1 司会・挨拶(太田修)

 本日は、お暑いところ、ご多数お集まりいただきまして、まことにありがとうございます。ただいまより、近代文学館によります、夏の文学教室、第32回目を開催いたしたいと思います。今年は、戦後50年にあたるということで、これから6日間の本教室の総タイトルは、「戦後50年の文学」です。本日、第一日目は、文芸評論家の吉本隆明先生にお話しいただきます。題は「文学の戦後と現在-三島由紀夫、村上春樹、村上龍をめぐって」です。では、吉本先生、お願いいたします。なお、途中の休憩時間は、3時ごろから10分程度となります。では、よろしくお願いします。(会場拍手)

2 近代文学の精髄をわきまえた人

 今日は、戦後50年ってことで、文学全般のことを、三島由紀夫さんの作品、それから、それは一等初めってことになるんでしょうけど、もうひとつ、現在って意味合いで、村上春樹さんと村上龍さんの作品に触れながらお話するっていうテーマで、戦後派文学っていうのをやりますけど、戦後派文学っていうのは、厳密にいいますと、三島由紀夫さん、あるいは、それよりもひとつ前の年代の人たちからはじまった、文学の傾向といいますか、それを戦後派文学っていうふうに、あるいは、もっと広くいうときには、戦後文学と、それを言っている場合があります。
何が違うのかっていいますと、年代が違うってことも、もちろん一世代違うことはあるんですけど、戦争っていうものの処し方っていうのが違っているわけです。
戦後派文学、とくに第一次戦後派文学って言われている、野間宏さんとか、武田泰淳さんとか、埴谷雄高さんとか、すこし離れますけれど、大岡昇平さんとか、そういう人たちは、ぼくはおおざっぱに戦争をやり過ごしたといいますか、戦争のときには傍流であった人たち、あるいは、傍観的であった人たち、あるいは、もっと前までいきますと、戦争に入る直前までは、日本の左翼文学が、退潮していくっていう傾向を、自分でもって体現しているっていいましょうか、よく知っている、そういう人たちだっていうふうに、言うことができます。
そうしますと、戦後派文学、とくに第一次戦後派文学っていいますと、その根本的な基調といいますか、根本的な感覚性というものは、一種の解放感っていうことだと思います。戦争が終わって解放された、つまり、これからは、文学っていうのを、思う存分、自分たちがやっていけるっていう、そういう、いってみれば、解放感っていうことになると思います。
それに対して、それを主流として考えてもいいわけですし、どちらでもいいわけですけど、それに対して、三島由紀夫さんは、文学的な世界に登場したという意味合いでは、第一次戦後派文学と同じ、同時にといいましょうか、同時に、文学の世界に自己主張できるような作品でもって登場したっていうふうに言うことができます。
でも、いま言いましたように、一世代は違うわけです。三島さんっていう人は、天才的な人ですから、若いときからよく、作品がそれなりに完成していまして、ですから、戦後すぐに、第一次戦後派の人と一緒に、文学の世界に入って、作品で自己主張するっていうことができた人です。ただ、ようするに、解放感っていうのがあったかどうかっていうのは、それぞれでありますけど、第一次戦後派の人たちほどには、解放感は、三島さんの場合でも、なかったんだと思います。
これはもう人さまざまですけれども、ぼくらは、敗戦の当初、戦争終わった当初ですけど、ぼくらは、解放感っていうよりも、絶望感とか、ニヒリズムとかっていうのは、極端に激しくて、とても解放感どころじゃない、解放感にはとてもいけないよっていうのが、一等最初の感じ方だと思います。
三島さんは、ぼくが知っている限りでは、それほどではないんです。つまり、戦争中から、かなりよく、近代文学の精髄をよくわきまえていて、ぼくらみたいな無知蒙昧な輩の文学好きっていうのとは、まるで違って、非常に、ある意味でモダンな古典主義といいましょうか、モダンな古典主義って変な言い方ですけど、そういう言い方でいうのが、いちばんふさわしいような、モダンな戦争中の作品の形成をやって、そのまんま、戦後にモダンな古典主義みたいな言い方でいいますと、そういう作品を、戦後に持ちこしていって、もっとも、文壇上といいますか、文学の世界上は、処女作と言っていい作品である『仮面の告白』っていうのに到達するわけです。
しかし、ぼくらが、同時代で、よく見ていましたけど、もう戦争中の末期ですけど、戦争中に、『花ざかりの森』っていう、なかなかいい想定の小説集をひとつ、もう持っていまして、それから、あとは詩の作品を書いて、発表しておられたと、ぼくは記憶しています。あれは京都なんですけど、京都に臼井喜之介っていう人がやっている詩の雑誌がありまして、その雑誌なんかで見たような気がしているんですけど、つまり、詩も書き、『花ざかりの森』という古典に取材した作品も書いてるっていう、その作品の雰囲気っていうのは、ようするに、モダンな古典主義っていう感じを持った作品です。

3 ロマンチックでモダンな古典主義

-『花ざかりの森』『岬にての物語』

 『花ざかりの森』っていう作品の特徴として申し上げますと、構成上はべつにどうってことなくて、古典文学の中から、自由に、自分が感銘を受けたところを選んで、それを断片的に、現代的に移し直すみたいな作業をしながら、その断片をつなげていって一片にするっていうようなことで、取り立ててどうっていう、芥川の古典作品みたいに、激しいモチーフがあったりとかってことはないので、まことに典雅にっていいますか、古典物語の、自分の気に入った断片を自由にはめ込んで、それで、それをつなげることで、ひとつの作品をつくっているっていうふうに言うと、いちばん言いやすいんじゃないかっていうふうに思います。
そのなかで、これは、三島さんの資質もありますし、ぼくらの年代でいうと、そういう雰囲気だったんだよっていえば、そのとおりなんですけど、つまり、古典主義的といいましょうか、新しい古典主義的っていってもいいし、ロマン主義的っていってもいいと思いますけど、そういう作品の雰囲気っていうのをたずさえて、登場していったというふうに、ぼくらは記憶しています。
これは、戦後すぐだと思いますけど、『花ざかりの森』の延長線みたいなもので、『岬にての物語』っていう作品を、これは当時、戦後すぐに出ました「人間」か、「群像」か、「文芸」か、忘れましたけど、そこに掲載された作品です。その『岬にての物語』っていうのは、どういうのかと申しますと、作品の基調は、『花ざかりの森』と同じなんですけども、それは、現代に素材をとっているわけです。
子どもの頃のことで、いっしょに、いつでも世話をやいてくれる書生さんと散歩に行って、自分だけはぐれちゃって、岬のほうへ歩いていくと、一軒の家があって、その家は、作品では、名高い女流の歌人の住んでいる家だっていうふうに書いてありますから、白蓮かなにかのことが、モデルとして浮かんでいるんだと思います。木立とか、木の草の間を通って、そのところへ近づいていこうとするわけです。
そうすると、そこで、自分はまだ少年なんですけど、青春期の少女に出会うわけです。仲良くなって、いろいろ話をしたり、いっしょに、そこらへんをかけまわったりみたいなことで、遊んでいるわけですけど。そうすると、その少女の許婚者なんでしょうか、男の子があらわれてきて、それで、三人で遊んだりってことで、自分は、子ども心に、親切にちゃんと遊んでくれるってことで、喜んでついていってるわけですけども、その少女と男の子が、そういうふうには書かれていないんですけど、つまり、これは読者が推測するように暗示されているわけですけど、ようするに、結婚問題かなんかで行き詰まって、ふたりがその場所にきてて、それで、ほんとうは、そこで心中するっていいましょうか、死ぬつもりできてるっていう、その前に、少年の自分を、いっしょに仲良く遊んでくれたってことなんですけど、そのうちに、そのふたりがいなくなっちゃって、それで、自分は、草藪みたいなところをかき分けて、自分の宿のほうに歩いていると、途中で、青ざめて自分を探している書生さんに出会って、それで、うちへ帰るっていう、それだけの話です。
だけども、暗示的にいいますと、そのふたりは、そこで、主人公の少年に、それとなく別れを告げて、それで、そこの岬で飛び込んで死んじゃったんだっていうことを暗示している作品です。
そのとき、その主人公の少年は、人生には、なんとも言えないような感じのものを人に与えて、どうなったかわかんなくなっちゃうというような、そういうできごとっていうのはあるものだなってことを、少年は肝に銘じて感じるってことで作品は終わるわけです。非常にロマンチックな作品です。
それは、『花ざかりの森』を、もうすこし成熟させて、現代に素材を持ってきますと、『岬にての物語』になるってことになります。でも、素材は現代に持ってきていますけど、感じ方、考え方っていうのは、非常に古典的で、また、暗示の仕方も古典的であって、つまり、リアリズムで、青年と少女が死んじゃうってことを暗示するところは、ひとつもないわけです。
ただ、ロマンチックに、子どもと遊んでくれて、それから、子どもと別れて、「また明日ね」みたいなことを言って、それで死んじゃうっていう、そういう死んじゃうっていうことも書いてないんですけど、それでいなくなっちゃう、よく考えてみると、やっぱり死んだんだよなって、少年はそういうふうにおもうということを、暗示的に描いているわけです。

4 古典的な共同体意識

 これは、三島さんの資質でもあるし、ある意味では、まだ戦争中の古典主義的な雰囲気の名残りっていうのが、そこにあるというふうにもいえるわけですけど、『花ざかりの森』と『岬にての物語』と、そのふたつで、なにが三島さんの特徴として持ちだせるかっていいますと、いま言いましたように、非常に古典主義的な手法で、暗示的にしか、ひとつひとつの間に起こる、つまり、人間と人間のあいだに起こる関係とか、どろどろしたものを暗示的にしか描かないっていう、そういう描き方っていうのがあるわけです。
それから、もうひとつは、文体的にいいますと、これは、三島さんの作品の文体は、死ぬまでそうだっていえば、そうなんですけど、現実の意味のほうよりも、そういう言い方をしますと、文体の意味のほうが、いつでも、先へ、先へっていうふうにいってしまう、そうすると、現実的な意味っていうのが、それほど、物語として進展しないにもかかわらず、文体的には、非常に先のほうへ、先のほうへと進んでいきますから、どういうふうにそのギャップを埋めざるをえないかといいますと、非常に装飾的に埋めざるをえないっていうことになります。
ですから、事実の進行よりも、文体の進行、あるいは、文体の装飾性といいましょうか、あるいは、文体が、事実とのギャップをできるだけ狭めようっていうモチーフで、装飾性を、繰り返し、繰り返し、装飾性を、つまり、比喩です、あんまり、散文的には、いい比喩ではないと思いますけど、比喩をつかって、繰り返し、繰り返し、現実の進行する意味っていうものと、あんまりずれないようにってことで、いつでも、繰り替えし、繰り返し、文体を、同じように装飾しているっていうのが、非常に特徴だっていうふうに言うことができます。
こういう作品っていうのは、読むほうからしますと、ものすごく読みづらいわけで、いちばん読みやすいのは、事実よりも早く、文体のほうが先に、さっさと進んじゃうっていうような文体のほうが読みやすいですけど、三島さんの作品は、そういう意味で、非常に、言葉遣いそのものもそうですけど、事実としての、現実の進行の具合のほうが、はるかに先にいくものですから、とても読みづらい作品だっていうふうに言うことができます。
それから、もうひとつはやっぱり、三島さんは、物語のなかに自己移入するっていいましょうか、自己の感情移入するみたいなことが、とても少ない人ですから、たぶん、この少年っていうのは、自分の小さい時の体験が主体になっているんでしょうけども、あんまり、現実の進行具合のほうが、物語の進行具合よりも、はるかに遅く、しかも非常に客観的にっていうのでもないですけど、自分の外側で描いているものですから、たいへん、そういう意味では読みづらい作品だっていうふうに言えるものです。
それで、三島さんの、文学的な成長っていうのは、どういうふうにいくのかっていったら、いわば、まだるっこしいほど装飾的な文体を次第に剥ぎ取りまして、だんだん、現実の進行する早さ、現実で行われる物語性の進行する早さと、それから、文体の早さを、できるだけ、近づけていくっていう、そういうやりかたに、だんだんなっていくっていうのが、三島さんの文学作品の特徴だっていうふうに思います。
好きな人が読んだら、とてもありきたりの、よく言葉が練ってあって、単語も練ってあって、文体も練ってありますから、いったん好きだっていうふうに入ったら、たまらないほどの魅力があるわけですけど、そうでないと、なかなか読みづらい作品だってことになっていくんだとおもいます。
ぼくなんかは、同時代で、才能のある人だから、わりあいに関心をもって読みましたですけど、どちらかといえば、苦手です。文体は、苦手な文体だっていうふうに思ってきました。これは、苦手意識と、そうじゃなくて、いったん入り込んだら、これだけの論理性もあり、それから。感覚もいいし、それから、言葉の選び方も、たいへん精密ですから、こんなに見事な作品っていうのはないっていうふうになります。それで、しかし、そこに入れなかったら、これはちょっと苦手だなっていいましょうか、文体がたいへんだなっていうふうな、言い方になっていくと思います。
これは、それぞれの好みみたいなものですから、だからどうだっていうことは、何もないんですけど、そういうかたちで、三島さんは戦後を出発したと思います。ですから、ぼくらみたいな、戦争中のいかれぽんちで、戦後はがっくりしたっていう、もうやけくそだみたいなふうに考えて、しばらくの間、そういう過ごし方をした人間から比べると、三島さんは、非常にスムーズに、三島さんは、戦争中の『花ざかりの森』から非常にスムーズに、戦後の作品のなかに移行していったと思います。
それは、とても見事なんで、ぼくらの世代、年代で、そういうことをできた人っていうのは、三島さんしかいないわけです。もちろん、年齢からいえば、いわゆる第三の新人、吉行淳之介さんとか、島尾敏雄さんとか、そういう人たちは同年代ですから、そういう人たちは、大なり小なり、三島さんと同じように、戦争に、肉体はっていいましょうか、身体は、それこそ戦争に、徴兵検査をして、入隊して、兵隊にとられたっていいましょうか、そういう人たちなんですけれど、文学作品のなかには、すこしも戦争が出てこないっていう意味合いでは、島尾さんは別な意味で出てくるわけですけど、本来的には出てこない資質の人です。そういう意味合いでは、三島さんとたいへん似ているんですけれども、全般的に、ぼくらみたいのからみると、同じ世代とすれば、非常に特殊な人です。
それは、才能、感覚、その他、知識、教養、それが特殊に、たいへん立派な人だっていうふうな意味合いもありますし、それから、自分の持っている環境自体が、相当いい環境だったってことも含めまして、第三の新人も、三島さんも、実際問題として、戦争の真っ只中に入れられたわけですけど、文学作品のなかに、そういう戦争の影とか、戦争に迎合するとか、そういうようなところは、ほとんど何にもないっていうような、そういう作品でも、戦中と戦後をスムーズにつなぐことができると、これは、第三の新人も、大なり小なりそうだっていうふうに言えると思います。
ぼくらは、もっとうんと泥臭い環境と、泥臭いところにいましたから、戦後はがっくりして、どうしようもなく、生きた心地がしないっていう年数が、ある年数、続きましたけど、そういうことは一切体験しないで、三島さんは、戦後に、スムーズに文学作品をつなげていったと思います。
これは、三島さんは、第三の新人たちとおんなじ感性だっていうふうに言ってもいいんですけど、何が違うかっていいますと、三島さんは、文体も古典主義的って申し上げましたけど、三島さんには、古典的な共同体意識といいましょうか、伝統意識といいましょうか、そういうものが三島さんにはあるわけなんです。
だから、格別、戦争について、なにか書かないとか、書いたりってこともないし、そんなの主題にとりあげてどうってことはないにもかかわらず、一種の三島さんの作品のなかには、文体のなかには、個人的なことは描かれているですけど、描かれた物語なんですけど、なんか一種、文体上の共同体意識、あるいは、伝統意識みたいなのが、三島さんにはつきまとっているわけです。それが、三島さんの特徴でもあるわけです。
だから、ここをいきますと、第三の新人っていうのは、そうじゃなくて、戦争の影は何もないですけど、共同体意識っていうのは壊れていて、非常に日常生活的に、非常に個人個人だっていう意味合いの、個人性っていうのは保っているわけですけど、共同体意識みたいなものは、まったくないっていうのが、第三の新人の特徴だと思います。
そこが、三島さんと違うところで、たぶん、だんだん、第三の新人と三島さんとは、そりが合わなくなっちゃったっていうのは、たぶん、その共同体意識っていうのと、共同体なんて解体して壊れてるよ、個人個人だよっていうふうにふるまっている第三の新人との違いっていうのが、それが、だんだんだんだん拡大していくっていうことになっていったんだっていうふうに思います。

