1 司会

わが全共闘体験と表現行為ということで、記念すべき26年前の1月18日の、記念すべき安田講堂決戦の日に、シンポジウムを開催させていただきたいと思います。わたし、本日の司会を務めさせていただきます、猪事務局のホシバと申します。よろしくお願いします。現在は、建築関係の会社で営業の仕事をしていますけども、26年前は、東大全共闘で、安田講堂には入りませんでしたので、神田、御茶ノ水のあたりでがんばっておりました。わたしの代わりにといいますか、ちょうどわたし41年に東大に入りまして、9年ほど大学におったんですが、41年の中国語のクラスの仲間が25人おるんですが、そのうちの3人が安田講堂に入りまして、わたしの代わりにがんばってくれました。本日は、最初に猪プロジェクトの呼びかけ人でもあり、また、吉本隆明先生に、本日の講演をしていただくにあたって、尽力していただきました、評論家の三上治さんのほうから、簡単に本日の会の趣旨について、話していただきまして、はじまりとしたいと思います。三上さん、ひとつよろしくお願いいたします。(会場拍手)

2 会の趣旨(三上治)

昨年、全共闘世代の人たちが中心で、白書刊行といいますか、そういうものをやるので、呼びかけ人になってくれという話でありまして、当時ぼくは、年代的にいいますと、全共闘の人たちのすこし上なんで、できたら遠慮したいと思っていたんですけど、たまたま、いないということで、名前だけならいいよということで、なっちゃったんですけど、そういういきさつはともかくとして、全共闘というのは、運動態度や名称でさまざまに言われますけども、実際のところいうと、それぞれひとりひとりがいろんなイメージを抱いて、結局まだ、ほんとうの意味で自分が、あの当時なにを考えて、どういう目的で、どういうことを実現したかったっていうのが、まだ未完のまま抱えている課題であるというようなところがありまして、自分もそういうことを抱えてるところがありまして、なんらかのかたちで、そういう契機を議論できる一端になればいいなと思って、参加させていただきました。
こういう集会、みなさんも慣れていると、いろいろ思いますが、集会とかいろんなことをやりますと、主催者の人も、それから、それになんらかのかたちで加わる人も、その集会にはどんな意味があるのかとか、どんな目的でやってるのか、いろんなことをまわりから強制されるというか、そして、ついつい、ほんとうには自分は思っていない目的のことを言ってしまって、本来、自分たちが考えていることと違うことになってしまうことが多々あるんですね。ですから、ぼくらは、全共闘運動全体がまだそういうふうにして、ほんとうの意味で自分たちが考えたことと、まわりから、その運動の意味を強制されていってしまったこととの間に、食い違ってしまったものを抱えているという体験がありますから、こういうプロジェクトを組むときには、主催者のみなさんもたいへんでしょうし、まわりのみなさんもたいへんでしょうけど、やはり、こういう運動に、何か目的があるのか、意味があるのかというようなことは、あまり考えないで気楽にやってほしい。やはり、なんらかのかたちで、議論する場が設けられれば、それでよし、これが、いろんな議論の中から、何かが生まれればそれはそれでよし、生まれなければ生まれないで、それはそれでよしというかたちの広いスタンスでっていいましょうか、ゆっくりしたスタンスで、ゆっくり物事を検討していくという意味合いのことを考えてほしい。
ぼくは、全共闘世代の人たちよりすこし年上ですから、老婆心ながら見守っているといったらおかしいですけど、自分も加わっているわけですけど、できれば、あまり、そういうものにこだわらないでゆっくりやるよというようなことを、できらたらいつも声かけたいと思っています。今日は、全共闘世代の人たちにいちばん影響を与えた吉本さんの講演、あるいは、そのあとの世代の人たちのシンポジウム等々あると思いますが、そこから何を得ていくかは、みなさん個人個人の問題だと思いますが、ゆっくり最後まで、この集会を盛り上げてください。以上です。(会場拍手)

3 関心のあった回答項目

「『全共闘白書』を読んで」っていうのが、今日、与えられたテーマなんです。読ませていただいて、一等最初のところに72項目の45項目だけあげたと、それから、回答者が526あったのに、256からピックアップしたってことが書いてありました。ぼくは、読んでいちばん関心を持ちましたのは、そのアンケートに関心を持ちました。
全部いろんなことが言いたいわけなんですけど、とくにぼくが現在、関心を持っていることと、回答している項目、あるいは、設定されている項目とが、クロスするところでっていいましょうか、クロスするところをピックアップしまして、そこをわりに丁寧に読んだ結果について、申し上げたいっていうふうに思ってきました。
 ぼくがピックアップしたのは、だいたい申し上げますと、いくつかなんですけど、5番目にある社会主義の有効性ってことです。つまり、社会主義っていうのは、いまをもって有効であるか、無効であるか、そういう設問があって、それに対する答えがあって、それがとても関心を持ちましたので、それをあげました。
それから、元活動家だった人の沈黙っていうのをどういうふうに考えるかってことも、ぼくは関心がありましたので、それもわりあい丁寧に読みました。あとで、感想を申し上げます。
当面の重要課題は何であるかっていう項目が、16番目にありましたけど、それも、ぼくはたいへん、どういう答えが出てくるのかっていう関心を持ちました。それも、ぼくの関心で、わりに丁寧にひとつひとつ、正を書きながら、何個、何個っていうふうに、定稿はぜんぶ見たつもりです。それについても、申し上げたいと思います。
それから、もうひとつは、42番目に外国人労働者を受け入れるってことについて、どう思うかっていう項目がありまして、それも、ぼくはわりに関心のある項目でしたので、ピックアップして、みなんさんの回答の結果っていうのを、わりに丁寧に数えています。
それから、もうひとつは、43番目に何か自主的な活動をしているかっていうことも、ぼくは興味を持ちましたので、その項目もあげました。
それから、もうひとつは、労働組合の必要性に対して、必要と思うかどうかっていう設問があって、それに対する答えがあります。これは、ビックリしたことのひとつです。これも、感想をあとで申し上げます。
それから、あと憲法ですけど、憲法に対してどう思うかって、それは堅持するとか、いまのままでいいとか、変えたほうがいいっていうのにもふたつありまして、改正して、自衛隊みたいなのを合憲にしたほうがいい、つまり、国軍にしたほうがいいっていう意味の改正もありますし、もうひとつの改正は、だいたい天皇制、天皇は国民の象徴だっていうのは、そんなの削っちゃったほうがいいっていう、そういう意味の改正っていうのも少数あります。積極的・消極的、両方の改正が少数ありました。でも、大部分は、維持したほうがいいとか、堅持したほうがいいとかいうふうにいっておりますけど、これについても、ぼくは感想を申し上げたいと思います。
それから、もうひとつ、安保条約についてどう思うか、これは廃棄したほうがいいっていうのが圧倒的に多いように思いました。これについても、ぼくの感想を申し上げます。
それから、自衛隊についてどう思うかっていう設問なんですけど、これは、あんまり以外じゃなくて、以外じゃないってことについて、ぼくの感想を申し上げたいと思います。
それから、最後に国連というものに対して、安全保障の機能っていうのをどう思うかっていうことと、国連の理事国入りっていうのに対して、賛成であるかどうかっていうことの問いがあって、それも、ぼくは関心を持ちましたので、項目にあげておきました。これも、あとで感想を申し上げたいと思います。

