1 司会

2 「試行」創刊時からの原則

 ご紹介をいただいた吉本です。僕は『試行』という同人雑誌を出しており、今度七十三号になります。そうすると、普通一年十二回という月刊だとしたらば、六、七年の年数にしか該当しないわけで、ますます間遠になって、一年に二回くらいになってしまっているわけです。そういうことも含めて、どういう条件でどういうふうにやっていままで来たかということを中心にお話しできたらと思っています。
 現在七十二号のときに僕らは総点検しました。ということは、赤字が込んできたわけです。ですからどういうことになっているか総点検しようというのでしました。その概要を申し上げますと、現在出ている数は三千七百部です。そのうち、原則的に半々としているので、直接購読者と小売店の店頭に並べてあるものと半々くらいの数だと思います。最盛期を考えますと、五~十号目の間と思いますが、直接購読者が四千五百くらい、店頭で販売するのが四千五百くらいの数のときが一番多かった時期です。
 とりあえず赤字なるものを計算しますと、現在三千七百の総数で、その半数が購読者です。予約購読金は二千円で三冊分となっています。印刷費、郵送費、これが一番かかるわけですが、あと雑費、封筒とか連絡のはがきということになると、一冊分の経費が七百五十四円ちょっとかかります。予約料金が三冊で二千円ですから、三で割って、一冊分は六百六十六円になって、経費のほうが八十八円くらい多くなります。つまり赤字だということになるわけです。その赤字をどうしようかというのが現在の考えどころになっています。これが僕らの雑誌の現状です。
 今度は創刊当初どういうふうな考え方で始めたかというのを申し上げますと、創刊が一九六一年です。その当時は定価が百五十円で、一年分の予約が千円となっています。
 僕らは原則をいくつか自分たちで考えました。谷川雁氏と、前に自殺して亡くなられた村上一郎さん、それから僕と三人が同人ということでやったわけですが、原則的にはどういうことを立てたかというと、同人は少なくとも自分にとって一番重要で一番力のこもった作品をとにかく発表し続けるということです。それが原則の一つでした。
 それから寄稿者の原稿は、こちらが考えて、一定、所定のレベルであると判断したものを載せる。この一定のレベルを持った作品、文章であればというのは、ただ言うと何でもないようですが、僕らの左翼的原則から言うとそうではなくて、日本左翼的な文学もそうですが、傾向で測られるわけです。いいか悪いかというと、多少よくなくても、傾向的、政治的に有益な内容になっていれば採用するみたいなのが原則であって、僕らはその原則を否定しました。どんな主題について書かれていようと、作品としてのレベルが一番重要なのであって、レベルが高ければ採用するという原則を立てたわけです。これは日本の左翼的な文学とか芸術とか文化運動の中では非常に特異な原則を立てたということになります。こんなことは商業雑誌だったら当たり前となるでしょうが、僕らにとっては当たり前ではなくて、とても重要な原則なんだと考えました。
 もう一つは出版社に依拠しない、頼らないということを原則にしました。これはどういうことかというと、出版社に頼らないで、なお雑誌というものが成り立っていくやり方というのはいったいあるだろうかということが僕らが一生懸命考えたことです。雑誌というのは持続することが一つの重要な課題ですから、唯一これが成り立てば持続できるんじゃないかと考えたのは、予約購読者をあらかじめ所定の数以上獲得するということです。こちらは別に利益ということは考えなかったので、とんとんでやっていければいい、ただ続けばいいということですが、そうすると唯一考えられるのは、予約購読者のある数を保って、予約金を前倒しに食っていけばいいんじゃないか。
 その原則が壊れたら、雑誌というのは一般的に出版社に頼らずして成り立つことはありえない。サブカルチャーというか、マスカルチャーの雑誌というのは、広告費を取れるとかいろんなことがあって、おのずから別のやり方というのがありうるわけですが、だいたいにおいて各出版社が看板にしている雑誌というのは赤字で出しているということになっています。赤字でなぜ出すんだといえば、自分たちの出版社はこういうのをやっているぞという良心の証しみたいなものになりますし、広告にもなるからですが、それをわれわれだけで続けていく可能性としては唯一、購読者を募って、予約購読者の予約金を前倒しに食っていくということをやればある程度続いていくんじゃないかと考えたわけです。

3 出版界の慣例に反する原則

 もう一つ原則的に考えたことは、いくら売れても小売店には予約の員数と半々くらいにしか出さないと決めました。売れるだけ小売店に出して、それが予約購読者の数をはるかに超えてしまえば、その段階が過ぎたときにはつぶれるということはわかりきっている。それは僕らが非常によく考えたところで、予約購読者と同数の雑誌しか小売店にはいくら売れても出さないということを骨子にしてきました。それはかなりの程度骨子にしたと思います。最盛期によく売れた、よく注文があったことはあるんですが、所定の数以上は出さないという原則は守ってきました。
 もっと細かいことを言いますと、出版界の慣例で、売り上げられた額が返ってくるのは半年くらい後だということになっています。しかし、そんなことをしたら成り立っていかないということで、僕らは少なくとも一月くらいの遅れなら我慢できるけれども、あんまり遅れるのなら出さないということを原則にしました。一番いいのは持ち込んだだけの雑誌分をすぐに回収させてくれるところで、半年後というのはとても無理、続いて出ないからそれは困る。半年後、つまり出版会の慣例に倣ってくれと言われて、われわれはそういうところには出さないと決めてしまうと、おのずからこの雑誌を置く小売店というのは決まってくるというふうになったわけです。
 それから掛け率ですが、たとえば岩波書店の掛け率はどうでしょうか、七、八割でしょうか。その掛け率も一番いい掛け率の出版者と同じでないと出さないと主張して、そういうふうにしました。それでまた小売店は限定されていくというので、本当に少数の小売店だけしか出なくて、そこでは大変お世話になったのを覚えています。
 単純計算しますと、定価で計算してしまいますが、定価百五十円の創刊号で、もし三百部発行したとすると、四万五千円かかる。それが十二カ月だと二十四万円かかるとなる。そうすると、予約金を千円とすると、だいたい二百四十人の直接購読者を得ると成り立って回っていくと計算しました。
 しかし、百人以上の予約購読者を獲得するというのは大変なことなんです。たいてい僕らみたいに同人雑誌をすると直接購読者は百足らずで、とうていこういうふうにはならんだろう。ですから一年ちょっとたったときにつぶれるだろう、終わるだろうと予測をあらかじめ立てて、その終わるとなったときにはまた何か考えようと思って、とにかく始めていったわけです。
 ところで、始めてみると、一年以内に三百人くらい直接購読者が得られました。そうすると持続してやっていくことは難しくないというふうになって、現在まで続いてきています。
 しかし一年に二回くらいになってしまって、今度の七十三番なんかひどいもので、一年に一回というふうになって、こんなので雑誌を続けていく意義があるだろうかと考えると、すこぶる懐疑的になってくるわけです。やめてしまおうかというふうに、そういう考え方も検討して何度も考えたことがあります。
 ただ、経済的な意味でやめようというふうにはなっていないんです。つまり、予約金がありますし、小売店で買う人の数を予約者の数より増やすということはしないようにしてきましたから、経済的な意味でやめようという段階になったことは一度もありません。先ほど赤字の計算になると言いましたが、赤字の計算をお前やれということでやりますと、あと三号は出せるだけの経済的なゆとりがあります。その代わり、やめたとき借金、赤字が残るということになりますが、やっている限りはまずいまのところは大丈夫だ、二、三号先までなら出せる。そういう意味合いで一度もやめようと思ったことはないんです。ただ、こんな間遠になってしまって、エネルギーも衰えてきた、それでやる意義があるだろうか、これはやめどきなのかなということは何度も考えたりしましたが、いまのところ何となく続いてやっております。
 もう少し細かい原則を申し上げますと、寄稿者の原稿を依頼するということはしない。いいと思ったものは送ってくれというふうにしてあって、こちらからこういうテーマについてこういうものを書いてくれと依頼したことはありません。それから広告費は取らない。直接購読者であれば、出版社であろうと個人であろうと、その人の著書の広告は無料であるとしました。これらはよくよく考えてみますと、現在の出版界で行われている慣例にことごとく違反することを原則に立てたようなことになってきたと思います。

