(冒頭録音なし)

1 ネズミの髭と人間の顔――養老孟司の考え方

……ひげは何か触覚の役割から解放されてしまったという説き方をしています。そうしますと、どういうことを意味するかというと、例えばネズミの場合には触角の役割をするひげの一本一本を動かしている筋肉というのが、人間の場合には全般的に顔の表情を動かす筋肉に変わってしまったということなのです。本を正せば、要するにネズミみたいにひげの一本一本が動いて、それが触覚の役割をする哺乳類的な役割を持ったけれど、直立するようになってからだんだんそういう役割から解放された。つまり、ひげの一本一本を動かす筋肉なんていうほど立派な筋肉は人間からはなくなってしまったけれども、ネズミのひげを動かしている筋肉に該当するものは大体人間の顔の全般に行き渡っている。だから、人間の表情を動かしているのは、顔全般で動かしているのは、要するにネズミにすればネズミのひげを動かしている筋肉と同じものが、人間の場合には人間の表情を作る動きに作用しているという説明の仕方をしています。
 その説明の仕方は大変おもしろい。つまり、機能と言いますか、働きの面から人間の表情を考えて、一体どういうものが発達したか、退化したかはわかりませんと言っていいかはわかりませんけれども、それが人間の表情をいろいろと変えさせたりしているのかということの説明として、ネズミの鋭敏なひげとそれからひげを動かしている筋肉とを比較することによって、大変よくそういう機能的な意味での説明を付けていると僕は思います。養老孟司さんという人もそういう考え方をしています。

2 脱肛と魚のエラ――三木成夫の考え方

 専門的に言うと解剖学者というのか、脳生理学者というのかわかりませんけれど、養老さんの先輩筋に当たる三木成夫さんという人がいまして、僕はものすごく偉い人だと思っています。もう数年前に亡くなりましたけれども、この人は顔というのをどういうふうに規定しているかというと、人間の体の発達史に即して人間の顔とは何なのかということを言おうとしているわけです。つまり、機能の面からではなくて、動物から人間に発達してきたものとしての人間の顔とは何かということを三木さんは言っているわけです。
 三木さんの言い方をしますと、人間の顔というのは形から考える考え方をすれば、人間の食道まで通っている腸管がちょうど内側から外側へめくれ返ったものだ。肛門で言えば脱こうというのがあるでしょう。つまり、痔の病気に脱こうというのがある。この脱こうと同じで、要するに脱こうの上のほうに付いているのが人間の顔だというのが三木さんという人の考え方です。腸管の延長線が頭のところに来て、それが開いてしまっているというのが人間の顔だと考えれば大変考えやすいし、発達史的に言いますとそのとおりで、そういうふうに考えると人間の顔の位置付けができると、三木成夫さんという人はそういう説き方をしています。この説き方はとてもおもしろいので僕なんかの好きな説き方です。つまりこれを発生史的な説き方といいます。人間が発達してきて、それで人間にまでなったという言い方が、あるいはもっと、人間の定めだったのだ。定めだったんだけど、だんだん陸に上がってきて哺乳類になって、それで人間になったのだという発達した過程というのがあるわけです。その過程から言いますと、つまり過程からいう考え方というのをこの人はよく非常に綿密に、非常にわかりやすく、しかも非常に一貫した考え方をとっていて、結構腸管が上のほうでめくれているというのが人間の顔だと考えれば妥当だし、一番よいと言っています。
 もう一つ解剖学的に言うと、魚にえらというのがあるでしょう、人間の顔というのはえらと同じ、えらが発達したものだと考えると大変考えやすいと三木さんは説明しています。顔ということを、あるいは表情をしている顔全般ということを、筋肉も含めて全般ということを、魚のえらが発達したものだと考えると考えやすいということを言っています。
 今言いましたように、腸管の延長線が人間の顔の表情、顔ですから、顔の表情の内臓感覚というのがここにきているということになるわけです。三木さんの説明の仕方をすると、口にとっての舌というのだけは内臓感覚だけではなくて、いわゆる感覚器官的なと言いますか、内臓ではなくて、外臓、外臓というのはおかしいですけれど、外とつながった、つまり感覚器官と同じような感覚が舌と唇には入っていて、そこが一番顔の中で敏感な箇所であるという説明をしています。ですから、人間の舌というのは要するに喉の奥から出ている手だと考えるとものすごく考えやすいのだ、そういうふうに考えると非常にわかりやすいのだということを説いています。僕が知っている範囲では、人間の顔についての二つの説き方というのは、人間の顔の機能と役割と解剖学的な性質について説かれている説き方というので、大別してその二つがあると思います。その二つで大体において、顔についての考え方は全部尽きていると言ってもいいのではないかなと思います。

3 母音――民族語に分かれる以前の声と言葉

 例えば、顔の表情というのを持ち出しましたから、今度は言葉とか声とかと申しますと、人間の声というのはここから上で発せられるわけです。それが自分であれされればすぐにわかります。この喉仏から上でもっと人間の声が発声される。それから、言葉、民族語と言ってもいい。日本語とか、フランス語とか、そういう言葉がどこで変わっていくかというと、ここから上のところの微妙な口の中の筋肉とか、いろんな出方とか、息の強さの変え方とかでもって、各民族語の言葉というのは別れて発達するわけです。つまり、それ以外は関与していないわけです。内臓のほうは関与していなくて、喉仏から上のここらへんと、こちらから送り込む息の強さとか、弱さとか、口の中のつぼめ方とか、舌の動かし方とか、そういうもので民族語というのは人間の場合分かれてしまっているわけです。
 ただ、言葉の中で民族語に分かれていないものがあります。それが「ぼいん」ないし「ぼおん」と言われているものです。日本語でいえば、「あ」「い」「う」「え」「お」というものです。つまり、この「ぼいん」あるいは「ぼおん」と言われているものは、フランス人であろうと、日本人であろうと、何人であろうと全部共通しているわけです。共通して、ここから上で作られている言葉です。これにどういう「しおん」あるいは「しいん」がくっ付くかということで、各民族語は分かれてしまうわけです。けれども、共通なのは母音なわけです。
 母音には、一番最初の母音というのが三母音なのです。「あ」と「い」と「え」でしょうか。その三つの母音しかないというのが最終母音なのです。民族語の中の最終母音で、日本で言えば、琉球語とか、琉球・沖縄語とかいうのが、大体三母音で結構やれる言葉です。母音の数というのは普通、標準語と言われている日本語は「あ」「い」「う」「え」「お」と五音だと言われていて、人によっては万葉集時代にはそうではなくて八母音だったと。「えぃ」と「え」とは違うのだ。そういうのも数え出すと甲類乙類というわけですけれど、それを数えると八母音ぐらいあったのだという言語学者、考古学者もいます。
 しかし、そうではないとこれに反対する考古学者もいます。つまり、「い」と「え」の中間みたいなのが二つあると言うけれど、そういうものは要するに今で言えば方言の違いに過ぎないのだという考古学者もいます。「こういうのを違う母音だと数えないほうがいいのだ。これは方言の違いで、人によって、地方によって、その方言の発音の仕方が違うというだけなのだ」と。だけだったのだけど、やはり奈良朝時代なら奈良朝時代の文化的な?形姿、要するにそれをわざわざ方言の違いぐらいにしないで、わざわざ違う音だというみたいにして、当て字ですけれど、万葉仮名ですけれど、当て字を書いて「え」という時にはさんずいにエと書く「江」を使うとか、あるいは「い」に近い「いぇ」という時には違う漢語を使うとか、そういうふうにぴたっと分けてしまった。後世の人はこれを二つとも違う発音の仕方で、母音がもっと多かったのだというけれど、「そんなことはない。そういうことは嘘だ。これはただ方言でなまりが違ったというのにすぎないのに、そういうふうに違う当て字をしてしまったから、もっと母音が多かったみたいに言われてしまっているにすぎないのだ」という説の考古学者もいます。それから、もっと母音がたくさんある、つまりインド・ヨーロッパ語みたいにたくさんあるみたいに言うやつもいる。
 しかし、そういうのはばかばかしい話で、よくよく考えてみると母音というのは全部同じなのです。民族語以前から同じなのです。どこのやつにも、「あ」「い」「う」「え」「お」というのは大体似たような発音の仕方で、数も似たようなものだけれど、それをそれぞれ子音の付き方でもっと微妙にしてやれとかいうことがあって、それで母音の数も多くなったとかと言っているのだけれど、そういうのは多いと数えなくてもいいのだと。もう大体最小限三母音だということで、後はもう本当に母音がいくつあるかということは、民族語の特色を語らないと考えたほうがよいと僕はそう思います。たいして問題ではないのだと僕は思います。つまり、そういうものだと。
 もう一つは民族語の違いということは、つまり英語と日本語は違うだろうとか、英語とフランス語は似ているだろうかとかといろいろ言うでしょう。それで、中近東語はまた違うとかと言うけれど、そういう民族語の違いというのは方言の違いと変わらないのです。つまり、方言の違いの連続的なものだと考えたほうがよろしいと思います。
 僕は日本の人が言う東北弁を発音でもって全然わからないと言って怒られたことがあります。わからないから通訳してくれと言って怒られたことがあるのです。つまり、同じ日本人なのに、わからないから通訳してくれとは何事だと言って怒られたことがあります。僕はその時も抗弁したのです。そんなことを言うけれど、おまえ、例えば地方に行ったら、僕だったら僕は山形県の米沢市にいましたけれども、米沢市のちょっと郊外にお米を買い出しに行こうじゃないかと言って、農家に行って「お米を譲ってくれ」と言うのだけれど、向こうの言うことは全然わからないわけです。(笑)こんなばかなことはないと思う。僕は米沢弁を相当習得したと思っていたわけです。けれど、それは米沢市の中でしか通用しないのです。ちょっと外に出たら全然わからないのです。何回言ってもわからない。それで、こちらの言うことは向こうにはわかっているようですし、だからとにかくお米を分けてもらって、適当にお金を払って帰って来てしまって、そういう経験というのは何度もあったのです。
 方言と民族語の違いというのはまるで違うのだとお考えにならないほうがよいと思います。つまり、方言の延長線上に民族語の違いがある。だから、日本でも北のほうと南のほうで言ったら全然通用するはずがない。全国の人がいきなり会って話したら通用するはずがないと僕は思います。それは当然なので、方言の違いということと民族語の違いというのは全然違うとお考えにならないほうが僕はよいと思います。つまり、連続している。方言が極端にあれしていってしまうと異国語になってしまうというふうにお考えになったほうがよろしいと思います。

