吉本先生は、親鸞の宗教思想を主な研究テーマに、阪神大震災やオウム真理教事件など、さまざまな社会現象をよく解いていらっしゃいます。それでは、先生にご入場いただきます。みなさま拍手でお迎えください。(会場拍手)
吉本です。プログラムを見ますと、「親鸞復興」っていう主題をあてがっておりまして、「親鸞復興」っていうのは、ぼくの、最近出ました、いろんな言ってきたことを集めた本なんですけど、どうして『親鸞復興』っていう表題にしたかっていいますと、ただいま、浄土真宗の教団なんかでは、蓮如復興っていうことを、よく言っているんですけど、蓮如復興っていうのは、どういうことかっていいますと、教団の組織っていうのが、すでに存在しているときに、蓮如は座主になった、浄土真宗の復興の祖って言われているわけですけど、蓮如のことが問題になってくるわけですけど。
ところで、ぼくらは、教団に属しているわけではありませんし、厳密にいって信仰者っていうわけでもない、習慣的なって意味では信仰者ですけど、べつに信仰者っていうわけじゃありません。そういうことからみますと、蓮如の復興っていうのは、ぼくらにはピンとこないっていいますか、あんまり意味がないっていうふうに思うわけです。
ですから、それだったら、親鸞についての、自分の見解を集めたとすれば、やっぱり、「親鸞復興」ってなるんだっていうふうに思いまして、まあ、「親鸞復興」って表題をつけたと、それで、何が違うのかっていいますと、親鸞は少なくとも、教団というものを認めていないし、お寺も認めていないです。
親鸞の考え方では、ふつうの家のどこか、いまで言えば応接間ですけど、応接間みたいな広い部屋があったら、そこのところに、掛け軸として、南無阿弥陀仏でもなんでもいいんですけど、そういう、名号を書いた掛け軸をひとつ置いといて、それで、なにかの機縁で集まった者たちが、そこで話し合ったり、信仰について話し合ったり、信仰じゃないことについて話し合ったりってことをすればいいんだって考え方ですから、もともと寺院なんていうのを考えていなかったわけで、ですから、親鸞の考え方は、まず第一にそこが違うってことがあります。
それから、もうひとつはやっぱり、自分自身が僧でもなければ、俗人でもない。つまり、非僧非俗だっていうのが、親鸞の自分の考え方であったわけです。親鸞が浄土真宗ってことを標榜して、関東で布教的な活動をはじめたときには、自分は非僧非俗だ、つまり、坊主でもない、それから、俗人でもない存在だっていうふうに、自分を規定しています。
ですから、そこが蓮如とは違う。蓮如は坊さんでして、寺院の坊さんですし、また、浄土真宗っていう教団の中興の祖であるっていいますか、首長であるってことで、そこがまた違います。
で、非僧非俗ってことは、とても、親鸞が、重要に考えたことで、どこでそういうふうに言ったかといいますと、親鸞自身が言う前にあった言葉ですけど、親鸞がその言葉を使ったのが、結局、浄土系の自分の師匠である源空、つまり、法然ですけど、法然をはじめとして、そのお弟子さんたちが、京都で新しい教団を立てたわけですけど、その場合に、法然の弟子のなかでも、数人の人たちは、宮廷っていいますか、宮廷の中で布教活動をしたり、仏教の集会みたいのを開いて、いまでも、ほんとうはそうであるかどうかわからないですけど、そう言われているように、そのときも、つまり、法然の宮廷で布教していた人たちが、宮廷の女官とあやしい関係になって誘惑したんだっていうようなことが、評判になりまして、そういうことを契機にして、既成集団、つまり、興福寺のお坊さんたちが、あんな教団は認めねえ、つまり、認めないで解散せしめろ、首謀者は刑罰に処すべきだって、興福寺奉状っていうんですけど、興福寺奉状っていうのを、宮廷に提出しまして、あいつらをやめさせろっていう、慎むことを訴えたわけです。
それで、宮廷が受け入れまして、法然が土佐のほうに流されて、親鸞は越後のほうに流されて、ほかにも関東に流された人がいろいろいるわけです。それから、死刑になったやつも、たしか3人か、4人いるんです、お弟子さんで。それからまた、当時の慈円っていう大僧正ですけど、その人が、自分が身柄を、責任をもって預かるからって言って、身柄預けになって、遠島遠渡をまぬがれた人もいます。幸西って、法然の一番弟子っていわれている人は、そういうことで遠島遠渡をまぬがれた人も2人くらいいるわけです。
親鸞は、そのことについて、ご赦免っていいますか、赦免になったときに、もう京都へは帰らないで、自分は、僧でもないし、それから、俗人でもないっていうふうに、だから、僧の名前ではなくて、禿って、禿げ頭の禿げですけど、禿っていう名前で自分を規定するって考えて、関東へきて、関東で布教して、お弟子さんたちもいくらかできたってことなんですけど、それで晩年は京都に帰ってます。
京都へ帰ってきまして、弟さんのお寺に下宿しまして、一部屋借りまして、そこで、関東のお弟子さんたちからは、疑問やなんか生じて、質問があるとそれに答えたり、上京してきて会いたいっていうと会ったりってことをしているんですけど、京都で、つまり、当時の中央ですけど、中央で、新しい宗派だってことで、宗派活動みたいなことは一切しないで、弟さんのお寺で寄宿していたってことで終わっているわけです。
そのときに、親鸞は、自分で書いたものに、そのときの太上天皇である後鳥羽院の、法に背いて、法っていうのは仏教って意味だと思いますけど、仏教に背いて、われわれを流罪に処したってことを、親鸞はわりあいにしきりに書いて、生涯それを忘れないで、そういうことを書いています。
そういうことで、自分は律令制が決めた僧尼令の埒外に追い出されるわけです。また、僧侶として解決しなかったという意味で、非僧非俗、つまり、僧でもなく、俗でもないっていうのが、自分の信条だって自分を規定しまして、それから、いわゆる出家っていいますか、出家主義っていうのを否定しまして、それから、先ほどいいましたように、寺院っていうのを設けるっていうのも否定しました。それから、お寺の仏像を備えるってことも否定します。それから、経文を読むってことも否定します。
そして、阿弥陀経の四十八願のうちの十八願、つまり、一生懸命、信仰をこらして、南無阿弥陀仏って言葉を唱えれば、かならず往生できる、浄土へいけるっていう、そういう教義を宣伝しまして、それで、自分自身も、お経を読みたくなったりなんかすると、自分で戒めて、こんなことしちゃいけないんだっていうふうに、自分で戒めまして、それをやめたりってことを、奥さんの手紙にそういうことが書いてありますから、それはほんとだと思います。
つまり、自分も出てきてお経を読みたくなっちゃったりとかいうふうになると、これはいけない、人々に対して、お経なんか読まなくていい、お寺も建てなくていい、仏像も備えなくていいって言っているのに、自分だけがあれしちゃうのはいけないって反省しまして、お経を読むっていうのをやめてしまうってことを、親鸞はやっています。
それからもちろん、妻帯をするってこともやっています。それから、鳥獣の肉を食べるとか、魚を食べる、つまり、生臭ですけど、それを食べるってことも、妻帯するってことも、ぜんぶ肯定しています。ぜんぶおおっぴらにやっています。
それは、当時の僧侶の概念からはまったく通らない話なんですけど、親鸞は、はじめから、それを自分でもやっちゃいます。それから、他人にも戒律をすすめたり、出家をすすめたりっていうようなことはしていません。それは、本来的な親鸞の教義であるわけなんです。
これから何が推理するかっていいますと、ようするに、親鸞の教義の場合には、親鸞の考え方の場合には、浄土真宗とは何かっていったら、第十八願である信仰をもっぱらいって、念仏称号、つまり、南無阿弥陀仏っていうのを唱えれば、かならず往生できるっていう教義なわけですけど、その場合に、なんら前提をもうけずに、そういうことをはっきりと言っているわけです。