4 いちばん大切な作品をどこに書くか

 ではこういう雑誌を出してこういうやり方をするのにはどういう意味があるのかということが問題になると思います。これは物書きとしての同人の側から見ますと、従来の、特に左翼系的な出版の仕方、あるいは左翼的な表現の仕方というのに対して、とても大きな異論が同人三人共通にあって、それを何とか覆そう、自分たちだけでもそういう原則を破ろうと考えたことはあるわけです。
 それはどういうことかというと、だいたい物書きというのを動かすには二つ方法があります。一つは高い原稿料を出すということです。もう一つはそこに作品を発表するということが、その人の名前を普遍化する広告の役割も同時にする。それあたりが多ければ多いほど執筆者というのは動かされやすいし、動くということが原則です。これは別に執筆者だけではなくて、あらゆる人間がすべてそうであって、お金が多いほうに余計に傾くし、少ないほうを袖にするということになります。またお前の名前は広告代わりになるぞというところがより多いほど、執筆者というのはそっちに傾いていきます。これは人間の通性であって、そうじゃないと言うと全部嘘になってしまいます。そういうことは僕らがよくよく体験したことですから、その原則を破ろうじゃないかということがありました。
 同時に、それは左翼的な物書きの場合にはどうなっていくかというと、左翼的な文学者というのを見ればすぐにわかるように、日本左翼系の雑誌、文学雑誌で言えば『新日本文学』とか『人民文学』とかいろいろあったわけですが、そういうところに初めはただ原稿、あるいは金を出しても原稿を書いていく。それを書いていくうちに商業的な出版社から目を付けられて、こいつの書くのは結構通用するよとなると、商業出版社からその人に原稿依頼が来る。その人はお金も入るし、広告代わりにもなりますから、喜んで書きます。喜んでというのはちょっと問題があって、喜ばない顔をして喜んで書く。(笑)そうすると世間に書いたものが広まっていって、違う商業出版社から注目が来る。それにも応ずる。そうしているうちに、とうとう商業的な作家と左翼作家というのは同じじゃないかというふうになります。偉くなった人ほどそうなるわけです。
 たとえば僕らの前の年代で言えば、野間宏さんでもいいし、その少し前だと中野重治さんでもいいわけですが、この人たちが書いたものは商業雑誌に小説を書いているいい作家とかいい文学者とほぼ匹敵するくらいの作品はあるよなというふうになっている。結局どこも何も変わらない。そして自分の元いた新日本文学会でも人民文学でもいいんですが、そういうところから原稿を書いてくれと言われると、ただ原稿ですから、力の入ったものはそこへ書かなくなります。商業出版のほうは競争も激しいし、いろんな有効性もありますから、そこでは力のこもったものを一生懸命書く。しかし元自分がいた雑誌から書いてくれと言われても、力を抜いた作品しか書かないというふうになっていく。
 それは左翼文学もへちまもないじゃないか、つまり同じじゃないかということになります。同じじゃないかというのは本当であって、そういうことについての例外は先輩筋の文学者でただの一人もいません。皆、商業化して書く文学者で、自分の手元に頼まれると力の入ったものは書かないというふうになっていくのが左翼文学者の経路になります。それならば最初から商業雑誌に書けばいいじゃないのということになる。
 そこが非常に問題のところで、商業文学雑誌にだけしか書かなくなると、ただ原稿だって金がなくたって俺はここで書くという若い左翼系の文学者はそういう人たちを見て、あいつら堕落したと必ず言うわけです。あいつは堕落して、もはや商業文学者と同じになってしまった。自分たちのようなところには、ただ原稿も書かなくなったり、力の入らないものしか書かなくなったりして、何も変わらない、あれは堕落したと言うのがだいたい左翼的な現況です。それはただ一人の例外もありませんし、若いときにただ原稿だって書かないのはけしからんと人のことを言っているやつも、少しましになって商業出版社で目を付けられたりすると、同じ経路をたどっていく。われわれは明治以降何十回もそういう経路を見てきています。
 だからそうはなりたくねえと思うわけですよ。一般的に言えば人間の通性というのはそうなんだ、イデオロギーの問題じゃないよというふうになりますから、誰でもそうなるかもしれないけど、少なくともこの経路に対して異議を唱えられないようだったら、左翼性というのはないんだと僕らは考えました。
 ですから僕らが原則としたところは、自分たちの雑誌に一番力のこもった自分にとって大切な作品を書くということです。もう一つあえていまのお話の後で申し上げますと、この人の書いたものがいいということで商業出版社に書いてくれと言われて、われわれが商業雑誌に書くようになったら、それを歓迎するという原則を持とうと決めました。つまり、あいつは堕落したと言って足を引っ張るみたいなばからしいことはしない。それは非常にめでたいことだと考えよう。僕らはそうしてきたつもりです。そして自分らが一番力のあるものを書くという原則を守ってきました。

5 左翼的な文化運動の虚偽性

 しかし残念なことに、僕の堕落形態というのはだんだん間遠になってしまうわけです。食うこと、生業ということでやっていくと自分たちの雑誌で、自分たちが練習して、自分たちで力のこもったものを書いてということが大変きつくなっていく。正直に申しまして、僕らが客観的にどう見えているかわかりませんが、僕の主観的な思い込みでは、一生懸命やろうとしているんだけど、なかなか思うに任せないよということで、初めは隔月刊くらいで行こうとしていたのが、いまでは一年に二回しか出ないというくらい間遠になってしまっている。僕が『試行』という雑誌を同人でやろうとしたときの原則に対する違反行為というのがあるとすれば、そういうところに集約されます。
 しかし決して商業雑誌で書かせてくれて金が入るようになったから、ただのところは書かねえという原則はないわけで、いまもそうはしていないんですが、その代わり同じようなものじゃないか、雑誌の出る回数も遅くなったし、自分の書く回数も遅くなってしまっている。僕なんか七十三号は二つあるわけですが、一つのほうを昨日やっと書いたというくらいに遅れている。ところが商業出版社の単行本の中に、同時にコピーして入れたはずのあれが入っていて、読者から盛んに文句が来て、それにいちいち返事するのが大変で、大わらわになっているところです。(笑)
 僕らの堕落形態というのは、左翼性をましだということの代名詞に使えば、エネルギーが足りないというかたちで、だんだん間遠になっているところで、ひとたび商業的な文壇みたいなところで認められたら、元には帰ってこないというのとはちょっと違うんだよというところがあります。つまり、僕らは中野重治とか野間宏とはちょっと違うよといまでも思っています。(笑)それが僕らの持っている堕落形態というか、だめになっていっている形態です。
 それから僕らは寄稿者が商業的な雑誌とか出版社に認められて、そこで書くようになって間遠になったって、別に一度も文句を言ったり堕落したと言ったりしていない。そういうことで足を引っ張ったことがないというのも、中野重治や野間宏と僕らが違うところだと思います。
 僕らの場合は堕落形態が横ずれして、縦芯ではなくて、横芯になっているというのが少し違うところじゃないか。この意味というのは僕はとても重要なことだと思っています。それは元来が人間性に反することであることには違いありません。
 マスカルチャーの世界のことはあまり知らないから、それを除外して考えますと、そうじゃない世界でつくれば、たとえばある新しい出版社が新しい雑誌を始めると仮にした場合、どうしたら始められるか、割り込めるかと考えたら、非常に簡単なことです。その雑誌に書くことはその人にとって広告代わりには少しもならない。新しい出版社で新しい雑誌でどうなるかわからない雑誌ですから、そういう意味では何のメルクマールも特徴もないということになります。ただ、そういう場合にはどうすればいいかというと、原稿料を多くすればいい。著者は必ず付いてきます。
 たとえば商業出版社は新人の人でしたら、僕らの知っている世界で、原稿料が四百字詰め一枚でだいたい五千円になっていると思います。その場合、一枚に二万円なら二万円出すということをやれば、必ず著者を自分たちの雑誌に引き入れることができる。それが唯一の原則です。それ以外のやり方をして成り立つわけがないので、成り立つとすれば、どこかで嘘をついている、また物書きに嘘をつかせているということになります。そうではなくて、それを半年なら半年、六号なら六号までやれたら、必ず著者がくっついてくるわけで、既成の雑誌の中に割り込むことができるという原則になります。
 そのことは人間の本性に根ざしていて、非常に簡単なことです。それをそうじゃないと主張しても、その主張は長続きしません。続かせようとすれば、その人は心の中で嘘をつくより仕方がない。そういうことはいっぱい体験していますし、そういう物書きはいっぱい知っています。ですから非常に簡単な原則で、とにかく既成の雑誌よりも多くの原稿料を支払うということをすれば、必ず著者を引き入れることができる。多少でも多ければというのではなくて、非常に多く、つまり三倍とか四倍とか出せば、それを半年なら半年持続すれば、必ず著者は入ってきます。
 それ以外の原則、成り立つ方法というのは考えられないし、ないわけです。日本の反体制的な文学と表現というのは成り立つがごとき仮象を呈してきましたが、全部成り立っていない。それは全部嘘です。商業雑誌に書くようになったから堕落したわけでもないんですが、俺は運動のためにただ原稿だって一生懸命書いているんだという人から見ると、堕落したと見える。それは順繰り世代ごとに繰り返されていくわけで、明治以降の思想ある表現の運命というのはいつでもそうなっている。あるいは資本主義社会で利潤とか生活を考えないでやる運動の虚偽性というのは、そういうところで発祥してしまうということになります。
 ですから僕はそれをとても重大な原則だと初めのときから考えてやったし、それは三人の同人それぞれ同意できる条項だったと思っています。そういうことの意味はとても重要なんだと思います。