4 社会主義の有効性

最初の、社会主義の有効性ってことをどう思うかっていう設問に対する回答っていうのは、ぼくが調べた、数えた範囲内でいいますと、ほぼそれは、有効性はなくなったっていう考え方と、それから、有効性はあるっていう考え方とが、ほぼ同じくらいあるっていうふうに思いました。やや、いまだに有効性があるっていう考え方のほうが、やや多い、でも、ほとんどおんなじ数だっていうのが、結果でした。これは、ちっとも予想外でもなんでもないんですけど、これについて、ぼくの考え方がどうなのかっていうのを申し上げてみたいと思います。
ぼくは社会主義っていうのに対して、もともとある時期に一生懸命考えたことがありまして、ぼくにははっきりしたイメージがございます。ぼくのイメージを非常に簡単に申し上げますと、3つありまして、社会主義が、ぼくの考え方では、その3つのイメージが達成されれば、社会主義は成立する、それから、その一項目欠けても、社会主義にはならないよっていうことと、それから、これ以上の項目はもちろんあるわけだけど、最小限これだけの項目があれば十分っていう、社会主義っていう概念をつくれるっていう考え方を、そういうのをぼくなりに考えました。
それは、申し上げてみますと、ひとつは、順序はどうでもいいんですけど、ひとつは国軍を持たないことです。つまり、国家の軍隊を持たないこと、みなさんだから、説明するまでもないんだけど、ようするに、国家の軍隊っていうのは、国民が必要だっていうふうにして、自然発生的に出てきた武装勢力じゃなくて、国家が国家として軍隊を持って、国家の命令で動く、その軍隊を国軍っていうわけですけど、それを持たないっていうこと、それは必須条件です。これはいま、この条件にかなう国家っていうのはどこにもございませんから、だから、社会主義がないっていうのが、ぼくの考え方です。これは、いま考えたわけじゃなくて、また、ソ連共産党が国家権力から脱落したから考えたわけじゃなくて、もっとずっと前から、ぼくはそういう考え方をとっています。社会主義っていうのはないっていうふうに思っていました。それが第一の条件です。
それから、もうひとつは、大衆の権力になっても、すぐに国家は解体しなきゃだめだって、ただちに解体に向かわなきゃだめだっていう、それは社会主義とは言えない。ただちに解体に向かうっていうことは、諸般の情勢上、不可能であるっていう場合には、いまも不可能であるっていうことに該当すると思うんですけど、その場合には、国家を半分だけ開けっていう、開けばいいっていうのが、ぼくの考え方です。
過渡的には国家を開けばいいってこと、国家を開くっていうのは、どういうことかっていうと、この場合は、解説するまでもないことですけど、政府っていうふうにお考えくださればいいわけです。政府が国民大衆に対して、いつでも国民大衆のリコールがあれば、つまり、過半数のリコールがあれば、国家はかわらなきゃいけない、政府はかわらなきゃいけないっていう項目があれば、国家は半分開いているのと同じことになるっていうのが、ぼくの考え方です。
だから、その項目を憲法なら憲法でもいいんですけど、そのなかに、つまり、国民のリコール権、過半数の書面を集めて、国民の直接無記名投票で、過半数を占めたら、国家はかわらなきゃいけないっていう、そういう項目を憲法の中に入れればいいと思います。つまり、どこの国もそうなんですけど、いまの憲法っていうのは、国民が総選挙して、選挙人は国民の代理であって、代理の人がやることは国民のやることだっていう、間接的な国民の主権であるわけですけど、非常な場合っていうか、ある場合に、国民の直接無記名投票で、政府はリコールできるっていう項目を設ければ、だいたい社会主義の過渡的な条件は成り立つだろうっていうのが、ぼくの考え方です。
それで、もうひとつあげますと、ようするに、マルクス時代から言われているわけですけど、ようするに、生産手段のうち、公共化したほうが安く、便利であって、個々の国民にとって利益であるっていうような生産手段だけ、公共管理するっていうことです。
つまり、その3つのことが、最小限その3つのことが成就していれば、社会主義っていうのは、だいたい成り立つっていうふうに思っています。ですから、ぼくは社会主義の有効性はあるかっていったら、有効性はあると、しかし、その有効性か、無効性っていうのは、自分の考えている条件にかなうものを社会主義って呼べば、それは有効性はあると思っていると、しかし、現在のところ、それは皆無であると、世界中皆無であると、つまり、社会主義と自称している国でも、一項目ぐらいどうしても欠けているわけです。
ところが、日本国みたいに、資本主義国なんですけど、資本主義国だけど欠けていない項目があるんです。それは、憲法第九条です。これは、国軍を持たないことっていう条件にかなっているわけです。ですから、社会主義を有効であるっていうふうに、いまも有効だって考える限りは、これはものすごく重要な項目なんです。これを失うことは死に等しいっていいましょうか、それくらい重要な、社会主義を有効だと考えれば、重要な項目だって、ぼくはそういうふうに考えてます。
