今日、僕に与えられたテーマは、「現在をどう生きるか」です。現在ということがことさらここで問題にされるわけですが、僕はいままでたびたび「現在」と「現代」というのは区別しないといけないみたいなことを言って、それは主として産業経済的な理由からして、消費のほうが過剰な社会になっているから、考え方をあるところではまるで変えないとだめじゃないかということを言ってきたように思います。
同じ言い方をするのは何となく自分で二番煎じみたいで嫌ですから、何か違う言い方で「現在」というのを言えないかということを少し考えてきました。それは普通一般に言われているところでは、価値の多様化に対応するわけですが、僕はそういうふうに考えないし、考えていない。もともと生活における価値観が多様だということは当然なので、多様化とは考えないで、まず価値の浮遊性、価値が浮かんで価値の本体から離れてどこへでも行ってしまうということですが、その中で価値ということが重要なのではなくて、それは一つの問題にしか過ぎない。浮遊性、つまりある事柄が本体のところから離れてどこへでも行ってしまうというそのことが「現在」の特徴として言えるのではないかと考えて、その浮遊性を共通の理解事項とすれば「現在」ということが言えるのではないかと考えてきました。
この「浮遊性」というのは何でも浮遊性と言えばいいわけですが、そういうことをいくつか言ってみますと、一つは価値の浮遊性。価値というのはだいたい人によって考え方が違いますが、たとえば商品みたいなことで言えば、商品の価格、値段というのは、その商品をつくるために費やされた能力とか賃金その他を含めたものとかかわりなく決まってしまうし、決めることができるということが、「現在」のとても大きな特徴です。
これはマルクス流に言えば、商品の価格というのは相対的な価値、ほかのものと比べた価値ということになります。働いたこととか雑費がかかったことも含めて、そういうことが価値の源泉になるわけですが、それとかかわりなく価格というのは浮遊してしまう、また浮遊させることができる。現在の言葉で言うと、価格破壊みたいな言い方もありますし、もっとひどいことを言う人はデフレ現象があると言ったりしますが、消費者のほうから言えば、商品というのは中間の卸などを排除すれば、いまよりいくらでも安く買えるんだということになります。それは消費者単位で言えば破壊でも何でもなくて、結構なことじゃないですかということになると思います。つまり、価格というのは価値の源泉とかかわりなく設定できるし、かかわりなく設定されてしまうということがとても大きな特徴になります。
もっと違うこと、だんだん人間的なことを言ってみますと、自分というのは、自我と言ってもいいんですが、自分の本体から浮遊して、いくらでも違うものにいつでもなれてしまう。つまり、自分というのはあくまでも自分であって、生まれがこうでこういうふうに学校に行ってこうなって育ったということとかかわりなく設定されてしまう、あるいは自分と言ってしまうというか、どこへでも行ってしまう。これを別なことで言えば、自分というものは自分の外から自分を見ることもできますし、自分の外で自分が思いもかけないことをやってしまっているとかやってしまったと言うこともできます。そういうふうに自我も浮遊しているという現象を考えると、そういうこともあります。
その問題をもう少し詰めると、人間の善悪、あるいは倫理、道徳というものは、その時代、いまならいま、現在の市民社会の常識、大多数の人の考え方で、善、これはいいことだと思われるものはいいことで、悪いことだと思われるものは悪いことだとなって少しも疑われないというふうになっていたんですが、皆さんご承知のように、これは疑わしいというか、それを疑うような現象がほうぼうで現れたりします。市民社会で大多数の人が承認している常識的な善悪というのは本当にそう思うかねと問うていくと、いろんな事件で危ない、疑問だということが出てきたり、逆に言うと、市民社会で当然だと思われた善悪の基準が疑わしくなってくるという現象もたくさん出てきている。これも善悪の基準が浮遊している、浮いてしまっていると言えます。
また人間の命というのを考えて、命は貴いものですよという言い方があります。それは一種の西欧近代のヒューマニズム、あるいはヒューマニティー、人間性という概念から出てきているわけですが、かつてハイジャックか何かあったときに、保守的な、いまの自民党なんでしょう、政府の政治家が、政治家でさえと言ったほうがいいんでしょうが、一人の人間の命は地球よりも重いんだと言ったことがあるんです。僕はえらく感心したというか感動したのを覚えていますが、そういう言い方で言われる人間の命の貴さというのもやや疑わしいような現象がいろんな面で出てきていると言えると思います。
これらは共通して事物の評価、つまり判断の基準がその基準の本体から離れて、いかようにでも浮かんでいってしまう。何が善であるか、何が悪であるかと問うていったり、お前の自我とは何だといったら、すこぶる曖昧になってしまう。自分が思いがけないことを自分でしてしまうということもありますし、商品についても価格がいかようにでも変わってしまう。