4 言葉の発生と顔・手の役割

 それではどうするかというと、喉仏から上で作られるわけなのですから、そこが非常に重要なわけです。この違いには共通である母音の共通さと違いというのとがあるわけですけれど、共通さというところから考えますと、どこでその共通さが出てくるのかというと、顔で出てくるわけです。つまり、喉仏から上でもって出てくるわけです。顔とか口の中とか、そういうのから出てくるわけです。それは人類である限り、民族は違ってもそれほど違っていないところから共通の音が出てくるわけです。
 その大本は何かということになる。大本は要するに一歳未満の赤ん坊の時に、母親のおっぱいを飲みながら、顔の顔面といいますか、顔の表情を母親のお乳のところにくっ付けて、時には手を母親の乳に当てたりしておっぱいを飲んだりしている。そうすると、その時の母親と赤ん坊との間のコミュニケーションというのは異国語と全く同じようなもので、赤ん坊のほうは言葉がしゃべれない。そうすると、母親のほうは「あわわわ」とか「ううう」とか言って何となく通じさせてしまうということがあるわけです。そうすると、赤ん坊のほうも「あああ」とか「ううう」とかいう言葉でもって何となく通じてしまっているということがあるわけです。つまり、それは、ちょうど我々が異国語の人とたまたま偶然出会って何も通じないというのと同じ状態なのです。それを通じさせるというところから言葉が発生していくわけです。
 これはどこの国でも同じで、その大本になっているのは何かというと、一歳未満の時に母親のおっぱいを飲みながら、手でおっぱいを触ったり、唇で触ったりして、顔面をお乳にくっつけて、その触覚でわかったりということで、その全部を交えて、目は一歳未満の時に見えるようになりますけれども、目で見て母親を識別しているだけではなくて、そういう手で触ったとか、顔をくっつけた触覚で母親を識別しているとか、「あわわ」言葉でコミュニケーションをしているとかということが始めになってくるわけです。それが言葉の発生の時の始めであり、それから言葉の民族語に分かれない、つまり母音というものが共通性であるゆえんがどこにあるかと言ったら、そこらへんのところにあるということが言えます。
 それに対し、顔というのは相当、顔は手ではないですけれど、顔の触覚は魚で言えばえらの触覚と同じなのです。えらの感覚と同じなのです。えらによる識別なのです。それと手で触る。その顔と手というのはものすごく大きな役割がある。言葉の発生と母親とのコミュニケーション、つまり言葉が初めにどうやって通じていくかということとか、どうやって民族語に分かれるかと言う場合に際して、手と顔というのはものすごい大きな役割をしているということがいえると思います。それで、このあたりでもって、人間の言葉と、それから民族語で言えば母音というのが大体識別できるようになってくる。それから母親とのコミュニケーションも、赤ん坊は実際には普通の言葉にはならないのですけれど、「あああ」という言葉でもって、例えば赤ん坊が笑ったと。そして赤ん坊のほうは笑いたくなって、楽しくなろうとすると「あああ」という言葉を母親に強制すると言いましょうか、母親が「あああ」というとまた笑う。こういうふうにして、コミュニケーションがだんだん発達して通じていくことになっていくわけです。

5 自然の音を言葉として受けとる感性

 その中で反対だといいますか、そういうのが当てにならないと言う人もいるわけです。日本人の特色という段階で、顔と手という一種の触覚なのでしょうか、顔による触覚、つまりえら触覚なのですけれど、えら触覚というものの日本人における特色というのは何かと言いますと、これは角田さんという人がよくやっているのです。日本語における母音というのを言葉の始まりとしてもちろん理解しているものですから、例えば母音をほかの日本人以外の人ですと、脳で言えば右脳といいますか、言葉の機能がないほうの脳でそれを感受したり、識別したりしているのです。日本人の場合には、母音というのは言葉の音でもって、言葉の脳のほうで、つまり左の脳のほうで感受すると角田さんという人の実験、研究ではそういうふうになって、それが日本人と、その調査では今のところポリネシア人とかの特色だと言われていて、それ以外のあらゆる人種と違うところだと言っています。
 これは例えば、自然音と言いますか、風の音とか、波の音とかを聞きながら、日本人はある情感を、虫の音でもいいのですけれど、虫の音を聞いていて、きれいな声で鳴いているとか、楽しい声で鳴いているとか、寂しい声だとかと日本人は言うわけです。つまり、虫の声とか、風の音とか、そういうのを全部言葉と同じように感受するということを言っていて、左の脳で感受するというのが日本人の特色だと角田さんはそういう実験をやって、そういう結論を出しています。そんなことあるのかなというふうに思ってしまうのはなぜかというと、日本人とポリネシア人だけがそうだったら、ちょっとおかしいではないかと。あとは全部だめだって、だめというか、そういう感じ方はしないというのはおかしいのではないかとなんとなく思ってしまうわけです。つまり、日本人というのを特殊化しているのではないかと思えてしまうところが反対論の出やすいところなのでしょうけれど、ある程度こういう考え方をすると妥当なところがあるわけです。
 例えば、古典の物語なんかだと源氏物語でもいいです。源氏物語だと光源氏というのはわりに冬景色が好きで、冬景色に月を見ているとか、風の音を秋の風とか、冬の初めの風とか、そういうのを聞いたり、見たりしていると自然に涙を催すみたいなことがあるわけです。日本の古典にはよくあるのです。光源氏でも涙をこぼしたりするわけです。光源氏というのは、当時で言えば総理大臣クラスの人です。つまり、村山とかああいう連中と同じクラスの人で、こういうのが月を見て泣いていていいのかねという感じがするわけですけれど、(笑)感受性として確かにそうなるわけで、僕らでもあるので誰でもきっとあるのです。そぞろに風の音を聞いたり、秋風の時にそぞろに寂しくなったりというのは我々にもあるわけで、ただ涙を出すか出さないかは別なのです。そういう感じ方はあるわけです。そういうものは自然音みたいなものを左の脳といいますか、言語脳のほうで感じて、言葉で悲しいことを言われているのと同じような感じがするために、そういうことになるのだということになるわけです。そういう説明の仕方をすると、大変わかりがいいということになります。
 でも、いずれにせよ角田さんはそういう言い方をしないで、日本語は母音が意味を持っているからだ、言語的に意味を持つからだという説明をしています。例えばあいうえおの「あ」と言うと何と言いますか、アジアの「亜」ですか、つまり意味で言えば「何々を次ぐ」ということです。亜熱帯とかの「亜」というのは「何々を次ぐ」という意味の言葉です。そうすると、母音がそのまま言葉として意味を持つということになってしまって、「え」だってたくさんあるわけです。木の枝の「枝」という意味もありますし、またさんずいにエを書けば何々江という川という意味を持ちます。母音がそのまま意味を持ってしまうということがあるから、風の音や何かを言語脳で感じてしまうのだと角田さんはそういう説明をしています。
 それでもよいのではないかと思いますけれども、それは一種の比喩であって、母音が発生する大昔にそういう漢字があったわけないではないかと言われると困ってしまいますから、そういう説明よりもやはり感受性の、つまり本来ならば自然の音とか、風の音とか、虫の音というものでも、それを一種の情緒ある音として、言葉と同じように、言葉で悲しいことを言われているのと、寂しいことを言われているのと同じだと感じるということが日本人にあるから、そういうことに関係するのだと考えたほうがよろしいのかもしれないです。それでもって特色が現れている。いずれにせよ、人間の顔と、手も加えればあれですけれども、つまり顔のあたりでもって言葉の大本が決まってしまうことがありますし、コミュニケーションの仕方というのもそこで覚えてしまうということがあります。

