは非常に凝縮して、すべての過去の抒情詩的な流れっていうもの、あるいは、過去を懐古する自分の生涯の悲劇性っていうのを一点に凝縮しようとして書かれた作品が、この『歯車』という作品だと思います。
この作品も、作品としていいといえば、とてもいい作品です。でも、これは一種の関係妄想に近い作品だと思います。たとえば、自分の住んでいる場所だから、たぶん、鵠沼のあたりだと思いますけど、そこいらへんのところの駅で、待合室で人がいて、その待合室で来ている人が、レインコートを着ているわけです。ところが、レインコートを着た幽霊の話を、自分は今さっきしたばかりでやってきた、そうすると、そこにレインコートを着た人が待合室にいる。で、東京にやってきて、駅に降りて、それから、ホテルに泊まろうと思って、ホテルに泊まるわけですけど。そこの玄関のところで、やっぱりレインコートを着た人と会うわけです。もうひとつありまして、ホテルの自分の部屋に案内してもらいますと、そこの長椅子のところにレインコートが置いてあるわけです。そうすると、それだけレインコートってことが揃いますと、芥川はやっぱり、すでにそういう状態に入っていると思います。
関係妄想までいかなくても、関係付けの強さの中に自分の精神状態が入っているものですから、4つもレインコートっていうことが目に付くと、自分で、なぜだろうかって、なぜおれはレインコートばかりにぶつかるんだろうかっていうふうに思い悩むわけです。
しかし、ぼくが思うには、季節とか、温度とか、気候とか、そういうことによるでしょうけど、レインコートを着た人が4人ぐらいいたって、べつにどうってことないじゃないってことになると思います。
ほんとうは、それが正常な理解だと思うんですけど、芥川は『歯車』のなかで、すでにそういうふうに、4回くらい出会うと、レインコートがたまたま置いてあったとか、着た人がいたとか、そういうことに出会うと、すでにおかしいって、これはおかしい、なんで自分はレインコートばっかりに出会うんだろうかっていうふうに、自分で思い悩んでしまうっていうところに入ってしまいます。
それから、『歯車』っていうのも、器質な病気で、ほんとは、精神を交えた病気とはなかなか言えないと思うんですけど、器質的な病気で、自分の左か右のどちらの目に、われわれが星がチカチカしたとかってよく言うような、歯車みたいに、チカチカしたあれがぐるぐる回ったりすることが起こるわけです。ひょんな拍子に起こって、それが起こった後で、かならず頭が痛くなる、頭痛がするわけです。それが主題になっているわけです。
ごくふつうの理解の仕方でいうと、これは、一種器質的な病気で、べつに精神的な病気でないわけだと思います。ですから、そんなに気にすることないのになって思うんですけど、芥川はしばしば、そういうところに一日のうちに当面しますと、それはなぜだろうかって、なぜ歯車が自分の頭の中で回るんだろうかってことを思い悩むっていうことが、いってみれば、この『歯車』っていう作品のモチーフになっているわけです。
しかし、たぶんこれには、精神的な意味はないので、器質的なそういうあれだと思います。ぼくが知っている文学者は、たとえば、亡くなった島尾敏雄さんも自分でそう書いてありますけど、よくそういうことになると、そうするとそれに近いことが、目がチカチカして、その後、かならず頭が痛くなって、しばらくは我慢していないといけない、そうしたら、また元に戻るっていうこと、これは、器質的なあれとは言えるけど、つまり、みだれがするとか、動悸がするっていうのとあまり変わらない、年とってくるとか、なんか疲労してくると、誰でもありがちなっていうような、そういうこととそんなに変わらない器質的な異常だと思いますから、病的な意味はないんですけど、でも、芥川はそれを、非常に自分中心的な精神の一種の異常っていうふうに理解して、思い悩むってことをやるわけです。
そういうところにすべて、まあレインコートに集約する、それから、この歯車に集約する、それから、自分が東京から来る列車の中から外を見たときに、列車か、電車か乗ってた時に、窓から外を見ると、たまたま火事があり、それに出会う、たまたま出会ったそのことと、ちょうどその頃、芥川の姉の旦那さんが放火の嫌疑をかけられてっていうような、つまり、放火して、保険金をたくさんかけられて、そして、放火して保険金を取ろうとしたって、事業が失敗して、そうしようとしたって疑いをかけられて、兄さんが留置されたりってことがあるわけです。それと関連させて、電車か、列車の窓から、火事になった情景が見えると、それはやっぱり、自分の義兄が放火の疑いで留置されているのと関係があるんだっていうふうに、それだから、ああいうふうに見えるんだっていうふうに、芥川はそういうふうに考えるわけです。
