1 司会

本日、日曜日にもかかわらず、みなさま、たいへんたくさんお集まりいただきまして、どうもありがとうございます。それでは、第75回紀伊国屋セミナーをはじめせていただきたいと思います。
フランス文化大使として、ジャン・ボードリヤール氏が、今回、来日しましたので、それを記念しまして、ジャン・ボードリヤール氏と、日本の吉本隆明氏との講演および対談を紀伊国屋のほうで企画いたしました。
ご紹介いたすまでもないと思いますけど、簡単にご紹介いたしますと、ボードリヤール氏は、パリ大学の社会学の元教授でして、『消費社会の神話と構造』という本で、日本に最初に紹介されまして、その後、十数冊の翻訳書が出ているわけですけど、非常に、フランス本国のみならず、アメリカでも、日本でも、高い評価を受けております。
いちばん最近の著書で『世紀末の他者たち』という本、これも紀伊国屋書店のほうで刊行させていただいたわけですけど、とにかく、ボードリヤール氏と吉本隆明氏という、願ってもない取り合わせで、ぜひやりたいというふうに、これはだいぶ前に、フランス大使館のほうと非常にご協力いただきまして、今回の会が実現いたしたわけであります。フランス大使館のほうには感謝しております。
まず最初に、お手元に、会場の入り口でお配りいたしました予定表に従いまして、ジャン・ボードリヤール氏より、「カウント・ダウン」というタイトルで、通訳としまして、塚原史さんといいます、ボードリヤール氏の邦訳について、何冊か、大部分、塚原史先生が何冊か手掛けられておりまして、そのかたに、今回は通訳をお願いしました。逐語通訳ですので、お聞き苦しい点もあるかと思いますけど、ご容赦いただきたいと思います。
その次に、吉本隆明氏によりまして、「消費が問いかけるもの」という講演をいただきまして、休憩を10分取りまして、対談のほうに移らせていただきたいと思います。
全体のタイトルが「世紀末を語る あるいは消費社会のゆくえについて」という、非常に今日的なものを扱いたいと思っております。それでは、ご両者を紹介したいと思います。

2 現実の過剰とユートピアの喪失

(ボードリヤールさん)
われわれは、最も欠如しているものが現実であるという幻想を生きていますが、じつは、その反対に、いまや現実はあり余っています。われわれを取り巻いているのは、現実がすでに完了し、それが潜在的に完成されたという状況なんです。
技術のたいへんな進歩の結果、われわれは、あまりに高度な現実と客観性の段階にたどり着いたのです。その結果、現実の過剰について語ることさえ可能なはずですが、そのような状況は、これまで慣れ親しんできた現実の景色よりも、はるかにわれわれを不安に陥れる、当惑させることになるでしょう。つまり、現実の欠如をわれわれはユートピアや想像力で埋め合わせることができたのです。
ところが、現実の過剰、世界に対する統制と管理の過剰、意味と情報の過剰は、ユートピアやアルタナティブの提示によっては、もはや償うことができないのです。批判による否定も、乗り越えも、もはや不可能になってしまいました。というのも、われわれはそれらのむこう側に移行してしまったのです。現実と理性の前提となる諸条件が完了することによって、逆転現象が起こったのです。
理想と現実との間のねじれから生じる否定的なエネルギーは、もはや存在せず、理想と現実の過剰な融合から生じる、現実的なものの全面的肯定から生じる、肯定的なエネルギーが残っているだけです。
しかしながら、現実的なもののむこう側、つまり、現実が潜在的に完了したという状況のうちに移行したとはいえ、われわれには現実的なものの終わりを経験しそこなったという、苦々しい印象が残っています。あらゆる近代性は、現実的なものの世界、つまり、理想が現実となる世界の実現を目標としてきましたし、現実の人間と、現実のエネルギーの解放を自らの使命としてきました。現実のあらゆるエネルギーは、疎外と幻影を超えて、世界を現実化することに向けられ、そうしたもろもろの幻想に対する批判的言説が、哲学の実践を育んできたのでした。
今日、世界はわれわれの希望をはるかに超えたところで、現実的なものとなってしまいました。これこそ、近代の逆説というものです。世界の現実化の瞬間が、われわれがそのことを、ほんとうに意識することすらなしに超えられてしまったような印象を、われわれはもっています。
もっとも、世界に残る様々な未完了の状態、たとえば、貧困や悲惨、そういったものを前にして、こんなことを言うと、奇異に思われる方もいらっしゃるかもしれない。そのような現状を見れば、世界はより現実的で、より理性的な状態に向かって、発展を開始したばかりなのだと考える方もいらっしゃるでしょう。けれども、それは間違っています。世界を全面的に現実化する操作は、潜在的にはすでに完了していて、事態は高速度で進行しています。
システムは完全に肯定化され、思想のラディカルさを操作のラディカルさで置き換えてしまいました。システムは、あらゆるユートピア的な可能性を実現してしまったので、われわれはこの種の達成のあらゆる結果を検討する必要にせまられているほどです。
現実と、その進歩主義的で、ヒューマニズム的な諸価値、たとえそれがいかなるものであろうとも、そういたものを隠れ蓑にして、逃げ出すわけにはいきません。そんな態度は、政治的には正しいかもしれませんが、知的な意味では時代錯誤なものです。というのも、それらの諸価値は、とっくの昔に、もはや真のアルタナティブとはなりえなくなっていたのです。われわれにいちばん欠如しているもの、それはすでに現実が達成され、すでに完了したという発想なのです。
ミスティフィケーションとか、疎外といった外部の領域は、もはや問題にはなりません。背後世界は、その超越性から抜け出して、われわれを内部から包囲し始めています。われわれの現実世界そのものが、われわれの背後世界となったのです。といっても、現実世界が、なにかべつの世界に自らを譲り渡しているような状態ではありません。その場合には、まだ他者性の輝きというものが見られました。現実世界が、世界の無条件な現実化の過程で、自らを放棄するという状況にわれわれは立ち入っているのであり、そのとき世界は、無条件なシミュラークルとなります。現実が達成され、完了したという事実は、終末のむこう側について考えることをわれわれに強いています。それは、極端な現象について考えることにほかなりません。

3 欲望の充足と現実世界からの追放

われわれが、現実から、もはや疎外されているだけではなくて、決定的に排除されているというのは、あらゆる欲望が、失われたり、抑制されたりすることによってではなくて、むしろ、充足されてしまったということによって、われわれは、われわれ自身の欲望を、いわば接収されてしまったということです。その結果、世界は完全に現実的なものとなったので、現実性の割合は、いっけん日々低下するという事態が生じています。批判的立場からは、この逆説はおよそ考えられないものです。なぜなら、主体と世界の弁証法は、そこでは、もはや問題にならないからです。
もはや、われわれは、矛盾と対立を内包する現実のまっただなかで、疎外された存在ではありません。われわれは矛盾を含まない徹底的な現実によって、世界から追放されてしまったというわけです。全面的に吸収されて、内部注入されると同時に、全面的に排除されて放り出されてしまったのです。
レヴィ=ストロースは2種類の文化を区別しました。食人、人食い的な文化と、吐き出し、異物を吐き出し、排除する文化です。ところで、近代の諸文化は、人間を機能化する文化です。
そして、現在の、われわれの、そして、来るべき時代の文化は、これら2つの文化の、不安定な総合を実現したように思われます。つまり、機能と場所と人間の統合を、どこまでも推し進める操作と、最も徹底した排除や、ほとんど生物学的な排斥とを組み合わせてしまったのです。
こうしてシステムは、われわれを組み込めば組み込むほど、われわれを排除し、無数の技術的な人工装置のなかに、われわれを追放してしまったので、最後には思考さえもが、もっとも驚くべき装置である人工知能、アーティフィカル・インテリジェンスのなかに追い出されてしまったというわけです。

4 アクティング・アウト

マクルーハンは、近代テクノロジーのうちに、人間の拡張、エクステンションを見ていましたが、いまではむしろ人間の排除、エクスパルジョンについて語るべきではないでしょうか、技術によるおおいなる冒険は、結局、排除の冒険であり、一種の悪魔祓い、エクソシズムにほかなりませんでした。人間は、自分自身の目で見た、自分の存在と、経験と、意味作用を、たえず排除し続けてきたのです。この操作は、言語活動を通じて、言語も悪魔祓いの機能を担っています。
さらには、人間のつくりだした、あらゆる人工的な仕掛け、アーティファクトを通じてなされましたが、挙げ句の果てに、人間そのものが、ヴァーチャル・リアリティを理念型とする転移、移し変えと、置き換えという、見直しのきかない過程において、みごとに消滅しつつあるのです。
ここで、アクティング・アウト、精神医学のほうで、自己や他者に対して向けられる衝動的・攻撃的行動というような意味で使われておりますが、アクティング・アウトというような用語が、状況をよく説明していると思います。
不確実な虚構の世界、われわれ自身の無意識を意識化する、この暴力的操作以外の動機をもたない世界に、われわれは自らを投影しているのです。完全にヴァーチャルな世界を構築しながら、そこでは、自分の存在を消去して、現実世界を黙殺するという危険を冒しているのです。
あるいは、また、こう言ってもいいでしょう、歴史が、予測不可能なたった一度のできごとにおいて、その不整合性と、抑圧された矛盾を厄介払いしてしまったとも言えるでしょう。つまり、その行為者たちは端役ばかりで、主役は存在しないような、たとえば、東欧で起こっている諸事件のような出来事ですが、それ自体は、もともとありえるはずがなかった状況の精算に過ぎず、たいした意味をもちはしなかったのです。
現在のシステムの肯定性と、操作性の過剰、そういった状況は、いたるところで、この種のありえるはずのない状況へと、われわれを急がしています。われわれは、もはや主体的に行為できる立場ではなく、純粋な反応と反射的操作、そして自動的な、オートマティックな対応しかできないような状況です。
社会全体の巨大なアクティング・アウトは、社会そのものが純粋なエネルギーのなかに浪費されてしまい、解消されるだろうという幻覚のうちに、われわれの社会を取り込んでいますが、そこには空虚さを伴う解放感や、絶望的な流動性といった反応以外に、目につく目標は存在しません。社会の生きた微粒子であるわれわれは、もはや人工衛星に乗せられて、地球周回軌道に打ち上げられたゴミに過ぎないのです。
そのような状態で、われわれは、われわれ自身のエネルギー、すなわち、サーキットやネットワークの回路を通じて導入されるエネルギーを、われわれ自身の身体と感情の動員解除、そして、主体としての主体の解消と、世界の物質的な実態の解消、そういったもの以外の、いったいどこから引き出すことができるでしょうか。
おそらく、いつの日か、こうした実態がすべてエネルギーに変換され、あらゆるエネルギーが純粋な情報に変換されることでしょう。真空の宇宙へ、情報の地球規模のネットワークの軌道へ、世界を構成するあらゆる微粒子が不可逆的に流出することになるでしょう。それこそは、こういってよければ、決定的なアクティング・アウトであり、全面的な完了、トータル・アチーブメントであり、最終的な解決なのです。すべては成し遂げられ、現実化され、真空中に放出されるでしょう。
そのとき、ようやく自分自身から解放されて、われわれはスペクトル的、スペクトル光線と幻影とをかけた言葉だと思いますが、スペクトル的で、何の問題も起こらない宇宙に入っていくということになります。それこそは偉大なる潜在性、グランド・ヴァーチャリティーの世界なんです。