5 生い立ちの物語-『仮面の告白』

 いずれにせよ、この三島さんの傾向は、『仮面の告白』っていう作品で、いわば、完成に到達するわけです。つまり、完成するわけです。『仮面の告白』っていうのは、とてもいい作品です。三島さんの終わりまでの作品ぜんぶ並べても、指折りのいい作品だっていうふうに言うことができます。この『仮面の告白』で、三島さんは、一足飛びにっていいましょうか、飛躍的に戦後の作家としては、第一級品の作家だっていうふうに言うような、成果が確立したんだっていうふうに思いますし、それは、当然そのとおりだってことになると思います。これはやっぱり、武田泰淳の初期の作品、あるいは、野間宏の初期の作品と違う意味合いで匹敵するわけで、それは、とても優れた作品だっていうふうに言うことができます。
『仮面の告白』っていうのの特徴といいましょうか、特色っていうのを、どういうふうにもっていったらいいか、どこに求めたらいいかっていうことになると思います。『仮面の告白』っていうふうに書いてありますけど、これはたぶん、私小説的な意味合いで、あるいは、自伝的な意味合いで、かなりな程度、正確に、自分の、幼児から思春期までの体験っていうのを、かなり忠実に描いていて、そのなかに出てくる事実も、相当程度、ほんのすこしはフィクションが入ってるでしょうけど、相当程度、実際の感覚とか、実際の出来事とかっていうのが、その中に、はめ込まれていると思います。
そういう意味では、「仮面」って言っていますけど、「仮面」っていうのは、一種のイロニーといいますか、逆説であって、ほんとうの生い立ち物語ってことになるのかっていうふうに思います。そういうふうに理解したときに、疑問になることが、いくつかあります。
ひとつは、そのなかで、主人公に男色的な傾向があって、異性に対しては、そんなに感じないんだっていう、そういう描き方をしている箇所があります。それは、ほんとうにそうかどうかっていいますと、ぼくは、たいへん疑わしいところがあって、全部フィクションだ、つまり、全部つくりものだっていうふうに言いませんけども、かなりな程度、同性愛的傾向っていうのは、疑問符をつけたほうがいいんじゃないかなって感じもいたします。けれど、また、別な意味では、かなりな程度、真実をうがってるなっていうふうにも思えるわけです。
この作品は、作品として読まれたら、申し分ないいい作品なんですけど、ぼくらが、しいて、この中から、意味を見つけようとしますと、いま申し上げました、ほんとうに、三島さんには、同性愛的傾向っていうのが、ほんとうにあったのかなとか、ほんとうにあったっていう人も、そうじゃないっていう人もいますけど、だから、どこまで自伝的な真実が含まれているかっていう問題が、やっぱりひとつ、生涯にひっかかる大きな問題になります。
たとえば、三島さんが、市ヶ谷に乱入して、自殺するわけですけども、それは、極端な言い方をしますと、なんらイデオロギー的な意味なんか重要じゃなくて、ようするに、同性愛的ないし、マゾヒックな自分の傾向性っていうのを、ひとつそれでもって完成させるためにっていうことが、主たるモチーフで、市ヶ谷に乱入したんだっていう解釈をする人もいました。
それから、もちろん、そうじゃなくて、イデオロギー的な課題をひっさげて、乱入したんだっていう人がいます。これは両極端で、その人たちに分かれてしまいますけど、この問題は、当初から、つまり、『仮面の告白』から、最後まで尾を引いていくわけです。ですから、資質の劇が、『仮面の告白』からはじまったっていう意味合いでいいますと、これは、重要な作品だっていうことになると思います。

6 無意識の形成は胎児期にさかのぼる

 それから、ぼくらが考える、もうひとつ重要だと思われることがあるんです。それは、この『仮面の告白』の一等最初なんですけど、一等最初に、自分は生まれてすぐのときに、産湯を浸かった桶があって、その桶のふちのところに、日の光があたっているのを、自分は知っているってことを覚えているっていいましょうか、知っているってことからはじまっていくわけです。
そうすると、それは信じ込みだって、そんな一切、生まれたばかりで、そんなことわかるはずがないっていう理解の仕方が、もちろんあるわけですけど、家族の人、近親の人たちには、そういうふうに主張すると、自分は生まれたときに、産湯をつかう洗い桶のふちに、日の光があたるのを、自分はちゃんと見えたっていうふうに言うと、うちの人たちが、そんな馬鹿なことはないと、おまえが生まれたのは夜だから、そんなの見えるはずがないっていうふうに、いつでも反駁されちゃったと、しかし、自分は、そういうふうに反駁されても、ひるがえす気は、少しもなかったっていうふうに言っております。
ここからはじまるっていうことは、とても興味深いことのように、ぼくは思うんです。以前のぼくの解釈は、これは、なにかあとからくっつけた光景であって、一歳未満のときに、そんな生まれたばかりの産湯浸かっているときに、桶のふちに日があたってるのが見えたなんて、そういうふうに見えたりするはずがないよっていうふうに、以前は、ぼくは、あとから考えて、そういう風景を再現したんだっていうふうに、あるいは、思い込んだんだっていうふうに、そういう理解の仕方をとっておりましたけど、最近はそうでもなくて、そういうことっていうのは、ありうるよっていう感じ方を持つようになりました。
人間の感覚的な、視覚でも、聴覚でもいいんですけど、感覚的なものが、ある程度、胎内における後半には、だいたい形成されるっていうふうに、考えたほうがいいんじゃないかなっていうふうに思えるようになってきました。
だから、人間の無意識を形成する要素っていうのは、だいたい、フロイト流に言えば、生まれたときから、一歳未満の間、つまり、母親の授乳を受けなければ、生存していけないっていう、そういう時代ですけど、母親、または、母親代理の人から授乳されたり、その他の養育の世話をされていなければ、生きていけない時代っていうのは、一歳未満まであるわけですけど、フロイトの、人間の無意識の形成っていうのは、いちばん根本には、そこの問題のところで、非常に主要な要素が形成されるってことになっているわけですけど、ぼくらがいま考えるには、人間の無意識の形成っていうのは、もうすこし、さかのぼったほうがいいと、つまり、胎内の、感覚器官がきくようになったときまで、さかのぼったほうがいいっていう考え方を持っています。
つまり、無意識の層っていうのを、もうすこし若いときからっていいましょうか、体外へ出るより、もうすこし前まで、さかのぼったほうがいいと、そのときに形成される無意識の核っていうのは、非常に重要なんじゃないかって、ぼくらは、そういうふうに考えるようになりました。
なぜこんなことを、『仮面の告白』の出足のところから、こういうところから問題になるかっていいますと、たとえば、三島さんの最後の作品である『豊饒の海』の四部作っていうのが、「春の雪」からはじまってあるわけですけど、その四部作のなかで、物語を構成するコンポジションっていうものの節目、節目っていいましょうか、結び目っていうのは、どういうことになっているかっていうと、三島さんが、ほんとにそういうふうに思われていたかどうかはべつとして、三島さんの理念のなかで、そう思われていた、輪廻転生といいましょうか、つまり、人間には生まれる前のこと、前世っていうのもありますし、それから、生まれてからあとに、死後っていうのもあるという、つまり、輪廻転生っていう概念が、三島さんの最後の長編物語のコンポジション、つまり、構成の要になっている考え方です。
この考え方っていうのは、この『仮面の告白』の生まれたときに、たらいのふちが見えたっていう、その見えたって三島さんが思い込んで主張していることと、たいへん見合うわけです。もうすこし、生まれて外界へ出てくるよりも、すこし以前まで、人間の無意識の形成っていうのは、さかのぼったほうがいいっていうふうに、ぼくらは、そういうふうに考えるようになりましたから、一歳未満のとき、そういう光景を覚えてるみたいなことは、ありうるよなっていうふうに、ぼくは思うようになっております。

7 「輪廻」のようなことばかり考えてきた東洋の世界

 ところで、この問題は、宗教家に言わせると、つまり、輪廻転生みたいなものを信じている宗教家に言わせると、どういうことになるかっていいますと、宗教家っていうのは、輪廻転生を信じている宗教家ですから、古典主義的な宗教家ですけど、宗教家はどういうふうに考えるかっていうと、生まれる前の胎内にいたときの、胎児が、感覚がいろいろできあがるときがありますけど、それを、もっともっとさかのぼっていきますと、宗教的修練によってさかのぼっていきますと、母親と父親が性行為をしたあげく、父親の精子と、それから、母親の卵子とが、結合するところのイメージまでさかのぼれっていうふうに、古典的な宗教家は、そういう主張をします。
そこまでさかのぼって、それよりも、もっとさかのぼれるってなって考えたらどうなるかっていうと、それは、前世にいきます。前世っていうことになります。つまり、赤の他人の胎内から出て、赤の他人として、生きてた時ってことになっちゃいます。受胎するってときより以前まで、もし、イメージとしてさかのぼれるならば、それは、前世っていうことになりますし、また、死よりもっと後まで、イメージとして展開できるっていうふうに考える、古典的な宗教家にとっては、やっぱり、死の後の世界もあるってことになってしまいます。
仏教っていうのは、いずれにせよ、そこまで極端に考えなくても、いずれにせよ、生の世界と同じように、死の世界もある。で、生の世界が無常であると、無常な世界で苦に満ちているとすれば、死の世界もそうであると、死後の世界が、非常に浄福な、つまり、浄土の世界であるとすれば、現世もそうだ。だから、いずれにしろ、現世の現実の世界も、それから、死後の世界も、あるといってもいいし、ないといってもいいんだ、つまり、人間っていうのは、存在していると言ってもいいし、ほんとに存在していなくて、仮の姿で存在しているだけで、それは、輪廻転生しているだけだっていうふうに言ってもいいという考え方が、仏教の根本的な考え方っていうふうになると思います。
その考え方からいくと、現世も無常だし、来世も無常だっていうことになりますし、現世が仮の世界だったら、来世も仮の世界だっていうふうに、えらい坊さんたちは、代々そういうことを、なんらかのかたちで言ってきていると思いますし、また、そういうことが言えるようになったときに、お坊さんとしての修行が終わるから、たとえば、最澄なら、伝教大師っていうおくり名をもらってますし、空海だったら弘法大師っていう大師号っていうのを持っているわけです。
つまり、大師号みたいのを持っている、そういう宗教家、仏教家っていうのは、たいてい、生まれる前の世界まで、イメージでいけるぞ、それから、死後の世界も、イメージでいけるぞっていうことのところまでくらいは、だいたい修行した人だと思います。
仏教っていうのは、そういうことばかりしていたわけで、何千年もかかって、どこに精神を集中すれば、そういうあれができるかっていう修行ばっかりしてきたんで、馬鹿らしいと言えば、東洋の世界は馬鹿らしいので、文明なんかつくんなくで、乞食みたいな恰好をして、貧富の差は甚だしいっていう、そういう、すこしは社会改革でもしたらいいじゃないのっていう、それをちっともしないで座禅を組んだりして、精神を集中すると、あの世の世界へいけるぞみたいな、そういうことばっかりやってたわけで、だから、アホだって言えばアホで、西洋の世界っていうのは、文明を、ちゃんと、その間、何千年もかかって築いてきて、現在に至っているわけですけど、東洋の世界っていうのは、それを模倣すれば、そのとおりになっていますけど、そうじゃなくて、ほんとにやったことは、そういうことしかやってないんです、やらないんですよ。だから、馬鹿馬鹿しいっていえば、馬鹿馬鹿しいので、仏教っていうのは、馬鹿馬鹿しいっていえば、馬鹿馬鹿しいけど、別な意味でいうと、よくもそれだけ、よくも何千年もかかって、そういうことをやって、こうやればできるっていうマニュアルをつくれたもんだって、感心すれば、感心するってことになります。
しかし、そうじゃないっていう、文明主観からいえば、非常に、個々の人間の生き方、それから、飢えないやりかたとか、すこしはゆとりをもって、遊んだりなんかできるっていうような、そういう社会を築く代わりに、そんなことばっかりしてたっていうことは、馬鹿馬鹿しいっていえば、馬鹿馬鹿しいし、それだけのあれがあるから、大変だっていえば、大変だよなっていうことにもなるように思います。
それは、人の考えはさまざまだと思います。だから、いまだって、比叡山で千日回峰みたいなことをやるでしょ、一日に何十里歩いてとか、何十キロか知らないですけど歩いて、それを千日やって修行して、体もなにもへとへとになって、座って眠りたくてしょうがないんだけど、座れなくて、座るのを禁じられて、立ったままいると、イメージのなかに、仏さまのイメージがやってきて、そうすると、千日回峰の修行は終わりっていうことになるわけです。
つまり、それだって体を痛めつけて、意識が朦朧とするところまで、痛めつけてやって、そしたら、そういう幻覚が浮かんだっていうんだから、それは、馬鹿馬鹿しいっていえば、馬鹿馬鹿しいけど、それをやった人、千日回峰の修行をした人は、京都の町のなかにいくと、みんな、信者さんが、道に控えて座ってまして、体にさわったら御利益があるみたいで、さわったりっていうことを、そこはでているけど、それじゃあ、へとへとになってくたびれて何するの、それからどうしたのっていうところは、テレビなんか映さないです。そういうものだと思います。でも、概していえば、仏教の修行っていうのは、そういう修行です。