そういうふうに考えますと、なんとも言えないっていうか、もっともそういうふうに考えてよろしい政府首班が、国軍、自衛隊を合憲であるっていう、解釈合憲ですけど、解釈で合憲だって言っちゃって、合憲だっていうことは、国軍だと実質上認めたっていうことを意味すると、ぼくは理解します。ですから、こういう馬鹿なことをいうやつはあるかって、ぼくは思っています。とんでもねえやつだって思っていますけど、そういうふうに考えてきますと、この3つの条件にかなっている国家っていうのが存在しないっていうことになります。
もうひとつ、重要だと思えることは、しかしながら、現在における、いまの先進資本主義国っていうものが、たとえば、欧州共同体でいえば、フランスとか、ドイツとかってことになりますけど、それから、アメリカってことになります。それから、日本っていうことになりますけど、その先進資本主義国っていうのは、経済的にいえば、憲法のなかにそういうのはないんですけど、リコール権を潜在的に持っているっていうのが、ぼくの理解の仕方です。だから、日本国も、経済的には、人民大衆が政府に対してリコール権を持ってるっていう理解の仕方をしています。ただ、潜在的に持っている。個々の国民大衆っていうのは、自分が個々バラバラにそれを行使しているっていうことだと思います。
どうしてかっていいますと、資本主義の先進的な3地域っていうのは、いってみれば、いちばん簡単なのは、所得なんですけど、所得に対して、消費の額が、所得の半分以上を占めているわけです。これを消費資本主義っていいますと、ぼくは産業資本主義の最高の段階だと思いますけど、最高の段階としての消費資本主義っていうのは、ようするに、消費のほうが所得の半分以上を占めているわけです。だから、これでもって、たとえば、そのなかの半分以上を占めている選択的な消費っていいましょうか、つまり、選んで、使える消費っていうのは、たとえば、国民大衆がいまでも、いっせいに半期なら半期、半年なら半年、1年なら1年、いっせいに使うのをやめようじゃないかっていえば、政府は潰れてしまいます。どんな政府でも潰れてしまいます。それは、経済規模が2分の1から4分の3ぐらいまで減っちゃいますから、そんなのに耐えられる政府はありません。誰がやったってありませんから、それは潰れてしまいます。つまり、いっせいにやれば、それだけの実力はあるんですよっていうのが、産業段階としての消費資本主義っていうのの、非常に大きな特質であって、ですから、経済的には潜在的に、国民大衆っていうのはリコール権を持っているっていうふうにぼくは思っています。
つまり、その考え方からいいますと、ようするに、現在の政府っていうのは、自社連合政府とか、新政党中心の政府とか、いろいろあるわけで、変わり映えしなくあるわけですけど、変わり映えしないのはあって、ダッチロールみたいに、右往左往しているわけですけど、それは、自分たちが勢力争いをしていたり、統合したりなんかしているから、ダッチロールになっちゃうんだっていうふうに、政治家は思っているかもしれないけど、ぼくはそう思ってないです。潜在的なリコール権が経済的には民衆の中にあるっていうことを踏まえない限りは、絶対ダッチロール以外のことはしないだろうって、ぼくは思います。つまり、このくらい、潜在的な経済的リコール権、先進資本主義における経済的リコール権っていうのは重要な問題だっていうふうに、ぼくは考えています。
もっといろんなことをいえばあるんですけど、これがぼくらが考えている社会主義がいまでも有効だっていうことの、ぼくの考えている内容です。やっぱりぼくも有効だって思っているけど、それは有効じゃないっていったって、いま存在するような社会主義とか、ロシアマルクス主義が提起した社会主義っていうのは、それは有効じゃないっていうふうに思ってます。だけど、社会主義自体は、自分のイメージでもっている条件にかなえさえすれば、まだ有効なんだ、まだ実現されているわけでもないんだっていうふうに、ぼくは思っています。
もうひとつは、いまいいましたように、先進資本主義国っていうのは、憲法にそういう項目をもたないですけど、実質上は、自分の生活程度を落とさないでも、政府をリコールすることができる実力を持つに至ったっていうのが、ぼくの理解の仕方です。それだけのことを申し上げれば、この社会主義が有効か、無効かっていうことに対する、ぼくの答え方になると思います。みなさんの答え方を、だいたいぼくが数えたところでは、まだ有効だっていうのはすこしだけ多い、でも、ほぼ同数ですね、もう無効だっていう人と同数になっています。それが、ぼくのコメントっていうことになります。