ところが、蓮如になりますと、自分たちと、自分たちの教団、教徒とを別にして、自分が僧侶であり、教徒たち、信者たちは僧侶じゃないってことで、在家の輩は、念仏をもっぱらすれば、浄土へいけるんだってことを言って、つまり、在家の輩みたいなことを、蓮如は前提としてもうけちゃってるわけです。
それは、親鸞の趣旨にもちろん反するわけです。親鸞は、在家だとか、出家だとか、そんなこと区別していないですし、自分自身も、坊さんでもないし、俗人でもないって言ってるわけですから、ぜんぜん区別していないわけです。だけど、蓮如になると区別しちゃう。
そうすると、もうひとつ問題が出てきます。つまり、念仏っていうのは、一度唱えればいいのか、それとも、たくさん唱えればいいのか、あるいは、唱えるのがいいのかっていう問題が、やっぱり、お弟子さんたちの間でも起こってくるわけです。
それは、理屈だけ考えると、たいへん疑問になってくる問題なんですけど、これは、法然の考え方も、親鸞の考え方も、言葉遣いは違いますけど、そんなに違っていないので、ようするに、一念一念に一度念仏を唱えたら、かならず往生できるってことを、自分で信じて唱えないかぎりは、いくらたくさん念仏を唱えたって、一生のうちたくさん唱えたって、やっぱり、はじめから、一度唱えればかならず往生できるってくらいの信仰をもっていなければ、確信を持っていないで念仏をしたって、それはいくら唱えたって、やっぱり、生涯唱えたって、浄土へいけるかどうかっていうのは、疑問であるってことになってしまうわけだから、ようするに、念仏っていうのは一度でいいんだ。あとは、ゆとりがあるならば、そのつもりで唱えたらよろしいでしょうってことを、親鸞は言うわけです。
つまり、一度の中に、完全に、一度唱えたら浄土へいけるんだっていう、そういう確信っていいますか、信仰の確信の深さをもって念仏を唱えなければ、いくら唱えたっておんなじだ。だから、一念でいいっていうわけですけど、一言でいいんだ、あるいは、一回でいいんだっていうのが、親鸞の趣旨です。法然の趣旨でも、ある意味であります。あとは、ゆとりの問題だけで、ゆとりがあったら、もっと一生涯のうちに念仏を唱えたらいいでしょうっていうことだと思います。
これは、蓮如になりますと、もう、生涯念仏を唱えると、その念仏は自分が浄土へいけるための念仏っていうのと、それから、仏恩に報謝するための念仏と、そのふたつがあるんだ。あとは、報謝のために、念仏を生涯にわたって唱えたらいいってことを、蓮如は言います。
そこもまた違ってきてしまいます。なにが違ってくるかっていうと、人間に対する考え方が違ってきちゃうわけです。親鸞のなかでは、人間っていうのは、なんだかんだ言ったって、明日、言葉を失うような病気になるかもしれないし、それから、病気が重くて、念仏なんか唱えられないってことが生ずるかもしれない。だから、そんなことについて、とやかや決めてしまうっていうのは、それは人間に対する嘘なんだっていう考え方を親鸞はとっています。
ですから、できればひとつだけでいいんだ、一回だけでいいんだ、だけども、ゆとりがあるならば、もっと唱えたらいいでしょうっていう意味合いしかないわけです。それは、やっぱり、人間がいつ死ぬかわからない、いつ病気になるかわからない、いつなにかしようと思ってもできなくなるかわからないっていうことが、たえずあるんだっていうことを、親鸞は勘定に入れてっていいますか、人間っていうものの中に、そういうことがありうるってことを勘定に入れて、それで、一念でいいんだ。あとは、余裕でいいんだっていうふうに言ってるわけです。
蓮如になりますと、あとは仏恩に報謝するために、生涯念仏を唱えなさい。こういうふうに言うわけです。そんなことは、親鸞はひとつも言ってないし、その考え方のなかには、人間がこれからあとどうなるかわからない、つまり、明日死ぬかもわからない、明日病気になるかもわからないっていう、その一種の生死の不定性っていいましょうか、生死が定まっていないっていうのが、人間なんだっていう人間洞察と、それからもう、そうじゃないと、信仰のために念仏を唱えて、それから、そのあとは、ようするに、仏恩の報謝のために唱えなさいみたいなことを言うと、人間を、信仰と、そうじゃないことと、そのふたつに、人間の運命を分けてしまうってことになります。
つまり、言い換えれば、浄土真宗の信仰を持つか、信者になるか、ならないかっていうことが、蓮如にとっては、いちばんの問題になってくるわけです。
親鸞にとってはそうじゃないんです。人間っていうのは何なのか、その何なのかっていう運命のなかで何ができるかってことが、親鸞の考え方で、まるで違ってきてしまいます。
つまり、その種の違い方がはじまって、真宗教団っていうのは、現在に至っています。真宗教団が、現在も教団を保ったまま、なおかつ、なにか新しいことをしようみたいに考えたら、やっぱり蓮如のほうが、組織者でもありますし、教団をつくった中興の祖でもありますし、蓮如のほうを復興するのが、つまり都合がいいわけです。
しかし、蓮如の考え方と、親鸞の考え方は、ある意味で、まるで違います。まるでダメにしちゃっているっていうふうに言えると思います。でも、ダメにしちゃったほうが、通俗化はできますから、教団、組織を大きくするっていう、それが大きくなるっていう意味では、蓮如の功績はあるわけでしょうけど、信仰なんていうのは、教団の問題じゃないっていう考え方をとれば、それは、人間洞察としても、人間の信仰と不信っていうことについても、はるかに蓮如のほうは親鸞に及ばないってことになるので、いまさら復興もなにもないでしょうっていうふうに、ぼくなんかは野次馬ですから、そういうふうに思います。つまり、そこまで、現在、浄土真宗は、そこまできちゃっているわけです。
ぼくは、現在の問題で不可解だと思うのは、現在、オウム真理教の問題が出たってことで、この場合、いってみれば、これを単に法律的な刑罰の問題にゆだねてしまうってことは、仏教としては死んだってことを意味します。つまり、それくらい重要な、信仰、不信ってことについては、重要な問題を提起しているわけです。
だから、これに対して、文句があったり、否定的な意思があったりするならば、浄土真宗の教団は、教団としても、それから、個々の僧侶としても、これを徹底的に否定するとか、批判するとかってことをやったらいいんですけど、そんなやつはひとりもいないわけです。浄土真宗の教団にはひとりもいません。ただ、現在の市民社会における善悪の常識、つまり、法律の常識のあとにしたがって、それに遠慮しながら、あれは仏教じゃないので、悪の宗教で、あれが悪だからといって宗教法を改定するのはおかしいみたいな言い方をことごとくやっています。
しかし、そんなことは成り立たないので、ほんとうを言うと、そんな他人事じゃなくて、自分らの手でもって、自分らの理念でもって、これを否定できないならば、これはもう終わりだよっていうこと、元々そんなことなくたって終わりなんですけど、終わりだよってことを意味すると、ぼくは思います。
とくに、ほかの宗派も、もともと終わりだと思いますけど、つまり、葬式と観光以外には、終わりだと思いますけど、浄土真宗っていうのは、唯一終わっていない、つまり、このオウム真理教の問題が出てきても、本来的にいえば、終わっていない宗派であるわけですけど、そこでも、なにか僧侶なり、お坊さんが、これに対して徹底的に否定をくわえたり、批判を書いたりってことをやってるかっていうと、全然やっていないわけです。
で、たまに、浄土真宗の学僧っていいますか、親鸞を研究していながら自分の寺をもっているみたいな人がいますけど、そういう人たちが何か言うと、ようするに、オウム真理教は悪だけど、それは自分たちと関係ないんだっていうような意味合いのことしか言わないわけです。