5 「歴史の終わり」という幻想

ここで、アーサー・クラークのSFについて語っていますが、こうした状況を描写するには、アーサー・クラークのSF『90億の神の名前』ほど美しい寓話はありません。それは、神の無数の名前を唱えて書きとめる任務を負っているチベットの僧侶たちの集団の物語です。神の名前は90億もあるんです。予言によれば、それらをすべて書き終えたとき、世界は終わりを告げることになっています。ところが、僧侶たちは次第に疲れてしまい、仕事の能率をあげるために、IBMの専門家を呼ぶことにします。技術者たちは、コンピュータを持って到着します。そして、なんと1か月で仕事を終えてしまうのです。まるで世界の歴史が潜在的なものの操作によって、一瞬にして完了してしまったかのようにです。ところが、困ったことが起きます。作業の完了とともに、現実の時間、リアルタイムにおいても、世界は消滅することになってしまうのです。というのも、神の名前をぜんぶ数え終わると世界が終ってしまうという予言どおり、IBMの技術者たちは、山を下りる途中で、星が空から消えていくのを目撃したのでした。
この寓話は、われわれの現代的な状況をたくみにあらわしています。われわれもまた、IBMの技術者たちを呼び出してしまったのです。そして、かれらは世界の自動消滅のコードを始動させました。それ以来、計算と情報と潜在性の、あらゆる技術の介入によって、われわれは現実のむこう側に移行してしまい、事物はそれらの固有の目的と、終わりのむこう側に移行してしまい、われわれはカウントダウンの世界に生きています。
それは、たとえば、カネッティの次のような見解を実現させたことを意味するでしょう。カネッティはかつてこう言ったのでした。「時代がある一定の地点を超えると、歴史はもはや現実ではなくなる。全人類は自分でも気がつかないうちに、突然、現実から離れてしまうだろう。そのあとで起こることであろうことすべては、もはや、すこしも真実ではないのだが、われわれは、そのことを理解できなくなっている。この地点を発見することができていない以上、われわれは現在の破壊的状況のなかで、耐え忍ばないわけにはいかないだろう。」
たしかに、カネッティの言ったとおり、ますます巧妙で洗練されていくテクノロジーを口実にして、われわれは世界と歴史の果てしない終わりを耐え忍ぶことになるでしょう。歴史は自らを廃絶する結果をもたらすような何ものも、もはや発生させられなくなったのです。したがって、すべては無限に引き延ばされることになります。このプロセスを停止させる手段を、われわれはもはや持ち合わせていません。今後、もろもろのプロセスを、われわれ抜きで、いわば現実を超えて、終わりのない反射と、指数関数的な加速のうちに、それゆえ、飛躍的に増大する指数関数的な差異化をともなって、展開されることになるでしょう。
終わりがないと云いましたが、終わりがないということは、欲望も、緊張も、情熱も、真の出来事もないということです。こうして、食欲不振に陥った歴史は、もはや波乱に満ちた現実を糧とすることはなく、カウント・ダウンのうちに燃え尽きていくでしょう。したがって、それは正しく云えば、歴史の終わりの反対の現象です。歴史を終わりにすることは不可能なのです。
歴史がもはや終わりを見いだせないのだとすれば、じつは、それは本来の意味での歴史ではありません。歴史と歴史の終わりが、われわれにとって、いわば同時に失われてしまったことになります。これは、重大な事態です。というのも、終わりを意味するのは、何かがほんとに起こったという事実なのですが、われわれは現実と情報をいやというほど詰め込まれた結果、終わりがなくなってしまった。いったい何がほんとうに起こったのか、それとも起こらなかったのか、さっぱりわからなくなってしまったというわけです。
おそらく、歴史の終わりとは、たとえ、そんなものを思い描くことが可能だとしても、アイロニーでしかないのでしょうか。それは、歴史の策略の、ひとつの結果でしかないのかもしれません。つまり、われわれから終わりを奪っておいて、われわれの知らないうちに、歴史のほうで勝手に終わってしまうという策略です。歴史がつくられ続けていくと信じながら、歴史の終わりを供給せずにはいられなくなるという策略、終わりはすでに起こってしまったのに、いつまでも歴史の終わりを待ち続けさせるという策略、つまり、歴史がすでに別の方向に再出発を遂げたかもしれないのに、歴史の終わりをまだわれわれには信じ込ませるという策略なのです。

6 〈悪〉の透明化

われわれが、歴史の終わり、政治的なものの終わり、社会的なものの終わり、といったことについて述べたとき、問題になっていたのは、明らかに、歴史そのものではなくて、歴史の場面、歴史のシーン、政治的なものの場面、社会的なものの場面の終わりでした。
場面とスペクタクルによる古き良き疎外状況は、いまや消滅し、主体相互の間の限りない透明化と、情報を前にした出来事の透明化、リアルタイムのコミュニケーションにおける交換の透明化、そして、市場経済の透明化、さらには、いたるところで生じている悪の透明化、そういったもののために、場所を譲ってしまったのです。疎外状況は、透明化のために、場所を譲ってしまったのです。われわれの文化の猥褻さは、あらゆる代償を払って、すべてを見せてしまおうという、この種の透明化の傾向に由来しています。
ところで、肥満、太っていることですね、肥満もまた、猥褻さのもうひとつの姿です。もっとも、ここでいう肥満とは、社会的なもの、政治的なもの、美的なもの、情報、そして、もちろん性的なもの、そういったものが、果てしなく歯止めなく増殖していく、ということを特徴としています。
肥満は、肉体の細胞が増殖し、からっぽで限界のない空間としての肉体が飽和状態に達した状態である。われわれの情報とコミュニケーションと生産と記憶の、あらゆるシステムが陥っている状態の徴候となるものです。それは、こうしたあらゆるシステムのメタファーであり、アルフレッド・ジャリの、フランスの19世紀末の作家ですが、イメージしたユビュ王的な膨張のイメージによって、横取りされているのです。
こうして、すべてが政治的なものになるとき、運命としての政治的なものは終わりを告げます。そして、文化としての政治的なものがはじまります。それは、ただちに、政治的な文化の貧困をもたらします。
文化にとっても同じことがいえます。すべてが文化的になってしまうと、政治的なものとしての文化がはじまります。それはただちに、文化的になった政治の貧困をもたらすのです。経済的なものと、性的なものについても、同じことがいえるでしょう。
つまり、あらゆる構造は、膨張を続けることで、他のあらゆる構造を吸収し、あるいは、そこに侵入し、同じ悪循環の環の中で踊るうちに、ついには、ひとつに混ざり合ってしまいます。われわれのあらゆるシステムの対をなす姿である肥満と猥褻さは、こうして、今日のわれわれにとって、悪の象徴的な姿となるのです。
こうした肥満、こうした猥褻さ、それは終末の彼方に繰り広げられる極端な現象にともなうものでもあります。肥満と猥褻さは、人々が成長、クロワッサンスから、過剰成長、エクス・クロワッサンス、これはがん細胞の腫瘍という意味もありますけども、運動の変化から、停滞、スターズと、恍惚、エクスターズ、そして、転移、メタスターズ、ここはスターズという言葉が3つ使われてるのを訳しますが、停滞と恍惚と転移へと移行したことを告げるものであります。それらは、過剰的肥大と増殖と連鎖反応、そして逸脱による終末の契約の共同署名者なんです。もちろん、それは欠如による終末ではありません。むしろ、反対です。
そこで起こるのは何かっていうと、社会的なもののエクスタシーの形態は大衆です。それは、社会的なもの以上に社会的な状況です。
肉体エクスタシーの形態は肥満です。それは、単に太っている以上に肥大した状態です。
情報のエクスタシーの状態は、状況、シチュエーションです。それは真実以上に真実の状態です。
時間のエクスタシーの形態は、瞬間とされたリアルタイムです。それは、現在以上に現在的な状態です。
そして、現実的なもののエクスタシーの状態は、ハイパーリアル、ハイパー現実です。それは、現実以上に現実的な状態です。
セックスのエクスタシーの形態は、ポルノです。それは、セックス以上にセックス的な状態です。
暴力のエクスタシーの形態は、テロルです。それは、暴力以上に暴力的な状態です。といったことがいえると思います。
このようなことがらのすべては、ある種の相乗作用と極限状態の移行によって、無条件の現実化と、全面的な肯定性の状態の表現となっています。そこからは、あらゆるありえない場所、ユートピア、あらゆる死者、あらゆる否定性が追放されてしまっているのです。したがって、それはまた、その他のあらゆる純粋化の形態と同じように、否定的なものは廃絶され、浄化されてしまった状態でもあります。
こうして、解放、リベラシオンによって、自由、リベルテはむしろ消去され、清算され、真実の検証のために、真実は消え去り、共同体、コミュニティーは、コミュニケーションよって清算され、吸収されました。形態、フォルムは、情報、インフォメーションと、パフォーマンスのために消滅しつつあります。
いたるところに過剰と現実をもたらすことによって、思想に終止符を打つのは、この逆説的な論理なのです。こんなわけで、出来事がいつでも、どこでも起こりうるかのような状況によって、歴史そのものが終わりを告げようとしています。