5 私(わたくし)的なあらわれ方

それから次にいきますと、当面の最重要課題が何かってことで、個々に拾ってみますと二十数項目、それぞれであげられるわけで、しかし、そういうあげかたをしないで、わたくし的なこと、つまり、個人的なこと、家庭的なこと、職業のこととか、勉強のこととか、そういう個人的なことか、それとも、政治改革が必要であるとか、政治責任を取るべきである、重要に考えているとか、いま労働運動が体制内の阻止するとか、いろんな給料改悪とか阻止するとか、いろんなそれが当面の課題であって、最重要課題だと考えておられるとか、いろいろ二十数項目になるんですけど、個人的なことに、当面の最重要課題っていうのをもってるか、それとも公共的なことをもっているかっていうふうに考えますと、個人的なことにもっている回答が圧倒的に多いです。
これは、いろんなことがあります。老後のことを考えたりとか、家庭の平穏な生活を考えているとか、子どもを育てることが大切だと考えているっていうようなことからはじまって、結婚問題とか、職業的なこととかっていうのを考えて、つまり、わたくし、自分と、自分の身のまわりのことっていいますか、それが当面の最緊急重要課題だっていう回答が圧倒的に多いっていうことです。
これは、非常にいいことだっていうふうに、ぼくは考えています。だけど、いいことだと考えたとしても、まだ足りないって言ったらおかしいんですけど、このアンケートの場所っていうか、立場っていうのがありますけど、アンケートの場所が公共的なところを主体にして、アンケートを出しているんです。ですから、そこから見ていきますと、とても回答としてはいいんで、個人的な家庭のこととか、自分のこととか、そういうことが重要なんだ。いちばん重要なんだっていう答えは、たいへんぼくはいいと思っているわけですけど、そのいいということにもうすこし注文があって、もっといえば、あんまり公共的なところから、この問いを発しないでくれたら、なおいいなっていうふうに思うわけです。
つまり、こういうアンケートの設問の仕方っていうのの中には、無意識のうちに公共的なことは、あるいは、社会的なこととか、公共的なことは重要であって、それから、沈黙してしまうとか、あるいは、個人的なことが最重要課題だっていうことは、それから見ると、やっぱりちょっと情けないことなんだっていうような観点が、無意識のうちにあるように思います。あるような気がするんです。
しかし、ぼくだったら、ぜんぜん反対に考えます。つまり、家のこととか、職業のこととか、自分のこととか、勉強のこととかっていうふうに考える考え方っていう視点から、やっぱり公共的なこととか、政治的なことっていうのを考えるっていう考え方を、考え方の視点を変えるだろうと思います。あるいは、変えていると思います、
ぼく自身は。だから、この考え方は、設問としても、回答としても、なかなか好きな回答の出方をしているっていうふうに、ぼくには思いますけど、しかし、それでもまだ、なんとなく公共的なことをやめちゃったっていうのは、どういうわけだみたいな、そういう設問が、無意識のうちにどっかにあってっていうふうに思えるわけです。ぼくはそれはやめたほうがいいと思うわけです。そういう発想っていうのはやめたほうがいいって、その発想をやっていると、どうしても、その発想でいく限り、おれは大衆の前衛であって、ついてこいみたいな、おれが啓蒙してやるんだっていう、その勢力にかなわないんです、その観点がある限り。
そうじゃなくて、わたくしのこと、自分のこと、それから、子どものこと、それから、家庭のことが大切なんだっていう、それが最緊急課題なんだっていう観点を根本に据えないと、あるいは、地盤に据えて、それで政治的なこと、それから、社会的な、公共的なことっていうのを考える考え方を、同時に検討しないと、絶対勝てないんです。ダメなんです。つまり、それはロシアで試験済みなんだっていうふうに思います、ぼくには。その考え方はダメだって思いますから、ぼくは違う、回答はたいへんおもしろくていいなと思ったけれども、しかし、その設問の場所っていうのは、ぼくだったら、もっと徹底的な設問の場所を取るなっていうふうに、ぼくはそういう感想を持ちました。
そうじゃないと、みんなヤクザの何々組から抜けたら指詰めろっていうのと同じになっちゃう、それをやめたやつは悪いやつだっていうふうなのと同じになっちゃうんです。そういうやつはいまでもいっぱいいますけど、ぼくはダメだと思います。それは終わったっていうふうに思っています。それを社会主義だっていうなら終わったと、ぼくは思ってますから、それをやってるとしょうがないんです。
あらゆる組織っていうのは、あるいは、公共的なものっていうのは、ぜんぶ入り方とやめかたっていうのが、ちゃんとしてないと、やめかたの経路っていうのをちゃんとしてないと、どうしてもヤクザの足抜けと同じ観点になって、それをうまい言葉でいうか、そうじゃないと、ヤクザみたいに率直に「おまえ、指詰めろ」って言うか、どっちでもおんなじなんです。おんなじ型なんです。それは、ぼくは徹底したほうがいいんじゃないかっていうのが、ぼくの感想です。
しかし、この回答の仕方をみますと、個人的なことは重要だって言っている人が圧倒的に多いわけです。これに答えなかった人は、なおさら、そうなんじゃないかなっていうふうに、ぼくは理解します。ですから、これは、全共闘っていう運動が、たとえば、はじめて、おおげさなことをいうと、世界の社会政治運動史の中で、はじめて、そういうルールっていいますか、無意識のルールを確立したっていってもいいくらい、人それぞれだから、ようするに、どういう場所で、どういうふうにしたっていいんじゃないのっていうこと、そこで何かしてるかもしれないじゃないですかっていうのが、最も多いわけです、回答で。それは、まことに見事な回答であって、ぼくはそう思います。こういうルールとはいえないルールっていうのを、はじめて、全共闘のあれが確立したっていうふうに、ぼく自身はそういう理解の仕方をします。ですから、これはたいへんいいことだっていうふうに思います。でも、もっと徹底的にやったほうが、意識化して、徹底的にはっきりさせたほうがいいっていうふうに、ぼくはそういう感想をもちました。でも、これは非常にいいなって思ったことのひとつです。
それは、その前に、元活動家の人が沈黙しているのはどう思うかっていうことに対する回答も同じことです。いまの最重要課題っていうのと、関連するわけですけど、おんなじことで、なかなか見事な肯定の仕方と、それぞれの人だから、ぞれぞれの社会と場面だから、それぞれでいいんじゃないのっていう回答が圧倒的に多いので、否定的回答っていうのは非常に少ないです。ですから、それは、ぼくは、いまの最緊急課題っていうのと関連させて、たいへんいいことじゃないかっていうふうに思います。
ぼくがここでしゃべっているのは、あんまり、それにそぐわないうわっぺらの項目をあげているわけですけど、それはぼくの読みが、もうひとつ違う読み方っていうのをできるわけですけど。それじゃなくて、わかりのいい項目で、わかりのいいことを言ってるっていうために、安直に、だから、そうなっているだけで、もうすこし、この白書を本格的に分析させれば、やっぱり、それが基盤、つまり、いまの最緊急課題っていうのはこうなんだ、これは私的なことなんだっていうことを徹底的に、そこを基盤にしたアンケートの出され方っていうのを分析することができます。しかし、この場では、それはしないで、非常に安直な項目と、安直な答え方、それに対する自分の考え方を述べているという次第です。