8 浄土の規模の善と悪

 わき道にそれて申し訳ありません。だけど、そういう修行っていうのは、これはダメなんだって言ったのは、日本では、浄土系統のお坊さん、つまり、法然とか、親鸞っていうのは、これはダメなんだ、こういうのは確かにむずかしい修行だけども、このむずかしい修行をやったからっていって、いったいどうなの、何なのそれはっていうふうに言ったら、何もないじゃないのっていうことになって、それで、法然をはじめ、親鸞もそうですけど、言葉で、念仏を唱えれば、浄土へいけるっていうふうに、そういう教義をつくったわけです。
で、浄土系統の浄土宗っていうのを、そのときあみ出した、鎌倉時代にあみ出したわけです。もちろん、旧仏教からいったら、とてつもないことを言うやつだっていうふうになったわけです。だけど、法然・親鸞系統からいえば、幻覚をつくるっていうことに、どんな意味があるのっていうことに、まず懐疑を生じた、疑いを生じたっていうことだと思います。そして、そういう教義に直したと思います。
法然よりも、親鸞に至っては、なおさら、もっと徹底的であって、その手のお坊さんがやる修行、生きながら自分を仏に近づけようっていうのは、つまり、涅槃に近づけようみたいな、そういう修行っていうのは、やったら浄土へいけませんよっていうふうに、親鸞なんかは、そう言い切っています。念仏を言葉で唱えれば、浄土へいけると、しかし、なんか、お坊さん的な修練なんかやろうなんて心がけたら、それは、浄土へいけませんよっていうことを、親鸞は、そこまで徹底的に言っちゃったわけです。
どうしてかっていうと、親鸞の意図は何なのかっていうことになります。結局、親鸞の意図は、そういう修練によって、来世の姿が見えるとか、イメージが浮かぶとか、そういうのをやめにして、信仰の問題と、信仰の修行の問題っていうのを、倫理の問題に置きなおそうじゃないかって考えたことが言えると思います。
つまり、人間の社会で行われている善悪の規模じゃなくて、もっとそれよりも大きな規模、つまり、浄土の規模っていうのは、もっと大きい規模の善悪なんだ。だから、それに比べれば、現実社会での人々の間に通用している善悪っていうのは、たいしたことないんだ、善にしろ、悪にしろ、大した問題じゃないんだ。浄土の善悪っていうのは、もっと広く規模が大きいんだと、これは、この規模の大きい善悪っていうのは、善悪の問題、修行の問題っていうのは、直ちゃおうじゃないかっていうのが、眼目だと思います。
それで、言葉だけで、念仏を唱えれば、親鸞なんかは極端に近いので、こんなものは、一生に一回唱えれば、浄土へかならずいけますよっていうふうに言ったに等しいのです。
だけど、人間がいつ死ぬか、いつ病気になるかっていうのは、全然わからないと、だから、いつ念仏を唱えられなくなるかわからないし、そういうことを考えると、やっぱり一度だけじゃなくて、生きている限りは、念仏をするっていうのは、悪いことじゃないですよっていうふうには言っていますけど、本来的にいえば、そこまでいっちゃった。
つまり、仏教っていうのの、本来的な、僧侶、坊さんがやっているような、仏教の修行っていうのは、みんなそこで、法然・親鸞系統は壊してしまったわけです。解体してしまったわけです。そこで、普遍的な一種の倫理っていう問題に、信仰の問題っていうのは直そうじゃないかって、そうしたらば、どういう普遍的なあれができるかっていうと、ふたつあります。
ひとつは、ようするに、人間社会の善悪の規模よりも、はるかに大きい規模の善悪っていうのをつくりだして、それに自分を任せれば、大きな規模の善悪のなかに、自分は包まれることになるっていう言い方がひとつ、それから、いわゆる、浄土っていう考え方を死後の世界っていうふうに考えるのをやめようじゃないかっていうふうに、親鸞なんかは、まことにそうであって、親鸞なんかが云う、念仏を一回でも唱えれば、往生できる、浄土へいけるっていった場合の、浄土っていうのは、ちょうど、現実でいえば、生と死の間のところにある、間のところに想定される、ひとつの場所なんです。
それで、そこの場所にいけたら、浄土へもいけるし、また引き返して、現世の社会のなかに引き返していくこともできるっていう、それで、現世のできごとっていうのは、後ろのほうからっていいますか、むこうのほうから見ることができるっていう、そういう視点を獲得することができるっていうことを、親鸞は言っていると思います。
三島さんの輪廻転生っていうことの概念は、大洋の島のほうから、インドの沿海地方にかけて、それから、北アジアの沿海地方にかけて、もうひとつは島にかけて、インドの仏教が出てくる以前までは、輪廻転生っていうのは通用してた、一般的に流布されていた、未開、あるいは、原始時代に流布されていた信仰であるわけです。
海の近所だったら、沖にある島に、死んだ人の霊魂は、そこに集まっていて、それで、島の住民の女の人が、水浴びかなんかをして、海へ入ると、そこに、島にいた霊が、水に浮かんで、女の人の体内に入ると、そうすると、女の人は、妊娠するんだっていうふうに、オセアニアの島には、原始時代には、そういうふうに考えていたわけです。
島の場合にはそうだし、山国だったら、村の外れの、かっこうのいい、かたちのいい山のところに、霊はあつまっていて、それで、その霊はかえってきて、また生まれ変わりになるんだっていうふうな考え方があったわけです。
それを、インドの仏教っていうのは、いちどそれを断ち切ろうとしたわけです。だから、そんな苦しい世界に何度もかえってくることはないから、一度だけでも、浄土へいけるんだっていうために、仏教っていうのは、あみ出されたわけですけど、しかし、ベースになっているのは、輪廻転生のそういう考え方で、三島さんの、生まれたときに、すぐに、たらいのふちに光があたっているのが見えたっていう言い方で言っているものっていうのは、ほんとに見えたかどうかはわからないですけど、胎内で、ある感覚が発達していた段階にくると、胎内でそれが見えることもありますし、耳が聞こえて、母親の鼓動が聞こえるっていうような段階もありうるわけですし、少なくとも、そこいらへんまでは、さかのぼれると、しかし、宗教家は、もっとさかのぼれると言います。
受精、あるいは、受胎のところまで、さかのぼれると、それを、もっとさかのぼれることができると言っております。それは、そうすると、前世の世界にいけるんだっていうふうに、宗教家は言います。
しかし、前世の世界にいけるかどうかまでは、なんら科学的にっていいましょうか、信仰じゃない意味合いでいくことはできないですけど、いうことはできないですけど、少なくとも、胎内のある時期から以降に、一歳未満までの間に、人間の持っている無意識っていうものの核は形成されるっていうふうに、体外へ出た後っていうのじゃなくて、すこし、胎内における感覚が発達したところまでは、だいたいさかのぼれるんじゃないかっていうふうなことは、ぼくには言えそうな気がいたします。
ほんとは、もっと言えなくちゃいけないのかもしれないですけど、いまのところ、それ以上のことは言えないような気が、ぼくはしますけど、宗教家は、平気でそういうことを言うわけです。これは、迷妄だっていう人も、思える人もいるわけですし、ほんとうだというふうに思える人もいるわけですけど、ぼくは別様の解釈が可能であるっていうふうに考えています。三島さんは、そういうことをはっきり、『仮面の告白』で出しているわけです。

9 幼児体験と同性愛的傾向

 それで、これは、三島さんの『椅子』っていう短編がありますけど、『椅子』っていう短編と照らし合わせてみますと、すぐにわかりますけど、三島さんは、生まれてからすぐに、だいたい1週間か2週間くらいのあいだに、もう母親から引き離されてしまうわけです。母親、父親から引き離されて、おばあさんといっしょの部屋に寝起きするっていうふうになります。
そのときに、おばあさんは、『椅子』っていうのを読むと書いてありますけど、脳神経症みたいなものにかかっていて、ちょっとでも音が聞こえたりなんかすると、耐えられないほどの頭痛になってしまってっていうような、そういうやや病的なんですけど、しかし、三島さんに対するかわいがり方っていうのもまた、病的というのか、すぐに母親から離して、自分の寝ている部屋に入れて、そのまま育てて、なかなか戻してくれないと、父親と母親が、おばあさんと近所に別居したりして、違う家にいると、三島さんは、やっぱりそこへ、おばあさんのところに通ってとか、おばあさんのところから、時々帰ってくるとかいうようなやりかたでしか、母親と父親に会えないっていう生活をするわけです。
それで、10歳をちょっと過ぎた思春期の入り口に入った頃やっと、わりあいに、自分なりに判断がきくようになって、おばあさんは、こういうふうにやれば、なだめられるし、母親は、こういうふうにやれば嘆かないで済むっていうことを、自分でだんだんわかるようになるみたいなことが、『椅子』っていう作品を読みますと、書いてあります。
書いてあるんですけど、ようするに、母親は、おばあさんが、自分の部屋に、子どもっていいますか、幼児の三島由紀夫を、そばに置いて、かわいがって、それで、外に出して遊ばせるってこともしないで、すこし大きくなってから、近所の女の子っていいますか、女性だけを友達として呼んで、女の子の遊びみたいなことだけはさせるんだけど、男の子と外へ行って、わんぱくをやってっていうような遊び方っていうのは、ぜんぜん禁じられていたっていう、そういう育てられ方をするっていうことが、『椅子』に書いてありますし、それから、『仮面の告白』のはじめのころは、終始それが書いてあるっていうふうにいえます。
それはとても、三島さんの資質の問題になるわけですけど、ぼくは、そういうやられかたをしたら、三島さんが同性愛的な傾向を生じたっていうことは、ありうることじゃないかっていうふうに思います。
つまり、ふたつの意味があって、そんなに早く、母親から切り離されちゃうってことは、ものすごく大変な負担であって、後々成長したのち、ものすごい負担であって、それを負担じゃないような顔をするのは、ちょっと大変だったんじゃないかなっていうふうに、ぼくには思われます。
それから、もうひとつは、やっぱり、そういう育てられ方っていうのをやりますと、生きているのが億劫になっちゃうってことがあると思います。つまり、億劫になっちゃうっていうのは、おかしな言い方ですけど、なかなか生きていくっていう目途が立たないってことがあって、それはやっぱり、たえず無意識のほうが、それを、目途を、自分のほうにひっぱりますから、なかなか生きていくのが大変であって、まして、ふつうの人のような顔をして生きていくっていうのは、たいへんだってことになりそうに思います。
つまり、三島さんっていう人は、ふつうのような顔をしているけど、そのなかでも、たいへんな才能のある作家としてふるまうってことを、実社会ではやってきているわけですけど、ほんとうの無意識のところ、あるいは、無意識のもうすこし奥の方まで、三島さんのそれを腑分けして表に出すことができたら、たいへん苦労をしているって、ぼくは思います。苦心しているって、ぼくは思います。
そのことは、三島さんの、現実の事件の進行状態よりも、文体の進行のほうが早くいっちゃう、つまり、意味づけを多くやっちゃう、いつでも文体のほうを早くやっちゃうっていうふうな、そういう三島さんの資質っていうのは、やっぱり、もとをただせば、そういうところで、均衡を保っていくために、出てきているんじゃないかっていうふうに、ぼくにはそう思われます。
つまり、それほどたいへんな、こんなことは人に言ったって、何にも通用しないし、何にも同情してもくれないし、何でもないわけですけど、つまり、いうにいわれぬ苦労っていうのを、三島さんはやったんじゃないのかなっていうふうに、ぼくには思います。
つまり、そういうふうに、いうにいわれぬ苦労っていいますか、苦労っていうのは、どこで解消したかっていうと、ひとつは、もちろん、文学作品でもって解消したっていうふうに思います。
もうひとつは、やっぱり、結局のところ、三島さんっていう人は、死っていう方向に、どうしても傾斜していく要素っていうのを脱出することができなかったっていうふうに、ぼくには思います。これは、三島さんの、市ヶ谷で、割腹自殺事件までつながっていく問題のように、ぼくには思います。
それほど、無意識のときに形成されていました、一種の欠如感なんでしょうけど、欠如感っていうのは、克服するっていうのが大変だっていうことが、ぼくは言えそうな気がします。だから、そういう意味合いでいえば、三島さんっていう人は、たいへん魅力的な人だっていうふうに考えます。
しかし、もし、そういう解釈をとらないとすれば、三島さんっていう人は、十分、少年期を過ぎたすぐの頃には、もう一人前の文学者として、通用する作品も書くし、また、そういう遇せられ方っていうのも、戦争中からされていて、戦後ずっと滞りなく、死ぬまで滞りなく、非常に優れた作家だっていうことで、世間的な評価を受けて、不自由なくっていうふうに考える考え方があるとすれば、そういう考え方も、もちろん可能だっていうふうに思います。
この問題は、ほんとうに解くっていうのは、たいへんむずかしいことで、たいてい、われわれもそうですけど、三島さんを解釈する場合に、自分の資質とか、自分の考えとかが及ぶ限りでしか、解釈をしないので、だから、そういう勝手な解釈をすることになってしまいます。同じことでも、同じ作品でも、勝手な解釈をしますし、同じ事件でも、勝手な解釈になってしまいます。
しかし、考えてみれば、勝手な解釈をすべて許すっていいましょうか、許すほど、三島さんが、人工的に、あるいは、無意識に克服した世界っていうのは、大きいんだっていうふうに言えば、言えると思います。そういうことが、三島さんの優れたところだっていうふうに思います。

10 三島さんの立派な生き方

 それから、もうひとつ言えることは、現実に対するふるまい方っていうのが、たとえば、文学の世界に対するふるまい方っていうのが、たいへん見事な人だっていうふうに、ぼくは考えていました。つまり、ふるまい方が見事なんです。
これは、文章だけ読んでいる場合には、ふるまい方がどうだっていうのは、よくわからないわけなんですけど、ぼくらは、文章だけ読んでいるっていうのよりは、すこしだけ、内側のある場所にいるものですから、そうすると、そこから見ると、とてもよく見えるところがあります。もっと近ければ、もっとよく見えるんでしょうけども、そこから見ますと、三島さんっていう人のふるまい方っていうのは、たいへん見事だなっていうか、立派なものだねっていう理解になると思います。
それから、もうひとつは、三島さんの文学の立派さっていうことにもつながるわけですけど、これは、われわれみたいな凡人の及ばざるところで、われわれはどういうふうに生きるかっていうと、やみくもに生きていると、ある事件とか、事件っていったって大したことないんですけど、ある事柄があって、これはいかんっていうことで、またすこし、そこで、もがいて、いろんな方策を講じたりして、やっとそれを切り抜けてっていうふうにやって、また次の事件にかかってっていうようなことの繰り返しなわけです。
やることは全部、後回し、後回しっていいますか、つまり、後から、後からであって、事件のほうが先へきて、後から、それをしゃにむに臨時で解決したようなやり方をして、それをやっとくぐり抜けて、ほっとして、また次へいくっていう、そういうものの連続なのが、われわれみたいなやつの生き方なんですけど、三島さんっていうのは、そうじゃないんです。
文体と同じであって、三島さんは、現実の事実、自分が当面する事実より、もっと先のほうに、自分の考えと、考えから出てきた対応性っていいましょうか、対応策っていいますか、対応性っていうのは、つくちゃっている人だったっていうふうに思います。
だから、そんなに、俗世間的な意味合いであくせくしたりみたいなことは、何にもしないで済んだ人だと思います。それは、もちろん、才能によるわけでしょうけど、才能だけじゃなくて、つまり、文体が表現しているように、なにか一種の超越性みたいなのが、文体と同じように、先へ先へっていうふうにいくっていう生き方っていうのを、ちゃんとつくれていたんだっていうふうに、ぼくは考えます。それは、非常に、三島さんの優れたところだっていうふうに思います。
それで、いちばん今度は、三島さんの根本的な問題になっていくわけですけど、つまり、『仮面の告白』っていうのは、いまのようなことが、まず前半部で、ほとんど描かれていまして、それを除いたら、あとは、同じ学校とか、親戚の女性と仲良くなってっていうようなことがあって、それでうんと仲良くなって、セックスする、つまり、性行為をするっていうところまでいくんだけど、自分は性行為ができなかったっていうことで、大衝撃を受けるみたいなところで、『仮面の告白』は終わります。それから、そのとき、自分は学徒動員で、工場に行っているわけですけど、そのときに、日本の敗戦っていいましょうか、日本の敗戦っていうのが、同時に起こって、それも大衝撃なんですけど、『仮面の告白』の言い方ですれば、その大衝撃よりも、自分が女性と性行為をするときに、それができなかったっていうことの衝撃のほうが、自分にとっては、重大であったっていうような描き方をして、だいたい『仮面の告白』っていうのは終わるわけです。
ですけど、主たる問題は、前半部にありまして、それの引き金がどうであり、それが、その屈折がどうでありってことが、ちゃんと理解できたり、読めたら、『仮面の告白』は読めたってことと同じになるっていうふうに、ぼくは思います。

11 主題としての天皇制的イデオロギー-『憂国』『英霊の聲』

 これは、ぼくらの、今度は感想になりますけど、いちばん典型的にいいますと、『英霊の聲』っていう作品があります。それから、その系列の作品っていうのはあるわけです。たとえば、『憂国』なんていう、二・二六事件の将校で、病気でもって、二・二六事件に参加できなかった将校がいて、自分は割腹自殺するっていう、奥さんも後を追って自殺するっていう、そういう作品、『憂国』っていう作品があるんです。
その種類の作品っていうのが、三島さんの作品のなかにあらわれたイデオロギーであるわけです。このイデオロギーっていうのは何であって、どこから出てきたんだっていうことが、たいへん問題になります。
ぼくは、戦後民主主義じゃありませんで、三島さんと同じ年代の戦中派ですから、ぼくらから見ますと、ちょっと違う見方になっていきます。つまり、三島さんは右翼的な作家で、反動的なんだっていうふうな、戦後民主主義とか、戦後左翼からの評価の仕方っていうのがあるわけですけど、ぼくらの評価の仕方は、すこし違ってきます。違う評価になります。
つまり、『英霊の聲』とか、『憂国』に代表されるような、一種の作品が持つイデオロギー性っていうのは、作品の主題が持つイデオロギー性っていうのはあるわけです。それは、何なんだっていうことになるわけです。
これは、ぼくらもちょっと疑問とするところなんですけど、たとえば、『英霊の聲』とか、『憂国』とかっていう作品は、ぼくなんかみたいな戦中派にとっては、それは戦中までの問題なんです。つまり、戦中までの自分だったら、やっぱり、こういう描き方と、こういう重点の置き方を、自分も作品としてするなって思うわけです。ところで、三島さんは、戦後も、ある時期を経て、戦後も、古典的ではありますけど、近代主義的な作品を描いて、描いてってやっていって、ある時期にきて、『英霊の聲』みたいな、そういう作品に転ずるわけです。
ぼくらはびっくりしたわけです。その頃は、ぼくらは結構、戦後左翼になっているわけです。つまり、敗戦後のむちゃくちゃな、それこそ闇市で、酒を飲んで遊ぶみたいなことしかやらなかった、そういう時代を経まして、少しずつ、少しずつ、自分の何が欠陥だったのかなとか、何がダメだったのかなみたいに考えていって、これはちょっと、おれは、世界を認識する方法っていうのをちっとも持っていなかったよなって、文学青年としては、ひとかどの文学青年っていうふうに、自分は思っていたから、内面的なことっていいますか、内向的なことならば、自分もひとかどできていたはずなんですけど、世界をどう掴むかってことを、おれは、全然できていなかったなっていうのが、戦後、少しずつ、これはいかんよっていうことで、回復していったときに、ぼくらは、それを補おうとして、一生懸命になっていく過程で、左翼的になっていくわけですけど、ぼくらがそういうふうになっていって、いくらか、すこしはわかったなっていう、つまり、世界認識の方法っていうのがわかってきたかなって思いかけたころ、三島さんは、突如でもないんでしょうけど、ほんとに丁寧に作品を検定すれば、突如じゃないんだと思いますけど、『英霊の聲』みたいな、あるいは、『十日の菊』みたいな、天皇制的イデオロギーっていうようなものを、作品の中に主題として含んだ作品を書き始めるわけです。
なぜ、今頃こういうことを書くんだろうかって、つまり、三島由紀夫ほど近代主義的な作家で、戦争中と戦後と、作品によって、なんら転換することなくつなげることができて、ちっともおかしくなかった、そういう作品を書いた珍しい人なのに、どうして今頃こういうことになったのだろうかっていうのは、ほんとにわからなく、ぼくらはなったわけです。
その頃から、たぶん、三島由紀夫って人は、右翼的な作家でみたいな批評が、わりあいに大きく出てきた所以じゃないかなって、自分は思うわけです。ぼくらは、ぼくらなりに、どうして今頃、われわれは完全ではないけれど、こういう考え方のモチーフっていうのは、戦争中まではそうやったっていう、で、戦後、敗戦のときに、考えに考えて、やっぱり、それこそ悩みに悩んで、やけくそになりながら、それを回復するのは大変なんですけど、悩みながらやっと、こういう問題っていうのは、自分なりに解決して解いて、やってきたっていうふうに、やっとそういうふうにできたときに、どうして三島さんともあろう人が、こういうかたちを書くようになったんだろうかっていうのは、たいへんな、ぼくらなりの疑問でした。
これが、三島さんの作品に対する、作品の理念っていいましょうか、イデオロギーといいましょうか、それに対する、ぼくらの疑問を喚起したところの非常に大きな点なわけです。それで、ぼくらはどこに原因があるのかっていうのを、一生懸命考えたんですけど、これは、ほんとうに正確か、完全にそうかっていうのは、自分でも、まだわからないで、もっときちっとやらなくちゃいけないんだっていう、検討しないといけないんだっていうふうに思いますけれど、およそのところ考えたところっていうのは、何かっていうふうにいいますと、いちばんわかりやすいのは、ぼくらが小学校6年生頃に二・二六事件っていうのがあったわけです。
ぼくらが5年生か、6年生の、雪の降る日で、そのころテレビはありませんから、ラジオですけど、ラジオが、今日は弾が飛んでくるかもしれないから、タンスの陰みたいなところに隠れているようにラジオ放送があったりして、隠れていたわけじゃないですけど、ぼくは、学習塾に通っていまして、雪が降っていまして、塾の先生が「まあ、あたれや」って言って、火を焚いてくれて、それで、「今日はこんなことがあってな」って言って、一応の説明をしてくれたのを覚えています。
これは、軍国時代の少年の、ぼくは馬鹿っていうか、いわゆる日蓮さんなんかがいう衆愚ですから、いまは、衆愚プラス何かだと思うけど、その頃は、衆愚そのものですから、どこにシンパシーを持ったかっていうと、反乱軍っていうのにシンパシーを持ったわけなんです。その小学校5年か、6年ですけど、シンパシーを持って、「やれ、やれ」っていうふうに、「やっちゃえ、やっちゃえ」って感じで、そういうふうに思っていたのを覚えています。