7 〈他者性〉の喪失

こうして、潜在的なものの、ヴァーチャリティーの時代とともに、われわれは、現実的なものと準拠となるものが廃絶される時代に入るというだけではありません。われわれはまた、他者性、他者が廃絶される時代に入るのです。そこでは、ある種の人種的な純粋化の操作が問題になっていますけども、それは、たとえば、現在、ボスニアで起こっている場合のように、少数者である異質な住民を対象とするだけでは、満足するわけではありません。そのような操作は、他者性の、あらゆる形態に襲いかかろうとしています。
死のラディカルな他者性の場合には、あらゆるセラピー的な形態によって、そしてまた、顔立ちという他者性の場合には、美容整形手術のあらゆる形態によって、他者性は封じ込められようとしています。そして、世界そのものという他者性の場合には、ヴァーチャル・リアリティのあらゆる形態によって、それはやがて封じ込められることになるでしょう。
あなた自身の他者性、われわれひとりひとりの他者性もまた、個人の細胞レベルでの同一化をもたらすクローンの操作によって、いつの日か廃絶されるでしょう。あるいは、ただ単に、他者という他者性、他者そのものという他者性にしても、絶え間ないコミュニケーションと相互作用と、コンピュータのインターフェイスによって、根絶やしにされようとしているのです。
ここで、ドイツ語が出てきています。ドイツ語には疎外、フランス語ではアリエナシオンですけど、それを指すのは2つの用語があります。VERFREMDUNGとENTFREMDUNGです。この2つの語の対比は興味深いものがあります。VERFREMDUNGというのは他者になるということ、自分と異質の存在になることを意味します。この言葉は、ブレヒトの用語では「異化」というふうに、日本では訳されているところですが、つまり、文字どおりのアリエナシオンをあらわしています。
ところが、ENTFREMDUNGは、これとは異なり、他者そのものになることではありません。それは、自分のアイデンティティを奪われて、他者になるというよりは、むしろ、内なる一切の異質性と他者性を剥ぎ取られることを意味します。内なる他者を剥奪されることは、致命的な変質の過程に対応しているのです。
といっても、それは、疎外という弁証法的な形態に対応していることではありません。そうした形態は弁証法的に止揚されることが可能ですが、そうではなくて、対立する極と、弁証法的対立自体の消滅による変質と不安定化という状況に対応しています。
われわれのもとに訪れているのは、大いなる他者とのエクリプス、蝕であります、消滅であります。それは、客体、オブジェなしの主体であり、他者なしの同一者であって、全面的な自己同一化の過程にほかなりません。これこそは、死の等価物であり、決定的な停滞と、スターズと、同一者の転移、メタスターズに等しいものであります。

8 人工的な〈他者〉の生産

われわれは自分たちの自らのアイデンティティーおいて、もはや他者に脅かされておりません。それどころか、全面的な自己同一化のシステムのなかで、他者の全面的な喪失に脅かされているといえます。
フランスの、シチュアシオニストという言葉を使いましたが、これは5、60年代の新左翼的な過激派のことだと思いますが、シチュアシオニストたちが問題にしたスペクタクル、見世物という表現は、批判的意識や否定的なものの働き、矛盾と非神話化の意思表示の余地をまだ残しています。つまり、かれらは疎外を口にしたわけですが、疎外を口にする者は、常に疎外からの救済の可能性を語ったのでした。
ところが、現在では、たとえば、ヴァーチャル・リアリティのなかには、自己の喪失も、自己の神話化の操作も、もはやありはしません。われわれは、あらゆる潜在的情報をわがものとしています。したがって、シチュアシオニストが言ったように、われわれはもはやスペクタクルの観客であるわけではないのです。われわれはむしろ潜在的パフォーマンスの行為者となって、その集団的展開にますます組み込まれているというわけです。
かつてわれわれは疎外とスペクタクル、見世物としての世界という非現実性に対して、批判性をもって立ち向かうことができました。ところが、いまでは、この世界の極端な現実性を前にして、あの留保なしの肯定性を前にしたとき、われわれは、あの潜在的な完了を前にして、何の抵抗もできはしません。ここでもまた、極端な状況を、状況が倍化されて、二乗化された、そういった状態への移行がなされてしまったわけです。われわれは、すべての疎外からの救済が可能な地点をもはや超えてしまったために、狂人、フランス語だとアリエネ、疎外された者になりますが、狂人以上に疎外された存在になってしまった。
このような状況、それは個人だけでなく、過剰に保護される、そして、自動的にプログラムされ、自動的に調整され、自己だけを準拠とするようになってしまったシステム、そういったシステムにとっても生じてくる事態です。つまり、自然という捕食者、プレデターですね、映画の題名ですが、プレデターから人類の社会だけが引き離されてしまったようなものなのです。
この種の敵対関係が奪われたとき、人類はただちに自己破壊を遂げるほかありません。文字どおりの横取り、デプレダシオンとでも呼ぶべき事態、それは捕食者の終わりを意味しています。
ところで、死は自然の偉大な捕食者であります。しかし、われわれはなんとかして、エネルギーを備蓄したり、クローン化を試みたり、情報と遺伝子の操作を試みたり、あらゆるテクノロジーを通じて、人類を死から引き離そうと試みています。その結果、人類は、死の横取りというカタストロフィー的な過程に入り込もうとしています。
否定的なもの、病気、死、運命、異質さ、暴力等々のあらゆる人種と言語の差異について、いうまでもありませんが、そういった形態において、他者を排除することを企ててきた結果、そして、全面的な肯定をはびこらせていくために、あらゆる特異性、異質性の排除を企ててしまった結果、われわれは、われわれ自身さえも取り除こうとしているというわけです。
それで、どんな状況にわれわれが置かれているかというと、もはや他者は存在しません。
他者の不在、それはコミュニケーションのことです。
敵の不在、それは取り引きのことです。
自然の捕食者、プレデターの不在、それはエコロジーによるコンセンサスのことです。
客体、対象の不在、それは主体しかない状況のことです。
死の不在、それは不死身のクローンを意味します。
否定性の不在、それは絶対的な肯定性のことです。
他者性の不在、それは差異への権利です。
そして、誘惑の不在、それは性、セックスの差異化と、性的無関心を意味します。
幻想の不在、それこそが現実であり、ハイパー現実であり、ヴァーチャル・リアリティです。
そして、秘密の不在、それは透明な状況を意味します。
そして最後、運命の不在、こうして完全犯罪が実行されたわけです。

9 他者を持たない主体

こうしたわれわれが置かれている状況は、他者を持たない主体、そして、客体、対象を持たない主体ということになります。こうしたパラダイムはいたるところで見つかります。もっともささやかな細部においても、生命感を排除するあらゆる過程において、それは生命が合成されて、シミュレーションされた結果でありますが、自らの否定的な部分を失ったすべてのものを、自分の影を失い、それゆえ自分にとってさえ透明になってしまったすべてのものにおいても、容易に見つけられます。たとえば、カロリーのない砂糖、ナトリウムのない塩、気の抜けた生活、原因がない結果、敵のいない戦争、明日のない今日、記憶のない時間などですが、とりわけ、客体を持たない主体、そして、奴隷を持たない主人のイメージがそうです。
つまり、奴隷のいない主人、あるいは、主人のいない奴隷はいったいどうなるのかっていえば、主人は自分自身の姿におびえ、奴隷は自分自身を搾取するようになるでしょう。自動的服従こそは、自発的隷属の決定的な形態なのです。それはまた、データと計算のシステムへの隷属でもあります。全面的な有効性と全面的なパフォーマンスの段階です。そのあとで、われわれは誰もが、すくなくとも潜在的には世界の主人になるでしょうが、そのとき、この主人の支配の対象と目的は、すでに消滅しているってことになります。
ここで終わらせていただきます。

(塚原さん)
ボードリヤールさんは、もうすこし言いたいこともおありのようなのですが、のちの対論の時間に戻ってくることにしますので、ここで、われわれはいったん、消えることにします。(会場拍手)

10 司会

それでは続いて、吉本隆明さんの講演に移りたいと思います。吉本隆明さんは、非常にたくさんの著書を出されていますし、日本が60年代からずっと、日本において、積極的に情況に対して発言されてこられました。この吉本隆明さんの講演が終わりましたら、対談にむけて、会場の設営もございますし、10分間の休憩を取らせていただきたいと思います。対談のほうは、9時半まで、時間の許す限り、続けたいと思います。1階下のほうで、講師の方々の著書を販売しております。それでは、吉本隆明さんにお願いしたいと思います。

11 消費資本主義社会とは

(吉本さん)
ぼくのテーマは「消費が問いかけるもの」っていうふうになっています。どういうことかっていいますと、ぼくは何年かの間、現在、自分がそのなかに、現在の全体っていうのを見ること、あるいは、分析し見ることができるかってことを、数年来の大きな関心のひとつである。
それと、もうひとつの関心は、これは、あんまり関係がないかもしれないんですけど、日本ということです。日本ということが、だいたいあんまりよくわからなくなってきたっていうことで、すこし、日本っていうものの根拠っていいますか、未知の部分っていうのを、いろいろな面から解いていきたいなっていうことが、ひとつのテーマであったわけです。
今日は、その日本の現在の社会がどうなっているか、それがどこへいくだろうか、あるいは、どういうふうになるだろうか、また、現在のそれにともなう、現在の課題っていうのはなんだろうかっていうことについて、時間内でお話したいと思います。
ぼくらは、消費資本主義っていう言葉で呼んでいるわけですけど、その消費資本主義というのは、産業とか、生産とかっていう面からみられた、資本主義のいちばん最高の段階といいましょうか、爛熟の段階といいましょうか、どちらの言い方でもいいんですけど、そういうものを指して、消費資本主義社会であるっていうふうに、ぼくらはそう呼んできました。
そして、その消費資本主義段階っていうのに、突入しているっていいますか、入り込んでしまっているところを申し上げますと、第一にアメリカであり、第二にECの先進国がそうであり、そして、第三に日本が、そういう消費資本主義とぼくらが呼んでいる段階に入ってしまったっていうふうに、ぼくらはそういう認識をもっています。
じゃあ、消費資本主義っていうのはどういうところで定義したらっていいますか、どういうところで考えたら、いちばんいいかっていうふうなことも考えたわけですけど、いちばん簡単な言い方をしますと、消費資本主義っていうのは、わかりやすいために、個人所得っていうのをとってきますと、個人所得のうちの半分以上が、半ば以上が消費に使われている社会、そういう社会に入ってしまった社会を、消費資本主義段階っていうふうに呼べばいいんじゃないかっていうふうに考えたわけです。
それで、もうひとつは、消費のうち、やっぱり半分以上が選んで使える消費、つまり、個人消費でいえば、個人がそれぞれ自分の自由でもって、選んで使える消費が、消費全体のなかの半分以上になってるっていうような社会を、そのふたつのことの条件を満たす社会を、消費資本主義社会っていうふうに呼ぶとすれば、そういう段階に現在、日本の社会なんかは入ってしまっていることがいえるわけです。
具体的にいいますと、たとえば、これ92年度ですけど、家計の総支出っていうのは33万円、それと、その80%~50%の範囲内で、日本の社会の場合には、92年度でそういうふうに選んで使える消費っていうのが半分以上を超えてしまっています。とくにいろんな雑費とか、交際費とか、そういうようなものをなかに入れますと、だいたい80%近くが選んで使える消費になっています。
これは、個人の自由によってそういうふうになっているのではなくて、どうしても所得の半分以上は、どうしても使わざるを得なくなっている、そういう社会っていう意味合いをもっているわけです。不可避的にそうせざるをえないということになっています。