6 原始的な感覚の世界と臨死体験・超能力

 それから、もう一つは目で見て人を識別するとか、自然を識別するということは目だけが働いていると考えないほうがよい。一番初めに手で触ったとか、母親と言葉にならない言葉でコミュニケーションを成り立たせていたとかという、手の触覚とか、音とか、「あわわ」言葉の音とか、そういうことも含めて、目で見る識別の仕方の中に全部総合的に含まれているのだというふうに考えたほうがよいという考え方になります。つまり、もっと言いますと、大脳皮質の奥のほうに、原始的な哺乳類の時代からあった脳の一番奥のほうにある部分を取ってくれば、そこでは目の感覚とそれから耳の感覚とか、におい、鼻の感覚とか、味わいの、口の感覚とかは全部どこかでつながっていた時代というのがあって、それが総合的につながっていて分化していない時代があった、そういう時期があったということが言えることになります。
 例えば、よく立花さんの本が出ていますけれども、臨死体験みたいのがあるでしょう。そうすると、臨死体験は何かと言ったら、要するに死に損なってと言いますか、死にそうになって意識が薄れてきてしまって、それでほかの内臓器官もあまり働かなくなって死にそうだと、そういうふうになっていくと自分の目の意識が体外に離れてしまって、ちょっと天井のほうに上がって、死にそうになっている自分とその周りの自分を手当てしているお医者さんとか、看護婦さんとか、泣いている近親の人とかというのを、自分が上のほうからちゃんと見えるというふうな体験があるわけです。それは臨死体験の一つなのです。なぜそういうのが可能かということがあるわけです。宗によって違うけれど宗教家は来世、つまり死後の世界があるみたいだというふうに結論付けますし、またお医者さんはいろいろなことを言うわけです。もうろうとした時に例えば精神病的、病理学的に言えば、二重人格と言いましょうか、ドッペルゲンゲル、二重人格というのがあって、その極端な例は自分が何かしているのを部屋の中で何か人で、机の周りに座って何かやっているというのを自分がそれを見ているという現象のことを、精神医学ではドッペルゲンゲルと言うわけです。それから、もっと多重人格というのもあるわけで、何人もの人格に変化をしてしまうというようなことは人間にはあるわけで、そういうのは病的なものだと精神病理学者は規定の仕方をしている。目の意識だけが死に損なうと体から抜け出て、全員の中で自分を見ているとか、自分と自分の周辺を見ているということは、何も正常なことではなくて、病的な現象だとお医者さんのほうは言うかもしれないわけです。
 だけど、いずれにせよそういう臨死体験が難しいところは何かというと、どうして目はつぶってしまっているのに、もう死ぬ間際ですから、人間というのは目をつぶってしまったら見えるわけがないし、意識が薄れるばかりなのに、どうしてそういうふうに死にそうになっている自分を上のほうから自分が見ることができるのだということが不思議ではないか、おかしいではないかということが、いずれにせよ帰着するのはそこであるわけで、それを結論付けるのはなかなか難しいわけです。だから、宗教家は宗教家で、それはあの世にいく始まりなのであるというふうにちゃんと言ってしまって、あの世というのはそれからずっと飛んでいったあの世へ行くんだよと言って、それで行くのだけれど、普通はどこか死の向こうに人が立っていて、「おまえ、ここからもう来るな」と言われて、戻ってきたら意識が覚めたというふうなそういう話になるわけです。つまり、そういうことというのが一番難しいところは、死に損なって衰えた意識しかないのに、どうしてそれが上の天井のほうから自分で自分が見えるのか、あるいは自分の周辺が見えるのかということが不思議だということになるわけです。それはなぜかと言うと、人の考え方が、専門家で分かれてしまうのはそこのところだと思います。そういうことはないのだと、それは錯覚で後からくっ付けてそういうことを言っているだけなんだというふうに言いたいところですけど。
 僕も多少は臨死体験の報告集みたいなものを集めたり、読んだりしたことがありますけれど、自分の体を自分の上から見ていて、周囲の人が動いているのを見ていて、何を言ったか見えていると、どうしてもそう思わないとならないなと思える体験報告は多いのです。それを疑うことはできますけれども、それはないはずだと根拠もまたないのです。そうすると、僕が思うには、その一番よい説明の仕方は今申しましたとおり、目の感覚とか、耳の感覚とか、人間の五感というのは非常に発生の初めの頃、つまり母音だけしかなくて民族語に分かれていない、そういう言葉時代の時までさかのぼってしまうと、全部連結していると考えられるということができます。そうしますと、死にそうになっても一番後まで残っているのは耳です。耳の感覚です。声が一番残りますから、耳の感覚で声が聞こえるという体験ができる限りは、目も見えてしまうということが可能なのだというふうに考えるのが、僕の考え方では今のところ一番よろしいのではないかなと思っています。
 でも、そうなんだとあまり断定したくはないのです。世の中でも不明なことは断定したくはないわけです。断定はしませんけれど、考え方としては一番よいのではないかなと思う。宗教家みたいに「いや、来世というのがあるんだよ」と言ってしまうことも、なんとなくちょっとあれだし、「いや、そういうのは大でたらめだし、病気の一種で幻覚を見ているだけだよ」と言うのも何となくそうではないよと思えるところもあるわけです。だから、それもあまり言えないから、結局非常に意識が薄れていって、あらゆる内臓もそうだし、五感も死にそうになって衰えてきた。ある時点になると、あらゆる人間の感覚は全部連結してということが言えて、そうすると耳だけ聞こえさえすれば、必ず見えてしまうということはありえるのだよ、そういうふうな理解の仕方をするのがよいのではないかなと、今のところ僕は思います。つまり、断定はしませんから「そうではない」と言われても困ってしまうわけですけれど、そうだと思う。
 それから、いわゆる超能力者というのはいるでしょう。超能力者でぎぼ宣保さんみたいな人はいるでしょう。「あなたのここのところに背後霊がいますよ」とか、それは言わなくてよいわけで、それはその人が一番関心を持っている自分の肉親の人がそういうふうに見えるというだけのことで、別に背後霊と言わなくてもよいわけです。だから、そういうふうに言わないとすれば、そういう感覚が非常に鋭敏に残っている人がたまにはいるのだということは言えそうな気がします。つまり、それはペテンでも何でもなくて、そういう人はいるのだと僕は思います。
 それから、子どもでも、子どもも本当に確かめたことがないからわからないのですけれど、テレビや何かで時々やるのです。子どもに内緒で紙に図形みたいなものを書いたものを子どもに「当ててごらん」と言うと、子どもがそのくしゃくしゃに丸めた紙を耳に当てたり、こういうところに当てたりするのです。しばらくやっていて、「何だ」と。「ここに書いてあるとおりのことを書いてみな」と言って紙に書かせて、それで開けるとちゃんとできているということが、まぐれではない数だけ、意味がある数だけちゃんとあるわけです。出てくるわけです。それで、大体三歳未満の子どもは当たりやすい。四歳から上になってしまうと駄目だ、大人になるとまして駄目だとなるわけです。そうすると、三歳未満ということに何か意味を付けるとすれば、要するに非常にまだ「あわわ」言葉をやっている時代に、いろいろ耳が聞こえない耳のコミュニケーションをやっているだけで、いろいろなことが、母親が何を考えているのか、見ているのか、何を言おうとしているのかというのをわかってしまうわかり方というのが、切れずにと言いますか、非常によく保存されているとすれば、そういうことはありうるなと考えることができます。
 これも「おまえ、その前にちゃんとそれをやったのか」と言うと、そんなことはやっていなくて、テレビを見ているだけですから、どこでインチキされているかというのはわかりませんから断定はできませんけれども、僕はそういうのを二回ぐらいテレビで見たことがあります。それは、そういう三歳未満の子どもというのがどうするかというと、耳のところに当てる。この?前から向こうへ、そこから仏教のほうのヨーガか何かの、チャクラというのか、そういうのがあるところだと言っている。つまり、そこらへんで子どもは当てるのです。じっとあれしていると、何が書いてあるかというのを書かせると大体同じで、それが20%かそこら、30%ぐらいで、まぐれとは言えないということになる。
 それから、誰か一人がわかってしまうと、それが感染してわかってしまうということもあります。あるいはスポーツをやっている人は、そういうのを当てるのが苦手なのです。スポーツをやっている子どもは苦手だけれど、そろばんをやっているやつは非常に確率が多いということもテレビでやっていました。僕はそろばんは知りませんけれども、暗算の時にここらへんにそろばんを思い浮かべてやるそうです。そういうことをよくやっている子どもは当たりやすいと言いますか、わかりやすいという結果をテレビでちゃんとやっていました。そういうことというのはありうると僕は思います。それは非常に感覚が原始的なところで連結して、そういう感覚をうんと保存している子どもとか、保存している人とかはそういうことができるということはありうるのではないかというのが、僕の今の理解の仕方です。