これに対するそれぞれの人の価値観があって、経済主体の企業家などは価格破壊だとかデフレ現象が来て危ないみたいなことを言うわけですが、消費者の側から言うと、ちっとも危なくない。価格破壊で安く手に入ったほうがよろしいし、円高で、たとえば海外へたやすく行けるほうが一般の民衆にとっては大変都合がいいということがあります。ですからこういうこともそれぞれの価値観で分かれてしまいます。
ではどの言い方が正しいのかといったら、少なくとも僕の理解している限りでは、正しい言い方をしている人は専門家でもいないと思います。皆、自分勝手なというか、自分の田に水を引くというか、自分あるいは自分たちの都合のいい言い方で、これが正しいんだと言っているとしか僕には思えません。それくらいそれぞれの考え方が同じ現象に対して違ってきてしまっています。
さて、こういうふうに浮遊性、価値の本体から価値、判断基準というようなものがどんどん浮いていってしまって、その中でわれわれはしばしば判断に迷うこととか考え込んでしまうことがたくさん出てきたというのが「現在」のとても大きな現象だと思います。
例を取ってきたわけですが、現在の瞬間で新聞を一番にぎわせているのは、フランスと中国が核爆発の実験をやったということです。それに対して反対運動が起こり、フランスの場合には現地へ行って阻止するんだというのから、反対集会を開くんだとかいろいろあるわけですが、その問題が一番リアルに現在出てきている問題です。
この問題について、ちっとも普遍性があるとは言いませんが、僕が正しいと思っている判断、あるいはこれに対する善悪の判断でも行為の判断の基準でもいいんですが、僕が思っている基準を例として申し上げてみますと、たとえばフランス、中国の核実験はなぜ行われたかというと、両方とも核兵器保有国としては二番手の国です。一番手はアメリカとソ連です。二番手の国であるフランスと中国がそれぞれ核爆発の実験をやっているというのが現在の核実験の実相です。
なぜ二番手の国がいまどき核実験をやっているかというと、モチーフは簡単なことです。つまり一番手のアメリカとソ連に対して、二番手の核保有国として、少なくともそれと同等の発言権、あるいは同等の威力示威というか、それを誇示したいということが核実験の動機になっている。決して一番手の国の実験ではないんです。二番手なんです。それがとても特徴です。二番手の国が、一番手の米ソの発言力だけが強くて、自分たちは二番手だというのはおもしろくないということで、少なくともこれと同等の発言力、あるいは同等に伍したいというのがそのモチーフだということは非常に明瞭です。
これに対して、たとえば日本の反核団体もそうですが、世界中いろんなところで反対を起こしています。良心的知識人と称する人たちも、フランスの国自体をはじめ、反対運動を起こしています。ここのところですでに善悪の基準がそれぞれ違ってしまうわけです。
僕の基準を申し上げるとちょっと違ってきます。どうしていまどき二番手の核保有国がそういう実験をやりだしたかというと、二つ理由があるんです。一つは来年くらいだと思うんですが、核実験をやめにしようという条約が調印になります。それを一応はフランスも中国も承認していますから、そうなったら核実験はできない。それ以前にとにかくやれることはやっておこうというのがモチーフだと思います。
もう一つは核拡散防止条約というのがいままでもあるわけです。それはどういう条約かというと、核を持っている国は今後、核兵器を行使したり実験したりということを慎まなければいけない、あるいは慎もうじゃないかというのが一つと、核を持っていない国はこれから永久に持たないというのが核拡散防止条約です。
そうすると、これも来年とか近い時期に明瞭になりますが、核保有国は核兵器をこれ以上増やしたり核実験をやったりしないこと、核非保有国はこれから絶対持たないことという条約を決議してしまっている。それはどういうことかというと、いままで核を持っていない国は永久に持てない、核を持っている国は遠慮しながら実験などをしないようにしなさいと言っているだけです。この論理というのは、要するに核武装力をはじめとする武装力をたくさん持っている国が国際的な発言権を持って、以下持たない国まで序列があって、持たない国は発言力がないけれども、大量に持っている国は大きな発言力があるということをそのまま永久に肯定しようじゃないかということと同じです。
だから核を持っていない国、たとえば日本国は率先してその条約に反対して、核を持っている国は全部核をやめようじゃないか、やめる方策を取ろうじゃないかという異論を立てて、その論議を通すべきだったのに、全然そんなことを通さないで無条件に賛成してしまった。それがいまの体たらくです。
そうだったとしたらば、僕の言う善悪の理屈上から言えば、核二番手のフランスとか中国が一番手のやつと同じ発言権を持ちたいわけで、核実験をやってみせたり、実験によって構造を変えたりしたいというのは当然だと思います。それから核を持たない国で怪しげな国、持っているんじゃないかとか疑わしい国というのがあるわけですが、そういう国が持つ国に変わって、発言力を少しでも得たいという考え方の序列、善悪の序列になるのはまったく明瞭なことです。それに対して日本国は何もしていない。反対だとも言っていないわけです。