12 二・二六事件の衝撃的な手記

 三島さんも同年代ですから、同じような体験をしたんだろうと思いますけど、その人たちは、十何人か軍事裁判にかけられて、死刑になって、銃殺刑になって、死ぬわけですけど、そのなかの磯部主計将校、少尉か、中尉なんですけど、磯部っていう人が残した手記があるんです。
その手記はちょっと、やっぱり、すさまじい手記であって、簡単にいうと、どういうことを言おうとしているかっていうと、おれたちは天皇に対して、忠誠無私で、神のように崇拝して、なんとかして、天皇の新制、つまり、自ら政治をやる世の中にして、不平等なあれとか、農村の東北の飢饉に困っている、そういう農家の人たちも困らないように、平等性をできるだけ実現していって、そういう社会を実現するために、こういうふうにやったんだ、こういう乱を起こして、軍の首脳部に対して、ちゃんとおれたちの思いどおりの政策をやって、農村の人たちを助けてやってくれっていうふうに、そういうふうに思ってやった、そういうふうに心がけて行動したと、そうだけども、天皇は、どう言ったかっていうと、あいつらは、けしからんやつだ、あれらをみんなやってしまえっていうふうに言って、おまえたちがやらないなら、つまり、軍事的な大元帥ですから、おれが出ていって、兵隊をして鎮圧するからっていうふうに言って、そういう自分たちっていうのに対して、ちっとも理解してくれなかった。それは、とても恨みに思うことだって、非常に率直な言い方をすると、そういう手記を残しているわけです。
それはちょっと、やっぱり衝撃的なっていいますか、二・二六事件の結末としては、衝撃的な手記なんです。つまり、その頃は、神聖ですから、明治憲法ですから、「天皇は神聖にして侵すべからず」ですから、神聖なんです。そんなことを記録するっていうこと自体が、非常にたいへんなことなわけですけど、磯部っていう人は、そういうたいへんなことを、あえて率直に、自分らの、これは恨みに思いますよってことを、ちゃんと書いて、どうかそれをわかってくれっていうふうに言って、そういう言い方を書いているわけで、ぼくが思うには、その手記みたいなものが、戦後、公表されて、そういうのを自由に読めるようになったっていうような、それを読んだということが、三島さんの、『憂国』とか、『英霊の聲』とかっていうのを書く動機と、それから、イデオロギー的、つまり、左翼的にいえば、政治と文学なんですけど、それは、イデオロギー的にいう政治性っていうのを、作品のなかに込めた、そういう作品を書いて、自分もそういうふうに、だんだんと自分自身もそういうふうに固めてくっていうような、なにかそれがいちばん、衝撃になったのは、それがいちばんじゃないかなっていうふうに、おおよそのところで、そういうふうに考えていますけど、それは、すこぶるあてにならないので、もっと本格的にいろんなことを検討しないとわからないと思います。それで、三島さんは、そういうふうになっていくわけです。
それで、三島さんが、いちばん問題にしたのは、戦後にマッカーサー司令部を訪問して、その後だと思いますけど、後に、「人間宣言」っていうのをやっているわけです。これは、ぼくらが理解している限りは、どこからその発想が出てきたかわからないのですけど、「天皇は神聖にして侵すべからず」っていうような、そういう天皇を神格化する考え方っていうのは、戦後すこし経ってからも、まだ、われわれのなかに存続しているわけです。
そういう存続していて、自分は神格化されていてはダメだって考えて、天皇は、自分は神格化されているけど、神さまでもなんでもないと、自分は人間であるよっていうことを宣言した速報を出しているわけです。
ぼくらの実感的なそのときの感想では、そんなことは言わなくたってわかっているわけだから、ことさら言わなくてもいいのになっていうふうに思ったっていうのが、ぼくみたいに、戦争中、衆愚だった、「天皇は神聖にして侵すべからず」っていうのも、すこしも疑ってなかった、そういう人間の、そのときの感想は、そんなことはわかってるんだから、言わなくてもいいのになっていうくらいなふうに思ったわけです。
ところが、そこへくると、三島さんは、「天皇は神聖にして侵すべからず」ってことのために死んで、恨みも残っている、二・二六事件の将校たちのことと、自分の現在の考え方っていうのを、たぶん、重ね合わせて、人間天皇っていうのはおかしいんだ、天皇は神じゃなきゃおかしいんだっていうことをモチーフにして、それは、戦争の戦死者が、霊が、そういうふうに人間天皇っていうのは、自分たちは受け入れられない、天皇は神さまだっていうことで、自分たちは死んだんだっていう、そういうことを、出てきた戦争で死んだ兵士の霊が、そういうふうにして言うっていうなのが、『英霊の聲』の主たるモチーフなわけです。
それは、自分の現在の考えと、それから、二・二六事件の将校たちの考えで、自分が感銘を受けた、その考えと重ね合わせて、そういう戯曲作品になったんだっていうふうに思います。
そこが、ぼくらには、それは、過ぎたのになっていうか、戦争中だったら、一も十もなく、納得して、賛成してっていうふうになっただろうけど、いまのぼくらには、ちょっとこれは納得できないよなっていうふうに思って、ぼくらが、三島由紀夫さんの文学作品に違和感をもち始めた、最初の徴候が、そこに出てきたわけです。
ぼくは、それでも、優れた作家ですから、作品は作品としていいですから、ぼくは、たしか、『美しい星』っていう、UFOを見る一家の話なんですけど、それまでは、ちゃんとしてっていうのは、おかしな言い方ですけど、三島さんの、わりにいい読者っていいますか、忠実な読者として、後をくっついていったとは思いますけど、それ以降は、あんまり熱心でなくなってしまったっていうのが、ぼくらの年代の感覚なわけです。
でも、あとの年代で、やや左翼的でない部分の、純文学的な文学者のなかで、三島さんなんかの作品を非常に高く評価して、三島さんの考え方っていうのを、わりあいに丁重に、尊重しながら、歩んでいったっていう、一連の文学者もいますし、芸術家もいるわけです。それは、三島さんの後継者っていいましょうか、系統のあとを継いで、現在に至っているものだっていうふうに思います。現在でいえば、このあいだ亡くなった、村松剛さんとか、現存する人でいえば、佐伯さんとか、それから、音楽家でいえば、黛敏郎さんみたいな人は、そうだと思います。
それは、一連にひとつ、三島さんのあれに納得して、これでいいんだっていうふうに、これはもっともなんだっていうふうに考える考え方が成り立って、それで、三島さんの系譜ができあがっていったんだと思います。ぼくらは、そこのところで、三島さんのところと、ついていけないなっていうふうになって、わりあいに、文学的に疎遠になったはじまりだっていうふうに思っているわけです。

13 「文化的天皇」という概念

 三島さんのイデオロギーっていいますか、三島さんの文学作品のなかのイデオロギーっていうよりも、三島さん自身の理念っていうのは、どこらへんに正確さがあるのかっていうふうに考えますと、ひととおりのことでいいますと、『英霊の聲』っていうのは、作品のひとつのあれなんですけど、三島さん自体のイデオロギーっていうのは、同じではありません。『英霊の聲』と同じではありません。
日本の文化っていうものを、明治以降からとらないで、明治以前から、あるいは、古典物語のある平安朝時代から、あるいは、もうすこしさかのぼって、奈良朝時代から、万葉集とか、乞食とかっていうようなものが生み出された、奈良朝時代から以降の、日本の伝統的な文化と、それから、美意識っていいましょうか、そういうものを自分の文学的な作品のなかで、ひとつ大きく、そういう伝統っていうのを、どういうふうに受け入れたらいいかどうかっていうような、そういう問題を、文学作品のなかで考える考え方をとるとすれば、どうしても、文化の中心っていいますか、文化の核のところに、どうしても、天皇、あるいは、天皇制でもいいんですけど、どうしても文化の核に浮きだしてくる。
もちろん、軍事的な、武力的な核っていうのは、戦後憲法では、ほとんどなくなって、「天皇は国民統合の象徴だ」ってなったわけで、戦前の憲法だったら、陸海軍の軍事力だけは、天皇の直接統率下にあるっていうふうに、憲法のなかで規定されています。ですから、つまり、大元帥なんです。そういうふうに、直接規定されています。だから、日本の軍事力っていうのは、戦争中まで動かしたのは、やっぱり最終的には天皇であって、天皇がいくら主観的にどうであろうと、ハンコをつかなければ、軍隊は動かないはずなんです。そういう意味では、軍事力の直接統率者っていうのは、天皇にあったわけです。
戦後は、象徴であるし、平和憲法っていうふうに言われているあれですから、天皇にあれはないんですけど、ただ、文化的な伝統を考える限り、日本文学を、古典文学からずっと考える限り、どうしても、文化のある核のところに、天皇制、あるいは、天皇っていうのは、出てこざるを得ない、それは、どうしても否定することができない。
そうすると、戦後に、三島さんがこうあったほうがいいと、ようするに、人間天皇っていうよりも、これのほうがいいんだって考えたのは、ようするに、文化的中心とか、文化的核っていいましょうか、核としての天皇制っていうのは、あったほうがいい、あるいは、あるべきだ、それは、人間天皇制っていうのではなくて、文化的天皇制っていうのはあるべきだ。それは、中心にあるべきだっていうのが、たぶん、三島さんが、ひとりの文学者としてっていうよりも、ひとりの文学的な思想家としてっていったらいいんでしょうか、思想家として、三島さんが持っていた考え方の中心は、そこにあったっていうふうに思います。
これは、なかなか面倒くさいんです。これは、いちばんあとの『豊饒の海』のことに触れたとき、もうすこし詳しく申し上げてもいいわけですけど、たとえば、三島さんの『豊饒の海』のいちばん影響を受けた古典っていうのは、『源氏物語』なんです。
『源氏物語』っていうのは、宮廷の貴族と、それから、宮廷にいる女官たちとの、人間関係、あるいは、人間模様の世界なんですけど、ぼくらみたいのが読むと、『源氏物語』っていうのは、いい作品ですから、感銘するので、いい作品だったらそれで文句ないだろうっていえば文句ないんですけど、なんとなく照れくさいんです。
世界が世界ですから、この照れくささっていうのは、ぼくらがシュールだからって言ったらいいんでしょうか、名もなき庶民だからって言ったらいいのか、シュールだからって言ったらいいのか、シュール出身だからって言ったらいいのかわかりませんけど、なんか照れくさいんです。
つまり、どうして照れくさいかっていうと、この世界は一生のうちに一度でも、匂いを嗅いだりとか、そのなかに入ったりとか、一生のうち一度もあるまいなっていうのは、自明の前提っていうふうになっているわけです。
だから、やっぱりどっかで一度、自分が全然、つまり、外国のなんとかっていうのと同じで、ぜんぜん自分が体験もしないし、匂いも嗅がないであろう世界のことが、同じ、ある意味で、伝統的にはわかるよっていう、そういうわかり方で、描かれているものですから、そこからまず、照れくささっていうのは、来るんだと思うんです。
これは、どうしようもないんです。三島さんの4つの『豊饒の海』っていう作品にも、やっぱり同じ照れくささっていうのを感じます。これは、三島さんが、わりあいに、つくったっていうふうにいえばそうだと思うんですけど、やっぱり、世界が、学習院の父兄会みたいなのがあって、その父兄会の中心みたいのと、それから、皇族っていうのと、その両方でできている人間模様が、三島さんの世界で、やっぱりこれはちょっと照れくさいんです。照れくさくない箇所もあるんですけど、それは申し上げますけど、照れくさいわけです。