6 郷ひろみはなぜ歌がうまいか

 もう一つの錯覚、錯誤があります。それは何かというと、たとえば東京芸術大学なら芸術大学の音楽科の研究生を前にやったというような声楽家がいるとします。その声楽家は、たとえば郷ひろみなら郷ひろみの流行歌を聴くと、あいつは声の出し方を全然知っていない、素人だよと、研究生くらいのやつだってそのくらいのことは言うわけです。俺らみたいに正規に習ったやつから比べると、あんなの全然だめだよ、なっていないよと評価するに決まっているんです。
 僕はその評価は違うと思っています。郷ひろみという人は初めから比べるとどんどんうまくなっているし、ものすごくうまい歌い手だと評価します。それは何なんだろうか。しかし、この人の発声から何から全部素人で、ろくに音符も読めないし、メロディーもおかしいと、音楽学校の研究生くらいのやつだってそのくらいのことは言えるわけです。それじゃお前のほうがいいのかというと、そんなことはないんです。郷ひろみのほうがいい。少なくとも歌い手が聴き手に訴える力量がなければ、アイドル歌手だって持続することはできないですよ。ですからそれだけのものはあるわけです。僕らが評価するとそういう評価になります。
 ところが、いまだって文学関係の批評家で学校の先生をしているやつは特にそうですが、サブカルチャーの文学作品を見て、これはだめだだめだと先天的に言ってしまう。僕はそんなことはないということがちゃんと言えなければ批評家ではないよと思うんですが、残念ながら日本にそうじゃない人が多い。それは違うんです。
 何が違うかということもあるんですが、郷ひろみの例でいったら、歌う力量が進歩する仕方というのは二つあります。一つは懸命に修練することです。これはいわゆる高名な音楽家でも同じようなことで、歌う仕方を修練する。それはその人の歌う力を非常に増大することに役立ちます。もう一つが何かといったら、自分の歌声などを人の真ん前にさらすことです。さらすということは、その人の歌を非常によくします。つまり訴える力を大きくします。音楽学校の研究生みたいなやつは、わかるほうが無理ですが、それがわからないんです。郷ひろみはもちろん修練もものすごくしているわけですが、同時に人の前で自分の声を下手なところも何も全部さらす。そのさらすということがその人の力量を高めるという作用を無視することはできません。
 つまり僕が究極的に言いたいことは、資本主義、商業主義というのは物書き、表現する人の力量を高めますとか助けますよということです。商業主義、資本主義は表現の力量を高めるのに非常に大きな役割をいたしますよということが大きな問題なんです。それをそうじゃない、資本主義が書く人も書くものも堕落させるという考えが、従来の左翼、ロシアの左翼から始まった左翼の大間違いのところで、それは必ず助けます。
 たとえばシンガーソングライターというのがいます。そういうのは郷ひろみより俺のほうがもっと考えているし、自分で曲も歌詞もつくって歌って、俺のほうがいっぱいやっていると思っていると思いますが、比べてみたら、同じ歌をうたわせてみたらすぐわかりますが、郷ひろみにかなわないことが多いんです。そういう場合には、シンガーソングライターみたいな人は、郷ひろみよりも三倍くらい修練することで唯一同じレベルを保っていけるということになります。
 そのことがわからなければやっぱりだめなんですよ。つまり資本主義というのは、その人の表現の力量みたいなものを助けるんです。それを知らないで、資本主義の商業ペースに乗ったら堕落するよという一辺倒で考えて、そんなことは問題じゃないみたいなことを言っていると、五年なら五年たって比べてみればすぐわかりますが、郷ひろみのほうがいい歌い手になっている。つまり、僕は原則的にそうだと思いますが、商業主義とか資本主義というのは表現する人を助ける、いい作用をすると思います。

7 資本主義の「行きがけ」と「帰りがけ」

 ところでもうひとつ奥があります。人間の表現の仕方の修練もそうですし、あらゆる手業、手を使ってやる業というのは全部そうですが、もう一つ奥があります。それは何かというと、僕らのよく使っている言葉で言えば、帰りがけということです。帰りがけ、行きがけという段階で考える限り、左翼のただ原稿を書いている人よりも、商業雑誌で商業ペースで人前に顔をさらしたり声や言葉をさらしたりしている人のほうが、作品の進歩は速い。それは間違いなくそうだと思います。
 だからそれを認めなければだめだぜということです。本当の左翼だったらそれを認めなければだめだぜというのが僕らの考え方で、堕落した左翼が認めるんじゃないんです。堕落した左翼は、嘘をついてでも認めるようになってしまったというだけですよ。そうじゃないんです。資本主義というのは人間の表現行為、あるいは人格形成行為でも何でもいいんですが、それを助けるんだということを原則として初めから認めないといけない。
 しかし、それには帰りがけというのがありますよということです。行きがけというのは絶対にそうなんだけど、帰りがけになってきますと、資本主義というのはだいたい帰りがけの人の技術とか生活その他の足を引っ張ります。つまり、つぶそうとします。意識的にするわけではなくても、ひとりでにそうなっていきます。
 僕らが考える左翼性というのがあるとすれば、そこからなんだというのが僕らの考え方です。いわゆる日本の左翼と言いますし、世界的に言いますが、僕は全部左翼ではないと思っています。それはどこかでごまかしているだけじゃないか。才のある人は才のある人なりにごまかしているというだけであって、それだけじゃないの。本当の左翼性というのは、帰りがけという段階に達したとき、それの問題に入ったときに初めて出てくるんだというのが僕らの考え方です。
 初めて左翼性というのが出てきてからは、残念ですが、資本主義はそんなに助けてくれないし、ほったらかしになってしまうか、それともじゃましてくれるかわかりませんが、とにかく楽にはしてくれないというふうになります。しかし、我慢するならそこが我慢のしどころです。普通いわゆる左翼が我慢しているのは、我慢しなくていいことを我慢しようとするからごまかしになってしまうのよとしか言えない。本当の左翼性というのをもし考えうるとすれば、そこからのような気がします。そしてそこからはあまり助けてくれないというふうになると思います。
 僕らが『試行』をやるとき考えたのは、ちゃんと帰りがけというのがあるぜということです。ところが、ご多分に漏れずというか、意識的じゃなくても、無意識的にも、きつくなったりいろんな意味合いで資本主義は助けてくれないなというふうになってくる。そうすると、あっぷあっぷになってしまうということになる。このあっぷあっぷして、何とかかんとか思い悩んだり延命しようとしたりしているというのが、僕らの現状で一番関心の持ちどころというか、自分で一番関心を持っているところと一番考えを費やしているところです。
 時間が逆戻りすれば、もう少しうまいやり方があったなと思うんですが、人間というのはそうはいかない。そのときどき当面して、そのときどきあっぷあっぷして、それをやっと切り抜けて次に行くと、またあっぷあっぷしてというのが人間の生き方なんでしょうが、なかなかそうはいかないで、あっぷあっぷしているというのが僕らの現状です。