ましてや、いまの内閣というのは、中東のゴラン高原において独立の国連軍のところに自衛隊を派遣するということを承認している。もっと前から言いますと、憲法第九条の存在にかかわらず自衛隊は合憲であると認めますということを、村山内閣は言ってしまっている。それは自分たちが進んで核大保有国は力が一番あるぞという序列の中に入っていって、一番しんがりに自分は就いたということを意味しています。そんなのがいまごろのそのそ核実験反対と言ったって、言うことを聞くわけがないでしょう。
つまり言うことを聞かせるためには、われわれは憲法第九条を持っている、この憲法九条は非武装非戦である、だから世界中は皆これに倣うべきだ。倣う具体的な方法というのは、たとえば核兵器をどのように減らしていくかについて、日本国は非常に緻密な案を持って提案するから、それに従ってもらいたいと日本国が主張しているなら話は別ですが、そうではなくて、永久に核大国は大国、中国は中国、持たない国は絶対持たないというふうに、はんこを押して承認してしまっていて、おまけに自衛隊は合憲だとか、ルワンダもそうですが、今度も中東へ派遣するというのを承認してしまっている。
そういう武力、個人で言えば腕力ですが、腕力が強い者は国際的な発言力が強いんだぞ、皆これに従わなければいけないんだぞという序列の中へわざわざ入っていくようないんちきな内閣がやっていて、中国とかフランスの核実験に反対だと言ったって、それは言うことを聞くわけがないでしょう。そういったあほな話はない。
また核実験反対と言ったやつもいるわけですが、言ったやつはどうして村山が自衛隊は合憲ですと言ったとき反対しなかったんですか。合憲ですということは憲法第九条をそのまま条項として残すのを実質上無化することです。つまり無効にすることでしょう。そういうことに対して厳密に反対していかないで、自分が傷つかないで、自分が百パーセント正義派になれて、人の国を非難する。核実験は、核兵器を戦争で行使したというのとは違いますよ。核実験したということ、あるいはするということに対して、どうして自分のほうは全然傷つかないで済むことだけ、いい気になって百パーセント正義派の顔をして、のそのそ核実験反対だなんて言うんですか。僕は絶対そういう正義、善を認めない。すでにここのところで善悪の判断が違ってきてしまっています。
核実験反対と言っている人は、自分たちは絶対的善だと信じているでしょう。しかし僕は信じていないですね。つまり、君たちはちゃんとやることをやっていないじゃないか。自分の国が武力、核兵器を持っているほど強い力を持っているという序列の中に自ら、誰も入ってくれと言った人はいないのに入り込んでいながら、自分のほうが傷つかない問題だけ反対だ、反対だと言ったって、それは善ではないと思います。つまり、善と思われていることはもう浮遊しているわけです。いくらでも本格的に疑えば疑えるということになっている。これは非常に明瞭なことです。
もし武装力、特に核武装力を持っている国ほど強いんだ、国際的に強い発言力を持っているんだという序列に入りたくなければ、憲法第九条を盾にして、核兵器を廃絶しようじゃないか。それは口で言うだけではなくて、廃絶するには具体的な法案、こういうやり方があると緻密につくっていって、それを国連で提起するみたいなことをやらないといけない。しかし、それを全部なし崩しにして、だめにしてしまっていて、自分たちが傷つかないで済むことだけ大きな声を上げて反対だ、反対だ。これじゃ通用せんでしょう。
僕はそこで善悪の基準というのを疑ってほしいわけです。人の命に関すること、あるいは戦争の人命を損なうということに関することについての何が善であって、どういうふうに言うのが悪なのかということに対して、すでにそこで疑ってほしい。百パーセント自分のほうは正義であって、しかも百パーセント自分のほうは傷つかないで済むみたいなことで、いい気になるなと僕だったら怒りだしている。僕は自分がそういうことを主張してきましたから、僕だったらそこで、こんなのはだめだよと思うわけです。
たとえば北朝鮮が核兵器をつくろうとしているんじゃないかみたいな疑いがありましたが、そういう持っていない国が持とうとしたり、二番手に持っているやつが一番手になりたいとか、一番手になれないまでも、それと互角の発言権を持ちたいということで核実験をやるということを、もしその序列に入ってしまったらば認めざるをえない。それは個人としてだって同じでしょう。誰にでもわかることです。つまり、そういうモチーフを認めざるをえないでしょう。