12 潜在的な権力は大衆の手に

これは逆に申し上げますと、日本のような消費社会において、選んで使える消費っていうのをまるまる使わないと、仮にいたしますと、それをいっせいに使わないと考えますと、ひとつはようするに、100の所得のある人は、25以上が選んで使える消費になっていますから、それを仮に全部の人が使わないとすれば、だいたい日本国の経済規模っていうのは、多くて75%で、少なくて50%っていうふうに、単純計算ですぐに、それだけの規模に減ってしまいます。
よくよく考えればすぐわかるように、それだけの経済規模が縮小してしまった、そういう状態に耐える政府っていうのは存在しえない。これはようするに、保守的である、日本でいえば保守的である自民党から、それから進歩的である社会党、共産党までを含めて、どんな政党が政権をとったとしても、それはもし、国民がいっせいに選んで使える消費を使わないっていうふうに、いっせいに、たとえば、半期なり、1年なりしたとすれば、どんな政権ができても、それは潰れてしまいます。つまり、かならず潰れてしまいます。これは非常に重大な、ぼくは消費資本主義社会の重要な問題だっていうふうに思います。
そうすると、潰れてしまうってことは、どういうことを意味するかっていいますと、経済的な意味での政府のリコール権っていいますか、政府をかえる権利っていうのは、すでに潜在的にいいますと、選択的な消費の部分で、個人個人の、つまり、国民大衆っていいますか、個人個人の人の手に移ってしまっているっていうことを意味するわけです。ぼくは、それはとても重要なことだっていうふうに思っています。もうすでに、潜在的な権力は、すくなくとも経済に関する限りは、国民大衆の中に移ってしまっている。そういう社会が消費資本主義社会だっていうふうに呼ぶことができます。
どうして、潜在的にそういうふうに移ってしまっているのに、あんまり気に食わない政府が、まだいろいろやってるっていうのは、どうしてかっていいますと、その選んで使える消費を、それぞれの人はそれぞれで、無意識のうちに節約したり、おれは使わないぞって頑張ってみたり、税金は払わないぞって、税金がかかるようなものは買わないぞって頑張っているわけですけど、いっせいにしないからです。つまり、いっせいにしないから存続しているわけですけど、もし、選択的な消費の部分だけでも、いっせいに半年なら半年やったとすれば、どんな政府、共産党までにいたるどんな政府がやってきても、ぜんぶ潰れてしまいます。それは非常に明瞭なことです。これが消費資本主義段階に入った資本主義のいちばん怖いところっていえば怖いところです。つまり、いちばん重要なところです。
ところが、みなさんのほうで、いっせいにそれをやらないで、個々の家庭とか、個々の人によって、それぞれおれは使わないぞと思ったり、おれは使うぞと思ったりしてるってことが、いまのリコール権が成立しない理由で、唯一の理由であるわけです。そうしますと、こういう段階に入ってしまった社会っていうのは、もうだいたいこの社会の死っていうのは見えてしまったっていうことをぼくは意味すると思います。

13 リコール権を明文化する

それは重要なことで、これをほんとうに経済的な消費っていうところじゃなくて、ほんとうに明文化するにはどうすればいいかっていえば、たとえば、それは簡単なことで、憲法なら憲法の中に、国民が半数以上が賛成だったらば、直接無記名投票で、つまり、代議士の先生を介さないで、直接無記名投票で過半数を占めたら、政府をリコールすることができるという条項を、たとえば、憲法なら憲法の中にひとつ入れればいいわけです。そういう条項を設ければ、明文化されたリコール権っていうのが成立することになります。
もしも、現在まだ、現在の社会っていうものの見通せる死に至るまでの過程でもって、もし、現在やる政治的課題があるとすればそれだけです。憲法なら憲法の条項の中に、政治的なリコール権っていうのを、ある場合に、どう考えたって代議士の先生が選ぶ政府っていうのは、ぜんぶ気に食わないってなったときには、国民の過半数の賛同でもって、直接無記名投票で政府をリコールできるっていう明文化をつくれば、政治的に現在みられる限りの、死に至るまでのみられる限りの政治的課題は終わってしまうと、ぼくは考えているわけです。それ以外の政治的課題っていうのは、いろいろあったって、どうでもいいことはないんですけど、そんなに大きな問題じゃなくて、いちばん大きな問題はその問題です。それはもう非常に重要なことです。

14 レーニンができなかったこと

かつて、ロシアにレーニンっていうのがいて、政治革命をやりましたけど、それでもその条項だけは加えることができなかったわけです。レーニン自体は、個人的には、公務員の給料っていうのは、一般大衆の給料を上回ってはいけないっていうようなことを、個人的には考えたり、したりしたんですけど、それは実現しなかったわけです。
もし、政治的課題がこういう日本みたいな消費資本主義段階に入った社会で、政治的な課題があるとすれば、それが唯一の課題です。このことは非常に重要なので、みなさんがご記憶になっていた方がいいような気がします。しかし、潜在的にいうならば、すでに経済的なリコール権っていうのは、みなさんの手にっていいますか、国民大衆の手にあるんだっていうことは、非常にこれもまた明瞭に理解しておられた方がいいように思います。
ですから、その理解の仕方からいいますと、たとえば、いまの政府でも、どんな政府でもいいんですけど、政府が替わってもいいんですけど、それは自分たちの談合とか、党派性によって変わるんだっていうふうに考えているかもしれないけど、ほんとうはそうじゃないとぼくは思う、底の底までいってしまえば、つまり、日本における経済的なリコール権が、すでに国民の手に移ってしまっているってことの一種の反映として、死に至るダッチ・ロールっていいましょうか、ダッチ・ロールでいろいろな紆余曲折をやっているってお考えになったほうがよろしいと思います。それが、たぶん、非常に根底まで考えた場合の、現在の日本の政治的現状だっていうふうに思います。
政治的課題は、いま申し上げましたように、経済的にすでにもっている潜在的リコール権を、実際に明文化してしまうってことが重要だと思います。そうしたらば、誰でもそう思うのかもしれないけど、どの党派も思うのかもしれないのですけど、自分たちは人類最終の政権だなんていうふうに、主観的には思っている政党でも、リコール権があれば、リコール権があって、ダメなことをしたらば、つまり、国民大衆の利益に反するような、利益にかなわないようなことをしたら、リコールできるってことなんです。それがないと、頑張るやつは頑張ってしまいますから、いったん権力をとったら、なかなかやめる気なくて、流血の惨事をしないと、なかなか変わらないみたいになっちゃいますから、だから、このリコール権いっちょうあれば、そういうことはなしに、ゆるく、ないしは、急激に政府をリコールすることができます。
これは、非常に過激な発言のように思われるかもしれないけど、すでに潜在的には、経済的リコール権っていうのは、みなさんの手にあるっていうのが、消費資本主義段階における非常に重要な要素になってきます。それが唯一、残された政治的な課題になってきます。

15 憲法九条

それからもうひとつ、政治的課題があるとすれば、これは余計なやつが余計なことを言ってたってことになるわけで、現在も、たとえば、現在の村山政権っていう、社会党と自民党の連合政権っていうのが、自衛隊っていうのは合憲だっていうふうにしてしまったんです。公的な発言と公的な承認を行ってしまったことです。
これは、実質改憲ってことであって、つまり、憲法九条は、まだ守られておるというふうに、みなさんのなかではお思いになってる方がおられるかもしれないですけど、それは違います。解釈によって、すでに自衛隊っていうのは、憲法違反じゃない、合憲であるって言ってしまったんですから、自衛隊は、実質的には国軍として承認されているわけです。これを平和憲法だと思って、まだ、憲法を守れなんて言ってるのは、まったく認識違いだと、ぼくは思います。つまり、ぼくらが思っている日本における認識の違い方の、いちばん根底のところに入っていくと、そこになっていきます。
これは、ほんとうは、日本は憲法第九条っていうのは、不戦憲法って言われてて、これをせっかく持っていたのに、元に戻してしまったっていう、つまり、余計なことをしたっていうことになります。だから、これは余計な課題としてありますけど、本来的にいえば、こんなものはなくて済んだのに、この政治課題はなくて済んだのに、あらためてできちゃったってことを、おまけの課題ができちゃったってことを意味すると思います。
ですから、それは付随的な課題になりますけど、主な課題は、さきほど言いましたように、リコール権っていうのを明文化できれば、それでもって、政治的課題はすべて終わりっていうことが、すくなくとも、ぼくの考えでは、現在から見通せる社会の終末までは、明文化されたリコール権っていうのさえ実現すれば、そこまではいけるわけです。
あとは、いうまでもないですけど、死後の世界に入るってことになります。死後にでも世界っていうのはあるわけです。死後の世界に入るってことになります。しかし、死後の世界のことについて、あんまり言わないで、死のところまでいえば、そこまでのところで、消費資本主義段階の社会における政治課題は終わりだっていうふうになっていきます。

16 日本の社会の特徴

もうひとつ、現在のところ、日本の社会の特色みたいなのを申し上げますと、どうでもいいといえば、どうでもいいことなんですけど、だいたい主観的にいいまして、自分たちが中流であるという意識を持っている人たちが、だいたい日本では90%~91%くらい現在います。
そういうことと、それからもうひとつは、所得の分類を5つくらいに分けまして、低所得の人と高所得の人とを5つぐらいに分けまして、低所得の人と高所得の人との割り合いは、現在のところ日本では、4.1:1くらいです。つまり、低所得の人を1とすれば、最高所得の人は4.1くらいです。ですから、これは、それだけの格差があるってことになりますけど、しかし、別の言い方をしますと、これだけ格差が少ない社会っていうのは世界でない、日本が世界で一番、所得格差の低い社会だっていうことがいえます。
ですから、こういう長方形の箱を想定しまして、そして箱の中にだいたい9割方の大衆っていうのは、この中に入ってしまう、あとの9%くらいの部分が、所得平均以下っていうのと以上っていうのが9%くらいありますけど、だいたいその四角い箱の中にぜんぶ入ってしまう、そこは9割くらいの大きさをもっているっていうことになっているのが、日本の社会の特徴であるわけです。
これが、どうでもいいことですけど、日本の社会のイメージっていうのをつくる場合には、とてもわかりやすいイメージだっていうふうに思います。その2つのことが、日本の社会の特徴だっていうふうにいえるっていうふうに思います。