6 外国人労働者について

そのあとに、外国人労働者の受け入れっていうのに対してどう思うかっていう、これも圧倒的に多く、受け入れるべきっていう回答をしております。で、受け入れるべきでないっていう回答は皆無に等しいわけです。ニュアンスとしては、そういうニュアンスはありましたけど、はっきりとそう言ってるのは皆無に近いので、これは、ぼくなんかも同感なところなんです。
すこしだけ自分なりのコメントを申し上げますと、さきほど申し上げましたとおり、日本の社会では、大多数の、6割から7割くらいの労働者っていうのは、ぜんぶ第三次産業といいますか、そこのところに移っちゃったから、ほんとうの昔流の、筋肉労働運動っていうのが専門だっていう労働者っていうのは、非常に少なくなっちゃっているわけです。
そうすると、その場面に対して、やっぱり外国人労働者っていうのが入ってきて、それを補っているっていうのが、現状に近いでしょうし、また、これからもっと多くなる気がするんです。
そうすると、筋肉労働で、いちばんきつい労働で、そのわりには、給料は少ない、所得は少ないっていうことを担当するのが、外国人労働者、とくに東南アジアとか、中近東とか、そういうところからきた労働者が担当するっていうかたちに、現になっているわけですし、もっといまよりもなるかもしれないっていう気がします。これは一種、先進国の、推進経済国の宿命みたいなもので、どこでもきっとそういうふうになっているような気がするんです。
これに対して、どうやったら、まっとうな意味で等価交換っていいましょうか、等価な代償っていうのは払えるかっていうことになるわけです。そうすると、いまの外国人労働者は給料が少なくても、たとえば、為替レートで日本のあれのほうが格段に高いものだから、少ないお金で家郷に送れば、故郷に送れば、こちらの一日分が、むこうではそれでひと月食べられるみたいな格差があるから、いまは文句言わないで、いちばん下働きの肉体労働をしているわけですけれども、これが文句を言いだしたらってことじゃないんですけど、言いだしても、言いださなくてもそうなんですけど、きちっとする場合に、どういうふうに受け入れたらいいのかっていうことの問題っていうのを、もちろんこれは、政治家、および、為政者のやるべきことだと、われわれに何の責任もないですし、やるべきことでもなんでもないんですけど、主要な筋っていうのは、ぼくは、ぼくなりに、はっきりしていると思うんです。
それは、一種のわれわれの老齢年金とか、厚生年金手帳とか、そういうのがいろいろあるわけですけど、国民保険とか、そういうのはいろいろあるわけですけど、そういうのと同じ意味で、外国人労働者手帳みたいなものをあれして、そこでお金が足りないとか、困ったとかいう場合には、そこからいつだって借り出すことができるみたいな、ぼくだったら、さしあたって、そういう制度っていうのをやるだろうなっていう感じ方を持ちます。
それは、コメントのひとつなんですけど、そのコメントっていうのは、大きくいっちゃいますと、世界的にいって、いまみたいな、均衡のとれない経済の展開の仕方をしますと、自然産業、つまり、農業とか、漁業とか、そういう自然産業に従事している人、また、いる地域、あるいは、いる国家っていうのは、ものすごく先進的な、つまち、第三次産業なんかに、労働者が大部分移っちゃったみたいなところに比べると、ものすごく職業としてもつらいし、つらいわりには所得は、手に入るお金は少ないっていうようなことで、非常に損なわけです。この不均衡っていうのをどうやって是正したらいいのかっていう問題が生じます。
これに対して、従来のロシア・マルクス主義系統の考え方でいえば、世界革命をやればいいんだって、こういうふうに言うことになって、そうは言わないまでも、発想としてはそういう発想をするわけです。しかし、ぼくはちょっとそういう社会主義が有効か、無効かっていうと、あんまりそういう考え方はダメなんじゃないかなって思っているから、一種の等価交換っていうんじゃなくて、贈与経済っていいますか、そういうことまで、経済学的な価値概念とか、価値形態論っていうのを、そういうところまで、拡張しちゃって、すこし贈与経済っていいましょうか、そういうことをきちっと理論的にっていいますか、論理的に決めちゃうっていうところまでいって、かたっぽの国はつらい農産物とか、食料の生産にかたっぽの地域は従事して、かたっぽの地域は第三次産業で、あまり汚れもしないし、わりあいにいい働き方ができるっていう、その意味の箱っていいましょうか、不均衡っていうのは、贈与経済ってことで、それを均等化する以外にないんじゃないのかなっていうふうに、ぼくなんかはそう思っていますから、その筋を考えますと、やっぱり、等価交換ってことよりも、贈与っていうことの、贈与交換っていいますか、そういう問題まで価値論っていうのを拡張していって、きちっとしないとダメなんじゃないかなっていうふうに、ぼくはそういうふうに考えています。
それ以外のやりかたっていうのは、まずダメなんじゃないかなっていうのが、ぼくのおおよその、それ以外のやりかたの社会主義っていうのはダメなんじゃないかなっていうふうに、おおよそそういうふうに思っていまして、現在考えられる限りは、そういう贈与形態ってことを、不均衡を是正するみたいな、あるいは、不平等を是正するでもいいんですけど、そういうことをきちっとやらないとダメなんじゃないかなっていうふうに、ぼくはそういう理解の仕方を主な粋っていうふうに考えて、だから、自分らの関心事っていいますか、経済的な関心事っていうのはやっぱり、そこいらへんの問題のひとつとして、外国人労働者の受け入れの問題があるんだっていうふうに、ぼく自身はそういうふうに考えて、そういうことについて、理論的にっていったらおかしいんですけど、自分のできる場所で、自分なりに考えていきたいっていうふうに、ぼくはそういうふうに考えているわけで、ぼくにとって、外国人労働者の問題っていうのは、重要な問題で、これは、一国だけの問題じゃなくて、世界的な意味で、これから重要な問題、つまり、換言すれば、贈与経済の問題になるんじゃないかっていうふうに、およそ検討をつけているってことです。