そんなことはないので、だいたい仏教っていうのは、ひとつは、「死」っていうことに対する大きな洞察から成り立っているわけです。それからもうひとつは、やっぱり、その死っていうことに関連するわけですけど、「慈悲」っていうことに関連するわけです。
つまり、慈悲っていうことを抜かしたら、そんなのは宗教でもないし、仏教ではないっていうくらい重要な概念です。浄土真宗でも重要な概念ですけど、どこの宗派でも、仏教である限りは、慈悲っていうことは、非常に重要な概念になります。
それだけど、ちっとも、オウム真理教の善悪くらいの問題だったらば、自分たちがそれを包み込んでいけるっていう、包み込んでなおかつ、善悪の問題、それから、信仰の問題を提起できるっていうような、そういう坊さんが一人ぐらいいてもいいんだけど、そんなのいないわけです。
みんなダメです。もともとダメだっていえばダメですけど、つまり、みなさんの目につくところでいえば、お寺なんかで、お寺の境内でボール投げをすることを禁ずるとか、犬の散歩を禁ずるとか、そういう札ばっかり貼って立ててるでしょ。しかし、ぼくらが少なくとも、子どもぐらいのときは、都会では、お寺で遊ぶっていうのは、ものすごいいい場所であって、お寺で遊んで、まり投げして、戸に当たったり、ガラスに当たったりして、ぶち壊したりすると、「こらっ」なんて怒鳴られるけど、またすこし経って、2,3日経って、またやると、それが許されていてっていうくらい許容してくれた。
それすら、いまはないですから、どこのお寺だって、境内で何々を禁ずるとか、犬の糞をあれするなとか、そんなことばっかり書いてある。ようするに、あんなものは、あったってなくたっておんなじだっていえばおんなじなわけです。そのくらい、仏教っていうのは、慈悲っていうことっていうのは忘れちゃっているわけです。だから、どうしようもないわけです。
ぼくらは、そんなこと一切おかまいなしに、言いたいことを言って、書きたいことを書いてると、そうすると、なんか文句が出て、浄土真宗の学僧のなかから文句が出たりして、おまえの造悪論は間違ってるとか言って、冗談じゃねえよって、ぼくは思いますけど、間違ってるみたいなことを言うわけです。そんなことはなくて、自分のほうが間違っているわけです。もう、宗教家としての生命はないのです。
つまり、慈悲でもって人を入れるとか、異端を入れるとか、そういうことっていうのは、あるいは、悪を入れるとかってことはないわけなんです。それだけの器量がないし、それだけの気分すらもっていないっていうふうになっているわけです。
そうすると、どういうことになるかっていいますと、仮に、信仰の問題を、浄土真宗っていうのは最も最初に、一種の善悪の問題、つまり、倫理の問題に、一等最初に置き換えた宗派なわけです。
つまり、仏教の僧侶の出家の修行っていうのは、ようは、オウム真理教がやっているように、ヨーガ的な、ある境地を獲得するための修行っていうのを、お坊さんがやってきているわけです。しかし、法然や親鸞も、もちろん、比叡山にいるときに、それをやったわけです。しかし、やっぱり、そこで疑いを生じたわけです。
どうしてかっていいますと、自分がそれでもって、麻原流にいえば、ステージが高くなるっていいますか、ステージを高くする修行を、自分なりにできるかもしれないし、自分の出家した弟子に影響を与えて、そうさせることもできるかもしれないけど、そんなことができたって、それはようするに幻覚じゃないかって、つまり、幻覚をつくるってっことじゃないかっていうことになるわけです。
つまり、修練っていうのは何をするかっていったら、幻覚をつくることじゃないか、幻覚をつくって、あの世っていいますか、つまり、死とか、死後の世界に、非常にはっきりと接触できるっていうような幻覚をつくれるかどうかってことが、僧侶の修行であるわけです。それがつくれれば、現世も無常だとすれば、来世も無常だし、あるいは、現世がはっきりした実体的な世界だとすれば、来世だって、実体的な世界なんです。なぜなら、自分らが体験して、如実に体験することができているから、だから、それは間違いなく、来世もまた、実体的に存在するんだっていう考え方になります。つまり、その考え方をとると、修行自体が、一種の幻覚をつくる修行っていうことに、極端にいうと、なってしまっているわけです。
それに対して、法然とか、親鸞っていうのは、自分が若いときに修行して、それで、疑いを生じて、比叡山を降りてしまうわけです。それで、眼目になるのは十八願だけだ。つまり、至心に信仰して、名号を唱えれば、かならず、浄土へいけるっていう、その教義だけが重要なんだっていう結論に達して、それで、新しい宗派を立てたわけです。
そうすると、いまの言葉でいうと、何をしたかっていうことになるんですけど、それは、信仰の問題、あるいは、信仰を高めることによって、幻想、幻覚をつくるっていう、そういう修行の問題を、善悪の問題に換えたっていうこと、つまり、倫理の問題に換えたってことを意味していると思います。
そうすると、そこで、親鸞なんかが到達した、法然もほぼおんなじなんですけど、親鸞が徹底的に到達したところは、善人が往生を遂ぐ、ましてや悪人は往生できるさっていう、つまり、善人が浄土へいけるとするならば、悪人はなおさらいけるさっていう、親鸞の、『歎異抄』のなかの言葉にありますけど、そういうところに、親鸞は到達するわけです。
その理由として、どうしてかっていいますと、悪人っていうのは、自分でもって、浄土へいこうとか、いいところへいこうみたいなことを考えないし、また、いいことをしようなんて考えないから、悪人なんて、それが救済されるのは、絶対他力である以外にない。つまり、浄土の宿主である阿弥陀仏の本願力の、とくに十八願っていうのに頼る以外に、浄土へいくつてがない。それは、徹底して、悪人はそういうことがわかっている。つまり、自分ですこしでもいいことをして浄土へいこうなんて思わないし、そうしようとも思わないから、このほうが、絶対他力な浄土の宿主の念願力、本願力にかなうっていうのが、親鸞の考え方です。
もうひとつ、常識的な規模の問題でいいますと、人間の社会、つまり、当時でいえば、庶民の社会ですけど、庶民の世界で流布されている善とか、悪とかの概念っていうのは、ようするに、規模としてみれば小さいものなんだ、悪人のほうが他力だから、なおさら往生できるっていうふうに、浄土における善悪の考え方っていうのは、庶民的な社会の善悪の考え方よりも、はるかに大きいから、だから、悪人も、もちろん救済されるんだっていうのが、親鸞の到達した地点であるわけです。
とてもよくわかりますけど、いまの浄土真宗の僧侶、とくに学問して、大学の先生なんか兼任してやっているような僧侶っていうのは、ぜんぜん親鸞が到達した善悪の規模っていうのを、ぜんぜん放棄しちゃって、市民社会に流布している善悪の問題まで、自分を退化させてしまっているわけです。
そうすると、浄土教系譜でいえば、『往生要集』を書きました源信ですけど、源信のもっている善悪観っていうようなもの、つまり、庶民の社会における善悪、倫理っていうものと妥協しながら、そこでいいと思われる行いをやりながら、念仏を唱えれば往生できるんだ。つまり、源信っていう、浄土教の日本における開祖ですけど、その源信のところまで、善悪の問題を退化させてしまっているわけです。
ぼくが思うには、浄土真宗だけじゃなくて、宗教的な、つまり、宗教者の現在、オウム真理教の問題が出てきた以降、あがっている善悪観っていうのは何かっていったら、全部そうです。いちばんよくて、源信のもっている善悪観のところに、ぜんぶ退化して、そこに戻しちゃって、もっとひどいのは、市民社会そのもので、そのものに服従しちゃっているっていいますか、追従しちゃってて、坊さんである陰もないし、学問やって、とくに親鸞を研究している感じなんか全然ないところまで、善悪観を退化させてしまっているわけです。