そういう意味合いでいったら、中国とフランス、二番手の核保有国が一番手と同じ発言力を持ちたいというので、いまどきばかと言うよりしょうがないけど、核実験をやり始めて、兵器改良の資料にしたいと考えるのは、言ってみればその序列に入る限りは当然であって、本格的に言えば入っていく限りはそれを認めざるをえないでしょう。文句はあまり言えないでしょう。それ以前に、核保有国は核保有国で慎みなさい、核を持っていない国は永久に持てないという条約に文句も言わないで賛成してしまっているわけで、お話にも何もならないでしょう。これがいまのフランスと中国の核実験にまつわる真実だと思います。この真実は別に僕は特に探求したわけではなくて、新聞を読めばすぐにわかります。つまり書いてあります。ここですでに何が善であるか、何が悪であるかということに対して、皆さんのとても大きな判断を必要とします。
もっと以前だったら、たとえば十年前、十五年前、二十年前だったら、大江健三郎さんと同じで、反核何とかだ、核兵器反対だと言っていれば、結構そうだそうだと皆思って納得していたけれども、現在では納得しない。そういう言い方がいつまで通用するか怪しいぜということがいま出てきてしまっている。これは現在における国際的善悪の基準がまさに浮遊して相対的になっているということを意味します。このことに気づかなければ嘘だ、気づかなかったら現在を見損ないますよというふうに僕には思えます。
それくらい善として疑わなかったこと、あるいは悪として疑わなかったことが、よく考えてみるとちょっとおかしいぜということがすぐに出てきてしまう。それは万人の目にさらされている。つまり新聞報道機関が報道しているわけで、よく新聞を読めばすぐにそう書いてあるということがわかります。ちょっと考えればすぐに、ちょっとおかしいなということには気がつくようにできあがっています。これが「現在」というものの非常に大きな実相です。これは一つの例に過ぎないけれども、非常に大きな例であるわけです。
これに対して、たとえば日本の文学者が四、五人、フランスで日本文化展みたいなのをやるので出かけていくというので、大江健三郎さんが行くということになっていたけれども、俺はフランスが核実験やったから行かねえと言いだした。僕が大江さんのあれの中で唯一評価できるのは、大江さんが単独で、自分の判断と考え方でもって行かないと言っていることです。
これがまだ現在ではなくて善悪の基準が浮遊していないときは、大江さんだったら、文学的巨匠というか巨頭というか、キョトウというのは大きい頭と空っぽの頭と両方入るわけですが、(笑)そういう人たち四、五人でもって声明書を出して、これは反対だみたいなことを言ったのが五、六年前の実相ですが、大江さんが単独で自分の判断で俺は行かないというのは、僕は大変いいこと、この人は前よりもちょっと進歩したなと思います。文学者というのは、小説を大勢で書けといったって無理なので、(笑)皆一人で書いているんですよ。そういうのが商売なんだから、言葉でもって、俺はこう考えたからやめたと言えばいい。それは大江さんが言っていることで、とてもいいことだと思います。
しかし、欲を言えばというのはおかしいけど、小さい声で言ってもらいたい。(笑)仲間の一緒に行くような人に、俺は行きたくねえから行かないことにするからねと言ったら大したものだと思うんだけど、そうはいかないというふうになっている。そこはあまり評価しないところですが、評価するところもあるわけです。文学者というのは小説を書いたり批評文を書いたりするということは全部一人の作業です。机の前にねっちりねっちり毎日書いている。そういう人は別に大きな声を持っているわけではないし、大きな声を張り上げる職業ではないから、小さな声で言うのが有効性がある、自分に即して一番いいわけですが、それが大江さんの半分進歩したところと半分進歩しないところになっていると思います。
僕は口が悪いから、フランスとか中国がいまどきそういう理由で核実験したって、遠い未来は知りませんが、近未来に強大国になる可能性はまったくないですよ、それはいろんな条件でもってないですよと書きました。だからこういうことをするのはばかげているんだ。俺は武装力が大きいほど発言力が大きいという序列に入りたくないから入らない、だからそういうのは全然問題にならない。こんなものをやったら強大国になるなんて思っているのはとんでもない錯覚だ。違う理由はたくさんあって、根拠のある理由でフランスもだめだし、中国も強大国になりませんよと、僕は小さな声で書きました。(笑)それでいいんじゃないでしょうか。それくらいの意味しかないと思います。
もっと声を張り上げるためには張り上げるだけのことをしていればいいんだけど、全然していないし、僕が見ていて、村山さんが自衛隊は合憲だと認めますと言ったとき、反対したやつが一人もいなかったんです。そういう重大なことを取り逃して、腕力が強いやつが強いんだという序列の中に自らわざわざしっぽのほうで入りながら、自分のほうは何も傷つく必要がないと、声を張り上げて核実験反対だと言うのはナンセンスでしょう。僕だったらそういう政治的善悪の基準を取ります。原水禁と原水協とか、ずっとやってきたあれは認めないですね。僕はそういう基準を重要だと思います。