7 第三次的な自主活動を

それから、あと自主的活動をしているかっていう設問に対しては、「してる」っていうのと、「時々してる」っていうのと、「してない」っていうのをとってみますと、だいたいおんなじくらいです。半数ぐらいですけど、してますよっていうほうが、やや多い、つまり、市民運動とか、専門職、たとえば、衛生とか、医療とかっていうことがそうですけど、そういう運動をしてますよっていう回答のほうが、すこし、多くなっています。でも、ほぼ半数です。
これは、なかなか立派なものですなっていうのが、ぼくの感想です。できるならば、第三次産業向けのっていいますか、教育とか、娯楽とか、衛生というような、あるいは、芸術活動でもいいんですけど、そういうことに力点が入ったほうがいいんじゃないかなっていうふうに思います。
それから、生産問題のなかに介入していくと、市民運動っていうのは、しばしば間違っているところがあると思います。これは、ぼくは散々ッぱら、エコロジストとケンカしてたんですけど、間違っていることがあると思います。ですから、そうじゃなくて、第三次的な産業、あるいは、そういうところに重点を置くっていうほうがいいんじゃないかなっていうのが、ぼくの漠然たる感想です。

8 労働組合の必要性

それから、労働組合の必要性っていうのですけど、これは、非常にぼくはビックリして、かつ、いやーさすがだなっていうのはおかしいですけど、ほとんどいらねえってやつが、ほとんどゼロに近いわけです。ということは、必要であるって言ってるわけです。それは非常に感心しました。
ただ、ぼくは極端なコメントをさせてもらいますけど、そうだったらやったらどうですかっていう、つくったらどうですかっていう、いままでのような労働組合、つまり、いままでの労働組合って、いまもそうですけど、運動して熱心な人ほど、政党と結合したり、政党から使われたり、逆に政党から天下ったりして、それが主体になってやる労働運動ばっかりですけど、それで、全体の労働者のうち23%ぐらい組織労働者っていうのは、組合を持っている。そうすると、あと6,70%くらいは組合なんかいらないと、あるいは、あっても、そう魅力はないと思ってるわけです。そうだったら、これだけ100%に近い回答で、必要だって言ってるんだから、全然そういうのと関係ない労働組合をつくられたらいいと思うんです。
ぼくは、極端なことをいいますけど、その労働組合は、政党員っていうのはクローズドショップ制にしっていうのは、つまり、経営に対してクローズドショップっていうだけじゃなくて、政党に対してもクローズドショップ制をとって、あらゆる政党員は、組合員たり得ないっていう、そういう労働組合をつくるっていう課題をやられたらどうですかねっていうのが、ぼくの理解の仕方です。それは、やられる唯一、価値があることだし、おれはビックリしたんですけど、みなさんが、ほとんど100%が必要だって言ってるんですよ、そうだったら、やったらどうかなっていうのが、意識的にやったらどうかなっていうのが、ぼくの感想、コメントです。

9 リストラと大衆のリコール権

これは、経営体っていうか、企業体と関連するわけですけど、企業体でもリストラだとか言ってるんですよ、しかし、そんなの嘘であって、嘘だっていうのは、建て前でそう言ってるのはすぐわかるわけで、つまり、経営体っていうのは、経常利益ゼロ、設備投資ゼロでも経営体っていうのは成り立つわけですよ、理屈上からいけばですよ。実際成り立つかどうかは、やってみなきゃわからないけど、理論的にいえば、経営体っていうのは利益ゼロ、それから、設備ゼロっていうのだって、1年や2年ならやっていけるんですよ。それで、従業員の給料を払って、それでも成り立つはずだっていうのが、理論的に明らかなことなんです。
だから、リストラだとか、クビだとか、冗談じゃないですよって、ほんとうは言っていいわけだけど、建前上、そこまでの危険っていうのは、経営者っていうのは冒さないってなっていますけど、さきほど言いましたように、経済的リコール権っていうのは、すでに大衆のところに、国民大衆の側に、潜在的に移っているわけです。
これを、ほんとうによく認識したら、やっぱり、企業体の責任者、首脳っていうのは、だいたい経常利益ゼロでも、それから、設備投資ゼロでも、1年や2年、勤労者・労働者を働かせて、まかなってみせるっていう、そのくらいの覚悟を経営者っていうのは、経営体っていうのは、認めるべき段階じゃないかっていうのが、正直なところいって、いまの段階だと、ぼくは考えています。
ただ、潜在的に、そこまで、大衆のほうで実力を発揮しようと思っていないから、個々バラバラですから、それで済んで、まだ、おれたちがあるから、おまえたちは食えるんだみたいな考え方で済んでるけど、ほんとうは、もうダメですよ、それは。ダメなことになっているんですよ。だから、これは、よくよくハッキリさせたほうがいいので、経常利益とか、設備投資はゼロだって、たくさんの年月はできないですけど、1年や2年ならもつってことで、誰もクビにしないし、誰も減給もしないしっていうやりかたでやっても、ちゃんとできるはずなんです。だけど、そこまでおっかないことを、企業体っていうのはしないってだけなことです。してないっていうだけのことです。
そこのところは、両方ともそうなんで、組合のほうだってそうなんで、こんなの選挙のときだけとか、デモのときだけ引き出されて、やってなんていうのは、もってのほかで、だいたい職場における労働者の設備の整え方っていうのは、だいたいぼくらも、五十何年のときに、それは、だいたいそう思って、体験しましたけど、つまり、もう何もやることはないんですよ、そういう意味合いでは。そうすると、やることないものだから、年々、物価の賃上げと、あとは、変な政党に使われて、デモみたいな、選挙の冊子を入れたり、そういうことをやっているわけです。そういうことは、労働組合の本筋じゃないんです。そんなのは全部クローズドショップ制で、経営体と同じように、政党に対しても、クローズドショップっていう、そういう労働組合が、かならず100%必要だって言ってるくらいですから、これは必ずできるわけです。ぼくは、それはお勧めしたいです。それだけの未来性ですから、それは、ぼくはお勧めしたいって思いました。