7 「もののあわれ」の文学と「顔を立てる」文学

 だから、そういうことの問題というのは全部、ここらへんの、顔の表情とか手の表情。手の表情というのはおかしいけれど、表情があるのは顔と手だけだと言われています。手にはそういう表情があり、顔にはもちろんある。その二つに表情があると言われている。それはやはり一番最初にそれを使っているのです。乳児の時代にそれを使っていますから、そこの感覚の鋭敏さを保存している人とか子どもはたまにはいるわけで、そういう人がそういうことが可能だということはありうる。耳が聞こえさえすれば目が見えるとか、耳を聞こえるようにさえすれば目が見えるとなりうる。そういうことはありうると、僕らはそういう解釈の仕方をします。つまり、だんだん顔の文学ということに入っていくわけです……
【テープ反転】
……違うような、つまり比喩として使うということはありうるわけです。例えば、人間の声というのは、やはり音で識別する顔の表情なのだと言うことができます。つまり、本当の顔の表情は目で見て識別するわけですけれど、人間の声というのもやはり一つの顔の表情なのです。その場合の顔というのは比喩であって、声というのは音で識別する顔の表情だというふうに言うこともできるわけです。顔という言葉のそういう使い方をすると、もっと極端な使い方ができます。例えば「俺の顔を立ててくれ」とよく言うでしょう。つまり、それだって比喩です。「顔を立てるとはどういうこと? もともと立っているではないの」とかと言うのは、屁理屈になるわけです。つまり、それは比喩として使っているからです。「俺の顔を立てないかという言い方が成り立つのは、町内の顔役だ」と言うと、「顔役って何なの? どういう意味なの?」となる。その場合の顔というのは代表者と言いますか、象徴する人とか、比喩として顔というのが使われるわけです。文学との関係が深いのは、主として比喩として顔、あるいは顔の表情というのを使った場合に、文学と大変かかわりが多くなってきます。
 大体大ざっぱなことを言いますけれど、例えば日本の古典文学というのがあります。古典物語というのがあります。平安朝、もしかしたら奈良朝末期からありますけれども、日本の古典文学、あるいは古典物語というのは二つに大別することができます。一つは、本居宣長流に言えば「もののあはれ」なのです。「もののあはれ」を主題にした物語類か、そうでなければ顔を立てる物語類かのどちらかだと。顔を立てるの反対はつぶすで、「俺の顔をつぶしたな」と言う。つまり、顔を立てるとか、つぶすというのが主題である物語か、日本の古典以来の文学というのはその二つに大別することができます。
 「もののあはれ」のほうを片付けてしまいますと、「もののあはれ」というのが一番出てくるのは男女の間の関係で、恋愛したとか、失恋したとか、また違う女の人と関係したとか、好きになったとかということで、つまり源氏物語の世界です。そういう「もののあはれ」の世界なのです。その「もののあはれ」という場合の「もの」というのにはあまり意味がないのです。しかし一般的に「あはれ」というのは、かわいそうだという意味から美しいという意味まで非常に多様に使われます。あるいは情緒深いとかという意味も含めまして、「あはれ」という言葉に込めますと「もののあはれ」というのが一番表れやすいのは男女の問題の中ですし、それからもう一つは、やはり人間と、日本の場合には自然との間柄の場合に「もののあはれ」というのは感じやすいし、流れやすいとなります。
 そうすると、そういうのが顔の文学ではないのですが、人と人との関係、特に男と女の関係というのを人間関係として広げていきますと、そこの世界というのは一種の「あはれ」の世界だと。それは美しいから本当に「あはれ」だとか、悲しいからという意味も含めまして、「あはれ」という言葉に一括できる「もののあはれ」という世界なわけです。これには、いわゆる倫理とか、倫理つまり善悪とか正義がどうだとか、これは退廃しているとか、そういうものは一切かかわってきません。つまり、男女の間の本当に「あはれ」なとか、悲劇だなとか、悲しいなとかの「あはれ」だなとかいう意味から美しいなという意味まで全部含めて、そういう世界が日本の古典以来の文学の大きな二つの、大別すると二つの大きな主題の一つになっていきます。源氏物語というのは、それはもう「もののあはれ」の世界です。典型的な「もののあはれ」の世界です。つまり、男女の問題を主体とした世界であるわけなのです。
 これに対して、顔を立てる、立てないという文学。立てるとか、つぶすという文学。つまり、「おまえ、俺の顔をつぶしたな」とか、「あの人の顔をつぶさないために、俺は自分にとってどんなに不利益であろうと、こういうことを貫かなければいけない」という、そういう世界というのがもう一つの大きな物語の世界を占めるわけです。どれを取ってもいいのですけれども、これは近世と言いますか、室町時代末以降におけるドラマとか、散文、小説の主題というのはほとんどこれと言っていいぐらいです。象徴的に言えば、近松門左衛門とか、井原西鶴とか、そういう人たちの物語や戯曲の世界、芝居の世界というのは全部、顔を立てるとか、つぶすとか、あるいは主君の顔を立てるために、そういった人の顔をまた回復するために四十七人で討ち入りするのだという仮名手本忠臣蔵の世界です。そういうのが室町時代末以降における文学の主題になっていくというぐらい、非常に大きな部分を占めます。

8 『平家物語』――わかりにくい「顔を立てる」倫理

 典型的なものを挙げてもいいわけですけれど、僕はいまだに本当によくわからないなと思っている例をむしろ挙げてみます。顔の文学の世界には違いないのですけれど、一つ典型的なものを挙げると、平家物語というのがある。「祇園精舎の鐘の声」と言って、ものすごく情緒的なとなりそうですけれど、全部読めばそうでもないのです。やはり、顔を立てる、立てないの世界なのです。
 例えば、平家物語に僕なんかは?好きなのですけれど、作者が誰だというのはよくわかりませんけれども、力を入れて書いているなと思えるところは、一つは木曽義仲が討ち死にするところなのです。木曽義仲が源氏一族の将軍で、一等最初に都に攻め上るわけです。都でもって平家を滅ぼして平家を追っ払って、都を占領して、宮廷に位置を占めるわけですけれど、いきなりいい目に遭ってしまったということかもしれません。わりに人望を都で失うわけです。乱暴狼藉みたいなことをよくやったりして庶民を苦しめたりするものですから、人望を失ってくるということがあるわけです。そこで、源氏だと、直系にあたる頼朝というのが伊豆半島で北条氏を背景にして兵を挙げるわけです。初めは負けてしまうわけですけれども、二番目は勢力を盛り返して、都へ攻め上るわけです。それで、頼朝は木曽義仲を攻めるわけです。攻めて滅ぼすわけです。
 そこのところで、この作者は木曽義仲が好きなのだなと思ったのがとてもよくわかるのです。非常に力を入れて書いていて、木曽義仲が頼朝に攻められて、少数の部下と言いますか、身辺の部下を連れて落ち延びていくところがあるのです。それで、都の近くに来た時に義仲は自分が好きだった女の人が都にいる。ちょっと死ぬ前に一つ会って死にたいものだと義仲が思うわけです。それで、付いてきた側近の武将が「あなたが女性と会っている間は、私が追っ手を引き受けて戦っていましょう。その間に会ってください」と言って、追っ手をその武将が引き受けて戦うわけです。だんだん危うくなってくるということがあるわけです。だけど、義仲のほうは名残惜しいのか、なかなか女性と会っているのをやめない。そのうち、じりじりと攻め立てられてということになるわけです。
 そこで、今の顔を立てる、あるいは顔をつぶすという問題が出てくるわけです。その武将は義仲が女性と会っているところに行って、「あなたのような大将軍が女性と会っている間に攻め込まれて、討ち死にしたということになったら、世の名折れだ」。つまり、「顔が立たないだろう」と言うわけです。私はできる限り防ぐけれども、朝日将軍と言われたあなたの名声に、大将軍の名にふさわしいようなあれをやってくれと言って、つまり早く女性と別れてくれと戒めるわけです。それで、自分は何をするかというと、私が要するにあなたの手本になるようにというのはおかしいのですけれど、私はあなたの顔がつぶれないように、そういう言葉は言っていないのですけれど、死出の先がけをしましょうと言いましょうか、私が模範を示しましょうという意味でしょうか、先がけをしましょうと言って、その武将がそこで腹を切って死んでしまうわけです。それで、義仲もああ悪いことをしたと思ってすぐに女の人を京へ帰して、自分もそこで腹を切って死んでしまうというところが、平家物語の中でも非常に力を込めて書いてあるわけなのです。
 その時何がわかりにくいかというと、顔の立て方の倫理とつぶし方の倫理といいましょうか、あるいはつぶした顔の立て直し方の倫理というのがわかりにくいのです。その時にその武将が、我々だったら「あなた、もういい加減にその女の人を帰したらいいではないですか」と、(笑)言いたくはないですけれどそういう言い方をするところを、今の言葉で言うと「自分が模範を示しましょう」とか、「死出の先がけをしましょう」とか、「私がまず最初に道案内をしましょう」とか言うところは、いろいろな意味、今で言うといろいろな意味が含まれているのです。つまり、自分が先に死にますからという顔の立て方、自分が仕えている大将軍の顔を立てるための自分の身の処し方というのは大変わかりにくいのです。
 たぶん、武家といいましょうか、武士といいましょうか、武家層独特の一種の倫理観であって、ちょっと我々の現在の倫理観からいうと、ちょっとそれはおかしいのではないか、自分だったらそういう言い方、やり方はしないなみたいな。つまり、自分だったら死ぬということを前提とするならば、何とか早く別れて恥をかかないように、大将軍の名を辱めないようにしてくださいというくらいのことは言うところなのです。それが倫理なのですけれど、平家物語では義仲の武将はこういう身の処し方をするわけです。それにいろいろな要素が含まれている。今で言うと、それは面当てではないかという意味合いも含まれていないことはないと思う。つまり、分化されていないのですけれど、一種の渾然とした武家の習いなのです。その倫理の仕方は非常に特異なものだと思います。その顔の立て方とか、その顔を立てることの進め方というのは非常に特異なものだということができると思います。それはとてもわかりにくい。そのわかりにくさはどこから生まれたのか、どこから発生したのかというのもなかなかわかりにくくて、僕はわかりにくいですから、非常によくつっかかっていることです。