17 「死」に至る3つの条件

こういうふうな社会になってきて、あと何をどうすれば、これからあとどうなるかってことについて、日本の社会はどこにいくんだろうかってことについて、方向を申し上げるとすれば、そんなにたくさんのことはないわけです。
ひとつは、先ほど言いましたように、つまり、一般的にわれわれが現在の資本主義社会に生み出された、あらゆる思想があるわけですけど、つまり、反資本主義的な思想から、資本主義的な思想まで、ぜんぶ含めて、いろいろな思想があるんですけど、資本主義社会で生み出された思想の範囲内で申し上げますと、3つの条件があれば、まず、現在の社会の死に至るまでの過程っていうのは、十分であるっていうことになります。
その3つの過程っていうのは何かっていいますと、ひとつは先ほどから言いましたように、自衛隊は合憲みたいな、つまり、軍隊、軍事力ですけど、それを国家の軍隊として持たないっていうことです。
それから、もちろん、所得格差が、いまでも4:1ぐらいはありますから、それは所得格差がなくなった社会を想定すれば、それが理想というより仕方がないので、それが実現したらそれで終わりっていうことになります。
それから、もうひとつは、もし政府というようなものが成り立つとすれば、それは国民大衆に役立つことだけは、政府がやるけども、役立たないとか、それはかえって邪魔になるとか、統制にしか過ぎないとか、ある部分だけしか利益を得ないとか、そういうことについては、一切干渉しない。そういうことができれば、現在までのところまでで描ける理想の社会が実現するわけです。
だいたいにおいて、日本の社会っていうのは、そのふたつの条件において、いま申し上げました理想の社会、あるいは、理想の死っていいましょうか、そういうところまでいけるっていう条件をふたつまで、日本はもってたわけです。ひとつは憲法九条によってもってたし、ひとつは、消費資本主義の段階に入ったってことでもってたってことになります。
そのふたつの条件をもって、もうひとつ条件があれば、かなり急速に現在考えられる社会の極限のところにまで、駆け込むことができたというふうに、ぼくは思うわけですけど、ひとつ余計なことをしてくれたために、経済的にのみ、国民大衆が、抑圧とか、何かから解放される大部分の条件が、経済的にのみできあがっているっていう社会にちょっと逆戻りして、そういう社会になってしまったっていうのが、現在の状況だっていうふうに思います。

18 「死後」の社会をイメージする

それならば、理想の社会、すなわち、この社会の終わりっていう、また同時に、次の死後の社会に入るってことになりますけど、それならば、そういう社会っていうのは、この理想の社会が、いま申し上げました3つの条件をかなえるようになったらば、そのときは、たいへん見事に、天国が出現するだろうかっていうふうに考えると、それは、なかなか問題で、疑問なように思います。
つまり、経済的にのみとか、経済に従属する政治的にのみ、理想の社会を実現したり、あるいは、理想の死に近づいたってことで、それでもってぜんぶ終わるかっていうと、そんなことはなくて、死後の社会には天国があるかもしれませんし、浄土があるかもしれませんし、それはわからないことで、満足すべき社会であるかどうかわかりませんけど、満足すべき社会の最小条件だけは、それで実現されるってことになります。
それじゃあ、現在のところ、そういう理想の社会っていうのを、理想の社会における理想の条件っていうのを実現している個人っていうのはいるのだろうかって考えると、ぼくの考えでは、それはいると思います。すくなくとも、5人とか、10人とかっていうのは、日本にいるんじゃないかっていうふうに思います。
それを経済的な言葉でいいますと、自分が、たとえば、レストランに食事をしに行こうってことで、一家とか、友達を引き連れて、レストランに食事をしにいった。そこで、お金を使って、うまいものを食べた。そうすると、自分は消費したわけですけども、消費が即座に過剰の利益っていいましょうか、剰余の利益っていうのを、即座にもたらすっていう、そういうふうな状態になれば、すくなくとも経済的には、理想の状態だっていうふうに言うことができます。それは、いまでも日本には何人かの人は、10人なら10人、20人なら20人の人が、それは実現していると思います。
仮に、あらゆるレストランに自分が投資しているっていう、そういう資本家とか、そういう人がいるとすれば、その人はどこのレストランに食べに行ったって、食べることが、即、利益になってかえってくることになりますから、そういう人は、日本にもいるはずです。何人かはいるはずです。
それを確かめることは、非常に簡単なことであって、それはテープレコーダーを持って、そういう人らしい人を訪ねていって、「あなた、満足であるか」って、つまり、「経済的にはさぞかし満足であろう、しかし、満足であるか」って、いちいち尋ねてみればいいわけです。そうすれば、満足であるっていう答えが得られるかもしれませんし、いや、経済的には満足なんだけど、うちの息子はグレててとか、いろいろな心配事は絶えないっていうことであるかもしれません。しかし、経済的にいえば、そういうのは、確かめることができます。

19 消費がいまの社会を解く鍵

それから、そういう考え方をもつための基本的な問題、論理っていうのは何かっていいますと、消費っていうのは、生産の一種だって考える考え方だと思います。消費っていうのは、空間的にか、時間的にか、遅れた生産なんだっていう考え方をとりますと、消費のほうが所得の半分以上を占めちゃった社会における、つまり、消費優先社会における社会分析の仕方の基本的な問題になると思います。
つまり、消費っていうのは、空間的に遅れたとか、あるいは、空間的に遠くなったとか、時間的に遅れた生産と同じなんだっていうふうに考えることが基本的だっていうふうに思います。これも、簡単に申し上げますと、簡単に確かめることができます。
たとえば、ここにコップがありますけど、このコップをつくっているガラス工場、あるいは、ガラス会社っていうのがあるわけです。ぼくは、しばしば、自分の家で飼っている猫の場合に、そういうことをしたくて仕方がないなって感じたことがあるんですけど、このガラス会社でつくられたコップならコップに印を付けておけばいいと思います。印を付けて、何年何月に製造されたっていうふうに印を付けておきまして、それで、それが卸屋さんに出たり、小売店の店頭に出て、デパートに出たりしながら、消費者個人の手に渡るのは、何年何月だってことは確かめることができます。もし実証的にやろうと思うならば、すぐ確かめることができます。そうすると、コップの生産が、どこで消費に、どのくらいの遅れをとって消費に結びついたかっていうのが、コップに付いている印で実証的に知ることができます。
そうすると、コップだけじゃなくて、あらゆる生産物の製品について、それを確かめることができます。そして、ぼくの理解の仕方では、コップにおける事実の遅れ方、つまり、消費者の手に渡る、製造から渡るまでの期日の長さっていうものと、それから、ほかにも、マイクロフォンならマイクロフォンが製造されてから消費者の手に渡る時間とは、時間のずれがそれぞれ違うっていうふうにぼくは思います。ですから、それぞれに違いましょうけれど、しかし、コップならコップについて、生産されたコップはどのくらいの時間的遅れで消費者の手に渡るかとか、どのくらいの空間的な遠さで、消費者の手に渡るかっていうのは、実証することができます。
その場合に、ある時間的遅れが、非常に極度な時間的遅れになった場合には、たぶん消費者は、自分は消費することによって生産してるっていうふうに感じないでしょうし、また、生産者は、自分のコップをつくったことが消費につながるってことを、ある範囲以上の空間的な遠さや時間的な長さになったりすると、そういうことは考えられなくなるだろうというふうに、すぐに常識的にわかります。
それぞれのコップならコップの生産、マイクロフォンならマイクロフォンの生産と消費の関係について、それぞれある境界値があって、その境界値を超えたらば、生産が生産じゃないかとしか生産者に思われないし、消費は消費じゃないか、生産とは関係ないっていうふうにしか思われないっていう、その境界値が、それぞれの製品についてあるだろうってことは言えると思います。
このことが、ぼくはとても重要であって、消費資本主義の社会は、大部分の働いている人たちっていうのは、消費産業のところで働いています。つまり、日本でいいますと、70%とか、60%とかっていうのは、消費産業のところで働いておるわけです。けっして、製造業のところで働いているわけではありません。ですから、これが消費者の手に渡って、これが、消費、すなわち、生産なんだって考え方をとると、消費資本主義社会の社会構造っていうのを、きわめてはっきりとつかまえやすいっていうことがわかります。

20 好景気と不況を測るものさし

これらのことは、消費資本主義につきまとっているわけですけど、このつきまとい方っていうのは、とても重要なことで、ここから、さまざまな問題が派生してくるってことがいえるわけです。たとえば、日本の社会はいま、不況にあるっていうふうに言われています。それで、見通しが不況から上向いてきているっていうふうな見通しになっています。しかし、これは、消費する側から見れば、非常に簡単に測ることができるわけです。
つまり、コップを売っているコンビニエンスストアとか、スーパーとかの、コップっていうのは比喩ですけど、そういうところで売っているものっていうのは、現在のところ、消費の額が、スーパーとか、コンビニエンスストアでいえば売上高ですけど、売上高は増加しつつあります。増加しつつありますっていうのは、増加のパーセンテージが増加しつつあります。ですから、スーパーとか、コンビニエンスストアの段階では、ようするに、不況から離脱しているってことがいえるわけです。
ところで、同じあれでも、たとえば、百貨店の売上高は三十何か月の間、まだパーセンテージが減にあります。前年の同期に比べても、あるいは、前の期に比べても、パーセンテージは減にあります。ですから、百貨店での規模においては、個人消費は進んでいないってこと、つまり、不況の段階を離脱していなってことになります。
この測り方が、消費資本主義社会では、最も正確な、不況を離脱したかしないかに対する最も正確な測り方で、全面的に100%正確ではありませんけども、ほかの、たとえば、企業の経常利益だとか、設備投資が増えたとか、そういうことに比べれば、こういう測り方のほうが、はるかに正確に、不況であるか、不況でないかってことを測る決め手になります。それが消費資本主義社会の非常に大きな特徴です。
ですから、いまのところ、コンビニエンスストアとか、スーパーとか、そういう段階では、不況を離脱しつつありますけど、百貨店の段階でいきますと、すこし規模が大きいから、それから品種も違うわけですけど、そういうところでは、いまだ3年ごしに不況から離脱していないっていうのが現状で、これが現在の日本の社会の不況を測る、いちばん正確な測り方です。それで、その測り方をせざるをえないってことは、ようするに、消費資本主義段階に入った社会の特徴であるわけです。それは、そこで測る以外にないのです。
ところが、この測り方を、もし進めてしまいますと、そうすると誰にでもそれがわかっちゃうってことと、それから、資本主義社会ですから、企業体があって、そこが利潤を得たり、設備投資を増加したりして、はじめて、働いている人たちは所得を増やすことができるっていう概念が、まだ通用しているから、そこを主体にして、企業体を主体にして、不況を測ったりなんかしているわけです。
しかし、その考え方は、すでに企業体を主体とする考え方、つまり、資本主義社会は、高度の資本主義に入りまして、死の仕方っていうのは、そこに見えているし、経済的なリコール権っていうのは、大衆の手に移っているってことがありますから、その測り方は、すでに、ほんとうをいいますと、通用しないわけです。通用しないんですけど、通用しないっていうふうに言ってしまいますと、やっぱり、ぼくらみたいな素人が言っても、「何を素人が」っていうところで済ましてもらえますけど、専門家といわせてる人がこういうことを言うと、ちょっと大問題だぜとか、こういうことを言うやつは危ないから干してしまえとか、いろいろなことになるわけです。