ことごとく、ありうることすべては、自分が異常に関係付けを、異常に強くなっている、そういうことに全部帰着してしまうわけですけど、物事が全部そういうふうに見えてしまうっていう状態に、芥川自体は、このときに、かならず入っているわけです。それで、自分がたまたまタクシーに乗ろうとして呼び止めると、そのタクシーはかならず黄色い色のタクシーなんだっていうふうに言ってみたり、ことごとく、そういうふうに関係付けが激しくなっちゃって、そのこと自体がやっぱり、病的な衰弱に入っているっていうふうに理解する以外にないわけです。
ぼくらの友達でも、よくタクシーに乗ってたら、運転手のやつがマイクロフォンを持って、おれはいま犯人をちゃんと乗せているんだっていうふうに、ちゃんと連絡とってるとかって、おれが乗ると、タクシーに乗るといつもそうなんだっていう人がいますけど、おまえそうじゃないよ、あれは本社と連絡とってるんだ、それは全然通じないですね、つまり、そういう世界っていうのに、芥川っていうのは、まず半分ぐらいは頭を突っ込んじゃったっていうのが、この晩年の芥川のありかたのように思います。
それを一種そういうところに凝縮して凝縮してっていうかたちで、作品としての純度っていいますか、強度っていいますか、それを非常に大きな意味で保っている作品が、この『歯車』っていう作品だと思います。
それから、逆な意味で、そういう意味の凝縮ってことからいうと、凝縮性がちっともないのですけど、逆な意味で拡散していて、ほとんど文章として意味が不明であるっていうくらいまで拡散しているっていうことで、やっぱり一種の、拡散を特徴とする一種のいい作品といいますか、ちゃんとした作品をつくっているという意味では、『或阿呆の一生』は非常にいい作品だと言うことができると思います。
ただ、先ほども申しましたとおり、こういう作品をいい作品だと言う気がしないっていうんでしょうか、それよりも、作品がいいか悪いかよりも、この人の悲劇っていいましょうか、自分の病気も含めて、病も、体の衰弱も含めて、この人のもっている悲劇のほうが、作品を上回っているよっていうふうに、だから、作品がいいか悪いかってことは、一種の冒涜にあたるかもしれないよなっていうふうな気持ちにさせられるっていう意味合いでいえば、この作品をいい悪いっていっても仕方がないような気がします。
でも、やっぱり、いい作品だと思います。晩年の芥川の文学を象徴するには、この作品をいいと言うより仕方がないっていうふうに、ぼくは思います。これは、どっからはじまったかっていうふうに言いますと、それは『地獄変』のあたりとほとんど違わない踝を接しているわけですけど、その延長線の、もっといえば、先ほどの話から続きでいえば、『妖婆』の延長線にあたるような、『大導寺信輔の半生』という、やっぱり自伝的な作品がありますけど、ここいらへんから、だいたいはじまって、ほとんど、自伝の様相があるとみられる作品は、全部、いま言いました、拡散か凝縮かっていう、そのどちらかの感じ方になって、それで、それは芥川の晩年を語る代表的な作品のひとつなんだって言うより仕方がないと思います。
ただ、これだけの作品を書かれてしまいますと、もういい作品、悪い作品だって言ったってはじまらないじゃないかっていいましょうか、それは、批評したことにもなにもならんじゃないかって、それは、芥川はなぜ死んだかっていいましょうか、芥川はどうして死んでしまったんだろうか、どうして、若くして死んでしまったのかっていう感じ方のなかで、いや、これは社会苦、あるいは、世界苦っていいましょうか、つまり、時代の思想というものに対して、自分がついていけないでっていうふうにいえば、時代は、ちょうど文学でいえば、プロレタリア文学が興隆してきて、日本の一種、マルクス主義的左翼運動っていうのが、文学の面でも、その他の面でも起こってくるっていうような、そういう時期にあたっていますから、芥川はそれに理解を示しながらも、こういうのにはついていけないよっていうふうに思ってるわけですけど。