9 江戸時代の顔――曾我兄弟・心中物語・忠臣蔵

 もう一つ例を挙げます。これは江戸時代に入ってきますけれども、江戸時代に曾我兄弟の物語というのがあるわけです。曾我兄弟は伊豆に住む頼朝の武将です。曾我兄弟のおやじさんは頼朝の武将で、同僚である工藤祐経というのと争いになって討たれて殺されてしまうわけです。それで曾我兄弟は一家離散でどこかに預けられながら十年、十五年と成長して、武芸がたけるようになったら必ず自分らが工藤祐経をあだ討ちするのだと考えて、十年も十五年も苦心惨憺して工藤祐経を付け狙って、あだ討ちの機会を待ち焦がれるわけです。ちょうど源頼朝が富士の裾野で巻狩をするわけです。つまり狩猟をするわけです。大規模な巻狩をする。その時に、工藤祐経も巻狩の家来として、武将として自分の部下を連れて、猪が逃げてくるのを待ち伏せる役をしたりとか、そういうので出ているわけです。今こそチャンスだ、機会だと考えて、曾我兄弟は工藤祐経の陣屋のところに乱入して工藤祐経を討ち果たしてしまうわけです。討ち果たしたあげく、やはり頼朝の部下に捕らえられるわけです。捕らえられて頼朝の面前に引き据えられる。
 もちろん頼朝も武将ですから、武家のしきたりは十分知っている。もし曾我兄弟の答え方がよかったら許してしまおうと思っているわけです。頼朝は引き据えられてくる曾我兄弟に「私の武将である工藤祐経の後を付け狙って、あだ討ちをしてしまった。それはどういう意味だ」と聞くわけです。もし曾我兄弟が「大将軍にはちっとも恨みはない。工藤祐経というのは将軍の部下であるけれども、自分の父親にとってはあだだ。だから、悪いとは思うけれどあだ討ちをさせてもらった」という答え方をすれば、頼朝は許そうと思っているわけです。けれども、そういうふうには答えないで、「自分は工藤祐経をあだと思って討とうと来た。工藤祐経は言ってみれば大将軍にとっては部下の一人で?いろいろからも証明しているのだ。証明しているほうがあだであるという限りは、大将軍もまた自分たちのあだだというふうに思って今までやってきた」と曾我の五郎か何かは答えるわけです。すると、そういうふうに言ったら頼朝ももう許してやるという根拠がなくなってしまうわけです。それで、処刑されるわけです。
 その時の曾我兄弟の答え方というのは、つまり武将はあだである。自分の父親をあやめたあだである。こいつがあだであれば、こいつの上官である大将軍も自分たちのあだなのだという倫理がよくわからないのです。つまり、そういう倫理は現在の僕らが考えても成り立たない。それは一種の「坊主憎けりゃ袈裟までも」というのと同じで、それでは成り立たないと思うのです。つまり、それは別ではないか。こいつがしゃくだと思っても、こいつの先生とか上官が憎いということはないだろう、それは関係ないことだろうというのが我々の倫理になるわけです。ところが、曾我兄弟がそう答えたために頼朝の赦免するという根拠がなくなってしまうわけです。それでやはり処刑する以外にないということになって、処刑することで自分の顔を立て、曾我兄弟の顔は全くつぶしてしまうということをするわけです。全くつぶしてしまうことが、もしかすると、逆に曾我兄弟の顔が立つということになるのかもしれないという判断になるのでしょうけれど、処刑してしまうことになるわけです。その種の顔を立てる、立てないという原理というのは、時代によってうんと違ってきてしまうのです。しかし、少なくとも室町末から江戸時代にかけての日本文学の主流と言ったらそれに尽きると言ってもいいのです。
 これは心中物語でも同じなわけなのです。つまり心中物語でも、遊郭というところに商家の若旦那が通い詰めたりして、家、財産を全部パーにしてしまっても、なお?通い詰めてしまう。そういう場合に遊郭の女性というのは独特の倫理がありまして、これを「いき」とか「すい」と言うわけです。独特の倫理は二つしかないのです。二つのやり方しかないのです。つまり、もうこの男はお金も家の財産も使い果たして?顔もなくなっちゃうんだから、もう袖にしてポイしてしまえ、冷淡にポイしてしまえという倫理の作り方というのが一つ。もう一つは、そういう落ちぶれてしまった男が家からも勘当されてしまった。どうするのだという場合に、自分の稼ぎを全部つぎ込んでしまうのです。家から勘当されて、乞食同然という男に、自分が遊郭で稼いだ金を全部つぎ込んでしまって、自分もまた、いくら華やかでも貧乏になっていってしまって、自分もまた無一物になっていってしまうみたいまで尽くしてしまうかのどちらかなのです。どちらかの女性の倫理のことを「すい」あるいは「いき」というふうに言うわけです。「粋」というのはそういう倫理なのです。これはまた非常に特異であって、徳川時代の普通の社会における女性の倫理とはちょっと違うわけです。どちらかなのです。そうでなければ冷淡にパッと、もう何の利得もない、もう来るなと追っ払ってしまうか。そうでなければ、自分のほうも乞食同然になるまで男に貢いでしまうかのどちらかになるという倫理がある。
 その果てはどうなるのかというと、要するに心中みたいな事件になるわけです。それが徳川時代における文学の主流なのです。徳川時代の文学の本質はそれで、心中をもって本質とする。心中とは何かというと、本来ならば「もののあはれ」となるべき男女の問題が、社会的ないろいろな金銭とか地位とかで追い詰められて無一物になった揚げ句、もう矛盾の極地になっていって、死ぬ以外にこの矛盾を解決できることはできないと言って死んでしまうのが心中なわけです。それが徳川時代に受ける芝居や物語などの非常に大きな要素を占めるわけです。その場合に、要するに顔を立てる、立てないという。つまり旦那の顔を立てていくら落ちぶれたって全部自分ができる限り貢いでしまうか、旦那の顔なんていうのはもうポイしてしまえば終わりだとして終わらせてしまうか、どちらかの倫理、顔の立て方、あるいは顔のつぶし方と言いましょうか、そういうことが文学の大きな主題になっていくわけです。
 これが仮名手本忠臣蔵みたいなのと、いわゆる忠臣蔵物語もあだ討ちと同じようなもので、その点で言えば大石内蔵助というのは謀反をしているわけです。吉良上野介というのが主君を切腹に追いやった意地悪じじいだと言って、こいつに謀反のあだを討つという。それはそのとおりなのだけれど、白昼と言いましょうか、四十何人も討ち入りしたわけですから、それは江戸幕府に対する謀反なのです。要するにもっと言えば、おまえらこういうやつを許してそのままではないか。両方とも切腹だと言うのならまだ話はわかるけれど、こいつは許しているのではないかというのがあって、要するに徳川幕府に対する謀反であるということになる。そこで荻生徂徠という偉い儒学者がいて、やはりこれはこの人たちの忠誠の顔を立てて、忠義の顔を立てるには切腹させたほうがよい、許さないほうがよいというふうに進言するわけです。大石内蔵助のほうもこれが謀反なのだということをわかった上でやっているわけですから、それでよいということになるわけです。
 それがやはり忠臣蔵の一種の武士道なのでしょうけれど、武士道も少しはずれた武士道ということなので、本当は侠客もの、つまり幡随院長兵衛がどうしたという侠客ものの倫理というのは、侠客の「侠」というのが倫理なのです。四十七士の武家の倫理というのもそれに近い形で、芝居の種になっている。「侠」に近い形で種になっている。だから、徂徠もまたあれし、大石内蔵助もというふうに、両方とも「侠」という倫理を発揮したのだというのが普通の解釈であって、時々四十何人の刺客みたいなことを言うやつは少しあれして、これは謀反なのだという感じで、遊びではないかというふうにあれして、そういうのを作ったりするわけです。いずれにしても、そういうのが芝居の、つまり顔を立てるか、立てないかということが芝居の倫理と言いましょうか、芝居の勘所になるわけです。江戸時代になったら、それが一番多くなっていくわけです。