どうしてそんなことが起こるかっていうと、市民社会における、いわゆる世論なるもの、世論っていわれるものにあらがえなくなるわけです。あらがうとクビになったり、職を止められたり、たとえば、島田さんって人は、新聞をみると、日本女子大かなんかで先生して、オウム真理教を肯定的にっていいますか、わりあいに好意的に評価したとかいうことで、半年、休職になって、そのあげく自分で、やるかっていって、辞表を出したっていうふうに、数日前の新聞に出ていましたけど、こういうことになっちゃうわけです。
だから、やっぱり、これを考慮しないと、首がつながらないっていうこともありますし、信者が減っちゃうとか、そういうふうに、いろいろなことがあるでしょうから、現実的にいろんなことがあるから、あんまりちゃんと言えないってこともあるんでしょうけど、しかし、そこの問題が、現在におけるオウム真理教、つまり、悪ですけど、あるいは、造悪なんですけど、造悪っていうことをどう評価するか、あるいは、どういうふうに考えるかってことのポイントになるわけです。
しかし、ぼくが見ているかぎり、読んでいるかぎりでいえば、浄土真宗の学僧も、それから、ほかの宗派の宗教家も、だれひとりとして、この程度の悪ならば、自分らの宗派はちゃんと包括して、腹中にいれて、それよりももっと大きい善悪の規模の問題っていうのを、あるいは、慈悲の問題っていうのを、宗教家として打ち出すことができるってことを言った人は、言った宗教家は、ひとりもいないのです。市民社会の世論なるものの言うとおりに言ってるだけなんです。言うとおりで、それに違反しないように、言っているだけなんです。
そんなこと、それは宗教の終わりじゃないか、つまり、仏教の終わりじゃないかって、ぼくはそう考えます。つまり、誰かとか、どこかの宗派が、それをそうじゃないってことを言ってくれれば、まだ頼もしいところがあるわけですけど、そんなことを言っている坊主なんていうのはひとりもいないので、テレビ出て言うことはそうであって、それから、宗教法改正問題について言うことは、オウム真理教がいくら悪だって、おれたちには関係ないのだから、宗教法を改定するようなことは反対だというような言い方しか、ぼくは聞いていません。
オウム真理教といえども、あれは宗教だ、悪といえども、われわれの善悪観からすれば、やっぱり包括できると、自分らがやるということじゃなくて、それを包括するだけの、自分たちには規模があるって、悩んでいる人はわたしのところに来なさいっていうふうに言う宗教家なんていうのはひとりもいないっていうのが、日本の現在の社会の現状であるわけです。
ぼくらはそうじゃなくて、ぼくはオウム真理教の麻原氏のやっている考え方っていうのは、親鸞でいえば、つまり、浄土真宗でいえば、造悪論に該当するんじゃないのかって言ったら、親鸞の造悪論はそういう意味じゃないっていうふうに、文句つけるやつがいるんだけど、ちゃんとしてつけてくれるなら、喜んであれしますけど、そうじゃなくて、源信のところまで善悪の問題を退化させて、そういうことを言うけど、おまえはほんとうに言いたいことは、市民社会、あるいは、世論といわれているものに、ようするに異を立てたくないってだけじゃないかっていうふうにいえば、それで終わりだっていうふうに、ぼくは思います。十把一絡げに終わりだと思います。
つまり、そこの問題が、いちばん肝心な問題なんです。つまり、現状における、宗教、それから、理念っていいますか、思想っていうのも、みんなおんなじなんです。俗な言葉でいえば、宗教思想も、それから、左翼思想もおんなじなんですけど、これは、どういうことがおんなじかっていいますと、現在における宗教思想、それから、理念の思想ですね、西洋についての思想っていうのを、どういうふうになっているかっていうと、宗教思想のなかの迷妄な部分、つまり、インチキな部分です。迷妄な部分っていうのは、かならずイデオロギーとして、つまり、理念として出てくるんです。
だから、真理の国に渡って、ハルマゲドンを切り抜けて、自分らが生き残るんだっていうような、そういう、ようするに、ぼくに言わせれば、左翼がよくやっている馬鹿話ですけど、そういう馬鹿話になっちゃうんです。つまり、オウム真理教のダメな部分っていうのは、そういう馬鹿話になっちゃうんです。宗教が現在、迷妄なところっていうのは、かならずそういう馬鹿話になっちゃいます。
それから、左翼思想が馬鹿話になっちゃうのは、なにかっていうと、自分が、科学的社会主義なんておおっぴらに言うやつもいますけど、それこそ科学的じゃないんです。つまり、そいつの左翼思想を、なにが守っているのかっていうと、そいつの宗教性が守っている。つまり、ただやたらに、おれは信じている、信仰しているってだけで、理性でもって、それを判断して、これはよくない、これはいいっていうような判断をしているなんていうのは、世界中の左翼思想の段階ではひとつもないわけです、現在。かならず、左翼思想の迷妄な部分は、その個々がおおう、または、集団がおおう、宗教性になっています。
それから、宗教思想の迷妄な部分は、かならず、理念的になっています。ようするに、なにかイデオロギーになって出てきてしまいます。つまり、それが、現在における、現実の社会を超えようとする場合に、あるいは、現実社会より、すこしでもいい社会とか、いい条件っていうのはつくれるかってことを、心の中で考えているひとたちが、左翼思想になったり、それから、宗教思想になったりするとすれば、かならず、その迷妄な部分は、宗教性としてあらわれるか、イデオロギーとしてあらわれて、自分が自分のなかで固執して、おれは信念を持っているとか、信念を持ったマルクス主義者だと言いながら、おまえの信念っていうのは、ただ信仰しているってだけじゃないかっていうふうになっちゃう、それは、世界のいかなる大インテリといえども、やっぱり、そこのところはまぬがれていません。つまり、完全にそれをまぬがれている理念もなければ、そういう宗教もありません。それが、世界における現在の思想の段階であるってことは確実だと思います。
つまり、本来的に、そういう迷妄さが、理念、イデオロギー、それから宗教から、迷妄さがなくなったとしたならば、いわゆる宗派性、あるいは、党派性っていうものは消えていくわけですけど、それは、残念ですけど、いまの段階では、その迷妄さっていうのは、どちらのかたちをとろうと、宗教のかたちをとろうと、理念のかたちをとろうと、かならず、その迷妄さを抱え込んでしまうっていうのが、世界の現在の現状だと思います。
それは、パラレルにいいますと、たとえば、ようするに国家が、いま、ユーゴなんかそうですけど、国家で内戦をやってるでしょ。それは宗教性、あるいは、理念性の違い、あるいは、種族性の違いでもって、おれたちが主だ、おれたちが主だってことで、内戦やってるでしょ。殺し合いをやってるでしょ。それから、そんなこと言わなくたって、現在、いちばん大きなものを言うためにはどうすればいいかっていうと、アメリカとロシアが典型的なように、核兵器をたくさん持って、たくさん備えている方が、国際関係のうち、力があるっていう、そういう段階をまぬがれていないわけです。
これは、個々の宗教とか、理念とおんなじであって、まだ、迷妄っていうものをまぬがれていないわけです。国家的規模でも、国際的規模でも、まぬがれていないんです。
だから、現在の状況では、やっぱり、理念が存在することも、それから、宗教が存在することも認めなければならない。それは、迷妄な部分をもっていても認めなければならないっていうのが、現状だと思います。