そういうことの悩みだっていう理解の仕方もありますし、それから、娑婆苦なんだ、これは芥川の家庭とか、家庭生活とか、社会の生活とか、あるいは、文壇の生活とか、そういうのも全部含めて、芥川はものすごい疲労に到達していて、そこから、精神的に、あるいは、神経的に、異常さを発揮して、それで、そういうところから死んだんで、一種、娑婆苦だっていえば、そういうふうにも言えるんじゃないかっていうふうに思います。
それから、もうひとつはやっぱり、それは純粋にそういうことを言わないで、純粋にこれは病気なんだよって、つまり、精神科の病気でしょうがなかったんだよっていうふうにいえば、そういうふうにも言えちゃう、でも、もし芥川の後代が、芥川の死について、さまざまな意義をつけようとすれば、大別すれば、その3つのうちのどれかに、意義をつけるより仕方がないっていうふうに、ぼくは思います。
つまり、死っていうような概念にとっても、ようするに、個人の死なんで、誰にとってもそうなんで、個人の死で、それがあからさまに表現される場合も、そうじゃない場合もありますし、芥川はそう言ってますけど、できるだけ率直に自分は、自分のいまの状態とか、いまのぼんやりした不安とかっていうものを、できるだけ率直に語ろうと思うんだっていうふうに言ってますけど、しかし、文学者っていうのは、文学やってる人とか、それを読んでいる人は、すぐおわかりのように、率直だと思って告白したって、まだ、そこに、まだもっと違うものがあると、それを告白したってまだあるよっていうかたちで、とにかく、どこまでいったって、それは、尽きるものではなくて、人間の表現っていうのは、そういうふうにできてないってことになります。
つまり、こういうふうに表現したから、これはこう解釈されるんだっていうふうに、そううまくできていないですから、人間の表現っていうのはできていないですから、いずれにせよ、どう解釈するかっていえば、娑婆苦として考えるか、世界苦として考えるか、それとも病苦、つまり、病気だったんだよっていうふうに解釈するか、それ以外に解釈するのはしょうがない、解釈しないとすれば、ぼくらは、晩年の、最晩年の自伝的小説から、一種の芥川の流れっていうのがありまして、流れっていうのは、過去を振り返るときの芥川の、先ほど言いました、叙情主義なんですけど、それがありまして、それがある速さと、ある流れをもっています。つまり、それの全体が、ようするに、芥川を死なしめたんだよっていうふうにでも言うより致し方がないのではないかっていうふうに、ぼくは理解します。
つまり、自然死じゃない死っていうのを、理解しようとして、意味づけようとするならば、ほんとは誰の死にとっても、そういうふうに意味づけるよりほかにないんじゃないかなって思います。
つまり、また意味づけたってまだ、底のほうに違う意味が出てくるっていうかたちでしか、終始できないでしょ。つまり、文学的表現とか、芸術的表現っていうのは、そういうその程度のもので、いったんそういうふうに理解しようとしたら、底がないですから、どうしようもないわけで、だから、それよりも、そういう考え方を一切放棄して、全体の一種の流れっていうものと、それから、一種の情念っていいますか、その速さっていうものをフッとつかんで、アーこれだよなっていう考え方で、これが芥川の晩年だよなっていうふうに理解しちゃったほうが、たいへん理解しやすいんじゃないかっていうふうに思います。
芥川は、非常にプロレタリア文学というものに同情を示しています。たとえば、「驢馬」の同人ですから、中野重治みたいな人に対して、中野重治とか、窪川鶴次郎とか、のちのプロレタリア文学を代表する人ですけど、そういう人達とか、同時に堀辰雄なんかもいるわけですけど、同人たちに非常に同情を示していますし、プロレタリア文学に同情を示していますけど。プロレタリア文学について言及した文章がありまして、それを探ると、ふたつのことを言っています。
自分はプロレタリア文学のいいか悪いかっていうことをあんまり言うことがないんだけど、ただ、自分ののぞくところは、プロレタリアたると、ブルジョアたると問わず、精神の自由を失わないってことがいいんだと思うと、だから、敵のエゴイズムをみやぶると同時に、味方のエゴイズムもみやぶることがいいんじゃないだろうかっていう感想をもらしています。