10 民族性に根ざした主題としての顔

 この問題は明治以降の近代文学になりますと、つまりヨーロッパの男女の関係という問題の考え方が入ってくるわけなのです。そうすると、これは一種の若い男女が平等になって、お互いに理解し合って、お互いに向上し合うような恋愛と結婚に至るというのが一番よいのだという西欧近代の「あはれ」と言いますか、「もののあはれ」の考え方がそこに一枚加わってくるわけです。それが明治以降の文学の主題になっていくわけです。次第に遊郭内における「すい」というような玄人筋の心意気みたいなものは傍流に、脇にさらされていくわけです。それで武士道みたいなものも、次第に脇にさらされていくわけです。それで、西欧的な意味での近代的自我という自我の問題と、それから西欧的近代の意味での男女の平等の恋愛みたいなものから所帯を持つというか、結婚に至るというのが、文学の大筋になっていくというのが近代文学の筋なわけです。
 そこで、顔というものはなくなったのかというとなかなかそうはいかないわけで、今でもやはり僕も今、自分自身を顧みてもそうですけれど、どこかで顔を立てるとか、これでは顔が丸つぶれだなとかということを基準にして、自分の行動をしているということがあります。ですから、相当深く日本人の民族性にからまった問題で、顔を立てる、立てないの問題はそれぐらい大きな役割を持った主題だということができます。また、今も口にはできますけれど、なかなか顔を立てるか、立てないかという言い方はどうでもいいのですけれど、そういう考え方で人間は動くことが多いのです。そうではない動き方をすると、「あの野郎」と言われてしまったりするということがありうるわけです。つまり、そこは今でも相当に日本人の特性に根ざしていると言いますか、特徴に根ざしているということになると思います。
 一般的に言いますと、明治以降うまくそうなったように、男女の問題も非常に解放的になって、特に女性は解放されてきたと言われていますけれども、そうでもないのです。つまり、顔を立てるか、立てないかの問題も、深層まで入っていくとそうでもなくて、江戸時代ですと確かに男が封建的に威張っていて、男が「おまえは子どもを産まないから三行半だ。帰れ」と言われて帰されてしまうとか、「三行半を出すから、もう出て行け」と言われると、女の人は泣く泣く出て行くという、芝居としてはそういう場面が非常に多いのですけれども、そうでない場面もあるわけです。つまり、大体そういう場合には、女の人のほうが奉行所か何かに訴え出て、うちの人に三行半で帰れ、帰れと言われる。しかし、うちの人は私が婚礼の時に持って来た、何でもいいのですけれど、着物を質に入れてしまってなくしてしまったと言う。例えばそういう訴え方をすると、嫁の財産を勝手に処分したということで、三行半は無効であるというふうになってしまうということはあるわけです。
 つまり、どういうことかと言いますと日本の?タイプのことはともかくとして、日本の古代までのことを言いますと、日本は母系的な社会でしたから、女性のほうがいずれにしろ血筋なのです。だから、その名残というのはやはり深層までなかなか消えなくて、少なくとも江戸時代ぐらいまではそれがあったのです。ですから、江戸時代のあれが封建的に苦しめられてというのは、ちょっと違う。そういう簡単なものではない。江戸時代のほうが女性に意欲があって、今なんかそういうことをいくら訴えても、私が持って来た着物をみんな質屋へ売り飛ばしてしまったといくら言っても許してくれないです。それは内々のことで仕方がないでしょうということで離婚は取り止め。法務省がそういうことを言うわけにはいかないと言われてしまうのです。けれども、江戸時代だったらそういうことは可能だというわけです。どうしてかと言うと、日本は潜在的にそれだけ女系社会、母系社会だから、その名残でなかなか強いあれを持っていたということで、それは明治以降になって完全と言っていいぐらい払底してきてしまっています。だから、今はまた、女性のほうから言えば、やり直しをしなくては女性が男性と平等にということはなかなかそうならないみたいなことはあると思います。
 つまり、そういうことは何かと言うと、いかに顔を立てるか、立てないかという問題、つまり顔の文学というのが、「もののあはれ」の文学と同じようにいかに民族の深層と言いましょうか、無意識の奥深くと言いましょうか、そこまでいかに届いている問題かということが言えるということなのです。文学が一番そうなのですけれども、日本文学というのも本当に大ざっぱに言ってしまえば、そのどちらかに分かれてしまうというくらいに、非常に根強い民族性として残っている。これを払底するのはなかなか難しいし、もしかするとなかなか払底はできないのかもしれないということがあります。つまり、それくらい日本の民族性に根ざした文学の主題で、それは易しく言えば、顔を立てるとか、立てないとか、俺の顔をつぶしてくれるなとか、そういう言葉で言える問題が、いろいろなバリエーションを持って日本文学の古くからの主題になっているということになるわけです。

11 日本人のふたつの顔

 僕らも昔はと言うのはおかしいですけれど、若い時は例えばヨーロッパの民族学者とか、人類学者が、今で言えばパプアニューギニアとか、そういうところに行って、いろいろな原住民の風俗、習慣を調べたりして、それをまとめて本にするみたいな。それを翻訳して読んで、「ああ、そうか、そうか」と言って、あそこはまだ未開なのだなとか何かを言って済ましていましたけれど、この頃はちょっとそうは思えなくなって、よく我々はそういうふうにして、「いや、まだ未開のところがあるのだな」とかと思いますし、また同時に、ひょっとするとあれはまだ調べられていると言いますか、フィールドワークと言いますけれども、学習されます。つまり、調査されているほうの側ではないのかなと思ったりもします。どちらの感じもするわけです。それくらい深層まで入ると、日本人というのはもっと広くポリネシアンというのが、少なくとも半分は入っているのです。つまり、半分はポリネシアン。もっと広義に広く言えば、オーストロネシアンというわけです。南太平洋の島々というか、オーストラリア大陸のすぐ近くまでも含まれますけれど、そういうところからと同じ人種というのが、日本人の中に少なくとも半分は入っているのです。それで、半分はそうではない、新しいよその大陸から朝鮮経由とか、直接とか、沿海州からとか入ってきている。あるいはもっと奥のほうから、川を下ってくる鮭を追いかけてとうとう海岸まで来てしまった。ついでだから島へ渡ってしまえというやつが、そういう新しいやつが日本人の中に半分以上は入っているのです。けれども、大ざっぱに言いますと、いずれにしても日本人はその二つからできているわけです。
 その一つというのが非常に問題なのです。つまり、角田さんという人のあれで言えば、日本人が風の音とか、自然の音とかを言語脳のほうで、左の脳で感じてしまうというのは、ポリネシアン、ないしはオーストロネシアンの非常に大きな特色だと思います。その要素を日本人は半分近くまだ持っている。まだ原始的なところで持っている、混血しているということを意味していると思います。そういうことで、そこのところまでいきますと、なかなか難しいのです。つまり、そこのところで位置付けられる日本の民族性というのまでいけば、大体南のほうの島の人とそれほど変わらないのではないかということになってくると、顔は随分変わっている。
 例えば、大相撲で曙とか、武蔵丸とかいるでしょう。あの顔を見てごらん。あの曙なんて、日本人だったらもっと扁平になっているでしょう。つまり、大陸系のあれ、相当混血が大部分を占めてしまったからそうなっているけれど、そうではない人もいます。あれは日本人と同じなのです。古い日本人というのはああいう顔をしていたのです。あの人を調べたらすぐにわかります。ちょっと前に武蔵丸というのが話題になって、嘘か本当かは知らないけれど、西郷隆盛によく似ているではないか。(笑)やはり、そういう隔世遺伝かもしれないけれど、(笑)そういうあれで、そういう要素を持っていた。あれはとても日本人的なのです。まるで似ても似つかない顔をしているように思うかもしれないけれど、あれはそうなのです。つまり、日本人の一つの要素を、二つに大別した一つの要素を含んでいるわけです。
 もっと言うと、日本人というのはおかしいというわけです。要するに顔を見ると、皆さんもそうだけれど、これが同じ日本人かと思うほど違います。(笑)一人として違います。ということは、多数の部族がいろいろな時代を分けて、何万年あるいは何千年ぐらい、いろいろなところからたどり着いたり、漂流してきたり、いろいろなものが混じっってしまってということだろうと思います。大別すればそうなりますけれども、そこらへんのところは日本人の特性であって、やはりヨーロッパ人とかヨーロッパ的近代、現代にちょっとなりきれないところというのもあるのです。けれど、なりきれてしまっている人ももちろんいる。見かけ上なりきれてしまっている人もいるし、別になりきれているわけではないのだけれど、顔はヨーロッパ人と似ているというやつも日本人の中にはいます。いろいろ、さまざまいるということになるわけです。
 しかし、いずれにしても一番枠付けしやすいのは、やはり文学みたいな、ある程度以上の専門家が作り上げた言葉の表現ですから、そこのところに一番。そこに出てくる登場人物の振る舞い方の中に、やはり日本人的特性というのが一番出やすいというふうに考えれば一番よいのではないかなと思います。だからそこに問題があって、今申しました奈良朝時代の物語類というのは、非常に洗練された意味合いでの日本的なものを、新旧両方とも含んでいるということが言えるわけです。あれほど洗練されているはずがないので、もっともっとさかのぼれば、洗練されていない時代というのが必ずあったであろうと思うわけです。
 それから婚姻の制度でも、我々は母系的な婚姻の仕方をやめてしまっていますけれども、いくら古いところでも明治から大正ぐらいの間でもって、母系制的な婚姻の仕方というのをやめてしまっていますし、戸籍のやり方も男系のほうになってしまっています。けれども、今はそのような制度もまた壊れそうになっているというところなのです。そういうふうになってはいますけれども、もう少し前までは母系家族、制度というのは多くて、婚姻の仕方もそういうのが多かったのです。今それを保存しているのは天皇家です。天皇家の婚姻式というのは、よく皆さんが今度は誰だろう、誰かしら、皇太子の誰か知らないけれど、孫か何か知らないけれど、子どもが婚姻することがあったらよく見ていてごらんなさい。あれは平安朝時代からある女系制の婚姻の仕方なのです。つまり、女系の姫君のところに男子のほうが通って行って、親のほうがそれを承認したということになると、親の承認式というのがあるのです。そういうふうになってくると、?一回御餅とか、いろいろ儀式があるわけです。それは、女の人の、姫君の枕元にそういうのがあって、それで食べるとか、食べないとかという婚姻の儀式が、?先触れの儀式があって、それで婚姻が始まるという、そういう婚姻の仕方の名残で今も女系的な、あるいは母系的な婚姻の仕方をとっているのはそこだけだと思います。あとはなくなってしまっているから、大体男系的な婚姻の仕方をしています。