10 憲法の問題

それで、あとは憲法のことなんですけど、憲法のことは堅持しろっていうのが、圧倒的に多いわけですから、改正しろっていっても、天皇制のところだけ削っちゃえっていう、9条はそのまんまっていう人もいるわけです。消極的に改正しろっていうのは、つまり、自衛隊を合憲にしてって、そういうのはあんまり少ないです。きわめて少ないですから、この回答っていうのも、とても、ぼくなんかは、文句なしにいい回答だなっていうふうに、ぼくは思っているわけです。
ただ、ようするに、実質認識っていうのは違うわけです。憲法を堅持するっていったって、もう解釈合憲で、合憲だって言っちゃっているわけですから、これは、いまごろ護憲だとか、堅持するって言ったって、それは遅いです。実質上、いまのままの憲法で、自由に海外派遣もしますし、自由になんでもやっているわけですから、憲法が合憲だって言ってることは、実質上、国軍だって言ってることと同じですから、そこのところは、回答っていうのと、ぼくらとは、見解のずれがあります。
ぼくらはもう、それは終わったよって、つまり、実質改憲しちゃうじゃないの、しかも、社会党の人がやってるじゃない、首班がそれをやっていて、だいたいそれを承認してるんだろっていって、それはもうどうしようもないです。自衛隊は実質上、国軍なんです。こんなことは、合憲だって言ったって、言わなくたって、おんなじだって思うかもしれないけど、それは、大違いなので、言ったら、この次の内閣が変わったって、何も言わなくて済むわけです。自衛隊は国軍でいっちゃうわけです。これを覆すには、いまの公認政党のなかでは、可能性はないわけです。これを覆す可能性はないと、ぼくは考えます。
もし、社会党の左派でもなんでもいいんですけど、共産党でもいいですけど、これは反対だと、9条改憲反対だっていうのだったら、もうすでに声があがってなければ、全然ダメなわけです。ですから、それは、黙っても、このままズルズルいくわけです。あとは、内閣が違ったって、次の内閣は、そのあと、合憲だって一旦言っちゃったんだから、もうそのままでいいわけです。つまり、自衛隊が実質国軍ってことでいいわけです。これはもう、べつに総選挙でとか、国民投票でなんか決めるっていうのは、何にもいらないで済んじゃうわけだから、これでいいってことになっちゃうわけです。だから、これを覆すためには、今度は、公認政党とは違うところで、誰かがやっていかない限りは、それは覆らないってことを意味すると、ぼくは思っています。
それから、だけれども、これは合憲ですと、政府責任者が言わないとしたら、仮に兵力があっても、潰そうと思うならば、いつでも違う内閣で、潰そうと思う内閣ができたら、いつでも潰せるわけです。だけど、こうなったら、もう潰すことはできないです。潰すなら、ぜんぜん違う政党がでてきて、それをやるよりないっていうふうになっているわけです。
それから、もうひとつは、この合憲とか、堅持だとかいうと、やっぱり問題が出てきて、天皇が国民の象徴だっていうのが手つかずになるわけです。これも、さしあたって、波風が立っているわけじゃないからいいじゃないかっていえば、それでずっと済んでしまっていることになります。
ですから、護憲っていう言い方って、前から嫌いでしたけど、護憲っていう言い方も、違憲っていう言い方も、ぼくは、自衛隊っていうのは、違憲とか、護憲とは違う次元にあるものであって、兵力があって、実施力があるんだけど、違う次元にあって、ちゃんと9条がそれを規制してっていうふうに、ぼくは考えてきましたけど、いまは護憲という意味はすでに終わった、実質上、終わったっていうのが、ぼくの理解の仕方で、これを終わってないと言うためには、やっぱり、違う声をあげる以外にないので、それは違う声をあげる必要があるわけで、それがなければ、もう終わったっていうふうに考えるのが、まず妥当な考え方じゃないのかっていうのが、ぼくの考え方です。ぼくはそういうことについて書いて、こうしたらさしあたっていいんじゃないのっていうことも書いた覚えがあります。