8 三島由紀夫・村上春樹の文学者としての見事さ

 同年代の文学者で、あっぷあっぷしないで、そこをうまく切り抜けたのは、三島由紀夫さんだと思っています。三島由紀夫さんというのは皆さんどうお考えになるかわからないし、いわゆる左翼というやつは右翼じゃないかと言ったりしますが、僕はそんな左翼もそんな右翼もどうってことはないじゃないの、つまり本当の左翼というのはそういうものじゃないんだよと思っているから、そういうのにあんまり動かされないんです。
 たとえば人間というのは三十いくつから四十くらいになると、だいたい親の世代が衰えてきて、面倒を見なければならないとか、病気になったとき駆けつけなければならないとか、近親のところで心配事が経済的にも身体的にもいっぱい増えてきて煩わされます。三十代の後半から四十代の前半くらいの間、誰でもそうです。そのとき一つでもいいから解決していればいいわけです。近親の世話を焼いたり、病気だといって駆けつけたりということをやっても、俺は経済的には全然こたえないだけの金をちゃんと蓄えたというふうに、一つでも解決していれば平気なんです。
 僕が見ていて、同年代くらいの文学者でそれができていたのは、三島由紀夫さんだけだと思います。あの人はあっぷあっぷした場面というのは見せなかったし、これは皆さんの側からも、単なる読者の側からもあんまり見えないんですが、僕らみたいな同業者で、かつ結構離れているところを見られるというところから見ると、三島さんという人はとても立派な人だと思います。つまり、振る舞い方がちっともあっぷあっぷしないで、さればとて欲を突っ張ってあくせくしたりということもしない。この人はなかなか立派な人だなと、僕の評価はそうです。
 なぜそれができたのか。もちろん天才的な最期があったからだと言えばそれまでなんですが、あの人は少なくとも経済的なことだけは皆があっぷあっぷする年齢のときにあっぷあっぷしないでいい、それだけは解決していたと僕には思えます。だからあの人の文学の世界での振る舞い方といい作品といい、それはみごとなものだと思っています。
 それに関して左翼がかった文学者でも、どうしようもないなという人もいます。作品はそうでもなくて、国際評価を受けたりしているんですが、この人の振る舞い方はなっていないよという人がいるわけです。これはある距離からとてもよく見える。そういう見え方では見えるんです。読者からも見えないし、出版社からも見えないみたいですが、僕らはよく見えるところにいるので、そう思います。ですから僕はそういう感じを持っています。
 現在もっと下の世代で言いますと、僕は村上春樹さんという人と村上龍という人は、作品もなかなかの人ですが、なかなかの人だと思っています。つまり、同年代の人に比べて一つくらい解決している。たとえば村上春樹さんは経済的には解決しているんじゃないでしょうか。当然当面する、近親にいろんなことがあったとか病気とかいろいろあっても、あの人は解決しているんじゃないか、なかなか大したものだなと僕は思っています。
 それから村上龍さんはそういう意味じゃないんです。どういうことかというと、いまの出版界というのはそうですし、小売店の売れ方、読者の側から見てもそうなんですが、物書きの側から見ますと、ものを書くのに一番いい場所というのは、カルチャー、つまり文学で言うと、昔、純文学と言ったものと大衆文学と言ったものがあったんですが、いまはもう境界線がなくなっています。でも何となく区分けがあって、境界線のところはいまでもへっこんで谷間になっている。村上龍さんという人を見ていると、そのちょうど境界線のところで作品を書いています。作品もいいけれども、場所というのがあるんです。
 純文学なら純文学の世界にまるで乗りきっている人と、昔流でいう大衆文学、いわゆるサブカルチャーに乗りきっている文学者というのはどっちとも、いい作品がなかなか書きにくいんです。純文学に乗りきっている人も、いまみたいな時代に純文学といったって、そんなの読む人いるのというくらいに、どうしようもないところに読者の側がなってきているわけで、そこで書きにくい。村上龍さんみたいな人が境界線のところで作品を書いているということは、いつでもそうしようと思えばできるわけですが、村上さんはカルチャーの中、つまり昔でいう純文学の中に入っていこうとしない。それじゃサブカルチャーのほうに入ってのめり込むかというと、そうじゃない。ちょうど中間の谷間、境界線の非常にいい場所で作品を書いています。
 そうすると、この人の作品はいい作品ですが、純文学のほうの人たちはあんまり取り上げてくれない。しかし、読者はいい悪いをそれなりに判断しますから、それなりに取り上げてくれる。読者さえ取り上げてくれれば物書きはいいんだということを原則とすれば、その境界線というのはなかなかいい場所です。村上龍さんというのはそういうところで書いているということが第一にいいなと思いますし、大変いい作品も書いています。だからこの人はなかなか立派なものだと僕は思います。
 村上春樹さんが書いたものは純文学のほうに乗っかっていきますが、あの人自身はそういうところと全然違うところで書いていると思います。つまり、外国で書いているとか、とにかく日本の文学の世界で書いているという感じはしない人です。
 そういうふうにして小説を書くことによって、ちゃんと自分で自分なりの座りのいい場所をつくって、そこで書いています。それはいまみたいな時代をくぐり抜けるための非常にいいやり方で、この人たちはいい場所で書いているなと思います。だから作品もさるごとながら、なかなか大したものだと僕は考えています。

9 自立的な流通ルートを保つことのむずかしさ

 現在、僕らが始めた『試行』という雑誌は、個人的に言ってもあっぷあっぷですが、客観的に言ってもなかなかあっぷあっぷなんです。それはどうしてかというと、今日の主催者の方たち、地方小出版流通みたいなところも当面していることは同じではないかと思うんですが、自主的な流通ルートを維持することが大変難しくなっているということは言えるんじゃないかと思います。
 作品のほうから言うとどういうことかというと、自主流通、もっと極端に僕らは自立/非立という言葉を使ったんですが、自立流通というところで雑誌をやっている、ものを書いているということがまだ六〇年ちょっと過ぎたときは成り立ちえたんですが、いまだったら純粋にそれを保持することは不可能なんじゃないかと思えるわけです。
 ですから流通ルートというのも、一つは東販、日版というのが厳としてあるし、小さい流通ルートもあるし、たくさんあるわけですが、そこの区別は大変難しくなったと僕には思えます。それはどうして難しくなったかというと、大出版流通ルート、つまり日版とか東販とかのルート自体が地方小出版ルートに目を付けだしたというか、目配りするようになってしまって、自分の領域を拡大していくということが一つあると思います。
 もはやそうなってくると、資本の力とかルートの開拓の力というのがより作用してきて、維持するのは難しいという段階に当面しています。ですから僕らの流通が真っ先に末端のところでつぶれていく。僕らの雑誌もよく読んでくれた、あるいは取ってくれた出版者でもどんどんつぶれていきますし、引き取る部数が減っていきつつあります。そういうことも一つあっぷあっぷに入っているわけですが、それはある意味でちょっとどうしようもないなというふうになってきています。もはや自立的なルートを保とうというのは大変難しくなって、大流通ルートは出版界でも思惑を広げ手を広げていきつつあるということが一つ言えます。
 それはそれなりにいいじゃないですかとも言えるわけですが、別の意味で言うと、大出版流通ルートは自分たちのところで引き取る本の部数とか売れ方をシビアに考えているといって部数を減らしてくれたりなんかしていったら、ちょいときつく締め付けて、同時に小ルートの領域まで侵犯していって、しかも自分のほうは出版社雑誌は締め付けを厳しくするというふうに、これからだんだん……
【テープ反転】
……引き取る場合には厳しくして、流通ルートは自分のほうにしてということが、これから経済的にきつくなってくるとますます多くなってくるんじゃないかと僕には思えます。僕らみたいな雑誌はそういうところの影響を受けないように初めから自立ということを言ったわけで、影響を受けていないと言えばそのとおりなんだけど、間接的にはたくさんの影響を受けています。