12 原始から世界の最先端まで――日本の多様性

 随分変わったものだと思いますけれども、深層のほうまで入っていけば、そういう女系的な名残は今でもあるし、またポリネシアン的な心の動かし方というのはどこかにあるということが言えるのではないか。それを文学が一番広く象徴しているのは、顔を立てるか、立てないかという文学の仕方、やり方というのが半分を占めていると言ってもいいぐらいありますし、また「もののあはれ」という自然の音を言葉と同じように感じて、話しかけたり……
【テープ交換】
……ではないかというだけではないのでしょうかね。我々はやはりそういうのをどこかに、ああいうところに掛けても、それを聞いていると、何となくちょっと情緒が物寂しくなってきたりと感ずるというのもまず間違いないと思う。よほど嫌だというやつ以外は…?…。(笑)つまり、それくらい違うと思います。そういうところまでいってしまえば、随分違うものだということになるかと思います。
 そこを文学はとてもよく表していて、一見すると今では、もののあはれよりも男女の問題を非常に近代的に開けた男女関係というのをあれだし、もう一つ進んだところでは家というのが壊れかかっていると言えるほど壊れかかっていたし、また壊れかかっているところもあります。また男女別姓のほうがよいと言う人も出てきているし、主張も出てきているくらいで、もう要するに夫婦が経済的にもそれぞれが独立して、時として会えばいいとか、同じ家に住んでいても、それは共通の家に住んでいるだけのものであって、それよりも自分のやりたいことをやって、自由にという風潮も出てきている。それは一挙にヨーロッパと同時代的にそうなっていきつつあるものであり、あるいはある意味ではヨーロッパ以上にそうなってきている。
 例えば、ここ数年の合計特殊出生率というのがあるわけです。2・1%以下の出生率だと、大体人口が減るとされています。日本はここ数年での減り方はヨーロッパを凌駕している。急速なカーブで減りつつあります。合計特殊出生率というのは減りつつあります。つまり、それにはいろいろな要因があるでしょうけれど、そういうヨーロッパ以上に先に行ってしまったと言いますか、経済的な基盤がそうだからということが第一でしょうけれども、そういうふうになってしまったという面もあるくらいで、これは日本という国が本当に世界中の非常に発達したところの問題から、男女の問題から、非常に未発達な原始に返る時代の深層の名残みたいな、そういうものまで含めて全部抱え込んでしまっているようなところが日本にはありますし、文学はそれをよく象徴していると思います。ですから、見方によっては日本ほど多様でおもしろいところはないねと言うと、僕はそう思います。特にここ五、六年以来というのは、こんなにおもしろいことはないと、(笑)いろいろなことがおもしろくてしょうがないという、野次馬的に言えば、おもしろくてしょうがないという時代だと思います。
 それは文学の中に、それを反映している文学が少しずつでも現れてくるとよいのですけれども、大体今の若い作家を取ってくれば、文学自体が軽い装いを取っています。つまり、軽い装いということは、あまりすったもんだで男女が一緒になれなければ死ぬぞとか、死なないとか、そういうところですったもんだした我々の時代は終わったと言いましょうか。ではなくて、割合にすっと軽く、一緒になるのも簡単で、別れるのも「バイ、バイ」と言うか(笑)、そういうところが若いところにあるから、そういうことも要素に出てきたみたいな、非常に多様さがあるからおもしろいのではないですか。つまり、よく言えば世界中のそういうのを全部抱え込んでしまってと言えばよいし、また文学もたぶんそういうふうに多様に変わっていくと思います。
 けれども、今申し上げました大筋において「もののあはれ」というのの主題と、それから顔を立てるか、立てないかという倫理の主題と言いましょうか、それが日本の文学・物語の大きく分けられる主題であるということは、僕はまず当分はなくならないだろうと思います。しかし、それだってやがてなくなってしまうのかもしれませんけれども、今現在考えられるところでは、そんなに簡単になくならないのではないかなと思います。そして、表面のほうは非常に多様な様相があって、今の要因の、顔の文学と「もののあはれ」の文学というのの有り様ではないかなと思います。