もうひとつは、これは余計なことなんですけど、芥川はしばしば、余計なことを言うっていうのがあるんですけど、つまり、誇張をやるんですけど、ぼくはあらゆる至上主義者、たとえば、マッサージ至上主義者にも、尊敬と好意をもっているってことを言っています。
つまり、いわずもがなっていいますか、芥川はしばしばそういうことを言いたくてしょうがない人ですから、そういうことを言っています。これが芥川のプロレタリア文学に対する考え方だと思います。とくに同情しているわけでもなんでもないんですけど、しかし、芥川の晩年の心臓のありどころっていいましょうか、それはとても、そういう新しい風潮に対して、同情的では。好意的ではあるっていう立場をとっています。
自分ではしかし、そうはなれないよって、また、なる気もないよってことに帰着してしまうのだろうっていうふうに思います。それは、晩年の自伝に、世界苦っていうものをつけようとするならば、そこのところをもってくるのがいちばん妥当なことになると思います。
しかし、ぼくらは、若いとき、いろんな意味をつけたくて、世界苦っていう意味もつけたかったですし、同時に、これは資質の苦だよとか、資質の苦しみだったんだよっていうのもつけたくて、それからまた、もうひとつ、つけたいことがあったんです。それは、この人は無理をし過ぎたんだよって、この人は、ほんとうに自然にいえば、晩年の自伝ではじめて、そういうことをはっきり、いろんな意味で言っているわけですけど、つまり、自分は近所の駄菓子屋さんで、駄菓子を買って、それを食べながら、道を歩くみたいな、そういう下町の下層の中流っていうようなところで育ったんだ。そして、自分はいろんな文学的な試みとして、西洋的なものを取り入れようとしたりとか、場所をいろいろなところに移動しているんだけど、つまり、自伝的に自分の情緒が帰するところは、本所辺りの、近所の駄菓子屋さんの、駄菓子を食べながら遊んでいたっていう、そういう子供時代と、そういう風潮と、そういう町の雰囲気の懐かしさっていうのが、本来的な自分なんだっていうことを、はじめて本格的に晩年の自伝のなかで、はじめて芥川は言います。
それで、ぼくはそれがいちばん好きだったので、芥川がなぜ死んだかっていうことの理由は、この人は、文学的な無理をし過ぎたんだと、だから、その無理が祟ったんだっていうことも含めて、それでこの人は死ぬ以外になかったんだ。もっと自然になって、大川端情緒にひたるぐらいな、こと自然になればよかったのになっていうのが、ぼくの芥川の死に対する、一等最初、芥川論っていうのを書いたときの、ぼくの考え方の基底でした。
いろんな社会苦とか、世界苦と関連付けたりもしましたけど、ぼくが主として論じたのは、そこいらへんのところで論じて、そこいらへんに芥川の心臓のありかたと無理があったんだよなっていうふうに、ぼく自身は解釈してきました。
晩年の作品を読むと、それがよくわかるような気がしますし、またある意味で、『開化の殺人』とか、『開化の良人』を書いた、あるいは、漱石が『それから』を書いて、『門』を書きっていうようなことのなかに含まれている、一種の近代文明開化の日本っていうものが、西洋に比較して抱かざるを得なかった、無理っていうもの、その無理を個人の、自分自身のなかに背負おうとしますと、ものすごくきついってことがありまして、それで、漱石も、それがたいへんきつかったわけですし、それから、芥川もまた、それがきつかったっていうことで、やっぱりそれが、芥川の死因の第一だっていうふうに考えるのが、いちばん文学的にいえば、いちばんいいんじゃないか、妥当なんじゃないかっていうふうに、ぼく自身は考えてきました。
これは、漱石から芥川にきて、芥川から堀辰雄にきて、堀辰雄から立原道造にきてっていうふうにたどってきます。そうすると、何がたどれるかっていいますと、病気がたどれるんです。つまり、病気がたどれるっていうのは、当時における、漱石と芥川は、まあかろうじて、神経的な病だっていえば、それも入るわけですけど、漱石は胃病でもって死ぬわけですし、芥川は自殺するわけです。自伝でいろんなことを告白しながら自殺するわけです。それじゃあ、堀辰雄はどうなんだ。堀辰雄はようするに、当時における死病である肺結核です。これは、抗生物質ができるまでは、あきらかに死病だと考えられると、当時における死病で死ぬわけです。それは、立原道造もおんなじであって、やっぱり、当時における死病だって考えられている肺結核、あるいは、そういう類似の病気で死ぬわけです。いずれも夭折するわけです。幼くしてっていうか、若くして死んでしまうわけです。そうすると、どうしてこういう病気になるのだろうかっていうことの問題っていうのは、やっぱり堀辰雄は、芥川ほどあきらかじゃないし、立原道造は、なお、あきらかじゃないですけど、しかし、潜在的にいえば、やっぱり一種の死病にかかって、夭折せざるを得なかったことを考えると、やっぱりきつかったんだよなってことに帰着するような気がします。