なぜかというと、それが「現代」と「現在」の違いです。現在というのは、あらゆる事柄を前からも見なければいけないし、後ろからも見なければいけないし、横からも見なければ本当のところはわからないよというくらい難しいことになっています。何がいいのか何が悪いのか、あるいは何をしたらいいのか何をしたらいけないのかということも自明の理ではありません。
万人、市民社会が自明で、これは悪だ、これは善だと言っていることが必ずしも善悪の基準にならなくなって浮遊しつつあるというのが現在の状態だと僕は判断しますから、そんなに自明ではないんです。これだったら文句の言いようのない善だろう、つまり核実験反対と言えば誰も文句の言いようがないでしょうと思いたいところですが、それは違います。正しいとは言えないよということがいくらでも言えるように、すき間風がいろんな問題に出てきた、あるいはいろんな問題が本来的なところに戻って分離しつつあると言ってもいいんですが、それが現在の実相です。ですからよくよく判断というのが重要な問題になっていくと思います。
もう一つ例を挙げますと、現在、日本国は不況にさらされているといわれている。有能でない経営者、無能な経営者というのはリストラをやってみたり、希望退職する人は退職金を割り増ししてあげるぞみたいな、餌を大きくして希望退職者を募ったりということをやっています。
しかし本質的に言いますと、こういう見方が僕の考えでは一番いいと思うんです。つまり、日本もアメリカも西欧もそうですが、家計費のうち消費が非常に過剰になって七〇~八〇%まで行っている消費主体の社会ですから、個人の消費支出のところで不況であるか不況でないかを見るのが一番正確です。百パーセント正確とは言いませんが、ほかのところで見たらそれ以上の正確さはないんです。
個人の消費支出がてきめんに表れるのはコンビニエンスストアとか百貨店とかの売上高で、そこで見てみると日本の現在の消費支出、つまりどのくらい不況であるか不況でないかすぐにわかります。コンビニエンスストアとかスーパーというところまではだいたい消費が増えつつあります。今年に入って零点数パーセント減っていて、この減り方は続くかもしれませんが、せいぜいそのくらいです。いままでスーパーとかコンビニとかの売上高で見ていく限り、個々の人の消費している支出は増えつつあったわけです。ですからそこまでの消費規模で言えば、不況から脱出しつつあるというのが一番正しい。
ところが百貨店に行くと、三十七カ月くらい売上高は減る一方です。ですから百貨店規模のところでは個人消費というのは使われていない、減りつつあるんだ、そのくらいの規模になると不況なんだと言えば一番いいわけです。
つまり、不況というのは上のほうから眺める眺め方と、横から眺める眺め方があります。横から眺める眺め方をしますと、スーパーとかコンビニという規模のところではだいたい不況から離脱しつつある。しかし百貨店規模になると不況から脱していない。つまり、個人はその規模になるとあまり消費したくなくて減りつつあるというので、この規模で不況を離脱しつつあるとは言えないと判断すれば一番いいと思います。
大企業の企業家が不況だ、不況だと言うのは、自分の企業を主体にして考えるからそうなんですが、それはあまり正確ではないんです。それだって言い方で言いようがあって、そういう判断の仕方というのはあるわけですが、消費がどこで減りつつあるか、どこで増えつつあるかで判断するのが一番いい。そうすると、スーパー、コンビニの次元ではだいたい不況から離脱しつつあって、それ以上の規模の企業からいくとあまり離脱していないよ、まして製造業などではそうだよと判断したら一番いいわけです。
そういうふうに考えていって、今年はなおさらきつくなったみたいな話があるわけですが、それはなぜかというと、スーパー、コンビニエンスストアの次元で、一%にはなりませんが零点何パーセント消費は減りつつあります。スーパー、コンビニの次元で減りつつあるということは、個人個人の人たちがそこで金を使わなくなったということを意味するから、家計費を主体に考えますと、そこで相当厳しく脇を締めるようになったと言えます。だからそういう次元でちょっとだけ不況だと言えるようになったということになると思います。それが少なくとも比較的に言うと、正しい不況の判断の仕方です。
企業体の利益がどのくらいだった、損失がどのくらいだったというところで判断すると、決して不当な判断ではありませんが、そんなに正確ではないんです。新聞などは従来どおりそんなところで不況みたいな判断をしていますが、それは本質、本当を言うと違います。それが「現代」と「現在」の違いです。現在ではそうじゃない。
個人消費がどこまでの規模で増えていて、どこまでの規模で増えないかということが一番重要で、それはスーパーとか百貨店、コンビニの売上高で見ればいい。売上高が前の年の同月に比べて、あるいは前の月に比べて減っているか増えているか、それで判断すればいいわけで、そんなことは非常に簡単です。個人個人で家計簿をつけている人はすぐわかりますが、先月よりも今月のほうが少なく使ったか余計に使ったか、あるいは前の年のいまの月よりも今月のほうがたくさん使ったか使わないか、それでもって不況かどうかが一番よく判断できます。百パーセントではないけれども、一番正確に判断できると僕は理解します。