13 文学の顔に責任を

 ここに三木さんという人のコピーした写真があります。これが受胎三十二日目の胎児の顔です。ここは魚の顔なのです。細長いし、魚がこう立っているし……。これは受胎してから三十二日目という。歴史的に言えば約四億年前で、人間の胎児というのはそれを全部通っていくわけです。魚の時代も通るわけです。三十二日目に通っていく。
 それで三十五、六日目となりますと、大体両生類と言いますか、かえるみたいなものですか、トカゲみたいなものですか、そういう顔の種類になっていくのです。胎児はその時に上陸するわけです。つまり両生類ですから、海でえら呼吸をしていたのが陸に上がろうとするわけです。そうすると、陸というのはえら呼吸というのがなかなかできないで、肺呼吸に変わらなければならない。上陸して苦しいからやめたと言って、また海の生物になってしまう両生類もいるわけです。今でも海で生活していて、?何かの時に上がってくるけれど、海だけで生活している両生類もいるわけです。それから、全く陸に上がってしまった両生類もいます。両生類で上がったり下がったりしている。なかなかここは苦しい盛りの時なのです。この時に大体女性は、三十四、五日目になると、つわりみたいなものが始まったり、気持ちが悪かったり、このへんでなるのだと言われています。いかに女性がつわりになったり、そういうことがあるというのは、胎児が魚類から両生類に上がっていく時がいかに困難であるかということを示していると、三木さんみたいな学者はそういうふうに言っています。つまり、大変苦しいものだ。胎内というのは海水と同じ成分だと言われていますけれども、海水と同じ成分の中でえら呼吸していたものが、大体こういうふうに変わってきますと肺呼吸を交えていくというふうになるわけです。そうすると、へその緒から母親の肺呼吸の酸素を吸収したりし始めるわけです。それがこういう顔で三十四、五日目だというふうに言われています。
 これが三十六日目の顔で爬虫類の顔。要するにこれは人間の胎児です。爬虫類の顔を持っている。もう少したちまして、三十六日以降三十八日とか、九日とかになりますと、ちょっと不完全ですけれど、人間らしい顔になってくるということになります。この頃になってくると、人間の感覚と言いましょうか、聴覚とか視覚というのもそうなのですけれど、視覚が発達しても胎内にいるわけで真っ暗でしょうから、目が見えると言ってもわからないでしょうけれど、見える神経が発達してきて、大体において人間の神経はこのぐらいになってくると相当備わってくると言われています。もちろん、決定的にあれするのは胎児が外に出て出産した時で、人によってさまざまでしょうけれども、僕のうちの子どもはお医者さんがこんなふうに逆さまにしてパンパンとお尻をたたくと「おぎゃあ」と泣きますというのを見ていました。それは、早くえら呼吸から肺呼吸に直せということのあれですよね。そうすると、胎児のほうはショックを受けて、「おぎゃあ」と泣くということは息を同時に出すことを意味しますから、それを契機にして呼吸が肺呼吸に変わってきます。それは胎児の時の状態だということになります。
 もちろんそういうことは余計なことなのですけれど、この頃は早期教育といって胎内で胎児が五カ月、六カ月ぐらいになるとわかると称する人もいるわけです。つまり、そういう時に、例えば数学の難しいことを教えたり、(笑)語学の読み書きや英語を教えたり、また胎教によいというクラシックの音楽を聞かせると、生まれてから少したった時に、例えばその音楽をかけると「ママ、僕知っている」と(笑)そういうのを僕はよく読みます。そうすると、それを書いた母親がいて、アメリカに住んで、うちの子どもは二人いて、二人とも十二、三の時には大学に入れたと言っています、その人は書いています。できれば入れるわけだから入る。要するに十二、三でも大学を卒業するくらいに、そのぐらいで入れてしまったと、そういう意味でその人は書いています。もう胎内でわかってしまうのだというのも「本当かね」ということはいくらでも言えるのだけれど、僕はやはりありえるのではないかなと思っています。ありえない。けれども人間は、つまり文京区でも言っているではないですか。生涯教育とか言っているでしょう。一生涯教育と言っているくらいなのに、「一生涯勉強するのか」と言った時に「嫌だね」と。(笑)僕なんか怠け者はそう思います。だから、それをわざわざ胎児の時から教育すると思います。(笑)でも、そういうふうにやっている人は、ありうるということを信じてそういうことを教育している人もいるわけです。
 胎児の時から顔が魚の顔から発達して、しまいにはどうなるのでしょう。よく大人の人がというか、昔の人が、「四十ぐらいになったら、おまえも自分の顔に責任を持たなければいけないぞ」とかよく言うでしょう。つまり、そこまで顔の歴史というのが人間にはあるわけです。それをたどっていくわけです。文学も同じで、もう古典時代から日本の文学はそれをたどってきて、半分はたどってきているわけです。もうこれ以上、そこまではまだいきませんけれど、経済だけはそこまで大体いきました。まだ文学、文化というのはそこまでいっていないですけれども、今にいきましたら、やはりおまえのところ、日本文学はおまえが自分で責任持てと。何もアメリカ文学を真似したり、フランス文学を真似したりしているでしょう。今、そういうのが多いでしょう。学問でもそういうのが多いでしょう。そういうのではなくて、そういうのはやめにして、おまえのところの顔にというのは、文学の顔に責任を持てと世界から言われる時代がこれから後に来ると思います。そういうことを言われているのは経済だけです。経済だけはそう言われているし、世界で二番目の実力があります。つまり、この実力はいつ消えるかはわかりませんけれど、少なくとも十年、十五年というのは消えないと思います。それだけの実力はあります。それなのに、やはり言われてしまうのです。「俺、知らないよ」と言っても、「おまえのところの経済を見てみろ。おまえら、知らん振りしているわけにはいかないだろう。人に頼るな。おまえのところはおまえが責任を持て」と言われているところだと思います。
 文学とか、あるいは文化というものも、やがてそういうところまでいくだろうと思います。今のところは正直言えばいっていないのです。それで、大体フランス文学の真似をしたりとか、アメリカ文学、ドイツ文学の真似をしたりとかして、何とか持たせて今いるのが実情だと思います。だけど、やがてはそういうふうに必ず言われてしまうし、またいくだろうというふうになっていくと思います。その時に、本当にただの生理的な顔だけではなくて、文学の顔もやはり「日本人の顔というのはこうだぜ」というのがちゃんと出てくるのだと思いますけれども、今のところはなかなかそうはいかなくて、ちょうど顔がそうであるように「なんだ、これが日本人か」というような文学がたくさん氾濫しています。それが実情で、でも「かなりな程度いっているぜ」というふうなところだと思います。そういうところが現状だというふうに思います。これが顔の文学したり、顔の文学というので日本文学を考える。全面を覆うことはできないのですけれど、半分は覆えるというところの問題だといえると僕は思われます。
 大体顔を文学するとか、顔の文学ということで僕が考えていることは、皆さんに全部お話ししたところに尽きるわけでして、時間が過ぎたかもしれないのですけれど、これで終わらせていただきます。

14 質疑応答

(質問者)
 先生は工業大学のご卒業で技術屋でいらっしゃるんだけど、今日のお話と技術屋との結びつきはどういったところが、何科のご卒業で専攻されて現在のような道を歩まれたのか、お聞かせいただければ。

(吉本さん)
 ぼくは学校というのは、ほんとうは分けないほうがいい気がして、大学の中では分けないで、社会に出てから分けたほうがいいと思うのですけど。結局、ひとつは戦争なんです。ぼくらみたいのは戦中派とかいわれて、ぼくは小学校を出たらすぐに工業学校にいきまして、化学をやりまして、それで、そこからずっと化学を専門学校と高等工業とか、大学で同じように化学をやってきたわけです。
 それで、会社に就職しまして、それで印刷物の染料関係の会社で、青砥に東洋インキというのがあって、そこに就職して5,6年はいたんですけど、そこを辞めまして、特許の事務所にアルバイトにいっていたりして、高等学校の頃から趣味でもって、本を読んだり、何か書いたりということは趣味でしていたんですけど。
 ちょうど31くらいになったときに、何かを書いた収入とアルバイトで特許の事務所の収入とそれが半々になったんです。詩をせざるを得なくなってきて、辞めなくてもいいわけなんですけど、結局、戦争の時に、思春期というか、青年期ですから、そうすると何かが壊れちゃっているんです。もっと上であるか、もっと子供であったら、別なんですけど、ちょうどその頃なものですから、一生懸命、戦争に対して、気持ちをのめり込ませ、それから身体をのめり込ませるというふうにやってきて、それがパァになっちゃったことで、もう嫌になっちゃったんです。生きるのが嫌になっちゃったというくらい、何もかもが嫌になっちゃったというふうになったわけです。
 ですから、なにか集中して何かをこうというのじゃなくて、別な言葉で使いますと、つまり、大学に出て会社に勤めているんだから、お前は黙っていれば偉くなれるぞというような、重役になれるよというような、当然のようにそうであるはずなんだけど、そういうふうなことがなにかわかっちゃうというか、そういうふうになっちゃうみたいなところにはまり込んで、そういう軌道に入っちゃうと嫌になっちゃうんです。それは戦争のあれだと思いますけど。そうなると、なんか嫌だなという、こういう生き方は嫌だなみたいになっちゃう、そうすると、またやり直しというふうになっちゃう、そうすると、残るのは、そういうふうにやり直しみたいになっても比較的影響を受けないで残るのは、ようするに、今日は嫌な日だったとか、こういうのは嫌なことだと書いていることだけは何か残っているわけです。つまり、気持ちが嫌になったとか、生活が嫌になったとか、それだけが残っている、結局それが三十幾つぐらいになって、それが半々のものを見るといいますか、生活のものを見るというふうになって、あとは自分で決心して、おれは決めたぞというふうに、決めたってなって、書くことがもっぱら収入にもなっちゃったということなわけです。
 じぶんの体験からいえば、大学はようするに、いまのあれでいえば、大雑把にもののあわれと顔をどうするかというのと同じように、ようするに理工系か文科系かというくらいのことをどちらかに、卒業する頃には、自分はどちらかに、会社にいって眼を向けるというような、それくらいのことができていれば、大学なんていいんじゃないかなというふうに、ぼくはそう思っています。
 それ以上のことをやったって無駄だぜっておもって、つまり、それは大学に出て会社に勤めたり、研究所に勤めたりすればすぐにわかるので、学校で習ったことなんか7割方いらないんです。そのときに初めてぶつかってやって、結構それでやっていけるわけです。そのほうがいいかもしれないわけですから、ぼくはそんなに理工系の学校を出たって、つまり、工業学校の時からそうですけど、あんまり自分ではそんなにあれがないんです、専門学校だったからこうだっていうほどのことはないので、きわめて消極的で、もちろんなにか事情がなければ、それでずっといってたかもしれないですけど、でも早くから、会社、工場へいって、旋盤工になろうとしたり、大工さんになろうとしたりみたいなことはやっちゃいましたから、なんかおおよそわかったよという感じが体験上わかった感じで、またそこから学生さんになって、一生懸命勉強してというふうにやるかというと、もう嫌だよというふうになって、そういうせいだったんですね。だから、1,2年だけ、戦争終わった時、学校に残っていたんですけど、かろうじて卒業するくらいは勉強しましたけど、本気にならなかったんです。そんな世代だから、あんまり専門的な学校を出たというあれは、ぼくはあまりなかったんです。



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