これは、もしかするとこじつけで、ようするにそうじゃないよと、これは弱いやつが、芥川もそうだし、弱いやつが漱石の弟子になっていたんだって、芥川の弟子もまた弱いやつがなったんだって、それで、堀辰雄の弟子もまた、弱いやつがなったんだっていうと、これは逆になるわけです。
だけれども、そうじゃなく、それをメタフィジカルに形而上学的に解釈すれば、そうじゃなくて、背負い込んだものがあまりに大きいものっていいますか、近代日本、あるいは、文明開化の日本がだんだん背負いきれなくなってしまったものっていうのを、ひとりでもって背負おうとしたっていうような、あるいは、背負わざるを得なかったってことが、これらの人たちを、いわば死病で死なしたり、自殺させちゃったりっていうことになったんだろうっていう解釈もまた、可能だっていうふうに、ぼくには思います。
そのなかで、芥川は、ほんとうに無理をしたなぁっていうのが、ぼくの理解の仕方です。つまり、下町の鼻たれ小僧が、なんか物書きなんかになっちゃったよみたいなふうなところで、終始すればよかったわけでしょうし、永井荷風みたいなふうに、ひとつ、すこしずらして、大川端情緒みたいなところに入り込めばまた、やれたんだろうなって思いますけれど、芥川には、それができなかったんです。つまり、着ている鎧を脱ぐことができなかった。
また、そのことが芥川の近代文学にもたらした功績でもあるわけでしょうけれど、そこいらへんのところは、依然として、漱石山脈と言われているものの、非常に大きな文学的な特徴だっていうふうに思います。もともとしかし、それは弱かったっていえば、そのとおりで、この人たちは一種の匂いの文学だと思います。匂いの文学で、みんな匂いに対してすごく鋭敏です。それにとどめをさしたのは…。
‥‥描写が巧みであるとか、深刻であるとかそういうこともないんですけど、よく映画っていうのはいいですねっていう批評家がいますよね、それとおんなじ言い方をすれば、文学っていうのはやっぱりいいなぁっていうことを感じさせる作品なんです。これは、こういうのを感じさせるのはやっぱり、個々の名作に限るよっていう、つまり、非常に第一級の作品しか、この感じっていうのはもってないんです。
これはどんなに複雑で、どんなに精密で、どんなに高度な作品を書こうと、高度っていうか、高度にひねられた作品を書こうと、これがない作品っていうのは、やっぱりこれは二流以下っていうふうに言うしか仕方がないのです。
それは、だけど、花袋の『田舎教師』なんかは、やっぱり文学だなっていうか、やっぱりこれはいい作品だなっていうより仕方がないんです。そしたら、芥川が無理して、無理して、花袋なんかの作品を馬鹿にして、けちょんけちょんに言いながら、しかし、結局、最後に到達したところ、『玄鶴山房』と、たとえば、『田舎教師』を比べたら、やっぱり、どっちがいいっていうのは、なんとも言えないよなっていう感じになると思います。むしろ、文学っていうのはもともとこうだったよなっていうふうに言うとすれば、『田舎教師』のほうが、そういうものがたくさんあるかと思います。
『玄鶴山房』はそういう部分もあります。たしかに、なければ代表作じゃないんですけど、あるんですけど、そういう部分は非常に少ないっていうふうに言ったほうがいいかと思います。つまり、うまいですけど、うまくて、ここがいいとか言おうとすると、作品の全部の文章を、全部あげてこなきゃいけないくらい、まことに見事な作品なんですけど、でも、それじゃあ花袋の作品を上回るかって、『田舎教師』を上回るかって言ったら、いやーっていうか、首を傾げざるを得ないっていうのが、ぼくなんかに言わせれば、本音なところだっていうふうに思います。