10 「価格破壊」とは何か

 僕がそれを維持していくにはどうしたら深く達するのかを考えればいいことになって、そこを考えるだけでいいんだと言えば考えるだけでいいわけです。ただ、このごろよく価格破壊という言葉があります。それは長谷川慶太郎さんが言いだしたのかもしれませんが、長谷川さんの本を読みますと、価格破壊は悪いことだとなっています。しかし、僕はそう思っていません。価格破壊というのはある意味でいいことだし、潜在的に言うと非常に大きな意味を持つんだと思っています。
 価格破壊が起こる理由は二つあります。一つは、一般に言えば商品ですが、本も商品とこの場合言わせてもらいますと、本も含めて商品の価格というのは、商品としての価値と無関係に浮遊できるということが一つ大きな原因になっている。先進資本主義国というのは一様に消費過剰の段階に入っていますからだいたいそうなっているわけで、商品の生産にどのくらいかかったか、だからそれに対して頭を付けて、これを定価にするというのが常識的な商品の定価の決め方ですが、消費資本主義社会段階では、商品の価格は商品の生産費とか価値と無関係に決められていく、浮遊できるということが価格破壊が起こる大きな原因の一つです。
 それはどういうことかというと、部分的にでもある協定、了解が成り立てば、商品というのはその商品の当然付けられるべき価格、価値というものと全然無関係に価格を決めることができる。一般的にある部分的な談合さえ成立すれば、そこで決めることができるという段階があるわけです。これが消費資本主義の非常に大きな特徴であり、また価格破壊が起こるとても大きな原因です。つまり、こういう段階に入ってしまったんだからしょうがないでしょう。
 そのしょうがないでしょうということは長谷川さんの『価格破壊』という本にはちっとも書いてない。どうして書いてないかというのは明瞭なことで、経済学というのは要するに支配の学なんです。支配するには経済的にどうしたらいいかということに対して理論を与える学です。これはいわゆるマルクス主義経済学でも同じです。マルクス主義的政府支配を便利にするにはどうしたらいいかというのがマルクス主義経済学の眼目ですよというふうに、経済学というのは支配の学なんです。長谷川さんのエコノミストとしての力量は大変なものですが、それは支配の学ですから、企業体はどうなったらいいかとか、政府はどうなったらいいか、どういう価格政策を取ったらいいかみたいなことを主体に考えて、価格破壊ということを言っています。
 僕らはそんな気持ちは少しもありませんから、価格破壊と言うけれども、それは協定さえ成り立てば商品の価値とは無関係に価格を設定することができるということを意味します。これが価格破壊の第一原因です。現在、ドイツとかフランスといった西欧の先進国とアメリカ、日本の三地域では、もし論理的談合が成り立つならば、価格というのは言ってみれば相対的な価値ですが、それとは無関係に価格を設定することができるということがあります。それが価格破壊の一つの大きな要因です。
 もう一つは簡単なことなんですが、消費過剰の社会ですから、本来的に言いますと、製品あるいは商品の価格というのはどこで決められるべきかといったら、消費の額が所得の半分以上を過ぎているのが消費資本主義ですが、そういう段階では価格を決める決め手、要因は消費者です。消費者が妥当だと考えるところで価格を決めるというのが大原則になっています。
 ところが、きっと出版界もそうだと思うけど、いまだって出版社が、人件費がいくらかかって、印刷代がこうで、それに対して利益をこう上乗せするとこういう定価になるという決め方をしていると思います。しかし、現在の価格破壊が成り立つ、つまり価格と価値とはかかわりないよという社会に入ってしまった段階では、消費者が妥当だと考える価格に定価を決めるというのが一番合理的で妥当な考え方です。
 仮に生産費があるから利潤なんかそんなに出ないよというふうになっても、僕は野次馬だから、我慢しろ、それでも我慢したほうがいいよと思います。一生我慢しろということではなくて、少なくとも半期とか一年、二年はそれで我慢したほうがいいですよという、僕に言わせればそうなります。本の定価に、消費者、読者に高いなと思わせるようなものは絶対付けるなということです。そんなの付けていたら赤字になってしまうといったら、いいじゃないかということになります。
 論理的にだけ言いますと、企業体というのは経常利益ゼロ、設備投資もちっとも増やさない、それだって少なくとも一年とか二年は従業員を養っていける。リストラも何も要らないわけで、企業体は、利益ゼロだってやるよと思う、そこまで覚悟を決めてしまえば、長くは続かないでしょうが、半年とか一年、一年半とか二年はそれで続くことができます。そこまで覚悟を決めてしまえばどうってことはないということになります。従業員に給料をやって、それで一巻の終わり、利益なんか全然ない、ただぶっ倒れないだけだ、そこまでは企業体というのは、実際やれるかどうかは別の問題ですが、論理的にはやれるわけです。
 そのことは何を意味するかといったら、消費過剰段階に入った高度の資本主義国では、そこまで覚悟したほうがいいですよという段階に入っていると思います。それを従来どおり、生産者がこれがこれだけかかって、人件費がこれだけかかって、これに利潤を見積もればこうなるから、定価はこう。小出版社ほど、売れそうもない本を出すほど、部数が少ないほど定価は高くなる。これは決まってきたわけです。しかし、本当に力量がある経営者とか企業体の首脳だったら、一年や一年半くらいそれで我慢しろというやり方をすると思います。
 僕は金がないからそんなことを言っているので、お前貸し付けろと言われたら嫌だよということになって、村山総理じゃないけど、明日から言うことが違ってしまうということになるかもしれないけど、(笑)少なくとも僕がいま考えている限りは、そのくらいのことは考えておいたほうがいい。つまり、消費者というものを主体に価格が決められるんだということが大原則の社会に入ってしまったなというのが日本の社会の現状だと思います。