ですから、この現状を肯定する限り、どういうことが問題になるかっていうと、それは生粋の宗教家なら信仰の問題が出てくるわけでしょうけど、ぼくらからみると、信仰の問題を、倫理の問題に置き換えた、つまり、善悪の問題に置き換えた、つまり、日本でいえば、浄土真宗系の思想っていうのが、現在の市民社会に流布されている善悪の基準を、どこかで、いくらかでも超えて、違う基準で、あるいは、それを拡大した基準のところへいけるかどうかってことは、非常に大きな問題になります。
これが、いってみれば、宗教と、それから理念っていいますか、思想といいますか、両方を貫徹する、現在における思想的な課題だということが言うことができます。この課題に気がつきいえば、浄土真宗の僧侶は、とくに、親鸞を研究していると称している僧侶が、なんか市民社会の善悪観に、そのとおり自分の善悪観も合わせてしまって、それで、合わせるってことは、源信まで退化することで、そうしてしまったら、もうどうしようもないわけです。宗教なんていうのは、もう何の意味もないじゃないかってことになってしまいます。これはとんでもないことです。とんでもないってことに、気づかなければ嘘だっていうふうに、ぼくには思います。ぼくにはそういうふうに思います。
これはもう、キリスト教だっておんなじです。キリスト教だって、キリストはちゃんと、12人の弟子連れて、布教して歩いて、それで、当時の国教であるユダヤ教に対して異を唱えたってことで、それで捕まって処刑されるわけですけど、捕まったときに、おまえはユダヤ人の王であるかっていうふうに問われて、キリストはようするに、そうだって答える。つまり、そうじゃないっていうふうに、それは間違いだみたいなことを言えば、もしかすると助かったかもしれないですけど、そうだっていうふうに言っちゃって、それで、盗人ですけど、盗賊といっしょに死刑になっちゃうっていうのが、キリスト教のはじまりです。
キリスト教は、それであとは、復活っていう考え方を付け加えるんですけど、しかし、教祖がやったことはみんなおんなじで、親鸞だって、親鸞は受け身な人ですけど、でも、親鸞だって、自分の書いたもののうしろには、ちゃんと後鳥羽院とその臣下である宮廷の連中が、法に背いて、義に背いて、自分たちを処刑したり、それから、流罪にしたりしたってことを、親鸞はちゃんと書いていますけど、いつでも書いていますけど、それくらい、親鸞だって危ないことを、親鸞教でも、法然教でもいいんですけど、浄土教って念仏の仏教だって、それくらい法難にはあっているわけです。
それから、日蓮だっておんなじです。日蓮は、だいたい自分が尊敬しているのは、最澄だけであって、最澄と、それから、中国天台宗の祖である智顗って人がいますけど、智顗と最澄だけが、おれが尊敬しているのはそれだけだ。なぜならば、あのふたりは法華経を護持しているからだっていうふうに、日蓮はそう言っています。ほかのやつは全部ダメだって言って、空海をはじめにして、ことに法然や、その弟子たちはクソミソに言って、あいつらはぜんぶ悪魔とかだって言っています。
じゃあ日蓮は何したかっていうと、法華経を護持したっていうことは、もちろんあるわけですけど、おれは天台宗の祖である中国の智顗とか、日本の最澄とかよりはるかに、何から何まではるかに及ばないけど、ただひとつ、自分が実現してることがあって、それは、法華経に書いてある、法華経を護持するものは、かならず、人に貶められたり、責められたり、非難を受けたりってことを、かならずするって書かれているけど、おれはまさに、鎌倉幕府からそういうふうに言われて、首を切られそうになったりしてるって言って、その法華経のやっている予言っていうのを実践してっていう意味では、日蓮は、自分は、智顗とか、最澄に並ぶ宗教家だって思っているっていうふうに、日蓮はそういうふうに言っています。
つまり、ことごとく、それらの人たちは、既成の宗教がダメだってなったときに、それを超えようとする意欲でもって、新宗教っていうのを鎌倉時代に出しているわけです。道元なんかはまた、自分の考え方があって、自分が座禅して座っている姿っていうのが、これが古仏の、つまり仏の姿だって、これ以外には何もやることはない。つまり、極端にいえば、飯を食うこともいらないし、眠ることもいらないと、とにかくひたすら座るっていうこと、その姿自体が古仏の姿だから、お釈迦様の姿とおんなじ姿だから、この姿を具現している以外に、何もやることがないんだっていうのが、道元の曹洞宗の考え方です。
つまり、人それぞれ考え方は違うけど、やはり、道元なんかもクソミソに、みんなクソミソにやっています。つまり、なんとか大師だとかって言われている人の坊主たちは全部ダメだって言っています。どうしてダメかっていうと、あいつらは、ようするに、宮廷にかかわる貴族が病気になると、それに対する祈祷みたいなのをやって、それで、そういうことばっかりしてるっていう、あんなのは宗教家じゃねえっていうふうに、道元なんかは言っています。おれは、ああいうのはダメだって言って、ほんとの宗教家っていうのはそういうのじゃねえんだって言って、おれは本場に行ってやってくるって言って、中国へ行っちゃうわけです。
つまり、新宗教の教祖たちは、ことごとく、そういうかたちで、自分の考え方、信仰のありかたにそって、邁進していくってわけで、これでもって、市民社会とか、貴族社会とかの善悪観に同化したなんていうやつは、ひとりもいないわけですけど、残念ですけど、親鸞教の親鸞の、現在の教団の学僧と言われている人たちでも、そういう人たちはひとりもいなくて、みんな、市民社会に流布されている善悪観と、自分たちの教祖がいった善悪観を、どっかで設定して調合しようってことばっかり考えて、そんなことばっかり言ってるんです。こういうのは問題にならないから、ぜんぶ十把一絡げだって言うより仕方がないと思います。それくらいダメです。宗教っていうのはダメです。理念も、もちろん、ソ連の崩壊以降、ダメかもしれませんけど、宗教もまた、もうどうしようもないくらいダメなわけです。
そこのところに、オウム真理教の事件が立ちふさがったっていうのが、現在の宗教的実情だっていうふうに思います。ぼくらが、親鸞の造悪論っていう、つまり、悪人だってなおさら往生できるっていうなら、悪をすすんでやったほうが往生できるってなるじゃないか、それならば、おれたちは勝手に悪をやるからっていう、そういう分派が、親鸞のお弟子さんのなかにも現れるわけです。親鸞は、それをしきりになだめるわけです。つまり、わざと悪をなすことはないだろうってことで、なだめるわけですけど、しかし、よくよく考えますと、十八願を主眼として、親鸞が考えに考えて到達した地点っていうのは、「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」っていうふうに言い切るだけの、そういう善悪観っていうのを持ってきますと、悪をすすんで造ろうが、造るまいが、そんなことは往生できるってことにどうしてもなります。そこのところは包括されてしまいます。
そこのところの問題を、ぼくらはもっと、そこのところをはっきりと、もっと善悪の規模っていうのを、宗教的にじゃなくて、現在の市民社会に流布して、すこしも疑われてないような、そういう善悪観を、もうすこし大きな規模の善悪観に直していく、移していくっていいましょうか、それがたぶん、ぼくらの持っている思想的課題だっていうふうに思います。
ぼくは唯物論から、つまり、イデオロギーから、それから、宗教まで、ぼくにとっては、あんまり区別はないんです。ただ、ようするに両方とも、かならずどこかに迷妄を含まずして、宗教を主張することも、イデオロギーを主張することも、できないっていうのが現状だっていうことだけは、非常に確かなんで、しかし、これを乗り越えて、いま流布されているような倫理観、善悪観よりもまだもっと、拡大されたっていいますか、もっと違う善悪観っていうのをつくりだすことができないならば、たとえば、いまの世界のいちばん高度に進んだ段階っていうのは、日本もそうですけど、そういう消費資本主義段階、産業経済的にいえば、最高段階であるところに、もう入っているわけですけど、それを超える善悪観っていうのは、そこを追及して、そこをはっきりさせる以外にないっていうふうに、ぼくは思います。