21 親鸞の「死」の見方

でも、非常にはっきりしていることは、消費資本主義段階に入った社会っていうのは、資本主義の死の姿が見えているってことを意味します。その死の姿のあとに、何がくるかってことは、想像力、イマジネーションでしか言えないんですけど、しかし、死んだ後にどうなるかとか、死んだときの条件がこうだとかってことは、すでに、非常に明瞭に、ぼくはわかっているように思います。そこのわかっているところが重要なわけで、それを超えて、また死後の世界っていうのがあるわけです。
ところで、死について、ぼくらがいちばん影響を受けた、死についての考え方っていうのは、中世の日本の宗教家で、親鸞っていう人がいますけど、この人から、ぼくらは非常に大きな影響を受けたんです。死の考え方もそうです。この人は、死っていうのをどう考えたかっていうと、ちょうど、ぼくらが考えたいように考えたわけです。
つまり、死っていうのは、肉体が滅んで、あの世っていうのにいく、つまり、いいことをすると浄土へいくとか、天国へいくとかいう、そういう考え方はダメなのであって、死っていうのは何かっていうと、一種の、名付けようがないんですけど、死っていうのは、そこの場所に行きますと、そうすると、死後の、親鸞でいえば浄土なんですけど、天国なんですけど、そこの場所にいくと天国の様子がわかりますよっていう、様子も見えますし、また、すぐいけますよっていう、だけども、もうひとつは、そこからこちらへ、還相っていうふうに親鸞は言っていますけど、還相の、つまり、帰り道です。死の場所の、そこから、こっちへ引き返してきますと、こっちのことが非常に、立花さんの臨死体験でいいますと、臨死状態みたいに、自分もそのなかであっぷあっぷしてるんだけど、そのあっぷあっぷしている全体が、自分の目で見えるところっていうのが、その場所ですよっていうこと、それで、その場所から引き返してくることができます。そうすると、そういうふうに引き返してみますと、起こってくるできごととか、事件とか、そういうものは、ぜんぜん死のほうに向かっていくときと違う見え方をしますよっていうのが、親鸞の考え方です。
つまり、ふたつあります。ひとつは、死っていうのは、肉体の死っていうふうに考えなかったわけです。ただ、そこの場所にいけば、その場所からは、肉体が死んだ後にどうあるかって、宗教家ですから、天国、浄土へいくんだって言ってますけど、浄土がどうなっているかっていうのは見えますよってこと、それから、そこから引き返してきますと、そうすると、現在、現実の社会に、死の前に起こっているできごとっていうのは、こっちから見るのとは、死のほうから近づきつつ見るのとは、違うように見えますし、違うようにふるまいますよっていうふうなことが、親鸞の考えた死の定義なわけです。ぼくらはそれにいちばん影響を受けたわけです。

22 「死」の場所から見えるもの

ですから、この消費資本主義社会がもっと進んでいって、いま、ぼくはそういう比喩を使いますけど、いまは9割ですけど、9割9分の人は自分は中流だって、つまり、成すことやること、みんな悪いことはひとつもないっていう、中流だってふうに、9割9分の人はなったときには、それは死がくるわけです。
だけども、それはそこで終わりってわけじゃなくて、あとは、死後の世界になっていきます。それが天国であるか、地獄であるかっていうのは、死っていうところで何ができるか、振り返ったときに、つまり、還ってきたときに、どういうことが見えるかっていう、どういうことを見るか、どう判断するかってことと、それから、死っていうののあとには、何がくるはずなんだっていうことが明瞭にわかるってことが、死に対する備えであるわけです。
で、ぼくがいま申し上げましたとおり、日本の現在の社会では、本質的に言っちゃえば、先ほど言いましたように、政治的にただひとつの課題、軍事力は、少なくとも軍隊は、国軍っていう国家の軍隊は持たないってこと、それから、もうひとつ余計なことは、大衆に対して、大衆のいいようにするようにして、そして、統制するなってこと、それから、統制なんかしないで、ただ、これだけは、個々の人がやるよりも、集団が税金を使ってやったほうが、個々の人にとっていいよってことだけ関与しようっていう、その3つのことができれば、だいたい死に至ります。
それはダッチ・ロールしているんですけど、かならず、そういくだろうって、つまり、死のところまで確実にいくだろうっていうのが、ぼくなんかの見通しっていいますか、いまの考え方です。それから、死後の世界に行きますし、それから、もうひとつは、それはいつ頃くるんだってことになるわけです。これは、ぼくは占いと同じで、これは、ぼくの言うことは当たるんだとは、けっして言いませんから、座興で聞いてくださればいいんですけど、ぼくはそんなに遠くないっていうふうに思っています。つまり、10年、15年経った時には、つまり、21世紀の初頭っていいますか、そういうときには、たぶん、それは実現しているだろうなっていうふうに、ぼくは考えています。これは占いとおんなじで、当たるも八卦、当たらぬも八卦ってことで、ただ、死の姿のイメージがちゃんと見えていますよっていうことは、ぼくらが一生懸命考えてきたことのなかで、ほぼ確実に、ぼくはそう思っています。
ぼくらは何をしようとしているのか、何を考えようとしているのかっていうと、ようするに、立花隆さん流にいえば、臨死体験をはっきりさせようじゃないかっていうことを課題としているわけです。つまり、自分も死のほうに向かってあっぷあっぷしながら、しかし、上のほうから見ると、あっぷあっぷしている自分も含めて、全体が見えるっていう、その見え方の場所は、どこなんだっていうこと、その場所に立ったときに、どういう場所が問題になるかってこと、そのことを知りたいっていうのが、ぼくなんかが持っている現在の課題であるわけです。そのあとは、死後の世界をイマジネーションで思い浮かべてもいいわけですけど、ぼくらは、やっと死の姿が、見えるようになったところですから、あとは、臨死体験みたいなものになったときに、どういうものが見えるかって、あっぷあっぷしている自分も見えるわけですし、全体がどういうふうになっているか見えるかってことを、はっきりつかまえようじゃないかっていうことが、ぼくらの課題になっております。
ぼくらの年からいいますと、そこまで生きている可能性はあまりないですけど、しかし、見通しがそういうところで成り立ちますし、また、死の姿っていうのは、おおよそわかってるんじゃないかな、だから、何をしなきゃいけないかってことも、自分の課題としては、とてもよくわかっているっていうふうに、ただ、できるかどうか、むずかしいことはたくさんありますから、わかりませんけれども、それを見つけていくってことが、自分のさしあたっての課題だなってことが、ひとつ大きな持っている課題としてあるわけです。
そして、その主な問題っていうのは、今日、簡単に申し上げましたところでいいんじゃないかな、つまり、尽してるんじゃないかな、ただ、みなさんのほうで、それを信ずるかどうかとか、それはまた別なわけですし、そういうことは何も言えないんですけど、ただ、ぼくがその見通しと、死の見通しっていうのと、どういう条件になればいいのかっていうこと、そういうことと、具体的な、政治的な課題とか、社会的な課題が困難だってことについては、おおよそのところ、ぼくのイメージは成り立っているんじゃないかっていうふうに思って、それをまた、みなさんに言うことができたんじゃないかっていうふうに思っています。いちおうこれで終わらせていただきます。(会場拍手)

(司会)
 それでは、休憩に入らせていただきます。後半は塚原史先生の司会で始めたいと思います。

23 消費社会の〈死〉と「死後の世界」

(塚原さん)
お待たせいたしました。それでは、これからふたりの対話を始めたいと思います。みなさん、お手元にあります、進行表から見ますと、時間が少し早いんじゃないかと思われる方もいらっしゃると思いますが、じつは、ボードリヤールさんが会場のみなさんと、できればお話したいとおっしゃってまして、この吉本先生とボードリヤール先生の、おふたりの対論の、9時半に終わることが予定されているんですけど、その10分前か、15分前かわかりませんけども、そのころに、もしできましたら、会場のみなさんの質問をいくつかお受けしたいというふうに、ボードリヤールさんの提案がありましたので、お受けして、そのように進行させていただきます。
それでは、まず、おふたりの講演をわれわれが聞いたわけですけど、そこから3つのキーワードのようなものを、われわれは引き出すことができると思います。非常に単純なのですが、ひとつは、「世紀末」、あるいは、「終末」という問題であります。そして、もうひとつは、「消費社会」、そして、資本主義社会における大衆の経済的リコール権という問題であります。そして、第三は、われわれがいまここにいる場所、つまり、「日本」、東京なわけですけど、最近、神戸のカタストロフを経験した「日本」という場所、その問題があると思うのです。いま言った、その3つのキーワードを中心にして、お話を伺っていきたいと思います。
まず、わたしが、最初の質問だけしまして、おふたりにお話したいと思いますが、時間の制約と、それから、私自身の能力の限界がございますので、どの程度、みなさんにご満足いただけるかわかりませんけども、ご容赦いただきたいと思います。
それでは、まず終末という問題についてですが、ボードリヤールさんは、終末の幻想ということをおっしゃってまして、とりわけ世界の可能性がいまや汲み尽されてしまって、現実そのものが完了してしまったのだと、その問題について、吉本さんは、どのようにお感じになったかということを、まず、お伺いしたいと思います。

(吉本さん)
「現実の完了」というボードリヤールさんの言葉は、とても印象深いんですけど、お話を聞いてたり、アブストラクトみたいなのを読んで感じましたことは、ようするに、ボードリヤールさんは、死後の世界に立って、それで、死後の世界についてのイメージをたいへんリアルに述べておられるみたいに、ぼくはそういうふうに感じたんですけど、それをあれしますと、ぼくはうまくしゃべったかどうかは別として、瀕死状態にあって、死がそこに見えるよっていう、そういう瀕死状態のところで、いろんな話をしているっていうふうに、ぼくはそういう感情を持ったわけです。
現実の感情っていうことを、ぼくが自分の言葉でいえば、この消費社会がもっと進んでいった場合の、社会の死っていいましょうか、社会の終わり、終末でいいわけですけど、それをぼくは、ボードリヤールさんの「現実の完了」という言葉で、考えて対比して聞いておりました。だいたい、ぼくのほうはそういう感じなんですけど。