11 消費社会の本質――本の値段は読者が決める

 消費過剰社会、あるいは消費が所得の半分以上になっている社会というのは、皆さんが一般的に考えられているのと全然違う社会です。つまり、全然違うところに入ってしまったということです。これは問題の大変多い社会で、ある意味では社会主義社会じゃないかと言ってもいいくらいになっています。もちろん現存する社会主義社会よりも少ない所得格差を実現していますが、その代わり経済的な主導権は消費者に移ってしまったということを意味します。つまり、所得の半分以上が消費に使われているという社会ですから、潜在的には消費者に権力が移っています。
 ところが、まだ夢を見ていて、企業体の人は企業体の人で、自分たちが一生懸命利潤を上げるから、お前たちは給料をもらって生きていられるんだ、生活していかれるんだみたいに思っている。それから政府は政府で、俺たちが頑張ったから政権を取ったんだと思っている。しかし、それは違います。潜在的には消費者の手に政治権力も経済権力も移ってしまっています。現在の世界の消費資本主義、三地域における先進資本主義の根本的な要因がそこにあるということになってきているわけです。
 個人消費の重さが国民総生産に対して半分以上になり、しかも所得の半分以上が消費に使われているわけで、これでもって権力が個人消費者の手に移っていないはずはない。潜在的には移ってしまっています。要するに、消費者、大衆というものは個々には節約したり俺はあんまり使わねえと思ったりしているんですが、一斉にそうしていないというだけで、消費者が一斉に俺は使わねえぞと半年なら半年やったら、日本経済はつぶれてしまいます。そんなことはわかりきっていることです。その場合、使わねえぞといったって、光熱費とか家賃とかは使って、生活費は全部同じレベルで、ただ選んで使わねえぞと半年なり一年なり一斉にやったら、どんな政府もつぶれてしまう。それくらい権力というか能力は消費者のところに移ってしまっているというのが、高度な資本主義、つまりアメリカ、西欧先進国、日本、その三地域における経済的な本質的な問題です。
 もちろん出版界だって同じで、手は消費者、読者に移っているわけで、読者が高いなと思うような値段だったら買わないと思います。読者は勘でもって高いとか安いとか言うわけですが、その勘はかなり正確です。というのは、ほかのものと比べながら本の値段を見ていますから、高いなと思ったら買いません。消費者主体に本の値段を決定していくというのが妥当な考え方であって、出版社が赤字で俺のところはつぶれてしまうというなら、つぶれてしまったほうがいいんじゃないですかというか、とにかくつぶれてしまうと言いながらでも、半年とか一年とか一年半なら、利益ゼロだって、仮に赤字だって続いていけるわけです。一年なり一年半なり続けていられたら、必ず打開口は出てくるというのが現状だと思います。
 ただ、阪神地区の大震災がどういう影響を与えるかというのはいまのところ測りがたいところがあります。日本列島を四区域くらいに分ければ、その中の一区域というのは壊滅状態に近い環境で、個人消費はそこだけがた減りに減るだろうということが言えるのと、企業の回復はかなりかかるだろうとかいろいろあるから、影響をいまの段階で測ることはできませんが、そういうのを勘定に入れなければ、日本経済というのはやや好転してきたとよく言われています。
 ところが、やや好転してきたと企業体首脳とか経済企画庁とかが言う場合には、すごく楽観的に言っているんです。僕もかなりの程度不況を脱することは間違いないと思いますが、官庁とか企業首脳が言うほど楽観的ではありません。それはなぜかというと、その人たちは企業主体、あるいは国家経済主体に不況の問題を考えているからです。しかし本当はそうじゃない。つまり、不況であるかないか、不況を脱するか脱しないかということの主なる力、要因というのは個人消費者に移っている。そこを従属的な目でしか見ていないので、僕はそう思いません。そこを主体に見ない限りだめだよと思っています。そうしたらば、不況を脱しつつありますが、簡単には脱しないというのが現状だと思います。
 だから一番妥当に個人消費が表れる企業で言えば、百貨店は二年か三年越しに不況です。スーパーとかコンビニの段階でならば不況を脱しつつあると言っていいくらい、個人消費は増えています。ところが、百貨店の段階みたいに大規模になると、依然として赤字です。つまり不況です。そこらへんまで個人消費の手が届いていったら完全に不況を脱したと言えるけれども、いまのところはそうじゃないし、僕は簡単に個人消費が増えてそこまで手が届くとは思わないから、割合ゆっくりと不況から脱していると思っています。
 それでは出版界というのは何なんだ。体質自体はちっとも先端的でなくて、どんぶり勘定の古い体質ですが、非常に先端的な産業です。ここでもって何が主体で本の定価が決まるのか、個人消費者、読者が主体だという考えに転換できなかったら、ちょっとしょうがないんじゃないのと思います。そんなこと言ってたら俺の出版社はつぶれてしまうよと言うけど、本当か? つぶれてしまうかもしれないけど、一年か一年半もつだろうといえばもつに決まっているわけです。そのくらいもたせていればまた何とかなるという方法はあるわけで、そういうふうに考え方を転換したほうがいいと思います。
 僕は、城南電機の宮路さんという人のお米をあれしたときのやり方が好きなんです。あれは価格破壊の最たるものです。それから富山県のお米の小売店の川崎さんという人はまことにみごとで、お米をつくっている農家から、闇米というか、安く買い付けて、安く消費者に売るということをやったわけです。これはものすごくみごとなやり方だと思います。このみごとなやり方というのは、よほど確信がないとなかなかできにくいことでもありますが、これは唯一のみごとな価格破壊の仕方であって、このやり方はまことにみごとだなというのが僕の考え方になります。
 つまり、これが皆さんのお役に立つか不利益なことを言っていることになるかわかりませんが、本の価格というのは読者主体に決められるべきだということと、それでもって利益がそんなに上がらないといっても、ちょっと我慢してやったほうが後はいいぜというふうに僕には思えます。
 そこの問題が本の流通をまたぐ問題になりますし、僕らが自立的な雑誌ということでやってきて、いまいろんなことがあっぷあっぷしていますが、自立的な雑誌の出し方というのは、いまの例え話で言えばどういうことを意味しているかというと、秋田県の大潟村の農業をやっている人たちが自分たちで安い運送費でもって運んで、都会に来てそれを売り飛ばすというやり方と同じことです。川崎さんとか宮路さんという人はそこまでやらせないうちに、流通業、販売業者として買い付けに行って安く買ってきて売り飛ばしたというやり方をしたわけですが、自立的というのは何かといったら、農家自体が流通業に頼らないで、自分で都会へお米を運んで売り飛ばしたというのと同じことになります。
 流通のやり方を決めていく決め手というのはもちろん上のほうから決まっていくのが常道ですが、消費資本主義、現在の高度な資本主義が突入した段階から言いますと、逆が成り立つということです。つまり長谷川さんの言う価格破壊が成り立つのであって、価格破壊というのは別の言葉で言えば、消費者第一主義ということを意味します。それは価格破壊と言わなければ言わないでいいわけで、僕らは言いたくない。そういう言い方をするとどうしても企業体主体という考え方が背後にあるということになりますが、僕らは別に企業体主体にものを考えなければならない理由がありませんから。
 消費資本主義の段階で誰が価格を決めるのか、それは消費者が決めるわけです。それに一番近いかたち、一番便利で安いかたちで提供を受ける権力というのはどこなんだとか、やり方はあるのかというのは、僕らが『試行』という雑誌を始めてから一生懸命考えてきたことで、その原則、原理だけはいまでも通用すると思いますし、いまのほうがある意味ではかえって通用する段階になっているのかもしれません。

12 小出版社が生き残るには

 僕らが始めたのは六一年ごろですから、日本がまだ消費資本主義と言える段階に入っていないときです。七二年ごろからそういう段階に入ったなと見当をつけているんですが、いまの段階だったら、やり方が、大なる出版社、大なる企業が小なる企業を含んで、消費者と直接手が触れてしまうくらいまで自分たちの方向、版図を広げていく段階に入りつつあるというのは、消費資本主義段階での当たり前の段階であると思います。
 前は大なる企業、大なる出版社は、販売ルートがどうだとか定価がどうだとかあんまり考えないでもよかったみたいだけど、現在はそうじゃなくて、大出版社が直接読者に接触するくらいまで版図を広げて考えていくということになりつつあるし、これからなっていくだろう。それに伴って、小なる出版社はやりにくいなという段階に入っていきつつある。大なる出版社の寄らば大樹の陰でやっていくか、大なる出版社のまねをしていくか、どちらかしかないというふうになりつつあります。
 しかし、僕はただ一つ、先進資本主義国では消費資本主義の段階に入っている、つまり所得の半分以上は消費に使われているよ、あるいは使わざるをえなくなっているよという段階に入ったということを勘定に入れると、通常のやり方以外のやり方というのはありうると少なくとも考えられると思います。そこが一般的に僕らの考えどころになっているし、僕は自分の雑誌を振り返ってみると、そこが考えどころだよなということになっていると思います。
 僕らの雑誌が一年に二回くらいしか出なければ、雑誌の価値がないよと言われればそのとおりで、これでやることに意味があるかみたいなことをたびたび自分に問いかけてみて、決心がつかない唯一の悲観的な根拠があるわけです。
 それ以外で言えば、経済的には実質的に赤字になっているわけですが、具体的に言って、この次のを出したら出せないというふうには赤字になっていないんです。毎号のそういう計算をすると、赤字が六、七十円出ているということで、これをどうしたらいいのかなというと、値上げをするのはいかにも芸がないと思ったり、自分たちが値上げをすれば、印刷業も値上げをしたくてしょうがないところですからするでしょうし、意味はあんまりないなと考えたりすると、何かやり方があるんじゃないかと思うわけです。そうすると、まだ二、三号くらいはたまっていて足せますから、赤字があってもいいかな。その間に、もしいい考えが浮かんでくればいいんじゃないか、まだ少し余裕があるぜと思いながらやっているというのが僕らのあっぷあっぷの一番主要な段階のところです。
 これは大きな経済問題をひっくるめてどうなるかということはなかなか言えないんですが、僕らが唯一できることは、所得の半分以下の消費だとしたらば、所得額というのは意味があるわけですが、先進国では全部そうじゃなくて、所得の半分以上は消費になってしまっています。そうであれば、屁理屈を言えば、われわれの給料とか収入というのは半分以下に減ったって、食うものには困らねえはずだぜと普通はなるわけです。
 つまり、消費資本主義段階というのは、所得の半分以上は消費に使われているし、使わざるをえないようにできているんだけれども、それでやっていかなければいけないというふうになっているというのがある意味で非常におっかないところでもありますし、考えようによっては消費者向けにすべての主導権というのは本当は移ってしまっているよということを意味するので、どうやったら存続できるか一番の考えどころということの根本はそこにあるというのが、僕らがいまのところ考えている大きな根拠になっています。
 そこのところでもう少し僕自身の雑誌のことで言えば、二、三号それが回りますから、その間に何かいい方法がないかということを模索して解決しようと考えているというのが僕らの現状です。きついといっても、そんなことは当然だと言えば当然で、お前ら意地を張ってきたんだから仕方がないことだと言えばそのとおりなので、話があんまり愚痴っぽくならないところで終わりにしたいと思います。参考になったかどうかわからないんですが、僕らがやってきた雑誌のやり方とか原則というのはそんなところで、だいたいのところはお話しできたんじゃないかと思っています。(拍手)