それをはっきりさせるっていう場合に、宗教思想としてはっきりさせるっていうことでもないし、イデオロギーとしてはっきりさせることでもなくて、イデオロギーと宗教性の両方にあたって、両方が持っている迷妄性っていうのを出していくっていうかたちでもって、現在、流布されている善悪観っていうのを超えていくってことが課題であり、それが、ぼくは親鸞を復興するっていう場合の、「復興」ってことの意味は、それにぼくはかかっていると思います。
そういうふうに考えていきますと、現在、たとえば、オウム真理教の問題、まだ、わからないことがたくさんありますけど、わかったところで言ってみますと、ここで、いちばん重要なところはなにかっていいますと、どこかっていいますと、それは、地下鉄サリン事件っていうのは決定的ですけど、この地下鉄サリン事件っていうのは、宗教的、あるいは、イデオロギー的、あるいは、制度的対立のなかに、ぜんぜん無関係であり、ぜんぜん何の罪もないっていいますか、そういう人たちを殺傷して、殺すっていうこと、殺すかもしれないってことを前提として、地下鉄にサリンを撒いたっていう、つまり、ぜんぜん無関係であり、ぜんぜん罪も何もないって人が、たまたま地下鉄のそこに乗り合わせたがために、殺されちゃったっていう、そのことがいちばん重要なんです。
そのことが、殺戮っていいますけど、人を殺すっていうこと、あるいは、人を憎悪する果てに殺すっていう場合の、殺すっていう殺し方を、ちょうど原子爆弾とおんなじような次元に、そうすると無関係の人もかならず殺される範囲内に入ってくる、そういう規模をもたらすような殺傷っていいますか、殺す方法っていいますか、殺すやりかたってことをやっちゃったっていうことが重要であって、それからまた、そこでぜんぜん無関係な人たちが、無差別に殺されちゃったっていう、そういうことが、ほんとうは、このオウムサリン事件のいちばん重要なところです。
しかし、みなさんがご承知のとおり、市民社会とか、世論とかっていっているものの善悪観によれば、そうじゃないんです。そうじゃなくて、もう何年も何年も、オウム真理教と対立関係にあった弁護士一家が死んだっていうこと、それから、対立関係にあった警視庁かなにか知りませんけど、そういう人がけがしたとか、そういうことは主題にするけど、ぜんぜん対立もないし、罪もない、そういう人たちを殺すかもしれないことを、前提として、サリンを撒いちゃったってことは、まるで次元が違うことです。そして、オウム真理教の問題っていうのは、ほんとうの問題っていうのは、たぶん、そこにあるわけなんです。
だけども、ジャーナリズム、マスコミっていうのも、マスコミに登場する宗教家とか、ジャーナリストっていうのも、全然そういうことには触れないでしょう。それだったら、いいかえれば、市民社会における善悪観の限界です。そういう人たちが、はじめっから、そうじゃなくて、ぜんぜん関係ない、罪もない、そういう人たちを殺すっていう、そういうやりかたをしたっていうことに、批判を、あるいは、否定を、全力をあげて否定して、そこに支点を、重点をおいて、そして、世論を形成しているとしたらば、それは、とてもいい市民社会だといえるのです。
しかし、いまの段階の市民社会では、そうじゃないんです。やっぱり、敵対関係にあって、わりあいに著名な人が、著名だったり、知遇な人たちが死んだとか、けがを負ったっていうことに重点をおいて、それをなぜか言ってるわけです。
しかし、ぼくらに言わせれば、そんなことならば、いままでの左翼でもありましたし、それから、もっといえば、市民社会ではありふれているわけです。つまり、隣同士で対立関係がひどくなって、隣の人を殺しちゃったとか、それから、親子であって、家庭内暴力がひどくなっちゃって、それで、親が子を殺したとか、子が親を殺したとかってことは、日常茶飯のごとくあるわけです。それとすこしも違わないのです。
つまり、対立関係にある人たちを、領域を超えて殺しちゃうってことは、よくないことですけど、しかし、それは、ぼくの人間観っていいますか、人間認識では、誰でもあるわけです。もちろん、ぼくにもそれをやりかねないことがあると思います。誰にでもそれはあると思います。それはまぬがれないと思います。
それは、人間っていうのは愚かにできているわけです。ですから、一国の政府を形成している連中が、原子爆弾をたくさん持っている方が、ようするに、国際的な発言力が多くあるはずだみたいなことで、たくさんつくったりするような、馬鹿なことをするわけです。
そういう愚かさっていうのは、愚かではあるけど、現状で、人間の愚かさの範囲内に入ってくる問題で、それはけっして、めずらしいことでもなんでもありません。ありうることですし、それをまぬがれる人なんか、ひとりもいないと思います。
ぼくは、まぬがれるというふうに思っていませんから、誰でもまぬがれないっていうふうに思っていますから、自分だけまぬがれたようなことを言ってる人っていうのは、ぼくには、まったく信用できない、まったく疑わしいって思っていますから、マスコミとか、テレビが言っている、そういう善悪観、麻原彰晃っていうのは殺人鬼だって言っている、その殺人鬼っていう言い方のなかにも、自分はそうじゃないようなつもりで言っているわけですけど、おまえだって追い詰められて、なんでもいいですよ、奥さんとケンカでもいいですけど、追い詰められたら、おまえ、奥さんを殺しちゃうとか、殺されちゃうってことがあるぞっていうことはありうるわけなんです。
そこらへんの問題は、つねに、われわれの人間性のなかに、こういう愚かさがあるとすれば、どういうふうにしたら避けられるかってことは、個人の問題から、制度の問題、家族の問題まで、ぜんぶいま提起されてるわけです。それから、国家の問題も提起されていますし、国際問題としても提起されている、それをなんとかして、ぜんぶオール否定していく、そういう愚かさをオール否定していくっていうのは、われわれの課題ではありますけど、われわれが陥りやすい愚かさであることはもちろん言えるわけで、誰もそれをまぬかれている人がいるっていうふうには、ぼくはちっとも思っていません。
だから、それはやっぱり、親鸞が洞察しているとおりなんです。つまり、そういうことはありうるみたいに、機縁がなければ、人間っていうのは、ひとりの人さえ殺せない、だけれども、ある機縁があったら、殺したくなくても、千人、百人を殺すことだってあるんだよって、親鸞は言っていますけど、それはやっぱり、戦争みたいにやって、そういうことはあるでしょう。現にやっているわけでしょう。そういうことは、人間性のなかに、大昔からあるわけです。愚かさであるけど、まだ払底できないであるわけです。
それは、個人でも国家でもおんなじです。あるいは、国際的にもおんなじで、そういう愚かさっていうのはあるわけなんです。それは、克服する課題としてあるわけなんです。
だけども、人を殺すとか、殺傷するっていう次元を、サリン事件みたいに無関係な人っていうのを前提として、殺傷をやるってことは、これはいまだかつてあらざることであり、テロ行為ともちょっと違う性質をもっています。原子爆弾級の意味をもっていると、ぼくは思います。