不況であるかないかという判断をもし日本国の社会が栄えているか栄えていないかということの基準にしたいのならば、人によって全然違ってしまいます。エコノミスト、経済専門家の言うことはほとんど信じられない。どうしてかというと、大企業体主体に不況かどうかを判断するからです。
しかし現在というのは、社会、経済機構が変わってしまったんですよ。だからいまだったらそうじゃない。それよりも個人消費というものを主体にして、それが減っているか減っていないか、あるいはどの規模で減っているか減っていないかで判断するのが、不況の判断として最も正確である。百パーセント正確とは言いませんが、ほかのものに比べて最も正確だと言えると思います。僕は素人ですから、僕がこんなことを言ったって、素人のくせに勝手なことを言っていると思うだけで、あまり文句を言われませんから言いますが、(笑)僕が言っていることのほうが正しいに決まっている。そんなことは誰でもすぐわかります。
これが不況か不況でないか、あるいはこんなのが不況かということで、もう日本国の経済専門家の判断はまったく違っています。それは全部そうでしょう。円高はだめだから是正しろというエコノミスト、経済専門家もいれば、円高は大いに歓迎しろという専門家もいて、三省堂に行くと両方の本を並べて売っています。どっちが正しいんだというふうになるじゃないですか。つまり専門家でさえ、判断の基準がわからなくなり、また基準がでたらめになって、判断の結果が違ってしまっている。これは不況なら不況を取ってきてもそういうことになります。
こういうことの一番大きな表れ方というのは、たとえばオウム真理教のサリン無差別殺戮事件というのがあります。これの判断の仕方というのは、僕はよく追いかけているからよくわかっているんですが、テレビ、新聞を見ていると、凶悪犯罪集団であり、気違いじみた無差別殺戮を起こそうとする邪教であるというのがまず一般的な、この市民社会で皆さんの中で通用している判断だと思います。僕も賛成です。特に、無差別といっても、関係のない人を殺戮している。これはとんでもねえことだ、どこから判断しても絶対的な悪であると僕なら思う。市民社会の一員としての僕は絶対的にそうだと思います。そこではマスコミが扇情的に、これは凶悪、ひでえ殺戮集団だと言っても、言い方は気にくわないけれども、いいと思えばいいわけです。僕は自分を市民社会の一員だと思うから、市民社会の善悪、あるいは法律的な善悪は妥当だと思います。
ところが妥当だと思わないところがあるんです。僕も、北村透谷風に言えば、考えることをしている人間ですから、市民社会にいままで通用していた善悪というのはどこかで疑わないといけないところがあるんじゃないかという判断を持っています。これは全部に及びます。教育とか子どものいじめ問題についても、つまり芹沢さんや藤井さんの専門的なことですが、いじめのどこが悪いかということになってきて、誰が悪いとかどこが悪い、それじゃ先生はどうなんだ、こういう問題が出てくるわけですが、その判断も従来の判断で考えて固定していったら、疑わしいことはたくさん出てきます。
だから善悪の判断というのもちゃんと考えなければだめだぜということが教育問題でもいじめ問題でも出てきているように、市民社会が持ってきた善悪の判断というのは、現在に立ち至って、価値の浮遊、あるいは善悪、倫理観の浮遊現象がいっぱい満ち満ちてきてからは、どこかで既定の事実としないで疑わないといけないと、ものを考える人間としての僕は思っています。
そういうふうに思っている僕は、オウム真理教が気違い集団、凶悪集団だという決めつけ方には反対です。僕が主張してきたことは、そうじゃない、オウム真理教の教祖というのは仏教の修行者として見たら相当すごい人だ、相当な修行の段階に達していると理解している。この人の宗教的な教義というものをちゃんと教義として認めないで、ただ凶悪犯人というふうにやったら物事を間違えてしまいますよということは、僕らが書いたりして主張してきたわけです。
おかげさまで、お前はオウム真理教を肯定しているから、俺はお前と縁を切ると言う人が出てきて、あ、そうですかと言うしかしょうがないんですが、(笑)別に肯定しているわけではないんです。市民社会の一員としては絶対的に否定する。これは普通の人よりももっと否定するかもしれません。ただ、宗教としてのこの人の威厳、あるいは狂気というか、どのくらいまで修行しているか、この教義はどうなっているかを判断したうえで、市民社会の論理で否定するなら否定してもいいけれども、それを認めなければ、つまりその人が何であるか、その教義が何であるか、どのくらいの狂気であるかということをちゃんと判断しなければ判断を間違えてしまいますよ、これを悪として決めつけて片づけたつもりになったら間違えますよと僕は主張していて、肯定しているわけでも何でもありません。