(ボードリヤールさん)
いまの吉本さんの質問に対してですが、わたしは確かに、現実の終了ということを言ったけれども、わたしが考えているのは、むしろ、われわれは死の権利さえ奪われているんじゃないかということをわたしは考えているということであります。
つまり、社会は最終段階に到達して、死に直面しているように見えるけれども、もはや、われわれにあるのは、潜在的な現実であって、そこでは、死ということさえも、許されないような状態でないか。
消費社会ということについて考えた場合に、消費というのは、本来、ひとつの経済的過程というか、社会的過程の終わりにあるはずのもので、ファイナル・ステージと考えることができます。
ところが、システムが発展した結果、そこの関係がすこし変わってきてしまって、むしろ、消費というのが社会の目的になってしまって、生産のほうが、むしろ終わってしまったような感じがするのがあるんじゃないか。それは、逆説パラドックスである。
つまり、生産と消費の関係が、こうして逆転したということは、言い方によっては、すでにわれわれは死の段階にたどり着いたということも言えると考えているところです。
つまり、生産側と消費側の関係が逆転したとなると、潜在的な可能性が実現されてしまった以上、社会は、ある種の、そこから抜け出れない循環過程のようになってしまって、だから、死のイメージをもう一回、補足して言うならば、それは終わりのない、そこから抜け出すことのできない消費社会の循環の中に、われわれが入り込んでしまったということではないだろうか、
したがって、そういう意味では、わたしは吉本さんの指摘、つまり、死のイメージっていうのに同感いたしますが、ここでわたしが考えているのは、先ほど吉本さんがおっしゃった、権力のリコール権の問題なんですけど、ひとたび消費活動を停止することによって、権力を不安定にすることができたとして、その結果として、いま言った、循環を抜け出せない過程を逆転させて、逆戻しにして、完了した現実を巻き戻すことができるのだろうかっていうことを考えていることだと思います。
いま言った関係性というものが、つまり、生産と消費の関係性というものがすこし変わってきたとした場合に、われわれに残されているいまの状態というのは、経済的なスタグノッセンといいますか、景気の後退であるとか、あるいは、スターズ、停滞といったふうなものではなくて、むしろ、生産と消費が、目的性、合目的性というものを失って、別の過程にメタスターズ、メタスターズというのは、たとえば、がん細胞や何かが転移するということですけども、何か目的が手前にあって、そのための生産、そのための消費であるというところから、何か別のところに転移してしまったんじゃないか。

(吉本さん)
いくつかあるんですけど、ひとつは、消費過剰の社会になったところでは、消費っていう言葉を、それ以前の資本主義の興隆期までの、生産っていう言葉と同じように、同じ概念で使っているっていうのが、むしろ、わかりやすいような気がするんですけどね。つまり、ほんとにイコールでよろしいですから、職場で生産してっていうようなことの代わりに、職場で消費してっていうことを、生産と同じ概念で、逆に使うってしたほうがわかりやすいんじゃないかっていうふうに思うことがひとつなんです。
それから、もうひとつは、やっぱり、消費即生産であって、目的性が失われるとおっしゃったことなんですけど、ぼくも最終的に目的性が失われるかどうかっていうイメージがないんですけど、さしあたっての目的性は、非常にはっきりしていて、すべての消費者が、消費すなわち剰余価値をうむ生産っていう場所に、すべての人がいくっていうのが、さしあたっての目的性になるんじゃないでしょうか。
ぼくは、そのあとは死後の世界だっていうふうに思うわけですけど、それまでは、目的性があって、すべての消費者が、消費したら、生産して利益を得るんだっていうおんなじところまでいけば、それが結局、最終の死までの目的ってことになって、ぼくは、そこでは合目的性っていうのは失われないだろうなって答えてよろしいでしょうか。(会場笑)

24 経済的リコール権の行使

(ボードリヤールさん)
ここでわたしが強調したいのは、消費というものは、消費社会の構造に関わることだと思うんですけど、使用価値の消費だったり、欲求の充足ではないと、現代における消費というのは、スペクタクル、見世物的な消費であって、それは記号の消費である、したがって、使用価値の消費であるとか、欲求の消費というものには限界があると、しかし、記号の消費には限界がないので、その意味では、消費というものは終わっていないということを、終わりという意味を、わたしはそういうふうに理解しているということです。
先ほどの吉本さんの、大衆の経済的リコール権に関してですけど、大衆が経済的な視点をもっていて、そしてそれが行使によって権力を揺るがすことができるという考えには、わたしは賛成であると、ただし、次の点においては、吉本さんと違います。むしろ、権力を揺るがすのは、消費を抑えることによってではなくて、むしろ、消費を極端にまで押し進める、メディアを通じて、消費というものを見世物的に極限まで押し進める。そっちのほうが、権力を動揺させることができるのではないか。ただし、個人的にはという条件付きで、個人的には、わたしも吉本さんと同じで、消費をゆるめる、遅くなることによって、主権を行使するという考えは理解できるけども、戦略的にはむしろ逆ではないかと、消費を狂乱的に起こすことによって、かえって社会は軌道を外れていくのではないだろうか。
ここでかなり吉本さんと対立するわけですけど、つまり、吉本さんは、大衆がリコール権を、潜在的に持っているものを意識化することによって、権力を動かせるとおっしゃいましたけど、それはむしろ、生産の段階の話ではないかと、つまり、生産中心的な社会においては、労働者が意識化することによって、社会の体制を揺るがすという可能性があったと、しかし、むしろ、いまの消費社会においては、大衆が彼らの経済的主権を意識化することではなくて、むしろ無意識な状態にいることのほうが有効なんじゃないか。

(塚原さん)
これは、吉本先生とちょうど逆なんですけど、もしよろしければ。

(吉本さん)
お話を聞いていて、すこしわかってきたんですけど、たぶん、ボードリヤールさんが消費っていうことを過剰に押し進めたほうがよろしいんじゃないかっていうふうに言われている場合の消費っていうのは、記号の消費っていうのを主体に考えておられるんじゃないかっていうふうに思うんです。
ぼくが、たとえば、選んで使える消費を使わなければすぐリコールされてしまうってことは、非常に経済的なことだけを意味しているもので、一切の、それにつきまとうイマジネーションとか、記号とかは考慮していないってことで、非常に純粋で、単純に経済的なことだけを言って、リコール権っていうのは、いっせいに選んで使える額を使わないっていうふうに経済的にしてしまえば、それで終わりっていうことになるんじゃないか。
それで、不況っていうのは、消費資本主義の社会では、現在みたいな日本の不況みたいな不況っていうのは何かっていいますと、ようするに、使わないってことが第一原因、つまり、大衆が経済的に使わないってことが第一原因で、これは、いくら企業体ないし政府が、企業体に対して公共投資するとか、がんばってとかいうふうにしても、個人が消費しない限りは、消費社会でも、絶対的に、不況から離脱しないってことは、ぼくは言えそうに思うんです。ただ、これは、ボードリヤールさんの考え方にある記号の消費を、一切、ぼくの場合には含めてないので、ぼくは、ボードリヤールさんの記号の消費っていう問題が大きな問題になるのは、やっぱり死んだ後の世界じゃないかなって思います。

(ボードリヤールさん)
吉本さんが、記号の消費と、いわゆる純粋な経済的消費を分けられましたけど、わたしとしては、記号と経済的な財というもの、つまり、純粋な財というものは存在しないのであって、それは、現在の社会の中で記号化されているので、記号的消費と、経済的消費とを切り離すことはできないだろう。
ただ、われわれ一般大衆がシステムに抵抗するという意思表示として、つまり、レジスタンスとして、吉本さんがおっしゃったようなリコール・ライトというのを政治的には理解できる。しかし、消費社会を見る目としては、大きな問題があるのではないか。つまり、消費というものは、過剰消費社会になっている現在においては、消費を減速させることによって、前の段階に戻るということは、もはやありえないので、その意味では、吉本さんの戦略にはおおいに疑問を持っているところです。

(塚原さん)
この点に関しては、おふたりに大きな違いがあるんですが、時間的にいいまして、これで、吉本先生、最後に、いまのことについてひとこと。

(吉本さん)
とてもよく違い方っていうのは、わかる気がしますし、もとをただせば、ぼくはイマジネーションが豊富でないのであるということと(会場笑)、豊富さっていうのが、死後の世界まで入っていっちゃう領域ができてくる。ここの問題じゃないかなって、ぼくは、あくまでも、社会の死っていうところから、引き返してきたいって言ったらおかしいでしょうか、むこうからこちらを見る視線といいましょうか、そこいらへんのところで、臨死体験とか、瀕死体験とか、そういう体験を経て、イマジネーションをつくりたいっていう考え方があるから、それは、とてもよくわかって、考え方のお考えの根本の姿勢っていうのは、とてもよくわかって、ぼくらが貧弱なイマジネーションで、引き返してくるときに見えるものっていうのを考えて、そういう考え方も貧弱であるし、また、非常に地面を這うみたいな感じを追えないんです。でも、とてもよく、こういうことが違ってきちゃうのかなって、とてもよくわかったと思います。

25 日本の特異性をめぐって

(塚原さん)
ふたりの違いがわかったということで(会場笑)、ボードリヤールさんにこれ以上付け加えることがあるかと聞いたら、「もういい」ということなので(会場笑)、それでですが、先ほど申し上げましたように、最後に、会場からできればというお話がありましたので、このへんで日本の問題に移りたいと思いますけど、吉本さんは、日本については、これまでもさまざま著述のなかで、独自の日本論を展開されていますが、ボードリヤールさんは、このあいだ出たばかりの訳書のなかで、日本の特異性といいますか、戦後の日本に触れておりまして、そのなかで、日本はヨーロッパの真似をしているんじゃなくて、日本にとって、起源というものは不在なんだと、だから、世界中のすべてのところにあるものを自分のところに持ってくることができると、そして、その日本的な記号に変えてしまうこともできる。それは日本のエネルギーだっていうふうにおっしゃっていたんですけども、そのことにちょっと触れてみたいと思います。

(ボードリヤールさん)
われわれ西洋人にとっては、起源と目的ということが、非常に重い拘束となっている。したがって、正統性を保証するものとして、すべてのものに、ヨーロッパ的な発想というものは、起源と目的というものを必要とされる。
ところが、日本っていうのは、そういった抵当の重さがないのではないかと、そういった起源とか、目的の重みに抵抗する枠のようなものが、抵抗の対象である枠のようなものがないのではないか、そのことが日本の、とりわけ経済的な自由さにつながっているのではないか。
ところが、じつは現在では、ヨーロッパにおいても、世界中に起源と目的のようなものは、もうなくなってしまっている。それなのに、ヨーロッパ世界は、そういった起源や目的にしがみついている。そのことは、非常にわれわれ西欧人の問題ではないかと思います。そういった西洋的な枠にしがみついている限り、生産には、経済の発展には限界があるのだけれど、そういった枠を持たないところには、限界もない。したがって、その意味では、日本はすでにある種の資本主義の、それこそむこう側にいってしまったのではないか。むこう側というのは、たとえば、アメリカにしても同じことが言えるかもしれない。
もうひとつ、日本の特徴としては、世界の中で、ここが日本の場所だっていうことを強調することがあまりないということです。つまり、脱縄張り化って言ってもいいと思います。脱領地化って言ってもいいと思うんですけど、逆にいうと、どこまででもいける、ヨーロッパの場合には、ここがヨーロッパの領分だっていうものを非常に強く意識しています。しかし、日本の場合には、世界のどこまでもいける、そういう自由さがあるんじゃないか。