11 安保条約、自衛隊、PKO、国連

安保条約っていうのは、これは圧倒的に破棄したほうがよいっていうのが多いんです。これは、ぼくらもまったくそうだと、これはいわゆる米ソ両方の対立と、それから、均衡維持と、妥協で、それでもって成り立っていた世界が、一極化したわけですから、この安保条約っていうのは、意味はそんなにないわけですから、こんなもの破棄したほうがいいっていうふうに、ぼくは思います。
 あと自衛隊っていうことは、さきほどの自衛隊はどうなんだ、あるいは、PKOの参加はどうだってことに対して、やっぱり、圧倒的に、自衛隊は違憲だっていうのと、PKOの海外派遣は反対だっていうのは、圧倒的に多いです。
これもそのとおりだから、文句言うことはないよ、だけど、いま言いましたことだけは、ちょっとぼくとは認識が違うので、ぼくの認識は、実質上、合憲になっちゃってるよっていうふうに、ぼくは思っています。
これを変えるっていうのは、たいへんだよっていうことになっちゃったよっていうふうに、ぼくは思っているから、これはやっぱり、もしこの回答が守ってってことだったら、どこか隣近所のやつでも誰でもいいけど、友達でもいいけど、やっぱりこれはおかしいぞって、いまのあれはおかしいぞって言ったほうがいいし、それは、選挙のときには周知したほうがいいっていうふうに、ぼく自身は思っています。
ぼくは、これでは、戦争から、敗戦前後ですけど、敗戦するときに、してやられたって思って、なんとなくモタッとして死にそこなったうちに、平和な文化国家だっていうやつが出てきて、あれよあれよという間にそういうふうに変わっていっちゃったんだって、こんな馬鹿馬鹿しいことはねえっていう体験をしましたから、ぼくは自分なりに声をあげることに、今度はそうはいきませんよ、そういう戦後30年が無になっちゃいますから、声をあげるよってことは、いつでもあげつつあるところですけど、やっぱり、これは、そんなにおおげさにあげなくていいけど、これだけはっきりと、自衛隊のPKO派遣反対だっていう見解が出ているわけですから、やっぱり、隣近所の人ぐらいには、こんな馬鹿な話があるって、話してもいいんじゃないですかっていうのが、ぼくの感想でした。
だけど、ここで何も声があがっていないっていうのは、ちょっと納得いかないなっていうふうに思っています。つまり、物足りないなっていうふうにちょっと思いました。でも、たいへんいい回答だなっていうふうに思いました。
あとは、国連のことなんですけど、これは面倒な問題で、前は、ぼくは、たとえば、ハーバーマスなんて人は、国連を介して、湾岸戦争のときに、国連を介して平和のあれを使うみたいにして、なんてこいつはまだるっこしいことを言ってるんだと思いましたけれども、やっぱり、そのやりかたっていうのも、あるにはあるんじゃないかと思います。
つまり、国連の安保理事国か知りませんけど、拒否権っていうのがありますけど、やっぱりもうひとつ、リコール権っていうのが、国連が採用するならば、国連っていうのは重要視するっていうことは、いいんじゃないかなって、そういう手段っていうのもありえるんじゃないかなっていうのが、今回のぼくの感想です。それまでは、こんなものはいらないんだっていうだけで、あれしてましたけど、いまは一種、拒否権だけじゃなくて、リコール権っていうのをつくってやったら、すこしはいいぜっていう感じ方をもっているのが、ぼくの感想です。

12 根底的な「白書」の読み方

だいたいぼくが関心をもち、みなさんも関心をもって回答された、関心のクロスしたところの表面的なところは、そこいらへんの項目で説明したとおりだと思います。でも、ぼくはもうひとつあって、ほんとうは、根本的には白書をもうすこし読まないといけないんです。読み込まないといけないんです。ぼくは、設問のなかに、離婚したことがあるかとか、結婚してるかとか、子どもはどうだっていう設問の項目があって、ぼくは、そこのところはとても重要で、そこを基盤にして、それから、今日申し上げたような項目を、そこから見ていく見方っていうのを確立する仕方っていうのが、根本的なこの白書の読み方なんじゃないかなと思いますけど、今日はそれに言及することはできませんでした。そういうことっていうのはあるんです。
たとえば、書評したから覚えてるんですけど、中野重治の戦争中の日記っていうのがあると、それによると、戦争中、監視されているわけです。保護観察かなんかで監視されてて、行いは自由じゃないし、食うのも、文筆業もあんまりあれしないで、区役所のアルバイトかなんかして食っているわけです。おもしろくなくてしょうがいわけですけど、そこで中野重治がつっぱってるわけですけど、そういうなかで、何がこの人の、いまでも通用するこの人の根底なんだって考えると、ぼくは、だいたいぜんぶ削られていって、中野重治の政治的見解とか、日本共産党とか、政治活動とか、そういうのはぜんぶ削られていっちゃって、最後に残るのは、戦中日記にありますけど、何もできなかったっていうことですけど、ようするに、奥さんと、経済的、その他の理由で、仲違いして、ケンカになっちゃうと、そうすると、中山義秀って文学者がいて、そういうエピソードがあるわけで、おれも中山義秀みたいに、日本刀を持って、うちの女房を、屋根の上に追い上げてやろうかってしたいんだけど、そうもいかないみたいなことが書いてあるところがあるんです。
それはものすごく、いまでも重要だっていいましょうか、いまでも非常に生きている、中野重治のなかで、何がいちばん生きてるかっていうと、それが生きているってなります。あとイデオロギーでいうならば、文句はいろいろあります。批判的なことをいえば、いろいろありますから、そこでは、大したことないんです。だけど、これから生きられるかどうか、わからないんですけど、だけど、そこは生きられるんじゃないでしょうか、つまり、あらゆることが何もできなくなったときに、女房とケンカして、しゃくに触って、刀でほんとうは追っかけまわしてあれしてやろうと思うんだけど、そうもいかなくてみたいな、日記に書いてありますけど、そういうものは、ものすごく生きるわけです。
だから、ほんとうは、そこまで根底をさらって、白書を読まないといけないんでしょうけど、そこまでは読めないで、いってみれば、表面的なことだけだったっていうことになりますけど、自分が思ってる感想の主なところは、申し上げられたと思います。これで時間が過ぎました。(会場拍手)


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