つまり、芥川が最終的に到達するのは、そこに帰着するのです。それだから、むしろ芥川は、初期の歴史小説の作家として論じたほうが、なんとなく花があるってよく云いますけど、花があっていいよなっていうふうに、花があって、才気がひらめいていて、いいよなっていうふうにいえば、そこを代表作で、芥川とは何者なんだっていったら、そこなんだっていうのが、いちばん通りがいいんじゃないかって思います。
しかし、芥川の生涯、36か7ですけど、生涯ぜんぶをたどってみて、それで芥川の作品で何がいいんだっていえば、ぼくだったら、『玄鶴山房』をあげるっていう、『玄鶴山房』をいったんあげてみると、なんとなく、また、首を傾げて、さあてっていうことになってきて、芥川がけちょんけちょんにしてきた田山花袋なんかの作品と比べて、さあてどっちがいいっていうふうに言えるのかなっていうのは、たいへん疑問にあるんだっていうことになっていくような気がします。
文学っていうのは、技術でありますし、また、感覚でありますし、また、現在性であるわけです。つまり、現在でなければいけないってことが、あるいは、現在であるっていうふうなことが、非常に文学作品を永続化させる、ひとつの根拠なわけですけど、同時に文学というのは、本質なんだよって、つまり、本質なんで、それは時代の風俗にかかわらないんだよっていう面が、やはりもうひとつあるわけです。文学っていうのから、このふたつの面のどちらかが欠けても、その作品は、古典として残るってことはありえないってことが言えそうに思います。
たとえば、『源氏物語』っていうのは、現在からみると、この世界は古くてしょうがないですけれど、しかし、ぼくはちょっと調べたことがあるからわかりますけど、当時の人からみると、当時の新聞ダネ、いまで言う新聞ダネで、つまり、噂ダネになるような事件っていうのは、天皇から貴族からなにから、事件っていうのは全部、変形したかたちで取り入れてあります。つまり、たいへんこれは風俗小説だってことがわかります。ただ現在からみると、それがわからなくなっているってだけなんです。
でも、あらゆる文学作品は、風俗的に現在であると同時に、またどっかに永遠がなくちゃしょうがないっていいますか、また、どっかに感覚的に鋭敏さがなければダメであると同時に、ハート、つまり、内臓が関与する心の表現でなくちゃ、ちょっとやっぱり古典にはならないよっていうふうに思われます。
つまり、そういうふたつの面を兼ね備えたものとして、たとえば、花袋の『田舎教師』と芥川の『玄鶴山房』とを比較した場合には、やっぱりどちらがどっちだっていうふうには、なかなか言えないのではないのでしょうかっていうことが、ぼくはありそうに思います。なんか文学のむずかしさっていうのは、つまり、風俗性だけでもダメだし、風俗性がなくてもダメなんだって、なくても絶対ダメです。それからまた、それだけでもダメです。また、永遠性っていうか、文学は永遠だっていうけど、永遠性だけでは、文学はダメですよ、やっぱり。それで、風俗性、現在性っていうのを持っていなかったら、その作品はダメだと思わなければいけないってことがあります。
なかなかそう考えると、むずかしいものだなってことになりそうな気がしますけど、やさしく考えれば、それはたいへんやさしいことなんであって、つまり、羽音と感覚の問題ではないかってことで考えれば、やさしいことになってくるって思います。
芥川っていうのは、現在でも、漱石、それから、太宰治と並んで、たいへんよく読まれている作品であると思うんですけれど、もしあれがありましたら、ぼくが申しました『妖婆』っていうような系列の作品と、それから、この『玄鶴山房』につながるような、あるいは、自伝のなかの隅田川東ですね、墨東の自分の出生の地につながるような、そういう作品っていうのを、あらためて読んでくださるようにしたら、とても違う面が出てくるんじゃないかっていうふうに、ぼくは考えます。これで終わらせていただきます。(会場拍手)
どうもありがとうございました。これから、約15分ほど休憩をいただきます。ですから、3時に後半をはじめさせていただきます。なお、ロビーにアンケート用紙が置いてございます。ご記入いただきました方には、来年の案内をお送りいたしますので、よろしくお願いいたします。では、本日の講演の後半に入ります。では、先生よろしくお願いします。
テキスト化協力:ぱんつさま