それほど重要な問題だっていうふうに思いますので、ぼくは、オウムサリン事件をみなさんが関心をもたれているんだったら、オウムサリン事件のいちばん根底にあるのは、そこなんだっていうこと、つまり、無名のぜんぜん関係ない民衆が、偶然そこに通りかかったっていうだけで、それを殺すっていうことを前提として、サリンを撒かれちゃったっていうこと、そういうことと、それから、死んじゃったっていうこと、この次元の殺傷次元の大きさっていいますか、小規模にみえて、非常に大きい殺傷事件なんです。これこそが、オウムサリン事件のいちばん考えるに値することです。つまり、そこを重点にして、どうか考えていかれるように、ぼくはお勧めします。
世論と称して、ほんとはマスコミが流布している、マスコミっていうのは、つまり、ぼくはおもしろいか、おもしろくないかっていう基準でだったら、ぼくは、マスコミっていうのは悪くないと思うんです。
つまり、テレビやなんかも悪くないと思うけど、ちょっとまじめなことに入っていくと、ぜんぜんお話にならないことを言っているわけです。それで、よくもこんなずうずうしく言ってるな、毎日のようにやるわけです。どこのチャンネルをまわしても、どこもおんなじことを言ってるんです。もう何か月もやっているんだけど、ちっとも進歩しないんです。毎日おんなじことをやってるんです。こういうすこしまともな、まじめことをやったら全然ダメだねっていうのは、ぼくはあらためて感じました。おもしろいか、おもしろくないかで、やってもらいたいと思いますね。
つまり、そうじゃなくて、ちょっとでもまじめなこと、あるいは、まじめなことのなかに、人の命がかかっていることについて何かいったときにはひどいものだ、なにを根拠にこの人はって聞かないんだってことを、よくよく考えてほしいわけですけど、聞かないんです。だけども、こんなものは通らないです。ファシズムの時代でしか通らないんです。こんな世論の統一の仕方みたいなのは、絶対、通らないと思います。
これはもう、オウムサリン事件で、ぼくなりにいろんなことを考えましたけど、いまも考えておりますけど、ぼくが獲得したあれは、つまり、親鸞っていうのは、「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」って言ってるのは、一種の逆説のほうが通りやすいっていいましょうか、持続しやすいってことがあって、こういう逆説のところまで、とうとう突き進んでいったなっていうふうに、そういうふうに考えてきていましたけど。
ぼくは、オウムサリン事件を研究して、やっぱり、再び善悪の問題について、考えさせられてきましたけど、その結論からいうと、親鸞っていうのは、逆説じゃなくて、もしかすると、いまのオウムさんみたいな、そういう問題に、ほんとうに如実に当面して、こいつを肯定して、ほんとにいいのだろうか、よくないのだろうかってことを、本気になって、ぼくは考えさせられた挙げ句に、自分は、こういう造悪っていいますか、悪をすすんで造るとか、極悪深重の輩っていうのを、自分の善悪観のなかには包括できるっていいますか、そういう確信が持てているようにして、考え抜いて、やっぱり、「善人なおもて往生を遂ぐ…」ってことを、人に言ったんだ、弟子に言ったんだっていうふうに、ぼくは、そういうふうに考えるようになりました。
ですから、浄土真宗の学僧が、源信のところまで退化させてやったりなんて、ぼくは、ぼくなりに、善悪観っていうのを、もうすこし先のほうへすすめるってところで、ぼくはちょっと考えさせられる。だから、ぼくの考え方では、親鸞っていうのは、ほんとうに、弟子たちにこういうことがあるって言いだして、こういうことを、ほんとうにどうなんだって言った場合に遭遇して、それでもやっぱり、悪人ってやつは、極悪であるほど、浄土に近いし、また浄土に遠いっていいましょうか、あるいは、浄土に遠いんだけど、浄土にいちばん近いとも、ある意味ではいえる。ある意味とは何かっていったら、庶民社会っていうものを超えようとする意欲において、やっぱり、浄土にいちばん近いんだっていうふうに言ってもいいんだ。で、自分は、それを包括することができるっていうふうに、親鸞はそういうふうに考えたんじゃないかっていうふうに、ぼくはそういうふうに、今回の事件を経験して、そういうふうに、親鸞の善悪観っていいましょうか、それを考えてきました。
ですから、なおさら、浄土真宗の学僧が、市民社会の善悪におじぎをして、自分のあれをまぬがれるために利用して、それで、善悪観を「往生要集」の源信のところまで、退化させていってしまったみたいに考えて、おまえの造悪論は間違っているなんて言われたって、冗談じゃねえよって言うより仕方がないと思います。ぼくは、ぜんぜん間違ってないはずで、間違ってるのは自分のほうで、自分のほうは退化してるんです。そこは、親鸞の造悪論として、非常に大きな問題として、よみがえってきているっていうふうに思います。
ですから、わたしたちは、最終的に、何を課題として突きつけられているかっていうと、これは、みなさんのなかには、宗教的な人もいるし、理念的な人もいるわけでしょう、しかし、宗教的であれ、理念的であっても、どちらでも、ぼくにはかまわないんです。ぼくには同じのようにみえます。そして、それぞれ、少しずつですけど、大局的に迷妄な部分を持っていると思います。
それはもちろん、自分も持っていますけど、しかし、その迷妄な部分っていうのを、理念であっても、宗教であっても、どちらでもいいんですけど、自分らがもっている迷妄な部分っていうのを解き放っていく、解いていくっていいますか、解決していくっていう方向で、善悪の問題、倫理の問題を提起できるようになったら、たぶん、オウムサリン事件を克服したっていうふうに言えるんじゃないかっていうふうに、ぼくは思っています。
これは、現在、現行の法律が、オウムサリン事件を処罰したり、罪に処したりってことをするからといって、それで解決したってこととは、ぜんぜん違います。宗教っていうのは、そういうものじゃないんです。理念っていうのもそうですけど、イデオロギーっていうのもそうですけど、かならず、現存する社会よりも、より良い条件っていうのはあるんだろうかって、それは、あるとしたらどうなんだろうかっていうことを、たえず、追及していくってことが、理念なり、宗教なりの、役目であるわけです。
そして、理念や宗教っていうのは、再三いうように、迷妄な部分を含んでいるっていう欠陥をもつにもかかわらず、しかし、やっぱり、現在の市民社会っていいましょうか、社会っていうものを超えようという意欲を持っている人は、どうしても、そのどちらかの道でもって、どこで超えられるかってことを考えざるをえないっていうのが、現在の社会の現状だと思います。このことが、オウムの問題っていうのを提起していると思います。
これは、親鸞が、たとえば、戦乱で飢餓にさらされている民衆を目のあたりにしてとか、あるいは、ほかの宗派は全然ダメで、腕づくで、僧兵なんか立ち上がって、やっぱり、僧兵の数が多いほうが、力があるみたいなことでもっぱらになって、そういうのは、非常におもしろくないってことで、親鸞なんか出てきているわけですけど、そういう課題があったように、現在だって、そういう問題は、理念的にも、それから、宗教的にもいっぱい出てきている。それから、もちろん天災的にも出てきています。
阪神の大震災のように、天災にも出てきています。天災っていうのは、これは、偶然っていえば偶然なんですけど、しかし、ぜんぜん何の備えもないところで、のんきに日常生活をやっていたら、突然、5千人が一瞬のうちに死んじゃったっていうのが、関西のほうで、人々が体験したことです。
これは、重大な、重要な問題だっていうふうに、ぼくには思います。重要な問題っていうのは、どこで出てくるかっていうと、たぶん、神戸・大阪地区の復興っていうことのなかで、その重要さが出てくるっていうふうに思います。