13 質疑応答

(質問者)
 秋葉と申します。ほんとうは8つくらい質問があるんですけど、7月18日の時に9項目くらいお話になったので、ぼくも負けずに8項目か9項目もしよかったら、時間がないので、まずひとつは「知」の流通と関係しますと、もうすでに吉本さんが新聞等で書かれたかどうかわかりませんけど、例のマルコポーロに関して、ひとつ何かコメントをいただければありがたいということ、それに関係しまして、明治以降、坪内等あるいは漱石等が欧米文化といいますか、文明といいますか、文学といいますか、そういうものを翻訳しているわけですけど、その翻訳というのは本当に当たっているのか、ぼくは若い頃からずっと疑問に思っているものなので、吉本さん自身も、それは『超西欧的まで』という本を出していますけど、西欧というものに対しての、あるいは、日本の文学・思想状況のかかわり方という意味あいで、正しい翻訳というものが流通されているのか、「知」の流通がほんとうに欧米で、日本内外でなされているのか、というようなこと2点をよろしければお答えいただければと思います。

(吉本さん)
 マルコポーロの廃刊というのは、西欧におけるユダヤ人問題に対して異を唱えたという、あまり情報が正確でないところで、たとえば、ナチスドイツがユダヤ人をのガス室で殺したというような事実はないみたいなのに近いことを記事にしたことで問題にすると、日本の明治以降で近代西欧文化の死角みたいになるわけでしょうけど、様々な書かれた人がいるわけでしょうけど、怪しいかどうかについて何も言うだけの資料とか、材料を持っていないというから、あんまりそれについて何かいうこと、そういうことではできないので、ただ、お前だったらどういう判断をするかとなるんですけど、ぼくはそれはヒトラーの理念の問題になると思います。
 ヒトラーの理念の中に、ぼくは『Mein Kampf』って読んだことがあるんですけど、戦争中も読みましたけど、それは読む人も読まない人も昔だったらそれを知っていたわけですけど、完訳の文だったんです。それを見るとおかしいところがあるんです。おかしいというのは病的なところがあるんです。
 つまり、あの人は何か、それはいいことなのかもしれないけど、他人が触ったものに触ったら、アルコールで手を洗わないとおさまりがつかないとか、もっと極端になるとオキシドールでこういうふうにやらないと不潔だと、決まりがつかないというような人がいるとします。ぼくらもそこまでやったら病的だと、清潔感じゃないよ、それは病気だぜと思っちゃうわけです。
 ヒトラーの『Mein Kampf』を読むと、ようするにユダヤ人に対して、それと同じなんです。つまり、血液の中にちょっとユダヤ人の血が流れていたら、もう身体が汚れて仕方がないみたいな、そういう意味合いの神経症だと思うのですけど。病気のあれでいっちゃえば神経症だという、『Mein Kampf』の中で、病気であると思うところはそこなわけです。
 ですから、ユダヤの絶滅思想もそうですけど、なんでもやりかねない人だぜというようなのを僕は感じます。そこでなら言えると思う、また本当にそうであったかというのは確かめられないので言うことはできないのですけど、この清潔感というのは、ちょっとこれは病気的でしょうがないので、『Mein Kampf』を読みますとすぐにわかります。それだけがものすごい響いてきます。だから、この人はちょっと、こういう意味合いでは病気だったよというふうに思わざるをえないわけです。つまり、そんなことをやりかねない人だなというふうになる気がします。ぼくの判断はそうです。
 だから、ガス室があったとかというのは当然だという言い方をやっぱり確かめる必要があると、いけないというふうに僕はおもいます。それがつまり、いまおっしゃったあれでいえば西欧の文化に対する現在でもある、現在は万国共通でとか、同時性があるとか、ある意味ではまことにそうなんですけど、非常に微妙な差異のところまでいくと、それと同じことがいまでもいえるんじゃないかなというふうに思います。
 たとえば、三島由紀夫なら三島由紀夫のものが西欧で読まれるという場合に、何に読まれるんだと、どういうことで読まれるかというと、市ヶ谷へ行って腹きりで死んだということの衝撃が三島由紀夫の原動力なんだ。まずはその程度だよとおもったほうがよろしいんじゃないかと思います。
 西欧の人はなんでもわかっているし、こっちのこともわかられていると思ったら、それは大間違いだよ、ほとんどわからないという、つまり、通じねえよというふうに、いまでもそうなんだと考えたほうがいいような気がするんです。
 やっぱり、ユダヤ教問題というのは西欧でいう大問題なので、マルクスなんかも一生懸命、当時のユダヤ人の排斥の仕方に対して、異議を立てると同時に、ユダヤ人の言説に対してもマルクスは異議を申し立てます。つまり、そういうことは不正確だということを言っていますけど、大問題なので、これはロシアを含めて西欧がいちように抜け難くもっていた、潜在的なところまでいったら、なかなか解決しにくい問題、深みのある問題というふうまで、問題を突っ込む余地があると思いますから、なかなか具体的にどうだった、こうだったというところからいくのは難しいように僕には思いますけど。よほど実証がいかないとダメなので、だから、原則原理的にいうなら言えそうな気がするし、ナチスドイツイデオロギーのなかで、清潔感というよりも病気なんです。神経的な病気だというより仕方がないようなことをヒトラーが書いているんですけど、これはちょっと病気だぜというより仕方がないから、やりかねないというふうに僕はおもっています。
 西欧文化の問題も日本文化の問題もこれから本格的になっていかなきゃいけないものじゃないかなというふうに思いますけど、それはちょっと簡単じゃないぜというのが、ぼくがいろんなことで実感していることです。つまり、たとえば、日本の誰かが誰々の小説を翻訳したと、個人が好きで好きな作家の翻訳をしたと、それを翻訳した本国でこれを出せないだろうかと考えた場合に、まず、出せる可能性はほとんどないということがいえます。
 たとえば、フランスでは賢人会議というのがありまして、その賢人会議というのがもとになって、渡りをつけると、そうするとそれが翻訳されたりしますけど、そういうのを通さなければ、まず、本人が好きだから一生懸命訳した本を出せないだろうかとあれしたって、まず不可能に近いというのが現状だというふうに僕は実感している。ですから、一般に考えられていること、文化とか、文学とか、芸術論みたいな微妙なところになっていきますと非常にむずかしい気が僕はします。
 ぼくがびっくりしたのは、日本の留学生があれすると、西欧というとみんな統一がとれていて、文化的対立もあるというふうなイメージを日本に帰ってきてふりまくわけです。これはソビエトについても同じで、そういうふるまいをしたわけですけど、ソ連邦崩壊を見ていると、こんなところでこんな喧嘩をしているのかみたいな、国内戦を盛んにやっていたりするでしょ。どうもこれは、日本の西欧留学生というのはようするに何も見てこなかったんじゃないかというふうにも思えるわけです。つまり、学校と下宿を往来しているだけで、何も見てこなかったというくらい、イメージがまるで違うじゃないかというふうに思えてしょうがないわけです。
 そうすると、今度は違う、ナショナリズムがまた復興してきたみたいにいうわけです。そんなことは復興してきたわけではなくて、もともとあったものが隠れていたんでしょうというふうにしか言いようがないので、あるいは強制力で隠してあるんだとしか言いようがないわけです。つまり、それくらい不十分な情報しかまだないんだということを僕は感じるんです。
 それはマルコポーロの事件についてもそうなんです。マルコポーロをつくった花田さんという人は、ぼくはひでえ目にあったことがあるから、たとえば、真のことが2分ぐらいあって、あとは8分が嘘だということをバンバンやるでしょ、つまり、その手のすれすれのことをやると、本気になってしょうがないわけです。ところが、本気になるまでもないのになと思うと、いいやいいやというふうになっちゃうんです。