14 右翼性と左翼性の分かれ目にある照れくささ

 こういうふうに照れくさいんですけど、ぼくは、やっぱり、戦中派ですから、それで、わりあいに、そのとき、そういう教養のつくり方っていうのはそうだったですから、古典っていうのは、わりあいには、よく知っているほうなんです。
そうすると、本格的な意味で、古典の勉強をするっていうようにしますと、そのどこかでかならず、文献所在地としての、宮内庁書陵部っていうのがありまして、そこへちょっと調べに行かなきゃいけないみたいなことに当面するわけです。
そうすると、やっぱり照れくさいんです。そういうのは、照れくさいほうが間違いなんでしょうけど、虚心坦懐にいけばいいじゃないかってことなんだろうけど、どうしても、そういうところで、照れくさいのが、そこにはさまるわけです。これは、どうすることもできないって要素があるんです。
逆にいいますと、三島さんの言うところが、当たっているところはあるんです。日本文化の伝統っていうのは、奈良朝以降の文学世界っていうこと、あるいは、しきたりの世界ってことで考えますと、どうしても、天皇、ないしは、その周辺っていいますか、周辺の共同体みたいなのがあると仮定すれば、そこの世界に、どっかに、首を突っ込んで、一時的に、あるいは、何時間か、そこに首を突っ込まないと、本格的な文献調べはできないよっていうことになるわけです。
そうすると、ぼくらは、照れくさいから、まいったなっていうわけで、いいかげんなところで、文献調べは済ましとこう、おれは、実証的研究はやらないっていうふうになって、やりたいやつはやれとかいうので、しないっていうふうに、一様になっちゃうわけなんです。つまり、それは、ぼくらの一種の照れくささ、それは、ほんとは否定したほうがいい照れくささと思いますし、また、これからあとは、だんだん払底されていくわけだと思います。
そういう照れくささっていうのは、もっと違うことでもあって、たとえば、サイパンでもいいし、硫黄島でもいいですけど、そういうところに、うちの子どもたちの世代は、平気で、泳ぎに行こう、泳ぎに行こうとかいって、よく行くわけです。
ぼくらは、サイパン…?って、なんかどうしてもダメなんです。後ろめたいっていうのもあるわけだし、いろんなことがあるんだけど、ようするに、玉砕者っていう、民間人も兵隊も含めて、玉砕したっていう場所ですから、どうしてもそこへ、虚心坦懐に泳ぎに行くっていうあれにならないんです。
それも、一種の照れくささなんで、やっぱり、ないほうがいいって、こんな世代はどっかに消えちゃったほうがいいっていうことだと思いますけど、やっぱりそれは、つきまとうわけで、これは、わずかに、日本の左翼思想と、右翼思想の、わずかな切れ目っていいますか、違い目っていいますか、それは、そこいらへんのところにしか、まず、ないんです。
ほんとうに、イデオロギー的に、ナチズム・ファシズムと、それから、スターリン・マルクス主義と、それとの対立っていうような意味合いで、日本の右翼と左翼に、それだけの対立点っていうのは、ぎりぎりのもので、そんなのあるかっていったら、ないわけです。そんなのあいまいなる日本のなんとかです。それこそ、あいまいなる日本です。そんなのないわけです。
だから、わずかに、その照れくささと、そうじゃないっていうのが、ぼくの理解の仕方では、日本における左翼性と右翼性の分かれ目っていいましょうか、そういうものだっていうふうに、ぼくには考えられます。そこが正直なところであって、それ以上、誇張したら、やっぱり嘘になるぜっていうことになる。嘘になるか、あんまり尊敬できない、尊重できない思想だよっていうふうになるような気がします。
これは、怒られちゃうけども、やっぱり、たとえば、日本共産党でも、典型的には、宮本顕治っていう会長さんが、これは、非転向なわけで、牢屋へ入っていたわけです。十何年も入っていたから、さぞかしつらかったろうと思いますけど、入っていたわけです。
だけども、これは、ぼくに言わせれば、入っていて、民衆、日本国民でもいいですけど、民衆の動向っていうのに、たえず考慮して、いま、こういう民衆の考えは、こういうふうに変わってきてると、これに対して、さしあたって、いちばん有効な反対の仕方、覆し方っていうのは、どういうふうに言ったらいいんだろうかみたいなことを、たえず考えながら、牢屋のなかに入っていたっていうんだったら、ぼくは尊重しますけど、そうじゃないんです。これは、切り離されたところで、そういう自分の思想的頑固さを守ったっていうふうに言えば、それは守ったでしょうやっていうふうになるわけですけど、そうすると、ぼくらから見ると、おまえ、何もしていないで守ったってしょうがないじゃないかっていうことになるわけです。どうしてもなっちゃうんです。
ですから、ぼくらはむしろ、宮本顕治よりも、ほんとうは、中野重治みたいな、牢屋から出てきたら、自分の親父さんが、農家の親父さんですけど、農家の親父さんに、「おまえは日本国に反対して、民衆を解放するんだみたいな、えらそうなことばかり言ってきて、それで、おれは、小塚原で死刑になって死んでくるものだと思ったら、生きてきやがって、みっともないから、これからはなんか書くな」って言われるわけです。
農家の親父さんだから、知識も何にもないんですけど、ただ、しっかりしていることはしっかりしていますから、おまえそういうふうにふらふらして、またなんか書いて、恥をさらすなっていうふうに、親父さんに言われて、中野重治は考え込んじゃうんだけど、考え込んでから、やっぱり私は書いていこうと思いますっていうふうに親父さんに言って、それから、中野重治的な作品を、『村の家』っていう作品からはじまって、『街あるき』みたいな、そういう、戦時中のいい作品ですけど、いい、そしてかつ、屈折の多い作品ですけど、そういうのを書いていくわけです。
ぼくは、この人の、このやりかたのほうがいいんだっていうことを、ぼくは、『転向論』っていうののなかで書いたのを覚えています。つまり、このほうが、なんでもない農民のおじさんがもっている、ふとっぱらな強固さっていうのも、ちゃんとそれとも対決するし、それから、戦争にみんな傾いていく、そういう風潮にも対決するしっていうようなかたちで対決していく、それは、だから、これのほうがずっといいあれなんだっていうふうに、ぼくはそういうふうな理解の仕方をしてきたわけで、もちろん、中野重治は、今度は、戦後、解放されるわけです。
つまり、敗戦によって、今度は、左翼性が前面に出てくるわけです。中野重治も、わが世の春が来たってことで、有頂天になってもいいはずなんだけど、やっぱり有頂天になれないところが、中野重治の作品のなかにあるわけです。
それはやっぱり、戦争中のことであるし、また、天皇制のことでいえば、『五勺の酒』っていう作品がよく、微妙なあれを描いてますけど、天皇制っていうのには、なにはともあれ、反対なんだけども、ひとくちに、だからこれはけしからんとか、だからこれは首をちょん切っちゃってとか、そういうふうな言い方っていうのは、自分にはできないっていうことを、非常に屈折の多い文体で描いています。それもいい作品です。
つまり、そういうふうに、なんとも煮え切らない、あいまいなる日本のわたしっていうことになるわけですけど、煮え切らないわけです。
でも、ぼくは、それがほんとうだ、いま言い換えますと、天皇制問題に対しても、照れくさいか、照れくさくないかっていうふうに言っちゃえば、言えてしまうような、そういう微妙なところっていうの、あるいは、微妙な差異っていうのを、ちゃんと取り出せないような、左翼思想も、右翼思想も、それはダメだっていうふうに、ぼくらはそう考えてきたわけです。だから、中野重治なんかは、評価の中心になってきたわけで、そういうふうになってきたんです。

15 日本の思想性のありか

 そうすると、三島さんは、そういうことについては、東京裁判流の言い方をすれば、ノンギルティーっていいますか、つまり、無罪であるってことを言えるわけです。
ところが、ぼくなんかはどう考えたって有罪だっていうふうに考えますから、有罪の反省の仕方っていうふうに考えますから、どうしても、最後は照れくさいっていう言い方でいえる、そういう微妙なニュアンスがどうしても残ってしまう、だから、そこが狂ってしまうわけです。
だから、三島さんみたいに、ノンギルティーっていいますか、罪じゃない、つまり、自分は無罪じゃないって言えるとしますと、非常にさっぱりとやれるってことがあるわけですし、また、もっと下の世代だったら、なおさら、おれは無罪だ、天皇制はけしからんっていう、こんなものを拝むやつは、天皇が死んだときに拝んだやつは土人だっていうふうにいえば、そういうふうに言えちゃうわけです。
それはもう、世代が違うから、戦争体験がないから、そう言えちゃうんだけど、ぼくらはギルティー、有罪ですから、そう言えないんです。だけども、言えないからダメかっていったら、そうは思ってないので、言えないからいいんだって思っているわけです。
もうひとつ言えることは、言えないっていうことの中にしか、日本における思想性っていうのはないんだよっていうふうに、ぼくは思っていますから、だから、あっさりと、三島さん流に、『英霊の聲』みたいに言っちゃう、書いちゃうものみたいなものも嫌いだし、浅田彰的に、ようするに、天皇は死んで、皇居前でひざまずいて、拝んでいるようなのは土人なんだみたいに言うこともできないわけです。つまり、その考え方は正しいとは思わない。そんなにあっさりとかたづくっていうふうには、ちっとも思ってないです。
だから、ギルティーがあるってことで、あんまりすっきりと言えないよなっていうのと、それから、しかし、このすっきりと言えないってことを、うんとよく解いていかないと、日本における文学の伝統なんていうのは成り立たんよっていうふうに思っているから、かならずしも正しくないとは思っていないわけです。そこいらへんのところが、微妙なところが、三島さんとぼくらの考え方が、同じ世代で分かれていっちゃったっていう点だと思います。
これは、第三の新人の人は、慨していえば、戦争に行って、兵隊に行こうが行くまいが、あんまり日常性を離れた思想っていうのが、もしありうるとすれば、そういうものには、第三の新人の人は、あまり関心がないから、それは、関心の対象にはならないんです。取材の対象にはなりますけど、ほんとうの意味での関心の対象にはならないで済んでいくわけですけど、三島さんは一種の、先ほど言いましたように、共同体論みたいのがありますから、どうしても、そういう問題がひっかかってきてっていうことになって、『英霊の聲』みたいな作品になっていったと思います。
これからの三島さんの生き方っていうのは、ぼくらと離れていけばいくほど、どうしようもなくなったなっていうふうになっていくわけです。どうすることもできないなっていうふうに、ただ、才能がある人ですから、あれよあれよと言っているだけで、どうしようもなく離れていくなっていう感じ方っていうのを持ってきまして、で、三島さんは、その次には、自分の私兵っていいますか、わたくしの兵隊っていいますか、国軍っていうのはやだっていうのは、とてもよくわかるので、私兵っていうのをつくるわけです。
自分が、自分の財政でもって、あるいは、原稿料みたいなもので、それを支出して、自分が、専門的な兵隊といいましょうか、軍事専門家っていうのを自分でもってつくっていくわけです。それで、自衛隊に体験入学したりなんかして、制服やなんかもつくったりして、そういうものをつくっていくわけです。つくっていって、いざ、天皇制が文化の中心なんかにも考えられないで、シャットアウトされちゃうとか、遮断されてしまう、断罪されてしまうっていうような事態がきたら、自分たちは、盾になって戦うんだみたいな感じ方が、三島さんにあったんだと思いますけど、それでもって私兵を養って、訓練をしたりしているわけです。
それで、そのいちばん究極が、自衛隊市ヶ谷駐屯場っていいますか、そこへ行って、司令官を監禁して、自衛隊の隊員たちには、君たちは、いま決起しなければダメだぞみたいな演説して、自営隊の人たちは、ぜんぜん聞いてくれないわけです。テレビで、ぼく、見てましたけど、聞いてくれないで、やじるわけなんです。やじられて、三島さんは、がっくりしたまま、ひっこんじゃって、それで自殺しちゃうわけですけど、そこのなかには、三島さんの悲劇性っていうのはあるわけです。
つまり、現存する戦後の自衛隊っていうのが、戦争中の軍隊のような、天皇陛下の股肱だっていうような、そういうあれをもっているわけでもないし、そういう教育を受けているわけでもないし、いちおうは、戦後民主主義の教育を受けて、いろんな事情で、農村の次男坊、三男坊、その他、いろんな事情で、自衛隊へ入ったっていう人たちですから、三島さんの言う意味での純一な気持ちもなければ、実世界に対する、実社会に対する、いろんな執着心もあるし、退団したら何々をやろうっていうようなことの計画もあるしっていう人が多いですから、そんなに言うことは聞いてくれないわけです。
ぼくらは見てると、やっぱり同情しまして、あんなに熱心に自衛隊に肩入れして、訓練まで、自衛隊のなかでやったりした人がしゃべってるんだから、死ぬ気でしゃべってるんだから、すこし同情して、聞くだけでも聞いてやればいいのになっていうふうに(会場笑)、ぼくはそういうふうに思いましたけど、これは、戦中派の考え方でして、それはなんとも言えないので、そういう感じを持ちました。つまり、三島さんは、そういうかたちで、最後はそこまでいくわけです。

16 文学者と政治、文学と実行-三島さんと埴谷さんの座談会

 ところで、もうひとつ、三島さんの文学と政治っていいますか、あるいは、もっと違う言い方でいいますと、文学と実行といいましょうか、そういうことについて、三島さんの考え方があるわけです。
これは、あるとき、三島さんとか、左翼の人でいえば、埴谷雄高みたいな人が、座談会をやったことがあるんです。そのときに、三島さんは、歌舞伎なら歌舞伎の役者が、侍になったり、大名になったり、剣術家になったりってかたちで、いろんな役目に扮して、いくらでも、演劇上の上ではいくらでも武張ったことをやることができるっていう、そういうふうにあるけれども、しかし、いちど誰かがそういう武張ったことを実行したら、こんなものはパアなんだ、すっとんじゃうんだっていう言い方を、三島さんは、だから、文学っていうのはダメなんだ。つまり、実行っていうのが、目前にっていいますか、眼前に出てきたときには、文学は軽くて飛んじゃうんだっていう言い方を、その座談会でしていることがあります。
それに対して、埴谷雄高さんが、いやそうじゃない、文学っていうのは、実行なんかしなくていいんだ。つまり、埴谷雄高流の言い方をすれば、蜘蛛の巣がかかった部屋のなかで、寝っ転がってこういうふうにしているだけでいいんだ、文学者っていうのはいいんだ。ただ、ようするに、未来、あるいは、未来社会に対する見通しとビジョンっていいましょうか、そういうものがあればいいんだ、あれば、何もしなくてもいいんだ。蜘蛛の巣のかかった部屋で寝っ転がっていればいいので、実行なんか何もしなくていいんだっていうふうにして、三島さんと、その座談会で対立していたと思います。
それは、左翼文学理論の最上の部分を心得ている最上の部分の文学者と、それから、三島さんの考え方と、実行なしには文学なんて無意味なんだっていう考え方、そのかわり、文学は主題じゃないよっていいましょうか、美なんだよっていいましょうか、あるいは、もののあはれなんだよっていいましょうか、それが文学なんだよっていう三島さんの考えは、非常に対照的に、非常に明瞭に出てきた唯一の座談会です。
両方の言い方は、いずれもなかなか立派なもんだねって、ぼくは思いますけど、三島さんも、もう、そのときには、決心があったのかもしれません。あとは、おれがやってみせるからな、おまえらの文学なんか飛んじゃうんだぞっていうふうに思ってたかもしれません。それは、わかりませんけど、ただ、三島さんは、そのときに、それをそういうふうに言ったことは確かなんです。
で、埴谷雄高が、そうじゃないんだ、文学なんか何もしなくていいんだ、この考え方は、未来に対して、ビジョンっていうのを失わなければいいんだっていうふうに、この言い方は、たいへん見事でして、これは、ぼくらはすぐに、親鸞の言い方を思い出すわけですけど、つまり、目の前でいろんな困っている人たちがいろいろいて、それを助けようっていう、そういう慈悲っていうのは、小さい慈悲なんだ、人間社会に通用する慈悲なんで、仏の大慈悲っていうのは、そういうのじゃないんだ。浄土へひとたびいって、還ってきて、現実の世界に入って、そこで、発揮できる慈悲っていうのが、ほんとうの慈悲なんだっていう言い方をスパリと言っていますけど、親鸞のいう浄土っていうのは、べつに死後の世界にいって、幽霊になって出てこいって言ってるんじゃないんです。浄土って言っているものが違うんです。生と死のちょうど中間にある場所っていうのに、浄土っていうのを義しているわけです。そこから還ってくれば、つまり、還りの目っていいますか、物事を前のほうから見ているのではなくて、後ろのほうから同時に見ているっていう、そういう視線を獲得できたら、いろんなことがわかるんです。前からだとわからないことがわかって、何かやれるんですよっていう意味合いになると思います。
それと、ほとんどおんなじことを言ってるので、ぼくは、それはとてもいい、左翼のなかでは、格段に優れた考え方だと、ぼくはそういうふうに思っています。その座談会が、最終的に、ぼくらに、明瞭に目に映った、最終的な、非常に鮮やかにかたちが違ってしまって、鮮やかにまた三島さんの考えが出てきた考え方です。で、三島さんは、最終的にいえば、豊饒の四部作っていうのを、最後の遺書みたいな感じで、それを完成させていくっていうことになるわけです。