それが、どういうかたちで、何を主体として復興していくだろうかっていうこと、その復興の仕方が、非常に理想的だっていう場合を考えれば、それは日本のこれからの文明社会の未来は、神戸の復興がモデルになりうるわけです、これがよければ。
しかし、これが、つまらない解決の仕方で復興したら、やっぱり、モデルにも何にもならないです。壊れ損で、ちっとも何にもいいことないじゃないかってことになってしまうと思います。
しかし、もし、これが、ある理想的なかたちで、復興が遂げられたら、これからの都市っていうのは、どういうふうにいくかっていうことの、いわば、モデルないしは模範となりうる、そういう復興の仕方をするだろうと思います。それほど、重要な問題ですから、やっぱりそういうかたちで、理想的なかたちに近づくかたちで、阪神大震災の復興していったらいいなっていうふうに、ぼくらは考えます。
これはやっぱり、オウムサリン事件もおんなじで、こんなものは、左翼と右翼が両方とも言っていますけど、こんなものはキチガイじみた教祖や、キチガイじみた殺人集団が、殺人をしたっていうだけで、こんなの気にする必要はないみたいな、こんなの刑罰をしたらそれでいいんだ、それで終わりなんだっていうふうにいう人はいますけど、そうかたづけたいわけでしょうけど、ぼくは、そんなかたづけ方をしたら、何にも解決しない、宗教も解決しない、それから、善悪の問題も解決しない、それから、どういう社会が市民社会がやってきたらいいのかってことも、何の解決もないってことで、これから解決すべき課題っていうのが、どんどん先へ持ちこされていくだろうっていうふうに、ぼくは考えます。
それをしたくないなら、やっぱり、この提起している問題は、さまざまな観点から、つまり、宗教の観点、イデオロギーの観点、それから、善悪の観点、倫理の観点、それらの全部にわたって、非常にいい、理想に近いかたちで、解決し、克服していくっていうやりかたをするっていうことが、重要なのであって、これができれば、日本の、ものを考える考え方に対して、ひとつのこれからの模範っていうのを示すことができるんじゃないかっていうふうに考えます。
ぼくは、親鸞復興っていうなかで、こういう東西にわたってむずかしい問題が出てきている中で、まっすぐに、避けることをしないで、この課題を避けたり、よけたり、かたづけたりしようとしないで、真正面から立ち向かって、これを突破していくっていうのが、現在の課題なんだっていうことを、序のところで書きましたけど、やはりぼくは、そういうふうに、両方とも重要な課題だっていうふうに思っております。
自分に、それができるかできないかは別として、自分はそういうふうに考えながら、阪神大震災の問題と、それから、オウムサリンの問題っていうのを、自分のなかでは、とても大きな課題として受け止めて、これをどこかでなんとかして、克服する思想的な道と、それから、阪神の人が、具体的な模範のかたちっていうのを、復興のかたちっていうのを示してくれることを願ってっていいますか、それを自分の課題にしてっていうふうに考えてやってきているわけです。
親鸞の出してきた問題っていうのは、中世の問題なんですけど、しかし、現在に対して、そのような、さまざまな問題が、まだ開かれて、まだ残されて、この開かれたかたちのところから、展開する、発展させる、退化させるってことじゃない、展開させる余地があるんだっていうふうに、ぼくは考えています。
ぼくは、親鸞っていうのは、日本でいちばん好きな思想家です、宗教思想ですけど。そして、この人がいちばん優秀だっていうふうに思っています。もうひとつの優秀さっていうことをいえば、この人は、宗教家のくせにっていうのはおかしんですけど、宗教家なんですけど、やめ方を知ってるんです。
つまり、関東で布教して、ある年齢に達して、ひとりで京都へ帰っていっちゃう、それで、京都は本場ですから、本場で布教するっていうことになるのでしょうけど、この人は布教なんかしないで、弟さんのお寺に隠居して、ただ聞かれることがあれば答えるみたいなことをするんです。
この人は、ようするに、やめ方っていうのを知ってる人です。つまり、組織とか、集団っていうのは、入り方と、出方というか、やめ方っていう両方の出入り口っていうのがついていないと、そうじゃないとダメなんです。
そこをいいますと、オウム真理教っていうのは、いっぺんでダメなんです。いちばんその口がついていないんです、やめ方の。だから、やめるときは指を詰めろとか、おまえ殺すぞとか、そういうふうになっちゃうんです。これは、宗教でも、政治組織でもおんなじです。そういうふうになっちゃうんです。
だから、そうじゃないんです。そういう意味からして、いちばんダメなんです。やめ方と入り方っていうのがないです。これがないと、組織なんか成り立たないです。これがないような組織っていうのはダメだって、ぼくは思っています。
これから、たとえば、もし、集団で、組織ごとでなんかしなきゃいけないってことが、かりに起こるとすれば、そういう組織は、かならず、出方と入り方、あるいは、やめ方とやり方っていうのの、ちゃんと道がついているっていうふうになっていなければ、それは意味をなさないだろうって、ぼく自身はそういうふうに考えています。
そういうことを考えますと、親鸞っていうのは、よくそれを知ってるんです。つまり、入り方とやめ方っていうのをよく知っているわけです。ぼくらは、あらゆる点からみて、この人はものすごく優秀な人だなって思います。
この人は、宗教家ですけど、いってみれば、宗教の解体ってことを言ってるんです。やってる人です。これもとても重要なことなんです。ぼくらは及ばないなっていうか、全然おれらと違うなっていう部分は、弟子たちに念仏だけだっていうふうに言って、自分もお経を何千回読もうなんて考えると、途中でやめたりするんですけども、どうやって「教行信証」みたいな大著を、仏教の、浄土教の、世界的な集大成みたいなものですけど、そういうのをいつ書いたんだっていうのが、よくわからないんですけど、そういうことをやって、不思議なことはまだたくさんありますけど、この人は、いろんな意味で、優秀な人だっていうふうに思います。
この人のことを考えると、宗教のことと、イデオロギーのことと、両方のことがいっぺんに考えられるんです。それからまた、信仰っていうことと、信じないってこととの、両方がいっぺんに考えられるのです。
これは、別な意味でいうと、宮沢賢治っていう人が、文学、あるいは、芸術っていうことと、それから、宗教っていうことを、いっぺんに考えられるところまで、この人は、問題をつめていますけど、この人の場合には、芸術と宗教っていうことが、いっぺんに同じ、近いところで考えられるってことが、非常にめずらしい人だと思いますけど、親鸞はそうじゃなくて、信仰っていうことと、不信っていうことと、それから、宗派組織っていうこと、宗派を解体するっていうこと、そういうことがいっぺんに考えられるものですから、宗教だけじゃなくて、不信者の集団である、イデオロギー集団なんかについても、適応できる、通用するだけのことを言ってるところがあります。これは、とても優秀なところだっていうふうに、ぼくは考えます。
ぼくらは、まだわからないところがありますけど、親鸞復興っていうことで、考えてみたい中心のところは、いま申しあげたところにつきるわけで、ぼくのなかでは、現在の問題につながって、いろんな考え方を示唆してくれるものとして存在しています。
もし、折がありましたら、親鸞の書きましたやさしいものだけで結構ですから、書簡とかカナで書かれたものだけで結構ですから、読んでみてくだされば、それなりに得るところがあるんじゃないかっていうふうに、ぼくには思われます。それのとば口っていいますか、それが言えたら、今日のぼくのはいいんじゃないかっていうふうに思ってやってまいりました。時間が過ぎちゃって申し訳ありませんでした。(会場拍手)
テキスト化協力:ぱんつさま