(吉本さん)
いま言われたことを、ぼくも著書を書いているので、おおよそ、そういう感じを持っていたんですけど、これは、日本に対する褒め過ぎじゃないかと、ボードリヤールさんが、著書の中で、日本っていうのは猿まねじゃなくて、つまり、模倣じゃなくて、もてなしの文化だって言葉を使っておられるわけです。これは、内側からみますと、ほんとかねっていう感じがして(会場笑)、褒め過ぎではないかっていうふうに思います。
もうひとつの褒め過ぎは、やっぱり、起源とか、伝統とかっていうのを、べつに担保にしていないし、ウィルスにもしていないから、なんでも自在に入っていけるし、自在に展開することもできる、それが日本の利点じゃないかって言っておられると思うんですけど、それは、ぜんぶ、裏っかえすと、ぜんぶ日本っていうのはダメだぜっていうのとおんなじように受け取れるわけです(会場笑)。これは、内側から考えてみると、どうしてもそういうふうに素直に受け取れませんってことになると思います。
ぼくが日本っていうのを考えている考え方っていうのを申し上げますと、ボードリヤールさんが見ておられる日本っていうのと逆のことで、ぼくは、日本の起源が不明であるっていうことが、ものすごく気にかかってまして、日本の起源が不明でないって、どうすれば不明でないか、どうつついていけば不明でないかってことを、自分は課題にしてやっているように思います。
それは言葉っていう面とか、日本が伝統的な文化といっているものは、あれはすこしも日本じゃないよっていうふうに、不明のものから出発しているので、もうすこし起源のところまで、近づくことができると、そうするとちょっと日本というイメージが違ってくるんじゃないかっていうのが、ぼくらの考え方で、日本語っていうのもそうで、日本語っていうのはよくわからないけれども、古い日本語と新しい日本語のふたつからできていて、古い日本語っていうのは奈良朝以前の日本語で、それはあんまりよくわかっていなくて、これはつついていかないとよくわからないってことになると思います。
ぼくは、ボードリヤールさんがいま言われたことと交差するような言い方をいたしますと、一般的に外側から、とくにヨーロッパ、つまり、西欧とか、アメリカから見えている日本っていうのは、アジアの島国が幸運にも、近代化=西欧化の過程をたどりまして、100年なら100年経った成果がいま出ているところです。その成果が出ているってところが、日本の特色に思えるところと結び付くんだろうと思うんですけど、ぼくらが見ようとしている日本っていうのは、アジアでないんです、アフリカなんです。アフリカとアジアの混血なんです。
混血っていうところから、100年くらい西欧化っていうのが始まったっていう、そうすると、アジアが進歩して、近代化して、産業も発達してっていうふうにみえていると、ぼくらは、アフリカとアジアが混じっているものが、西欧を受け入れたっていうイメージと、ほんの少しですけど、イメージが狂ってきます、違ってきます。それで、その違った空隙っていいましょうか、その空隙が、だいたいぼくらの、もし日本人っていうやつに、創造性っていいますか、何か物事をつくる能力が、もし、あるとすれば、そのイメージの狂いのところでつくるエネルギーが出てくるんだっていうところを、ぼくらは、言葉の面とか、文化の面とかから追及していこうっていうふうに考えていて、究極的には、アフリカ的段階での日本っていうものをはっきりとつかまえていくっていう調査と、消費資本主義を超消費資本主義にもっていく、そういうこととが同じであるという方向が、ぼくらのイメージのなかに明瞭にないっていうことが、さしあたっての、ぼくらの日本っていうものに対する関心の持ちどころなんです。
それ以前の日本、つまり、アジアの一国が西洋を受け入れて、近代化して、西洋化=近代化っていうふうに近いところをウロウロしてきたっていうところのイメージだと、ぼくらの追っている日本っていうものに対する追及のしどころと、少しだけ違ってきます。ですから、その違ってくるところが、わずかに少しエネルギーになっていて、それは起源とか、規範とか、そういうものに煩わされないから、日本っていうのは何でも自由に受け入れられるんだというおっしゃり方で言っていることと、ぼくは違うエネルギーの元っていうのがあるって思っているわけで、ボードリヤールさんの言われているようなエネルギーだったら、もしそうだったら、日本人っていうのは猿まねだ、みんな猿まねじゃないかって言ってくれたほうがありがたい、非常にまっとうだ、ほんとうな気がします。そのほうが、内側からみると、当たっているような気が、ぼくはします。
ぼくらが内側から考えていることは、ぜんぜん違うことで、アフリカ的日本っていうのを発掘しようっていいましょうか、旧日本っていうのは何だったんだっていう、もちろん、人種的にも、言葉の上でも、それはなんだったんだってことを発掘しようっていうのが、ぼくらの主な関心になって、その近代日本のイメージと、ぼくらのいま持っている問題意識との違いっていいましょうか、そのギャップってところが、もしかすると、ほんとうの意味での日本のエネルギーなんじゃないかなっていうふうに、ぼくはそう思っているんです。はっきりあれしてしまえば、そういうことで、頭が悪くなくて、模倣好きで、猿とおんなじだよって言ってくれたほうが、ぼくは極端にいいますとそう思います。

(塚原さん)
ちょっと時間のほうで、講談のほうは切らせていただきます。ボードリヤールさんすみませんでした(会場笑)。

(ボードリヤールさん)
吉本さんは日本の文化の起源というふうにおっしゃったけども、起源っていうのは歴史をさかのぼることになりますが、歴史をさかのぼって、自分の歴史と文化を理想化するってことは危険なことではないか。
日本という国を、外側から見て、わたしは正しいかどうかは、自分で確かめたことがないですが、伝統という面から見た場合に、確かに日本というのは、伝統のいちばんの極限にある国だと、その意味では、未開社会、アフリカかどうかわかりませんが、そういったイメージに、もしかしたら近いものが、伝統の中にあるかもしれない、儀式とかそういうものに。
ところが、近代性という面から見た場合には、むしろ、ヨーロッパやアメリカのほうが未開社会に近いんだと、そして、日本というものは、そういった意味では、日本の近代性というものは、そういったプリミティブな要素がまったくないのではないか、そして、伝統において、非常に極端にはじっこにいるってこと、つまり、起源に近いところにいるっていうことと、それから、近代性において、むしろ、起源からいちばん遠いところにあるということ、そのふたつの対立した要素というものが、日本の特異性をもたらしているんじゃないかと思っているけど、これは、わたくしが自分で確認したわけではないです。

26 質疑応答1

(質問者)
ボードリヤール先生にお伺いします。わたくし、数か月前に関西のほうから、こちらに越してまいりまして、東京がわからなくてウロウロいたしまして、なかなか東京が見えないんですけど、東京が何もないというような気がしたんです。それで、今回の神戸の地震がございまして、結局、神戸にも何もなかったんだと、それは、おそらく記号しかなかったんだと、記号は地震があると全部壊れてしまうと、そして、関西で何が残るかといいますと、神社とか、もしくは、自然しか残らないじゃないかと、大きな樹とか、そういうものしか残らないじゃないかという気がしたんです。それが、もしかすると、日本の起源なのかもしれないんじゃないかと、そういうことについてどうでしょうか。

(ボードリヤールさん)
地震っていうのは、自然のカタストロフって思われますけど、じつは自然のカタストロフは存在しないです。つまり、地震というのは、存在において自然現象になるけれど、それがカタストロフになるのは、自然の段階においてではないのです。したがって、すべてのカタストロフは人間的なものである。
つまり、人間的な装置、人工物、記号、メディア、世界、そういったものが地震によって壊されるのであって、地震そのものは、けっしてカタストロフではないと言えるのではないか。したがって、あなたがおっしゃったのはそのとおりであるけど、カタストロフというふうに地震を捉えるとすれば、むしろ、それは、自然のカタストロフという概念そのものがちょっと受け入れられないです。
もうひとつ、地震に関していいますと、日本の地震というのは、災害という悲惨な面もあるけれど、ある意味では、あることを気づかせてくれる機会になったのではないか。それは、先ほどの起源の不在とかいうことがでましたけど、つまり、いまやすべてのシステムというものが、土台というものが、非常に脆弱になっています。これは、日本のことだけじゃなくて、世界中のシステムが、土台が脆弱になっていて、起源というものがなくなってしまっています。しかし、その上に、われわれは、そういったものがまだ存在していると思っている。
そのことを、たまたま地震をきっかけにした、さまざまな日本で政治的な動きもあったようですが、そういった人間的なできごとが生じて、われわれのシステムの不安定さというものを示してくれたと、その意味では、日本は、世界に誇るべき国なのではないか。

27 質疑応答2

(質問者)
「現実の完了」、そこでの美しさ、「美」というのは、どうなっているのでしょうか。「美」も透明化されていくのでしょうか。山から降りていくとき、星が消えていくように、われわれの前から、そして、われわれの心から消えてしまうんでしょうか。

(ボードリヤールさん)
「美」っていうのは、どういう意味の「美」ですか。

(質問者)
芸術も、もちろん含まれますし、もちろん、芸術だけじゃなくて、すべて、悪の華みたいな、そういうのもあります。

(ボードリヤールさん)
「美」という言葉が非常に抽象的なのですが、客観的な美、つまり、非人間的な美、自然の美であるとか、世界の美っていうもの、これは、わたしが述べた現実の完了とともに変わるわけではないと、ただ、わたしはそういうことは考えていない。
人間的な美というのは何かというと、それは一種の美的な判断ではないか。何が美であるかというような判断になりますと、それは現実が完了したと、あるヴァーチャル・リアリティの中にわれわれが入り込んでいくときには、やはり、判断というものが、ある限界を超えてしまいます。ある限界を超えると、カネッティをわたしが引いたように、判断が不能な地点にまで達します。つまり、何が正しくて、何が誤りなのか、何が善で、何が悪なのか、何が美で、何が醜いのか、そういったことの判断が不能になって、もはや、われわれが政治的なものを超えて、経済的なものを超えて、美的なものを超えたハイパーリアルなものに入っていくのであって、そこにおいては、「美」というものが、なにか特権的な価値として提示されることはないだろう。

(塚原さん)
吉本先生の質問が、時間が無くなって。

(吉本さん)
いやいや、ぜんぜん(会場笑)。

(塚原さん)
ということで、ちょうど予定の時間を少しばかり過ぎてしまいました。わたくしの不手際もありまして、ボードリヤールさんの意見を正しく説明できたか疑問なんですが、おふたりの、吉本さんとボードリヤールさんが一堂に会したことが、まさに世紀末の大事件でありますので、最後におふたりの講演者に大きな拍手をお願いしたいと思います。(会場拍手)



テキスト化協力:ぱんつさま