 イメージというのはあるわけでしょ、だけど、たまたまユダヤ人協会かなにかは泣き寝入りしたくなかったわけですね、文句つけたわけなんだけど、文句つけてみたらあっさりやめてしまったし、いまみたいになったのをきっとビックリしていると思いますけど、そんなもので、危険すれすれのところで話題性のある取材をすれば、そういうことというのは競争でやっているというのが現状なんじゃないかと思うわけです。
 それは西欧なんかより日本のほうが発達しているから、今度は西欧のほうは日本のやり方をだんだん真似してくるんじゃないかな、そうするとやっぱりちょっと嘘八百とは言わないけど、嘘八十ぐらいの、ほんとは2割くらいのことを言ってやりだすということは日本のほうが先覚者であって、西欧のほうがきっと真似をするに違いないというふうに僕には思います。
 そういうのは田中角栄の時から嫌いでしょうがなかったんです。つまり、政治家を失脚させるには2つの道があるわけで、ひとつは金銭問題です。それから、ひとつは女性問題です。必ずその2つで清潔であるというふうに入るか、本格的に追及されると政治活動が成り立たないという、その2つで清潔な政治家がいるかと、それは社会主義国を含めましているかというと、そんなものはいるわけがないわけです。
 いるわけがないのにどうしてそんなこと大新聞に言われるんだということになるかというと、そうすると、学校の教育がひとつ悪いと思うんです。つまり、ほんとうはわかっていないんです。世の中いいかげんだということではなくて、わかってないなというふうに思うわけです。ぼくは嫌だなというふうに思います。金の問題と、それから、女性の問題で失脚させるというやり方は、これはアメリカから移ってきたわけですけど、このやり方はものすごい悪いと思います。
 仕掛けがうまいやつほど平気で歩いていることになるわけで、ほんとうに清潔な政治家がいるとおもって、もしかすると、新聞記者はそう思っているかもしれないですけど、なんでそんなことが起こるのかといったら、それは教育が悪いからです。大学の先生というのは馬鹿ですから、そういうことを教えるのかもしれない。そんなことは社会主義国だって成り立たないのです。そんなことはちょっと調べればすぐにわかるわけです。だけど、そう思うからそういう追及の仕方をする、そうすると、批判というのは自分を点にすれば、どんな批判もできるわけです。だけど、お前はどうなのというところまで、自己相対化すれば、たぶん、非常にむずかしいことになってくるというのが現状じゃないでしょうか、つまり、ああいうやり方というのは、政治問題から、いまみたいにジャーナリズムみたいな出版界にもっていっても、それはキリなく続いているというのが現状になるので、それはなかなかむずかしい問題じゃないのかなというふうに思います。それをきっちりしようなんて考えると、またとんでもないことになりかねないので、むずかしいことで、この問題に対するまっとうなというか、最終的な解決方法というのは、いまのところ考えられないくらいむずかしい問題だというふうに思います。
 それは日本の明治以降の西欧化ということが近代以降の根幹だとすれば、それはどの程度どうなっているんだ、どの程度誤解しているのか、どの程度錯覚しているのかという問題を含めて、大変なことじゃないでしょうか、これは、大江さんの講演で「あいまいな日本の私」という講演で、これは川端康成の「美しい日本の私」という、それを風刺してそういう題をくっつけたのでしょうけど、ぼくが言いたいこと2つがあって、ひとつは別に西欧化というわけですけど、ようするに、大江さんは過剰な西欧化なんです。西欧化主義者なんです。これはどうしても内側の人を犠牲にするんです。内側の人からみると、こんなことを言わなくていいだろうということまで言うわけです。それは過剰な西欧化なんです。
 それから、もうひとつ言いたいことは、川端康成を風刺するというけど、ぼくは大江さんの作品批評の次元では、川端康成の作品の良さというのはわからないんじゃないかと思います。つまり、ぼくは批評専門家だからわかっていますけど、川端康成というのは通常考えられているより、ずっといい作品です。『山の音』みたいな、非常にゆっくりゆったりというのが非常にわかりやすく入ってる小説というような、あれは日本語の無意識の文体まで、ちょっとわからないところ、微妙なところまでわからないとあの作品は評価できないです、そういうところがあるんです。
 それは大江さんの評価の次元ではとてもダメという、つまり、川端康成の作品がいいか悪いかという良さというのは、ほんとうはわかっていないと思います。あの次元ではわかっていないと思います。もっと浅い次元で、イデオロギー的に、川端さんはなんとなく伝統主義社会みたいな次元で、おれは仕事主義者じゃないという次元で、ぼくは、大江さんは言っているとおもうので、それは非常によくないと思うけど、よくないかいいかというのはそれぞれですけど、ようするに過剰な西欧化だとおもいます。
 だから、あれは別な次元で修正を要するんじゃないでしょうか、そうすると、大江さんの作品は、小説の文体は変わるはずだと僕はおもいます。大江さんの小説の文体は、あれは日本語の無意識といいますか、日本語の無意識までをさらっていける文体ではありません。あれは翻訳小説をまた逆に日本の文体を真似て小説を書いたという次元でもって解けるような文体です、大江さんの小説の文体は。だけど、ほんとうに日本語の無意識まで入ってきた日本の文体では、大江さんはないです。それは大江さんの作品がもっと深みというものをつくるためには、やっぱり、それがそこまでないということが、必要なんじゃないかというふうに僕はおもいます。
 それはいまの西欧の人たちからは、そんなのは評価できないですから、わかっていないですから、いいともなんとも言われないかもしれないけど、しかし、そうなってきたら、内側からはアッというふうに思うわけです。だけど、大江さんのいまの過剰な西欧化、近代化という概念では、内側から見ると、みっともないわなという思うわけです。そこまで言わなくたって、そうまで日本なんていうのはあまり世界的にはなんて言わなくていいよという、西欧なんかに知られなくていいよというふうに僕なら思っちゃいます。そうまで過剰に西欧化、近代化ということはないんだよというふうに思います。
 これは日本のあれは皆そうです。映画でいうと、大島渚の「戦場のメリークリスマス」なんていうのは見ていて恥ずかしくて見ていられないわけです。内側から見たら、軍隊にいた人ならなおさらでしょうけど、あの人はほんと馬鹿だというふうになっちゃうわけです。そうまでしなくていいでしょって、そうまでして、西欧の評価を得なくたっていいじゃないのっていうふうになっちゃいます。
 それは、その前の『楢山節考』も同じで、よせやいと、あれを見ると、映画が賞をもらったかどうか知りませんけど、あんなのこっちから見たら、日本はまだ原始未開で、変な恰好したやつがいっぱいいてウォーウォー言って、犬でもなんでも、暴漢みたいのがいて、そのくらい過剰な西欧化ということになってくるわけです。
 ぼくがこれは世界的な映画だなと思ったのは、森田芳光が『家族ゲーム』という作品を映画化したんです。それはそれとして世界のベスト幾つに入る作品だし、これは世界的な作品だというふうに僕は思いました。見たときにそう思いました。あとのは皆、過剰な西欧化だよというふうに思いました。
 それから、最近といいますか、小一年前でいえば、ビートたけしの『3-4x10月』という映画で、これはやっぱり去年か一昨年か忘れましたけど、これは世界のベスト幾つに入るものすごい良い映画だと僕は思いました。そのくらいです。
 つまり、日本の映画で掛け値なしに、みんなダメ過剰な西欧化です、西欧昇華です。ああいう映画はエキゾチズムで売っちゃうわけです。それは黒澤明も同じで、エキゾチズムで売って、それが評価の中に入ってきちゃうわけです。それくらい西欧化、近代化ということはむずかしいように思っています。
 ですから、ぼくは日本の明治以降の代表的な知識人をあげろといったら、ようするに柳田国男と折口信夫であるというふうに、そういうふうにいいます。そういうより仕方ないなと思いますけど。(会場拍手)



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