17 『源氏物語』と『豊饒の海』

 さっき『源氏物語』の話が出ましたけど、『源氏物語』と、三島さんの『豊饒の海』と、根本的に違うのはどこかっていいますと、三島さんは『源氏物語』を真似していますから、得ることはありますから、たとえば、最初の『春の雪』って第一巻目ですけど、松枝清顕という主人公がいるわけですけど、その主人公が、年上の貴族の子どもなんですけど、その娘さんを好きになって、いろんなことがって、それが、尼寺へ行っちゃうわけですけど、それにまた、会おうとして、そこに行くんだけど、会わせてくれなくて、そのうち、病気になって、その主人公は死んでしまうってところで、『春の雪』は終わりなんですけど、それは、ちょうど光源氏が、藤壺っていう、天皇の、皇后じゃなくて後宮の人なんですけど、藤壺が好きになってっていうことから、『源氏物語』っていうのが、はじまるのとおんなじ構成なんで、源氏物語の影響は著しいわけです。
どこが違うかっていうことをいいますと、『源氏物語』の世界っていうのは、読まれた方はご存じだと思いますけど、つまり、先ほど言いました宮廷の共同体の世界で、そこの男女関係の問題のあやが『源氏物語』なんですけど、その場合のどこが特徴かっていうと、宮廷の世界の共同体を支配しているひとつの原理なんですけど、いまでいえば病気なんですけど、非常に過敏な察知の世界、推察の世界なんです。たとえば、六条の御息所が、葵の上と源氏との仲をねたんで拝んだりなんかすると、そうすると、葵の上が、拝んだちょうどそのときに、線香の匂いがしたりするんです。つまり、ぜんぜん遠くのほうで恨んで、拝んだりしてあれすると、そうすると、ぜんぜん離れたところの葵の上がなんか、着物に線香の匂いがするみたいな、つまり、そういう、いまで言う超能力ですけど、過敏な察知の世界っていうのが、『源氏物語』の構成のいちばんポイントになっているのは、そういうところです。
その世界に出てくる人間はみんな神経過敏だといえば神経過敏、つまり、病気だよっていうことになるわけですけど、非常に高度な心理を心得た、当時でいえば、教養もいちばんある、そういう人間たちなんですけど、そういう人間たちがつくっている共同体の、一種の過敏な察知の世界っていうのが、『源氏物語』全体をおおっている構成のポイントだと思います。
それと、三島さんの豊饒の四部作を、そういう言い方でいいますと、これは輪廻転生が、この作品の世界をおおっている根本的な結節点っていいますか、原則です。つまり、全部、一巻から進んでいくにつれて、死んだ清顕の生まれ変わりが二巻にいってっていうふうなかたちで、つまり、輪廻転生していって、主人公たちが輪廻転生していくみたいなことが、三島さんの『豊饒の海』の非常に大きな特徴になっていきます。これが、『源氏物語』と違うところです。
 それから、もうひとつは、三島さんも近代小説のあれを心得ている人ですから、所々で、こういうのはかえって付け加えないほうがいいんじゃないかなと思えるような、年も相当くってきた主人公清顕に、友達に本多っていう人物がいるんですけど、これが、夜陰において、上野の公園か、森かなんかに行って、公園の木陰の暗いところで、男女が逢引して、性行為しているみたいな、そういうところをのぞき見するところなんかが出てくるんです。
そうすると、なんとなくそこだけが鮮やかに、作品のなかで、鮮やかでかつ卑しくみえてしまって、あとは非常に典雅な世界が展開しているんですけど、そういうところは、所々あるんです。こういうのはちょっと、やらずもがなだなというふうに思うところがあります。
それは、しかし、近代作家としての三島さんのやむをえざる手法なんで、それは、入ってくるわけで、根本をいうと、『源氏物語』と同じで、目鼻パッチリ、身分の非常に高い、生活に困らない人たちの男女が、相関係するみたいな、そういう世界であって、それが『源氏物語』とすこしも違わないっていう世界で、ぼくらは、半分はすこし照れくさいなと思いながら、読まざるを得ないで、どうもそこまでいっちゃうと、なんか信じがたいことがいろいろあるわけです。
信じがたい世界っていうのは、ほんとにあるのかなっていう、つまり、われわれからは推察もできないような、そういう世界っていうのは、ほんとにあるのかなっていうような、そこの世界の人間っていうのは、ぼくらと感覚が違い過ぎるのかなって、ほんとに違うのかなって、そんなやつに、少なくとも、ぼくは周辺ではお目にかかったことがないから、もっと世の中にはいるのかもしれんなっていうふうに、そういう世界をおれは知らんのだなっていうふうなことなのかもしれませんけど、そういうことは、これはよくわからんよっていうのと、三島さんがそういうところに、最晩年に、自分の作品の世界を求めたっていう根拠っていうのも、ほんとはわからんなって、おれは三島由紀夫っていうのはわかっているつもりで言ってるけど、ほんとは、この人はいったい何を考えていたかっていうのは、ちょっとわからないなっていうところがあります。
わからないなっていうことっていうのはあるわけです。これは、反対の場合にもあります。つまり、大江健三郎さんの世界っていうのも、わからんなこれはっていうところはたくさんあります。ぼくだったら、こうは言わないなとか、いろいろあります、わからないところは。だからあんまり、わかったと思わないほうがいいみたいなところがあると思います。あるような気がします。
今度は、村上春樹さんと、村上龍さんの世界と、地続きのいまっていうのを、もし触れられたら、すこし、それにも触れてみたいっていうふうに思います。いちおうこれで、休み時間だそうですから終わります。(会場拍手)

18 〈現在〉を象徴する龍、春樹

 村上春樹さんと村上龍さんに触れながら、戦後の文学の現在といいましょうか、50年の終わりといいましょうか、そういうことをお話するのが後半なわけです。第一に申し上げたいことは、村上春樹さんも、村上龍さんも、たいへんたくさんの読者をもっていて、しょっちゅうベストセラーみたいな作家であるわけです。だから、ベストセラーの作家っていうことはかならずしも、代表的ってことを意味しないですけど、しかし、そういう面じゃなくて、実際問題として、ぼく自身は、村上春樹と村上龍さんっていうのは、ある意味で、50年の終わり、あるいは、現在を象徴するに足りる優れた作家だっていうふうに、ぼく自身はそういう評価をしてきたわけです。
これは、第一に言っておかなきゃならないのは、疑問の余地は出ておりまして、つまり、旧来の戦後文学、あるいは、戦後派文学、あるいは、純文学と大衆文学っていう場合に、純文学ですけど、純文学的な理念っていいますか、考え方からいうと、村上春樹とか、村上龍の作品っていうのは、疑似純文学っていいますか、つまり、プシュウド性をも含んでいる疑似文学、疑似戦後文学、あるいは、疑似純文学だっていうふうな評価っていうのは、かなりたくさんあるわけです。
つまり、まず、日本の文芸批評家って老若男女おりますけど、そのなかで、村上春樹さんとか、村上龍さんが、純文学、あるいは、知識純文学の中心、あるいは、先端だっていうふうな評価に対しては、異議申し立てっていうか、異論を持っている人のほうが多いと思います。ほとんどはそうじゃないかって、ぼくは思っています。
ここが、現在の問題でありますし、これからもいちばんの問題だと思いますけど、ぼくはそう思ってなくて、日本の知識純文学の中心っていいましょうか、中心っていうのは、かつては、これらを包括して成り立っていた、だから、誰でもいいんですけど、ほぼ同年代っていいますか、ひとつ前の年代でいえば、大江健三郎さんの文学作品と、村上龍、村上春樹の作品とは、かつては、初期の頃は、一体だと考えて、ちっとも不思議はなかったっていうふうになります。
村上龍さんでいえば『コインロッカー・ベイビーズ』で、村上春樹さんでいえば『風の歌を聴け』っていう初期の作品がありますけど、そういう作品を見ていると、ようするに、大江さんの作品とおんなじ範疇に入って、それで、ただ、大江さんよりは軽いよっていうことと、あんまり対社会的なことは、あんまり主題になっていないってことと、純文学のなかでは、軽いよっていうふうに、ひとまとめにすることができたんだと思います。
その頃だったらまだ、文芸批評家は、評価が分かれるってことはなかったんだと思いますけど、年月が経過して、それぞれになってきたときに、ぼくは、文学とはなにかっていう問題意識に対して、それに答える知識人の答え方っていうのが、はっきりと明らかに分離してきちゃったっていうことが、現在の非常に大きな特徴だと思います。
どちらが偽物で、どちらが本物の知識文学でとかって言って、これは争っても致し方がないっていうのが、ぼくの考え方でして、ほんとうは、かつては、同じひとまとめの知識純文学だっていうふうに言えていて、ただ、軽いとか、重いとか、主題が重いとか、主題が軽いとか、倫理的だとか、そうじゃないとか、政治的だとか、そうじゃないとか、そのぐらいのことを言えば済んでいたんですけど、だんだん時代が進みましてっていいましょうか、時代が進んでいき、また、作家それぞれが、自分の道を固有の道を歩み始めたっていうふうになってみると、あきらかに、知識純文学っていうもの自体が、いままでひとつと思われていたものが、はっきりと分かれてしまった。分かれて、どっちを知識純文学っていうものの本筋として取るのかっていうようなことが、問題になってくると思います。
それは、ぼくは何も言うことはないので、それぞれの問題意識で、これのほうが正しいんだっていうふうに、いい純文学なんだっていえば、よろしいわけで、ぼくはそれでも、純文学っていいましょうか、知識純文学の主流っていいましょうか、主な筋っていうのは、この、村上春樹、村上龍のところに移っていったなっていう、つまり、この移っていったっていうことが、どういうふうに評価されるべきかっていうことが、たぶん、戦後50年の50年目の課題、あるいは、50年から51年目にかけての課題っていうのは、そこが根本なんじゃないかっていうふうに、ぼくは考えています。
それは、これからの展開によってどうかわからないわけですし、この人の展開が、文学作品の価値の全体を決めるかっていうのは、まったくそれ以上にわからないわけで、これは、文学作品っていうのは、ある時代の作品であれ、『源氏物語』っていうのを例にとれば、『源氏物語』っていうのは、ようするに、別な面からみると、ものすごいジャーナリズム小説なんです。つまり、当時の誰それ皇子が、失恋して失踪したとか、そういうのが全部入っているわけです。その人の風俗的な事件っていうのは、ぜんぶ非常によく入っています。
だけども、いま読むと、その面が沈んじゃっているし、ぼくらもわからなくなっちゃってるからあれだけど、よくよく見れば、当時あった事件で、人が騒いだ事件っていうのは、つまり、宮廷ではこういうことがあったそうだぞとか、そういうような事件っていうのは、ことごとくと言っていいくらい、たいへんよく作品のなかにおさめられてあります。
ある作品が非常に長生きするかどうかっていうのは、偶然性にもよりますけど、いずれにせよ、風俗性ってことと、それから何かわかりませんけど、何かがわからない、永続性みたいなものですけど、その両方がないと長生きはしないってことだけは言えそうな気がします。
そういうふうにいいますと、大江さんの作品と、村上春樹や村上龍の作品と、どっちが残るか、どっちが筋かっていうことは、なかなか相当長期にわたって見ていないとわからないってことは言えると思います。ただ、眼前の問題としていえば、いままでは同じ範疇に入ると思われていた作品が、どんどん分離してきて、かたっぽからかたっぽを見ると、偽物だこれは、偽物の知識性だ、あるいは、風俗小説性だっていうふうに断罪することもできるでしょうし、かたっぽからまた見ると、わけのわからないことを書いて、読む気もしないなっていうふうなっていう読者が多くなったっていうこともありうるわけです。それは、仕方がないから好みの問題だっていうふうにでも言っとくより仕方がないような気がします。

19 日本の純文学にはなかった村上春樹のスタイル

 ただ、いまも出てきましたように、たとえば、村上春樹さんの作品をとってくると、特徴がいくつかあげられるわけです。特徴というのは、いわば、新しい特徴といいましょうか、かつて、こういう形式は、日本の文学作品のなかでは、とくに純文学作品のなかでは、こういう形式はなかったんじゃないのと思われるような、特色は、いくつかあげることができます。
第一にあげたいことは、ようするに、一種の任意小説だっていうことです。これは、ぼくの乏しい読んだ経験でいっても、たとえば、アメリカのカート・ボネガット・ジュニアなんかの作品っていうのは、一種の任意小説だと思います。つまり、これはだいたいエッセイを書くつもりなのか、作品を書くつもりなのかわからないみたいな、短章を、あるときにはエッセイ的に、あるときには物語があるように書いた短章、それを積み重ねていって、それがあるつながりをもったときに、それは作品だって言っちゃうみたいなところがあります。その種の影響と思いますけど、村上春樹さんの小説なんかは、そういうやりかたが非常に多いわけです。
それを任意小説といいますと、ほんとに任意につくられている、ある短章では、一種エッセイで、自分のなにかについての意見を、季節についての自分の意見を言ったっていうようなことがくるかと思うと、つぎには、物語的な筋があるような短章がやってくる。こういうふうなことが、繰り返されていると、たまには、たった2行ぐらいしかない短章もあると、そういうことの形式的なこだわりとか、内容の文体的なこだわりとかっていうこと、それから、主題のこだわりとかっていうのは一切なくて、一種の任意小説といいましょうか、任意につくられていっちゃった小説だ、あるいは、書いているうちにひとりでにこういうふうに固まってきちゃったっていうふうにも言えそうな、そういう作品のスタイルっていうのが、非常に大きな特徴だっていうふうに思います。
それから、もうすこし特徴をあげてみるとすれば、登場人物がいて、登場人物が生活している環境があって、その関わりがあって、なにか事件が起こり、物語がはじまるっていうような、そういう意味合いの環境と、登場人物そのものの性格・性質あるいは、生活の仕方っていいますか、そういうものとの区別っていうのは、あんまり、意識的につけていないっていいましょうか、つまり、これは、それぞれの生活、風俗を背負った人物っていうのを、登場人物にしているなっていうふうに解釈しちゃったほうがいいんじゃないかっていう、そういうつくりかたをやっていると思います。
これが、村上春樹さんの作品を非常に通俗性に近づけている、あるいは、たくさんの読者を獲得する方向に近づけている要素なんじゃないかっていうふうに思われます。
つまり、そういうことについて、規範があらかじめ作家の中にあって、規範に則って、構成が丁重に考えられて、完全なきやりかたで、人物の設定がしてっていうような、それで書き始めてっていうようなことを、もちろんしているんですけど、していても、あたかもそんなことはしていないんだと思う、つまり、行き当たりばったりでこう書いてみたら、ちょっと思いついて、こういうのが出てきたから次の小説に書こうっていう、そうしたら、そういうふうにやっているうちに、なんか膨らんできて、なんとなくひとつの筋らしきものが出てきたってなっちゃったって、そういう構成、コンポジションがどうだっていうことについて、はじめから予定調和的になにかがあってとか、そういうことなしにできちゃったんじゃないのかっていうふうに思えるところが、非常に多いっていうことです。
これは、日本の作家では、ちょっといないんじゃないかと思います。たとえば、朔太郎の散文詩みたいなものは、すこし似ているといえば似ているんじゃないかなっていうふうに思える程度で、非常に行き当たりばったりといえば、行き当たりばったりだし、あるいは、無意識のメタファーがたくさん散りばめられてて、それで、メタファーがまた次のメタファーを呼びっていうようなかたちで作品がつくられていく、はじめから小説はこういうスタイルでこう書くんだみたいなのは、いっさい考えられていないで書き始められているっていうことが言えると思います。