僕の判断では、この人はヨーガの修行者としてはとにかく日本では有数の人だと思っています。既成の仏教というのがありますが、仏教だって同じようなことをしているわけです。浄土系、浄土宗とか浄土真宗を除いたほかの宗派の坊さんたちは皆同じような修行をしています。しかし、麻原という教祖くらい修行の段階が進んでいる人は、日本の既成の宗教の中で一人もいない。だからこの人は有数な宗教家だと思っています。
そういう人が自分のために、この人は価値あるいは善悪の浮遊の最も典型的な人だと思うんですが、無差別殺戮を善だと思ってやったと思います。しかし市民社会の倫理から言えば、これは悪だ。もっと言いますと、西欧的、近代的なヒューマニズム、あるいはヒューマニティー、人間性という概念から言えば、それこそ人の命は地球よりも重いという観点からすると、とんでもない悪だということになります。それくらいこの人の中で悪と善の基準というのがだめになって、自分でわからなくなっている。しかし、宗教的な修行者としてかなりの程度の修行者だと僕は考えています。そのことを認めたうえで、市民社会の倫理で断罪しないと間違えてしまうというのが僕の観点です。ですから僕はそういうことを主張しただけで、肯定しているわけでも何でもありません。
そうすると何が起こるかということが問題になるわけで、たとえば僕が日本の宗教家で一番好きなのは親鸞という人です。親鸞という人は、非常にはっきり言ってしまえば、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」と言うわけだから、麻原彰晃なんか最もすごく、すばらしく、浄土、天国へ行けるという理屈になります。それでそんなことを言うなら、進んで悪をやったほうが浄土へ行きやすいというならやろうじゃないかという弟子たちがいて、そういうのを造悪論というんですが、わざと悪いことをしてしまうという連中も出てきたわけです。
親鸞の教義、思想から言うと、麻原という人は造悪論に入ると思います。しかし、親鸞だったら、極悪深重の男ほど浄土へ行きやすいのだから、この人は必ず浄土へ行きますよと、いま生きていたら言うと思います。要するに、人間のやる善悪というのは大した規模の問題じゃないんだ、それよりも浄土の規模における善悪のほうがはるかに大きいので、それの中に皆包まれてしまうんだというのが親鸞の考え方です。だから普通の人、善人よりももっと往生しやすいですよと親鸞は言うと思います。
僕も言いたいところですが、それだけの器量がないから、僕の中では市民社会の一員としての自分の善悪の判断基準と、ものを考えることをしていて、それを商売にしている人間としての自分の判断基準とが分裂しているというか、矛盾するという状態が僕の言ってみれば率直な状態です。そこが俺の考えどころだ。つまりオウム真理教が僕に考えどころを与えてくれた一番の問題はそこなんだ、俺にとってはそういう問題だなということになっています。
親鸞ほどの大きな規模を持った人だったらもちろん、この極悪深重な人は必ず天国へ行けますよと言うに決まっている。つまり親鸞の宗教的な考え方の規模を考えると、それだけの規模がある人です。ところが僕にはそれだけの規模はありませんから、自分の中の二重性を分離させられてしまっているというのがいまの正直なところの実感です。しかし少なくとも僕はテレビや新聞が言うように、オウム真理教は極悪非道の無差別殺戮者だというところで満たされていない。それはそれでいいんだけど、そうじゃない面を理解しなかったら、現在というのも間違えるし、オウム真理教というものが与えている影響自体も間違えますよというのが僕の考え方の基本です。ただ、いずれ自分の考え方の分裂、矛盾を強いられているというところを考えなければ、自分なりに現在を超えていくことは自分にはできないということで、そこが僕の一番の考えどころになっているというのが実情です。
しかし本来的に言えば、僕はそうじゃないと思います。つまり、現在の市民社会に通用している善と悪の基準というのは、教育から子ども問題から何から全部含めて浮遊していて、疑えば疑わしいことはたくさんあるという状態になっているのが現在だと思います。
そうすると何はともあれ、どこへ行ったらいいんだ、どういう基準を設けたらいいかということになるわけですが、少なくとも僕が考えるには、現在の、あるいは現在までと言ってもいいんですが、市民社会に通用していて、市民の人が百パーセント疑っていない、これは善だ、これは悪だという基準はもっと考えて、もう少し普遍的な広い善悪の基準の方向に考えていかないと、現在を超えて、次の、二十一世紀でもいいけれども、そこへ行くことはできない。ですから現在の市民社会に通用している善悪の基準よりも少し広い普遍的な基準を求めて、誰でもがそういう基準に向かって自分なりの場所で自分なりに当面している問題で考えていかなければ次の世紀にはとても行けないよというのが、価値が浮遊し始めている現在の問題の一番のポイントではないかと僕自身は考えています。たぶんそこのところが一番大きな問題ではないかと思うんです。
僕は、オウム・サリン事件と同じように、関西の大地震という問題がもう一つとても大きな問題だと思っています。ここで言えばどういう問題になるかというと、一つは家屋が倒壊したとか家族に死者を出した人たちに対する補償とか救済という問題があるでしょうし、もう一つはどうやって復興するんだという復興の問題があると思います。