20 『風の歌を聴け』の鮮明な比喩

 とくにそれは、初期の代表作である『風の歌を聴け』っていうような作品に、とくにそういうようなことは目立っていると思います。ぼくは、好きな作品だったですけど、その作品から、村上さんは、だんだんと構成を緻密につくるっていうようなことに、だんだん進んでいったってふうに思います。
それでもぼくは、そんなにきちっと人格を決めておいて、登場人物の性格もなにも、かかわり合いも決めておいて、はっきりとあれしてつくったっていうふうには、ぼくはないような気がします。
ですから、これは、人の読み方、考え方によるんですけど、村上春樹さんの作品を読むには、半分は、流れで読まないといけないんじゃないかって気がします。中に書かれている意味で読むことも、ひとつ大切なことなんですけど、もうひとつは、流れで読むっていいますか、リズムで読むっていいますか、こういう流れを表現しちゃったら、次の流れができてきちゃったんだっていうふうなかたちで、流れとして読むっていいましょうか、リズムとして読む、リズムとしてこっちへ入ってくれば読めるんだっていう、そういうことを非常に大きい要素で考えないと、村上春樹さんの作品に、うまくぶち当たれないんじゃないかなっていう感じ方を、ぼくは持ちます。これは、ふつうの人よりも余計に、物語の意味が大切っていうより、流れが大切だというふうに読むことが重要なんじゃないかなっていうふうに思います。
また、逆にいいますと、そういう面が、村上さんが多数の読者を獲得する所以でありますし、また、批評家のうるさがたからは、なんか、こいつのは疑似的なインテリ文学だよっていうふうに言われちゃいそうな要素っていうのは、ぼくはそこにあるような気がいたします。ただ、好き嫌いだから、好きなものは好きなんだとか、嫌いなものは嫌いさって言う以外にないっていうようなことになれば、それは別問題だと思います。
それから、そうだったら、誰でもこれを書けるかっていうと、ぼくにはそうは思えないんです。非常にそういう意味合いでは、流れで無意識に書いて、無意識がまた無意識を生みっていうふうに、いっけん書かれているように見えながら、そういう言葉でいえば、対象の選択力が非常に強いんです。
ちょっと例をあげてみましょうか、たとえば、主人公と親友の、「ねずみ」っていうあだ名のことの出てくるところなんですけど、「ひと夏中かけて、ぼくとねずみが、まるで何かにとりつかれたように、25mプール一杯分ばかりのビールを飲み干し、ジェイズ・バーの床いっぱい5センチの厚さに、ピーナッツの殻をまき散らした。」っていう描写があります。
つまり、この種の描写は満ち満ちているわけです。こういう非常に、対象に対する執着心がないような距離感でもって、非常におおづかみに対象をつかんで、そのおおづかみの掴み方が、ただ、この人は対象選択力っていうのが、非常に強い人だっていうふうに、ただ思わせるだけっていうのと、いま読みましたように、おおづかみに掴みながら、しかも、ちょっと奇天烈な、奇妙な着想ができる人だなっていうことになると思います。そういう部分と、それが満ち満ちているわけです。
つまり、ひと夏中、ずいぶん、ふたりでたくさんビールを飲んだっていうのを、べつに25mプール一杯分ばかりのビールを飲み干しっていうことはないでしょうって、つまり、ほんとはそんなに飲んでないでしょうってことも言えますし、そういうのは、誇張でしょうとも言えますし、だけど、こんなおもしろい言い方っていうのはないでしょうって考えれば、ものすごくおもしろい言い方ですし、ものすごく大雑把な言い方です。
つまり、非常に強力に対象をつかんで、これとこれっていうふうにつかめば、この間は、読者のほうがひとりでにつないでくれるんだってことについての、ある確信がありまして、それは非常に最大限に発揮しているように思います。
これが、村上さんの才能だっていえば、才能だと思います。この才能は、ちょっとなかなか真似できないってなります。ふつうだったら、こういう対象選択力を強力にして大雑把にするっていうよりも、ふつうだったら、緻密にするっていうふうなやりかたをしそうな気がします。でも、そこはこの人の才能だと思いますけど、めちゃくちゃ大雑把なことを言って、嘘だか、ほんとだか、そんなことはかまわないから、とにかく、読んだ人がつながればいいんだっていう、読む人が流れとしてつなげてくれればいいんだっていうくらい、非常に大雑把な、奇妙な言い方をします。
これは、上のほうから、大雑把につかんだ言い方だと言いたいところですけど、かならずしもそうではありません。ただ、非常に奇妙なっていいますか、おもしろいことを言う人だな、おもしろいつかまえ方をする人だなっていうふうに思います。ジェイズ・バーの床いっぱい5センチの厚さで、ピーナッツの殻をまき散らしたっていうけど、それも嘘でしょ、そんなことはないでしょうっていうふうにいえばそうなんだけど、誇張でしょうって言えばそうなんだけど、詩的にいえば、非常にいい比喩の仕方だと思います。鮮やかに、いっぱい飲んだなってことの、飲んでピーナッツをあれしてってやったなってことの比喩としては、たいへんいい比喩だってことは言うことができます。
これは、村上さんの才能のいちばんはじめにあるもので、これがうまくやれているか、やれてないかってことの問題が、村上春樹さんの作品が、どういうふうになっていくかっていうことを占う場合に、いちばん重要なことのような気がします。
それから、ここでも25mプールとか、5センチの厚さとかっていうふうに、数字がやたらに出てくるでしょう、こういうのは特色です。数字が出てくるのと、やたらに、冷蔵庫を開けて、缶ビールを取ってなんとかとか、肉の残りを炒めてなんとかっていうような、そういうのは、よく出てきますけど、つまり、食べることに対する非常に興味深い描写ですけど、そこまで描写したって、読者はあんまり読まないぜっていうようなところまで深く、食べるものの具体的な品物やなんかを描写しちゃったりなんかするっていうのは、そういうのは、非常に村上さんの大きな特色です。
違うところの例であげてみますと、「「それはそうさ、みんないつかは死ぬ、でも、それまでに50年は生きなきゃならんし、いろんなことを考えながら50年生きるのは、はっきりいって何も考えずに5千年生きるよりもずっと疲れる、そうだろう。」そのとおりだった。」っていう描写の箇所がありますけど、こういうのも、村上さんの非常に大きな特色です。
このことがうまくこなせて、それで、ようするに、はじまりはエッセイだったんだとか、エッセイだったんだけど、なにか思いついて、筋のあることを次の短章で書いてとか、また、ちょっと注釈をつけて、ひとつの短章をつくったら、そしてまた今度は、なにかエッセイでもって意見を申し述べて、それが次の短章を構成したと、この種の構成の仕方をしているってことは、ぼくの理解の仕方では、この人は、詩の心得がある人です。詩を書いたことがある人だと、ぼくは思います。
それを、ほんとに自然に膨らませていって、作品にしているっていうふうに思います。その作品が、独特の文体を形成していってるっていうふうに言えると思います。この種の描写っていうのは、たとえば、描写っていうのはリアリズムでなきゃいけないんだっていうふうに考える考え方とか、リアリズムよりも、もっと微細な描写の仕方をするのが、作品のひとつの形成の仕方だという考え方をとる人からみると、やっぱり、ものすごく通俗的に見える箇所だっていうふうに思います。
つまり、村上春樹さんの作品が通俗的に見える箇所っていうのは、そういう意味の、なんともいえない誇張したメタファーが使われてとか、誇張した直喩が使われてとかいうようなこと、誇張してるんだけど、しかし、非常に鮮明なイメージが湧くっていうような、そういうメタファーとかが使われているっていうようなことは、こんな馬鹿馬鹿しいと思って読む人から比べると、こんなつまらない比喩はないっていうような言い方になってしまうんじゃないかっていうふうに、ぼくはそう思います。
しかし、それは違うのであって、やっぱり、村上さんの非常に大きな才能の持ち方っていうのを、ひとつ象徴しているんだと思います。それから、わりあいに、詩的な叙述の仕方っていうのを、どうやったら、ふつうの文書にふくらませられるか、それから、どうやったら注釈的な、つまり、文芸批評的な文体をつかって、それをそのまんま、小説作品に引き伸ばしていくには、どういうふうにやったらいいかっていうことについては、たいへんよく考えてありますし、また、たいへんな才能がある人だなっていうふうに思えば、そういうふうに思えると思います。
また、逆にいいますと、そういうふうに思える箇所が、読者にとってそういうふうに思える箇所が、批評家にとって気に食わないと思える箇所だっていうふうに言うことができると思います。

21 「家庭小説」ではなく「男女小説」

 もうひとつ言えることは、どうせ日常生活に起こってくる男女の問題とか、そういうものが、いちばんなってくるわけですけど、けっして家庭小説ではないんです。男女小説でありますけど、家庭小説になっていない。だから、たいてい独身の女性が、マンションかなにかで一人暮らしをしていて、どこか勤めていて、それで、帰ってきてどうしてとか、女性が仲良くなって、マンションへ連れてきて、自分は冷蔵庫からなにか取り出して、おかずをつくって食べさせてあげてっていうような、それで親しくなるみたいな、いずれにせよ、独身に近い男性で、父母累系、子どもっていうのが、あんまりない人間が主人公になって出てきます。
それは、たいへんな特色です。これは、大江さんと比べても、たいへんな特徴というふうになります。大江さんだと、やっぱり、子どもが出てきたり、親が出てきたり、おじさんが出てきたり、いっぱい出てくるわけですけど、そういうのは、あんまり出てこないんです。個人個人なんです。個人個人が、こんなに優雅に暮らしていていいのかねっていうくらい、マンションの一室を借りて、勤めはしてるんですけど、優雅な暮らしです。
そういう主人公が、動きやすい作品だっていうふうにいえば、動きやすい作品ですし、風俗として、両村上さんの時代の風俗っていうのは、そういうのがわりあいに多くなっちゃってるっていいますか、独身の男女が都会に出て、アパートかマンション暮らしをしていて、夜は自由な時間を持っているっていうような、そういうやりかたっていいますか、生活の仕方がひとつのスタイルとして定着してしまったっていうようなことっていうのは、社会変遷の問題として、社会が移り変わったっていう面としては、やっぱり、そういうことが言えるんじゃないかっていうふうに思います。
そうすると、そこでの登場人物っていうのは、おのずから、そういう環境で動きやすい人物、つまり、結婚して、子どもがたくさんいて、お守りをしなきゃならない、外へも出ていけないみたいな女性は出てくるわけにはいかないっていうか、出てきにくいわけです。だからやっぱり、独身で、アパート・マンション暮らしをして、勤めはしているんだけど、帰ってきたら自由だっていう、そういう男女っていうのが主体になって、それで、作品が展開される。
これは、時代的な特徴っていうのと、それから、作品としての特徴っていうのとが、いわば、いっしょにくっつき得る、つまり、交わりうる場所でいえる非常に大きな特徴だっていうふうに思うことができます。
それから、大なり小なり、小説作品ですから、構成、コンポジションっていうのを考える場合に、小説作品ですから、大なり小なり、なんらかの結節点っていうのはあるわけです。つまり、ここまで展開して、ここまで描写しちゃったら、この章ならこの章でいえば、あるいは、この作品でいえば、究極のところで、いちばんいろんなことが解決しちゃったり、あるいは、ダメになっちゃったりする、スリルがいちばんあるところだっていう結節点っていうのが、いくつかこういうふうにこしらえられていて、それで、それが、構成、コンポジションっていうのをつくっているわけですけど、村上さんの場合のコンポジションっていうのは、風俗をそういうふうに背負っている男女が出会って、そして、両者の風俗が合致したり、あるいは、すれ違ったり、あるいは、会わなくなっちゃったりってことが、そういう一種の結節点として、ひとつ定点みたいなのがつくられていることです。
つまり、具体的にいいますと、村上さんの作品のなかで、いちばん結節点、あるいは、定点が多いのは、見知らぬホテルっていいますか、旅館っていいますか、そういうのであったり、見知らぬ土地であったり、それからあるいは、見知らぬっていうほうじゃなく、よく見知るほうでいえば、よく見知っている行きつけの酒場であるとかっていうような、かならずある物語の展開の仕方に対して、ある点と丸があるとすれば、点や丸を打ちたいところへきたら、そういう結節点となる、結節の定点となるものが、そんなにたくさんじゃないんです、ホテルとか、山とか、飲み屋さん、バーだとか、そういうところなんですけど、大したあれじゃないんですけど、そういう結節点をちゃんとつくって、そこで、両者の風俗的な動きが合致するみたいな、そういうところをちゃんとつくってあるってことが、非常に、村上さんが長編小説を、つまり、『風の歌を聴け』みたいな、短章を積み重ねていって、一種の長編をつくるっていうようなつくり方から、コンポジションを考えてって考えたときに、村上さんがやっているのは、そういう数少ないですけど、そういう結節点をつくるっていうこと、それから、日常生活でいえば、よく缶ビールを飲んだり、冷蔵庫を開けて、なにか残っているものでおかずをつくって、それを肴にして酒を飲んだりっていうような、そういう場面が非常に多く出てくるっていう、それはもう、一種の結節点になっているってことが、そういう場面をつくることで、短章を積み重ねて、ひとつの小説にしていくっていうやりかたを、ひとつの長編小説にする場合に、そういう結節になる定点っていうのをいくつかつくることで、それをやっているように、ぼくは思います。それが、村上さんの小説の構成の、いちばん特徴だっていうふうに思います。

22 生活のなかでのリズムの発見

 それから、これは、村上さんの作品をベストセラーにしている要素だと思うんですけど、これは先ほどのリズムっていうことも交えてなんですけど、読んでいて、相当重たいとか、重苦しいこととか、嫌なこととかっていうのが、相当長編のなかには入ってきたりするんですけど、描き方が、悪くいえば投げやり、よくいえば非常にスパッと冷静沈着にやっているものですから、読んでいるほうは、意味としては深刻な物語の文があるんですけど、それを、そういうふうには受け取らないで、やっぱり、こういうことがあっても、人間というものは、流れっていいますか、自分のリズムっていうので、処理していくことはできるんだなっていうことを思わせることがあるわけです。
これは非常に重要な、村上さんの小説の重要な点で、つまり、にっちもさっちもならないできごとがあって、にっちもさっちもならないところを描写すれば、ふつうのかなり重苦しい純文学っていうのになるわけですし、また、そういう登場人物がそうだってやれば、かなり重苦しい物語ができあがるわけですけど、村上さんのなかに、けっしてそれがないことはないんですけど、あるんですけど、リズムに乗れば、人生っていいますか、人間っていうのは、そうとう難解な、難物な事件にぶつかっても、自分のリズムさえ戻ればっていいますか、取り戻せればとか、それが使えれば、たいてい解けるもんだよっていうことを、村上さんの小説は言っているところがあるんです。感じさせるところがあるんです。
それは、読者に無意識に感じさせるところがあるし、そうじゃなくて、意識的に感じさせると思っている方もおられるでしょうけど、それは、村上さんの作品を、非常にたくさんの読者に読まさせている問題だと思います。これが、村上さんの小説を新しくしている問題でもありますし、一種、軽みっていうのをくっつけさせている問題だと思います。
この軽みっていうやつは、ぼくらみたいな年代のやつがいくらがんばったって、軽みっていうのは、やろうと思ってできないのです。ほんとうならば、ぼくも流行りたいですから(会場笑)、相当深刻なことでも、うまく軽い文体でやったら、ちゃんと読むに違いないっていうふうに、そうなると思うから、軽くしよう、軽くしようっていうふうに、工夫を自分なりにするんですけど、どうしても限界があって、自分以上のことっていうんですか、以外のことはできないもんだよなっていうふうに思うわけですけど、軽みっていうのはとれないんですけど、これはやっぱり、村上さんの大いなる特徴じゃないでしょうか、軽みっていうのが、時代的な背景としても、それから、自分の作品の描き方としてもできちゃっているってこと、描き方っていうのは、いってみればリズムです、ぼくに言わせれば。リズム感です。
生活のなかで、自分のリズムを取り戻せたら、しめたものであって、たいていの難問題っていうのは、難事件っていうのは、当面しても大丈夫だよって、切り抜けられるよってことは、人間にはあるわけですけど、それを、村上さんの作品は、ひとりでにやっております。
これは、大江さんのあれと大いに違うところです。大江さんのは、逆に、ちょっとリズムでやっちゃえばいいのになっていうのを、わざときつくしているところが、きついのがいいんだっていう観点が価値観としてあって、きつくしているところがあります。でも、きついからいいかって、そうでもないんです。ほんとうの理想は、きついのを軽くできたらいちばんいいなって思うんですけど、それはなかなかできないので、それは、村上さんが、つまり、時代の要請もあって、ひとりでにできちゃっていることがあります。
これは、非常に重要な要求だっていうふうに、ぼくには思えます。それが、村上さんの小説を流行らせているっていうか、よくしている理由だと思います。村上さんの場合、才能だっていうより仕方がないところがあります。つまり、強力な選択性で、先ほど言いました、対象に対する選択性が強力なものですから、強力な選択性の、こことここへ描けばいいっていう、それが決まると、そこへ思い切ってやってしまいますから、ふつうの人だったら、おっかなくて、このこととこのことがつながるのかねって思うから、たいていやっぱり、ちょっと緻密に描写しちゃったりするんですけど、それをやらないで、思い切ってやっちゃいますから、強力な選択性で、この対象とこの対象をくっつけられるっていうあれを獲得しちゃってますから、それは非常に利益になっていると思います。対象を強力に選択するっていうやりかたも含めて、非常に有利にそれをしているように思います。
それは、極端なことをいいますと、たとえば、ちょっと読んでみましょうか、「ぼくは21歳で、すくなくとも、いまのところは死ぬつもりはない。ぼくはこれまで3人の女の子と寝た。」っていうふうに書いてある。また、その3人っていうのが2行くらい書いてある。「最初の女の子は、高校のクラスメイトだったが、ぼくたちは17歳で、お互いに相手を愛していると信じ込んでいた。夕暮れの茂みのなかで、彼女は灰色のスリップオン・シューズを脱ぎ、白い綿の靴下を脱ぎ、淡い緑のサッカー地のワンピースを脱ぎ、あきらかにサイズが合わないとわかる奇妙な下着を取り、すこし迷ってから腕時計も取った。それから、ぼくたちは、朝日新聞の日曜版の上で抱き合った。」っていう(会場笑)、これで、ひとりの女の人との仲が終わっちゃうわけですから、これほどあっさりしたことはないと思うけど、あなただって、すったもんだっていうのがあったでしょうって、つい言いたくなるほど、対象選択が非常にはっきりと強力にできています。
できているくせに、たとえば、朝日新聞の日曜版の上で寝たっていうと、それはちょっと今度は、おもしろいことを言う人だなって、おもしろいことを考えつく人だなってなります。つまり、おもしろい才能を持っている人だなってこともちゃんと含まれています。
この種のことが、村上さんの作品を、非常に重たいできごとなんだけど、それを軽くさせている要素だと思います。それじゃあ、この人の作品っていうのは、何もないのかっていったら、ぼくはそうじゃないように思います。
これは一種の、そういう言い方をすると、上昇する感性みたいなのがあって、その上昇する感性が非常に気持ちよく出ているってことがあると思います。なにか人間が対象にぶつかって、気持ちよくなるときと、気持ち悪くなるときと、それから、まあなんとも思わないことがあるとすると、村上さんの描いている世界は、人間を気持ちよくせる事件、事柄に満ちていると思います。対象自体がそうだと思います。
それから描き方も、いま言いましたように、強力な選択であって、ちょっとこんなことをごたごたやっていたらかなわんよっていうような、そういうところはちゃんと描写しないで、この対象とこの対象をつなげてやれってことで、強力に文体でつなげていって、それをリズムで補っているっていうやりかたをしています。それがやっぱり、村上さんの作品の特徴でもありますし、これが村上さんの作品を非常に優れたものにし、また、たくさんの読者にしているところだと思います。

23 『羊をめぐる冒険』の試み

 これは、村上さんの『羊をめぐる冒険』っていうのが、一種の変わり目なんですけど、『羊をめぐる冒険』っていうのは、村上さんが、そういうリズムと、対象選択力だけで処理した主題と構成っていうのを、『羊をめぐる冒険』ではじめて、それ以外の、本来ならば社会的な分野に属するっていいますか、社会的な作家と言われているような人たちだけが関心を持つような世界に、はじめて手を伸ばした作品っていうのが、『羊をめぐる冒険』だと思います。
この『羊をめぐる冒険』っていうのも、作品として、たいへんよくできている作品だものですから、ちょうど結節点になるわけですけど、この作品を、よくできたっていうところから、村上さんが急速に作品の書き方っていいますか、つくり方を心得たなっていいますか、そういうことっていうのはあるわけですけど、つまり、やったなっていう感じだと思います。
それだから、『ノルウェイの森』とか、『ダンス・ダンス・ダンス』っていうのもそうですし、いまの作品で、まだ終わってないですけど、『ねじまき鳥クロニクル』という作品がありますけど、これらの主題っていうのは、何かっていうと、社会派の人たちが手を伸ばすべき、触手を伸ばすべき主題に、自分の方法で手を加える場合には、どうしたらいいかっていう心得を『羊をめぐる冒険』で会得したんだって思います。会得することによってはじめて、そのあとの作品のつくり方っていうのが、できあがっていったんだっていうふうに思います。
たぶん、『ノルウェイの森』あたりからもう、読者の数は圧倒的に多くなったんじゃないか、桁が違うほど多くなったんじゃないかと思います。それは、ほんとならば、社会派の人たちが手を伸ばすべき問題に対して、村上さん流の手の伸ばし方と、それから、方法は、それほど変えていないです。それほど変えないで、そのやりかたができるっていう、自分なりにできるっていうふうに考えまして、それでやったんだっていうふうに思います。
そうすると、どういうふうにできるのかってことが問題になるわけですけど、ぼくの理解の仕方では、村上春樹さんって人は、ひとつの自分の特異の世界っていうのと、それからリアルな世界っていうのと、もうひとつ、特異な世界に違いないんですけど、社会性、つまり、共同的な人々の体験の世界がつくりあげる、そういう世界の意味っていうのがありますけど、その意味とが合わさった世界っていうのをこしらえることができるっていう、それをこしらえるためにはどうするかっていうと、ある一点を、たとえば、いままでの、『羊をめぐる冒険』までのやりかたと、それから、たとえば、『ノルウェイの森』のやりかたとどこが違うんだっていう、あるいは、どこが違えているかってことの問題になりますけれども、『羊をめぐる冒険』では、ようするに、まだ、恐る恐るっていったらいいんでしょう、社会派の人たちが突っ込むべき問題を、恐る恐る当面しているんです。恐る恐る描いている描き方をしているんですけど、もう『ノルウェイの森』になると、わかったっていう感じだと思うんですけど、非常にはっきりした世界をつくりあげていて、どうすれば、これができるかっていうと、ようするに、『羊をめぐる冒険』までの世界に対して、新しい、社会派が当然取り上げるべき世界を含んだ、そういう世界の作品をつくる場合には、一か所だけ謎をつくればいいんだ。一か所だけ不明な点をつくればいいんだってことだと思います。
これは、ぼくの理解の仕方では、かなり意識的だと思います。つまり、推理小説でいえば、ここをやれば解けるっていうキーポイントがあるわけですけど、それとおんなじように、一種の謎めいたところをこしらえて、その謎めいたところがわかれば、この作品の世界、つまり、本来、社会派が取り上げるべき問題を含んだような、この世界の問題が解けるんだよっていう、わかるんだよっていうような、そういう作品の場合に、一か所だけ、謎めいた世界をつくるっていうことだと思います。
ですから、世界をふたつの層にして、わかりやすい世界と、ちょっとわかりにくい世界があると、しかし、ここに謎めいた描写の箇所、あるいは、結節点、あるいは、先ほどから言っている、ひとつの定点なんですけど、コンポジションの定点なんですけど、その定点に謎めいた要素っていうのをひとつこしらえたら、この作品はできる、つまり、社会派が描くべき要素が入っているような、わりあいに全面的な作品ができるって確信を、村上さんはつかんだんじゃないかっていうふうに、ぼくには思います。
だから、『ノルウェイの森』から『ダンス・ダンス・ダンス』なんかも含めて、それから、『ねじまき鳥クロニクル』も含めて言えることは、みんなおんなじ作品じゃないかっていえばおんなじ作品です。『ねじまき鳥クロニクル』の男の主人公だけが、妻帯しているんだけど、いま失業中で、まだ新しい職は見つからないので、うちでまだ炊事当番を代わりにしてたりっていうふうになっていて、結婚はしているんだけど、半分、離婚しているとか、別居していると同じようになっているっていうふうに、そこはちょっと違いますけど、あとはぜんぶ同じで、主人公は決まってんだって、そういうふうになっています。
そういう世界っていうのは、わずかにそこしか違わないので、あとは、結節点にある謎めいた描写の仕方、こんなものは謎めかせなくてもいいんですけど、謎めかせてあります。謎めかしますと、読みようによっては、ちょっと読み違えたりすると、矛盾じゃないかな、おかしいなと思ったりしますけど、ほんとうはそうじゃないと思います。ちゃんと考えられてつくられたと思いますけど、あんまり、描写をわざとっていいますか、非常に意識的に曖昧模糊としているっていうようなところがありますから、それはそういうふうになるわけです。
ここは、推理小説でいえば、謎に該当するんですけど、村上さんの小説でも、非常に作品の世界をおもしろくしている要素は、その謎めいたところにあると思います。その謎めいたところによって村上さんは、自分の作品の世界を非常に広げて、社会派が取り上げる分野にまで、手を伸ばしていったっていうことができます。
これはやっぱり、読者にとってはちょっと、読者からみると、こたえられないなっていう、世界が広がって、リズム感はちゃんとありますし、出力はありますから、これはこたえられないってことになると思いますし、また、批評家からいえば、なんでわざとわかりにくいような描写をするんだとか、なんでこれは映画や、怪奇小説の一コマを見ているような、読んでいるような作品になっちゃうんだとか、そういう文句として出てくる、批判として出てくるかもしれないけど、逆からいえば、作品の主題の世界っていうのを、たいへんよく広げているっていうふうに、そういう思いが、読むほうからはします。
それはたぶん、たくさんの読者を、村上さんが獲得した所以だと思います。村上さんの世界は、現在の世界に手をかけているなっていうふうに思えるのは、ぼくは厳密にいえば、やっぱり『ねじまき鳥クロニクル』っていう作品だけじゃないのかなっていうふうに思っています。

24 村上龍の強力な対象選択力

 これは、村上龍さんと比較すれば、ふたりともあれですから、それを比較すればいいんですけど、村上龍さんの作品で、ぼくなんかがいちばんいいと思っている作品は、『料理小説集』っていう作品があるんです。これは、12,3枚の短編っていうより、小編って言ったほうがいいんでしょう、手のひらに入る作品、小編をいくつも重ねて、50くらい重ねてつくられている作品です。
いい小説集ですけど、この中の作品としていえば、サブジェクト5っていう五番目の作品ですけど、12,3枚の作品ですけど、この作品なんか、ぼくなんか読んだとき、ギョッとして、えーっていう、こんな人いるのかっていうくらい、びっくりした作品です。そのびっくりさっていうのは、大なり小なり、村上龍さんの特色です。
どこが特色か申し上げてみますと、いちばんの特色は、村上龍さんっていうのは、やっぱり先ほど言いました『コインロッカー・ベイビーズ』っていうのは、旧来の純文学とそんなに違わない作品です。
しかし、この人のあるとき、一種の文体っていうのと、これも村上春樹さんとたいへん似ているんですが、対象選択力の強力さっていうことです。それの文体っていうことと、それからもうひとつ、文学作品をオーディオの世界とか、絵画の世界とか、つまり、目と耳って言ったらいいんでしょうか、それと同じようにつくるっていう方法を、完全に意識的に編み出したって、ぼくは思います。
ですから、料理小説のサブジェクト5っていう作品をお読みになってご覧になれば、本屋さんで立ち読みしても大丈夫ですから、12,3枚ですから、見ますと、この作品は読んでいるかぎりは、この人はちょっと天才じゃないかっていう作品です。12,3枚でそういうふうに読めます。
しかし、別の読み方をしますと、別の言い方をしますと、本屋さんの店頭でとか、また、自分が買った本で、読んだら放り出したっていうふうにすれば、そうしたら、頭の中にぺろっとして何にも残らないわけです。つまり、何も残らない小説です。
そういうことっていうのはあるんだっていう、これは、耳で聞く場合も、それから、目で見る場合もありうるんです。耳で聞く場合って、ぼくはあんまり得意じゃないですけど、これもやっぱり、聞いているときには、たいへんおもしろいって、だけど、表へ出たら、もう捨てちゃったっていう音楽がありますように、また、絵画やなんかでもおんなじで、ぼくが最近体験したことでいうと、平塚に七夕祭りっていうのがあるんですけど、ぼくの考えでは、このお祭りは日本一の祭りだって思っているわけです。
なぜ、日本一かっていうことを申し上げますと、七夕祭りは2,3日ありますけど、平塚の駅をおりて行ったら、町中がぜんぶお祭りなんです。つまり、路地裏であろうがなんであろうが、ぜんぶ祭りなんです。ぜんぶ飾りがあって、縁台があって、食い物、飲み物が並べてあったり、とにかく、ぜんぶ祭りなんです。ほんの一か所もおかしなところは何にもない、ぜんぶ祭りなんです。
それで、これほどすごい祭りがあるかっていう、たとえば、京都の祇園祭っていうのは見たことがあります。これはいいですけど、情緒ゆたかであるし、屋台やなんかでも、なんか伝統ある細工物が並べたりあって、それから、女の人が浴衣がけで、ふらふら歩いてあれしてるのを見てると、情緒があって、これはいい祭りだって思うけど、平塚の七夕祭りは、そんなのはまったくないんです。
もう東京帰ろうって、駅に行って乗ったら最後、ぺらっとみんな忘れちゃうっていう、それから、いる間は、これはちょっと現実の世界じゃないよっていうくらい無茶苦茶なんです。キチガイじみているわけです。七夕の飾りからなにから、めちゃくちゃなんです。店もめちゃくちゃで、たこ焼き屋のとなりに、また、たこ焼き屋があって、またたこ焼き屋があって(会場笑)、こういう馬鹿な話はないと思うんだけど、そう並べてあったり、めちゃくちゃなんです。裏通りに行ったって、みんなおんなじなんです。こんなすげえ祭りがあるかと思って、そのなかにいるかぎりは、これは別世界にきた。
だけど、出たら最後、伝統なんか何もないですから、つまり、伝統的なものは何もないですから、ほんと「今」だけですから、あるのは。だから、出たら最後、もうペロッと忘れた。ただ、ここいらへんに残像みたいのが残ってるんです。なんとも言えない残像が残って、それじゃあ、また来年行こうとか、そういうふうにおもわず思っちゃうくらい、残像は残ってるんです。だけど、ペロッと忘れちゃうんです。

25 『料理小説集』の見事さ

 つまり、そういう意味で、村上龍さんは、そういう世界を文章でできるっていうのを、ようするに発見したんです。最もすごいのは『料理小説集』で、『料理小説集』のなかで、ぼくが最もすごいと思うのは、そのサブジェクト5と書いてあるところです。それは、たいへん見事なものです。
それは、なんかむかし通ってたバーの女の人が、結婚して子どもを産んで、子どもが高熱を出して、町のお医者さんですけど、町の医院にきたと、それで、自分も高熱を出して、風邪だから薬をもらおうと思って、そこへいくと偶然会っちゃうって、よく見ると、昔あなたうちへ来てた人でしょうとかいうことになって、どうしたんだって、子どもが40度くらい熱を出して、どうしようもなくなったんだっていうふうに話して、それで、待合室でぼつぼつ話しているんですけど、話しているときに、熱いものだから、熱があるものですから、子どもがアイスクリームを食べたいって言うんです。それで、アイスクリーム買ってきて食べさせて、自分も熱があるから食べるんです。
そうして、話していると、子どもの話が二重に聞こえるっていうことがあるんです。だから、文章でいいますと、なんかひとつの行のとなりに、小さい違うことが書いてある。それは、どういうことかっていうと、ようするに、むかしあそこのバーはどうだったねっていう、そういうあれを女の人とかわしていると、その会話のところに、子どもがしゃべっている言葉として、幻聴みたいに、子どもがアイスクリームを舐めながらしゃべって、「あんたは、うちの母さん好きか」とかっていうふうに子どもが言って、「そうだ、そうだ」っていうと、「じゃあ一緒になっちゃってよ」っていうのが、違う、会話の間に、子どもの言葉として、ずっと入ってくる、幻聴として入ってくる。で、ふたりとも高熱であって、赤ん坊とそういう自分も高熱で、赤ん坊がものすごく不気味な大人に見えたりするですけど、会話がぜんぶ二重になって、アイスクリームを舐めている子どもが言っていることと、ふつうの会話とは、二重になって聞こえるっていう、それだけの小説なんだけど、ものすごく見事な小説です。
小説っていう概念を、あるいは、文学っていう概念を、耳からのあれと、目からの芸術のやりかたに変えています。そういう意味で、こんなものはペロッとあれしたら、あとに何にも残らないじゃないかっていう、つまり、トルストイの『戦争と平和』のような残り方は何もないじゃないかっていえば、それはそのとおりですっていうよりないんですけど、しかし、そうじゃない意味合いで、文字っていうものの表現が、視聴覚やなんかとおんなじようにつくれるんだよっていう意味合いに考えたら、この人はすごい人だっていうふうになってしまいます。これが、村上龍さんの、現在、チャンピオンであって、たくさんの読者をもっている所以です。
この人たちが、現在に接続するっていう場合には、村上龍さんでいえば『五分後の世界』、それから、村上春樹さんでいえば、『ねじまき鳥クロニクル』っていうのを見る以外にないんですけど、そこで、『五分後の世界』っていうのは、日本がもし、太平洋戦争末期に、降伏しなくて、地下に潜って、パルチザンみたいに個々バラバラになって、抵抗していて、アメリカ軍と中国軍に対して、抵抗してるって、地上はぜんぶ占領されているんだけど、地下に潜って、地下のほうから時々出てきて、チャンバラしてっていうような、そういうことを想定して、それを展開しているわけです。
で、『ねじまき鳥クロニクル』では、ノモンハン事件っていうのがあったんですけど、つまり、中日戦争のちょっと前ですけどありまして、日本とソ連とが、蒙古国境をはさんで、チャンバラしたあれがあるんですけど、そのときに捕虜になった軍人が捕まって、古井戸のなかに叩き込まれちゃって、叩き込まれる前に、あそこらへんは、内蒙古人は、狩猟、牧畜人ですから、皮を剥がれちゃうんです、捕虜になって。
それで、皮を剥がれて、井戸の中に放り込まれちゃうっていうような、そういう描写を、『ねじまき鳥クロニクル』で、ぼくに言わせれば、全体の構成を壊しちゃうくらい熱心に描写していますけど、こういうのは、どうして両村上は、こういうのを書くようになったのっていうふうに考えると、そこはとてもむずかしいところで、謎なんですけど、その謎っていうのはわかりません。
つまり、書きたくなったから書いたんだっていうことであるわけでしょうけど、なぜ書きたくなったんだっていうと、きっといろんな問題が出てくるんだと思いますけど、そのいろんな問題っていうのをひとくちに言っちゃえば、やっぱり現在の問題になるように思います。
現在の問題とは何なのかといえば、たとえば、関西でいえば、阪神大震災でありますし、こちらでいえば、地下鉄サリン、オウム真理教事件っていうのに、象徴されると思います。それが現在の問題です。
これは、法律の次元で片づけることも、もちろんできますし、復興予算の次元で片づけることもできます。ぼくは違うと思ってます。それでもって、これは片づけられないですよ、もうすこし、本格的な問題ですよっていうふうに、ぼくは思っています。
種はまだ尽きないんですけど、時間は尽きたようで、ほんとにそういう問題に接触する問題を、やっぱり鋭敏な人ですから、ふたりとも、鋭敏な作家ですから、やっぱりどっかで、それにつながる現在の問題っていうのが、感受性のどこかにあるっていうふうに理解するのが、ぼくは、いちばんいいんじゃないかっていうふうに思っています。与太話が多かったから遅れまして、完全に終わったとは言えないんですけど、時間になりましたので、これで終わらせていただきます。(会場拍手)


テキスト化協力:ぱんつさま