これにも価値の浮遊するポイントがあります。一つは非常に簡単なことです。従来の日本の社会の通念のように、政府とか地方自治体、神戸市なら神戸市が援助金を出して、それに従って復興していく。これは従来的基準における復興、救済の仕方です。もう一つの復興、救済の仕方というのは非常に自主的な、産業と市民の無言のうちの共同の力でもって復興を遂げていく。相互援助もあるし、そういう復興のやり方をやっていくということです。
そして関西地区における、神戸地区なら神戸地区を中心とする復興というのは、日本社会全体における未来の方向に対して、一種の模範というか、前駆的なやり方、お手本にならないといけないという課題を持っていると思います。もし関西あるいは神戸地区がその課題を成し遂げながら復興していったら、ほかの都市とか地方の模範になりうるし、日本国の未来の社会というのはこういくぜというお手本になったら、それはまことに新しい善悪基準におけるみごとな復興の仕方と言うことができます。
そういうことがなくて、いままでのように政府が不況の中からこれだけ出して、地方自治体はこう出して、地方自治体の言うとおりこういうふうに家を建ててこうでこうでという復興の仕方をしたら、それはどうってことはない。そういうやり方というのは旧来どおりの善悪の基準に則った復興、救済の仕方です。
しかし、そうじゃないんです。もう一つこれだけの規模の破壊ですから、まったく新しいかたちが日本社会における未来の産業構造、社会構造の先駆けを成していく、そういう復興の仕方をもし神戸の市民と神戸における企業体が共同してできたら、それは大変みごとな、新しい善悪、新しい社会倫理に則った復興の仕方だということになります。
極端に言いますと、この二つの岐路に立たされているというのが関西の大地震の持っている非常に大きな問題です。皆さんは遠いわけですが、よく注目してご覧になっていたほうがいい。神戸市、あるいは関西地区が復興したとき、どんなかたちの都市がどんなかたちでできているかとか、どういう産業になっているかということはよくよく見ていたほうがよろしいと思います。旧来どおりだったら、がっかりしたほうがよろしいと思います。こいつら新しい方向性を打ち出しているよとなったら、それは日本国の社会全体における模範になるだろう。関西における大地震というのはその二つの岐路を持っています。これがいかに重大か。
僕の知っている人で壊れてしまった人がいますが、その人は精神的、思想的な問題も含めて、戦前と戦後とか戦中と戦後というのと同じくらいの断層でもって、自分の中では震災前と震災後というのがあると僕に言った人がいます。それくらい潜在的に言いますと、精神的にも大きな衝撃を与えています。
この衝撃を回復しながら、関西地区は都市としても復興していくというその復興の仕方には二通りある。旧来どおりの復興の仕方で政府とか地方自体の言いなりで官庁主導型でしか復興しなかったら、それはだめですよ。そうじゃなく、自分たちの規模で復興していったら、日本国全体の模範になると思います。そういう二つの課題を持っているんです。かつてはなかったんですが、明らかに現在の課題として持っているわけです。
これは関東、あるいは東京なら東京におけるオウム・サリン事件の解決の仕方、つまり極悪犯罪人といって法律的に裁いて、片方でこんな嫌なことは忘れようみたいな解決の仕方ももちろんありうるし、その可能性はいっぱいあるわけですが、それはだめだというのが僕の考え方で、世紀末的にと言ってもそうですが、この問題は何なのか。要するに善悪の基準の浮遊性の最も象徴的な例、問題であって、これをどう理解し、どう解決していくのが本当の解決の仕方かというのをよくよく突きつけられている。これが現在の課題の一番大きな問題だと思います。
数え立てると切りがないんですが、こんなことは数え立てる必要はないので、毎日のように子どもの教育問題から学校問題、進学問題、社会に起こっている社会現象の問題から、職業が安定しているかしていないかという問題から、とにかくあらゆるところにそれが満ち満ちているわけです。ことごとく価値観の浮遊、価値観がとてつもないところに飛んでいって基準がよくわからなくなっているということがありますから、それはよくよく考えて、自分なりの善悪、倫理の基準をつくっていくという課題を強いられているのが現在の問題ではないかと僕自身は考えています。
これは具体的な例で持っていけば切りがないんですが、基本的に経済問題で説明する説明の仕方をやめた場合どうしたらいいかを考えて、価値が浮遊状態になったな、うかうかしているといままで間違いなくいいと思っていても間違いだなということが出てきた、そのことをよくよく考えていくことが課題として突きつけられているというのが現在の一番の問題のように僕には思えます。その点をお話しできたらいいんじゃないかと思ってやってまいりました。だいたいそれが言えたように思っています。これで終わらせていただきます。(拍手)